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	<title>レジデント初期研修用資料</title>
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	<description>日常のメモ</description>
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		<title>謝罪に関する覚え書き</title>
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		<pubDate>Mon, 08 Feb 2010 04:14:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[コミュニケーション]]></category>

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		<description><![CDATA[そのうちまとめたいと思っているもの。ゴールでなく、手段としての謝罪について。


謝罪というものを、事実と感情とを切り分けるための手段である、道具であると考えることで、謝罪の使いかたが上手になるんだと思う
苦情の原因は、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>そのうちまとめたいと思っているもの。ゴールでなく、手段としての謝罪について。</p>

<ul>
<li>謝罪というものを、事実と感情とを切り分けるための手段である、道具であると考えることで、謝罪の使いかたが上手になるんだと思う</li>
<li>苦情の原因は、「相手の勘違い」などではなく、常に「こちらの配慮不足」であると考えないといけない。事実で妥協する必要はないけれど、印象には配慮しないといけない</li>
<li>「相手がバカだから」「いちゃもんをつけられた」なら、それは馬鹿な相手を想定した対応を用意できなかった自分の非であって、だからこそ、謝らないといけない。謝罪という局面で大切なのは感情であって、事実は関係ない</li>
<li>「謝罪というのは弱さの現れ」であるという文化は止めたほうがいいんだと思う。「謝れる人は強い」という意見も同じぐらいに有害。謝罪は単なる手段であって、交渉者は、謝罪という行為に対して中立でないといけない</li>
<li>謝罪は具体的でないといけない。相手に対して、こちらが何に対して謝っているのか、正確に伝えないとこじれるし、「相手が想定していた不快要素を、自らが言語化して相手に伝えること」で、初めて謝罪という行為が成立する。ごめんなさいという言葉それ自体は、意味がない</li>
<li>謝るべきタイミングが来たら、行動は一刻を争う。衝撃力は、火力に比例して、スピードの2乗に比例する。相手の不快感は、遅延時間に2乗して大きくなっていく</li>
<li>「自ら出向く」のが大切。ほんの数歩であっても、相手に来てもらうのと、自分が歩くのとでは、印象が全く違う</li>
<li>病院の外来にはカーテンがあって、患者さんは待合室で待つ。カーテンを出て、待合室の患者さんのところに歩くだけで、恐ろしく印象が良くなる。あるいは患者さんをナースルームに呼び出すときには、面倒でも必ず主治医が迎えに行く。患者さんの話を聞くときには、主治医の靴を揃えたベクトルが、患者さんの方向を向いていないといけない。相手と自分とを隔てるカーテンであるとか、待合室までの距離であるとか、こういうものを、コミュニケーションの武器として生かすことを考えないといけない</li>
<li>謝るときには、相手の反応に期待してはいけない。あくまでもそれは、こちら側が勝手に切るカードなのであって、取引ではない。その代わり「ここで謝った」という行為それ自体は、状況が法律案件になったときに、地味に効いてくる</li>
<li>「主治医がそのことを覚えていない」ことは、謝罪をしない理由にはならない。謝罪というのは「相手にとっての事実」と、「それに関して生じた情動」に対して機械的に行われるものであって、主治医にとっての、あるいは客観的な事実はどうであったのか、謝罪の行使について言えば、それは全く関係がない</li>
<li>謝罪というカードで、事態を完全にコントロールすることはできない。その代わり、行うべきタイミングで謝罪の機会を逸したなら、状況は確実に悪くなると心得るべき</li>
<li>「分からないけれどとりあえずごめんなさい」と言われたら、相手は怒る。謝る側が「納得」を表明しないと、謝罪にはなんの効果も期待できない。謝罪をする相手が何を感じ、どういうことに怒っているのか、それを謝罪者する側から言葉にして伝え、相手がそれに同意することで、初めて納得が観測されて、謝罪の言葉に意味が生まれる。情報の収集が大切</li>
</ul>
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		<item>
		<title>交渉における補給の問題</title>
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		<pubDate>Sat, 06 Feb 2010 03:26:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[コミュニケーション]]></category>

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		<description><![CDATA[恐らくは自尊心というものが、交渉における通貨になる。

「あの人はプライドが高い」という表現に出てくる「高さ」という考えかたは、お金で言うと「気前の良さ」や「お金の使いかた」みたいなものであって、高い低いだけでない、本当 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>恐らくは自尊心というものが、交渉における通貨になる。</p>

<p>「あの人はプライドが高い」という表現に出てくる「高さ」という考えかたは、お金で言うと「気前の良さ」や「お金の使いかた」みたいなものであって、高い低いだけでない、本当はもっと複雑なものなんだろうと思う。</p>

<h2>補給というもの</h2>

<p>食べ物だとかお金の問題、「補給」というものは大切なのに、戦争が始まると、たいてい真っ先に無視される。無視されて地味なのに、補給を無視した軍隊は、必ず負ける。</p>

<p>医療の技術や診断能力、自分たち医師の「熱意」だとか、「能力」に相当するものは、これは戦争で言ったら「武器」する。見た目が派手で、能力はみんな磨きたがるのに、補給はしばしば無視される。</p>

<p>病棟で「補給」に相当するものは、たとえばその日勤務している看護師さんたちの人数だとか、勤務シフト、人間関係みたいなものなんだと思う。こういうものは本来、「医師の関与するところではない」し、それを理由に仕事が滞ると「病棟がたるんでいる」ことにされてしまうんだけれど、看護師さんが動けない病棟では、患者さんは治らない。</p>

<p>恐らくは患者さんの状態にきっちり合わせた、薬の一滴にまで気を使う処方を行う医師は、もっとずぼらな、10人の患者さんがいたら、10人に同じような処方をする医師よりも、患者さんの予後を悪くする。</p>

<p>病棟看護師さんの能力が無限に高ければ、もちろん結果は逆転するけれど、複雑な指示はミスが混じるし、オーダーは遅延する。必要なときに必要な薬が入らなければ、結果として、病気は良くならない。医師のオーダーに従えないのは、もちろん「病棟の怠慢」だけれど、本来はたぶん、オーダーを出す側が、こうした要素に気を配る義務があるんだと思う。それができない「名将軍」は、結局は「無能な病棟」を恨みながら、敗走して、別の施設で敗北を繰り返す。</p>

<h2>交渉における兵站要素</h2>

<p>議論や交渉において、補給物資に相当するものは、お互いの自尊心なのだと思う。</p>

<p>自尊心は交渉の通貨であって、頭を下げるほどに、妥協するほどに減っていく。通貨は節約する必要があるけれど、支払いを拒んだら、交渉は成立しない。</p>

<p>自尊心通貨が空になった人どうしが交渉を行うと、削れたプライドを、目の前の相手から徴発しないといけない。これは要するに、相手に対して小さな勝利を奪いに行くことに他ならないから、最終的に、嫌みの応酬みたいになって、お互い飢えているから止められなくて、交渉は自壊する。</p>

<p>いわゆる交渉ごとの本には、交渉人の自尊心について書かれたものは少ない気がする。交渉する側の自尊心というものは、むしろ「鍛錬」だとか「自己研鑽」で克服すべきものみたいなイメージ。「勝つ交渉」の達人である橋下弁護士の本にも、このあたりの言及は少なくて、あるいはあの人なんかは、攻めの上手だけれど、補給を重視しないから、それが時々欠点として露わになっているように思えたりする。</p>

<p>「相手に敬意を払おう」とか、「真摯な態度で交渉に臨もう」とか、それをやるためには、まず自分自身が「お腹いっぱい」でないと無理だと思う。空腹で、財布が空で、相手を思いやることなんてできるわけがないし、その状況で交渉を行っても上手くいかない。</p>

<h2>上手な通貨の使いかた</h2>

<p>「上手な自尊心の支払いかた」を知っている人は、余裕を持って交渉に臨める。それはたとえば、交渉の目的をはっきりさせておいて、頭を下げることを動作として予期しておくことだとか、「負けること」それ自体にもべつの勝利要素を見いだせるよな、負けでなく、とりうる選択枝の一つであると見なせるような自己欺瞞論理を作っておくことで、こういう「下準備」を行っておくと、一つの判断ごとに支払う自意識通貨を節約することができる。</p>

<p>その人が支払える自尊心通貨の総量が多ければ、やはり心に余裕が生まれる。「自分を肯定してくれる場所」をどこかに持っていると、一見それが交渉に関係なくても、貴重な「補給基地」になって、それがあるだけで、交渉のとき、選択枝が一つぐらい余分に思いつく。</p>

<p>相手を100% 倒しに行ける手段を持っておく、考えておくことは、交渉を楽にする。「いつでも倒せる」相手には、人はたぶん優しくなれる。「とりあえずぶっ飛ばす。話はそれから聞いてやるの」という考えかたは、たぶんそんなに間違っていない。正しいことを、誠実にやろうとする人は、だからこそ、あらゆる正しくないやりかた、あらゆる誠実でないやりかたに精通しておかないといけないし、それができて初めて、その人は一番効率のいいやりかたとして、正しくて誠実な方法を提案できる。</p>

