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2008.10.31

分散された脅威への対処

いろんな要素が徹底的に分散された架空兵器の思考実験。

中枢を持った脅威のこと

あまりにも強力すぎて、事実上弱点の存在しない敵を相手に、「弱い味方」をどう運用すれば勝てるのか。

大昔、OGRE (オーガ) という、巨大戦車を主人公にした ゲームがあって、「強い単体対弱い多数」をテーマにしていた。

「敵」になるのは人工知能を持った巨大な戦車。1 台しかいない代わり、射程の長い、強力な武器を 山ほど積んでいて、普通に勝負したのでは、「味方」側は絶対に勝てない。

「味方」は単なる歩兵であったり、ちょっとした放題であったり。巨大戦車の前には単なる雑魚だけれど、 その代わりたくさんいる。

プレイヤーは、たくさんの弱い味方を様々に配置して、巨大戦車を迎え撃つ。相手が動くほどに 犠牲が増えるから、とにかく相手の「足」を止めて、それから武器が尽きるのを待つだとか、 弱い側には弱いなりに、いろんな攻略方法があった。

「単体だけれど強力な敵」に、無力な味方が知恵と工夫で対峙するテーマは、いろんな物語に引用されている。

「ゴジラ」みたいな単体の敵は典型的だし、映画「インディペンデンスデイ」みたいな巨大艦隊で攻めてくる敵もまた、 必ず「中枢」を持っていて、主人公が頑張って、そこを叩ければ、たいていの問題は解決する。

架空の戦争を扱った物語には、「中枢を持った強大な敵」がたくさん出てくるけれど、 次に来るのはやっぱり、中枢を持たない、分散された強大な敵になるような気がする。

叩くべき中枢を持たない、事実上弱点が存在しない、そんな「敵」に対峙した、 弱い味方の物語。

追記:「エンダーのゲーム」に出てくる敵は、「中枢を持った巨大な敵」の延長と考えています。

「たとえ相手が強大であったとしても、自滅前提の攻撃を、指導者は命じてもいいものなのか?」という テーマがあって、「エンダー」は、司令官を何も知らない子供に設定することで、この問題に回避をかけているのかなと。

たとえばこんな究極兵器

襲われる側から見た「敵」の見た目は、要するに爆弾を抱えた無人機の群れ。

1 トンぐらいのペイロードを搭載可能な、無線誘導の無人機が500機ぐらい、 ある日主人公が住んでいる地域の上空に群れをなして現れるところから、物語が始まる。 ちょうど巨大な鳥の群れが、無目的に旋回しているように見える。

無数の無人機には、IP アドレスみたいなものが割り振られていて、各々の機体は。 本国からの制御を受け入れるとともに、制御信号の中継も行っている。 ちょうどインターネット電話の「Skype」みたいに、全ての無人機は、 中枢を持たないネットワークを介して、本国と繋がっている。

鳥の群れみたいな無数の無人機が上空に到達したあと、「敵」はその国に、選択を迫ることになる。

無人機は数が多いだけで、撃墜することそれ自体は簡単だから、戦うこともできる。 戦ったらその代わり、撃墜された無人機の爆弾は、真下の都市に落ちてしまう。

反撃を放棄するならば、無人機の群れは、あたかも「脳外科手術を行うように」、敵側パイロットによる 都市の精密爆撃が行われて、その国の機能は麻痺することになる。

黙っていれば、あるいは無線の信号を邪魔すれば、無人機の群れはいつまでもそこで飛び続けて、 制御が効かなくなったり、あるいは燃料が尽きたとき、全ての飛行機は墜落して、都市は無差別爆撃を受ける。

「無人」のメリット

米軍の無線誘導機「プレデター」が改良されて、1機あたり最大1.7トンのミサイルを搭載して、 対地攻撃に使えるようになった、なんて報道されてた。

「無人でいい」利点というのは大きくて、たぶん機体設計の考えかたなんかは、今までの戦闘機とずいぶん変わる。

人が乗る必要がないから、撃墜されても困らない。機体には、運動能力だと加速力だとか、 パイロットが「勝つ」ための性能が不必要になって、ただ単純に、安くて作りやすくて、 あとはたくさんの爆弾が詰めるような設計にすれば、十分に役に立つ。

無人機は、飛びながらにしてパイロットを「交代」できるから、燃費は武器になる。戦闘機パイロットは、 たとえば24時間寝ないで戦ったら倒れてしまうだろうけれど、これが無人機ならば、 交代しながら何十時間でも飛び続けて、疲労しない。どれほど強力な軍隊であっても、 パイロットが人間である以上は限界があって、のろまだけれど疲れない無人機が群れをなすと、止められない。

無人攻撃機の群れに必要なパイロットは、少ない数で済む。

1000機の航空機を飛ばすためには1000人のパイロットが必要になるけれど、 無人機の「群れ」を引率するためには、先頭の一機だけ操縦すれば、あとは簡単な制御でついてくる。 鳥はきれいな編隊を組んで飛ぶけれど、あれなんかもまた、群れの中央に向かうこと、 他の個体と同じ方向を向くこと、近づきすぎたらお互い離れることという、ごく単純な 命令を与えるだけで再現できる。

敵の上空に「群れ」がたどり着いたら、パイロットは各々、群れから任意の機体を選んで操縦して、 撃墜されたなら、また群れに戻って、別の機体を選んで操縦できる。

シューティングゲームと同じく、撃墜されてもやり直せる環境で戦えるから、 無人機を操縦する人にとっては、まさにゲーム感覚の戦闘になる。

無人機というのはこれから増えるんだろうけれど、相手にする側はたまったもんじゃないだろうなと思う。

隣の子供が殺人者になる

物語の舞台装置としてもう少し悪意を入れるなら、無人機の操縦桿を、 子供達にゆだねるても面白いと思う。

ネットワークでつながったゲーム、それはファンタジー仕立てのものもあれば、SF 仕立てのものもあったり 様々だけれど、なにかその時はやっているゲームを仮想して、ある日その舞台が、 主人公がいる都市になる。見た目はゲーム世界のままだけれど、建物の配置は世界のどこかと同じになって、 ゲームに出てくるモンスターは、味方兵士の場所に配置される。

自機を操作して、ゲームに出てくるクリーチャーを、ネットワークにつながった子供達が狙う。

敵を倒すために押したA ボタンは、そのまま無人機の爆弾制御装置に接続されている。 ゲーム世界の敵が吹き飛ぶとき、実世界でもまた、建物だとか、味方の兵士が吹き飛ばされることになる。

味方がゲリラ戦を挑もうにも、世界中の「ゲームで遊ぶ子供達」は無数にいるから、疲れない。 兵士が奮闘するほどに、「ゲーム」は面白くなって、ゲーム世界でキルマークを稼いだ「勇者」は、 明日はそこで戦っている自分の父親に向かって、ミサイルを発射するかもしれない。

無人機の群れはいつまでも上空に舞って、ゲーム世界でモンスターの全滅がアナウンスされるときまで、 戦いは終わらない。

分散された脅威のこと

映画「インディペンデンスデイ」の昔、敵というのは常に中枢で制御されていて、 どこか一点を破壊できれば、案外脆く、逆転できた。

兵力を分散するやりかたは、破壊するのが困難で、生存確率が高い代わりに、 統率の取れた動きは難しかった。

インターネットの考えかただとか、「創発」の考えかたが生まれて、今はたぶん、 その気になれば、分散と、統率とは、ネットワークを利用して両立可能になった。

分散した、相手の「顔」が見えない、もしかしたらそもそも「敵」は、 自分がやっていることが人殺しであることすら気がつかない、 そんな状況に対峙した人を主人公にした物語を読んでみたい。

そんな「敵」と戦うことを決断したその時点で、主人公が住む地域は、無差別爆撃の脅威にさらされる。 恐らくはだから、地元住民の半分ぐらいは主人公の決定に反対するから、物語が始まったその時点で、 主人公はいろんな「敵」と対峙することを強要されるはず。

「スーパーハッカーが作ったウィルス一発で敵が全滅」ではつまらないけれど、 「無敵兵器が無敵でいられる条件」というのは、恐らくは案外狭くて、 何かの前提をキャンセルできれば、「無敵兵器が無敵でなくなる状況」を生むことができるはず。

自分なんかが考えると、この状況は最初から詰んでいるんだけれど、何かアイデアが思いつければ、 結構面白い物語が書けると思う。

2008.10.29

「勝つ予感」はデザインされる

恐らくは「名将」なんて持ち上げられるような人というのは、あとから冷静に振り返ってみると、 案外「ショボい」勝利しか上げていないような気がする。

「名将」はその代わり、大きすぎる問題を切り分けることが上手で、「小さく解決する」やりかたをデザインして、 現場から「勝つ予感」を引き出すことが上手で、もうひとつ、そうして得られた小さな勝利を運用して、 それを大きな戦果に結びつけるのが上手なのだと思う。

えらい人が指揮する部隊は怖い

墨東病院が大騒ぎになっている。

人手が絶対的に足りなくて、結果的に患者さんが一人亡くなった。都知事と厚生大臣と、 日本を代表するような大物が二人、病院を舞台に喧嘩を始めた。すごくよくないことだと思う。

どちらが勝つにしても、喧嘩の舞台になった病院は、これから先は、 大物自らが指揮を執ることになる。

ふがいない。俺様自ら戦闘というものを教えてやる」なんて、 現場を知らない大将軍が指揮したぶたいは、たいてい悲惨な結末を迎える。

大将軍はどうせ間違えるし、絶対に退却を許さない。一番えらい人が間違えるなんてありえないから、 代償軍はたぶん、敗北を認めるぐらいなら、現場に玉砕を命じる。屍の山を前にして、 大将軍は「やれるだけのことはやった」なんて独りごちて、自分は安全地帯に引き上げる。

厚生大臣と都知事と、現場を知らないことではいい勝負の、「大将軍」争う場所には、だから誰だって居たくない。 大学だって恐くて人を出せないだろうし、フリーランスの人達だって、寄りつかない。

あの病院にはだから、これから人が増えて盛り上がるとか、ちょっと想像しにくい。

「大将軍」がそこにいる限り、なんというか現場には、「勝つ予感」みたいなものが、全くしてこないから。

なんとなく「インパール作戦」の状況に似ている気がする。

負け戦になるのが見えていて、現場はみんな反対したのに、 「失敗したら腹を切る」だとか、気合いの入った将軍が指揮を執って、 結果として何万人もの日本兵が餓死した戦い。

戦いの途中で糧食はつきて、現場は何度も撤退の伺いを立てたけれど、 将軍はそれを許してくれなかったのだという。

墨東病院は都立だ。都立の医師は、食わず、眠らず、人がいなくても患者を取るもんだ。それが都立だ。 それを泣き事言ってくるとは何事だ。 人がいなくても手を増やせ。手がなくなったら足で働け。 足がだめなら頭を使え。都立病院には大和魂があるということを忘れちゃいかん。東京は首都である……

最後はたぶん、こんな訓辞を「将軍」が述べる中、寝不足の現場からは、人がいなくなってしまうんだろう。

予感はデザインされる

太平洋戦争直前、黒部渓谷第3 ダムのトンネル掘りに携わっていた現場の人達は、 摂氏150度にも熱せられた岩盤にぶつかって、非常な苦労をしたんだという。

これぐらいの温度だと、運が悪いと「発破」は自然爆発してしまって、 何百人もの職人が犠牲になって、現場の工事は動かなくなった。

技術者の人があれこれ工夫しても、現場は納得しなかったけれど、工事長がダイナマイト3 本を竹で束ねて、 束ねたダイナマイトごと製氷機で凍らす、「アイスキャンデー作戦」を提案して、 自らその「アイスキャンデー」で岩盤を爆破して見せたら、現場の職人も納得して、工事は再開したんだという。

武器というものは、持ったときに「当たる予感」がするようにデザインされていないと当たらない。

設計者がどれだけの性能を主張しようと、そのデザインが兵士に「当たる予感」をもたらさないのなら、 武器を手にした兵士が、「当てる自分」をその武器から想起できないのなら、その武器はやっぱり当たらない。

交渉の名人は、たぶん無理しない。

価格交渉ならそんなに値切らないし、身代金交渉なら、たぶん親族が払える最大値で妥協する。 彼らがつかむ勝利は常に「小さい」けれど、交渉の名人はその代わり、交渉で得られたごくわずかな勝利を、 最大の戦果として喧伝する。

名人は、あとから冷静に振り返ると、意外にショボい交渉しかしない。そのことは名人自身も理解していて、 だからこそ名人の交渉は常に成功するから、名人が現場に来ると、そこにいる人達は、勝利を予感して、 名人はまた、小さな勝利を一つ重ねる。

ニュースでは、病院間を結びつけるネットワークシステムの不備に問題意識を感じているとか、 偉い人達がコメントしていた。恐らくはこれから、けっこうなお金が投入されて、 「ネットワークシステム」が完備されて、「これで理論上、現場はもっと効率よく回る」なんて 流れになる。

改良された病院間ネットワークは、あるいは本当に、問題を解決するだけの性能を 持っているのかもしれないけれど、やっぱりそれは動かないと思う。

「ネットワーク」というアイデアを聞いても、なんというか、そこからは全然、「それを使って勝つ自分」 が想像できないから。

「勝利をデザインするセンス」みたいなものが大切なのだと思う。

士気というもは、設計上の性能だとか、投じられたお金や政治的努力の量ではなくて、 むしろ視覚的な、感覚的な、「デザイン」に相当するものが分かりやすく示されて、初めて発生する。

「士気を出せ」だとか、「現場がだらしない」なんて怒鳴る指揮官は、それは「勝利のデザイン」に 失敗していて、それを意識できない人というのは、たぶんどれだけの資材を現場に投じても、 現場を動かすことができないのだと思う。

2008.10.28

嫉妬が生みだす公正な社会

田舎の常で、マイナーな漫画本だとか、ハヤカワのSFだとか、本屋さんにほとんど売ってない。

最近はだからAmazon ばっかりだけれど、発注かけて、題名検索して、実物手に入る前に海賊版が 見つかったりすると、なんか落ち込む。

海賊版は便利

特によく売れている漫画本は、発売されてから10日もすれば、たいていは世界の誰かが海賊版を作る。

漫画の題名と、よく知られているダウンロードサイトの名前と、検索ワードに両方入れて検索すると、 英語圏だとか中国だとか、たいていはどこかのサイトが引っかかってくる。

