2009.08.24
2009.01.27
もうすぐ家が建たなくなる
何となくだけれど、自分たちの業界では、もうすぐ「家が建たなくなる」予感がする。
業界からは、「いわゆる大工さん」がいなくなる。
煉瓦を積む専門家だとか、かんなをかける専門家はたくさん生まれるだろうし、 そうした「部分の専門家」の腕前は、おそらくは昔ながらの大工さん以上に優秀なんだけれど、 家は建たない。
「家建てる人」を目指している研修医は少ないか、もしかしたらみんな、「家を建てる」ことから逃げている。
部分の専門家
自分が昔習った病院は、「部分の専門家」を生み出す方針だった。
患者さんの方針は上司が決めて、研修医は、まずは手を動かす。
胸水のたまった肺炎の人が入院する。チェストチューブを入れるとか、 人工呼吸器をつなごうだとか、そういう決断は上司が行ってくれて、 研修医は上司の監督下に、手を動かす。
手が動くと、なんだか上手になったようで、やる気が出る。「一人前」になった気がする。
そればっかりやってると、「治る」というのは、部分を積んだ先に、いつの間にか降ってくる何かみたいに 思えてくる。目をつぶって、ひたすら目の前の「煉瓦」を積むことだけに没頭していると、 いつの間にか、そこに「家」ができあがるような。
もちろんそんなことをしても、できあがるのはせいぜい「壁」で、本当は、 指揮をする「大工」がいて、はじめて家が建つんだけれど、「煉瓦の専門家」だった自分には、 それが見えなかった。
震災の昔
「阪神大震災の時、若手が動けなくて大変だったんだよ」なんて、先輩の昔話を聞いたことがある。
自分がまだ学生だった昔、阪神大震災がおきて、当時の若手は大挙して、 現地の救急外来を回すために現地入りしたんだという。
みんな縫えるし切れるし薬も知ってるし、論文だって読む。「手を動かす」ことだったら、 たいてい何だってできるはずなのに、怪我した人を診て、その人が「治ったイメージ」を想像して、 そこまでの道筋をつける、そうした訓練をだれもうけていなかったものだから、 救急外来は最初の頃、まわらなかったんだという。
現地にはそれでも何人か、道筋をつけられるベテランがいて、もちろん現場は動いたのだけれど、 その人たちは「取り替え」が効かないものだから、交代できなくて、ずっと現場に張り付いていたのだと。
あと何年かして、ベテランが現場からいなくなると、このときの状況が再現されそうな気がして、けっこう怖い。
大学には大工さんがいた
神経内科をまわってた頃、大学から来た先生に、「どうしますか?」なんてやること尋ねて、 「この人は寝たきりで返すのがゴールになると思う」なんて返事を聞いて、ずいぶん驚いた。
自分は研修医だったから、予期していた返答は、とりあえずの点滴だとか、治療に使う薬だった。 当時の自分は自分は「治療」を見ていて、その人は、「治癒」、患者さんが退院するときの イメージを描いてた。そういう発想は、そのときの自分になかった。
昔の大学病院は、医局からの派遣でいろんな病院をまわる。当時は「臓器別」なんてハイカラな制度はなかったから、 循環器内科医も消化器疾患を診るし、外科医局には「外科しかいない関連病院」がたくさんあって、 外科の先生たちはたいてい、内科も診た。
知識がないからちゃんとできるわけないんだけれど、適当にやる。何とかする。日本中そうだった。
いい加減だけれど「何とかする」という訓練を積んで、昭和60年ぐらいまでの昔は、 それでもそれが許されたから、医師というのはみんな、「いわゆる大工さん」だった。
「大学のやりかたは根本的に間違ってる」なんて、自分が入った研修病院ではそう教わったけれど、 「いびつな専門家しかいない」はずだった大学病院の循環器内科医局は、 カテ屋さんなのに大腸カメラができたりして、自分なんかよりもよっぽどゼネラリスト揃いだった。
専門家が眉をひそめるような、いいかげんなやりかたであっても、とりあえず何とかして、治して帰す。 治癒のイメージを描く練習は、昔の「専門家」は、病院を問わず、当たり前のようにできていた。
そういう人は今、もう40代超えてて、みんなそろそろ開業したり、「次」を考えてる。 その人たちをみてショック受けた自分たちだって、臓器別の診療科制度が敷かれる以前を知っている最後の世代。
もうすぐ家が建たなくなる