<p>交渉の目的を、「問題の解決」に置くならば、相手の自尊心通貨を枯らす、心を折る、潰しに行くことは、交渉の成功を意味しないどころか、むしろ問題の解決を遠ざける。「食べながら戦う」兵士がいないように、相手の懐具合にも気を配りながら、交渉は、適切なタイミングで休止を入れないといけない。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>理解と納得</title>
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		<pubDate>Fri, 05 Feb 2010 02:59:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会工学]]></category>

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		<description><![CDATA[劇作家の平田オリザが書いた本からの抜き書き。

演劇という技術


演劇の技術とは、自分の妄想を他者に伝える技術である。それが技術としてたしかなものであるならば、それはある程度の部分まで言語化できる
人間は人間を正確に把 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>劇作家の平田オリザが書いた本からの抜き書き。</p>

<h2>演劇という技術</h2>

<ul>
<li>演劇の技術とは、自分の妄想を他者に伝える技術である。それが技術としてたしかなものであるならば、それはある程度の部分まで言語化できる</li>
<li>人間は人間を正確に把握することなどできない。だからこそ表現者は、「私はこのように世界を把握する」という認識を示していかなくてはならない。芸術家がなすべきは、評論家のように事の善悪を説くのではなく、事件を直接的に捕まえ描写すること</li>
<li>舞台は時間軸が一定で、場面もそんなに変えられない。漫画や文章なら、100年も、地球の裏側もすぐだけれど、舞台ではそういう、出来事の連鎖によってストーリーを進めるやりかたができない</li>
<li>小説のように、だんだんと状況がのみこめてくる展開は、用意できる舞台道具に限りのある演劇では難しい。戯曲の場合には、だからその戯曲、その舞台が何についての、どういう作品なのかを、できるだけ早い時期に観客に提示し、観客の想像力に方向付けを行う必要がある</li>
<li>劇作家は、ストーリーの中で、ある特定のシーンだけを抜き出して、その前後の時間については観客の想像にゆだねることしかできない</li>
</ul>

<h2>リアルということ</h2>

<ul>
<li>舞台設定を美術館だとして、主人公が「ああ美術館はいいなあ」と独り言を言うのは、駄目な台詞。リアルでない</li>
<li>イメージには距離の概念がある。遠いイメージから入ってくのが鉄則。それが美術館なら、絵がある、静かである、高尚な雰囲気、人がゆっくり歩く、などがイメージ。遠いほうから、「静か」「デートに向く」「交渉」などがあって、もちろん「絵がある」が一番近いイメージ</li>
<li>伝えるべきテーマはないけれど、その代わり表現したいことなら、山ほどある。表現したい何かがあって、それをリアルにするために、舞台がある。オリザが美術館を舞台にした戯曲を書いたとき、台詞にリアルさが足りなくて、「第二次世界大戦中、有名な絵画が日本に避難してきた」という設定を付け足したのだという。付け加えられた設定で、美術館のロビーでの会話に必然性が生まれて、戯曲にリアルが付加された</li>
<li>列車の中にヤクザがいれば、自ら好んで話しかける人は少ない。それでもヤクザが切符を落としたら、「落としましたよ」と話しかけざるを得ない。私たちはこのように、周囲を取り巻く環境によって、「しゃべらされている」</li>
<li>舞台作家は、鑑賞者が自ら、作家の文脈を受け入れるよう、穏やかに導いて行かなくてはならない。演劇においては、文脈のすりあわせがなされない段階で、表現者の側が鑑賞者に仮想のコンテクストを押しつけると、その時台詞はリアルな力を失ってしまう。「穏やか」というのは、「遠いイメージ」から「近いイメージ」への移行で表現される</li>
<li>演劇とはリアルに向かっての無限の反復なのだ</li>
</ul>

<h2>会話と対話</h2>

<ul>
<li>対話と会話は異なる。対話とは他人と交わす情報交換や交流、会話とはすでに知り合っている人同士の単なるおしゃべり。戯曲の素人は「会話」を台本に書いてしまう。対話がないと戯曲が成立しない</li>
<li>情報量がほとんどないにもかかわらず、「会話」には冗長な言葉は少なく、「対話」にはむしろ、「ああ」とか「いやぁ」とか、冗長な言葉が頻出するようになるらしい。私たちは、親しい者同士の会話では、無駄な単語を使わない</li>
<li>冗長率の高い「対話」を描くときには、だから当然、間投詞や感嘆詞が多くなり、これをやらないと「固い」言葉になってしまう</li>
<li>会話が複雑になればなるほど、演じる側の負担というものは、むしろ減る</li>
<li>他人はどうか分からないが、私は愛情の表現の前に沈黙する。その沈黙、一瞬の停止から演劇が始まる。演劇は静止から、無から出発する</li>
</ul>

<h2>理解と納得</h2>

<ul>
<li>韓国人は茶碗と箸とスプーンで食事をする。お椀は持ち上げずに、机に置いたまま食べる。日本の俳優にそれをやらせることはできるけれど、最初は当然ぎこちなくなる。すぐに上手になるけれど、会話をしながらそれをやらせると、またぎこちなくなる。スプーンを持っているのに、「箸で食べる」動作をしてしまう。日本の俳優は、そのとき初めて、「ああ、自分は普段、こうやって箸でご飯を食べているのだ」と、自分の日常動作に気がつく</li>
<li>芸術作品を見て人が感動するのは、突き詰めていえば、「ああ、たしかに私は世界をこのように認識している」という感覚が起点となる</li>
<li>理解というのは事実の把握、納得というのは事態の認識</li>
</ul>

<p>個人的にはここの下りが、「理解」と「納得」とを隔てる説明として腑に落ちた。</p>

<p>「理解」はそれでも案外簡単で、必然性を持った状況で、分かりやすく語ることに気を使えば、まだどうにかなる。理解というのは「相手の言葉を相手の文脈で呑み込むこと」だけれど、恐らくは納得というものは、「相手の文脈で自分の考えを再発見すること」だから、聞いただけでは分からない。</p>

<p>医師から話を聞かされた段階で、患者さんはそれを「理解」することはできる。「納得」した患者さんは、今度はたぶん、自分の診断であるとか、これからおこること、その時の対処なんかを、今度は自分の言葉で語ることができるようになる。何らかの状況を「理解」の先に導入することで、改めて自分が今まで行ってきた判断に気づきが生まれ、恐らくは初めて「納得」が出現する。</p>

<p>「納得」が正しく得られたのなら、主治医は患者さんの指示に従って動くこともできる。もはや「説得」の必要もないし、医師は患者さんの部下になれるから、「謝罪」の機会も消失する。患者さんの納得が、医師の理解とずれていたときには、価値判断の重み付けを調整する、「説得」を行う必要があるし、説得に失敗して、患者さんとの信頼関係が破綻しそうになったときには、まずは「謝罪」という刃物を振るって、状況から、感情と事実とを切り離して、事態の収拾をはかる必要がある。</p>

<p>「理解」「納得」「説得」「謝罪」を、こういう関係で記述することができれば、いろいろ応用できそうな気がする。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>責任の所在について</title>
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		<pubDate>Wed, 03 Feb 2010 01:08:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[嫌話]]></category>

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		<description><![CDATA[たとえば「気迫さえあれば、竹槍でB29ぐらい余裕で撃墜できる」なんて怒鳴る軍人がいたとして、その人に「具体的に気迫を見せて下さい」と言ったら、たぶん殴られる。実際にB29が来たとして、竹槍構えて、撃墜できなかったら、やっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>たとえば「気迫さえあれば、竹槍でB29ぐらい余裕で撃墜できる」なんて怒鳴る軍人がいたとして、その人に「具体的に気迫を見せて下さい」と言ったら、たぶん殴られる。実際にB29が来たとして、竹槍構えて、撃墜できなかったら、やっぱり「気迫が足りない」と怒鳴られる。気迫はどこにも見えないのに、それは「ある」ものであって、それを根拠、現場は怒鳴られたり、殴られたりする。</p>

<p>自分たちの業界には、「ない」ことになっているんだけれど明確に「ある」、責任というものがあって、毎年何人か、これに潰されて仕事を辞める。</p>

<h2>責任の重さ</h2>

<p>たとえば80歳の高齢者が敗血症になってショック状態で、今すぐ処置しないと死んでしまうぐらいに具合が悪くても、診る側は案外楽で、医学的なベストを尽くすことに集中できる。「責任」なんてものを意識する人は、たぶん少ない。</p>

