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2008.09.06

人体のアナロジー

勤勉さとか、専門家とか、成果主義とか。

有能さ

  • 細胞にとっての「有能」「無能」というものは、分化度に相当する。「有能である」ことは、すなわち「それ以外のものになれない」ということを、必然的に意味する。だから何にでもなれるES細胞は、それ単体ではもっとも無能な細胞だし、思考の一翼を担う神経細胞、外敵から身を守る皮膚や白血球、全ては専門家であって、一度専門家になった細胞は、他の細胞に変化することは、原則出来ない
  • 「本来そこにいる能力を持たない人がそこにいる」ことは、人体でもときどき起こる。胃の粘膜内に腸の粘膜が生えてくる「腸上皮化生」とか、脾臓がいくつかに分かれて、他の場所に生えてくるとか。もちろんそんな細胞は、全くの役立たずであったり、時には潰瘍の原因になったりして、必然的に弱点となる。ミスマッチが「思わぬ長所」を発揮することは、生体ではまずありえない

勤勉さと発癌

  • 細胞にとっての「勤勉さ」というものは、恐らくは分裂速度に相当する。細胞もまた、夜になると「休む」。分裂は日中のほうが勢いがあって、夜間は落ち着く * 24時間働いて、分裂を止めない細胞の代表は「がん細胞」であって、正常な細胞から見れば、細胞周期に同調しないこと、勤勉でありすぎることは、むしろ病的なものに見える。役に立たない「勤勉な無能」は、やがて系全体を滅ぼしてしまう
  • 腸上皮化生、本来その細胞がいるべきでないところに発生した腸粘膜は、癌の原因になりやすいことでも知られる。社会にこじつけると、「無能を勤勉で補う」ことが、結果として癌化につながるようにも見える

幸福の所在みたいなもの

  • 細胞が「有能で」あろうと志向したら、専門家を目指さないと、系に貢献出来ない。その代わり、人体においては「専門家だから価値がある」なんてことはなく、皮膚の細胞も、白血球も、専門分化がもっとも進んだ細胞であるにもかかわらず、寿命は短い。「代わりはいくらでもいる専門家」は、人体においても、役に立った後、短時間で使い捨てられてしまう
  • 「報酬」に相当する、栄養だとか血流をもっとも豊富に受けている細胞、たとえば神経細胞とか、腎臓の細胞は、あれは「大切にされている」と言うよりも、むしろ「能力の限界まで酷使されている」という見かたのほうが正しい。余分な栄養を蓄えるのは脂肪組織だけれど、あの細胞にしても、「贅沢をしている」のではなく、「そういう仕事をしている」だけに過ぎない

生体は価値判断を行わない

  • 人体は価値判断を行わない。有能だとか、重要だとか、それは系を外から観察した外野の投影であって、人体はたぶん「神経細胞さんはすごいな」とか、考えてない
  • どの細胞にも代わりはいるし、一部が抜けても他が代償する。蜂の巣社会の「女王蜂」に相当する細胞は、人体という小さな社会においては存在しない
  • 女王蜂みたいな存在に価値を見出す視点も、もしかしたら観察者の投影なのかもしれない。君臨する「女王」という見かたもできるけれど、裏を返せば女王は、巣の中で「もっとも酷使されている蜂」という見かたもできるから

2008.07.05

「元気玉」の社会的有用性

「外傷がひどくて血が足りません。知りあいを当たって、A 型の血液を集めて下さい」なんて、 ご家族に協力を依頼できた時代は、あるいは医師-患者間のトラブルは少なかっただろうなと思う。 その頃はまだ、そこに集まった全ての人が、患者さんの治癒に貢献できたから。

重症の患者さんが運ばれてくる。治療だとか看護、書類仕事なんかを含めて、今は病院が全部やる。 ご家族はその間、待っていることしかできない。神様なんていなくなって久しいから、祈ることもできない。

「その場にいながら、貢献できることが何もないという状態」は、顧客を不安定な気分にさせる。 提供されるのは完璧なサービスだけれど、「何もしないで黙って待つ」に我慢できなくなった顧客は、 今度はきっと、そのサービスそれ自体を叩きはじめる。

悟空は幕引きに元気玉を使った

漫画「ドラゴンボール」の終盤、魔神ブウを倒すのに、悟空は「元気玉」を使った。

物語の設定上、あの技が最強ではあったんだろうけれど、地球にいる全ての人が悟空に協力しないと 成立しない、「元気玉」は、政治的にも合理的な選択だった。

物語のラストを少しだけ変えて、最後の戦いに「元気玉」を持ち出さないで、 悟空個人の力で戦いに決着をつけてしまったら、地球で待っている「普通の人」達は、 きっと主人公達に文句を言ったのだと思う。

「戦いのあおりを受けて財産を失った」とか、「死ぬかもしれないという恐怖を一方的に強要された」とか。 それは命懸けて戦ってたドラゴンボール世界の主人公にとっては、たぶん理不尽なクレームが殺到する。

