2009.08.31
2009.08.30
メールアドレス漏れ問題の追記
自分のメールボックス、具体的にはGmail の「アーカイブ」を調べなおしました。
電話をくれた、今回メールアドレスが表示された方は、うちのサイトに対する感想メールを、2年ぐらい前に下さった方でした。
その人とは「ありがとうございました」みたいな時候の挨拶を返したきりで、その後のやりとりはなく、 もちろんお互いの携帯電話番号など交換していないのですが、要するに今回起きたことというのは、 たまたま相手がうちの電話に間違い電話をかけて、その相手が、偶然にも以前、 その人がメールを出したことのある人間だったという、極めてまれな事例を見ていた可能性が高そうです。
Google 側に、「Gmail を使っていて、その人にメールを送ったことがあり、さらに相手がAndroid 携帯を使っていた場合、Google は送信ユーザーのGmail アドレスで受信相手のメールボックスを調べ、一致があった場合にそれを表示する」 というルールが存在するなら、今回のケースに関しては、説明がつくような気がします。
お騒がせして申し訳ありませんでした。
その代わり、たとえば自分のメールアドレスは昔からの公開アドレスであり、今の時点ですでに3000人以上、 もはやGmail のページを見ても、アーカイブには「数千人」としか表示されない数のメールがたまっており、 うちのメールアドレスにメールをくれた数千人の誰かが間違い電話を自分にかけると、 恐らくはその人の電話番号と一緒に、その人のハンドルネーム、 Gmail アドレスが表示されることになるのだと思います。
これはこれで、たぶん問題なんじゃないかと思うのですが。。
2009.08.29
間違え電話に相手の本名とGmail アドレスがついてきた
追記
表示されていたGmail アドレスを調べたところ、どうやらうちのサイトに2年ほど前にメールを下さった方のようでした。そのときにはもちろん、電話番号のやりとりなどは行っていないので、今回のケースというのは、たまたま自分のGmail がメールアドレスを保管していたところに、その方が偶然、間違い電話をかけてきた、というところが真相のようです。
お騒がせして申し訳ありませんでした。
携帯電話のことは何一つ分からないので、とりあえずおきたことだけ。
スマートフォンを買った
ごく最近、HT-03A という、Docomo のGoogle 携帯電話を買った。
それまで6年間ぐらい使っていたのは、カメラもi モードも使えない機種だったから、 ここ数年間の携帯電話がどんな具合になっているのか、自分はまず、そのへんを全く理解できていない。
間違え電話が来た
昨日の夕方頃、知らない携帯電話からの着信があった。もたもたしてたらベル2回ぐらいで切れて、 結局その電話は取れなかった。
普段仕事に使っている番号は、全部携帯電話の「連絡先」に入れてあるから、 その電話番号はとりあえず、「知らない人」からだとは分かった。
HT-03A の着信履歴にはその電話番号が残っていて、そこにはなぜか、 発信者の名前がカタカナ表記で書かれていて、その人のGmail アドレスが一緒に表示されていた。
最初はSpam メールと同じようなものだろうと思った。そこに返信したら、マンションの勧誘電話につながるような。
添付されてきたGmai アドレスをWeb で検索すると、普通の人みたいだった。ハンドルネームを使って、 blog を3つ書いている人で、少なくとも「発信者」として記載された名前はそこには載っていなかったから、 その人はたぶん、普段は匿名のつもりで日記を書いているのだと思う。
日記では、読者の人と普通にコミュニケーションが行われているようで、何か売ってるとか、 変なセミナーの勧誘かけてるとか、そういう雰囲気ではなかった。日記をちょっと掘ってみたら、 相手がどんな人で、どこに住んでいるのか分かったけれど、それはたぶん、 相手にとっては本意でないのだと思う。プライバシーをだだ漏れにするような趣味の人には思えなかった。
相手にかけ直さなかったし、以降その人から電話は来ていないから、起きたことはここまで。
相手がどんな携帯電話を使っていて、どんなGmail の設定をしていたのかは分からない。 相手の日記から写真を何枚かダウンロードしておけば、そこから携帯電話の機種が割れたかもしれないんだけれど、 アドレスを消してしまった。
以下邪推
たぶん間違い電話をかけてきた人が、Gmail の設定か、あるいは携帯電話の設定をなにかしくじっていて、 恐らくはその人がHT-03A を持っている人に電話をすると、その人のメールアドレスと本名が、 自動的にばらまかれているのだと思う。特殊な例外ならいいんだけれど、よく起こりうることなら怖い。
携帯電話とGmail とがセットになっているから、相手の人も、たぶんHT-03Aとか、iPhone みたいな インターネットにつなげられる電話を使っていると思うんだけれど、どこをどう設定したら、 電話番号と一緒にメールアドレスが送られるのか、それがよく分からない。
Gmail は、ハンドルネームとパスワードを適当に設定するだけで使えるようになるから、 「本名」なんてなくても大丈夫だし、アカウントを取るときにも、名前の記入は要求されないんだけれど、 Google はどういうやりかたをしているのか、何かを「本名」として記録しているみたい。
自分はふだん、Gmail しか使っていない。Google には、medtoolz というハンドルネームと、 パスワードしか送ってないはずだし、手続きをするときにも、「名前を書いて下さい」とか 請求されたことは一度もないのに、「Google カレンダー」というサービスを同じアカウントで利用したときには、 なぜか自分の本名が、微妙に間違ったローマ字表記で入っていた。
Gmail というか、Google には「Google アカウント 」という機能があって、Gmali を設定すると、勝手にアカウントが割り振られて、それが「公開」になっていると、 どうもメールアドレスが一緒に送られるんじゃないのか、なんて意見をいただいた。
自分のアカウントは「非公開」になっていたし、Gmail を送るときにはアカウントネームでなく、 medtoolz のハンドルネームになっていたから大丈夫だと思うんだけれど、 Google のサービスは、どうもこのあたり得体が知れない。
何がおきたのか、どうすれば安全なのか、誰か教えて下さい。。
2009.08.27
一眼レフで猿になる
写真には正直全く興味がなくて、今までネットに公開していたわんこの写真自体、 ほとんどは奥さんが撮ったものだった。
この5年間ぐらい、うちではずっと、パナソニックのLUMIX という、 たしか6万円ぐらいのコンパクトデジカメを使っていた。そこそこいい値段がしたし、 レンズもそこそこ明るかったものだから、性能的には全く不満がなかった。
アナログ写真じゃないんだから、デジタルの一眼レフというのは、どこか欺瞞だと思っていた。 信号を電子的に分割して表示すれば、わざわざファインダーを別に作る必要なんてないんだから、 可動式のミラーを内蔵させる仕組みというのは、あれは安い中身を顧客に高く売りつけるための、 メーカーの方便なんだと考えていた。
5年も使うと、カメラはさすがにくたびれてきて、近所の電気屋さんで安くなっていた、 キャノンの一番安いデジタル一眼レフカメラを買うことにした。病院から帰って箱開けて、 その日の夜、布団に入る前までのせいぜい3時間ぐらいの間に、気がついたら100枚以上の写真を撮っていた。
人が猿になる
「デジタル一眼レフを買ったとたんに猿みたいにシャッター押したくなる」現象に、 はたして再現性があるのかどうかは分からないけれど、それに夢中になったことがない人が見れば本当にどうでもいいことに、時々人は、猿みたいにのめり込む。
一眼レフカメラのファインダーは、懐古趣味の光学機器だとばかり思っていたんだけれど、 「レンズ越しの遅延がゼロ」という状況を初めて体験して、行動は大きく変わった。
