Home > 臨床研修

2008.11.10

現場の能力を「上」が把握するのは難しい

来年度の研修医がますます減りそうで、県内にある基幹病院の先生が、大学のことを憂慮していた。

来年度の研修医を獲得するために、大学は、たしかに多様な研修プログラムを準備しているみたいで、 たしかに大学の「上」にいる人達は、成果を見込んだ努力を行っているように見えるけれど、 外野から見たそのプログラムは、今の大学に残っている「現場」の力で運用するのは困難で、 たぶん計画倒れに終わってしまうだろうと。

大雑把に「上」と「現場」という言葉を使うと、「現場」が実際にどれだけの能力を持っているのか、 「上」が計画を立てたとして、「現場」は果たしてそれを実行できるのか、どれだけ詳細な報告を 上げたところで、「上」がそれを予測するのは、今も昔もやっぱり難しい。

医療の「現場」力

たとえば自分は「循環器内科」ということになっているけれど、今の病院にはカテ室がない。 心電図を読んだり、心不全の患者さんを診ることはできるけれど、心筋梗塞の患者さんとか、 専門的な治療が必要な患者さんについては、本格的な治療ができる施設にお願いしないと回らない。

心臓専門のセンター病院にしてからが、たしかに100人近い医師を擁してはいるけれど、 その中には外科医が居たり、不整脈の専門家とか、集中治療の専門家とか、 いろんな分野の人もいるし、すごいベテランから研修医まで、個人の能力は一定しない。

県にいる「上」の人達が、たとえば県内の「心筋梗塞を治療する能力」を把握しようとしたら、 それはたぶん、とんでもなく大変な作業になる。

医師の実数はつかめるだろうし、どの医師が、どんな専門を名乗っているのかも分る。 医師の経験年次だとか、病院内での役職だってすぐ分るけれど、いくら詳細に調べても、 そこからは「現場の能力」みたいなものは見えてこない。彼らはまた、県内のカテ室の総数だとか、 設備を把握することもできるだろうけれど、うちの病院の近くには、 稼働しなくなって久しいカテ室を持った病院が、少なくとも2ヶ所ある。

「上」の人達はだから、能力というものを、「結果」でしか把握できない。たとえばうちの県で、 年間1000人の心筋梗塞治療が行われたとしたならば、その年には少なくとも、「1000人分」の 能力は証明されたことになる。ところがこれが「500人」に落ちたとして、本当のところ何が起きたのか、 たぶん「上」には分らない。

状況把握の対象を、「お産」だとか「救急」だとか、範囲を広く設定すればするほどに、 恐らくは「上」が把握している能力と、現場が実際に持っている能力と、 お互いの数字はかけ離れていく。

「員数」と「実数」のこと

日本の軍隊には「員数」という考えかたがあって、「この場所にはこれだけの員数があってしかるべき」 なんて上が定義すると、それはもう、「それだけの数がいる」ことにされて計画が進んで、 現場には兵隊なんていないのに、員数上は規定数存在していたから、 無茶な計画が押しつけられては、現場は敗北を重ねたんだという。

第二次世界大戦当時、日本の首相だった東条英機には、ミッドウェイ海戦での敗北が、 すぐには伝えられなかったのだ。 海外に遠征した陸軍が敗北を繰り返す報告が上がってくる中、「連合艦隊はいったい何をしている」なんて東條が憤ると、 まわりの人から「ミッドウェイでとっくに沈んでます」なんて進言されて、絶句したんだという。

このあたりは「海軍将校某の陰謀だ」とか、「実際にはそんなことはなかった」だとか、 諸説入り乱れているみたいだけれど、実際問題、計画を練る人達だって、現場の能力を把握することは できなかったんだろうなと思う。

戦艦の「能力」一つ見たところで、完成したばっかりの、乗務員の練度だって低い状態だって1 隻だし、 単純に「沈没していない」というだけの、満身創痍の状態だって、書類上は「1」として送られる。 現場はもちろん「大損害を受けた」ことは十分分っているはずだけれど、「大損害だ」と言葉にすれば 簡単な何かを、「上」に伝えるためには数字にしないといけないし、数字になったその時点で、 情報はなくなってしまう。

情報の粒度をいくら細かくしたところで、情報が、「現場」から「上」への方向を 目指したその時点で、一番大切な何かは、やっぱり失われてしまうのだろうなと思う。

米軍には新品の戦車がない

アメリカ軍は、この20年近く、新しい戦車を作っていないのだそうだ。

今動いている戦車は全部「中古品」で、もう新しい戦車は作られない。その代わり、 国内には20平方キロメートルの敷地面積を持った、巨大な「再生工場」が2ヶ所あって、 戦車の再生を恒常的に繰り返しているらしい。

古くなったり、故障した戦車は、一度「解体工場」に送り返されて、部品単位にまでバラバラにされる。 エンジンから装甲版から、全ての部品は修理、再生されて、完全な「新品」の状態になるまで約半年、 そのつど装備のアップデートを受けて、また現場に戻される。

米軍の戦車は、だから中古品でありながら、それは何年経っても「新品」であって、 恐らくはそれ故に、米軍の「上」の人達が「戦車が10台ある」というレポートを読んだときの認識と、 現場の感覚として「戦車10台分戦える」という感覚と、日本軍の「員数主義」に比べれば、 その乖離は少ないんだろうなと思う。

「再生工場」を維持するのは大変で、米国以外の国には存在しないらしいし、 日本を含んだ他の国では、作った戦車は「作りっぱなし」で、書類上は「10台」と記載されていたところで、 いざというとき、果たして何台分戦える能力を現場が持っているのか、恐らくはその時になってもなお、 「上」の人達は把握できないんだろうと思う。

現場の把握は難しい

医師の人数を増やしたところで、現場の戦力がどう動くのかなんて、「上」の人達には把握できない。 今までの「作りっぱなし」のやりかたを繰り返す限りにおいては、 現場が持つべき能力を「上」が統治することなんて、不可能なんだと思う。

恐らくは米軍にしてからが、「上」の人達が「現場と情報の対応」に失敗して、 たぶん何度も大きな犠牲を払った結果として、こんな「再生工場」に行き着いたのだろうし、 ならば医療の現場で「再生工場」めいたものをどう作ればいいのか、 現場からはちょっと想像つかない。

「上」と「現場」とを上手にすりあわせる構造をひねり出すか、 そもそも「把握」それ自体が要らない仕組みを考え出すか。

員数主義貫いても、現場全滅するだけだと思う。

2008.10.12

証拠の時代の振る舞いかた

機関銃が世の中に登場して、それはもちろん極めて効率的な道具だったから、 すぐに戦争で用いられるようになった。

異民族との戦争では、機関銃は、時に100倍もの戦力差を跳ね返す活躍を見せたから、 現場の兵士はその武器を大歓迎して、それでもなお、将官の人達は、機関銃の価値を認めようとしなかったのだという。

兵士が一列横隊で銃剣突撃して、騎兵隊が戦場最強の部隊だった時代。

戦争教則は、銃剣と騎兵とを最大に生かすように理論が組まれて、磨き上げられた理論を捨てるのは もったいないから、将軍は機関銃を捨てた。

それはたしかに「異民族」との戦いで活躍したかもしれないけれど、「人間同士」の戦いは、 あくまでもライフルと、銃剣突撃とで決着がつくものだから、そこに機関銃の出番はないのだと。

本当の戦争が始まって、ドイツが機関銃を採用して、横一文字に並んだ騎兵、「正しい戦場」での 最強部隊が、機関銃陣地に殺到した。

騎兵も歩兵も、もちろん機関銃に皆殺しにされて、そこから初めて、機関銃は「正しさ」を得た。

高齢者医療のこと

寝たきりに近いような高齢者の肺炎を治療するときは、どうせほとんどが誤嚥だし、 入院当初はゼーゼー言ってる人多いから、必ずといっていいほど広域の抗生剤を使って、 ごく少量のステロイドを併用する。邪道だけれど、熱がすぐ下がる。

若い人は病気に対する身体の反応が強いから、たぶん少量ステロイドなんかは高齢者以上に 有効だし、基本的に歩いて退院して、みんな二度と病院には来ないから、どれだけ強力な 抗生物質を使ったところで、耐性菌の問題が発生しない。

寝たきりに近いような、「異民族」である高齢者によく効くやりかたは、 もちろん若い人にだって有効なんだけれど、「少量ステロイド」は教科書に書いてない。 恐らくは、いろんな領域の治療手段に、こうした「邪道」があるはずだけれど、 若い人の治療は、教科書どおりに厳密にやらないと、万が一の時すごく怖いから、 教科書から逸脱できない。

逆説的だけれど、教科書どおりにやって失敗したところで、自分達は悪くない。 教科書のやりかたを逸脱しないと治癒が見えてこない状況で、ルールを破って、 もしも成果が「完璧」に届かなかったら、人生失う。

成果を問われる人ほど過程が重視される

超高齢者の病気みたいな、そもそもの治癒率が若い人に比べて低くて、 その代わり、「失敗」しても責を問われにくい「異民族」に対してなら、 たぶんたいていの病院で、主治医が考える範囲で一番有効な手段から行使される。

一方で、若くて歩いてきた患者さんみたいに、「絶対に失敗できない」ような 人を相手にするときには、教科書どおりの、「機関銃を使わないで騎兵を前進させる」 やりかたしか選択できない。

成功へのプレッシャーが厳しくなればなるほどに、過程の「正しさ」が重視される。 誰が重視するのかといえば、それはたぶん「主治医の中の裁判官」みたいな、 本来そこにいないはずの誰かなんだけれど。

ルールがいいかげんだった昔、ガイドラインというのは、それを破ることで初めて治癒につながるような ところがあって、治療のやりかたは、医師が違えばみんな微妙に違ってたから、 要するに「勝てばいい」状態だった。

「証拠」の時代になって、ルールの正しさが厳密に検証されるようになって、 ルールは正しさを得た代わり、融通が利かなくなった。「正しく勝つ」ことは、 「ただ勝つ」ことより困難だった、正しさで磨かれたルールは、 逸脱を許してくれなくなった。

