2009.10.24
CMDT 2010年版に対応しました
- 参照していたCurrent Medical Diagnosis and Treatment の改訂に伴い、各章の参照ページを2010年版に準じたものに訂正し、主だった改訂箇所について、内容に反映させました
- CMDT2010年版に記載が加わったことに伴い、新たに「インフルエンザ」と「ワーファリンの使いかた」の項目を追加しました
こちら からHTML 版が読めるようにしてあります。
日常のメモ
2009.10.24
こちら からHTML 版が読めるようにしてあります。
2009.09.22
休みを利用して、内容を一部改めました。
スマートホンが使える人は、あるいはWeb 版を使ってもらうと便利かもです。
文中に出現する症状と薬については、大体全てインデックス化しました。 ページの上下にあるナビゲーションボタンの中から「Index」 に飛ぶと、 索引ページにいけます。
ページ内リンクについては上手く飛べないものがたくさん入っていますが、 索引ページからのリンクは、大体ちゃんと張られていると思います。
2009.08.31
2009.08.05
間違える、あるいは「放り出す」といったほうが正しいのかもしれないけれど、患者さんを診察して、 その人の抱える問題に対して、主治医としてなんのアイデアも浮かばないときに、 患者さんに対して、どう「ごめんなさい」をすれば、その人の問題が解決する方向に状況を転がせるのか、 そんなことを考えてる。
胸部大動脈瘤で手術になった患者さんは、最初に整形外科にかかっていた。
その患者さんは「肩が痛い」と訴えて、胸が痛いとか、苦しいとか、 そういうお話しを全然しなかったらしい。
患者さんを診察した整形外科の先生は、肩を診て、分からないからレントゲンを撮って、 心臓の上側がやけに大きく拡大していたものだから、「肺癌疑い」なんて診断で、 その患者さんを紹介した。
外来に来てくれている呼吸器の先生は、胸を聴診しても、その人には何もなかったのだけれど、 「肺癌」と紹介されたものだからCTスキャンをオーダーして、動脈瘤が見つかって、緊急手術になった。
CTスキャンが行われるまでの間、その患者さんにかかわった医師は、誰ひとりとして正しい判断をしなかったし、 「大動脈瘤」なんて診断を最初に下したのは、医師でなく技師さんだったのだけれど、 「間違った判断」が正しく重なった結果として、 患者さんは、最初から大動脈瘤と診断されたケースと同じく、 「診察->単純写真->紹介->CT->診断」というプロセスをたどることができた。
昔紹介された脳腫瘍の患者さんの場合には、自分も「間違いのリンク」に参加していた。
その患者さんは「気分が悪い」なんて訴えで、別の病院に入院していて、 CTだとかMRIだとか、あらゆる検査が行われたのだけれど原因が分からなくて、 暫定的に「脳梗塞でしょう」なんて診断されて、点滴を受けていた。
状況が変わらなかったものだから、ご家族が本人を連れ出して、うちの外来にやってきた。 「MRIは正常です」なんて紹介状が添えられていて、自分がそのMRIをみたところで、 やっぱり何も分からなかったんだけれど、その患者さんは目が見えにくくなっていた。
目が見えづらいから、患者さんは「脳梗塞」なんて言われていたんだけれど、脳梗塞ならMRIで診断できて、 脳梗塞でない、「目に来る」病気は、これは眼科医か脳外科医の領分で、 うちの施設にはどちらもいないものだから、脳外科の常駐している、別の病院に紹介した。
紹介された脳外科医は、MRIを診て、一瞬で脳腫瘍を診断して、 その患者さんは下垂体腫瘍の手術を受けたらしい。
最初の病院に入院した段階で、必要な検査は全部行われていて、最初の医師も、自分もまた、 データを見ても診断できなかった。前医と自分と、患者さんに対して等しく無能であったのだけれど、 同じ「分からない」という状況に対して、前医は抱えて、自分は放り出した。
患者さんを放り出した先が、「正解」を見慣れている医師だったものだから、 患者さんの病名は一瞬で下されて、治療が行われた。
全然ほめられた経過ではないけれど、分からないまま、あるいはことごとくが間違っているままに 物事が進んでいる状況においてもなお、その患者さんを診断することを「正しくあきらめる」ことができれば、 いつか正しい診断にたどり着くことができる。
「あきらめかた」だとか、「放り投げかた」にも、たぶん正しいやりかただとか、 あきらめるタイミングというものがあって、それを外しさえしなければ、 病気に対する知識が全くない医師であっても、その患者さんに隠れている本当の病名が診断される方向に、 あるいは治療される方向に、状況を転がせるような気がする。
今作っているマニュアル本には、こういう考えかたは全然入っていないんだけれど、 いつかはこういう考えかたを実装したいなと思う。
まず必要なのは、分からないときに、その状況を「分からない」と認識するためのやりかた。
もう一つ必要なのが、ある症状を抱えた患者さんに対して、自分の知っている鑑別診断リストの中からは 適切な病名を探せなかったり、ある病名を患者さんに当てはめて、どうも「据わりが悪い」と 思えたときに、問題を抱えた患者さんを、その問題を解決できる医師に、正しく渡すためのやりかた。
どこから手をつけていいのか見当もつかないけれど、それでも症状は有限で、おそらくは、 物事が呪われたように悪く転がる、そうした状況の数もまた有限だから、 それを収集、整理することで、それを方法論としてマニュアル本に取り込むこともできるような気がする。
一部文章の改訂を行いました。索引を増やし、本に出てくる薬剤名、病名から、文章を検索できるようにしました。
ここ からダウンロードできますので、参照してみて下さい。8月5日版が今のところ最新です。
