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2009.01.31

「制約指向」メモ

  • ある種の制約は自由を増やす。ある種の自由は人間の負担を増す
  • 毎回考えていると負担になることを「制約」としてまとめることで、プロジェクトの戦略的な実施や、バグの地獄からの解放という「自由」が得られる
  • プログラム言語にとっての「勇気」とは、プログラマにある種の制約を強いること」
  • Ruby on Rails は、プログラマの意図をあえて決め付けることで,特定の文化を背負ったプログラマにとっての利便性を追求したのだと
  • いい制約とは「望ましい習慣の押しつけ」
  • 「不自由が自由を作り出す」というのが、企画や設計の基本(某劇場管理人からいただいたコメント)
  • 信号機や交通ルールという不自由があるからこそ、自動車は自由に行きたいところに行ける
  • 人間は、身体から持ちだした制約を通じることで、はじめて自ら置かれた空間を認識できる
  • 我々の脳は、制約によって構成されている事物であるがゆえに、全くの自由を想像できない
  • 世界には無限の自由度がある。制約を記述することで、自由度が減る代わりに、情報は、交換可能性を得る
  • 言語に制約が積み重なると、ついには文法的理解に到達する
  • 語彙というものはそれ自体制約であって、それは単なる単語のリストではなく、文法構造を内包している
  • 「コミュニケーションメディア」のようなあやふやなものは、「何ができるのか」よりもむしろ、 「何ができないのか」に焦点を当てると理解しやすい
  • たとえば金槌みたいな道具を、「釘を打つための道具」と認識してしまうと、応用できない
  • 「金属塊が一端に固定された丈夫な棒」があって、これで何ができるだろうかと考えると、発想が広がる
  • 「相手の意図はこうだろう」と推測してみせることは、観客を驚かせる効果はあるけれど、例外が多すぎて役に立たない
  • 「これができる」は、無数の例外がある。「これは不可能」には、「絶対」がある。自らの状況を 本当に理解できている人は、この制約を指摘できる
  • 東京大学の國吉康夫研究室が作ったスクワット起き上りロボットは、 人間みたいな動きをするけれど、身体を完全に制御しているわけではないのだという。
  • このロボットはほとんど身体だけの存在であって、神経系に相当するものがないのだと。 身体という制約構造の存在は大きくて、かたちが人間に相似になってくると、脳や知能の問題以前に、 「人間らしさ」というものは、自然に獲得されてしまうのだという

2009.01.29

交渉における火砲の役割

交渉の場に参加する人たちには、「歩兵」や「砲兵」、「騎兵」のような 兵科の区別というものがあって、自らの兵科を理解しないで交渉に臨むと、 その強みを生かせなかったり、場合によっては墓穴を掘ることになってしまう。

「火砲」という決定的な力を持った、「砲兵」のお話。

火砲というもの

  • 「弁護士のような資格を持っている」こと、「説得力のある暴力を行使できる」こと、あるいは 「正義を自分のために運用できる」ことが、交渉の場において、火砲として役に立つ
  • 正しく生かすことができれば、それだけで交渉が終了するぐらい、火砲は決定的な威力を持っている。 その代わり、それを生かせる前提作りが不十分な状態で火砲を行使しても、いい結果は得られない
  • 一度「火砲」を行使すると、状況はもはや、後戻りができなくなる

火砲は決定的な威力を持つ反面、それが生かせる状況は限定される。 相手が見えないと撃てないし、風が強かったら外れるし、 1 mにまで接近した相手を狙ったところで、狙いを定める前に襲われてしまう。

砲兵はだから、「火力を持った強い歩兵」などではなくて、 歩兵とは全然違った戦闘教義に基づいて運用しないと力を出せない、 全く別の兵科だと理解する必要がある。

法律という火砲

たとえば法律という武器は、それが正しく行使されれば、交渉の流れを決定する、 強力の武器だけれど、「こちらが合理的な説明を繰り返しているのに、相手がそれを拒否している」という状況が、 前提として成立していなければ、その威力を生かすことができない。

法律家はあくまでも、「法律という火砲」を扱う専門家であって、 法律が生かせる前提作りが為されていないまま、 法律家を「交渉の名人」として交渉のテーブルに招いたところで、状況は解決しない。

弁護士は、「交渉に強い」というイメージを持たれたり、あるいは弁護士の人たち自身、 交渉に強いという自己イメージを持っているからなのか、「弁護士が書いた交渉の本」は、 世の中に何冊も出回っている。

弁護士の人たちは、法律の知識という強力な武器を持っているのに、 「弁護士の交渉学」には、その武器を駆使するやりかたが書かれていない。 「弁護士の交渉学」ではむしろ、自らの、「人としての交渉哲学」みたいなことが、 一生懸命語られる。その内容はたいてい、心理学系の人たちが書いた交渉のコツみたいなことばっかりで、 それを参考にして役に立てようだとか、あんまり思えない。

弁護士はしばしば、職業からは考えられないような失態をしでかしたり、 「職業倫理に反した」振る舞いを犯したりする。あれなんかはたぶん、 法律という決定的な武器が使えない状況におかれながら、それでもなお、 「交渉の名人」であることを要請されて、無理な交渉に足を踏み入れてしまった帰結なのだと思う。

暴力や正義にも使いどころがある

「暴力」という武器も、交渉においては、万能ではあり得ない。 たとえば交渉のテーブルに着いたその瞬間に、「殺すぞ」なんてすごんだところで、 相手がそこから逃げてしまえば、交渉は続かない。警察にでも駆け込まれれば、事態はむしろ悪くなる。

恐らく暴力という火砲が効果を発揮するためにも、いくつかの条件がある。

交渉の場所が外から閉じていること。そこに集まったすべての人が、 言いたいことを言い尽くして、みんな後に引けない状態になっていること。 恐らくもう一つ、「平等に痛みを分かち合う」以外の選択枝が見つけられないという、 こうした前提がそろったところで、交渉を解決するためのきっかけとして、暴力が場から要請されるのだと思う。

火砲には、もう一つたぶん、「正義」というものがあって、市民団体を率いる人だとか、 場合によっては政治家の人たちがこれを使う。正義もまた、前提条件に厳しく縛られる 「火砲」であって、前提条件を満たせないままに正義が発動されても、むしろ使った人が傷ついてしまう。 恐らく「正義」が効果を発揮するためには、マスメディアという、「騎兵」に相当する兵科の援助が必要なんだけれど、 このあたりはよく分からない。

運用は運用でしか解決できない

狙いを外した大砲を、いくら強力に改造したところで、大砲はやっぱり当たらない。

運用の問題は運用で、技術の問題は技術で、解決は、それぞれ別個に行わないと意味がない。

交渉において、「火砲が生かせない状況」を、「火力の増加」によって解決することはできない。 それを試みた砲兵は、たぶん増加したその火力で、自ら損害を被ることになる。

前提作りというものは、恐らくは「歩兵」の、利害に直接絡む、 現場でお互いに、直接交渉に当たる人たちの仕事なのだと思う。

相手を理論で追い詰めるとか、隠しておいた証拠を突きつけてみるだとか、 あるいはちょっとした、「後戻りの効く」程度の暴力をふるうだとか、「歩兵」どうしの、 そんな「白兵戦」が重ねられていく中で、状況がある「前提」に到達する。 それを決定的なものにするために、はじめて「砲兵」が要請されて、火砲は威力を発揮する。

歩兵の戦いかた。騎兵の戦いかた。砲兵の生かしかた。「兵科」が異なれば、 振る舞いかたはみんな異なって、自分の属する兵科の長所を生かしながら、 相手兵科が生きる前提を避ける、交渉は、そんなやりかたをしないといけない。

相手が弁護士だから、マスメディアだから、そういう人たちが乗り込んできたからそれで「負け」ではないのだと思う。

「歩兵」にもまた、歩兵にしかできない、能力の生かしかたがあるのだから。

2009.01.27

もうすぐ家が建たなくなる

何となくだけれど、自分たちの業界では、もうすぐ「家が建たなくなる」予感がする。

業界からは、「いわゆる大工さん」がいなくなる。

煉瓦を積む専門家だとか、かんなをかける専門家はたくさん生まれるだろうし、 そうした「部分の専門家」の腕前は、おそらくは昔ながらの大工さん以上に優秀なんだけれど、 家は建たない。

「家建てる人」を目指している研修医は少ないか、もしかしたらみんな、「家を建てる」ことから逃げている。

部分の専門家

自分が昔習った病院は、「部分の専門家」を生み出す方針だった。

患者さんの方針は上司が決めて、研修医は、まずは手を動かす。

胸水のたまった肺炎の人が入院する。チェストチューブを入れるとか、 人工呼吸器をつなごうだとか、そういう決断は上司が行ってくれて、 研修医は上司の監督下に、手を動かす。

手が動くと、なんだか上手になったようで、やる気が出る。「一人前」になった気がする。

そればっかりやってると、「治る」というのは、部分を積んだ先に、いつの間にか降ってくる何かみたいに 思えてくる。目をつぶって、ひたすら目の前の「煉瓦」を積むことだけに没頭していると、 いつの間にか、そこに「家」ができあがるような。

もちろんそんなことをしても、できあがるのはせいぜい「壁」で、本当は、 指揮をする「大工」がいて、はじめて家が建つんだけれど、「煉瓦の専門家」だった自分には、 それが見えなかった。

震災の昔

「阪神大震災の時、若手が動けなくて大変だったんだよ」なんて、先輩の昔話を聞いたことがある。

自分がまだ学生だった昔、阪神大震災がおきて、当時の若手は大挙して、 現地の救急外来を回すために現地入りしたんだという。

みんな縫えるし切れるし薬も知ってるし、論文だって読む。「手を動かす」ことだったら、 たいてい何だってできるはずなのに、怪我した人を診て、その人が「治ったイメージ」を想像して、 そこまでの道筋をつける、そうした訓練をだれもうけていなかったものだから、 救急外来は最初の頃、まわらなかったんだという。

現地にはそれでも何人か、道筋をつけられるベテランがいて、もちろん現場は動いたのだけれど、 その人たちは「取り替え」が効かないものだから、交代できなくて、ずっと現場に張り付いていたのだと。

あと何年かして、ベテランが現場からいなくなると、このときの状況が再現されそうな気がして、けっこう怖い。

大学には大工さんがいた

神経内科をまわってた頃、大学から来た先生に、「どうしますか?」なんてやること尋ねて、 「この人は寝たきりで返すのがゴールになると思う」なんて返事を聞いて、ずいぶん驚いた。

自分は研修医だったから、予期していた返答は、とりあえずの点滴だとか、治療に使う薬だった。 当時の自分は自分は「治療」を見ていて、その人は、「治癒」、患者さんが退院するときの イメージを描いてた。そういう発想は、そのときの自分になかった。

昔の大学病院は、医局からの派遣でいろんな病院をまわる。当時は「臓器別」なんてハイカラな制度はなかったから、 循環器内科医も消化器疾患を診るし、外科医局には「外科しかいない関連病院」がたくさんあって、 外科の先生たちはたいてい、内科も診た。

