脳の可塑性という言葉は、ノルウェーの神経解剖学者のAlf Brodaが自分が脳梗塞になった体験から、 1973年に唱えだした比較的新しい概念である。
従来型のリハビリが行われてきたにもかかわらず、脳梗塞の機能予後の改善効果はいまだに十分でない。 一方、こうしたリハビリテーションの有無にかかわらず、自然に麻痺側の機能が回復していく患者がいる。 こうした患者に何が起こっているのかを観察することで、 リハビリテーションに新しい目標が生まれるかもしれない。
鍵になるのは脳の可塑性である。
成長してからの脳細胞の配列は変化しないというのが古くからの考え方であったが、 現在はそれは否定されつつある。
動物実験では、成体になったラットの例がある。遊び道具の多いカゴに入ったラットは、 普通のカゴに入ったラットよりも1つのニューロン当たりのより樹状突起の数が多くなる。 これは、成体になったラットであっても、周囲の環境により中枢神経に変化が生じる 証拠になる。
また、人間の記憶や学習のメカニズムを探る研究の中で、成人してからも脳細胞の配列が 変わる場合はありうるという証拠は数多く見つかっている。
例えば知覚刺激やあるいは特定の器官、特に手足を活発に用いることで、 手足の運動を支配する脳の皮質の面積は拡大することが、健康なボランティアの例で報告されている。 また、成人後に盲目になった人では、そうでない人に比べて手の感覚をつかさどる皮質の領域が 広いという報告もある。
極端な例では、手術で大脳半球をとってしまった患者の例がある。 こうした患者は通常片麻痺になってしまうが、若い患者などでは麻痺側の機能が戻る人がいる。
片脳しかない人の脳の働きを機能MRIなどで調べてみると、麻痺側の刺激に対しても、 同側の脳(とられていない側の脳)の細胞が反応することがわかる。
こちら側の脳細胞は、本来は健側の手足の動きをつかさどっているはずであるが、 健側の動きで興奮する脳細胞とは別に、より前方外側よりに麻痺側の動きに反応する 神経細胞の集まりが新たに発生しているという。この現象は、脳を半分とられた患者で あっても、脳がその状態に適応して半分だけ残った脳で両手足の動きを制御している ことを意味している。
こうした脳機能の再配列は、脳梗塞の患者でも生じる。片脳の脳梗塞を生じたにもかかわらずほとんど 麻痺を生じなかった患者6名の症例報告では、本来の麻痺側を動かす際にも同側の大脳半球が興奮し、 また反対側の小脳半球が興奮していた。これは、脳梗塞に陥った大脳半球の働きを、 健側の大脳半球、病側の小脳半球が肩代わりをしていることを示している。
同様に、よい回復を示した脳梗塞患者の病側の大脳半球にも変化が生じる。 脳梗塞に陥った脳細胞が再び機能することは無いが、麻痺の回復した患者の病側の脳皮質では、 手足の動きに合わせて前頭葉、後頭葉の興奮がより強まることが分かっている。 本来手足の動きで興奮するのは主に側頭葉なので、ここでもやはり神経細胞の再配列が生じていると 考えられる。
一方、こうした神経の再配列を生じても麻痺が治らない人もいる。 これは、健側と病側の脳細胞同士で麻痺に陥った手足の制御を"奪い合って" しまっているからであろうと説明されている。
神経の再配列現象は、手足のような末梢の部分よりも、喉頭の動きのような体の中心に 近い部分でより生じやすい。脳梗塞に伴う嚥下障害は、脳梗塞患者の3人に1には生じるが、 数週間でかなりな人が自然回復する。このときにも、嚥下の中枢では健側の嚥下の中枢の活動が より高まることで、病側の脳細胞の働きを補償していることが分かっている。
麻痺した手足を再び動かすことができるならば、患者の歩行率も向上する。 従来は、脳梗塞によって一度失われた脳細胞が復活することはなく、 麻痺側のリハビリテーションは拘縮の予防以上の意味合いになることはないとされてきた。 このため、麻痺側のリハビリテーションを積極的に行う施設も少なかったが、 ここに来て考え方が少し変わりつつある。
脳皮質を切り取ったり、あるいは破壊したりした脳梗塞モデルマウスを用いた実験では、 手術後に他の健康なマウスと一緒にしたり、遊び道具の多い、刺激の多い環境に置かれたマウスのほうが、 標準的な静かな環境に置かれた場合よりも回復が早かった。 同様の現象は、手術後15日間たってから、刺激の多い環境にマウスを移しても観察された。
さらに、他のマウスとの接触のみ行ったマウスと、自分でトレーニングを行える環境を作ったマウス では、他のマウスとの社会的な接触を保った群のほうが回復が早く、 社会的な接触とトレーニングとを組み合わせた環境が最もマウスの回復がよかったという。
こうした実験結果は、脳梗塞に対しては、従来型のリハビリテーションのアプローチでは まだまだ不十分である可能性を意味している。
ある種の神経因子が発現すると、脳細胞に可塑性が生じ、シナプスの配列の変化が生じる。
脳に障害が生じた場合、障害後速やかに、それらの神経成長因子が発現する事が知られている。 こうした物質を直接投与する実験も行われており、有望という報告もあるが、 まだ動物実験の域を出ていない。
一方、同じような効果を期待して、 神経細胞の可塑性をより増すような薬物を投与してのリハビリテーションの試みは、 人間でも行われている。
脳梗塞の病態は、血管が詰まってからも刻一刻と変わる。ひとつの薬物の投与が脳梗塞のある時期は 有効であっても、別の時期の投与はむしろ有害になりうる可能性はある。 そういった中で、代表的なものを以下に挙げる。
GABA作動薬にはバクロフェン4をはじめ、 ベンゾジアゼピン系の薬剤全て、抗けいれん薬5等があるが、 これらは脳梗塞については意見が分かれている。
けいれん様の動きが問題となり、リハビリが進まない患者に対してバクロフェンを用い、 効果があったという報告もある6が、 一方で片麻痺があり、リハビリによりそれがほとんどわからなくなった患者に少量の ミダゾラム7を注射すると麻痺が増強し、 一過性にリハビリを行う前の状態に戻ったという報告もあり、脳梗塞になった脳にGABAが与える 影響ははっきりしていない。
ノルエピネフリンやアンフェタミン8、 作動薬を用いながらリハビリテーションを行うと患者の回復が早くなるという報告もある。
これについてはアンフェタミンを与えたマウスの報告や、脳梗塞の患者さんにレボドパの内服を 行ってもらい、その後リハビリを行うとリハの効果がより高まったという報告などさまざまなものがある。
ノルアドレナリンが脳の可塑性を増している証拠はあるものの、この物質自体が脳の可塑性を 引き起こしているのかについては議論が分かれている。ノルアドレナリンは神経毒性があり、 脳に対してはむしろ傷害的に働く9。
さらに、この物質が集中力を増したり、 また細胞の虚血に対する耐性を増したりする10効果もあるため、 どの作用が中心になっているのかは分からない。
胎児の神経細胞を脳に直接注入する試みも行われている。 これを行うと、新しい神経細胞がもともとの神経細胞とシナプスを作っているのが確認できるという。
この手技の効果は、治療後に刺激の多い環境と組み合わせることでよりいっそうの 回復が期待できるというが、この効果も、注入した神経細胞自体の効果なのか、あるいは 脳の可塑性を増強する物質の発現が、新しく注入した胎児の神経細胞の影響で活発になったのか、 まだ結論は出ていない。