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2009.10.04

完璧と無難

ある状況を支配している「完璧」なトップランナーに対抗するときには、 価格競争とか、品質競争とか、そういう努力を始める前に、相手の「完璧」を、 「無難」へと変換する何かを作らなければいけないのだと思う。

チーズケーキを売る店

15ヶ月ぶりに休みが取れて、那須高原に遊びに行ってきた。

旅行には「お土産」がつきものなんだけれど、恐らくは「那須高原のお土産」という 業界をリードしているのは、「那須高原 チーズガーデン」というお店で、 ここで売られている「御用邸チーズケーキ」という商品が、ずいぶんたくさん売れていた。

ここのケーキには「御用邸」という、ちょっとした権威がくっついていて、商品はそれでも1000円ぐらい。 室温保存で日持ちがして、おまけに固めに焼かれているからなのか、少々乱暴に扱ったぐらいでは壊れない。

お土産物として、このケーキはすごく良くできていて、そのお店には実際、 ツアーのバスが何台もやってきては、お店の中には様々な商品が山と積まれて、 チーズケーキと一緒によく売れていた。

「安さ」では「良さ」に対抗できない

チーズガーデンの近くには、他にもたくさんのお菓子屋さんとか、土産物屋さんがあって、 そこでもいろんなお菓子が売られているんだけれど、どれも今ひとつぱっとしないというか、 トップランナーのお店に比べてしまうと、お客さんの入りは今ひとつだった。

店によっては、「チーズガーデン」よりも大きな敷地を持っていて、販売されているお菓子の種類も充実していた。 価格にしても、たぶん品質にしても、「チーズガーデン」とそんなに大差はないはずなのに、 たぶんそうした商品は、そのお店を運営している人が期待したほどには、頑張りに見合った分の 成果を上げていないように見えた。

「那須のお土産」という一つの業界があったとして、 業界を牽引するリーダーが「チーズガーデン」なら、たぶん2番手以降のお店は、 同じ方向で「より良い」だとか「より安い」を目指してはいけないのだと思った。

2番手がどう頑張っても、方向が同じなら、それは「劣化コピー」になってしまう。「お土産」という、 伝統とか、名声が圧倒的な差として効いてくる業界においては、わずかな差違は、 越えられない壁となって、2番手の努力を無にしてしまう。

「完璧」が犠牲にしているもの

チーズガーデンのチーズケーキは、伝統も、権威も、価格も、 可搬性も持ち合わせていて、お土産としての性能は、たぶん完璧に近い気がする。

「完璧な商品」に、安さや品揃えといった努力要素で対抗しようと思ったならば、 まずは「完璧な商品」が完璧であるがゆえに犠牲にしている何かを探して、 そこをひっくり返さない限り、その努力に意味が生まれない。

チーズガーデンのチーズケーキについては、これは完璧な商品で、すごい人気であるがゆえに、 在庫を欠かすことができない。材料が安定していないと、商品を大量に供給することができないから、 那須高原だけでは材料を安定調達するのは難しいみたいで、そこで扱っている他の商品になると、 「フランスのチーズ」だとか「イタリアのワイン」だとか、那須高原とはあんまり関係のない商品が並ぶ。

完璧な定番商品は、たぶん定番であり続けるために、安全係数が高く取ってある。商品の瑕疵は 許されないから、恐らくは保存料みたいなものを欠かすことはできないだろうし、商品としての安全性を 高めるための工夫は、必ずしもたぶん、お菓子としての「性能」を高めることにはつながらない。

「完璧」は「ピーク性能」という価値の前に「無難」になる

2番手のお店は、「材料はオール那須、保存料無添加、その代わり作れるかどうか分からない」ぐらいの、 「不安定なチーズケーキ」を売り出して、それをぶつける、というやりかたがいいと思う。

その商品は、朝の10時に予約が必要で、店はそれから材料の調達に走って、夕方4時頃、 1000個の注文に600個しか応えられないとか、最悪「牛の調子が悪くて、 今日は作れませんでした」なんて看板ぶら下げて、買いに来たら店主が土下座してたとか、 それぐらいに不安定な製品。

「買えるかどうか分からない不安定な製品」を用意できれば、運がよければたぶん、 「那須に来たらあの店で予約」という、人の流れが生まれる。

不安定だから、お客さんの数は少ないだろうし、あるいはチーズガーデンの商品のほうが、 価格でも、品質でも圧倒的に優れているのだろうけれど、「不安定」を買いそびれたお客さんにとっては、 完璧であったはずのチーズガーデンの製品は、もはや「無難」であり、「次善」に思えてしまう。

「完璧」を「無難」に書き換えることで、そこで初めて、価格競争だとか、 品質競争みたいな、努力要素に意味が生まれて、2番手以降のお店は、競争の入り口に立てるのだと思う。

それでもトップは努力している

で、「チーズガーデン」にはすでに、こういう商品があったりする。

「オール那須」でこそないみたいだけれど、冷凍前提、解凍すると3日しか持たない高級品を売っていて、 これは崩れるし、保存が利かないし、常温にすると溶けてしまうから、距離があると持ち帰れない。

リーダーがリーダーであり続けようとしたら、リーダーは常に自分の弱点を自ら攻めて、 業界全体に、自ら新しい価値を提案し続けないといけないけれど、「那須のお土産」業界は、 リーダーが正しくリーダーの役割を演じていているのに、セカンドグループ以降は、 まだ「競争」を行ってすらいないように見える。

このへんにマーケティングの人たちが入り込むと、きっとまだまだ盛り上がるだろうし、 競争しているように見えて、実は競争は、始まってもいない業界というのは、 案外多いんじゃないかと思う。

2009.08.08

見栄と嫉妬の行動学

経済学は、人の振る舞いを、「利得」と「リスク」とのバランスで説明しようとする。

「利得」とか「リスク」に対する感覚というのは、どちらかというと個人的なものであって、 ネットワークを作った人、「社会」の振る舞いは、しばしば「利得」と「リスク」では説明がつかない。

恐らくは「見栄」と「嫉妬」という判断軸を導入することで、ネットワーク化した人の群れに見られる、 「経済的に不合理な行動」というものが、説明できるような気がする。

個人に不利で、社会にとっては有益な振る舞い、しばしば「利他的」と表現されるこうした行動は、 「見栄」によって駆動されるものだろうし、社会にとって最悪な、しかも本人にとっても、 それが必ずしも個人の得にならない行動というのは、たぶん「嫉妬」によって駆動される。

「嫉妬する上司」問題

たぶん「部下に嫉妬する上司」というのがいる。こういう人たちはしばしば、自らの土台もろとも、 組織を潰してしまうような決断を下してしまう。

能力主義の組織においては、そこにいる人は、能力の限界まで出世することになる。 平社員の時には有能であった人物も、出世することによって、どこかで「無能な上司」となって、そこで出世が止まる。

「上に行けなくなった上司」というのは、その地位において無能になった人物だから、 その場所でたいした仕事ができるわけでもなく、かといって下には戻れない。 悪いことに、自分が有能であったその場所には、もっと優れた若手が座っていたりする。

こういう状況に陥った上司は、たぶん部下に嫉妬する。嫉妬という感情を認めてしまうと、 上司は自らが無能であること、後続の若手に「負けた」ことを認めてしまうことになる。 無能が嫌なら努力すればいいんだけれど、「努力」は同時に、「嫉妬」という感情の存在を 裏付けてしまうから、ジレンマに陥った上司は、だから「一発逆転」を狙う。

現場を回している部下が聞いたら鼻で笑うような、どうしようもない提案をするコンサルタントが、 たとえばカタカナ成分の多い、海外で評判とか、裏を返せば国内での評判は最悪の、 そんな提案を現場に持ち込む。

現場はもちろん猛反対して、上司もまた、その提案が荒唐無稽であることぐらいよく分かっているのだけれど、 現場の反対は、むしろ上司の背中を押して、コンサルタントの提案は、上司の支持を得て、現場に導入されてしまう。

嫉妬の脆弱性

競争に「負けた」人間には、もはや「信じる」ことでしか、状況を変えられない。

それがどれだけ荒唐無稽な提案であっても、有能な部下が「信じない」ものを「信じる」ことで、極めて低い確率ながら、 上司は努力を行うことなく、自らの嫉妬を認めることなく、嫉妬の対象たる部下を「逆転」できるかもしれないから。

特定の何かを見てるわけじゃないけれど、何となく、こういう傾向はいろんな場所にあって、 「会社」だけでなく「家族」だとか「クラス」だとか、たぶんいろんな組織が、「嫉妬する上司」という脆弱性を抱えているのだと思う。

