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2008.08.22

表現型は輸入できない

「航空業界のやりかたを見習いましょう」なんて考えかたが、病院では今ずいぶん話題になっている。元航空業界の人達だとか、航空から流れて、原子力の安全問題かすった人達なんかが「安全コンサルタント」自称して、いろんなところに食い込んでる。

休憩時間をしっかり確保すること。安全委員会を立ち上げること。事故のレポート提出を義務づけて、対策を委員会で考えること。恐らくは航空だとか交通だとか、文化としての安全が先行している業界で行われていた慣習を輸入したのだろうけれど、 こういうのを真似しても、たぶん役に立たない。

昔はこれが正しいと思ってた

ずいぶん昔、「チーム医療で防ぐ医療過誤」という 文章を書いた。これは画期的だろうなんて、当時はそう意気込んでWeb に乗っけて、全然受けなかったんだけれど。

今から6年も昔。まだ当時は、自分も「航空業界見習おう」なんて思ってた頃。

医療過誤の多くは「ヒューマンファクター」で、それを回避するためにはどうすればいいのか。 航空業界の人達は、その答えを心理学とか、コミュニケーションに求めていて、 自分はそれが面白くなかったから、統一教会だとかヤマギシ会、「カルト」の人達が 得意としていた「洗脳」の技法に、解決手法を探した。

「安全」とか途中でどうでもよくなって、人の心を動かすやりかたそれ自体が面白すぎて、 何だか今みたいにおかしな方向に来てしまったけれど、結果として当時書き上げたやりかたは、 今でもそんなにぶれていないと思う。

厚生労働省主催の「医療安全対策の講習会」なんかで使われるテキスト読むと、 やってることは6年前の航空業界そのまんま輸入されている印象。

あれから6年経って、もちろん自分の書いた文章が注目されなかったからひがんでるんだけれど、 そんなやりかたは間違ってるし、もしかしたら問題をよりいっそう複雑にしてしまうと考えている。

表現型は輸入できない

企業の文化、安全を含んだ業界文化というものは、業界が置かれた環境に、 何らかの淘汰圧が加わった結果としての「表現型」として、目に見える形で発現する。

表現型それ自体を輸入したところで、問題は何も解決しない。

「オーストラリアのカンガルーは速い」なんて事実があって、じゃあ彼らの足を、 アフリカのサバンナで暮らすライオンに移植したら、サバンナ最強の無敵生物が誕生するかと言えば、 もちろんそんなことはありえない。

「カンガルーの足を持つライオン」は、もしかしたらサバンナ最速の肉食動物になるかもしれないけれど、 ジャンプしないと走れない。サバンナでは、ジャンプする肉食動物は相手に見つかってしまうから、 最速の肉食動物は、たぶん飢え死にしてしまうだろう。

カンガルーの足とライオンの足と、その絶対性能は、たしかにカンガルーのほうが 優れているかもしれないけれど、生活環境も、対峙している淘汰圧も全く異なる 生き物は、「パーツの交換」で強くなることなどありえない。

淘汰圧に注目しないといけない

異業種のノウハウを移植しようと思ったならば、彼らの表現型それ自体に注目するのではなくて、 それを生み出した環境因子、特にその表現型を生み出すきっかけとなった「淘汰圧」に注目しないといけない。

サン=テグジュベリが空を飛んでた昔、飛行機というのは落ちるものだったし、 彼らは短命で、命知らずで、無鉄砲だった。

彼らが「安全」を志向するようになったきっかけ、航空業界に安全という文化を生むきっかけとなったのは、 恐らくは「お客さんがお金になる」という業界の変化と、たぶん淘汰圧となったものは、 「ボイスレコーダー」と「フライトレコーダー」なんだと思う。

飛行機は落ちてしまえば、たいていはみんな死んでしまうから、証拠が残らない。 パイロットは死んでしまう。その時点で何が起きたのかは誰にも分からないから、責を問われない。

今のパイロットは、あらゆる行動ログが記録されて、機内での会話が記録される。 たとえ自分が墜落死したところで、過失は死後であっても追求されて、原因は徹底的に調べられる。

パイロットは今も昔もプライド高いから、恐らくはそんな不名誉に耐えられない。

耐えられないなら「落ちない方法」を探す必要があって、その帰結として、様々な安全文化、 全てのログを取られてもその理由を説明できる振る舞いかた、失敗しても落ちないで帰還する、 起きそうな失敗を事前に回避する、そんなやり方を模索する文化が生まれたのだと思う。

医療の業界に、彼らが生み出したやりかたを形だけ持ち込んだところで、たぶん何も変わらない。

「事故が起きました。安全委員会を作って、検討を行っていました。勧告されていることは型どおり行っています」なんて、 事故が起きて、病院が木で鼻くくったような声明出したところで、患者さんは納得しないし、事故は減らない。

知恵というものは、それが引きずり出される状況に追い込まれない限り、生まれない。

自らを厳しい状況に追い込む淘汰圧、形でなくて、医師自ら、スタッフ自らが生き残りを志向して、 知恵を引きずり出されるような状況を輸入しない限り、「安全文化の輸入」なんて、出来るわけがないと思う。

2008.08.15

人工呼吸器の思想的後退について

呼吸状態の悪い患者さんがいて、病棟で挿管して呼吸器につないだ。

電源も、酸素の配管も、いつもどおりにきちんと接続されているのに、呼吸器は作動しなかった。すごく焦った。

その日はたまたま、今まで使ってた呼吸器がメンテナンスに出されてる日で、病棟には代替機として、 その呼吸器の次世代機が入ってた。見た目はそんなに変らなくて、「制御系が今までよりよくなってます」 なんて説明で、普通に動いてたから、納得してた。