2009.08.02
ルールブックに書かれたやりかたと、そのゲームに勝つためのやりかたとはしばしば異なって、 ゲームはだから、「ルールを守る」のが好きな人と、「ゲームに勝つ」のが好きな人と、 たいていは2つの文化が衝突する。
「本がルールを書き換えた」先例がうちの業界にはあって、医学生ならたいてい誰もが持っていて、 医師ならたぶん10人が10人、その本を「クソだ」と断じる、「イヤーノート」という教科書がある。
医学部というのは医学を学ぶ場所だから、医学生の教科書というのは、 もちろん「医学」が体系的に、権威ある先生がたによって記述される。 教科書には、医師として知っていなくてはならないこと、診療に大切なことが中心に記載されて、 みんなそれを読んで勉強する。
ところが自分たちには「国家試験」というものがあって、これに合格しないことには、仕事が始まらない。 国家試験も試験である以上、「誰もが知っていなくてはならない知識」を問題にしてしまうと、 簡単すぎて、誰でも解答できてしまうから、序列をつけられない。国家試験はどうしても、 主流でない分野、重箱の隅をつつくような問題をたくさん混ぜる必要があって、 何とか成績に序列がつくよう、差が生まれるよう、出題者が工夫する。
そうした「工夫」が重なった結果として、「いわゆる教科書」をまじめに勉強することと、 国家試験に合格すること、「ゲーム」が提供するルールブックと、ゲームが規定する勝利との間に、 距離が生まれてしまった。
「医師になる」というゲームにおいては、ルールブックには「医学をきちんと勉強すると医師になれる」と 記載されているのに、実際には、国家試験に合格しないと、医師になれない。「いわゆる教科書」をいくら 必死に勉強しても、身につくのは「誰でも知っていなくてはならない知識」であって、国家試験に出題されるのは、 そういう知識ばっかりではないものだから、ルールをまじめに守った人は、国家試験ではしばしば損をする。
誰もが知っていなくてはならない知識をどれだけ詳細に理解できていたところで、 知らない問題は、やっぱり答えられない。医学というのはそこまで成熟した科学じゃないから、 ある分野を深く理解できたなら、他の分野を推測するのに、その「深さ」が役に立つとか、 そういう場面は少ない。
「医師になる」というゲームのルールを、素直に「国家試験に合格すること」と規定し直した人たちがいて、 「イヤーノート」という教科書が出版された。編集方針は明快で、「重要だけれど誰もが知っている知識」は省かれて、 過去の問題に登場した領域だとか、どこかの大学で卒業試験に選ばれた症例なんかはいち早く詳しく紹介されて、 病院の上の先生がたは、学生がそれを読んでるのをみては眉をひそめた。「それ読むと馬鹿になるぞ」とか、よく怒られた。
「いわゆる教科書の正しさ」と、医学生が当時も今も直面している「国家試験という現実」との間には、 どうしようもない解離があって、「イヤーノート」は不完全だったけれど、その間隙を上手に埋めた。 最初の頃は同人誌みたいな本だったけれど、今では普通に一般書店に並んでいて、 たぶんほとんど全ての医学生が、あれを購入していると思う。
医師国家試験というのは資格試験だから、「全員が間違えた問題」は、不適切問題として、 正解から除外される。「イヤーノート」はたぶん、昔も今も、間違っている記載が多いだろうけれど、 全員が同じ教科書で勉強すれば、その教科書がよしんば間違えていようが、その間違えは、 国試においては「正しく」なる。
「読むと馬鹿になる」教科書は、今ではもう、試験問題を作った人に、自らの頭の中身を問うための武器にすらなって、 「情報の共有」と「ルールの書き換え」という、あれはボトムアップで世の中を書き換えた、まれな成功例なんだと 今でも思う。
今自分が直面している「診療」の現場においてもまた、「ルールブック」に記載されている医師の振るまいと、 そのゲームが規定する「勝利」、患者さんの治癒と満足との間にギャップがあって、たぶんみんな、 苦労している。
今はいろいろ進歩して、40分もあればフルコースの血液検査ができるし、 頭からつま先までCTを切るのも、せいぜい15分あれば終わる。 患者さんがいて、その人の骨格模型を3D で作るのは30分で行ける。
「武器」としては相当に高性能な、こういう診療機械は、研修医でもサイン一つで自由に使えるのが病院という場所なのに、 今の「研修医マニュアル」に書かれているのは、やっぱり昔ながらの、 お話を聞いて、どうせ聞こえもしない聴診器を全身に当てて、なるべく検査をしないよう、 しないよう、「それをオーダーする奴は馬鹿だ」みたいなやりかた。
一方では「間違えるな」と言われ、機械の助けなしには診断不可能な怖い病気が羅列されて、 そのくせ「間違えないための道具」が目の前にいくらでもあるなかで、機械はいつでも暖められて、 医師に使われるのを待っているその中で、それを「使うな」と、「研修医マニュアル」は教える。 2009年7月出版の教科書でもそのへん変わっていなくて、やっぱりおかしいと思う。
「診療」というゲームの中にある、「研修医」というサブゲームのルールブックには、 「患者さんの症状に応じて、適切な検査を販売せよ」と書いてしまえば、それでいいんじゃないかと思う。
やっていることは単なる「御用聞き」であって、もはやそこには「判断」すらないけれど、 研修医に「判断」を要求して、正しい判断に援用すべき検査機械は使用を禁じられて、 もちろん「分からなかったら上司をコール」なんて必ず書いてあるんだけれど、 気軽に上司をコールできるような施設なら、そもそも「研修医マニュアル」なんて必要ない。
内科とか外科、救急がハイリスクで、そこを目指す人が減って、いろんな声が上がって、 人はそれでも、やっぱり減る。