知識がないからちゃんとできるわけないんだけれど、適当にやる。何とかする。日本中そうだった。

いい加減だけれど「何とかする」という訓練を積んで、昭和60年ぐらいまでの昔は、 それでもそれが許されたから、医師というのはみんな、「いわゆる大工さん」だった。

「大学のやりかたは根本的に間違ってる」なんて、自分が入った研修病院ではそう教わったけれど、 「いびつな専門家しかいない」はずだった大学病院の循環器内科医局は、 カテ屋さんなのに大腸カメラができたりして、自分なんかよりもよっぽどゼネラリスト揃いだった。

専門家が眉をひそめるような、いいかげんなやりかたであっても、とりあえず何とかして、治して帰す。 治癒のイメージを描く練習は、昔の「専門家」は、病院を問わず、当たり前のようにできていた。

そういう人は今、もう40代超えてて、みんなそろそろ開業したり、「次」を考えてる。 その人たちをみてショック受けた自分たちだって、臓器別の診療科制度が敷かれる以前を知っている最後の世代。

もうすぐ家が建たなくなる

「絵がうまくなる」ためには、とにかく何度も完成させることを繰り返すんだという。 「線を引く練習」だとか、「顔の輪郭描く練習」をいくら積んだところで効果がなくて、 きれいな絵を描くためには、とにかく完成させて、失敗して、落ち込んで、また次を完成させる、 それを繰り返すしかないんだと。

いい加減なやりかたであっても、とにかく完成させる練習を繰り返す、 昔ながらのやりかたは、うちの業界で続けるのは難しくて、 自分にはどうすればいいのか分からないし、処方箋を知っている人は、たぶんいないんだろうなと思う。

誰か患者さんが「家」を買おうと相談して、ひたすらに煉瓦を積んだ「壁」を売られる時代が、たぶんそこまで来ている。

支えのない壁は崩れてしまうんだけれど、文句を言ったら、 「私は煉瓦にベストを尽くしました。壁が崩れても、それは企画を持ち込んだあなたの責任です」なんて返答される。

うちの施設も人がいなくて、夜間の全科当直には、整形外科の先生方にも手伝っていただいて、 田舎の病院はようやく回る。

手広く内科の専門医を標榜する近所のクリニックは、それでも18時を過ぎた頃になると、 「貴院にての専門的ご加療をよろしくお願いします」だなんて、時間外の患者さんを紹介してくる。

「私は整形外科なので、せめて先生、最初の一晩だけでも、内科の指示をいただけませんか?」なんて、 当直の整形外科医は電話対応するんだけれど、応じてくれたことはないんだという。

2009.01.24

法律というカードの切りかた

「プロ法律家のクレーマー対応術」という本の抜き書き。

法律の専門家である弁護士が、「自らの有効な使いかた」を指南してくれる、 おもしろい立ち位置で書かれている本。

あくまでも「弁護士に相談できる」という状況でしか役に立たないけれど、 何というか読むと「勝つ予感」がしてくる。

意味のない責任回避が顧客を怒らせる

  • 単なる責任回避は、交渉の成功に何ら貢献しない
  • 企業側が、意味のない責任逃れをする態度を見せることで、「怒れる顧客」が「悪質なクレーマー」へと変貌してしまう
  • 代理店の過失を、たとえば本社に持ち込まれたとして、 それを「代理店の問題だからうちは関係ない」といった対応を行ったところで、 その責任逃れは、「本社の人」を慰撫する役には立っても、顧客の不満解消には、全く貢献しない
  • メディアを騒がす不祥事などでも、たとえば企業の代表者が「報告を受けていなかった」であったり、 「あれは現場の判断であった」であったり、安易な責任否定を行ってしまうと、むしろ事態を悪化させる
  • 無意味な責任否定はすぐ見抜かれる。相手は納得するどころか、むしろ「奴らは何かを隠している」みたいに、 痛くもない腹を探りはじめる

損害と要求との関連性

  • クレームを受けたときには、まずは顧客の受けた損害と、要求との関連性が検証されなくてはならない
  • 事実の確認がすむまで、次のステップ、たとえば損害の査定や賠償額の提示に進んではならない
  • 企業側が非を認めることと、顧客の被害申告が真実であるかどうかは、全く別の問題。 顧客が要求していることが、その損害の回復と必ずしも関連性がないという場合は、実際よくある
  • 「社長が出てきて謝罪せよ」だとか、「新聞に謝罪広告を」みたいな要求は、 顧客の損害との関連性が見つからないことが多い。こういう要求は、 基本的に損害の回復と関連性がないので、企業側は受け入れなくてもよい
  • 企業側の瑕疵と、顧客の受けた損害、あるいは顧客の要求と、損害の回復と関連が「ない」と 判断されたら、その顧客への対応は、「悪質なクレーマー」によるものとして、法律家の支援を仰いだ方がいい
  • 具体的にはそれは、「要求の拒絶」と、「交渉窓口弁護士移管の文書の郵送」という手段になのだという

堂々巡りを目指す

  • 「おまえは顧客の言うことを信じないのか?」と問われたときには、切り返しかたがある
  • 「お客様の被害申告を先入観なく拝見しましたが、そこに不自然なものがあり、それについて、 私どもが合理的な説明を求めても、お客様がそれをなされなければ、客観的に見て、 そのような被害申告事実を前提で賠償することはできないということです」と言えばいい
  • こうすると、話が堂々巡りのループに入る。状況をループに落とし込んでから、交渉窓口を弁護士に移管するとうまくいく
  • クレームに対して、「こちらが合理的な説明を繰り返しているのに、相手がそれを拒否する」という状況が成立して、 はじめて「法律」というカードが生きてくる

交渉は現場レベルで行う

  • クレーム対処は面倒で、現場はむしろ、話を上へ、上へと放り上げたくなる。「上」もまた、対処面倒だから、 むしろ「現場でやれ」なんて言う。正解は「現場」なんだという
  • 「社長を出せ」には返しかたがある。「上に話させろ」に対しては、 「事実関係の確認と報告については、私が責任者ですので、事実関係についてのお話は、私がお聞きします」と答えればいい
  • 相手から言質を取られないコツは、「自分には決裁権はないが、事実調査については自分が責任者である」という 立ち位置を貫いて、事実関係の確認に集中するということに尽きる
  • 謝罪とか、賠償の話題については、事実を明らかにした上で、改めて決裁権のある人間から話をしてもらえばいい。 この部分は逆に、「上」がやらないといけない
  • 「念書」の効力は絶対で、だから書いてはいけないんだけれど、その気になれば撤回できるらしい。 その代わり急がないと無理で、「危ない」と思ったら即座に、弁護士名義で念書撤回の通知を出さないといけない

法律家の手紙の使いかた

  • 「クレーマー」との連絡は、基本的に普通郵便で行う。必ず書面で行い、電子メールなどを使ってはいけない
  • 手紙であることには意味がある。大切なのは「返答のしにくさ」であって、電話だとか、メールのような、 気軽に反論できるメディアを使うと、相手の怒りを増幅する
  • 不思議なもので、郵便のような形で書面を受け取ると、相手もまた、 郵便という手段を使わないといけないような気分になるのだという
  • 手紙を書いて投函するという作業は、やってみると意外にハードルが高いので、 相手側に「不当なクレームを要求している」という後ろめたさがあれば、それだけで、 話が終わってしまうことも少なくない
  • 私見。「鉄人」ルーテーズ(たぶん)が、昔同じことを言っておられた。 必殺技のバックドロップを相手にかけるためには、まずは「ヘッドロック」をかけるのだという。 執拗なヘッドロックを受けた相手レスラーは、不思議なもので、必ず同じ技でやり返そうとする。 ヘッドロックを予期していたルーテーズは、満を持して相手の腰に手を回して、 そのままバックドロップで相手の息の根止めるんだという
  • 手紙は普通郵便で送るべきで、内容証明を使ってはいけない。 クレーマーは警戒心が高いので、内容証明などを送りつけると、警戒して、受け取ってくれない。
  • 内容証明郵便は、法律家の文脈だと、「誠意ある手紙を出したのに、相手は受け取ろうともしなかった」という 既成事実を作るための道具であって、確実に読んでほしい手紙は、むしろ内容証明を使ってはいけないんだという

弁護士移管通知の注意点

  • 手紙もまた、「相手に使われる」可能性に注意した内容にしないといけない
  • 具体的には、通知文の中には、彼らの不当な要求を、なるべく具体的に記述する
  • 「要求が不当なので交渉できない」のような、あいまいな記述を行ってしまうと、 これをネットで公開されて、「彼らは要求に対して、一方的に交渉を拒絶してきました」といった説明をされたりして、 大損害になることがある
  • 「100万円の寄付を求められた」だとか、「社長の土下座を要求された」だとか、 顧客の行った要求が具体的に書かれた文書は、こうした利用を抑制する効果が期待できる

勝つ予感のこと

この本自体は、読むともっと「きれいな」部分もたくさん書いてある、交渉の入門書なんだけれど、 読むとなんだか、よくできた任侠映画を見たあとみたいな、「勝つ予感」みたいな感情が残る。

勝つ予感を持たせるためには、やっぱりデザインという要素が大切で、この本だとそれは、 「とにかく堂々巡りの状況に相手を追い込んでくれれば、あとは弁護士が出撃して粉砕だよ」という、 筆者なりの、必勝イメージがきちんと描かれていることなんだと思う。

どんなやりかたであっても、いつかは必ず攻略できるし、作者が提示する処方箋は、 たとえば病院でそのまま使うことはできないんだけれど、作者の人はたぶん、 たしかに自分なりのやりかたで、今まで何度も鉄火場潜ってきて、生き残ってきたんだろう。

使い古されているけれど信用できる、AK47 みたいなやりかたというか、 こういうやりかたを目指したいし、実践したいなと思った。

2009.01.22

ThinkPad T61 のSSD 化

今使っているノートパソコンにSSD を導入したときの覚え書き。

準備したもの

  • SSD 。インテル製の、2.5インチ 80GB の製品。安売りで44000円だった
  • 未使用のCD-R 1 枚、DVD-R 2 枚。リカバリーディスク製作用に
  • SATA 2.5インチの外付けハードディスクアダプター。電気屋さんで1500円

いろんなやり方はあるけれど、ThinkPad での換装が結構大変だったなんて記事を読んだばっかりだったから、 今回は無難に、ハードディスクを入れ替えて、 リカバリーメディアから購入時の環境を書き戻して、使用中のアプリケーションを 全部入れ直すことにした。

リカバリーメディアを作る

ThinkPad のリカバリーメディアはハードディスクに格納されているので、 まずはこれをDVDに書き出さないといけない。

「EASEUS Disk Copy」 のようなフリーウェアを使えば、何も考えないでハードディスクを丸々 コピーできるみたいだけれど、このアプリケーションは、引っ越し先のメディアが、 元々のメディアよりも容量が大きいことを前提としているみたい。

今回は120GBのハードディスク-> 80GBのSSD への引っ越しなので、そのあたり不安で、 使わなかった。

Lenovo リカバリー・メディア を作成する方法で公開されている手順に従って、まずはレスキューCDを、次にリカバリーDVDを、 それぞれ用意したブランクメディアに書き出した。ThinkPad 本体だけあれば、 特にライティングソフトなど用意しなくても大丈夫。