彼らはいいサービスを目指してたんだと思う。

地球に対する脅威を排除するために、みんな頑張って修行した。 主人公達は強力で確実な「サービス」を提供できるようになったけれど、あまりにも強くなりすぎた。 あの世界ではもはや、「一般市民」には戦いに貢献できる要素がなくて、彼らは地球が吹き飛んでも おかしくないような戦いを傍観しながら、それでも待つことしかできない。

それがどんなに命がけの状況であったとしても、傍観者は退屈して、 自分にもできる関わりかたを探し始める。「元気玉」というのは、そんな傍観者に 「関わる手段」を提供して、主人公への支持を維持するための、優れた構造を備えた技だった。

ウルトラマン世界では、ウルトラマンだとかウルトラ警備隊だとか、一定期間ごとに星に帰ったり、 組織ごと解体したりして、市民が「飽きる」ことを防いでいた。

初代ウルトラマンが、ゼットンとの戦いを超えて勝ち続けていたのなら、 最後の強敵はたぶん、「一般市民の声」になる。 ウルトラ警備隊には「社会的責任」が求められて、壊れた建物の賠償請求が 行われたり、怪獣を倒すことに対して、愛護団体から非難の声が上がったり。市民の声は、 怪獣以上の脅威となって、ウルトラマンを苦しめたはず。

自分たちの仕事は最低限行いつつ、そこで働く人達が社会のインフラ認定される寸前で ウルトラマンは星に帰って、組織も解体される。しばらくしてまた怪獣がやってきて、 新しいウルトラマンが赴任して、サポート組織もまた作られるけれど、たまに昔のOBが天下ってたりする。

サービスの受け手を「観客」にしない、当事者意識を保ち続けるためのやりかたとして、 「交代するウルトラ超人」というシステムは、上手に機能しているように見える。

道徳のこと

医療機関が包括的なサービスを目指す方向に舵切ったのが、なんか間違えだったのだと思う。

治療とかリハビリ、身の回りの世話だとか退院先の施設探しだとか、利用可能な医療補助の案内だとか、 今の病院は、患者さんに関わる全てのものを提供できる。サービスを提供する医療機関の側も、 もちろん患者さん達もまた、そんな「完璧なサービス」を志向して、今までその方向で物事進めてきたはずなのに、 「現状に満足している」なんて声は聞こえてこない。

病院が提供できるサービスが不完全だった昔、たとえばそんな不完全さを補完する機能として 「付き添いさん」なんて仕事があった。入院すると、どこからともなく付添人を派遣する会社の人が 病棟にやってきて、日当いくらか支払うと、患者さんの身の回りの世話だとか、食事の介助だとかを手伝ってくれた。

あの状態は、たぶん誰もが「通過点」だと思ってて、そのあとしばらくして「完全看護」なんて言う考えかたが 提唱された。看護師さんの数が増えて、「付き添いさん」の仕事は病院から無くなったけれど、 患者さんが病院に入れるクレームの数は、サービスが「良く」なって行くにつれて、もしかしたら増えた。

サービスが不完全だった昔、正義とか道徳とか、訴える人少なかった。

サービスよくなって、患者さんだとかご家族だとか、付きそう人どうしようだとか、 血液どうやって集めようだとかそんなこと考える必要が無くなったら、今度は「医師の物言いが気にくわない」だとか、 おむつ交換するときに「患者さんに対する敬意が感じられない」だとか、正義文脈のクレーム増えた。

パズル生産力と系の安定

たぶんパズルが無くなると、系が不安定化してしまう。

サービスが安定に、包括的になりすぎてしまうと、 そのサービスはインフラ認定されてしまって、顧客は当事者から傍観者へと変貌する。やることが無くなった 顧客は、何か別のパズルを探して、俺様ルールの道徳ごっこに精を出す。サービスには、 能力以上の完璧さが求められるようになって、細かな瑕疵だとか、サービスとは無関係な争いの調停だとか、 サービスを提供する側が本来意図していなかったようなことが、クレームになって飛び出してくる。

「完璧なサービス」を目指す態度それ自体にどこか誤謬があるんだと思う。

「みんなが貢献できる」状態、サービス黎明期の、不安定さを 顧客側の工夫でどうにかしていたような、インフラが不安定だからルールもなくて、 みんなが「穏やかな無法地帯」を受け入れざるを得なかった状態というのは、 恐らくは通過点なのではなくて、そこがゴールなんだと思う。

パズル生産力の上限は、そのサービスの規模を決定する。

包括的な、「完璧なサービス」は、あるいは生産性が高いのかもしれないけれど、そんなサービスはたぶん、 顧客側から見たパズル生産性が下がってしまい、系が不安定化して、それ以上に大きくなれない。

「付き添いさん」が病院にいた昔、たぶん病院というサービスが選択すべきだったのは、 付き添いという業界を公認することと、役割をきちんと切り分けて、「そこから先は病院じゃなくて別の業界の仕事」と 宣言することだった。

