アメリカ人の講師を招いたときに、必ず強調されるのが、患者さんの話をきくこと、丁寧な理学所見をとることです。 かの国では、一人の患者さんにかける時間は30分以上。とても日本では真似できません。
日本の3分診療は、だめな医療の象徴としてよく批判されますが、日本で患者さんの話を3分も聞いていたら、外来は回りません。 患者さんを外来に呼んでから、実際に人が入ってくるまでは、下手をすると1分近くかかります。 実際に話をきき、診察をするのに使える時間は、いいところ2分30秒程度、といったところです。
外来が込んでくると、なれた医師は検査のオーダーを増やし、自分の診断の漏れを減らすよう、本能的に防衛します。 この行為は、意味のない、馬鹿な行為なのでしょうか。
近年、西洋医学の本場である欧米においても、理学所見がいかにあてにならないものであるかを報告した論文が、 掲載されるようになりました。
例えば、以下のような例です。
当院をはじめとする"よき臨床医"を育てる、と宣伝している研修病院では、レジデントが検査オーダーを出すと、 "なんでこんな、不必要な検査を出したの?"と叱ることがよくあります。
この行為自体、教育としてはけっして間違っているとは思いませんが、中にはこれを極端に解釈し、 ちょっと検査をすれば分かること、例えば低K血症の診断などを、検査無しでつけようと四苦八苦している人がいたりします。
筆者自身は、全員に血液検査をすれば、医療ミスは無くなるなどとはまったく思っていません。
それでも、忙しくてまともに話をきくことすら出来ない状況では、 病歴と理学所見のみにこだわる必要は全くないと思います。 医師一人が受け持たなくてはならない人数が極端に多く、一方で検査にかかるコストが比較的安価な日本では、 米国流の診療スタイルをそのまま継承する必要はないのではないでしょうか。
医師個人、あるいはチームが、間違った診断名にとらわれ、ほかのことが見えなくなってしまった場合、 よほど客観的な指標がないと、この思い込みを解くことは出来ません。
治療が上手く行っている際には、血液データの所見で治療内容が変わることは、 ほとんどありません。これが、"血液検査は診断には無意味"といわれる根拠にもなっています。
一方で、医師本来の思考の流れには、血液検査は入っていません。医師が間違った道に進んでしまった時であっても、 血液検査だけは客観性を保てるかもしれません。
ものすごく急いでいるとき、例えば午前診の一番最後、12時50分ごろに駆け込んできた高齢の患者さんが、 "風邪症状"で来たとします。 こうした場合、診る前に"この人は絶対帰そう"と決めてしまうことがよくあり、本人の訴えも、医師に曲解されてしまいます。
思考が固定してしまった医師の頭の中はエラーを連発していますが、例えばこの人が"白血球数2万、CRP24.4" だったとしたら、どんなにいいわけしても、単なる風邪とはいえなくなるでしょう。
間違った道を突き進んでいるドライバーでも、カーナビの画面を見せれば黙って方向転換するように、 本来の医師の思考過程とは外れた、客観的なデータは、エラー訂正をかけるときには大きな力になります。
これは、腹部エコーや単純X線写真には、真似が出来ない芸当です。こうした検査は医師の理学所見を拡張したもののため、 我々の頭の中で容易に"合理化"されてしまいます3.2。
特に、"非特異的"な検査項目、白血球数やCRP、LDH、赤沈といった項目は、確定診断にはあまり役に立たない一方、 アラームとしては、かなり正確に作動する可能性があります。