一度動いてしまえば、呼吸器の操作は今までと同じなんだけれど、一番最初の起動手順、 呼吸器と患者さんとが接続されて、「最初の一呼吸」が開始されるとき、新型機は、 医師に「モード設定」を要求するように変更されてた。

呼吸器は、「電源入れたら勝手に動く」のが当たり前だと思ってたから、この変更はショックだった。

昔はスイッチなんてなかった

ベトナム戦争前後に登場した最初の呼吸器は、そもそもスイッチに相当するものがなくて、 人工呼吸器に圧搾空気ラインを接続したら、機械は勝手に動き始めた。

ちょっと時代が進んで、呼吸器には「電源ボタン」がついたけれど、電源はメーターの照明だとか、 換気量を計算するための計算機だとか、呼吸それ自体とはあんまり関係ない用途にしか 使われていなかったから、電源オフにしても呼吸器は動いて、病院が停電しても、 呼吸は絶対に止らなかった。

もう少し時代が進んで、呼吸器の制御には電源が欠かせなくなったけれど、 呼吸器の電源を一度でも「オン」にしたら、呼吸器はもう止められらなかった。 人工呼吸器には「一時停止」に相当する機能がないから、ベッド移動するときとか、 吸痰するときとか、呼吸器を「ちょっと」外すときでも盛大なアラームが鳴って、 うるさいことこの上なかった。

一度鳴ったアラームは止められなかった

広く普及していた高機能呼吸器の走り「サーボ900」のアラームは、たとえ患者さんが 「正常」に戻っても、止むことはなかった。

アラームが鳴り出したら、とにかく誰か人間が呼吸器のところに走って、 アラーム停止ボタンを押さない限り、アラームは止らない。サーボを作ってるメーカーは、 「アラームが鳴ったら、絶対に患者さんを見よ」なんて、メーカーのくせに医療従事者に 強制してて、サーボ呼吸器のオプションには、「アラームを遠くから止めるための有線リモコン」 があったのに、アラームの自動停止は、頑なに実装されなかった。

高機能呼吸器がアメリカでもたくさん作られるようになって、アラームの信頼性も上がったこともあるんだろうけれど、 アラームは自動停止するようになった。患者さんに何かあって、呼吸器がアラームを鳴らすことがあっても、 その「異常値」が勝手に正常に戻ったならば、アラームも自然に止まるように改良された。

最新世代の呼吸器は沈黙して待つ

人工呼吸器に配管をつないで、電源を入れる。

この時点では、呼吸器は患者さんにつながっていないから、呼吸器のセンサーは「異常」になって、 電源の入った呼吸器は、まずは「異常動作」が始まって、けたたましくアラームが鳴る。 みんなうるささに顔しかめて、アラームオフにしてから呼吸器を患者さんにつないで、 そこではじめて、呼吸が始まる。

一番新しい世代の呼吸器は、この「うるささ」が解消されている。

電源の入った呼吸器は、まずは自己診断を走らせて、今度は「自分が人間につながっているのかどうか」を 判断する。何もつながっていないのなら、あるいは患者さんが息をしていないのなら、 人工呼吸器は動作を停止して、医師が「モード」を入力するのを待つ。

この動作のおかげで、「電源入れたらすぐアラーム」のうるささは解決したんだけれど、 これ知らない医師が今までと同じことすると、冒頭みたいなことになる。

これは改良なんだろうか?

  • 電源ボタンがついた
  • アラームが自動停止するようになった
  • 電源を入れた直後の呼吸器が「指示を待つ」ようになった

どの変化をとっても、たぶん「スイッチつけろ」とか、「アラームうるさい」とか、 現場の誰かがクレーム入れて、メーカーがそれに答えただけなんだろうけれど、 なんか腑に落ちないものがある。

電源スイッチつけたから、呼吸器には「電源オフで止る」可能性が生まれたし、 アラームが自動停止するようになったから、今度は患者さんが、 「アラームなったのに見過ごされる」可能性にさらされるようになった。

もちろんこういうのは注意していればいいのだし、たとえトラブルになる可能性があっても、 それを「運用」で解決することは出来るのだけれど、「構造的にトラブルが起きない状態」と、 「毎度毎度のアラームに耐える不便さ」と、それは果たして、トレードオフに足るものなんだろうか?

今度の改良、「電源入っても待つ」という動作もまた、これに慣れればたぶん、 電源入ってアラーム止める手間が回避できるのだろうけれど、電源入れて、 アラームも鳴らないのに、その呼吸器を患者さんにつないでも、呼吸が始まらない。

自分が「動け」と入力すれば、もちろん呼吸器は設定されたとおりに動いたんだけれど、 電源入れたのに動かない、動かないのに、動かないその状態にアラームを鳴らさない、 仕事しないのに沈黙する呼吸器は、何だかとても不気味に見えた。

時代の変化に自分がついて行けてないだけなんだろうけれど、「患者さんを安全に呼吸させる」、 人工呼吸器本来の目的を考えると、歴代行われてきた改良というのは、 やっぱりどれも、思想的に後退しているような気がする。

顧客の意見を聞くのは大事なんだろうし、顧客の意見無視した製品は、やっぱり売れないんだろうから、 呼吸器のこうした「改良」は、ある意味必然なんだろうけれど。。

2008.07.31

戦争の心理学

戦争の心理学という本の抜き書き。

本書の目的は「裁くことでも非難することでもなく、ただ理解すること」。

「パンツを汚す」兵士は珍しくない

  • 警察官や消防士として負傷者の救出に当たっている人は、負傷者の大小便失禁が珍しくないことを知っている
  • 戦闘中の人間にも、大小便失禁は珍しくない。みんな面子にこだわるので、そうしたことは公然と認められず、失禁した兵士は、 自分がどこかおかしいのではないかと思ってしまう
  • 激しい戦闘を体験した兵士のおよそ半分が尿を漏らしたと認め、四分の一近くが大便を漏らしたと認めている
  • にもかかわらず、「パンツを汚した」兵士が出てくる戦争映画は、かつて作られたためしがない。典型的な兵士の姿は、だから嘘に基づいている
  • スターリングラードの戦いから生還したロシアの兵士は、当時の平均年齢70歳に対して、皆40歳前後で死亡したのだという