なにかゴミみたいなプロダクトを、そんなものを必要としないような、安定した組織に売りつけようと思ったならば、 まずは「嫉妬する上司」にあたる立場の人を見つけ出して、その人に「逆転」の可能性を説くと、 きっと上手くいく。

認めると楽になる

「見栄」や「嫉妬」は可視化されないし、たいていは、それを抱いた本人も、 それを「ない」と否定する。

それを「ある」と認めたなら、たぶんその人は合理的に、肩の力を抜いて振る舞えるんだろうけれど、 それを認めたくないという思いが、嫉妬をして、見栄をして、極めて不合理な行動に、その人を駆り立てる。

恐らくはそうした感情を「ある」と表明してしまうことが、世の中を楽にやっていく秘訣みたいなものに つながるんだけれど、何かを「うらやましい」だなんて、嫉妬を表明できる人というのは、 あるいは相手にどこかで「勝って」いるからこそ、それが表明できるのかもしれない。

「妬んでも1人」、「嫉妬しても1人」という状況下で、どれだけ「嫉妬の表明」を行ったところで、 それはなんの解決にもならないから、「妬みの積極的表明」という行為は社会から全然自由になれていないし、 行為それ自体には、なんら治癒的効果はなくて、大事なのは行為でなくて、 そういう立場にいることのほうなのかもしれない。

嫉妬の行動学みたいなもの

「見栄」と「嫉妬」を上手につつくやりかたというのは、たぶん広告の人たちが詳しいんだろうけれど、 「嫉妬」という切り口で人の振る舞い、とくに社会化された人の振る舞いを見直すと、いろいろ 面白いような気がする。

某SNSで教えていただいた、「天皇制はトップに対する嫉妬を避けるための知恵だった」なんて 考えかただとか、「非上場のオーナー企業が案外強い」理由なんかもまた、 嫉妬が隠蔽されるような状況において、嫉妬を上手にコントロールする仕組みが要請された 結果として、特定の組織構造が生まれて、しばしば経済不合理に見えるそうした組織が、 歴史の重みによく耐えて安定していることを、上手に説明できるのかもしれない。

2009.06.12

足すこと引くこと

「その道具を定義する動作」というものがあって、そこに何か新しい動作を「足す」ことは難しいし、 そこから何かを「引く」、あるいは「隠す」と、今度はその道具が持つ意味が書き換えられてしまう。

足すのは難しい

大学に入っていた電子オーダリングシステムは、自分のID と、パスワードとを打ち込まないと、 PCが稼働しないようになっていた。これがものすごく面倒で、結果として、誰かがログインしたら、 そのIDをそのまんま使い回したり、ログインしたあと、「次に使う誰かのために」、 ログアウトしないでPCをそのまんま放置したりだとか、ルール違反が当たり前だった。

近所の病院に入っているシステムはもう少し上等で、職員はみんなカードを持っていて、 PC備え付けのカードリーダーにカードを通すと、そのPCにIDが認識される用になっている。 ID を打ち込むのに比べれば進歩したんだけれど、カードをリーダーに通す、その一手間がやっぱり面倒で、 状況はあんまり変わっていないんだという。

恐らくはPC という道具を定義する動作の中に、「ログイン」が組み込まれている人はUNIX 技術者ぐらいで、 大多数の素人は、PC をみて、そんな動作が想像できない。道具が定義する動作の中に、ログインが組み込まれていないから、 その一手間が面倒に感じて、守られない。

既存の動作をハックする

個人用途でPC を使うときには、PC の前に置かれた椅子に腰掛ければ、ユーザーはその瞬間から仕事ができる。 これが当たり前になってしまっている以上、ログインの操作をどれだけ洗練させたところで、 ルールを守ってもらうのは難しいのだろうと思う。

恐らくは「椅子に座る」「椅子から立つ」という、PC を取り巻く動作の中に、ログインとログアウトとを 組み込んでしまえたなら、ルールを意識しなくても、ルール違反をする人はいなくなるような気がする。

具体的には、自動車の「スマートキー」みたいなものを職員バッジに組み込んで、PCから50cm 以内に近づいた人を ログインユーザーと認識して、キーを持った人が近くからいなくなったら、自動的にログアウトするようなシステムが作れたら、 ログイン/ログアウトに関する問題は、きっと相当程度解決する。

PC ソフトだとか、あるいはインターネットを通じてお金を稼ぐ、ユーザーからお金を払ってもらうために、 いろんな会社が試行錯誤しているけれど、「これ」という解決策は、まだ見つかっていないような気がする。 これなんかもたぶん、PC という道具が定義する動作のなかに、「支払い」というコンポーネントが 存在しないからなんだろうと思う。

Apple が作ったiPhone は電話だし、Amazon の電子ブックリーダーは、全く新しい道具だけれど、 おそらくああいった新しい道具は、IT 企業の一種の敗北宣言みたいなもので、 その成り立ちの中に「支払い」という動作をあらかじめ組み込んでいないPC というデバイスに、 今から支払い機能を組み込むことは、Apple やAmazon でさえ、やっぱり難しかったんだろう。

引くと文化が変わる

補助金制度だとか、何かの理由で医療費が無償になると、人によっては、薬に対する態度みたいなものが大きく変わる。 もちろん全然変わらない人もいるんだけれど、変わる人は、外来3回ぐらいでがらっと変わる

無償になった人は、高価な薬を好むようになる。ジェネリック品というのは、たとえば薬のフォントがゴシック体であったり、 薬のパッケージが、色つきのアルミから無地になったり、どことなく値段が安く見えるんだけれど、そういう些細なことが、 無償ユーザーになった人には、我慢できなくなるらしい。

外来をやっていて、やっぱり不景気だから、普通にお金払って病院に来る人は、けっこう多くの人が、 「ジェネリック品にして下さい」なんて頼む。それなりに、この言葉は普及してるんだと思う。 無償ユーザーの人は逆行して、「このあいだ変えてもらった薬、なんか安っぽくて効かない気がするから、 前のに戻して下さい」とか頼まれる。

正規品を作っているメーカーは、安価なジェネリック品に対して「品質」で対抗しようとしているけれど、 それをきちんと理解して、それを感覚できるのは、むしろ支払いから自由になっている人のほうが多い気がする。 あれなんかを見てると、「お金を持っている人に品質を訴える」という、一見当たり前の広告戦略は、 どこか間違っているような気がする。

動作を見直して書き換える

たとえば「支払い」という機能を持たないPC という道具からお金を取るためには、電話線を供給している会社と、 銀行とが手を組むのが一番いいのだと思う。ブロードバンド時代、回線は月極で使いたい放題なのが当たり前で、 たぶんほとんどの家が銀行引き落としになっているのだろうけれど、銀行と、回線会社とが相互乗り入れして、 ネット世界での支払いを、全部自動で、支払いという行為と、マウスクリックとを直結するようにしたら、 ネット世界に流れ込むお金の総量は、ずいぶん増えると思う。

ソニーが今度出す、ダウンロード専用になったポータブルゲーム機というものがどうなるのか、 ゲームはしないんだけれど、あれは「ゲーム機」を取り巻く動作を大幅に書き換える試み。 ゲーム機には「ゲーム屋さんで買う」という、「小売り」と「支払い」という、それぞれ動作と機能とが 組み込まれていたのだけれど、ソニーの新しいゲーム機は、それをなくしてしまおうとしている。

それがiPhone なら、あれはあくまでも「電話機」だから、機械それ自体に支払い機能が組み込まれている (追記:iPhone の支払いは、あくまでもiTune 経由なのだそうです)けれど、 道具本来の機能を捨てて、そこに新しい支払い機能を組み込んで、ソニーという大メーカーなら、 道具が定義する本来の動作を書き換えることが可能なのかどうか、経過を追っかけると面白いと思う。

2008.12.20

サービスの考えかた

認知症の厳しい99歳のお年寄りが今入院していて、看護師さんがそのまんま、 「認知症が厳しくて大変です」なんてご家族にお話ししたら怒られて、 病棟で、「あの家族は厳しいから気をつけて」なんて申し送りしてた。

何かが間違ってると思った。

接遇向上のこと

看護師さん達は、「接遇向上」と称して、この数年、丁寧なしゃべりかただとか、 相手の目を見て、受容的な態度を取るだとか、サービスの向上を目指して、 医師なんかよりもよっぽど熱心に取り組んでる。熱心なんだけれど、どこかずれている。

「サービス」というもの、顧客に「理解」を販売する、医療みたいなサービスにおいては、 サービスの向上とは、すなわち印象から判断を削除して、事実をより分かりやすく、 予断を除いた形で提供することなのだと思う。

事実と判断とを峻別する

「その人が認知症であるか否か」をきちんと定義することなんて、そもそもできない。 極論すれば、あらゆる病気の診断は、「医師がそう判断したから」という以上の根拠を持てない。

