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	<title>レジデント初期研修用資料</title>
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	<description>「レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて」 という本が発売されることになりました</description>
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		<title>研修期間中の勉強について</title>
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		<pubDate>Wed, 16 May 2012 01:41:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[臨床研修]]></category>

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		<description><![CDATA[研修医の期間に行う勉強は、将来にわたって学習を続けていくために必要な、「健全な偏見」とでも言うべきものを養うために行われるべきなのだと思う。

偏見は学習の道具として役に立つ。どれだけ優れた大工さんであっても素手で家を建 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>研修医の期間に行う勉強は、将来にわたって学習を続けていくために必要な、「健全な偏見」とでも言うべきものを養うために行われるべきなのだと思う。</p>

<p>偏見は学習の道具として役に立つ。どれだけ優れた大工さんであっても素手で家を建てることが不可能なのと同様に、偏見を持たずに膨大な教科書にあたったところで、身につく知識は得られない。</p>

<h2>マニュアル本は役に立つ</h2>

<p>全領域の内容が簡便に記載されたマニュアル本、聖路加の「内科レジデントマニュアル」や、三井記念の「内科レジデント実践マニュアル」ぐらいの大きさを持ったメモ書きは、年次が上がっても役に立つ。</p>

<p>記憶はどうしても曖昧で、よほど慣れている分野でもないかぎり、ちょっとした調べ物をする機会は無くならない。ちょっとした調べ物は、まさにその場で、その瞬間にできることが大切で、ハリソン内科学みたいに4000ページ近くあるような参考書、あるいはUpToDate みたいな電子教科書出であってもやはり厳しい。</p>

<p>研修医向けのマニュアル本をそのまま使うことはないだろうけれど、たいていのベテランは、自分の知識をあれぐらいの大きさにメモ書きとしてまとめていて、メモを参照しながら仕事を回す。そうしたものを作るのには能力が必要で、ある分野の知識を身につけるということは、臨床医が病棟業務を回していくのに必要な、あるひとかたまりの知識をメモ書きとしてまとめることにだいたい等しい。</p>

<h2>知識を削るのは難しい</h2>

<p>研修医向けのマニュアル本を読み比べると分かるのだけれど、どれも同じような大きさを持ち、同じような読者を想定し、同じような知識を提供することを目的にしているのに、記載されている知識はびっくりするぐらいに異なっている。どのマニュアル本にも固有の偏りがあって、「使える内容」と「限られた大きさ」とを両立させるために、それぞれの筆者が、それぞれの考えかたに基づいて、記載すべき知識を絞り込んでいるのだろうと思う。</p>

<p>簡便なマニュアルをまとめる際に、「全部の縮小コピー」を目指してしまうと、出来上がったものは使いものにならない。</p>

<p>一般内科の日常業務を回すのに、たとえばハリソン内科学には「内科の全部」が記載されていて、あの程度の知識があればだいたいどうにかなることが多い。ところがハリソンの各章をそのまま短い文章に要約して、A4 サイズ4000ページを手のひらに乗る300ページにまとめてしまうと、目次こそ「使えそう」な体裁を保つだろうけれど、そのメモ書きが現場で使われる機会はまず訪れない。</p>

<p>鈍器みたいに巨大な教科書が、装飾過多で無駄の多い文章に満ちあふれているかといえばそんなわけがなく、定評のある教科書を書いた人たちもまた、限られた割り当てページに可能な限りの知見を押しこむ。実用性を保ったままに全てを要約することは不可能で、知識をコンパクトに持ち歩こうと思ったら、どうしても取捨選択を行う必要に迫られる。</p>

<p>知識の削除を目指したその時点で、その人の態度には偏りが生まれる。知識を身につけること、それを持ち歩き、実用できるということは、「内科という全部」に対して自分なりの偏見を身につけることに等しい。</p>

<h2>偏見で教科書を「引く」</h2>

<p>無重力空間では歩けない。人間は、骨格という制約に、さらに「重力」と「地面」という制約を加えることで、歩行という動作を生成している。人間は歩くのではなく、そうした制約に「歩かされている」。</p>

<p>学習における偏見の獲得も、重力や床、あるいは骨格のような制約の再発明であるとも言える。制約を獲得することで、ようやくその人は、莫大な情報を「学ぶ」ことができるようになる。</p>

<p>情報に「溺れる」ことと、情報を「泳ぐ」こととでは意味が異なる。偏見を持たずに情報と接することは、情報に溺れることに等しい。溺れた結果として、読者は自分の意図を超えた、どこか素晴らしい地平にたどり着けるかもしれないけれど、溺れた人はたいていそこから動けないし、溺れた結果として、致死的なダメージを受けてしまうことだってある。「泳ぐ」ことは、「溺れる」ことで出会えたかもしれない何かを、最初から切り捨てることでもある。これは機会を放棄する態度でもあるけれど、泳いだ人は比較的高い確率で、泳がないと到達できない別の地平にたどり着く。</p>

<p>泳ぎと同様、制約もあらかじめ自分で用意しないと前に進めない。</p>

<p>参考書を読むときには、自分はこの本から何を「学ばない」のか、という態度をあらかじめ決めておくことで、読書の速度を向上できる。道徳的には、偏りのない態度で知識に接するほうが正しいけれど、これを目指すと溺れる。「何を学ぶのか」が戦術ならば、「何を切り捨てるのか」が戦略であって、偏りなく勤勉に、ひたすら勉強を続けた人は、戦略の不在に敗北することになる。</p>

<p>辞書を「読む」人は少なく、辞書は「引く」ものだと考える人は多い。辞書というものは、あらかじめ「これ」という目的があって開かれる本であって、読者はたいてい、「知らない単語の意味を知る」という明確な目的を持っているから、辞書を開いて溺れる人は少ないし、辞書を調べたら、調べた分だけ前に進める。</p>

<p>明確な目的と、身に着けた偏見でもって教科書に当たることで、辞書を引くようなやりかたで、教科書を引けるようになる。これは大切なことだと思う。</p>

<h2>「実用的な偏見」の作りかた</h2>

<p>若い人達が、もしも「総合的な内科」みたいなものを学びたいと思ったのなら、大体5年目ぐらいで内科の小冊子を作るぐらいの気持ちでメモ書きをまとめ、改良していくといい。</p>

<p>最初は市販されている研修医マニュアルでもいいし、できれば研修施設で指定されている、あるいは内製しているマニュアル本を基礎にするのがいい。それを読んで業務に当たると、たいていは様々な問題に突き当たる。</p>

<p>マニュアル本にはたとえば、「この疾患を見逃さないように」という記載が出てくる。「見逃さない」ためには何に気をつければいいのか、どういう検査を行えば見逃さないのか、書かれていないことも多い。それを上司に確認したり、あるいは調べたりしたら、それを書き加えていく。メモにはできれば、出典というか、「この言葉はこの教科書に書いてあった」と分かるような見出しを添えておくとあとが楽になる。</p>