日本の漫画家が、漫画を書いて本を出す。

海外の誰かが、それを購入してスキャンして、ダウンロード可能な形で、アップローダーに上げる。

恐らくはどこかに、海外の「2ちゃんねる」みたいな掲示板があって、そういう人達が情報を交換して、 やっぱり海外の、別の誰かが「まとめサイト」みたいなものを作って、検索しやすい形で公開する。

場所によっては、すごく「親切」な作りになってる。

文章は読めないけれど、その漫画の題名の下には小さなサムネイル画像が何枚かあって、 恐らくは漫画の紹介文だとか、感想文だとか、細かく書いてある。文章の最後にはリンクが張ってあって、 そこからダウンロードサイトに飛ぶと、もうそのまま、海賊版のファイルがダウンロードできる。

「海賊版」は便利。中身は画像ファイルの集まりだから、好きなソフトで読むことができるし、保存も削除も自由にできる。

出版社にも、「ダウンロード版」を提供するところが増えたけれど、お金払うまで内容が全く 読めなかったり、お金払ってデータもらって、それを読むためには、その出版社でしか使えない、 お世辞にも出来がいいとは言えない電子ブックソフトをインストールしないといけなかったり。 自分で買ったデータなのに、保存する場所も自分で選べなかったりして、 せっかく電子化された情報なのに、なんだか実物の本よりも取り回しが悪い。

検索できること。あらゆる本が揃っていること。「まとめサイト」があって、同じような本が探せること。 今の「海賊版」は、Amazon よりもむしろサービスがいいぐらいで、どこにでも居ながらにして、 クリック一つで「実物」がダウンロードできる。

それはたしかに「違法」だけれど、「合法」側の分が悪すぎて、 これではたしかに、まじめにお金払う人は減る一方だよなと思う。

ゆるい絆の強い力

海賊行為をする人達は、スキャンする人、アップロードされたファイルを探す人、 サーバーを提供する人、様々な情報を見やすくまとめて公開する人、たぶんみんなバラバラに動いていながら、 それが何となく、検索エンジンを介したゆるいつながりを保っている。

「ゆるい共同体」は、結果として Amazon 以上の規模を持った「バーチャル書店」みたいなものを ネット上に作り上げているけれど、この組織には「頭」に相当する場所がないから、 今までの法律だとか、警察のやりかたでは潰せないし、たとえどこか一部を潰したところで、 個々の人達がやっていることは決して複雑なことではないから、需要がある限り、その機能は別の誰かが置換して、 海賊行為は無くならない。

「ヒトデ」のような、中枢神経を持たない生き物のような組織の典型で、こういう構造を持った組織は、 著作権を管理する人達がいくら強力に取り締まっても、たぶん問題は解決しない。

嫉妬でヒトデを退治する

「ヒトデはクモよりなぜ強い」という本には、こういう「ヒトデ」退治の方法として、 アメリカ先住民族のアパッチ族に、牛を与えるやりかたが紹介されていた。

スペインが南米を征服した昔、そのまま北に進んだスペイン軍は、アパッチ族に撃退された。

アパッチ族には「族長」の概念が希薄で、リーダーに相当する人は、その場の雰囲気で何となく決まっていたから、 スペイン軍が「頭」とおぼしき人物を倒しても、相手の勢いは乱れなかったのだという。「頭」を倒しても、 すぐに別の誰かがその場所に座って部族を率いたから、アパッチ族は負けることがなかったのだと。

北米に移り住んだアメリカ人は、アパッチ族を撃退するのに、相手に「牛」を贈与した。

牛は貴重な財産で、財産をもらった「頭のない組織」には、組織のリーダーになることに、 財産という実利が発生するようになった。財産の取り分を巡って、アパッチ族には いざこざが発生するようになって、結果として「頭」が生まれたアパッチ族は、 軍隊が与しやすい相手となって、アメリカ大陸の主導権は、白人が奪うことになったんだという。

合法違法を問わず、全ての「ダウンロード」にお金が発生する仕組みにしたら、面白いだろうなと思う。

これをやると、違法ダウンロードを許可しているアップローダー管理人だとか、 あるいは「まとめサイト」を運営している人達には、すごい財産が転がり込んでくる。

その一方で、漫画を購入してスキャンデータを作る人にはなんのお金も発生しないし、 今まで無料の漫画を楽しんできたユーザーは、今度はまとめサイト管理人にお金を支払わないといけなくなる。

恐らくは「バーチャル巨大企業」と化していたゆるい共同体には、嫉妬心が生まれる。

大金を手にして笑いが止らない人達を見て、まじめに(?) スキャンしていた人達は、 バカらしくなってデータを上げなくなってしまうだろうし、 どうせお金を払うのならば、ユーザーはたぶん、「ずるく儲けている奴ら」よりは、 たぶん漫画の原作者を探して、そこにお金を払いたいと思うようになる。

結果としてたぶん、漫画をスキャンしていた人は、単なる漫画好きの読者に戻って、 海賊版をダウンロードしていたユーザーは、原作者から直接漫画を購入して、 「ずるい」中間層には、データもお金も入ってこなくなる。

この人達がもう一度、いい思いをしようと思ったら、今度は自分で漫画を購入して、 自分でスキャンして、有償配信を行わないといけない。 これはもう、単なる犯罪だから、今までどおりの法律で容易に取り締まることができる。

ユーザーの知能化が公正を生む

「ずるい」人達に罰を与える代わりに、彼らに財産を与えて大笑いさせることで、 共同体に嫉妬心を育てて、結果として、無難な状態としての「フェアな世界」を作り出す。

恐らくは「支払い」という行為をユーザーに強要することで、ユーザーには「頭を使う理由」が発生して、 そのときたぶん、自分がお金を受け取る理由をきちんと説明できない人達は、共同体から追われてしまう。

こうしたやりかたは案外有効だと思うんだけれど、恐らくはたぶん、最初のひと転がり、 「ずるい奴らが大笑い」を我慢することができない、あるいは、「ユーザーに知能化してもらっては困る」、 著作権を守る側の嫉妬心が、こうしたやりかたを阻害してしまうんだろうなと思う。

2008.10.27

Twitter クライアントをホットキーで瞬間起動する

タスクトレイに常駐しているTwitter クライアントを、ホットキーで起動するやりかた。

具体的には今、Tween というソフトを使っていて、 一度起動させるとタスクトレイに常駐するのだけれど、何か思いついたことを書こうと思ったら、 いちいちマウスでアイコンをクリックしないといけなかった。

TrayExpand という ソフトをを使って、Tween に「Ctrl + 1」というホットキーを割り当ててからは、 Ctrl + 1 でクライアントが立ち上がって、Alt + F4 でウィンドウが閉じる。すごく快適になる。

TrayExpand というソフトは、 開発しておられるかたが終了を宣言して久しいのだけれど、ソースコードを引き継いで、 64bit対応 にして下さった方がいた。

リンク からアプリケーションを ダウンロードして設定すれば、タスクトレイに常駐状態になったTwitter クライアントに、 任意のホットキーを指定できる。

google デスクトップは便利

手元のパソコンを「google 化」するソフト、Google デスクトップ を入れてずいぶん経つ。

何を書いても、とりあえず「ハードディスクのどこか」に保存しておけば、このソフトが勝手にインデックスを作って 検索可能にしてくれるから、これを使うと「ファイルの整理」が不必要になる。

この機能はたしかに便利なのだけれど、このソフトには「Ctrlキーを2回叩くと検索ボックスが出る」 という機能がおまけみたいについてきて、これに慣れると生活パターンがずいぶん変わる。

検索は普通、マウスでアイコンをクリックして、ブラウザソフトを立ち上げてから行う。

これにかかる時間だってせいぜい数秒だけれど、「Ctrl キー2回」だと、これがもう1秒ぐらい縮まる。 この「1秒」がすごく大きくて、一度慣れると戻れなくなるし、今まで以上に検索の閾値が下がって、 google 検索が生活の一部になってしまう。

時間の節約というのは、「1日かかっていたのが1時間になる」みたいな進歩のほうが目立つけれど、 その人の生活動作を変えるのは、むしろ「コンマ秒」単位の、ごくわずかな短縮が効いてくるのだと思う。

Twitter で「コンマ秒」縮めたい

普段自分が使っているのは、ブラウザを除けば、あとはせいぜいLaTeX で紹介状書いたり、 パワーポイントでスライド作ったりすることぐらい。こういうソフトを立ち上げるときには、 ある程度まとまった時間を使うのが前提になるから、マウスクリックでもそんなに困らない。

問題なのはTwitter 。

Twitter はもう、日常生活動作の一部になっていて、ちょっと思いついたアイデアがあれば、 とりあえずTwitter に放り込んでおくし、他愛のないおしゃべりだとか、日本のどこかで地震が起きただとか、 リアルタイムでいろんなお話しが流れてくる。

このソフトだけは、「ちょっと使う」機会が多くて、マウスクリックをTwitter へのアクセスから追放できれば、 たぶん生活動作がずいぶん変わる気がする。

普段使い倒すものならば、「コンマ秒」を短縮することは、そのためにツールを全部取り替えたっていいぐらいに大切。 アイデアというものは、それこそ「コンマ秒」単位で腐っていくから。

Twitter は本来、ブラウザ上で動くサービスだけれど、いくつか専用のクライアントが公開されていて、 今は「Tween 」という専用クライアントを常駐させている。パソコンの起動と同時にTwitter のホームページに メッセージを取りに行って、あとはその日に流れるおしゃべりを、ずっと記録してくれる。

このソフトは、普段はタスクトレイに小さくおさまっていて、ここをマウスクリックすると一瞬で立ち上がるのだけれど、 「マウスでタスクトレイのアイコンをクリック」という、このわずかな動作が煩わしくて、何とかしたかった。

窓使いの憂鬱

普段使っているキーバインド変更ソフト窓使いの憂鬱 には、&ShellExecute() という命令がある。

これを使うと、任意のキーボードショートカットで、任意のアプリケーションを立ち上げられる。

キーボードを使うことなら、ほとんどどんなことでもできるソフトだけれど、これを使ってTween を 立ち上げようとすると、「二重起動です」という警告が出て、うまく行かない。

同じく窓使いの憂鬱には、Window の最大化を行わせる命令があるんだけれど、今度はアプリケーションの指定ができない。 アクティブになったウィンドウごとの動作は指定できるみたいだけれど、 バックグラウンドで常に動いているソフトに指示を出すやりかたは、自分には探せなかった。

AutoHotKey

AutoHotkey という、やはりあらゆるキーボード操作を 変更可能なソフトがあって、これもまた、スクリプトを書くことで、 強力な機能を実現している。

「使用例」として紹介されている機能の中に「既に起動している場合は、そのプロセスをアクティブにする」 という一文があって、すごく有望そうではあったのだけれど、使いかたが難しそうな上に、 「窓使いの憂鬱」と機能がぶつかりそう。

某SNS で「不安だ」とかつぶやいてたら、「AutoHotKeyと窓使いの憂鬱は、技術のレイヤが異なるので、共存できます」 なんて教えていただく。

実際に導入してみて、スクリプトを書いて、たしかにホットキー一発できちんと立ち上がったのだけれど、 一度Tween をタスクトレイに格納すると、やっぱり「二重起動」の警告が出て、動かなくなってしまう。

困った。

検索してみた

やりたいのは「タスクトレイに常駐したアプリケーションをホットキーで立ち上げる」ことなんだけれど、 そのまま検索しても、必要な情報は探せなかった。

「タスクトレイ」「操作」なんて単語で検索をすると、今度はTTBaseという、 タスクトレイの操作に特化した常駐ソフトがあった。

このソフトは様々なプラグインのプラットフォームとして動作して、公開されているプラグインの中に、 「タスクトレイのアプリケーションをポップアップさせる」プラグインを公開しておられる人がいた。

これはたしかにうまく動作したんだけれど、ショートカットキーを押して、 さらにカーソルキーで Tween のアイコンを選択して、さらにEnter を押さないとポップアップしてくれない。 たしかにマウスを触らないで済むようにはなったけれど、これだとマウスのほうが速い。

いろいろ探したんだけれど、どうにも見つからなかった。

ひたすらぼやいた

「こんなことをしたい。分からない。困った困った」なんて、Twitter 立ち上げるたびにつぶやいてたら、 「のどか」という、「窓使いの憂鬱」の 後継ソフトを開発しておられる方が、今度のバージョンから機能を実装していただける、なんてコメントをいただいた。

すごくありがたいお話しで、たぶんこれを待つのが正解なんだけれど、 今度はTween の「ウィンドウクラス名、メッセージの番号などを調べる必要があり…」とのことで、 やっぱり初心者には敷居が高そう。

この方のコメントで、「タスクトレイ」のことを「通知領域」と呼ぶことを初めて教えていただいた。

また検索

今度は「通知領域」と「操作」で検索。

【通利領域】タスクトレイ関連ソフト【tasktray】という、 2ちゃんねる掲示板の過去ログが見つかる。2005年頃の記事だけれど、ここに来て初めて、同じような問題を 抱えている人達に行き当たった。

TrayExpand というソフトがそれらしいのだけれど、開発は終わっているだとか、 バイナリを公開しているだとか、記事がいくつか。

最後にもう一度、「TrayExpand 」という単語で検索をかけて、64bit 対応版だとか、 ソースコードを引き継いでいる人のページに行き当たって、とりあえず「ホットキー一発」が達成できた。

分からないものを検索する

技術力が全くない人間であっても、検索エンジンは、正しく問いさえすれば、あらゆる答えを教えてくれる。

問題になってくるのは「問いかた」で、自分が抱えている問題をどう言語化すればいいのか、 分からない人はたいていの場合これが分からないし、分からないものは、検索できない。

「問題」と「検索」との間に、誰か「人」に入ってもらうと、「何が問題なのか分からない」問題は、 しばしば検索可能な、解答可能な問題に置き換わる。

次世代の検索エンジンは、たぶん「ここではないどこか」みたいな言葉を検索して、 満足のいく解答を返してくれるようになる。

「ちょうどいい暇つぶし」だとか「面白そうな本」みたいな、検索不可能ワードの検索需要は必ずあって、 そんな「次世代」は、たぶん人がたくさん集まる場所から発生する。

疑問を持って、SNS でヒントをいただいて、検索して、Twitter に疑問を投げて、 blog のコメント欄でヒントをいただいて、さらに検索して、解答にたどり着いた。