「絵がうまくなる」ためには、とにかく何度も完成させることを繰り返すんだという。 「線を引く練習」だとか、「顔の輪郭描く練習」をいくら積んだところで効果がなくて、 きれいな絵を描くためには、とにかく完成させて、失敗して、落ち込んで、また次を完成させる、 それを繰り返すしかないんだと。
いい加減なやりかたであっても、とにかく完成させる練習を繰り返す、 昔ながらのやりかたは、うちの業界で続けるのは難しくて、 自分にはどうすればいいのか分からないし、処方箋を知っている人は、たぶんいないんだろうなと思う。
誰か患者さんが「家」を買おうと相談して、ひたすらに煉瓦を積んだ「壁」を売られる時代が、たぶんそこまで来ている。
支えのない壁は崩れてしまうんだけれど、文句を言ったら、 「私は煉瓦にベストを尽くしました。壁が崩れても、それは企画を持ち込んだあなたの責任です」なんて返答される。
うちの施設も人がいなくて、夜間の全科当直には、整形外科の先生方にも手伝っていただいて、 田舎の病院はようやく回る。
手広く内科の専門医を標榜する近所のクリニックは、それでも18時を過ぎた頃になると、 「貴院にての専門的ご加療をよろしくお願いします」だなんて、時間外の患者さんを紹介してくる。
「私は整形外科なので、せめて先生、最初の一晩だけでも、内科の指示をいただけませんか?」なんて、 当直の整形外科医は電話対応するんだけれど、応じてくれたことはないんだという。
2008.12.29
今年面白かった記事
アルファブロガー・アワード2008:ブログ記事大賞 に関連して。
自分の知らない世界
テレビゲームに関する文章。自分のテレビゲーム体験は高校生の頃までで、ゲームセンターには毎日のように 通っていたけれど、自宅には何もなかったし、結局今でも、ゲームに手を出す機会はすごく少ない。
リンク先に書かれていることは、だから自分の見知った世界とは全く関係のない話で、 実際問題、ジャーゴンだらけで、何が書かれているのか、部外者である自分には理解できない。
でも面白い。
自分が面白いと思っていることを誰かに伝えるときに、たぶん一番大切なことは、「面白がってみせる」ことなんだろうなと思う。
リンク先の文章は、読者に何かを紹介するための文章としては不親切で、 言葉の解説は為されないし、読んだところで、そもそもそれがどんなゲームなのか分からない。
分からないけれど、書いた人達が面白がっていることは分かりやすく伝わってきて、 自分もまた、その面白さを体験してみたいなと思う。
分かりやすさというのは、それを本当に面白がっている人が文章を書く限りにおいて、そんなに大切ではないのかなと思った。
コミュニケーションのこと
- 学校裏サイト記事で知り合った「はてな村の若者20人」と飲んでみた
- 出発駅としての「理解」、終着駅としての「理解」
- 「見せ場」について
- 滑り台鬼ごっこと、ルールがゲームを作るということを実感した話
- 神様に競争を投げ返す
- 炎上芸
- ネガティブコメント
コミュニケーションというものに「勝ち負け」を想定すること自体、それはもう、 コミュニケーションとは違う何かなんだろうけれど、自分が昔から興味を持ってきたのは、 そんな「勝つ」ための方法論。
リンク先の方々は、もちろんそんなことを考えているわけではないんだろうけれど、 「勝ち」を志向したやりかたをあれこれ妄想するときに、参考になる視点をいただいた。
コミュニケーションというものは、大きな山の頂上に向かって、いろんな立場の人達が、 思い思いの方向から、自分なりの方法論で、登ろうとしているイメージ。
「登った」人達は、たしかにある種のコミュニケーションを記述することに成功しているのに、 その言葉はみんなバラバラで、比較できない。 自分もまた、その人が登った入り口とは、立っている位置が違うから、「こうすればいいんだよ」なんて 教わっても、そのとおりにやっただけでは、うまく行かない。
心理学者の人達は、そんな山を、遠くから眺めて解説しているイメージ。
彼らの言うことは、だからもっともなことが多いんだけれど、あの人達は山に登った分けじゃないから、 今ひとつ信じられない。
いろいろ試行錯誤を重ねながら、今年もたぶん、こんなことを続けるんだろうと思う。
新鮮な価値観
考えもしなかったことに出会うと、その考えかたに感染して、しばらくのあいだ、 書くことといったらその話題ばっかりになる。