正しい誤診のノウハウ

恐らくはガイドラインを書いてる人も、そのあたりを暗黙に分かっているのだと思う。

「不必要に広域の抗生剤の使用は現に慎むべきである」なんて前書きが書いてあるくせに、 当のガイドラインに記載されている抗生剤は、もう地上のあらゆる細菌を殺せるようなものが 選択されていたりとか、それが「正しい」ことになっているから。

発熱して具合の悪い患者さんがいて、何となく細菌感染症で、とにかく速く抗生物質を 使いたい状況があったとき、その人をとりあえず、肺炎と「誤診」しておくと、 あらゆる細菌を殺せるような抗生物質が、「正しく」利用できるようになる。

ルールが示す正しさと、その状況に置かれた医師が想定する正しさとが異なることは、たぶん そんなに珍しいことではなくて、ルールが厳密になればなるほどに、今度はそのルールを 回避するための「正しい誤診のやりかた」みたいな、悪いノウハウが現場に貯まる。

証拠に基づいた医療、Evidence Based Medicine の考えかたというのは、 受け持った患者さんを診るときには主治医の手足を縛るけれど、 診たくない患者さんを断るときには、絶大な威力を発揮する。

○○様のご加療に関しては、ガイドライン上は、貴施設の設備にて十分に対応可能かと思われます。
先生におかれましてはお忙しい中申し訳ありませんが、よろしくご加療下さい。
証拠に基づいた正しい医療を心がけ、お互い精進していきたいものです。 敬具。

紹介受けて、断って、こんな文面で返事書いておけば、たぶん二度と送ってこない。

以前、休日外来で「胆管炎」を診断した先生が、その人を入院させようにも、 どこの病院も取ってくれなかったなんて嘆いてたけれど、胆管炎のガイドラインは厳密で、 「最低限これだけの」という人的リソースが、細かく指定されている。現場をよく知った人達が、 「絶対に勝てる戦い」するために作ったガイドライン。

それだけの装備を休日にそろえているところは少ないはずだから、胆管炎を診断したその先生は、 むしろ「分からないけれどお腹痛がってまーす」なんて、バカのふりして「誤診」するのが、 患者さんにとってはよっぽど正しいやりかただった。

こういう教科書書いてほしい

「証拠」と「統計」が好きな人達は、「蹄の音を聞いたときにシマウマを想像してはいけない」なんていう。

蹄の音を立てて歩く生き物といえば「馬」であって、シマウマは滅多にいないから、頻度順で考えよなんて。

たとえばその人がサバンナに放り出されて、シマウマという生き物が、滅多にいないけれど、 猛毒持った肉食動物だったとしたら、恐らくは同じことを言えない気がする。

殺されたくなかったら、「シマウマを想像してはいけない」じゃなくて、 まずはシマウマでないことを確認しないといけないし、生き延びていくためには草食動物を狩る必要があったとして、 蹄の音が聞こえたのなら、それがシマウマでないことさえ分かれば、あとは相手が馬だろうが水牛だろうが、 「槍を投げて仕留める」やりかたは、そんなに変わらない。

教科書はだから、症状別に項目を分けて、まずは「その症状で死ぬ」病気を列挙して、 それぞれの診断方法と、検査の感度をとをまとめてほしい。同じ病気を診断するのにも、 全身のCTスキャン撮るやりかたから理学所見一本でやるやりかたまで様々だろうけれど、 教科書は診断確度を示すだけで、「武器」の選択は主治医任せで。

「死ぬ病気」が除外できた患者さんは、その時点ではまだ症状を持っていて、 身体は「分からないけれどとりあえず死なない」状態になっているはず。 症状ごとの各論編は、今度は「ステロイドが効く疾患」「抗生物質が効く疾患」 「抗凝固薬が必要な疾患」だとか、治療がある程度共通する病気をまとめて、 それぞれの治療を開始するために必要な所見と、そこに属するそれぞれの疾患について、 詳しい診断方法を記述するのがいいと思う。

分からない人に遭遇した状況で、まず一番知りたいのは、 患者さんを「分からないけれどとりあえず死なない」状態に持って行くことで、 次にやるべきは、症状に対して治療を開始すること。診断名は本来そのあとだっていいはず。 一つの症状に、考えられる診断名が20も30も列挙されたところで、治療なんてどうせ3種類ぐらいしかないんだから。

いろんな施設が「院内マニュアル」みたいなものを、もっと公開するといいなと思う。

正しさと統計とで磨き上げられたガイドラインは、信仰したり、 相手を罵倒するための道具としては、すごく良くできているんだけれど。

2008.10.09

診断学のこと

診断学の本を読んでいる。

ベイズ推定が主流になるのか、どの本も、「総論」のところに統計学的な疾患推定のやりかたが解説されている。

「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」だとか、医師の思い込みだとか、 先入観で診断を行うことを戒めてる。

驚きが追従者を生む

統計的には、感度が高い検査が陽性になったからといって、そもそもの発症頻度が低い病気なら、 その陽性にはあまり意味がないのだという。95% の的中率を誇る検査で「陽性」が でたからといって、普通の人がその疾患にかかる確率が5%でしかないのなら、 「陽性」と言われたその人がその病気である可能性は9%にしか過ぎなくて、 「陽性」の9割は間違えなのだ、なんて紹介される。

新しいやりかたで、今までやってきたことを振り返ると、しばしば全く違った世界が見える。 「先入観」が隠してた何かだとか、自分達が必要以上に恐怖を煽って、あるいは煽られていた部分だとか。 統計のやりかたは、しばしば読者を驚かせる。読者の「誤り」を指摘して、その人を驚かせて、 統計学者は信者を増やす。

診断学は閉じた学問で、人間が人間である以上、毎年のように病気の数が増えることなんてありえないし、 今も昔も、肺炎になった人は咳をするし、胃潰瘍になった人はお腹を痛がる。変化がないから「間に合っている」 とも言えるし、進歩がないぶん、誰もがそこに、新しい技術を入れたがってる。

「エビデンスに基づいた」医療のやりかた、診断にたどり着くために「ベイズ推定」を用いるやりかたは、 診断学の世界に久しぶりに登場した新しいやりかた。いろんな「常識」が覆されて、 恐らくは「エビデンス」との相性抜群だから、これから内科を学ぶ人達は、きっと統計の知識が必須になるんだろうなと思う。

正しい技術は驚かない

統計的な考えかたを導入した、新しい世代の診断学は、読んでいてたしかに驚かされる。 自分達が盤石と思っていた検査の感度が案外悪くて、ごく素朴な、患者さんにささやかな質問をするだとか、 足をちょっと触ってみるだとか、簡単な理学所見を取るだけのことが、極めて高い診断確率を持っていたりする。

読んでいて驚く。驚くんだけれど、読者に「驚き」を提供する新技術は、 それでもたぶん、どこか間違ってると思う。

世の中をひっくり返すような新しい技術は、たいていは「便利」なものとして世の中に登場して、 それが出現した翌日から、それは生活の一部として認識されて、新技術を使う人達は、ほとんど誰も驚かない。

その技術が登場したあと、みんなの生活は一変していて、技術に詳しい人達は、みんな「すごい時代になった」なんて 感心しているのだけれど、その変化はあまりにも自然に行われてしまうから、たいていの人は驚かないし、 「それがなかった昔」を振り返らない。

インターネットを使った動画配信の技術なんかは、たぶんそのすごさが理解できる人にとってはすごい技術なんだろうけれど、 自分達ユーザーは、単に「便利だな」と思いながらそれを使って、youtube はすぐに生活の一部になった。 パソコンでテレビを見るのが一般的になって、昔ながらの、みんなで今に集まってテレビを見る習慣は無くなったりして、 たぶん生活のいろんな風景が変わったのだろうけれど、あの技術で「驚いた」人は、たぶん youtube を視聴する 莫大な数のユーザーからみると、ごくわずかな数でしかないんだろうと思う。

診断学にベイズ理論を取り入れるやりかたは、どの本開いても、最初に「読者の驚き」を要求する。 たしかに驚くんだけれど、驚きを求めないと話が前に進まないこの時点で、すでにこのやりかたは、 技術的に「正しくない」ような気がしている。

患者さんは安心を買いに来る

同業者が「驚く」技術、あるいは考えかたは、そのやりかたを患者さんに適用すれば、 患者さんはもちろん、もっと驚く。

驚きは不安につながる。患者さんの不安に対して、統計学者は「それはあなたの先入観なんです」なんて言うんだろうけれど、 不安に根拠のないことが「統計的に」証明されたところで、やっぱり不安はそのまま残る。

統計学者にとっての「誤差範囲」の事象は、それでも当人にとっては、一生を左右する問題になる。

不安駆動型のやりかた、症状から考えられる疾患名を「死ぬ順」に並べて、 「死ぬ病気」から順番に除外していくやりかたは、統計学者からは叩かれるけれど、 素朴な直感に逆らわない、医師も患者も安心できるやりかたではある。

自分達が売っているものについて、みんなもっと自覚的になるべきだと思う。 医療は結局のところ「安心」を販売して対価を得ているのであって、「診断」だとか、 「治癒」でさえもまた、安心が生まれて、初めて価値が生まれるものにしか過ぎない。

統計を売るのはコンサルタントの仕事だけれど、医師が統計を学んで、 それをそのまま患者さんに販売したところで、お客さんはたぶん喜ばない。

症状は創発する

たとえば隣町の病院まで 2時間かかる田舎の診療所に「頭痛」を訴えてきた人と、 コンビニエンスストアと化している総合病院に、日曜日の夕方に、頭痛で立ち寄った人と、 それを同じ「頭痛」の範疇で扱ってはいけないような気がする。

症状というものは、その人の病理と、その人が対峙した環境とが相互作用を生じることで、創発する。

田舎の診療所に来る頭痛は、病理それ自体が生み出した「本物」である可能性が高いけれど、 CTスキャンがある、日曜日の夕方なら「空いている」ことが周知されている病院で発生した「頭痛」は、 むしろ「CTを切ってほしい」というニーズが、頭痛を要請した可能性がある。