「気のゆるみ」は正常な反応

  • ナポレオンは「もっとも危険な瞬間は勝利の直後だ」という言葉を残している。戦闘直後の緊張が解けた瞬間には、急激な生理的虚脱を生じて、 ほとんどの人が何もできなくなってしまう。これは「油断」や「気のゆるみ」などではなく、生体の正常な反応
  • 警官は、犯人を逮捕した瞬間に緊張が解ける。犯人はむしろ、逮捕されたときが「戦闘開始」の合図になる。逮捕直後に暴れ出した犯人に、警官が 殺されたケースが報告されている。現在はだから、目標を確保した直後から、安全確保や射界の整備といった「忙しい活動」を開始して、 緊張状態が自動的に維持されるような訓練が行われている
  • 「気がゆるむ」のが正常な反応なので、それをとがめるのではなく、「気がゆるむ人間」が安全に作戦を遂行できるように考えるのが筋
  • 犯罪者と対峙したときのような極限の緊張状態に入ると、人間は訓練したことしかできなくなる。救急コールの「911」という番号ですら、 普段から押せるように訓練しておかないと、家族にそれが必要になったとき、冷静に3つのボタンを押せる人などそうはいない
  • 戦闘が始まると、視野が狭くなり、聴覚が抑制される。これは「何かに気を取られる」ためなどではなく、これもまた正常な反応であるらしい。 戦いを優勢に進めていたにもかかわらず、自分の銃声が聞こえず、「銃が故障した」と思い込んでいた警官の例が記述されている
  • 「戦いを覚えていない」こともまた正常であって、「勇気がないから」などではない。戦いのあと、皆が集まって「反省会」を 行うことは、誰もが忘れていることをお互いわかり合うという意味で、ストレスに対する解毒手段となる

訓練されたことしかできない

  • 戦闘の「本番」になると、皆訓練どおりの反応しかできなくなる
  • アメリカの警察官は、訓練中は空薬莢をポケットの中にしまう習慣がある。銃撃戦でなくなった警官のポケットに、 戦闘で使った「空薬莢」が入っていたケースが少なからず報告されている
  • 犯人から銃を取り上げる訓練をするときには、相手から銃を取り上げて、その銃を相手に返して、また取り上げる動作を繰り返す。 「本番」になったとき、犯人から銃を取り上げた警官は、奪い取ったその拳銃を、そのまま犯人に返してしまったのだという
  • 訓練の時には、安全のために拳銃の代わりに「指」を使っていた警察組織では、戦闘に入ったときにも犯人に指鉄砲を突きつけた ケースが続々報告されたため、この訓練には模型の拳銃が使われるように改良された
  • FBIの射撃訓練は、拳銃を2発撃ち、その後ホルスターに戻す。この訓練もまた、現実の撃ち合いの時に「二発撃ってホルスターに戻す」 警官が報告されて、現在では「発砲した後に周囲を見渡し、状況を確認する」ように訓練が改められている
  • テレビゲームを参考に大量虐殺に走る子供には、「一時停止」ボタンが内蔵されているケースがある。銃を突きつけられた教師が「止まれ」と 子供に命じると、それだけで虐殺が停止したケースが報告されている

「撃たれても前に進む」勇敢な兵士は作り出すことができる

  • ペイント弾を用いた「痛い」訓練は、実際の銃で撃たれて「痛み」を感じたあとも行動を続ける兵士を育成できるので、理想的と考えられている
  • 訓練演習を行うときには、兵士を「殺して」はいけないのだという。教官に「君は死んだ」と宣告されてしまうと、 実際の戦闘になって、一発の弾丸に痛みを感じたその時点で、兵士は「死んで」、行動不能に陥ってしまうのだという
  • 訓練を受ける兵士は、だから撃たれても撃たれなくても、死なずに容疑者と交戦することを強要され、 自らの安全を確保し、そこから生き残るまでは、訓練のシナリオは継続される
  • 「撃たれても前に進む」兵士は、だから再現性を持って作り出すことができる

戦闘の心理的効果

  • 否認が人を羊に変える。安全に携わる人は、「そんなことは起きない」ではなく、「それが起きたら用意はできている」を常に心がけないといけない
  • 「強い」人が内心の恐怖を打ち明け、それを克服する方法を教えると、「勇気」を別の誰かに伝授することができる
  • ミサイルや航空へ威力といった、長距離からの大火力は、相手に恐怖を与えることができない。テロリストにはだから、 「火力」それ自体の大きさは、意味を持たない。刃物のような、個人に対して直接的な脅威をもたらす武器のほうが、ハイテク兵器よりも心理的な効果が高い
  • 「仲間」がそばにいれば、兵士は発砲できる。兵士1人であれば、個人で「引き金を引くまい」と決心することもできるけれど、 チームに属する個人が発砲を回避するには、「仲間」に相談しなくてはならない
  • 古代のチャリオットは、御者と射手とのペアで戦う初めての兵器で、このことがおそらく、この兵器をより強力にした

