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2009.10.12

「当直医学」を作ってほしい

できれば雑誌の連載とか、なにか公的な文章として残る形で。

「総説」は役に立たない

患者さんはみんな違うから、医療という分野においては、 議論の土台になる「一般」というものが、定義できない。

病気についてはだから、「一般的にこうだと私は思う」という書きかたが難しくて、 どうしても、誰かの論文を引っ張って、「○○らはこう述べている」という書きかたしかできない。 どれだけたくさんの「○○ら」を引用したところで、その文章を書いた作者自身が、患者さんと当たって どういう治療を選択するのか、あるいはある病気に対して、「一般的には」どうやって対処するのが 一番無難なのか、読者として、一番知りたいことは、あんまり書かれない。

「エビデンス」なんかよりも、「言質」がほしいな、といつも思う。

論文どおりのやりかたを行うためには、その患者さんが、議論の余地なくその病気を発症している 必要があって、そういう人たちは、たしかに専門機関の先生がたも喜んでみてくれるんだけれど、 現場で問題になっているのは、もっとあやふやな、「正解」がどこにあるのか分からない人たち。

症状は明らかにあるんだけれど、原因が「どれ」とも断定できないような、そんな患者さんに対して、 「俺ならこうするよ。責任持つよ」なんて書いてくれたらすごくありがたいんだけれど、 そういう一言を探すのは大変で、「エビデンス」の時代になって、それはますます困難になった。

「問題」の裏に「責任」がある

恐らく世の中には、「問題」と「責任」とがセットになってる業界と、 両者が根本的に分かれてる業界とがあって、医療なんかは前者なんだと思う。

研修医向けの教科書に載っているような病気についてなら、たぶんどこの病院であっても、 似たような治療ができるだろうし、たとえ専門家がいなくても、検査の機械だとか、薬とか、 少なくとも日本なら、どこに行っても似たようなものは手に入る。

よっぽど特殊な病気でもない限り、たいていの病気については、 少なくとも教科書どおりの治療を提供することぐらいは、どこの病院でもできるはずなんだけれど、 専門技能を持たない医師は、今の時代、患者さんの病気に対して「責任」を負うことができないから、 専門機関に紹介される。

「紹介」という行為は、だから紹介する側からすれば「責任の移譲」であって、「問題の解決」それ自体は、 もはや紹介の理由にならない。

今仕事をしている人たちは、もちろんそんなことはとっくに分かっているはずなのに、 「大事なのは問題の解決それ自体であって、責任なんて考えたこともない」という建前が、 責任の議論をやっかいにしている。

「判断」のコストというか、リスクみたいなものが、どんどん上がっている。今はだから、 専門家の意見が本当に必要な、具合が悪いんだけれど原因の分からない人、 ある疾患が疑わしいのだけれど、症状が典型的でないから確定診断がつかない人ほど、 専門病院の受診が難しくなって、当直なんかでそういう患者さんを引き受けてしまうと、 そこから先、誰からも意見が聞けなくて、時々ものすごく困る。

こういうのやってほしい

具体的には「当直医学」という連載企画をやってほしい。若手がベテランに、 翌朝までの、当直の乗り切りかたを尋ねる企画。

ベテランに語らせてしまうと、これはもう、役に立たない自慢話になってしまうから、 形式としては、若手からの提案を、ベテランに訂正してもらう形にする。

たとえば「腹痛」というテーマに対して、「原因不明の腹痛は、補液と抗生剤、絶食だけでも、 一晩なら経過を見て大丈夫」という仮説を、若手からぶつける。

こういう仮説の根拠になる、腹痛の原因として考えうる疾患を列挙して、例外ケースを探して、 それを除外するための検査をセットにする。

こういう思考実験をすると、一つの症状に対して、ある検査を行って、いくつか特定の疾患を否定できれば、 あとはこれとこれをやっておけば、朝まで様子を見て大丈夫、という、一般ルールみたいなものが作れる。 若手が「ルール」を作って、これをベテランの先生に添削してもらう。

「そんなのはケースバイケースで答えられない」とか返すベテランはチキン野郎認定で、 例外ケースの抜けとか、根拠になる論文の補完なんかをベテランに行ってもらえば、 最終的に、「腹痛の対処については、あの有名な○○先生お墨付のやりかたでいける」なんて結論が得られる。 ○○先生が死ぬまで、腹痛の法廷仕事は、その人に任せればいい。

頭痛とか腹痛、意識障害、呼吸困難、麻痺、症状ごとに、「若手のルール」と「ベテランの返し」と、 一つの結論を目指してぶつけ合う企画を続ければ、そのうちたぶん、「当直ならこうすればいい」という、 症状ごとの、一連の対処リストができる。

悪までも「翌朝まで」限定だけれど、こういうことを2年もやれば、内科当直というお仕事からは、 「判断」が追放される。医師に要求されるのは、行動と、検査の解釈だけになるから、 その地域にある施設で、どんな症状の患者さんなら受けられるのか、ある程度数字で測定できるようになる。

流れとして、こういうのは間違ってないと思うんだけれど、みんな責任が嫌だから、 あるいはそもそも、現場には「問題」だけがあって、「責任」なんてないことになっているから、 やっぱりこういう流れにならない。問題の解きかたが、どれだけ詳細に、「エビデンス」を積んで示されたところで、 責任の引き受け手がいないのなら、問題はやっぱり解決しないのに。

救急を受ける病院が本当に減った。あるいは「分からない人」を受けてくれる専門施設も。

こういうのはたぶん、解決する方法がちゃんとあるのに、上の人たちがそれをやろうとしてくれないから、 現場から黙って人が去ってるんだと思う。

「いわゆる当直」の技能は、もう実質失われているようなもので、うちに手伝いに来て下さっている当直専門業務の 先生がたも、みんな50台。こういうのは体力のある若い人の領域なのに、いまはそもそも、働き手がいないのだと。

ベテランから何かを「引きずり出す」企画というのは、やったら絶対に役に立つとは思うんだけれど、 ベテランの人を、いわば罠にはめるようなものだから、やっぱり難しいとは思う。

それでも責任だけが、「ないこと」にされたまま、必要以上に重くなってしまった現在、 それが軽かった昔を知っているベテランの知恵を受け継いでいかないと、もう後が続かないと思う。

2009.07.21

Open Office で症例報告スライドを作る

だいたい10枚、急に頼まれたときなんかに、最小限の手間で、平凡な資料を作るやりかた。

表題、入院時病歴、理学所見、検査データ、画像所見のスライドが2枚ぐらいで、 だいたい7枚。あとは経過表を作って、考察を2枚ぐらい入れると、だいたい10枚になる。

病歴スライドと理学所見

これはカルテを引き写すだけ。

コツというか、姑息な知恵として、「症例」「現病歴」「既往歴」みたいな 見出しと、それに続く本文とを、全て独立したテキストボックスで作っておく。 あとからそれを、スライドを「表示->グリッド線を表示」にして、 適当に見栄え良く配列しておくと、あとから上司に「ここを直せ」なんて言われたとき、 レイアウトの狂いを最小限にできて便利。

検査データ

「エクセルで作ると便利」という意見を以前にいただいたことがあって、電子カルテ の入っている病院だと、検査データをCSV形式で読み出せるから、エクセルとの親和性が 高いのだけれど、うちの施設にはそんなものはない。

で、必要な検査データも限られているから、これは全部手打ちしてしまったほうが、 結局速いような気がしている。

これもまた、一つのテキストボックスに全ての数字を入れてしまうと、 あとからレイアウトの収拾がつかなくなってしまう。

だからたとえば、「Na 139 meq/l」なんて記述は、一つ一つ別のテキストボックスに収めておいて、 「血算」だとか「生化学」なんて見出しと同じく、全部ばらばらのテキストボックスとして配列する。 あとから「テキストボックスを複数選択後右クリック->配列」、または 「分布」を用いることで、数字を見栄え良く並べられる。

表作成機能を使うとか、もっと賢いやりかたはあるはずだけれど、 こういうのは外野の意見でどんどん体裁が変わるものだから、 一番馬鹿っぽいやりかたしたほうが、変更しやすいような気がする。

Open Office は、テキストボックスを複数作ると、そのうち画面の任意の場所を 右クリックすると、勝手に新しいテキストボックスを作るようになるので、 こういうやりかたをするのに少しだけ便利。

経過表の盗みかた

時系列に沿って、使った薬の量や、人工呼吸器の設定、 患者さんの体温だとか血圧、症状なんかを並べた「経過表」というものが、 作る上で一番面倒くさい。

発想は大変だから、まずは「盗む」ことを考えたほうが速い。

  • PubMed を使う:「Limits」を選択して、「links to free full text」 「Case Reports」にそれぞれチェックを入れてから病名を検索すると、 PDF がダウンロード可能な症例報告だけが残る。 症例報告には、たいていの場合経過表がついてくるから、それを見て考える
  • Google を使う:Google のイメージ検索で「clinical course」という言葉を検索すると、 いろんな病気の臨床経過表が引っ張れる。それを参考にする
  • PowerPoint 検索:病名と一緒に、「.ppt」という文字列を検索すると、 パワーポイントプレゼンテーションだけが検索できる。 運がよければ、「そのものずばり」のスライドがダウロードできる

Google の画像検索が、たぶん一番簡単だと思う。以前よりも患者さんの個人情報にみんな 配慮するようになったのか、パワーポイント検索を行っても、症例報告スライドが手に入りにくくなった。

作りかた

例によってこんなスライドを作る。

20090206083852

以下のものが作れれば、同じスライドが作れる。

  • 治療経過を書くための横棒グラフ
  • 日程や単位を記載するための目盛り軸
  • データを視覚化するための折れ線グラフ

横棒グラフ

治療薬や酸素投与量を書くときに使う横棒グラフは、ただの四角形。

下段のメニューから四角形を選んで、適当に大きさを調整して配列する。大きく作って、 「右クリック-> 配列」で並べたあとに「右クリック->グループ化」を行えば、 拡大縮小できる。

Open Office は、四角形の上にテキストボックスを重ねると、文字が四角形に 勝手に一体化されてしまうことがあるので、別の場所にテキストボックスを作って、 最後に重ねたほうがいいかもしれない。このへんの挙動は、Power Point と 少し違うような気がする。

目盛り付きの縦軸/横軸

折れ線グラフの目盛り軸を以下のように作る。

  1. まずは小さな横棒をひいて、それを必要な数だけコピーする。これが目盛りになる
  2. コピーした横棒を、これも適当な間隔を開けて、何となく縦に並べる
  3. 全ての横棒を選択-> 右クリック -> 配置 ->右揃え で、横棒が縦一列に並ぶ
  4. もう一度全ての縦棒を選択 -> 右クリック -> 分布 -> 縦 で、等間隔に並ぶ
  5. 等間隔に並んだ目盛りにくっつけるように縦棒をひく。これが軸になる
  6. 最後に全てを選択 -> 図形の調整 -> グループ化 で一つの固まりにする

グループ化を行ったあとは、長さや幅が自由に調整可能な目盛り軸が得られる。少し大きめに作って、 グループ化したあとで縮小すると、小さな目盛り軸がきれいに作れる。 あとはテキストボックスに数字を入れて、それも「右揃え->分布」を用いて 縦一列に並べてやると、目盛りと数値の入ったグラフ軸が作れる。

折れ線グラフを書く

体温変化をスライドにするときとか、検査結果を図表にする時は、全部折れ線グラフのお世話になる。

エクセルにまめにデータを打ち込んでいる人なら、そもそも慌てる状況にならないんだろうけれど、 急いでいるとき、とりあえずそこそこ見栄えのいい図をでっち上げるときには、 全部フリーハンドで、それっぽいグラフを描くことになる。

調整可能な折れ線は、下段メニューの「曲線」の中から、「多角形」を選択することで得られる。

マウスをドラッグして、時々クリックするだけで、関節のついた折れ線になる。最後にダブルクリックを行うと、 折れ線はそこで終了する。これは「関節」のついた、調整可能な折れ線なので、あとは折れ線を選択後、 「頂点の編集」で、何となくそれっぽい形を作れる。

