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2011.06.23

恐怖と信頼

「状況の無防備さ」と「猜疑心」とを積算したものが「恐怖」の総量となる。猜疑心が低くなると、信頼は高まっていく。

無害な人間と、信頼できる人間とは異なる。いざというときに、無害な人間は頼られることなく、むしろ真っ先に切り捨てられる。信頼できる人間であろうと思ったならば、約束をただ守るのでなく、約束が交わされる状況について気を配る必要がある。

恐怖は少ないほうがいい

怖いのは誰だっていやだから、人間は常に恐怖の総量を減らそうと試みる。怖い状況をそうでない形に持って行くことが理にかなったやりかただけれど、状況を無防備なままに固定されてしまうと、その人にはできることがなくなってしまう。それでも恐怖はいやだから、状況の改善を禁じられた人は、猜疑心の減量を試みて、逆説的に相手に対する信頼が高まってしまう。

整体やマッサージのようなサービスは、療法師に対して背中を向けた姿勢になることが多い。お客さんの側は、お店の人に対して無防備であることを強いられる。

相手が見えないのは怖いけれど、サービスの前提上、その姿勢は変更できない。怖いまま我慢するのはいやだから、お客さんは結果として、「このお店の人は信頼できる」という判断を暗黙に下す。

フロイトの昔、インタビューを行う人は、患者さんから見えない場所で行われたんだという。患者さんはソファーに腰掛けて、分析者はソファーの背後に腰を下ろして、患者さんの声を聞いた。これは患者さんが緊張しないようにという配慮だったようだけれど、別の効果もあったのだと思う。

無防備な姿勢と説得力

無防備な姿勢が前提のサービスは、それをサービスとしてお客さんが受け入れる限り、恐らくは説得閾値を大きく下げる。

整体師の言葉が、時々強力な説得力を生むのはそのためなのだろうし、秋葉原で昔流行した「耳かきサービス」のお店もまた、耳かきという体勢と、何らかの説得的コミュニケーションがセットになったのならば、強力な信頼を生んだのだろうと思う。

視界から隠れる、あるいは目隠しをする、耳かきみたいに動いたら危ない状況を作る、とにかく本人が「無防備だ」と感覚する状況は、その人の説得閾値を下げる。病院では普段、お客さんと話すときには1m ぐらいの間合いを取って、相対して会話する。あれはそういう意味で、「私たちは他人同士ですよ」という、説得閾値をむしろ上げるやりかたになっている。

催眠術の実演は、相手を目隠しした上で、催眠術師が相手の背中側から語りかける。ああいうやりかたは説得の手段としては理にかなっていて、病院があれをやってもいいのなら、説得は相当に楽になる。

説得と恫喝

「説得」と「恫喝」というものは地続きなのだと思う。言葉や暴力による明示的な恫喝も、お互いのポジショニングが生む暗黙の恫喝も、相手の状況を無防備な側に追いやる。状況を無防備にした上で、相手による改変を禁じれば、結果として恫喝が信頼に転化する。

暴力見せてから、「私はこれ以上の暴力を行使しません」と宣言すると、そう宣言された側にはそれ以上できることがなくなる。それでも暴力の記憶は怖いから、それを減じようとした結果として信頼が高まる。「昔ワルだった」人が持ち上げられたり、暴力をふるう夫がいる家庭が崩壊せずに続いたりする原因一部には、こうした機序が信頼を生むからなのだと思う。

信頼というものは、内面の「まじめさ」が生むのではなくて、お互いが置かれた状況と、場の猜疑心が作り出す。それが正しいことなのかどうかはともかく、信頼というものは、部分的には演出を通じて人工的に作り出すことができるし、それをやる人と、やらない人とでは、やる人のほうが信頼される。

医師の白衣や外来ブースの構造、真っ白に塗られた廊下の壁や、複雑に入り組んだ病棟の構造は、説得と信頼の道具として有効に利用できる。そうすべきなのだと思う。

2010.02.05

理解と納得

劇作家の平田オリザが書いた本からの抜き書き。

演劇という技術

  • 演劇の技術とは、自分の妄想を他者に伝える技術である。それが技術としてたしかなものであるならば、それはある程度の部分まで言語化できる
  • 人間は人間を正確に把握することなどできない。だからこそ表現者は、「私はこのように世界を把握する」という認識を示していかなくてはならない。芸術家がなすべきは、評論家のように事の善悪を説くのではなく、事件を直接的に捕まえ描写すること
  • 舞台は時間軸が一定で、場面もそんなに変えられない。漫画や文章なら、100年も、地球の裏側もすぐだけれど、舞台ではそういう、出来事の連鎖によってストーリーを進めるやりかたができない
  • 小説のように、だんだんと状況がのみこめてくる展開は、用意できる舞台道具に限りのある演劇では難しい。戯曲の場合には、だからその戯曲、その舞台が何についての、どういう作品なのかを、できるだけ早い時期に観客に提示し、観客の想像力に方向付けを行う必要がある
  • 劇作家は、ストーリーの中で、ある特定のシーンだけを抜き出して、その前後の時間については観客の想像にゆだねることしかできない

リアルということ

  • 舞台設定を美術館だとして、主人公が「ああ美術館はいいなあ」と独り言を言うのは、駄目な台詞。リアルでない
  • イメージには距離の概念がある。遠いイメージから入ってくのが鉄則。それが美術館なら、絵がある、静かである、高尚な雰囲気、人がゆっくり歩く、などがイメージ。遠いほうから、「静か」「デートに向く」「交渉」などがあって、もちろん「絵がある」が一番近いイメージ
  • 伝えるべきテーマはないけれど、その代わり表現したいことなら、山ほどある。表現したい何かがあって、それをリアルにするために、舞台がある。オリザが美術館を舞台にした戯曲を書いたとき、台詞にリアルさが足りなくて、「第二次世界大戦中、有名な絵画が日本に避難してきた」という設定を付け足したのだという。付け加えられた設定で、美術館のロビーでの会話に必然性が生まれて、戯曲にリアルが付加された
  • 列車の中にヤクザがいれば、自ら好んで話しかける人は少ない。それでもヤクザが切符を落としたら、「落としましたよ」と話しかけざるを得ない。私たちはこのように、周囲を取り巻く環境によって、「しゃべらされている」
  • 舞台作家は、鑑賞者が自ら、作家の文脈を受け入れるよう、穏やかに導いて行かなくてはならない。演劇においては、文脈のすりあわせがなされない段階で、表現者の側が鑑賞者に仮想のコンテクストを押しつけると、その時台詞はリアルな力を失ってしまう。「穏やか」というのは、「遠いイメージ」から「近いイメージ」への移行で表現される
  • 演劇とはリアルに向かっての無限の反復なのだ

会話と対話

  • 対話と会話は異なる。対話とは他人と交わす情報交換や交流、会話とはすでに知り合っている人同士の単なるおしゃべり。戯曲の素人は「会話」を台本に書いてしまう。対話がないと戯曲が成立しない
  • 情報量がほとんどないにもかかわらず、「会話」には冗長な言葉は少なく、「対話」にはむしろ、「ああ」とか「いやぁ」とか、冗長な言葉が頻出するようになるらしい。私たちは、親しい者同士の会話では、無駄な単語を使わない
  • 冗長率の高い「対話」を描くときには、だから当然、間投詞や感嘆詞が多くなり、これをやらないと「固い」言葉になってしまう
  • 会話が複雑になればなるほど、演じる側の負担というものは、むしろ減る
  • 他人はどうか分からないが、私は愛情の表現の前に沈黙する。その沈黙、一瞬の停止から演劇が始まる。演劇は静止から、無から出発する

理解と納得

  • 韓国人は茶碗と箸とスプーンで食事をする。お椀は持ち上げずに、机に置いたまま食べる。日本の俳優にそれをやらせることはできるけれど、最初は当然ぎこちなくなる。すぐに上手になるけれど、会話をしながらそれをやらせると、またぎこちなくなる。スプーンを持っているのに、「箸で食べる」動作をしてしまう。日本の俳優は、そのとき初めて、「ああ、自分は普段、こうやって箸でご飯を食べているのだ」と、自分の日常動作に気がつく
  • 芸術作品を見て人が感動するのは、突き詰めていえば、「ああ、たしかに私は世界をこのように認識している」という感覚が起点となる
  • 理解というのは事実の把握、納得というのは事態の認識

個人的にはここの下りが、「理解」と「納得」とを隔てる説明として腑に落ちた。

「理解」はそれでも案外簡単で、必然性を持った状況で、分かりやすく語ることに気を使えば、まだどうにかなる。理解というのは「相手の言葉を相手の文脈で呑み込むこと」だけれど、恐らくは納得というものは、「相手の文脈で自分の考えを再発見すること」だから、聞いただけでは分からない。

医師から話を聞かされた段階で、患者さんはそれを「理解」することはできる。「納得」した患者さんは、今度はたぶん、自分の診断であるとか、これからおこること、その時の対処なんかを、今度は自分の言葉で語ることができるようになる。何らかの状況を「理解」の先に導入することで、改めて自分が今まで行ってきた判断に気づきが生まれ、恐らくは初めて「納得」が出現する。

「納得」が正しく得られたのなら、主治医は患者さんの指示に従って動くこともできる。もはや「説得」の必要もないし、医師は患者さんの部下になれるから、「謝罪」の機会も消失する。患者さんの納得が、医師の理解とずれていたときには、価値判断の重み付けを調整する、「説得」を行う必要があるし、説得に失敗して、患者さんとの信頼関係が破綻しそうになったときには、まずは「謝罪」という刃物を振るって、状況から、感情と事実とを切り離して、事態の収拾をはかる必要がある。

「理解」「納得」「説得」「謝罪」を、こういう関係で記述することができれば、いろいろ応用できそうな気がする。

2009.11.05

ガタがあるからうまくいく

先週の日曜日には、熱を出した子供さんが100人近く来た。休みが明けて、外来が始まって、 もちろん「それ以上」を覚悟していたのだけれど、外来は、平和なままだった。

インフルエンザはたしかに流行しているんだけれど、パンク寸前の休日外来は、 みんな「休みだから」病院に来てたわけで、「熱が出たから」病院に来た人は、実は案外少なかった印象。

遊びが減ってこうなった

社会から「遊び」要素が減って、平日にみんな、休めなくなった。

土日をずらして営業していた病院というのもあって、一時期はうまく機能していたんだけれど、結局みんな止めてしまった。土日外来の収益自体はよかったのだけれど、世の中が土日休みで回ってるから、役所とか学校とか、「平日」を要求する場所がシビアになって、スタッフに子供ができると、組織が瓦解しちゃうんだという。

世の中の遊びが減って、しわ寄せが、緊急避難装置的な場所に集まって、結果として、救急外来のパンクとなって現れてる。誰が悪いというわけではないんだろうけれど、遊びを「無駄」だと断じる文化が、こうさせたのだとは思う。

AK-47にはガタが多い

世界の兵士に愛用されるAK-47 というライフルがあって、AKは、部品どうしのはめ合わせは遊びだらけで、部品はどれも、けっこう重たい。

見た目の精度感みたいなものとは無縁なんだけれど、AKはその代わり、ガタが多いからホコリに強くて、どんな状況でも、少ない手入れでよく動く。部品が重たいから、銃弾を動かす力もそれだけ強力で、弾が少々凹んだぐらいなら、AK-47は、弾詰まりを起こすこともなく動作する。

AK-47の「ガタ」とか「重たい部品」は、それを設計したカラシニコフに言わせれば、最初からそういうように作ってあるものなんだという。これをたとえば、より精密に「改良」したところで、改良されたその製品は、たぶんオリジナルより悪くなる。そこにどうしてガタがあったのかを考えないで、「前より厳密」を、無批判に「いいことだ」なんて努力する人たちには、AK-47 は一生かかったって作れない。

厳密を、単純に「いいこと」なんて断じると、AK-47はたぶん、砂粒一つ噛みこむだけでで動作を止める。「厳密に改良された」ライフルで戦って、兵士がみんな、動作不良で殺されたところで、努力の好きな人たちは、「やるべきことはやった。しかたがなかったのだ」なんて、満足そうに敗北をふり返る。自分たちのせいなのに。

うまく回ってた何かに「無駄」を見つけ出して、それを「改良」したとのたまって、むちゃくちゃになった現場からは目をそむけつつ、勝利宣言して尻まくる人たちって、幸せそうだなといつも思う。

精度を出して系が死ぬ

AK-47をコンサルタントに手渡して、「これをもっと高性能にして下さい」なんて問題を出したらいい。少なくとも、ガタをなくす方向の改良を提案した人は、AK-47で射殺されるべきだと思う。

「精度を追求した帰結として系が死ぬ」現象というのに、何かもっともらしい名前を付けて、世の中にもっと周知してほしい。トヨタの「カンバン方式」にしてから、あれはたぶん、「無駄とり」なんかじゃなくて、もっと別の理由があって、ああいうやりかたにたどり着いてる。