今まで使っていたデジカメの液晶ディスプレイだって、遅延はせいぜいコンマ秒オーダーだと思うんだけれど、 犬はよく動いて、「ここ」という瞬間にシャッターを切ろうとすると、ごくわずかな遅延が邪魔をして、 なかなかいいタイミングで写真が撮れなかった。
ファインダー越しにのぞいたわんこの顔は「遅延ゼロ」で、「ここ」というその瞬間にシャッターを切ると、 まさに今見た風景が、そこにうつっていた。「シャッター押したら見たものが撮れる」というのが、 こんなに快適とは想像できなかったものだから、気がついたら猿みたいにシャッターを連射していた。
たくさん撮るには快適さが必要
うちから車で1時間ぐらいの場所にドッグカフェがあって、予約をすると、プロのカメラマンが犬の撮影してくれる。
予約が必要だから頼んだことはないんだけれど、説明書きには、「2時間で1000枚ぐらい撮る」のだと書かれていた。 とにかくたくさんの写真を撮って、あとから飼い主さんと写真を選んで、100枚ぐらいを譲ってくれるらしい。 きれいな写真を撮るにはやっぱり数が大切で、被写体が人間だろうが動物だろうが、たぶん同じ。
以前から、だからカメラを持つときには、とにかく数を撮るように、たくさんシャッターを切るように心がけては いたんだけれど、液晶ディスプレイを見ながらだと、「ここ」という瞬間からのごくわずかなずれが、 シャッターを切ろうと思っても、なかなか押させてくれなかった。
ただ「ボタンを押す」という、ただそれだけの行為においてもまた、快適さというものが欠かせない。 ユーザーの感覚に訴えて、行動それ自体を変えるためには、エンジニアなら「誤差」として切り捨てるような、 ごくわずかな変化、改良みたいなものが、たぶん大きな差として効いてくるのだと思う。
応用
「見たものがその瞬間撮れる」みたいな、エンジニアがしばしば「誤差」として片付ける領域の気持ちよさというのは、ここを追求すると「人が猿になる」現象が起きて、いろいろ面白いことになる。
- 恐らくはAmazon みたいな通販サイトも、すでにわずかになっている遅延をさらに減らせれば、 減らしただけ、売り上げが伸びたり、あるいはユーザーの行動が、 わずかな改良に対して大きく変革する瞬間が出現するような気がする
- パチンコ屋さんなんかはたぶん、たとえばチューリップに玉が落ちて、玉をはじいているお客さんが「当たった」と知覚したその瞬間と、台の下から玉がジャラジャラ落ちてくるまでの時間とを、コンマ秒単位で調整すると、たぶん「コンマ秒」の変化と、そのパチンコの気持ちよさとの間に、何かの相関関係が生まれる
- 今のパチンコは電子制御だから、「遅延ゼロ」とか、あるいは「マイナス遅延」、チューリップを玉が通過したその瞬間から「当たり」体験が始まるような調整ができるだろうから、たぶんどこかに、顧客が「猿」に変貌して、お財布が空っぽになるまでお金をつぎ込むような、そういう領域があるのだと思う
- ゲームセンターのゲームは、「楽しむ」という意味では間違いなくパチンコ以上なのに、それがどうしてだかお金に結びついていない。つまるところ顧客という生き物は、「楽しむ」ためにお金を支払っているようでいて、彼らはもしかしたら、本来的な意味での「楽しみ」なんて、最初から求めていないのだと思う
「判断」は、人を人のままに止めてしまう。「人の楽しみ」をどれだけ洗練させたところで、たぶん「猿の快適感」にはかなわない。もっと単純な、判断というより「作業」に近い行動をと、それに対する反応が、遅延なしで返ってくることが、 たぶん原始的な快適感を生む
「やりたいこと」と「実際にやられたこと」との距離を近づければ近づけるほど、その行為が原始的な気持ちよさみたいなものを生むし、個人の努力みたいなものが、それを近づけるゲームに貢献できる仕組みが作れれば、人は猿になる。
一眼レフカメラにあってコンパクトデジカメにない、たぶんパチンコ屋さんにあってゲームセンターにない、もしかしたらオンラインRPGにはちょっぴりある「何か」というものが、人を猿に変化させる要素であって、それを獲得できたプロダクトというのは、形を変えずに長くそこに止まれるのだと思う。
写真
以下、うちのわんこの写真。大きくなった。
2009.08.26
社会説得の考えかた
政治家の、小沢一郎の選挙に対する考えかたを読んで思ったこと。
川上から攻める
- 小沢一郎の目指したやりかたというのは、田中角栄が昔やっていたことをそのまんま引き継いでいるのだな、と思う。小沢一郎が「若手」だった頃、田中角栄は小沢を評して「頭は切れるが目線が高すぎる」なんて評して、今たぶん、小沢一郎が「大人」になって、同じようなことを、若手に諭す立場になったんだろう
- 「川上から攻める」のが小沢流のやりかた。川上というのは本来、いい田んぼがたくさんある場所で、古い人が住んでいる地域。小沢一郎が町を落としに行くときには、駅前みたいに目立つ場所でなく、その土地の古い人、子供でなく、親御さんたちの暮らしている、川上の集落から始めるんだそうだ
- このへんは、「川上」さんだとか「上田」さん、あるいは「大林」さんとか、そういう名字の多い場所は古い場所だとか、たぶんローカルな地政学みたいなものが、伝統としてあるんだと思う
- 田中角栄は大昔、握手3万回、辻説法3000回を最低必要な数として、若手議員に命じていた。自らが歩いて、そこに出向くやりかたは、それこそ若手時代の小沢が不得手で、同じ頃、「鈍牛」なんて言われた小渕元首相なんかはこれを地道にこなして、総理になった
- このあたりを無精して、「政策」だけ語って人を見ないと、足下がふらついて、まともな政治家ができないんだと。今の小沢一郎は、若手にこんなことを諭すらしいんだけれど、当の小沢が、若手の頃には同じ誤謬に苦しんで、「切れる」なんて言われていたのに、ついに総理に手が届かなかった
政策より人を売る
- 大手メディアを信じない、地域メディアの浸透力と重視するやりかた、政策よりも、何よりも「人」を売るやりかたというのは、実は小沢一郎と田中角栄と、たぶん小泉元首相も、つまるところは同じやりかただったのだと思う
- 小泉元首相の「ワンフレーズ」というのは、あれを聞いたマスメディアと、国民と、出てくる情報があれしかないから、あれをそのまま報道するしかない。情報が少ないということは、だから誰もあの人の「策」を論じることができなくて、小泉元首相はだから、自分の「顔」を担保に、国民に、ひたすら「信じてくれ」とだけ叫んでいたような気がする
- 小泉政治というのは「分かりやすさ」を売っていたけれど、分かりやすさと、情報の少なさとはしばしばイコールで、あれはだから「政策重視」のやりかたでなく、策は横に置いて、とにかく「顔」と「印象」で勝負を仕掛けた、田中角栄の流儀を現代風にアレンジしたやりかただったんだと思う
小さくて強力な支持母体を作る
- 何があっても、どんな政策をぶち上げても、ぶれずに自分の「顔」を信じてくれる集団、結びつきの強い、どういう状況でも力を貸してくれる集団を味方につけて、そこを足場に、人と人との絆が弱い、都市部に攻めていくのが政治の常道らしい
- 小沢一郎は岩手だし、福田首相や小渕総理は群馬、田中角栄は新潟、麻生総理も福岡、鳩兄弟も、たしか地方の人。みんな自分の地盤、小さいけれど強力な足場を持って、そこから全国に攻め入っている
- 都市型政治家と言われた小泉元首相にしてからが、あの人の地盤である横須賀という場所は、それでも神奈川県の中では比較的閉ざされたというか、都市っっぽくない、山っぽい、川上っぽい場所であると思う
- 田中角栄が、あるいは池田大作が、毛沢東が、それぞれ多くの人の支持を得たい、と考えに考え抜いたときに、みんなが同じやりかた、「農村から都市を攻める」やりかたにたどりついた
- 本当の意味での「都市の政治家」は、たぶん石原慎太郎閣下なんだろうけれど、石原軍団という、あれだけ強力な飛び道具を使っても、国会議員時代の石原慎太郎は今ひとつぱっとしなかった
- どれだけたくさんの支持者がいても、東京の人たちは多様すぎて、「顔」を無批判に信じるような態度は取らない。石原閣下はだからこそ、骨の太い発言、世論にあえて挑戦するような言葉を出すことで存在感を示す、政治の主流に乗っかるために必要な「一歩」を、国会議員時代には踏み出せなかったんだろうと思う