自分が普段いる場所は、病院の奥の奥、「社会」なんて、 外来の窓からわずかに眺める程度にしか接点がない。同業者なんてみんなそんなものだから、 新しい視点をもらって、そこから自分達の仕事を振り返ると、実はおかしいところだとか、 こうすればいいんじゃないかとか、いろいろ妄想できて面白い。
新しい考えかたというのはその代わり、見たことがない分だけ、受け入れるのが不快というか、 そもそもそれに興味を持とうという考えかたすら浮かばなかったわけだから、滅多に出会うことはないんだけれど。
で、今年一番傷ついた記事
気をつけなきゃいけないな、と思った。
2008.12.16
若い人はご飯が遅い
外来もようやく一段落して、14時だとかその後半だとか、ずいぶん遅い時間になって、 アルバイトに来てくれている若い先生がたは、やっとお昼ご飯を食べに、医局に戻ってくる。
ベテラン勢、それでも自分が一番年下なんだけれど、この仕事をずいぶん長くやっている人達は、 たいていもっと忙しいのに、同じ時間帯にはほとんどの人が、もうご飯を食べ終わってる。
忙しいときにはまず飯を食え
研修医期間を過ごした病院には、そもそも昼休みという考えかたはなかった。
朝病院に来て、病棟で仕事して、後はもう1 日中バタバタとかけずり回って、 自分の手は今より圧倒的に効率悪くて、仕事の量も多かったけれど、 食事だけは、それでも3食、きちんと食べてた。
研修医になって最初の頃、先輩から「忙しくて何から手を付ければいいのか分らなくなったら、まず飯を食え」なんて習った。
「これから心肺蘇生の患者さんが入ります」なんて一報が入ったら、そのあとしばらくは、 もう他の仕事は一切出来なくなる。だからみんな、放送聞いたら真っ先に食堂に駆け込んだ。
病院には、「昼休み」とか、ましてや「ご飯の時間」なんてものは一切無くて、 病院は、「食事をする間もないほど忙しい」状態が常に続いていたけれど、 それでもみんな、ないはずの食事時間をどこかから調達して、3食きっちり食べていた。
機動歩兵が習うこと
小説「宇宙の戦士」の訓練風景にも、しばしばそんな描写が出てくる。
兵士は早朝にいきなり招集をかけられて、部隊長が、「今から行軍訓練を行う」なんて宣言する。
どこに行くだとか、どれぐらいの期間行軍するとか、情報は一切無いし、集まった訓練兵には、 食事や水といった物品は渡されない。
新兵は、何も分からないままに行軍を続けて、どこまで行ったら休むとか、何を達成したら食事が取れるとか、 もちろんそんなことは教えてもらえない。
行軍中、主人公が仲のいい上官に、「食事はいつ取れるのですか?」なんて尋ねると、 上官はニヤリとして、「俺は食堂からクッキーをくすねてきている。お前も食うか? 」なんて問い返される。
このとき主人公もまた、招集前に食堂に忍び込んで、ちゃんと自分の食べ物を盗んできている。
こんな訓練が行われた頃は、新兵も「軍隊のやりかた」を心得ていて、主人公以下、 行軍に参加した全ての兵士は、みんな思い思いの食料を「装備」して、 休憩だとか、食事の配給だとか、一切行われないまま、訓練はたしか、60時間ぐらい続けられてた。
不備なシステムと個人の技量
人間に食事が必要なのは当たり前なのに、それを最初から用意しない、 昔の研修病院だとか、SF だけれど軍隊だとか、こういう組織に共通するやりかたというのは、 不備なシステムに対峙したときでも、それを個人の技量で補えるようになるための、 やはり「訓練」の一環なのだろうなと思う。
病院組織が、昼休みとか、食事時間を最初から設定しておけば、 CPRコールがかかってから食堂に飛び込むだとか、「非常食」を自分の机に常備しておくだとか、 こんな生活の知恵みたいなノウハウは、必要なくなる。実際問題、今の研修制度はそのあたりが 整備されて、昔みたいな小細工をしなくても、みんなご飯を食べられる。
整った研修環境で育った今の人達は、その代わり、外来がちょっと忙しくなったりすると、 そこから食事時間をひねり出したりすることが難しいみたいで、悪い意味でまじめすぎて、 ときどき心配になる。
システムの不備はシステムを描いた人間の責任だけれど、 完璧なシステムは、たいていの場合構築不可能で、不備というものはだから、 その時になって初めて現れることが珍しくない。
人も時間も足りない現段階で、すでに医療のシステムは破綻していて、 それはもちろん、これから現場に出てくる若い人達には何の責任もないはずだけれど、 若い人達が現場の不備に対峙して、状況はしばしば、「出来ません」を許してくれない。