<p>マニュアル本にはたとえば、「正確に行う」とか、「確実に○○が行われていることを確認する」といった記載も登場する。 「正確に行う」ためには何に気をつければいいのか、どこをメルクマールにすることで正しさは定義しうるのか、そこを正しく行えなかった場合に、どんな致死ルートが想定され、それを回避するためにはあらかじめ何を予期し、何を準備すればいいのか、それをまた上司に尋ね、教科書で調べ、メモに追記していく。</p>

<p>追記を繰り返していくことで、メモ書きからは曖昧な言葉が減っていく。「○○に気をつける」は「○○を除外診断するためにこの検査を提出する」といった言葉に置き換わる。「分かったつもり」の偏見は、改良が重ねられていくにつれ、身についた実用的なものになっていく。</p>

<h2>質問を受ける機会が大切</h2>

<p>曖昧な言葉を減らすのは案外に難しい。</p>

<p>曖昧な記載が行われた場所は、自身では「分かっている」つもりでいて、あまつさえ得意分野であるにもかかわらず、実は細かい検証を怠っている場所であったりもする。懸賞を怠っても業務には全く支障が出ない代わり、その分野では「適当にやってくれればいいから」という指示が飛ぶ。みんなが慣れていると、場の「適当」は実際に上手に動いて、検証の機会はますます遠のく。</p>

<p>他者からの質問は、勉強会や講演の品質を向上させる。「当たり前」を共有していない誰かからの質問は、マニュアル本から曖昧で便利な言葉の排除を求める。「それを当たり前と思っている自分自身」は、他人の目線で検証される。</p>

<p>同級生でやる勉強会は、そういう意味で役に立つ。定期的に各自がメモ書きを持ち寄っては、更新された差分を発表する。「ちゃんと」や「正しく」、あるいは「〇〇の可能性を必ず考慮する」といったずるい言い回しを使ったら、お互いにそれを指摘して発表から削除していく。指摘を受けた人は次回までの宿題として、その場所を曖昧でない言葉に置き換える義務が課される。</p>

<p>これを個人で続けるのは難しく、インターネット上でメモ書きの改良を行うことも、いろいろ試みたけれど自分には厳しかった。メモ書きの集積と改良、その先にある「実用的な偏見」を身につけるためには、研修病院の同級生で助け合うのが結局正しいような気がする。</p>

<p>現場で体験したことを自身のメモに照らし、足りなかったところを上司の言葉や教科書の記載で埋める。勉強会でお互いのメモを比較し、曖昧な表記を指摘することで偏見の改良を行う。改良された偏見でもって現場に当たり、「体験」と「偏見」との衝突を経ることで、また足りなかった何かが見つかる。衝突は、本来患者さんのためにあってはいけないことだけれど、研修期間なら、上司がバックアップしてくれる。</p>

<p>研修医の期間、こうしたサイクルを繰り返すことで、偏見は実用的なものになっていく。</p>

<h2>道具について</h2>

<p>メモ書きの基礎となるマニュアル本に加えて、やはり何か定評ある内科の教科書を持つべきだと思う。誰もが知っていて、「あの教科書なら」と誰もが納得してくれることが大事で、結局それは、ハリソンやセシルの原著になるような気がする。最近のはけっこう読みやすいし、幸いずいぶん安価になったから、やっぱり早い時期に買っておくべきだと思う。</p>

<p>メモを書きためるための道具が問題になってくる。</p>

<ul>
<li>文章の構造化が容易で、勉強会で役に立つメモをお互いに共有できないといけない</li>
<li>全てのメモにはそこに到達するための導線が欠かせない。お互いのメモを交換していくのなら、目次や索引の自動生成機能はどうしてもほしい</li>
<li>自分のメモ書きにおいて、どの分野をどのタイミングで更新したのか、勉強会では差分を提出する必要が生まれるから、バージョン管理システムとの相性がいいことも必要になってくる</li>
<li>メモ書きは印刷したり、ネットで公開したり、PDFを配信したり、様々なメディアとの親和性が求められる。</li>
</ul>

<p>自分はふだん LaTeX を用いているけれど、LaTeX かMarkdown ぐらいしか、いまのところこうした用途に使いやすいアプリケーションはちょっと思いつかない。</p>

<p>電子化の昨今、学習の態度もまた、これからいろいろ試してみるといいと思う。</p>
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		<title>「ちゃんと」できる人なんていない</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 02:28:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[過誤防止]]></category>

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		<description><![CDATA[あってはならない「確実に」という作業指示 &#8211; プリウスに見るゴムホースの「組み付け基準」  という記事が興味深かった。

「適切」は難しい

「適切に」判断したり、「正しく」組み付けたりすることは、特にそれが [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://t.co/VGYpPK4n">あってはならない「確実に」という作業指示 &#8211; プリウスに見るゴムホースの「組み付け基準」 </a> という記事が興味深かった。</p>

<h2>「適切」は難しい</h2>

<p>「適切に」判断したり、「正しく」組み付けたりすることは、特にそれが100% に近い再現を求められた場合には、とんでもなく難しい。</p>

<p>詳細なマニュアルを作成して、現場にそれを徹底したところで、大きく「適切に判断を行う」と書かれた項目が残っていたら、かならず誰かが間違える。</p>

<p>「適切」な判断や「正しい」組み付けを現場に実現しようと思ったら、マニュアル本から「適切」や「正しく」といった言葉を追放すればいい。便利な言葉が禁止されれば不便になって、マニュアルを書く人は頭を抱える。抱えた頭で手順を見直すと、「正しく」やらなくても正しい結果にしかなりようがない、本来そうあるべき手順にたどり着ける。</p>

<h2>困っている人は「正しく」やらない</h2>

<p>最近部屋を整理していたら、棚の奥から研修医時代のシステム手帳が出土した。</p>

<p>内科のメモを書きためていた当時、問題は山積みで、教科書に書かれた「適切な判断」を再現できるだけの能力が自分になくて、本当に困っていた。</p>

<p>全領域で困った結果、教科書に「低血糖を見逃すな」と記載された項目には「血糖を測れ」とメモを追記し、「○○病の可能性にも留意する必要がある」と書かれた項目には、提出すべき検査のルーチンにあらかじめそれを組み込み、正しくできなくても正しい結果が出力されるようなやりかたを、いくつか作ることができた。</p>

<p>自身の経験が積み重なる中で、知識の量は増えて、同時にメモ書きには、「正しく」とか「適切」、「○○病に気をつける」といった記載が増えた。</p>

<p>「どうにかしたい」という切実感は、経験とともにむしろ遠のいた。メモ書きは今でも続いて、リビジョンはそろそろ２００を超えて、改定を重ねるごとに記載される文章量は増えているけれど、こういうのはやっぱり、｢現場で今困っている人が、問題の解決に必要な道具を作る｣のが正解なのだろうと思う。</p>

<p>便利な何かが生まれても、それを「もっと正しく」改良しようと考えたそのときは、劣化が始まる瞬間でもある。</p>

<h2>「ちゃんと」はやめたほうがいい</h2>

<p>「ちゃんとやれば大丈夫」という道徳が強い場所で、ちゃんとできない場合を考えるのは難しい。</p>

<p>今はきっと減っているだろうけれど、「ちゃんと話を聞けば、患者さんは検査などしなくても全てを語ってくれる。不必要な検査は患者さんに余計な負担をかける」系の言説が昔は強くて、あれが怖くて嫌だった。素直に「怖い」と悲鳴をあげれば、今度は「ちゃんとやれば患者さんはきっと分かってくれる」と諭された。</p>