都市のどこかに農村を見出す
- 個人の説得を通じて社会の説得を試みる、政治家とか、宗教の人たちは、最初にだから、人間同士の絆が強い場所に入り込んで、そこに作り上げた強力な支持母体を原動力にして、キャズムの跳躍を試みた
- 日本赤軍の人たちは、このへんを間違えて、「要するに山に入ればいいんだろ」なんて、人のいない山にこもって革命目指したから、煮詰まって、自壊したんだろう
- 選挙ゲームというか、社会説得ゲームの必勝法は昔から同じといえば同じで、自民がずっとそれをやって、公明がそれに連なって、今度は民主がそれを継いだ。必勝法は一緒なのに、どうして自民が吹き飛んだのか、そのへんがよく分からない
- 毛沢東流の「農村から都市を攻めよ」というやりかたは、現代においても、そのまま通用する
- あるいはたぶん、「都市という場所のどこかに農村的な場所を見いだした者」が、都市型の選挙を制するんだと思う
2009.08.22
ゲームとジレンマ
ゲームとは
問題の中心にジレンマがあって、参加者が、自らの選択を通じてジレンマの解消を試みるとき、その状況は「ゲーム」であると言える。
ゲームにはルールがある。ルールとはジレンマの設計であって、よくできたルールは、 ジレンマの観察が容易で、「誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる」状況を内包している。
ジレンマ解消の先にあるもの
- ゲームのルールがルールとして機能している時期、ジレンマに対する最適解がまだ見つかっていない時期のゲームは楽しい。 多様な戦略が提案されて、その多くは失敗するけれど、全ての失敗もまた、経験として参加者に蓄積される。試行のコストは低く、 失敗しても、失うものは少ない
- ルールの中心に見えていたジレンマが解消されたそのとたん、ゲームはいきなり地獄になる。多様性を競った時代は終わり、 定番となったある戦略に、全ての参加者が収斂していく。アイデアの価値は減り、むしろグラム1000万円の素材を買うのに、 どれだけのコストをそこにつぎ込めるのか、資金力、体力の勝負になっていく
- シトロエンと三菱が争っていたパリダカールラリーでは、「速い自動車」という漠然としたテーマの中から、 「とにかく大きくて丈夫な車を、砂漠の真ん中をまっすぐ走らせれば速い」という解答に行き着いて、 車の構造はむしろシンプルになった。その代わり、たとえば「ジャッキ」みたいな走行には関係ないパーツがチタン製に変更されたり、 地味でお金のかかる軽量化競争が始まった
- 「カーボンボディ」という解答が発見されて以降の鳥人間コンテストは、チームごとの差違が、素人目には分かりにくくなった。 かつて6輪タイレルが走ってたF1は、ウィングカーやフラットボトムが発見されて以降、レギュレーションの変更もあって、 どのチームも同じようなデザインへと収斂していった
- それが「本当の解答」でなかったのだとしても、恐らくは定番の戦略が生まれると、それを外すリスクや、失うコストが大きすぎて、 競合者は違った戦略をとれなくなってしまう。バイオ系の学科が、ひたすらピペットを動かす実験しかできなくなったのも、 たぶん「ゲノムの新発見で論文を書く」という、業界なりの勝利方程式みたいなものが確立してしまって、どのラボも、他のやりかたが できなくなってしまったからなんだと思う
- 心カテなんかだと、「膨らませると血管が広がるけれど再狭窄しやすくなる」というジレンマがあった。風船を暖めたり、逆に冷やしたり、 放射線当てたり、血管削ったり、いろいろ試みられる中、薬物溶出ステントというジレンマ解消の技術が生まれて、アイデアが一気に収斂した
- 今だと内視鏡による腫瘍切除の分野が、毎月のように新しいナイフが発表されたりして、アイデアがあふれている状態。あと数年して、 偉い先生が「ガイドライン」を作ったら、きっと同じやりかたに収斂するような気がする
ジレンマが解消されて洗練が始まる
- 恐らくは洗練というものは、 ジレンマが不可視化していく過程なのだと思う
- 最初の段階、大きなジレンマが解消されたあとは、そのゲームは、外野からは地獄の匍匐前進競争にしか見えなくなる。その状況は、 最前線で頑張っている参加者にしてみれば、やっぱりそこに別のジレンマが見えている。ところがそれは、ゲームに参加していない素人からは 見えないものだから、参加者全員が同じ方向に、体力を削りながらじりじり進んでいるようにしかうつらない
- 外野にしてみれば、最初のジレンマが解消されて以降のゲームは、理解できないからつまらない。その代わりたぶん、 ルールからジレンマが追放されて、多様なアイデアが、地獄の収斂を経て、競争が、腕力オンリーの匍蔔前進になったときからが、 その技術の本当の進歩が始まるのだと思う
- 蒸気と電気とガソリンが競ってた昔の自動車業界は、フォードが「ガソリン車を大量生産して安価に供給」という 勝利方程式を生み出して、この方向に収斂した。「タイヤ4つのガソリン車」という意味では、T型フォードと最新のスカイラインGTR と、 本質的な差違はないけれど、走らせてみればもちろん、フォードはGTRに追いつけない
ゲームデザインの失敗は難易度で代償できない
- ゲームのデザインと、ジレンマのデザインというのは等価であって、ジレンマが何らかの手段で解消されたり、 あるいはジレンマのデザインに失敗すると、もはやそれはゲームでなくなってしまう
- ジレンマのないデザインに「難易度」を導入したところで、それはやっぱりゲームにならない
- 「内科や外科から人が逃げていく」だとか、「東京に医師が集中する」という問題も、 これは「医師の進路決定」というゲームが、そもそもジレンマのデザインに失敗していて、 そこに「進路を変更するのが難しい」という難易度を加えることで、それを無理矢理「ゲームである」と宣言していたのが、 そもそもの問題だったのだと思う
- 制度が変わって、進路の変更が容易になった結果として、そもそもジレンマを持たない、 ゲームとして成立していなかった「進路決定ゲーム」の解答が、一つの答えに収斂してしまったのが、たぶん現在の状況
- 時計の針を戻したところで、状況は変わらない。やるべきは「難易度の付加」でなく、「ジレンマの再デザイン」なのだと思う
- 具体的には、ベッドを持ってリスクをとらない限りは報酬が生まれないとか、各専門ごとに「リスク係数」を設けて、 リスクの低い科に進むと生活できないようにするとか。ここを「報奨金」みたいな形で解決しようとしても、たぶん失敗する
ジレンマの深度問題
- 「ジレンマを上手にデザインすれば、ゲームに難易度は必要ない」という、任天堂ゲーム風の考えかたは分かりやすくて、たくさんの ユーザーを楽しませるのだろうけれど、その反対側を志向して、「最初から定番戦略を示して、 ことごとくのユーザーを極め競争に引きずり込む」やりかたをするのも、お金引っ張るいい方法なんだと思う
- ルールの入り口にはジレンマがあって、それを解消してさらに頑張ると、もっと深いところに、また別のジレンマが見えてくる。 ルールの世界というのは、ちょうど「漏斗」みたいな格好をしていて、奥に行けば行くほどに、差違は小さくなっていくけれど、 奥は無限に深くなっていて、一度入り込むと、今度は引き返すのにものすごい勇気がいるようになる
- 漏斗上のルール世界を想定して、「どの深度で勝負をすべきか」を考えないといけないんだと思う。漏斗の入り口で勝負するなら、分かりやすいジレンマを設計しないといけないし、深いところで勝負するなら、参加者のアイデアよりも、むしろ「作業」や「仕事」を強調して、投じたコストがそのまま参加者の利得として跳ね返ってくるようなルールをデザインしたほうがいいのかもしれない
- 自分のいる場所だとか、援用している技術の「ジレンマ深度」を知っておいたほうがいいんだと思う
- たとえば自分は「内科診断」という、ジレンマ深度の浅いゲームで遊んでいて、「症状->病歴->診察->検査->診断」という定番のやりかたに対して、「症状->検査->診断->確認のために診察」というやりかたを提案している