<p>ところが20歳ぐらいの若い人が、発熱と咳が2週間続いて、「息が少し苦しいんです」なんてつぶやいた日には、みんな震え上がる。それが単なる肺炎であったとして、日本中どこの病院でも、たぶん肺炎を治療することはできるんだけれど、誰が診療しても、患者さんは一定の確率で悪くなるし、確率をゼロにはできない。</p>

<p>こういう人が本当に急変したとして、ご家族も本人も、「たかが肺炎」で急変するなんて思いもしなかっただろうから、驚きは怒りに変わる。その怒りは、誰かが引き受けないといけない。医療の業界で、今はたぶん、たいていの人がこんな想像をするから、若い患者さんを「ちょっと」治すのは、恐ろしい。</p>

<p>避けようのない事態があって、その時に重たい「責任」が発生することは、きっと誰もが分かっているはずなのに、こういうのは「医学的には避けようがない」ことで、「きちんと説明すれば、患者さんは分かってくれる」ことになっていて、世の中にはだから、「責任」なんてものは、そもそも存在しないことになっている。</p>

<p>「ない」ものを恐れるのは馬鹿で、みんな馬鹿だと言われるのは嫌だから、責任の話は語られない。語られないけれど、それはやっぱり「ある」ものだから、こういう患者さんが来たときには、まずは他の病院を探す。患者さんと、ついでに「責任」という得体の知れないものと、一緒に引き取ってほしいから。</p>

<h2>昔はそれが転院だった</h2>

<p>「患者を引き受けて下さい」、という転院依頼が、自分が研修医だった病院では、ずいぶん多かった。「医学的には容易」な疾患なのに、土曜日の午後だとか、うちの施設だって手薄になってしまう、明らかに「今じゃないだろう」なんて転院依頼。病院の方針が「絶対受ける」だったから、それでも受けざるを得なかったんだけれど、転院を依頼する側にしてみれば、送りたいのは患者さんじゃなくて、「責任」だったんだろうと思う。</p>

<p>今はもう、「転院」というやりかた自体が減った。大学みたいな大きな施設から人がいなくなって、どこももう手一杯で、引き受けてくれるところなんてない。「受けたら転院」の時代から、ゼロ年代のトレンドは「受けたら負け」になって、たしかにそのとおりになって、現場からはますます人が減った。</p>

<p>避けようがない、語ることを許されない、「責任」という怪物から、どうにかして自分の身を守ろう、守ろうとして、みんな右往左往している。そもそも患者さんを診ないとか、入院患者さんは診ないとか、専門を「これ」と決めて、それ以外は絶対診ないとか。「何でも診ます」なんて宣言する奴は、もはや同情もしてもらえない。</p>

<h2>セカンドオピニオンの政治的な使いかた</h2>

<p>患者さんを引き受けてくれる手の数は、昔に比べてずいぶん少なくなった。今はもう、一般内科も絶滅危惧リストの上位に載って、たぶんもうすぐいなくなる。ここで何とかやっていこうと思ったなら、見えないけれど「ある」、責任というものを、何とか分割、分配して、人の手に負える大きさにする術を探さないといけない。</p>

<p>大学の先生と話していて、これからはたぶん、「セカンドオピニオン」がそんな役割を担うようになるよね、なんて結論になった。</p>

<p>大学は、昔はそういう「責任もろとも患者さんをよろしく」みたいな転院を引き受けていて、今はもう研修医もいなくなって、そういうのが受けられなくなった。受けられなくなって、今度は外来に、セカンドオピニオンが増えているんだという。</p>

<p>患者さん本人が来ないんだけれど、ご家族が来て、紹介状を持って、「できれば転院させて下さい」なんて迫られる。ベッドもないから、外来担当医は断ることしかできないんだけれど、そこで「断った姿」がご家族に観測されるから、これがプレッシャーになるんだという。「そうか！」とそれ聞いてて思った。これからは「これだ」って。</p>

<p>患者さん本人を動かさなくても、「断った誰かの顔」を、患者さん周囲の誰かが観測したその時点で、責任の降る対象は分割されて、一部はそっちに移行する。責任が分割されることで、患者さん本人を診る側は、それだけ責任の負担が軽くなる。相手は大変だろうけれど、責任なんてそもそも「ない」ことになっているから、セカンドオピニオンは、断れない。</p>

<h2>えらい人にもっと政治のことを考えてほしい</h2>

<p>責任というのは「<strong>ご家族や本人が予期していた結果が得られなかった際の怒りの持っていきどころ</strong>」であって、結果が確率論的なものでしか予期できない以上、一定の確率で、責任は、誰かのところに降ってくる。それはますます大きく重くなって、もはや1人で背負うのは無理だから、みんなそこから逃げ出している。</p>

<p>「全部よろしく」の転院依頼はもう実質無理で、今は「最初から受けない」が正解になりつつあって、それでも受ける病院は限界。そもそも受けるのが不正解認定だから、もう同情もしてもらえない。責任の扱いかたに、「分割」というやりかたが導入できれば、状況はずいぶん変わる。患者さん受けて、受けてくれない専門家に、すかさず責任の杭を撃ち込んでしまえば、みんなもう逃げられない。そこでようやく、主治医は医師として、医学的に自由に振る舞えるようになる。</p>

<p>政治のお話は下らない。 下らないからこそ、こういう下らないものの取り扱いかたをきちんと考えておかないと、病院という得体の知れないこの場所で、「医学的に正しい振る舞い」なんてできっこないと思う。</p>
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		<item>
		<title>手段としての謝罪</title>
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		<pubDate>Mon, 01 Feb 2010 01:31:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[コミュニケーション]]></category>

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		<description><![CDATA[「医療コミュニケーション」の考えかたみたいなのをまとめる機会が今後あったとして、やっぱり「謝罪」というものの扱いかたが、特徴というか、鍵になるような気がする。

元検事は謝らなかった

えん罪事件の元検事が、「謝らない」 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「医療コミュニケーション」の考えかたみたいなのをまとめる機会が今後あったとして、やっぱり「謝罪」というものの扱いかたが、特徴というか、鍵になるような気がする。</p>

<h2>元検事は謝らなかった</h2>

<p>えん罪事件の元検事が、「謝らない」ことで、ずいぶん叩かれてた。</p>

<p>元検事の「謝らない」というやりかたは、たとえば検察側に何かものすごい深謀遠慮があって、今あえて謝罪を拒否しているということでは無いような気がする。あれはむしろ、検察の側に「謝罪を中間手続きとして折り込んだ交渉戦略」が用意されていなかったものだから、謝罪を決断するタイミングを逃してしまったのだと思う。あの場所で、えん罪でをかぶせられた人の不快感に対して、一言「ごめんなさい」と言ったところで、それが一人歩きする可能性は低いだろうし、たとえば相手側の弁護士がそこで言質を取りに来ても、それを切り返すことは、そんなに難しくない。</p>

<p>謝罪という行為を、そこで「終わりである」と考えてしまうのが、間違いなんだと思う。ある種の職業、状況においては、「ごめん」は単なる道具であって、交渉のゴールにはならないし、「謝ったらそれで終わり」なら、それは交渉戦略が根本的に間違っている。</p>

<p>全ての情報を集積、評価した上で、最後に「万全の謝罪」を目指すのは悪手であって、問題が大きくなることが読めたなら、そうなるはるか手前の段階で、「小さな謝罪」を行っておけば、交渉に必要な資源の総量を抑えることができる。手段として謝罪を運用するときには、緻密さよりも、むしろ決断の早さが大切で、それを適切に用いるためには、あらかじめ「ごめん」を折り込んだ戦略を作っておかないといけない。</p>

<h2>じゃあどうするのか</h2>

<p>戦争学でいうところの「攻撃」と、コミュニケーション工学(造語)でいうところの「謝罪」とは、向きが違うだけで、全く同じ考えかたで、同じタイミングで切られるカードなのだと思う。戦争においては、「攻撃」や、「相手の破壊」は目標ではなく、「相手をコントロール下に置く」ための、単なる手段に過ぎない。攻撃の達人である「戦局眼」を持った名将軍は、謝罪の達人にもなれる。</p>

<p>自分たちの業界に、謝罪を折り込んだ交渉戦略があるかといえば、たぶん存在しない。少なくとも自分は習ったことがない。「医師が謝ったほうが結果が良かった」なんていう、ハーバード大学のレポートが出てきて話題になったけれど、あれは医師の「人間力」みたいなのに逃げていて、技術としての謝罪を論じていないように思える。</p>

<p>医療の現場で最近言われる、「謝りましょう」なんてかけ声は、だから個人的には、ちょっと空疎に聞こえる。謝って、じゃあどうするのか、「謝りましょう」なんて言う人たちも、それを教えてくれるわけじゃないから。</p>