次世代は見えてないだけで、もうここにあるんだと思った。

2008.10.24

正しい手続きが腐敗する

脳出血を合併して亡くなった妊婦さんの事例に思ったこと。

亡くなった方は、きちんとかかりつけのクリニックを持っておられて、 そこで勤務する医師もまた、患者さんを正しく診断して、 正統な手続きのもとに、地域の基幹病院に助力を要請した。

全てが正しく行われたにもかかわらず、あるいは、正しいやりかたが重ねられた 帰結として、「受け入れ可能」を表明する病院が見つからなくて、受け入れに時間がかかった。

正しくなければ速かった

最初に「受け入れ不可能」の返事が返ってきた段階で、救急車でなくタクシーを呼んで、 「大学の救急外来に飛び込んで下さい。うちのクリニックのことは伏せて」なんてアドバイスしたなら、 診療が開始されるまでの時間は、もう少しだけ速くなったような気がする。 若い方の脳出血だから、やっぱり予後は厳しかっただろうけれど。

全て正しい手続きで紹介された患者さんに対しては、医療者側もその施設にできるベストを尽くして、 確実に結果を出さないといけない。今は「確実」のコストは急騰しているから、 病院の対応もまた、ガイドラインにがんじがらめに縛られた、杓子定規なものにしないといけない。 「正しいやりかた」は往々にして難しくて、それが夜間なら、なおのことそれができる施設は減る。

紹介するまでの過程が正しければ正しいほどに、結果として、その正しさに応えられる施設は減ってしまう。

飛び込みできた患者さんに対しては、手持ちの資材で対応せざるを得ない。 施設としてなんの準備もできない状態から始まるから、それはどうしても 緊急避難的な対応になってしまうだろうけれど、大学みたいな場所ならば、 たとえ休日の夜間であっても、まだ緊急手術に参加できるぐらいの人は残ってる。

緊急避難的な対応は、もしかしたらその施設にできるベストには遠いかもしれないけれど、 たいていはそれで十分どうにかなって、少なくともたぶん、正しい手続き踏むよりは、診察できる可能性は高かった。

負ける代わりに機会を得る

「確実さ」のコストが天井知らずに上昇すると、どんな形であれ、信頼コストの 一部を放棄した人には、そのことによる見返りが期待できる。

ところが医療は平等で、信頼性というものは、高いほうがもちろん正しいから、「抜け駆け」は難しい。

紹介状無し、タクシー飛び込みできた患者さんは、正しい手続きを一切放棄しているわけだから、 病院に来た段階で、患者さん側には落ち度が発生する。

「どうしてこんな真似するんですか! 死にたいんですか!」なんて怒られたって文句言えないし、 仮にその病院にできるベストな診療が受けられなかったとしても、正しい手続き踏んでないんだからしかたがない。 そうした患者さんは、病院の門をくぐった段階で、いわば病院に「負けた」状態を受け入れざるを得ない。

最初に「負け」を認めた人に対しては、だからこそ医療者側は、堂々と「緊急避難」を開始できる。

情報無いんだから、仮にそれが妊婦さんであってもCTを撮らないと分からないし、 救急外来もまた、「とんでもない人がいきなり飛び込んできたから」なんて、 全部を「患者さんのせい」にして、当直している全員に声かけて、 病院内のあらゆるリソースを、その「負けた人」に突っ込める。

「タクシー飛び込み」は、かかりつけ医の情報に期待できないし、病院だって準備できない。 それは受診する患者さんの不利益がとても大きなやりかただけれど、見返りとしての診療機会の向上は、 今は「正しくない」デメリットと、釣り合うどころかおつりが来るぐらい、メリットが大きな気がする。

病院どうしがお互い正直で、参加する医師すべてが良心的であることが前提に組まれた 病院間ネットワークというものが、そもそも成り立ちからして欺瞞的なんだけれど、 最近はなんだか「公式ルート」はますます細って、 大学の同窓会名簿だとか、医局のOB会名簿に頼る機会が増えてきた。

「久しぶり。僕先輩だよね。先輩だよね。先輩だよね。で、こういう患者さんがいてね…」みたいな。

なんか病んでる。

どうすればいいのか

診療報酬をゼロにすればいいのだと思う。

信頼の需要は増える。現場を回す医師の数は減る。みんな責任回避して、 細った「公式ルート」には、あらゆる重症患者が殺到する。

「公式ルート」の危険度はますます上がって、それを受けられる病院は、たぶんそのうち存在しなくなる。

正しい手続きが見返りとして求める極めて高い信頼性が、結果として、患者さんから診療機会を奪ってしまう。

機会を昔どおりに分配しようと思ったら、だから施設同士の責任移譲を事実上禁止して、 高価になった「責任」というものを、なるべく多くの医師で分配することを考えないといけない。

いくら「禁止」を明文化したところで、それこそ医院の近くに救急車呼んで、「自分の名前は絶対出さないように」なんて 言い含めたりすれば、禁止条項なんていくらだって回避可能だから、対策としては、 責任を分担することで、初めて対価が発生するような報酬体系にするのがいいと思う。

具体的には、「生き死に」に直接かかわってこない、外来で回せる患者さんの診療報酬をゼロにして、 その代わり、全ての基幹病院は、基本的にオープンホスピタル化する。 入院が必要な患者さんを診察した医師は、誰でも基幹病院の設備と人員とを指揮することができて、 たとえば病棟スタッフに「手術」を命じたりすることができる代わり、患者さんにかかわる責任は、 主治医になった、その医師が負う。

「開業医」と「勤務医」みたいな区分けは微妙に変わって、「責任から対価を得る医師」と、 「行為から対価を得る医師」みたいになる。基本的に勤務医は、責任者たる主治医の指示で 動くけれど、自分で主治医を取った患者さんに対しては、そこに発生する「責任」から報酬を得ることもできる。

対価は基本的に、ベッドから発生する。

開業した人は、患者さんを在宅ベッドで診療することもできるし、あるいは病院のベッドを利用することも できるけれど、誰か他の医師に責任移譲を行った時点で、その患者さんからは対価を得られない。

恐らくは開業を続けられる人は減る。ある意味それは、原点に返るだけだとも言える。

漫画「ブラックジャック」の昔、主人公も、対立する悪徳医師も、登場する医師はみんな自分のベッドを持っていて、 ブラックジャックが患者さんを奪ったりすると、悪徳医師もまた、ブラックジャックのクリニックに乗り込んだ。 医師というのは患者さんと不可分で、患者さんが動いたら、主治医は呼ばれなくても、一緒にくっついて動くものだった。

開業という行為は、本来は能力が有り余ってて、病院という器の中では自分の能力をもてあましてしまう 有能な人達が、自分に合わせた入れ物を作るために行うものだった。

そもそも開業できるだけの能力持った人なんて少数だったし、 自分達が学生の頃、開業している先生方に話を聞くと、「勤務医はいいよ。楽で」とか、 今とは正反対の言葉が返ってきた。

「無料」ルール敷いたとして、今開業している先生がたの半分、たぶん4 万人ぐらいが開業を止めて、 そのうち半分ぐらい、2 万人ぐらいの先生方は、たぶん基幹病院に帰還して、また一緒に現場を回してくれる。 ベテランの知識と経験は、再び基幹病院の設備と結びついて、医療リソースは増えるはず。

責任を分担する余力を十分に持った人は、今までどおりに開業を続けるだろうし、 そうした人達が責任を分担して下さるのなら、開業した人達の能力は、 重篤な患者さんを受ける勤務医を精神的に支えて、現場に力を与えてくれる。

そう悪い未来じゃないと思うんだけれど。

2008.10.22

「病院戦術学」みたいな学問がほしい

たとえば軍隊ならば、同じ地形、同じ敵、率いる部隊も同じにしたとき、 その軍隊に所属する将軍は、たぶん誰もが同じ作戦を「定石」として導き出す。

戦争の科学「軍事学」には、「戦術学」という領域があって、士官になる人達は、状況ごとの兵士の動かしかた、 状況判断のやりかたを学校で習う。将軍達は「定石」を共有できているから、 不確実な「戦場」を相手にしているときであっても、そこに集まった人の能力を有効に利用できる。

結核患者さんのこと

以前に一人内科をやっていた病院で、人工呼吸器を付けないといけないぐらい、 具合の悪い結核患者さんを診ていたことがある。

結核はまわりの人に感染するし、本来は結核の専門病院に移すべきなんだけれど、 具合が悪くてそれどころじゃなかった。

人工呼吸器がついていて、部屋も集中治療室だったから「個室隔離」なんて無理。 どうしていいのか分からなかったから、とにかくまわりのベッドをどけて、みんなにマスクを付けてもらって、 県の保健課に「専門家にアドバイスを受けたいので、誰か呼んで下さい」なんて泣きついた。

結核はもちろん古くからある病気だし、このときみたいなケースは決して珍しくないだろうから、 こういうときにどうすればいいのか、個人的にも興味があった。

限られた設備、限られた備品の中で、 自分達の感染確率を下げて、菌の伝播を防ぐ「陣地」を、どうやって構築すればいいのか。 専門家は、きっとそんなノウハウを持っていると信じてた。

「権威」がやってきて、歓迎して、状況話して、集中治療室に案内した。看護師さん達だって 自分達のことだし、どうやって自分の身を守ればいいのか知りたがってたから、みんな集まった。

権威は一言「皆さん頑張ってるみたいだから、たぶん大丈夫だと思いますよ」なんて告げて、 一同が唖然とする中、「5時になったので、これで」と帰って行った。二度と来なかった。

要するにたぶん、少なくともその地域には、薬を選んだりだとか、 菌を同定する専門家は居たのかもしれないけれど、その時の状況で、 感染症に対して「どう」戦っていけばいいのか、それを説明できる人なんて、誰もいなかった。

「分からないもの」との戦いかた

何か「未知」だけれど「致命的」な感染が発生したとしても、医師にはまだ、できることはある。

未知であるものに対して、薬や手術はもちろん役に立たないけれど、感染の状況を調査して、 患者さんを適切に隔離することで、病気の拡散を阻止して、最終的に、「未知の何か」を 封じ込めることはできる。

市町村レベルの大きな話でなくても、たとえば感染した患者さんのベッドを、治癒に向かいつつある 患者さんが作る「免疫の壁」で囲えば感染は広がらないし、医療従事者もまた、花粉を運ぶ昆虫よろしく 病原物質を持ち運んでしまう。これはトレードオフの問題だから、 動作線を工夫するだとか、適切な場所で衣服を着替えるだとか、 「分からない何か」に対して、状況ごとの最適解みたいなものが存在する。

専門家は本来、病気の種類や病棟の設計、電源の場所、スタッフの人数みたいな情報が 与えられたら、状況ごとの「正しいやりかた」を、演繹的に導くことができる。

そういうことは絶対に理論化できるはずなのに、いくら探しても本に書いてないし、 保健所みたいな専門機関に相談しても、「こうすればいいんです」なんてやりかたを教えてくれない。

あの人達は、ただただ「頑張ってるみたいだからたぶん大丈夫ですよ」なんて精神論放り投げて、 時間どおり、5時になったら自宅に帰る。

  • 個室に隔離するなら、そこにどういうものを準備すればいいのか
  • 個室が無理なら、どうすれば「次善」が得られるのか
  • スタッフの着替えが必要ならば、着替える場所は、ベッドから見てどの方向に作ればいいのか
  • 患者さんのベッドと、部屋のドアとは何メートル離せば大丈夫なのか
  • スタッフの動作線は、どう設定すれば感染確率を下げられるのか

患者さんの病状と感染様式、病棟の配置や大きさと、病棟スタッフの人数が分かれば、 理論を知っている専門家なら10人が10人、こういう疑問に対して同じ答えを出せる やりかたを、感染症学の一分野として、教科書で学べたらいいなと思う。

人の力をかけ算する

「軍事学」の分野として「戦術学」があるように、自分達の領域にも、 何か「医師の戦術」みたいなものを論じたり、それを教えるような学問がほしい。

医学というのは、軍事と同じく総合学でないといけないのに、今自分達が習っているのは、 軍事学で言うところの「軍事工学」ばっかり。みんな「武器」にばっかり異様に詳しいのに、 肝心の「戦いかた」だとか「攻めかた」「守りかた」みたいな、本来基本であるはずの考えかたを習わないから、 対峙した同じ状況に対して、考えかたの「定石」を共有できない。

それが防衛大学校であってもウェストポイントであっても、同じ軍事学校を出た士官の人達は、 同じ状況に置かれたら、まずは同じ戦いかたを「定石」として導ける。

戦場というのは不確実なものだけれど、お互いの思考プロセスが共通しているから、 不確実なものに対して、「定石」の共有を前提に、生産的な議論ができる。

将軍はしばしば定石を破るけれど、お互いに状況ごとの「正しいやりかた」を共有できているから、 それは「型破り」な作戦として成功して、「型無し」に陥ることを回避できる。

定石を共有した人が集まると、力は「かけ算」として効いてくる。「2」の力を持った人が 3人も集まると、力は「6」ではなく「8」になる。

医療従事者は、「我々は科学者である」といったような伝統をどこかに引きずっていて、 みんな「優秀な個人」であることを志向するけれど、集団として力を発揮するようには、 そもそも教育されないし、そういう考えかたを目指す学問が、医学にはたぶん、存在しない。

共有できる「定石」を持たない人がいくら集まっても、力は「足し算」にしかならない。

「医療崩壊」が叫ばれて久しいけれど、崩れかたは地域ごと、病院ごとにばらばらで、 生き残った施設に優秀な人が集まったところで、集団は「形無し」になって、また崩れてしまう。

同じ病院の中で、同じ患者さんを診察して、「第一内科」と「第二内科」と、 診療のやりかただとか薬の使いかた、検査の出しかた、回診のタイミングとか、 同じ病棟にあっても全く違うことなんて、たぶん今も昔も日常茶飯事。

医療という行為にはだから「戦術」の概念がなくて、ガイドラインが叫ばれる現在でも、 それはそんなに変わっていない。

個人の能力で「10」とか「100」とか持ってる人がゴロゴロいる業界なんだから、 「かけ算」できる状況が整えば、まだいけると思うんだけれど。

2008.10.20

行列に関する覚え書き

人の流れとか、車の流れとか。

呼び出すことと迎えに行くこと

国会図書館だとか大英図書館みたいな閉架式の図書館は、 閲覧を希望する人達は、受付に本を注文した後、本が出てくるまで待たないといけない。

日本とイギリスと、どちらも公務員が運営していて、待ち時間が長いのだけれど、 国会図書館は、受付から「呼ばれる」のに対して、大英図書館は、職員の人が 届いた本を「持ってきてくれる」のだという。