熱を出した患者さんがいて、肺の中が喀痰と細菌で満たされているのが確認されても、 確実に断言できるのは、「発熱している」こと、せいぜい「肺の中に膿がある」ことぐらいで、 「肺炎である」というのは判断であって、断言できる事実にはなり得ない。

病名というのはだから、状況を判断する人の口から出るべきものだし、 「インフォームドコンセント」だとか、「病気を指揮するのは、サービスの受け手である患者さん自身である」 なんて立場を本気で貫こうと思ったならば、医療従事者の口からは、「病名」を出してはいけない。

判断はサービスに貢献しない

医療者が提供する「判断」というものは、恐らくはサービスに貢献しない。

医療従事者は、患者さんの目の前に事実を積む。患者さんはそれを見て、何かの判断を下して、 病衣はそれに従って動く。これが行われてはじめて、健全な主従関係が、 「従僕としての医療者」という、絵に描いた理念が実体化する。

「診断」のような、医療者側の判断を含んだ言葉は、本来はたぶん、 「事実の詰みかた」を工夫する形で、患者さんとの会話から回避されないといけないし、 そうした工夫を考えることが、医療従事者にとっての「サービス向上」なんだろうと思う。

99歳の、くだんの患者さんにしてみれば、一晩に6回以上点滴引き抜くだとか、 便こねした手を口に入れようとするとか、一晩中叫び通しで一睡もしないとか、 それは疑いようもない、看護師さんが観測した事実。

事実を重ねて、患者さんのご家族に「じゃあ、どうする」を考えてもらうのが筋であって、 「この人は認知症だから、そういう対応をします」をこちらからやると、 それをどれだけ丁寧な言葉で飾ったところで、やっぱりご家族は不快に感じる。

クソの山にバケツいっぱいの香水を振りかけたところで、それは「いい匂いのするクソ」にしかなれない。

「香水」を工夫しちゃいけないのだと思う。

2008.12.03

寄付の依頼が来た

なんかいろんな人の不興を買ったみたいなので、この記事は消します。

ミスリードばっかりの記事を配信して、どうも大変申し訳ありませんでした。。。。。

2008.10.29

「勝つ予感」はデザインされる

恐らくは「名将」なんて持ち上げられるような人というのは、あとから冷静に振り返ってみると、 案外「ショボい」勝利しか上げていないような気がする。

「名将」はその代わり、大きすぎる問題を切り分けることが上手で、「小さく解決する」やりかたをデザインして、 現場から「勝つ予感」を引き出すことが上手で、もうひとつ、そうして得られた小さな勝利を運用して、 それを大きな戦果に結びつけるのが上手なのだと思う。

えらい人が指揮する部隊は怖い

墨東病院が大騒ぎになっている。

人手が絶対的に足りなくて、結果的に患者さんが一人亡くなった。都知事と厚生大臣と、 日本を代表するような大物が二人、病院を舞台に喧嘩を始めた。すごくよくないことだと思う。

どちらが勝つにしても、喧嘩の舞台になった病院は、これから先は、 大物自らが指揮を執ることになる。

ふがいない。俺様自ら戦闘というものを教えてやる」なんて、 現場を知らない大将軍が指揮したぶたいは、たいてい悲惨な結末を迎える。

大将軍はどうせ間違えるし、絶対に退却を許さない。一番えらい人が間違えるなんてありえないから、 代償軍はたぶん、敗北を認めるぐらいなら、現場に玉砕を命じる。屍の山を前にして、 大将軍は「やれるだけのことはやった」なんて独りごちて、自分は安全地帯に引き上げる。

厚生大臣と都知事と、現場を知らないことではいい勝負の、「大将軍」争う場所には、だから誰だって居たくない。 大学だって恐くて人を出せないだろうし、フリーランスの人達だって、寄りつかない。

あの病院にはだから、これから人が増えて盛り上がるとか、ちょっと想像しにくい。

「大将軍」がそこにいる限り、なんというか現場には、「勝つ予感」みたいなものが、全くしてこないから。

なんとなく「インパール作戦」の状況に似ている気がする。

負け戦になるのが見えていて、現場はみんな反対したのに、 「失敗したら腹を切る」だとか、気合いの入った将軍が指揮を執って、 結果として何万人もの日本兵が餓死した戦い。

戦いの途中で糧食はつきて、現場は何度も撤退の伺いを立てたけれど、 将軍はそれを許してくれなかったのだという。

墨東病院は都立だ。都立の医師は、食わず、眠らず、人がいなくても患者を取るもんだ。それが都立だ。 それを泣き事言ってくるとは何事だ。 人がいなくても手を増やせ。手がなくなったら足で働け。 足がだめなら頭を使え。都立病院には大和魂があるということを忘れちゃいかん。東京は首都である……

最後はたぶん、こんな訓辞を「将軍」が述べる中、寝不足の現場からは、人がいなくなってしまうんだろう。

予感はデザインされる

太平洋戦争直前、黒部渓谷第3 ダムのトンネル掘りに携わっていた現場の人達は、 摂氏150度にも熱せられた岩盤にぶつかって、非常な苦労をしたんだという。

これぐらいの温度だと、運が悪いと「発破」は自然爆発してしまって、 何百人もの職人が犠牲になって、現場の工事は動かなくなった。

技術者の人があれこれ工夫しても、現場は納得しなかったけれど、工事長がダイナマイト3 本を竹で束ねて、 束ねたダイナマイトごと製氷機で凍らす、「アイスキャンデー作戦」を提案して、 自らその「アイスキャンデー」で岩盤を爆破して見せたら、現場の職人も納得して、工事は再開したんだという。

武器というものは、持ったときに「当たる予感」がするようにデザインされていないと当たらない。

設計者がどれだけの性能を主張しようと、そのデザインが兵士に「当たる予感」をもたらさないのなら、 武器を手にした兵士が、「当てる自分」をその武器から想起できないのなら、その武器はやっぱり当たらない。

交渉の名人は、たぶん無理しない。

価格交渉ならそんなに値切らないし、身代金交渉なら、たぶん親族が払える最大値で妥協する。 彼らがつかむ勝利は常に「小さい」けれど、交渉の名人はその代わり、交渉で得られたごくわずかな勝利を、 最大の戦果として喧伝する。

名人は、あとから冷静に振り返ると、意外にショボい交渉しかしない。そのことは名人自身も理解していて、 だからこそ名人の交渉は常に成功するから、名人が現場に来ると、そこにいる人達は、勝利を予感して、 名人はまた、小さな勝利を一つ重ねる。

ニュースでは、病院間を結びつけるネットワークシステムの不備に問題意識を感じているとか、 偉い人達がコメントしていた。恐らくはこれから、けっこうなお金が投入されて、 「ネットワークシステム」が完備されて、「これで理論上、現場はもっと効率よく回る」なんて 流れになる。

改良された病院間ネットワークは、あるいは本当に、問題を解決するだけの性能を 持っているのかもしれないけれど、やっぱりそれは動かないと思う。

「ネットワーク」というアイデアを聞いても、なんというか、そこからは全然、「それを使って勝つ自分」 が想像できないから。

「勝利をデザインするセンス」みたいなものが大切なのだと思う。

士気というもは、設計上の性能だとか、投じられたお金や政治的努力の量ではなくて、 むしろ視覚的な、感覚的な、「デザイン」に相当するものが分かりやすく示されて、初めて発生する。

「士気を出せ」だとか、「現場がだらしない」なんて怒鳴る指揮官は、それは「勝利のデザイン」に 失敗していて、それを意識できない人というのは、たぶんどれだけの資材を現場に投じても、 現場を動かすことができないのだと思う。

2008.08.30

形が機能を支配する

形が機能を支配する

待合室に座っている患者さん達が、携帯ゲーム機で遊んでた。

大人も子供も、イヤホンつけて、膝の上にゲーム機抱えて、みんな同じ格好をしてた。

そこで行われているのはゲームだけれど、ある意味その姿は、未来の風景の先取りなんだと思った。

形から入るやりかた

何か新しい物を広めようと考えたときに、「形から入る」やりかたのほうが、正解に近いのだと思う。

機能は十分だけれど不格好な製品をまず出して、それを改良するやりかたと、 機能はまだ不完全もいいところだけれど、形だけは、デザイナーが描いた「未来」になっている製品をまず作り上げて、 機能はあとから作り込んでいくやりかたとがある。

技術者のコミュニティに受け入れられて、新製品に最初に飛びつく人達が未来を感じるのは、 たぶん十分な機能が実装された不格好な製品なんだろうけれど、最終的に広まって、 未来の日常の中で、風景として認知されるのは、たぶん形から入った製品になるような気がする。