- この論拠になっているのは「検査が洗練されている」ことであって、CTを作っているエンジニアだとか、検査機器を改良している技術者の人たちだとか、あの人たちはたぶん、地獄みたいな洗練競争、ジレンマ深度の極めて深いところで頑張っている。だからこそ「洗練」と「進歩」が期待できて、自分みたいな技術の素人は、こうした技術に寄りかかることで、ジレンマ深度の浅いところで遊んでいられる
- このへんを逆にして、「ジレンマ深度の浅い」技術に寄っかかりながら「ジレンマ深度の深い」場所で何かをしようとすると、自分とは全然違う世界のワンアイデアで、10年積み重ねてきた何かが容易に吹き飛ぶから、気をつけないといけない
2009.08.21
白鳥は水の下で足をかく
水面に浮かぶ姿がどれだけきれいであったとしても、水かきだとか、足だとか、水面下の構造を 持たない白鳥は、いつか沈んでしまう。
ある仕事に打ち込んで、努力の見返りとして、その仕事から、見合った対価を得られる人は幸福だけれど、 それはすごくまれなことで、あるいはもしかしたら、「水の下に何もない白鳥」みたいに、 そういうやりかたは、むしろいびつなものなのかもしれない。
「成功するために本業に打ち込む」やりかたというのは案外正解からは遠くて、 むしろ「本業を楽しむために副業を頑張る」人というのが、正解にたどり着く可能性が高いような気がする。 大事なのは「本業」と「副業」と、できれば白鳥みたいに、生き物としてリンクしていることで、 「役者を目指して、副業でアルバイトを頑張る」みたいなやりかたは、それとは少し違う。
井上隆智穂というF1 ドライバー
セナが亡くなったあと、シューマッハが大活躍を始めた頃に、井上高千穂という日本人F1 ドライバーがデビューした。
日本人なのに、ヨーロッパで地味に下積みを積んでいた選手で、当時日本人ドライバーといえば 片山右京だったし、日本での知名度はあんまり高くなかった選手だったものだから、 「井上はF1のシートを金で買った」とか、たしかファンの評判はあまり芳しいものではなくて、 井上自身が所属していたチームの車も、それほど戦闘力の高いものではなかったから、 あまり活躍はできなかった。
井上選手は、ドライバーとしての腕前こそ、超一流どころには及ばなかったけれど、 スポンサーを見つけてくるのが上手で、英語での交渉が上手で、口一つ、身一つでいろんなチームと交渉して、 下位のチーム、自分が引っ張ってこれるお金で手の届くシートを「買って」はレースを続けて、 ついにはF1 のシートを「買った」。
当時はどちらかというと、井上選手のやりかたは「汚い」なんて空気だったけれど、 片手に余る数しかいない日本人F1 ドライバーとして、あの人はそれでも、大成功をおさめたんだと思う。
そこに立ち続けるためのコスト
F1 ドライバーだとか、あるいは音楽や芸術方面のメディアで活躍することは、多くの人にとっての夢なんだろうけれど、 それがかなう人はすごく少ない。それを「本業」として、その仕事に打ち込んだところで、 多くのプロドライバーや、若手の芸術家は収入が乏しいし、ほとんどの人はたぶん、 夢が破れて、経済的な成功とは無縁のまま、その場所にいられなくなってしまう。
人の注目や、尊敬を得られる場所、F1 や芸術、あるいは学会なんかもそうなんだろうけれど、 そういう場所に立ち続けるためにはコストが必要で、どれだけ才能を持った人であっても、 自らの能力を磨いて認められるまでの時間、そこに立ち続けるためのコストを支払わないといけない。
井上選手は、ドライバーとしては決して超一流ではなかったのかもしれないけれど、 ドライバーとしてそこに居続けるためのコストを支払うことができて、 たぶん「ドライバーとしての自分」を、交渉を通じてお金に換えることに長けていて、 結果として、ドライバーとしての競争なら、もっと優れていたかもしれない多くのドライバー候補を押しのけて、 F1 のシートを手に入れた。
恐らくは才能だけで成功した人なんて少なくて、偉大なF1 ドライバーが実は手強い交渉者だったとか、 大成功したミュージシャンは、実は若い頃から商売上手で、お客さんのつかない駆け出しの頃から、 小さな人数のコンサートでも、それを上手にお金に換えて、生活できていたんだとか、 みんな「水面下」で頑張っていたのだと思う。
メディアの間合いと商売
漠然と「間合いの広いメディア」と、「間合いの狭いメディア」とがあって、 スポーツや芸術方面みたいな「間合いの広い」メディアでお金を稼ぐのは恐ろしく大変で、 お客さんに直接ものを売る、「間合いの狭いメディア」というのは要するに商売そのものだから、 こちら側での活動は、たいてい直接お金に結びつく。
「趣味だからお金にならなくてもかまわない」という態度だとか、「これは人助けだと思ってやってます」なんて、 何か間合いの広いメディアで頑張って、幸運にも成功をおさめた人は、どこかできっと、「見返り」がほしくなる。 若い頃からひたすら勉強して、食うや食わずの生活で論文書いて、 やっとの思いで前任者が退官したあとアカデミックポストに座れて、今さら「本業」をいくら頑張ったところで、 たいていはお金にならないから、投入した努力は、少なくともお金で報われない。
プラチナコロイドの健康食品売ってる東大の先生だとか、ミラクルエンザイム売ってる内視鏡の権威だとか、 テレビに出まくってる脳科学者だとか、あの人たちはたぶん、駆け出しの頃、本当に頑張って、 「水面下」のことなんか、考えもしなかったんだと思う。
「間合いの広いメディアで名前を売りつつ間合いの近いところでご飯を食べる」か、 逆に「間合いの近いメディアでご飯を食べつつ、間合いの広いメディアに打って出る」のが、 正解に近いような気がする。もちろん本当に才能のある人は、「正解」なんて蹴散らしながら、 自分の信じた道を当然のように進むのだけれど。
2009.08.17
公開討論覚え書き
鳩山代表と麻生総理との公開討論会、MIAU 主催の、Webと政治に関する生放送を視聴したときのメモ。
討論形式の番組いうのは、必ずといっていいほど「編集」が入っていて、 演者の人たちもまた、たぶん編集前提で喋っていることが多いのだと思う。 自分のインタビューを公開していた知事の言葉は、無編集だと案外間延びしていたし、 国会ならばヤジだとか、相手の言葉を遮った質問だとか、討論というのはしばしば、 「生」で見るには耐え難い品質だった。
党首同士の公開討論会は、「無編集」が前提、全てを見せるのが前提で企画されていた みたいだから、お互いにいろいろ工夫をしていた。無編集の放送は面白くて、 発信のコストが下がるこれからは、たぶん「無編集」が常識になっていくだろうから、 日本語での、無編集、全て公開というルールでのしゃべりかただとか、 演者の態度みたいなものはどうあるべきなのか、これからいろいろ試みられるんだろう。
党首討論会のこと
- 個人的にはやはり、麻生総理の「勝ち」だったような気がする。内容はともかく。鳩山代表は準備が足りないというか、「ブレイン」役をやった人が用意した資料が、討論会のルールにピントが合っていなかったのだと思う
- 麻生総理の言葉というのは、少なくともあの会場において、首尾一貫していた。「自分はやれることをやった。それは成功であった」で、言葉の調子を変えなかったから、堂々として見えた。それが正しいかどうかはともかく、「そう見えた」ということに関しては、間違ってないと思う
- ああいうやりかたはその代わり、態度を常に一定にせざるを得ない分だけ脆くて、「ああ言えばこう返す」というパターンも、たぶん1つか2つぐらいしか用意できなかった。麻生総理は、鳩山代表の質問に対して、万全の準備をしていたように見えて、実は「これ」という論理を一つか二つ磨き上げることに徹して、他は用意していなかったんじゃないかと思う