病院を中心にした系が、安定したまま大きくなっていくためには、たぶんパズル生産性を維持するやりかた、 問題を切り分けていく態度が必要だった。付き添い業務が不十分ならばそこを切り離して、 たとえばリハビリテーションに対する需要が高まるようならそこをまた切り離して、 いくつもの「業界」を独立して生み出しながら、自分たちは病気の治療にリソースを集中していくやりかた。

今からそれができるのかどうか分からないけれど、病院がこれから先、いくら「完璧」目指しても、 その先に顧客満足は見えてこないと思う。

2008.06.16

事象が社会と接続される

秋葉原の無差別殺人事件を見ていて思ったこと。

青年が「巖頭之感」という遺書を残して華厳の滝に飛び込んだ、昔の事件を思い出した。 個人と社会とを切断することに失敗して、事件が社会に接続されてしまった例として。

行動規範が一人歩きする

その人が亡くなった理由がよく分からなくて、何だか哲学的な遺書が残って、 メディアだとか、権威だとか、いろんな人達が、遺書の解釈だとか、評価だとかを 行った結果、単なる自殺は社会に接続されて、自殺という行為それ自体が、 新しい行動規範を生み出してしまった。

悩める青年は、自殺という手段を通じて、自らの悩みを世に問うべきだ」みたいな ロールモデルが一人歩きした結果、そもそも死ななくてもいい人が、「死ぬべき」なんて 社会の気分を受け入れて、ずいぶんたくさん亡くなったのだと思う。

最近になって、あの人が自殺したのは、本当は恋煩いみたいな個人的な悩みが原因であったなんて 結論が出たけれど、当時の政府は、それがたとえ欺瞞情報であったとしても、「あれは個人的な事件である」と 早いうちから宣言を行って、遺書を残して自殺した学生を、社会から切断するべきだった。

要人を狙っても社会は変わらない

少し前までのテロルというのは、特別な集団が、社会の特別な人達に対して行使する暴力だった。

「よど号」みたいな政治テロだとか、サッチャー政権時代に要人を狙った爆弾テロだとか。 事件は大きく報道されたし、巻き込まれて犠牲になったかたも多かったのだろうけれど、 大事件であった割には、社会はあんまり変わらなかった。

テロルというのは、社会を一度崩壊させて、再起動がかかるときに自らの考えかたを そこに織り込むのが基本。まずは社会そのものを壊さないと、暴力の効果が出ない。

少し前までの武装テロというものは、「特別な人達が、特別な人を狙った事件」であったから、 事件が起きても、それは速やかに社会から切断されてしまった。

社会を揺さぶる手段として暴力を考えるときには、暴力それ自体の大きさは、たぶんそんなに重要じゃない。 むしろ大切なのは社会との「接続度」であって、社会との接続が為されていない暴力には、 社会を揺さぶる力は発生しない。

政治家であったり、経済界の要人みたいな人達は、社会の中では特別な人間。 明確な武装闘争の思想を打ち出したテロリストというのも、また特別な人達だから、 裏を返せばたぶん、両方とも、社会との切断が容易な人物でもある。

特別な連中が、社会の特別な人達に対して暴力を行使しても、市民はそれを見守るだけで、 「観客席」から動く必要を感じない。「あの人達は特別」と思われたその時点で、武装闘争は 社会から切断されていて、切断された暴力は、もはや社会を揺さぶる手段としての意味を失っていた。

テロルの手法は、だから「改良」されて、今は市民を狙った無差別テロが主流になったし、 テロルを行う人達もまた、昨日までは日常生活を営んでいた「一般市民」であって、 政府の無策で生活ができなくなったから、不満を抱えていても、政府が何もしてくれないからこそ 暴力が発露する以外の選択枝が無くなったのだと宣伝されるようになった。

アメリカなんかは、テロルを行う人達を、あたかも怪物の集団であるかのように広報するし、 イラクで自爆テロを行う人達なんかは、テロ直前のビデオメッセージなんかを通じて、 自分たちの「普通さ」を強調しようとする。

体制側は、テロリストを社会から切断しようとして、テロリストの側は、自らを社会と接続しようとする。 今の「テロとの戦い」というのは、そういうことなんだと思う。

接続しようとする人達

事実が出てくるのはこれからなんだろうけれど、秋葉原の無差別殺人は、 たぶんあれはテロルではないのに、現状は「成功したテロル」、 「虐げられた普通の人」が、市民に暴力を行使して、社会が暴力で揺さぶられる、 それこそ武装テロをやってたような人が見たら、「こうしたかった」お手本みたいな状況になっている。

事件が社会に勝手に接続されて、政府だとか、企業だとか、様々な人達が、 個人的な暴力に対して、社会として反応している。これはよくないことだと思う。

社会の状況がどうであれ、「殺人を予防する」という立場からは、 政府はあれを単なる殺人事件として処理しなくてはならなかったし、 派遣労働の規制とか、労働者の保護だとか、たとえそれが緊急に必要なことであったとしても、 それは事件とは全く無関係の政治の問題として行われるべきだった。