CTスキャンを撮りたくて病院に来た人に、ていねいな診察を行って、 「CTを取る必要はありません」なんて説明したところで、恐らく満足は得られない。 あるいは逆に、外来に「CT時間外10万円」と書いた紙を貼っておくだけで、 この患者さんの「頭痛」は治ってしまうかもしれない。

統計で考える診断学は、症状を、患者さん固有のものとしてあつかって、 同じ患者さんに発生した同じ症状は、それがどこで発生しても、バックグラウンドでは 同じ病理が進行していることが前提になっている。

これは「経済合理的な人間」を前提にした経済学がうまく機能しないのと同様に、どこか危険な気がする。

新しい技術のこと

新しい技術が入ると、それがどちらに転んでも、現場はたぶん「馬鹿」になる。

現場を正しく「馬鹿」にする技術は、ベテランの価値を普遍化してしまう。現場は大学出たての 研修医でも普通に回るようになって、そうした技術は、現場を「馬鹿」ばっかりにしてしまう。

伝説の宮大工、西岡常一は、現役時代、大学の先生から「馬鹿」扱いされたんだという。

ある時期の建築学が、現場を見ないで一人歩きしたことがあって、 大工の目から見て「建たない」やりかたが「正しい」とされた。大学の先生の指導に従わないで現場を回していた西岡は、 大学の人達から「馬鹿」と言われて、実際に作って見せるまで、「馬鹿」の評価は覆らなかったんだという。

新しいやりかたが導入されて、現場はたしかに驚いた。統計の技術は正しくて、 なんだか反論するのが難しそうで、自分なんかはだから、これから先、統計学んだ人達から「馬鹿」と 言われる機会が増えるんだろうなと思う。

2008.10.08

電子カルテをネットワーク化してほしい

個人情報の問題が大きすぎるから実現は難しいけれど、 やっぱりいつかは、電子カルテをネットワーク化して、医師同士、あるいは 患者さんが、いろんなカルテを相互に参照できるようになってほしいなと思う。

思考を拡大する道具としてのコンピューター

「知的生産の技術」以降、ジャーナリストであったり研究者であったり、様々な人達が、 情報を整理したり、並べ替えたりするやりかたを工夫しあって、そうした人達は当然のように、 真っ先にコンピューターを取り入れた。

それが書斎に入ってきた当初、コンピューターは、単なる便利な計算機か、 せいぜい「清書」の道具以上のものにはなり得なかった。ハイパーカードだとか、 データベースソフトだとか、たしかにそれが「便利だ」と喧伝されたこともあったけれど、 結局のところ入力があまりにも大変で、昔ながらの「カード」と「システム手帳」に 回帰した人が多かったように思う。

知的生産は、あくまでもノートやカードを使って行うものの延長だった。 コンピューターの出現それ自体が、人の考えかたを大きく変えることはなかったし、それが求められたこともなかった。

ネットワークでパソコン同士がつながって、どこかのタイミングで、何かが劇的に変化した。

もしかしたら速い人は「パソコン通信」時代からそうだったのかもしれないし、 自分なんかは、掲示板文化だとか、メーリングリストの時代を経てもなお、 「袋ファイルとシステム手帳」を使っていたけれど、いずれにしても、今は変わった。

自分でない誰かの思考を、自分の考えかたに援用するやりかたは、いつの頃 からだか当たり前になって、今ではもう、昔のやりかたなんて思い出せない。

ネットワーク化することで、パソコンには「人の認知を拡大する道具」としての意味が生まれた。

電子カルテのこと

今使われている電子カルテは、もちろんネットワーク化が為されていなくて、 病院の中でこそ、お互いのカルテを閲覧できるけれど、 「テレビによく出る○○先生はどんなカルテを書いてるんだろう」とか、 調べられないし、そんな機能は最初から想定されていない。

病院における電子カルテは、だから「ネットワーク」時代以前のパソコンそのままで、 それはたしかに優秀な「清書」を行ってくれる道具ではあるけれど、職場は何も変わらない。 あれだけの計算能力を持った機械が病棟に何台も入ってきたのに、 病院で行われている知的生産のやりかたは、自分が研修した10年前と、 何一つ変わっていない。

計算機の能力は上がったし、電子カルテのソフトだってずいぶん変わったんだろうけれど、 「電子カルテ以前」と「以後」と、聞こえてくるのは「仕事が飛躍的に面倒になった」なんて感想ばっかり。

近所の基幹病院は、昨年から大規模にコンピューターネットワークを整備して、完全な電子化を果たした。

近隣病院で撮影したレントゲンフィルムを読むことすらできなくなって、外来医師はキーボード入力に 忙殺されて、どう頑張っても20人以上の患者さんを診察できなくなったんだという。

やっぱりblog にしてほしい

今ある電子カルテは、単純な「清書」の道具であったり、 人間がやっていた事務手続きの一部を代替する道具であったり、 それはたしかに便利ではあるけれど、紙カルテでも十分に代替可能で、 文化を変えるだけの力を持つにはまだ足りない。

電子化の恩恵を最大に発揮するためには、やはりネットワーク化は欠かせないし、 それに必要な技術は、もはやすべてそろっている。

電子カルテを「blog」にしてしまえばいいのだと思う。

  • 医師は全員、自分がいる病院のサーバーにblog スペースを与えられて、 自分が担当しているすべての患者について「日記」を書く
  • 患者さんの名前と、診断名の数だけ「タグ」があって、時系列の日記は、タグを通じた並べ替えができる
  • 医師がログインしてカルテblog を書くときには、「患者名」タグは全て平文で表示される
  • blog は外部からの閲覧が可能だけれど、ログインしていない人が読むときには、「タグ」は暗号化されている。 外から見る人は、名前の分からない患者さんに対して、医師が行った診療内容と思考過程、処方した薬が読める
  • 誰か別の医師に自分の患者さんを紹介するときには、当該医師の日記に「トラックバック」を打てば、それが紹介状になる。 紹介状の文面をblog 上に書いておく。トラックバックをもらった相手は、そこから患者さんの紹介状を読んで、 リンクをたどって、その人の画像データや検査データにアクセスできる
  • 紹介の返信であったり、意見なんかは、blogの「コメント欄」を通じて書ける

いろんなメーカーの電子カルテがあるけれど、お互いやりとりするのはテキストデータとリンクだけだから、 画像や検査データの保存形式が異なっていても、恐らくは大丈夫なはず。

こんなやりかたができると、通常の紹介状に比べて圧倒的に多い情報を載せられるし、 相談がクリック一発でできるから、恐らくは紹介とか、相談の閾値が下がる。

患者さんの名前が分からないことを除けば、基本的に全ての情報が公開される。 医師のID とパスワードの一覧が流出した時点でとんでもないことになるのは明らかだけれど、 どうにかして、「ネットワーク化」が為された社会を見てみたい。

「頭がよくならざるを得ない」環境のこと

電子カルテのネットワーク化がもたらす最大の利点というのは、恐らくは全ての医師が 「有能にならざるを得ない」環境が生まれることなのだと思う。

「紹介状書くのに便利」だとか、「気軽に仲間に相談できる」だとか、 ネットワークに何か文章投げて、そこから出てきた反響を使って何か学習しましょう、 というやりかたを期待すると、blog というメディアは、間違いなくその人を裏切る。

反響は学習に寄与しない。人の個性というのは想像以上に個性的で、その人が好む情報は、結局のところは、 自分自身で探しに行って、それを消化吸収しないと役に立たない。

知識だとか、何かいい教科書の抜き書きなんかを紹介していただいたところで、「それだけ」から 何かを生み出せることはほとんど無くて、結局その分野を学習し直したり、 教えていただいた本を自分で買って読んだりしないと、次の文章にはつながらない。

ネットワークの学習効果というのは、お互いのやりとりだとか、反響ではなくて、 ただ単純に「発信する」という行為それ自体に発生する。

自分のために書くメモと、誰かに読んでもらう、外部に発信するための文章とでは、頭の使い方がまるで違ってくる。

誰かに読んでもらうためには、表現のあいまいさは排除されないといけないし、 自分がはっきりと理解していないことは、他人が読んでもつまらない。

何か本を読んで、面白い部分に線を引く。あとからそれを抜き書きしてblog で発信する。 こんな単純なやりかた一つとっても、blog に書くときには、線を引いた文章の語尾を直さないと、 面白い文章として生きてこない。

どんなに面白い文章であっても、それは文脈の中にあってこそ輝いて、単体としての力を保てるものは少ない。 文脈からそれだけを取り出して並べた文章は、なんだか「死んだ」ような、つまらないものになってしまう。 語尾を少しだけ変更する、ただそれだけのことが、その文章の面白さを伝えるためには欠かせなくて、 ほんの数カ所の単語を変えるだけのことなのに、それをやるためには本を読むこと以上に頭を使う。

カルテというのは本来、訴訟にでもならない限り、自分のメモでしかない、ごく個人的なものだったけれど、 全ての医師、あるいは患者さんに「開かれた」状況で書くカルテは、恐らくは今までと同じやりかたではいられない。 恐らく医師は、今まで以上に「頭を使って」、有能な状態を維持したままカルテを書かざるを得なくなる。 最低限、医師は自分が行っている行為の根拠を知っていないといけないし、「面白い」カルテを書くためには、 その分野のことを相当深く理解していないといけない。

個人情報保護の技術が難しそうだし、「ネットワークカルテ」の機能それ自体は、今行われている blog メディアと何も変わらない、新味のないものになってしまうけれど、 「みんなに読まれる」が当たり前になることの、学習へ寄与する効果は、もっと取り上げられてもいいように思う。

「カルテがつながる」と、全ての医師に対して、「頭がよくなる」ことを強制する環境が出現する。

すごく面白いことがおきるはず。

2008.10.01

輸入された価値観のこと

ほんの10年ぐらい前まで、感染症の治療には「広く効く新世代抗生物質」を使うのが常識で、 自分が研修した病院みたいに、旧世代の抗生剤を大量に使うやりかたは、当時はまだ珍しかった。

大学に移ったばかりの頃、連れて行ってもらった学会で、肺炎治療のフォーラムが開かれた。 「難治性の肺炎を、新世代の抗生剤で治した」症例が報告された。

虎ノ門病院の先生だったか、会場から質問が出た。「わざわざ新しい薬を使うまでもなく、 伝統的なペニシリンを大量に用いることで、それは十分に治療可能だったのではないでしょうか ?」なんて。 同じような考えかたをする人がいて、ちょっと嬉しかった。