「個々の部品が完璧な動作をすることで、系としての動作が完璧になる」なんて考えかたは迷信であって、むしろ「個々の部品に最大の自由度を与えつつ、系としての動作を一定に保つような制約をデザインする」ことを目指さないといけない。世の中で成功している多くのプロダクトが、たぶんこうした方針に沿っているのに、それはしばしば、「改良」が好きな人から見れば、「無駄の多い」ものに見えて、「改良」を受けた結果として、いろんなものに不具合が波及する。

個々のその場所を「よく」することそれ自体は、正義どころか悪徳なんだと思う。「全体の良さ」につながる改良は、むしろしばしば、どこかを「悪く」、「いいかげんに」することで達成される。

その代わりたぶん、「無駄の多い平凡なもの」を開発するには、莫大な人的コストがかかる。それはたとえばAK-47だし、米軍のジープだとか、補修用のダクトテープなんかもそうだけれど、ああいうのは、誰かのアイデア一発で生み出されたものでは決してなくて、実際には、プロダクトには莫大なコストが投じられて、長い開発期間がかかってる。

「必要なガタ」を備えた、ロバスト性の高いプロダクトを生み出すためには、たくさんの人的資源を擁する大きな組織が必要で、そういう場所は、しばしば高機能高精度病に侵される。「一見平凡に見える非凡なプロダクト」は、だから組織を強力にガバナンスするリーダーがいて、フォンブラウンとか、デヴィッド・カトラー みたいな、「大組織を束ねる独裁者」と、独裁者を支えるたくさんの技術者とがそろって、初めてたぶん、そうした製品が作られる。

平凡なのに、何となく広く使われる、「 これ以上改良の余地がない中途半端さ」を備えたプロダクトの裏側には、たぶんすごい物語が隠れてる。それを読めない人は、そもそも「改良」になんかかかわってはいけないのだと思う。

2009.08.22

ゲームとジレンマ

ゲームとは

問題の中心にジレンマがあって、参加者が、自らの選択を通じてジレンマの解消を試みるとき、その状況は「ゲーム」であると言える。

ゲームにはルールがある。ルールとはジレンマの設計であって、よくできたルールは、 ジレンマの観察が容易で、「誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる」状況を内包している。

ジレンマ解消の先にあるもの

  • ゲームのルールがルールとして機能している時期、ジレンマに対する最適解がまだ見つかっていない時期のゲームは楽しい。 多様な戦略が提案されて、その多くは失敗するけれど、全ての失敗もまた、経験として参加者に蓄積される。試行のコストは低く、 失敗しても、失うものは少ない
  • ルールの中心に見えていたジレンマが解消されたそのとたん、ゲームはいきなり地獄になる。多様性を競った時代は終わり、 定番となったある戦略に、全ての参加者が収斂していく。アイデアの価値は減り、むしろグラム1000万円の素材を買うのに、 どれだけのコストをそこにつぎ込めるのか、資金力、体力の勝負になっていく
  • シトロエンと三菱が争っていたパリダカールラリーでは、「速い自動車」という漠然としたテーマの中から、 「とにかく大きくて丈夫な車を、砂漠の真ん中をまっすぐ走らせれば速い」という解答に行き着いて、 車の構造はむしろシンプルになった。その代わり、たとえば「ジャッキ」みたいな走行には関係ないパーツがチタン製に変更されたり、 地味でお金のかかる軽量化競争が始まった
  • 「カーボンボディ」という解答が発見されて以降の鳥人間コンテストは、チームごとの差違が、素人目には分かりにくくなった。 かつて6輪タイレルが走ってたF1は、ウィングカーやフラットボトムが発見されて以降、レギュレーションの変更もあって、 どのチームも同じようなデザインへと収斂していった
  • それが「本当の解答」でなかったのだとしても、恐らくは定番の戦略が生まれると、それを外すリスクや、失うコストが大きすぎて、 競合者は違った戦略をとれなくなってしまう。バイオ系の学科が、ひたすらピペットを動かす実験しかできなくなったのも、 たぶん「ゲノムの新発見で論文を書く」という、業界なりの勝利方程式みたいなものが確立してしまって、どのラボも、他のやりかたが できなくなってしまったからなんだと思う
  • 心カテなんかだと、「膨らませると血管が広がるけれど再狭窄しやすくなる」というジレンマがあった。風船を暖めたり、逆に冷やしたり、 放射線当てたり、血管削ったり、いろいろ試みられる中、薬物溶出ステントというジレンマ解消の技術が生まれて、アイデアが一気に収斂した
  • 今だと内視鏡による腫瘍切除の分野が、毎月のように新しいナイフが発表されたりして、アイデアがあふれている状態。あと数年して、 偉い先生が「ガイドライン」を作ったら、きっと同じやりかたに収斂するような気がする

ジレンマが解消されて洗練が始まる

  • 恐らくは洗練というものは、 ジレンマが不可視化していく過程なのだと思う
  • 最初の段階、大きなジレンマが解消されたあとは、そのゲームは、外野からは地獄の匍匐前進競争にしか見えなくなる。その状況は、 最前線で頑張っている参加者にしてみれば、やっぱりそこに別のジレンマが見えている。ところがそれは、ゲームに参加していない素人からは 見えないものだから、参加者全員が同じ方向に、体力を削りながらじりじり進んでいるようにしかうつらない
  • 外野にしてみれば、最初のジレンマが解消されて以降のゲームは、理解できないからつまらない。その代わりたぶん、 ルールからジレンマが追放されて、多様なアイデアが、地獄の収斂を経て、競争が、腕力オンリーの匍蔔前進になったときからが、 その技術の本当の進歩が始まるのだと思う
  • 蒸気と電気とガソリンが競ってた昔の自動車業界は、フォードが「ガソリン車を大量生産して安価に供給」という 勝利方程式を生み出して、この方向に収斂した。「タイヤ4つのガソリン車」という意味では、T型フォードと最新のスカイラインGTR と、 本質的な差違はないけれど、走らせてみればもちろん、フォードはGTRに追いつけない

ゲームデザインの失敗は難易度で代償できない

  • ゲームのデザインと、ジレンマのデザインというのは等価であって、ジレンマが何らかの手段で解消されたり、 あるいはジレンマのデザインに失敗すると、もはやそれはゲームでなくなってしまう
  • ジレンマのないデザインに「難易度」を導入したところで、それはやっぱりゲームにならない
  • 「内科や外科から人が逃げていく」だとか、「東京に医師が集中する」という問題も、 これは「医師の進路決定」というゲームが、そもそもジレンマのデザインに失敗していて、 そこに「進路を変更するのが難しい」という難易度を加えることで、それを無理矢理「ゲームである」と宣言していたのが、 そもそもの問題だったのだと思う
  • 制度が変わって、進路の変更が容易になった結果として、そもそもジレンマを持たない、 ゲームとして成立していなかった「進路決定ゲーム」の解答が、一つの答えに収斂してしまったのが、たぶん現在の状況
  • 時計の針を戻したところで、状況は変わらない。やるべきは「難易度の付加」でなく、「ジレンマの再デザイン」なのだと思う
  • 具体的には、ベッドを持ってリスクをとらない限りは報酬が生まれないとか、各専門ごとに「リスク係数」を設けて、 リスクの低い科に進むと生活できないようにするとか。ここを「報奨金」みたいな形で解決しようとしても、たぶん失敗する

ジレンマの深度問題

  • 「ジレンマを上手にデザインすれば、ゲームに難易度は必要ない」という、任天堂ゲーム風の考えかたは分かりやすくて、たくさんの ユーザーを楽しませるのだろうけれど、その反対側を志向して、「最初から定番戦略を示して、 ことごとくのユーザーを極め競争に引きずり込む」やりかたをするのも、お金引っ張るいい方法なんだと思う
  • ルールの入り口にはジレンマがあって、それを解消してさらに頑張ると、もっと深いところに、また別のジレンマが見えてくる。 ルールの世界というのは、ちょうど「漏斗」みたいな格好をしていて、奥に行けば行くほどに、差違は小さくなっていくけれど、 奥は無限に深くなっていて、一度入り込むと、今度は引き返すのにものすごい勇気がいるようになる
  • 漏斗上のルール世界を想定して、「どの深度で勝負をすべきか」を考えないといけないんだと思う。漏斗の入り口で勝負するなら、分かりやすいジレンマを設計しないといけないし、深いところで勝負するなら、参加者のアイデアよりも、むしろ「作業」や「仕事」を強調して、投じたコストがそのまま参加者の利得として跳ね返ってくるようなルールをデザインしたほうがいいのかもしれない
  • 自分のいる場所だとか、援用している技術の「ジレンマ深度」を知っておいたほうがいいんだと思う
  • たとえば自分は「内科診断」という、ジレンマ深度の浅いゲームで遊んでいて、「症状->病歴->診察->検査->診断」という定番のやりかたに対して、「症状->検査->診断->確認のために診察」というやりかたを提案している
  • この論拠になっているのは「検査が洗練されている」ことであって、CTを作っているエンジニアだとか、検査機器を改良している技術者の人たちだとか、あの人たちはたぶん、地獄みたいな洗練競争、ジレンマ深度の極めて深いところで頑張っている。だからこそ「洗練」と「進歩」が期待できて、自分みたいな技術の素人は、こうした技術に寄りかかることで、ジレンマ深度の浅いところで遊んでいられる
  • このへんを逆にして、「ジレンマ深度の浅い」技術に寄っかかりながら「ジレンマ深度の深い」場所で何かをしようとすると、自分とは全然違う世界のワンアイデアで、10年積み重ねてきた何かが容易に吹き飛ぶから、気をつけないといけない

2009.02.28

ユーザーは狭く見る

Google の新しいブラウザ 「Chrome 」を使った感想。

Chrome は速く感じる

今まで使っていて、なんの不便も感じていなかった Sleipnir が、どうにも調子が悪い。 中で動いているIE8 の問題なんだろうけれど、 blog の更新だとか、コメント欄の管理だとか、エラーが頻発する。

いい機会なので、常用するブラウザを、Google Chrome に変更したんだけれど、これはたしかに速く感じる。

自分には、技術的なことは何一つ分からないし、普段見ているページのほとんどは、 文字しかないようなページばっかりだから、ブラウザの本当の速さ、 内部処理の速さだとか、実装のすばらしさだとか、そういうのは全然分からないんだけれど、 素人がちょっとさわってもびっくりするぐらい、Chrome は速く「感じる」。

このブラウザは、ユーザーへの「速さの見せかた」に、気を遣ってデザインされている気がする。

Sleipnir にしても、Firefox にしても、タブブラウザを使う人たちは、いちいちページを開いたりしない。 「お気に入り」をフォルダごとクリックして、タブを一度に20も30も開く使いかたをする。 フォルダを開くと、タブが一気に開いて、タブの横には、進捗状況が棒グラフで図示されて、ちょっと待つとタブを開けて、 それぞれのページを閲覧できる。

Sleipnir だとかFirefox は、ユーザに対して「正直」であることを優先して、デザインされている気がする。 進捗状況は正確だし、ブラウザが一生懸命動いているのはよく分かるんだけれど、 リンク先のページが、ある程度「見られる」状態になるまではタブを開けない。 それはほんの1秒か、その半分ぐらいのことなのに、たしかに「待つ」感覚がある。

Chrome はたぶん、そういう意味では嘘をついている。

タブをまとめて30ぐらい開いても、Chrome のタブは、あたかも「いつでもどうぞ」みたいなアイコンを出す。 開いてみれば、そのページはまだ空っぽなんだけれど、Chrome はそれでも、タブを開ける。

ダウンロードが終わるまでのほんの数秒間、Chrome は、その間にもユーザーにできることがあって、 それがなんだか、すごく速いブラウザをさわっている気分にさせてくれる。

「使える奴」の動きかた

何かをお願いしたあと、たぶんたいていの上司は、その人が視界から消えるまでの時間でもって、 その人の「使える度」を判断する。

問題解決のプロセスは、上司からは見えない。見えないものは、評価できないし、評価の対象にはされない。

「まじめなグズ」は、まじめだから、上司がいる目の前で、問題の検討を行って、分からないことは、目の前の上司に尋ねる。 やりかたは正しいんだけれど、「まじめなグズ」は、上司の視野からいつまでも立ち去らないから、ウスノロ扱いされてしまう。

「使える奴」は、問題の解きかたを知っていようが、知るまいが、問題を依頼されたその瞬間、ダッシュして、廊下の陰に隠れる。 上司の視界から身を隠しておいて、あらためて、問題の検討を行って、分からないことは、上司以外の誰かに尋ねる。 そのやりかたは効率悪くて、結果が帰ってくるまでの待ち時間は、「まじめなグズ」よりよっぽど長いのに。

