リハビリテーション(rehabilitation)とは、re-(再び)と habilis(人間としてふさわしい)が一つになった言葉であり、 「権利・資格・身分の回復」という意味で使われてきた長い歴史を持った言葉である。
中世ヨーロッパでは「破門の取り消し」という宗教的な意味で使われ、 近世では無実の罪をきせられた人の名誉回復という意味にも使われた。
第一次/第二次世界大戦後、欧米を中心にして、戦傷者の社会復帰をめざす 1医学的リハビリテーションが技術的に進歩した。 リハビリテーション医学が発達したのは、第1次世界大戦前後からである。
当時は、戦争によって手足のなくなってしまった人をどうやって社会復帰させればいいのか、 といったことに興味の中心があり、脳梗塞を生じた高齢者のリハビリテーションなどは2の次であった。
現在は、外傷で手足のなくなった人の数よりも、脳梗塞で麻痺を生じた人の数のほうが圧倒的に多い。
脳梗塞の患者さんに対していくらリハビリテーションを行っても、麻痺した手足の力が完全に回復する 人はまだまだ少ない。一方で、特にリハビリテーションを行わなくても、なぜか麻痺が回復してしまった 人がわずかながら存在する。
脳梗塞のリハビリテーションの領域には、まだまだ解明されていない部分がある。
従来のリハビリテーションは、障害をもった個人が何ができなくなったかということより、 残された能力によって何をなしうるかが重要であるという哲学に基づいて 2いる。
このため、リハビリテーションの目標は「患者が有するすべての能力を最大限に活用する」、 という方向に向けられ、「麻痺した手足を再び動かす」というアプローチはあまり考えられていなかった。
外傷の患者の場合、そもそも動かす手足がなくなってしまったからリハビリテーションを 行うため、こうしたアプローチが主流なのは当然といえば当然であるが、 脳梗塞の患者が再び歩けるようになるためのアプローチとしては、 従来型のリハビリの考えでは不十分な可能性がある。
野良猫の前足をペンチなどで潰してやる3と、彼らは残った3本足で器用に逃げていく。
動物が何らかの理由で肢の動きが不自由になった場合、当然リハビリをしている暇などない。
この状態でも生き残るためには、"不自由になった肢の存在を急速に忘れること"しかない。 手足を無くした猫のの脳も、3本足になった体に急速に適応していく。 人間も例外ではなく、入院患者が自分のベッドで生活するときには、 麻痺した方の手足はほとんど使わなくなってしまう。
たとえば右手の麻痺を生じた患者さんが歯を磨こうとした場合、右手を出そうとして麻痺に気がつき、 その後に左手を使うかと思うとそうではない。右麻痺で入院した方の多くはすぐに左手を出し、 右手が動かない状況に急速に順応していく。
この働きは、生存競争に生き残っていくには有利な反応ではあるが、 脳梗塞の患者が、再び麻痺した手を動かすにはむしろ邪魔になっているかもしれない。
従来のリハビリテーションは、患者のADLの早期からの拡大を目指す。この方法論では、 装具の使用などにより麻痺側の働きをより減らし、まだ動くほうの手足の動きを鍛えることで、 患者脳の麻痺側への関心はますます低下してしまうことになる。
入院患者の急性期の治療の基本は安静であるが、脳梗塞の場合はどうであろうか。
例えば、心筋梗塞で入院した患者を急性期から動かしたらろくなことにならないことは すぐに想像がつくが、脳梗塞の場合は本当に安静が必要なのだろうか。
動物実験では、脳梗塞急性期から脳に刺激を与えると、慢性期の脳細胞の容積が減少することがわかっている。 一方、身体機能については急性期からリハビリテーションを行った動物のほうが、安静を行った動物よりも 明らかに優れているという。
わが国ので車イスが最初に用いられたのは、大正10年ごろのことである。
このときの車椅子は、脳梗塞で動けなくなってしまった人のために、 イギリスの同じような車椅子を真似て当時人力車を作っていた会社が作ったとの記録があるが、 この頃から脳梗塞患者には車椅子が用いられてきた。
これはたしかに便利な道具ではあるが、移動するのに足を使わなくなるため、 麻痺を生じた人を車椅子に乗せることには批判的な意見が多くなってきている。