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2009.01.15

一貫性の誤謬

経営が迷走した企業だとか、政府に対しては、「一貫性を持った対応が為されていない」なんて批判される。

「一貫性なくしてビジネスに勝機なし」なんて断言する、成功した経営者もいる。

こういう考えかたは間違っていると思う。

成功した人には一貫性が観測される

成功したプロジェクト戦略のことごとくは、あとからそれを振り返れば、 リーダーの、一貫した判断に基づいた運営が為されているように見える。

経営判断や政治、戦争の判断に至るまで、「判断の一貫性」というものは、 まず必ずといっていいほど観測されて、「一貫性は大切だ」なんて思われる。

ところがたぶん、「成功したプロジェクトには一貫性が観測できる」ことはたしかだけれど、 そのことは決して、「一貫した判断に基づいたプロジェクトは成功する」ことを意味しない。

「一貫した判断が観測された」プロジェクトのリーダーは、プロジェクトが進行しているその時は、 一貫した基準に基づいて、何かを判断していない。

幅の広い道路を、ただまっすぐ走る。 ある人は真ん中を走るし、ある人は、端っこを走る。対角線に走る、迷惑なドライバーだっている。 流れに従う車もいれば、前の車にただついていく人もいる。
外からそれを観測するかぎり、「走りかた」にはいろんな流儀を見いだせるけれど、走っているドライバーは、 「自分のポリシー」なんて考えないで、目的地まで、安全にたどり着くことだけを考えている。

成功したプロジェクトを外から眺めれば、必ずといっていいほど、何か一貫した判断基準が観測できるけれど、 そんな事例をいくら集積したところで、「一貫性が大切だ」という結論は、出してはいけないのだと思う。

たぶん現場でやられていること

状況は見えない。それはたぶん、どれだけ天才じみたリーダーにおいても変わらない。 あらゆる判断は、チームが対峙した状況ごとに、不十分な情報に基づいて、場当たり的に行われる。

判断はだから、合っていることもあれば、間違っていることもある。 自分が考え、行動していることは果たして正しいのか、行動方針を決めて、 それを観察しているのも自分自身だから、正解は見えないし、 系の中からは、「絶対的な正しさ」なんか、判断できない。

成功したリーダーは、たぶん「成功しそうな」ことだけを考える。 判断の都度、自らの「一貫した価値基準」を確認したりはしない。

成功したリーダーはその代わり、自分の正しさを信じない。

手元に集まる情報が不十分なときには、「どちらに転んでも大丈夫な」ように判断を下すし、 それすらできないとき、「これまで自分はどんな基準に基づいて判断を下してきただろうか? 」なんて、 自問することしかできない状況に陥ったなら、判断を放り出して、一刻も早く、その状況から逃げ出すことを考える。

結果として「成功するリーダー」には、あとから観測すれば、 必ずといっていいほど「一貫した判断基準」を見いだすことができるけれど、 一つのプロジェクトが終了するまで、リーダーには「一貫した基準」など存在しないし、 むしろリーダーが「一貫した基準」にこだわったその瞬間、「成功するリーダー」は そこから逃げ出すから、そのプロジェクトもまた、失敗から逃げられるのだと思う。

警報としての一貫性

「自分は正しい」と思ったその時にこそ、自分自身を信用してはならない。

「一貫した判断を重視せよ」という言い伝えは、だからそんなものが自分の内面に形成されたり、 普段なら気にもとめない、「自らの一貫した価値基準」なんてものが頭をよぎったその時には、 その人はすでに、危機的な状況に足を踏み入れていることを自覚すべきだ、と解釈すべきなんだと思う。

病棟で働いていていると、「一点全賭け」状態になって、 結果を待つこと以外何もできない状況に陥ることがある。

不明熱の患者さんなんかを診察していて、「これは○○ウィルス感染症に違いない」なんて、 特殊な検査を提出して、結果が出るまでの4 日間、無為に過ごすしかないような状況。

自分が一度そう判断してしまったものだから、待っている間、患者さんに対して 別の介入を行うことが、何となくためらわれる。「分からなかったら病歴を振り返れ」だとか、 「症状に表れない病気は考えなくていい」だとか、偉い先生達の教えに従ったところで、 「自分は正しい」なんて考えかたに取り憑かれてるから、判断はもう、覆るどころか、 待ち時間の間、根拠のない確信だけが膨らんで、状況は何も変わらない。

診断が「当たり」だったなら、話はそれで丸く収まるんだけれど、 予想が外れたら、その間に失われた患者さんの時間がすごい重圧になって、 頭の中には「代案」なんて浮かばなくて、目の前が真っ暗になる。

こんなことを繰り返していると、「この病気だろう」なんて確信が生まれて、 他の選択枝が失われそうなその時、すごく嫌な予感がするようになる。一貫性が頭をよぎると、 自分なんかは恐慌状態になって、その状況から逃げだしたくなる。

そうなったらとりあえず、自分を全力で否定することにしている。

採血検査を、同僚10人が10人「馬鹿」と判定するぐらいに広く提出して、 怪しそうな場所を、造影なしのCT スキャンで広範囲に撮影して、とにかくまず、 全力で「馬鹿で哀れな医者」を目指して突っ走ってから、いろんな科の先生に泣きついて、意見を仰ぐ。

過誤というのは、おきる時までは自覚されない。思い込みを、その人の力だけで覆すのは不可能に近い。

不可能だからこそ、それが危険だからこそ、自らの正当性を裏打ちするような「一貫性」が 頭をよぎったその時には、それを警報と受け取るべきなんだと思う。

2008.12.27

足したら引かなきゃいけない

「改革」は常に必要で、それなりにうまく回っている職場においてもまた、 定期的に新しい技術が導入されて、現場には、「複雑さ」が付加される。

技術者の人達は、「それが入ることによって出来ること」を強調するけれど、 宣伝されたすばらしい未来は、来てみれば案外役に立たなかったり、手続きが複雑になるだけだったり、 価値を実感できないことも多い。

技術はたぶん、「それが入って何が出来るのか」を問うよりも、むしろ 「それが入ることで、現場から何を不要にできるのか」を考えたほうが、 価値をより正確に判断できる。

「何も引けない」新技術というものは、おそらくはたいていの場合、結果の改善に寄与しない。

ガンマ単位の昔

昇圧薬を使うときには、昔はガンマ単位を計算した。

患者さんの体重あたり、必要な量を小数点以下まで計算して、その人なりの、 昇圧薬の使いかたを表にして、血圧をコントロールするやりかた。中身は全く同じ薬なのに、 ベッドごと、患者さんごとに、薬の使いかたは、みんな異なってた。

複雑だった。そうした複雑さこそが集中治療だと思ってたし、かっこいいと思っていた。 電卓片手に、小数点を計算することに、みんな何の疑問も持ってなかった。

実際のところ、計算ミスだとか、点滴の取り違えだとか、たぶんたくさんあったはずだけれど、 みんな「集中治療とはそういうものだ」なんて、危険な状況を、 下手するとむしろプライド持って誇ってたりした。

自分達が研修医を始めた当時から、現場には「動脈ライン」というものが導入されていたけれど、 患者さんにそれが入っているのが当たり前になるためには、もう少しだけ時間がかかった。

大学に移って、今の集中治療室なら、患者さんには全員、動脈ラインが入るようになった。 手動で測定していた頃、血圧は、せいぜい測って1時間に1回だったのが、動脈ラインを使うと1 拍動ごと、 1 分間に最低でも60回ぐらいは測定できるのが当たり前になった。

血圧がリアルタイムで把握できることが当たり前になって、今度は昇圧薬の使いかたが、「現物合あわせ」で いけるようになった。体重を計算して、1 時間後の血圧を予想して、小数点以下まで量を指定していた昇圧薬は、 今では「血圧が上がるまで適当に増やす」なんていいかげんなオーダーを行っても、 ガンマ単位を計算していた頃と、全く同じ結果が得られるようになった。

複雑さを放り出すことには抵抗があって、それでも何年間か、みんなガンマ単位を計算していたけれど、 そのうち誰もが計算機を捨てて、昇圧薬の濃度は、全患者さんで共通になった。

集中治療室には、「動脈ライン」という複雑さが一つ増えた代わり、 「ガンマ計算」という、やっかいな、ミスの可能性が高い複雑さを一つ、放り出すことが出来た。

結果としてこれは、点滴の間違いだとか、量の間違いみたいなミスの可能性を減らすことにつながって、 恐らくはたぶん、動脈ライン以後の集中治療室は、少しだけ安全な場所になったのだと思う。

無人戦闘機のこと

最新鋭の戦闘機は、もはや翼なんていらないんじゃないのか、と思えるぐらいに複雑な機動が出来るけれど、 今以上にすごい動作を行うと、たぶん中の人間が耐えられない。

いろんな国で、だから「無人戦闘機」というものが研究されているけれど、 「無人」という新技術を導入するならば、人間の許容範囲を大きく超えた、 無人の超絶戦闘機を想像してはいけないのだと思う。