こういうのもたぶん、「ルールブック」と「本当のルール」との間に解離があって、 研修医にはその間隙がよく見えるのに、そこがいっこうに埋まる気配がないものだから、 間隙が深い分だけ、それが「リスク」に見えるんだと思う。
どれだけ精緻なガイドラインが作られたところで、あるいはすばらしい研修システムが 整えられたところで、研修医の振る舞いを、顧客満足に接続できない、今のルールブックが 変わらない限り、人は増えてこない。
それを読んだ上の先生がたが、「こんなもの読むと馬鹿になるぞ」なんて怒り出すようなものが 作れたらいいなと思う。
「ゲームに勝つ」ことを志向したやりかたは、「ルールを守る」のが好きな人から見れば 間違ったやりかたで、両者の間隙が深いほど、相手が「馬鹿」に見えてくる。
その「馬鹿」が顧客の方向に向かない限り、同業者がお互い「馬鹿」とのの知り合う情景というのは 決して悪いものではないと思うし、結局どちらの「ルール」が正しいのか、それを決めるのは、 最終的にはお客さんなんだから。
2009.07.25
ずっと作っている研修医向けの本に、「喘息の患者さんを受け持ったら、 その日の17時に挿管の適応を決定する」という項目を入れることにした。
気管内挿管みたいな、生き死にに直結するような手技の適応は、医学的にでなく、むしろ社会的に 決定されるべきだから。
「酸素濃度が下がったら挿管」とか、「意識状態が悪くなったら挿管」だとか、 医学的に正しく記載された教科書には、こういう治療を決断するときには、 まずは患者さんの状態を把握して、それから治療の適応を決めるように書かれている。
とりあえずこの年齢になるまで、 どうにか大きなトラブルなく来たけれど、 自分の積んできた判断をふり返って、物事を医学的に判断した記憶というのが、この数年間ほとんどない。
気管内挿管のような、生命の維持には欠かせない、その反面、それが行われる患者さん自身にも リスクが発生するような治療についての判断は、「医学的に」ではなく、 むしろ積極的に、「社会的に」決定されるべきだと思う。
それはたとえば、病棟スタッフの脳裏に帰宅時間がちらつく「17時」であったり、 あるいはまた、「今日は当直あけだから家でしっかり寝たい」 日には挿管の閾値を下げてみることだったり。
医療というものが、教えられることで再現が可能な「技術」である以上、 ある患者さんに対して、為されるべきことがしっかり行われていれば、それは「過失」にならない。
トラブルのほとんどは判断の間違い、あとからその状況をふり返って、「やるべき事が行われていなかった」と 判定された状況であって、タイミングはあまり問われない。そうした「間違った」判断のほとんどは、 「医学的な」判断が、社会的な圧力でねじ曲げられることから発生する。
どれだけ「医学的に」正しい判断を下したところで、社会的なバイアスからは逃れられない。 正常値には幅があって、それはしばしば、間違った判断を補強する材料として使われてしまう。
医学的な決断、抗生剤を使うだとか、気管内挿管を行うことだとか、患者さんに必要な処置を、 社会的なバイアスから自由な立場で行おうと思ったなら、「バイアスのかかりやすい状況」を あらかじめ組み込んだ、社会的な適応基準を作ったほうが、結局のところ、 患者さんにとって正しい判断につながる。
トラブルから自由でいようと思ったら、だから「重い」決断、気管内挿管を行って人工呼吸器をつけることなんかは、 「社会的に」決断されるべきだと思う。患者さんが苦しそうだからとか、酸素濃度が下がったから、といった 理由でなく、むしろ「もうすぐ外科の上司が帰りそう」だとか、「明日は当直だから今日は寝ておきたい」だとか。 挿管みたいな手技は、危険を伴うからこそ、万全の状況を作れないタイミングを避けるために、 いかにも下らない、「社会的な」理由を、もっと積極的に援用すべきなんだと思う。
重たい病気の患者さんというのは、やるべきことさえ行われていれば、どれだけひどい対応を行ったところで、 まずトラブルにならない。
具合の悪い患者さんというのは要するに、「医学的な正解が明らかな人」だから、 主治医がどれだけひどい態度を行おうが、どれだけ適当な根拠で判断を下そうが、 同じ医学知識を持った人なら、その患者さんに対して行うことは、結局変わらない。
怖いのはむしろ「正解のない人」、症状としては軽くて、そのくせ夜中とか、 早朝4時に歩いて外来にやってくるような患者さんで、 「医学的には」何もしないで帰すことが正解になるような人たち。
こういう人はたいてい、患者さん自身が想定している正解というものを持っていて、 それから外れた対応をするとトラブルになるし、あとから実は病気が隠れていたりしたら、 あとから修正が効かない。
個人的にはだから、軽症そうに見える人ほど、「ようこそお越し下さいました大変だったでしょう」みたいな 態度を心がけるようにしている。どう頑張ったって、「何しに来たの?」みたいな本音が透けちゃうのは 隠しようがないから、せめて外面だけでも丁寧に見える態度を目指す。
「いいお医者さん」としてのありかたというのは、サービス精神なんかじゃなくて、 むしろ保身だとか、臆病さだとか、トラブルを避けて、なるべく楽して働きたいだとか、 そんな後ろ向きな努力の帰結としてたどり着くべきだと思う。
自分たちの仕事は、お客さんから「お前のこの対応はよかった」だとか、 「お前のここが気にくわない」だとか、そんなフィードバックが得られる機会が極めて少ない。
医師としての振る舞いかたというのは、どうしたって独善的なものにならざるを得ないんだけれど、 理念先行で「いいお医者さん」を目指してしまうと、「偽善」に「独善」が重なって、なんだか救いようがない。