こういうのはどうしたって「昔はよかった」なんて昔語りになってしまうんだけれど、 「何とかする技術」というものを伝えられなくなった今の研修制度は、やっぱりどこか怖いなと思う。
2008.05.15
赤い本が来た
サンフォードの感染症ガイドブック2008年版。毎年出版される感染症治療のガイドブックで、 版が変わるたびに表紙の色が変わる。今年は「赤表紙に黄色い文字」という狂った仕様。
- 17ページ:旅行者下痢症に対して推薦される治療薬が、ラテンアメリカとアフリカ、アジア諸国とで分けられた:ラテンアメリカではフルオロキノロン、 アジアではアジスロマイシン
- 18ページ:ホイップル病の治療薬としてクロロキンが取り上げられた
- 25ページ:右心系の感染性心内膜炎治療薬として、「ダプトマイシンはバンコマイシンとゲンタシンの併用と同じぐらい効く」という記載が追加された
- 35ページ:入院が必要な肺炎患者に対して最初に開始する抗生剤として、エルタペネムとアジスロマイシンの併用が記載された
- 36ページ:ICU入室が必要な肺炎患者に対する治療に「喀痰、血液、胸水の培養と、尿中抗原検査をするように」という記載が入った
- 38ページ:緑膿菌肺炎に対する治療に、「感受性があれば、セフェムやペネムを使ってもいいよ」と記載された
- 38ページ:ペストの治療が追加された
- 47ページ:MRSA保菌者に対する治療の項目が追加された
- 49ページ:敗血症を伴った外傷の治療薬にセフトビプロールが追加された
- 50ページ:ブドウ球菌による外傷敗血症の治療薬にセフトビプロールが追加された
- 58ページ:CVライン感染の「救済」療法に、ミノマイシンによる「ロック」療法が記載され、従来のやりかたが削除された
- 71ページ:腸球菌感染症の治療手段として、ロセフィンとアンピシリンの併用療法が記載され、セフトビプロールが追加された
- 71ページ:MRSAに対する治療薬として、いくつか見込みのありそうな抗生剤が記載された
- 85ページ:PIPC/TZ の使いかたについて、去年よりも推薦される使用量が増えた
- 87ページ:ロセフィンの使い方について、2g を1 日かけて持続的に静注する方法が紹介された
- 113ページ:多剤耐性結核菌の分類が、「多剤耐性」と「ものすごい多剤耐性」とに細かくなった
- 117ページ:MACに対する治療が、もっと徹底的なものに改められた
- 119ページ:やはりMACに対する治療で、「小児の場合、外科的な切除も効果的」という記載が入った
- 123ページ:寄生虫に対する治療薬としてNitrazoxanide に言及している記述が入った
- 127ページ:トリパノゾーマ症に対する治療に、新しい記載が追加された
- 131ページ:神経有鉤嚢虫症に対する治療に、新しい記載が追加された
- 135ページ:「マールブルグ出血熱のウィルスがコウモリから検出された」という記載が入った
- 139ページ:「ベル麻痺」の治療手段としてステロイドの有効性が記載された
- 142ページ:サル咬傷の時に見られるヘルペスB に対する治療で、「アシクロビル、ガンシクロビルの効果が薄いかもしれない」と記載された
- 145ページ:パピローマウィルス、パルボウィルスに対して、「症状をとるための治療手段」が新たに記載された
- 146ページ:抗RSV抗体パリビズマブによるRSウィルス感染の予防について、記載が加わった
- 152ページ:HIV感染患者に対する治療が、今年の版で大幅に書き換えられた
- 168ページ:胆道系手術患者に対する予防的抗生物質投与のやりかたについて、リスク予測のやりかたが、新たに追加された
- 175ページ:暴露者の感染予防について、単純ヘルペスウィルス、アスペルギルス、カンジダについて、記載が変わった
- 186ページ:子供の予防接種について、肺炎球菌と髄膜炎菌が、「6歳までに受けるべき予防接種」の項目に入った
記述があいまいなのは、ネタバレ回避…じゃなくて、翻訳に自信がないので。
昨年まで発売されていた半に比べて、頁数がわずかに増えている分は、ほとんどがレトロウィルス治療に関する 増ページ分。細かいレイアウト変更とか、一部の活字が太字に変更されているとか、去年までの判と比べて 全体に「見やすい」方向に変っているけれど、そもそもがものすごく読みにくい本だから、 編集した人の努力はあんまり実っていない印象。