携帯電話のご先祖は、自動車電話だった。

高価だった自動車電話は、そのうち改良されて小さくなって、今では誰もが携帯電話を持ち歩く。

技術的には、携帯電話は車載電話の延長線上にある製品だけれど、文化的には、 携帯電話と車載電話とは、どこかで断絶があるような気がしている。

車載電話は、固定電話に移動という機能を付加した。車載電話は、持ち運べる家である「自動車」 に備え付けられた固定電話だから、技術的にも文化的にも、固定電話と車載電話は間違いなく 地続きのものだけれど、携帯電話の文化的なルーツとなったのは電話機ではなくて、 むしろ子供の頃に遊んだおもちゃのトランシーバーだとか、特撮ヒーローが使っていた無線機だとか、 そんな「風景」なのだと思う。自宅の電話機も、電話ボックスも、自動車電話も、 電話という風景は、本来「部屋」とは不可分なものだから。

組み込まれた動作セット

このあたり完全に妄想だけれど、自動車電話が小型化されて、携帯電話が一気に広まった理由というのは、 恐らくは料金プランだとか、生活スタイルの変化だとか、そんな分かりやすい理由とは別に、 「街で無線を使って会話する」動作セットが、たぶん70年代生まれ以後の人達には、 様々な物語、ウルトラマンだとか、宇宙戦艦ヤマトみたいなものを通じて、 最初から組み込まれていたからなのだと思う。

病院の待合室では、待っている間、子供は誰でも携帯ゲームで遊ぶ。 あれはたしかに、まだ単なるゲームでしかないけれど、「液晶画面がくっついた道具を片手に持ち歩いて、 それで何かする」、そんな動作セットは、彼らが大人になっても、変わらずにそのまま残る。

iPhone みたいな携帯情報端末は、いずれどこかで急速な普及をするだろうけれど、 それもまた、恐らくは技術者の努力だとか、画期的なコストダウンだとか、機能的な理由とは別に、 ある文化が日常の風景として一般的になるタイミングというのがどこかにある。携帯ゲームは、 たぶんそんな新しい風景を受け入れるための動作セットを作り出している。

iPhone を今利用している人達は、あのデバイスの「新しさ」が面白いという。

新しさというのは意識に対する違和感で、意識というものは、 生まれてから今までに蓄積されてきた、動作セットの蓄積だから、iPhone はたしかに新しいのだろうけれど、 あのデバイスはまだ新しすぎて、日常の風景として、あれを受け入れた人は少ないのだと思う。

何か日常で使うものを広めるときには、それを使う人に、驚きを与えてはいけない。新しさとか、 驚きという価値軸は、遊びとか、ゲームをするための道具にあるべきもので、日常で使うものに 新しさを付加する考えかたは、どこか違う。「新しい」道具は、機能が好きな人には受けるかもしれないけれど、 形から入る人、「キャズム」を越えた先にいる、本来その道具を大量に使うであろう多くの人には、 その新しさが足かせになるような気がする。

たとえば人型のロボットがいたとして、それが人のように振る舞うのを見ても、違和感を感じる人は、たぶん少ない。 「家事ロボット」みたいなものが将来発売されるとしたら、たとえ機能的に必要なくても、 張りぼてであっても「頭」を作ったほうが、そのロボットの普及はきっと速いはず。

形が機能を支配する

ダイナブックの発想、最初に形を決めて、それを使っている人の風景を描いて見せて、 まずはイメージから、風景から、形から入るやりかたというものは大切なんだと思う。

何かを本格的に普及させようと思ったら、だから「それがある風景」をまず浸透させるやりかた、 イメージボードや小説、映画みたいな物語を使って、まず形から入るやりかただとか、 「今ある風景」を見直して、そこにある動作セットを「ハック」して、何気ない日常の動作に、 新しい意味を付加するやりかたというのが、本来正しいのだと思う。

chumbyみたいな、 「画面がついた目覚まし時計」というやりかたは、だから未来があるような気がする。 お布団に寝っ転がって、目覚ましの文字盤みながらボタンを押すのは、日常の動作として、 多くの人に組み込まれているものだから。

文字盤が液晶画面に変わって、目覚まし時計を止めるためのボタンを「クリック」するたびに 画面が変わって、将来的にはたとえば、その目覚ましに携帯電話回線が組み込まれて、 ボタンをクリックするたびに、なにか有料のサービスにつながったりする。地味だけれど、 「目覚まし時計のボタンを押す」のはみんなの基本動作だから、「クリック」が積み上がると、 馬鹿に出来ないような気がする。

見やすい画面だとか、コンテンツの工夫を通じて「クリック」してもらうことを考えるのでなくて、 日常生活の動作セットを見直して、「ボタンを押す」風景を、別の機能で乗っ取るような考えかた。

変革というものは、形から始まる。

それがあることで、今より圧倒的にすばらしい生活の風景を物語るやりかた。あるいは、 今ある風景を「ハック」して、同じ動作に、全く違った意味とか機能を忍ばせるやりかた。

歯ブラシとかトイレットペーパー、洗面台の内側、目覚まし時計、冷蔵庫、 今ある風景の「いつもの動作」を見直して、それがいつから日常としてすり込まれたのか、 同じ動作セットを使うことでそこにどんな意味を割り込ませることが出来るのか、 部屋を眺めれば、たぶん何か見えてくる。

2008.08.21

文化は誰のものか

医師がまだ「プロ」として認知されてた大昔、自分たちは病院内で自由に振る舞って、 患者さんは慎み深く、トラブルなんてなかった。

技術だとか、知識だとか、彼我の差は圧倒的で、だから病院は聖域であり得たし、 トラブルが起きたところで、もしかしたらたぶん、患者さんには、それがトラブルであると認識出来なかった。

時代は進んで、いろんなことがやりにくくなった。

患者さんの突っ込みは厳しいし、「自由に振る舞う」なんてとんでもないし、 どんなトラブルも、それが起きたその時点で、そこにいる全ての人が、 「トラブルである」と認知するようになった。

時計の針を逆に回すやりかた。

知識は追いつかれる

「知」というのは、それが知であるためには記述可能で、再現可能でないといけない。

知識は広まって、模倣されて、広まるが故に、いつかありきたりになって、追いつかれる。

進歩のスピードは、維持できない。

自分が医師になって10年ちょっと、当時流通していた薬は、今でも全て現役で、 この10年間、「新薬」として発売された多くの薬は、明日からなくなっても、あんまり困らない。

要素技術のほとんどは、自分たちの手を離れてしまった。「画期的な新薬」は、 それを開発するのも、販売するのも、検証するのも、基本的には全部薬屋さんの仕事。 人工呼吸器の設定だとか、追加機能だとか、自分たちが「こうしてほしい」なんて要望上げても、 それを取捨選択して、実装するのはメーカーの人達。

医師自身が試験管振るって新薬作ったり、人工呼吸器試作したのは、もう何十年も昔。 医師はたしかに「えらい」けれど、権威は拡散して、要素技術は他人のものになった。

医師は薬に詳しいけれど、薬学の人とか、生化学の人とか、もちろん医師よりももっと詳しい。 医師は安全を重んじるけれど、工場のラインを設計している人が病院をみると、 あまりのずさんさに卒倒しそうになるらしい。

権威を知識量に求める今までのやりかたでは、もはや現場を守っていけない。

先駆者の優位は「逸脱」できること

マーケットを支配していた先駆者は、知識それ自体に頼っているだけでは市場を牽引できない。 先駆者はそのうち追いつかれて、価格競争や品質競争に巻き込まれて、 競合者に打ち倒されてしまう。

技術を伸ばすには限界がある。マーケットを支配することが出来た人は、だから今度は、 自ら築いてきたマーケットそれ自体を攻撃することで、自らルールを逸脱して、 競合者との距離をとる。

例えば自動車の技術は模倣可能で、競合者を生む。地上で初めて自動車を走らせた会社は、 たしかにすごい技術を持っているけれど、商品は、発売されたその時点で解析されて、 新規性を失ってしまう。

デザインやスピードの競争、価格の競争は不毛で、どこかで競合者に追いつかれる。 「我が社には技術があるから」なんて思考停止するのは悪手であって、時には先行メーカーが敗北して、 マーケットを競合者に奪われる。「我が社」の本当の強みというのは、道に車を走らせたことそれ自体なのに

先行メーカーは、自らのマーケットを攻撃することで、こうした不毛な競争を避けることが出来る。

「自動車は資源の無駄遣い」だとか、「自動車こそは環境破壊の元凶」だとか。

こんな広告は、競合者にも、もちろん先駆者自身にも不利に働くけれど、「攻撃」のタイミングも、 その攻撃対象も、先行メーカーは全て自分たちで決められる。攻撃者は、自分自身なのだから。 「攻撃」を行うその前に、先行メーカーは燃費のいい車だとか、環境に優しい材料で作った車だとか、 十分な備えを行うことが出来る。競合者は攻撃を読めないから、優位はいつまでも揺らがない。