「人が乗らなくてもいい」という、新しい複雑さをそこに導入するならば、 今度はたぶん、「相手の戦闘機に勝つ」という、戦闘機本来の任務、複雑さを捨てられるという 発想をしないといけない。

無人戦闘機には、人が乗っていないのだから、もう勝たなくてもいい。たとえ撃墜されたところで、 基本的に誰も困らない。困らないなら、機体は安く、たくさん作ればいい。

どれだけすごい戦闘機を作ったところで、銃弾の数には限りがある。おもちゃみたいな、 安価で弱い戦闘機であっても、それが無数に、群れを作って飛んできたら、もう撃墜できない。

無人機は、たぶん高性能なものと、安価なものと、開発は両極化していくんだろうけれど、 戦争というものの風景を大きく変える可能性を持っているのは、技術的にはちっぽけな、 安価な無人戦闘機なんだろうと思う。

結果に貢献する技術

恐らくは世の中には、「現場に何か足す」技術と、「現場から何か引ける」技術とがある。

技術者はたぶん、「足せる」ものを好む。だからこそ、戦闘機は新しくなるほどに「強く」なって、 年を追うごとに技術は変化しているのに、「相手に勝つ」という目標は、決して変わらない。

技術を受け入れる現場の側も、足される複雑さに目がくらんで、 「これはすごい」なんて、状況の改善に寄与しない複雑さを賞賛したりするけれど、それは違うんだと思う。

新技術が導入された必然として、現場の手続きはより複雑になるけれど、結果の改善に寄与しない、 「足す」だけの技術というのは、たぶん「やりかたが複雑になった」ということでしか、 自らの正当性を主張できない。

新しい技術を受け入れる側は、何かを引かないといけない。その技術を受け入れて、 その技術は、代わりに何を不要にしてくれるのか、それを見つけ出すのは、 技術を開発する人の仕事ではなくて、現場でそれを使う側の責任で、 その技術が入ったとして、現場から何も「引く」ことが出来ないのならば、 それがどれだけ複雑な、すばらしい技術であったのだとしても、それを受け入れてはいけない。

「その技術が加わったとして、我々はどこで手を抜けますか? 」

技術を評価する人達は、自らに、こう問い続けなくてはいけないのだろうと思う。

2008.11.22

取り違え回避のやりかた

今住んでいる地域には「持ち帰り」に対応してくれる回転寿司屋さんがあって、ときどき利用する。 この地域には、そもそも外食産業がそこぐらいしかないから、いつも忙しそうにしている。 うちには子供がいないから、お願いするのはもちろん「ワサビ入り」の、普通の寿司だけれど、 「ワサビ入り」を注文したのに、受け取りに行ったらワサビがなかった。

今までの状況

そこにお寿司を頼むと、最初に注文する寿司を聞かれて、最後にいつも「ワサビはどうしますか ?」なんて尋ねられる。

同じ応対を繰り返すのが面倒だったから、最近は、注文をするときに「ワサビ入りで」なんて頼む。 今まではそれで、「ワサビはどうしますか?」がスルーされて、ワサビ入りのお寿司が出来上がっていた。

今回、いつもの通りに「ワサビ入りで」なんて頼んだのに、そのあともう一度「ワサビはどうしますか?」と尋ねられた。 そこで「ワサビ入りで」なんてお願いして、相手も「ワサビ入りですね」なんて返事したのに、ワサビは入ってなかった。

バックグラウンドで起きていたこと

恐らく電話の応対をしてくれた店員さんは、相当に忙しい思いをしていて、自分なりに、手順を「改良」していたんだと思う。

  • ワサビ入りの、「普通の」お寿司を頼む人は、店員さんが尋ねない限り、ワサビのことなんて気にしない
  • 子供がいる家だと、「ワサビ抜き」であることは大切だから、恐らくはそういう家は、最初から「ワサビ抜き」なんてお願いする

たぶんこんなことが何度か繰り返されて、店員さんの頭の中には、 「ワサビの話題を相手が振ってきたらワサビ抜き」なんて回路が出来上がっていたんだと思う。

人間は、同じ作業を繰り返していると、認知にかける労力を節約しようとする。

マニュアルどおりの、最後に「ワサビの有無」を確認するやりかたよりも、恐らくは「ワサビの話題が出たらワサビ抜き」 の覚え方のほうが、頭の仕事量は、もっと少ない。

そんなやりかたをしても、たぶん高い確率でミス無く回っていて、そこにたまたま、うちみたいな「例外」が 入ってきたものだから、店員さんは、ミスを修正できなかったのだと思う。

データベースは判断を行わない。間違った情報を入力されれば、間違った出力を返してしまう。

この事例はたしかに「ミス」だけれど、たぶんその店員さんにとっては、 「データベースに間違った情報を入力された」帰結でしかないのだと思う。

わさびの入ってないお寿司をつまみながら、「これからはわさびの話をこちらからするのは止めよう」なんて、 うちではとりあえず、ユーザーサイドで対策をすることにした。

認知のモード

たぶん「人間モード」と「機械モード」と、人間は認知のやりかたを状況に応じて使い分ける。

  • 「人間モード」は時間がかかるし、脳の負担も大きくて、間違えも多い。その代わり柔軟な対応ができて、 間違えの修正も容易
  • 「機械モード」は、認知がハードワイアされた状態で、正確で、すばやい判断が可能。 その代わり、想定されていない情報がそこに入り込むと、間違えて、修正できない

注文を受けた店員さんは、おそらくは「機械モード」で仕事をしていて、注文を受けたときに 自分たちが「わさびの話題」を出したその時点で、恐らくは「ワサビ抜き」の出力が確定していた。 注文のあと、「ワサビの確認」があって、「ワサビ入りの復唱」も為されたにもかかわらず、 結果は変更されなかった。

ミス回避のやりかた

人は容易に「機械」になる。そのことを前提にしないミス対策、 「指差し確認」だとか「ダブルチェック」みたいなやりかたは、 手続きを面倒にするだけだと思う。

手順書を作るときには、「機械になった人」を意識しないといけない。 たぶん「機械モードに入れない」手順を作るやりかたと、「機械人間でも結果が変わらない」やりかたとがある。

「機械」を回避するためには、たぶん応対マニュアルの中から、「ワサビ」という言葉を削除すればいい。

店員さんは、注文を受け付けたあと、最後に「ほかに何か言い残したことは ?」なんて質問をするルールにしておく。 「ワサビは ?」とか尋ねちゃいけない。

お客の答えは「ワサビ」かもしれないし、あるいは「マグロ増やしてくれ」だとか、 「お前のその態度が気に入らない」だとか、客の数だけさまざまだから、店員さんは、 手順を改良して、機械化することができなくなってしまう。

電話の応対は疲れるし、恐らくは店の効率も少しだけ悪くなるだろうけれど、「ワサビといったのにワサビが抜かれる」 状況は、回避できると思う。

「機械でもいい」やりかたを目指すなら、お店は「ワサビ入りのお寿司」というメニューを削ればいい。

最初からワサビの入っていない、ワサビが別になった寿司しか販売しないお店であれば、 原理的にミスは発生しない。お客もいなくなるかもしれないけれど。

サクシンとサクシゾン

最近起きたサクシンの誤投与は、電子カルテ出たときから「危ない」なんて言われていて、 「電子カルテはやばい」なんて話をするときには必ず引用されていることが、 ついに本当におきてしまったな、という印象。

本来が文脈依存で薬が選択されないといけない、「医療」というお仕事に、 薬品名での入力を求める電子カルテのやりかたは、そもそも根本的に間違っていて、 最初から「どうぞ殺して下さい」感ありありで、電子カルテが嫌いな人たちは、 だからこそ「あれ危ないから」なんて叫んでたのに、偉い人達は「IT で何でも解決するんだ」なんて 自信満々で、病院には、型落ちのパソコンが何百台も導入された。

「サクシン」と「サクシゾン」は、どうソートしても隣に並んで、 覚悟決めないでサクシンを使うと、患者さんは本当に死んでしまう。

このへんは、電子カルテの構造的欠陥ではあるんだけれど、 その代わり「間違えると死んでしまう」、紛らわしい薬の組み合わせは、今のところは 「サクシン」と、あとはせいぜい「アルマールとアマリール」ぐらいだから、 ここだけ回避できる仕組みを入れておけば、醜いけれど、おおむね安全な運用は可能だった。

事件がおきて、たぶんこれから「根本的な解決を」とか、IT 叫んだ人達がまた叫んで、 何億円ものお金が、各病院の「アップデート」費用としてむしり取られるんだろう。

電子カルテで処方するときは、文字変換じゃなくて、POBoX みたいな推測変換積んでほしいなと思う。 カルテの側から「おいお前、ここは当然この薬だろ…」なんて、圧力を返すようなやりかた。

POBoX による入力は、「昔の焼き直し」みたいな文章を書くときには極めて快適なんだけれど、 過去の文脈を外した単語を打ち出すと、いきなり使いにくくなる。新しい単語を打ち込んで、 PoBoX に新しい「文脈」を覚えてもらう労力が、馬鹿にならない。この「馬鹿にならなさ」加減が、 医師に「馬鹿なミス」を回避させるような気がする。