- ああいうのは、たとえば「あなたの認識が頭から間違ってるんですよ」なんて哄笑してみせたり、麻生総理の細かい粗をねちねちとつつき続けて、討論の雰囲気自体を壊してみたり、やりようはあるんだけれど、鳩山代表は、泥試合に踏み込む勇気というか、「ルールはいつだってひっくり返せる」ということを、交渉のカードとして生かしていなかった気がする。鳩山代表の、いわば「上品さ」を信じた麻生総理の読み勝ちというか
- 党首討論の場面では、麻生総理は選挙民の方向を向いて喋っているように見えて、鳩山代表は、テレビ局の方向を向いて喋っているように見えた。相手から「言質」をとりに行くやりかた、特定の一言にやたらとこだわってみせるようなやりかたは、あれは「編集」前提のしゃべりであって、「生」向きじゃないと思う
小数点以下をそろえて返す
- 麻生総理はいろんな数字を並べた。鳩山代表は、たとえば「どんな企業でも1割の無駄が(うろ覚え)」とか、小数点以下を揃えなかった。分かりやすいんだけれど、あれはいかにも感覚的で、何も考えていないように聞こえた
- 数字には、たとえ嘘っぱちでも数字を出さないと、相手の説得力を無効化できないし、とにかく数字を出しさえすれば、相手の資料を無効化できる
- 正しい数字を知っているのが自民党だけで、民主側にはそれを調べるすべがないんだとしても、「我が党の調査では…」なんて、とりあえず数字には数字で対抗すべきだったんだと思う。片方が正解で、片方が嘘八百であったとしても、小数点以下をそろえた数字を並べてしまえば平等だから
- 研修医は、「CRPは?」なんて上司に聞かれたら、「5ぐらいでした」なんて答えるよりも、「5.8です」なんて即答しておいて、あとから「すいません5.2でした」なんて訂正電話入れるほうが、「できる奴」と思われる。鳩山代表はまじめなのだろうけれど、こういうの下手だなと思った
無敵論法の返しかた
- 麻生総理のやりかた、物事を単純化して、「こういう結論だからこれは成功だと私は認識している」という論理は、最終的な根拠が自分の認識だから、論理の矛盾を指摘してひっくり返すのが難しい。論拠を自らの主観において、「私はこう考えている」と結ぶやりかたは、一種の無敵話法で、ネットにいろんな方面を刺激しそうな文章を書くときには、炎上対策としてよく使う
- 相手の認識を否定するのは難しいんだけれど、論理の粗さがし自体は簡単だから、「私はこう思っている」論法に対しては、粗を指摘して、「私たちならこうした。もっと上手くいった」とあと知恵をぶつけると、相手は議論に乗らざるを得ない。こういうのはたぶん、おしゃべりの定石なんだけれど、民主党サイドは、どういうわけかこういうやりかたをしなかった。ああいう場所でこそ、すかさず「対案」をぶつけないと、聴衆に「何も考えていない」ように思われてしまう
- 勝つ論理と負けない論理というものがあって、麻生総理が展開したのは「負けない」やりかた。負けない議論は、その気になればいくらだって逃げをうてるから、まじめに相手をするよりも、たとえば相手の人格を否定するとか、相手を哄笑するとか、積極的に空気をグダグダにして、相手もろとも泥まみれを狙うのが正解になることも多い
- ああいうときは本当は、相手を無視して、ひたすら過去のスキャンダルについて質問したりしないといけない。正しさ勝負じゃなくて、「相手の黒歴史で笑いをさらったほうが勝つ」という方向に、場のルールを書き換えてしまうやりかた
- 鳩山代表は、麻生総理に対して「無敵話法使ったら場をグダグダにするよ」というのを、交渉のカードとして持っていないといけなかったんだけれど、それを切ろうとしなかった
議論の応酬にはルールが必要
- 党首会談で設定されたルール、お互い持ち時間を決めて、発言と、質問とを強制的に交互に行うやりかたは、上手くいっているように思えた。ヤジのやりようがないし、相手の発言を遮ることができないから、観客に優しくてありがたかった
- あのルールは、あれは昔の掲示板ルールそのまんまだと思う。相手が喋っている間は、それを遮ったり、笑い飛ばして人格否定したり、そういう飛び道具が使えない。ああいう勝負は、それこそ古参のネット掲示板住人が得意そうだなと思った
- 麻生総理の「○○だから、これは成功であったと思います」なんて意見に対して、鳩山代表が「ということにすると、何か都合がいいのですね? 」なんて返したら、空気が一気に悪くなって面白いと思うし、切り返しかたとして、それは有効だと思う
- 議論の相手に立証責任を押しつけるやりかた、「そもそも君がこうしていれば、この状況にはならないんだよ」というやりかた、「民主党が邪魔したから自民党のすばらしい政策が廃案に追い込まれた」という論理はたいてい無敵で、これは「Void 論法」といわれた古典的なやりかたの、いわば変法なんだと思う
編集の力
- 少なくとも生放送を見た限りは、持ち時間は一緒のはずなのに、麻生総理の声ばっかりがよく聞こえた
- これは論理がどうこう、という問題とは別に、鳩山代表の顔の角度と、マイクの角度が合っていなくて、声が全然拾えていなかったとか、いずれにしても、鳩山代表のほうが不利な展開ではあった
- ところがニュース番組がこれに編集を入れて、討論の「間」を削除して、お互いの党首が自説を述べている場所だけを放映すると、見事に「かみ合ってはいないけれど対等な議論」に見えた。行われた印象操作は、ごくありきたりのものでしかないけれど、特定の場所を「放送しない」ことの威力はすごいと思った
MIAU のニコニコ生放送
- 途中しか見ていない。ごく一部
- 演者の音量が一定で、すごく聞きやすかった。党首討論会は、特に鳩山代表と、司会者の人とが、顔を左右に振るたびに音量が激変してひどかった
- あれは「ニコ生」スタッフに音量調整の専門家がいて、複数のマイクをその場で切り替えて、一定の音量を維持することに、相当気を使っていたんだという。ああいう工夫はありがたかった
「何でもあり」ルールでの戦いかた
- ホリエモンが出席して、意見が分かれた演者の、ちょっとした瑕疵を指摘して、しばらく離さなかった
- あれは何というか、議論として「大人げない」んだけれど、どこか総合格闘技のやりかたに似ていた。膠着状態がずっと続いて、わずかな隙ができたら一気に試合が動いて、観客が置いてけぼりにされるようなスピードで決着がつくイメージ
- ルールなしの自由討論会というのは、たぶんワンチャンスを生かしきらないと、勝ちが拾えないのだと思う。相手のミスを鷹揚に受け止めて、対話を先に進めるのが大人のやりかたなんだろうけれど、ここで手を抜くと、下手すると今度は、自分の瑕疵に食いつかれて、勝ちを持って行かれてしまう
- 何でもできる「総合」ルールは、どうしてもワンチャンスが全てになってしまう。殴り「あい」とか、議論の「応酬」みたいなのを観客に見せようと思ったら、ボクシングみたいに、選手に許される振る舞いを、ものすごく絞らないといけない
- 党首討論会は、そういう意味ではボクシングに近く、ニコニコ生放送は、総合格闘技に近かった。ルールが変われば、戦いかたも変わってくるし、ホリエモンという人は、たぶんそういうのを理解していたのだと思う
- 総合格闘技は、どうしたって「つまらない」というか、マニアでないと楽しめなくなるけれど、自由形式討論というのは、本来そういうものなんだと思う。そこを割り切れないと勝てないし、そういう場所で、「面白さ」に配慮したり、議論は「こうあるべき」なんて理念を持ち込む人は、たぶん生放送では勝負にならない
話し言葉というメディア
- 演者の名前札を、もう少し見やすくして、できればそれをテキスト表示してくれるとありがたかった。それがどんな人なのか、名前さえ分かれば、今の時代、検索するのは簡単だから
- 見た目はやっぱりすごく大事だなと思った。議論の席、真ん中あたりにいた人が、お笑い芸人の「ダンカン」に似ていて、コメントは「ダンカン」の文字で埋まった。笑いの対象にされてしまうと、それを言葉でひっくり返すのは恐ろしく難しい。ホリエモンは体を絞って議論に臨んで、あれは好評だった。肥満体のままだったら、議論はそれだけ不利だったと思う