<p>じゃあ「謝罪を折り込んだ戦略」を作って見せろ、なんて話になると、難しい。たとえば「攻撃のタイミング」は、将軍の能力みたいなものを決定する大事な要素で、それをきちんと説明して、再現できた人がいないからこそ、現場には「戦局眼」なんて、神秘的で説明できない言葉だけが伝わる。謝罪のタイミングというものも、それに近いのだと思う。</p>

<h2>試案</h2>

<p>「医療の謝罪」という話題に限定すると、患者さんから、あるいはご家族から「謝れ」なんて言われたときには、それがどれだけ理不尽な話であっても、すでに謝罪のタイミングとしては遅すぎる。医学的な正当性が、たとえ全面的に医療者側にあったとしても、相手から「謝れ」と言われるもっと早い段階で、「説明が下手でごめんなさい」と一言入れておけば、そもそも「謝れ」と言われる状況は、発生しなかった。</p>

<p>じゃあ最初から「ごめんなさい」したらどうなるかと言えば、患者さんがいなくなってしまう。診察してもいないのに、治療を始めてもいないのに、いきなり謝るような医師には、たぶん誰も診てもらいたくないだろうし。謝罪のタイミングはだから、これだと速すぎる。</p>

<p>じゃあたとえば最初の抗生剤が入った直後はどうか。ここで謝ったら、患者さんがびっくりする。</p>

<p>3日目ぐらいではどうか。上手くいっていれば、熱が下がるし、上手くいっていなければ、まだ熱が出ているぐらいのタイミング。上手くいっていれば謝る必要はないし、上手くいっていないこの状況で謝られると、患者さんはすごく怖がると思う。</p>

<p>たとえば熱が下がらない7日目、患者さんにそろそろ「この医者大丈夫か？」なんて疑念がわき起こる頃に「ごめんなさい」すると、これはまたトラブルになりそうな気がする。そこには「すでに手遅れ」なんてメッセージが入ってしまう。</p>

<p>タイミングはだから、3日目から7日目のどこかぐらいにあって、もう一つ、「部分的に謝れる状況」を作らないと、たぶん正解には至れない。</p>

<h2>部分を謝罪して感情を切り離す</h2>

<p>謝罪というのは事実から感情を切り離すための刃物なんだと思う。</p>

<p>日本刀で手術はできない。外科医は小さな刃物を何十回も動かして、状況ごとにやりかたを変えながら、少しずつ手術を進める。交渉も恐らく同じで、「小さな刃物」を、状況ごとに取り換えながら、切るタイミングが遅すぎても、あるいは大きく切りすぎても、状況は悪くなる。その代わり、状況ごとの「正しいやりかた」というものは記述可能で、手術の手順書みたいに、恐らくそれは、訓練を受けた者同士で共有できる。</p>

<p>「部分の謝罪」という技術があるのだと思う。「全面的にごめんなさい」を行ってしまうと、患者さん側の選択枝として、病院から出て行く以外の道が無くなってしまう。瀬戸際外交みたいにこれをやって、相手側の全面降伏を引きずり出すやりかたもあるんだけれど、あとが大変だからあんまりやらないほうがいいと思う。あくまでも「治癒」を目指すなら、相手の「感情にごめんなさい」、あるいは「疑念にごめんなさい」と、医療者側の「技術的にごめんなさい」とを、分けたほうがいい。</p>

<p>患者さん側に疑念がない状況での「ごめんなさい」は、唐突に過ぎる。疑念が大きくなってからだと、たぶん主治医の側にも後ろめたさみたいなのが出てくるから、今度は意志決定が不安定になって、失敗しやすくなる。状況はしばしば先送りされて、「今」が必要なのに、「2日後にムンテラ」なんて宣言を生んで、患者さんが急変して、「全面的にごめんなさい」に追い込まれる。患者さん側の心に疑念がわき起こったまさにその瞬間、「感情に対してごめんなさい」を宣言して、その上で医学的には教科書どおりの、治療が行われていることを請けあうと、疑念が怒りに発展するのを阻止できて、恐らくは謝罪という行為を通じて、主治医が患者さんのことを気にかけているという、少し前向きなメッセージを伝えることができる。</p>

<p>相手の心は絶対に読めない。読めないから、患者さんの疑念というものは、医療者側でコントロールしないといけない。</p>

<p>具体的に何をすればいいかと言えば「実況中継」であって、今の患者さんが抱えている問題に対して、医師はどんな鑑別診断を考え、それに対してどんな検査プランを作り、プランが正しければ何を行い、プランが予定どおりに行っていないことを医師はどういう徴候から読み取り、上手くいっていないなら次に何をするのか、そういうことをあらかじめ想定して、患者さんと話をする都度、それを説明しないといけない。</p>

<p>アナウンスを行うこと、「予期」だとか「失敗したその先」を、その中に折り込むことで、予期したとおりに物事が動いていないとき、「あなたの疑念にごめんなさい」を、適切なタイミングで切り出すことができる。</p>

<p>あざといんだけれど、この「あざとさ」を実現するためには、医療者側は検査プラン、治療プランをきちんと作る必要があって、患者さんの側にそれを分かりやすく伝えられるよう、言葉を工夫して、常に改良しておかないといけない。プランがオープンになるわけだから、それが常に最新であるように、勉強を続けて、自分自身をアップデートしないといけない。</p>

<p>動機はすごく後ろ向きだけれど、こういう努力それ自体は、恐らくは患者さん側にも、医療者の側にも、メリットが多いと思う。</p>
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		<title>何か新しいもの</title>
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		<pubDate>Fri, 29 Jan 2010 05:00:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[小話]]></category>

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		<description><![CDATA[上司に当たる人から、「何か新しいものを作れ」と命じられた。夢の中で。

こんな夢を見た

夢の中で、自分たちのチームは、上司から「何か新しいものを作れ」と命じられていて、途方に暮れていた。会議で何かを決めようにも、そもそ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>上司に当たる人から、「何か新しいものを作れ」と命じられた。夢の中で。</p>

<h2>こんな夢を見た</h2>

<p>夢の中で、自分たちのチームは、上司から「何か新しいものを作れ」と命じられていて、途方に暮れていた。会議で何かを決めようにも、そもそも「新しいもの」とは何なのか、あまりにも漠然とした課題に、みんな愚痴しかでなかった。</p>

<p>しばらくして、リーダーの人が、黒板みたいな場所に模造紙を貼って、やおら円グラフを書き出した。黒板に書けばいいと思うんだけれど、なぜだか紙を貼っていた。グラフにはゼロから24までの数字が並べられていた。それは要するに時計であって、リーダーは、24時間の自分の生活スケジュールを、そこに書き込んでいった。</p>

<p>0時から7時までは睡眠、8時までご飯、9時まで通勤、それから11時まで仕事、11時15分から12時半まで仕事、2時から5時まで仕事、家に帰って、ご飯があって、お風呂に入って、遊び時間があって、24時に就寝。</p>

<p>24時間を円グラフにして、時間ごとに区切った「パイ」の中に、リーダーは、その時使っている道具とか、アプリケーションを埋めていった。起きてから朝ご飯の間には、メーラーとブラウザ、Twitter 、何かのメッセンジャー。通勤時間帯はRSSリーダー。リーダーが仕事で使っていたのは、どうしてだか  Word だった。</p>

<p>リーダーは、書いてる途中、メンバーに、「この15分は何だ？」 なんて、11時からの15分について尋ねた。「ウンコです」なんてメンバーが答えて、みんなで笑った。トイレの中で使われている道具は何もなくて、そのあとまた、それぞれのパイに、その時使っているアプリケーションが書き込まれていった。「遊び」の場所にはネットワークRPGの名前が入って、就寝時間は、やっぱり空白だった。</p>

<h2>空白には「新しいもの」がある</h2>

<p>夢の続き。</p>

<p>こんなグラフが一通り描かれて、それは要するに、アプリケーションからみたリーダーの1日なんだけれど、リーダーはそのあと、この円グラフの中にある空白を探そうなんて意味のことを宣言した。</p>

<p>「ウンコのときはどうしている？」なんて、自分がリーダーに尋ねられた。手を使うのがためらわれるから、その時には何もできない。</p>

<p>今度は「ウンコの制約条件は？」なんて聞かれた。両手が使えない。メディアを手で持てない。大きな音はちょっと迷惑かも。アプリケーションを立ち上げるのも、終了させるのも、その時の手はまだ汚いから、操作というものがそもそもできない。携帯電話で何かするにしても、落としたら致命的。そんな返事をした。</p>

<p>「じゃあ逆に言えば、使うのに両手がいらない、勝手に立ち上がって勝手に終了する何かを作れば、ウンコタイムというニッチでそれは無敵でいられる」なんてリーダーは宣言して、ウンコ時間の場所に、マジックで○を描いた。空白の○は、ニッチを意味してるんだと。</p>