録音するといいと思う

医師にはもはや、「技術的な優位」なんて残っていない。

あらゆる要素技術がメーカー開発になっている現在、医師が提供しているものは、 要素を集めたパッケージであって、パッケージを作るためには、複雑な知識は必要ない。 免許があるから「競合」は発生しないけれど、権威はもはやそこにない。

病院の中に入ったら紳士的に、医師を気遣うよき患者でいましょう」なんて貼り紙を貼ったところで、 もちろん何も変わらない。

もともと紳士的だった人は、貼り紙読んで「馬鹿にするな」と怒るだろうし、 紳士から遠い人もまた、貼り紙読んで大笑いして、やっぱり何も変わらない。 「自由な医師と、紳士的な患者」なんて、良かった昔を再現しようと思ったならば、 それを目標にするのではなくて、ルールを変えればいい。

ただ一言「この施設内での会話は全て録音されています」とアナウンスするだけで、 「よかった昔」は、たぶんすぐに再現できる。安全性向上のためだとか、お互いの正確な意思疎通のためだとか、 「録音」を行う理由はいくらでもある。今の時点でも、病院にはあらゆるベッド、あらゆる外来にマイクがあるから、 設備はすでに整っていたりする。

今も昔も紳士的であった人は、録音の有無で振る舞いを変える必要はないはずだし、 酔っぱらって絡む人とか、理不尽なクレームつけてくる人だとか、「録音してます」なんて 貼り紙読んだら、たぶん不自然な気遣いを始めてみたり、墓穴掘って翌日後悔したり、 いずれにしても、状況は望ましい方向に変化する。

録音は公平。一部の患者さんは、もちろん録音ルールで不利益を受けるけれど、 それは我々だって一緒。病院内の全ての場所で録音が始まれば、もちろん患者さんの悪口だとか、 陰口だとか、それらも全て録音されて、請求があれば公開される。

ルールというのは、公平でシンプルであればあるほど、お互いの能力差が、決定的な差として露呈する。

医師だってだから、録音ルールに耐えられない人は淘汰されてしまうけれど、我々はルールを作る側。 「録音されている環境」は、練習して適応することが出来る。医療従事者は、 録音環境におかれてもなお、自由に振る舞うやりかたを身につけることができるはず。

とりあえず裁判は一段落したけれど、それでもなお、「だから全ての医療行為について免責せよ」は、 やっぱり通らない。むしろ「新しい環境で、お互いを健全に縛りましょうよ」のほうが正しい。

文化は誰のものか

医療の業界には、「安全」だとか「丁寧さ」なんかが求められるようになった。

安全性高めるために、航空会社の偉い人が大学に天下ったり、「接客マナーを向上しましょう」なんて、 ホテルの接遇コンサルタントが講習会開いてみたり。

「安全」も、「丁寧」も、本来は医療のものなのに、病院には、医療以外の「専門家」が 大挙して、自分たちの文化を病院に持ち込もうとする。航空業界も、ホテル業界も、 たしかに「安全」「丁寧」のプロかもしれないけれど、背負ってる文化はやっぱり違う。 うち業界だって、そんなもの突っぱねればいいのに、偉い人達は、 どうしてだかそんな異文化を、ありがたく、無批判に受け入れる。

「録音環境」が出来たとして、そんな場所での振る舞いかたには、航空業界とか、ホテル業界の ノウハウは役に立たない。文化的な接点求めるなら、そんな空間は、むしろネット世間に似ている。

無難なことばっかりしゃべってもアクセス増えないし、いいかげんなこと口走ったり、 事実と判断との切り分けをきちんと出来ないと、そこを突っ込まれて炎上する。

ある程度の面白さ、わかりやすさを維持しつつ、ひどい「炎上」を回避しながら、 なおも病院に立ち続けるやりかた。そんなノウハウを蓄積することは可能だし、 その方向に舵切ることで、この業界の文化はまた、医療従事者の手に戻ってくる。

業界が奉じる価値観、文化のコンセプトそのものを変えることは、 最大手か最古参だけに許された特権。

文化というのは、他の業界が立ち入る場所ではないはず。

病院が、自ら文化を背負う存在であり続けるために、自らに攻撃を仕掛けるやりかた、 医師自身が、今いる場所をより厳しく、より厳密な振るまいが求められるようなルールを作っていかないと、 文化の担い手としての医師の居場所は、病院から無くなってしまう気がする。

2008.08.07

弔辞の比較

赤塚不二夫 氏の葬儀で、タモリが読んだ弔辞の比較。たぶんそこに集まった記者の人が聞き書きしたものだけれど、 新聞社ごとの立ち位置とか、葬儀に集まった人に対する考えかただとか、いろいろ邪推できて面白い。

比較したのは朝日新聞と、産経新聞。産経新聞のほうが文字数が多いから、 たぶん産経新聞のほうがオリジナルに近くて、朝日新聞は、それに編集を加えた印象。

朝日新聞のタモリは、亡くなった赤塚に語りかけるというか、どこか客観的な、 何だか卒業式で生徒を送り出すときの「教師」のような口調。

産経のタモリは、 訥々とした話しかたで、葬儀に集まった人達に、師匠としての赤塚を紹介する「弟子」のような、 そんなイメージを持った。

以下比較。

  • 産経「我々の世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代」
  • 朝日はこの言葉を省略している

冒頭の文章。

  • 産経「あなたは突然私の目の前に…」
  • 朝日「あなたは突然目の前に」

以後、産経のタモリは、ほとんど段落ごとに「私の」と入れるけれど、朝日は全て削っていた。 産経のタモリは、個人的な体験を語っているように響いて、朝日のタモリは、どこか教科書を書いているかのような印象。

  • 産経「私のマンションにいろ、とこう言いました」
  • 朝日「私のマンションにいろ」

上京したタモリを、赤塚が自分のマンションを提供して、そのまま引き留めたエピソード。 朝日のほうが臨場感があるというか、どこか脚本っぽい、時制を省いた書きかた。

  • 産経「大きな決断を、この人はこの場でしたのです」
  • 朝日の記事では「この人は」が省略されている

昔の回想。

  • 産経「深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました」
  • 朝日「いろんなネタを作りながら教えを受けました」

赤塚への言葉。

  • 産経「あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として残っています」
  • 朝日「あなたが言ってくれたことは金言として心の中に残っています」

「どんちゃん騒ぎ」と「あなた」は、朝日的には何か汚らしいイメージがあったのかな、とか邪推する。 文章の通りはたしかに朝日のほうがいいんだけれど、やっぱり朝日は、個人的に聞こえるところを省こうとしている気がする。

絶対にツモでしか上がらなかった、赤塚の麻雀作法について。

  • 産経「相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて…」
  • 朝日「相手の機嫌を悪くするのを恐れて」

麻雀のルールを知らない人にも、赤塚のよさを伝えたい、というタモリの気持ち。産経はそのあたり 全部記述しているけれど、朝日は削除。朝日のほうがきれいだけれど、何だか生前の赤塚不二夫が、 どこか計算高い人物のようにも聞こえる。

  • 産経「あなたは私の父のようであり(中略)時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は」
  • 朝日「あなたは父のようであり(中略)時折見せる無邪気な笑顔は」

朝日は形容詞を端折る。

このあとに、産経の弔辞には、タコ八郎の葬儀のエピソードが入る。赤塚不二夫の泣き笑い顔を、 タモリが細かく描写した場面。朝日は全てカットした。

  • 産経「あなたの考えは、全ての出来事、存在を、あるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです」
  • 朝日「あなたの考えは、全ての出来事を前向きに肯定し受け入れました」

産経のタモリは、師匠としての赤塚を描写して、赤塚に「正解」を問うているように聞こえる。朝日のタモリは、 「あなたはこうだった」と、むしろ赤塚に対して「正解」を授けているように聞こえる。記者の聞き書きだろうけれど、 赤塚とタモリとの関係を、聞いた記者がそれぞれどう思って聞いているのか、邪推できそうで興味深い。

最後に一緒に旅行したときの回想。

  • 産経は「お互いの労をねぎらっているようで」
  • 朝日は「お互いに労をねぎらっているようで」

「の」と「に」のひらがな1 文字の違いにしか過ぎないけれど、。産経の赤塚は師匠。 朝日の赤塚は、どこかタモリの「生徒」っぽい。

産経版のタモリは、段落の多くに「私は」「私に」という言葉をつける。 朝日新聞のタモリは、その言葉がすべて省かれていて、そのほうが、いかにもプロが書いたような、 それこそ「天声人語」みたいな文章になるけれど、どこか他人事みたいな響きがつく。