<p>安全と道徳とは、どうしても衝突が避けられない。安全を徹底しようと思ったら、まずは「人間はちゃんとやれない。事故が起きるような状況においては特に」というところから始めないと難しい。「飲み会の翌日は、初診の腹痛にCTと採血一式を出しても怒らない」と研修医に通達を出すような、そこまで不謹慎な状況を真面目に論じて見せないと、会議室は「ちゃんと」から自由になれない。</p>

<p>「ちゃんとやれば大丈夫」みたいな言葉の根拠が、「俺様は運がいい」である人は多い。「最近の若い奴らはだらしない。俺達の世代はもっと頑張り、ちゃんとやり、成果を掴んだ」というベテランの人たちはたしかに嘘入っていないのだけれど、その人達の同級生は、同じく頑張り、体を壊し、成果に到達する前に亡くなった。</p>

<p>能力は、再現の手法を示してみせることで、はじめてそれを他人に求めることができる。「ちゃんと」やって生き延びてきたベテランの人たちには、ぜひとも「ちゃんとを再現する方法」を残してほしいなと思う。</p>
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		<item>
		<title>自己紹介の戦略要素</title>
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		<pubDate>Thu, 26 Apr 2012 05:01:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[臨床研修]]></category>

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		<description><![CDATA[「私はこれが得意です」という自己紹介は、わかりやすい代わりに役に立たない。「これが得意」は戦術レベルの長所であって、戦略が見えてこない。何かが得意な人がいて、ならばその人はどの分野をの習得を諦めたのか、「私はこれを得意分 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「私はこれが得意です」という自己紹介は、わかりやすい代わりに役に立たない。「これが得意」は戦術レベルの長所であって、戦略が見えてこない。何かが得意な人がいて、ならばその人はどの分野をの習得を諦めたのか、「私はこれを得意分野にするために、代わりにこの分野を切り捨てました」という自己紹介が、その人の戦略を教えてくれる。</p>

<p>切り捨てた何かを説明できない人、あるいは「私は何も切り捨てるつもりはありません」と答える人は、局所の戦術こそ得意だけれど、長期的な戦略を持っていないか、示せない。誰かに物を教えてもらう際に、戦略を持っていない人に弟子入りすると、伸びた先には何もないから気をつけないといけない。</p>

<h2>家庭医の教科書を読んだ</h2>

<p>最近出版された「新総合診療医学」という教科書を読んだ。家庭医や、総合医を目指す若い人に向けて企画された教科書で、読んでみて勉強になったし、自分が知らなかった総合診療領域の記載がいくつもあって役立ったのだけれど、この教科書を通じて「家庭医的なるもの」がならば何なのか、やはりよく分からなかった。</p>

<p>総合診療や家庭医のような分野はまだまだ新しい領域で、だからこそ、その分野で活躍しているビッグネームの先生がたには、個人で一冊、その分野の参考書を書いてほしいなと思う。教科書を書くのは大変だし、手分けして作った教科書に比べれば、あるいは知識の抜けだってあるかもしれないけれど、「新総合診療医学」という教科書を書いた先生がたの間には、まだ「これだ」というその業界の形みたいなものが十分に共有されていないような印象を持った。</p>

<h2>短所を知るのは面倒くさい</h2>

<p>「全部頑張る」と宣言するのは容易だけれど、実際にやるのは難しい。明示的に、あるいは暗黙のうちに、大抵の人はどこか得意な分野を頑張って、そうでない分野を弱点として抱えることになるけれど、いざ振り返って、「自分はこの分野が弱い」と知るのは案外難しい。</p>

<p>弱いところは、全ての領域をまんべんなく振り返ってみないと分からない。「全て」はもちろん莫大で、たいていそれは面倒で、苦手な領域はもっと面倒な事になる。</p>

<p>自分が「苦手な」知識と、自分の戦略にとって「知らなくていい」知識とはよく似ていて、忙しいときほど間違えやすい。「これ」と決めた得意分野の知識を詰め込んでいる最中は忙しくて、勉強をしている時にはだから、「これは知らない」と「これはいらない」との区別はますます難しい。</p>

<p>きちんと勉強している人ほど、常に知識の吸収を怠らず、最新の情報に通じている人ほど、裏を返すと「自分にとっていらない知識」を設定しにくい。切り捨てた分野を持たない、それが説明できない人は「単なる勤勉な人」であって、その勤勉さを成果につなげることが、もしかしたら難しい。</p>

<h2>要約から個性が見える</h2>

<p>「一般内科」と「家庭医」、あるいは「総合診療医」は、外野が眺めても区別ができない。まだまだきっちりとした定義もないのだろうし、いろんな分野の先生がたが集まっている領域だから、得意分野を解説してもらうと、たぶん各自がぜんぜん違うことを語りはじめて収拾がつかなくなってしまう。</p>

<p>「ある業界の考えかた」というものは、得意分野を深く語ってもらうことよりも、むしろ広くて浅いあるひとかたまりの知識を、その人の立場から要約してもらうことでよく分かる。</p>

<p>たとえばどこかに「神経内科の知識に恐ろしく通じた消化器外科医」がいたとしても、その人に「研修医に向けた消化器外科の入門書を書いて下さい」とお願いしたら、神経内科の知識に関する記載は削除されるか、少なくとも重点的に語られる可能性は少ない。その人の得意不得意と、その人が所属する業界としての物の見かたは、一致しないことは珍しくない。</p>

<p>内科にはたとえば、「ハリソン内科学」という広くて浅い入門書があって、ハリソン内科の3600ページを、その科の立場で200ページ程度に要約してもらうと、「科としての物の見かた」が見えてくる。</p>

<p>要約というものは、お弁当を詰めるのにどこか似ている。「お弁当を作るのが得意な人」の中にだって、揚げ物が得意な人もいるだろうし、煮物が得意な人もいる。料理なんてやらないけれど、冷凍食品に関する知識なら誰にも負けない人だっているかもしれない。得意とするものは様々だけれど、同じ箱を使ってお弁当を作ったら、きっと誰もが「こうだろう」というステレオタイプに収斂する。どれだけそれが得意でも、お弁当箱いっぱいに揚げ物だけ詰め込む人は、揚げ物の名人ではあっても、「お弁当を作るのが上手な人」とは言えない。</p>

<p>「自分が何を知っているのか」を語れる人はたくさんいる。ところが「自分のような立場の人間が何を知るべきなのか」を語れる人はずっと少ない。</p>

<p>「こうだ」という物の見かたを共有できない組織には、戦術だけがあって戦略がない。「どうすればいいのか」という問いに答えられる人はたくさんいるかもしれないけれど、そこには「これからどうしたいのか」という問いに答えを出せる人がいない。</p>

<p>教科書もまた表現の手段であって、それを通じて「その科の目線」みたいなものを学べたら、読者としてはとても勉強になるのだけれど。</p>
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		<title>研修医の潰しかたを考えよう</title>
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		<pubDate>Thu, 12 Apr 2012 01:14:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[臨床研修]]></category>