大英図書館はだから、閲覧者が待ち時間を有効に使うことができて、待ち時間はたしかに長いんだけれど、 お客さんには、それなりに好評なんだという。

トヨタF1 のこと

今年のF1 は、トヨタの仕切りで大成功したんだという。

昨年のF1 は大失敗だった。やっぱりトヨタ自動車が主催して、 帰りのバスの乗り降りが手間取った。バスはあったのに、バス乗り場に殺到したバスが 渋滞して、結果として、乗客には莫大な待ち時間が発生した。

今年のバスはちょっと違って、バスがバス乗り場に「出向く」のではなくて、 専用の受付の人が、集まったお客さんを、並んでいるバスに「引率する」形にしたのだという。 バスの流れがスムーズになって、お客さんの待ち時間は、劇的に短くなったんだという。

バッファとしてのバイキング方式

久しく行っていなかったファミリーレストランが、 職員の数を減らしたからなのか、バイキング方式の前菜を大々的に取り入れていた。

もともとは、お酒抜きの客単価が3000円ぐらいのお店。田舎だと、これでも相当に高いほうで、 昔はキッチンにもフロアにも人があふれてて、相当に賑やかなお店だったのだけれど、 今はずいぶん閑散として、その代わり、「バイキングはいかがですか?」とか、注文するとき勧められた。

自分たちが出てこない料理にイライラしながら待っている間、 他の人達は、料理と一緒にバイキング頼んでて、それ食べながら料理を待ってた。 働いている人の手が減ったぶん、料理が出てくるまでの時間は、前よりずっと長くかかるようになっていたけれど、 みんなバイキング方式の前菜をつまみながら、文句も言わずにおしゃべりをしていた。

ラウンドアバウト

ラウンドアバウト – Wikipedia というのは、英国で使われるロータリー方式の交差点。交差点の真ん中に中心が設けられていて、 交差点に進入した自動車は、時計回りに回るようにして交差点を周回するやりかた。

日本で普通に見られる十字路と違って、信号機に相当するものが無くて、交差点に進入した自動車は、 お互いのルールに従うだけで、自然とスムーズな流れが生まれる。

信号機がないから、道が空いているときには止る必要がないこと、 電気代も、維持運営のお金もかからないこと、車が直進できないから事故の発生率が低いとか、 十字路だけでなく、どんな形の交差点でも同じやりかたが応用できることとか、 メリットがたくさんある反面、ラウンドアバウトの能力には上限があって、 一定台数以上の車が交差点に集まると、いきなり機能しなくなってしまう。

ロータリー式交差点は、車の総台数が少なかった昔は上手に機能したシステムだったけれど、 車の数が増えた現在では問題が多くて、後から信号機を追加したり、 複数のロータリーを設けたりしているけれど、なかなかうまく行かないらしい。

一般化

  • 人や車を流すためのシステムは、一種の「インピーダンス変換器」として近似できる
  • アンプだとか、楽器のホーンなんかと同じく、システムにはインピーダンスを整合させるための 最適なありかたがあって、そこから外れると、どこかで流れがよどむ
  • 顧客に何かの判断力を要求すると、それは「不公平感」となって設計者に跳ね返ってくる。 顧客は動けるけれど、判断を行えるだけの情報をもてないから、正しく動けるとは限らない
  • 「迎えに行く」動作を、バスみたいな腰の重いエージェントにやらせると、業務が回らなくなる
  • 「持っている情報量」と「腰の重さ」は、しばしば両立不可能なパラメーターになる。トヨタの受付みたいに、 ある程度の判断権限と、動作の軽さとを併せ持った中間職を設けると、システムの矛盾を解決できることがある
  • うまく行かないやりかたは、たぶんどんな人数規模でもうまく行かない
  • ある規模でうまく動くシステムは、しかし全ての人数規模で同じように動くか分からないし、 「システムの停止」は、しばしば予測不可能な形で、いきなり発生する
  • システムの途中にバッファーを設けることで、回避不可能な律速段階の影響を、 ある程度緩和できることがある

待ち時間が馬鹿長い外来だとか、ナースコールが押されてから看護師さんが来るまでの待ち時間だとか。

たぶんいろんな場所に「行列」は発生して、それはしばしば、回避可能なのに、 回避の努力が為されないまま、個人の「努力」に責任が帰せられている。

「渋滞学」みたいな学問から、「こういうやりかたするとうまく行くよ」みたいな 提案ができたらいいなとか思った。

2008.10.19

ドラマ「小児救命」

最近始まったばかりの新番組。まだ見てない。紹介しているblog

「子供の命を守りたい」一心で、勤務していた総合病院を辞めて、 24時間営業の無床クリニックを始めた医師のお話。救急の現場にとっては、悪魔のような主人公。

たぶんこのドラマには実在のモデルがあって、どこかで今でも開業しているはず。 ドラマと同じく、「子供の命を守りたい」とか、そんな理由で開業医になって、24時間外来を開いて、 調子の悪そうな子供は近隣施設に振る。

テレビでは昔、そのクリニックに勤める人達を取材していたはずだけれどそこから「振られる」側の 先生がたが、実際のところどう思っているのか、「後方」がある、外来だけのクリニックと、 後がない救急外来と、人的リソースが限られる中、どうやって共存を続けているのか、是非聞いてみたいなと思う。

優しい外来からの紹介は怖い

24時間営業のクリニックができたところで、その施設で外来から入院まで、 全て完結してくれるのならばそれほどありがたいことはないんだけれど、ベッド回すの大変だから、 ドラマでもやっぱり、診られない人は近隣施設に振る。

「夜中に」「元気な」子供を連れてくる親御さん達は、ただでさえ診るのが怖い。 親御さんの不安を受容して、紹介状持たせて紹介するやりかたは、 わざわざ地雷を掘り起こして、起爆装置のスイッチ入れてから投げつける様子に どこか似ている。

分からなければ紹介、という立ち位置で患者さんを診る人と、最後まで責任を負わざるを得ない人と、 お客さんを見るときの態度はどうしたって変わらざるを得ない。

「後ろ」に期待できる立場なら、自信なければ後方病院の医師を褒めそやせばいい。

「ベッド持っててすごい腕を持った医師が○○病院にいますから、そこに行きましょう。私が紹介してあげます」 なんて笑顔返して、「大丈夫でしょうか?」なんて問われても、「あの先生は優秀ですから」なんて。

紹介された側は、もう後ろがないから、うかつなこと言えないし、 「大丈夫でしょうか? 」なんて、ご家族から聞かれたところで、 逃げられないから、「分かりません」としか答えようがない。

たいていの場合、紹介状書く側は、後方病院の医師を「自分以上の存在」なんて持ち上げる。 恐らくは患者さんの期待値は必要以上に高められて、患者さんの安全装置は外される。 優しい外来のやさしさに触れて、「それ以上」を期待したご家族は、 期待のギャップに対峙して、救急外来で「爆発」してしまう。

手榴弾の安全ピンはうちで抜いておきましたから、爆弾の処理お願いします」なんて、 紹介状をもらった患者さんは、しばしばすごく危険な状態になって、救急外来にやってくる。

どうせ紹介してくれるなら、むしろ「次に紹介する病院の医師は、対人コミュニケーションに著しい問題を 抱えた屑野郎ですが、残念ながら近隣施設でベッドを抱えた医師は奴しかいません。 いろいろ難癖付けてあなたに不愉快な思いをさせると思いますが、こっちが怒ったら負けです」 ぐらいのことを患者さんに言い含めてくれると、いっそ受けるほうも楽なんだけれど。

部分を生かすと全体が腐る

形容する言葉が見つからないんだけれど、 「部分の正義を目指すが故に、全体の正義が巻き込まれて腐る」という現象がたしかにあって、 救急の領域なんかでは、いろんなところでこれが問題になっている。

隣の市に、とにかく老人を拒まず受け入れて、ろくな介護しないで悪くなったら救急車呼んで病院に丸投げ、 というのをビジネスモデルにしている老健があって、何度抗議しても状況が変わらない。

やりかたがあまりにひどくて、そのうちどこの病院もそこからの患者さんを取らなくなって、 その老健は今度は、患者さんが悪くなったらご家族呼びつけて、施設の前の道路に救急車止めて、 そこから救急搬送するようになったらしい。

「○○から来ました」が、「○○のほうから来ました」になって、今どの病院も夜間救急引き上げて、 けっこう大変なことになっているらしい。

ドラマで取り上げられている「患者さんに優しい」病院、そこに来るお母さん達を肯定して、 爆弾の安全ピン抜いてからぶん投げるやりかたを繰り返されると、近隣施設はたぶん、 もう恐ろしくてそこから来る患者さんを取れなくなる。

もちろん紹介状持った患者さんを断るわけにはいかないから、 総合病院ではそのうち夜間の外来を止めて、「かかりつけの患者さん以外は診察できません」なんて宣言をする。 完全に断るわけではないけれど、そういう宣言を出している基幹病院は、すでにけっこう出てきている。

風邪でもなんでも、夜中でも診てくれる、狭い正義に特化したクリニックができて、 そこの人達が系全体に影響を与えるほどに有能であったならば、 結果としてたぶん、地域の救急体制は、そこに巻き込まれて腐って潰れる。

個人のクリニックでできることは限定されるし、あるいは「あのクリニックは今ひとつだ」なんて 評判が立てば、系全体に与える影響は限られるのかもしれないけれど、ドラマの主人公はしばしば超人化する。 主人公が頑張るほどに、クリニックの評判がよくなるほどに、恐らくは近隣病院の医師は疲弊して、トラブルは増えていく。

ドラマはたぶん、主人公の正義が近隣施設に「感染」して、地域の病院が小児救命に 邁進するようになって終わるんだろうけれど、「感染」を前提にしたドラマは、 なんか間違ってると思う。

提案型のドラマを作ってほしい

ドラマの舞台設定だと、主人公の能力がないうちは、個人の正義と全体の正義とは そこそこ折り合いそうだけれど、主人公が頑張るほどに、お互いの正義が衝突するようになって、 衝突の結果、地域の救急体制が破綻する気がする。

ドラマの舞台設定はだから、うまく行きそうにないのを熱意でカバーするやりかたではなくて、 「こうすればうまく行く」みたいなやりかた、医師のあるべき姿みたいなものを、 ドラマを通じて提案してほしいなと思う。

たとえば主人公のクリニックを、昔ながらの有床診療所、「昔はみんなこうしてたんだよ」なんて、 原点に返った「ベッドを持った開業医」に設定するだとか、もう少し未来的にやるなら、 主人公は勤務医のまま個人事業主になって、勤務時間外の夜間は、病棟の設備を使って「勝手開業」してみるだとか。

どちらにしても、その勤務形態を続けるのは相当に厳しいけれど、この形態だとたぶん、 「主人公が超人である」という前提が成り立つ限り、実世界でこれをやってもうまく行く。

「自立した超人」が増えるぶんには、まわりの人は、今までどおり「普通の人」として振る舞えるし、 「正義の感染」なんてものを前提にしなくていいドラマなら、現場の医師はたぶん、 説得力のある批判を展開できない。

批判した医師は、「要するにあなたはサボりたいんでしょ」なんて言われるだろうから。

昭和50年頃までは、開業した先生がたは、みんな当たり前のように自分のベッドを持っていて、 あの人達はだから自立した存在で、外来から入院まで、全部自分のクリニックで完結していた。

今はなんだか、土曜日の午後になると「紹介状」抱えた患者さんが殺到する。

それは要するに、「俺は休むから、そのぶんおまえは働け」だなんて。 それが「患者様のためだ」なんて。

テレビ局の人達が、ドラマを通じねじれた状況を解決してくれるなら、現場としてもそれは大歓迎なんだけれど。

2008.10.16

道具としての読書

電子化された文章というのはやっぱりどこか読みずらい。

ちょっと調べるだけならともかく、何かを読んで自分の文章を書くだとか、 まとまった、記述された知識を吸収して、それを自分の仕事に生かすだとか、 得た情報を、道具として利用しようと思ったら、やっぱり製本された本が欠かせない。

電子時代の読書のありかたと、抜き書きの効果について。

読書というコミュニケーション

手で持てること。書き込めること。ページを折れること。 パソコンには、製本された本が持っている、こうした感覚要素がまだ足りない。

ディスプレイに映し出された文字を追っかけるだけの電子媒体と、本を読むという 体験それ自体がイベントになる読書と、パソコンという道具が持つ「帯域」は、 昔ながらの本に比べて、まだまだ狭い。

恐らくは人と本との間には、視覚を含めたいろんな感覚が動員される、一種のコミュニケーションが成立している。

本は人に情報をもたらすけれど、人もまた、書き込んだり、ページの端を折ったりといった行動を通じて、 人から本に、知的なアプローチを行っている。

読者の行動が加わったそうした本は、 もはや単なる文字列ではいられなくなって、読者がその本に投影した文脈であるとか、 ページごとの重み付けであるとか、新品の本とは全く異なった「何か」に変貌している。

感想文の正しさ

「感じたままを素直に書きましょう」なんていう読書感想文のやりかたは、 道具を志向した読書の役には立たない。

本を道具として役立てようと思ったら、作者が本にした情報を、自分の文脈で 使いやすい形に取捨選択、編集して、持ち運びやすく、参照しやすい形に 作り直さないといけない。

読書感想文のやりかたは、読書という行為を通じて、作者が伝えたかった文脈を 効率よく拾い出す練習。大事なのは作者の文脈だから、 読書感想文はしばしば、「自分の体験に引きつけて書きましょう」なんて指導がされる。

自分の体験を重ねても、その文脈は作家のものだから、 どれだけすばらしい読書感想文が書けたところで、恐らくそこからは、 「すばらしい本を読んだ自分」という肩書き以上のものが得られない。

権威として輸入した文脈は、実生活で利用できない。

作者がたどり着いた境地がどれだけすばらしいものであったとしても、読者は作者になれないし、 作者と同じ体験は共有できない。

作者の文脈はだから、利用するならば無批判に受け入れることしかできなくて、 体験が共有できないが故に、受け入れた文脈が、自分を取り巻く実情と合わない部分が出てきたとき、 それを改訂して、状況に合わせて運用することができなくなってしまう。