メディアは今回、犯人の異常さだとか、特別さみたいなものを強調しないで、 むしろ犯人が追い詰められた社会的な状況だとか、派遣労働者の置かれた状況だとか、 事件を積極的に社会と接続しようとしていた。

ねつ造上等の、スキャンダル中心主義的な報道姿勢に批判的な人が増えたからなのかもしれないけれど、 もしかしたら、マスコミのそんなスキャンダラスな個人を強調する報道姿勢は、社会の安定装置として、 事件を社会から切り離す道具として、今まではそれなりに機能していたのかもしれない。

ロールモデルは伝播する

体験というものは、もちろんその人の個人的なものだけれど、 体験の解釈というものは、しばしば容易に他者の浸食を受けてしまう。 星の見えかたなんかは、本来はみんなバラバラだっていいわけだけれど、 星座の知識を得た人は、ランダムな星の配列が、もはや意味を持った星座にしか見えなく なって、他の選択枝を失ってしまう。

「巖頭之感」が社会と接続されて、漠然とした悩みと、自殺という行動とがロールモデルとして 一人歩きしたように、事件を社会背景から解釈しようとする試みそれ自体が、個人的な暴力を、 積極的に社会に接続して、もしかしたら新たなロールモデルを生む。

事象の解釈は、あくまでも個人的なものだから、それが規制される理由なんて無いけれど、 少なくとも「犠牲者がこれ以上出てほしくない」と思う人とか、「体制」側の、政府や企業の人達は、 あれを個人的な、特別な事件として、社会から切断して考えないといけないのだと思う。

2008.06.15

物語と利権

「この物語が広まって誰が特をするのかを考えましょう」なんて、道徳の授業でやってほしい。

「みんなで助けあいましょう」だとか、「高齢者を敬いましょう」だとか、道徳含んだ物語の読み聞かせ。 自分たちが子供の頃だと、「このときの主人公はどんな気持ちだったと思いますか?」とか、物語に 共感して、物語が本来持っているメッセージを無批判に呑み込むことを強要されて、道徳の授業はおしまい。

それがどんな物語であっても、作家が「伝えたいこと」を抱いたその時点で、 その物語は利権から自由でいられないし、よしんば物語を書いた作家自身に、 そんな意図が無かったとしても、物語は、意図を持った誰かの編集から逃れられない。

「姥捨て山」の利権

知恵ある高齢者が窮地に陥った息子を救う「姥捨て山」だとか、孝行息子に奇跡が 訪れる「養老の滝」みたいな物語を広めたのは、今で言うところの「後期高齢者」の人達なのだと思う。

昔話は、もしかしたら真実だったのかもしれないし、物語を作った本人にはあるいは 「高齢者を敬いたい」なんて意識は無くて、単純に「不思議な話」を書きたかっただけだったのかも しれないけれど、物語には「高齢者を大切にするといいことがあるよ」なんて メッセージが含まれていて、メッセージは利権を生んだ。

「姥捨て山」だとか「養老の滝」だとか、「高齢の人間を敬うといいことがあるよ」 という物語が子供達に広まれば、敬われる側の人間、もしかしたら虐待されたり、 あるいは捨てられたりしていた高齢の人達は、その物語から利益を得られる。

同じ時代、たとえば「姥捨て」を敢行して村の飢餓を回避した殿様の話であるとか、 高齢者を大切にする余りに畑をおろそかにして、一家が全滅した農家の話であるとか、 もしかしたらいろんな物語があったのかもしれないけれど、語り手によってそんな物語は あるいは「淘汰」されて、今に伝わるのは、やっぱり「高齢者を大切にするといいことがあるよ」なんて メッセージばかり。

語り手は、物語を選別して、後世に伝える。

「高齢者を敬おう」とか、「正義は必ず勝つ」だとか、「正直でいよう」とか「みんな平等」だとか、 何となく反論できない、受け入れやすいメッセージ。こうしたメッセージは、そもそも 受け入れやすいから生き残って広まったのか、語り手にとって都合がいいから広まって、 広まったからこそ受け入れやすいのか。

卵と鶏の議論みたいなもので、今となっては結論は出せないと思う。

神様のそばには利権が隠れている

高齢者が勝つ、「正直」が勝つ、「正義」が勝つのは、実世界では難しい。

正しさなんてなんの役にも立たない。成果につながらない正直なんて、なんの意味もない。

実世界では「正義が負ける」なんてことはいくらでもあって、もちろん物語世界であっても、 裏切りだとか虚偽だとか、有効な武器が最初から使えない「正義」の側は、そもそも 圧倒的に不利な条件で戦わないといけない。勝てるわけがない。

昔話には、だからしばしば「神様」が登場する。

それは「福の神」みたいにものすごく分かりやすい形で登場することもあれば、 「偶然の勝利」みたいな、目に見えない神様の形で描かれることもあるけれど、 駆け引きを放棄した、「バカ正直」に肩入れをする超常の存在として、神様はしばしば、 物語に介入する。