トラブルを避けたいとか、訴訟から無縁に過ごしたいだとか、 出発点は、人なら誰でも持っている「わかるわかる」的な価値から始めないと、 その人の積んできた「独善」は、誰の役にも立たないような気がする。
「2009病棟ガイド」の内容を、 そんなわけで40箇所ほど改訂しました。
医学部分には大きな変化はありませんが、一部の手技について、判断の基準に 追記を行っています。
書けば書くほど「出版」が遠のいていくような気もしますが、だいたい内容が固まりつつあります。 「LaTeX 入稿が可能」、 「爪見出しの追加が可能」で、商業出版を考えて下さる 業者さんがいらっしゃいましたら、ぜひ相談させていただければ幸いです。。
2009.07.06
2009.05.11
今作っているのは「症状」で分類した教科書で、患者さんはたいていの場合、何らかの「症状」を抱えて病院にやってくる。
西洋医学は「臓器」で分類されていて、医師国家試験は全ての臓器を網羅しているから、 医師はあらゆる臓器を診察できることになっていて、「症状」を「臓器」へと翻訳する工程は、 建前上、誰でも問題なくできることになっている。
実際にはもちろんそんなことはなくて、病院にはだから、いくつもの科があって、患者さんはしばしば、 「この患者さんは少なくとも、うちの科の領分じゃありません」なんて、症状を抱えているのに、 いろんな科から「うちじゃない」なんて、理不尽な返答をもらう。
主治医が決まらないと治療は始まらない。「うちじゃない」問題が発生するような患者さんは、 たいていの場合、どの科の医師にしても、きちんと診療する自信が持てないから、 そういう患者さんを診たときには、どこかの科に「押し込む」ことを考えないと、話が前に進まない。
検査には、医学的な有用さとは別に、社会的有用性というパラメーターがあって、 外来で「うちじゃない」問題が発生したとき、こういう検査が活躍する。
たとえば循環器内科領域には「BNP 」という検査項目があって、これは心不全を持った患者さんで上昇する。
循環器内科以外では提出されない検査だけれど、 胸が苦しいだとか、息が苦しい、という訴えをした患者さんでこれが上昇していると、 その人はもう、間違えなく循環器内科の患者さんであって、担当医は言い訳できない。
BNP は、この検査を提出しなくても、診察にはそれほど困らないのだけれど、 自分たちが「うちじゃない」をやるときだったり、専門施設に よく分からない患者さんをお願いするときだったり、社会的な問題を解決する必要が生じたときに、 この検査は大いに役立つ。
「吐血」や「咽頭痛」みたいな、その症状を受け持つべき専門科がはっきりしている症状なら、 そもそもこうした問題は発生しない。
「呼吸困難」だとか「胸痛」みたいな症状もまた、振り分けが問題になるのはせいぜい2科だから、 いくつかの検査を提出すれば、「うちじゃない」問題は回避できる。
ところが「不明熱」だとか、「全身倦怠感」あたりになると、 そうした症状を生じる疾患は無数にあって、たいていの場合、 患者さんがどの科の門を叩いても、「うちの疾患じゃありません」なんて返事が返ってくる。
今作っている本にしても、簡単なマトリックスを使って、症状ごとに提出すべき検査の図示を試みているけれど、 「熱が出た」という症状と、「だるい」という症状については、こうした図版が破綻していて、 いきなり複雑になって、このままではたぶん、役に立たない。
「熱」や「だるさ」という症状を生じる疾患のうち、疾患名だけで勘定すると、だいたい半分ぐらいが感染症で、 残りのさらに半分ぐらいが、膠原病だとか、血管炎だとか、リウマチ膠原病疾患。残った1/4を、 悪性腫瘍だとか、内分泌疾患で分けることになる。
受け持つべき疾患が一番多いから、「不明熱」の患者さんが相談される先は、何といっても感染症科に なるはずなんだけれど、感染症の教科書には、不明熱の対処に関する記載が少ない。
有名な青木先生の教科書にしても、不明熱に割かれているのはせいぜい20ページぐらい。 原因の分からない患者さんに対して、感染症科ならではのやりかたで疾患名を当てるやりかた、 何かこう「必殺技」的な、「裏技」的なやりかたを期待して読むと、肩すかしを喰った気分になる。
不明熱に関する記載が充実しているのは、むしろリウマチ膠原病疾患の教科書だとか、血液内科の教科書で、 恐らくは「熱があるけれど分からない」患者さんの多くは、「分からないけれど細菌が原因」という状態を 検査で証明できないから、白血球が高いだとか、CRP が高い、といった理由にこじつけられて、 膠原病内科やら、あるいは血液内科に紹介されているのだろうと思う。
去年ぐらいから使えるようになったプロカルシトニン という検査があって、これが一般診療で普及するようになったら、あるいはこうした状況が変化するかもしれない。
この検査はCRPと同じく、炎症があると上昇するマーカーにしか過ぎないけれど、 細菌感染症に特異性が高くて、膠原病だとか、ウィルスによる発熱のときには、あまり上昇しないらしい。
今はまだ、敗血症の重症度判定に使われる程度だけれど、これが一般内科外来で気軽に提出されるようになると、 「分からないけれどとりあえず細菌感染症」という状況になった患者さんがたくさん生まれる。
この検査の特異度がどれぐらいあるのか分からないけれど、ある程度数字に信頼が置けるのなら、 検査で「分からないけれど最近」と判定された患者さんを、感染症科は断れなくなる。
敗血症みたいな、感染症と診断された患者さんの診療に関しては、この検査が与える影響は、恐らくは微々たるものだけれど、 病院内での医師社会に与える影響はもしかしたら大きくて、今まではコンサルタント的な立場だったあの人たちを、 この検査で「現場」に引っ張り込むことができるようになるかもしれない。