Open Office の頂点移動は粗いんだけれど、Ctrl キーを押しながらマウスをドラッグすると、 折れ線の微調整が行える。

それっぽいグラフが書けたら、目盛り軸と折れ線とを全て選択して、右クリック->グループ化 を行っておく。

ラフスケッチの効用

マイクロソフトのPowerPoint に比べると、OpenOffice のそれはわずかに使いにくいというか、 こなれていない印象があるけれど、簡単なスライドならば、もう十分実用範囲に思える。

昔こういうのを作っていた頃は、最初からパワーポイントを手打ちしていたんだけれど、最近はたいてい、 そのへんのメモ帳に、ボールペンで下書きを殴り書きしておいて、それを「清書」するかんじでPC を使っている。

パワーポイントみたいなソフトは、清書するための道具としては相当に優れているんだけれど、 頭の中にあるものをまとめる道具としては複雑すぎるというか、なんだかピンセットで家を建てるような ところがあって、「作りながら考える」やりかたをすると、かえって時間がかかる。

自分が作るのは、せいぜい病歴だとか検査データの数字を配列したり、そこにX線写真の画像を張り込む程度で、 複雑さの程度は浅いんだけれど、こんなものでも、「絵コンテ」みたいなものがあると、作業が簡単になる気がする。

ラフな下書きは、もちろん適当に描くだけなんだけれど、ラフすぎるとうまくいかない。

それが文字なら、最悪それだけ読んでもスライドが作れる程度、写真なら、それが胸の単純写真なのか、 CTスキャン画像なのか分かる程度には、詳しく書かないといけない。あとから清書するからといって、 めんどくさそうなところをラフにやり過ぎると、今度は実際スライドを作るときに、 ラフがなんの役にも立たなくて、愕然とする。

ラフを描くときには、「めんどくさいな」とか、「ここはどうせ清書するときに作り込むから」とか、 自分に言い訳する場所が、たいていの場合、スライドを作るときに一番面倒な部分になる。 ボールペンで下書きするときに、ここをおろそかにすると、だからラフの意味がなくなってしまう。

「崖の上のポニョ」のDVD には、絵コンテのおまけがついてくる。

オープニングの、海の生き物が画面いっぱいにあふれている様なんかは、 絵コンテには、そのまんま全部の生き物がびっしり描かれているし、部屋の中で無線機を使う場面では、 机の上に並ぶ無線機のメーターだとか、本棚の本、たしか夏目漱石の本の背表紙まで、きちんと描かれている。

ああいうのを、たとえば「海の中にクラゲがびっしり」だとか、「雑然とした机」なんて言葉でごまかして、 絵コンテをいいかげんに済ましてしまうと、たぶん現場が混乱するんだろうし、 ラフを描く段階で「面倒くさいな」と思うその場所は、清書するときにラフがあると一番助かる場所であって、 「頭の中身を画像化すること」というのは、要するにそういう作業なんだと思う。

2009.04.15

ドッグフードを食べる

コンピュータープログラムを開発する人たちには、開発途中の未完成なプログラムを無理矢理使って仕事をする 時期というものがあって、それを「自分のドッグフードを食べる」なんて表現するらしい。

自分が今作っているものは、コンピュータープログラムほど複雑なものではないし、やっていることは、 開発というよりは「切り貼り」のほうが近いのだけれど、とりあえず出来上がったものは、 やっぱり「ドッグフード」であって、使いやすいものを目指すには、それを自分で食べないといけない。

使って分かったこと

今回作った「テトリスみたいな鑑別診断表」は、たぶんそこそこ見やすいような気がする。

患者さんがいて、症状を抱えていて、特定の疾患を狙ったわけではないけれど、とりあえず何かの検査結果が その人にくっついているという状況は珍しくなくて、とくに地域で開業している先生がたから紹介された患者さんは、 たいていの場合、たくさんの検査結果を抱えたまんま紹介される。

表を使うと、無目的に提出された検査を使って、消去法みたいなやりかたで鑑別診断を絞り込むことができて、 特定の病気に近づくだとか、あるいはもっと広い鑑別診断を探しに行くだとか、1枚の表を、複数の目的に 使い回すことができる。

こういう表はその代わり、表の中に、相当広い範囲の鑑別診断を放り込んでおかないと、怖くて使えない。

病気というのは、2割の病気が全体の8割を占める構造をしているから、2割を知っていれば、たしかに8割に対応できる。

ところが鑑別診断が問題になってくるケースというのは、2割の自明な疾患は、そもそも考慮の対象外に なっていることが多くて、診断表は、想定していたよりもずっと広い範囲で鑑別診断を一覧できないと、 例外が多すぎて役に立たなかった。結局全部書き直した。

被ツッコミ耐性について

何か大きな規模の文章を作るときには、「総論」と「各論」を分離しておくこと、医療なら「病名」に当たる、 ひとかたまりになった知識の「置き場所」をきちんと定めて、それを文章内部で相互参照できるようにしておくと、 あとからいろいろ突っ込まれたとき、訂正が簡単になる。

未完成な「ドッグフード」を同僚の先生がたに読んでもらって、 「内容には全く賛同できないけれど趣旨は良く分かる」なんて 叱られながら、いろんなところを直してもらうこの頃。

これをやるとき、せっかくいただいたツッコミに対して、文脈上直せない場所を作ってしまったり、 あるいは考えかただとか、結論が彼我で分かれる場所が生じたとき、文章の任意の場所を、 自由に切り離せるようにしておくと、「直し」を受け入れやすい。

膨大な前書きがまずあって、そのあと前1/3を「総論」が占めて、さらに各論が続くような構造を作ってしまうと、 専門家の先生がたも、いちいち「前書き」から読まないといけないから面倒だし、総論にツッコミを入れると、 巻き添えを喰って各論が1章丸ごと消し飛んだりすることがある。

全ての章立てを「症状」ごとにするやりかたは、どこを消し飛ばされても全体の構造が揺らぎにくいので、 いろんな先生がたから叩かれながらも、叩かれたぶんだけ、いい方向に進めやすいような気がする。

ドッグフードが料理になる日

とくに「総合診療」なんて科目を志す人たちは、遠回りかもしれないけれど、やっぱり自分の教科書を 作るべきなんだと思う。

何かそういうものを文章にして持っていると、自分が今何を知っているのか、どの分野に詳しくて、 どの分野に疎いのか、他科の専門家から見て、その詳しさだとか、疎さというのは、どの程度 客観性があるものなのか、いろいろ指摘をいただけて、面白い。

今自分が作っているものは、たとえばこれをルーズリーフに両面印刷して、ファイルに綴じると600円ぐらいかかる。 誰か上の先生に読んでもらうときには、もちろん新品を渡して赤を入れて貰うわけだけれど、 いくつかの添削を貰うために、いちいち1冊潰すのは無駄なようでいて、「他人様の意見が500円足らずで買える」 というのは、ものすごく安い買い物をしているのだと思う。

誰かの意見を「買う」というの、はすごく難しい。お金を払って講義を聴いても、それは万人向けの内容であって、 講師の人が自分の「穴」を埋めてくれるのとは、ずいぶん違う。話を聞くだけならタダ、なんてことは全然なくて、 意見をもらう対価として、自分で何か書いて、印刷から製本から全部自前というやりかたは、 面倒なようでいて、たぶん支払ったコストに十分見合うだけのものが得られるような気がする。

今のPCは早くなったし、LaTeX はやっぱり有用だよ、と一応勧めておく。

2009.04.06

勉強が楽しくなる

このところずっと、内科の勉強が楽しくて、他のことが手につかない。

そもそもが勉強嫌いで、昔は論文を一生懸命読んだけれど、最近はそれも面倒で、 せいぜいが日本語の教科書を月に何冊か、面白そうな分野をつまみ食いする程度だったのだけれど、 今月に入ってからは、けっこう厚い英文教科書を、飽きもせずにずっと読んでいる。

作るために教科書を読む

教科書を自分で書くメリットというのは、意外なところにあるものなんだなと思う。

自分が今作っているものは、何か当てがあるとか、依頼されてやっていることではないのだけれど、 それでも一応、誰かに向けて、何かを伝えたいからこそ、教科書というものは作られる。

穴だらけの知識を開陳したところで馬鹿にされるだけだから、教科書はまず、自分の知識を言語化して、 他の教科書と比べる必要がある。書いてみて、比べてみて、はじめてそこで穴が見える。

穴だらけなのを見るのは落ち込むんだけれど、穴が埋まると、 なんだか自分が書いているものが「強く」なっていくような気がして、面白い。こういうのはたぶん、 RPG で自分のキャラクターを育てるのに似てるんだと思う。

目的もなく、あるいは「勉強のために」、他の人が書いた教科書を頭から読むのは、 たぶん間違っている。特に読者が、ある程度その分野に明るい人ならば。

頭から読んだ教科書は、目が滑って、読むのに努力がいる割には、集中できない。

教科書には「総論」部分が必ずあって、作者の考える総論を、その人が知識を整理するためのやりかた みたいなものをまず受け入れてからでないと、各論が読めない構造になっている。ある程度その分野に明るい人は、 たいていの場合、自分なりの理解のやりかた、知識の置き場所みたいなものがすでに出来上がっているから、 教科書を読むとき、「総論」部分の構造が異なっていると、それが障害になって、集中できない。

自分なりに教科書を書いて、頭の中にある「総論」部分を言語化しておくと、自信のあるところと、 穴になっているところが明らかになって、見通しがよくなる。教科書を読むときにも、自信のある場所は批判的に、 知識がほしい場所は、コピーできそうな「おいしい」記述を探すために、場所ごとに読みかたを変えられる。

読むときに目的が生まれるから、集中力が続く。

見出しシールは大切

他人様の教科書を読むときには、自分なりの見出しをつけるべきと思う。

今自分が作ろうとしているのは症状別のカンニングペーパーみたいなもので、まずは症状があって、 そこから連想しないといけない「死ぬ病気」を列挙して、それぞれの病名に対して、 ベテランの悪知恵みたいな、統計的な根拠によらない、「効く治療」をメモしてまとめている。

自分にとっては「症状」が総論だから、興味は必然的に、「死ぬ病気」の見分け方と、回避のしかたに集まってくる。

教科書の目次を読んだところで、目当ての知識がどこにあるのかはあやふやで、 そういうのをいちいち探していると、そのわずかな手間が積み重なって、嫌になる。

今読んでいる教科書には、見出しシールが60枚ぐらい、自分が興味のある病名の、 総論抜きの「診断」のところに貼ってある。そこを引っ張れば、目次を見なくても、 自分の知りたい知識が飛び込んでくる。

見出しシールを張るのは面倒なんだけれど、役に立つ。

教科書というのは、まず読んで、今度は自分の文章に置き換えて、 あやふやなところをまた読んで、と、何度も何度も同じ場所に立ち返る必要があって、とくに 教科書に求める目的が、それを書いた人とは全く違うところにあるときには、いろんな記述を 並べて見直して、共通している記述を探したりする作業が欠かせない。

見出しをつけておくと、目次からページを探す、わずかなその手間がなくなって、 教科書を広げ直すときの閾値が下がる。薄い教科書ならそれでも、たいしたことがないんだけれど、 A4版1600ページの本は、見た目はもはや電話帳で扱いにくいから、わずかな手間が大きな差となって現れる。

本というメディアにとってと特等席は、表紙と裏表紙、ラベルシールを貼れる小口のところで、 こうした場所は、本を開かなくても、そこに書かれていることを読むことができる。

たいていの教科書で、表紙と裏表紙にはせいぜい題名しか書かれていないし、小口に専用のシールを 用意している教科書も少ない。これはもったいないと思う。

やっぱりLaTeX

「優れた臨床医を目指すなら、君もLaTeXぐらい嗜んでおくといいよ」なんて、研修医を何人か 騙したことがあるけれど、やっぱり今でもLaTeX は役に立っている。

断片を集積した、穴だらけの知識であっても、それに目次がついて、索引がつくと、 とりあえず教科書っぽい見た目になる。一度そうしたものを作って、いろんな教科書とあたりながら、 自分の教科書を「育てて」行くやりかたは、胡乱なようでいて、正解に近い気がする。