- 特に「ニコニコ生放送」みたいな、視聴者の意見がダイレクトに帰ってくる場所では、会話で観客を楽しませないといけないし、それをやるには、文章の圧縮率を極端に高めないと厳しい。たくさん喋るほどに、言葉は薄まって、観客の興味は反対側の人に行く。討論会の途中、演者の人が、論文を読むかのように長い話をしておられたけれど、ニコ生は、演者の声とコメントと、両方を見ないといけないから厳しかった。Blog の長さどころかTwitter も通り越して、もっともっと圧縮して、テキスト量を減らさないと、あの場所では厳しく思えた
- 津田さんの司会は上手で、討論会は混沌とすることなく、分かりやすかった
- 無編集、生放送は、なんだかんだいっても面白いし、これが低コストでできてしまう現在、流れは必ずこの方向に傾いていくのだと思う。「しゃべり言葉」の力は、これから戻ってくるような気がした。以前のそれとは、だいぶ文化が異なるのだろうけれど
2009.08.16
どこかに「グー」がある
病院での交渉ごとというのは、何しろあいては白衣を着て、なんだかえらそうな椅子に座っているものだから、一見すると圧倒的に、医師側のほうが有利に見えるんだけれど、実際白衣を着て座っている側からすれば、患者さんが、特に患者さんのご家族が、怖くて怖くてしかたがない。
「グー」がない
医療交渉というのは、じゃんけんでたとえると、自分たちには「グー」を使う権利が与えられていない。
患者さん側には「グー」「チョキ」「パー」の選択枝があって、自分たちには「チョキ」と「パー」しかなかったら、これはもう、絶対に勝てるわけがない。
もちろん医療というサービスを提供しているのは自分たちの側だから、それを断られたら、患者さん側にはなすすべがないんだけれど、医療者側は何よりも、何かトラブルになったときに失うものが大きすぎて、一度失うと、それは取り返しがつかないものだから、患者さんから「グー」を使われる、何かをごり押しされるような状況になったとき、それを拒否することが難しい。
医療従事者が交渉の席に望むときには、だから世の中には「グー」なんて最初から無かったかのような、少なくともこの交渉の場では、「グー」を使うことが許されないのだ、といった空気を必死に作って、相手が3枚、自分が2枚しか持っていない交渉のカードを、あたかもあいてと自分と、最初からお互い2枚しか見えないかのように振る舞って、相手の有利を隠蔽する。
「グー」というカード、拳を机にたたきつけて、怒りで相手の論理をひっくり返すようなやりかたは、たとえば医療交渉の席ではほとんど万能の解答で、だからこそ、自分たちは穏やかな口調で、あたかも患者さんのご家族と、古い友人であったかのように振る舞って、相手が「グー」を切りにくいよう、あるいは「この病院では怒っちゃいけないんだ」みたいな、そんな禁忌があるかのように振る舞ってみせる。
こういうのはやっぱり、環の弱いところから破られることが多くて、人が必死に「グーなんて無いんですよ」を演じて見せて、それがある程度上手くいっているのに、たとえば自分たちの「権威」みたいなのを勘違いした看護師さんが、患者さんに対して横柄に振る舞って、カードの所在がばれてしまったり、休みの日にたまたま来た遠方の親戚が、「ここにグーがあるじゃない」なんて、今までの努力をひっくり返してみたり。
隠蔽されているカードを探す
恐らくは病院だけでなく、世の中のいろんな交渉の席で、「グーの隠蔽」が行われているような気がする。
相手側が何かの権威を持っていて、自分たちは「交渉の席」についているのに、それは交渉どころか、相手の意見を、相手の権威をありがたく拝聴するだけの場になって、「こうなったのは仕方がなかったんだ」なんて、なすすべもなく、相手の言い分をそのまま受け入れることしかできないような状態。
議論は一方的なのに、一見すると、自分たちには聞いてうなずくことしかできないのに、それでもそれが「交渉」だという、交渉なのに交渉というゲームが成立しない、こういう状況においては、たぶんどこかでカードの隠蔽が行われているのだと思う。権威であり、穏やかな口調でこちらを気遣って見せる余裕すらある相手というのは、じつは内心びくびくしていて、隠しているカードが見つかったとき、恐らくはそれを切られると、もうなすすべがない。
相手と自分と、同じ席に座らないといけない状況は、それはもう「交渉」なのであって、相手は少なくとも、「こちら側が椅子に座ってくれないと非常に困る」何かがあるから、わざわざ交渉の席が作られる。席に座って、相手の言葉を一方的に拝聴せざるを得ない、そんな状況に出くわしたときには、実は本来、なすすべを持たない自分たちの側に、極めて有利なカードが隠されているのかもしれない。
2009.08.12
平凡なものをたくさん作る
「すごいもの」を目指した物作りは最初の段階で行き詰まって、たいていの場合、上手くいかない。
「すごい」は相対評価だから、そこにはたぶん「平凡な」先客がいて、 あとからそこに入り込むのは難しい。すごいものが目指したその場所が狭かったなら、 相手に打ち勝って、やっとその場所を手に入れたところで、戦って荒らされて、 価値はずいぶん下がってしまう。恐らくは、投じた労力を回収できない。
量は質に転化する
ある状況だとか、ルールがあって、同じ土俵で比較できる相手がいる場所で、 相手より、漠然と「すごい」ものを目指そうとすると、アイデアの出現閾値が下がってしまう。
「量」を「質」に転化することはできるけれど、たぶん逆は難しい。
たくさんのアイデアを出すことで、偶然すばらしいものが生まれることもあるし、 質の不足を量で補うこともできるけれど、質の高いアイデアを出そうとして、頭の中でいくら頑張ったところで、 力を「溜めた」結果として、すばらしい何かが生まれる可能性は少ない。
必要なのはもちろん、「量」と「質」との両方なんだけれど、あくまでもそれは、 頭の中身を形として外に出してからのお話し。頭から何かをはき出す以前の段階で、 「すごいものを」なんて出口を縛ってしまうと、たぶん「平凡なアイデアが」、「少しだけ」出てくるだけで、 結果として、ものにならない。
大事なのは、「平凡なものを」「たくさん」生み出すことなんだと思う。
すごい場所で平凡なものを作る
競合がたくさんひしめく場所では、そもそも単体としての「すごさ」なんて、数に隠れて目立たない。 平凡であっても、たくさんのプロダクトを生み出して、自分の居場所を「ここ」と宣言しない限りは、 その人の「すごさ」は伝わらない。
世の中にある「すごいもの」というのは、「たくさんの平凡」を生産している人が、 たまたま作った質の高いものでなければ、たぶん「競合者のいないすごい場所」で初めて生み出された、 「平凡なもの」なんだと思う。
平凡な、空気みたいな、登場したら、「それがあって当たり前」と思われるようなものを作れればいいなと思う。 空気に「すごさ」を求める人はいないだろうし、空気がなければ、その場所で人は生きていけないだろうから。
そこにまだ何もない場所に、何か平凡なものが送り出されて、それが「空気」として、 当然のものとして認識される。その場所は、平凡な何かにとっての「すごい場所」であって、 そんな「すごい場所」を見つけた人が、恐らくは「すごいもの」を生む権利を持つ。
生み出されたそのプロダクトは、しばしば平凡な作りをしているけれど、 それより「もっとすごいもの」を目指すのは、たぶん何かが間違っている。
何か平凡に見える先客を見つけたときには、平凡なのに、どうしてそれが、「空気」としてそこにいられるのか、 それがある場所の「すごさ」に目を向けるべきなのだと思う。
2009.08.08
見栄と嫉妬の行動学
経済学は、人の振る舞いを、「利得」と「リスク」とのバランスで説明しようとする。
「利得」とか「リスク」に対する感覚というのは、どちらかというと個人的なものであって、 ネットワークを作った人、「社会」の振る舞いは、しばしば「利得」と「リスク」では説明がつかない。
恐らくは「見栄」と「嫉妬」という判断軸を導入することで、ネットワーク化した人の群れに見られる、 「経済的に不合理な行動」というものが、説明できるような気がする。