ネットをちょっと調べた範囲では、プロカルシトニンという検査項目を、「うちじゃない」問題の解決に使ってみました、 なんて報告はまだないみたいだけれど、将来的にそんな期待を込めて、今度の版から、 「不明熱」の項目に、プロカルシトニンに関する記述を追加してみた。
うちの病院ではそもそもこの検査が提出できないので、使ってます、とか、あんまり使えません、とか、 これを使って奴らをぎゃふんと言わせてやりました、とか、使用経験のあるかたがいらっしゃいましたら、 使ってみた感覚など、教えていただければ幸いです。。
2009.04.27
1970年代前半、アメリカで新しい考えかたに基づいた攻撃機が設計されることになって、 アドバイザーとして、当時現役を引退していた、ベテランパイロットが招かれた。
実戦というものをよく知っていたその人は、これから作られる航空機に対して、 「被弾しないようにするよりも、被弾したあとのことを考えよ」とアドバイスした。
飛行機は実際、その方針で設計されて、片翼がなくなろうが、エンジンが片方吹き飛ばされようが、 何があっても飛び続ける航空機が出来上がった。
現場からの信頼を得たその機体は、 砲弾の飛び交う中、今でも現役で活躍しているんだという。
「○○の可能性があるから気をつけること」なんて、教科書にはたいてい書いてある。
ところがたぶん、たいていの場合、教科書を開くのは、「○○」をやってしまったあとだから、 慌ててページをめくった先に、「気をつけよ」なんて書かれていても、余計なお世話だって思う。
特に現場で使うマニュアル本を書こうと思ったならば、読者を「被弾しないように」誘導するような 記述はあまり意味をなさなくて、むしろ被弾したあと、それでもなお、患者さんを立て直せるような、 そんなやりかたに行き当たれるような書きかたをしないと、現場で使えない。
週末こんなことを考えて、また少し直しました。
こちらからダウンロード してみて下さい。
けっこう記述が変わっていると思います。
2009.04.23
調べて考える余裕のない状況で、とりあえずとっさの対処を行いたいとき、 知らない疾患であっても、とりあえず知っているふりをしたいとき、 夜間に患者さんが急変して、まわりには他に、聞ける人なんて誰もいない状況に置かれたときに、 アンチョコというものは、しばしばとても役に立つ。
アンチョコ本をいくら読み込んだところで、体系的な医学知識を身につける役には立たないけれど、 お守り代わりに持ち歩いていると、何かのときに身を守ってくれる、そんなことを目標にした 本がいくつか出版されていて、今自分が書いているものも、一応そんな場所を目指している。
最近読んだ本について。
たぶん世界で一番売れている内科のアンチョコ本。マサチューセッツ総合病院という、 世界で一番有名な病院の先生がたが作った本で、300ページに満たない小さな本なのに、 これ一冊で内科全科をカバーしている。
読んでいると落ち込む。もう圧倒的によくできていて、これだけいいものが世の中で出版されているのに、 自分は今更何やってるんだろうなんて、土俵にも上がってないくせに、負けた気分になる。
読んだときの濃縮感がすごい。ほとんど全ての文章は箇条書きで、素っ気ないぐらいの簡単な英文なのに、 場所によっては成書でも隅っこにしか書かれていないような内容が詳しく記述されていたり、2007年出版の 本なのに、その年の論文が、すでに引用文献として取り上げられていたり。たぶん出版ぎりぎりまで編集作業を 続けていて、編集した人は大変だったんだろうなと思う。
編集方針が異様で面白い。一番売れている本に「異様」という形容はおかしいんだけれど。 この本は、「小さな成書」を目指していない気がする。ページを開けると、すぐに心電図の解説から始まって、 病気のお話しは、後ろのほうにくる。生き死にに直結するような疾患に、 必ずしも多くのページが割かれていなかったり、逆に滅多に見ないけれど見逃しやすい、 膠原病だとか、血管炎の解説が充実していたり、普通の教科書とは、体裁がずいぶん異なっている。
病態生理とも、統計的な疾患頻度とも関係のない、恐らくは「研修医の脳内心配世界」みたいな ものを想定して、そこにあわせて記載する知識の配分を決めている印象。MGHみたいな世界一流の病院スタッフが、 研修医の脳内風景にあわせて本気出すんだから、そりゃ売れるよなと思う。
すごく分かりやすい本だけれど、いわゆる「研修医向け」かといえば、ちょっと躊躇する。
リスクの高そうな治療であっても、容赦なく「こう治療する」みたいな断言形式で書かれてて、 どこか安全装置のかかってない武器を見ているような気がする。この本は、これを読んだ研修医に 「自分の足を撃つ権利」をきちんと保証していて、もちろん大けがする可能性もあるんだろうけれど、 ある意味これを読んだ研修医に、同じ医師として、筆者の人たちが敬意を払ってるようにも思える。
普段研修医向けに何か作っているときには、「研修医ならこの程度知っていれば」だとか、 「この書きかたは教育上よろしくない」みたいな、上から目線みたいなものから 自由になるのが大変なんだけれど、この本を書いている人たちは、良くも悪くもそういうものから 自由なんだと思う。
ちゃんと現場の兵隊から意見を吸い上げて、「教育」はとりあえず置いておいて、 とにかく研修医にとっての便利な本を作るんだ、という意気込みみたいなものを感じる。
もっともこの本の密度を支えているのは「小さなフォント」によるところも大きくて、 旧版の日本語訳本が500ページを超えている。当直あけにこの本を読むと、目が疲れてしまって、 文字を追っかけるのが苦痛でしょうがない。
これも有名な本。「入院版」と「外来版」に分かれていて、今年の9月に入院患者版の新しいものが出版される予定。