勉強に目的を持つこと、知識のインプットよりも、むしろ何かのアウトプットを志向したやりかた、 不完全でもとりあえず何かつくって、できればそれを他人様の目につくところに置いておく、 というプレッシャーをかけるやりかたを目指すときに、それ専用の道具を持っておくと、 きっと勉強の効率が上がる。

インストールもずいぶん楽になっているみたいだから、新人の人は試してみるといいと思う。

進捗状況

とりあえずCMDT2009年版を読み終え、今内容の整合をとっている最中。呼吸器関連のところまで終了。 たぶん1週間ぐらいで、訂正が一巡すると思います。

PDFが新しい版にさしかわっているので、ご意見いただければ幸いです。

2009.03.16

検査に対する富豪的態度

たとえばCTスキャンのデータ、人体の、何十枚もの「輪切り」写真から、 あらゆる異常を探し出すためには、病気に関する知識、人体の解剖に関する専門的な 知識は欠かせない。

ところが「気胸の有無」を調べるためにCTスキャンを切ると、そこに気胸があるのかどうか、 写真を見れば、異常は誰の目にも明らかで、診断を下すのに、もはや医学知識もいらない。

先入観を持たずにデータに当たって、そこから可能な限りの情報を引き出そうとする態度というのは、 人体から取り出せるデータがまだまだ少なかった昔、「より多く読める」ことが「よさ」につながった 時代を、悪い形で引きずっている気がする。取り出せるデータが増えすぎた今は、むしろデータを「雑に」扱う態度、 膨大なデータを、「いい結果」を得るために利用するのではなく、 むしろ「手を抜く」ために、今までと同じだけの成果を、より少ない手間、 より少ない人的リソースでそこに到達するために、利用すべきなのだと思う。

検査が貴重だった昔

昔の検査は、貴重で大切なものだった。CTスキャンだとか、血液検査を一項目だけ 提出するのに、誰かの「顔」を立てないといけなかったり、目の前の機械は空いているのに、 申請書を書いてお願いしないと、機械を動かしてくれなかったり。

検査というものは、それを一度使うなら、そこからあらゆるデータ、 あらゆる異常所見を絞り出さないと、なんだかもったいない気がした。 少ないデータから、たくさんの意味を引き出すためには知識が必要で、勉強しないと知識は 得られなかったから、検査はやっぱり、専門家のものだった。

中央検査室という組織構造だとか、最近のCTスキャンみたいな検査は進歩して、 今は誰かの「顔」を気にすることなく、クリック一つ、チェック一つで、研修医でも、 莫大な情報が簡単に手に入るようになった。データの量は、今度は多すぎて、 その中から全ての異常を読み出すためには、やっぱり専門家の力が要った。

富豪的なやりかた のこと

莫大なCTスキャンデータからあらゆる異常を拾い出そう、という態度は、 検査データがありがたいものだった時代の、貧乏くささを引きずっているような気がする。

検査に対して「富豪」的な、膨大な検査データを前にして、 それを全然ありがたがって見せない態度を取る文化というのは、 たとえば聴診器で丁寧に診察すれば診断できるような病気に対して、 あえてCTスキャンを切ってみたり、血液生化学検査のセット採血みたいな、 「面」のデータが得られる検査をとりあえずオーダーして、話を聞けば診断できるような病気を、 あえて検査に頼るようなやりかた。

莫大なデータを丁寧に評価すれば、もちろんいろんな異常が見つかるのかもしれないけれど、 富豪的なやりかたは、そんなデータを、特定の症状から考えられる、 ある病気の有無を評価するためだけに用いて、残ったデータは、見ないで捨てる。

せっかくのデータを生かさないで使い捨てにする、富豪的なやりかたは、無駄が多いその代わり、 人間の負担を最小にする。

問診だとか、聴診は大変だし、それを行う人間の訓練が不十分だと、間違いも多い。 富豪的なやりかたは、患者さんの症状を聞いたら、あとは検査にチェック一つ入れるだけだから、 人間がどれだけ無能であっても、同じ結果にたどり着ける。電気代だとか、試薬代はかかるけれど、 人間側の負荷だとか、ばらつきは最小にできる。

ていねいに診察して、あやふやな答えに訓練で精度を上げるやりかたは、たしかにお金がかからないけれど、 CTスキャンの「ありがたさ」に、人間が負けているような気がする。

診察なんてしなくても、CTスキャン一発で、ほぼ100%確定診断できるケースはたくさんあって、 特に特定の病気を想定して、その有無だけを判断するような使いかたをする限り、 CTみたいなたくさんのデータをもたらしてくれる検査は、人間側に足りない知識を補ってくれる。

量が質に転化する

正しい先入観を持って使われた莫大なデータは、人間の知識を補完して、 その人に、実力以上の診断能力をもたらしてくれる。

使う目的があいまいである限り、最近の検査の、莫大なデータ量は、単なる「量」であって、 質的変化が生まれない。

ノーヒントで「異常の有無を診断してください」みたいなオーダーをすれば、 放射線診断の専門家ですら、たくさんのCT画像の中から、異常を全て発見するのは難しい。 目的のあいまいな依頼に応えるためには、「質」の担保を人間側が行う必要があって、 データの量が増えたなら、負担はそれだけ増えて、質は低下してしまう。

ところが目的を絞った状態で、たくさんのデータを目の前にすると、データの量が、診断の質に転化する。

  • 「気胸の有無」を診断するのにCTスキャンをオーダーすると、解剖の知識がなくても、 誰にでも、肺がしぼんでいることが診断できる
  • 今のCTは、患者さんの画像データを筋肉だけの3次元模型に再構築して、リンパ節のデータだけを、 そこに重積できる。癌に関する知識、外科の知識が一切なくても、 「このリンパ節が腫れてるから切除しましょう」なんて方針が、 今では誰にだって下せるようになっている

自分たちは昔、「先入観を持つな」と教わった。データに対して先入観を持ってしまうと、 全ての異常を見いだすことができないから、と。

これからはむしろ、健全な先入観を持って、データに対峙すべきなのだと思う。

ある症状の患者さんを見たら、その症状から致命的な経過をたどりうる病気はいくつかに限定される。

まずはそれを見つけるためだけに、目的を限定してからデータに対峙すれば、データの量は質に転化して、 恐らくは人間の足りない知識だとか、集中力を助けてくれる。

莫大な知識を持って、わずかなデータからできる限りの意味を引き出すのが昔のやりかたなら、 莫大なデータ量に、先入観で絞り込みをかけることで、属人的な知識とか、 判断力の追放を試みることが、これから目指すべき方向なんだと思う。

2009.02.23

「分からない」から始める医療

「トップナイフ」という、外傷外科学の教科書から。

外傷性ショックという状況

  • ショック状態というものを理解しなくてはならない。血圧が60mmHg に低下した患者に対して、皮下の出血点を一つ一つ焼くような外科医は、外傷外科に向いていない
  • 出血と虚血とでは、治療優先順位が異なる。生命に直結する出血は、直ちに対処しなくてはならない。たいていの虚血は、数時間の幅を持たせてよい
  • 外傷外科においては、たとえ結果が悪い方向に転んでも、何とかなるやりかたを考えないといけない

冷静さについて

  • 効果の期待できない操作を繰り返す術者は「呪的反復」の状態に陥っている。本人だけがこれに気付かない
  • 背景状況の変更、視野の改善や、器具や助手のような、何らかの変更を前提にしたときのみ、反復という選択に意味が出る
  • 止血鉗子を握りしめて、盲目的に血の海に突っ込むことは、初心者の陥る過ちの典型である
  • 「指で押さえる」「臓器を両手で圧迫する」といった原始的なやりかたは、止血鉗子に勝る
  • 優れた外傷外科医は「何もしない」ことも、選択枝の一つであることを理解している

ダメージコントロールの考えかた

  • 外傷の手術には、大きく「一気的な根治」を目指すやりかたと、「ダメージコントロール」を目指すやりかたとがある
  • 生体には、そのとき許容できる「受容可能侵襲量」という考えかたがある
  • モニタースクリーンの数字が正常範囲であったとしても、患者が受けた侵襲の累積値が一定量を超えた場合には、手術の中断を考えなければならない
  • ダメージコントロールは、根本的でなくても、そのとき許容可能な侵襲の範囲内で、問題の部分的な解決を試みる
  • そのときにできる必要最低限の処置は何か、根治は後回しにできないか、外傷外科医は常に問い続けなくてはならない

軽い損傷と重大な損傷

  • 「軽い損傷」と、「重大な損傷」とを区別しなくてはならない
  • それが重大な損傷ならば、術者は一時的な止血ができた時点で、一度その場で「停止」しなくてはならない
  • そこから先は修羅場になるので、輸血や手術室の準備といった、周辺状況が整うまで待たないと、兵站が追いつかない
  • 「迅速な止血操作で一気に勝負をつける」誘惑に負けた外科医は、患者を失ってしまう
  • 重大な損傷に対峙するときには、「手術操作を続ける」という衝動と戦わなくてはならない
  • チームが「何でもいいから動き続けよう」という意識に陥ったときに、全血を失うような事態が生じる
  • 損傷の軽重は、全体を見て判断されなくてはならない。「軽い損傷」ならば治癒を目指せる傷であっても、 状況でも、体全体としての損傷が重いのならば、一期的な治癒よりも、上手な撤退を優先しないといけない

蛮勇を捨て、常識に頼る

  • 教科書に図示されているような、見栄えのいい、複雑な術式は実際の手術現場では役に立たない
  • 単純で、凡庸なやりかたを選ぶべきで、曲芸は避けなくてはならない

このあと全臓器の損傷について、最悪の状況を回避するためのやりかたが語られる。

内容を、「状態の悪い人を生かし続ける」ことに限定してあって、 本は250ページしかないのに、一応人体全部を網羅していて、よくまとまってた。

内科のこと

以下私見。

内科の患者さんについてもまた、同じ症状に対して、それを「ちょっと治す」状況と、 「がっちり治す」状況とがある。

異論はあるかもしれないけれど、「がっちり治す」ことは案外簡単で、体力さえあれば どうにかなる。「ちょっと治す」のは難しくて、油断すると大失敗する。

「息が苦しい」という患者さんに対して、問答無用で鎮静かけて挿管して、 人工呼吸器をつないだ上で、広域抗生物質を使うような、「がっちり治す」やりかたというのは、 それを決断するときには勇気がいるけれど、始めてしまえば、病名が何であろうと、 やるべきことはおおよそ同じ。こういうやりかたは、「がっちりやる」という覚悟が全てで、 頭はいらない。

「この人は軽そうだから、点滴だけで、ちょっと治そう」なんて判断して、 そういう患者さんが想定どおりに行かないときには、なまじ「ちょっと」という思いがあるから、 全ての対応が後手に回りがちで、泥沼にはまって失敗する。

誰かを「ちょっと」治すことは、だから本来、患者さんを「がっちり」治すのに比べて遙かに多くの覚悟がいって、 それをやるなら、1 日に何度も病床に見舞わないといけないし、自分の判断が間違っている可能性を、 常に自覚していないといけない。

本来はだから、田舎の小さな病院みたいな場所こそ、人工呼吸器のつながった患者さんがたくさんいないと おかしいし、大学病院みたいな、患者さんを診るための「目」だとか「頭」の数が極めて多い施設でないと、 「ちょっと」治すことは難しいのに、そうなってない。小さな病院で「ちょっと」治すのは、本来すごく危ないことなのに。

「がっちりやる」ために必要な知識は、「ちょっと」でいい。

安全に「ちょっと治す」ためには、「新内科学大系」全99冊ぶんの知識があっても、もしかしたらまだ足りない。

「分からない」から始めるやりかた

目の前の患者さんに「重大な損傷がある」という認識から始めていいのなら、 外傷外科医の知識量は、それほど多くを要求されない。

「分からないけれど具合が悪い」状態の患者さんを、「がっちり治す」ために必要な知識もまた、 恐らくは薄い本1 冊ぶんにまとめられる。

その患者さんの病名が「分かる」のならば、その人が持っている、今までの知識で十分に対応できるのだろうし、 「分からないけれど具合が悪い」という状況認識それ自体、その患者さんを、 「分からないけれどとりあえず死なない」状態へと持って行く上で、大きな手がかりになる。