レスキューCD 用途にCD-R 1枚、リカバリーメディア用途にDVD-R 2枚が必要だった けれど、全部まとめてDVD-R 2枚でもよかったらしい。

全部で30分ぐらいかかる。

SSDの入れ替え

ThinkPad はねじ一本外せば、HDD の交換ができる。

以前SSD を入れ替えたときには、微妙な厚さの違いで苦労したけれど、 今回はHDDを抜いて、そのまま新しいSSDを入れるだけで、何の問題もなかった。

入れ替えて電源を入れると、BIOS だけが立ち上がる。ハードウェアとして 認識しているメディアをリストアップして、「Operating System not found 」 というメッセージを返すので、リストの中にインテルのSSD が入っているのが 確認できれば大丈夫。

リカバリー

内蔵DVDプレイヤーにレスキューCD 投入-> 指示どおりにリカバリーDVD 投入で、 ノートパソコンを買ったときの状態が、そのまま書き戻される。1 時間以上かかる。

再起動を何回か繰り返したあと、 最後にパスワードを聞かれるので、任意の文字を入力して終了。

リカバリーメディアからSSD に書き戻してみて、新しいSSDには、Cドライブと、 隠し領域として5GBぐらいの、リカバリ用の領域も一緒に書き戻されていた。便利。

このあとインターネットにつなぐ。

Lenovo のサイトにつないでドライバや周辺アプリケーションの更新を行ってから、 Windows Update につないで、WindowsXP のSP3 その他の更新を行う。

全部で700MB近くダウンロードしないと終わらない。

アプリケーションを入れる

今まで使わせてもらっていたアプリケーションを、もう一度ダウンロードする。

  • avast! 4 Home Edition: フリーのアンチウィルスソフト。メール登録すると12ヶ月使えて、再登録で 使用期間を延長できるので、事実上ずっと使える
  • ZakuCopy:リンク集作るのに欠かせない、右クリックの 拡張アプリケーション
  • サクラエディタ:標準的なテキストエディタ
  • OpenOffice:MSオフィスプロフェッショナル相当の機能がすべてついてくるフリーウェア。1年ぐらい使っているけれど、とりあえず一度も困っていない
  • Lhaplus:圧縮/解凍ソフト。RAR ファイルの解凍にわずかに不安を残すことがあるけれど、あとはほとんどの圧縮形式に対応しているので便利
  • JTrim:画像を扱うソフト。動作が軽い代わり、 できることは限られるけれど、PhotoShop が必要な状況というのが絶無だから、 学会用のスライド作るぐらいなら、これで十分だと思う
  • Sleipnir:タブブラウザ。 間違いなく、普段一番使っているアプリケーション
  • SeaHorse:Sleipnir 用の プラグインソフト。AutoPagerise をIE で使うときに必須
  • SeaHorse 用 AutoPagerise: インターネットの「次のページ」を、クリックしないで勝手に読み込んでくれるプラグイン。 地味な機能だけれど、一度使うと、これがなかった昔が思い出せなくなるぐらい便利
  • 窓使いの憂鬱:キーバインドを変更するためのソフト。 自分用のキーボード配列が特殊すぎて、もうこれでないと無理
  • tuneapp:OS の細かい動作を 変更してくれるソフト。もう何度も使ったけれど、安心感高い
  • 「窓の手」:tuneapp と同じく、 OS の動作を変更するためのソフト。こっちの方が定番だけれど、お互いの機能が住み分けてるから両方必要
  • Tween:twitter の専用 クライアント。今はこのソフトを「スタートアップ」に登録して、 1 日中立ち上げっぱなしにしている
  • Firefox:ブラウザ。普段はIE にSleipnir しか使っていないのだけれど、Google デスクトップとSleipnir とを 連携させるのに、これが必要になる
  • Google デスクトップ – ダウンロード: ハードディスク内部にインデックスを作成して、検索が可能になる。 これを使うようになってから、もうずっと、ハードディスクの 整理を放棄しているけれど、たいていのファイルは探せる。Googleデスクトップから 検索すると、Sleipnir が立ち上がらない。Firefox を入れてそれを回避する 方法というのがあって、いかにも大げさなんだけれど、やると快適
  • FFFTP:FTP クライアント。ホームページ作るときの、 基本中の基本みたいなソフト。blog 作るようになってからはあんまり 使わなくなったけれど、最初はこれがないと始まらない
  • Texインストーラ: LaTeX のインストールを全自動で行ってくれるインストーラー。全部デフォルト設定のままでいける
  • WinShell:LaTeX 用のエディタ。 科研費マクロを利用して紹介状を書いているので、これがないと仕事にならない
  • TrayExpand: タスクトレイに入ったソフトを、ホットキーで瞬間起動してくれる。Tween と 組み合わせて使っている

とりあえずこれぐらい。全部C ドライブ。

フリーで公開されていたIME 用の医学辞書が、いつの間にか有料化していたり、 あるいは公開を終了してしまったりで、見つからなかったのが悲しい。

全部入った状態で、ハードディスクは14GB ぐらいになる。

追記:サクラエディタの文字数カウントマクロを 入れた。

リンク先から Count.js をダウンロードさせてもらって、C:\Program Files\sakura に入れる -> [設定]-[共通設定]のマクロタブを選択 -> IDに開いているマクロ番号を指定 -> 名前に任意の名前をつける -> Fileに Count.js を選択 -> 設定ボタンで終了。

ATOK を入れる

ATOKなら3倍速く打てる、と話題になった頃に購入して、戻れなくなった。

今までずっと、MS-IME を使っていたけれど、一度ATOK に慣れてしまうと、 圧倒的に早く原稿が作れる。「先生におかれましてはお忙しい中大変申し訳ありませんが」 とか、定型文がCtrl+Shift で一発入力できるのが、紹介状とか 作っているときには本当にありがたい。あれはもう、 長々と定型文を打ち込むだけの単純作業だから。

自分用に設定したときのメモ。

  • スペースキーでは絶対に半角が入るようにした。 ATOKプロパティを起動->[入力・変換]-> [入力補助]-> [スペースキーで入力する空白文字]で、「常に半角」を選択
  • MS-IME の使い勝手にしないと、キーの打ち方が全然違うから厳しい。 ATOKプロパティ->[現在のプロパティ]-> MS-IME に設定する
  • IME のオンとオフとを明示的にやりたかったので、「キーカスタマイズ」の 項目から「変換」「無変換」キーのすべての動作を削除して、 「変換」に「日本語入力ON」を、「無変換」に「日本語入力OFF」を、 それぞれ割り当てた

ATOK 用の医学辞書が公開されていないのが、とにかく厳しい。「ライフサイエンス辞書プロジェクト」 が、昔はフリー辞書を公開していたはずなのに、気がついたら有料化していた。

あんまり大規模な医学辞書を入れてしまうと、パソコンが「医学専用」の変換候補しか返さなくなって使いにくいから、 せいぜい1万語ぐらいの、小規模なものがあるとありがたいのだけれど。

追記:コメント欄にて一万語医学辞書 というものがあると教えていただきました。

.exe ファイルを展開するときにエラーが出ますが、無視して「解凍」を選択すると、テキストファイルの辞書データが展開され、其れをMS-IME の辞書ツールを使って読み込み、さらにATOK の「辞書インポートツール」を使ってMS-IME の 辞書をインポートすると、ATOK で4万語規模の医学辞書を利用することができました。

LaTeX を入れる

今はいいインストーラーがあるので、クリック一発で全部入るんだけれど、 今まで使っていたスタイルファイルだけは、昔のパソコンから持ち越さないと、 過去に作った原稿が生かせない。

  • flow.sty
  • nassi.sty
  • teikei.cls
  • youshi.sty
  • html.sty

をそれぞれ C:\tex\share\texmf\tex\latex に展開して、「mktexlsr」の コマンドを入れて終了。今はこれをしなくてもいいのかも。

WinShell のマクロは移動できなかったから、これは全部入れ直さないといけない。 コマンド入力支援機能がWinShell にはついていないのだけれど、これは ATOKの辞書に単語登録してしまった方が早いのかもしれない。

WinShellは、マクロの中に cur と入れておくと、そこにカーソルが入るので便利。

今のところここまで。

感想

インテルのSSD は、今市販されているものの中では早いほうだけれど、パソコンの起動は、 確かにちゃんと体感できるぐらいに早くなる。

重たいアプリケーション、OpenOffice だとか、アクロバットリーダーなんかもまた、 SSD に入れ替えてから、たしかに軽快に立ち上がるようになって、ちょっとだけ気分がいい。

その他のアプリケーションは、そもそも1日中立ち上げっぱなしであったり、 元々が軽いソフトで、起動に1秒かからなかったりで、体感できるような差は生じない。

ベンチマークを取ってみると、読み出しが130MB/sec、書込が65MB/sec 前後で、 ちょうどThinkPad T61P にインテルSSDを導入した方と同じ数字だった。

インテルのSSDは、読み出し速度 250MB/sec が公称値だから、性能は生かされていないことになる。 今までのハードディスクが、読み出し、書込ともせいぜい50MB/sec ぐらいらしいから、 十分速くはなっているんだけれど、 この時期のインテルのチップセット自体が、 そもそも150MB/sec ぐらいまでしか想定して作られてないらしくて、自分のパソコンに関して言えば、 インテルのSSD は性能が過剰だったことになる。

動作をもっと軽快にするために、WindowsXP のEnhanced Write Filter という機能を使うと 爆速になるらしいのだけれど、権利的にグレーっぽかったり、何よりもハイリスクらしくて、 悩み中。

以下今後の参考に

2009.01.20

交渉には語彙が足りない

「平和を欲するならば戦争を理解せよ」 みたいな金言を、交渉ごとに持ってこようとすると、 困ったことになる。

コミュニケーションについての文章を書くなら、金言は 「○○を欲するならば、交渉を理解せよ」なんて文章に ならないといけないのだけれど、「○○」に相当するもの、戦争という手順が目標として想定する「平和」に相当する何かが、 交渉には存在しない。

交渉という手段が、「目標」として想定する何かは、 「交渉」という行為を描写するための単語リストに、そもそも存在しない。

交渉を行って、とりあえずそれに「勝った」として、じゃあそこで何を目指すのか、 たぶん想像以上にたくさんの人が、それを想定しないのだと思う。

「交渉学」を記述するための言葉

交渉ごとにおける目標、「交渉の成功」というものを、何らかの「組織」、 友人同士のコミュニティから会社組織に至るまで、何らかの序列構造の中において、 相手よりも上位に立って、その状況を維持することであると、とりあえず定義する。

目標が決まって、はじめてやるべきことが見えてくる。

まず最初に、自らが置かれている「地形」の把握が為されなくてはならない。

  • 相手と自分とを比較して、どちらが「高い」位置に立っているのか
  • 「地形」というものは絶対的なものなのか、それとも論理や暴力といった手段を用いて、相対的に変更可能なものなのか
  • 自分達が置かれている「地形」は、それが武器として利用可能な程度に険しいものなのか、 それとも無視しうるぐらいに平坦なのか

交渉を始めるにあたっては、だからまずは「自分を知る」ことから開始しないといけない。

地形要素の強い場所で交渉を行うならば、場所の概念が主要になる。交渉の成否は、 この場所において、あるいはむしろ、この場所によって決定される。 議論が上手であること、自ら正当性を保持していることといった、「人」に属する能力は、 それが「地形」に影響を与えない限りにおいて、意味を持たない。