西洋の語呂合わせだとか、「HotKey」という、忘れてはならない豆知識みたいなものが別枠で記載されていて、 分かりやすい。2冊に分かれている分、ページ数に相当余裕をとってあって、見た目の凝集感みたいなものは 少ないけれど、読みやすい。
特に「外来版」は広く浅くを志向しているところがあって、内科の本なのに、婦人科や泌尿器科、 皮膚科の症状にも相当なページ数が割かれている。
各章が独立するように編集されていて、どこから読んでも、その場、 その場の知識で状況を切り抜けられるようになっている。 自分みたいに、何か使えそうな文章だとか、図版を拾いながら読んでいると、だから役に立つ場所と、 そうでないところとの境界がはっきりしていて、使えそうなところは付箋を貼りながら、そうでないところは とばし読みができて、ありがたい。
家庭医向けの名著として紹介される本だけれど、研修医の人が読むにはカバーしている範囲が広すぎて、 たぶん病棟で役に立つことが半分ぐらいしかないから、夏に出る入院患者版を待ったほうがいいかもしれない。
自分が書いているマニュアル本の、元ネタというか、目次をそのまま利用した本。
「研修医の当直に役立つ」ことに目的が特化していて、目次や章立ては「看護師さんからの電話」順、 電話を受けて、電話口で聞くべきこと、病棟に行くまでの数分間で考えること、患者さんを見てから考えること、 患者さんの症状を見て、そこから致命的になりうるシナリオについて、それぞれ記載されている。
この本は、とにかく「研修医を守る」という意志が伝わってきて、好感が持てる。
イントロダクションとして、簡単な診察のしかたが記載されたあとに書かれているのは 「患者さんからの身の守りかた」であって、感染防御であるとか、針刺し事故を起こしてしまったときに、 自らにどんな治療を行うべきなのかとか、まずは医師自身を守って、それから患者さんと対峙する、という 編集方針があって、これはいいことだな、と思う。
当直に特化した編集で、患者さんの症状後との振る舞いかたに加えて、患者さんが暴れただとか、 死亡宣告に呼ばれたときの振る舞いかた、点滴ラインがつまったときの復活手段だとか、 たしかにこの本が一冊あれば、当直はずいぶん楽になりそうな、そんな予感が伝わってくる。
最近はずっと、こういった本に付箋を貼りながら、自分の原稿データにそれを反映、 もとい内容を丸写ししながら、少しずつページ数を増やしているんだけれど、やっぱりこういうのは、 西洋人上手だなと思う。
マニュアル本は、もちろん日本の有名病院もたくさん出版しているし、売れているものはたいてい 手元にあるんだけれど、日本で出版されている小さな本は、どちらかというと小さな成書を目指している雰囲気で、 研修医の役に立つというより、むしろ研修医を教育するために書かれているような気がする。
教科書としての体裁が整っている本はきれいだし、到達度テストみたいなものがくっついていると、 たしかに勉強には便利なのかもしれないけれど、500ページに満たない本は、やっぱり勉強に使われることを 想定するには無理がある。
有名な「ワシントンマニュアル」だとか、競合する「Practical Guide to the Care of the Medical Patient」 みたいな本は、研修医向けの簡易教科書として作られているけれど、A5 版で900ページ近くある。 版を重ねに重ねてあの分量なんだから、教科書として本を成り立たせるためには、 やっぱりそれが最小限度なんだろうと思う。
MGH のPocket Medicine みたいな本を研修医にもたれると、教える側は大変な思いをする。
「教育」というのはたいてい、重箱の隅みたいな知識をつついて、研修医に自分の優位を示した ところから始まるけれど、この本には、そうした「隅」がほとんど全て書かれているから。
いいアンチョコ本をもたれると、教える側は、研修医を「ずるいな」と思う。
あれを作ったMGHの人たちは、たぶん重箱の隅みたいな知識にすがった権威みたいなものを 「下らないものである」と看破している。圧倒的な能力差、実力差でもって、 研修医と対峙できる自信がないと、ああいう本は書けない気がする。
とりあえずこんな本から、記述だとか図版を移植しました。最初の頃から見れば、内容はずいぶん変わりました。
こちら から新版をダウンロードしていただければ幸いです。
2009.04.22
2009病棟ガイドの内容を改めました。
2009.04.19
たぶんどこの業界でも同じなんだろうけれど、そこで働いていくために必要な知識というのは、 ちょうど樹木のような形をしている。知識の体系を形作るために、あるいは全体の見通しをよくするために、 幹だとか、枝ぶりというものが絶対に必要なんだけれど、「薬草」として、実際に役に立つのは、 恐らく「葉っぱ」の部分なのだと思う。
幹から葉っぱまで、知識を樹木ごと丸呑みできれば、その人は業界を理解した、ということに なるのだろうけれど、それをやるのは難しい。
内科だと、たとえば「ハリソン内科学」みたいな成書を一冊、隅から隅まで理解できれば、 たぶんその人に文句を言う医師は相当に少なくなるけれど、世の中にはたぶん、 ハリソン内科学の原著を読み通した人は、そもそもそんなに多くない。
凡人に理解できる量というのは限られて、だから世の中には、神様みたいにあがめられる大きな本とは別に、 小さくまとまった、知識の切り売りを試みた本がたくさん売られる。
必要なのは「薬草」であって、薬効成分は「葉っぱ」に含まれているわけだから、 小さな本というのは必然的に「薬草のつまった袋」みたいなものを目指さないとおかしいんだけれど、 日本で出版されている研修医向けの教科書は、どういうわけだか「葉っぱ」がほとんど残っていない、 幹があって、枝があって、枝ぶりだけは立派な、樹木の骨格標本みたいなものばっかり。