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		<description><![CDATA[平和を実現したいのならば、戦争に関する学習が欠かせない。

平和を願うのは大切かもしれないけれど、戦争のやりかたを知らないと、攻める相手をどうすれば止められるのか、相手の軍隊に動きがあって、それに対してどう応対すれば、そ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>平和を実現したいのならば、戦争に関する学習が欠かせない。</p>

<p>平和を願うのは大切かもしれないけれど、戦争のやりかたを知らないと、攻める相手をどうすれば止められるのか、相手の軍隊に動きがあって、それに対してどう応対すれば、そこから戦争につながる道筋を断てるのか、問題解決のやりかたが発想できない。ひたすらに平和を願う人達は、平和を願った結果として、相手の軍隊に間違ったメッセージを送ってしまう。会話が成立しないから、コミュニケーションが破綻した結果として、学習抜きの平和祈願は、むしろ戦争を近づける。</p>

<h2>失敗を防ぐには陥れかたを考える</h2>

<p>「平和を欲するのなら戦争を学べ」の論理が正しいとして、たとえば失敗を防ごうと思ったのならば、「失敗させるやりかた」を研究するのがひとつの方法なのだと思う。</p>

<p>どうすれば失敗を防げるのかを考えるのは大事だけれど、どうやれば相手を陥れることができるのか、暗黙にプレッシャーをかけてみたり、あえて曖昧な指示を出してみたり、誰かにミスを誘発させるやりかた、一種のいじめの方法論みたいなものを大勢で真剣に考えることで、失敗はたぶん遠ざかる。</p>

<p>「どうやって防ぐのか」という立ち位置は、どうしても道徳から自由になれない。「みんなで頑張りましょう」を難しい言葉で言い換えたような結論に逆らうことは難しいし、「指差し確認」とか「ダブルチェック」みたいな、間違ってこそいないのに、失敗につながる緊急事態には必ず省略されてしまう手続きが、平時の手順を複雑にしてしまう。</p>

<h2>良心に基づいた邪悪を排除する</h2>

<p>防ぎかたではなく、攻めかたを考えることで、「何が悪いことなのか」が会議室に共有される。たとえば失敗を防いでいく上で、「現場に気合を入れる」ことは明らかな間違いだけれど、「気合」はたいてい良心に基づいて、防ぐ空気の会議室では、これを「悪い」と断じるのが難しい。</p>

<p>「誰かを陥れて、その人にミスを誘発するのにどんなやりかたが有効なのか」という議論は邪悪だけれど、これを行うことで、何をすればミスが増えるのか、どんな振る舞いが邪悪につながるものなのか、「悪いこと」の定義ができる。邪悪の認識が会議室に共有されて、ようやくたぶん、議論の場から「良心に基づいた邪悪」を排除することができるようになる。</p>

<p>職場に新人が入ってくる季節だけれど、研修医を潰さず育てようと思ったら、まずは病院の上司が集まって、研修医の潰しかたを学ぶのが正しい。</p>

<p>立場が弱い研修医には、いろんな人が、「良かれ」と思っていろんなやりかたを試みる。教える誰もが下級生を「きちんと」育てようという思いを持って、でも実際問題として、良かれと為された試みは、一定の確率で誰かを潰す。こうした結果はたぶん、「教えかた」こそ学ばれるけれど、「潰しかた」が共有されない現場の限界であって、教える人たちは、まず何よりも潰しかたに熟達しなくてはいけないのだと思う。</p>
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		<title>「なぜ?」 の効用</title>
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		<pubDate>Wed, 28 Mar 2012 02:42:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[コミュニケーション]]></category>

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		<description><![CDATA[従順な現場に支えられた組織は効率がいい。利益に向かって現場が自発的に「暴走」を行なって、あまつさえ自己責任で法を破ることも厭わないのなら、利益は勝手に増えていく。リーダーはメディアに向かって、きれいな理念を賢しげに語って [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>従順な現場に支えられた組織は効率がいい。利益に向かって現場が自発的に「暴走」を行なって、あまつさえ自己責任で法を破ることも厭わないのなら、利益は勝手に増えていく。リーダーはメディアに向かって、きれいな理念を賢しげに語ってみせるだけでいい。</p>

<h2>暴言の効果は少ない</h2>

<p>暴言で部下を従わせるやりかたや、あるいはみんなを集めてスローガンを叫ばせるようなやりかたは、暴力的な見た目に反して、実際の効果は少ない。 </p>

<p>「絶対にやれ! 」 なんて暴言を行使する上司は、現場の側からは「嫌な奴」に見える。「嫌な奴」の命令に心から従うのは難しい。明示的な悪役として振る舞う誰かの存在は、現場の空気を厳しくする一方で、一種の安全弁としての機能を提供する。</p>

<p>人間をとことん追い詰める、無理の限界をはるかに過ぎて、それでも働くことをやめられない、体を壊したり、亡くなってしまったりする領域に誰かを到達させるためには、暴言だけでは威力が足りない。そうした領域に誰かを追い詰めるために行使されるのは、「やれ! 」という命令ではなく、「なぜ?」という問いかけなのだと思う。</p>

<h2>「なぜ?」 は役に立つ</h2>

<p>「できない」という現場の声に、徹底的に「なぜ? 」を問う組織は、ときおり爆発的な成果をあげる。</p>

<p>「できない」という声に対して「やれ!」 と命じてしまうと、命じたその人が悪役になる。怒鳴っても結果がついてこなかったら、今度は悪役が責任者になる。現場に対して「なぜ? 」をたたみかけて、返答に詰まったことを「できる」の根拠にするやりかたは、次の「できない」が、現場の責任へとすりかわる。</p>

<p>「できない」という言葉に対して、徹底的に「なぜ?」を重ねる。「できる」ことを本人に発見してもらう。そんな空気を醸成すると、すべての「できない」は現場のせいになる。誰もが倒れるまで働くし、それが必要であれば、法も破ってくれる。全ては「現場の判断」で行われる。上司はそれを、大笑いしながら見下ろしていればいい。</p>

<p>ブラック企業はみんなでスローガンを叫ばせる。綺麗なスローガンは「なぜ? 」を問う根拠であって、「ブラック」と形容される組織では、あらゆる「できない」に「なぜ?」 が問われる。「仕方がない」の気分がその場から徹底的に排除されることが、ブラック企業をブラックにしているのだと思う。</p>

<h2>やさしいやりかたの怖さ</h2>

<p>できないと思っている誰かに対して、「なぜ?」を重ねて望ましい結果に誘導する、コーチング的な、「できることを自分で発見してもらう」やりかたは、見た目こそ優しげだけれど、道具としてはおっかない。</p>

<p>大昔の小学校には、「逆らったらもれなくビンタ」の怖い先生がいた。現代の先生がたは、子供に優しく「なぜ? 」を問う。「ビンタ」と「問いかけ」と、見た目が怖いのはビンタだけれど、道具の威力は「問いかけ」のほうが圧倒的に強力で、使いかたを間違えるととんでもない結果をもたらす。</p>