1回の静注で24時間効くカルバペネム「エルタペネム」と、MRSA を殺せるセフェム「セフトビプロール」は、 両方とも日本にない薬。最近発売された新製品だからなのか、いろんな感染症で、こっそり推薦されていた。
書かなかったけれど、「これは妊婦に使ってはいけない」という但し書きが太字になって、 今まで記載がなかった薬について、わざわざ記載が追加されていた。どれもおそらく、 昔から妊婦に使ってはいけない薬だったけれど、こんな小さな本にも記載しないといけないぐらい、 たぶんそのへんがうるさく言われるようになったんだろう。
一応全頁比較したけれど、「抜け」があったら教えていただければ幸いです。
アップデートカンファレンスのこと
前働いて他病院には「アップデートカンファレンス」という制度があった。 カンファレンスを名乗っているのに研修医を対象にしてなくて、 忙しいスタッフの先生方が、新しく改訂された教科書を分担して、 一気に読んでしまいましょう、という主旨の講義。
一般内科の入門書だとか、感染症のガイドブックだとか、一般医家をやっていく上で 外せない教科書というのが何冊かあって、残念ながら、日本語の教科書には 優れたものが少なくて、「定番」なんて呼ばれるものは、全てが洋書。
誰だって英語を読むのは面倒だし、それなりに知識を持っている人にとっては、 「新しい」ことそれ自体よりも、むしろ「どこが変ったのか」、「どうして変ったのか」のほうが、 もっと大切だったりする。
アップデートカンファレンスは、だからスタッフの先生方限定で、 各専門家が自分の分野を分担して、出席する人は、その本を「読んでる」ことが 前提になっていて、「どこが、どんな意図で変更されたのか」だけが説明される。
研修医には、もちろんそのカンファレンスに出席する権利はあるんだけれど、 流れ読まない質問だとか、「分かるように説明して下さい」なんて要求する権利は 一切なくて、みんな時間を捻出して、読んでもいない洋書を開いて、 なんだかありがたそうな、分かったら、きっとすごく貴重なお話が耳から耳へ ただ流れて行くのを聞いていた。
スタッフの先生方もみんな散ってしまって、「アップデートカンファレンス」も、 自分たちが研修してた頃にはほとんど開かれなくなってしまったけれど、 今みたいな時代だからこそ、同じ教科書を共有して、記載された内容だけでなく、 筆者の意図とか時代の流れとか、そんなものを共有できる空間が、 どこかにできたらいいなと思った。
2008.05.13
「要するに」が社会を滅ぼす
「国家の運営」みたいな複雑なものを、指導者の人が間違った単純化に走って しまうと、虐殺が起きたり、あるいは単純化の犠牲なる人が増えるんだと思った。
伝記を読んだ
「ぽる・ぽと―ある悪夢の歴史」という、カンボジアの独裁者を扱った 伝記を読んだ。ポルポトは、虐殺者などではなく、ただ単純に、 「人を生かすことに対して無能な人物」に過ぎなかったのだ、という 立ち位置の伝記。
内乱に勝って、カンボジアを支配したクメールルージュは、平等で、 不正のない社会を作り出そうと努力して、努力の結果として、多くの人が亡くなった。
革命政府と対立していた、「革命に目覚めていない」人達は、首都から 田舎へと追放されて、「革命家としての教育」を受けることになった。 飢えと労働。カンボジアに革命を起こした人達と同じ、あるいはそれ以上の 苦労を味わうことで、革命の精神に目覚めてもらうみたいな。 革命に目覚めた人が耕す畑からは多くの作物がとれることにされて、 実際にはもちろん作物は育たなくて、多くの人が餓死した。
革命は「純粋な」人がやらないと上手くいかないらしい。
革命政府が政権取って、首都の住民を追い出したり、「お金」というものを 国から追放したり、社会を平等に、シンプルにして行くほどに国は 傾いて、それは「革命家として純粋でない」人達のせいになった。
「純粋でない」と名指しされた人は、やっぱり田舎送りになった。 もちろんそこでは「教育」が行われて、過酷な環境の中で、また人が亡くなった。
食べるものがない。道に椰子の実が落ちている。これは食べられる。 でも道に落ちているものは、国家の所有物。これを食べてしまうと、 その人は「純粋」でなくなって、後が無くなったその人は殺される。 これを食べなければ、いずれ飢えて死ぬ。