<p>話が休み時間に移った。そこにはブラウザとか、Twitter とか書かれていたんだけれど、夜の休み時間にある「ゲーム」が、昼の休み時間には書かれていなかった。リーダーは自分のことなのに、メンバーに「どうしてだ？」と尋ねた。</p>

<p>RPGを気合い入れてやるには時間が足りないし、途中で抜けると他の人の迷惑になる。あれは集中しないと厳しいからとか、そんな意見が出た。リーダーはまた、休み時間に空っぽの○を描いて、今度は練る前の休み時間に書いてあった「ゲーム」を丸で囲って、お互いを線で結んだ。これはたぶん、「お昼休みにもゲームというアプリケーションが進出する余地がある」という意味で、時間の制約がない、仲間はいるけれど、抜けることが迷惑にならないゲームがあれば、お昼休みというニッチに、ゲームが割り込めるという意味。</p>

<p>お話はお風呂に移った。ここも空白。で、やっぱり両手を使うのが厳しい、風呂ポチャするとスマートホンは即死するとか、制限多くて、ここにも空白ができた。で、両手を使わなくてもいい、ぼーっと見てるだけでいい「ウンコ時間のチャンピオン」が生み出せたのなら、この製品はお風呂タイムにも使えるよねなんて話になって、お風呂タイムにも丸が描かれて、ウンコタイムの丸と結ばれた。ここで「防水iPod 」みたいなのを想像してしまうと重たくなるけれど、たとえば本体はディスプレイだけで独立して、無線トラックボールに2ボタンのついたリモコンを、防水で、できれば手ごと洗えるような構造にしておくと、トイレのときにも、お風呂場でも使えるPCが、まあまあ衛生的に使えるんだと思った。</p>

<p>こんなかんじで、誰かの24時間がアプリケーションの消費、という軸で分解されて、どこにニッチが残っていて、その機能はどこに使い回すことが可能で、その場所に進出するためには、まずはどんなことが制約条件になっているのか、時計みたいな絵を前に、ブレーンストーミングが進んだ。会議室のどこかには、開発部隊みたいな人が潜んでいて、会議が進むたび、何人かが会議室から抜け出していた。</p>

<p>以上夢。</p>

<h2>新製品の探しかた</h2>

<p>こんな夢を見た。知った顔は誰もいなくて、夢なのに、夢の中で、「どうして自分は夢の中でもこんなこと考えてるんだろう」なんて思ってたから、あるいは何かのビジネス本から想起したものかもしれない。</p>

<p>夢物語だけれど、時間という軸で「何か」に制約をかけて、さらに「トイレ」だとか「お風呂」という制約をそこに重ねて、その中で使える何かを探すというやりかたは、漫然とブレインストーミングを繰り返すよりも、いい発想にたどり着く可能性が高いような気がする。</p>

<p>たとえば医事課の事務さんたちは、コンピューターを前に、しばしば電卓を使う。たぶん何かを計算して、それをエクセルに入力する必要があって、電卓アプリを立ち上げるよりも、リアル電卓を叩いたほうが速いんだろうけれど、「便利な電卓アプリ」を作ったところで、たぶん現場は使わない。マウスクリックしてアプリケーションを立ち上げるよりも、電卓叩いたほうが速いから。</p>

<p>「医事課という現場で使われる新しい何か」を生み出そうなんて考えたら、たぶん仕事をする事務の人たちを、後ろから一日眺めてから考えると、上手くいくような気がする。</p>

<p>それが電卓なら、それが取り出されるのはどういう状況なのか。「計算」には何パターンあって、解答が、どこの場所に出力されないといけないのか。バーチャル電卓に比べたときの、リアル電卓の長所は何なのか。たとえばキーボードの数は増えれば作業は楽だし、たかだか数字1行分でも、これはマルチディスプレイと同じ効果があるから、画面を細かくいじる必要がない。アプリケーションなら、マウスクリック、立ち上げ、下手すると窓移動してからはじめて計算が必要で、答えをマウスドラッグ、コピー、ペーストなんてしないといけない。リアル電卓なら、叩けば答えが出て、たぶんマウスを使うよりも、いきなり数字キーを打ち始めたほうが速い。</p>

<p>こんな観察があったとして、だったらリアル電卓に対抗するための電卓アプリケーションに必要な能力は、仕事の状況をモニターして、勝手に立ち上がって、答えを出した瞬間に、必要な場所に答えを出力して消え失せる、そんなものなんだなという想像ができる。</p>

<p>あるいは逆に、実は「計算」が6パターンぐらいしかなくて、事務さんはいちいちそれを計算しているようでいて、実はそれは計算じゃなくて、数字キーを、言わば組み合わせホットキーとして、必要な数字を呼び出しているだけだったら、これはもう、電卓じゃなくて、6つのキーだけを備えた、それをクリックしたら決まった数字を出力するだけのアプリケーションがあるだけで、作業はずいぶん楽になる。</p>

<p>「新しい何か」を位置から考えるのは大変だけれど、ある動作を時間軸で、アプリケーションの軸で、1日を、あるいは1プロセスを細かく分解してみていくことで、動作のニッチを見つけ出すことができる。</p>

<p>「そっちのほうが便利だから」、機械でなく人の手で行われている場所があって、じゃあ機械がどんな便利を獲得できたなら、人の便利を上回れるのか、そんな考えかたをすると、新しいものへの手がかりが得られるんだと思う。</p>
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		<title>弱い何かに財布を接続する</title>
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		<pubDate>Wed, 27 Jan 2010 01:46:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[広告のおしゃべり]]></category>

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		<description><![CDATA[自分のためにお金を使う人は減っている。将来への不安とか、不信みたいなものがある限り、この傾向は変わらないと思う。

少し前なら、自分のすごさを表現するために無理して高い車を買うとか、「あえてお金を使ってみせること」という [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>自分のためにお金を使う人は減っている。将来への不安とか、不信みたいなものがある限り、この傾向は変わらないと思う。</p>

<p>少し前なら、自分のすごさを表現するために無理して高い車を買うとか、「あえてお金を使ってみせること」というのが、ある種のかっこよさにつながっていたけれど、そうしたリンクはもう切れている。</p>

<p>で、今は何となく、「か弱くてかわいい何か」に強者の財布を接続できた人が、上手な商売を行っている気がする。</p>

<ul>
<li>トリンプのサイトには<a href="http://www.fallinstar.org/2009/05/80triumph.html">おねだり</a> の機能がついていて、商品を買う女性から、男性の側に、支払いをお願いすることができて、これが大成功しているらしい</li>
<li>GREE というサイトのマスコットである<a href="http://urarara.blogspot.com/2009/02/gree_27.html">クリノッペがすごい</a> らしい。自分自身の分身である「アバター」にお金を支払うことに抵抗がある人でも、加入すると勝手についてくるペットと遊ぶうちに、そっちにはお金を使ってしまうらしい</li>
<li>ペットビジネスは、「弱さ」と「財布」が直結していて、どちらかというと、小型犬ほどお金が出ていく。大型犬、フルサイズの狼犬なんかだと、ご飯も「鶏の首」みたいな、えらくスパルタンなものになるけれど、小型犬だと種類が豊富で、チワワ用の一食が700円とか、高いのがずいぶん売れているらしい</li>
<li>子供が商売の王道なのは、今も昔も同じ。子供が映画を見たいと希望すれば、親もお金を支払う必要がある。やっぱり「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」は強いらしい。お母さんを巻き込んだ平成ライダーは大成功して、もう少しマニア向けに大人な内容にした最近のライダーは、売り上げがちょっと翳ったらしい</li>
<li>ヒトパピローマウイルスワクチンは、若い女性に向けたものだけれど、自費だから数万円する。で、「おばあちゃんが孫にワクチンをプレゼント」する、なんて事例が紹介されていた。高齢の人が、若い人に「未来」をプレゼントするというのはたしかに美談なんだけれど、こういうお話が広まると、似たような行動をする人が、あるいは増えるのかもしれない</li>
<li>新聞も売れなくなっている。「読む人」に訴えるやりかた、いい記事を書く、というのは、もはや購買を刺激しないのだと思う。むしろたとえば、「お孫さんに社会の正しい見かたをプレゼント」みたいなテーマで、「お爺ちゃんがお孫さんに朝日新聞を契約して、未来の日本をプレゼントした」とか、そういうエピソード作って広めると、少し違った購買を引き出せる気がする。「読む人」に向けた記事と、「読ませたい人」に向けた記事とでは、ずいぶん違ってくる。一面トップに「今日は敬老の日」とか並ぶ新聞になるんだと思う</li>
<li>購買でなく、道徳的な振る舞いも、「弱い誰か」を仮想すると引き出せるのだと思う。ゲームだとか漫画は、海賊版の被害が相当に大きいらしい。「自分のため」ならば海賊版で満足する人も、あるいは「か弱い誰かにプレゼントをする」ときなら、海賊版でなく、正規品にお金を払う、道徳的なユーザーになるような気がする。今はそうでもないみたいだけれど</li>
<li>財布を持った人にとっての「かわいらしさ」というのは大事なんだと思う。高齢者の患者さんなんかだと、数百円のおむつとか、食事代に「高い」と文句を言われるのは当たり前で、高いなんて言ってたご家族が、ペットショップで2000円の天然鹿肉をまとめ買いしてたりする</li>
</ul>