読書感想文を書くのに大切なのは、「文脈」と「共感」だから、本とのコミュニケーションは必要ない。 読書感想文を書くならば、本は電子化されても、それでも十分役に立つのかもしれない。

抜き書きの効果

国語の先生の意図とは異なるかもしれないけれど、 「感じたままを素直に書きましょう」という読書感想文のやりかたよりは、 「面白そうなところを抜き書きして、それをつなげて、短くて面白い文章を作りなさい」という 課題を出したほうが、実用的に本を読むやりかたが身につくと思う。

本を読んで、あとからblog に何か書こうと思って、面白そうな文章だとか、エピソードを抜き書きする。

抜き書きされた、箇条書きされた単文を眺めると、あれだけ面白かったはずの文章が、 何か輝きを失った、陳腐な文章に変貌していて、びっくりする。

文脈から切り離された文章は、しばしばその力を失ってしまう。

面白さは文脈に依存する。抜き出した文章の面白さを別の誰かに伝えようと思ったら、 読者はだから、自分の文脈で文章を運用して、抜き書きした文章に、 再び力を与えないといけない。

抜き書きした文章の語尾を治して、順序を入れ替えて、どこかで自分以外の読者を意識しながら、 その工程は要するに、読者と作者との、文脈のせめぎ合い。

「面白い抜き書き」を作る作業は、だからけっこう頭を使うし、読者が作者に「敗北」すると、 それは本当に、ただの抜き書きになってしまう。抜き書きを並べるだけのことだけれど、 それが上手に為されると、抜き書きが意味する内容は、もとの本とは異なってくる。

道具としての読書

いわゆる感想文を書くときに注目する場所と、抜き書きを面白くまとめたいとき、 あるいは実用的に本を読むときに線を引く場所とは、ずいぶん異なってくる。

「面白い抜き書き」を書こうと思って本を読むときには、最初に何となくその本を読んで、 その本に記述されたエピソードを反芻して、まずは自分なりの文脈を作り出す。

本は「作者の文脈」に最適化された配置になっているから、今度はそこに自分の考えを投影して、 線を引きながらもう一度読む。

線を引く場所は、作者の考えかたを書いた場所ではなくて、 むしろ自分の文脈に合致した「悪しき例」みたいな場所であったり、作者が自分の論を補強するために 引用した、具体的なエピソードが多くなる。

本に書かれた文章は、読者の文脈に合わせて個人化される。

その抜き書きは万人向けのものにはなり得ないし、そこから導かれる結論もまた、 しばしば作者の意図とは異なってしまうけれど、「個人化」という工程を経た本は、 あとから何かを書いたり、あるいは読書を通じて、自分の考えかたを変えていく上では、 たぶん作者に「共感する」以上に役に立つ。

おまけ:抜き書きと感想文のリスト

感想文: 作者の文脈に依存して、自分の体験を記述したもの。

抜き書き: 自分の文脈にそって、本の文章を並べ直したもの

  • 説得的コミュニケーション: 自分は「いかに騙すか」にしか興味が無くて、作者はむしろ「いかに騙されないか」に重点を置いていた。後半部分には興味がなかったから、全部カットした
  • NHK 特集 「戦場 心の傷」:番組はNHKらしく、「だから戦争はよくない」みたいな結論に落とそうとしていた。自分が抜いたのは方法論だけ
  • 機関銃の社会史:ほんのエピソードを、「老害」的な文脈にくっつけた
  • 扇動の技術:原本は、精神分析的な立場のまとめかたをしている。今は古すぎるので、その部分を省いて、今でも使えそうなところだけ抜き書きしている
  • 技術文化と官僚主義:「NASAを作った人と技術」という本の抜き書き。もとの本は、どちらかというとエピソード重視の、作者が文脈を押しつけてこないような内容だった
  • 北村弁護士の演説のこと:技術的に面白そうな部分のみメモした
  • 言葉のこと:「権力に翻弄されないための48の法則」という本からの抜き書き。エピソードが中世の宮廷ばっかりだったので、その部分をマーケティングの本から引用しなおした
  • 勇気と恐怖と全体と:「炎の門」という小説の抜き書き。文脈も作者のそれとほとんど変わっていないはず
  • Advovative Doctor’s Life Support:「好かれる技術」という本の抜き書き
  • 「人類は衰退しました」感想
  • 楽しい文章と広まる文章:「コンペに勝つ」という建築の本からの抜書き。「建築」を「文章」に変更するとともに、引用する順番は目次とは相当異なった
  • 補給について:「補給戦」という本からの抜き書き。これは内容そのまま

2008.10.13

機関銃の社会史

機関銃の発明が、戦場にもたらした影響について論じた本。南北戦争から、第一次世界大戦初期の逸話。

歴史経過

手回し式のガトリング銃は1862年、マクシム型機関銃は1884年、ブローニング機関銃は1892年に、それぞれ発明された。

南北戦争は1861年-1865年。すでにガトリング銃が活用されていた。

ヨーロッパのアフリカ攻略もだいたい同じ頃。ヨーロッパの軍隊もまた、 発明された機関銃をアフリカ大陸に持ち込んで、その威力を十分に把握していた。

第一次世界大戦が始まったのは、1914年。

機関銃は、第一次世界大戦以前から広く用いられ、その威力は軍隊の誰もが知っていたにもかかわらず、 ヨーロッパの軍隊では、機関銃の重要さが認識されなかった。

19世紀の士官達は、戦場は、あくまでも人間が主役であって、個人の勇気や一人一人の努力が 勝負を決するという信念に固執していた。機関銃は、普通の小銃の射程が伸び、 発射速度や、弾丸の初速が速くなった程度の代物で、戦場の勝負を決するものは、 依然として銃剣での攻撃や、突撃であると信じられていた。

戦争の産業化

ガトリング銃を発明したガトリングは、こうした武器が大部隊の必要性に取って代わり、 結果として、戦闘や疾病に苦しめられる人の数は大幅に減るだろうと考えた。

実際には、機関銃は戦場における決定的な武器となり、もちろんますます多くの兵士が殺された。

南北戦争以前の戦争では、どの国の軍隊も、財政的、技術的な不備による制約が著しかった。 実際に戦える兵士は、軍隊の中でもごく一部で、予備役はさらに少なかった。 特定の戦闘で、十分な数の敵を殺せれば、それが戦争における決定的な勝利へとつながった。

南北戦争では、両軍は互いに持てる力の全てを尽くして戦う必要があった。 特定の戦闘が、戦争全体の勝利に貢献する割合は減り、兵士は南北戦争以前と違って、 単なる消耗品に過ぎなくなっていた。

兵士個人の能力に代わって重視されるようになったのは、一人でも多くの相手兵士を殺すための、 資材面での能力だった。

「一つの戦闘で決定的な勝利を収めれば戦争に勝つ」という時代は南北戦争で終わった。

貴族士官の時代

南北戦争が終わって10年経った1875年の時点で、イギリス軍の士官は、貴族と紳士階級によって占められていた。

士官の18%は貴族、32%は紳士であり、近衛連隊のような軍隊では、この割合はもっと高かった。状況はフランスやドイツでも変わらなかった。

士官の多くが貴族出身であった結果として、彼らは産業の時代に追いつけなかった。 社会的に孤立していたため、戦争に対する彼らの考えかたは、前世紀から変化がなかった。

貴族士官にとっては、誉れ高き突撃こそが戦いであり、 ただの機械でなく、人間こそが戦場の支配権を握っていると信じられていた。

1862年には機関銃が作られ、1880年には小銃に弾倉がつくようになり、歩兵の火力は向上した。 徐々にではあったものの、たとえ何人でかかろうと、兵士が遮蔽物のない土地を突進することは不可能になっていった。

アメリカでは、南北戦争の時点でこのことが明白になっており、兵士は塹壕にこもるようになった。 多くのヨーロッパ人士官は、たとえ南北戦争を見たものでさえ、それを軍隊の堕落と見なし、 ヨーロッパの戦場では、同じことが繰り返されることは無いだろうと考えた。

  • 1875年、イギリス軍の将校は、「士気の上がった精鋭部隊によって支えられた前線は、 現存するいかなる火器を持ってしても事実上攻略不可能である」と話している
  • プロイセンの軍人が南北戦争で亡くなった兵士の遺体を調べたところ、刺傷を負った者はほとんどいなかったのだという。 銃剣突撃が戦闘の勝敗を決するケースは、皆無といわないまでもごくまれで、 もはや空想の中にしか存在しないと結論された。しかしこうした調査結果は、士官の方針を変えることはなかった
  • 1899年の、陸軍大佐の日記。「今日は敵陣の襲撃について教わった。だいたいが20人ぐらいの正体に分かれて前進する。 教練は堂々としたもので、肩先をあわせてぴったり一列に並んでいく。あれでは突撃ラインに近づく前に全滅してしまうだろう」
  • 第一次世界大戦直前の 1913年になってもなお、フランス陸軍ではこう言われていた。「フランス軍は、その伝統に立ち返り、 今後は攻撃以外の方策を認めない。あらゆる攻撃は、意を決してひたすら攻め、銃剣を振りかざして 敵陣に突っ込み、敵を全滅させるものでなければならない」
  • ドイツもまた、1899年に作られた歩兵軍規が、1914年まで受け継がれていた

騎士道精神

南北戦争の段階で、もはや全く役に立たないことが分かっていたにもかかわらず、軍部は騎兵に固執していた。

1907年のイギリスの騎兵訓練教本には「小銃はたしかに役に立つが、馬の早さによって生み出される効果、 突撃の魅力、刃の恐怖といったものの代わりにはならないことを、原則として認めなくてはならない」と記述されている。

1904年、イギリスの将軍は、近代戦争での剣や槍の効果を否定的に論じた評論家に反論した。

「小銃手の勇気と狙いを狂わせるのが、携えている武器ではなく、小銃の弾をものともせず、 猛スピードで、抗いがたい迫力で突撃してくる兵士達という精神的な要因だということを、 彼は完全に見落としている」

最初の塹壕戦は、対戦開始直後、1914年に始まった。

ドイツ軍が最初に、塹壕を掘って機関銃を据え付けた。この防衛線を突破できないことが分かると、 今度は連合軍が塹壕を掘った。騎兵や歩兵の突撃による、 移動を主とする戦争の時代はここで終わり、火力が戦場を支配するようになった。

この状況は3年以上続いたが、最高司令部はこの事実を認めなかった。

当時の連合軍司令官は、こんな言葉を残している。

「戦闘は、小細工や策略を弄して勝つものではない。勝利は最高の道徳心を見せる司令官とともにあるだろう。 彼は、自軍の負傷者にたじろがず、敵の予備兵力を使い果たさせ、闘志と回復力を耐えられなくし、前線が破られるところまで追い込む。 そして勝者は無抵抗のうちに進軍し、敵の首都で講和を指令することができる」

何万人もの兵士が亡くなった1915年に入っても、兵士の訓練といえば、行進と銃剣突撃だった。 塹壕の掘りかた、襲撃のしかた、有刺鉄線の張りかた、機関銃の操作訓練などは、原則として行われなかった。

人間中心主義の終わり

機関銃の歴史は、「人間」が戦場の主役から排除されていく歴史となった。

それは単純に、「小銃の発射速度が速くなった」という変化でしかないけれど、 発射速度という、量的な、連続的な変化は、戦術だとか、戦場における兵士の立場だとか、 戦場のあらゆる場所に、質的な、決定的な断絶を伴う変化をもたらした。

「連続的に変化し続ける何か」は、どこかのタイミングで、あらゆるものに決定的な断絶をもたらす。

連続してきた過去にしがみついて、断絶の先が見えない人が指揮を執った組織では、 しばしば現場の兵士が破滅的な被害を受ける。

いろんな場所に応用できる話だと思う。

2008.10.12

証拠の時代の振る舞いかた

機関銃が世の中に登場して、それはもちろん極めて効率的な道具だったから、 すぐに戦争で用いられるようになった。

異民族との戦争では、機関銃は、時に100倍もの戦力差を跳ね返す活躍を見せたから、 現場の兵士はその武器を大歓迎して、それでもなお、将官の人達は、機関銃の価値を認めようとしなかったのだという。

兵士が一列横隊で銃剣突撃して、騎兵隊が戦場最強の部隊だった時代。

戦争教則は、銃剣と騎兵とを最大に生かすように理論が組まれて、磨き上げられた理論を捨てるのは もったいないから、将軍は機関銃を捨てた。

それはたしかに「異民族」との戦いで活躍したかもしれないけれど、「人間同士」の戦いは、 あくまでもライフルと、銃剣突撃とで決着がつくものだから、そこに機関銃の出番はないのだと。

本当の戦争が始まって、ドイツが機関銃を採用して、横一文字に並んだ騎兵、「正しい戦場」での 最強部隊が、機関銃陣地に殺到した。

騎兵も歩兵も、もちろん機関銃に皆殺しにされて、そこから初めて、機関銃は「正しさ」を得た。

高齢者医療のこと

寝たきりに近いような高齢者の肺炎を治療するときは、どうせほとんどが誤嚥だし、 入院当初はゼーゼー言ってる人多いから、必ずといっていいほど広域の抗生剤を使って、 ごく少量のステロイドを併用する。邪道だけれど、熱がすぐ下がる。

若い人は病気に対する身体の反応が強いから、たぶん少量ステロイドなんかは高齢者以上に 有効だし、基本的に歩いて退院して、みんな二度と病院には来ないから、どれだけ強力な 抗生物質を使ったところで、耐性菌の問題が発生しない。

寝たきりに近いような、「異民族」である高齢者によく効くやりかたは、 もちろん若い人にだって有効なんだけれど、「少量ステロイド」は教科書に書いてない。 恐らくは、いろんな領域の治療手段に、こうした「邪道」があるはずだけれど、 若い人の治療は、教科書どおりに厳密にやらないと、万が一の時すごく怖いから、 教科書から逸脱できない。

逆説的だけれど、教科書どおりにやって失敗したところで、自分達は悪くない。 教科書のやりかたを逸脱しないと治癒が見えてこない状況で、ルールを破って、 もしも成果が「完璧」に届かなかったら、人生失う。

成果を問われる人ほど過程が重視される

超高齢者の病気みたいな、そもそもの治癒率が若い人に比べて低くて、 その代わり、「失敗」しても責を問われにくい「異民族」に対してなら、 たぶんたいていの病院で、主治医が考える範囲で一番有効な手段から行使される。