パネリストをやっていた、偉い先生の反応はさんざんだった。

「 (゚Д゚)ハァ? 」
(´・ω・) 「先生、ペニシリン大量なんて聞いたことあります ?」
(・ω・`) 「私はちょっと、そういうやりかたはしたくありませんね…」

時は流れていろいろあって、「北米流」のやりかた、古い薬を大量に使うやりかたが、感染症治療の主流になった。

感染症科の先生がたは、今では誰もが「アメリカ」の看板背負って、病棟内を濶歩する。

自分なんかが不精して、昔風に広く効く抗生物質を使ってると、 「それはアメリカのガイドラインとは違います」なんて、自分より若い感染症医に怒られる。

「大丈夫」の意味

感染症科の先生がたは、ペニシリンを好む。

専門家に言わせれば、たとえペニシリン耐性を持っている菌であっても、 それが肺炎球菌による肺炎ならば、ペニシリンを大量に用いるのが正しくて、「それで大丈夫なんだ」と言う。 「耐性」というだけで内科は怖がる。効かない薬使ったら患者さん死んじゃうから、 たいていずるして、こっそり別の抗生剤投与して、見つかって、また怒られる。

「大丈夫」という言葉の解釈は、けっこう難しい。

「耐性でもペニシリンで大丈夫」という専門家の言葉が、それが「敵が新型ライフルを持っていても、 AK47 で十分戦える」みたいな意見なら納得するけれど、それが「熟達した兵士なら38式歩兵銃でも十分勝てる」 という意味ならば、そんな意見を吐く人の下で働くのは苦痛だろうなと思う。

肺炎球菌は、たとえペニシリンに耐性を持っていたとしても、たしかにペニシリンで十分戦える。

その代わりペニシリンは、他の細菌を叩くには役不足だから、ペニシリンが活躍するためには、 前提として「その患者さんの肺炎は、肺炎球菌が引き起こしている」ことが保証されないといけない。

残念ながら、患者さんを検査して、原因菌を突き止めるのは「兵士」である内科の仕事だから、 将軍がいくら「ペニシリンで十分」と宣言したところで、前提の保証が為されない以上、 その「大丈夫」は、現場の兵士に響かない。

技術と技芸のこと

ペニシリンは古い薬だけれど、使いどころを間違えなければ今でも最強の抗生物質の一つだし、 これがきちんと使いこなせる人というのは、たしかにどんな状況になっても、 「ここ」というタイミングでペニシリンを投入できる。

ペニシリンの使いかたに熟達した人のすごさは、その代わりペニシリンでしか発揮されない。 「ペニシリン名人」みたいな人が、世代の新しい広域抗生物質を使ったところで、 名人がその抗生剤の効果を何倍にも高められるかと言えば、もちろんそんなことはない。

「芸」を絶対化する価値観の中に生きていると、「芸」を成り立たせている外部環境が変わっても、 同様の絶対性を発揮するかのような錯覚を持ってしまう。これが行き着くところまでいってしまうと、 一芸に秀でた者は万能であるかのような考えかたを生む。

「芸」には欠点がある。状況が変われば対処が出来ないこと。「名人」を作るコストが莫大であること。 より高度な技術が開発された場合、「芸」は新しい状況に転用できず、たとえ日本刀時代の武芸者の「芸」は、 鉄砲時代には何の役にも立たず、無価値になってしまうこと。役に立たなくなってしまうが故に、 技術で遅れをとった場合、名人は、それを「量」で補うことすら出来なくなってしまうこと。

たとえばAK47 は、良くできた「工業製品」だった。それがカラシニコフの形をしていれば、 ロシア製だろうが、中国製だろうが、たいてい確実に動作する。射程距離は短くて、命中率も「そこそこ」 だけれど、それを正しく運用する技術は強力な戦力になるし、もっと優秀なライフルが手に入ったら、 その技術は軍隊をもっと強力にする。

日本軍が昔使っていた38式歩兵銃は、組み立てるのに職人芸が必要な芸術品だったのだという。

部品のばらつきが大きくて、まともに動作する銃に作り上げるためには、職人による技芸が必要だった。 きちんと組み立てられた38式歩兵銃は命中率が高かったけれど、「射芸」に熟達した兵士が、 「当たり」の銃を使わないと、本来の性能が発揮できなかった。

敗戦間際、職人の芸を持ってしてもまともな銃が組めなくなって、射芸に熟達した兵士が軍隊から いなくなって、日本の軍隊は、事実上戦えなくなってしまったのだと。

輸入された価値観のこと

感染症の先生がたは、「北米流」を輸入するのではなくて、 やっぱり自分たちなりの判断基準を、自分たちの言葉で記述してほしいなと思う。

状況に合わせて自ら創作したものは、状況に合わなくなれば、改訂して、 また使い続けることが出来るけれど、「輸入」したものは、それができない。

北米流を「権威」として輸入する今のやりかたは、それが権威であるが故に、 実情と合わない部分が出てきても改訂できないし、現場の不安に対して、 権威を運用する人達が答えを返せない。

借り物の権威は、「本家よりも厳しい」ことを持って、日本独自の権威として運用される。 それは同時に、「本家より厳しいのだから、自分達のほうが本物だ」という主張にもつながる。 欧米から借りてきたガイドラインは、だからしばしば「厳しさ」競争になって、 「それを破らないと治らない」、やっかいな代物となって、現場を縛る。

大東亜戦争の昔、西欧流のやりかたを輸入した日本軍は、軍紀の厳しさという点では、 世界のあらゆる軍隊よりも厳しく、融通が利かず、そしてこの融通が利かないところを一種の誇りとしていた。 日本軍は、軍紀上は最も合理的な軍隊でありながら、現実から遊離した、完全に不合理なものとなっていた。

抗生剤の「効き」というのは、薬としての力価、病巣への到達度、体内での持続時間、 さらにはその国の保険で認められている最大容量、いろんなパラメーターが左右する。

欧米と日本とでは、ほとんどあらゆるパラメーターが異なってくるから、 「武器」の強さは同じではありえなくて、輸入したやりかたは、やっぱりどこか、 現場とそぐわない。

状況が違うなら、それに合わせたやりかたを考えるべきだし、 判断を自ら記述しないで、借り物の権威を振り回す人達は、 やっぱり専門家名乗っちゃいけないと思う。

2008.09.20

ヒトデはクモより強い

医局のお話。

医局が独立国家だった時代があったんだと思う

「白い巨塔」時代の大昔には、大学病院だとか、大病院だとかの偉い先生方は、 どういうわけだか地元警察とか、国会議員なんかに知りあいがいて、 自分たちが率いている組織に何かトラブルがあったときには、実体としての政治力が 役に立ったんだなんて。昔話だからこそ、笑い話で済むようなお話。

恐らくは大昔、医局に所属することには、目に見えない形でのメリットがあった。

「研究ができる」とか、「大きな病院で働ける」、「学位がもらえる」みたいなものは、 「見える」メリット。「見えない」ものは、「その医局に所属している」ことそれ自体が、 その医局員の力を増幅する効果みたいな。

「我々の組織を甘く見るなよ」と言えることは、交渉の席ではすごい武器になる。

ヤクザの社会は、怖い人達が集まって「組織」を作って、あの人達は、 「集まった個人」以上の力を発揮する。「絶縁状」は重い刑罰で、ある組から縁を切られると、 もはやその人は「ただの人」になってしまう。医局にもたぶん、同じような効果があったんだと思う。

そこに属する人に服従を強制する代わり、「医局が考える人材」、医局にとってかわいい人材でありさえすれば、 医局は恐らくは、その医師に一定の保護を与えて、「看板」を運用することを許したから、 それが医師の忠誠心を引っ張り出した。

時代が進んで、いろんな物事がオープンになって、医局はどこかで、「見えない力」を 手放したような気がする。交渉の席に乗り込んでくのとか、トラブルにくちばし突っ込むのとか、 基本的に面倒くさいし、そんな力は、公式には「無い」ことになってるし。

ダークサイドを伴わないきれいな組織は、往々にして「いざ」と言うときに役に立たない。 裏側の力に対して、医局の人達がそれに無自覚になったとき、たぶん組織としての医局は力を失ったんだと思う。

民間医局は役に立つのか ?

大きな病院、とくに公立の病院は、トラブルが起きると、今も昔も「個人の問題」に矮小化して、 トラブルに巻き込まれた医師を切りにくる。

公立病院の冷たいやりかたに対抗する組織として、医局は昔から機能してきたけれど、 「医局の力」なんてものは、たしかに公式には存在しないから、今はどうなのか分からない。 分からないから、怖いから、公立病院からは人が逃げ出す。みんな民間の、小さな施設に逃げ込む。

民間病院が「守ってくれる」なんて、だれも一言も宣言しないけれど、民間病院には人が集まる。

小さな病院は、勤務する医師の数が少ないから、誰か1人が抜けただけて、外来に穴が空いたり、 当直が回らなくなったり、病院全体に影響が出る。人と組織との隔たりが少ないから、 その医師が、病院長にとって「かわいい」人間であり続ける限り、病院にはたぶん、 その医師を保護することにメリットが発生する。「その時」が来たら、だから民間の小さな病院は、 たぶん医師を守ってくれる。

恐らくは医師の最近の振る舞いは、こんなわずかな打算というか、 淡い期待というか、そんなものが駆動している気がする。

恐らくはこれから先、グッドウィルの医師版みたいな医師派遣会社が台頭して、 医師の保護と、労働条件の適正化をうたって、医師確保に走る。会社組織に所属する医師は、 ある程度までは増えるんだろうなと思う。

今のところはその代わり、まだあんまり成功していない印象。

市場は大きいし、利幅も大きいはずだけれど、医師の人件費は極端に高価だし、 基本的に自己中心的な人間の集まりだから、「会社」が忠誠心を引っ張るのは、たぶんすごく大変。 そのあたりは医局と同じで、会社から「絶縁」されたところで、医師には今のところ、 なんのデメリットも生じないから。