<p>恐らくは「弱い何か」に対して「強い人」でありたいというのは、それなりに普遍的な感情で、「いい人」、「強い人」であることを表現するためにお金を使う、道徳的な振る舞いを引き出すという道は、まだ残っているような気がする。</p>

<p>弱いとは何なのか、かわいいとは何なのか。このあたりに鍵がある。</p>
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		<title>誠意は大切</title>
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		<pubDate>Tue, 26 Jan 2010 06:05:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[コミュニケーション]]></category>

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		<description><![CDATA[処世術としての「誠実な会話」について。

何となく話そびれて、患者さんだとか、あるいはご家族から「話を聞かせて下さい」なんていわれたときの話しあいは、注意しないといけない。
これといった目的のない話しあいは、しばしば迷走 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>処世術としての「誠実な会話」について。</p>

<p>何となく話そびれて、患者さんだとか、あるいはご家族から「話を聞かせて下さい」なんていわれたときの話しあいは、注意しないといけない。
これといった目的のない話しあいは、しばしば迷走して、収拾がつかなくなってしまうことがある。</p>

<h2>最初に目的を宣言する</h2>

<p>話しあいの前に、目標を宣言するのは大事なんだと思う。「今日は検査の報告だけさせていただきます」とか。「状態もだいぶ安定してきたので、退院の時期を相談したくて、今日来ていただきました」とか。</p>

<p>最初に医療者側から宣言をしておくと、話がぶれにくい。逆に「宣言」なしで、何となく話が進んで、ご家族の側から「宣言」を切り出されると、流れはご家族のものになる。流れを変えたり、あるいは「今日はこのへんで」なんて話を打ち切ると、それは「流れが着られた」という心証になって、どう言いつくろっても、いい結果を生まない。</p>

<p>「宣言」は単なる言葉であって、達成しなくてはならないゴールとは違う。達成を焦ると、話しあいはやっぱりドツボにはまる。</p>

<p>たとえばそれが退院の話しあいであるならば、「退院の相談」という宣言を行うことが当面の目標なのであって、ご家族と、医療者とが一堂に会したその場で、「退院」という単語が出されたその時点で、目標はもう達成されている。一度の面談で、退院を決定して、日程まで決めようとするのはたいてい無理で、それをゴールにしてしまうと失敗する。</p>

<p>目標なしの「いわゆるムンテラ」、世間話と最近の状況、あわよくば退院の話、みたいなやりかたをすると、議論が迷走する。おしゃべりが得意でない人がこれをやると、下手すると患者さんの御用聞きに終始してしまうし、下手に「功」を焦って、ご家族が予期しないタイミングで退院の話を切り出したりすると、唐突に過ぎるきらいがある。</p>

<p>会話の流れを操作するのが上手な人は、「目標」なんて堅いこと言わないで、このあたりを上手にこなせるのだろうけれど、準備といってもせいぜい、今日話し合うことを、心の中で考えておくだけのことなんだから、準備で済むことなら、目標の準備をしてから、交渉の席に臨んだほうがいいのだと思う。</p>

<p>こちらからご家族を呼び出しておいて、「で、今日の会議は何話すんでしたっけ？」みたいな状況になっている同業者は、けっこう多い印象を持っている。理解を共有できないと交渉は始まらないし、お互いに納得のいく結論に到達できなければ、交渉の意味はない。交渉をはじめるためには目標が必要であって、交渉に臨む人たちは、しばしば目標なんて持っていない。だからこそそれは、自分で意識して用意しておかないといけない。</p>

<h2>相手の「財布」を思いやる</h2>

<p>ここ1年ぐらい、交渉を行うときには、常に上手な撤退というか、水入りのタイミングを考えるようにしている。</p>

<p>たとえば症状が漠然としすぎていて、一体どんなことをしてほしくて病院に来たのか、ちょっと話を聞いたぐらいではよく分からないような患者さんというのが、外来にはしばしばやってくる。こういう患者さんに対して、「時系列に沿って、簡潔に、症状だけをまとめて下さい。あなたの判断は要りませんから」なんて応対をしたら、絶対怒られる。</p>

<p>人にはそれぞれ、ちょうど「貯金」みたいな、支払い可能な説明資源というものがある。漠然とした訴えかたしかできない人というのは、症状が本当に漠然としているからか、あるいは説明という行為自体にあまり慣れていないからか、いずれにしても、外来に来たその時点で、支払い可能な説明資源が、すでに底をつきかけている。こんな状況で、初対面の医師から「簡潔に」なんて言われると、貯金は一瞬で底をついて、あとは怒ることしかできない。</p>

<p>こういうときはずるいけれど、とりあえず病院に来てくれたことを歓迎する言葉だけ出して、「あとからまた改めて話を聞かせて下さい」とか、「とりあえず、危ない病気から検査しましょう」とかいって、先に検査に回ってもらうようにしている。検査を受けると、「漠然」が、「病気」という軸で整理されて、その人の説明資源が増える。</p>

<p>1時間ぐらいで結果がそろうとして、検査データと、貯蓄の増えた説明資源を使って、患者さんから改めて話を聞くと、異常データに沿った症状の説明をもらえて、話が簡単になる。</p>

<p>明らかに退院を嫌がっているようなご家族に、患者さんの退院を切り出すときなんかも、個人的には、「水入り」前提で話をすることが多い。</p>

<p>まずは「退院という言葉を議場に上げる」ところまでがその日の目標で、そこではそれ以上押さないで、その代わり、ご家族の「家の都合が」とか、「日中の人手が」とか、そういう話も議場に上げないように流れに注意して、途中で水を入れて、「とりあえず考えてみて下さい」なんて、その日の話を終了する。</p>

<p>恐らくは「嫌な話」であろう、高齢の患者さんを自宅に引き取る話だとか、そういう場に呼ばれるだけで、たぶんご家族の説明資源、交渉資源みたいなものは、少なくなっている。そこで話を一気呵成に押し込もうとすると、会話をしている最中に、ご家族の「財布」は空っぽになってしまう。交渉資源が赤字になる前に話を止めて、ご家族が再び、交渉資源を貯める時間を設けて、その直前に退院というバイアスをかけておくと、退院の方向に、交渉資源が蓄積される。</p>

<p>ここで話を押し込みすぎて、「次に病院に来るときまでに、退院日を決定して下さい」とかやってしまうと、今度は「退院できない理由」が蓄積されてしまう。</p>

<h2>誠意の問題を不実に語る</h2>

<p>こういうのは、裏側から見ると、あたかも患者さんを「騙す」ようなやりかたなんだけれど、外面は、穏やかで、相手の状況に配慮した話しかたに見える。</p>

<p>どうやったら上手に負けられるだろうとか、よく考える。</p>

<p>交渉術というと、交渉者が必殺技みたいな何かを繰り出して、文句をつけてきた相手を叩きのめすための方法論みたいなイメージがあるんだけれど、交渉の名人というのはたぶん、むしろ「情けない」人に見えることを好むんじゃないかと思う。謝って済むのなら、さっさと謝って、ぺこぺこ頭下げて、万事を丸く収めるような。一見すると、それは「名人の負け」に見えて、相手も満足して帰るんだけれど、名人以外は誰も損をしていないような。</p>

<p>1分間交渉して謝られた人は、1分謝られたら満足する。1日交渉して「勝った」人は、たぶん1日分謝られないと、満足しない。謝るというやりかたは、だから状況を見切ったら、一刻も早く実行することが大切で、タイミングが早ければ早いほど、謝る側のダメージが減る。</p>

<p>ところが謝るという行為は、どこかで「負けを認める」イメージがあって、交渉者のプライドが削れる。みんな自分が削れることは嫌だから、しばしば判断が遅れて、謝罪のオッズがどんどんつり上がってしまう。</p>

<p>謝罪は削れる。コミュニケーションを道徳文脈で学ぶと、たぶん余計に削れる。「誠意を持って謝りましょう」とか習うと、ダメージは3倍ぐらいになる。</p>

<p>謝罪という行為を、単なる交渉のプロセスとして、条件分岐を設定して、「こうなったら頭を下げてごめんなさいと言う」みたいな機械的な動作として、謝罪をあらかじめ組み込んでおくと、それはマニュアルどおりの、単なる腰の運動だから、プライドは減らない。「謝罪の習慣」を、現場に本当に根付かせようと思ったら、こういうのが大事なんだと思う。</p>