みんな亡くなった。
「平等」はけっこう怖い
平等が目指すべき目標になった、シンプルな社会からは、逃げ場が無くなってしまう。
クメールルージュ時代のカンボジアのやりかた、飢餓と強制労働とを通じて、 国民を「純化」「教化」していくやりかたというのは、なんだか 洗脳の手法を利用する宗教カルトを思い出すけれど、カルト団体には 「階級」みたいな複雑な構造があって、もしかしたらそんな仕組みは、 一種の安全装置として機能している。
カンボジアで「純粋じゃない」なんて指摘を受けた人には、再教育が 待っている。革命政府では、純粋な人と、餓死寸前まで苦労した人とは だいたい同じだから、そんな人から「純粋じゃない」なんて叩かれたら、 その人以上の苦境を乗り越えて、自らの純粋さを証明しないといけない。
革命政府の建前は「みんな平等」。「純粋じゃない」なんて指摘された人には、 だから社会のどこにも逃げ場が無くて、教育を受けて殺されるか、 殺されて「最初からいなかった」ことにされるか、いずれにしても 無難な選択枝が残されてない。
階級制度とか教育社会というのは、もちろん必ず「負け組」を生む やりかただけれど、「負けられる」というのことそれ自体もまた、 平等に殺されるよりはまだいいのかもしれない。
怪物はいなかった
虐殺者として紹介されることの多いポル・ポトは、それでも「怪物」では 無かったのだそうだ。あの人はあくまでも、「人を生かすのに無能であった」 だけであって、「人を殺すのに有能であった」わけではないのだと。
クメールルージュが行ったことは、「靴に合わせて足を切る」なんて 描写がなされていた。足が切られて、たしかに社会は大出血したけれど、 「足にあった靴を作りたい」なんて思いそれ自体は、 決して悪意から生まれたものではなくて、あれは虐殺ではなくて、 あくまでも無能が生み出した「事故」なのだという。
歴史には何人もの「怪物」がいて、ひどい虐殺とか、残忍な戦争だとか、 それらは全て、その人が「怪物」だったからなんて考えかたはシンプルで 分かりやすいけれど、やっぱり「怪物」なんてきっと少ない。
そのときそこにあったのは、そうならざるを得ない「状況」であって、 「怪物」と名指しされた人達は、あるいはその状況を止める能力を持たない、 「怪物になれなかった」人達なのかもしれない。
本当の怪物は、むしろ目に見えない。
歴史上、同じような状況におかれた 社会はきっとあって、同じ状況におかれてもなお、その社会を平凡に、 まるで状況変化なんて気がつかなかったかのように運営した人物は、 もしかしたら本当は「怪物」であって、そこに怪物が居合わせなかったら、 その国には虐殺が起きたのかもしれない。
複雑なものを複雑なまま理解するやりかた
社会とか国家みたいな、極めて複雑な物事を「要するに」で理解しては いけないのだと思う。
権力を持った指導者が、「要するに」で社会を間違って単純化して とらえたときに、たぶん「靴に合わせて足を切る」現象が発生して、 それが極端に走ると虐殺になる。
複雑なものを、複雑なまま処理するやりかたをしないといけない。
もちろんそれを個人でやるのは不可能で、だから「いい独裁者」が 統治するコミュニティは、それが小さな時には気持ち悪いぐらいに 上手くいくけれど、組織が大きくなる程に制御は難しく、 近似によって犠牲になる人の数は大きくなって、最後は収拾がつかなく なってしまう。
資本主義みたいな競争社会は、勝ち抜いていくためには、みんなが 頭を使うことを強要される。みんなが頭を使うから、社会に投じられる 思考リソースは、少数のリーダーが全てを回す社会よりも圧倒的に 多くなる。その振る舞いは複雑で、だから資本主義は「最低だ」なんて 言われるけれど、それでも社会制度の中では「最良」なんて評価も受ける。
選ばれた少数の執行部が回す組織は、必ずといっていいぐらい、 「サヨク」的だなんて叩かれる。「団結」だとか「平和」だとか、 「サヨクっぽい」言葉の裏には、たいていどこかに平等思想、 大多数のメンバーに思考停止を強要する何かが隠れてる。
たぶん社会の「よさ」なんてパラメーターは、「量」が問われる。 質の高い少数よりむしろ、やっぱりたぶん、たとえ質は劣っても、 たくさんの思考リソースを投じられる仕組みの方が、 その社会は「いい」ものなんだと思う。