一方で、若くて歩いてきた患者さんみたいに、「絶対に失敗できない」ような 人を相手にするときには、教科書どおりの、「機関銃を使わないで騎兵を前進させる」 やりかたしか選択できない。

成功へのプレッシャーが厳しくなればなるほどに、過程の「正しさ」が重視される。 誰が重視するのかといえば、それはたぶん「主治医の中の裁判官」みたいな、 本来そこにいないはずの誰かなんだけれど。

ルールがいいかげんだった昔、ガイドラインというのは、それを破ることで初めて治癒につながるような ところがあって、治療のやりかたは、医師が違えばみんな微妙に違ってたから、 要するに「勝てばいい」状態だった。

「証拠」の時代になって、ルールの正しさが厳密に検証されるようになって、 ルールは正しさを得た代わり、融通が利かなくなった。「正しく勝つ」ことは、 「ただ勝つ」ことより困難だった、正しさで磨かれたルールは、 逸脱を許してくれなくなった。

正しい誤診のノウハウ

恐らくはガイドラインを書いてる人も、そのあたりを暗黙に分かっているのだと思う。

「不必要に広域の抗生剤の使用は現に慎むべきである」なんて前書きが書いてあるくせに、 当のガイドラインに記載されている抗生剤は、もう地上のあらゆる細菌を殺せるようなものが 選択されていたりとか、それが「正しい」ことになっているから。

発熱して具合の悪い患者さんがいて、何となく細菌感染症で、とにかく速く抗生物質を 使いたい状況があったとき、その人をとりあえず、肺炎と「誤診」しておくと、 あらゆる細菌を殺せるような抗生物質が、「正しく」利用できるようになる。

ルールが示す正しさと、その状況に置かれた医師が想定する正しさとが異なることは、たぶん そんなに珍しいことではなくて、ルールが厳密になればなるほどに、今度はそのルールを 回避するための「正しい誤診のやりかた」みたいな、悪いノウハウが現場に貯まる。

証拠に基づいた医療、Evidence Based Medicine の考えかたというのは、 受け持った患者さんを診るときには主治医の手足を縛るけれど、 診たくない患者さんを断るときには、絶大な威力を発揮する。

○○様のご加療に関しては、ガイドライン上は、貴施設の設備にて十分に対応可能かと思われます。
先生におかれましてはお忙しい中申し訳ありませんが、よろしくご加療下さい。
証拠に基づいた正しい医療を心がけ、お互い精進していきたいものです。 敬具。

紹介受けて、断って、こんな文面で返事書いておけば、たぶん二度と送ってこない。

以前、休日外来で「胆管炎」を診断した先生が、その人を入院させようにも、 どこの病院も取ってくれなかったなんて嘆いてたけれど、胆管炎のガイドラインは厳密で、 「最低限これだけの」という人的リソースが、細かく指定されている。現場をよく知った人達が、 「絶対に勝てる戦い」するために作ったガイドライン。

それだけの装備を休日にそろえているところは少ないはずだから、胆管炎を診断したその先生は、 むしろ「分からないけれどお腹痛がってまーす」なんて、バカのふりして「誤診」するのが、 患者さんにとってはよっぽど正しいやりかただった。

こういう教科書書いてほしい

「証拠」と「統計」が好きな人達は、「蹄の音を聞いたときにシマウマを想像してはいけない」なんていう。

蹄の音を立てて歩く生き物といえば「馬」であって、シマウマは滅多にいないから、頻度順で考えよなんて。

たとえばその人がサバンナに放り出されて、シマウマという生き物が、滅多にいないけれど、 猛毒持った肉食動物だったとしたら、恐らくは同じことを言えない気がする。

殺されたくなかったら、「シマウマを想像してはいけない」じゃなくて、 まずはシマウマでないことを確認しないといけないし、生き延びていくためには草食動物を狩る必要があったとして、 蹄の音が聞こえたのなら、それがシマウマでないことさえ分かれば、あとは相手が馬だろうが水牛だろうが、 「槍を投げて仕留める」やりかたは、そんなに変わらない。

教科書はだから、症状別に項目を分けて、まずは「その症状で死ぬ」病気を列挙して、 それぞれの診断方法と、検査の感度をとをまとめてほしい。同じ病気を診断するのにも、 全身のCTスキャン撮るやりかたから理学所見一本でやるやりかたまで様々だろうけれど、 教科書は診断確度を示すだけで、「武器」の選択は主治医任せで。

「死ぬ病気」が除外できた患者さんは、その時点ではまだ症状を持っていて、 身体は「分からないけれどとりあえず死なない」状態になっているはず。 症状ごとの各論編は、今度は「ステロイドが効く疾患」「抗生物質が効く疾患」 「抗凝固薬が必要な疾患」だとか、治療がある程度共通する病気をまとめて、 それぞれの治療を開始するために必要な所見と、そこに属するそれぞれの疾患について、 詳しい診断方法を記述するのがいいと思う。

分からない人に遭遇した状況で、まず一番知りたいのは、 患者さんを「分からないけれどとりあえず死なない」状態に持って行くことで、 次にやるべきは、症状に対して治療を開始すること。診断名は本来そのあとだっていいはず。 一つの症状に、考えられる診断名が20も30も列挙されたところで、治療なんてどうせ3種類ぐらいしかないんだから。

いろんな施設が「院内マニュアル」みたいなものを、もっと公開するといいなと思う。

正しさと統計とで磨き上げられたガイドラインは、信仰したり、 相手を罵倒するための道具としては、すごく良くできているんだけれど。

2008.10.09

診断学のこと

診断学の本を読んでいる。

ベイズ推定が主流になるのか、どの本も、「総論」のところに統計学的な疾患推定のやりかたが解説されている。

「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」だとか、医師の思い込みだとか、 先入観で診断を行うことを戒めてる。

驚きが追従者を生む

統計的には、感度が高い検査が陽性になったからといって、そもそもの発症頻度が低い病気なら、 その陽性にはあまり意味がないのだという。95% の的中率を誇る検査で「陽性」が でたからといって、普通の人がその疾患にかかる確率が5%でしかないのなら、 「陽性」と言われたその人がその病気である可能性は9%にしか過ぎなくて、 「陽性」の9割は間違えなのだ、なんて紹介される。

新しいやりかたで、今までやってきたことを振り返ると、しばしば全く違った世界が見える。 「先入観」が隠してた何かだとか、自分達が必要以上に恐怖を煽って、あるいは煽られていた部分だとか。 統計のやりかたは、しばしば読者を驚かせる。読者の「誤り」を指摘して、その人を驚かせて、 統計学者は信者を増やす。

診断学は閉じた学問で、人間が人間である以上、毎年のように病気の数が増えることなんてありえないし、 今も昔も、肺炎になった人は咳をするし、胃潰瘍になった人はお腹を痛がる。変化がないから「間に合っている」 とも言えるし、進歩がないぶん、誰もがそこに、新しい技術を入れたがってる。

「エビデンスに基づいた」医療のやりかた、診断にたどり着くために「ベイズ推定」を用いるやりかたは、 診断学の世界に久しぶりに登場した新しいやりかた。いろんな「常識」が覆されて、 恐らくは「エビデンス」との相性抜群だから、これから内科を学ぶ人達は、きっと統計の知識が必須になるんだろうなと思う。

正しい技術は驚かない

統計的な考えかたを導入した、新しい世代の診断学は、読んでいてたしかに驚かされる。 自分達が盤石と思っていた検査の感度が案外悪くて、ごく素朴な、患者さんにささやかな質問をするだとか、 足をちょっと触ってみるだとか、簡単な理学所見を取るだけのことが、極めて高い診断確率を持っていたりする。

読んでいて驚く。驚くんだけれど、読者に「驚き」を提供する新技術は、 それでもたぶん、どこか間違ってると思う。

世の中をひっくり返すような新しい技術は、たいていは「便利」なものとして世の中に登場して、 それが出現した翌日から、それは生活の一部として認識されて、新技術を使う人達は、ほとんど誰も驚かない。

その技術が登場したあと、みんなの生活は一変していて、技術に詳しい人達は、みんな「すごい時代になった」なんて 感心しているのだけれど、その変化はあまりにも自然に行われてしまうから、たいていの人は驚かないし、 「それがなかった昔」を振り返らない。

インターネットを使った動画配信の技術なんかは、たぶんそのすごさが理解できる人にとってはすごい技術なんだろうけれど、 自分達ユーザーは、単に「便利だな」と思いながらそれを使って、youtube はすぐに生活の一部になった。 パソコンでテレビを見るのが一般的になって、昔ながらの、みんなで今に集まってテレビを見る習慣は無くなったりして、 たぶん生活のいろんな風景が変わったのだろうけれど、あの技術で「驚いた」人は、たぶん youtube を視聴する 莫大な数のユーザーからみると、ごくわずかな数でしかないんだろうと思う。

診断学にベイズ理論を取り入れるやりかたは、どの本開いても、最初に「読者の驚き」を要求する。 たしかに驚くんだけれど、驚きを求めないと話が前に進まないこの時点で、すでにこのやりかたは、 技術的に「正しくない」ような気がしている。

患者さんは安心を買いに来る

同業者が「驚く」技術、あるいは考えかたは、そのやりかたを患者さんに適用すれば、 患者さんはもちろん、もっと驚く。

驚きは不安につながる。患者さんの不安に対して、統計学者は「それはあなたの先入観なんです」なんて言うんだろうけれど、 不安に根拠のないことが「統計的に」証明されたところで、やっぱり不安はそのまま残る。

統計学者にとっての「誤差範囲」の事象は、それでも当人にとっては、一生を左右する問題になる。

不安駆動型のやりかた、症状から考えられる疾患名を「死ぬ順」に並べて、 「死ぬ病気」から順番に除外していくやりかたは、統計学者からは叩かれるけれど、 素朴な直感に逆らわない、医師も患者も安心できるやりかたではある。

自分達が売っているものについて、みんなもっと自覚的になるべきだと思う。 医療は結局のところ「安心」を販売して対価を得ているのであって、「診断」だとか、 「治癒」でさえもまた、安心が生まれて、初めて価値が生まれるものにしか過ぎない。

統計を売るのはコンサルタントの仕事だけれど、医師が統計を学んで、 それをそのまま患者さんに販売したところで、お客さんはたぶん喜ばない。

症状は創発する

たとえば隣町の病院まで 2時間かかる田舎の診療所に「頭痛」を訴えてきた人と、 コンビニエンスストアと化している総合病院に、日曜日の夕方に、頭痛で立ち寄った人と、 それを同じ「頭痛」の範疇で扱ってはいけないような気がする。

症状というものは、その人の病理と、その人が対峙した環境とが相互作用を生じることで、創発する。

田舎の診療所に来る頭痛は、病理それ自体が生み出した「本物」である可能性が高いけれど、 CTスキャンがある、日曜日の夕方なら「空いている」ことが周知されている病院で発生した「頭痛」は、 むしろ「CTを切ってほしい」というニーズが、頭痛を要請した可能性がある。

CTスキャンを撮りたくて病院に来た人に、ていねいな診察を行って、 「CTを取る必要はありません」なんて説明したところで、恐らく満足は得られない。 あるいは逆に、外来に「CT時間外10万円」と書いた紙を貼っておくだけで、 この患者さんの「頭痛」は治ってしまうかもしれない。

統計で考える診断学は、症状を、患者さん固有のものとしてあつかって、 同じ患者さんに発生した同じ症状は、それがどこで発生しても、バックグラウンドでは 同じ病理が進行していることが前提になっている。

これは「経済合理的な人間」を前提にした経済学がうまく機能しないのと同様に、どこか危険な気がする。

新しい技術のこと

新しい技術が入ると、それがどちらに転んでも、現場はたぶん「馬鹿」になる。

現場を正しく「馬鹿」にする技術は、ベテランの価値を普遍化してしまう。現場は大学出たての 研修医でも普通に回るようになって、そうした技術は、現場を「馬鹿」ばっかりにしてしまう。

伝説の宮大工、西岡常一は、現役時代、大学の先生から「馬鹿」扱いされたんだという。

ある時期の建築学が、現場を見ないで一人歩きしたことがあって、 大工の目から見て「建たない」やりかたが「正しい」とされた。大学の先生の指導に従わないで現場を回していた西岡は、 大学の人達から「馬鹿」と言われて、実際に作って見せるまで、「馬鹿」の評価は覆らなかったんだという。

新しいやりかたが導入されて、現場はたしかに驚いた。統計の技術は正しくて、 なんだか反論するのが難しそうで、自分なんかはだから、これから先、統計学んだ人達から「馬鹿」と 言われる機会が増えるんだろうなと思う。

2008.10.08

電子カルテをネットワーク化してほしい

個人情報の問題が大きすぎるから実現は難しいけれど、 やっぱりいつかは、電子カルテをネットワーク化して、医師同士、あるいは 患者さんが、いろんなカルテを相互に参照できるようになってほしいなと思う。

思考を拡大する道具としてのコンピューター

「知的生産の技術」以降、ジャーナリストであったり研究者であったり、様々な人達が、 情報を整理したり、並べ替えたりするやりかたを工夫しあって、そうした人達は当然のように、 真っ先にコンピューターを取り入れた。

それが書斎に入ってきた当初、コンピューターは、単なる便利な計算機か、 せいぜい「清書」の道具以上のものにはなり得なかった。ハイパーカードだとか、 データベースソフトだとか、たしかにそれが「便利だ」と喧伝されたこともあったけれど、 結局のところ入力があまりにも大変で、昔ながらの「カード」と「システム手帳」に 回帰した人が多かったように思う。

知的生産は、あくまでもノートやカードを使って行うものの延長だった。 コンピューターの出現それ自体が、人の考えかたを大きく変えることはなかったし、それが求められたこともなかった。

ネットワークでパソコン同士がつながって、どこかのタイミングで、何かが劇的に変化した。

もしかしたら速い人は「パソコン通信」時代からそうだったのかもしれないし、 自分なんかは、掲示板文化だとか、メーリングリストの時代を経てもなお、 「袋ファイルとシステム手帳」を使っていたけれど、いずれにしても、今は変わった。