相互が置かれている状況が、「地形」を持たないフラットな場所であるとお互い認識されて、 そこではじめて、「情報」というものが要請される。

  • 相手はどんな人間なのか。その交渉にどれぐらい力を入れていて、交渉の期限をいつまでに設定しているのか
  • どんな知識を持っていて、どんな交渉技法を得意としているのか

こうした「人」に属する情報は、交渉に「地形」効果が援用できない場所にいたって、 初めて意味を持つ。お互いが遭遇するまでの間に集められた情報量、自身が持つ最大火力と手数が、 交渉の成否を左右することになる。

交渉ごとというのは本来、ある目的があって、それを達成するやりかたが、こんなふうに導き出される。

原則立脚型の、「人」要素を交渉から排除する立場を取る「ハーバード流交渉術」の考えかたと、 詐欺師のテクニックだとか、心理学のテクニックみたいな、相手を「騙す」ことを狙った交渉術とは、 そもそも「交渉戦略」の中で、それが有効に働く場所が違うから、個人の中で、矛盾なく両立する。

ところが「交渉の言葉」には、まず「戦略」と「戦術」に相当する、階層性を持った交渉の表現が存在しない。

目標を決めるところから、実際に、個人と個人とが対峙する状況に至るまで、「交渉」には、 いろんなスケールがあるはずなのに、それを表現する言葉は「交渉」ひとつだけだから、 世の中にはあたかも無数の「交渉術」があるかのように見えて、混乱する。

今は暫定的に、目標を達成するための「戦略」に相当する言葉を「交渉」に、 個々の戦闘に勝利するための「戦術」に相当する言葉に「対話」を当てている。 もっとふさわしい言葉を探しているんだけれど、見つからない。

目的のある人は少ない

交渉を表現するための単語セットには、「交渉」という、ただひとつの言葉しか存在しないから、 そもそも交渉の階層性という考えかたがないし、階層がないから、 交渉の言葉では、「目的」もまた、記述できない。

恐らくはたぶん、交渉というものに、目的を持って臨む人というのは、実は少ないような気がする。

「交渉」に臨んで、みんなとりあえず「論破」を目指すけれど、目的も、戦略もそこにはないから、 せっかくの「勝利」を結果に結びつけられなかったり、「努力したのに報われない」だとか、 本来なら筋違いな怒りかたをする人がでてくるのだと思う。

湾岸戦争前夜のホワイトハウスを描写したドキュメント「司令官たち」には、 「文民」の人達が「武力」のカードを切ろうとしては、 軍人が「今は止めるべきです」なんて進言するという状況が、何度も繰り返される。

ブッシュパパをはじめとする「文民」側の空気は、「とにかく軍事行動」でおおむね一致しているのに、 それを一緒に聞いていた国防長官は、それでもその時、何をすればいいのか、いっこうに見えなかったんだという。

まず必要なのは、「軍事目標」と「任務」なのに、みんな「ならば戦争だ」とか盛り上がっているのに、 戦争するなら何を目的とした計画を立てればいいのか、イラクへの報復なのか、 それともクウェートの解放なのか、それともサウジアラビアの防衛なのか、そういうものを、誰も決めなかったのだと。

いろいろあって、「とりあえずサウジを守ろう」なんて結論が出て、 米軍の先遣隊が向かった矢先、ブッシュパパは「イラク侵略を逆転させる決意を持っています」 なんてメディアに語って、パウエル国務長官はびっくりしたらしい。 サウジの防衛と、クウェートからのイラク軍放逐とは、同じ「戦略」からは、決して出てこない目標だから。

戦略家のリデルハートは、「複数の目標を考えよ」と説く。

同じ戦略から到達しうる目標を複数用意しておけば、成功率は高まるし、 相手は目標が予測しにくくなるから、戦いを有利に進められる。リデルハートは軍人だから、 軍人にとって、絶対動かせないものは「戦略」であって、「複数目標」の前提は、 あくまでも「単一戦略」であるように思える。

政治家の人達は、武力を行使すれば、目的は達成できるなんて考える。 軍人にとっては、戦争というのは予想しがたいものであって、明確で、 達成可能な目的が示されて、そこではじめて、取りうる手段のひとつとして、 選択枝に上がってくるものなのだという。

軍人というのは、政治家から提出された、「目的」を達成するためのプロであって、 目的がなければ、動けない。政治家は、目的立案のプロでなくてはならないのに、 たぶん「プロ」である政治家は、案外少ない。

出来れば将来、交渉の本が書けたらいいな、なんて思って、言葉を探してる。

で、軍事方面の考えかたが面白くて、それを「交渉」に移植しようなんて考えて、 やってみると、語彙が足りなくて、「交渉の言葉で交渉を語る」ことが、 とんでもなく難しい。

こういうのは、日本語だけの問題なんだろうか。。

2009.01.16

属性が事実を編集する

ある属性が付加されたその瞬間から、その人の振る舞いは、属性により、事後的に編集される。

たとえば「高慢で冷淡」という属性を貼り付けられた人は、どれだけ丁寧に、 へりくだった振る舞いを心がけたところで、振る舞いの中から「高慢で冷淡」な部分だけを 切り出され、属性どおりの人間だと思われてしまう。

事実として、その人がどんな振る舞いを行おうと、観測者には、先入観にかなった部分だけが認識される。

自らに付加された属性を理解しない限り、漠然と丁寧な態度を心がけても、 その努力は、実体として、その人の置かれた境遇を変えるだけの力を持ち得ない。

血液型性格仮説は正しい

血液型仮説は間違っているけれど、たとえばA 型の人というのは、 社会の中ではやっぱり「A 型っぽい」と思われる。

「A 型はまじめだけれど頑固」なんて先入観を持つ人は、A 型の「A 型っぽい」振る舞いに注目する。 A 型がどう振る舞おうと、わずかでもまじめに見える部分があれば、「さすがA 型」なんて評価されるし、 わずかな意見のすれ違いがあれば、「やっぱりA 型は」なんて納得される。

血液型仮説の理屈は嘘かもしれないけれど、現象としての血液型と性格との相関は、 血液型性格仮説を信じる人達にとっては、紛れもない真実としてうつる。

「血液型によって性格が規定される」が真であるかどうかは分からないけれど、 「A 型の人が血液型を公開されると、周囲はその人のA 型っぽい振る舞いに注目するようになる」は、 真実だと思う。

太陽黒点活動と景気循環との連動なんかもそうなんだろうけれど、 多くの人が抱く、科学的な根拠に基づかない先入観みたいなものが連鎖すると、 それはいつしか、実体としての力を持ってしまうのだろうと思う。

「科学的」には間違っているかもしれないけれど、なぜか社会で通用してしまう、 こんな法則は、頭からそれを否定する人よりも、それを信じたり、利用できたりする人のほうが、 社会ではたぶん「うまくやる」。

科学的であるということ

たとえば「血液型の分からない人を部屋に入れて、血液型信者の人がその人の血液型を当てる」、 という実験系を組むと、血液型仮説を信じる人は、たぶんその人の血液型を当てられない。

一方で、血液型性格仮説を全く信じない被験者を用意して、その人の血液型を公開した上で、 どこか実社会で生活してもらって、1 年後ぐらいに近隣の人達からアンケートを取れば、 その人は「典型的なA 型人間」だなんて認識されている可能性が高い。

人間の振る舞いを評価する実験系に、「人間には前知識がない」という前提を置くのは、 やりかたとしてもちろん正しいんだけれど、社会を理解する上では、 ずいぶん現実と隔たったやりかたにも思える。

科学というものさしで真偽を評価するためには、どこかで安定した、不変の状況を想定しないといけない。 状況そのものが、その仮説により変容してしまう、血液型仮説だとか、太陽黒点による株価変動だとか、 そういうものを評価するための道具として、いわゆる「科学的」なやりかたは、 限界があったり、そもそも実体として「うまくやる」役に立っている、 そうした知識を評価することが出来ないような気がする。

属性とつきあわないといけない

医療ボランティアの人達による、医師の外来接遇講習会みたいなやりかたには、だから意味がないのだと思う。

ありがたくも医師を「矯正」してあげようだなんて、そんなボランティアの人達というのは、 もちろん本人は全否定するだろうけれど、「そもそも医師は高慢で冷淡だ」なんて、 そんな前提で動いてる。

ボランティアの人達は、わざわざ自分の時間を割いて、自分の前提を確かめるために講習会に参加する。 努力は報われないといけないから、参加した医療従事者は、どんな振る舞いを行おうとも、 「高慢で冷淡」という属性からは逃げられない。

講習会による「矯正」には何の意味もないけれど、ボランティアに参加するような人達の話は、 きっと役に立つ。

自分に貼られた属性が理解できれば、それとつきあって、自らの力として、利用することだって出来る。

それがA 型の人ならば、普通の成果を上げても、「精密である」と評価される反面、 些細な瑕疵でも、失敗は、しばしば実態以上にその人の評価を下げるから、避けないといけない。

医師に貼り付けられた属性が、「冷淡で高慢」ならば、冷淡さにつながる状況、 たとえば「否定」というカードを、交渉の場から追い払う努力をしないといけないし、 たとえば「診察室の外で、患者さんを気遣う」みたいな、ごくささやかな「やさしさの演出」から、 極めて大きな効果を得ることも出来る。

自分に背負わされたステレオタイプを理解して、それを生かした振る舞いをすることは、 「科学的」には意味がないけれど、きっと実社会で「うまくやる」役に立つのだと思う。

2009.01.15

一貫性の誤謬

経営が迷走した企業だとか、政府に対しては、「一貫性を持った対応が為されていない」なんて批判される。

「一貫性なくしてビジネスに勝機なし」なんて断言する、成功した経営者もいる。

こういう考えかたは間違っていると思う。

成功した人には一貫性が観測される

成功したプロジェクト戦略のことごとくは、あとからそれを振り返れば、 リーダーの、一貫した判断に基づいた運営が為されているように見える。

経営判断や政治、戦争の判断に至るまで、「判断の一貫性」というものは、 まず必ずといっていいほど観測されて、「一貫性は大切だ」なんて思われる。

ところがたぶん、「成功したプロジェクトには一貫性が観測できる」ことはたしかだけれど、 そのことは決して、「一貫した判断に基づいたプロジェクトは成功する」ことを意味しない。

「一貫した判断が観測された」プロジェクトのリーダーは、プロジェクトが進行しているその時は、 一貫した基準に基づいて、何かを判断していない。

幅の広い道路を、ただまっすぐ走る。 ある人は真ん中を走るし、ある人は、端っこを走る。対角線に走る、迷惑なドライバーだっている。 流れに従う車もいれば、前の車にただついていく人もいる。
外からそれを観測するかぎり、「走りかた」にはいろんな流儀を見いだせるけれど、走っているドライバーは、 「自分のポリシー」なんて考えないで、目的地まで、安全にたどり着くことだけを考えている。

成功したプロジェクトを外から眺めれば、必ずといっていいほど、何か一貫した判断基準が観測できるけれど、 そんな事例をいくら集積したところで、「一貫性が大切だ」という結論は、出してはいけないのだと思う。