<p>穏やかそうな見た目の方法を駆使する誰かが、自分が今使っている道具の威力を自覚していないことは珍しくない。人も殺せる威力を持った道具が、案外無邪気に行使されていたりする。そういうのが恐ろしい。</p>

<h2>神様は便利</h2>

<p>コーチングを受けたスポーツ選手は、実際に成績が向上したりする。コーチングは単なる説得ではなく、その人の抑制を外すための方法だから、上手に使えば高い効果が期待できるけれど、外す場所を間違えるととんでもない方向に暴走する。</p>

<p>「なぜ?」 という問いかけを重ねると、その場から「仕方がない」という気分が放逐されていく。そうした空気に、「だって、仕方ないよね?」と水を差してやると、状況はリセットされて、場は健全な気分を取り戻す。ところがたぶん、水を差すのは大変で、空気に抗えるだけの勇気と知力、上司と拮抗できるだけの暴力とを持っていないと難しい。</p>

<p>「なぜ?」 を重ねるやりかたは強力だけれど、その威力が発揮される前提として、その場に過剰な理性を要求する。追い詰められた状況で、自身の内部に神様を持ってる人は、「信仰上の理由でそれを受け入れることはできない」というカードを切ることで、場の理性に拮抗できる。</p>

<p>理性を根拠にした問いかけに対する返答として、「信仰」という理不尽が導入されると、上司が更なる「なぜ?」 を重ねようと思ったら、「お前の信じる神はクソだ」と断じる必要に迫られる。問題は解決しないかもしれないけれど、「なぜ? 」の連鎖は大抵断たれる。</p>

<p>「なぜ?」 に対する安全装置として、自身の内部に「神様」的な理不尽を常に持っておくことは、きっと大切なことだと思う。</p>
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		<title>「ない」ことと「必要ない」こと</title>
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		<pubDate>Thu, 22 Mar 2012 01:22:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[小話]]></category>

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		<description><![CDATA[単なる自由には意味がない

自由というものは、不自由が作り込まれてはじめて意味を持つ。

飛べるようになった人間は、飛べない人間に比べればたしかに自由かもしれないけれど、「行く手を阻む壁」や「飛び越えられない谷」が存在し [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>単なる自由には意味がない</h2>

<p>自由というものは、不自由が作り込まれてはじめて意味を持つ。</p>

<p>飛べるようになった人間は、飛べない人間に比べればたしかに自由かもしれないけれど、「行く手を阻む壁」や「飛び越えられない谷」が存在しない現代社会なら、鳥人だってたぶん、電車に乗って移動する。「できる」だけでは足りなくて、それが切実な機能として要請されて、世界はようやく書き換わる。</p>

<p>あるべきものがない状態は不自由を産んで、それがどれだけきれいな機械であっても、ユーザーはどこかで妥協を感覚してしまう。</p>

<h2>ボタンのない機械は不便</h2>

<p>最近のタブレット端末にはボタンがついていない機種が多くて、ボタンだらけの携帯電話に比べれば、タブレットの佇まいはたしかにきれいなのだけれど、使っているとやっぱり、たまにボタンがほしくなる。単なる「ない」を「必要ない」に変えるためには、機械の側に、「それがいらない」機能を作り込む必要があって、今のタブレット端末は、まだまだ「不自由なボタン」から自由になっていないような気がする。</p>

<p>ボタンはたいてい、何らかの判断や、選択を行う際に必要になってくる。機械を持った人が「こんなことをしたい」と考えて、目当ての機能に紐づいたボタンを押す。選択を行う以上、ボタンの存在は必然であって、画面に設けられたソフトウェアボタンは、どうしてもどこか、「押せるボタン」の劣化コピーに思えてしまう。</p>

<p>「ボタンがない機械」が「ボタンの必要ない機械」になるためには、ユーザーを取り巻く状況から、選択や判断という行為それ自体を追放しないといけない。具体的にはたぶん、「画面を触ったらあらゆるアプリケーションが全部立ち上がる」ことが、「ボタンの必要ない機械」の正解なのだと思う。</p>

<h2>ボタンが必要ない機械</h2>

<p>それは「位置」であったり「時間」であったり、あるいは外からの入力であったり様々だけれど、人間の行動は、何らかの文脈にそって行われることが多くて、ある文脈で必要になる機能は、大抵の場合それほど多くない。たとえば自宅で安静にしているときに、タブレットに求められる機能はといえば、メール確認とブラウザ閲覧、Twitter やFaceBook の確認ぐらいがせいぜいだと思う。</p>

<p>使う機能が4つであるのなら、「自宅にいる」という状況に4つのアプリケーションを予め紐付けしておいて、「ユーザーが画面を触ったら、4つのアプリケーションが同時に立ち上がる」という設定を行うと、ユーザーが端末を使う際に、選択が発生する余地を追放できる。ユーガーが画面のどこかに指をおいたら、そこを中心に画面が4分割された状態で立ち上がり、それぞれの画面にそれぞれのアプリケーションが割り当てられる。そのまま指をずらせば、4分割された画面の中心がずれて、ある画面は大きく、ある画面は小さく表示され、ユーザーは選択を行うことなく、好きな機能を行き来できる。</p>

<p>「Tasker」 みたいな機能に、無駄にアプリを立ち上げるランチャーを組み合わせることでこうした機能が作れるのではないかと思う。アプリケーションが無駄にたくさん立ち上がる上に、その文脈に乗っからない機能については選択がいきなり面倒になるけれど、ボタンを持たない機械がボタンを持った機械を超えようと思ったら、何らかの手段で「必要ない」を獲得してほしい。</p>
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		<title>美談の受益者について</title>
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		<pubDate>Mon, 19 Mar 2012 02:49:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[小話]]></category>

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		<description><![CDATA[認知症の老人が紙幣の代わりにティッシュペーパーを出したときに、素晴らしい対応をしたレジ打ちの人がいたという記事 を読んだ。

ヘルパーの方と街を歩いていたおじいさんがハンバーガーショップに入り、会計の時に「紙幣」として取 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://t.co/kSgeNnK4">認知症の老人が紙幣の代わりにティッシュペーパーを出したときに、素晴らしい対応をしたレジ打ちの人がいたという記事</a> を読んだ。</p>

<p>ヘルパーの方と街を歩いていたおじいさんがハンバーガーショップに入り、会計の時に「紙幣」として取り出したものがティッシュペーパーだったのだと。</p>

<p>「それは紙幣ではありません」と応対すれば済むことだけれど、それをやると、認知症の人を傷つけてしまう。レジ打ちの人は気を効かせてくれて、「申し訳ありません。当店においては現在、こちらのお札はご利用できなくなっております」と応対してくれ、おじいさんは自身が傷つけられることもなく、間違いに気がつくことができたのだという。</p>

<p>これは間違いなく美談であって、レジ打ちの人は素晴らしい応対を行ったことにはなんの異論もないのだけれど、こんな話が「美談」として広まることには、個人的にはあまり同意できないな、とも思う。</p>

<h2>美談は現場を苦しめる</h2>

<p>レジ打ちの人がとっさに行った対応は素晴らしいけれど、こういう話が「美談」の形で上司から現場に語られてしまうと、今度はそれが、暗黙に「当たり前」の水準になってしまう。</p>