「使える奴」は不真面目で嘘つきで、それなのに、あるいはだからこそ、上司から「使える」という評価を手に入れる。

Chrome というブラウザには、すごい内部構造とは別に、そんな「嘘つきの名人」が、 ユーザーの体験を設計している気がする。 速度感をユーザーに体感させるために、ブラウザには、あえて不自然な動作をさせてるような印象。

ごくごくわずかな差でしかないんだけれど、その「速さ」はたしかに気持ちがよくて、 しばらくはこれを使ってみようと思わせる。

同じGoogle が作っている「Gmail 」にも、そういうデザインがされているらしい。

Gmail は、普通のWebメールと違って、全てのメールが読み込まれてから表示される。メールの一覧が表示されるまで、 Gmail はわずかに待つけれど、そのときにはもう、全てのメールが読み込まれているから、 メールを一件一件開くときには、全く遅延がない。他のWeb メールは、最初にリストが読み込まれて、 メールを開くためにクリックすると、メールをサーバーまで取りに行くから、ごくわずか、待たされる。 コンマ数秒の、わずかな差なんだけれど、けっこう大きい。

Gmail のやりかたは、最初にリストだけ読み込んで表示する、もっと常識的なやりかたに比べれば、 ユーザーの待ち時間はむしろ長いのに、ユーザーは、立ち上がるのが遅いメーラーソフトで、 一覧が表示されるまでに「待つ」ことには慣れているから、そこはそれほど気にならない。

Gmail は、メールをクリックしてから、それが開くまでの時間を最小化することに特化されていて、 それが「軽快さ」という感覚につながっているのだという。

名前がほしい

ゲームの業界には昔から、こういうユーザーを「欺く」ためのノウハウみたいなものを持った人が活躍できるらしい。

ゲームの要素技術は、現実にそれが正しいかどうかよりも、「正しいと感じられるかどうか」、
すなわち理論的整合性よりも心理的整合性をより強く要求されるのが常であり、
これはとりも直さず被験者の心理状態を操作するということである。
shi3zの日記

限界がある中で、正直にやったのでは、ユーザーの満足につながらない場合、 あるいは正直な競合者に対して、ユーザーを上手に「欺く」ことで、自らの強みにするやりかたというのは、 たぶん「センス」の一言で片付けられてしまうんだろうけれど、もったいないなと思う。

昔の内視鏡クリップは、手先の器用な助手が、いちいち装着しないといけなかった。2mm ぐらいの小さなパーツだから、 慣れないと難しいし、不器用だともっと難しい。

クリップの装着は、若手の技師さんとか、研修医の仕事だった。検査技師の仕事だとか、 あるいは研修医の技量の中で、「クリップ装着」なんて、それこそ直径2mm のクリップぐらいの価値しかないのに、 それは通過儀礼みたいなものだったから、「できる奴」と「使えない奴」は、クリップで選別された。

クリップをくっつけるのが下手な研修医は、実は内視鏡をやってみたら天才だったとしても、 「こいつは使えない」という先入観の中で、内視鏡を学ばないといけない。 たぶん「クリップ装着が下手」という理由で、内視鏡あきらめたり、内科自体が嫌になった人がいるような気がする。

今のクリップは、買ったら5円もしないような、プラスチックのさやの中に格納されていて、 素人が目をつぶってたって、ワンタッチでクリップがつけられる。クリップ装着なんて、 そもそもこの程度のものでしかないのは自明だったのに、当時はみんな、 「クリップ」こそがユーザー体験の全てだったから、人間は、それで判断された。

それが顧客であっても上司であっても、ユーザーから見える世界を測定して、 それを上手に欺くためのやりかたを、学問として名前をつけてほしいなと思う。

名前を持たない、実体のあいまいなものは、あいまいだからお金につながらないし、 あいまいだから、それが一人歩きすると、「クリップ一つで全人格否定」みたいな、 おかしな現象が起きてしまう。

Chrome の速さだとか、Gmail の軽さみたいな感覚を、もうすこしきれいに言語化できると、 幸せになれる人が多いと思うんだけれど。

2009.01.06

予想どおりに不合理

予想どおりに不合理 という本の抜き書き。「行動経済の本」とあったけれど、むしろ心理学とか、マーケティングの本だと思った。

「おとり」の効果

  • 選択枝に「おとり」を設定すると、特定の選択枝に、顧客を誘導することができる
  • 似たような製品が販売されていると、たいていの場合、中間価格の製品が選択される。 最初から、一番売りたい製品を「中間」に設定すると、それを売ることができる
  • 飲食店経営コンサルタントのノウハウ。価格の高い料理をメニューに加えると、たとえそれを注文する人がいなくても、 レストラン全体の収入が増える。たいていの人は、「次に高い」ものを注文するから
  • 誘導したい選択枝によく似ていて、それよりもわずかに劣る、「おとり」選択枝を加えることで、 誘導したい選択枝がより引き立つだけでなく、競合する選択枝よりも優れているように見せることができる

相対性

  • 「比較」されると、劣位に回った人間はそれを挽回しようと思う
  • アメリカの最高経営責任者の給与が公開されるようになってから、 彼らの給与は法外な水準にまで上昇した。「金持ちが大金持ちに嫉妬する時代」という表現が使われている
  • 全社員がお互いの給与を知ってしまったら、恐らくは一番の高給取りを除いて、 全ての社員が「自分の給料は安すぎる」と感じてしまう。こうした情報を公開することは、 その企業の息の根を止める可能性がある

「皆さんこれを買っていますよ」だとか、「お客さんぐらいの収入なら、これぐらいの品物でないと…」とか、 古典的なセールス技法は、だから有効なんだろう。 年齢だとか収入、あらゆる序列は、可視化のやりかたに適切な工夫を加えることで、対象を説得するための、 強力な武器として援用することができるはず。

無料の効果

  • 人は誰でも、「失うこと」に本能的な恐怖を抱く
  • 「失う」リスクがない、「無料」という価値は、だから単なる値引き以上の効果をもたらす
  • Amazon は、一定金額以上の本を購入すると、送料を「無料」にするサービスを行って、大成功した。 フランスの Amazon だけは、送料を無料にしないで、「1 フラン」に止めた。 わずか20円程度の金額にすぎないのに、フランスでは収益が伸びなかった
  • 2セントと1セントとの違いは小さいが、1セントとゼロとの違いは莫大になる。 値段ゼロは、単なる値引きではなく、むしろ全く別の価値と考えるべき。
  • 選択もまた、「失う」ことに対する恐れから自由になれない。私たちは、全ての選択枝を残しておくために、 同じように必死になる。必要以上に高性能のコンピューターや、無駄な保証のついたステレオは、だからこそよく売れる

たぶん「こんなことができますよ」よりも、「言うとおりにしないとこんなものを失いますよ」のほうが、 あるいは、「みんなこんなに得してるのに、あなたは損を選択するんですね」みたいなやりかたのほうが、 その人を強力に動かすんだろうと思う。

追記: 「無料」と同様、「無制限」もまた、同じような効果がありそう。「コピー100回可能」は無価値だけれど、 「コピー無制限」になると、それはとたんに、とてつもない価値を持ちうるみたいな。

社会規範と市場規範

  • 「愛情」のような、社会規範で回っている状況に、「キスは○○円」のような市場規範を持ち込んでしまうと、 人間関係を損ねる。一度この逸脱を生じてしまうと、関係を修復するのは難しい
  • イスラエルの託児所で、子供の迎えに遅れる親に対する罰金の効果が調査された。 罰金制度はうまく行かないばかりか、むしろ遅れる親を増やした
  • 罰金制度は数週間で撤廃され、「市場規範」は「社会規範」へと戻された。 親の意識は戻らなかった。罰金はなくなっているのに、 罰金ルールの時と同じように、遅刻する親が増える状態が続いた

社会規範は限界があるけれど安価で、市場規範で同程度のガバナンスを実現するためには、 たぶん想像以上に莫大なコストがかかる。今みたいな時代、コスト削減と士気の維持とを 両立させる手段として、不況の時こそ宗教団体の絡んだ会社が競争力を持つかもしれない。

「現金」の効果

  • 25年前、アメリカ人家庭の貯蓄率は、2桁台が標準だった。1994年でも、貯蓄率は5%あった。 2006年にはゼロ以下になり、貯蓄率はマイナス1%になった
  • 平均的なアメリカ人家族は、クレジットカードを6枚持っている。平均的な家族のカード負債額は9000ドル程度にのぼり、 7割の家庭が、食費や光熱費をクレジットカードの借金でまかなっている
  • MIT 学生寮の共用冷蔵庫に、コーラを6本 置いておいたら、72時間で全て持って行かれた。 このとき同様に、冷蔵庫の中に1ドル紙幣を6枚、 皿に載せて入れておいたが、こちらを持って行った学生は一人もいなかった
  • 企業は会計で不整をするし、役員は過去の日付に改ざんしたストックオプションを使う。こうした人達が、ならば誰かの小銭を 盗むような真似をするかと言えば、まずそんなことはありえない。不正行為は、現金から一歩離れたときにやりやすくなる
  • 現金を使わない取引には、必ず都合のいい正当化が見つかる。職場の鉛筆を失敬することも、 誰かの缶コーラをもらっていくことも、どれも「あとから返すつもりだった」だとか、もっともらし言い訳がたつ
  • 現金を使わない取引においては、自分を不正直な人間だと思うことなく、誰でも不正直になれる

本文中では、「だからこそ人は、自分の弱さに自覚的であるべき」なんて結論だった。 パチンコ屋さんの「玉」という代替貨幣だとか、環境保護みたいな「免罪符」に結びつけた、 「現金」を隠蔽する支払いの手段を見つけられれば、そのコミュニティは成功しやすい。

2008.12.09

「コンマ秒」の改善が人の振る舞いを変える

n-clickを1-clickにすると商売になる。1-clickを0-clickにすると革命になる。

待ち時間を短くすると、みんな「便利だ」なんて思うけれど、人の振る舞いは、そんなに変わらない。 短くなった待ち時間をさらに短く、「ゼロ」に向けた最後の最後、ごくわずかなその改良が、 しばしば人の振る舞いを一変させる。

YouTube がもたらしたもの

ライターの渡辺祐は、「アレってどんな曲だったかなあと思ったら即、YoutubeとiTunes Storeでリサーチします。 CDラックまで行かずとも調べ物ができるのが、締め切り前など特にありがたい」なんて、 YouTube 以降変化した、自らの振る舞いを語っている。

プロの評論家はもちろん、手元にオリジナルの音源を持っているのだろうし、 恐らくは自宅には、参考文献だとか音源だとかが山と積まれた書庫があって、 ちょっと歩けば膨大な資料に当たれるんだろうけれど、 インターネットとYouTube を利用すると、机から書庫に向かうまでのほんの数秒を節約できる。

YouTube のもたらしたものは、ほんの数秒の変化でしかないはずなのに、 「書庫を漁って何か書く」という、ステレオタイプとしての評論家の振る舞いは、 恐らくはその数秒によって、大きく変化したのだと思う。

「コンマ秒」の改善が行動を変える

google デスクトップサーチは、Ctrl キーを二連打するだけで、ネット検索を行うことが出来る。

このホットキーが提供するのは、たかだか2クリック分の節約。

ブラウザを立ち上げる手間を省くだけのことだけれど、自分についてはもはや、 「検索」といえばCtrl キーの連打であって、ブラウザを立ち上げて何かするという動作は、 目的が検索である限り、ほとんど行われなくなってしまった。

ソフトバンク携帯についてくる 「Yahoo! 」ボタンも、恐らくは似たような変容をもたらすんだろうなと思う。

ソフトバンク携帯の機能にこだわって購入した人だとか、あるいは料金プランに魅力を感じて購入した人なんかは、 ボタンを無視して好きな検索サイトを選ぶかもしれないし、あまつさえ、あのボタンを「邪魔だ」と感じるかもしれないけれど、 携帯電話にそこまでのこだわりを持たない、たぶん8 割ぐらいのユーザーは、検索といったら「Yahoo! 」ボタンを 押すことを刷り込まれていて、今さらもう、その行動は変えられない。

あのボタンを有料化する試みは、「蒔いた麦を刈り取る」やりかたとしては乱暴に過ぎるきらいがあるけれど、 たぶん多くの人達は、文句も言わずにYahoo! ボタンを押して、料金を支払う気がする。

「コンマ秒」の改善で変化した行動は、ときにはもはや、 それが為される以前のことを忘れてしまうぐらいの変化をその人にもたらして、 わずかな障害ぐらいでは、もう行動は元に戻らないだろうから。

わずかな改良は予想しにくい

1時間あった通勤時間が30分になったら、生活は相当便利になったと感じる。30分が10分になると、もっと便利になるだろうと思う。ところがたいていの人は、「10分が1分になる」なんて言われても、その世界が「すごく便利になる」とは考えない。