たぶん現場でやられていること

状況は見えない。それはたぶん、どれだけ天才じみたリーダーにおいても変わらない。 あらゆる判断は、チームが対峙した状況ごとに、不十分な情報に基づいて、場当たり的に行われる。

判断はだから、合っていることもあれば、間違っていることもある。 自分が考え、行動していることは果たして正しいのか、行動方針を決めて、 それを観察しているのも自分自身だから、正解は見えないし、 系の中からは、「絶対的な正しさ」なんか、判断できない。

成功したリーダーは、たぶん「成功しそうな」ことだけを考える。 判断の都度、自らの「一貫した価値基準」を確認したりはしない。

成功したリーダーはその代わり、自分の正しさを信じない。

手元に集まる情報が不十分なときには、「どちらに転んでも大丈夫な」ように判断を下すし、 それすらできないとき、「これまで自分はどんな基準に基づいて判断を下してきただろうか? 」なんて、 自問することしかできない状況に陥ったなら、判断を放り出して、一刻も早く、その状況から逃げ出すことを考える。

結果として「成功するリーダー」には、あとから観測すれば、 必ずといっていいほど「一貫した判断基準」を見いだすことができるけれど、 一つのプロジェクトが終了するまで、リーダーには「一貫した基準」など存在しないし、 むしろリーダーが「一貫した基準」にこだわったその瞬間、「成功するリーダー」は そこから逃げ出すから、そのプロジェクトもまた、失敗から逃げられるのだと思う。

警報としての一貫性

「自分は正しい」と思ったその時にこそ、自分自身を信用してはならない。

「一貫した判断を重視せよ」という言い伝えは、だからそんなものが自分の内面に形成されたり、 普段なら気にもとめない、「自らの一貫した価値基準」なんてものが頭をよぎったその時には、 その人はすでに、危機的な状況に足を踏み入れていることを自覚すべきだ、と解釈すべきなんだと思う。

病棟で働いていていると、「一点全賭け」状態になって、 結果を待つこと以外何もできない状況に陥ることがある。

不明熱の患者さんなんかを診察していて、「これは○○ウィルス感染症に違いない」なんて、 特殊な検査を提出して、結果が出るまでの4 日間、無為に過ごすしかないような状況。

自分が一度そう判断してしまったものだから、待っている間、患者さんに対して 別の介入を行うことが、何となくためらわれる。「分からなかったら病歴を振り返れ」だとか、 「症状に表れない病気は考えなくていい」だとか、偉い先生達の教えに従ったところで、 「自分は正しい」なんて考えかたに取り憑かれてるから、判断はもう、覆るどころか、 待ち時間の間、根拠のない確信だけが膨らんで、状況は何も変わらない。

診断が「当たり」だったなら、話はそれで丸く収まるんだけれど、 予想が外れたら、その間に失われた患者さんの時間がすごい重圧になって、 頭の中には「代案」なんて浮かばなくて、目の前が真っ暗になる。

こんなことを繰り返していると、「この病気だろう」なんて確信が生まれて、 他の選択枝が失われそうなその時、すごく嫌な予感がするようになる。一貫性が頭をよぎると、 自分なんかは恐慌状態になって、その状況から逃げだしたくなる。

そうなったらとりあえず、自分を全力で否定することにしている。

採血検査を、同僚10人が10人「馬鹿」と判定するぐらいに広く提出して、 怪しそうな場所を、造影なしのCT スキャンで広範囲に撮影して、とにかくまず、 全力で「馬鹿で哀れな医者」を目指して突っ走ってから、いろんな科の先生に泣きついて、意見を仰ぐ。

過誤というのは、おきる時までは自覚されない。思い込みを、その人の力だけで覆すのは不可能に近い。

不可能だからこそ、それが危険だからこそ、自らの正当性を裏打ちするような「一貫性」が 頭をよぎったその時には、それを警報と受け取るべきなんだと思う。

2009.01.14

否定しない外来対応

否定から決定的な対立が発生する

  • 「あなたに抗生剤は必要ない」
  • 「どうしてこんな時間に来たの? 」
  • 「あなたの病気は専門外だ」

たいていの場合、主治医のこんな「否定」をきっかけにして、決定的な対立という状況が発生する。

医師と患者とは、しばしば思惑が異なっていたり、利害が対立することがあるけれど、 お互いの社会的立場であるとか、病院という場所の特殊性であるとか、 様々な要素が挟まることで、病院での対話からは、対立の発生が回避されている。

医師が何かの「否定」を宣言して、たいていの場合、相手がそれで納得することはありえない。 患者さんはだから、「本当に大丈夫なのですか? 」とか、「何かあったらどうすればいいのですか? 」だとか、 否定に対して疑問を返す。

最前に「否定」を配置する、医学的な正しさを優先した、教科書的な対応を行ってしまうと、 そこを突破された場合、職業上、「負け」を認めることが許されない医療者にとって、 「否定」を繰り返すこと以外、できることがなくなってしまう。

病院内では、個々の対話においては「否定」を回避しつつ、最終的に、 医療者側の意図を患者さんに納得してもらう、交渉の目的となってくる。

縦深に配慮する

たとえば抗生物質の処方を求めて来院した患者さんに対して、 「あなたにそれは必要ありません」という対応を行うことは、 たとえそれが医学的に正しいことであっても、わざわざ病院まで出向いてきた、 相手の努力を否定することにつながる。

どんな形であれ、努力は報われなくてはならず、医療者側は、それを否定してはいけない。

抗生剤を求めた患者さんに対して、それが「いらない」と判断されたのなら、 まずは「必要かどうか調べましょう」という譲歩を行い、なおも納得してもらえないのならば、 今度は「点滴をしながら経過を見ましょう」だとか、譲歩の余地を広げていくやりかたが正しい。

譲歩と妥協を繰り返すことで、相手の浸透圧力を吸収することを狙うやりかたは、相手との決定的な対立を回避しつつ、 医療者側の譲歩と引き替えに、患者さん自身による「納得」を得ることを目指す。

譲歩の過程で「納得」が得られたならばそれでいいわけだし、調べたり、経過を見た結果として、 本当に抗生剤が必要な状況が発生したのなら、医療者は「負け」を認めることなく、患者の需要に応えることができる。

目的を手段に適応させる

時間外のような、医療者側に提供できるサービスが限られた状況で、 患者さんに対して「どうしてこんな時間に来たの ?」などと問い詰めるのは、 やはり相手に「否定」の印象を与えることで、決定的な対立を生み出してしまう。

あらゆる可能性に配慮した、「教科書的な」対応を行うためには、 時間外の医療リソースはしばしば不十分だけれど、 その責任を患者側に求めたところで、相手の不興を買うだけの結果しか得られない。

医療の目的は、その状況に置かれた医療者が取りうる手段に、適応されなくてはならない。

夜間で十分な検査ができないのなら、その時間に来た患者さんを叱るのではなく、 教科書的な、十分な対応を行うために、その人に入院を求めたり、点滴をつないだ状態で、 朝まで待ってもらうようお願いしたほうが、トラブルになりにくい。

「今の時間は不十分なことしかできません」でなく、「十分なことができる時間まで、 一緒に待ちましょう」と提案するやりかた。患者さんがそれを断るならば、 「否定」を宣言したのは相手側だから、医療者側の責任は、多少なりとも軽減できる。

代替案を用意する

やはり夜中に来た患者さんに対して、「今は○○がないので不十分なことしかできません」 という返しかたをすると、「じゃあ○○をこれから用意して下さい」なんて返される。

対話においてはだから、常に代替案が用意されなくてはならない。

「教科書的な、正しい対応を行う」ことが本来の目標ならば、 それができない状況においては、たとえば「朝まで一緒に待つ」といった代案は、 医療者側が提示しないといけない。患者側から「こうしてほしい」という提案がなされて、 医療者側がそれを「否定」する状況が発生してしまうと、今までなされた対立回避の努力は、 全て意味を失ってしまう。

代案が用意できない状況が予想できたなら、医師は一刻も早く、「負け」を認めなくてはならない。

夜間の内科当直に「子供の多発外傷」がやってくるケースなどは、もちろん実力的に十分な対応が 出来るわけもないのだけれど、ここで「自分は専門じゃない」という断りかたをすると、 「専門外でもいいから診て下さい」という、患者さんからの「代案」が提案されてしまう。

診療の困難が予想される患者さんからの依頼に対して、暗黙に「私は診られません」を 宣言したいのなら、「専門外」ではなく、真っ先に「私には診療する能力がありません」と 宣言して、「代案」が発生する余地を無くさないといけない。

2009.01.13

医療交渉のこと

医師向けの交渉マニュアルみたいなものが欲しいな、というお話し。

医師という人種について

冷淡で、尊大で、独立心が強い。たいしたことを話すわけでもないのに、出会ったその瞬間から、 「あなたの問題点は全て把握済みである」かのような態度を取って、間違えがあっても容易にそれを認めない。

医師という人種は、たぶんこんなステレオタイプを通じて、その人間性を理解される。

不測の事態が生じたところで、もちろん「不測」が許されるわけもない。 病院内では、医師にとってはあらゆる可能性が「織り込み済み」であって、 何が起きたところで、当然のようにそれに対処することを求められる。

前提を覆す努力は、たいていの場合、無意味なものになる。へりくだって、優柔不断な態度を取って、 対峙した患者さんに「僕分かりません」をいくら繰り返したところで、そうした態度が信頼につながることなどありえないし、 何か不測の事態が起きたとき、そんな態度は、医師を助けてくれない。

正面からぶつかりあった場合、病院内で白衣を着ている限りにおいて、 医師はだいたい9 割の確立で、対峙した相手を論破できる。医師はその代わり、 「間違えること」を相手が許してくれないから、交渉にわずかな瑕疵を残したそのとたん、 人生もろとも持って行かれる。

医療コミュニケーションを考えるときには、まずはこんな前提から始めないといけない。

リスクの取りかたは教わらない

医師はプライド高くて、プライドはしばしば判断を曇らせる。医師はだからこそ、 プライドを捨てる「べき」であるという論法は、間違ってはいないけれど、役に立たない。

丁寧な接遇だとか、へりくだった態度の講習会だとか、何の意味もない。 へりくだってみせたところで、ステレオタイプを書き換えることはできないだろうから。

自分達はリスクを取るのがお仕事なのに、「リスクのつかみかた」という、 ある意味最も大切なことを、自分達の業界では教わらない。

やりかたは、誰も書いてくれない。運がよく生き残った人達は、自分達がどうして 死なずに生きているのか、どうしてだかそれを言葉にしない。「真心さえあれば、 みんな分かってくれるよ」なんて、ベテランはしばしば、 何の解決にもならない「教義」を教えるけれど、それでは意味がない。

医師という生物は、一見強力だけれど、針の一差しで死んでしまう。 職業人として、極めていびつなありかたなのに、学校では、「医師たるもの正々堂々正面突撃」なんて、 ありようとはかけ離れたやりかたしか習わない。

教義の不在が崩壊を生んだ

病院でのトラブル、とくに医師-患者間のコミュニケーションに起因するトラブルの大半は、 医師側に、「交渉教義」みたいなものが備わっていない、学校で習わなかったことに起因する。