<p>「誠意あるやりとり」というものは、強調してはいけないのだと思う。誠意は大切なのかもしれないけれど、それを現場に広めようと思ったら、誠意というものを、むしろ「軽い」ものとして扱わないといけない。誠意の価値が高まれば高まるほどに、たぶん「誠意ある言葉」は「安売りできない」ものになって、おかしなことになる。</p>

<p>誠意というものをきちんと定義して、再現性のある技術として、知っておくと便利な処世術としてそれを広めることができれば、現場には「誠意ある言葉」が気軽に交わされるようになる。</p>

<p>「それは本当の誠意じゃない」という人がいるのなら、その人はたぶん、誠意でご飯を食べたいだけで、誠意が広まってほしくはないんだろうと思う。</p>
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		<item>
		<title>面白い物を生み出す仕組み</title>
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		<pubDate>Sat, 23 Jan 2010 04:10:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[2009病棟ガイド]]></category>

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		<description><![CDATA[出版社ごとの、文化というか、時間の流れかたについて。

原稿は忘れた頃にやってくる

ずいぶん昔、所属医局で教科書を書くなんて話が持ち上がったときには、ずいぶんゆっくりとした流れだった。

企画書が回ってきて、分野ごとに [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>出版社ごとの、文化というか、時間の流れかたについて。</p>

<h2>原稿は忘れた頃にやってくる</h2>

<p>ずいぶん昔、所属医局で教科書を書くなんて話が持ち上がったときには、ずいぶんゆっくりとした流れだった。</p>

<p>企画書が回ってきて、分野ごとに担当執筆者が決められて、締め切りはたしか、3ヶ月ぐらい後だった。時間の流れかたは、締め切りが遠いとずいぶん速くて、「そのうち書こう」なんて思った原稿はそのままになって、最後の数週間、大いに慌てた。実際に「締め切り」が来て、原稿はもちろんそろわないから、それからまた、ずいぶん時間がたった。</p>

<p>原稿を書いたことすら忘れた頃、印刷物になった原稿が、手元に帰ってきた。みんなでそれに赤で訂正を入れて、たぶん訂正したのはそれっきりで、原稿は本になった。</p>

<p>今でも時々、上の先生がたが本を書く。やっぱり「忘れた」とか「忘れた頃に」なんて言葉は多くて、出版のペースは、そんなに変わっていないような気がする。</p>

<h2>1ヶ月という時間軸</h2>

<p>最初に相談した出版社の通信サイクルは、「1ヶ月」だった。</p>

<p>「出版したいんです」なんて、出版社の「お客様問い合わせ窓口」みたいなところからメッセージを出して、翌日には返事が来た。原稿のことをお話させていただいて、PDFの原稿を向こうに送って、そのあと1ヶ月、連絡が来なかった。</p>

<p>メールには「返事には時間がかかることがあります」なんて書かれていたんだけれど、1ヶ月はやっぱり長かった。</p>

<p>うちの母親は、もともと大きな出版社に勤めていたから、このあたりの経過を相談したんだけれど、やっぱり「そんなもんだ」なんて言われた。書籍1冊分の原稿に目を通すのは大変で、何よりも出版社には、「本を出したいんです」なんて人がたくさん来るから、読まなくてはいけない原稿は莫大なのだと。出版物を作るときには「後戻り」の効かないタイミングというのがいくつもあって、会議を一度通過してしまうと、その原稿を止めることは難しいから、読むほうはどうしても、時間をかけて、慎重な仕事が要求されるのだと。</p>

<p>納得はできたんだけれど、やっぱりひたすら待つことすらできなくて、待ったあげく、お話は流れた。</p>

<h2>紙と赤ペンにできること</h2>

<p>次の出版社はずいぶん速かった。最初のメールこそ、返事をもらうまでに2週間かかったけれど、あとは大体4日に1回、お互いにメールのやりとりができて、大体1ヶ月半ぐらいで、原稿は会議にかけられた。お話こそ流れてしまったけれど、やっぱり通信サイクルというものは、短くなった分だけ、安心感増すんだな、なんて思った。</p>

<p>通信の基本はメールだったけれど、そこから先は「紙と赤ペン」になるはずだった。原稿が出来上がったとして、それは印刷されて、「ゲラ刷り」の形で作者に戻される。作者はゲラを見て、直すべき場所をペンで修正して、出版社の人が、それを取りに来る。これは相当に大変で、お話ではこういうサイクルが4回ぐらい回せるとのことだったんだけれど、4サイクルというのは、こういうやりかたではたぶん限界に近いスピードで、実際問題、出版社の人は仕事を終えてからうちの病院に来てくれて、終電で自宅に帰って行かれた。</p>

<p>原稿をお願いする側としては、通信サイクルは短いほどに快適ではあって、それはもちろんありがたいことなんだけれど、あれでは体を壊してしまうと思った。</p>

<h2>オーム社のやりかた</h2>

<p><a href="http://www.geekpage.jp/blog/?id=2008/1/16">オーム社開発部での開発体制</a> に詳しいけれど、この出版社のやりかたは、いろいろ独特だった。</p>

<p>「出版したいんです」なんてメールを出して、その日の午後には返事が来て、5日目には「メーリングリストを立ち上げました」なんてメールが来た。</p>

<p>翌週の時点で、まだ企画が通るかどうかも分からないのに、予定販売数だとか予定価格、出版物の大きさ、原稿の締め切りと、校正の締め切り、印刷会社への入稿締め切りと、配本予定日は、全て決まっていた。</p>

<p>原稿は、オーム社のサーバー内で、Subversion というバージョン管理ソフトの管理下に置かれる。自分はそこから原稿をダウンロードして、直したいところを直して、直した原稿を送り返すと、変更された箇所が一覧になって、メーリングリストに入っている全ての人間に、電子メールで自動配信される。印刷原稿の出力は、今は完全に自動化されていて、原稿をオーム社に送ってしばらくすると、FTPサーバーには、新しいバージョンの印刷原稿が、PDFの形で置かれて、ダウンロードして手元で閲覧できる。</p>

<p>変更履歴はTrac という進捗管理ソフトに、やっぱり逐一、自動記録される。著者側から編集部への要望だとか、あるいは編集部から著者側への要望は、Trac のチケット機能を使って、重要度と締め切りとを設定して、お互いに要望を伝えることができる。チケットは全ての人に閲覧可能だから、通信のログがそこに残って、「言った言わない」の問題が発生しない。</p>

<p>Trac にはWiki の機能もついている。たとえば「他の本だとこういう記載になっています」みたいな抜き書きを、リストとしてそこに掲示することもできるし、原稿を何パターンかWiki に上げておいて、出版社の人と、どれで行くべきかをそこで討議することもできる。アプリケーションを使うのに慣れは必要なんだろうけれど、今のところは、全てペーパーレスで作業をこなしている。</p>

<p>一緒に仕事をさせていただいて、まだ1ヶ月ちょっとなんだけれど、メールはすでに100通を超えた。</p>

<h2>面白い物を生み出す仕組み</h2>

<p>紙と赤ペンで作るやりかたは、まじめで「質」を重視しているんだと思う。作者の側は、満足するまで原稿を作って、原稿は一度編集部に持ち帰られて、今度は編集部が、それをプロの仕事で本にする。それぞれの工程が確実でないとうまくいかないし、こだわった結果としていい物ができるのかもしれないけれど、後戻りができないし、時間がかかる。</p>

<p>今の仕組みは、「マイルストーン」と呼ばれる、作業工程ごとの締め切りがまず決定されて、毎日の改訂と、試作とを繰り返しながら、定められた時間の中で、できることを精一杯やる、というやりかた。上の先生がたにレビューをお願いしているその間にも、原稿は毎日のように改訂されて、下手すると「赤ペン」の入ったその場所に、その章はすでに無かったりするんだけれど、Subversion には全ての原稿バージョンがそろっているから、こうした変化に対応できる。</p>

<p>大学にいた頃、前の版の原稿は、目の前で右往左往している研修医の「ために」、俺様がいい本を作って「やる」という、すごく押しつけがましい、暑苦しい動機で作っていた。動機は下品だったけれど強力で、フィードバックは毎日だったから、目的はぶれずに、原稿は案外すんなり形になった。</p>

<p>今の原稿は、「ネットでみんなで」作ろうと意図してはじめた。お互い対等な「みんな」が、知恵を持ち寄って何かが作れれば、それはきっとすばらしい物になるだろうなんて夢見てたから。残念ながら、実は「みんな」は少なくて、プロジェクトは迷走した。ものを作る側の、下世話で下品な欲求の引き受け手になる何かが、「みんなで」という漠然とした空間には存在しないことが、なんだか致命的な欠点に思えて、今は少し閉じたところで話を進めて、原稿はようやく、形になりつつある。</p>