「1時間が30分」の変化は理解しやすいけれど、「10分が1分」によって起きる変化は予想しにくいし、 あるいはたいていは、「そこまでしなくてもいいよ」なんて思う。ところが最後のごくごくわずかな変化、 「1分 」の改良は、しばしばその人の生活スタイルを一変させて、生活には、 「通勤」という考えかたそれ自体がなくなってしまう。

田舎の病院で、ほとんど「住み込み」で働いていると、生活から通勤がなくなる。

「通勤時間ゼロ」に慣れると、忘れ物をしないように気をつけるだとか、 大事な書類を揃えておくとか、そういう感覚が無くなる。昼休みにはちょっと寝に帰れるし、 忘れ物しても、白衣を脱がずに取りに行ける。生活の中から「通勤」という、 後戻りの出来ないコンポーネントが完全に欠落して、社会復帰するのが大変だった。

恐らくは「革命」が起きるためには、最後のごくごくわずかな改良、「1をゼロ」に近づけていく 領域でのあと一歩が必要なのだけれど、その「わずか」は、1時間を10分にまで縮めてきた人にとっては、 しばしば誤差として認識されて、改良の手は、そこで止められてしまう。

世の中にはだから、「1時間を10分」にまで改良されたものがたくさんあるけれど、「10分を1分」、あるいは「1分が1秒」にまで突き詰められたものは少なくて、世の中にはたぶん、「革命」をおこす余地は、まだまだたくさんあるような気がする。

当たり前のものをゼロにする

会計をしなくてもいい売店が出来たら、生活が変わる気がする。

会員制にして、全ての商品にRFID タグを付けておいて、 お客さんはほしい品物を勝手に持ち帰って、会計は銀行で引き落とせるようなしくみ。

お客さんが、商品を思い思いに「万引き」しているような風景になるけれど、こういうスタイルになれてしまった顧客は、もう後戻り出来なくなるし、「会計」というものが生活から排除されると、恐らくは財布のひもがゆるむ気がする。

一番最初の「会員になる」部分がネックになるけれど、たとえば病院の売店がこのシステムになるならば、 患者さんの身分はみんな明らかだし、退院の時に「精算」できる。ホテルなんかも同じことが出来る。

あるいは「診察の要らない病院」。

「頭痛セット」とか「風邪薬」、「不眠セット」とか「胃薬」なんかを2週間分、とりあえず病院に来て、「眠剤下さい」なんて頼んだら、ごく簡単な問診のあと、とりあえず薬をくれるようなやりかた。歩いてくるような大多数の人はこれで十分なはずだし、 それに慣れた人達は、もしかしたら「病院で待つ」という、当たり前と受け止めていた動作それ自体に疑問を持つようになる。

そういう人が増えてくれば、もはや伝統的な外来診療、元気な人に、さもありがたそうに問診して、 2週間ごとに馬鹿高い受診料請求する、欺瞞的な商売モデルそれ自体を吹き飛ばせるかもしれない。

「待たなくていい料理屋さん」なら、世の中にはすでに、回転寿司とバイキング方式の食堂という、 画期的に成功したモデルがすでに存在している。病院が果たすべき役割のある部分は、 「回転寿司」方式でも、十分いけると思う。

世の中にはたぶん、「1分待つ」場面がたくさんあって、その1分はしばしば、 「しょうがない」とすら思われず、当然のものとして認識される。当たり前すぎて、 改良の意欲も湧かない、そんな1分を削る発想は、あるいは世の中一変させるチャンスなんだろうなと思う。

2008.11.15

政治家の作法について

大義を運用して、道義でもって対象を操作することが政治家の「アート」であって、 それを怠ったり、ましてや政策なんてものに頼るような人は、政治家になってはいけない。

阪南市立病院のこと

阪南市立病院で、2000 万円の報酬で働いていた医師が、 市長の交代に伴って、1200 万円への減額を提示されて、全員退職するらしい。

この事例は、もう全面的に市長が悪いよな、と思う。

前職を破って当選した今の市長が、きちんと「政治家」として振る舞っていれば、 恐らくは医師の確保と予算の削減と、両立できる目は十分あった。

「政治家」なら、まずはマスメディアを引き連れて、病院に乗り込んでいく。 医局にカメラを入れて、減額されたら辞めるかもしれない内科の医師がいる目の前で、 「私がだらしないせいで、来年度は1200 万円しか払えない。 市長としてあなた方の仕事には本当に感謝しているのだが、市にはお金がない」なんて、 カメラの前で土下座したり、涙の一つもこぼして見せれば、医師はもう辞められない。

頭を下げて大義を奪う

市長が「私の責任」を先に認めてしまうと、医師の進退は、「モラルの問題」に帰着させられる。

お金じゃない」なんて、通勤の足にフェラーリ買って、 雨の日には長靴代わりのレクサス使い捨てるような開業医ですら、間違いなくそうつぶやく建前は、 医師の振る舞いを強力に縛る。

「お金じゃない」の文脈で、市長が自ら頭を下げて、ここで医師が退職を表明すれば、 それは「要するにお金でした」なんて本音を、満天下にさらすことになってしまう。

医師は辞められなくなるし、辞めるとしたら、もう全国民敵に回すことになるから、 医師が所属する医局もまた、撤退を支持できなくなってしまう。

「医師の給与は高すぎると思っていた」なんて、市長がふんぞり返ったその時点で、大義は医師の側に来る。

新しい市長は、医師の仕事を今までの「6割掛け」でしか評価をしていないことを表明したわけだから、 医師は「我々の仕事が6割の評価なら、10割評価している人の下で働きたい」なんて、 「お金じゃない」大義の下に、自分の行動を自由に決められる。

ほんの少し、頭を前後に振ってみせるだけの行為を惜しんで、結果として「道義」を全て自分でかぶる形になって、 大切な「大義」を相手に譲る。

これは失政であって、大阪の人達は、市長の無為を叩くべきだと思う。

大義を守って道義を押しつける

政治というのは本来、相手の振る舞いを道義で縛りつつ、大義を自らのものとして守る、 言葉による格闘技術なのだと思う。

今回のケースなんて、「政治ゲーム」が開始されたその時点で、医師側は圧倒的に不利だったし、 実際問題、医師にできることなんて何一つ無かったのに、市長は一方的にゲームをしくじって、 結果として、医師が全員退職してしまった。

両親におもちゃをねだる小学生でも知ってそうな扇動の基本技法を、最近の偉い人は、 どうしたわけだか使おうとしない。「モラル」を口にした通産大臣も、医師を辞めさせた市長さんも。 振る舞いが「教科書どおり」なのは、「そのまんま東」と「橋下知事」ぐらいしかいない。

どうしてなのかよく分らない。それは「劣化」なのか。それとも何か、使えない理由があるのか。

扇動の技術というのは、そもそもが「無駄」な技術ではあるんだろうけれど、 無駄だから省いていいことと、それを知らなくてもいいこととは、全く違う。

医療の問題なんかは、気の利いた扇動者が一人でもその場にいれば、 自分達なんかは明日からでも、「誠意のある熱心な医師」として、 倒れるまで働かざるを得ない状況に追い込まれたって、全然おかしくないのに。

大臣の「モラルが足りない」発言は、なんかおかしい。

政治家にとってモラルというのは、「相手からの発露」を期待するのではなくて、 言葉の力で、相手を「モラルを発揮せざるを得ない場所」に追い込むことで、 強引に作り出して、利用されるもの。

モラルはだから、政治家なら自由に生み出すことができるし、時にはだから、「モラルがありすぎて」、 側近が自殺に追い込まれたりする。「モラルがない」なんて怒る政治家は、本来は自らの無能を恥じるべきであって、 なんで自分達が怒られないといけないのか、正直よく分らない。

挑戦者から厳しく攻められた将棋の羽生名人が、「君には挑戦者としての慎みが足りない」 なんて怒り出したら、みんな名人のことを笑うだろう。

朝三暮四を通用させる

「政策を作る」ことなんて、そもそも政治家の仕事にしてはいけない気がする。

国なんてなかった大昔、リーダーの役割は「鼓舞」であって、具体的なやりかた、政策に相当するものは、 リーダーに鼓舞された、方向だけを与えられた集団の、たまたま先頭に立った人が、場当たり的に生むものだった。

リーダーは、煽って示して押し出して、最前線が、押されて頑張る。成果を全て自分の功績にする人は独裁者だし、 成果を「みんなのもの」にして、リーダーがリーダーであり続けることを望むなら、民主主義が生まれる。

本当の政治家は、「朝三暮四」の、無意味なやりかたから、実体としての力を生み出す。

大義を振りかざした政治家が、頭を下げて握手して、にこやかにほほえみながらスピーチするだけで、 周りにいる人達には「道議」が発生して、「誠意のある人間」という立場に追い込まれて、 笑顔で倒れるまで働かざるを得なくなる。

そうするのが一番楽だからこそ、人は「そう思われる」ように振る舞おうとする。

どうせ汚職するだろうとか思われれば汚職に走るし、「画期的な国策を考える人達」なんて、 舞台のてっぺんに押し上げられれば、その人達は、嫌でも「すばらしい人」として振る舞う。 政治家というのは、「そう思われるありかた」を、対峙する全ての人に示せる人であるべきだし、 そういう技能を継承したり、身につけることができなかった人は、やっぱり政治の舞台に立ってはいけないような気がする。

2008.11.06

舞台装置がプラットフォームになる

大きくなりすぎた問題に対して発生するかもしれない無関心のお話し。

新大統領のこと

新しい大統領を警護する人達は、今頃頭抱えてるだろうな、とか想像する。

オバマ大統領が劇的な勝利を挙げて、「負けた」感覚を味わった人は、たぶんすごく多い。

勝ったのがマケイン候補だったなら、年老いた、たくさんの財産を持っている人が今さら勝ったところで、 マケイン候補に「負けた」と思う人は、そんなにいないはず。「ああまたか」と絶望する人は いるのだろうけれど、絶望は、怒りや怨嗟には結びつかない。

勝った人が受ける恨みの総和は、その人が追い抜いた人数に比例する。

若い人が勝てば、年老いた人は「負けた」と思うし、移民が勝てば、昔からその国にいる人達は、「負けた」と思う。 年齢が若い、移民の息子であるオバマ候補は、スタートの時点から極めて不利な条件を背負っていて、 それをひっくり返して大統領になれたのだから、きっとすごい人物なのだろうけれど、 あの人がここに来るまでに「追い越した」人数も、また多い。

若い大統領の誕生は、だからアメリカが大きく変わるかもしれないけれど、 それと同じぐらい、「変わりたくない」人達が、大統領を傷つけようなんて、 ろくでもない計画立ててそうな気がする。

対物ライフル時代の要人警護

アメリカ軍がイラクで使っている対物ライフルは、よく使われるもので口径12.7mm、 大きなものだと口径が25mmぐらいある。米軍はこれを使って、建物に隠れる相手を 建物ごと破壊したりだとか、装甲の薄い装甲車のエンジンを狙ったりだとか、活用しているらしい。

対物ライフルは強力で、1km ぐらい離れた距離でも普通に狙えるし、 それぐらい離れていても、当たった人が真っ二つになってしまうぐらいの威力があるんだという。

威力がありすぎて、本来それは、人間を狙って撃つことは禁じられているのだけれど、 アメリカ国内でも同じライフルが購入可能で、グアムあたりでお金を払えば、日本人の観光客にも撃たせてくれるらしい。

要人を傷つける目的でこういう銃が使われると、それを防ぐ側は、相当大変な思いをすることになる。

最近の対物ライフルは、有効射程 2000m、最大射程 2400m。動画サイトを探すと、 レポーターの人が普通に 2300m 狙って的に当ててた。この距離はちょうど、 「本気を出したゴルゴ13」と同じぐらい。

追記:そこまで強くはないよというコメントをいただきました。ありがとうございました。

漫画「ゴルゴ13」は、主人公が 2000m という人間に不可能な距離を狙撃できるのが前提。 ゴルゴに狙われて助かった人はほとんどいないし、「ゴルゴが来る」なんて 事前に分っていたところで、警察には、半径 2000m の円周を全てカバーすることなんて無理だから、 ゴルゴは止められない。

漫画でも実世界でも、恐らくはそんなに変わらなくて、ヘリコプターを使ったところで撃つ前の狙撃者は 見つからないし、たとえシークレットサービスが要人の四方を囲んだところで、対物ライフルは コンクリートの壁ぐらい簡単に貫いてしまうから、「人の壁」などあったところで、役に立たない。

大口径の銃が人間に向けられて、狙撃用途に使われたのは、フォークランド紛争が始まりらしい。 イギリスの兵士を迎え撃ったアルゼンチンの軍隊が、50口径の重機関銃に狙撃用のスコープを載せて、 相手の射程外から狙い撃ったのだという。