恐らくは「教科書で何かを学ぶ」という文化自体、自分たちの業界でそれが当たり前になったのは、 せいぜいここ10年ぐらいなんだと思う。
自分が研修した病院では、当時「ワシントンマニュアル」という本が研修医向けの教科書として 推薦されていて、みんな読めるわけもないのに英語版を買わされて、あとからこっそり日本語版を買っているのを 見つかると、上の先生がたから怒られた。
当時からもう、聖路加国際病院だとか、虎ノ門病院みたいな大きな病院では、研修医向けの、病院の名前を冠した 教科書を出版していた。あれは本当にうらやましかったし、知識がコンパクトにまとまっていて読みやすかったんだけれど、 「それを使って何かやる」という場面は、少なかった。
そうした教科書は分かりやすくて、知識の見通しに優れていて、そういうのを読むと、 なんだか自分が上等な人間になれたような、頭がよくなったような、そんな気分になれるんだけれど、 できることはあんまり変わらない。
日本語の教科書は、最後の「詰め」を踏み込んでくれなくて、たとえば「○○療法が行われることがある」だとか、 「免疫抑制剤の使用を考慮する」だとか。知識を得て、それを考慮するその段階に至って、 教科書には「考慮する」としか書かれていないから、最後の最後は、現場の判断。上の先生に やり方を尋ねたり、あるいはあやふやな英語の知識で「ワシントンマニュアル」を読んで、 そこに記載されているやりかたに従ってみたり。
ワシントンマニュアルは、研修医が読むには厚すぎて、おまけに全部英語だから、総論部分を読むのが 本当におっくうで、当時はもう、あの本が嫌いで嫌いでしょうがなかったんだけれど、実際問題、 使えるもの、医学知識の「葉っぱ」部分をきちんと書いてある教科書は、当時も今も、あれぐらいしかなかった。
あらゆる意見に論文レベルでの証拠を求めるEBM の時代になって、状況はむしろ 悪くなったような気がする。
「EBMに基づいた」を売りにする教科書は増えたし、昔に比べれば、教科書は少しだけ 安くなって、図版も増えて、日本語の教科書は読みやすくはなったのだけれど、 「○○療法が行われることがある」だとか、「○○を考慮する」みたいな、 踏み込みをためらう記載は増えた。
一人の人間が全部書くのは無理だから、今は分担執筆が主流みたいだけれど、 何か書いて、それを裏付ける論文を探しても、ならばその論文が本当に正しいことを 補償してくれる論文だとか、あるいは自分が書いた知識と、正反対のことを主張している 論文が本当にないのかどうか、個人でそれを調べるのは難しい。
難しいし、分担執筆には締め切りがあって、たいていの場合、みんな締め切り直前になってから 調べはじめるから、時間がなくて、踏み込めない。
教科書はだから、正しいし、見通しがいいんだけれど、役に立たない。
論文で磨き立てられた仏壇みたいな教科書がある。
見た目は立派で、表面は「証拠」で磨き立てられてぴかぴかなんだけれど、仏壇をあけても、 引き出しを探しても、「薬草」なんて一枚も入ってない。引き出しの隅っこに紙が入ってて、 そこにはただ一行、「治療は現場の判断で」なんて書かれてる。
「研修医向けの簡易な医学教科書」という分野に必要なのは「切り貼り」の能力であって、 画期的な発見をする能力だとか、論文分野ですごい業績を上げるだけの粘り強さだとか、 自分には欠けていた、そういう資質がなくてもどうにかなる。
「教科書を作る」なんて言っても、やっていることはだから切り貼りで、 すでに発売されている、研修医向けの日本語教科書を何冊か、面白そうなところを 抜き書きして、それをまとめて一冊にして、何か大きな教科書、 自分だったら「Current Medical Diagnosis and Treatment」でその内容を 検証しているだけなんだけれど、「この文章は面白い」なんて切り抜いた文章が、 結局のところ、英語の教科書をそのまんま和訳しただけだったりしている箇所がいくつも見つかる。 今の時代になっても、良い日本語教科書というものは、要するに良い翻訳なんだな、なんて思う。
海外の教科書は、それを書く人が持っている「葉っぱ」を見せるために教科書を書いているところがある。 まずは「ところで俺の葉っぱを見てくれ。。コイツをどう思う?」なんて筆者の思いがあって、 自分の意見を補強するために、あちこちから医学論文が引っ張られる。意見があって、それに基づいた 処方があって、それを裏打ちするための論文があるから、役に立つ。
分担執筆された日本語教科書は、論文が、クリスマスツリーの飾りみたいに使われているように 思えるときがある。有名な論文が、見通しのいい知識体系にぶら下げられて、それはたしかにきれいなんだけれど、 葉っぱが邪魔だからなのか、現場で使える知識はきれいに除かれて、そこは「現場の判断」に任される。
恐らくは現場で働く誰もが持っていて、業界全体に散逸しているであろう「葉っぱ」を収集したいなと思う。
今書いているものは、ツッコミに対する柔軟性が高くなることを意図して作ったから、 読んだ誰かが「ここがダメだよ」なんて感想抱いたとして、そういうお話しを吸収して、 訂正版をかけていければ、進歩する。
多数決で「勝手に面白くなっていく小説」なんてものを作るのは厳しいけれど、 「勝手に正しくなっていく、簡易な内科入門書」なら、大元の知識は内科の成書一冊で、 あとは「創造」というよりも順列組み合わせの領域だから、それができる可能性は高いと思う。
少部数、高頻度で出版を繰り返す形をとって、裏表紙に「私はたいていここにつながってます」なんて、 Twitter のアドレスを書いておいて、買ってくれた人とリアルタイムでディスカッションしながら、 「次の版ではそこを改訂します。2週間後に出ます」なんてやれたら、きっと面白い。 本当はオープンソースにして、各病院ごとのローカル版とか作れたらいいんだけれど。