「分からない」なら、それ以上鑑別診断を考える意味はない。「がっちり」行くならば、 最初から複数病名をカバーした治療手段が選択されるのが前提だから、 治療のバリエーションは減らせるし、目標を、「治せる人のところまで、患者さんを悪化させず維持する」ことに 限定できるなら、必要な知識はそれだけ少なくて済む。

これから先の卒業生は、1年間で何でも治せる研修を受けるようにシステムが変わるけれど、 「1年総合医」を本気で作るなら、こんな方向で教科書作らないと無理だと思う。

あれを本気で考える偉い人たちは、自分たちでこういうの書かなきゃ嘘だし、 それができないのなら、あの人たちは、1 年間でどういう医師を作りたいのか、 もっときちんと説明すべきだと思う。

今年度中になんか書く。

2009.02.19

臨床研修制度見直し

臨床研修制度見直し 医師不足に一定の改善効果も – MSN産経ニュース

来年度から、研修制度がまた見直されて、今度こそ、各地域ごとの受け入れ可能研修医数に「上限」が 設けられるらしい。

まだこのとおりになるのかどうかは分からないけれど、実施されると、 たぶん今まで以上に「東京一極集中」が進んで、地方の医療は止めを刺されるような気がする。

序列の可視化は弊害を生む

今はまだ、研修医が働く場所は、研修医の自由選択にゆだねられていて、 みんなが東京を目指した結果として、田舎には人が残らない。

東京の病院は設備がいいし、なによりも、いい先生がたくさんいるから、教えてもらえる。

研修医は、とにかく「教えてもらえる」環境に身を置かないと、何も身につかないからこそ、東京を目指す。

「東京の研修医」に、上限が設けられると、首都圏の研修病院は、競争試験で定員を削らざるを得なくなる。

競争試験はたくさんの敗者を生んで、「負けた」人たちは、しかたがないから田舎で働く。

負けっ放しなのは嫌だから、みんなもちろん、ある程度の経験年次を積んだら、もう一度東京を目指して、 結果としてたぶん、田舎はみんなの「腰掛け」になる。

研修医の序列は、自分たち、田舎の医者にも序列意識を持ち込んでしまう。

君たち田舎医者は、せいぜい負け犬研修医諸君を温かく迎えてくれたまえ」 なんて、「見直し」を提言した東京の先生たちは、田舎で働いている中堅に、「負けた」研修医と一緒に、 こんなメッセージを届けてしまう。

自分たちだってもちろん、負け犬認定、馬鹿認定されたまま、ヘラヘラ笑って幸せに働けるほどには 人間できていないから、こういう制度はたぶん、今いる場所を捨てて、多少無理してでも東京を目指す中堅を、 むしろ増やしてしまう気がする。

まずは皆さんから田舎へどうぞ

若手の振る舞いを強制するやりかたは、恐らくは、制度全体を、下から崩壊させてしまう。

何かを変更しようと思うのならば、本来真っ先に変わるべきは、「上」の振る舞いなのだと思う。

田舎のお金は、道路と病院ぐらいにしか使い道がないものだから、幸いにして、地方の基幹病院は、 今ではけっこういい設備を誇る。足りないのはマンパワーだけ。

都会で活躍する名医の人たち、いろんな提言を行って、「阿呆な若者は地方で働け」なんて、 身も蓋もないメッセージを発信するその人たちこそが、まずは真っ先に、地方に来ればいいんだと思う。

研修医は「人」につく。

カリスマ名医の先生方が、本当に人を引っ張る力を持っているのなら、その人たちの吸引力は、 自然と地方に研修医を集める。

沖縄中部病院にしても、亀田総合病院にしても、立地で行けば、お世辞にも「都会」とは言えないような病院は、 それでも「人」に優れているから、研修医は今でも群れをなして、ああいう病院の門を叩く。

偉い人たちは田舎に来て、そのときたぶん、自らを試される。

その人めがけて、若手が群れをなすならば、そのベテランは「本物」なんだろうし、 田舎に降臨したカリスマ一人、ぽつん、とそこで働いて、若手がだれも寄りつかないのなら、 その人はそもそも、その程度の人間だったんだろう。

試みとしては、そのほうがよっぽど面白いと思うんだけれど。

2009.02.07

やりかたは無数にある

「絶対に正しい手順」というものは、一つに決められないのだと思う。

現場にあって「絶対」と言い切れるものは、状況を乗り越えるための「目的」と、 それを達成する上で「制約」であって、「手順」というものは本来、 「こうしたらたまたま上手くいった」という以上の意味を持っていない。

偽のベテランが正しさ競争を始める

医療の教科書は、今はもちろん、「こうするのが正しい」のカタログみたいになっているけれど、 あらゆる手技だとか、治療だとか、手順というものは、本来は暫定的なやりかた。

ある状況から「治癒」を目指すためには、状況ごとの「目的」というものがあって、 目的が、身体の解剖学的構造だとか、病気が生み出す「制約」とぶつかりあった結果として、 制約をくぐり抜けるための手順が生まれる。

手順はだから、本来は無数にある。「こうしたらうまくいった」という、試行錯誤の経験が重なって、 どこかのタイミングで「暫定的に正しいやりかた」みたいなショートカットが生まれる。 「正しさ」を伝えるのは簡単だし、試行錯誤を経験しなくても再現できるから、 そのうちたぶん、本来の「目的」だとか「制約」は、伝えられなくなってしまう。

目的を見失った正しさは、原理主義の競争を生む。

「教わったやりかたよりももっと厳密」だとか、「こうしたほうが切開線を3mm 短くできる」だとか、 正しい手順には、「目的達成」には何ら貢献できない、様々な「改良」が積み重なって、 手順はますます、本来の目的から遠ざかっていく。

切る爺医のこと

ベテランの外科医は、切ったことのない病気の「切りかた」を推測できる。

うちの施設にいるベテランの先生がたは、人体というものを、「制約の集積」として理解している気がする。

外科のカンファレンスを聞いていると、そういう先生がたは、診たことのない病気であっても、 CT 画像で「ここ」という場所に病変を見つけると、「そこに到達するなら、この場所から入って、 切除するときには血管の処理が問題になるね」とか、語り出す。

「爺医の語り」はおおむね真実で、もう少しだけ世代の若い、最新の知識を蓄えた外科の先生もまた、 「今はそういうときにはこんなことをするんです」なんて、おべっかでなく、「議論」が始まる。

「理解」の深度には、たぶん「正しいやりかたを知っている」のレベルのもっと深いところに、 「やってはならないことを知っている」という段階があって、ここに到達できた外科医は、 教科書的な知識を持っていない病気と対峙しても、「目的」さえ示されたなら、 それを解決するための方法を、その場である程度演算できるようになる。

「教科書の正しいやりかた」は、本来はたぶん、その人が自分なりのやりかたを演繹できる段階にまで至って、 初めてそこで、無批判な受容を強要するものから、自分のやりかたと比較するための対象として、 読んだその人に、「確信」をもたらしてくれる。

「ここからのやりかた」を教えてほしい

治療ガイドラインを丸暗記した専門医の言葉は、しばしば空虚で、 今ひとつ響かない。

何かを相談しても、正しいやりかたを教えてくれはするけれど、じゃあ今の段階から どうすればいいのか、どこを目指せば、この人は治癒に向かうのか、分からない。

たとえばある感染症を治療するには、教科書には「ペニシリンG を使いなさい」なんて書いてある。 それで十分治るから。それが「正しい」考えかただからと、明快に書いてある。きっとそれは正しいんだろうけれど、 じゃあ今自分たちが患者さんに使っている薬は、果たしてこのまま続けていいものなのか、それとも絶対に、 専門家推薦の薬に変更しなくてはならないのか、分からない。

専門家は、「いい検体」をとって調べれば、それに従った抗生剤を使えば十分に効くという。

教科書には、たしかに「いい検体をとれ」と書いてあって、いい検体のとりかたも、一応書いてある。

ならば「いい検体」がどうしてもとれなかったときにどうすればいいのか、あるいは今自分たちが とった検体が、果たして「いい検体」なのかどうか、どうやって判定すればいいのか、やっぱり分からない。

検体にしたがって薬を選んで、それが効いたら、その検体は「いい」ものなんだろうし、 患者さんの具合が悪化したなら、それは「検体が悪かった」せいになって、 専門家の「思想」は明快なまま、変わらない。それはやっぱりおかしいと思う。

目的と制約から手順を見いだす

戦略家のクラウゼヴィッツは、「戦争論」の中で、「武徳」の効用について説く。

武徳を持った兵士で作られた軍隊は優秀で、いざというとき、非常な力を発揮するのだと。 武徳は大切で、兵力を何倍にもしてくれるものだから、普段から兵士を鍛えて、 武徳を発揮できるよう、訓練しないといけないのだと。

古くさい精神論なんだけれど、クラウゼヴィッツはそこから、 「それでも武徳を持たない兵士を率いて、なおも勝利を収めた例は、歴史上たくさんある」と続ける。

武徳の備わった軍隊は強力だけれど、軍隊を率いる人は、「武徳を欠けば勝てない」などと言ってはならないのだという。

将軍は、平時から武徳を養うべきではあるけれど、敗北の理由を武徳の欠如に求めるのは軍人として間違えで、 武徳を持たない兵士を率いた戦いかた、あるいは、武徳をほかの何かで補いながら、 何とか「勝利」を拾う戦略を、軍人は、発見する努力を、最後まで放棄してはいけないのだと。

目的と制約とを理解した人たちが、結果としてある手続きに収斂していくことと、 そこにいる人たちが、「最初からそれしか出来ない」こととは、 一見同じような状態であるようでいて、恐らくは全く異なっている。

「こうして治す」を記述するやりかたは間違えで、症状ごとの「目的」と、 「制約条件」を、まずは前提として示せない限り、その専門家には、人を教える資格がないような気がする。

「総合医を1 年間で養成しましょう」とか唱えている人たちの中に、本当の専門家がいるといいのだけれど。

2009.01.31

「制約指向」メモ

  • ある種の制約は自由を増やす。ある種の自由は人間の負担を増す
  • 毎回考えていると負担になることを「制約」としてまとめることで、プロジェクトの戦略的な実施や、バグの地獄からの解放という「自由」が得られる
  • プログラム言語にとっての「勇気」とは、プログラマにある種の制約を強いること」
  • Ruby on Rails は、プログラマの意図をあえて決め付けることで,特定の文化を背負ったプログラマにとっての利便性を追求したのだと
  • いい制約とは「望ましい習慣の押しつけ」
  • 「不自由が自由を作り出す」というのが、企画や設計の基本(某劇場管理人からいただいたコメント)
  • 信号機や交通ルールという不自由があるからこそ、自動車は自由に行きたいところに行ける
  • 人間は、身体から持ちだした制約を通じることで、はじめて自ら置かれた空間を認識できる
  • 我々の脳は、制約によって構成されている事物であるがゆえに、全くの自由を想像できない
  • 世界には無限の自由度がある。制約を記述することで、自由度が減る代わりに、情報は、交換可能性を得る
  • 言語に制約が積み重なると、ついには文法的理解に到達する
  • 語彙というものはそれ自体制約であって、それは単なる単語のリストではなく、文法構造を内包している
  • 「コミュニケーションメディア」のようなあやふやなものは、「何ができるのか」よりもむしろ、 「何ができないのか」に焦点を当てると理解しやすい
  • たとえば金槌みたいな道具を、「釘を打つための道具」と認識してしまうと、応用できない
  • 「金属塊が一端に固定された丈夫な棒」があって、これで何ができるだろうかと考えると、発想が広がる
  • 「相手の意図はこうだろう」と推測してみせることは、観客を驚かせる効果はあるけれど、例外が多すぎて役に立たない
  • 「これができる」は、無数の例外がある。「これは不可能」には、「絶対」がある。自らの状況を 本当に理解できている人は、この制約を指摘できる
  • 東京大学の國吉康夫研究室が作ったスクワット起き上りロボットは、 人間みたいな動きをするけれど、身体を完全に制御しているわけではないのだという。
  • このロボットはほとんど身体だけの存在であって、神経系に相当するものがないのだと。 身体という制約構造の存在は大きくて、かたちが人間に相似になってくると、脳や知能の問題以前に、 「人間らしさ」というものは、自然に獲得されてしまうのだという