イギリスには当時、この射程をひっくり返せる武器が存在しなかったから、 相手を迎え撃つために対戦車ミサイルを発射して、相手の機銃陣地ごと吹き飛ばすことで、 やっと戦いになったのだという。

アメリカ国内で、「大口径の対物ライフル」と「対戦車ミサイル」との応酬が始まれば、 これはもうテロリストが逃げ出すぐらいの大惨事になってしまうから、 大統領を警護する側の人達は、もちろん対戦車ミサイルなんて使えない。

恐らくはアメリカで要人警護を行う人達は、こうした事態を何年も前から想定しているのだろうから、 オバマ大統領の警備というのは、たぶん今までの考えかたの延長では為されないような気がする。

銃の発射速度が向上して、結果として「騎馬突撃」という戦いの基本理念が意味を失って、 「塹壕戦」という、新しい考えかたが生まれたように、銃の威力や射程が伸びて、 本物のゴルゴ13みたいな人を仮想敵に想定しなくてはならなくなった現在のシークレットサービスは、 たぶん今までの延長ではありえない、新しい何かに変貌していく。

物語を作る人達

当事者でない「読者」を想定した物語を作る人達、作家であったり、 あるいは「画を作る」マスメディアの人達は、分かりやすいステレオタイプを大切にする。

「威力が増した」みたいな、連続的な変化は伝わりやすいけれど、対抗する側の、ある種の 断絶を伴った変化というのは分りにくいし、それを伝えたところで、たぶんたいていの読者は喜ばない。

これから「大統領暗殺」みたいな本が作られるとすれば、大統領を狙う側は、 躊躇なく対物ライフルを選ぶことになる。相手が選ぶ武器が決定したところで、 守る側もまた、拮抗する火力を持った武器を手にする必要があるけれど、 舞台が街中である以上、「正義」にそれをやらせるのは難しい。

守る側があまりにも不利な、こんな舞台設定で物語を作ると、狙撃者が「撃った」時点で大統領が倒れなければ嘘だから、 物語を盛り上げようと思ったら、作家の人たちは、守る側の「撃たせない」戦いを主軸にせざるを得なくなる。

物語を引っ張る主役は、「狙撃者」と「シークレットサービス」みたいな銃を持つ人達から、 「スポッター」と呼ばれる狙撃を補助する人、目標を探す「目」の役割を担う人々へとシフトしていく。

物語は情報戦になる。予測される大統領のルート設定を巡る情報戦だとか、 攻める側と守る側、お互いの土地勘だとか、気候や風、温度に対する感覚みたいなものが、 狙撃の成功を左右する。

物語には強力な銃が導入されて、結局それは、「人間の物語」へと回帰する。

舞台装置はプラットフォームになる

お互いが扱う武器の火力が「決定的」過ぎるとき、物語を盛り上げようと思ったら、 作家はもはや、その銃を撃てなくなってしまう。

銃撃戦が幕間に入る物語は、盛り上がる。威力の強い銃で銃撃戦が描写されると、もっと盛り上がる。 ところがある閾値を超えると、銃はもはや単なる舞台装置ではいられなくなって、 いつしか舞台それ自体になってしまう。

ゴルゴ13 は、頼まれた狙撃はほとんど100% 成功させる。ゴルゴの腕前はすごすぎて、 他の登場人物との釣り合いが取れなくなって、漫画「ゴルゴ13」は、ゴルゴ自身の物語から、 「ゴルゴ13というルール」を取り巻く人々の物語へと変貌した。ゴルゴはただのルールであって、 「体調悪くて的を外すゴルゴ」だとか、「誰かと喧嘩して技と的を外すゴルゴ」だとか、 人ならあり得るそんな情景は、もはや誰も想像しない。

社会のいろいろな問題点を「舞台装置」として用いながら、作家は物語を紡ぐ。

ところが作家の手に負えないぐらいに大きくなった問題は、 もはや物語の舞台装置ではいられなくなって、その問題をプラットフォームにした物語を紡ぐための、 舞台それ自体となって、観客から想像の余地を奪ってしまう。

救急医療の問題なんかが、下手するとそうなりそうな気がする。

毎日のように運ばれてくる患者さんは、これはもう間違いなく現実のものだから、 人が連続的に減っていく中、現場はそれでも頑張ってはいるんだけれど、 問題はなんだか大きくなる一方で、解決は見えない。

人が圧倒的に足りていない救急外来の問題が、どこかで作家の手に負えないぐらいに大きなものになってしまうと、 恐らくは救急の問題は、「問題」から「前提」へと変貌する。

前提になった問題は、視聴者に「そういうものだ」という、一種のあきらめを要請する。 産科とか、救急とか、マスメディアの人達がいろいろアイデア出して、それでも問題は大きくなる一方で、 彼らがどこかであきらめたとき、自分達が今抱えている問題は、もしかしたら全ての人から 見捨てられてしまう、そんなことを考える。

2008.10.28

嫉妬が生みだす公正な社会

田舎の常で、マイナーな漫画本だとか、ハヤカワのSFだとか、本屋さんにほとんど売ってない。

最近はだからAmazon ばっかりだけれど、発注かけて、題名検索して、実物手に入る前に海賊版が 見つかったりすると、なんか落ち込む。

海賊版は便利

特によく売れている漫画本は、発売されてから10日もすれば、たいていは世界の誰かが海賊版を作る。

漫画の題名と、よく知られているダウンロードサイトの名前と、検索ワードに両方入れて検索すると、 英語圏だとか中国だとか、たいていはどこかのサイトが引っかかってくる。

日本の漫画家が、漫画を書いて本を出す。

海外の誰かが、それを購入してスキャンして、ダウンロード可能な形で、アップローダーに上げる。

恐らくはどこかに、海外の「2ちゃんねる」みたいな掲示板があって、そういう人達が情報を交換して、 やっぱり海外の、別の誰かが「まとめサイト」みたいなものを作って、検索しやすい形で公開する。

場所によっては、すごく「親切」な作りになってる。

文章は読めないけれど、その漫画の題名の下には小さなサムネイル画像が何枚かあって、 恐らくは漫画の紹介文だとか、感想文だとか、細かく書いてある。文章の最後にはリンクが張ってあって、 そこからダウンロードサイトに飛ぶと、もうそのまま、海賊版のファイルがダウンロードできる。

「海賊版」は便利。中身は画像ファイルの集まりだから、好きなソフトで読むことができるし、保存も削除も自由にできる。

出版社にも、「ダウンロード版」を提供するところが増えたけれど、お金払うまで内容が全く 読めなかったり、お金払ってデータもらって、それを読むためには、その出版社でしか使えない、 お世辞にも出来がいいとは言えない電子ブックソフトをインストールしないといけなかったり。 自分で買ったデータなのに、保存する場所も自分で選べなかったりして、 せっかく電子化された情報なのに、なんだか実物の本よりも取り回しが悪い。

検索できること。あらゆる本が揃っていること。「まとめサイト」があって、同じような本が探せること。 今の「海賊版」は、Amazon よりもむしろサービスがいいぐらいで、どこにでも居ながらにして、 クリック一つで「実物」がダウンロードできる。

それはたしかに「違法」だけれど、「合法」側の分が悪すぎて、 これではたしかに、まじめにお金払う人は減る一方だよなと思う。

ゆるい絆の強い力

海賊行為をする人達は、スキャンする人、アップロードされたファイルを探す人、 サーバーを提供する人、様々な情報を見やすくまとめて公開する人、たぶんみんなバラバラに動いていながら、 それが何となく、検索エンジンを介したゆるいつながりを保っている。

「ゆるい共同体」は、結果として Amazon 以上の規模を持った「バーチャル書店」みたいなものを ネット上に作り上げているけれど、この組織には「頭」に相当する場所がないから、 今までの法律だとか、警察のやりかたでは潰せないし、たとえどこか一部を潰したところで、 個々の人達がやっていることは決して複雑なことではないから、需要がある限り、その機能は別の誰かが置換して、 海賊行為は無くならない。

「ヒトデ」のような、中枢神経を持たない生き物のような組織の典型で、こういう構造を持った組織は、 著作権を管理する人達がいくら強力に取り締まっても、たぶん問題は解決しない。

嫉妬でヒトデを退治する

「ヒトデはクモよりなぜ強い」という本には、こういう「ヒトデ」退治の方法として、 アメリカ先住民族のアパッチ族に、牛を与えるやりかたが紹介されていた。

スペインが南米を征服した昔、そのまま北に進んだスペイン軍は、アパッチ族に撃退された。

アパッチ族には「族長」の概念が希薄で、リーダーに相当する人は、その場の雰囲気で何となく決まっていたから、 スペイン軍が「頭」とおぼしき人物を倒しても、相手の勢いは乱れなかったのだという。「頭」を倒しても、 すぐに別の誰かがその場所に座って部族を率いたから、アパッチ族は負けることがなかったのだと。

北米に移り住んだアメリカ人は、アパッチ族を撃退するのに、相手に「牛」を贈与した。

牛は貴重な財産で、財産をもらった「頭のない組織」には、組織のリーダーになることに、 財産という実利が発生するようになった。財産の取り分を巡って、アパッチ族には いざこざが発生するようになって、結果として「頭」が生まれたアパッチ族は、 軍隊が与しやすい相手となって、アメリカ大陸の主導権は、白人が奪うことになったんだという。

合法違法を問わず、全ての「ダウンロード」にお金が発生する仕組みにしたら、面白いだろうなと思う。

これをやると、違法ダウンロードを許可しているアップローダー管理人だとか、 あるいは「まとめサイト」を運営している人達には、すごい財産が転がり込んでくる。

その一方で、漫画を購入してスキャンデータを作る人にはなんのお金も発生しないし、 今まで無料の漫画を楽しんできたユーザーは、今度はまとめサイト管理人にお金を支払わないといけなくなる。

恐らくは「バーチャル巨大企業」と化していたゆるい共同体には、嫉妬心が生まれる。

大金を手にして笑いが止らない人達を見て、まじめに(?) スキャンしていた人達は、 バカらしくなってデータを上げなくなってしまうだろうし、 どうせお金を払うのならば、ユーザーはたぶん、「ずるく儲けている奴ら」よりは、 たぶん漫画の原作者を探して、そこにお金を払いたいと思うようになる。

結果としてたぶん、漫画をスキャンしていた人は、単なる漫画好きの読者に戻って、 海賊版をダウンロードしていたユーザーは、原作者から直接漫画を購入して、 「ずるい」中間層には、データもお金も入ってこなくなる。

この人達がもう一度、いい思いをしようと思ったら、今度は自分で漫画を購入して、 自分でスキャンして、有償配信を行わないといけない。 これはもう、単なる犯罪だから、今までどおりの法律で容易に取り締まることができる。

ユーザーの知能化が公正を生む

「ずるい」人達に罰を与える代わりに、彼らに財産を与えて大笑いさせることで、 共同体に嫉妬心を育てて、結果として、無難な状態としての「フェアな世界」を作り出す。

恐らくは「支払い」という行為をユーザーに強要することで、ユーザーには「頭を使う理由」が発生して、 そのときたぶん、自分がお金を受け取る理由をきちんと説明できない人達は、共同体から追われてしまう。

こうしたやりかたは案外有効だと思うんだけれど、恐らくはたぶん、最初のひと転がり、 「ずるい奴らが大笑い」を我慢することができない、あるいは、「ユーザーに知能化してもらっては困る」、 著作権を守る側の嫉妬心が、こうしたやりかたを阻害してしまうんだろうなと思う。

2008.10.03

扇動の技術

バスが遅れる。待っている誰もがいらつく。不満のエネルギーが貯まる。

「バス会社はバスの増発を行うべきだ」という提案は、改革者のやりかた。 みんなが持っていた漠然とした不満は、現実的な提案へと落とし込まれる。 問題は解決するけれど、話はそれで終わって、せっかく集まった「不満」のエネルギーは散逸してしまう。

「これは何もバス会社のせいじゃない。全ては言葉もろくすっぽ話せない 外国人のせいだ。奴らを追い払わないといけない」というのが、扇動者のやりかた。 聴衆の不満を提案に変換しないで、たとえば「邪悪な外来者」のような、特定のテーマに翻訳する。

扇動者は、漠然とした不満を抱いた聞き手に対峙して、扇動者が持っている世界イメージを通じて、 聞き手の不満を実体化してみせる。

改革者はしばしば、特定の問題を解決するために、聞き手の努力を要求する。
扇動者は単に、「あらゆる抑制を取り払おう」という、聴衆の意志だけを要求する。

扇動のテーマ

個人が抱えている不満は様々で、一つとして同じものがないから、集中できない。 扇動を試みる人達は、聴衆が同調しやすいテーマ、分かりやすい世界イメージを用意して、 彼らの共感を引き出そうとする。