手書きカルテの温かみ

「手書きの暖かみ」みたいなものは、あるいは何らかの情報を伝える媒体になってたのかなとか思う。

電子化されて、「活字」になった文字は、人間の「機械」部分をフックする。判読するのに頭を使わないといけない、 汚い手書き文字ならば、そこに「解読」という作業が必要だけれど、誰が打ってもドットの狂いすら見つからない、 きれいなフォントで印刷された処方箋は、単語が「一塊の記号」として認識されてしまう。

手書きの文字ならば、サクシゾンをサクシンと「解読」してしまう可能性は低いだろうけれど、 その人が「サクシゾン」という先入観を持って「サクシン」という活字を読むと、 恐らくそれは、容易に「サクシゾン」と認知される。

ちょっとした変更で簡単にできる間違え防止なら、Twitter みたいに、薬品名の前に 「アイコン」をくっつけるだけでもずいぶん違うだろうし、トイザらス方式で、 「サクしゾン」と「サクシン」でも、少しは効果があると思う。目がちかちかするだろうけれど、 「し」のフォントを赤にすれば、システムの変更しなくても、似たようなミスは減らせる。

医師の仕事から処方を追放する

最終的に目指すべき場所というのは、医師の仕事から「処方」を追放することなんだと思う。

すべての治療がマニュアル化できれば、たとえば「急性呼吸不全」なんて暫定的な診断が下されたとき、 医師は処方箋を書く必要もなく、薬局から「急性呼吸不全セット」のお薬詰め合わせが上がってくるようなやりかた。

現場の仕事から創造性が消えるから、恐らくみんな反対するだろうけれど、「創造」の余地がなくなれば、 そこからミスが創造されることもなくなる。

自分が研修していた病院では、「1 年生が使える薬」、「2 年生になったら使える薬」、 「部長を起こさないと使えない薬」というのが決まっていて、救急外来で当直するとき、 特定の薬が使いたかったら、夜中でも部長をたたき起こさないといけなかった。

恐らくは研修医だけで救急外来を回さざるを得なかった時代の名残なんだろうけれど、 たしかにミスは起きようがなかったし、「恐い」薬を使うときには、必然的に、 研修医には「その薬を使う理由」が説明できないといけなかったから、「人間モード」で 仕事せざるを得なかった。

こういう工夫は素朴すぎて、「IT 」みたいなハイカラなやりかたが好きな人は笑うんだけれど、 もう少し見直されてもいいと思う。

2008.09.11

停止に対する考えかた

最近読んだ診断学の教科書は、診療という行為を「カードゲーム」に例えていた。

そこに記述されていることは、たしかに正論ではあるのだけれど、全く共感出来なかった。 診療という行為を、自分はむしろ、「鬼ごっこ」だと考えているから。

追い越す感覚

普段から「病気を追い越す」感覚を目標に、診療計画を立てている。

症状の原因だとか、あるいは病名が「これ」とはっきりしているときならかまわないのだけれど、 よく分からない症状の人を相手にしているときは、そこで立ち止まることが、すごくおっかない。 病気と競争をしているというか、暗闇の中で、お互いに鬼ごっこをしているような気分。

自分たち医療者側の目標は、病気を「追い越す」ことで、なんというか、 病気が行き着くであろう場所に先回りして、病気が予想していた以上に「重たい」治療を繰り出して、 相手が壁にぶつかって、乗り越えられなかったらこちらの勝ち、というルール。

病気が自分たちに「追いついた」ら、負けてしまう。鬼ごっことはいっても、そこは真っ暗闇だから、 追いつかれるその瞬間、病気の行方が、医療者の想定を越えるその瞬間まで、相手の居場所は分からない。 病気を「追い越す」時は、どういうわけだか追い越した感覚というものが漠然とあって、 それを感覚出来ると、初めてなんだか落ち着けて、患者さんと安心して話が出来る。

患者さんの見た目がどれだけ軽そうだろうが、症状があって、原因がはっきりしなくて、 自分たちにまだ「追い越した」感覚がないときは、なんだかすごく焦ってる。

追いつかれるとき

「たぶん肺炎だろう」なんて見込みで抗生剤使いはじめて、「肺炎の割に痰が少ない」だとか、 「肺炎の割には、酸素濃度の上がりかたが悪い」だとか、思考が「肺炎」に引っかかって止っているときは、 医療過誤につながる必然を踏んでいる可能性が高い。

「○○の割には」で思考停止して、病気に追いつかれて驚いて、狼狽しながら上司に助けてもらったり、 悪あがき的な検査だとか治療だとか繰り出して、なんとか状況を切り抜けたり。今でもなんとか生き延びてはいるけれど、 実際問題、そこに止まって怖い思いしたことが何回もあって、今はとにかく、「分からないときは動く」ことにしている。 動こうが、止ろうが、分からない状況というのは闇の中だから、「動く」ことが本当に正しいのか、患者さんにとっての 安全に結びついているのか、やってみないと分からない。

分からないけれど、分からないから、難しいから、暗いところは怖いから、 そういう状況に陥ったら、とにかく「ここじゃないどこか」を目指して動き回って、そこから逃げる。

自分はそれを「暗い中での追いかけっこ」として感覚しているんだけれど、 教科書とか読んでても、こうした感覚について言及している人は、あんまり見ない印象。 みんな怖くないのかな、とか、ときどき思う。

カードを切る人

同じ状況を、カードゲームだとか、将棋みたいなゲームにたとえる人と、 鬼ごっこにたとえる人が、たぶんいる。

カードゲームが好きな人達は、たぶん時間はたくさんあると考えている。制限時間はもちろん決まってはいるけれど、 自分が止っているときには相手も止っているし、そこに止って考えて、 相手の裏をかくような、きれいな解決策が見つかれば、そのほうが正しいと考える。

「鬼ごっこ」というゲームは、止ることの意味が全然う。

自分たちが止ったその瞬間から、時間とともにどんどん不利が積み重なる。 将棋とか囲碁なんかでは、止れば相手も考えるけれど、少なくとも目に見える状況は動かない。 鬼ごっこでは、息が上がって、止った奴から鬼に狩られる。

状況を、鬼ごっこ世界観で考えるときは、たぶん巧遅よりも拙速が重視される。 待つぐらいなら、どちらかの方向にとりあえず動いて、状況に支配される側から、 状況を動かす側に回ったほうが、まだしも生存可能性が高くなるから。

カードゲーム世界観に親和する人達は、むしろ止ることに「攻め」の意味を見いだすかもしれない。

自分たちが相手よりも賢い限りにおいて、そこにとどまって考えることは、 相手よりも優れた戦略を生み出す可能性を高めるから。

停止に対する考えかた

診療を、カードゲームに例えたくだんの先生とは、一緒に働けないような気がする。

自分にとっては、その人のやりかたは賢すぎて、患者さんにリスクを積みすぎるように思えるし、 その人からみれば、自分なんかはたぶん、検査を乱発するバカだと思われるだろう。

きれいなやりかた追求して、特定の検査を「一点賭け」で提出して、 その結果が返ってくるまでの3日間、ただ待つなんて状況になると、すごく怖い。 たとえその患者さんが軽症であっても、特定の検査に判断の重心をゆだねてしまうと、 状況がそこで止ってしまうから。

重篤感とか、診断だとか、個人的にはどうでもよかったりする。

その患者さんがたとえ軽症であっても、「追い越した」感覚が得られないと不安だし、 たとえ診断が未確定でも、とりあえず病気を追い越しさえすれば、確定診断は出ていないけれど、 病気が転ぶ先が「この方向」以外ありえないと確信出来て、状況に対して「面」で対処する やりかたが思い浮かんだら、重篤な患者さんを受け持っていても、安心できるから。

状況は本来、自らが置かれたありのままを受け入れるべきであって、何かに例えたその瞬間から、情報の欠落が始まる。

頭の処理能力には限界があるから、抽象度の高い何かに例えないと、 全容を把握するのは難しい。状況に抽象化をかけるとき、時間軸と、きれいな考えかたと、 捨て去るべき何かの重み付けが、「カードゲーム」と「鬼ごっこ」では違うのだと思う。

「ちょっと待て、落ち着いて考えてみよう」なんて、正論ぶち上げて状況悪くする「臨床をよく知った人」 と一緒に仕事をすると、ときどき困る。価値観違うから議論にならないし、言ってることは たしかに正しくて、反論するとなんだかこっちが悪者みたいで、余計に困る。

いやー分からなかったんでさっさとCT 撮っちゃいましたよ無能でごめんなさいHAHAHA」とか、 議論になる前に笑顔見せるのがたぶん正解なんだけれど、やっぱりなんだか負けた気分になる。

「鬼ごっこ」好きな他の人は、こういうときどうしてるんだろう。。

2008.08.22

表現型は輸入できない

「航空業界のやりかたを見習いましょう」なんて考えかたが、病院では今ずいぶん話題になっている。元航空業界の人達だとか、航空から流れて、原子力の安全問題かすった人達なんかが「安全コンサルタント」自称して、いろんなところに食い込んでる。