2008.12.16

若い人はご飯が遅い

外来もようやく一段落して、14時だとかその後半だとか、ずいぶん遅い時間になって、 アルバイトに来てくれている若い先生がたは、やっとお昼ご飯を食べに、医局に戻ってくる。

ベテラン勢、それでも自分が一番年下なんだけれど、この仕事をずいぶん長くやっている人達は、 たいていもっと忙しいのに、同じ時間帯にはほとんどの人が、もうご飯を食べ終わってる。

忙しいときにはまず飯を食え

研修医期間を過ごした病院には、そもそも昼休みという考えかたはなかった。

朝病院に来て、病棟で仕事して、後はもう1 日中バタバタとかけずり回って、 自分の手は今より圧倒的に効率悪くて、仕事の量も多かったけれど、 食事だけは、それでも3食、きちんと食べてた。

研修医になって最初の頃、先輩から「忙しくて何から手を付ければいいのか分らなくなったら、まず飯を食え」なんて習った。

「これから心肺蘇生の患者さんが入ります」なんて一報が入ったら、そのあとしばらくは、 もう他の仕事は一切出来なくなる。だからみんな、放送聞いたら真っ先に食堂に駆け込んだ。

病院には、「昼休み」とか、ましてや「ご飯の時間」なんてものは一切無くて、 病院は、「食事をする間もないほど忙しい」状態が常に続いていたけれど、 それでもみんな、ないはずの食事時間をどこかから調達して、3食きっちり食べていた。

機動歩兵が習うこと

小説「宇宙の戦士」の訓練風景にも、しばしばそんな描写が出てくる。

兵士は早朝にいきなり招集をかけられて、部隊長が、「今から行軍訓練を行う」なんて宣言する。

どこに行くだとか、どれぐらいの期間行軍するとか、情報は一切無いし、集まった訓練兵には、 食事や水といった物品は渡されない。

新兵は、何も分からないままに行軍を続けて、どこまで行ったら休むとか、何を達成したら食事が取れるとか、 もちろんそんなことは教えてもらえない。

行軍中、主人公が仲のいい上官に、「食事はいつ取れるのですか?」なんて尋ねると、 上官はニヤリとして、「俺は食堂からクッキーをくすねてきている。お前も食うか? 」なんて問い返される。

このとき主人公もまた、招集前に食堂に忍び込んで、ちゃんと自分の食べ物を盗んできている。

こんな訓練が行われた頃は、新兵も「軍隊のやりかた」を心得ていて、主人公以下、 行軍に参加した全ての兵士は、みんな思い思いの食料を「装備」して、 休憩だとか、食事の配給だとか、一切行われないまま、訓練はたしか、60時間ぐらい続けられてた。

不備なシステムと個人の技量

人間に食事が必要なのは当たり前なのに、それを最初から用意しない、 昔の研修病院だとか、SF だけれど軍隊だとか、こういう組織に共通するやりかたというのは、 不備なシステムに対峙したときでも、それを個人の技量で補えるようになるための、 やはり「訓練」の一環なのだろうなと思う。

病院組織が、昼休みとか、食事時間を最初から設定しておけば、 CPRコールがかかってから食堂に飛び込むだとか、「非常食」を自分の机に常備しておくだとか、 こんな生活の知恵みたいなノウハウは、必要なくなる。実際問題、今の研修制度はそのあたりが 整備されて、昔みたいな小細工をしなくても、みんなご飯を食べられる。

整った研修環境で育った今の人達は、その代わり、外来がちょっと忙しくなったりすると、 そこから食事時間をひねり出したりすることが難しいみたいで、悪い意味でまじめすぎて、 ときどき心配になる。

システムの不備はシステムを描いた人間の責任だけれど、 完璧なシステムは、たいていの場合構築不可能で、不備というものはだから、 その時になって初めて現れることが珍しくない。

人も時間も足りない現段階で、すでに医療のシステムは破綻していて、 それはもちろん、これから現場に出てくる若い人達には何の責任もないはずだけれど、 若い人達が現場の不備に対峙して、状況はしばしば、「出来ません」を許してくれない。

こういうのはどうしたって「昔はよかった」なんて昔語りになってしまうんだけれど、 「何とかする技術」というものを伝えられなくなった今の研修制度は、やっぱりどこか怖いなと思う。

2008.11.10

現場の能力を「上」が把握するのは難しい

来年度の研修医がますます減りそうで、県内にある基幹病院の先生が、大学のことを憂慮していた。

来年度の研修医を獲得するために、大学は、たしかに多様な研修プログラムを準備しているみたいで、 たしかに大学の「上」にいる人達は、成果を見込んだ努力を行っているように見えるけれど、 外野から見たそのプログラムは、今の大学に残っている「現場」の力で運用するのは困難で、 たぶん計画倒れに終わってしまうだろうと。

大雑把に「上」と「現場」という言葉を使うと、「現場」が実際にどれだけの能力を持っているのか、 「上」が計画を立てたとして、「現場」は果たしてそれを実行できるのか、どれだけ詳細な報告を 上げたところで、「上」がそれを予測するのは、今も昔もやっぱり難しい。

医療の「現場」力

たとえば自分は「循環器内科」ということになっているけれど、今の病院にはカテ室がない。 心電図を読んだり、心不全の患者さんを診ることはできるけれど、心筋梗塞の患者さんとか、 専門的な治療が必要な患者さんについては、本格的な治療ができる施設にお願いしないと回らない。

心臓専門のセンター病院にしてからが、たしかに100人近い医師を擁してはいるけれど、 その中には外科医が居たり、不整脈の専門家とか、集中治療の専門家とか、 いろんな分野の人もいるし、すごいベテランから研修医まで、個人の能力は一定しない。

県にいる「上」の人達が、たとえば県内の「心筋梗塞を治療する能力」を把握しようとしたら、 それはたぶん、とんでもなく大変な作業になる。

医師の実数はつかめるだろうし、どの医師が、どんな専門を名乗っているのかも分る。 医師の経験年次だとか、病院内での役職だってすぐ分るけれど、いくら詳細に調べても、 そこからは「現場の能力」みたいなものは見えてこない。彼らはまた、県内のカテ室の総数だとか、 設備を把握することもできるだろうけれど、うちの病院の近くには、 稼働しなくなって久しいカテ室を持った病院が、少なくとも2ヶ所ある。

「上」の人達はだから、能力というものを、「結果」でしか把握できない。たとえばうちの県で、 年間1000人の心筋梗塞治療が行われたとしたならば、その年には少なくとも、「1000人分」の 能力は証明されたことになる。ところがこれが「500人」に落ちたとして、本当のところ何が起きたのか、 たぶん「上」には分らない。

状況把握の対象を、「お産」だとか「救急」だとか、範囲を広く設定すればするほどに、 恐らくは「上」が把握している能力と、現場が実際に持っている能力と、 お互いの数字はかけ離れていく。

「員数」と「実数」のこと

日本の軍隊には「員数」という考えかたがあって、「この場所にはこれだけの員数があってしかるべき」 なんて上が定義すると、それはもう、「それだけの数がいる」ことにされて計画が進んで、 現場には兵隊なんていないのに、員数上は規定数存在していたから、 無茶な計画が押しつけられては、現場は敗北を重ねたんだという。

第二次世界大戦当時、日本の首相だった東条英機には、ミッドウェイ海戦での敗北が、 すぐには伝えられなかったのだ。 海外に遠征した陸軍が敗北を繰り返す報告が上がってくる中、「連合艦隊はいったい何をしている」なんて東條が憤ると、 まわりの人から「ミッドウェイでとっくに沈んでます」なんて進言されて、絶句したんだという。

このあたりは「海軍将校某の陰謀だ」とか、「実際にはそんなことはなかった」だとか、 諸説入り乱れているみたいだけれど、実際問題、計画を練る人達だって、現場の能力を把握することは できなかったんだろうなと思う。

戦艦の「能力」一つ見たところで、完成したばっかりの、乗務員の練度だって低い状態だって1 隻だし、 単純に「沈没していない」というだけの、満身創痍の状態だって、書類上は「1」として送られる。 現場はもちろん「大損害を受けた」ことは十分分っているはずだけれど、「大損害だ」と言葉にすれば 簡単な何かを、「上」に伝えるためには数字にしないといけないし、数字になったその時点で、 情報はなくなってしまう。

情報の粒度をいくら細かくしたところで、情報が、「現場」から「上」への方向を 目指したその時点で、一番大切な何かは、やっぱり失われてしまうのだろうなと思う。

米軍には新品の戦車がない

アメリカ軍は、この20年近く、新しい戦車を作っていないのだそうだ。

今動いている戦車は全部「中古品」で、もう新しい戦車は作られない。その代わり、 国内には20平方キロメートルの敷地面積を持った、巨大な「再生工場」が2ヶ所あって、 戦車の再生を恒常的に繰り返しているらしい。

古くなったり、故障した戦車は、一度「解体工場」に送り返されて、部品単位にまでバラバラにされる。 エンジンから装甲版から、全ての部品は修理、再生されて、完全な「新品」の状態になるまで約半年、 そのつど装備のアップデートを受けて、また現場に戻される。

米軍の戦車は、だから中古品でありながら、それは何年経っても「新品」であって、 恐らくはそれ故に、米軍の「上」の人達が「戦車が10台ある」というレポートを読んだときの認識と、 現場の感覚として「戦車10台分戦える」という感覚と、日本軍の「員数主義」に比べれば、 その乖離は少ないんだろうなと思う。

「再生工場」を維持するのは大変で、米国以外の国には存在しないらしいし、 日本を含んだ他の国では、作った戦車は「作りっぱなし」で、書類上は「10台」と記載されていたところで、 いざというとき、果たして何台分戦える能力を現場が持っているのか、恐らくはその時になってもなお、 「上」の人達は把握できないんだろうと思う。

現場の把握は難しい

医師の人数を増やしたところで、現場の戦力がどう動くのかなんて、「上」の人達には把握できない。 今までの「作りっぱなし」のやりかたを繰り返す限りにおいては、 現場が持つべき能力を「上」が統治することなんて、不可能なんだと思う。

恐らくは米軍にしてからが、「上」の人達が「現場と情報の対応」に失敗して、 たぶん何度も大きな犠牲を払った結果として、こんな「再生工場」に行き着いたのだろうし、 ならば医療の現場で「再生工場」めいたものをどう作ればいいのか、 現場からはちょっと想像つかない。

「上」と「現場」とを上手にすりあわせる構造をひねり出すか、 そもそも「把握」それ自体が要らない仕組みを考え出すか。

員数主義貫いても、現場全滅するだけだと思う。

2008.10.12

証拠の時代の振る舞いかた

機関銃が世の中に登場して、それはもちろん極めて効率的な道具だったから、 すぐに戦争で用いられるようになった。

異民族との戦争では、機関銃は、時に100倍もの戦力差を跳ね返す活躍を見せたから、 現場の兵士はその武器を大歓迎して、それでもなお、将官の人達は、機関銃の価値を認めようとしなかったのだという。

兵士が一列横隊で銃剣突撃して、騎兵隊が戦場最強の部隊だった時代。

戦争教則は、銃剣と騎兵とを最大に生かすように理論が組まれて、磨き上げられた理論を捨てるのは もったいないから、将軍は機関銃を捨てた。

それはたしかに「異民族」との戦いで活躍したかもしれないけれど、「人間同士」の戦いは、 あくまでもライフルと、銃剣突撃とで決着がつくものだから、そこに機関銃の出番はないのだと。

本当の戦争が始まって、ドイツが機関銃を採用して、横一文字に並んだ騎兵、「正しい戦場」での 最強部隊が、機関銃陣地に殺到した。

騎兵も歩兵も、もちろん機関銃に皆殺しにされて、そこから初めて、機関銃は「正しさ」を得た。

高齢者医療のこと

寝たきりに近いような高齢者の肺炎を治療するときは、どうせほとんどが誤嚥だし、 入院当初はゼーゼー言ってる人多いから、必ずといっていいほど広域の抗生剤を使って、 ごく少量のステロイドを併用する。邪道だけれど、熱がすぐ下がる。