アルコホーリクス・アノニマスのやりかた

一定の「規格」を満たした医師であることを要求する代わりに、 「互助」と「保護」とを保証するやりかたとして、アルコール依存症患者さんの互助組織、 アルコホーリクス・アノニマスのやりかたを真似できたら、面白いと思う。

あの組織には「頭」に相当するものが無くて、組織を運営している母体になっているのは、 集会の効果と、その開催手法をまとめた本しかないらしい。「本部」に相当するものはあるけれど、 本を読んで、そのやりかたに賛同したその瞬間からその人は「会員」だから、 本部の人達もまた、どこにどれだけの会員がいて、どんな活動をしているのか、把握していないんだという。

クモとヒトデは、おおざっぱな形は似ているけれど、「組織」としての構造は、まるで違う。

クモの頭を潰したら、クモはそれで死んでしまうけれど、ヒトデには頭が存在しない。ヒトデを半分に切り裂くと、 ヒトデは2 匹に増えるだけで、死なない。

複雑なことはできないけれど、生存可能性に優れていて、部外者がそこに介入することが困難な、 「ヒトデ」みたいな組織形態は、医局みたいな、実はすごくシンプルな機能しか持たない組織を、 生存可能性と忠誠心とを高めるためのやりかたとしては、案外うまく行きそうな気がする。

具体案

「頭」を持った組織を止めて、「あるべき医師」の最低ラインと最高ラインを示した文章だけを用意する。 最低これだけは働くけれど、一方で、頑張りすぎて潰れるのも本人の責任みたいな、下限と上限とを持った文章。

医師としての下限と上限を宣言した上で、自分がその「真ん中」であり続ける努力をすることを 受け入れる代わり、何かあったとき、同じ「真ん中」にいた仲間の助け、裁判の時、 「私たちも同じ条件で勤務をしています」なんて証言するだとか、弁護士を手配するだとか、 そうした互助が得られるルールを定めておく。

努力の一方向性は弱点になる。「ヒポクラテスの誓い」みたいな、体力の限界越えて頑張りましょうというやりかたは、 宣言としてはかっこいいけれど、「保護」には遠くて、誓いを誰かに運用されてしまう。医師会みたいな条件闘争の やりかたもまた、ごく一部の戦う人達に「ただ乗り」することを許してしまって、「要するにおまえら 楽して稼ぎたいんだろ」みたいな、外野の突っ込みに対して防御できない。

努力の方向を定めない、組織に「頭」を作らないやりかた。組織は作らずルールだけ作って、 ルールを守ることを宣言したその瞬間から、その人は会員になる。

入会も、退会も自由なその代わり、その代わり、何かあったときは、その人の行動が、 本当にルールに沿ったものであったのか、「仲間」から検証を受けることになる。

サボりすぎた上での過誤なら保護の対象にはならないし、あるいは逆に、頑張りすぎた、 明らかにリスク取りすぎた上での過誤もまた、「熱心な私」であることをを優先するあまり、 患者さんに不当に高いリスクを積んだわけだから、保護の対象から外れる。

「下らないルールにこだわる屑どもが」なんて、こんなルールに賛同する連中を見放して頑張るのも自由だし、 もっと「おいしい」話に乗っかって、楽して大儲けするのも自由。

あくまでも「真ん中」で居続けることに賛同した医師同士の互助会にしか過ぎないけれど 一定割合以上の医師が、こんなガイドラインに賛同すると、自然と条件闘争が始まる。

「この労働規約で行くと、我々のガイドライン守れないから、仲間の保護が受けられません」なんて言いかたが、 「闘争」の武器になる。雇用する側が、「なら、君はいらないよ」と突っぱねようにも、近隣に住んでる 他の医師が、同じガイドラインに乗っかっていたら、ある程度の条件を呑まざるを得ないはず。

頭が存在しない、医師が医師を裁き、お互いを守る、こんなやりかたは、 次世代医局として結構面白いことになると思うんだけれど、誰か規約書かないだろうか。

「基本頑張るけれど、疲れたら休む。仲間が困ってたら助ける」

こんな内容を、ちょっとだけ難しそうな言葉で書けば、それでいいはずなんだけれど。

2008.09.12

フェアプレーの正しさ

研修医になりたての頃は、「お菓子の家」に迷い込んだような気分。

検査室は24時間フル稼働してたし、けっこう大きな病院だったから、CTだとかMRIだとか、 民間病院の割には、当時としてはずいぶんいいものが入っていた。

何だって診断できる、何億円もする機械に取り囲まれて、自分がサインするだけで、 どんな機械だって稼働可能だったのに、 研修医には、それを勝手に使うことは許されなかった。

正しいやりかたの正しさ

習ったのは、正しいやりかた。

ほめられた振る舞いは、患者さんの話を聞くこと。何度も診察して、 いろんな場所の培養を取ること。顕微鏡を覗くこと。血液培養を提出すること。

目的も決めないで血液検査を提出するとか、とりあえず肺のCTスキャンをオーダーしてみるとか、 勝手にやるとすごく怒られた。

「治癒につながらないことは、やっても意味がない」だとか、 「君のそのオーダーは、何か患者さんの予後を変えるの?」だとか、突っ込まれた。

研修医の無目的な振る舞いは、たしかに患者さんの予後に貢献することは少なくて、 そうした振る舞いはだから、要するに患者さんのお金を使って、主治医の安心を買っているだけ。 反論できなかった。

研修医を仕込むやりかたとしては、すごく徹底してた気がする。 原因不明の腹痛の人が来て、お腹のCT 撮るのは禁じられてたけれど、腹膜開いて、 診断的腹腔洗浄を行うのは許されてたりとか。習ったやりかたは正しくて、 時にそれは正しすぎるぐらい正しくて、なんだか間違ってる気もしたけれど、 反論できなかった。

虫垂炎の患者さんを外来で見つけて、手術になるから採血出したりすると、やっぱり怒られた。 外科のチーフがやってきて、「手術適応を決めるのは、採血やCTじゃなくて、僕の指だから」とか見得を切って、 それがやたらとかっこよく見えた。

その先生は他所の大きな病院に国内留学して、帰ってきたら、CT 撮るようになってた。

当時はみんなで「あの人は汚れちまった」とか、陰口叩いた。後年もちろん、自分もCT 撮る医者になった。

「決めボム」という文化

「決めボム」という戦略、シューティングゲームで、緊急回避の手段である「ボム」を、 最初から「ここ」という場所で使うことを想定してゲームを攻略する考えかたは、 91年の「ガンフロンティア」、あたりから出てきたのだという。

自分がゲームセンターに入り浸ってたのは、「タイガーヘリ」とか「飛翔鮫」、 「究極タイガー」と、せいぜい「Tatsujin 」が出てきた頃。

その頃の「ボム」は、あくまでも緊急回避の手段であったり、状況を力ずくで越えて、 とりあえずエンディングまで進むための道具であったり。上手な人達は、「ここ」という場所で ボムをうつことをためらわなかったけれど、そのさきにはもちろんボム無しのやりかたがあって、 ボムを使うことそれ自体を戦略に組み込む文化はなかったと思う。

ボムを特定の場所で使うのは、古い人間から見ると、何となく「フェアじゃない」ような気がする。 厳しい状況を「気合い」で抜けることこそがゲームの精神で、ボムを発動することは、 どこか邪道な、「正しい道」に反した行いみたいな。

「決めボム」を当たり前のように使いこなす、むしろボムをうつ場所を最初から考えながら攻略を進める 今の人達に「正しさ」といたところで、「じゃあやって見せてよ」なんて笑われるだろうけれど。

フェアプレーの罠

前回のワールドカップサッカーとか、ちょっと思い出す。オーストラリアと日本の試合。

日本の監督は、サッカーを11人でやるスポーツと考えてて、選手交代は緊急手段だったけれど、 オーストラリアの監督は、サッカーを15人でやるものだと考えてて、最初から、 選手交代を見込んだ戦略を立ててたから、日本は最初から、人数的に不利な戦いを 挑まれていたのだなんて。

「フェア」でありたいのか、それとも勝ちたいのか。

同じことを何十年もやってる業界は、どこかで「フェアプレーの罠」みたいなものにとらわれて、 目指すべき目標がずれるような気がする。

  • 完璧な診断身につければ、余計な検査など必要ない
  • 完璧な見切りとレバーさばき身につければ、ボムなんていらない
  • 11人の選手が完璧に仕事をすれば、選手交代は必要ない

正しいやりかたを身につけさえすれば、姑息な技を考える理由はなくなる。 それはたしかに正論なんだけれど、「だから」正しいやりかたを磨くこと以外考えるな、 というのは、やっぱりどこか正しくない。

触媒としての姑息な手段

「正しさ」とはかけ離れた姑息な手段というものは、「触媒」みたいなものなんだと思う。

材料を十分強力に加熱できれば、反応時間を十分に長く取れるなら、 触媒なんていう余計なものはいらないかもしれないけれど、触媒という余計なものが 付け加わることで、反応に必要なエネルギーだとか、反応に要する時間を小さくすることができる。

流れとしての正しさと、系全体を振り返ったときの正しさとは、たぶんしばしば乖離する。

きれいなやりかたは、必ずしも消費エネルギーの少ないやりかただとは限らない。

当時習った正しいやりかたは、いつも正しくて、正しすぎてどこか不安で、 それでも正さには逆らえなくて、反論すると、なんだか自分が惨めになるような気がした。

今はもう、「惨めですが何か?」なんて開き直ってるけれど、 きれいなやりかたは、「触媒なしの反応」を目指してて、本来目指すべき効率のよさ、 反応に必要なエネルギー、患者さんが負うリスクを最小にするやりかたとは、 どこか離れていたのだと思う。

2008.08.27

酒の切れ目は技術の切れ目

8年ぐらい昔。技術継承のために飲み屋さんを利用している地域があった。

誰か有名な先生を他の地方から招聘して、「つぼ八」みたいな飲み屋さんを借り切って、 ただひたすらに飲む会。

有名な医師の講演会とか、偉い人のありがたいお話とか、そういうのは抜きにして、 最初はとにかく飲む。県内の各病院の、上の人達が集まって、ただ飲む。

みんなにお酒が行き渡った頃、宴会場にスクリーンが持ち込まれる。

まだ飲んでない若手が入場して、各病院の症例、うまく行かなかった症例だとか、 苦労した症例のスライドを持ち込んで、 酔っぱらった偉い先生がたを前にして、自分の経験を語る。