前作の戦争における「人殺し」の心理学とあわせて、高ストレス環境に置かれた人の振る舞いかたを考える上で、大いに参考になると思う。

2008.07.07

学問の舞台設定

しっかりした地盤なしで成立する建物がないように、専門家が「学」を立ち上げるためには、 専門知識が実際に役立つための舞台設定が欠かせない。

砂漠戦に強い将軍がいたとして、その人が単純に「強い」という理由だけで艦隊を率いる立場に抜擢されても、 たぶん勝てない。将軍の「強さ」というのは、あくまでも砂漠という舞台があってこそ成り立つもので、 舞台が変わって、戦いのルールが変われば、その人がいくら名将であったとしても、その力を発揮することは難しい。

将軍の「強さ」、専門家の「専門性」みたいなものは、だから特定の舞台設定とは不可分なもので、 自らの知識を役立てるための舞台を定義できない学問は、それがどれだけ壮大な知識と技量とを集積していても、 肝心なところで役に立たない。

基礎のない建物はありえない

何か建物を造るなんてことを考えたとき、「基礎を作る」人達と、基礎の上に何かを立てる人達とは、 考えかたが異なるような気がする。

基礎を作る人達は、いろんな土壌を相手にする。建設予定地は山の中かもしれないし、 沼地だったりするかもしれない。ちょっと掘り返せば岩盤がむき出しになるような土地もあれば、 いくら掘っても粘土ばっかりで、ビル立てたら傾くような土地だってあるかもしれない。

相手は様々だけれど、目指すべきは「固くて平らな基礎」であって、その上に建てられるのが伝統的な寺社仏閣であろうが、 六本木ヒルズみたいな高層建築だろうが、建築家が基礎に求めるものは、多分そう大きく変わらない。

上物を作る建築家は、強度だとか予算だとか、いろんな要素を妥協しながら、顧客が求める何かを作ろうとする。 造られる建築物は、いろんな制限と折り合いながらも、建築家の能力が高ければ、たぶんそれだけ顧客の意志にそったものが出来上がる。

基礎を作り出す要素と、基礎の上に何かを建てる要素ととの区別をなくしてしまうと、たぶん建築という分野は、 「学」として成立しなくなってしまう。

「基礎」と「上物」との境界を無くす方向を目指してしまうと、その土地の状態そのものが、建物の姿を決定してしまう。 顧客の意志は、建物の姿をゆがめる「ノイズ」として排除されてしまうだろうから、そんな「学」には、たぶん誰もお金を払わない。

恐らくはどんな専門性、どんな学問にも、集積された知識を運用して、誰かの役に立てるための「基礎」、あるいは「舞台」となる ものが必要で、舞台装置を持たない学問は、それが役立つ「誰か」を設定できないから、「学」として成立し得ない。

医師が目指す「安定な状態」

たとえば外科医は、全身麻酔がかかった患者さんが手術台の上に横たわった状態を、「安定な状態」と定義する。 カテ屋さんにとっての「安定な状態」は、患者さんが消毒されてモニターつけられて、カテ台の上に乗った状態だし、 それが集中治療医ならば、患者さんはICUにいて、モニターと動脈ライン、下手すると透析用のブラッドアクセスなんかを 最初からつけられた姿を想像する。

みんなもちろん医師だから、患者さんがそうならなくても技量を発揮できる機会はあるけれど、「生き死に」に 関わる状態の患者さんを診るときには、まずは患者さんを「安定な状態」に持って行かないと、 自分の技量を最大にできない。

救急外来に不安定な患者さんが来たときは、だから超急性期は「陣取り合戦」みたいな雰囲気になることがある。 いくつかの科が呼ばれる。「ここで治療する」という選択枝はどこの科も想定してなくて、 みんな自分のホームグラウンドに患者さんを移動しようとする。そこで「安定な状態」を作り出してからでないと、 自ら責任もって働けないから。

医師にとっての「安定な状態」というのは、その医師が持っている能力の範囲内で、 患者さんの身体に起きたことを、最大限に見通しが良くできる状態。

患者さんは、もちろん助かることもあるし、不幸な転機をたどることもあるけれど、 「安定した状態」におかれた患者さんに起きたことは、その状態を要求した専門科は、 かなり詳しいところまで解説できるし、原因の見通しがいいからこそ、技量の範囲で対処もできる。

カテ室に連れてこられた患者さんは、心臓についての治療はできるけれど、その人がその場で吐血して、 いくら消化器科の専門医が呼ばれたところで、すぐに対処はできない。手術中の患者さんが急変して、 「心臓に何かありそうだから見て下さい」なんて循環器が呼ばれても、麻酔かけられてお腹開いた患者さんには 検査も出来ないし、やっぱりカテ室に運ばないと、何もできない。

生き死にに関わる分野は、だから専門知識を知ってるのとは別に、自分が働けるような舞台設定とは 不可分で、「どんな状況からでも舞台を作り出す」能力と、「舞台の上ですごいことをする」能力とは、 別個に磨かないといけないし、学びの方向みたいなものは、共通していないイメージ。

「舞台を作る」お仕事というのは、「診断」とか「状態把握」を行うもっと以前の段階、 そういうものは基礎の上に立つ「上物」の範囲であって、まずはそういう仕事を やりやすい状況に、一刻も早くたどり着くためのやりかた。

外傷医学はどうなのか

外傷医療の、やっぱり「緊張性気胸の対処」というものが、よく分からない。

見逃すと致命的になる。基本的な治療には絶対反応しない。「修行すれば」診断できるけれど、 診断確度はいいところ8 割ぐらいで、それすらも、たぶん慣れてない人には無理。

外傷医療のガイドラインは分厚くて、それが建築ならば、高層ビルだって建てられそうなぐらいに 様々な知見が集積されているけれど、知識の伽藍が依って立つ「基礎」は、2 割の確率で吹き飛んで、 基礎が吹き飛んだとき、それに対してどんなに立派な高層ビルが建ってたところで、やっぱりビルは崩れてしまう。