少部数出版が高価であること、Amazon みたいな決済システムに素人が参入するのが難しいこと、 なによりも、今作っているものが、商業クオリティにはまだまだ遠すぎて、 やらなきゃならないことはたくさんあるんだけれど、今はこんな場所を目指してる。
2009.04.18
2009病棟ガイドの内容を改めました。
2009.04.15
2009病棟ガイドの内容を改めました。
昇圧薬、降圧薬、血栓溶解薬、抗不整脈薬の使いかたと使用量について、それなりに詳しく書いたつもりですが、 計算間違いの可能性ありありなので、気をつけてください。
どなたか検算していただけると幸いです。。
2009.04.09
2009病棟ガイドを改訂しました。
2009.04.08
相変わらず、教科書みたいなものを少しずつ書いている。
薬の使いかただとか、手技だとか、どうせ書くならば、なるべく「みっともない」やりかたを、 不格好で、誰にでもできるような、熟練した人がそれを読んだら、あまりのくだらなさに笑ってしまうような、 そんなやりかたを紹介したいのだけれど、それがとても難しい。
たとえば人工呼吸器管理を行うときには、できるだけ太い挿管チューブを使ったほうが、 患者さんの全身管理がやりやすくなる。
太いチューブは入れるのが少し難しいのだけれど、それでも慣れれば簡単に入る。 ベテランはだから、みんな太い挿管チューブを選択して、慣れていない若手には、 「もっと太いの使え」なんて、お前も速く一人前になれだなんて、発破をかける。
教科書には、太いチューブのメリットばっかり強調される。
喀痰吸引がやりやすいこと。患者さんの呼吸仕事量は、もちろん空気の通り道である挿管チューブが 太ければ、それだけ楽になること。それはもう、反論のしようがない事実なんだけれど、太いチューブを 入れることができない初心者には、手が届かない。 太いのがいいとして、細かったら本当にいけないのか、同じ重症度の患者さんを抱えて、 術者が下手くそで、太いチューブが入らなかったら、そのことは、患者さんに対して どの程度致命的なのか、そういうことは、あんまり書かれていない。
たとえば呼吸不全を起こした成人男性については、こんなことを知りたい。
手元にある呼吸管理の本を調べても、そもそも「細いチューブ」に言及している本自体が少ないし、 それをやったことがある人も、あるいは少ないのかもしれない。マニュアル本にこういうことが記載されていたら、 きっと便利だと思うんだけれど。
NHKのクローズアップ現代で、グローバル化する企業の特集が組まれていた。
番組の中で、英会話教育に取り組む企業が放映されて、「きれいさ」とは対極にあるような、 単語をブチブチに切って、適当に並べただけみたいな、そんな英会話が教えられていた。
放映されていた分量はごくわずかだったけれど、講師の先生は、正しい文法だとか、 きれいな言い回しだとか、いわゆる英会話のやりかたを無視しているように見えた。
番組の中では、前置きなしで「このコーヒーは冷めないという言葉を英語で語って下さい」みたいな 問題が出されて、英会話の苦手な参加者に、手持ちの知識でどうやって相手にそれを伝えるのか、 ごまかしかたというか、逃げかたというか、「これっぽっちの知識しかなくても、英語は十分に伝わるんです」 なんてメッセージが伝えられていた。
これはすばらしい試みだと思った。
医学教科書は、「できる人」ががんばれば理想的にいけるやりかたが書かれていて、 たいていの場合、読者のレベルは書いた人より低いから、読者に理想を要求されても困ってしまう。
感染症医学の教科書は、患者さんを詳細に診察して、内蔵の奥の奥から、「正しい検体」を検査に出せれば、 「この薬で絶対に治ります」なんて請けあう。プロの助言はたしかに間違っていないんだけれど、 その正しさは、自分たち内科が「正しい検体」を取ってくることが前提で、そこの責任は請けあってくれない。
あの人たちの言葉は、たしかに何一つ間違っていないのに、現場ではしばしば、なんの役にも立たない。
ベテランの人たちはむしろ、「抗生剤は、こんなに間抜けな使いかたをされても、患者さんは治るんだよ」 みたいな例を示すべきなのだと思う。誰が見ても最低のやりかた、 門外漢の内科が見ても、「さすがにこれはないだろう」なんてやりかたをこそ、 プロがやって見せて、限界のある場所を示すべきなんだと思う。
身も蓋もない正論をまくし立てるベテランが、どうしていいのか分からない状況の患者さんを 抱えた若手の前に立ちはだかっても、尊敬は得られない。その人の論理がどれだけ優れていても、 邪魔された若手は、ベテランにすがるどころか、彼らを回避する方法を編み出すだろうから。
「みっともない」マニュアルを作りたい。
右も左も分からない研修医がこれを読んで、「こんなのでいいなら、俺のほうが上手に治せる」なんて、 思わず笑ってしまえるような、診断だとか、治療のやりかたが書ければいいなと思う。
「みっともなくやる」のは難しい。そうしたやりかたをするためには、「それでも大丈夫」という根拠が必要だし、 たいていの場合、「ちゃんとやった」ほうが、管理ははるかに簡単だから、 みっともないやりかたは、たくさんのトラブルケースを乗り越えてきた人でないと身につけられないし、 語れない。
その場に集った医師の中で、もっとも無様で、不格好なやりかたを提案できる人が、 本当のベテランなんだと思う。
みっともなくやれないベテランは、そもそも自分をベテランと認めちゃいけないし、 無様なベテランが、後ろで一番無様に構えてくれているからこそ、 若手は安心して「ちゃんとやる」ことができるのだから。