会場からは、酔っぱらいの容赦のない突っ込みが入る。

「どうしてこういうやりかた試さなかったの?」だとか、 「こんなケースはこうすればいいんだ」とか。忌憚のない、でもみんな酔ってるから「厳密な検証」なんかとは 少し外れた、ベテランの知恵みたいな言葉を、若手はたくさんもらえたんだという。

無礼講の成立条件

  • 人間関係がフラットであること
  • 外に対して閉じていること
  • そこで話されたことを「真に受けない」こと

アイデアは、質よりも量。瑕疵がないことよりも、面白いことが大切。

人間関係だとか、社会的な体面を重んじる態度、場に出された言葉に、厳密さだとか、 ある種の責任を求められてしまうと、アイデアは頭の中で腐ってしまう。

「ブレインストーミング」だとか、「アイデアマラソン」だとか、フラットな議論、 新しい発想を生み出すための会議手法がいろいろ提案されているけれど、 こんなやりかたが最終的に目指しているのは、要するに 「お酒の入らない無礼講」。無礼講を実現するための道具として、 お酒というものは、だから案外理にかなっている。

宴会の席。「酔う」ことで、人間関係は平等と見なされて、多少の失礼は許される。 そこで話される言葉は「酔っぱらいの戯れ言」だから、言質とか、責任を求めるのは野暮。

酔った席での言葉は、「真に受け」てはいけない。

宴会の席で、何かいいアイデアをもらっても、それを「実地」に応用しようと思ったら、自分で検証しないといけない。 酔いが覚めて、自分の上司に尋ねてみるとか、論文調べて、その時もらった言葉を検証するとか。

ネット世間で、病気のことが話題になっていても、よっぽど信頼出来る人でもない限り、 怖くて口を挟めない。発言して、それが一人歩きした先のことまで、責任取れないから。

言葉を「真に受けない」こと、その人自身の症状と、インターネットを介して伝えた自分の印象と、 食い違ってたとき、「あの人ならば、迷わず自分自身の症状を信じるだろう」なんて信頼。 逆説的だけれど、迷ったときに「相手の言葉を信じない」ことに対する信頼がお互いに作られないと、 ネットを使ったアイデアのやりとりは難しい。

酒の切れ目は技術の切れ目

お酒が作り出す「無礼講」が技術を育む時期というのが、きっとどの業界にもあるのだと思う。

アイデアを出して、討論して、技術を共有するための場を作り出すために、 お酒が持つ社会的な機能が援用される。同じ状況をお酒抜きで、 「ルール」で実現するのは、たぶん難しい。

技術が始まる。「無礼講」の中で、お互いの経験だとか、アイデアが交換されて、 それが実地で検証されて、技術が確立して、広まっていく。

技術が広まると、その業界に注がれる「目線」が増える。目線は「きれい」を望んで、不謹慎なものを嫌う。 技術者の集まりからは、「酒」の出番が減っていく。

目線からの自由を失った技術は、継承が途絶えて、衰退してしまう。

技術には確実さが、言葉には厳密さが求められるようになる。飲み会での馬鹿話は、 目線の中での公開議論になって、会話は記録され、言葉は「ですます」になる。

会議は退屈な、和やかな空気が支配する。厳密に検証された、「正しい」やりかたが好まれる。 「おまえ馬鹿じゃねぇの?」なんて、へべれけに酔っぱらいながら厳しい突っ込み入れてたベテランは、 今では背広にネクタイしめて、「おっしゃるとおりだと思います。○○先生」なんて。

技術が全ての人に対して開いていること。瑕疵のない、厳密な議論を重んじる態度。 発想の面白さよりも、反論されないこと、瑕疵を指摘されないことを最重視するやりかた。

そんな態度のどこがいけないのか、「これ」という指摘は出来ないのだけれど、 たぶんいろんな業界で、技術が停滞するときにはこんな空気が支配的になって、 一度歩みを止めた業界からは、もう新しいアイデアなんて生まれてこない。

技術者の集まりから「酒の席」が消えると、たぶんその業界は衰退してしまう。

ある種のきれいさを重んじる人からみれば、酒の席それ自体、 業界から抹消すべき悪しきものなんだろうけれど、消しちゃいけないんだと思う。

2008.08.13

「乱暴な当直マニュアル」を作りたかった

出版をもくろんで、いろいろあって潰れた企画。研修医向けの、「翌朝まで」を乗り切るための本になるはずだった。

各科の言い伝え

都市伝説にも届かないような、いろんな先生方から聞いた、乱暴な一言。

  • 腹痛の患者さんは、絶食して抗生物質と十分な輸液を入れておけば、一晩は死なない
  • 例外として「化膿性胆管炎」「急性膵炎」「腹部大動脈瘤」「絞扼性イレウス」は、特別な治療をする必要がある。これは単純CTで診断できる
  • 虫垂炎は、絶食と抗生物質のみで、手術しない方針の病院もある。だから点滴と抗生物質守っていれば、不作為は問われない
  • 意識障害原因が分からない患者さんには、気道確保とステロイド、ガンマグロブリンを用いたら、それ以上は専門家でもやれることはない
  • ゼーゼーして酸素濃度が上がらない患者さんは、人工呼吸器つないでステロイド、血管拡張薬を使ったら、原因がなんであれ、それ以上何もできない
  • 肺炎治療のガイドラインに出てくる抗生物質の使いかた、第3世代セフェムにキノロンをかぶせるやりかたをした時点で、あらゆる菌は死ぬ。 病名を「肺炎疑い」とつけたその時点で、だから感染症を診断する必要はなくなる。全部治るから
  • 分からない腎不全は、とりあえず透析してから考える
  • 原因が分からない肝機能障害は、ウィルス肝炎が除外できたら、あとはステロイドを使って様子を見るぐらいしか、することがない
  • 熱だけで死ぬ人はいない。データが揺れていないのなら、熱に慌てなくても大丈夫

検証はしていない。

たとえば「外科っぽいけれど分からない」だとか、「神経疾患っぽいけれど分からない」だとか。症状を持った患者さんが来て、 とりあえず一通りのことを調べたけれど分からなくて、分からないから、怖いから、「たぶんここだろう」なんて専門科に泣きついて、 狼狽する一般内科医を哀れんで、各科の先生方からもらったコメント。

こういうのは、「ここまでやれば、この症状は大丈夫」なんて考えかたにつながって、 この通りにやるのはたしかに無様なんだけれど、分からないときは、やっぱり専門科の人達だって分からない。

分からないときには、それでも本当の専門科は、「分からないときのやりかた」というのを心得ていて、 必要なときには、無様なやりかたをためらわない。

「分からない」から始まるやりかた

症状を持った患者さんが来る。「だいたいこの病気だろう」なんて当たりをつけて、それを調べる。 当たればそれまでで、病名に応じた治療をはじめて、話は終わる。

問題なのは外したときで、異常だろうと読んでいた検査が正常値で返ってきたり、 感染症だろうなんて抗生物質はじめて、症状がいつまでたっても取れなかったり。

不十分な情報から患者さん診察して、お話聞いて、理学所見取って、「これ」なんて断言するのは たしかにかっこいいんだけれど、外したときは最悪。情報圧倒的に足りないし、 狼狽したこの瞬間は、患者さんが入院してからもう3日ぐらい経ってたりして、どうしようもない。

こういうときに教科書をひっくり返しても、やりかたなんて書いてない。教科書に出てくる医師は、 間違えることとか想定してなくて、判断して、間違って、それでもなお、「分からない」状態から、 どうやって復活をかければいいのか。

「分からない」というのはそれでも大切な手がかりで、症状があって、「分かる」病名は、 もうこの時点で考える必要はないから、それだけでも診断は相当に絞れる。

入院して、見込みを外れた治療を行って、「分からない」に至って、この時点でやるべきことは、 「狙撃銃」を「機関銃」に持ち替える、点で攻めていたのを面で攻めるやりかたと、 診断がなんであれ、患者さんの状態が治癒に向けて前に進む、分からないままに治るやりかた。 診断の方法と、治療の方法と、「分からない」からはじめる医学は、 伝統的な教科書のそれとは、ちょっと違う。

頭のいい「頭の悪いやりかた」

それは「肝機能障害スクリーニングセット」であったり、「採血一発で診断する不明熱セット」であったり、 各科の先生方のメモ帳の奥に隠れてる、汚いやりかた。

「分かりません」なんて相談すると、専門各科の先生がたは、聞いたこともないような採血を、黙って20項目とか提出する。

伝統的な、「きれいな」医学習ってると、こういうやりかたは「大学病院流」とか蔑まれて、 「あんなやりかたしてたら、誰だって病気治せる」とか馬鹿にされてたんだけれど、 そんな馬鹿なやりかた一つとっても、知識のない自分には、その「20項目」をどうチェックしていいのか、分からない。

「頭の悪いやりかた」やるには、それでもやっぱり専門知識が不可欠で、症状ごと、専門各科ごとの 「頭の悪いやりかた」は、だから得がたい知識の集積だったりする。

こういうやりかたをまとめておくと、ある症状を見込みで治療して、どこかのタイミングで「分からない」に ぶつかったとき、分からなくても、やるべきことは見えてくる。

分からないまま前に進む

たとえ熱源が分からなくても、とにかく広く効く抗生物質落としておけば、それが細菌による発熱ならば、 いつかは治る。治らないならば、それは細菌による発熱じゃないわけだから、調べるべき対象は絞れる。

ステロイドを使えば、たいていの発熱は落ち着く。よしんばそれが細菌感染であっても、少量のステロイドは 「悪さをしない」から、広域抗生物質とステロイドとの併用は、「分からない発熱」の人を、 分からないままに前に進める、一般解に近いやりかたになる。