神様は、物語の矛盾を強引に解決して、背後に利権を隠している。

高齢者を大切にした者を勝たせた神様は、その行為を通じて高齢者の利権を保護するし、 平等だとか、正直だとか、実世界を生きていく上であまりにも不利な価値観を「正しい」と 認定した神様もまた、その後ろで利権を得る人達を保護している。

物語の作者は「こうあってほしい」なんて意図を持って社会を描写する。実社会のルールと、 作者の意図とがかけ離れていると、社会には矛盾が生じて、物語は成立しなくなってしまう。 「神様」はだから、そうした矛盾を強引に解決する手段として、物語に登場を要請されて、 神様は、作者の意図を、あたかもそれが実社会の常識であるかのように隠蔽する役割を担わされる。

神様の力が大きな物語は、だからそれだけ、「意図」と「社会」とがかけ離れていて、 矛盾を解決するための、神様の仕事量がそれだけ大きいのだと思う。

神様の登場しない物語

道徳を含んだ物語は、そのメッセージを子供が呑み込むことで「特をする人」を生み出す。 道徳の授業が本当に子供のためのものであるなら、道徳メッセージは優劣を比較することができて、 「その物語から利権を得る人が最も少ない物語」こそが、子供に伝えるべきメッセージとなるべきなんだと思う。

敬老だとか、正直だとか、物語が始まると、主人公はたいてい、何かの価値観を背負わされる。

それは本来、実世界で背負うにはあまりにも不利なことが多くて、「自分以外のみんな」がその価値観を 背負ってくれると、語り手として「お得」な、利権をたっぷり含んだ価値観。

それをそのまま語ったところで、そもそもが間違ったそんな価値観は、物語を 矛盾無く転がせないから、矛盾を解決するために「神様」に手伝ってもらって、 そんな「誰かを有利にする物語」は、それによって有利になる人に語り継がれて、 「道徳」なんて名前を背負って、世の中に広がる。

道徳含んだ物語を語り聞かせるような授業が今でも続いているのなら、やっぱり最後に 「この物語を受け入れることで得する人達」についての話しあいを持ってほしい。

その物語が広まって、誰が得するのか。あるいは得をする人がどれだけいるのか。 主人公がどんな価値観を選択すれば、利権を得る人を最小にできて、 「神様」を物語から放逐できるのか。

「利権最小化原則」で主人公の能力を探していくと、やっぱりたぶん、 主人公が選択すべき能力は、「ものの価値が分かる」ことと、「お金の使い方を知っている」ことに行き着く。 地味な力だけれど、そんな力を持つ人は、力が強いとか、持ったものを全て黄金に変えるとか、 そんな能力を得た人をも超越できるはず。

それは市場原理主義者の妄想かもしれないけれど、「正しさ」とか「平等」みたいな 考えかたに比べれば、「神様」の仕事量は相当少なくできると思う。

2008.05.27

貨幣がもたらす秩序

中国の被災地で、援助物資の横流しを行っている人がいるとか、 市民による略奪が起きたり、被災地は暴動寸前だなんて報道を見た。

「貨幣」というものは、あるいは秩序をもたらすのかもしれないなんて、ちょっと考えた。

災害現場に銀行を作る

今のやりかたは、軍隊だとか政府機関が、援助物資と一緒に現場に入って、 被害にあった人達を集めて、物資を均等に配る。政府側の人にだって限りがあるし、 被害にあった人達だって、ほしいものとか足りないものとか、みんな違うだろうから、 時間はかかるし、「配る側の公平」と、「もらう側の公平」とは、絶対に一致しない。

物資は全て「もらう」ものだから、お互い買えないし、市場がないから交換も難しい。 10人ぐらいで集まって、「うちはミルク要らないから、代わりに毛布下さい」だとか、 お互い持っているものの価値が分からないと、たぶんやりにくい。

「市場」と「銀行」は、あるいは混乱した現場に「公平」と「秩序」とを もたらして、物資を上手に回すインフラとして機能するような気がする。

状況が一段落した頃を見計らって、政府がその場所に、「銀行」と「市場」の設立を宣言するようなイメージ。 戦後日本の「闇市」が相当近いかも。

援助物資なんかは、最初から「分配」をあきらめて、その代わり、スーパーマーケットよろしく それをまとめて「販売」する形式。もちろん現場にはお金なんてないから、同時に「銀行」を 設立して、被害にあった人達にお金を「貸し付ける」か、あるいはベーシックインカム制度みたいに、 一定金額を配分する。

貨幣が自制を生む

「平等に取る」じゃなくて、「選んで買う」のやりかたのほうが、たぶん「各自が必要なだけをとる」やりかた、 自制心みたいなものを引っ張れる気がする。

軍人が大挙して「平等」を実現したところで、自家用車に避難できた人には、とりあえず天幕は要らないし、 家族が多かったり、何軒か仲のいい家どうし、共同で生活していけるところなら、いくつかの物資は 共同で使うこともできる。