若い人は病気に対する身体の反応が強いから、たぶん少量ステロイドなんかは高齢者以上に 有効だし、基本的に歩いて退院して、みんな二度と病院には来ないから、どれだけ強力な 抗生物質を使ったところで、耐性菌の問題が発生しない。

寝たきりに近いような、「異民族」である高齢者によく効くやりかたは、 もちろん若い人にだって有効なんだけれど、「少量ステロイド」は教科書に書いてない。 恐らくは、いろんな領域の治療手段に、こうした「邪道」があるはずだけれど、 若い人の治療は、教科書どおりに厳密にやらないと、万が一の時すごく怖いから、 教科書から逸脱できない。

逆説的だけれど、教科書どおりにやって失敗したところで、自分達は悪くない。 教科書のやりかたを逸脱しないと治癒が見えてこない状況で、ルールを破って、 もしも成果が「完璧」に届かなかったら、人生失う。

成果を問われる人ほど過程が重視される

超高齢者の病気みたいな、そもそもの治癒率が若い人に比べて低くて、 その代わり、「失敗」しても責を問われにくい「異民族」に対してなら、 たぶんたいていの病院で、主治医が考える範囲で一番有効な手段から行使される。

一方で、若くて歩いてきた患者さんみたいに、「絶対に失敗できない」ような 人を相手にするときには、教科書どおりの、「機関銃を使わないで騎兵を前進させる」 やりかたしか選択できない。

成功へのプレッシャーが厳しくなればなるほどに、過程の「正しさ」が重視される。 誰が重視するのかといえば、それはたぶん「主治医の中の裁判官」みたいな、 本来そこにいないはずの誰かなんだけれど。

ルールがいいかげんだった昔、ガイドラインというのは、それを破ることで初めて治癒につながるような ところがあって、治療のやりかたは、医師が違えばみんな微妙に違ってたから、 要するに「勝てばいい」状態だった。

「証拠」の時代になって、ルールの正しさが厳密に検証されるようになって、 ルールは正しさを得た代わり、融通が利かなくなった。「正しく勝つ」ことは、 「ただ勝つ」ことより困難だった、正しさで磨かれたルールは、 逸脱を許してくれなくなった。

正しい誤診のノウハウ

恐らくはガイドラインを書いてる人も、そのあたりを暗黙に分かっているのだと思う。

「不必要に広域の抗生剤の使用は現に慎むべきである」なんて前書きが書いてあるくせに、 当のガイドラインに記載されている抗生剤は、もう地上のあらゆる細菌を殺せるようなものが 選択されていたりとか、それが「正しい」ことになっているから。

発熱して具合の悪い患者さんがいて、何となく細菌感染症で、とにかく速く抗生物質を 使いたい状況があったとき、その人をとりあえず、肺炎と「誤診」しておくと、 あらゆる細菌を殺せるような抗生物質が、「正しく」利用できるようになる。

ルールが示す正しさと、その状況に置かれた医師が想定する正しさとが異なることは、たぶん そんなに珍しいことではなくて、ルールが厳密になればなるほどに、今度はそのルールを 回避するための「正しい誤診のやりかた」みたいな、悪いノウハウが現場に貯まる。

証拠に基づいた医療、Evidence Based Medicine の考えかたというのは、 受け持った患者さんを診るときには主治医の手足を縛るけれど、 診たくない患者さんを断るときには、絶大な威力を発揮する。

○○様のご加療に関しては、ガイドライン上は、貴施設の設備にて十分に対応可能かと思われます。
先生におかれましてはお忙しい中申し訳ありませんが、よろしくご加療下さい。
証拠に基づいた正しい医療を心がけ、お互い精進していきたいものです。 敬具。

紹介受けて、断って、こんな文面で返事書いておけば、たぶん二度と送ってこない。

以前、休日外来で「胆管炎」を診断した先生が、その人を入院させようにも、 どこの病院も取ってくれなかったなんて嘆いてたけれど、胆管炎のガイドラインは厳密で、 「最低限これだけの」という人的リソースが、細かく指定されている。現場をよく知った人達が、 「絶対に勝てる戦い」するために作ったガイドライン。

それだけの装備を休日にそろえているところは少ないはずだから、胆管炎を診断したその先生は、 むしろ「分からないけれどお腹痛がってまーす」なんて、バカのふりして「誤診」するのが、 患者さんにとってはよっぽど正しいやりかただった。

こういう教科書書いてほしい

「証拠」と「統計」が好きな人達は、「蹄の音を聞いたときにシマウマを想像してはいけない」なんていう。

蹄の音を立てて歩く生き物といえば「馬」であって、シマウマは滅多にいないから、頻度順で考えよなんて。

たとえばその人がサバンナに放り出されて、シマウマという生き物が、滅多にいないけれど、 猛毒持った肉食動物だったとしたら、恐らくは同じことを言えない気がする。

殺されたくなかったら、「シマウマを想像してはいけない」じゃなくて、 まずはシマウマでないことを確認しないといけないし、生き延びていくためには草食動物を狩る必要があったとして、 蹄の音が聞こえたのなら、それがシマウマでないことさえ分かれば、あとは相手が馬だろうが水牛だろうが、 「槍を投げて仕留める」やりかたは、そんなに変わらない。

教科書はだから、症状別に項目を分けて、まずは「その症状で死ぬ」病気を列挙して、 それぞれの診断方法と、検査の感度をとをまとめてほしい。同じ病気を診断するのにも、 全身のCTスキャン撮るやりかたから理学所見一本でやるやりかたまで様々だろうけれど、 教科書は診断確度を示すだけで、「武器」の選択は主治医任せで。

「死ぬ病気」が除外できた患者さんは、その時点ではまだ症状を持っていて、 身体は「分からないけれどとりあえず死なない」状態になっているはず。 症状ごとの各論編は、今度は「ステロイドが効く疾患」「抗生物質が効く疾患」 「抗凝固薬が必要な疾患」だとか、治療がある程度共通する病気をまとめて、 それぞれの治療を開始するために必要な所見と、そこに属するそれぞれの疾患について、 詳しい診断方法を記述するのがいいと思う。

分からない人に遭遇した状況で、まず一番知りたいのは、 患者さんを「分からないけれどとりあえず死なない」状態に持って行くことで、 次にやるべきは、症状に対して治療を開始すること。診断名は本来そのあとだっていいはず。 一つの症状に、考えられる診断名が20も30も列挙されたところで、治療なんてどうせ3種類ぐらいしかないんだから。

いろんな施設が「院内マニュアル」みたいなものを、もっと公開するといいなと思う。

正しさと統計とで磨き上げられたガイドラインは、信仰したり、 相手を罵倒するための道具としては、すごく良くできているんだけれど。

2008.10.09

診断学のこと

診断学の本を読んでいる。

ベイズ推定が主流になるのか、どの本も、「総論」のところに統計学的な疾患推定のやりかたが解説されている。

「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」だとか、医師の思い込みだとか、 先入観で診断を行うことを戒めてる。

驚きが追従者を生む

統計的には、感度が高い検査が陽性になったからといって、そもそもの発症頻度が低い病気なら、 その陽性にはあまり意味がないのだという。95% の的中率を誇る検査で「陽性」が でたからといって、普通の人がその疾患にかかる確率が5%でしかないのなら、 「陽性」と言われたその人がその病気である可能性は9%にしか過ぎなくて、 「陽性」の9割は間違えなのだ、なんて紹介される。

新しいやりかたで、今までやってきたことを振り返ると、しばしば全く違った世界が見える。 「先入観」が隠してた何かだとか、自分達が必要以上に恐怖を煽って、あるいは煽られていた部分だとか。 統計のやりかたは、しばしば読者を驚かせる。読者の「誤り」を指摘して、その人を驚かせて、 統計学者は信者を増やす。

診断学は閉じた学問で、人間が人間である以上、毎年のように病気の数が増えることなんてありえないし、 今も昔も、肺炎になった人は咳をするし、胃潰瘍になった人はお腹を痛がる。変化がないから「間に合っている」 とも言えるし、進歩がないぶん、誰もがそこに、新しい技術を入れたがってる。

「エビデンスに基づいた」医療のやりかた、診断にたどり着くために「ベイズ推定」を用いるやりかたは、 診断学の世界に久しぶりに登場した新しいやりかた。いろんな「常識」が覆されて、 恐らくは「エビデンス」との相性抜群だから、これから内科を学ぶ人達は、きっと統計の知識が必須になるんだろうなと思う。

正しい技術は驚かない

統計的な考えかたを導入した、新しい世代の診断学は、読んでいてたしかに驚かされる。 自分達が盤石と思っていた検査の感度が案外悪くて、ごく素朴な、患者さんにささやかな質問をするだとか、 足をちょっと触ってみるだとか、簡単な理学所見を取るだけのことが、極めて高い診断確率を持っていたりする。

読んでいて驚く。驚くんだけれど、読者に「驚き」を提供する新技術は、 それでもたぶん、どこか間違ってると思う。

世の中をひっくり返すような新しい技術は、たいていは「便利」なものとして世の中に登場して、 それが出現した翌日から、それは生活の一部として認識されて、新技術を使う人達は、ほとんど誰も驚かない。

その技術が登場したあと、みんなの生活は一変していて、技術に詳しい人達は、みんな「すごい時代になった」なんて 感心しているのだけれど、その変化はあまりにも自然に行われてしまうから、たいていの人は驚かないし、 「それがなかった昔」を振り返らない。

インターネットを使った動画配信の技術なんかは、たぶんそのすごさが理解できる人にとってはすごい技術なんだろうけれど、 自分達ユーザーは、単に「便利だな」と思いながらそれを使って、youtube はすぐに生活の一部になった。 パソコンでテレビを見るのが一般的になって、昔ながらの、みんなで今に集まってテレビを見る習慣は無くなったりして、 たぶん生活のいろんな風景が変わったのだろうけれど、あの技術で「驚いた」人は、たぶん youtube を視聴する 莫大な数のユーザーからみると、ごくわずかな数でしかないんだろうと思う。

診断学にベイズ理論を取り入れるやりかたは、どの本開いても、最初に「読者の驚き」を要求する。 たしかに驚くんだけれど、驚きを求めないと話が前に進まないこの時点で、すでにこのやりかたは、 技術的に「正しくない」ような気がしている。

患者さんは安心を買いに来る

同業者が「驚く」技術、あるいは考えかたは、そのやりかたを患者さんに適用すれば、 患者さんはもちろん、もっと驚く。

驚きは不安につながる。患者さんの不安に対して、統計学者は「それはあなたの先入観なんです」なんて言うんだろうけれど、 不安に根拠のないことが「統計的に」証明されたところで、やっぱり不安はそのまま残る。

統計学者にとっての「誤差範囲」の事象は、それでも当人にとっては、一生を左右する問題になる。

不安駆動型のやりかた、症状から考えられる疾患名を「死ぬ順」に並べて、 「死ぬ病気」から順番に除外していくやりかたは、統計学者からは叩かれるけれど、 素朴な直感に逆らわない、医師も患者も安心できるやりかたではある。

自分達が売っているものについて、みんなもっと自覚的になるべきだと思う。 医療は結局のところ「安心」を販売して対価を得ているのであって、「診断」だとか、 「治癒」でさえもまた、安心が生まれて、初めて価値が生まれるものにしか過ぎない。

統計を売るのはコンサルタントの仕事だけれど、医師が統計を学んで、 それをそのまま患者さんに販売したところで、お客さんはたぶん喜ばない。

症状は創発する

たとえば隣町の病院まで 2時間かかる田舎の診療所に「頭痛」を訴えてきた人と、 コンビニエンスストアと化している総合病院に、日曜日の夕方に、頭痛で立ち寄った人と、 それを同じ「頭痛」の範疇で扱ってはいけないような気がする。

症状というものは、その人の病理と、その人が対峙した環境とが相互作用を生じることで、創発する。

田舎の診療所に来る頭痛は、病理それ自体が生み出した「本物」である可能性が高いけれど、 CTスキャンがある、日曜日の夕方なら「空いている」ことが周知されている病院で発生した「頭痛」は、 むしろ「CTを切ってほしい」というニーズが、頭痛を要請した可能性がある。