代表的なのは、こんなテーマ。

  • 外国人に対する援助が拡大されている。奴らに使うような無駄金や捨て金があるのなら、 政府はまず、それを我々自身のために使うべきだ
  • 外国人は、我々の金を取っていくばかりでなく、我々の仕事を奪ってしまった。 この国で生まれた人々は、亡命者が自分達の仕事を奪ってしまい、食べるものがない
  • ハリウッドの映画産業は、我々の子供達の若い精神に、唯物主義の思想を叩き込もうとする 共産主義者によって操られている
  • 贅沢な消費にうつつを抜かしているのはマルクス主義者、左翼国際主義者であって、 彼らは我が国のクリームを食い尽くし、我々にはミルクもバターもない生活を送らせようとしている。 自分達だけはシャンパンを好きなだけ傾けているくせに

聴衆は「おめでたい」人間

扇動の場においては、聴衆は常に「だまされた」人間であると定義される。

扇動者はある意味で、聞き手を侮辱することによって、追従者を獲得する。 彼らは聞き手が知識や力や勇気において、「敵」よりも劣っていることを指摘して、 扇動者が聴衆を必要としている以上に、聴衆もまた「指導者」を必要としているのだと訴える。

知的なコミュニケーションにおいては、たとえば教師と生徒との関係は、 教育という活動を通じて、お互いの距離は少なくなっていく。問題の解決を志向する改革者の 活動もまた、啓蒙を通じて、指導者と聴衆との隔たりが減らされる。

扇動においては、指導者と聞き手との距離はずっと変わらない。

聞き手が劣っているのは、一時的に「啓蒙されていない」からではなくて、 「だまされやすい人間」や「おめでたい人間」であるからで、 扇動者はしばしば、聴衆の人のよさを無遠慮に攻撃することで、彼らから永久的な支持を勝ち得る。

聴衆はだまされやすい、「善良な」人間である。しかし「指導者」の指摘を受けて、 彼らは今やそのことを知っている。指導者を得たのだから、彼らはもはや、 その知的劣等性、「善良であること」を隠す必要はなく、善良なまま在り続けることが出来る。

「善良な人間」が、今までだまされていた屈辱に対する責任は、もちろん「不道徳な敵」に丸投げされる。

「根治」を目指す

扇動者は、彼自身の世界イメージについて漠然と語る。そのことが逆に、 聴衆が持っている個々の不満に対して、「根源的な治癒」を 約束しているかのように聞こえる。

改革者は、社会が抱える問題を、それぞれ解決可能な大きさに切り分けようとする。 一方扇動者は、聴衆が抱える感情の全体性を問題とすることによって、 疾病の根源そのものを攻撃するのだとほのめかす。

扇動者は、本当は何の解決をも約束していないにもかかわらず、常に「戦い続け」ているように見える。

問題が解決してしまうと、扇動者の存在意義は消失するから、彼らにとってはむしろ、 聴衆の問題は、解決しないで定状状態を保ち続けるほうが望ましい。

強くて弱い「敵」

「敵」は世界の脅威となるぐらいに強力な存在であって、同時に扇動者の指導に従うことで排除が 可能であることが保証されなくてはならない。

「敵」と名指しされた存在は、だから本来的に弱い者であるにもかかわらず、 あえて危険な存在であることを装って、その弱さに仮面をかけている連中であると暗示される。

扇動者はだから、「本当に強い」人達を「敵」として名指しすることはない。その気になれば排除可能な 集団を探してきて、その強さを膨らませることで、邪悪な敵と対峙して戦う自分のイメージを作り出す。

「敵」の中にも、「いい」人間はいる。扇動者もそれを否定しない。

その代わり彼らは、「敵」自身の仲に紛れ込んでいる真の悪人に対してそれを排除しない、 不作為の罪を背負わされる。それはすなわち真の悪人に対する消極的な支持であって、 「敵」の連帯性や、集団としての責任は、扇動者にとって自明のものとして取り扱われる。

「敵」が、強くかつ弱いのと同様、扇動者自身もまた、強さと弱さを併せ持つ。

扇動者は「明日の秩序の番犬」になるべく予定された存在だけれど、 その一方で、今日の彼らは弱く、無力な存在であるとされる。陰謀を巡らせる「敵」に対して、 扇動者はいつ「攻撃」を受けるのか分からず、また攻撃され、その存在を貶められたりする。

扇動の時代

「煽動の技術―欺瞞の予言者」という本を読んだ。1950 年代の教科書だけれど、 紹介されているやり方は、今の時代でもそんなに変わっていない気がする。

本の中では、「敵」とされているのは「移民」であったり「ユダヤ人資本家」であったり、 あるいは「共産主義者」であったり。本の中で「操られている」政府を率いていたのは、 ニューディール政策を推進していたルーズベルト大統領だから、社会背景は全く違うけれど。

政治のやりかたは、たぶんずいぶん変わったのだと思う。

政府というのは、扇動者が叩く対象であって、扇動者と、扇動者に率いられた聴衆とによって、 「敵」が追放されて、政府は「正される」存在だった。今はむしろ、 この頃「扇動者」であった人が使っていたテクニックを、政府を率いる人達が普通に使う。

日教組を叩いて辞任した大臣とか、もしかしたら次の選挙は強いような気がする。

無茶なやりかただったけれど、あの人は辞任してみせたことで、「日教組に戦いを挑んで潰された男」、あるいは、 「真実を語ったがためにマスメディアに潰された男」という、大切な肩書きを手に入れた。

扇動者の前提が共有される限りにおいて、価値は逆転する。

メディアが支持率の低下を報道すれば、それは「敵の陰謀はそれだけ強力なのだ」と解釈されるし、 大臣が失言を叩かれて辞任すれば、それは「元大臣が敵の弱点を見抜いたから」潰されたことに他ならない。

元大臣の行動は滅茶苦茶なようでいて、「卑劣な日教組の手先が国民を騙している」という世界認識が 共有される限りにおいては、それが英雄の行動として聴衆に認識される。マスメディアだとか、知識人だとか、 あの人の行動を叩く人が増えるほどに、一方で、元大臣を支持する人も、増えていく。

元大臣にいきなり「敵」として名指しされた日教組側は、数字を示して反証を試みたけれど、 あれもまた、もしかしたら元大臣を利するような気がする。

きちんとした数字を出すほどに、「敵」の怪物性、手強さは強調されて、元大臣が作り出した世界イメージは強化される。 日教組側は、むしろ「自分たちにはもはやなんの権力もないんですよ」なんて、さっさと白旗挙げて見せたほうが、 たぶん元大臣にとっては、ダメージが大きいのだと思う。

デマゴーグの波に乗っかる人達を潰すためには、あの人達が前提としている「恐怖」それ自体を潰す必要がある。 反論して、戦って、扇動者を叩き潰したその時点で、扇動者の思惑はすでに成功している。

いろんな人達が「敵」にされている。

辞任した大臣の敵は「日教組」だし、自民党が「敵」として支持を集めようとしているのは、 公務員組織それ自体であったり、マスメディアであったり。恐らく彼らをまとめて「敵」認定するのは 得策でないから、これからは「一部の悪い公務員が」とか、「一部の売国メディア」だとか、 「敵」は分割されて、「いい敵」の不作為が、また政治家に叩かれる。

選挙になる前、自民党の人達は、たぶんマスメディアに対して敵対的になっていくような気がする。 「私はメディアに嫌われてるみたいだから」みたいな発言を閣僚が繰り返すようになったら、 それはたぶん、あの人達が「扇動」の方向に舵を切ったサインになる。

「扇動の技術」というのは、ネット界隈で誰かと遊んだりするときには便利なおもちゃで、 こうした技術で自分の文章をちょっと飾ると、議論が盛り上がる。

その代わり本来、こうしたやりかたは、「主役」が使うものではなかった。

この本が書かれた時代、扇動者は誰も、ルーズベルト大統領に打ち勝とうなんて思っていなかっただろうし、 扇動程度ではびくともしない政府があって、初めて扇動者の言葉は、聴衆に対して一定の説得力を発揮した。

社会にあって、揺るがない主役でなくてはいけない、本物の政治家がこうした技術を使う社会は、 なんか違う気がする。

2008.09.22

「無能な上司」という能力

「皇国の守護者」という、戦記物の小説を読んだ。

戦記物の常で、主人公は能力があるのに低い地位に甘んじていて、軍隊には、無能な上司があふれてた。

主人公が活躍するたび、「無能な上司」はそれを無視したり、足を引っ張ったり、 あるいは間違った判断を下すことで、主人公を不利な状況に追い詰めたり。

売れた小説というものは、多かれ少なかれ、社会の鏡として機能する。

この小説はずいぶん売れたみたいだから、「不遇な有能」である主人公と、 それを取り巻く「無能な上司」という構図に、自ら置かれている社会を見た人は、 きっと多いのだろうなと思う。

無能な上司のお仕事

小説世界、主人公はもちろん大活躍するわけだけれど、 その舞台を設営するのは、「無能な上司」の大切な仕事。

設営の条件は厳しくて、どうしようもない無能しかいない軍隊を設定してしまうと、 そもそも主人公が活躍するはるか以前の段階で、戦いが終わってしまう。

主人公が活躍するための舞台である軍隊は、だから列強と互角に戦える程度には有能であって、 なおかつその上層部は「無能」で占められていて、主人公を取り巻く有能な下士官もまた、 主人公が登場する以前の段階では、その能力を発揮することは許されない。

主人公が登場して、物語が始まるまでの間、「無能な上司」は、自らの能力を何ら認識されることなく、 もちろん軍隊にいる「隠れた無能」の力を引き出すことも許されないまま、自分が指揮する軍隊を守り通さないといけない。

「無能な上司」役を演じている登場人物は、ある意味主人公よりもよっぽど難しい条件を作者から押しつけられて、 しかも「出世すること」を義務づけられている。

「無能な上司」は果たして、主人公に比べて、本当に無能なんだろうか。

出世に能力は必要ない

いわゆる「出世」を考えたときに、外から見える「能力」を持っていることは、たぶん本質たり得ない。

成功は偶然だけれど、失敗は必然。失敗した人、能力を認められない人というのは、 失敗に至る過程のどこかで、必ず「失敗につながる必然」を踏んでいる。

ある人が偶然をつかむと、それが他者からは「能力」として観測される。

能力は分かりやすいけれど、あくまでもそれは偶然であって、その人の「有能さ」を どれだけ詳細に記述したところで、個人の前を通るものが偶然でしかない以上、 誰かの能力を、観察を通じて再現することは難しい。

「失敗につながる必然」を踏まない、そんな能力のありかたは、恐らくは目に見えにくい。

失敗につながる必然を踏まない人というのは、恐らくは何事も起きないかのようにただそこにあり続けるだけで、 たまに「運良く」何かを拾って「出世」して、上に上がったその場所で、再び無為に佇んでいるようにしか 見えないだろうから。

「成功する」ためには、偶然を生かさないといけない。偶然をつかんだ誰かを観測するのは容易であって、 そのドラマは面白いけれど、成功譚をいくら読んだところで、それを再現することは難しい。 「失敗しない」でそこに在り続ける人は「つまらない」から、そのやりかたを記述したところで、 重要そうにも見えなければ、読者が読んで面白いドラマにすることも難しい。失敗しないやりかたは、 それでも万人に共通だから、学習を通じることで、それを再現することができるはず。

小説世界から何かを学ぼうと思ったならば、逆境を持ち前の能力と勇気で解決していく主人公よりも、 むしろ主人公の足を引っ張る「無能な上司」、無能であるにもかかわらず、 能力を見せることを許されない立場にもかかわらず、主人公に倒されるその瞬間までそこに在り続けた、 そんな人達の行動原理を想像したほうが、何か役に立ちそうな気がする。

穴の空いた床を見ること

組織というのは、穴だらけの床を持ったビルディングみたいな構造をしている。

穴にはまったら下の下位に落ちるし、下から見た「上の床」は天井だから、 そのビルの天井にもまた、無数の穴が空いていて、運がいい人は、天井の穴に手が届いて、 上の階へと上っていく。

みんな上に行きたくて、「天井の穴」ばっかり気にして、床に空いた穴を見ようとしないから、ときどき落ちる。

大事なことはたぶん、「床の穴」に自覚的になって、まずはしっかり床に立ち続けて、どこか高いところ、 天井に上りやすい場所に行き当たるまで、穴を避けて歩き続けることなんだけれど、 穴の見えない、あるいはもしかしたら、床の穴なんて見たくない多くの人は、成功した人達が、 「穴を避けている」のではなく、「天井にぶら下がっている」ように見える。

有能な上司というのが仮にいたとして、そういう人は、「下」の誰かを引っ張り上げるのが上手なはずだから、 その人は間違いなく、「床の上」にたっている。同じフロアにいる人であっても、その人が天井から ぶら下がっていたのなら、その人は本来、下の階に手をさしのべる余裕なんて無いのだから。