買うやりかたは、別にその場にいる人が互助の精神に目覚めたりするわけでなくて、 みんな「今は使わないで、将来のためにとっておく」なんて、利己的な欲求に従っているだけなんだけれど、 得られる結果は一緒。足りてる人は少なくもらうし、何もかも足りない人は、 「銀行」からお金を借りて、その分多くのものを購入できる。

「マーケット」はひとつ。マーケットに近い被害者は、たぶん「定価」で品物を購入できるし、 余力のある人はお金を借りて、たくさんの援助物資をリヤカーに積んで、離れたところまで「行商」にいける。

マーケットから離れたところの被害者は、だから利ざやの入った高額な品物を購入するか、 あるいはマーケットまで歩いていって、そこで「定価」で購入できる機会を待つことになる。

少なくとも「その場にいる人」がにわか商人になって分配に参加できる分、全てを政府機関が分配するやりかたよりも、 援助物資の拡散は速くなるような気がする。もちろん不当な利益をせしめる人だってでてくるのだろうけれど、 政府の「マーケット」が定価を決めている限り、その場の相場は保証されるし、NPOみたいな機関が 入ってきて、別ルートでの援助物資を安価に「販売」することを始めれば、相場は下がっていくはず。

すごく不公平なやりかたではある。被害の状況にしても、マーケットからの距離にしても、それは完全に「運」だから。 運がよかった人は、上手く立ち回れば大儲けできるし、運が悪かった人は、どうあがいても借金の山。

「運」要素についてはだから、別途政府で保証を行って、それまでは、現場に作った「銀行」が、お金を貸し付ければ いいのだと思う。政府のお仕事なんてどうせ遅いから、「何かを決めてから実行する」よりも、 とりあえず借金でもいいからマーケット回して、政治タームのお仕事は別のところでやってもらったほうが、 たぶん助かる人増える。

人が人でいられるルール

それが仮に災害現場であったとしても、人はやっぱり人でしかいられないのだと思う。

阪神淡路大震災の現場なんかですら、臨時に作られた救急外来には、「眠れない」だとか 「何となく具合が悪い」、「お腹がすいた」だとか、当面の生死には直結しない主訴を訴える人だって たくさん来たそうだし、なんだかよく分からない症状を訴える人が入院希望で来院して、 カップラーメンを「処方」したらすぐに全快しただとか、極限の状況であっても、 制度をおいしく利用する人もいれば、どんなに制度を充実させても、 それに到達できないで亡くなる人だって、やっぱりいる。

災害現場に居合わせた人が、災害が発生したその瞬間から、聖人君主になって互助の精神に目覚める なんてことはなくて、病院にはやっぱり「ノイズ」選別の問題、全てのサービスを無償で 提供したときに発生する、モラルハザードの問題がつきまとう。

平等とか、正義が好きな人というのは、何だか「困っている人は無垢でなくてはいけない」なんて信じてる。

災害に遭遇した人は、かわいそうな人だからこそ「平等でないといけない」なんて 信じられるし、彼らは「無垢」でないといけないから、援助物資で商売を始めたひととか、全力で叩かれる。

援助物資でお金を儲ける人というのは、たしかにずるく立ち回っているのだろうけれど、 あれだけ悲惨な現場にいてもなお、手に入る物資を集めて、自らの時間を使って、 それを他の人に配分しているとも言える。もちろん不当に高い対価を取ったりしているんだろうから、 「相場」は政府が介入すべきだけれど、彼らは少なくとも手を動かしていて、 動機はともかく、状況をよくすることに寄与している。

あの人達を「悪人だ」なんて射殺したら、平等とか「かわいそう」好きな人達の気は晴れて、そこは平等な社会に 近づくのかもしれないけれど、曲がりなりにも分配されていた援助物資は、たぶんそのまま 放置される。

「お金のない平等な国」、クメールルージュ時代のカンボジアでは、だから物資が公平に足りなくて、 目の前に椰子の実が転がっているような、それでも食べ物がまだ残っている原生林の中、 食べ物を目の前に餓死する人がたくさん出た。

平等ルールとか、トリアージの考えかたが本当に役に立つ、あるいは市場ルールが全く通用しない状況というのは、 サービスの受け手に判断能力が期待できないケース。子供だとか、災害現場のトリアージだとか。

START法みたいな災害トリアージのやりかたには、患者さんとの会話が想定されていない。 息をしているかどうか、歩けるかどうか、循環は確保されているのか、そんなものを見て、患者さんの重症度を決定する。 会話ができる人とか、そもそも「判断」が自分でできる人は、だから最初からトリアージの対象になり得ない。