CTスキャンを撮りたくて病院に来た人に、ていねいな診察を行って、 「CTを取る必要はありません」なんて説明したところで、恐らく満足は得られない。 あるいは逆に、外来に「CT時間外10万円」と書いた紙を貼っておくだけで、 この患者さんの「頭痛」は治ってしまうかもしれない。

統計で考える診断学は、症状を、患者さん固有のものとしてあつかって、 同じ患者さんに発生した同じ症状は、それがどこで発生しても、バックグラウンドでは 同じ病理が進行していることが前提になっている。

これは「経済合理的な人間」を前提にした経済学がうまく機能しないのと同様に、どこか危険な気がする。

新しい技術のこと

新しい技術が入ると、それがどちらに転んでも、現場はたぶん「馬鹿」になる。

現場を正しく「馬鹿」にする技術は、ベテランの価値を普遍化してしまう。現場は大学出たての 研修医でも普通に回るようになって、そうした技術は、現場を「馬鹿」ばっかりにしてしまう。

伝説の宮大工、西岡常一は、現役時代、大学の先生から「馬鹿」扱いされたんだという。

ある時期の建築学が、現場を見ないで一人歩きしたことがあって、 大工の目から見て「建たない」やりかたが「正しい」とされた。大学の先生の指導に従わないで現場を回していた西岡は、 大学の人達から「馬鹿」と言われて、実際に作って見せるまで、「馬鹿」の評価は覆らなかったんだという。

新しいやりかたが導入されて、現場はたしかに驚いた。統計の技術は正しくて、 なんだか反論するのが難しそうで、自分なんかはだから、これから先、統計学んだ人達から「馬鹿」と 言われる機会が増えるんだろうなと思う。

2008.10.08

電子カルテをネットワーク化してほしい

個人情報の問題が大きすぎるから実現は難しいけれど、 やっぱりいつかは、電子カルテをネットワーク化して、医師同士、あるいは 患者さんが、いろんなカルテを相互に参照できるようになってほしいなと思う。

思考を拡大する道具としてのコンピューター

「知的生産の技術」以降、ジャーナリストであったり研究者であったり、様々な人達が、 情報を整理したり、並べ替えたりするやりかたを工夫しあって、そうした人達は当然のように、 真っ先にコンピューターを取り入れた。

それが書斎に入ってきた当初、コンピューターは、単なる便利な計算機か、 せいぜい「清書」の道具以上のものにはなり得なかった。ハイパーカードだとか、 データベースソフトだとか、たしかにそれが「便利だ」と喧伝されたこともあったけれど、 結局のところ入力があまりにも大変で、昔ながらの「カード」と「システム手帳」に 回帰した人が多かったように思う。

知的生産は、あくまでもノートやカードを使って行うものの延長だった。 コンピューターの出現それ自体が、人の考えかたを大きく変えることはなかったし、それが求められたこともなかった。

ネットワークでパソコン同士がつながって、どこかのタイミングで、何かが劇的に変化した。

もしかしたら速い人は「パソコン通信」時代からそうだったのかもしれないし、 自分なんかは、掲示板文化だとか、メーリングリストの時代を経てもなお、 「袋ファイルとシステム手帳」を使っていたけれど、いずれにしても、今は変わった。

自分でない誰かの思考を、自分の考えかたに援用するやりかたは、いつの頃 からだか当たり前になって、今ではもう、昔のやりかたなんて思い出せない。

ネットワーク化することで、パソコンには「人の認知を拡大する道具」としての意味が生まれた。

電子カルテのこと

今使われている電子カルテは、もちろんネットワーク化が為されていなくて、 病院の中でこそ、お互いのカルテを閲覧できるけれど、 「テレビによく出る○○先生はどんなカルテを書いてるんだろう」とか、 調べられないし、そんな機能は最初から想定されていない。

病院における電子カルテは、だから「ネットワーク」時代以前のパソコンそのままで、 それはたしかに優秀な「清書」を行ってくれる道具ではあるけれど、職場は何も変わらない。 あれだけの計算能力を持った機械が病棟に何台も入ってきたのに、 病院で行われている知的生産のやりかたは、自分が研修した10年前と、 何一つ変わっていない。

計算機の能力は上がったし、電子カルテのソフトだってずいぶん変わったんだろうけれど、 「電子カルテ以前」と「以後」と、聞こえてくるのは「仕事が飛躍的に面倒になった」なんて感想ばっかり。

近所の基幹病院は、昨年から大規模にコンピューターネットワークを整備して、完全な電子化を果たした。

近隣病院で撮影したレントゲンフィルムを読むことすらできなくなって、外来医師はキーボード入力に 忙殺されて、どう頑張っても20人以上の患者さんを診察できなくなったんだという。

やっぱりblog にしてほしい

今ある電子カルテは、単純な「清書」の道具であったり、 人間がやっていた事務手続きの一部を代替する道具であったり、 それはたしかに便利ではあるけれど、紙カルテでも十分に代替可能で、 文化を変えるだけの力を持つにはまだ足りない。

電子化の恩恵を最大に発揮するためには、やはりネットワーク化は欠かせないし、 それに必要な技術は、もはやすべてそろっている。

電子カルテを「blog」にしてしまえばいいのだと思う。

  • 医師は全員、自分がいる病院のサーバーにblog スペースを与えられて、 自分が担当しているすべての患者について「日記」を書く
  • 患者さんの名前と、診断名の数だけ「タグ」があって、時系列の日記は、タグを通じた並べ替えができる
  • 医師がログインしてカルテblog を書くときには、「患者名」タグは全て平文で表示される
  • blog は外部からの閲覧が可能だけれど、ログインしていない人が読むときには、「タグ」は暗号化されている。 外から見る人は、名前の分からない患者さんに対して、医師が行った診療内容と思考過程、処方した薬が読める
  • 誰か別の医師に自分の患者さんを紹介するときには、当該医師の日記に「トラックバック」を打てば、それが紹介状になる。 紹介状の文面をblog 上に書いておく。トラックバックをもらった相手は、そこから患者さんの紹介状を読んで、 リンクをたどって、その人の画像データや検査データにアクセスできる
  • 紹介の返信であったり、意見なんかは、blogの「コメント欄」を通じて書ける

いろんなメーカーの電子カルテがあるけれど、お互いやりとりするのはテキストデータとリンクだけだから、 画像や検査データの保存形式が異なっていても、恐らくは大丈夫なはず。

こんなやりかたができると、通常の紹介状に比べて圧倒的に多い情報を載せられるし、 相談がクリック一発でできるから、恐らくは紹介とか、相談の閾値が下がる。

患者さんの名前が分からないことを除けば、基本的に全ての情報が公開される。 医師のID とパスワードの一覧が流出した時点でとんでもないことになるのは明らかだけれど、 どうにかして、「ネットワーク化」が為された社会を見てみたい。

「頭がよくならざるを得ない」環境のこと

電子カルテのネットワーク化がもたらす最大の利点というのは、恐らくは全ての医師が 「有能にならざるを得ない」環境が生まれることなのだと思う。

「紹介状書くのに便利」だとか、「気軽に仲間に相談できる」だとか、 ネットワークに何か文章投げて、そこから出てきた反響を使って何か学習しましょう、 というやりかたを期待すると、blog というメディアは、間違いなくその人を裏切る。

反響は学習に寄与しない。人の個性というのは想像以上に個性的で、その人が好む情報は、結局のところは、 自分自身で探しに行って、それを消化吸収しないと役に立たない。

知識だとか、何かいい教科書の抜き書きなんかを紹介していただいたところで、「それだけ」から 何かを生み出せることはほとんど無くて、結局その分野を学習し直したり、 教えていただいた本を自分で買って読んだりしないと、次の文章にはつながらない。

ネットワークの学習効果というのは、お互いのやりとりだとか、反響ではなくて、 ただ単純に「発信する」という行為それ自体に発生する。

自分のために書くメモと、誰かに読んでもらう、外部に発信するための文章とでは、頭の使い方がまるで違ってくる。

誰かに読んでもらうためには、表現のあいまいさは排除されないといけないし、 自分がはっきりと理解していないことは、他人が読んでもつまらない。

何か本を読んで、面白い部分に線を引く。あとからそれを抜き書きしてblog で発信する。 こんな単純なやりかた一つとっても、blog に書くときには、線を引いた文章の語尾を直さないと、 面白い文章として生きてこない。

どんなに面白い文章であっても、それは文脈の中にあってこそ輝いて、単体としての力を保てるものは少ない。 文脈からそれだけを取り出して並べた文章は、なんだか「死んだ」ような、つまらないものになってしまう。 語尾を少しだけ変更する、ただそれだけのことが、その文章の面白さを伝えるためには欠かせなくて、 ほんの数カ所の単語を変えるだけのことなのに、それをやるためには本を読むこと以上に頭を使う。

カルテというのは本来、訴訟にでもならない限り、自分のメモでしかない、ごく個人的なものだったけれど、 全ての医師、あるいは患者さんに「開かれた」状況で書くカルテは、恐らくは今までと同じやりかたではいられない。 恐らく医師は、今まで以上に「頭を使って」、有能な状態を維持したままカルテを書かざるを得なくなる。 最低限、医師は自分が行っている行為の根拠を知っていないといけないし、「面白い」カルテを書くためには、 その分野のことを相当深く理解していないといけない。

個人情報保護の技術が難しそうだし、「ネットワークカルテ」の機能それ自体は、今行われている blog メディアと何も変わらない、新味のないものになってしまうけれど、 「みんなに読まれる」が当たり前になることの、学習へ寄与する効果は、もっと取り上げられてもいいように思う。

「カルテがつながる」と、全ての医師に対して、「頭がよくなる」ことを強制する環境が出現する。

すごく面白いことがおきるはず。

2008.10.01

輸入された価値観のこと

ほんの10年ぐらい前まで、感染症の治療には「広く効く新世代抗生物質」を使うのが常識で、 自分が研修した病院みたいに、旧世代の抗生剤を大量に使うやりかたは、当時はまだ珍しかった。

大学に移ったばかりの頃、連れて行ってもらった学会で、肺炎治療のフォーラムが開かれた。 「難治性の肺炎を、新世代の抗生剤で治した」症例が報告された。

虎ノ門病院の先生だったか、会場から質問が出た。「わざわざ新しい薬を使うまでもなく、 伝統的なペニシリンを大量に用いることで、それは十分に治療可能だったのではないでしょうか ?」なんて。 同じような考えかたをする人がいて、ちょっと嬉しかった。

パネリストをやっていた、偉い先生の反応はさんざんだった。

「 (゚Д゚)ハァ? 」
(´・ω・) 「先生、ペニシリン大量なんて聞いたことあります ?」
(・ω・`) 「私はちょっと、そういうやりかたはしたくありませんね…」

時は流れていろいろあって、「北米流」のやりかた、古い薬を大量に使うやりかたが、感染症治療の主流になった。

感染症科の先生がたは、今では誰もが「アメリカ」の看板背負って、病棟内を濶歩する。

自分なんかが不精して、昔風に広く効く抗生物質を使ってると、 「それはアメリカのガイドラインとは違います」なんて、自分より若い感染症医に怒られる。

「大丈夫」の意味

感染症科の先生がたは、ペニシリンを好む。

専門家に言わせれば、たとえペニシリン耐性を持っている菌であっても、 それが肺炎球菌による肺炎ならば、ペニシリンを大量に用いるのが正しくて、「それで大丈夫なんだ」と言う。 「耐性」というだけで内科は怖がる。効かない薬使ったら患者さん死んじゃうから、 たいていずるして、こっそり別の抗生剤投与して、見つかって、また怒られる。

「大丈夫」という言葉の解釈は、けっこう難しい。

「耐性でもペニシリンで大丈夫」という専門家の言葉が、それが「敵が新型ライフルを持っていても、 AK47 で十分戦える」みたいな意見なら納得するけれど、それが「熟達した兵士なら38式歩兵銃でも十分勝てる」 という意味ならば、そんな意見を吐く人の下で働くのは苦痛だろうなと思う。

肺炎球菌は、たとえペニシリンに耐性を持っていたとしても、たしかにペニシリンで十分戦える。

その代わりペニシリンは、他の細菌を叩くには役不足だから、ペニシリンが活躍するためには、 前提として「その患者さんの肺炎は、肺炎球菌が引き起こしている」ことが保証されないといけない。