<p>「まじめでない」物が作れない仕組みというのは、まじめな物を作るのにも、ふさわしい仕組みではないのだと思う。
たとえば「<strong>そのやりかたでアダルトゲームを作ったとして、面白いものができるのか？</strong>」という問いかけは、あらゆる仕組みに対する試金石になるような気がする。</p>

<p>工程ごとに会議を行って、後戻りを決して許さないようなやりかた、「みんなで」何かやるという目標設定からは、残念ながら面白い物を生み出すのは難しい。これは「まじめな」物だから、高品質は達成できると宣言したところで、エロが作れないそのやりかたでは、説得力は上がらない。</p>

<p>通信の密度を上げること。試作を連日繰り返すこと。後戻りを常に許容するシステムを構築して、「これは何なのか」という意味の制約、マイルストーンという時間の制約の中で、文脈を共有したメンバーが試行錯誤を繰り返す今のやりかたは、まさにゲームの作りかたなんだろうけれど、やはりこういうのが正解に近いのだと思う。 </p>
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		<title>生産的な言葉の値段</title>
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		<pubDate>Fri, 22 Jan 2010 08:54:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[2009病棟ガイド]]></category>

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		<description><![CDATA[要するに声がほしい。自分が抱えている問題に対して、その「声」をもらうことで、問題が解決したり、少なくとも問題を抱えて声を聞く、そんな体験を通じて、少しでも前に進みたい。

こういう欲求は、裏を返せば「俺様に耳あたりのいい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>要するに声がほしい。自分が抱えている問題に対して、その「声」をもらうことで、問題が解決したり、少なくとも問題を抱えて声を聞く、そんな体験を通じて、少しでも前に進みたい。</p>

<p>こういう欲求は、裏を返せば「<strong>俺様に耳あたりのいい、役に立つ言葉だけをたくさん聞きたい</strong>」というわがままの裏返しにしか過ぎないんだけれど、そういうものを買えるなら、ぜひお金を払いたい。お金を払う用意があっても、そういうサービスは見当たらなくて、結果としてたぶん、自分はインターネットという場所で、ずっとこんなことをしているんだと思う。</p>

<h2>見込みのない奴はほめられる</h2>

<p>はじめて自分の原稿を公開したときには、それはもう絶賛だった。</p>

<p>「すばらしいです」とか、「本になったら買います」だとか、まだまだ不完全な、ページ数も今の6割ぐらいしかなかったものを、みんなこぞってほめてくれた。</p>

<p>いい気になってページが増えて、原稿を、最初は業界最大手の出版社に持ち込んだ。去年の7月頃。</p>

<p>すごくほめられた。「これはよく書けていますね」だとか、「ネット上で、文章が改良されている経過がよく分かりますね」だとか。ほめてもらったのに、編集部の言葉をいくらもらっても、自分の原稿は変化しなかった。変化は要請されなかったから。月に1回ぐらいのペースで、出版社の人とメールのやりとりをして、その都度ほめてもらいながら、ほめられ続けて10月頃、「やっぱり売り物になりませんね」なんて、話は潰れた。「末筆となりましたが，先生の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます」なんて、出版社の人は、最後までほめてくれた。</p>

<h2>改良につながる言葉</h2>

<p>あきらめきれなくて、原稿を今度は、別の医学系出版社に相談した。出版社の方は、「これは商売になる」という判断をしてくれた。</p>

<p>原稿は、少しはほめられたんだけれど、厳しかった。「そもそもこの原稿のどこが新しいのか、それを説明する文章を書いて下さい」と言われたのがつらかった。ネットに公開した段階では、「みんな分かってくれてる」とばかり思ってて、そう言われたその時まで、「分かってくれる人はすごく少ない」ことに、作者である自分は、全く気がついていなかったから。</p>

<p>「ここを直して下さい」だとか、「この部分は分かりにくいです」だとか、原稿には注文がついた。</p>

<p>「前書き」に相当する部分を作るだとか、文章をもっとパターン化して、どこにどんな情報があるのか分かりやすくするだとか、自分が「あえてそうしたくない」と思っていた、「尖った」部分、「俺かっこいい」なんて自己満足していたところはことごとく指摘を受けて、結局全部直すことになった。</p>

<p>それは面倒で見ない振りをしていたり、あるいは潜在的に見たくないから、「これでいいんだ」なんて自己正当化していた部分であったり、痛いところを突かれるのは、やっぱり痛いことだったんだけれど、刺さる意見をたくさんもらって、原稿は分かりやすくなった。原稿をインターネットで公開してから、原稿は初めて改良されて、自分以外の誰かの声が、原稿の体裁を大きく変えた。</p>

<p>このときには、いいところまで話が進んだんだけれど、いろいろあって、やっぱり話はまた流れた。</p>

<h2>出資者としての編集者</h2>

<p>この頃の顛末を <a href="http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/580">「雑な物づくり」に未来がある」</a> という文章にしてまとめたら、少しだけ反響があった。</p>

<p>「そういうことしたいなら <a href="http://www.ohmsha.co.jp/">オーム社</a> だよ」とか、「何でオーム社から出さないの」とか、各方面からそういう言葉をもらって、原稿を「オーム社」に持ち込んだ。</p>

<p>オーム社からは、「数字」に関する質問をいただいた。</p>

<p>原稿が出版されるとして、本の読者の数はどれぐらいで、それを何年かけて売るつもりなのか。「勝算」というか、数字を挙げて、作者はこの本の読者を、どれぐらいの確度で「皮算用」できるのか。自分の場合には、ホームページの平均ページビューだとか、ユニークユーザー数、あるいは以前に相談を持ちかけた出版社の人が、「大体これぐらいでしょう」なんて見込んでくれた数字を持っていたから、それを提示することができた。</p>

<p>出版社という組織は本来、「原稿の良さに値段をつける」ことではなくて、むしろ「作者のために何らかのリスクを肩代わりする」ことで対価を得ている人たちなんだと思う。だからたぶん、出版を依頼することというのは、「原稿を見てもらう」ことであると同時に、企業を作りたい人が出資者に行うような、一種のプレゼンテーションの機会なのだと思う。</p>

<p>「医学系の出版社から医学系の本を出す」ような、出版社の専門分野から、その分野の本を出すときには、このあたりの計算は、出版社の人がやってくれる。前の出版社と相談したときには、数字に関するお話は、「我々はこの本の売り上げを、これぐらいと見込んでいます」なんて、向こう側からお話をいただいたから。</p>

<p>オーム社で企画が通って、やっぱりいろいろ、自分がやってこなかった部分を指摘された。あちこち刺されて今に至って、ようやく何となく、出版というのはこういうことで、原稿と商品との間にある溝というのは、近いようでいてずいぶん遠いんだななんて、商品を作ることの意味が、少しだけ分かった気がしている。</p>

<h2>利害サークルのこちら側</h2>

<p>人の「言葉」、それをもらって消化すると、自分が今抱えている問題の解決に役立つ言葉というものを得るのは難しい。
それはお金では買えないし、企画の「良さ」を磨いても、たぶんまだ届かない。</p>

<p>「ネットでみんなで」みたいなものであっても、あるいは学園祭みたいな企画ものであっても、みんなで何かを作ろうなんて考える、世の中の多くのリーダーが、たぶん「こんなにいいプロジェクトなのに協力が得られなかった」という、物足りなさみたいなものを抱えて、プロジェクトを閉じる。それがどれだけ「成功」判定をもらっても、満足感を得られる人はたぶん少ない。</p>

<p>リーダーをやる、旗を振るという行為も「コミュニケーション」なんだと思う。自分はそうだった。旗を振っている人は、「仲間の言葉」がほしいんだけれど、 リーダーが、プロジェクトの「良さ」で人を引きつけようと考えた時点で、たぶんコミュニケーションとしてのそのプロジェクトは失敗してしまう。</p>

<p>心に刺さってくるような言葉、痛いんだけれど、それを消化することで何かが改良されるような言葉をもらって、物事を前に進めるためには、だから「良さ」なんかよりも、お互いに利害関係を共有できるような仕組み作りが大事なんだと思う。向こう側にいるお客さんを、「こっち側」に引きずり込むような、観客でなく、傍観者でなく、シンジケートを構成する仲間としての「言葉」をもらう、そんな道具立て。</p>

<p>ずいぶんと回り道になったけれど、本気度の高い意見を集める、あるいはそれを通じて勉強する手段として、商業出版というやりかたは、結果としていい方法だったのだと思うし、「クラウドソーシング」みたいなやりかたが広まったとして、実のある声を集める仕組みとしての、出版社だとか、編集者みたいな立場の人は、やっぱり必要なんだと思う。あるいは今さらなんだけれど、大学のやりかた、卒業論文という、指導教官との、一種の利害を共有した関係で何かを書くというあのやりかたは、教官がそれに応えてくれるなら、「刺さる言葉」をお金で購入できる、貴重な機会だったんだろうと思った。</p>
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