アメリカの外傷ガイドラインには、「分からなかったら両肺にチェストチューブを入れよ」という記載があるんだという。

アメリカの外傷医療は、だから「静脈ラインとモニターをつけられて、両肺にチェストチューブが入った患者」というものを 外傷医療の「安定した状態」と定義していて、この定義で行けば、緊張性気胸の患者は理論的に発生しないから、 医師は十分に安定した基礎の上で、自らの技量を振るえる気がする。

舞台設定を「患者さんにCT が為された状態」と定義してもいいし、 あるいは「輸液に反応しない血圧低下にはPCPSを入れよ」でも いいし、「基礎」の作りかたにはいくつかやりかたがあると思う。

どちらも問題あるし、お金かかるけれど、「修行して死ぬ気で頑張れ」というのは、 やっぱり学問の基礎にはなり得ない。このへんは、本来偉い人達がもっと考えてくれたっていいと思う。

2008.07.01

「きれいなやりかた」を目指して失われるもの

外傷の患者さん受け持って、いろんな方からJTEC、「外傷初期診療ガイドライン」読むといいよ なんて言われた。読んでみて、やっぱりなんか無理だと思った。

「現場の裁量」認めちゃいけない

ガイドラインは分厚くて、「この通りにやれば大丈夫」を目指しているよりは、 むしろ「医師ならここまで知っているべき」みたいな知識を示すやりかた。

「ガイドライン」うたってるんだけれど、書かれかたとか、講義のDVDだとか、むしろ「お手本」の医療みたい。 「頭部外傷にとらわれて、いきなりCTスキャンオーダーしてませんか?」なんて、 読者を挑発しつつも正しいやりかたを提示して、講義が進んで「診断」する段になると、 「必要な場合には画像診断も参照する」とか、微妙に逃げて、もとい現場の裁量を認めてた。

「必要があれば」とか、状況ごとの術者の判断だとか、「ルール破り」を暗に認める書きかたは、 もちろんそう書くことそれ自体は間違いではないのだろうけれど、そのガイドラインを武器として使うには、 ちょっと足りない。

正しい「お手本」を示して、「修行して、お手本どおりにできることを目指しなさい」というやりかたは、 とくに救急医療に役立つ本を書こうと思った場合、あまり役に立たない。何となく、読んでも守られた気がしないから。

地面に引いた線の上を歩くのは容易だけれど、地上10mに設置した棒の上を、 命綱なしで歩くのは、すごく難しい。

地面に引かれた線の上を歩き続けて10年ぐらい、「修行」を積んだら、 あるいはそのうち、地上10mでも怖くなくなるのかもしれないけれど、 明日からそれをやらなきゃいけない現場で、「修行」を要求するガイドラインは酷だと思った。

術者の技量に期待しないでほしい

救急やってて、いろんな人が来る。何もしないで元気になっていく人もいれば、 院内のマンパワー総動員して、やっぱり亡くなる人もいる。

こういう場所に立っていると、とにかく「分からないのに具合が悪い」という状況が一番怖い。 ご家族なんかに悪い結果を伝えるときに、「原因分かりませんが具合悪いです」なんて言えない。 むしろ全身から出血していてもうコントロールできないだとか、同じ状態悪くても、原因がはっきりしていれば、 まだしも伝えようがあるのだけれど。

外傷の患者さんでそうなる状況というのが、緊張性気胸と、心タンポナーデ。その場で 診断するのが実質不可能で、見てる目の前で血圧下がるのに、輸液だとか昇圧剤だとか、 普通の治療に反応しない。

JTEC のデモンストレーションのビデオには、外傷でショック状態になった人が患者 役として登場する。呼吸はあるけれど、意識が悪い状態。

デモンストレーターの先生は、その人の胸を観察して、聴診して、打診して、 「緊張性気胸です」なんて診断して、ためらうことなくチェストチューブを入れてた。絶対無理だと思った。

視診だとか聴診だとか、術者や状況で確度が大いに左右されてしまう検査を判断の要に据えて、 その無謬性を、術者の修行で確保しようという考えかたは、やっぱり戦略として間違ってる。

ガイドライン作って、現場をそれで守ろうとするならば、本来ならたぶん、 「確実だけれど高コスト」だとか、「確実だけれど大袈裟」な検査を運用ですぐに使えるように ガイドラインに定めて、やりかたを改良していく中で、そうした検査のコストダウンを考えるのが筋だと思う。

具体的には、やっぱりCTスキャン。

「CT 撮りたいとか思ってませんか? 」なんて言わないで、どうせ誰もがCT 撮りたいと思ってるんだから、 いっそ救急外来をCT 室にしようよと思う。救急車が横付けしたら、そこはCTの撮影室で、 ストレッチャーごと円筒の中に入る。空間限られてて、いろんなことがすごくやりにくくなるからこそ、 そんな不便な空間での振る舞いかたを、実技コースを通じて身につけてもらう。

きれいな手本を示して、みんなが目指すやりかたと、ワーストケース想定して、 それに従った振る舞いかたを、みんなで練習するやりかた。後者のやりかたは大袈裟で、 洗練からはほど遠いけれど、現場はそのほうが安心して働けると思う。

現場を守るマニュアルのこと

社会の信頼コストの変化に応じて、マニュアルだとかガイドラインの書かれかたも変わらないといけない。

「きれいなやりかた」を提示して、現場の裁量を大幅に認めるマニュアルというのは、 それを書いた人を守る効果は高いけれど、それに従おうとして、「お手本」に従いきれなかった現場の医師を、 そのマニュアルは保護してくれない。

ワーストケースを想定するやりかたは、治療のやりかたとしては汚らしくて大げさで、 何だかそれに従う医師が「馬鹿」みたいに見えてくるけれど、ガイドラインが馬鹿でいさせてくれるからこそ、 現場は判断リスクから自由になれる。