残念ながら、患者さんを検査して、原因菌を突き止めるのは「兵士」である内科の仕事だから、 将軍がいくら「ペニシリンで十分」と宣言したところで、前提の保証が為されない以上、 その「大丈夫」は、現場の兵士に響かない。

技術と技芸のこと

ペニシリンは古い薬だけれど、使いどころを間違えなければ今でも最強の抗生物質の一つだし、 これがきちんと使いこなせる人というのは、たしかにどんな状況になっても、 「ここ」というタイミングでペニシリンを投入できる。

ペニシリンの使いかたに熟達した人のすごさは、その代わりペニシリンでしか発揮されない。 「ペニシリン名人」みたいな人が、世代の新しい広域抗生物質を使ったところで、 名人がその抗生剤の効果を何倍にも高められるかと言えば、もちろんそんなことはない。

「芸」を絶対化する価値観の中に生きていると、「芸」を成り立たせている外部環境が変わっても、 同様の絶対性を発揮するかのような錯覚を持ってしまう。これが行き着くところまでいってしまうと、 一芸に秀でた者は万能であるかのような考えかたを生む。

「芸」には欠点がある。状況が変われば対処が出来ないこと。「名人」を作るコストが莫大であること。 より高度な技術が開発された場合、「芸」は新しい状況に転用できず、たとえ日本刀時代の武芸者の「芸」は、 鉄砲時代には何の役にも立たず、無価値になってしまうこと。役に立たなくなってしまうが故に、 技術で遅れをとった場合、名人は、それを「量」で補うことすら出来なくなってしまうこと。

たとえばAK47 は、良くできた「工業製品」だった。それがカラシニコフの形をしていれば、 ロシア製だろうが、中国製だろうが、たいてい確実に動作する。射程距離は短くて、命中率も「そこそこ」 だけれど、それを正しく運用する技術は強力な戦力になるし、もっと優秀なライフルが手に入ったら、 その技術は軍隊をもっと強力にする。

日本軍が昔使っていた38式歩兵銃は、組み立てるのに職人芸が必要な芸術品だったのだという。

部品のばらつきが大きくて、まともに動作する銃に作り上げるためには、職人による技芸が必要だった。 きちんと組み立てられた38式歩兵銃は命中率が高かったけれど、「射芸」に熟達した兵士が、 「当たり」の銃を使わないと、本来の性能が発揮できなかった。

敗戦間際、職人の芸を持ってしてもまともな銃が組めなくなって、射芸に熟達した兵士が軍隊から いなくなって、日本の軍隊は、事実上戦えなくなってしまったのだと。

輸入された価値観のこと

感染症の先生がたは、「北米流」を輸入するのではなくて、 やっぱり自分たちなりの判断基準を、自分たちの言葉で記述してほしいなと思う。

状況に合わせて自ら創作したものは、状況に合わなくなれば、改訂して、 また使い続けることが出来るけれど、「輸入」したものは、それができない。

北米流を「権威」として輸入する今のやりかたは、それが権威であるが故に、 実情と合わない部分が出てきても改訂できないし、現場の不安に対して、 権威を運用する人達が答えを返せない。

借り物の権威は、「本家よりも厳しい」ことを持って、日本独自の権威として運用される。 それは同時に、「本家より厳しいのだから、自分達のほうが本物だ」という主張にもつながる。 欧米から借りてきたガイドラインは、だからしばしば「厳しさ」競争になって、 「それを破らないと治らない」、やっかいな代物となって、現場を縛る。

大東亜戦争の昔、西欧流のやりかたを輸入した日本軍は、軍紀の厳しさという点では、 世界のあらゆる軍隊よりも厳しく、融通が利かず、そしてこの融通が利かないところを一種の誇りとしていた。 日本軍は、軍紀上は最も合理的な軍隊でありながら、現実から遊離した、完全に不合理なものとなっていた。

抗生剤の「効き」というのは、薬としての力価、病巣への到達度、体内での持続時間、 さらにはその国の保険で認められている最大容量、いろんなパラメーターが左右する。

欧米と日本とでは、ほとんどあらゆるパラメーターが異なってくるから、 「武器」の強さは同じではありえなくて、輸入したやりかたは、やっぱりどこか、 現場とそぐわない。

状況が違うなら、それに合わせたやりかたを考えるべきだし、 判断を自ら記述しないで、借り物の権威を振り回す人達は、 やっぱり専門家名乗っちゃいけないと思う。

2008.09.20

ヒトデはクモより強い

医局のお話。

医局が独立国家だった時代があったんだと思う

「白い巨塔」時代の大昔には、大学病院だとか、大病院だとかの偉い先生方は、 どういうわけだか地元警察とか、国会議員なんかに知りあいがいて、 自分たちが率いている組織に何かトラブルがあったときには、実体としての政治力が 役に立ったんだなんて。昔話だからこそ、笑い話で済むようなお話。

恐らくは大昔、医局に所属することには、目に見えない形でのメリットがあった。

「研究ができる」とか、「大きな病院で働ける」、「学位がもらえる」みたいなものは、 「見える」メリット。「見えない」ものは、「その医局に所属している」ことそれ自体が、 その医局員の力を増幅する効果みたいな。

「我々の組織を甘く見るなよ」と言えることは、交渉の席ではすごい武器になる。

ヤクザの社会は、怖い人達が集まって「組織」を作って、あの人達は、 「集まった個人」以上の力を発揮する。「絶縁状」は重い刑罰で、ある組から縁を切られると、 もはやその人は「ただの人」になってしまう。医局にもたぶん、同じような効果があったんだと思う。

そこに属する人に服従を強制する代わり、「医局が考える人材」、医局にとってかわいい人材でありさえすれば、 医局は恐らくは、その医師に一定の保護を与えて、「看板」を運用することを許したから、 それが医師の忠誠心を引っ張り出した。

時代が進んで、いろんな物事がオープンになって、医局はどこかで、「見えない力」を 手放したような気がする。交渉の席に乗り込んでくのとか、トラブルにくちばし突っ込むのとか、 基本的に面倒くさいし、そんな力は、公式には「無い」ことになってるし。

ダークサイドを伴わないきれいな組織は、往々にして「いざ」と言うときに役に立たない。 裏側の力に対して、医局の人達がそれに無自覚になったとき、たぶん組織としての医局は力を失ったんだと思う。

民間医局は役に立つのか ?

大きな病院、とくに公立の病院は、トラブルが起きると、今も昔も「個人の問題」に矮小化して、 トラブルに巻き込まれた医師を切りにくる。

公立病院の冷たいやりかたに対抗する組織として、医局は昔から機能してきたけれど、 「医局の力」なんてものは、たしかに公式には存在しないから、今はどうなのか分からない。 分からないから、怖いから、公立病院からは人が逃げ出す。みんな民間の、小さな施設に逃げ込む。

民間病院が「守ってくれる」なんて、だれも一言も宣言しないけれど、民間病院には人が集まる。

小さな病院は、勤務する医師の数が少ないから、誰か1人が抜けただけて、外来に穴が空いたり、 当直が回らなくなったり、病院全体に影響が出る。人と組織との隔たりが少ないから、 その医師が、病院長にとって「かわいい」人間であり続ける限り、病院にはたぶん、 その医師を保護することにメリットが発生する。「その時」が来たら、だから民間の小さな病院は、 たぶん医師を守ってくれる。

恐らくは医師の最近の振る舞いは、こんなわずかな打算というか、 淡い期待というか、そんなものが駆動している気がする。

恐らくはこれから先、グッドウィルの医師版みたいな医師派遣会社が台頭して、 医師の保護と、労働条件の適正化をうたって、医師確保に走る。会社組織に所属する医師は、 ある程度までは増えるんだろうなと思う。

今のところはその代わり、まだあんまり成功していない印象。

市場は大きいし、利幅も大きいはずだけれど、医師の人件費は極端に高価だし、 基本的に自己中心的な人間の集まりだから、「会社」が忠誠心を引っ張るのは、たぶんすごく大変。 そのあたりは医局と同じで、会社から「絶縁」されたところで、医師には今のところ、 なんのデメリットも生じないから。

アルコホーリクス・アノニマスのやりかた

一定の「規格」を満たした医師であることを要求する代わりに、 「互助」と「保護」とを保証するやりかたとして、アルコール依存症患者さんの互助組織、 アルコホーリクス・アノニマスのやりかたを真似できたら、面白いと思う。

あの組織には「頭」に相当するものが無くて、組織を運営している母体になっているのは、 集会の効果と、その開催手法をまとめた本しかないらしい。「本部」に相当するものはあるけれど、 本を読んで、そのやりかたに賛同したその瞬間からその人は「会員」だから、 本部の人達もまた、どこにどれだけの会員がいて、どんな活動をしているのか、把握していないんだという。

クモとヒトデは、おおざっぱな形は似ているけれど、「組織」としての構造は、まるで違う。

クモの頭を潰したら、クモはそれで死んでしまうけれど、ヒトデには頭が存在しない。ヒトデを半分に切り裂くと、 ヒトデは2 匹に増えるだけで、死なない。

複雑なことはできないけれど、生存可能性に優れていて、部外者がそこに介入することが困難な、 「ヒトデ」みたいな組織形態は、医局みたいな、実はすごくシンプルな機能しか持たない組織を、 生存可能性と忠誠心とを高めるためのやりかたとしては、案外うまく行きそうな気がする。

具体案

「頭」を持った組織を止めて、「あるべき医師」の最低ラインと最高ラインを示した文章だけを用意する。 最低これだけは働くけれど、一方で、頑張りすぎて潰れるのも本人の責任みたいな、下限と上限とを持った文章。

医師としての下限と上限を宣言した上で、自分がその「真ん中」であり続ける努力をすることを 受け入れる代わり、何かあったとき、同じ「真ん中」にいた仲間の助け、裁判の時、 「私たちも同じ条件で勤務をしています」なんて証言するだとか、弁護士を手配するだとか、 そうした互助が得られるルールを定めておく。

努力の一方向性は弱点になる。「ヒポクラテスの誓い」みたいな、体力の限界越えて頑張りましょうというやりかたは、 宣言としてはかっこいいけれど、「保護」には遠くて、誓いを誰かに運用されてしまう。医師会みたいな条件闘争の やりかたもまた、ごく一部の戦う人達に「ただ乗り」することを許してしまって、「要するにおまえら 楽して稼ぎたいんだろ」みたいな、外野の突っ込みに対して防御できない。

努力の方向を定めない、組織に「頭」を作らないやりかた。組織は作らずルールだけ作って、 ルールを守ることを宣言したその瞬間から、その人は会員になる。

入会も、退会も自由なその代わり、その代わり、何かあったときは、その人の行動が、 本当にルールに沿ったものであったのか、「仲間」から検証を受けることになる。

サボりすぎた上での過誤なら保護の対象にはならないし、あるいは逆に、頑張りすぎた、 明らかにリスク取りすぎた上での過誤もまた、「熱心な私」であることをを優先するあまり、 患者さんに不当に高いリスクを積んだわけだから、保護の対象から外れる。

「下らないルールにこだわる屑どもが」なんて、こんなルールに賛同する連中を見放して頑張るのも自由だし、 もっと「おいしい」話に乗っかって、楽して大儲けするのも自由。

あくまでも「真ん中」で居続けることに賛同した医師同士の互助会にしか過ぎないけれど 一定割合以上の医師が、こんなガイドラインに賛同すると、自然と条件闘争が始まる。

「この労働規約で行くと、我々のガイドライン守れないから、仲間の保護が受けられません」なんて言いかたが、 「闘争」の武器になる。雇用する側が、「なら、君はいらないよ」と突っぱねようにも、近隣に住んでる 他の医師が、同じガイドラインに乗っかっていたら、ある程度の条件を呑まざるを得ないはず。

頭が存在しない、医師が医師を裁き、お互いを守る、こんなやりかたは、 次世代医局として結構面白いことになると思うんだけれど、誰か規約書かないだろうか。

「基本頑張るけれど、疲れたら休む。仲間が困ってたら助ける」

こんな内容を、ちょっとだけ難しそうな言葉で書けば、それでいいはずなんだけれど。

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