自分でない誰かの思考を、自分の考えかたに援用するやりかたは、いつの頃 からだか当たり前になって、今ではもう、昔のやりかたなんて思い出せない。

ネットワーク化することで、パソコンには「人の認知を拡大する道具」としての意味が生まれた。

電子カルテのこと

今使われている電子カルテは、もちろんネットワーク化が為されていなくて、 病院の中でこそ、お互いのカルテを閲覧できるけれど、 「テレビによく出る○○先生はどんなカルテを書いてるんだろう」とか、 調べられないし、そんな機能は最初から想定されていない。

病院における電子カルテは、だから「ネットワーク」時代以前のパソコンそのままで、 それはたしかに優秀な「清書」を行ってくれる道具ではあるけれど、職場は何も変わらない。 あれだけの計算能力を持った機械が病棟に何台も入ってきたのに、 病院で行われている知的生産のやりかたは、自分が研修した10年前と、 何一つ変わっていない。

計算機の能力は上がったし、電子カルテのソフトだってずいぶん変わったんだろうけれど、 「電子カルテ以前」と「以後」と、聞こえてくるのは「仕事が飛躍的に面倒になった」なんて感想ばっかり。

近所の基幹病院は、昨年から大規模にコンピューターネットワークを整備して、完全な電子化を果たした。

近隣病院で撮影したレントゲンフィルムを読むことすらできなくなって、外来医師はキーボード入力に 忙殺されて、どう頑張っても20人以上の患者さんを診察できなくなったんだという。

やっぱりblog にしてほしい

今ある電子カルテは、単純な「清書」の道具であったり、 人間がやっていた事務手続きの一部を代替する道具であったり、 それはたしかに便利ではあるけれど、紙カルテでも十分に代替可能で、 文化を変えるだけの力を持つにはまだ足りない。

電子化の恩恵を最大に発揮するためには、やはりネットワーク化は欠かせないし、 それに必要な技術は、もはやすべてそろっている。

電子カルテを「blog」にしてしまえばいいのだと思う。

  • 医師は全員、自分がいる病院のサーバーにblog スペースを与えられて、 自分が担当しているすべての患者について「日記」を書く
  • 患者さんの名前と、診断名の数だけ「タグ」があって、時系列の日記は、タグを通じた並べ替えができる
  • 医師がログインしてカルテblog を書くときには、「患者名」タグは全て平文で表示される
  • blog は外部からの閲覧が可能だけれど、ログインしていない人が読むときには、「タグ」は暗号化されている。 外から見る人は、名前の分からない患者さんに対して、医師が行った診療内容と思考過程、処方した薬が読める
  • 誰か別の医師に自分の患者さんを紹介するときには、当該医師の日記に「トラックバック」を打てば、それが紹介状になる。 紹介状の文面をblog 上に書いておく。トラックバックをもらった相手は、そこから患者さんの紹介状を読んで、 リンクをたどって、その人の画像データや検査データにアクセスできる
  • 紹介の返信であったり、意見なんかは、blogの「コメント欄」を通じて書ける

いろんなメーカーの電子カルテがあるけれど、お互いやりとりするのはテキストデータとリンクだけだから、 画像や検査データの保存形式が異なっていても、恐らくは大丈夫なはず。

こんなやりかたができると、通常の紹介状に比べて圧倒的に多い情報を載せられるし、 相談がクリック一発でできるから、恐らくは紹介とか、相談の閾値が下がる。

患者さんの名前が分からないことを除けば、基本的に全ての情報が公開される。 医師のID とパスワードの一覧が流出した時点でとんでもないことになるのは明らかだけれど、 どうにかして、「ネットワーク化」が為された社会を見てみたい。

「頭がよくならざるを得ない」環境のこと

電子カルテのネットワーク化がもたらす最大の利点というのは、恐らくは全ての医師が 「有能にならざるを得ない」環境が生まれることなのだと思う。

「紹介状書くのに便利」だとか、「気軽に仲間に相談できる」だとか、 ネットワークに何か文章投げて、そこから出てきた反響を使って何か学習しましょう、 というやりかたを期待すると、blog というメディアは、間違いなくその人を裏切る。

反響は学習に寄与しない。人の個性というのは想像以上に個性的で、その人が好む情報は、結局のところは、 自分自身で探しに行って、それを消化吸収しないと役に立たない。

知識だとか、何かいい教科書の抜き書きなんかを紹介していただいたところで、「それだけ」から 何かを生み出せることはほとんど無くて、結局その分野を学習し直したり、 教えていただいた本を自分で買って読んだりしないと、次の文章にはつながらない。

ネットワークの学習効果というのは、お互いのやりとりだとか、反響ではなくて、 ただ単純に「発信する」という行為それ自体に発生する。

自分のために書くメモと、誰かに読んでもらう、外部に発信するための文章とでは、頭の使い方がまるで違ってくる。

誰かに読んでもらうためには、表現のあいまいさは排除されないといけないし、 自分がはっきりと理解していないことは、他人が読んでもつまらない。

何か本を読んで、面白い部分に線を引く。あとからそれを抜き書きしてblog で発信する。 こんな単純なやりかた一つとっても、blog に書くときには、線を引いた文章の語尾を直さないと、 面白い文章として生きてこない。

どんなに面白い文章であっても、それは文脈の中にあってこそ輝いて、単体としての力を保てるものは少ない。 文脈からそれだけを取り出して並べた文章は、なんだか「死んだ」ような、つまらないものになってしまう。 語尾を少しだけ変更する、ただそれだけのことが、その文章の面白さを伝えるためには欠かせなくて、 ほんの数カ所の単語を変えるだけのことなのに、それをやるためには本を読むこと以上に頭を使う。

カルテというのは本来、訴訟にでもならない限り、自分のメモでしかない、ごく個人的なものだったけれど、 全ての医師、あるいは患者さんに「開かれた」状況で書くカルテは、恐らくは今までと同じやりかたではいられない。 恐らく医師は、今まで以上に「頭を使って」、有能な状態を維持したままカルテを書かざるを得なくなる。 最低限、医師は自分が行っている行為の根拠を知っていないといけないし、「面白い」カルテを書くためには、 その分野のことを相当深く理解していないといけない。

個人情報保護の技術が難しそうだし、「ネットワークカルテ」の機能それ自体は、今行われている blog メディアと何も変わらない、新味のないものになってしまうけれど、 「みんなに読まれる」が当たり前になることの、学習へ寄与する効果は、もっと取り上げられてもいいように思う。

「カルテがつながる」と、全ての医師に対して、「頭がよくなる」ことを強制する環境が出現する。

すごく面白いことがおきるはず。

2008.10.03

扇動の技術

バスが遅れる。待っている誰もがいらつく。不満のエネルギーが貯まる。

「バス会社はバスの増発を行うべきだ」という提案は、改革者のやりかた。 みんなが持っていた漠然とした不満は、現実的な提案へと落とし込まれる。 問題は解決するけれど、話はそれで終わって、せっかく集まった「不満」のエネルギーは散逸してしまう。

「これは何もバス会社のせいじゃない。全ては言葉もろくすっぽ話せない 外国人のせいだ。奴らを追い払わないといけない」というのが、扇動者のやりかた。 聴衆の不満を提案に変換しないで、たとえば「邪悪な外来者」のような、特定のテーマに翻訳する。

扇動者は、漠然とした不満を抱いた聞き手に対峙して、扇動者が持っている世界イメージを通じて、 聞き手の不満を実体化してみせる。

改革者はしばしば、特定の問題を解決するために、聞き手の努力を要求する。
扇動者は単に、「あらゆる抑制を取り払おう」という、聴衆の意志だけを要求する。

扇動のテーマ

個人が抱えている不満は様々で、一つとして同じものがないから、集中できない。 扇動を試みる人達は、聴衆が同調しやすいテーマ、分かりやすい世界イメージを用意して、 彼らの共感を引き出そうとする。

代表的なのは、こんなテーマ。

  • 外国人に対する援助が拡大されている。奴らに使うような無駄金や捨て金があるのなら、 政府はまず、それを我々自身のために使うべきだ
  • 外国人は、我々の金を取っていくばかりでなく、我々の仕事を奪ってしまった。 この国で生まれた人々は、亡命者が自分達の仕事を奪ってしまい、食べるものがない
  • ハリウッドの映画産業は、我々の子供達の若い精神に、唯物主義の思想を叩き込もうとする 共産主義者によって操られている
  • 贅沢な消費にうつつを抜かしているのはマルクス主義者、左翼国際主義者であって、 彼らは我が国のクリームを食い尽くし、我々にはミルクもバターもない生活を送らせようとしている。 自分達だけはシャンパンを好きなだけ傾けているくせに

聴衆は「おめでたい」人間

扇動の場においては、聴衆は常に「だまされた」人間であると定義される。

扇動者はある意味で、聞き手を侮辱することによって、追従者を獲得する。 彼らは聞き手が知識や力や勇気において、「敵」よりも劣っていることを指摘して、 扇動者が聴衆を必要としている以上に、聴衆もまた「指導者」を必要としているのだと訴える。

知的なコミュニケーションにおいては、たとえば教師と生徒との関係は、 教育という活動を通じて、お互いの距離は少なくなっていく。問題の解決を志向する改革者の 活動もまた、啓蒙を通じて、指導者と聴衆との隔たりが減らされる。

扇動においては、指導者と聞き手との距離はずっと変わらない。

聞き手が劣っているのは、一時的に「啓蒙されていない」からではなくて、 「だまされやすい人間」や「おめでたい人間」であるからで、 扇動者はしばしば、聴衆の人のよさを無遠慮に攻撃することで、彼らから永久的な支持を勝ち得る。

聴衆はだまされやすい、「善良な」人間である。しかし「指導者」の指摘を受けて、 彼らは今やそのことを知っている。指導者を得たのだから、彼らはもはや、 その知的劣等性、「善良であること」を隠す必要はなく、善良なまま在り続けることが出来る。

「善良な人間」が、今までだまされていた屈辱に対する責任は、もちろん「不道徳な敵」に丸投げされる。

「根治」を目指す

扇動者は、彼自身の世界イメージについて漠然と語る。そのことが逆に、 聴衆が持っている個々の不満に対して、「根源的な治癒」を 約束しているかのように聞こえる。

改革者は、社会が抱える問題を、それぞれ解決可能な大きさに切り分けようとする。 一方扇動者は、聴衆が抱える感情の全体性を問題とすることによって、 疾病の根源そのものを攻撃するのだとほのめかす。

扇動者は、本当は何の解決をも約束していないにもかかわらず、常に「戦い続け」ているように見える。

問題が解決してしまうと、扇動者の存在意義は消失するから、彼らにとってはむしろ、 聴衆の問題は、解決しないで定状状態を保ち続けるほうが望ましい。

強くて弱い「敵」

「敵」は世界の脅威となるぐらいに強力な存在であって、同時に扇動者の指導に従うことで排除が 可能であることが保証されなくてはならない。

「敵」と名指しされた存在は、だから本来的に弱い者であるにもかかわらず、 あえて危険な存在であることを装って、その弱さに仮面をかけている連中であると暗示される。

扇動者はだから、「本当に強い」人達を「敵」として名指しすることはない。その気になれば排除可能な 集団を探してきて、その強さを膨らませることで、邪悪な敵と対峙して戦う自分のイメージを作り出す。

「敵」の中にも、「いい」人間はいる。扇動者もそれを否定しない。

その代わり彼らは、「敵」自身の仲に紛れ込んでいる真の悪人に対してそれを排除しない、 不作為の罪を背負わされる。それはすなわち真の悪人に対する消極的な支持であって、 「敵」の連帯性や、集団としての責任は、扇動者にとって自明のものとして取り扱われる。

「敵」が、強くかつ弱いのと同様、扇動者自身もまた、強さと弱さを併せ持つ。

扇動者は「明日の秩序の番犬」になるべく予定された存在だけれど、 その一方で、今日の彼らは弱く、無力な存在であるとされる。陰謀を巡らせる「敵」に対して、 扇動者はいつ「攻撃」を受けるのか分からず、また攻撃され、その存在を貶められたりする。

扇動の時代

「煽動の技術―欺瞞の予言者」という本を読んだ。1950 年代の教科書だけれど、 紹介されているやり方は、今の時代でもそんなに変わっていない気がする。

本の中では、「敵」とされているのは「移民」であったり「ユダヤ人資本家」であったり、 あるいは「共産主義者」であったり。本の中で「操られている」政府を率いていたのは、 ニューディール政策を推進していたルーズベルト大統領だから、社会背景は全く違うけれど。

政治のやりかたは、たぶんずいぶん変わったのだと思う。

政府というのは、扇動者が叩く対象であって、扇動者と、扇動者に率いられた聴衆とによって、 「敵」が追放されて、政府は「正される」存在だった。今はむしろ、 この頃「扇動者」であった人が使っていたテクニックを、政府を率いる人達が普通に使う。

日教組を叩いて辞任した大臣とか、もしかしたら次の選挙は強いような気がする。

無茶なやりかただったけれど、あの人は辞任してみせたことで、「日教組に戦いを挑んで潰された男」、あるいは、 「真実を語ったがためにマスメディアに潰された男」という、大切な肩書きを手に入れた。

扇動者の前提が共有される限りにおいて、価値は逆転する。

メディアが支持率の低下を報道すれば、それは「敵の陰謀はそれだけ強力なのだ」と解釈されるし、 大臣が失言を叩かれて辞任すれば、それは「元大臣が敵の弱点を見抜いたから」潰されたことに他ならない。

元大臣の行動は滅茶苦茶なようでいて、「卑劣な日教組の手先が国民を騙している」という世界認識が 共有される限りにおいては、それが英雄の行動として聴衆に認識される。マスメディアだとか、知識人だとか、 あの人の行動を叩く人が増えるほどに、一方で、元大臣を支持する人も、増えていく。

元大臣にいきなり「敵」として名指しされた日教組側は、数字を示して反証を試みたけれど、 あれもまた、もしかしたら元大臣を利するような気がする。

きちんとした数字を出すほどに、「敵」の怪物性、手強さは強調されて、元大臣が作り出した世界イメージは強化される。 日教組側は、むしろ「自分たちにはもはやなんの権力もないんですよ」なんて、さっさと白旗挙げて見せたほうが、 たぶん元大臣にとっては、ダメージが大きいのだと思う。

デマゴーグの波に乗っかる人達を潰すためには、あの人達が前提としている「恐怖」それ自体を潰す必要がある。 反論して、戦って、扇動者を叩き潰したその時点で、扇動者の思惑はすでに成功している。