ステロイドはもちろん、使っちゃいけないケースもある。ウィルス肝炎にこれをやると、 患者さんの症状が悪くなる可能性が出てくるから、こういうやりかたする前には、最低限、 ウィルス肝炎でないことは、証明しておかないといけない。これは採血するだけで、 3時間もすれば結果が分かる。

いろんな症状ごとに、「全部やる」やりかたというのがある。

その症状を解決しうる、全ての治療を同時に開始するやりかた。極めて頭の悪い、 それこそ「馬鹿でも治せる」やりかた。

これをやるためには、その代わり前提条件がいくつかあって、ステロイドみたいな薬だと、 使っちゃいけないケースがあったり、薬ごとに、併用するのがよくない組み合わせがあったり。

だから頭の悪いやりかたを開始するためにも、それを実行するための前提というものがあって、 症状ごと、やりかたごとに、前もって調べておくべきことだとか、「何でも全部」というわけには いかないだとか、決まり事がいくつかある。

くだらない知識ではあるけれど、いざというときの緊急避難的な、こういうやりかたは、 やっぱり知っておくと、それだけ余裕持って鉄火場に臨めるような気がしている。

未知問題への対応

分からないとき、たとえば経済学者は過去に学ぶ。物理学者や数学者は、仮説を立ててから実験で検証する。 生物学者なら、分からなかったら、森に出かけて観察をやり直すかもしれない。

自分たちの分野「医学」は、最古の学問である割には、「分からない」にぶち当たったときのやりかたを きちんと教えてもらったことがなくて、それは「もう一度診察する」とか、「頭からつま先まで診察し直す」とか、 たしかに間違ってはいないんだけれど、勝算薄そうな、検査とか、治療とか、これだけ発達した割には、 進歩の望めない、古いやりかた。

「名医」が記した教科書には、たしかにこれやって、他の医師には診断できなかった特殊な病気を発見しましたとか、 成功したケースがたくさん書いてあるんだけれど、あれやるのは無理だと思う。名医はそんなに多くないから。

「検査をたくさん出す」やりかたは、スマートさとか、真摯な態度とはほど遠くて、 たぶんベテランなら10人が10人、そんなやりかたする医師のことを馬鹿扱いすると思うけれど、 じゃあその人達に、専門外の症状見てもらって「馬鹿なやりかた」再現できるかと言えば、やっぱり無理。

馬鹿には馬鹿なりに、知らないと出来ないことがあるし、そういうやりかたを知っていることは、 たぶん忙しい病院で、それでも忙しく生き残っていく上では、きっと役に立つ。

分かるなら、スマートなやりかたすればいいけれど、分からないときにどうすればいいのか、 「分からない」から始める乱暴なやりかた、「ここまで分かった」時の少しだけきれいなやりかた、 確定診断ついたときに目指すべききれいなやりかた、症状ごとに、こうしたやりかたを 階層構造にして、「分からなかったらここに立ち戻る」場所を、マニュアルで示せればいいなと思ってた。

需要はあると思ったんだけれど。。。

2008.08.06

かっこ悪いことは本当はかっこいい

どんなベテランでも判断ミスから自由になれないし、油断すれば失敗する。患者さんに怒鳴られたら 腹も立てるし、相性のいい研修医とそうでない研修医、神様じゃないから、平等に接することなんてできない。

ときどき完璧になれても、常に完璧でいられる人なんていない。それを「たるんでいる」とか批判すること それ自体が欺瞞であって、むしろ完璧になりきれない人、だらしのない、失敗ばかりする医師こそが 「正常」であって、そこから始めないといけない。

みんなミスをする

どんなときでも冷静沈着、どんなに疲れているときでも熱心さを失わない人は、たぶんどこかおかしい。 その人は、人としての「正常」なんかではありえなくて、何かが過剰であって、 たぶんどこかで、その過剰さの代償として、必要な何かが欠けていたりする。

「正しい医師」というのは、相当に理想化された、 目指すべき対象としての存在になってしまって、世間が求める「正しい医師」と、 実際の自分との乖離が大きくなりすぎて、それを演じることに疲れた人が、今現場を離れてる。

戦場で「ズボンを汚す」ことは不名誉だから、昔から、誰もそんなことを認めようとしなかった。

現場を体験した誰もがそれを認めようとしなかったから、「正しい兵士」は美化されて、 美化された自らを演じられなかった、戦場で失禁したり、勇敢な行動を取れなかった 大多数の兵士は自分を責めて、そんな人はやっぱり不名誉な自分を隠蔽したから、 事態はますます悪化した。

「正しい兵士」は常に冷静で、実戦になると訓練以上の判断力を発揮して、その時になると勇敢に戦い抜く。

平時の自己欺瞞の連鎖が、こんな「正しい兵士」の姿を一人歩きさせて、たぶん多くの人達の振る舞いを、 おかしな方向にねじ曲げた。戦場で「正しい兵士」の行動を取れる人なんて、もちろんほとんどいなかったから、 戦場に出向いた多くの兵士は、自分を「不名誉な人間である」と責めた。

正しい兵士なんていなかった

第二次世界大戦の昔、兵士は船で移動した。船の旅は時間がかかるから、兵士はお互いの体験を語り合って、 美化されすぎていた「正しい兵士」など、戦場のどこを探してもいなかったことにはじめて気がついて、 自ら貼り付けた不名誉のレッテルをはがすことができた。ベトナム戦争になって、兵士の移動は航空機に なったから、戦場から帰還した兵士には、お互いの体験を語り合う時間がなくなった。便利になった反面、 このことがたぶん、多くの兵士に正味以上のストレスをかけてしまった。

医療の現場で「正しい医師」の姿が一人歩きして、ありえないステレオタイプが賞賛されて、 現場との距離が広がる一方。みんな「常に」熱意持って、「常に」注意深く行動することなんて できるわけないのに、「正しい医師」はもちろん疲れないし、ミスをしない。

疲労だとかミスだとか、それらは全て、「正しい医師」を演じきれなかった現場のせいになって、 みんなだから、自分を責める。産科だとか小児科だとか、 現場が厳しい業界は、たぶん「正しい医師」の正しさが、正味以上に巨大化して、 現場にのしかかる。だからみんな辞める。

疲れればみんな手を抜くし、いらついているときにはミスをする。人間はそういうものだから、 疲れているときには血液検査を増やしたり、イライラしているときには日程をずらしたり、 ダメな自分に向き合いながら、折り合いをつけながら、「正しい医師」なんていなくても、現場は回る。

きっとどこもそうやってるはずなのに、Web 世間見渡しても、そんな本来の日常乗り切る やりかたは、あんまり書いてない。

ワーストケース体験すべきだと思う

今やられている「外来実習」というのは、「医療ボランティア」が模擬患者を演じて、 ままごとみたいな外来が行われたあと、「先生の態度には愛情が少ないような気がします」なんて、 講評を受けるらしい。ああいう訓練は、「医療ボランティアを買って出るような人を敵に回すとろくなことが起きない」 なんてことを学習するにはいいかもしれないけれど、それを学んだ学生は、たぶん外来それ自体が嫌いになって、 身につくことは何もない。

研修医の頃、入院中の態度が悪い糖尿病の高齢者がいて、騒いだり呑みに出かけたり、ナースから苦情が出た。

自分はその時正義の味方気取ってたから、その人を強制退院させるつもりで「説得」に臨んで、 もう手も足も出せないぐらいに言い負かされた。あまりにも見事にたたきのめされて、あとから「すいませんでした」とか、 その老人に謝ったら、強制退院させる予定だったその人本人から、「こういうこともあるよ」とか慰めてもらった。

ああいう経験はみっともないけれど、それでも全ての医師が受けるべきだと思った。

「模擬患者」には、むしろ本物のチンピラの人とかテキ屋の人とか、あるいは他の病院で働いている 現役の医師に、患者さんに扮してもらわないといけない。実習も、ワーストケース想定して、 クレームだとか罵詈雑言だとか、コミュニケーションなんて最初から成立しないような状況を 設定して、そんな中でもなお、罵詈雑言に耐えて、自らの正しい部分を護りながら、 間違ってる部分、相手を不愉快にした部分の問題の切り分けを行って、そこを謝り倒して帰って生き延びる、 そんな体験ができたらいいなと思う。

研修医は許可無く泣くことを許されない

理想的な「正しい医師」を想定して、それ目指すよう、道徳を説くのは間違いだと思う。

本来やらないといけないのは、世間が望む「正しい振るまい」を定義した上で、自分たち現場の人間が、 そんなふうに「振る舞わざるを得ない」ように、訓練プランを作ること。「熱心な医師」作りたいのなら、 「熱心に振る舞わざるを得ない」訓練考えないといけない。

撃たれたら「死ぬ」ルールで兵隊を訓練すると、兵隊は撃たれたとたんに「死んで」、それ以上の行動が できなくなってしまう。学生の実習なんかでも、「データが悪くなった」患者さんは「死ぬ」と教えられるから、 医師はどこかであきらめたり、あるいは状況が悪くなったとき、それ以上体が動かない。

臨床実習なんかはだから、どうしようもないぐらいに具合の悪くなった患者さんを想定して、 みんなで何とか知恵を絞って、その人にそこから必要な治療だとか、検査だとか、 選択枝としては「他の病院にお願いする」だとか、「自分よりも上手な医師をどこからか捜してくる」だとか、 現実に想定可能なあらゆる手段を駆使して、その患者さんを「治癒」に持って行く、 そんなやりかたを教えると、きっとうまく行く。

「あきらめの早い医師」だとか、「取れる手段を全て取ろうとしなかった医師」だとか、 マスメディアがときどきやり玉に挙げるような医師を作りたくないのなら、 むしろそういう医師をこそ「正常」規定して、訓練のやりかた提案しないと、 状況は変わらない。

かっこ悪いことは本当はかっこいい

同業者の日記とか読んで、プロフィール書いてる人けっこういて、みんなきれいな履歴。

どこかの大学医局に入局して、臨床の腕を磨いて問題意識もって、 何か新しい技身につけるために留学したり、病院移ったりして、精進して、 そのうち大病院を「卒業」して、現場放り出して開業して、今成功して満足して、日記書く。

「ああこのせんせいはすばらしいじんせいおくってきたんだな」なんて感激しながら日記ひもとくと、 まず最初に「ここまで読んだ人は、ポチ! 」とかblog ランキングの投票ボタン置いてあったりして、 この時点で相当嫌になる。