判断ができる人達を相手にできるなら、たぶん「市場」とか、「経営」の考えかた、人が人のままいられるルールは、 きっと役に立つと思う。

2008.05.08

腐った立ち位置のこと

「かっこわるさ」というラベルにはすごい力があって、一度「それはかっこわるい」というラベルを貼られた考えかたは、 たとえそれが正解であっても忌避されてしまう。

「正しい」のに「かっこわるい」、そんな何かをみんなが避けると、それはもしかしたら、破壊的な結果を招くことになる。

昔の「左翼」はかっこよかった

今60歳ぐらいの人達が大学生だった頃は、左翼の考えかたは進歩的な立ち位置で、 左翼思想とか、あるいは集団組んでデモ行進することであるとか、それは「かっこいい」ことだった。

市民団体とか住民参加、今は否定的な意味でしか使わない「プロ市民」なんて言葉も、 最初はたしか、肯定的な意味。どこかの市長さんだったか、「これからの市民は、 積極的に住民参加するプロであってほしい」だとか、そんな流れで使われた言葉。

「左翼」や「市民」はかっこよくて、だからずいぶん広まったけれど、いつの間にかそれらは腐って、 今はなんだか、気持ち悪くてかっこわるくて、心情的に正しそうでもとりあえず臭そうだから近づきたくないような、 「サヨク」だとか「シミン」だとか、その言葉が本来持っていたかっこよさとは無縁の何かに変化した。

自分たちが学生だった1990年代、それでも進歩的な学生というのは左翼の振る舞いするのが常識で、 自分みたいに自治会やりながら「左翼嫌いです」なんて言う人間は、ものすごく珍しかったのだけれど。

「腐敗」したのは、だからまだそんなに昔のことじゃないはず。

立ち位置のライフサイクル

たぶんどんな立ち位置も「ライフサイクル」に相当するものがある。

誰かが考え出した立ち位置は、最初は新しいもの好きの、怠惰だけれど能力がある人達に見いだされる。 新しい立ち位置に乗っかった人達は、その考えかたを自分の属するコミュニティに無理が来ないように アレンジして、新しい振る舞いかたを身につける。その振る舞いはいろんな人に 観測されて、「正しさ」という形で理解され、広まっていく。

「正しく」あることはだから、必ずしも「理解している」こととは一致しない。

新しい立ち位置を支持する人が増えてくると、たぶんコミュニティには序列が生まれる。 「正しい」人達は、しばしば「理解している」人達よりも多くの支持を集めて、勤勉な人達は、 だから勤勉に「正しさ」を積んで、序列を上位へと上がっていく。

理解の結果であったはずの「正しさ」は、しばしば「目指すべき目標」として共有される。 社会は常に変化する。変化を拒む「正しさ」は、外から見たとき、もしかしたらすごく奇妙に見える。

コミュニティの世代交代が上手に進むと、たぶん「正しさ」は社会に応じて再構築されて、 コミュニティはかつての勢いを取り戻す。世代交代が失敗して、「理解」を目指す人が少数派になって、 「正しさ」それ自体を目指す人が一定以上に増えたとき、その立ち位置はたぶん、 そのまま「腐って」しまう。

「かっこわるさ」を作る勤勉な人

「正しさ」が好きで勤勉な人達は、たぶん勤勉だからこそ変化を拒んで、 自ら属する立ち位置を腐らせる。

勤勉な人に支持された、「正しさ」につながる振る舞いは、 年月とともに立ち位置の腐敗に巻き込まれて、それをみんなが避けるようになってしまう。

誰も殺しあいなんてしたくないのに、「平和」ってなんだかサヨクっぽくて かっこわるいから、「戦争はやはり必要だ」なんて、心にもない考えかたが流行する。

本当は、団結して何かやるのが正解なのに、団結ってなんだかシミン団体みたいで かっこわるいから、団結回避してばらばらに行動して、結局有効な手が打てない。

「9 条の会」とか、もう平均年齢70歳にさしかかってるらしい。 70も超える勤勉な人達が、若い頃に築き上げた「正しさ」抱えて今まで引っ張れば、 どんなに優れた価値であっても、やっぱり腐る。

腐った立ち位置が、大切な言葉とか、振る舞いなんかを抱え込んで、立ち位置もろとも腐らせる。

「正しい」言葉を使わないで「正しい」振る舞い目指すのは難しい。

手つかずの言葉、「共有」とか「集合知」とか、腐ってないから「かっこいい」んだけれど、 それだけではやっぱり足りない。たまには「平和」と「団結」、使ってみたい。

2008.04.24

ミームのこと

ウィルスみたいに「広まる」文章は、「権威付けがなされていること」、 「具体的であること」、「読者を鼓舞すること」といった、共通する性質を持っている。

内容が不正確であったり、勧めていることが違法であったりしても、 たぶんこんな条件を備えた文章は「ミーム」となって広まって、 いつかどこかで実行されてしまう。

デキサメタゾン大量療法

研修医の頃、脊髄外傷に対するデキサメタゾン大量療法のやりかたが論文になって、 救急部の部長がやりかたを貼りだした。

脊髄外傷患者に対するデキサメタゾン大量療法
脊髄外傷患者を診たら、「デカドロンを○アンプル静注、その後24時間かけて、生食100ml にデカドロン○アンプルを 溶解したものを持続静注