「こう思っている」主体がたとえ自分であっても、「私は」を繰り返していくと、文章が素人っぽくなる。 それを省いて、個人の判断なのか、それとも一般常識として認知されていることなのか、そのあたりをあいまいにしていくと、 文章の流れはよくなるんだけれど、「私は」みたいな言葉を省けば省くほど、事実と判断との切り分けがあいまいになって、 文章にはどこか、上から目線っぽい、当事者らしくないような臭いがつく。

個人で文章を書いていて、「私」の扱いはいつも悩むんだけれど、朝日の記者は吹っ切れていて、 「きれいさ」優先で、タモリの気持ちとか、赤塚とタモリとの関係だとか、後回しになっている気がする。

タモリが読んだ弔辞は、白紙だったらしい。

弔辞の言葉は、ただか書かれたものを読んだのではなくて、タモリがその場で考えたのか、 あるいは書かれたものを記憶したものなのか、いずれにしても、文章化されたオリジナルは存在しないみたい。

本当に文章が存在しないのか、どうして白紙を読んだのか、その時どんな思いだったのか、 語られることはきっとないんだろうけれど、聞いてみたいなと思った。

2008.07.24

「医学的」は案外狭い

年次が上がるにつれて、当直とか徹夜とか、だんだん辛くなってきて、 「深く眠る」、ただそれだけのことが、今はすごく切実。

求めるものはみんな一緒。上の先生がたは、エルゴフレックス という寝具を使ってて、けっこう調子がいいらしい。

マットレスと敷き布団と、セットで20万円以上する代物だけれど、お店で寝かせてもらうと、 体が空中に浮かんでるような気がして、たしかに気持ちよく眠れそう。

お店の人には、「気持ちがいいだけじゃなくて、背筋がまっすぐになって、医学的にもいい効果があるんです」なんて 勧められた。いちいち「医者です」なんて断らないけれど、医学的かどうかぐらい、自分たちに決めさせてほしいなと思った。

「背筋まっすぐ」は医学じゃない

「気持ちがいい」は医学じゃないし、「背筋がまっすぐ」もまた、医学じゃない。

背筋が曲がった状態は、医学的に見て、たしかに正常ではないけれど、 ならば背筋がまっすぐな状態が、「健康を生む」ことにつながるのかどうか、 たぶん医学的な検証は為されていない。

自分たちの学問は、あくまでも「病気」になった人達を対象にするものだから、 病気じゃない人の「医学的にかくあるべき正しい姿」みたいなものは、定義ができない。

医学的な「健康」というのは、単純に「医師の出番がない状態」ではあるけれど、 その状態を維持するために、じゃあ健康な人は何を目標にすればいいのか、 自分たちの学問は、そんな目標をしばしば提示できない。

気持ちよく眠れる寝具「エルゴフレックス」が目指しているのは、背筋がまっすぐな寝姿。

お布団の構造は、科学的に考えられていて、恐らくはその効果の検証も、ある程度科学的に行われ ている印象。構造も機能も、「科学っぽい」のだけれど、科学的なやりかたで達成された「背筋まっすぐ」が、 果たして「いい眠り」とか、究極的には「健康な生活」につながるものなのか、その検証が為されていない以上、 この寝具が「医学的に正しい」とは言えない。

集中治療室で使われるのは、「熱傷ベッド」であったり、「絶対に褥瘡ができないエアマット」であったり。

買えば数百万円オーダーのこうした医療器具が目指しているのは、体にかかる圧力が 均一であること。医学的に目標が定められて、それを達成するための構造が、科学のやりかたで考えられて、 その効果も医学的に検証されたから、これはたしかに「医学的に正しいベッド」であるけれど、 目標にしてるのは「体圧均一」であって、「いい眠り」は管轄外。

こういうベッドはそもそも意識のない人を対象にしてるから、実際寝ても、あんまり気持ちよく眠れない。

医学的なるもの

カイロプラティックだとか、整体の人達は、「姿勢の悪さ、あるいは骨の歪みが病気を作る」という前提から出発する。

何か症状を抱えた人が来る。骨の歪みが検証される。歪みが発見されて、それが矯正されて、症状は「解決」する。

整体の人達も解剖を知っているし、骨のずれとか歪みを検証するやりかた、 それを矯正するやりかた、それぞれはたぶん、きちんとした科学的な裏付けが 為されているのだろうけれど、一番最初の前提部分、「症状の原因は姿勢の悪さであって、 それを矯正することで、その人は健康になる」という考えかたについては、 恐らくは科学的な検証が行われていない。

それを「医学的に」証明するためには、姿勢が悪い人と、そうでない人、他の病気の合併率とか年齢性別、 生活習慣なんかを一致させたグループを用意して、お互いのグループを、できれば10年ぐらい追っかけて、 死亡率とか罹患率がどう変わるのか、あるいは悪い姿勢を「正しく」矯正したとして、 そのことが果たして何もしなかった群と比べて、何か「健康」を生み出しているのか、 それを検証しないといけない。すごく大がかりな調査になるし、いろんな要素が結果を左右するだろうから、 「歪みをただすことが健康を生む」という考えかたは、たぶん医学的な正しさを獲得できない。

医学の正しさというのは、だから「医師が必要ない状態」、あるいは「診断可能な病気がない状態」とまでしか 定義できなくて、「これ」という目標を示せるケースは少ない。「病気でない」人に対しては、医学はだから案外無力。

正しさを追求して魔界に踏み込む

「正しい栄養」なんかは、定義不可能な魔界の学問。

病院で使っている経腸栄養剤は、大手の製薬メーカーが開発していて、成分だとか、効果の評価だとか、 医師だとか栄養士が何人も関わっているはずだけれど、大手メーカーが作っている栄養製剤には、 なぜか「コエンザイムQ10」が添加されていたりする。

ペットフードもまた、最近はいろいろと研究されたものが市販されて面白い。

新しいフードを開発した人のお話を読むと、みんなずいぶん苦労している。 市販のフードに不満を持って、「理想の栄養」求めて資料探して、案の定、「ペットの理想の栄養」もまた、 獣医学はきちんとした定義を出していないから、人間の栄養学を参考にしながら、試行錯誤を繰り返したのだと。

まじめそうな人が、きちんとした科学的な裏付けのあるフードを作ろうと努力して、 「やっと理想のフードができました」なんて発売された製品には、やっぱりなぜか「アガリクス粉末」が添加されてた。

寝具の領域だと、「トルマリン」だとか「遠赤外線」あたりが危険。構造的によく考えられてる寝具なのに、 なぜだかだめ押しに「トルマリン配合」だとか、「遠赤外線効果」だとか。あるいはエコロジー。 気持ちよく寝たいだけなのに、「地球に優しい素材」とか正直どうでもいいのに。

今回見せていただいた寝具には、そんな魔界ワードがなくて一安心したけれど、 案内して下さったお店の人は、最後に「金属が一切使われていませんから、電磁波被害も安心です」なんて。

健康はドーナツの中心部分

医学にとっての健康とは、ちょうど「ドーナツの中心」みたいなもので、そこにはそもそも医師の居場所はないし、 これからもたぶん、医療は「健康」を定義できない。

「健康」は、だから地図のない、またどこか中心を目指す必要のない場所なんだけれど、 健康を「追求」したいと思ったその時点で、その場所は魔界に変貌して、誰もが納得できるような「中心」は、 やっぱりどこにも見つからない。

靴とか寝具、椅子のデザイン、栄養だとか、生活習慣、運動のやりかた、健康食品。 何となく医療っぽい、でも今のところそこに医師がいない分野は、「健康」の周辺にはたくさんあって、 「医学の言葉で健康を語る」ことが実現されると、この分野には医師免許持った人間の千年王国が築けるぐらいに 広大な経済圏が広がっている。

えらい人の言葉一つで、広大なマーケットを医師が独占できるのに、 この分野は、キノコや水売る人だとか、整体だとかカイロプラティックだとか、医療じゃない人達にやられっぱなし。

医師本来のすみかがだんだんと不景気になって、これから先、「ドーナツの中心」目指して、 食い詰た医師が大挙する流れが生まれると思う。「よく眠れる寝具」とか、 あるいは医学的に検証が為されたものが発売されるかもしれないけれど、 今度はもしかしたら、「厳密な科学」としての医療は、どこか終わるような気もする。

2008.05.16

「絶対効かない薬」はよく売れる

一番いいのは「必ず効く薬」だけれど、「絶対に効果のない薬」にも、たぶんそれなりの使いようがある。

効くのか効かないのかはっきりしない薬であったり、たいてい効くけれど、 時々効かない薬というのは、たとえ高い効果が期待できても、 「大事なお客さん」には怖すぎて、勧められない。