外傷の患者さん受けて、けっこう怖い思いして、「ガイドライン読みなよ」なんて言われて読んで、 やっぱりこれは「お手本」なんだなと思った。

もちろん目指すべき目標として、「お手本」示すことは大切なんだろうけれど、 「修行を積めば、君も緊張性気胸を視診一発で確定診断できるよ」なんて宣言されても、 外傷診療に挑む若手は減る一方だと思う。

2008.06.11

運用解決と構造解決

1974年のパリ上空、トルコ航空のDC-10 が墜落して、乗客346人が全員死亡した。 飛行中に貨物扉が吹き飛んで、機体が制御できなくなったらしい。

この飛行機は、貨物扉が「半ドア」のままでもロックできてしまう問題を以前から指摘されてて、 改善が勧告されていたけれど、航空会社はドアに「のぞき窓」をもうけて、ロックがきちんと為されているよう、 整備担当の人に確認させることで、問題は「解決」されたことにしていた。

ごく最近、世界一高い航空機、B-2 爆撃機がグアムで墜落した。

原因はセンサーが湿気によって誤作動したことで、湿気の高いグアムの基地では、 始動前にセンサーを熱して、内部の湿気を蒸発させるという「技」が、 一部のパイロットや整備士らによって非公式に行なわれていたのだという。

島根県の診療所で、血糖測定用の針が使い回されて、肝炎ウィルスが拡散した。

採血の機械は6 回続けて使用可能で、本体には、赤い字で「複数患者使用不可」という シールが貼ってあったらしい。

時代も状況もバラバラだけれど、問題の根っこはよく似ている。

「運用」は解決にならない

DC-10 の貨物扉は金具がヤワで、たとえ半ドアになっていても、ハンドルに体重をかけて回してしまうと、 金具がゆがんで「ロック」されたことになってしまうのが問題だった。

提案された改善案は2つ。「のぞき窓」をもうけることで、整備士に確認を促すやりかたと、 金具に補強板を取り付けることで、そもそも半ドアのままロックを行うことを不可能にするやりかたと。

補強板の価格自体、決して高価なわけではないはずだけれど、「確認すれば大丈夫」なことも 間違いなかったから、補強板は取り付けられなくて、航空機は墜落した。

B-2爆撃機の事例なんかも、恐らくはこれから検証が為されるんだろうけれど、 もしかしたら湿気の問題は最初から報告されていて、誰かが途中で情報を止めたのかもしれないし、 あるいは現場の工夫はそこで「解決」したことになってしまって、そもそも情報が上に伝わらなかったのかもしれない。

今回トラブルを起こした採血用具も、「複数患者使用不可」なんて赤字シールを貼ってたぐらいだから、 あれを作ったメーカーの人達は、きっと問題を正確に認識していたはず。潤ってた昔だったら、 「危ないよ」なんて誰かが声出せば、あの製品は、即日全品回収がかかったんだろうけれど。

その改良に意味はあるのか

改良の方向には「性能が向上する代わりに、使用者にも一定のレベルを要求する」方向と、 「性能は変わらないけれど、どんな人にでも使える」方向とがあって、安全を志向する道具の場合、 前者を目指してはいけないんだと思う。

血糖測定用の針は、昔はただの針だった。細い注射針をそのまま使って、 患者さんの指先傷つけて、血液一滴もらって検査に回す。 それだと痛いから、バネ仕掛けで使って勢いよく針を飛ばせるようにしたのが、 血糖測定用の採血用具。

銃の進歩にちょっと似ていて、最初の頃は「単発」。針をセットするには本体を分解しないといけなくて、 分解して針を装着して、バネをセットして、ようやく利用できる。面倒だけれど、一度使ったら、 また分解しないとバネのセットができなかったから、「使い回し」の問題は発生しにくかった。

実物を見たことがないけれど、問題になった採血用具は「連発式」。バネのセットさえすれば 何回でも連射可能だけれど、使い回しを回避するためには、利用する人が何回撃ったのか、 覚えていないといけない。

「使い回し禁止」なんてシールを貼ることで、その問題は、 「運用」で解決されたことになっていたけれど、事故は起きた。

同じ改良品でも、絶対使い回しできない針と いうものも発売されている。

最初から針とバネがセットされてて、ボタン一発で動作して、一回使ったら針が隠れて、もう二度と使えない。 単発で、捨てる部品が多くてもったいないけれど、原理的には「針刺し」の事故は絶対起きないし、 患者さんまたいだ使い回しの問題も起きない。

問題の発生を避けられない構造を改めないで、シール一枚で「解決」したことにする。

あれを作った人のセンスも、その危なさを指摘できなかったユーザーのセンスも、 同じようにとがめられるべきだけれど、そもそもこういう問題は、昔みたいに メーカーも現場も潤ってた頃ならば、何も考えなくても起きなかったんだと思う。

製品の回収に伴うコストと、「シール」印刷するコスト、安全対策が為された道具を使うコストと、 そもそもが個人使用向けの製品を、病院で使うコストと。現場が潤ってる昔なら、 最初から考えもしなかったことが、今は天秤にかけられる。バランス取るのにはセンスが必要で、 センスに欠けた人もバランスを考えざるを得ないから、舵取り間違えて、事故が発生する。

安全をお金に換える仕組みを作らないと、こういう問題はなくならないと思う。

2008.05.29

間違えることが無意味になる仕組み

住んでるのが田舎だから、毎朝の出勤は自家用車で、田んぼの中を縫いながら、 信号のない交差点をいくつも通る。

あぜ道だけに、道はまっすぐ。田舎の常で、あらゆる道には素敵な舗装が施されてて、 見通しのいい直線道路は、その気になれば高速道路と変わらない。朝の忙しい時間帯、 みんな床までアクセルを踏む。