もっと「かっこわるい」話聞きたいなと思う。

常に成功しかしてこなかった、失敗なんて他人事の人生送ってきた人なんて、きっと少ない。

どこかに転出したときには、きっと何かもとの施設で嫌なこととかあったはずだし、新しい施設に 移ったところで、最初から順風満帆であるわけなくて、人間関係で苦労したとか、 前の職場との「格」の違いみたいなものにアイデンティティー揺らぎそうになって、 自分自身を納得させるのに苦労したとか、かっこ悪くて、思い出すのも嫌で、 書きたくないことは、きっとたくさんあったはず。

読者が読みたくて、「ポチ! 」とかしたくなるのは、むしろそんな部分だったりする。

読者が外からその人を観測して、唯一確定的と思えるのは、その人がたぶん医師であって、 日記自慢げに書いてるぐらいだから、たぶん今のところは、 そこそこに余裕がある暮らし送ってるんだろう、というその部分だけ。

その人の人生が成功体験の連続で、成功を重ねた帰結が「その程度」なら、 医師というお仕事の魅力もまた「その程度」なんだろうし、もしもその先生が、 あんな失敗、こんな挫折を何とか乗り越えてここまで来て、「正しさ」演じきれなかった「だめな自分」と、 どうにか折り合い見つけて今に至っているならば、生き残るための手段として、 その人が失敗を通じて何を見いだして、どんな「処方」を自らに施したのか、ぜひとも知りたいなと思う。

そういうのを書いてる人は本当に少なくて、それはやっぱり、「かっこわるいことはかっこわるい」という、 ある意味当たり前の価値観にみんな毒されてて、それを越えられない人は、 たぶんどれだけすばらしい体験を重ねた人であっても、魅力的な文章は書けない。

blog 文化が何か今までと違った側面もたらしたことがあるんだとしたら、 やっぱり「かっこわるいことのかっこよさ」、魅力みたいなものが可視化されたことにあるような気がする。

失敗の共有というか、かっこわるい自分を、自分も含めた周り中で笑うことで、 その経験をみんなで分かち合うやりかた。ほとんどの人は匿名だし、実世界でのお互いのつながりなんて、 たぶん一生ないんだろうけれど、だからこそやはり、「かっこ悪いことはかっこいいんだ」なんて、 もっと多くの同業者が、そんな価値観持ってほしいなと思う。

2008.07.28

きれいの弊害 洗練の誤謬

医療みたいな不確定要素を相手にする業界は、「模範的な医師」を想定してはいけないのだと思う。

症例検討会のこと

研修医が患者さんを受け持って、必然と、偶然と、病棟でいろんなことが重なって手術になる。 珍しい病気だったり、病理学的に「きれいな」症例であったりしたら、そうした経過は症例検討会で 発表される。

主治医は患者さんの症状や経過、何を考え、どんな検査を行ったのかを報告して、外科医は手術所見を述べ、 病理の先生がたは、取り出された病巣を顕微鏡で検討して、そこに集まったみんなで、貴重な経験を分かちあう。

症例検討会には、「きれいにされた」経過が供覧される。

どこの病院も、現場はたいてい、混乱に次ぐ混乱。患者さんが入院したところで、 実際にその人に会えたのは当日の夜中だったり、後から考えれば最初にやっておくべきだった検査は、 それに気がついたときには、もう患者さんは手術室だったり。

自分たちだって人間だから、忙しいときにはサボりたいし、絶対に忘れてはいけないものに限って、 一番大事な場面で忘れたりする。たいていはそれでも何とかなったり、あるいは誰かを拝み倒して 「何とかして」、足りない準備でその場を乗り切る。

妥協と混乱、その場限りのごまかしを繰り返しながら、それでも患者さんを「治癒」へともっていくのが現場だけれど、 症例検討会にそのまんま出したら笑いものだから、時系列いじったり、検査データを最初から一覧できるように工夫する。 報告された症例は、主治医はあたかも完璧な人間で、患者さんが入院したその日には、すでにそこから先の展開は 全て読めていたかのように描かれて、検査のプランだとか治療の方針だとか、経過中、 主治医には一切の葛藤がなかったかのように語られる。

医学の発展だとか、教科書に書かれた定説だとか、最初は全て症例報告から。きれいに磨かれた症例報告が 積み重なって、医師の「かくあるべき」態度みたいなものが、導き出される。恐らくはそうして生まれたであろう 「医師としての正しいありかた」みたいな医師象は、たぶんいろんな人を不幸にしたのだと思う。

破ることが前提の「正しさ」

どの分野でもたぶん、一つのお仕事が完結したあと、「こうすればよかった」「次はこうしよう」なんて思って、 技術者はそんな後悔を次に生かそうとする。

ところが自分たちの業界は、「こうすればよかった」は、「こうした」ことにしてしまって、 症例検討会には「きれいな」経過が発表される。それが積み重なって教科書になって、 教科書はだから、現場でその通りにやろうとすると、患者さん診察する前に病名分かってるのが前提になったり、 24時間注意力最大に発揮してるのが前提になってたり、運用するのがとても難しくなってしまう。

教科書どおりの「正しいやりかた」は、だからそのまま回していくと、たいていはうまく行かない。 教科書はしばしば、患者さんを「正しく見殺しにする」役には立つけれど、その人を治そうと思ったら、 主治医はしばしば、どこかで教科書を飛び越えて、治癒に結びつくやりかたに飛びつかないといけない。

「きれいな」やりかたを提示するガイドラインや教科書は、そこかしこに「現場の判断」だとか 「必要ならば」みたいな回避ルートが用意されていて、現場が教科書を「破る」ことを、暗に認めていたりする。

昔いた病院では、「自らの脊髄を信用せよ」なんて言葉が伝わってた。

現場で何をしていいのか分からなくなって、頭が真っ白になったとき、 頼るべきは教科書なんかじゃなくて、自ら身につけた脊髄反射、「体の声」みたいなものなんだと。

状況が鉄火場になったとき、頭の中にある「教科書の知識」と、自分がいつも病棟でやっている「脊髄の記憶」とは、 しばしばバッティングする。普段なら、当たり前のように無視される教科書は、自分自身に信用がおけない、 主治医が慌ててるときになると大きな声で「俺に従え」なんて騒ぎ出して、混乱している主治医の頭を、 余計に混乱させる。パニックに陥っても、なお自らの「脊髄の記憶」を信じられるよう、 普段から何となく仕事をするのではなくて、なぜこの場面で教科書から逸脱するのか、 常に問いながら仕事をしないと、本当に大変なときに、失敗するんだと。

「ビジョナリーカンパニー」だったか、社長の成功哲学みたいなものを取材されて、 それを文章化された会社は、たいてい潰れたらしい。最近改訂されたマーケティングの本でもまた、 20年前に「すばらしい成功例」をたたえられてた会社は、たいていそのあと舵取りを間違えて、 第二版が発売されたときには、会社が傾いてたり、マーケットを失っていたりしていた。

恐らくは個人であっても、企業みたいな法人であっても、自らの動作記憶を文章化する過程で、 一番大切な者は失われてしまう。動作記憶を欠落無く保持しているのは自分自身だけなのに、 状況が変わって、どうしていいのか分からなくなったとき、自らの脊髄を信じられなくなったなら、 その人はもう動けなくなってしまう。

動けなくなった個人や企業は、昔のやりかたにすがろうとする。文章として記録されている そんなやりかたは、「きれいに」されたぶんだけ情報が欠落していて、劣化した情報に 今さらすがったところで、成功にはたどり着けない。

「正しい兵士」はウンコを漏らす

「正しい兵士」は人を殺せない。適切な訓練を受けていない兵士は、相手が見える状況だと、 せいぜい20%ぐらいしか発砲しない。適切な訓練を受けることで、発砲率は90%程度にまで 高まるけれど、今度は「人を殺せるようになった」ストレスで、せっかく育成した兵士は、 すぐに戦闘を継続できなくなってしまう。

アメリカ軍兵士の4人に1人は尿失禁の経験があって、8人に1人が大便の失禁を経験した。 激戦を経験したあとは、半数の兵士が尿を漏らし、4人に1人の兵士が大便を漏らした。

空胞を使った訓練などで、「弾に当たったら死ぬ」と教えられた兵士は、実戦で弾に当たると、 実際に動けなくなってしまう。「弾に当たったら生き残れ」と教えられた兵士は、 弾に当たっても、なお生き延びようとする。

米軍は歴史に学んで、勇気があって、どんなときにも冷静沈着、戦闘にも何らストレスを感じない人間を 「正しい兵士」と呼ぶことをしないのだという。正しい兵士は、むしろ戦闘に対してストレスを感じるし、 昔ながらの価値観だと「みっともない」ことをするし、極めて強いストレスを感じたときには「適切な」 行動などとれるはずもなくて、教えられた行動を繰り返すことしかできなくなってしまう。

今はむしろ、こうした不完全な、ある意味みっともない兵士を「正常」と定義して、 ならばこうした人達がどういう訓練を受けたら戦闘を継続できて、厳しい状況でも 生存を志向できるようになるのか、米軍だとか、アメリカの警察は、そんなことを考えて訓練プログラムを作るのだという。

制度が混乱して、人がいなくなって、救急の現場がいよいよ回らなくなってる。

どう振る舞えばいいのかみんな分からなくなって、その時結局、すがるのは教科書になる。

きれいなやりかたしか書いてない、それにすがったら、現場が絶対回らなくなる教科書にみんな殺到して、 混乱した現場の振る舞いは、実用からは一番遠い、もっとも「きれいな」やりかたに収斂する。 今はだから、どこに問い合わせても「十分な設備がないので」とか、厳密に教科書どおりの治療ができない、 という理由で断られる。

それはもちろん、「訴訟圧力」だの、「患者さんの質的変化」だの、いろんな理由付けがなされているのだろうけれど、 バックグラウンドで動いてるのはたぶん、こうした教科書への回帰現象なんだと思う。

上の人達が「きれいさ」にこだわり続けたツケが、ここに来て噴出しているような気がする。