張り紙に書いてあったのは、部長の名前と、元の論文名と、具体的なやりかた。

体重あたりの計算は省略されていて、 読んだらすぐに実行できるように記述されていて、最後に一言「これは効くよ!」なんて書かれてた。

脊髄外傷の患者さんなんて、年に数人しか来なかったし、普段はもちろん、 そんな人は脳神経外科に入院するから、研修医がそれをやる機会なんて滅多になかったけれど、 あの張り紙をメモした研修医は多かったはず。

ウィルスとしての言葉

言葉にはたぶん「感染力」みたいなパラメーターがあって、言葉の「重さ」とか「正義」とか、 あるいは科学的な正しさというものは、感染力にはほとんど影響しない。

  • どんなに薄っぺらなものであっても、「権威」が正当性を担保していること
  • 勧められていることが具体的であって、読者が何か思考する必要がないこと
  • 最後に「これをやった人は勇者」みたいな、読者を鼓舞する要素を持っていること

文章の感染力というものは、たぶんこんな条件が決定して、全てを兼ね備えた文章は、 それがどんなにいいかげんなものであっても広まって、どこかで実行されてしまう。

「正しい知識」というものは、感染を始めたミームに対する治療効果を持たない。

正しい知識はその人に免疫を付与するから、「感染」以前なら、 知識はミームに対するワクチンとして作用する。 ところが、今まさに「感染」して、ミームに従って何かを実行しようとしている人に、 今さらそれを「間違いだ」と指摘したところで、その人は実際にそれを試してみるまで、 指摘の正しさを実感できない。

「間違ってる」という指摘は力を持たないし、ましてや「信じる奴は馬鹿だ」みたいな言葉をぶつけると、 ミームの感染力は、むしろ強くなってしまう。

最近になって爆発的に広まっているのは、硫化水素中毒のやりかた。

今週に入ってからもう10件、似たような中毒が相次いでいて、 みのもんたが「誰のせいでこんなことに…」なんて、朝のテレビで憂いてた。

硫化水素中毒のやりかたは、一気に広まった。某巨大掲示板に書かれていた やりかたは具体的で、恐ろしく分かりやすかった。使う薬品名は「商品名」であって、 ガスを発生させるのに必要な器具とか、薬品の量なんかも、具体的に指摘されていた。 そのやりかたを書いた人は、もしかしたら専門家でも何でも無かったのかもしれないけれど、 やりかたは一人歩きして広まった。

「感染」に対抗できるのは、ウィルスそれ自体の作用を止めること。

書き込みが指定していたその製品に規制をかけたり、あるいはもっと単純に、 商品名を「新○○」なんて変更するだけでも、ミームの蔓延は減らせると思う。

そんなことをしたところで、塩酸とか硫黄を含んでいる製品はたくさん発売されているし、 ホームセンターに行けば、代替品は容易に手に入れることができるけれど、 そんな知識を持っている人は、そもそもミームに対して「免疫」を持っているはずだから、 ガス作ろうなんて思わない。

ミームに「感染」して実行する人は、裏を返せばそんな知識を持っていないことがほとんどだから、 恐らくは商品のラベルを書き換えるとか、そんなごく単純なやりかたをするだけで、 実行する閾値を高められるはず。

やっぱりテロが怖い

「硫化水素を用いた化学テロ」という考えかたが、「ミーム」となって蔓延したら、 相当怖いことになると思う。

今の段階、「ガスを用いたテロの可能性」なんてものを、知識持った人が心配してるだけの 現在ならば、それをやれる人は、間違ってもそんなことしないだろうけれど。

ミームとして広まる「それ」は、たぶん専門知識を持った人が見たら、唖然とするほど いいかげんな、間違った知識で固められたものになる。

「権威」を担保する研究者はもちろん実在しないし、大学名なんかも、 専門分野なんかは考慮されなくて、ただ単純に「漢字が多そうなところ」みたいな 基準で選ばれた、適当なもの。

やりかたはきっと具体的だけれど、場所であったり用意すべき道具であったり、 そんなものは全ていいかげんで、応用のしようがなくて、 もしかしたら実行した人自身が巻き込まれるような やりかたが書かれているけれど、とにかく全て「具体的」に書かれているから、 そのとおりに実行するだけなら、知識が無くてもできるはず。

最後は鼓舞。

いつか出てくるそんなミームは、きっと「これ実行したら勇者」みたいな、 薄っぺらな鼓舞で締めくくられる。

それでも専門知識を持った人達は、 それを見て笑ったり、叩いたりしたらいけないのだと思う。そうした行為はたぶん、 すでに「感染した」不特定多数の人達の、背中を押してしまうから。

うちの近所のホームセンターでは、今でも普通に、くだんの薬品が手に入る。 ネットを通じて、そんな文章が出てきたときは、「それができないようにする」、 その商品を一時的に撤去するとか、成分をわずかだけ変えるとか、単純なやりかたで かなり防げるはずだから、やっぱり何か対策したほうがいいと思う。