いろんな人達が「敵」にされている。

辞任した大臣の敵は「日教組」だし、自民党が「敵」として支持を集めようとしているのは、 公務員組織それ自体であったり、マスメディアであったり。恐らく彼らをまとめて「敵」認定するのは 得策でないから、これからは「一部の悪い公務員が」とか、「一部の売国メディア」だとか、 「敵」は分割されて、「いい敵」の不作為が、また政治家に叩かれる。

選挙になる前、自民党の人達は、たぶんマスメディアに対して敵対的になっていくような気がする。 「私はメディアに嫌われてるみたいだから」みたいな発言を閣僚が繰り返すようになったら、 それはたぶん、あの人達が「扇動」の方向に舵を切ったサインになる。

「扇動の技術」というのは、ネット界隈で誰かと遊んだりするときには便利なおもちゃで、 こうした技術で自分の文章をちょっと飾ると、議論が盛り上がる。

その代わり本来、こうしたやりかたは、「主役」が使うものではなかった。

この本が書かれた時代、扇動者は誰も、ルーズベルト大統領に打ち勝とうなんて思っていなかっただろうし、 扇動程度ではびくともしない政府があって、初めて扇動者の言葉は、聴衆に対して一定の説得力を発揮した。

社会にあって、揺るがない主役でなくてはいけない、本物の政治家がこうした技術を使う社会は、 なんか違う気がする。

2008.10.02

製本の意味

「知的生産」のブームというのが80年代にあって、 「知的生産の技術」だとか、「スーパー書斎の仕事術」だとか、「超整理法」だとか、 学生だった当時、たくさん読んだ。

京大カードとか、袋ファイルだとか、あるいはそれらを綴じ込むためのシステム手帳だとか、 今までは、ただノートにまとめるだけだった「メモ」というものを、分離、独立、編集、検索可能にするやりかた。

ただそれだけのことが、当時はえらく画期的に思えた。

スーパー書斎の仕事術

当時はまだ新人だった山根一眞がいろいろ工夫して、それを本にまとめてたけれど、 あの人があの頃試した多くのことは、結局のところパソコンに収斂した気がする。

山根一眞自身もまた、早い時期からパソコン通信を取り入れて、 海外のデータベースに電話回線でアクセスするだとか、書斎にいながらにして、 電話回線一本を駆使して人捜しをしてみるだとか、本の中で「ネットワーク」のすごさを紹介していた。

パソコンはその頃から年々高性能化して、山根一眞自身も、今まで作ってきたアナログ資産と、 どんどん進歩するデジタル資産と、お互いのバランスを取るのに苦労していた気がする。

あの頃紹介されていた多くのやりかたは、パソコンを持っていることが当然の現在から振り返ると、 あらゆるデータを単なるテキストファイルとして扱うやりかたであったり、 パソコン上の「フォルダ」の概念を、そのまんま実世界で再現していたり。

袋ファイルの考えかたは、間違いなく時代を先取りしていたけれど、 パソコンがこれだけ普及してしまった現在、ああいったアナログなやりかたは、 全てデジタル文具に置き換わってしまった。

製本という機能

パソコンが、アナログメディアを置き換えていない部分があるとすれば、 地味だけれど、「製本」の効果なんだと思う。

山根一眞がアマゾンを取材した折だったか、取材に使った膨大な資料だとか、 本のコピーだとか、写真だとか、ばらけた資料をそのまま持って帰るのが面倒で、 これを地元の印刷屋で「本」にしたら、それが非常に使いやすかったらしい。

その頃はまだ、日本には安価な製本機が存在してなかったらしくて、 「製本というのはすばらしい知的生産の技術なのに、日本でそれをやるのが難しい」とか嘆いていた。 後年、安価な製本機が当たり前のように売られるようになった頃には、もうノートパソコンが 普通に買える時代に入っていて、製本機はなんだか、知的生産の流れからは取り残されたような気がする。

あらゆる「知的生産」ノウハウのご先祖みたいな本、「知的生産の技術」を書いた梅棹忠夫が 最初に使ったのは、「どんこ張」という、リング製本のノートだったのだという。

民俗学の現地調査に行くときは、A4版だったか、とにかくリング製本のノートをたくさん買ってきて、 それを上下半分に切断して、横長の、ちょうど「京大カード」と同じようなサイズのノートをたくさん作って、 それを未開の奥地に持って行って、フィールドノートとして使ったんだという。

日本に持ち帰ってきた大量のノートは、そのあとリングを外されて、たくさんのカードになった。

梅棹忠夫は、バラバラになったカードを広げて、思案しながら、 似かよった文化が記述されたカードを集めたり、新しい発想を、 カードの群れに投影したんだという。

「知的生産」は、たくさんの情報の断片を、断片のままに分離独立して、そこから何かを生む相と、 雑多な情報をとりあえず一つにしたり、あるいは最初は一つのノートとにいろんな情報を書き込んでいく相と、 情報は、お互いの相を行ったり来たりするものだった。

情報をより自由にすることは、これはパソコンの得意分野なのだろうけれど、 「雑多なものを強引にまとめて扱う」やりかたは、案外パソコンは苦手なのかもしれない。

本という制約

大学生の頃はパソコンもテレビもなくて、でもコピー機と製本機だけは、個人で下宿に持ってたから、 いろんなものを「本」にして、ずいぶん便利に利用した。

製本機の機能、まだ整理もされていない雑多な情報を、とりあえず無理矢理まとめるというやりかたには、 カードが持つ、スマートな、パソコン上にそのままの環境を移行出来るようなきれいさはないんだけれど、 視覚的に「本」という形に固められた情報は、とりあえずやるべきことが見えてくると言うか、 「全体」が製本という行為によって決定されて、あとはひたすら削り出せばいいと言うか、 独特の、仕事の流れみたいなものが見えてくる。

「情報に制約を付加する」ことが、たぶん製本の機能的な意味であり、パソコンが未だに追いつけない、 「本ならではのよさ」みたいなものにつながる何かなんだと思う。

たとえば粘土の固まりを渡されて、「何でも自由に思うものを作っていいよ」なんて言われても、けっこう困る。 粘土は自由すぎて、自由すぎる情報を前にしても、発想が出てこない。

これがそのへんの石ころだとか、木片を渡されて、「これで何か作って下さい」なんて言われると、 石ころや木片の形だとか固さ、自分の工作技術なんかが、出来るものを大きく制約する。 とりあえず削れそうなところを削っていくしかないから、考える前に、 とりあえず「のみ」と「金槌」持って、後は叩きながら考えようかな、とか、 とりあえず体を動かし始めるような気がする。

全ての「仕事術」が目指すところは、要するに、「出来るだけ速く仕事を始める」ことにつきるんだという。

仕事の律速段階になっているのは、結局のところ、解決しなくてはいけない問題が発生して、 それに手を付けるまでの時間であって、「仕事術」というものは、とりあえず体を動かすための 閾値を下げているに過ぎないのだなんて。

引用や改編、編集みたいな自由度があまりにも高いデジタルデータは、自由であるが故に 制約が少なすぎて、制約が少ないから、「完成図」が拡散して、描けない。

重力があって初めて歩行が出来るだとか、手足が不自由な人を見ずに浮かべると、 水の浮力と抵抗が、その人の体に「泳ぎ」を創発するだとか。動作というものは、 環境に適応するために思考が生み出したものというよりは、 むしろむしろ環境という制約が、身体との相互作用を通じて、 意識に「教える」ものなんだという。

製本というやりかた、雑多な情報に適切な制約を付加することで、ユーザーが「完成品」を 生み出すことを助ける機能は、パソコン全盛時代、もう少し見直されてもいいように思う。

2008.10.01

輸入された価値観のこと

ほんの10年ぐらい前まで、感染症の治療には「広く効く新世代抗生物質」を使うのが常識で、 自分が研修した病院みたいに、旧世代の抗生剤を大量に使うやりかたは、当時はまだ珍しかった。

大学に移ったばかりの頃、連れて行ってもらった学会で、肺炎治療のフォーラムが開かれた。 「難治性の肺炎を、新世代の抗生剤で治した」症例が報告された。

虎ノ門病院の先生だったか、会場から質問が出た。「わざわざ新しい薬を使うまでもなく、 伝統的なペニシリンを大量に用いることで、それは十分に治療可能だったのではないでしょうか ?」なんて。 同じような考えかたをする人がいて、ちょっと嬉しかった。

パネリストをやっていた、偉い先生の反応はさんざんだった。

「 (゚Д゚)ハァ? 」
(´・ω・) 「先生、ペニシリン大量なんて聞いたことあります ?」
(・ω・`) 「私はちょっと、そういうやりかたはしたくありませんね…」

時は流れていろいろあって、「北米流」のやりかた、古い薬を大量に使うやりかたが、感染症治療の主流になった。

感染症科の先生がたは、今では誰もが「アメリカ」の看板背負って、病棟内を濶歩する。

自分なんかが不精して、昔風に広く効く抗生物質を使ってると、 「それはアメリカのガイドラインとは違います」なんて、自分より若い感染症医に怒られる。

「大丈夫」の意味

感染症科の先生がたは、ペニシリンを好む。

専門家に言わせれば、たとえペニシリン耐性を持っている菌であっても、 それが肺炎球菌による肺炎ならば、ペニシリンを大量に用いるのが正しくて、「それで大丈夫なんだ」と言う。 「耐性」というだけで内科は怖がる。効かない薬使ったら患者さん死んじゃうから、 たいていずるして、こっそり別の抗生剤投与して、見つかって、また怒られる。

「大丈夫」という言葉の解釈は、けっこう難しい。

「耐性でもペニシリンで大丈夫」という専門家の言葉が、それが「敵が新型ライフルを持っていても、 AK47 で十分戦える」みたいな意見なら納得するけれど、それが「熟達した兵士なら38式歩兵銃でも十分勝てる」 という意味ならば、そんな意見を吐く人の下で働くのは苦痛だろうなと思う。

肺炎球菌は、たとえペニシリンに耐性を持っていたとしても、たしかにペニシリンで十分戦える。

その代わりペニシリンは、他の細菌を叩くには役不足だから、ペニシリンが活躍するためには、 前提として「その患者さんの肺炎は、肺炎球菌が引き起こしている」ことが保証されないといけない。

残念ながら、患者さんを検査して、原因菌を突き止めるのは「兵士」である内科の仕事だから、 将軍がいくら「ペニシリンで十分」と宣言したところで、前提の保証が為されない以上、 その「大丈夫」は、現場の兵士に響かない。

技術と技芸のこと

ペニシリンは古い薬だけれど、使いどころを間違えなければ今でも最強の抗生物質の一つだし、 これがきちんと使いこなせる人というのは、たしかにどんな状況になっても、 「ここ」というタイミングでペニシリンを投入できる。

ペニシリンの使いかたに熟達した人のすごさは、その代わりペニシリンでしか発揮されない。 「ペニシリン名人」みたいな人が、世代の新しい広域抗生物質を使ったところで、 名人がその抗生剤の効果を何倍にも高められるかと言えば、もちろんそんなことはない。

「芸」を絶対化する価値観の中に生きていると、「芸」を成り立たせている外部環境が変わっても、 同様の絶対性を発揮するかのような錯覚を持ってしまう。これが行き着くところまでいってしまうと、 一芸に秀でた者は万能であるかのような考えかたを生む。

「芸」には欠点がある。状況が変われば対処が出来ないこと。「名人」を作るコストが莫大であること。 より高度な技術が開発された場合、「芸」は新しい状況に転用できず、たとえ日本刀時代の武芸者の「芸」は、 鉄砲時代には何の役にも立たず、無価値になってしまうこと。役に立たなくなってしまうが故に、 技術で遅れをとった場合、名人は、それを「量」で補うことすら出来なくなってしまうこと。

たとえばAK47 は、良くできた「工業製品」だった。それがカラシニコフの形をしていれば、 ロシア製だろうが、中国製だろうが、たいてい確実に動作する。射程距離は短くて、命中率も「そこそこ」 だけれど、それを正しく運用する技術は強力な戦力になるし、もっと優秀なライフルが手に入ったら、 その技術は軍隊をもっと強力にする。

日本軍が昔使っていた38式歩兵銃は、組み立てるのに職人芸が必要な芸術品だったのだという。

部品のばらつきが大きくて、まともに動作する銃に作り上げるためには、職人による技芸が必要だった。 きちんと組み立てられた38式歩兵銃は命中率が高かったけれど、「射芸」に熟達した兵士が、 「当たり」の銃を使わないと、本来の性能が発揮できなかった。

敗戦間際、職人の芸を持ってしてもまともな銃が組めなくなって、射芸に熟達した兵士が軍隊から いなくなって、日本の軍隊は、事実上戦えなくなってしまったのだと。

輸入された価値観のこと

感染症の先生がたは、「北米流」を輸入するのではなくて、 やっぱり自分たちなりの判断基準を、自分たちの言葉で記述してほしいなと思う。

状況に合わせて自ら創作したものは、状況に合わなくなれば、改訂して、 また使い続けることが出来るけれど、「輸入」したものは、それができない。

北米流を「権威」として輸入する今のやりかたは、それが権威であるが故に、 実情と合わない部分が出てきても改訂できないし、現場の不安に対して、 権威を運用する人達が答えを返せない。

借り物の権威は、「本家よりも厳しい」ことを持って、日本独自の権威として運用される。 それは同時に、「本家より厳しいのだから、自分達のほうが本物だ」という主張にもつながる。 欧米から借りてきたガイドラインは、だからしばしば「厳しさ」競争になって、 「それを破らないと治らない」、やっかいな代物となって、現場を縛る。

大東亜戦争の昔、西欧流のやりかたを輸入した日本軍は、軍紀の厳しさという点では、 世界のあらゆる軍隊よりも厳しく、融通が利かず、そしてこの融通が利かないところを一種の誇りとしていた。 日本軍は、軍紀上は最も合理的な軍隊でありながら、現実から遊離した、完全に不合理なものとなっていた。

抗生剤の「効き」というのは、薬としての力価、病巣への到達度、体内での持続時間、 さらにはその国の保険で認められている最大容量、いろんなパラメーターが左右する。

欧米と日本とでは、ほとんどあらゆるパラメーターが異なってくるから、 「武器」の強さは同じではありえなくて、輸入したやりかたは、やっぱりどこか、 現場とそぐわない。

状況が違うなら、それに合わせたやりかたを考えるべきだし、 判断を自ら記述しないで、借り物の権威を振り回す人達は、 やっぱり専門家名乗っちゃいけないと思う。