交差点を右に曲がる場所が何カ所かある。みんな飛ばしてる。いつも命がけになる。 車は切れない。だから自分が曲がろうと思ったら、相手のウィンカーを見るしかない。

曲がりたい側の車が、自分の方向にウィンカーを出す。そのときその車は減速して、 後続の車を遮ってくれるから、そのタイミングで交差点に進入できれば、自分も曲がれる。

相手がもしも「嘘をついた」ら、間違いなく事故になる。

田んぼ道のローカルルール

自分たちがいる車線は細くて、曲がりたい側の道は、太くてまっすぐ。同じ車同士だけれど、 何となく「立場」みたいなものは相手のほうが圧倒的に強くて、細い道で待ってる車は、 何だか譲っていただくような気分。

相手がウィンカーを出したら、だからそれ信じて突っ込むしかないんだけれど、 「相手のシグナルが常に真実」なんてこと自体、今の世の中信じられない。

細い道走る車はだから、道の真ん中付近で交差点を待つ。これをやると、 相手車線の進入経路を自分の車が微妙にふさぐ形になる。 車が進入しようと思っても、自分たちの車が邪魔で、入れない。

見通しの悪い交差点でこれをやると、間違いなく事故になる。交差点曲がったら、 道の真ん中に対向車が居座ってるわけだから。けれど、田んぼの真ん中は、100m先ぐらいまで、 遮るものが一切ない。

相手車線の車はだから、こちら側に進入するためには停止せざるを得なくて、 相手が減速してくれたら、こっちは安心して交差点に進入できる。 ローカルルールだし、もしかしたら道路交通法違反なんだろうけれど、 このルールを運用すると、相手のウィンカーが、仮に「嘘をついた」としても、事故は起きない。

判断の真実性について

ウィンカーみたいなシグナルにしても、人間同士の契約にしても、コミュニケーションというものは、 「相手が真実を述べていて、こちらがそれを信じる」ことが前提になっている。

相手が嘘をついたり、相手の判断が間違えていたりすれば、もちろん意図した結果は得られないし、 相手のシグナルを自分たちが読み違えれば、やっぱり正しい結果にたどり着けない。

シグナルを介したやりとりは、それが上手に回ればすごく効率がいいし、 「相手が真実を述べている」という前提の共有が為されなければ、 そもそも料金後払いの通信販売だとか、口約束で話進めるやりかただとか、 絶対に上手くいかない。

ウィンカーを無意味化する交差点ルールは特殊解かもしれないけれど、なんとなく、 一般化できそうな気もしている。

どんなコミュニケーションについても、相手が真実を述べようが、嘘を述べようが、 そもそも相手のそんな「判断」それ自体を無意味化できるようなやりかた。

交差点のローカルルールは、相手が自分たちの方向に曲がりたかったら、減速して、 居座っている車を進ませる以外の戦略がとれない。ウィンカーを正しく出そうが、 あるいは「間違って」ウィンカーを出しっぱなしのまま直進しようが、そもそも 道の真ん中で待ってる車はウィンカーを見ていないから、その「間違い」は、結果に 何の影響も与えられない。

料金先払いの、食券制度の食堂ルールと似ているけれど、これだとまだ、 食堂側の判断、相手に「おいしい」ものを提供するのか、「まずい」ものを 提供するのか、コミュニケーションに判断要素が残ってしまう。

相手の進入経路みたいな、相手のやりたいことに欠かせない何かをこちら側が持つことと、 「田んぼのあぜ道」みたいな見通しのよさというのが、何かヒントになっている気がする。

高信頼性が求められるような状況が増えてきている昨今、「過誤が無意味化する構造」 という考えかたは役に立つと思う。

2008.04.06

治癒イメージの描きかた

研修医の頃、重篤な脳梗塞の患者さんを受け持った。上司に「どうしますか?」なんて治療の方針を尋ねたら、 「立派な寝たきり老人にして返す」という返答をいただいた。

あれからいろんな上司に「どうしますか?」を訪ねたけれど、科によって、その人の性格によって、 返ってくる答えは様々。すごい返答。熱い返答。誠意のない返答。答えはいろいろだったけれど、 「どう」の中に入るのは、みんな行為のイメージ。患者さんの治癒という、 結果をイメージしながら戦略を考える人は、やっぱり少ない印象。

みんな精霊さんを信じてる

みんなたぶん、どこかできっと、「精霊」の存在を信じてる。主治医の努力をどこかで見ていて、 超常の力を発揮して、受け持ち患者さんに治癒をもたらす精霊。

外科医はみんな、悪そうなところを全部とったら、あとは精霊さんが何とかしてくれると信じてるし、 麻酔科の人達は、血圧とか脈拍とか、外から見える数字を一定期間、「正しく」保つことに 成功すれば、そこから先は精霊さんの仕事だと割り切ってる節がある。

内科はたぶん、病気を直すのに「いいこと」を重ねた先に、治癒があると信じてる。 患者さんが向かう先はわからないけれど、とにかく「いい」を重ね続ければ、 きっと精霊さんが導いてくれるみたいな。

その患者さんが退院するときの姿、ゴールを想定して何かやる人は、たぶん今でも少ない気がする。

最近よく流れる医療崩壊を特集するテレビ番組で、ベテランの先生がインタビューに答えてた。 患者さんのことを、もっと診て「あげたいんだけれど」なんて上から目線。自分がやってることは 「いいこと」だと心から信じて疑わない、精霊さんに取り憑かれた人の立ち位置だと思った。