患者さん側から見た医療過誤というのは、だからしばしば、医師が勝手に、 逃げ場所のない袋小路に走り出して、唖然としている患者さんの目の前で、 その医師が勝手に自滅したようにしか見えないのだと思う。

相手と真っ向勝負になったても、たいていの場合は大丈夫だけれど、医師は一定の確率で敗北する。 一度でも、わずかでも敗北したら、医師はその時点で、その業界にいられなくなる。 自分達の職業は、だからこそ、真っ向勝負の状況を可能な限り回避するのが大切なのに、 みんな真っ向勝負のやりかた以外習わないから、真っ向勝負挑んで、自滅する。

誰かが「負け」れば、その施設には、「診たら負け」の空気が伝染する。それはそのうち「受けたら負け」、 「仕事したら負け」になって、行き着く帰結として、現場からは医師が引き上げる。

医療交渉の教科書がほしい

  • 「間違えてはいけない」状況で間違えないためには、頑張るんじゃなくて、間違える状況を避けないといけない
  • 「なんでこうしなかったの? 」なんて叩かれないためには、全部の可能性を予期して潰すんじゃなくて、 どう突っ込まれたところで、「こう考えていたんです」なんて、常に言い訳を用意できるやりかたを 考えないといけない

大学には、本物の心理学者もいれば、交渉のプロ、精神科の権威だっている。 大学病院という場所は、だから交渉ごとを研究したり、方法論を考えるうえでは、 たぶん社会の中でも相当に専門的な集団なのに、方法論は提示されない。

メディアだとか、司法への不信、あるいは患者さんとの信頼構築が難しくなったことだとか、 業界が荒れた理由はたくさんあるけれど、マニュアルの不在というものは、荒廃を加速したのだと思う。

「個々の対話を、特定の目的へとつなげるための営為」としての交渉のやりかた。
対話の失敗が、交渉全体の失敗に結びつくことを回避できるような、縦深性を持った患者対応のやりかた。

ベテランの人達は、大学ごと、施設ごとに、そんな医療交渉の教義を提示してほしいなと思う。 説得力のある、そんなやりかたを記述できる人がいる職場には、 まだまだたぶん、人が戻ってくるだろうから。

2009.01.09

コミュニケーションの戦略論

こういう意識を普段から持っておくと、他愛のないおしゃべりが、 なんだか軍事作戦中の統合幕僚本部の雰囲気になって、ちょっと面白い。

そもそもコミュニケーションとは何なのか

コミュニケーションというものを、「意図を達成するために構想される、一連の行動計画」と定義する。

交渉者の目標は、自分の意図した度合いで、相手の意志をコントロールすることにある。 「論破」や「人格否定」、あるいは「勝利宣言」は、手段の一つであって、ゴールではない。

コミュニケーションが達成されるために、まずは相手との均衡を崩し、 「コミュニケーションの重心」をずらすような働きかけが行われる。 あらゆるコミュニケーション技法は、重心移動の手段でもある。

均衡が崩れ、重心がずらされた相手は、均衡状態に戻ろうとする。 コミュニケーションは、本来的に予測不可能なものだけれど、 均衡に戻ろうとする相手の行動は、予測ができる。

予測可能性が高まった相手は、様々な割合でのコントロールが可能になり、 コミュニケーションが達成される。

交渉者の理論

目標とするコントロールの度合いや、交渉者が対峙した相手との力関係などによって、 それぞれの交渉手法が得意とする状況は異なる。交渉者は、自らが置かれた状況を把握することが大切になる。

ほぼ全ての交渉者は、意識するしないにかかわらず、「組織内コミュニケーション」、 「水平型コミュニケーション」、「道徳的コミュニケーション」、「説得的コミュニケーション」という、 大きく4 つのやりかたのうち、どれかひとつ、あるいは複数を組み合わせて行使している。

大雑把に、組織内コミュニケーションと水平型コミュニケーションは「強者の戦略」、 説得的コミュニケーション、道徳的コミュニケーションは「弱者の戦略」に分類される。 どちらかというと、組織内コミュニケーションと説得的コミュニケーションは「負けない」こと、 守備に強く、水平型コミュニケーションと道徳的コミュニケーションは、攻撃的な性格を持つ。

コントロールの達成には、大きく「順次的な」やりかたと、「累積的な」やりかたとがある。

理を詰めていく、順次的なやりかたは、結果の予測可能性が高い反面、 「地形効果」で無力化されたり、相手に論破された場合、全てを失うリスクを持つ。 うわさ話や陰口、心理学的な技法を用いた累積的なやりかたは、 相手を決定的にコントロールすることができない代わり、 自らを安全地帯に置いたまま、特定の選択枝への圧力を強めていくことができる。

交渉の地政学

コミュニケーションの大部分は、「組織内コミュニケーション」と 「水平型コミュニケーション」との争いとして記述できる。 決定的なコミュニケーションは、常に「組織内コミュニケーション」と 「水平型コミュニケーション」とが衝突する場所に発生する。

組織内コミュニケーターは、官僚組織に代表される組織内において、 相手よりも社会的な上位に立つことを目標にする。 水平型コミュニケーターは、カフェテリアでのおしゃべりのような、 フラットな、「地形」を意識しない場所での交渉を通じて、 むしろ質的な優位を目指す。

大雑把な傾向として、社会の上位に位置する者は、必然的に組織内 コミュニケーションを重視し、ビジネスマンは水平型コミュニケーションを用いて、 社会的な上位者に対して、質的な地位の逆転を試みる。

「水平型コミュニケーション」は「組織内コミュニケーション」を 封じ込めることができるが、逆はあり得ない。 水平型コミュニケーションを行使する者が、自らの優位を保持している限り、 組織内コミュニケーターは、水平型コミュニケーションの行使者には手が出ない。

その代わり、コミュニケーションにおける最終的な「勝敗」を決するためには、 常に組織内コミュニケーションが必要になる。交渉の最終局面において、 相手よりも社会的に、地形的に有利な立場に立つことによって、 コミュニケーションははじめて達成される。

組織内コミュニケーション

組織内コミュニケーションには「地形」の概念が大切になる。 他のコミュニケーション技法には、この考えかたは存在しない。

地形を持った「組織」においては、交渉者の行動は、 全て「戦術」レベルで決定される。組織内部に置かれた交渉者が、 大局的な、「戦略」を考える状況はまず発生しない。

組織内部では、常に交渉が発生している。あるいは、それが失われたその段階で、その人は、組織から排除されてしまう。 「遭遇」という概念は、だから組織内コミュニケーションには存在しない。 見えない相手のことを考える必要はなく、「自分の半径1 m を守備する」戦術が重視される。

組織内コミュニケーションにおいて、最も大切なことは「地形の把握」であって、 最大火力それ自体は、決定的な意味を持たない。自らの論拠がどれだけ正統なものであろうと、 「丘の上にいる」相手に対してダメージを与えることは、しばしば不可能なのだと 理解しなくてはならない。

地位や年次に代表される社会的な力、あるいは経済力、場合によっては暴力が、 コミュニケーション地形、組織内部における「丘」や「谷」を形作る。 それぞれの力はお互いに置換可能で、組織の上位者は、自ら「地形」を生み出すこともできる。

「そこに丘がある」ことが見えない人には、だから組織内コミュニケーションを行うことは できないし、そうした人には、組織の論理は、しばしば極めて理不尽なものに見える。

組織内コミュニケーションにおいて、「決定的な交渉」というものは発生しにくい。

状況は、局所、局所のわずかな勝利を積み重ねることによって、累積的に推移する。 ひとつの決定的な勝利は、以後の交渉における優位を、必ずしも保証しない。

水平型コミュニケーション

水平型コミュニケーションは、「場のコントロールの確立」と、 「組織のコントロールの確立のために、場のコントロールを利用する」ことの、 大きく2 つの部分から構成されている。

水平型コミュニケーションが行われる状況は、組織から「地形」要素が失われ、 それが「海」のように拡大したものと解釈できる。 海に地形は存在しない。大量の物資を移動、集中することができる反面、 海は広すぎて、相手はしばしば、遭遇するまで見えない。

水平型コミュニケーションは、「遭遇」から始まる。相手よりも早い状況把握が、常に有効な戦術となる。

最大火力と、手数の多さがコントロールを決する。 水平型コミュニケーションには、どこかに「決定的な状況」というものがあって、 そこを制した者は、以後の交渉を優位に進めることができる。

コミュニケーションが、必然的に連続したものになる組織内コミュニケーションにおいては、 人的関係の疲弊、「兵站」の問題が常につきまとう。水平型コミュニケーションが行われる状況では、 通常は、兵站の問題を無視してかまわない。

場のコントロールを確立した水平型コミュニケーションの巧者は、組織内コミュニケーションに干渉できる。

水平型コミュニケーションの技術を用いたところで、地形に守られた組織の内部に 直接手を下すことはできないけれど、プロパガンダのような「累積的な戦略」を用いることで、 組織内部のパワーバランスに影響を与えることができる。

道徳的コミュニケーション

道徳的コミュニケーターは、平和だとか、平等だとか、反論不可能な概念から、 交渉者が望む結論を「科学的」に導いて、相手に同調を強いる。

道徳的コミュニケーションにおいては、相手の同意というものは、交渉の結果でなく、 理論から導かれる必然であると定義される。同意しない相手は「理論を理解しない馬鹿者」 であって、非難の対象となる。このコミュニケーションおいては、だから「コントロールの確立」と、 「相手の破壊」とが、しばしば暗黙的に同一視される。

自らが道徳の保持者であると宣言すること、その状態を維持したまま、 相手の同意を取り付けることが、道徳的コミュニケーションにおける基本戦略となる。 道徳的コミュニケーションは、それを仕掛ける側が、反論不可能な「道徳」の保持者でいられる限りにおいて、 常に状況を有利に進められる。組織が持つ「地形」は、運用された道徳に対してしばしば無力であり、 道徳的コミュニーターは、組織の奥深くにまで、自らの手を伸ばすことが可能になる。

その代わり、前提となる道徳自体が攻撃されると、道徳と、そこから導かれた論理が生む「必然」によって 結びつけられた味方集団は、力を失ってしまう。

道徳権利者の「純化」志向と、「原理主義の台頭」は、この戦略が内包する宿命的欠点となる。

純粋さの表明を求められた道徳保持者は、純粋な原理と、実情の齟齬を指摘された結果として、 実生活を選んだ者の離反と、コアメンバーの純化が生じる。純化を繰り返す過程において、 コアメンバーが実社会から離反した道徳的交渉者のコミュニティは、しばしば崩壊を余儀なくされる。

道徳を制する者は勝利するし、道徳を巡る争いに敗北すれば、コミュニケーションは失敗する。 「道徳保持権」の獲得と維持こそが、道徳的コミュニケーションの成否を分ける。

説得的コミュニケーション

説得的交渉者は、既存の組織、あるいは道徳の意味を上書きして、全く新しい価値を提供することを試みる。

説得的コミュニケーションにおいては、「決戦」などというものは存在しない。 交渉には、常に累積的なやりかたが選択され、決定的な、目に見える形での交渉というものは、そもそも発生しない。