「うまい話」で失われるもの

学生の頃、中古車売買に詳しい人と知りあいになった。友達に、たまたま安い車を探している男がいたから紹介して、 なんだかいい車を安く紹介してもらえたとかで、喜ばれた。

友達の友達がそれ聞いて、「自分にも紹介してくれ」なんて頼まれて、また紹介した。

今度紹介された車は、どうも気に入られなかったみたいで、「友達の友達」の両親から、 うちの実家に連絡が入った。「おまえの息子は詐欺師か何かか !」なんて母親が怒鳴られて、 自分も同様に、母からえらく怒られた。

友達と、友達の友達と。「うまい話」を紹介して、全部失った。

高信頼クラスタのこと

医局のコミュニティとか、あるいはたぶん、資産をたくさん持っている 人達のコミュニティなんかでは、「うまい話」が広まらない。

「うまい話」それ自体は、たぶん多かれ少なかれ、誰もが持ってる。 「節税のためにマンション買いませんか?」なんて電話はうちみたいな田舎の病院にだって 毎週のようにかかってくるし、古い開業医の先生方とか、昔からの町の体制に がっちり組み込まれてるから、表も裏も知り尽くしてるような人もたくさんいるし。

みんな多少なりとも資産を持っていて、お互いの社会的なバックグラウンドとか、 それなりに信頼できる者同士だからこそ、「うまい話」を紹介するのには抵抗がある。

たとえそれが本当に「うまい話」であったところで、医師の世間なんてすごく小さいから、 お互いの距離が今まで以上に密になるメリットなんて、ちょっと想像できない。 その一方で、「うまい話」と紹介した何かが、 その人にとって「うまくない」結果になったとき、失うものはあまりにも大きい。

お互いのつながりが緊密なコミュニティでは、「うまい話」を紹介することで得られる利益と、 それが「うまい話でなかった」時に失うものとのバランスがとれない。

リスクはあるけれど得られるものは多い、そんな「うまい話」はだから、それがどんなに 大きな利益をもたらすものであったとしても、伝播する力が弱くて、広まらない。

「利益の大きさ」というパラメーターは、うまい話の「感染力」には貢献できない。

「絶対効かない薬」の効果

例えばそれは、「ホメオパシー」みたいな、ほとんど水そのものみたいな民間療法であったり、 あるいは「ホワイトバンド」とか「○○ちゃんを救おう募金」みたいな、 自分自身にはなんの利益ももたらさないことが、原理的に明らかなやりかたであったり。

そんな「絶対に役に立たない」ことが分かっている何かは、もちろん役には立たないんだけれど、 役に立つことが絶対にないからこそ、誰にでも安心して勧められる。

「必ず役に立つよ」なんて勧めて、その人の役に立たなかったなら、お互いの関係は、 やっぱり何だかぎこちなくなる。相手がすごい人格者なら、財産投じて不利益ばっかりの 結果になっても「気にしてないよ」なんて答えるかもしれないけれど、それを気にしないような 人間には、そもそもたぶん、失うことの不利益が大きな絆なんて作れない。「絶対」のないものは、 だから大切な絆の上には絶対に乗っからない。

「絶対裏切らない」ことを保証するのは難しい。その人がどんなに「絶対」を叫んでも、 医療みたいに、「腕」が確実な結果を保証できないようなサービスの場合、 どんなに頑張ったところで、「絶対」なんて保証できっこない。

「日本一まずいラーメン屋」は、まずい代わりに「絶対」を保証してくれる。 最初から「まずい」と分かっているものは、それにお金を払ったところで、もちろん失うものしかないんだけれど、 だからこそたぶん、そんなサービスはコミュニティに伝播して、多くの人が「まずい」を体験するために、 そのラーメン屋さんに列をなす。

不確実から確実を切り取るやりかた

富裕層向けの医療サービスは、たぶん「普通の」医療では広まらないから、成立し得ない。 ある人にいい結果を提供できたところで、その人から紹介された次の人に、 同じようないい結果を保証できないから。

医療は本来、不確実なものを相手にする仕事だけれど、そこから「確実」を切り取った人は、 ビジネスで大成功している。

横浜のガン治療医は、「末期ガン」の人だけを相手に治療を行う。そんな人達は、 何をやっても「必ず亡くなる」からこそ、結果が確実で、治療はコミュニティに伝播した。

内視鏡の権威だった先生は、そもそも病人でない、健康な人を相手に、 「ミラクルエンザイム」なんて薬じゃない薬を売っている。病気じゃない人に、 病気に効かない「薬」を売っているからこそ、あのビジネスは広まって、よく売れる。

自分たちみたいな、従来どおりの、不確実な医療を提供する側の人間もまた、「絶対」を 切り取るやりかた、「治癒」とか「診断」みたいな、不確実さから逃れられないものを 回避することを、もっと考えないといけないんだと思う。

「絶対」作って伝播したらお客さん増えて、ただでさえ忙しい外来がもっと大変になるかもしれないけれど、 今までのやりかた繰り返しているだけでは、そのうち誰かが新しい「絶対」見つけては おいしいところ奪っていって、一般内科なんて細る一方になってしまう。

不確実から「絶対」見つけるやりかた。考えれば考えるほど、産科とか小児科に進んだ人達には、 やっぱりなんの未来も見えてこないんだけれど。。

2008.05.01

暫定税率のニュースを見た

ガソリンの暫定税率がまた復活することになって、「安価なガソリンは今日まで」なんて、昨夜のニュース。

いろんな立場の政治家が,インタビューに答えたり、記者会見を開いたりしてた。

気がついたことのメモ。

「笑顔」は難しい

そもそも暫定税率の問題自体が、国会議員から見たらたいした問題じゃないのかもしれないけれど、 報道されてた議員の人達は、なんだか「見られる私」を意識して振る舞う人が少なかった印象を持った。

暫定税率復活の審議をするときには、民主党の若手が、会議室を取り囲んで 採決を阻んでた。自民党の河野議長は、その間隙を突くようにして議場に入って、 採決を成功させた。民主党の菅直人議員は、「国民不在の投票だ」とか、外で叫んでた。

2 人とも笑ってた。

  • 河野議長はずっと笑ってた。河野議長はたしかに民主党の裏をかいたし、 民主党がねじ曲げた議事運営を「正常化」できたわけだから、笑いたい場面ではあったのだろう
  • 民主党の菅直人議員も笑ってた。議事は負けたけれど、結果として自民党に大打撃を与えたわけだから、 民主党としては笑いが止らなかったはず

政治家同士のやりとりならば、たぶん二人とも、笑顔に足るだけの理由を持っていたのだろうけれど、 暫定税率は、「国民に負担を求める」問題。テレビカメラの向こう側にいる人達はみんな怒ってて、 この状況で「笑顔」を見せるためには、よっぽどの大義を持っていないと難しい。

相手にしている「世間」が大きくなる程に、たぶん笑顔を出せる機会は減っていく。 国会議事堂レベルの世間なら、あるいはたぶん、議員の人達は笑えるんだろうけれど、 国家という世間を前にしてもなお、笑顔を出せる議員というのは、よほどの覚悟の持ち主でなければ、 やっぱりたぶん、「国民から見た私」に対して、自覚が乏しいんだと思う。

立場は現象として理解すべき

民主党も自民党も、お互いの立場に「無責任だ」とか「自己否定だ」とか、 ラベルを貼って攻撃してたけれど、なんか泥仕合だった。

立場というのはたぶん、地震だとか台風みたいな「現象」として考えないと、 建設的な議論ができない。

自分と異なる立ち位置の人達をつかまえて、「悪い奴ら」だとか、 「正義に反する」とか、立証不可能な、気分だけのラベルを貼り付けてしまうと、 議論は泥沼化してしまう。

立場はだから、それ自体を論じるのでなしに、「立場という現象が生み出す何か」を 測定することで、はじめて比較が可能になる。

お互いの立ち位置とか考えかたみたいな「現象」を、経済効果で論じるやりかたは、 ちょっと前の小泉政権とか、意識して使っていたような気がする。生の「お金」の話こそ 少なかったけれど、政治家の行動原理は、「正しさ」とか「円滑な議事運営」なんて、 現象それ自体を描写する言葉じゃなくて、「政策がもたらす経済効果」みたいな、 現象が生み出す結果が引き合いに出されていた。

暫定税率の問題についても、自民党の人達は、「価格の乱高下で、国家は○億円失った。 これは民主党の責任だ」なんて攻撃もできたはず。やられた民主党だって、 数字を突きつけられたなら、その計算方法を批判して、 「ガソリンの値下げを行うことでこれだけの経済効果が発生した」なんて 数字で反証しないといけない。