休憩時間をしっかり確保すること。安全委員会を立ち上げること。事故のレポート提出を義務づけて、対策を委員会で考えること。恐らくは航空だとか交通だとか、文化としての安全が先行している業界で行われていた慣習を輸入したのだろうけれど、 こういうのを真似しても、たぶん役に立たない。

昔はこれが正しいと思ってた

ずいぶん昔、「チーム医療で防ぐ医療過誤」という 文章を書いた。これは画期的だろうなんて、当時はそう意気込んでWeb に乗っけて、全然受けなかったんだけれど。

今から6年も昔。まだ当時は、自分も「航空業界見習おう」なんて思ってた頃。

医療過誤の多くは「ヒューマンファクター」で、それを回避するためにはどうすればいいのか。 航空業界の人達は、その答えを心理学とか、コミュニケーションに求めていて、 自分はそれが面白くなかったから、統一教会だとかヤマギシ会、「カルト」の人達が 得意としていた「洗脳」の技法に、解決手法を探した。

「安全」とか途中でどうでもよくなって、人の心を動かすやりかたそれ自体が面白すぎて、 何だか今みたいにおかしな方向に来てしまったけれど、結果として当時書き上げたやりかたは、 今でもそんなにぶれていないと思う。

厚生労働省主催の「医療安全対策の講習会」なんかで使われるテキスト読むと、 やってることは6年前の航空業界そのまんま輸入されている印象。

あれから6年経って、もちろん自分の書いた文章が注目されなかったからひがんでるんだけれど、 そんなやりかたは間違ってるし、もしかしたら問題をよりいっそう複雑にしてしまうと考えている。

表現型は輸入できない

企業の文化、安全を含んだ業界文化というものは、業界が置かれた環境に、 何らかの淘汰圧が加わった結果としての「表現型」として、目に見える形で発現する。

表現型それ自体を輸入したところで、問題は何も解決しない。

「オーストラリアのカンガルーは速い」なんて事実があって、じゃあ彼らの足を、 アフリカのサバンナで暮らすライオンに移植したら、サバンナ最強の無敵生物が誕生するかと言えば、 もちろんそんなことはありえない。

「カンガルーの足を持つライオン」は、もしかしたらサバンナ最速の肉食動物になるかもしれないけれど、 ジャンプしないと走れない。サバンナでは、ジャンプする肉食動物は相手に見つかってしまうから、 最速の肉食動物は、たぶん飢え死にしてしまうだろう。

カンガルーの足とライオンの足と、その絶対性能は、たしかにカンガルーのほうが 優れているかもしれないけれど、生活環境も、対峙している淘汰圧も全く異なる 生き物は、「パーツの交換」で強くなることなどありえない。

淘汰圧に注目しないといけない

異業種のノウハウを移植しようと思ったならば、彼らの表現型それ自体に注目するのではなくて、 それを生み出した環境因子、特にその表現型を生み出すきっかけとなった「淘汰圧」に注目しないといけない。

サン=テグジュベリが空を飛んでた昔、飛行機というのは落ちるものだったし、 彼らは短命で、命知らずで、無鉄砲だった。

彼らが「安全」を志向するようになったきっかけ、航空業界に安全という文化を生むきっかけとなったのは、 恐らくは「お客さんがお金になる」という業界の変化と、たぶん淘汰圧となったものは、 「ボイスレコーダー」と「フライトレコーダー」なんだと思う。

飛行機は落ちてしまえば、たいていはみんな死んでしまうから、証拠が残らない。 パイロットは死んでしまう。その時点で何が起きたのかは誰にも分からないから、責を問われない。

今のパイロットは、あらゆる行動ログが記録されて、機内での会話が記録される。 たとえ自分が墜落死したところで、過失は死後であっても追求されて、原因は徹底的に調べられる。

パイロットは今も昔もプライド高いから、恐らくはそんな不名誉に耐えられない。

耐えられないなら「落ちない方法」を探す必要があって、その帰結として、様々な安全文化、 全てのログを取られてもその理由を説明できる振る舞いかた、失敗しても落ちないで帰還する、 起きそうな失敗を事前に回避する、そんなやり方を模索する文化が生まれたのだと思う。

医療の業界に、彼らが生み出したやりかたを形だけ持ち込んだところで、たぶん何も変わらない。

「事故が起きました。安全委員会を作って、検討を行っていました。勧告されていることは型どおり行っています」なんて、 事故が起きて、病院が木で鼻くくったような声明出したところで、患者さんは納得しないし、事故は減らない。

知恵というものは、それが引きずり出される状況に追い込まれない限り、生まれない。

自らを厳しい状況に追い込む淘汰圧、形でなくて、医師自ら、スタッフ自らが生き残りを志向して、 知恵を引きずり出されるような状況を輸入しない限り、「安全文化の輸入」なんて、出来るわけがないと思う。

2008.08.15

人工呼吸器の思想的後退について

呼吸状態の悪い患者さんがいて、病棟で挿管して呼吸器につないだ。

電源も、酸素の配管も、いつもどおりにきちんと接続されているのに、呼吸器は作動しなかった。すごく焦った。

その日はたまたま、今まで使ってた呼吸器がメンテナンスに出されてる日で、病棟には代替機として、 その呼吸器の次世代機が入ってた。見た目はそんなに変らなくて、「制御系が今までよりよくなってます」 なんて説明で、普通に動いてたから、納得してた。

一度動いてしまえば、呼吸器の操作は今までと同じなんだけれど、一番最初の起動手順、 呼吸器と患者さんとが接続されて、「最初の一呼吸」が開始されるとき、新型機は、 医師に「モード設定」を要求するように変更されてた。

呼吸器は、「電源入れたら勝手に動く」のが当たり前だと思ってたから、この変更はショックだった。

昔はスイッチなんてなかった

ベトナム戦争前後に登場した最初の呼吸器は、そもそもスイッチに相当するものがなくて、 人工呼吸器に圧搾空気ラインを接続したら、機械は勝手に動き始めた。

ちょっと時代が進んで、呼吸器には「電源ボタン」がついたけれど、電源はメーターの照明だとか、 換気量を計算するための計算機だとか、呼吸それ自体とはあんまり関係ない用途にしか 使われていなかったから、電源オフにしても呼吸器は動いて、病院が停電しても、 呼吸は絶対に止らなかった。

もう少し時代が進んで、呼吸器の制御には電源が欠かせなくなったけれど、 呼吸器の電源を一度でも「オン」にしたら、呼吸器はもう止められらなかった。 人工呼吸器には「一時停止」に相当する機能がないから、ベッド移動するときとか、 吸痰するときとか、呼吸器を「ちょっと」外すときでも盛大なアラームが鳴って、 うるさいことこの上なかった。

一度鳴ったアラームは止められなかった

広く普及していた高機能呼吸器の走り「サーボ900」のアラームは、たとえ患者さんが 「正常」に戻っても、止むことはなかった。

アラームが鳴り出したら、とにかく誰か人間が呼吸器のところに走って、 アラーム停止ボタンを押さない限り、アラームは止らない。サーボを作ってるメーカーは、 「アラームが鳴ったら、絶対に患者さんを見よ」なんて、メーカーのくせに医療従事者に 強制してて、サーボ呼吸器のオプションには、「アラームを遠くから止めるための有線リモコン」 があったのに、アラームの自動停止は、頑なに実装されなかった。

高機能呼吸器がアメリカでもたくさん作られるようになって、アラームの信頼性も上がったこともあるんだろうけれど、 アラームは自動停止するようになった。患者さんに何かあって、呼吸器がアラームを鳴らすことがあっても、 その「異常値」が勝手に正常に戻ったならば、アラームも自然に止まるように改良された。

最新世代の呼吸器は沈黙して待つ

人工呼吸器に配管をつないで、電源を入れる。

この時点では、呼吸器は患者さんにつながっていないから、呼吸器のセンサーは「異常」になって、 電源の入った呼吸器は、まずは「異常動作」が始まって、けたたましくアラームが鳴る。 みんなうるささに顔しかめて、アラームオフにしてから呼吸器を患者さんにつないで、 そこではじめて、呼吸が始まる。

一番新しい世代の呼吸器は、この「うるささ」が解消されている。

電源の入った呼吸器は、まずは自己診断を走らせて、今度は「自分が人間につながっているのかどうか」を 判断する。何もつながっていないのなら、あるいは患者さんが息をしていないのなら、 人工呼吸器は動作を停止して、医師が「モード」を入力するのを待つ。

この動作のおかげで、「電源入れたらすぐアラーム」のうるささは解決したんだけれど、 これ知らない医師が今までと同じことすると、冒頭みたいなことになる。

これは改良なんだろうか?