説得的コミュニケーターの姿であったり、あるいは意図などは、常に相手側から隠蔽される。 説得的コミュニケーションは、その効果が不確実である代わり、交渉者は、常に自らを安全地帯に 置くことができる。このため、このコミュニケーション技法には、 防御のための戦術というものは存在しない。

説得的コミュニケーションにおいては、「境界」や「遭遇」の概念は存在しない。

人がいるその場所は、常に交渉の「前線」になる。交渉に参加する人と、 交渉を見物する人とを、説得的コミュニケーションは区別しない。

説得的コミュニケーションの効果は予測不可能で、曖昧である代わり、ときに壊滅的なものになる。 説得的なコミュニケーションが成功裏に達成されると、上書きの対象となった組織、 あるいは道徳の価値は喪失し、それを論拠にした交渉技法は、その力を失ってしまう。

2009.01.08

不便の谷というものがある

「便利」を目指して道具が進歩していく過程において、恐らくは最初のうちは、 道具に投じられた技術だとか、複雑さに比例して、ユーザーは便利を実感する。

ところが投じられた複雑さが、ある一定の閾値を超えると、今度はたぶん、 道具が複雑になるほどに、ユーザーの生活は不便になってしまう。

ゴールは見えているのに、そこに到達する手前に「不便の谷」があって、技術はしばしば、谷にのまれる。

ゴールは人間に回帰する

そもそも人権なんて言葉がなかった昔、当時の家政婦さんという存在は、 たぶん「人間」というよりは、今で言う「電化製品」みたいな立場であったのだと思う。

「人間という製品」は、掃除から洗濯、食事の世話から庭掃除まで、もちろん人間だから万能であって、 大昔の、人種差別ありありの上流階級が、ハイテク電化製品に囲まれた現代人の暮らしを見ても、 「どうしてメイドにやらせないのですか?」なんて、もしかしたら別の意味で驚かれるかもしれない。

「生活を便利にしてくれる道具」というくくりの中では、メイドさんというのは、 出発点であるとともに、たぶんゴールでもある。道具は人を否定するところから出発して、 便利を目指して複雑さをましていくほどに、人間へと回帰していく。

不便の谷が生まれる

「メイドロボットと暮らす未来」の出発点になるのは、たぶん使い捨ての食器と、 使い捨ての衣服なんだと思う。食器は全て紙の皿、衣服ももちろん紙製の、使い捨てのものにしてしまえば、 「食器洗い」と「洗濯」は、生活から追放される。

部屋のどこを探しても、もちろんメイドロボットなんていないけれど、使い捨ての食器と衣服は、 それを別の形で解決している。残念ながらたぶん、それで満足する人は少ないのだろうけれど。

道具に技術が投入されて、「便利」を目指して、それは進化する。

まずは水道や洗濯機が生まれて、さらに全自動食器洗い機だとか、全自動洗濯機が登場する。 道具をもっと複雑にすると、この延長線上に「お掃除ロボットルンバ」が来る。

道具の複雑さだとか、投じた技術の量を横軸に、顧客がそれによって受ける満足度を縦軸に取ると、 「使い捨ての皿」から始まった満足度のグラフは、恐らくは「ルンバ」ぐらいの複雑さに至るまで、 投じられた複雑さと、それによって得られる満足感とは、だいたい比例する。

ところがたぶん、投じられた複雑さがある閾値を超えたとたん、満足感はむしろ減ってしまう。 ちょうど不気味の谷現象 みたいな状況が発生する。

谷の向こうがわには、「完璧なメイドロボット」という未来が見えて、谷に怯まず、 なおも複雑で高価な、大量の技術リソースを道具に注ぎ込めば、グラフはどこかで上昇に転じて、 満足感は最大値を迎えるんだろうけれど、今のところはまだ、谷がどこまで続いているのか、 谷の向こう側は本当に存在するのか、やってみないと分からない。

道具を中心に生活が回る

東大のメイドロボ」が実用を目指したとして、 恐らくは「不便の谷」に落ちてしまうような気がする。

あの機械が、たとえば車3 台分ぐらいの値段になって、家庭に普及する日が来ても、 その動作は微妙に不完全で、なおかつ機械は高価で複雑だから、 恐らくはメイドロボットは、リビングのご本尊みたいになってしまう。

完成度の低い「リビングのご本尊」を中心にした生活は不便なんだけれど、 「これだけ複雑で、高価なんだから、顧客は満足しなくてはならない」なんて、 顧客はそれを我慢する。

高価で複雑化しすぎた技術は、恐らくはどこかで、高価で複雑であることそれ自体を根拠に、 ユーザーに利便性の自覚を強要する状況を生む。

こうした不便の谷に陥っている、あるいは陥りかけている技術というのは、 たぶんいろんなところに転がっているのだと思う。

不便の谷を回避する

「不便の谷」を回避する方法は、大雑把に3つ。

  • 機械をもっと高価でもっと複雑にして、不便の谷を力ずくで越える
  • チープデザインみたいな考えかたで、谷の手前で止る
  • あるいは、そもそも「便利」を目指さない

技師さんじゃないと分からないような複雑な呼吸器だとか、アラームだらけで 役に立たない、アラーム付き心電図モニターだとか、自分達の業界見渡しても、 複雑だけれど今ひとつ役に立ってない、でも複雑だから、なんかありがたそうに、 自らの居場所を主張して止まないものを、いくつか見かける。

こういう製品には、「後戻り」が許されるはずがないから、もうこのまま、 力ずくでの谷越えを目指すんだろうけれど、大変だろうなと思う。

不便の谷の越えかた、あるいは谷底を回避するやりかたには、業界ごとの、あるいは技術者ごとの センスみたいなものがあって、どこかにたぶん、谷を越えた技術もあるのだろうけれど。

2009.01.06

予想どおりに不合理

予想どおりに不合理 という本の抜き書き。「行動経済の本」とあったけれど、むしろ心理学とか、マーケティングの本だと思った。

「おとり」の効果

  • 選択枝に「おとり」を設定すると、特定の選択枝に、顧客を誘導することができる
  • 似たような製品が販売されていると、たいていの場合、中間価格の製品が選択される。 最初から、一番売りたい製品を「中間」に設定すると、それを売ることができる
  • 飲食店経営コンサルタントのノウハウ。価格の高い料理をメニューに加えると、たとえそれを注文する人がいなくても、 レストラン全体の収入が増える。たいていの人は、「次に高い」ものを注文するから
  • 誘導したい選択枝によく似ていて、それよりもわずかに劣る、「おとり」選択枝を加えることで、 誘導したい選択枝がより引き立つだけでなく、競合する選択枝よりも優れているように見せることができる

相対性

  • 「比較」されると、劣位に回った人間はそれを挽回しようと思う
  • アメリカの最高経営責任者の給与が公開されるようになってから、 彼らの給与は法外な水準にまで上昇した。「金持ちが大金持ちに嫉妬する時代」という表現が使われている
  • 全社員がお互いの給与を知ってしまったら、恐らくは一番の高給取りを除いて、 全ての社員が「自分の給料は安すぎる」と感じてしまう。こうした情報を公開することは、 その企業の息の根を止める可能性がある

「皆さんこれを買っていますよ」だとか、「お客さんぐらいの収入なら、これぐらいの品物でないと…」とか、 古典的なセールス技法は、だから有効なんだろう。 年齢だとか収入、あらゆる序列は、可視化のやりかたに適切な工夫を加えることで、対象を説得するための、 強力な武器として援用することができるはず。

無料の効果

  • 人は誰でも、「失うこと」に本能的な恐怖を抱く
  • 「失う」リスクがない、「無料」という価値は、だから単なる値引き以上の効果をもたらす
  • Amazon は、一定金額以上の本を購入すると、送料を「無料」にするサービスを行って、大成功した。 フランスの Amazon だけは、送料を無料にしないで、「1 フラン」に止めた。 わずか20円程度の金額にすぎないのに、フランスでは収益が伸びなかった
  • 2セントと1セントとの違いは小さいが、1セントとゼロとの違いは莫大になる。 値段ゼロは、単なる値引きではなく、むしろ全く別の価値と考えるべき。
  • 選択もまた、「失う」ことに対する恐れから自由になれない。私たちは、全ての選択枝を残しておくために、 同じように必死になる。必要以上に高性能のコンピューターや、無駄な保証のついたステレオは、だからこそよく売れる

たぶん「こんなことができますよ」よりも、「言うとおりにしないとこんなものを失いますよ」のほうが、 あるいは、「みんなこんなに得してるのに、あなたは損を選択するんですね」みたいなやりかたのほうが、 その人を強力に動かすんだろうと思う。

追記: 「無料」と同様、「無制限」もまた、同じような効果がありそう。「コピー100回可能」は無価値だけれど、 「コピー無制限」になると、それはとたんに、とてつもない価値を持ちうるみたいな。

社会規範と市場規範

  • 「愛情」のような、社会規範で回っている状況に、「キスは○○円」のような市場規範を持ち込んでしまうと、 人間関係を損ねる。一度この逸脱を生じてしまうと、関係を修復するのは難しい
  • イスラエルの託児所で、子供の迎えに遅れる親に対する罰金の効果が調査された。 罰金制度はうまく行かないばかりか、むしろ遅れる親を増やした
  • 罰金制度は数週間で撤廃され、「市場規範」は「社会規範」へと戻された。 親の意識は戻らなかった。罰金はなくなっているのに、 罰金ルールの時と同じように、遅刻する親が増える状態が続いた

社会規範は限界があるけれど安価で、市場規範で同程度のガバナンスを実現するためには、 たぶん想像以上に莫大なコストがかかる。今みたいな時代、コスト削減と士気の維持とを 両立させる手段として、不況の時こそ宗教団体の絡んだ会社が競争力を持つかもしれない。

「現金」の効果

  • 25年前、アメリカ人家庭の貯蓄率は、2桁台が標準だった。1994年でも、貯蓄率は5%あった。 2006年にはゼロ以下になり、貯蓄率はマイナス1%になった
  • 平均的なアメリカ人家族は、クレジットカードを6枚持っている。平均的な家族のカード負債額は9000ドル程度にのぼり、 7割の家庭が、食費や光熱費をクレジットカードの借金でまかなっている
  • MIT 学生寮の共用冷蔵庫に、コーラを6本 置いておいたら、72時間で全て持って行かれた。 このとき同様に、冷蔵庫の中に1ドル紙幣を6枚、 皿に載せて入れておいたが、こちらを持って行った学生は一人もいなかった
  • 企業は会計で不整をするし、役員は過去の日付に改ざんしたストックオプションを使う。こうした人達が、ならば誰かの小銭を 盗むような真似をするかと言えば、まずそんなことはありえない。不正行為は、現金から一歩離れたときにやりやすくなる
  • 現金を使わない取引には、必ず都合のいい正当化が見つかる。職場の鉛筆を失敬することも、 誰かの缶コーラをもらっていくことも、どれも「あとから返すつもりだった」だとか、もっともらし言い訳がたつ
  • 現金を使わない取引においては、自分を不正直な人間だと思うことなく、誰でも不正直になれる