個人に不利で、社会にとっては有益な振る舞い、しばしば「利他的」と表現されるこうした行動は、 「見栄」によって駆動されるものだろうし、社会にとって最悪な、しかも本人にとっても、 それが必ずしも個人の得にならない行動というのは、たぶん「嫉妬」によって駆動される。
「嫉妬する上司」問題
たぶん「部下に嫉妬する上司」というのがいる。こういう人たちはしばしば、自らの土台もろとも、 組織を潰してしまうような決断を下してしまう。
能力主義の組織においては、そこにいる人は、能力の限界まで出世することになる。 平社員の時には有能であった人物も、出世することによって、どこかで「無能な上司」となって、そこで出世が止まる。
「上に行けなくなった上司」というのは、その地位において無能になった人物だから、 その場所でたいした仕事ができるわけでもなく、かといって下には戻れない。 悪いことに、自分が有能であったその場所には、もっと優れた若手が座っていたりする。
こういう状況に陥った上司は、たぶん部下に嫉妬する。嫉妬という感情を認めてしまうと、 上司は自らが無能であること、後続の若手に「負けた」ことを認めてしまうことになる。 無能が嫌なら努力すればいいんだけれど、「努力」は同時に、「嫉妬」という感情の存在を 裏付けてしまうから、ジレンマに陥った上司は、だから「一発逆転」を狙う。
現場を回している部下が聞いたら鼻で笑うような、どうしようもない提案をするコンサルタントが、 たとえばカタカナ成分の多い、海外で評判とか、裏を返せば国内での評判は最悪の、 そんな提案を現場に持ち込む。
現場はもちろん猛反対して、上司もまた、その提案が荒唐無稽であることぐらいよく分かっているのだけれど、 現場の反対は、むしろ上司の背中を押して、コンサルタントの提案は、上司の支持を得て、現場に導入されてしまう。
嫉妬の脆弱性
競争に「負けた」人間には、もはや「信じる」ことでしか、状況を変えられない。
それがどれだけ荒唐無稽な提案であっても、有能な部下が「信じない」ものを「信じる」ことで、極めて低い確率ながら、 上司は努力を行うことなく、自らの嫉妬を認めることなく、嫉妬の対象たる部下を「逆転」できるかもしれないから。
特定の何かを見てるわけじゃないけれど、何となく、こういう傾向はいろんな場所にあって、 「会社」だけでなく「家族」だとか「クラス」だとか、たぶんいろんな組織が、「嫉妬する上司」という脆弱性を抱えているのだと思う。
なにかゴミみたいなプロダクトを、そんなものを必要としないような、安定した組織に売りつけようと思ったならば、 まずは「嫉妬する上司」にあたる立場の人を見つけ出して、その人に「逆転」の可能性を説くと、 きっと上手くいく。
認めると楽になる
「見栄」や「嫉妬」は可視化されないし、たいていは、それを抱いた本人も、 それを「ない」と否定する。
それを「ある」と認めたなら、たぶんその人は合理的に、肩の力を抜いて振る舞えるんだろうけれど、 それを認めたくないという思いが、嫉妬をして、見栄をして、極めて不合理な行動に、その人を駆り立てる。
恐らくはそうした感情を「ある」と表明してしまうことが、世の中を楽にやっていく秘訣みたいなものに つながるんだけれど、何かを「うらやましい」だなんて、嫉妬を表明できる人というのは、 あるいは相手にどこかで「勝って」いるからこそ、それが表明できるのかもしれない。
「妬んでも1人」、「嫉妬しても1人」という状況下で、どれだけ「嫉妬の表明」を行ったところで、 それはなんの解決にもならないから、「妬みの積極的表明」という行為は社会から全然自由になれていないし、 行為それ自体には、なんら治癒的効果はなくて、大事なのは行為でなくて、 そういう立場にいることのほうなのかもしれない。
嫉妬の行動学みたいなもの
「見栄」と「嫉妬」を上手につつくやりかたというのは、たぶん広告の人たちが詳しいんだろうけれど、 「嫉妬」という切り口で人の振る舞い、とくに社会化された人の振る舞いを見直すと、いろいろ 面白いような気がする。
某SNSで教えていただいた、「天皇制はトップに対する嫉妬を避けるための知恵だった」なんて 考えかただとか、「非上場のオーナー企業が案外強い」理由なんかもまた、 嫉妬が隠蔽されるような状況において、嫉妬を上手にコントロールする仕組みが要請された 結果として、特定の組織構造が生まれて、しばしば経済不合理に見えるそうした組織が、 歴史の重みによく耐えて安定していることを、上手に説明できるのかもしれない。
2009.08.05
分からないときの振る舞いかた
間違える、あるいは「放り出す」といったほうが正しいのかもしれないけれど、患者さんを診察して、 その人の抱える問題に対して、主治医としてなんのアイデアも浮かばないときに、 患者さんに対して、どう「ごめんなさい」をすれば、その人の問題が解決する方向に状況を転がせるのか、 そんなことを考えてる。
間違えが正しく重なると治る
胸部大動脈瘤で手術になった患者さんは、最初に整形外科にかかっていた。
その患者さんは「肩が痛い」と訴えて、胸が痛いとか、苦しいとか、 そういうお話しを全然しなかったらしい。
患者さんを診察した整形外科の先生は、肩を診て、分からないからレントゲンを撮って、 心臓の上側がやけに大きく拡大していたものだから、「肺癌疑い」なんて診断で、 その患者さんを紹介した。
外来に来てくれている呼吸器の先生は、胸を聴診しても、その人には何もなかったのだけれど、 「肺癌」と紹介されたものだからCTスキャンをオーダーして、動脈瘤が見つかって、緊急手術になった。
CTスキャンが行われるまでの間、その患者さんにかかわった医師は、誰ひとりとして正しい判断をしなかったし、 「大動脈瘤」なんて診断を最初に下したのは、医師でなく技師さんだったのだけれど、 「間違った判断」が正しく重なった結果として、 患者さんは、最初から大動脈瘤と診断されたケースと同じく、 「診察->単純写真->紹介->CT->診断」というプロセスをたどることができた。
分からないから放り出す
昔紹介された脳腫瘍の患者さんの場合には、自分も「間違いのリンク」に参加していた。
その患者さんは「気分が悪い」なんて訴えで、別の病院に入院していて、 CTだとかMRIだとか、あらゆる検査が行われたのだけれど原因が分からなくて、 暫定的に「脳梗塞でしょう」なんて診断されて、点滴を受けていた。
状況が変わらなかったものだから、ご家族が本人を連れ出して、うちの外来にやってきた。 「MRIは正常です」なんて紹介状が添えられていて、自分がそのMRIをみたところで、 やっぱり何も分からなかったんだけれど、その患者さんは目が見えにくくなっていた。
目が見えづらいから、患者さんは「脳梗塞」なんて言われていたんだけれど、脳梗塞ならMRIで診断できて、 脳梗塞でない、「目に来る」病気は、これは眼科医か脳外科医の領分で、 うちの施設にはどちらもいないものだから、脳外科の常駐している、別の病院に紹介した。
紹介された脳外科医は、MRIを診て、一瞬で脳腫瘍を診断して、 その患者さんは下垂体腫瘍の手術を受けたらしい。
最初の病院に入院した段階で、必要な検査は全部行われていて、最初の医師も、自分もまた、 データを見ても診断できなかった。前医と自分と、患者さんに対して等しく無能であったのだけれど、 同じ「分からない」という状況に対して、前医は抱えて、自分は放り出した。
患者さんを放り出した先が、「正解」を見慣れている医師だったものだから、 患者さんの病名は一瞬で下されて、治療が行われた。
「分かる誰か」に問題を正しく渡す
全然ほめられた経過ではないけれど、分からないまま、あるいはことごとくが間違っているままに 物事が進んでいる状況においてもなお、その患者さんを診断することを「正しくあきらめる」ことができれば、 いつか正しい診断にたどり着くことができる。
「あきらめかた」だとか、「放り投げかた」にも、たぶん正しいやりかただとか、 あきらめるタイミングというものがあって、それを外しさえしなければ、 病気に対する知識が全くない医師であっても、その患者さんに隠れている本当の病名が診断される方向に、 あるいは治療される方向に、状況を転がせるような気がする。