  • 電源ボタンがついた
  • アラームが自動停止するようになった
  • 電源を入れた直後の呼吸器が「指示を待つ」ようになった

どの変化をとっても、たぶん「スイッチつけろ」とか、「アラームうるさい」とか、 現場の誰かがクレーム入れて、メーカーがそれに答えただけなんだろうけれど、 なんか腑に落ちないものがある。

電源スイッチつけたから、呼吸器には「電源オフで止る」可能性が生まれたし、 アラームが自動停止するようになったから、今度は患者さんが、 「アラームなったのに見過ごされる」可能性にさらされるようになった。

もちろんこういうのは注意していればいいのだし、たとえトラブルになる可能性があっても、 それを「運用」で解決することは出来るのだけれど、「構造的にトラブルが起きない状態」と、 「毎度毎度のアラームに耐える不便さ」と、それは果たして、トレードオフに足るものなんだろうか?

今度の改良、「電源入っても待つ」という動作もまた、これに慣れればたぶん、 電源入ってアラーム止める手間が回避できるのだろうけれど、電源入れて、 アラームも鳴らないのに、その呼吸器を患者さんにつないでも、呼吸が始まらない。

自分が「動け」と入力すれば、もちろん呼吸器は設定されたとおりに動いたんだけれど、 電源入れたのに動かない、動かないのに、動かないその状態にアラームを鳴らさない、 仕事しないのに沈黙する呼吸器は、何だかとても不気味に見えた。

時代の変化に自分がついて行けてないだけなんだろうけれど、「患者さんを安全に呼吸させる」、 人工呼吸器本来の目的を考えると、歴代行われてきた改良というのは、 やっぱりどれも、思想的に後退しているような気がする。

顧客の意見を聞くのは大事なんだろうし、顧客の意見無視した製品は、やっぱり売れないんだろうから、 呼吸器のこうした「改良」は、ある意味必然なんだろうけれど。。

2008.07.31

戦争の心理学

戦争の心理学という本の抜き書き。

本書の目的は「裁くことでも非難することでもなく、ただ理解すること」。

「パンツを汚す」兵士は珍しくない

  • 警察官や消防士として負傷者の救出に当たっている人は、負傷者の大小便失禁が珍しくないことを知っている
  • 戦闘中の人間にも、大小便失禁は珍しくない。みんな面子にこだわるので、そうしたことは公然と認められず、失禁した兵士は、 自分がどこかおかしいのではないかと思ってしまう
  • 激しい戦闘を体験した兵士のおよそ半分が尿を漏らしたと認め、四分の一近くが大便を漏らしたと認めている
  • にもかかわらず、「パンツを汚した」兵士が出てくる戦争映画は、かつて作られたためしがない。典型的な兵士の姿は、だから嘘に基づいている
  • スターリングラードの戦いから生還したロシアの兵士は、当時の平均年齢70歳に対して、皆40歳前後で死亡したのだという

「気のゆるみ」は正常な反応

  • ナポレオンは「もっとも危険な瞬間は勝利の直後だ」という言葉を残している。戦闘直後の緊張が解けた瞬間には、急激な生理的虚脱を生じて、 ほとんどの人が何もできなくなってしまう。これは「油断」や「気のゆるみ」などではなく、生体の正常な反応
  • 警官は、犯人を逮捕した瞬間に緊張が解ける。犯人はむしろ、逮捕されたときが「戦闘開始」の合図になる。逮捕直後に暴れ出した犯人に、警官が 殺されたケースが報告されている。現在はだから、目標を確保した直後から、安全確保や射界の整備といった「忙しい活動」を開始して、 緊張状態が自動的に維持されるような訓練が行われている
  • 「気がゆるむ」のが正常な反応なので、それをとがめるのではなく、「気がゆるむ人間」が安全に作戦を遂行できるように考えるのが筋
  • 犯罪者と対峙したときのような極限の緊張状態に入ると、人間は訓練したことしかできなくなる。救急コールの「911」という番号ですら、 普段から押せるように訓練しておかないと、家族にそれが必要になったとき、冷静に3つのボタンを押せる人などそうはいない
  • 戦闘が始まると、視野が狭くなり、聴覚が抑制される。これは「何かに気を取られる」ためなどではなく、これもまた正常な反応であるらしい。 戦いを優勢に進めていたにもかかわらず、自分の銃声が聞こえず、「銃が故障した」と思い込んでいた警官の例が記述されている
  • 「戦いを覚えていない」こともまた正常であって、「勇気がないから」などではない。戦いのあと、皆が集まって「反省会」を 行うことは、誰もが忘れていることをお互いわかり合うという意味で、ストレスに対する解毒手段となる

訓練されたことしかできない

  • 戦闘の「本番」になると、皆訓練どおりの反応しかできなくなる
  • アメリカの警察官は、訓練中は空薬莢をポケットの中にしまう習慣がある。銃撃戦でなくなった警官のポケットに、 戦闘で使った「空薬莢」が入っていたケースが少なからず報告されている
  • 犯人から銃を取り上げる訓練をするときには、相手から銃を取り上げて、その銃を相手に返して、また取り上げる動作を繰り返す。 「本番」になったとき、犯人から銃を取り上げた警官は、奪い取ったその拳銃を、そのまま犯人に返してしまったのだという
  • 訓練の時には、安全のために拳銃の代わりに「指」を使っていた警察組織では、戦闘に入ったときにも犯人に指鉄砲を突きつけた ケースが続々報告されたため、この訓練には模型の拳銃が使われるように改良された
  • FBIの射撃訓練は、拳銃を2発撃ち、その後ホルスターに戻す。この訓練もまた、現実の撃ち合いの時に「二発撃ってホルスターに戻す」 警官が報告されて、現在では「発砲した後に周囲を見渡し、状況を確認する」ように訓練が改められている
  • テレビゲームを参考に大量虐殺に走る子供には、「一時停止」ボタンが内蔵されているケースがある。銃を突きつけられた教師が「止まれ」と 子供に命じると、それだけで虐殺が停止したケースが報告されている

「撃たれても前に進む」勇敢な兵士は作り出すことができる

  • ペイント弾を用いた「痛い」訓練は、実際の銃で撃たれて「痛み」を感じたあとも行動を続ける兵士を育成できるので、理想的と考えられている
  • 訓練演習を行うときには、兵士を「殺して」はいけないのだという。教官に「君は死んだ」と宣告されてしまうと、 実際の戦闘になって、一発の弾丸に痛みを感じたその時点で、兵士は「死んで」、行動不能に陥ってしまうのだという
  • 訓練を受ける兵士は、だから撃たれても撃たれなくても、死なずに容疑者と交戦することを強要され、 自らの安全を確保し、そこから生き残るまでは、訓練のシナリオは継続される
  • 「撃たれても前に進む」兵士は、だから再現性を持って作り出すことができる

戦闘の心理的効果

  • 否認が人を羊に変える。安全に携わる人は、「そんなことは起きない」ではなく、「それが起きたら用意はできている」を常に心がけないといけない
  • 「強い」人が内心の恐怖を打ち明け、それを克服する方法を教えると、「勇気」を別の誰かに伝授することができる
  • ミサイルや航空へ威力といった、長距離からの大火力は、相手に恐怖を与えることができない。テロリストにはだから、 「火力」それ自体の大きさは、意味を持たない。刃物のような、個人に対して直接的な脅威をもたらす武器のほうが、ハイテク兵器よりも心理的な効果が高い
  • 「仲間」がそばにいれば、兵士は発砲できる。兵士1人であれば、個人で「引き金を引くまい」と決心することもできるけれど、 チームに属する個人が発砲を回避するには、「仲間」に相談しなくてはならない
  • 古代のチャリオットは、御者と射手とのペアで戦う初めての兵器で、このことがおそらく、この兵器をより強力にした

前作の戦争における「人殺し」の心理学とあわせて、高ストレス環境に置かれた人の振る舞いかたを考える上で、大いに参考になると思う。

2008.07.07

学問の舞台設定

しっかりした地盤なしで成立する建物がないように、専門家が「学」を立ち上げるためには、 専門知識が実際に役立つための舞台設定が欠かせない。

砂漠戦に強い将軍がいたとして、その人が単純に「強い」という理由だけで艦隊を率いる立場に抜擢されても、 たぶん勝てない。将軍の「強さ」というのは、あくまでも砂漠という舞台があってこそ成り立つもので、 舞台が変わって、戦いのルールが変われば、その人がいくら名将であったとしても、その力を発揮することは難しい。

将軍の「強さ」、専門家の「専門性」みたいなものは、だから特定の舞台設定とは不可分なもので、 自らの知識を役立てるための舞台を定義できない学問は、それがどれだけ壮大な知識と技量とを集積していても、 肝心なところで役に立たない。

基礎のない建物はありえない

何か建物を造るなんてことを考えたとき、「基礎を作る」人達と、基礎の上に何かを立てる人達とは、 考えかたが異なるような気がする。

基礎を作る人達は、いろんな土壌を相手にする。建設予定地は山の中かもしれないし、 沼地だったりするかもしれない。ちょっと掘り返せば岩盤がむき出しになるような土地もあれば、 いくら掘っても粘土ばっかりで、ビル立てたら傾くような土地だってあるかもしれない。