「皇国の守護者」8巻、本の真ん中あたりには、 主人公と対立する人物、味方でありながら、 有能な主人公の足を引っ張る「無能な上司」が、挿絵として描かれる。 主人公なんてかすんでしまうぐらい、魅力的な人物として描写されている。

絵の力は時に物語をひっくり返すけれど、これだけ魅力的な人物をして、 どうしてこれが無能でありあるんだろうなんて、そんなことを考えた。

2008.09.18

NHK 特集 「戦場 心の傷」

戦争が兵士に負わせる心の傷を特集した番組。大雑把に、前編は男性の、後編は女性の、 それぞれ心に負った傷に焦点を当てて、番組が作られてた。

以下覚え書き。

リアルな舞台での訓練

  • アメリカの新兵訓練施設には、周囲の風景だとか建物、通行人の風俗みたいなものまで 再現した「イラクの街」が作られていた。「テロリストを建物に追い詰める」だとか、 「救援物資を届けたら爆弾テロに巻き込まれる」だとか、状況ごとにシナリオを作って、訓練を受けていた
  • 訓練に使う道具は極めてリアルだった。兵士の装備や武器はもちろん本物、建物だとか、 「テロリストが爆破した車」なんかもまた、本当に爆破した車を使ったりして、「本物みたい」を 通り越して、「そのもの」をそのまんま使っていた
  • 本番さながらの訓練を積むことで、「ぶっつけ本番」の混乱を避けることができたり、 人が人を殺す、人間が本来持っているためらいみたいなものを乗り越えることができたり、ひいてはたぶん、 戦闘によるPTSD みたいな症状を緩和することができる。「的を狙って銃を撃つ」みたいな訓練は放送されなかった
  • 番組後半の、PTSD になった女性を取材したパートでは、ライフルを持った子供に狙われて、 その子供を射殺してしまったことを悔いるお母さん兵士が取材されてた。非常に苦しんでおられたけれど、 恐らくは今頃、訓練キャンプでは、「ライフルを持った子供を殺害する」シナリオが、 訓練メニューとして取り上げられているんだろう

苦しむ人

  • イラク帰りだったかアフガニスタン帰りだったか、帰還してPTSD になった兵士のインタビューは 怖かった。「今でも夜が怖いんだ」なんて、PSTDに悩みながらも大学に通う元兵士が、 インタビュアーに「友人」を紹介していたけれど、「友人はときどき衝動的になるから気をつけろ」なんて、 取材班に護身用のナイフを渡してた
  • 「ときどき衝動的になる」、元兵士の友人は、筋骨隆々とした大男で、両肩に入れ墨入れてて、 女装して、ワンピースを着てた。机いっぱいに蒸留酒の空き瓶並べて、昼間からお酒をあおってた。 たしかにあの人になら、刺されても文句言えそうになかった
  • ああいう人達を見てしまうと、日本の自衛隊とか、よく我慢してるというか、抑えてるなと思った。 帰ってきた自衛隊員の目の前で、「自衛隊員辞めちまえ」とか反戦デモしても、たぶん殴られないだろうけれど、 アフガニスタン帰りの海兵隊を前に同じことしたら、その場で射殺されても文句言えない気がした
  • 戦争体験に伴う過剰なストレスと、それによって生じるいろいろな症状は、第一次世界大戦の頃から 報告されていたらしい。精神医学が発達していなかった頃は、そういう兵士に対する治療は「電気ショック」で、 スタンガンみたいなものを背中に当てて、入院中の兵士を無理矢理歩かせる「治療」が放映されてた。 今はもちろんそんなことはしないはずだけれど、PTSD にかかった兵士を治療する病院が放映されて、 そこをを卒業するための最終試験は、「テロリストを殺す」ことだった
  • イラクの風景がスクリーンに映されて、逃げ惑う市民に混じって、ライフルを持ったテロリストが こちら側に向かって走ってくる。「患者」はライフルを持たされて、テロリストを射殺できたら、 「治療完了」みたいなルールだった。昔の軍人精神の名残なのか、 それとも何か心理学的な裏付けの下に行われてるのか、よく分からなかった

葛藤が少なそうな人

  • アメリカ人は、戦争に行って人を殺すと、かなり高い確率でPSTDになって苦しむ。 治療をする必要があるし、逆に戦場に行くときには、よく考えられた訓練を受けて、 「人を殺せる」心の準備もしないといけない。ひどい話ではあるけれど、「相手方」はどうなんだろうな、と思った
  • クルド人の「名誉殺人」だったか、少し前に話題になったグロ動画では、村人が総出で、若い娘さんを殺してた。 対立する村の若者と不義密通をはかった村の娘さんが広場に引きずり出されて、村の人達総出で追い詰めて、 両手で抱えるぐらいに大きな石を頭にぶつけて、その人を殺す
  • みんななんだかうれしそうで、もちろん動画を撮影している人も止めなかったし、 村の人達は、各々手に持った携帯電話で「写メール」撮りながら、娘さんの頭を潰してた
  • 「戦争の心理学」という本では、「人は人を殺せない」ということが前提になっていて、 相手と自分との距離感が遠いほど、遠くの敵ほど、殺しやすいということが理論の基礎になっている
  • 戦争ではだから、ナイフよりも銃のほうが、銃よりも航空機とか、戦艦のほうが、「人殺しに対する葛藤」が 少ないし、実際PTSD になる人が少ない。「人を殺せる人間になる」訓練もまた、 殺す相手との精神的な距離感を広げるよう、広げるように行われる
  • そういう理屈で「名誉殺人」を考えると、よく分からなくなる。昨日まで一緒に暮らしていた村の娘を、 身内の人が中心になって追い詰めて、「石で頭を叩き潰す」やりかたで、その人を殺す。 心理的には恐ろしくきついやりかたをするはずなのに、フセインがそれを禁止する前までは、「名誉殺人」 はよく行われていたんだという。村中みんながPTSD になっても不思議じゃないのに
  • 「あいつらは文明とは無縁の連中だから」みたいに、彼らを例外処理しようにも、あの人達は動画を撮影して ネットにそれをアップしたり、携帯電話を使いこなして、写メールを撮ったりできる程度には「文明人」であって、 携帯電話を片手に持ちながら、反対側の手で石を持って、娘さんの頭を潰せる
  • ああいう人達を見ると、「人は人を殺せない」なんて考えかた自体、一種の教育による後天的なものなのかなと思う。 「人は人を殺せない」を、人類共通の資質として拡大するのは危険な気がする
  • 「取材」することなんてできないだろうけれど、アフガニスタンとか、イラクのゲリラとして 戦っている人達、今「テロリスト」として名指しされてる人達に、どれぐらいの割合でPTSD が発生しているのか、 興味がある。戦いかたもまるで違うから、単純な比較もできないんだろうけれど、発生頻度が少ないような気がする

正義の比較に意味はあるのか

戦争は地獄

  • ベトナム戦争のアスキーアートに出てくる海兵隊兵士は、人を殺すための訓練を受けて、 「あいつらは人間じゃない」なんて思いながら、遠くから機銃を乱射した
  • 人を殺すことに葛藤があって、それを乗り越えるための、人殺しになるための訓練が必要だった ベトナム戦争のアメリカ兵士と、「おまえは裏切り者だ」なんて定義されたそのとたん、 今まで一緒に暮らしてきた相手の頭を、石だとかバールのようなもので叩き潰して、 それを写メールに撮影したり、「襲撃成功」なんて勝利宣言したりできる人と、 どっちのほうが「人間的」なんだろうとか、考えた
  • 「内ゲバ」の昔、最終的に100人以上の人が犠牲になったらしい。 鉄パイプを片手に、撲殺に近い殺されかたをして、たぶんお互い見知った人間同士だったのだろうから、 「相手との距離」が極端に近い状況での殺人。あれに参加した人達は、その後PTSD を発症したりしなかったんだろうか
  • 「背中を押してくれる正義」の強さみたいなパラメーターが、各々背負ってる「正義」ごとにあるような気がする
  • 正義の名の下に、笑いながら人を殺して、そのまま葛藤なく日常に戻れる人が背負ってる正義は「強い」し、 アメリカ軍兵士みたいな、人を殺せるようになるために、巧妙にデザインされた訓練が欠かせなくて、 訓練を経てもなお、戦闘によるPTSD が問題になるような正義は「弱い」
  • お互いの「正義の正しさ」を、戦争で比較するのは、やっぱりナンセンスだと思う。正義の 力比べは、要するにお互い背負った「正義のイカレ具合」を比較しているに過ぎないわけだから
  • 軍隊は、葛藤なく人を殺して、戦闘のあと、葛藤を残すことなく日常に帰るような兵士を求めて、 そういう訓練を作り出す努力をしている。で、今のところはまだ、それを実現するに至っていない
  • 軍隊のやりかたとか考えかたは、「軍隊が人を殺す装置である」という前提を受容する限りにおいて、 最大限に人間的であるような気がする
  • 葛藤なく人を殺して、葛藤なく日常生活に戻れる人が、たしかにいる。「あいつは裏切り者だ」の 号令一下、誰かをバールで撲殺して、人を殺したその手を掲げて、何ら葛藤なく「戦争反対」を叫べる 人達のマインドセットは、軍隊が求めている「理想的な兵士」の正解に、たぶん一番近いところにある

「人間的」ってなんだろうとか、番組見てちょっと思った。

2008.09.06

人体のアナロジー

勤勉さとか、専門家とか、成果主義とか。

有能さ

  • 細胞にとっての「有能」「無能」というものは、分化度に相当する。「有能である」ことは、すなわち「それ以外のものになれない」ということを、必然的に意味する。だから何にでもなれるES細胞は、それ単体ではもっとも無能な細胞だし、思考の一翼を担う神経細胞、外敵から身を守る皮膚や白血球、全ては専門家であって、一度専門家になった細胞は、他の細胞に変化することは、原則出来ない
  • 「本来そこにいる能力を持たない人がそこにいる」ことは、人体でもときどき起こる。胃の粘膜内に腸の粘膜が生えてくる「腸上皮化生」とか、脾臓がいくつかに分かれて、他の場所に生えてくるとか。もちろんそんな細胞は、全くの役立たずであったり、時には潰瘍の原因になったりして、必然的に弱点となる。ミスマッチが「思わぬ長所」を発揮することは、生体ではまずありえない

勤勉さと発癌

  • 細胞にとっての「勤勉さ」というものは、恐らくは分裂速度に相当する。細胞もまた、夜になると「休む」。分裂は日中のほうが勢いがあって、夜間は落ち着く * 24時間働いて、分裂を止めない細胞の代表は「がん細胞」であって、正常な細胞から見れば、細胞周期に同調しないこと、勤勉でありすぎることは、むしろ病的なものに見える。役に立たない「勤勉な無能」は、やがて系全体を滅ぼしてしまう
  • 腸上皮化生、本来その細胞がいるべきでないところに発生した腸粘膜は、癌の原因になりやすいことでも知られる。社会にこじつけると、「無能を勤勉で補う」ことが、結果として癌化につながるようにも見える

幸福の所在みたいなもの

  • 細胞が「有能で」あろうと志向したら、専門家を目指さないと、系に貢献出来ない。その代わり、人体においては「専門家だから価値がある」なんてことはなく、皮膚の細胞も、白血球も、専門分化がもっとも進んだ細胞であるにもかかわらず、寿命は短い。「代わりはいくらでもいる専門家」は、人体においても、役に立った後、短時間で使い捨てられてしまう
  • 「報酬」に相当する、栄養だとか血流をもっとも豊富に受けている細胞、たとえば神経細胞とか、腎臓の細胞は、あれは「大切にされている」と言うよりも、むしろ「能力の限界まで酷使されている」という見かたのほうが正しい。余分な栄養を蓄えるのは脂肪組織だけれど、あの細胞にしても、「贅沢をしている」のではなく、「そういう仕事をしている」だけに過ぎない

生体は価値判断を行わない

  • 人体は価値判断を行わない。有能だとか、重要だとか、それは系を外から観察した外野の投影であって、人体はたぶん「神経細胞さんはすごいな」とか、考えてない
  • どの細胞にも代わりはいるし、一部が抜けても他が代償する。蜂の巣社会の「女王蜂」に相当する細胞は、人体という小さな社会においては存在しない
  • 女王蜂みたいな存在に価値を見出す視点も、もしかしたら観察者の投影なのかもしれない。君臨する「女王」という見かたもできるけれど、裏を返せば女王は、巣の中で「もっとも酷使されている蜂」という見かたもできるから

2008.07.05

「元気玉」の社会的有用性

「外傷がひどくて血が足りません。知りあいを当たって、A 型の血液を集めて下さい」なんて、 ご家族に協力を依頼できた時代は、あるいは医師-患者間のトラブルは少なかっただろうなと思う。 その頃はまだ、そこに集まった全ての人が、患者さんの治癒に貢献できたから。