今作っているマニュアル本には、こういう考えかたは全然入っていないんだけれど、 いつかはこういう考えかたを実装したいなと思う。
まず必要なのは、分からないときに、その状況を「分からない」と認識するためのやりかた。
もう一つ必要なのが、ある症状を抱えた患者さんに対して、自分の知っている鑑別診断リストの中からは 適切な病名を探せなかったり、ある病名を患者さんに当てはめて、どうも「据わりが悪い」と 思えたときに、問題を抱えた患者さんを、その問題を解決できる医師に、正しく渡すためのやりかた。
どこから手をつけていいのか見当もつかないけれど、それでも症状は有限で、おそらくは、 物事が呪われたように悪く転がる、そうした状況の数もまた有限だから、 それを収集、整理することで、それを方法論としてマニュアル本に取り込むこともできるような気がする。
進捗状況
一部文章の改訂を行いました。索引を増やし、本に出てくる薬剤名、病名から、文章を検索できるようにしました。
ここ からダウンロードできますので、参照してみて下さい。8月5日版が今のところ最新です。
2009.08.02
「書かれたルール」と「本当のルール」
ルールブックに書かれたやりかたと、そのゲームに勝つためのやりかたとはしばしば異なって、 ゲームはだから、「ルールを守る」のが好きな人と、「ゲームに勝つ」のが好きな人と、 たいていは2つの文化が衝突する。
「イヤーノート」という教科書
「本がルールを書き換えた」先例がうちの業界にはあって、医学生ならたいてい誰もが持っていて、 医師ならたぶん10人が10人、その本を「クソだ」と断じる、「イヤーノート」という教科書がある。
医学部というのは医学を学ぶ場所だから、医学生の教科書というのは、 もちろん「医学」が体系的に、権威ある先生がたによって記述される。 教科書には、医師として知っていなくてはならないこと、診療に大切なことが中心に記載されて、 みんなそれを読んで勉強する。
ところが自分たちには「国家試験」というものがあって、これに合格しないことには、仕事が始まらない。 国家試験も試験である以上、「誰もが知っていなくてはならない知識」を問題にしてしまうと、 簡単すぎて、誰でも解答できてしまうから、序列をつけられない。国家試験はどうしても、 主流でない分野、重箱の隅をつつくような問題をたくさん混ぜる必要があって、 何とか成績に序列がつくよう、差が生まれるよう、出題者が工夫する。
そうした「工夫」が重なった結果として、「いわゆる教科書」をまじめに勉強することと、 国家試験に合格すること、「ゲーム」が提供するルールブックと、ゲームが規定する勝利との間に、 距離が生まれてしまった。
ゲームの本当のルール
「医師になる」というゲームにおいては、ルールブックには「医学をきちんと勉強すると医師になれる」と 記載されているのに、実際には、国家試験に合格しないと、医師になれない。「いわゆる教科書」をいくら 必死に勉強しても、身につくのは「誰でも知っていなくてはならない知識」であって、国家試験に出題されるのは、 そういう知識ばっかりではないものだから、ルールをまじめに守った人は、国家試験ではしばしば損をする。
誰もが知っていなくてはならない知識をどれだけ詳細に理解できていたところで、 知らない問題は、やっぱり答えられない。医学というのはそこまで成熟した科学じゃないから、 ある分野を深く理解できたなら、他の分野を推測するのに、その「深さ」が役に立つとか、 そういう場面は少ない。
「医師になる」というゲームのルールを、素直に「国家試験に合格すること」と規定し直した人たちがいて、 「イヤーノート」という教科書が出版された。編集方針は明快で、「重要だけれど誰もが知っている知識」は省かれて、 過去の問題に登場した領域だとか、どこかの大学で卒業試験に選ばれた症例なんかはいち早く詳しく紹介されて、 病院の上の先生がたは、学生がそれを読んでるのをみては眉をひそめた。「それ読むと馬鹿になるぞ」とか、よく怒られた。
教科書がルールを書き換える
「いわゆる教科書の正しさ」と、医学生が当時も今も直面している「国家試験という現実」との間には、 どうしようもない解離があって、「イヤーノート」は不完全だったけれど、その間隙を上手に埋めた。 最初の頃は同人誌みたいな本だったけれど、今では普通に一般書店に並んでいて、 たぶんほとんど全ての医学生が、あれを購入していると思う。
医師国家試験というのは資格試験だから、「全員が間違えた問題」は、不適切問題として、 正解から除外される。「イヤーノート」はたぶん、昔も今も、間違っている記載が多いだろうけれど、 全員が同じ教科書で勉強すれば、その教科書がよしんば間違えていようが、その間違えは、 国試においては「正しく」なる。
「読むと馬鹿になる」教科書は、今ではもう、試験問題を作った人に、自らの頭の中身を問うための武器にすらなって、 「情報の共有」と「ルールの書き換え」という、あれはボトムアップで世の中を書き換えた、まれな成功例なんだと 今でも思う。
「診療」というルール
今自分が直面している「診療」の現場においてもまた、「ルールブック」に記載されている医師の振るまいと、 そのゲームが規定する「勝利」、患者さんの治癒と満足との間にギャップがあって、たぶんみんな、 苦労している。
今はいろいろ進歩して、40分もあればフルコースの血液検査ができるし、 頭からつま先までCTを切るのも、せいぜい15分あれば終わる。 患者さんがいて、その人の骨格模型を3D で作るのは30分で行ける。
「武器」としては相当に高性能な、こういう診療機械は、研修医でもサイン一つで自由に使えるのが病院という場所なのに、 今の「研修医マニュアル」に書かれているのは、やっぱり昔ながらの、 お話を聞いて、どうせ聞こえもしない聴診器を全身に当てて、なるべく検査をしないよう、 しないよう、「それをオーダーする奴は馬鹿だ」みたいなやりかた。
一方では「間違えるな」と言われ、機械の助けなしには診断不可能な怖い病気が羅列されて、 そのくせ「間違えないための道具」が目の前にいくらでもあるなかで、機械はいつでも暖められて、 医師に使われるのを待っているその中で、それを「使うな」と、「研修医マニュアル」は教える。 2009年7月出版の教科書でもそのへん変わっていなくて、やっぱりおかしいと思う。
症状に応じて検査を販売する
「診療」というゲームの中にある、「研修医」というサブゲームのルールブックには、 「患者さんの症状に応じて、適切な検査を販売せよ」と書いてしまえば、それでいいんじゃないかと思う。
やっていることは単なる「御用聞き」であって、もはやそこには「判断」すらないけれど、 研修医に「判断」を要求して、正しい判断に援用すべき検査機械は使用を禁じられて、 もちろん「分からなかったら上司をコール」なんて必ず書いてあるんだけれど、 気軽に上司をコールできるような施設なら、そもそも「研修医マニュアル」なんて必要ない。
内科とか外科、救急がハイリスクで、そこを目指す人が減って、いろんな声が上がって、 人はそれでも、やっぱり減る。
こういうのもたぶん、「ルールブック」と「本当のルール」との間に解離があって、 研修医にはその間隙がよく見えるのに、そこがいっこうに埋まる気配がないものだから、 間隙が深い分だけ、それが「リスク」に見えるんだと思う。
どれだけ精緻なガイドラインが作られたところで、あるいはすばらしい研修システムが 整えられたところで、研修医の振る舞いを、顧客満足に接続できない、今のルールブックが 変わらない限り、人は増えてこない。
馬鹿な本作りたい
それを読んだ上の先生がたが、「こんなもの読むと馬鹿になるぞ」なんて怒り出すようなものが 作れたらいいなと思う。
「ゲームに勝つ」ことを志向したやりかたは、「ルールを守る」のが好きな人から見れば 間違ったやりかたで、両者の間隙が深いほど、相手が「馬鹿」に見えてくる。
その「馬鹿」が顧客の方向に向かない限り、同業者がお互い「馬鹿」とのの知り合う情景というのは 決して悪いものではないと思うし、結局どちらの「ルール」が正しいのか、それを決めるのは、 最終的にはお客さんなんだから。