本文中では、「だからこそ人は、自分の弱さに自覚的であるべき」なんて結論だった。 パチンコ屋さんの「玉」という代替貨幣だとか、環境保護みたいな「免罪符」に結びつけた、 「現金」を隠蔽する支払いの手段を見つけられれば、そのコミュニティは成功しやすい。

2009.01.05

メイドロボットを開発するセンス

「夢の扉」というテレビ番組に、東大でロボットを作っている研究室が取り上げられていた。 手足と頭のついた、本物の「メイドロボット」作っていた。東大なのに。

シンプルな問題を複雑に解く

メイドロボットは、人よりも一回り大きなサイズで、二本の腕と、車輪と頭がついている。 部屋の中にある家具をあらかじめ登録しておくことが必要で、室内の家具の位置を認識して、 ロボットアームでモップを持って、部屋を掃除する。

ロボットの動作は極めて複雑で、バックグラウンドに投入された技術はすごいのだろうけれど、 発想が足りない気がする。「発想」というものは、「洗濯をする機械を作る」という問題を、 「水を攪拌する機械を発明する」と言い換えることであって、掃除するロボットをそのまま作るのは、少し違う。 自立して動く掃除機ならば、もう何年も前に市販されていて、お掃除ロボット「ルンバ」のパチモノなら、 今はもう、ホームセンターで2 万円しない。

東大発の「メイドロボット」は、人間のようにモップを持ったり、洗濯機のスイッチを押すことができたり、 それはたしかにすごいことなんだろうけれど、進歩というよりは、後退に見える。工学畑の技術者ならば、 本来は「掃除のいらない床」だとか、「スイッチのいらない洗濯機」を目指すべきであって、 メイドロボットを考えてはいけないのだと思う。

複雑さはセンスじゃない

番組後半は、「台所ロボット」が主役として取り上げられる。まだ未完成のロボット。

お皿が持てなかったり、お茶碗を割ったり、台所ロボは、番組の中で失敗を繰り返す。 研究室の先生がたは、そのたびにパソコン叩いて、 細かいパラメーターを調整する。番組終盤、調整だけでは追いつかなくて、 ロボットには「画期的なセンサー」が搭載されて、最後は見事にお皿をゆすぐ。

東大の先生がたは、たしかに非常な努力を注いでいるのだろうけれど、 「微調整」だとか「センサー追加」というやりかたは、工学的にはやっぱり悪手に思える。

センスというのは、絶対に残すべき何かと、削除すべき何かを区別して、 それを予見できることなんだと思う。

目についた問題点全てを「改良」するやりかた、複雑に見える問題を、 複雑なままに解決しようとするやりかたは、 間違いなく「努力」ではあるんだろうけれど、「センス」とは違う。

昭和50年代の初め、あるいはもっと昔、星新一と小松左京との「新春対談」という企画があって、 「未来の食品」なんてお題が出たらしい。

司会を勤めた編集者は、未来の食品に「一粒でお腹いっぱい」のイメージを投影していて、 作家は2 人とも、「いくら食べても太らないゼロカロリー食品」に未来を見ていた。 司会の人はそんな未来を予期していなかったから、大変だったらしい。

司会の人にとっては、現代の食事から削除可能なものは「食事の体験」であって、 譲れないものは「カロリー」だった。SF 作家にとっては、未来になっても譲れないものこそは食事の体験であって、 カロリーは、SF 作家が見通した未来なら、いくらでも代替手段が考えられるから、むしろ真っ先に削除すべきものに 見えたのだと思う。

東大の先生はどうしてメイドロボを作ったのか

ここから先は邪推。

東大の先生がたは、恐らくは研究を評価する人達の「センス」を信用していないのだと思う。

「センスのある解答」というのは、未来にいる自分達から見れば自明であっても、 作家同士の対談が行われた昔、その人達とともに暮らす人にとっては、 予測不可能だし、解答が示されても、もしかしたら理解しにくい。

微調整と、センサー技術の塊として示された「台所ロボット」は、 たとえばあれが、子供用のおもちゃみたいな、モーター2 つにセンサーなし、 バネ仕掛けだけで立派に皿洗いをしてみせるロボットアームなら、それを見た研究者は、 「さすが東大だ」なんて、そのセンスに驚くような気がする。

ところがそうしたセンスが生む成果はシンプルすぎて、外から見ると「おもちゃ」にしか見えないから、 「夢の扉」を放送する人達は、あるいは取材に来なかったかもしれない。

東大発のメイドロボは、たぶん東大の先生がたなりの、センサー技術がもたらす未来の、 非専門家向けの「翻訳」、あるいはたぶん、巨大な「疑似餌」なのであって、東大の先生達は、 疑似餌を公開してみせることで、何かもっと大きなものを釣ろうとしている。

大学だってお金が必要だから、「釣り針」が投げられた先にいるのは、 科研費を握っている文部官僚の人達。東大の先生がたは、莫大な予算を投じて、 あんな「疑似餌」を作ってみせるぐらい、科学振興費用を 分配する人達の「センス」を信用していないのだろう。

「東大がメイドロボを作った」という事実は、だから文部官僚に対する研究者の不信がそれだけ進んだ証拠であって、 「センスのある、だからこそ分かりにくい本当の新技術は、今や見返りが全く期待できないのだ」なんて、 そんなメッセージなんだろうと思った。

2009.01.01

負けかた上手の時代

恐らくは「大きく勝つ」のが得意な人と、「なるべく小さく負ける」ことが得意な人とがいて、 それぞれに求められる能力は、根本的に異なっている。

「勝ちの流れ」を引きずって今まで来た業界には、「負けの上手」がいない。

これからしばらくのあいだ、どこかにいる「負けの上手」は、業界の国境をまたいで、 様々な「負け戦」の指揮を求められる、そんな時代が続く気がする。

大学医局のこと

自分が研修期間を終えた頃には、医師というものは、大学に残って「上」を目指すのが 当たり前みたいな空気がまだあって、自分みたいな、最初から民間病院に就職する人間は 珍しかったし、そういう連中ですら、同期のほとんどは、自分も含めて、 やっぱり大学医局の門を叩いた。

医局に入った最初、「今はみんなが大学医局に戻って来たがるから、 ここに居られるのはせいぜい3 ヶ月だよ」なんて、当時の医局長に宣言された。

3ヶ月は結局1 年になり、3年になり、その時医局にいた上の先生がたをはじめ、 医局の顔ぶれはほとんど変わらないままだった。

大学に残る人の数も減った。ローテーション研修制度が始まって、 たしかに大学は、研修制度の充実に後れを取って、研修医は大学から離れたけれど、 大学から人が離れて、忙しい科から人が離れて、どこかに行った研修医は、 どこにも行き場所なんてないはずなのに、どこかに行ったまま、ほとんど誰も戻ってこなかった。

たかだか7 年間ぐらいの経過。

何が起きているのか、研修医の人達も自分達も、恐らくはもっと上の先生がたも、 どうしてこんな流れになったのか、誰も把握していないし、この状況にどう対処をすればいいのか、 やっぱりまだ、誰にも分からないのだと思う。

勝ち戦の上手

恐らくは医療という業界は、ごく最近に至るまで、それでもずっと「勝って」いたんだろうと思う。 業界全体が「勝って」いるときには、多分より大きく勝てる人が支持される。

勝ち戦の上手は、受け入れやすい、きれいなスローガンを掲げて、堂々とした身なりをして、 威厳のあるしゃべりかたをする。将軍の下にはたくさんの人が集まって、 一つの目標に向かって突き進んで、戦果は挙がる。

「一か八か」的なやりかたは、むしろ好まれる。犠牲はもちろん出るけれど、流れが勝っているときには、 みんな自分が負ける可能性を低く見積もるから、士気は下がらない。

流れはだんだんと変化して、研修医が個人として刑事告発されるようになったり、 「味方」であったはずの、同業の医師が、誰か別の医師を「刺す」ようになったり、 勝ちの流れは実感しにくくなって、「勝ち戦の上手」が発する言葉は、響かなくなった。

「大きく勝つ」やりかたを逆にしたところで、「小さく負ける」ことはできない。

負け戦というものが考えられなかった自分達の業界には、だから上手に負けられる人が少なくて、 恐らくは今でも、いろんな現場で、「大きく勝つ」やりかたで、小さく負けることが要求されて、 板挟みになった現場からは、結果として人がいなくなる。

いい医療を行って、研究をして業績を上げれば、そこはいい病院になる。いい医師になりたかったならば、 いい病院の門を叩く必要があって、「いい医師になりたい」という願いは、もちろん誰もが持っているはずだから、 いい病院を作る努力を続けていれば、そこにはもちろん、研修医が集まってくる。

状況が「勝って」いたとき、恐らくはこんな考えかたで、「いい病院」が作られて、 考えかたそれ自体、やっぱりどこにも間違った場所は見つからない。間違っていないから、 これで上手くいっていたから、「勝ち戦の上手」は、やっぱり今までのやりかたを繰り返す以外の 選択が取れなくて、「いい病院」を目指して、みんな今まで以上に努力して、結果として現場には、 今まで以上に人がいなくなっていく。

大学病院は、残念ながら今「負けて」いるけれど、一方で「勝って」いる民間病院もまた、 「攻めて」いる意識なんてないだろうし、民間の人達にしたところで、どうして自分達が「勝って」いるのか、 本当のところは分からないんだろうと思う。

逆風の中で小さく負ける

最近まで「勝って」いた業界、医療もそうだし、マスメディアだとか、 大きな企業の人達なんかもまた、「勝ちかた」しか知らない人達が、 負け戦の風に晒されて、これから迷走続けるんだろうと思う。

たぶん「上手な負けかた」というものがある。

報酬は、その意味を減じる。「勝ったらこれだけ」なんて成果を示すよりも、 むしろ「負けても最低限ここまで」みたいな、「負け続けた先にあるもの」を、 見通しよく、具体的に提示できた人に支持が集まる。

報酬をいくら増やしても、救急を回す医師が足りない現状を変化させるのは難しいけれど、 たとえば「一晩に20人見たら問答無用で寝ていい」だとか、「トラブルに陥ったら病院として責任を取る」だとか、 ワーストケースに具体的な条件を提示する施設がでてきたら、状況変わると思う。

負け上手は、恐らくは「よさ」を否定する。

逆風吹いてる中、「いい病院」みたいな、曖昧できれいな考えかたの中で業務を行うのは疲れる。 予算なくて、早期退院のプレッシャーばっかり高まる中、病院の理念は「患者様にずっと安心できる場所を提供する」 だったりすると、現場が理念を裏切らない限り、現場は回らなくなってしまう。

きれいな理念の下では、そこで働く全ての医師は「悪人」になる。 「うちは営利目的だから、お金にならない患者さんは切り捨てろ」だとか、 「上」の理念が「よさ」を否定する限りにおいて、医師は逆風の中でも「善人」でいられて、 そういう考えかたをする人の下には、むしろ「よさ」を志向する医師が集まる気がする。

「勝ち」と「負け」、両方の局面が混在する業界においては、 原理的に、「歴戦の臆病者」は生き残るけれど、「歴戦の勇士」はどこかで負けて、存在できない。

逆風の中で、負けを最小限に抑えながら「次」を伺う、そんな状況を生き延びてきた 臆病者のやりかたというのが、これからたぶん、いろんな業界で求められるのだろうと思う。