相手は様々だけれど、目指すべきは「固くて平らな基礎」であって、その上に建てられるのが伝統的な寺社仏閣であろうが、 六本木ヒルズみたいな高層建築だろうが、建築家が基礎に求めるものは、多分そう大きく変わらない。

上物を作る建築家は、強度だとか予算だとか、いろんな要素を妥協しながら、顧客が求める何かを作ろうとする。 造られる建築物は、いろんな制限と折り合いながらも、建築家の能力が高ければ、たぶんそれだけ顧客の意志にそったものが出来上がる。

基礎を作り出す要素と、基礎の上に何かを建てる要素ととの区別をなくしてしまうと、たぶん建築という分野は、 「学」として成立しなくなってしまう。

「基礎」と「上物」との境界を無くす方向を目指してしまうと、その土地の状態そのものが、建物の姿を決定してしまう。 顧客の意志は、建物の姿をゆがめる「ノイズ」として排除されてしまうだろうから、そんな「学」には、たぶん誰もお金を払わない。

恐らくはどんな専門性、どんな学問にも、集積された知識を運用して、誰かの役に立てるための「基礎」、あるいは「舞台」となる ものが必要で、舞台装置を持たない学問は、それが役立つ「誰か」を設定できないから、「学」として成立し得ない。

医師が目指す「安定な状態」

たとえば外科医は、全身麻酔がかかった患者さんが手術台の上に横たわった状態を、「安定な状態」と定義する。 カテ屋さんにとっての「安定な状態」は、患者さんが消毒されてモニターつけられて、カテ台の上に乗った状態だし、 それが集中治療医ならば、患者さんはICUにいて、モニターと動脈ライン、下手すると透析用のブラッドアクセスなんかを 最初からつけられた姿を想像する。

みんなもちろん医師だから、患者さんがそうならなくても技量を発揮できる機会はあるけれど、「生き死に」に 関わる状態の患者さんを診るときには、まずは患者さんを「安定な状態」に持って行かないと、 自分の技量を最大にできない。

救急外来に不安定な患者さんが来たときは、だから超急性期は「陣取り合戦」みたいな雰囲気になることがある。 いくつかの科が呼ばれる。「ここで治療する」という選択枝はどこの科も想定してなくて、 みんな自分のホームグラウンドに患者さんを移動しようとする。そこで「安定な状態」を作り出してからでないと、 自ら責任もって働けないから。

医師にとっての「安定な状態」というのは、その医師が持っている能力の範囲内で、 患者さんの身体に起きたことを、最大限に見通しが良くできる状態。

患者さんは、もちろん助かることもあるし、不幸な転機をたどることもあるけれど、 「安定した状態」におかれた患者さんに起きたことは、その状態を要求した専門科は、 かなり詳しいところまで解説できるし、原因の見通しがいいからこそ、技量の範囲で対処もできる。

カテ室に連れてこられた患者さんは、心臓についての治療はできるけれど、その人がその場で吐血して、 いくら消化器科の専門医が呼ばれたところで、すぐに対処はできない。手術中の患者さんが急変して、 「心臓に何かありそうだから見て下さい」なんて循環器が呼ばれても、麻酔かけられてお腹開いた患者さんには 検査も出来ないし、やっぱりカテ室に運ばないと、何もできない。

生き死にに関わる分野は、だから専門知識を知ってるのとは別に、自分が働けるような舞台設定とは 不可分で、「どんな状況からでも舞台を作り出す」能力と、「舞台の上ですごいことをする」能力とは、 別個に磨かないといけないし、学びの方向みたいなものは、共通していないイメージ。

「舞台を作る」お仕事というのは、「診断」とか「状態把握」を行うもっと以前の段階、 そういうものは基礎の上に立つ「上物」の範囲であって、まずはそういう仕事を やりやすい状況に、一刻も早くたどり着くためのやりかた。

外傷医学はどうなのか

外傷医療の、やっぱり「緊張性気胸の対処」というものが、よく分からない。

見逃すと致命的になる。基本的な治療には絶対反応しない。「修行すれば」診断できるけれど、 診断確度はいいところ8 割ぐらいで、それすらも、たぶん慣れてない人には無理。

外傷医療のガイドラインは分厚くて、それが建築ならば、高層ビルだって建てられそうなぐらいに 様々な知見が集積されているけれど、知識の伽藍が依って立つ「基礎」は、2 割の確率で吹き飛んで、 基礎が吹き飛んだとき、それに対してどんなに立派な高層ビルが建ってたところで、やっぱりビルは崩れてしまう。

アメリカの外傷ガイドラインには、「分からなかったら両肺にチェストチューブを入れよ」という記載があるんだという。

アメリカの外傷医療は、だから「静脈ラインとモニターをつけられて、両肺にチェストチューブが入った患者」というものを 外傷医療の「安定した状態」と定義していて、この定義で行けば、緊張性気胸の患者は理論的に発生しないから、 医師は十分に安定した基礎の上で、自らの技量を振るえる気がする。

舞台設定を「患者さんにCT が為された状態」と定義してもいいし、 あるいは「輸液に反応しない血圧低下にはPCPSを入れよ」でも いいし、「基礎」の作りかたにはいくつかやりかたがあると思う。

どちらも問題あるし、お金かかるけれど、「修行して死ぬ気で頑張れ」というのは、 やっぱり学問の基礎にはなり得ない。このへんは、本来偉い人達がもっと考えてくれたっていいと思う。

2008.07.01

「きれいなやりかた」を目指して失われるもの

外傷の患者さん受け持って、いろんな方からJTEC、「外傷初期診療ガイドライン」読むといいよ なんて言われた。読んでみて、やっぱりなんか無理だと思った。

「現場の裁量」認めちゃいけない

ガイドラインは分厚くて、「この通りにやれば大丈夫」を目指しているよりは、 むしろ「医師ならここまで知っているべき」みたいな知識を示すやりかた。

「ガイドライン」うたってるんだけれど、書かれかたとか、講義のDVDだとか、むしろ「お手本」の医療みたい。 「頭部外傷にとらわれて、いきなりCTスキャンオーダーしてませんか?」なんて、 読者を挑発しつつも正しいやりかたを提示して、講義が進んで「診断」する段になると、 「必要な場合には画像診断も参照する」とか、微妙に逃げて、もとい現場の裁量を認めてた。

「必要があれば」とか、状況ごとの術者の判断だとか、「ルール破り」を暗に認める書きかたは、 もちろんそう書くことそれ自体は間違いではないのだろうけれど、そのガイドラインを武器として使うには、 ちょっと足りない。

正しい「お手本」を示して、「修行して、お手本どおりにできることを目指しなさい」というやりかたは、 とくに救急医療に役立つ本を書こうと思った場合、あまり役に立たない。何となく、読んでも守られた気がしないから。

地面に引いた線の上を歩くのは容易だけれど、地上10mに設置した棒の上を、 命綱なしで歩くのは、すごく難しい。

地面に引かれた線の上を歩き続けて10年ぐらい、「修行」を積んだら、 あるいはそのうち、地上10mでも怖くなくなるのかもしれないけれど、 明日からそれをやらなきゃいけない現場で、「修行」を要求するガイドラインは酷だと思った。

術者の技量に期待しないでほしい

救急やってて、いろんな人が来る。何もしないで元気になっていく人もいれば、 院内のマンパワー総動員して、やっぱり亡くなる人もいる。

こういう場所に立っていると、とにかく「分からないのに具合が悪い」という状況が一番怖い。 ご家族なんかに悪い結果を伝えるときに、「原因分かりませんが具合悪いです」なんて言えない。 むしろ全身から出血していてもうコントロールできないだとか、同じ状態悪くても、原因がはっきりしていれば、 まだしも伝えようがあるのだけれど。

外傷の患者さんでそうなる状況というのが、緊張性気胸と、心タンポナーデ。その場で 診断するのが実質不可能で、見てる目の前で血圧下がるのに、輸液だとか昇圧剤だとか、 普通の治療に反応しない。

JTEC のデモンストレーションのビデオには、外傷でショック状態になった人が患者 役として登場する。呼吸はあるけれど、意識が悪い状態。

デモンストレーターの先生は、その人の胸を観察して、聴診して、打診して、 「緊張性気胸です」なんて診断して、ためらうことなくチェストチューブを入れてた。絶対無理だと思った。

視診だとか聴診だとか、術者や状況で確度が大いに左右されてしまう検査を判断の要に据えて、 その無謬性を、術者の修行で確保しようという考えかたは、やっぱり戦略として間違ってる。

ガイドライン作って、現場をそれで守ろうとするならば、本来ならたぶん、 「確実だけれど高コスト」だとか、「確実だけれど大袈裟」な検査を運用ですぐに使えるように ガイドラインに定めて、やりかたを改良していく中で、そうした検査のコストダウンを考えるのが筋だと思う。

具体的には、やっぱりCTスキャン。

「CT 撮りたいとか思ってませんか? 」なんて言わないで、どうせ誰もがCT 撮りたいと思ってるんだから、 いっそ救急外来をCT 室にしようよと思う。救急車が横付けしたら、そこはCTの撮影室で、 ストレッチャーごと円筒の中に入る。空間限られてて、いろんなことがすごくやりにくくなるからこそ、 そんな不便な空間での振る舞いかたを、実技コースを通じて身につけてもらう。