<p>「結果オーライ」は素晴らしいことだけれど、たまたま上手く行ったそうした事例を、そのまま美談として現場にアーカイブしていくと、賃金は変わらないくせに、仕事に対する要求水準だけが信じられない勢いで上昇していく。美談は結局、現場の首を締めて、今までだったら平均点であった振る舞いは落第点になり、偶然が成し遂げた素晴らしい成果が最低水準となり、そこで働く人たちは、常に「落第」し続けることになる。</p>

<h2>「よすぎる」人の脆弱性</h2>

<p>完全なワンマンアーミーならともかく、接遇はたいてい、チームで行われることになる。</p>

<p>チームの中に「悪い」応対を行った人がいれば、チーム全体の責任が問われることがしばしばあって、だからこそ現場ではマニュアルを作り、「悪い」メンバーを出さないように気をつける。</p>

<p>ところが接遇の問題を考えるときには、「悪い」メンバーも、「よすぎる」メンバーも、等しく接遇のリスクを生み出す。自分の判断で「良すぎた」成果をお客さんに提供するメンバーが出現してしまうと、お客さんの側から見れば、それは「当たり前」の水準が向上したのだ、と受け止められてしまう。クレームの頻度は、「悪い」メンバーが出現しても、「よすぎる」メンバーが出現しても等しく向上して、どちらにしても、結局チームは疲弊してしまう。</p>

<h2>その美談で得をするのは誰か</h2>

<p>新聞記事は、「素晴らしいレジ打ちの人がたまたまそこにいて、お客さんに素晴らしいサービスを提供した」という事例だけれど、これは同時に、「よすぎる」人材をチームに配置してしまった、マネージャーの失敗であるのだとも言える。</p>

<p>マネージャーは、「予期された結果」を出すためのマネージメントが期待されているわけで、「予期に反した素晴らしい結果」の素晴らしさと、オーバースペックな人材をそこに配置したマネージャーの無能とは、きちんと分けて語られないといけない。</p>

<p>「結果オーライ」が美談になることで、マネージャーの無能は隠蔽される。予想に反したいい結果を成果として享受する、「当たりくじだけ持って来い」という態度を上司に許せば、現場はますますきつくなる。</p>

<p>この事例が「いい話」であることはもちろん確かなのだけれど、「それを美談として共有することで、得する人は誰なのか」を、きちんと考えるべきだと思う。</p>
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		<title>書き出しは難しい</title>
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		<pubDate>Fri, 02 Mar 2012 04:41:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[小話]]></category>

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		<description><![CDATA[Twitter だと気軽に書ける何かをどれだけ積むことができても、ひとかたまりの「論」として、それをまとめるのが時々難しい。難しさの根っこにあるのは「書き出し」であって、アイデアの品質それ自体は、「論」の誕生確率それ自体 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Twitter だと気軽に書ける何かをどれだけ積むことができても、ひとかたまりの「論」として、それをまとめるのが時々難しい。難しさの根っこにあるのは「書き出し」であって、アイデアの品質それ自体は、「論」の誕生確率それ自体には、たぶんあんまり関係ない。</p>

<h2>規制の話が書きたかった</h2>

<p>最近何かで「コンテナハウス」が成功している記事を見た。コンテナハウスは、自分にとっては「成功している規制」に思えた。</p>

<p>あれをたとえば、「建物の形はコンテナ限定、その代わりコンテナを用いた住宅を作った場合には固定資産税を免除」みたいなルールを作って運用すれば、住宅業界や、あるいは家具や生活雑貨を作る業界に、業界の壁を越えたたくさんのアイデアが流入して、新しい市場が生まれるのではないかと考えた。</p>

<p>日常生活の中で「こうすればいいのに」と思うことは珍しくない。ニュースを見てそう思うこともあるし、どこかに出かけたり、何かを買ったりした際に何かが思い浮かぶこともある。きっかけがあって、アイデアが浮かぶ、「論」の流れが最初からできている事例を文章にまとめるのは容易だし、実際にそういう文章をたくさん書いてきた。</p>

<p>ところが何かの事例を見て、それとは全く無関係なことを思いついたり、あるいは全くの妄想、仮定を土台にしたアイデアを文章にしようと考えたときには、これがとても難しい。</p>

<p>ある程度の長さを持った、「論」としての体裁がとれるような書きかたをするときには、どうしても枕になる体験や事例が必要になる。導入無しの、事例からの導線を持たないアイデアがいきなりまくし立てられたところで、たいていの人は迷惑だし、実世界と接続する場所を持たないアイデアは、書いたところで何も生めない。</p>

<p>「いい規制や規格が新しい市場を生む」というアイデアを文章にまとめるとして、導入部分の事例として引くのならば、軽自動車の規格であったり、古くは公団住宅の規格が生まれたときの記録を調べるといいのかもしれない。公団住宅の設計図面を引いた人の逸話なんかは本になっていたし、規格という「単なる数字」を巡って、恐らくはミリ単位の折衝が繰り返されたのだろうけれど、事例が古くて調べるのは大変で、調べたとして、その業界の人達から見て、そうした規格が正味のところどうであったのか、自分にはもう分からない。</p>

<h2>Twitter は気軽</h2>

<p>Twitter のメモ書きには140字という規制があって、そこにたくさんの文章を書くわけにはいかない。そもそもそれができないからこそ、あの場所では前提無しの「こうすればいいのに」を、気軽に書ける。アイデアを気軽に書けることと、それを文章におこせることとは異なって、アイデアはたくさんあるのに、枕になる事例が手元にないからまとめられない、という事態が生じる。</p>

<p>「事例のストックを持っていること」は、文章を書く上ではとても大切なことになる。</p>

<p>小説を書ける人は少ないけれど、「こんな物語が作りたい」とか、「こんな設定を考えた」というアイデアを思いつける人はずっと多い。アイデアを物語として成立させるのに必要なのは、「アイデアの品質」ではなく「出だし」であって、物語の「出だし」が書ける人は、実は恐ろしく少ないのだろうと思う。</p>

<h2>書き出しは大事</h2>

<p>アイデアは、暖めるほどにつまらなくなる。何か「これだ」と思いついたら、それを一刻も早く何かの事例に結びつけて、「論」としてまとめておかないと、アイデアはすぐに実世界とのつながりを失ってしまう。つながりを失ったアイデアは、つるんと丸くなった、反論できない代わりにそこから何も生まれない、単なる「いい考え」になってしまう。</p>

<p>「いい考え」にはなんの価値もない。</p>

<p>「空気の読めない人」は、たいてい物事をよく考えて、アイデアをまじめに磨く。磨いた結果として、アイデアの価値は減じて、発せられるべきタイミングを失ったアイデアは、放り出されて場を凍らせる。「リア充」なんて呼ばれる人達の会話は軽薄かもしれないけれど、彼らの言葉は流れとしっかり接続されて、「ここ」というタイミングで発せられるから、聞きやすく、突っ込みどころがあって、話題が膨らんで途切れない。</p>