借金取りは絵を描かせる

借金を取り立てる人たちは、債務者の支払い能力を評価するとき、 その人に「絵を描かせる」のだという。

「絵」というのは要するに、「借金を全部返済して自由になった自分」のイメージを描く能力。

絵を描ける人、たとえば「まだ親戚からいくらか借りる当てがある。親を説得して、 実家の土地を担保に当面の利子分を支払うから、その間に何かお金になる仕事を 世話してくれれば、6年間で何とか元本だけは返せると思います」なんて返答が できる人は、そんな言葉がたとえ口から出任せであったのだとしても、 まだ見込みがあるんだという。

絵を描く能力がない人、嘘つくこともできなくて、「どうしていいのかわかりません」なんて人は、 もう生命保険で支払ってもらうぐらいしか、出来ることはないんだとか。

高齢で体力もなくて、重症度の高い患者さんが入院するときは、「絵」をイメージできないと、 もう絶対退院できない。「いいこと」を続けると、その人は少しだけ持ち直すんだけれど、 「いい」をいくら重ねたところで、基礎体力のない人は、やっぱり治癒まで持って行けない。

患者さんのご家族はもちろん、こんな時、「入院する前の元気だった頃」が治癒イメージになっているから、 そこまで行かないうちは「治癒」とは認めてくれない。

医師が「絵」を書くことに失敗して、到達できない目標目指して、ひたすら「いいこと」を重ねる状況は 結構あって、公立病院の奥のほうなんかに、もう何年も入院している人が時々潜んでる。

もっと妄想を語ったほうがいいと思う

高齢の人が入院したときとか、その人がもともとどれだけ元気だったとしても、 その人はやっぱり「悪く」なる。筋力は落ちるし、下手をすると身内の顔もわからなくなる。 回復が「不十分」と判定されたら、身内はもちろん引き取らないし、 施設を探そうにも、今はどこもいっぱいだから、待ち時間数ヶ月とか珍しくない。

患者さんの体格とか筋肉量、病気の重篤度とか、あと身内の人たちと患者さんとのおしゃべりとか、 そんなものを見るだけで、いろんなことを妄想する。

入院当初は、にこにこ元気に歩いて帰る患者さんのイメージというのは浮かばなくて、 むしろ病棟で転棟して寝たきりになっているイメージとか、その非を責められて、身内から 詰め寄られる自分のイメージとか、退院を切り出してもご家族が黙ってしまって、 ものすごく嫌な空気になった面談室のイメージとか、ろくでもない妄想が浮かぶ。

こんなイメージは、そもそも治療には無関係だし、イメージの出来は予後を左右しないけれど、 浮かんだイメージというものは、出来ればなるべく早いうちに、病棟スタッフとか、患者さんのご家族と共有したほうが いいような気がしている。この数年間は、当たり障りのない範囲で、自分の妄想をご家族と 共有するやりかたをしているけれど、案外何とかなっている。

患者さんが落ち着いてくれば、もちろんイメージはどんどん変わる。無限に多様化した悪いイメージは、 病気の軽快とともに少しずつ「よく」なって、特定の退院イメージに向かって収斂していく。

入院当初のお話は、だから悪いイメージばっかり。それで「こいつは無能だ」と判断されたらそれまでだけれど、 生じうる可能性をあらかじめ共有できると、万が一の急変があったときでも、そのときのイメージがみんなに 「キャッシュ」されて残っているので、後の対処がすごく楽になる。

治癒イメージの静的生成

現場が長いベテランは、患者が急変しても慌てない。部長以外の誰もが「もうこれは死んだな…」とあきらめるような 状況であっても、ベテランは、祈る代わりにわずかでも時間を稼げる治療手段を探し出して、作り出した時間で 目の前の問題を解決し、わずかな前進を積み重ねて、患者さんを力技で治癒へと導く。

あの状況で、どうしてそういう対処が出来るのか尋ねると、 「あの状況なら、まだまだこういう解決手段があると分かっていたから冷静でいられた」なんて、 その場でやらなかったいくつもの解決戦略を教えてくれる。

その人が状況ごとに作り出せる「キャッシュファイル」の量それ自体が、 鉄火場を乗り切るための体力として効いてくるんだと思う。

4月をまたいで、地域の基幹病院の人員構成が少し変わった。専門科の数は増えたんだけれど、 各々の科に所属している先生の数は少なくなって、科によっては「一人」とか。こうなるともう 入院患者さんは診られない。

医師一人が持っている治癒イメージの量には上限があるから、 人が減ってしまうと、急変の可能性がある人には対処できない。 がんセンターみたいな本当の専門施設には、だから「心身共に健康な肺がん患者」とか、 極めて厳格な適応満たした人じゃないと入院できなかったりとか、時々すごく矛盾したことが起きる。

自分が今いる施設なんか、一般外科と一般内科しかいないのに、最近はパーキンソン病とか、 胸部大動脈瘤とか、明らかに専門家が診るべき疾患を持った患者さんが、「よろしくお願いします」なんて 紹介される。

ローテーション研修制度は、技術は教えるけれど、イメージの描きかたなんて教えない。専門医全盛になって、 医師の専門分野はますます細かくなるけれど、細かくなるほどに経験の多様性は少なくなって、 治癒イメージのキャッシュファイルは作りにくくなる。

医師の能力が十分に高ければ、あるいはイメージなんて動的に生成できるのかもしれないけれど、 あらかじめ作ってあるイメージ呼び出すのに比べると、動的生成はいかにも不安定。

MovableType のバージョンを上げた。「再構築が速くできます」なんて言葉に魅力を感じて、 「すべてのファイルを動的に生成する」オプションにチェックを入れたら、過去ログが吹き飛んだ。

動的生成はあきらめて、すべてのファイルを静的HTMLで保存して、旧blog は更新を止めた。