きれいな手本を示して、みんなが目指すやりかたと、ワーストケース想定して、 それに従った振る舞いかたを、みんなで練習するやりかた。後者のやりかたは大袈裟で、 洗練からはほど遠いけれど、現場はそのほうが安心して働けると思う。

現場を守るマニュアルのこと

社会の信頼コストの変化に応じて、マニュアルだとかガイドラインの書かれかたも変わらないといけない。

「きれいなやりかた」を提示して、現場の裁量を大幅に認めるマニュアルというのは、 それを書いた人を守る効果は高いけれど、それに従おうとして、「お手本」に従いきれなかった現場の医師を、 そのマニュアルは保護してくれない。

ワーストケースを想定するやりかたは、治療のやりかたとしては汚らしくて大げさで、 何だかそれに従う医師が「馬鹿」みたいに見えてくるけれど、ガイドラインが馬鹿でいさせてくれるからこそ、 現場は判断リスクから自由になれる。

外傷の患者さん受けて、けっこう怖い思いして、「ガイドライン読みなよ」なんて言われて読んで、 やっぱりこれは「お手本」なんだなと思った。

もちろん目指すべき目標として、「お手本」示すことは大切なんだろうけれど、 「修行を積めば、君も緊張性気胸を視診一発で確定診断できるよ」なんて宣言されても、 外傷診療に挑む若手は減る一方だと思う。

2008.06.11

運用解決と構造解決

1974年のパリ上空、トルコ航空のDC-10 が墜落して、乗客346人が全員死亡した。 飛行中に貨物扉が吹き飛んで、機体が制御できなくなったらしい。

この飛行機は、貨物扉が「半ドア」のままでもロックできてしまう問題を以前から指摘されてて、 改善が勧告されていたけれど、航空会社はドアに「のぞき窓」をもうけて、ロックがきちんと為されているよう、 整備担当の人に確認させることで、問題は「解決」されたことにしていた。

ごく最近、世界一高い航空機、B-2 爆撃機がグアムで墜落した。

原因はセンサーが湿気によって誤作動したことで、湿気の高いグアムの基地では、 始動前にセンサーを熱して、内部の湿気を蒸発させるという「技」が、 一部のパイロットや整備士らによって非公式に行なわれていたのだという。

島根県の診療所で、血糖測定用の針が使い回されて、肝炎ウィルスが拡散した。

採血の機械は6 回続けて使用可能で、本体には、赤い字で「複数患者使用不可」という シールが貼ってあったらしい。

時代も状況もバラバラだけれど、問題の根っこはよく似ている。

「運用」は解決にならない

DC-10 の貨物扉は金具がヤワで、たとえ半ドアになっていても、ハンドルに体重をかけて回してしまうと、 金具がゆがんで「ロック」されたことになってしまうのが問題だった。

提案された改善案は2つ。「のぞき窓」をもうけることで、整備士に確認を促すやりかたと、 金具に補強板を取り付けることで、そもそも半ドアのままロックを行うことを不可能にするやりかたと。

補強板の価格自体、決して高価なわけではないはずだけれど、「確認すれば大丈夫」なことも 間違いなかったから、補強板は取り付けられなくて、航空機は墜落した。

B-2爆撃機の事例なんかも、恐らくはこれから検証が為されるんだろうけれど、 もしかしたら湿気の問題は最初から報告されていて、誰かが途中で情報を止めたのかもしれないし、 あるいは現場の工夫はそこで「解決」したことになってしまって、そもそも情報が上に伝わらなかったのかもしれない。

今回トラブルを起こした採血用具も、「複数患者使用不可」なんて赤字シールを貼ってたぐらいだから、 あれを作ったメーカーの人達は、きっと問題を正確に認識していたはず。潤ってた昔だったら、 「危ないよ」なんて誰かが声出せば、あの製品は、即日全品回収がかかったんだろうけれど。

その改良に意味はあるのか

改良の方向には「性能が向上する代わりに、使用者にも一定のレベルを要求する」方向と、 「性能は変わらないけれど、どんな人にでも使える」方向とがあって、安全を志向する道具の場合、 前者を目指してはいけないんだと思う。

血糖測定用の針は、昔はただの針だった。細い注射針をそのまま使って、 患者さんの指先傷つけて、血液一滴もらって検査に回す。 それだと痛いから、バネ仕掛けで使って勢いよく針を飛ばせるようにしたのが、 血糖測定用の採血用具。

銃の進歩にちょっと似ていて、最初の頃は「単発」。針をセットするには本体を分解しないといけなくて、 分解して針を装着して、バネをセットして、ようやく利用できる。面倒だけれど、一度使ったら、 また分解しないとバネのセットができなかったから、「使い回し」の問題は発生しにくかった。

実物を見たことがないけれど、問題になった採血用具は「連発式」。バネのセットさえすれば 何回でも連射可能だけれど、使い回しを回避するためには、利用する人が何回撃ったのか、 覚えていないといけない。

「使い回し禁止」なんてシールを貼ることで、その問題は、 「運用」で解決されたことになっていたけれど、事故は起きた。

同じ改良品でも、絶対使い回しできない針と いうものも発売されている。

最初から針とバネがセットされてて、ボタン一発で動作して、一回使ったら針が隠れて、もう二度と使えない。 単発で、捨てる部品が多くてもったいないけれど、原理的には「針刺し」の事故は絶対起きないし、 患者さんまたいだ使い回しの問題も起きない。

問題の発生を避けられない構造を改めないで、シール一枚で「解決」したことにする。

あれを作った人のセンスも、その危なさを指摘できなかったユーザーのセンスも、 同じようにとがめられるべきだけれど、そもそもこういう問題は、昔みたいに メーカーも現場も潤ってた頃ならば、何も考えなくても起きなかったんだと思う。

製品の回収に伴うコストと、「シール」印刷するコスト、安全対策が為された道具を使うコストと、 そもそもが個人使用向けの製品を、病院で使うコストと。現場が潤ってる昔なら、 最初から考えもしなかったことが、今は天秤にかけられる。バランス取るのにはセンスが必要で、 センスに欠けた人もバランスを考えざるを得ないから、舵取り間違えて、事故が発生する。

安全をお金に換える仕組みを作らないと、こういう問題はなくならないと思う。

2008.05.29

間違えることが無意味になる仕組み

住んでるのが田舎だから、毎朝の出勤は自家用車で、田んぼの中を縫いながら、 信号のない交差点をいくつも通る。

あぜ道だけに、道はまっすぐ。田舎の常で、あらゆる道には素敵な舗装が施されてて、 見通しのいい直線道路は、その気になれば高速道路と変わらない。朝の忙しい時間帯、 みんな床までアクセルを踏む。

交差点を右に曲がる場所が何カ所かある。みんな飛ばしてる。いつも命がけになる。 車は切れない。だから自分が曲がろうと思ったら、相手のウィンカーを見るしかない。

曲がりたい側の車が、自分の方向にウィンカーを出す。そのときその車は減速して、 後続の車を遮ってくれるから、そのタイミングで交差点に進入できれば、自分も曲がれる。

相手がもしも「嘘をついた」ら、間違いなく事故になる。

田んぼ道のローカルルール

自分たちがいる車線は細くて、曲がりたい側の道は、太くてまっすぐ。同じ車同士だけれど、 何となく「立場」みたいなものは相手のほうが圧倒的に強くて、細い道で待ってる車は、 何だか譲っていただくような気分。

相手がウィンカーを出したら、だからそれ信じて突っ込むしかないんだけれど、 「相手のシグナルが常に真実」なんてこと自体、今の世の中信じられない。

細い道走る車はだから、道の真ん中付近で交差点を待つ。これをやると、 相手車線の進入経路を自分の車が微妙にふさぐ形になる。 車が進入しようと思っても、自分たちの車が邪魔で、入れない。

見通しの悪い交差点でこれをやると、間違いなく事故になる。交差点曲がったら、 道の真ん中に対向車が居座ってるわけだから。けれど、田んぼの真ん中は、100m先ぐらいまで、 遮るものが一切ない。

相手車線の車はだから、こちら側に進入するためには停止せざるを得なくて、 相手が減速してくれたら、こっちは安心して交差点に進入できる。 ローカルルールだし、もしかしたら道路交通法違反なんだろうけれど、 このルールを運用すると、相手のウィンカーが、仮に「嘘をついた」としても、事故は起きない。

判断の真実性について

ウィンカーみたいなシグナルにしても、人間同士の契約にしても、コミュニケーションというものは、 「相手が真実を述べていて、こちらがそれを信じる」ことが前提になっている。

相手が嘘をついたり、相手の判断が間違えていたりすれば、もちろん意図した結果は得られないし、 相手のシグナルを自分たちが読み違えれば、やっぱり正しい結果にたどり着けない。