<p>おしゃべりが上手な人達は、アイデアを磨く代わりに、「出だし」の引き出しを増やすことに注力する。たくさんの文章を書ける人とそうでない人とを隔てているのは、持っているアイデアの量や品質ではなくて、日常生活を通じた体験を、「書き出しのストック」という形で保持できているのかどうかなのだと思う。</p>
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		<title>クレーム対処について</title>
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		<pubDate>Wed, 22 Feb 2012 03:14:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[小話]]></category>

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		<description><![CDATA[クレームに正しく対処するためには、そのクレームに対して「正しく恐れる」ことが大切になる。

恐れかたは、少なすぎても、多すぎても、トラブルを生む。正統なクレームに「毅然とした対処」を行うことはトラブルを生むけれど、ちょっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>クレームに正しく対処するためには、そのクレームに対して「正しく恐れる」ことが大切になる。</p>

<p>恐れかたは、少なすぎても、多すぎても、トラブルを生む。正統なクレームに「毅然とした対処」を行うことはトラブルを生むけれど、ちょっとしたクレームに対して大きすぎる反応を返すこともまた、同じぐらいに間違っている。クレームを恐れることは大切だけれど、必要な大きさだけ正しく恐れて、恐れた大きさに見合った対処を行わなくてはいけない。</p>

<h2>不快には種類がある</h2>

<p>同じ不快の表明であっても、それが主治医の人格や、病院での接遇に対する不快なのか、あるいは医師の技量や治療方針に対する不快なのかで、対応は異なってくる。</p>

<p>人格や接遇に対する不快が表明された場合には、まずはその不快に対して謝意を表明しないといけない。不快に対して最小限の妥協を遅滞なく行った後、「その状況を維持します」と表明するのが正しい対処になる。不快を突っぱねれば間違いなくトラブルになるし、こうした不快に対して大きく反応しすぎると、今度は治療ができなくなってしまう。</p>

<p>医師の技量や、治療の方針に対する不快が表明された場合には、一切の妥協してはいけない。病院は常に「ベストを尽くしている」ことが前提であって、ここで妥協を表明することは、病院側が「ベストを尽くしていなかった」と受け止められてしまう。病院側は常にベストを尽くしており、それに対して不快や不安が表明されたのなら、その人と交渉を続けることは間違いなくトラブルに結びつく。治療に対する不快が表明された際には、速やかに他の施設を当たってもらうように誘導しなくてはいけない。</p>

<p>病状の説明や、病気それ自体に関する説明は、丁寧に行わなくてはいけない。病気自体に関する説明は、それがどれだけ面倒であっても必ず有限で、丁寧に対処すればいつか終わる。際限もなく終わらない可能性にいらだってしまうと、相手を不快にしてしまう。たとえば肺炎の患者さんを5人受け持てば、肺炎の話を5回繰り返すことになるけれど、これは我慢して同じ話を丁寧に繰り返さなくてはいけない。</p>

<p>何らかの譲歩を求めて、「とりあえず不快を表明する」タイプの人は難しい。不満が無くても瑕疵を探索するし、瑕疵を見つければ譲歩を求める。どこに突っ込まれるのか予測できない。譲歩を求める相手に対して心がけることは、一刻も早い「妥協の表明」になる。「特別扱いしろ」という相手に対して、「特別扱いをさせていただきます」と速やかに表明してみせなくてはいけない。ごくわずかだけ下がってみせることで、相手の瑕疵追求の意志が和らぐ。下がりながら応対して、その後また元の場所に戻る。下がり続けてはいけない。追い詰められてしまう。</p>

<h2>知らないことには「知らない」と返答する</h2>

<p>自分の施設ではやっていない、あるいは不得意な治療について、患者さんやご家族から「この治療はできないのですか？」と問われた場合には、「できません」と答えなくてはいけない。「それはよくない治療法です」とか、「やってやれないことはありません」といった答えかたは危ない。</p>

<p>やっていないことに詳しい人は少ない。詳しくないことに対して、主治医が「専門家の言葉」としてあやふやな感想を述べてしまうと、言葉が一人歩きをはじめてしまう。もしも何かのトラブルに巻き込まれてしまうと、そうしたあやふやな感想が、「あの病院は患者を囲い込んで治療機会を奪った」といったトラブルの種になってしまう。</p>

<p>西洋医学の範囲を超えた、民間療法を強く希望する患者さんと話すときにも、注意すべきことは変わらない。自身がどれだけ西洋医学に詳しくても、対峙する民間療法がどれだけいい加減なものに見えても、知らないことに対して、白衣を着た人間があやふやな感想を述べてしまうと、将来的にトラブルを招く。「自分はそれに対してこう考える」を述べる際には、「これは個人としての感想ですが」のような前置きを入れて、医師としての立場を明示的に遮断してから「こうだと思います」を表明しなくてはいけない。</p>

<h2>リスクは近くで対処する</h2>

<p>相手を怖いと感覚した人間は、相手に「恐ろしさに見合った賢明さ」を期待してしまう。それがトラブルの種を生む。</p>

<p>原因がよく分からない患者さんを診療した主治医は、分からないその状況を、恐ろしいと感じる。「恐ろしいから」入院の決断をためらって、「患者さんは具合が悪くなったらまた病院に来てくれるだろう」と、具合の悪い相手にある種の賢明さを期待する。結果として患者さんは、「専門家である主治医」から帰宅を指示されて、専門家の言葉を信じて、状態が悪くなるまで自宅で我慢してしまう。</p>

<p>口うるさい患者さんのご家族が来院したときなどは、「あの人と喋るのは、資料がちゃんと揃った後日にしよう」という思いが頭をよぎる。口うるさいご家族は、同時にたぶん、もっとも大きな不安を抱えた人でもあって、不安に対する対処を怠った結果として、取り返しのつかないトラブルを招くことがある。</p>

<p>主治医が厄介な状況を感覚したそのときに、主治医の感覚はすでにいびつになっている。危ないと感覚したそのときには、だからむしろ危ない何かに近寄る態度で対処を行うと上手くいく。</p>

<h2>知識は大切</h2>

<p>シューティングゲームの攻略講座では、画面を埋め尽くす無数の敵弾を、奇数弾、偶数弾、固定弾、ランダム弾といった分類を行って、それぞれに対する対処が解説される。</p>

<p>弾幕を生き延びるためには、弾の種類をきちんと見分けることが大切になる。反射神経や動体視力に劣った人であっても、弾幕の種類をきちんと見分けることで、どれだけ派手な弾幕であっても、その中で注意を払うべき敵の弾は、実はそんなに多くないことに気がつくことができるようになる。</p>

<p>画面を埋め尽くす派手な弾幕に惑って、大きく避けてしまうと、壁際に追い詰められて自滅する。画面を埋め尽くす弾幕の中から、見るべき敵弾だけに注意を絞ることで、取るべき行動は自然に決まる。</p>

<p>相手の表明した不快がどんなものに属し、それがどんな性質を持つものなのか、理解して対応することで、極めて大きく恐ろしげに見えたクレームは、正味の大きさは決して大きなものではないことが分かる。</p>