重症の患者さんが運ばれてくる。治療だとか看護、書類仕事なんかを含めて、今は病院が全部やる。 ご家族はその間、待っていることしかできない。神様なんていなくなって久しいから、祈ることもできない。

「その場にいながら、貢献できることが何もないという状態」は、顧客を不安定な気分にさせる。 提供されるのは完璧なサービスだけれど、「何もしないで黙って待つ」に我慢できなくなった顧客は、 今度はきっと、そのサービスそれ自体を叩きはじめる。

悟空は幕引きに元気玉を使った

漫画「ドラゴンボール」の終盤、魔神ブウを倒すのに、悟空は「元気玉」を使った。

物語の設定上、あの技が最強ではあったんだろうけれど、地球にいる全ての人が悟空に協力しないと 成立しない、「元気玉」は、政治的にも合理的な選択だった。

物語のラストを少しだけ変えて、最後の戦いに「元気玉」を持ち出さないで、 悟空個人の力で戦いに決着をつけてしまったら、地球で待っている「普通の人」達は、 きっと主人公達に文句を言ったのだと思う。

「戦いのあおりを受けて財産を失った」とか、「死ぬかもしれないという恐怖を一方的に強要された」とか。 それは命懸けて戦ってたドラゴンボール世界の主人公にとっては、たぶん理不尽なクレームが殺到する。

彼らはいいサービスを目指してたんだと思う。

地球に対する脅威を排除するために、みんな頑張って修行した。 主人公達は強力で確実な「サービス」を提供できるようになったけれど、あまりにも強くなりすぎた。 あの世界ではもはや、「一般市民」には戦いに貢献できる要素がなくて、彼らは地球が吹き飛んでも おかしくないような戦いを傍観しながら、それでも待つことしかできない。

それがどんなに命がけの状況であったとしても、傍観者は退屈して、 自分にもできる関わりかたを探し始める。「元気玉」というのは、そんな傍観者に 「関わる手段」を提供して、主人公への支持を維持するための、優れた構造を備えた技だった。

ウルトラマン世界では、ウルトラマンだとかウルトラ警備隊だとか、一定期間ごとに星に帰ったり、 組織ごと解体したりして、市民が「飽きる」ことを防いでいた。

初代ウルトラマンが、ゼットンとの戦いを超えて勝ち続けていたのなら、 最後の強敵はたぶん、「一般市民の声」になる。 ウルトラ警備隊には「社会的責任」が求められて、壊れた建物の賠償請求が 行われたり、怪獣を倒すことに対して、愛護団体から非難の声が上がったり。市民の声は、 怪獣以上の脅威となって、ウルトラマンを苦しめたはず。

自分たちの仕事は最低限行いつつ、そこで働く人達が社会のインフラ認定される寸前で ウルトラマンは星に帰って、組織も解体される。しばらくしてまた怪獣がやってきて、 新しいウルトラマンが赴任して、サポート組織もまた作られるけれど、たまに昔のOBが天下ってたりする。

サービスの受け手を「観客」にしない、当事者意識を保ち続けるためのやりかたとして、 「交代するウルトラ超人」というシステムは、上手に機能しているように見える。

道徳のこと

医療機関が包括的なサービスを目指す方向に舵切ったのが、なんか間違えだったのだと思う。

治療とかリハビリ、身の回りの世話だとか退院先の施設探しだとか、利用可能な医療補助の案内だとか、 今の病院は、患者さんに関わる全てのものを提供できる。サービスを提供する医療機関の側も、 もちろん患者さん達もまた、そんな「完璧なサービス」を志向して、今までその方向で物事進めてきたはずなのに、 「現状に満足している」なんて声は聞こえてこない。

病院が提供できるサービスが不完全だった昔、たとえばそんな不完全さを補完する機能として 「付き添いさん」なんて仕事があった。入院すると、どこからともなく付添人を派遣する会社の人が 病棟にやってきて、日当いくらか支払うと、患者さんの身の回りの世話だとか、食事の介助だとかを手伝ってくれた。

あの状態は、たぶん誰もが「通過点」だと思ってて、そのあとしばらくして「完全看護」なんて言う考えかたが 提唱された。看護師さんの数が増えて、「付き添いさん」の仕事は病院から無くなったけれど、 患者さんが病院に入れるクレームの数は、サービスが「良く」なって行くにつれて、もしかしたら増えた。

サービスが不完全だった昔、正義とか道徳とか、訴える人少なかった。

サービスよくなって、患者さんだとかご家族だとか、付きそう人どうしようだとか、 血液どうやって集めようだとかそんなこと考える必要が無くなったら、今度は「医師の物言いが気にくわない」だとか、 おむつ交換するときに「患者さんに対する敬意が感じられない」だとか、正義文脈のクレーム増えた。

パズル生産力と系の安定

たぶんパズルが無くなると、系が不安定化してしまう。

サービスが安定に、包括的になりすぎてしまうと、 そのサービスはインフラ認定されてしまって、顧客は当事者から傍観者へと変貌する。やることが無くなった 顧客は、何か別のパズルを探して、俺様ルールの道徳ごっこに精を出す。サービスには、 能力以上の完璧さが求められるようになって、細かな瑕疵だとか、サービスとは無関係な争いの調停だとか、 サービスを提供する側が本来意図していなかったようなことが、クレームになって飛び出してくる。

「完璧なサービス」を目指す態度それ自体にどこか誤謬があるんだと思う。

「みんなが貢献できる」状態、サービス黎明期の、不安定さを 顧客側の工夫でどうにかしていたような、インフラが不安定だからルールもなくて、 みんなが「穏やかな無法地帯」を受け入れざるを得なかった状態というのは、 恐らくは通過点なのではなくて、そこがゴールなんだと思う。

パズル生産力の上限は、そのサービスの規模を決定する。

包括的な、「完璧なサービス」は、あるいは生産性が高いのかもしれないけれど、そんなサービスはたぶん、 顧客側から見たパズル生産性が下がってしまい、系が不安定化して、それ以上に大きくなれない。

「付き添いさん」が病院にいた昔、たぶん病院というサービスが選択すべきだったのは、 付き添いという業界を公認することと、役割をきちんと切り分けて、「そこから先は病院じゃなくて別の業界の仕事」と 宣言することだった。

病院を中心にした系が、安定したまま大きくなっていくためには、たぶんパズル生産性を維持するやりかた、 問題を切り分けていく態度が必要だった。付き添い業務が不十分ならばそこを切り離して、 たとえばリハビリテーションに対する需要が高まるようならそこをまた切り離して、 いくつもの「業界」を独立して生み出しながら、自分たちは病気の治療にリソースを集中していくやりかた。

今からそれができるのかどうか分からないけれど、病院がこれから先、いくら「完璧」目指しても、 その先に顧客満足は見えてこないと思う。

2008.06.16

事象が社会と接続される

秋葉原の無差別殺人事件を見ていて思ったこと。

青年が「巖頭之感」という遺書を残して華厳の滝に飛び込んだ、昔の事件を思い出した。 個人と社会とを切断することに失敗して、事件が社会に接続されてしまった例として。

行動規範が一人歩きする

その人が亡くなった理由がよく分からなくて、何だか哲学的な遺書が残って、 メディアだとか、権威だとか、いろんな人達が、遺書の解釈だとか、評価だとかを 行った結果、単なる自殺は社会に接続されて、自殺という行為それ自体が、 新しい行動規範を生み出してしまった。

悩める青年は、自殺という手段を通じて、自らの悩みを世に問うべきだ」みたいな ロールモデルが一人歩きした結果、そもそも死ななくてもいい人が、「死ぬべき」なんて 社会の気分を受け入れて、ずいぶんたくさん亡くなったのだと思う。

最近になって、あの人が自殺したのは、本当は恋煩いみたいな個人的な悩みが原因であったなんて 結論が出たけれど、当時の政府は、それがたとえ欺瞞情報であったとしても、「あれは個人的な事件である」と 早いうちから宣言を行って、遺書を残して自殺した学生を、社会から切断するべきだった。

要人を狙っても社会は変わらない

少し前までのテロルというのは、特別な集団が、社会の特別な人達に対して行使する暴力だった。

「よど号」みたいな政治テロだとか、サッチャー政権時代に要人を狙った爆弾テロだとか。 事件は大きく報道されたし、巻き込まれて犠牲になったかたも多かったのだろうけれど、 大事件であった割には、社会はあんまり変わらなかった。

テロルというのは、社会を一度崩壊させて、再起動がかかるときに自らの考えかたを そこに織り込むのが基本。まずは社会そのものを壊さないと、暴力の効果が出ない。

少し前までの武装テロというものは、「特別な人達が、特別な人を狙った事件」であったから、 事件が起きても、それは速やかに社会から切断されてしまった。

社会を揺さぶる手段として暴力を考えるときには、暴力それ自体の大きさは、たぶんそんなに重要じゃない。 むしろ大切なのは社会との「接続度」であって、社会との接続が為されていない暴力には、 社会を揺さぶる力は発生しない。

政治家であったり、経済界の要人みたいな人達は、社会の中では特別な人間。 明確な武装闘争の思想を打ち出したテロリストというのも、また特別な人達だから、 裏を返せばたぶん、両方とも、社会との切断が容易な人物でもある。

特別な連中が、社会の特別な人達に対して暴力を行使しても、市民はそれを見守るだけで、 「観客席」から動く必要を感じない。「あの人達は特別」と思われたその時点で、武装闘争は 社会から切断されていて、切断された暴力は、もはや社会を揺さぶる手段としての意味を失っていた。

テロルの手法は、だから「改良」されて、今は市民を狙った無差別テロが主流になったし、 テロルを行う人達もまた、昨日までは日常生活を営んでいた「一般市民」であって、 政府の無策で生活ができなくなったから、不満を抱えていても、政府が何もしてくれないからこそ 暴力が発露する以外の選択枝が無くなったのだと宣伝されるようになった。

アメリカなんかは、テロルを行う人達を、あたかも怪物の集団であるかのように広報するし、 イラクで自爆テロを行う人達なんかは、テロ直前のビデオメッセージなんかを通じて、 自分たちの「普通さ」を強調しようとする。

体制側は、テロリストを社会から切断しようとして、テロリストの側は、自らを社会と接続しようとする。 今の「テロとの戦い」というのは、そういうことなんだと思う。

接続しようとする人達

事実が出てくるのはこれからなんだろうけれど、秋葉原の無差別殺人は、 たぶんあれはテロルではないのに、現状は「成功したテロル」、 「虐げられた普通の人」が、市民に暴力を行使して、社会が暴力で揺さぶられる、 それこそ武装テロをやってたような人が見たら、「こうしたかった」お手本みたいな状況になっている。

事件が社会に勝手に接続されて、政府だとか、企業だとか、様々な人達が、 個人的な暴力に対して、社会として反応している。これはよくないことだと思う。

社会の状況がどうであれ、「殺人を予防する」という立場からは、 政府はあれを単なる殺人事件として処理しなくてはならなかったし、 派遣労働の規制とか、労働者の保護だとか、たとえそれが緊急に必要なことであったとしても、 それは事件とは全く無関係の政治の問題として行われるべきだった。

メディアは今回、犯人の異常さだとか、特別さみたいなものを強調しないで、 むしろ犯人が追い詰められた社会的な状況だとか、派遣労働者の置かれた状況だとか、 事件を積極的に社会と接続しようとしていた。

ねつ造上等の、スキャンダル中心主義的な報道姿勢に批判的な人が増えたからなのかもしれないけれど、 もしかしたら、マスコミのそんなスキャンダラスな個人を強調する報道姿勢は、社会の安定装置として、 事件を社会から切り離す道具として、今まではそれなりに機能していたのかもしれない。

ロールモデルは伝播する

体験というものは、もちろんその人の個人的なものだけれど、 体験の解釈というものは、しばしば容易に他者の浸食を受けてしまう。 星の見えかたなんかは、本来はみんなバラバラだっていいわけだけれど、 星座の知識を得た人は、ランダムな星の配列が、もはや意味を持った星座にしか見えなく なって、他の選択枝を失ってしまう。

「巖頭之感」が社会と接続されて、漠然とした悩みと、自殺という行動とがロールモデルとして 一人歩きしたように、事件を社会背景から解釈しようとする試みそれ自体が、個人的な暴力を、 積極的に社会に接続して、もしかしたら新たなロールモデルを生む。

事象の解釈は、あくまでも個人的なものだから、それが規制される理由なんて無いけれど、 少なくとも「犠牲者がこれ以上出てほしくない」と思う人とか、「体制」側の、政府や企業の人達は、 あれを個人的な、特別な事件として、社会から切断して考えないといけないのだと思う。

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