シグナルを介したやりとりは、それが上手に回ればすごく効率がいいし、 「相手が真実を述べている」という前提の共有が為されなければ、 そもそも料金後払いの通信販売だとか、口約束で話進めるやりかただとか、 絶対に上手くいかない。

ウィンカーを無意味化する交差点ルールは特殊解かもしれないけれど、なんとなく、 一般化できそうな気もしている。

どんなコミュニケーションについても、相手が真実を述べようが、嘘を述べようが、 そもそも相手のそんな「判断」それ自体を無意味化できるようなやりかた。

交差点のローカルルールは、相手が自分たちの方向に曲がりたかったら、減速して、 居座っている車を進ませる以外の戦略がとれない。ウィンカーを正しく出そうが、 あるいは「間違って」ウィンカーを出しっぱなしのまま直進しようが、そもそも 道の真ん中で待ってる車はウィンカーを見ていないから、その「間違い」は、結果に 何の影響も与えられない。

料金先払いの、食券制度の食堂ルールと似ているけれど、これだとまだ、 食堂側の判断、相手に「おいしい」ものを提供するのか、「まずい」ものを 提供するのか、コミュニケーションに判断要素が残ってしまう。

相手の進入経路みたいな、相手のやりたいことに欠かせない何かをこちら側が持つことと、 「田んぼのあぜ道」みたいな見通しのよさというのが、何かヒントになっている気がする。

高信頼性が求められるような状況が増えてきている昨今、「過誤が無意味化する構造」 という考えかたは役に立つと思う。

2008.04.06

治癒イメージの描きかた

研修医の頃、重篤な脳梗塞の患者さんを受け持った。上司に「どうしますか?」なんて治療の方針を尋ねたら、 「立派な寝たきり老人にして返す」という返答をいただいた。

あれからいろんな上司に「どうしますか?」を訪ねたけれど、科によって、その人の性格によって、 返ってくる答えは様々。すごい返答。熱い返答。誠意のない返答。答えはいろいろだったけれど、 「どう」の中に入るのは、みんな行為のイメージ。患者さんの治癒という、 結果をイメージしながら戦略を考える人は、やっぱり少ない印象。

みんな精霊さんを信じてる

みんなたぶん、どこかできっと、「精霊」の存在を信じてる。主治医の努力をどこかで見ていて、 超常の力を発揮して、受け持ち患者さんに治癒をもたらす精霊。

外科医はみんな、悪そうなところを全部とったら、あとは精霊さんが何とかしてくれると信じてるし、 麻酔科の人達は、血圧とか脈拍とか、外から見える数字を一定期間、「正しく」保つことに 成功すれば、そこから先は精霊さんの仕事だと割り切ってる節がある。

内科はたぶん、病気を直すのに「いいこと」を重ねた先に、治癒があると信じてる。 患者さんが向かう先はわからないけれど、とにかく「いい」を重ね続ければ、 きっと精霊さんが導いてくれるみたいな。

その患者さんが退院するときの姿、ゴールを想定して何かやる人は、たぶん今でも少ない気がする。

最近よく流れる医療崩壊を特集するテレビ番組で、ベテランの先生がインタビューに答えてた。 患者さんのことを、もっと診て「あげたいんだけれど」なんて上から目線。自分がやってることは 「いいこと」だと心から信じて疑わない、精霊さんに取り憑かれた人の立ち位置だと思った。

借金取りは絵を描かせる

借金を取り立てる人たちは、債務者の支払い能力を評価するとき、 その人に「絵を描かせる」のだという。

「絵」というのは要するに、「借金を全部返済して自由になった自分」のイメージを描く能力。

絵を描ける人、たとえば「まだ親戚からいくらか借りる当てがある。親を説得して、 実家の土地を担保に当面の利子分を支払うから、その間に何かお金になる仕事を 世話してくれれば、6年間で何とか元本だけは返せると思います」なんて返答が できる人は、そんな言葉がたとえ口から出任せであったのだとしても、 まだ見込みがあるんだという。

絵を描く能力がない人、嘘つくこともできなくて、「どうしていいのかわかりません」なんて人は、 もう生命保険で支払ってもらうぐらいしか、出来ることはないんだとか。

高齢で体力もなくて、重症度の高い患者さんが入院するときは、「絵」をイメージできないと、 もう絶対退院できない。「いいこと」を続けると、その人は少しだけ持ち直すんだけれど、 「いい」をいくら重ねたところで、基礎体力のない人は、やっぱり治癒まで持って行けない。

患者さんのご家族はもちろん、こんな時、「入院する前の元気だった頃」が治癒イメージになっているから、 そこまで行かないうちは「治癒」とは認めてくれない。

医師が「絵」を書くことに失敗して、到達できない目標目指して、ひたすら「いいこと」を重ねる状況は 結構あって、公立病院の奥のほうなんかに、もう何年も入院している人が時々潜んでる。

もっと妄想を語ったほうがいいと思う

高齢の人が入院したときとか、その人がもともとどれだけ元気だったとしても、 その人はやっぱり「悪く」なる。筋力は落ちるし、下手をすると身内の顔もわからなくなる。 回復が「不十分」と判定されたら、身内はもちろん引き取らないし、 施設を探そうにも、今はどこもいっぱいだから、待ち時間数ヶ月とか珍しくない。

患者さんの体格とか筋肉量、病気の重篤度とか、あと身内の人たちと患者さんとのおしゃべりとか、 そんなものを見るだけで、いろんなことを妄想する。

入院当初は、にこにこ元気に歩いて帰る患者さんのイメージというのは浮かばなくて、 むしろ病棟で転棟して寝たきりになっているイメージとか、その非を責められて、身内から 詰め寄られる自分のイメージとか、退院を切り出してもご家族が黙ってしまって、 ものすごく嫌な空気になった面談室のイメージとか、ろくでもない妄想が浮かぶ。

こんなイメージは、そもそも治療には無関係だし、イメージの出来は予後を左右しないけれど、 浮かんだイメージというものは、出来ればなるべく早いうちに、病棟スタッフとか、患者さんのご家族と共有したほうが いいような気がしている。この数年間は、当たり障りのない範囲で、自分の妄想をご家族と 共有するやりかたをしているけれど、案外何とかなっている。

患者さんが落ち着いてくれば、もちろんイメージはどんどん変わる。無限に多様化した悪いイメージは、 病気の軽快とともに少しずつ「よく」なって、特定の退院イメージに向かって収斂していく。

入院当初のお話は、だから悪いイメージばっかり。それで「こいつは無能だ」と判断されたらそれまでだけれど、 生じうる可能性をあらかじめ共有できると、万が一の急変があったときでも、そのときのイメージがみんなに 「キャッシュ」されて残っているので、後の対処がすごく楽になる。

治癒イメージの静的生成

現場が長いベテランは、患者が急変しても慌てない。部長以外の誰もが「もうこれは死んだな…」とあきらめるような 状況であっても、ベテランは、祈る代わりにわずかでも時間を稼げる治療手段を探し出して、作り出した時間で 目の前の問題を解決し、わずかな前進を積み重ねて、患者さんを力技で治癒へと導く。

あの状況で、どうしてそういう対処が出来るのか尋ねると、 「あの状況なら、まだまだこういう解決手段があると分かっていたから冷静でいられた」なんて、 その場でやらなかったいくつもの解決戦略を教えてくれる。

その人が状況ごとに作り出せる「キャッシュファイル」の量それ自体が、 鉄火場を乗り切るための体力として効いてくるんだと思う。

4月をまたいで、地域の基幹病院の人員構成が少し変わった。専門科の数は増えたんだけれど、 各々の科に所属している先生の数は少なくなって、科によっては「一人」とか。こうなるともう 入院患者さんは診られない。

医師一人が持っている治癒イメージの量には上限があるから、 人が減ってしまうと、急変の可能性がある人には対処できない。 がんセンターみたいな本当の専門施設には、だから「心身共に健康な肺がん患者」とか、 極めて厳格な適応満たした人じゃないと入院できなかったりとか、時々すごく矛盾したことが起きる。

自分が今いる施設なんか、一般外科と一般内科しかいないのに、最近はパーキンソン病とか、 胸部大動脈瘤とか、明らかに専門家が診るべき疾患を持った患者さんが、「よろしくお願いします」なんて 紹介される。

ローテーション研修制度は、技術は教えるけれど、イメージの描きかたなんて教えない。専門医全盛になって、 医師の専門分野はますます細かくなるけれど、細かくなるほどに経験の多様性は少なくなって、 治癒イメージのキャッシュファイルは作りにくくなる。

医師の能力が十分に高ければ、あるいはイメージなんて動的に生成できるのかもしれないけれど、 あらかじめ作ってあるイメージ呼び出すのに比べると、動的生成はいかにも不安定。

MovableType のバージョンを上げた。「再構築が速くできます」なんて言葉に魅力を感じて、 「すべてのファイルを動的に生成する」オプションにチェックを入れたら、過去ログが吹き飛んだ。

動的生成はあきらめて、すべてのファイルを静的HTMLで保存して、旧blog は更新を止めた。