<p>クレーム対処の名人は、相手を言い負かすようなことはしない。さっさと謝り、頭を下げつつ、その実その人の居場所や立場はあまり変わらない。名人のゲームリプレイ動画は、敵弾が自機だけを避けているかのように見え、自機はほとんど動かない。大きな敵が画面に入ると、弾を増やす前に倒されて、名人の画面には、案外弾数か少なくなったりもする。同じことなのだろうと思う。</p>
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		<item>
		<title>参考書を雑誌化してほしい</title>
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		<pubDate>Wed, 08 Feb 2012 08:28:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>medtoolz</dc:creator>
				<category><![CDATA[小話]]></category>

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		<description><![CDATA[これからの参考書が、電子書籍の形式を目指していくのなら、参考書本体を出版するだけでなく、その参考書に対する様々な識者の「突っ込み」を、雑誌の形で提供できたら、きっととても面白い。

電子書籍は便利

たとえば聖路加国際病 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>これからの参考書が、電子書籍の形式を目指していくのなら、参考書本体を出版するだけでなく、その参考書に対する様々な識者の「突っ込み」を、雑誌の形で提供できたら、きっととても面白い。</p>

<h2>電子書籍は便利</h2>

<p>たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルや、寺沢先生の「研修医当直御法度」みたいに、ある程度有名な、ユーザーの多い研修医向けのマニュアル本を、電子書籍として雑誌化してほしい。</p>

<p>原本を電子化して販売するのと同時に、編者の先生が、異なった施設で働くベテランの先生がたに、原本に対する「添削」を依頼する。販売されている原本データに対して、いろんな先生がたの「俺ならこうやるね」や、「この疾患の鑑別診断なら、これが入っていないとおかしい」みたいな突っ込みを、月替わりで読むことができたら、それはきっと面白い。</p>

<p>紙のメディアでそれをやると、「時刻表」になってしまう。毎月のように改訂された、先月と少しだけ異なるだけのマニュアル本が、本棚に大量に並ぶことになる。同じ本が12ヶ月分、本棚に12冊並んだら単なる冗談だけれど、「本棚に並べようがない」という電子書籍の欠陥は、「同じ本の様々なマイナーバージョンをいくらでも重ねられる」利点でもあって、これは活かさないともったいない。</p>

<h2>専門家の目線は面白い</h2>

<p>昔マニュアル本を作ったときには、同じ分野を記述した参考書を、何冊か並行して読むことが多かった。いくつかの本を読むことで獲得した、ある分野に関する「こうだろう」という偏見は、それをまとめて本にするときに、ベテランの先生がたにレビューを依頼する段になって、しばしば「それは違うんじゃないかな」と真っ向から否定されたりした。これはすばらしく面白い体験だった。</p>

<p>売れている、定評のある書籍というものは、それを読むことで納得が得られるからこそ、読者が「こうだろう」という一定の態度を獲得しやすい。読者によって共有されたそうした偏見は、「その月の突っ込み担当」に選ばれたベテランの目線とぶつかることになる。偏見を獲得することは、その分野に対する暫定的なベテランになることでもあって、「単なる読者」として専門家の意見を読むよりも、「暫定的なベテラン」としてそうした意見とぶつかったほうが、体験として何倍も面白く、恐らくは勉強になるのではないかと思う。</p>

<p>自身の考えかたを誰かに添削されたり、突っ込まれたりすることは、同時にその誰かを理解することにもつながる。権威が自ら文章を手がけることと、すでに出版された本に突っ込むことと、テキストの量でいったら前者のほうが圧倒的に多くても、読者はもしかしたら、後者を通じるほうが、その権威の考えかたを、より近く理解できる可能性がある。</p>

<h2>大人の世界の大人げない争い</h2>

<p>ずいぶん昔、大人数を集めた血管内治療のライブデモンストレーションがあって、手技も佳境にさしかかりつつ、難しい症例に苦心している術者の先生をねぎらいながら、司会者がパネリストの先生に意見を求めた。術者の先生も、パネリストの先生も、重鎮と言っていいベテランだったけれど、パネリストの先生は、「私だったら、デバイスを全部引き上げて、一からやり直しますね」なんて身も蓋もない突っ込みを入れて、会場が沸いた。昔はいろいろ熱かった。</p>

<p>あの空気で手技を続けたデモンストレーターの先生の胆力も相当なものだし、何よりもお互いの信頼がなければ、「身も蓋もない空気」というものは作ることができないのだろうけれど、何かを学んで習得していく上で、そうした空気はとても大切なものになる。</p>

<p>学術方面の参考書はそういう意味で、まだまだ楽しんで読まれる余地がたくさんあって、同時にたぶん、もっと「楽しむ」ことで、学習はずっと効率的なものになる。</p>

<p>ある参考書を学んでいく中で、読者にはもしかしたら、作者の考えかたをそのまま丸呑みしていいものなのかどうか、しばしば判断できない場面が訪れる。突っ込みの入った参考書、あるいは突っ込む人が毎月変わる、「最新の突っ込み」が出版社から配信される参考書は、学習という体験を、より深いものにしてくれる。</p>

<p>たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルが電子化されて、「聖路加のマニュアルを沖縄中部病院的な目線で読む」回があったりしたら、大笑いしながら勉強できるのではないかと思う。大人の世界だから、真っ正面からのたたき合いにこそならないだろうけれど、文末のまとめかたや、行間のちょっとした表現、あるいは「書けなかったであろうこと」を想像しながら読む参考書は、きっと面白い。</p>

<h2>本からはまだまだお金が汲み出せる</h2>

<p>「識者同士のプロレス」は、常に面白いコンテンツとなる。ネット空間にはところが、権威がつながる機会こそ多いけれど、「リング」や「観客席」に相当する元テキストが全然足りない。特に学術参考書は、やはり出版されているものを購入しないと始まらないことが多くて、だからこそ、本は本として電子流通させつつ、定期的に「行間のコンテンツ」が入れ替わるようなやりかたで、参考書を雑誌化してほしい。</p>

<p>プログラマの人達は、お互い使い慣れた言語を叩き合う。ゲハ板の人達は、お互いが信じたゲーム機を持っていて、相手のハードに激しく突っ込む。争いは何年も前から続いていて、言語もゲーム機も、素人目には変わることなくそこにあって、それなのに、あの人達の突っ込みあいは、部外者が眺めても何年でも楽しめる。他の業界であれをやらないのは、いかにももったいない。</p>

<p>医学教科書は改訂される。昔と今とで記載の異なる場所はたくさんあるにせよ、作者が同じなら、根っこの考えかたはそんなに変わらない。考えかたの異なった誰かは、別の考えかたに基づいて、同じ分野で別の教科書を書いたりもする。</p>

<p>同じ場所に、異なった考えかたに基づく何かが複数あったら、その状況はすでにコンテンツの母であると言える。準備は万全、リングはそこにあって、レスラーはリングに上がって久しく、お互いずっとウォームアップを続けながら、戦いの準備はずっと昔からできていて、観客はそれを楽しみに取り囲んでいるのに、ゴングを鳴らす人は誰もいない。</p>

<p>本はきっと、まだまだいくらでも面白くなる余地がある。</p>
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