お互いたぶん、仮定に仮定を重ねた数字ではあるけれど、両者が計算方法をオープンにするならば、 議論はすごくシンプルになる。富の総和が大きくなる振る舞いを政府が選択するならば、 究極的にはみんなが豊かになるはずだから。

「相手よりまし」というやりかた

「自分たちこそは最高だ」という立ち位置と、「相手よりはましだ」という立ち位置とがあって、 今の政局は、自民網も民主党も、後者ばっかり狙っている印象。

ちょっと前の政府は、むしろ「自分こそが最高」なんて立ち位置を好んで、 問題を単純化して議論することを好んで、そんなやりかたは実際に 大きな効果を生んで、支持率につながっていた気がする。

今の政府だって、当時のノウハウ引き継いでるから、シンプルな議論を行うやりかたの効果は 熟知しているはずなのに、今はなんだかグダグダした議論。 自民党も民主党も、「自分たちは相手よりまし」だという立ち位置を狙ってて、 「自分が最も優れている」という立ち位置を狙うことを、最初から放棄している。

今の政局は、もしかしたらそれだけ泥沼で、誰がやってももううまくいかないのかもしれないし、 あるいはそんな「最高の自分」を狙うためにはすごい勇気が必要で、それをやりきれるだけの度量を 持った政治家は、今の表舞台にはいないのかもしれない。

比較の対象もないままに、 「俺は最高」なんて叫ぶのは、たとえ政治家であっても、きっと怖いんだと思う。 その声を聞くであろう「民意」なんて、探したって全然見えなくて、信じるしかないんだから。

問題の定量と責任の可視化

シンプルな議論に必要なのは、「怒りの定量化」と、「責任の視覚化」。

国民が「どれだけ」怒ってるのか、政治家はその人なりの定量手法を公開して、 その怒りを向けるべき相手が誰なのか、政治家はやはり、自らの思考経路を公開して、 攻撃対象をはっきりさせないといけない。

全てを明らかにすれば、あとは単純化アルゴリズムの優劣を比較するだけだから、勝負は簡単になる。 支持が集まれば、攻撃を向けた相手は完膚無きまでに叩きつぶされるし、 支持が得られなければ、もちろん政治生命を失ってしまう。完勝できるけれど、 負けたら潰されるやりかた。

怒りに対して判断を留保して、自らもまた、その気分に乗っかって、 複雑な問題を「複雑」で「難しい」と思考停止するのは、判定勝ちを狙うやりかた。 感情レイヤでは親しみやすくて、政治レイヤで敵を作らないこんなやりかたは、 だから負けないんだけれど、勝つこともまたできない。

政治と格闘技は違うけれど、「KO 勝ち」狙わない選手ばっかりになったら、 やっぱり政治そのものに対する支持を失ってしまうような気がする。

もっとも「それ自体」が狙いなら、あるいは全て、現政府の思惑通りなのかもしれないけれど。

2008.04.07

技術の未来互換性

今年発表されたマルチスライスCT は、一度に320枚の画像が切れるらしい。 1 回転 0.3秒。0.5mm スライスで320枚。

一度に得られる情報量をここまで多くできると、冠動脈をほとんど末梢に近いところまで、 かなり正確に撮影することができる。まだパンフレットの画像しか見たことがないけれど、 そろそろ本当に「心カテの要らない」世界が見えてきた気がする。

10年前の夢

心臓は常に動いていて、冠動脈は太いところでも3mmぐらいしかない細い血管。 だからCT スキャンみたいなやりかたで冠動脈を撮影するのは難しくて、 当時の技術では夢のまた夢。CT が回転する間にも心臓はどんどん動いて、 「手ぶれ」を起こしたような、不鮮明な画像。 狭心症みたいな病変の診断は、「コンマミリ」を拡大して論じる世界だから、 解像度も全然足りなかった。

要求される技術水準が高すぎて、自分たちカテ屋は、放射線科医の夢を馬鹿にしてた。 技術がどんなに進歩したところで、心臓だけはどうやっても無理だろ、なんて。

心臓カテーテル検査は鮮明な画像が得られるけれど、カテーテルを心臓に通さないといけない時点で、 合併症から逃れられない。「冠動脈CT」は、もしもそれが実現すれば、 合併症のない心カテを実現できるから、アメリカなんかではすごい予算を投じて、 大規模な機械を作ってたけれど、当時はまだ、実用に足る画像は上がってこなかった。

CT を速く撮る

CTスキャンは、CT 管球が患者さんの体を一周すると、1 枚の画像が切れる。

自分たちが研修医だった頃、1 回転に要する時間は1 秒を切っていたけれど、 1 秒間という時間は、すでに心臓にとっては長すぎた。

CTスキャン は、結構無理をしている機械。

CTを撮影するための管球は、ちょっとした子供ぐらいの重量がある。 カバーが掛かっているから普段は見えないけれど、重たい金属の固まりが、 すごい勢いで患者さんの周囲を回る。あれが患者さんにぶつかったら もちろん大けがするし、機械の負担だって大きいから、 メンテナンスも結構頻回に入る。

CT の撮影時間は、だから機械部分が上限を決めていて、今以上に速くするのは難しい。 改良すれば、もちろんもっと速くなるんだろうけれど、下手すると100kg近い重量の金属塊が 毎秒20回転とか、もしも実現したら相当危ない。

「機械を速くする」やりかたを回避するために、技術者は2 つに別れた。 CTを最初から設計し直して、「回転する部品を持たないCT」を設計しなおすやりかたと、 回転数を上げる代わりに、管球をいっぱい並べて、1 回転でたくさんの絵を撮影するやりかたと。

理想的な、賢いやりかたと、力ずくの阿呆なやりかた。

阿呆が勝った。

電子ビームCT のこと

イマトロンという会社が作ったのは、回転する部品を持たないCT スキャン。

電子ビームの発生装置を患者さんの頭側に固定して、強力な電磁石を使って、 ビームを電子的に「回転」させる。斑鳩のホーミングレーザーみたいな動き。 機械が回る要素が一切ないから、「回転数」はどこまでも上がる。

たしか発売されたときから毎秒10枚の撮影が実現できていて、 今では1 秒間に20枚、毎秒20回転を達成しているはず。

回転式のCTは、1 秒間にせいぜい2枚。冠動脈CTの開発初期の時点で、 すでに圧倒的なスピード差がついていたし、電子ビームCT の速度には、 理論上上限が存在しないはずだから、未来はこちらにあると思ってた。

でもどういうわけだかイマトロンは普及しなくて、日本でもせいぜい20台ぐらいしか稼動していない。 技術的にも進歩がなくて、画質が悪くて、10年前のCTスキャンと同程度。

技術的にはこっちのほうが画期的に見えたのに、なぜだかゴールにたどり着けなかった。

並べるやりかた

CTの機械を2台に増やせば、1 回転する間に2枚の画像が撮影できる。4台並べれば、 同じ枚数の画像撮影するのに、要する時間は1/4 で済む。回転数を上げられないから、 1 スライスあたりの「ぶれ」は押さえられないけれど、マルチスライスはこんなやりかた。

マルチスライスCT というのは、専門の先生に言わせれば、 今までのCTの延長線上で考えてはいけない、全く違った思想の元に 開発された機械なのだそうだけれど、発想はやっぱり素朴に見えた。 日本の会社が目指してたのは、マルチスライス化の流れ。

技術者の人達は頑張って、5年ぐらい前の時点で、4 列のマルチスライスCTが普及し始めて、 大学病院では、当時の最高峰で32列スライスが入ってた。

近くの循環器病センターが64列入れたなんで話題になって、 「すごくよく見えるらしい」なんて医局でうわさをしていたのが、今から2年ぐらい前。

どこで「ムーアの法則」が発動したのか分からないけれど、今年は一気に320列。 ここに来てついに、冠動脈は末梢部分まで見えるようになってきた。

ウサギと亀の話

過去との差別化を重視する、「ジャンプ」を志向する進歩のやりかたと、 進歩の継続性を重視する、漸進的に進歩を積み重ねて、 結果としてそれが、過去と決別した技術に結実するようなやりかたと。

冠動脈CTを実現するときに、真っ先に問題となる早さについては、 電子ビームCTが最初から正解を出していたけれど、この機械は画質が悪かった。 問題の本質はあくまでも早さだったから、画質についてはきっと、 バージョンアップで画期的によくなるんだろうと思っていたけれど、変わらなかった。

300列のマルチスライスが出てもなお、「最速」の座は相変わらず電子ビームCTなんだけれど、 今はもう、「そこそこ早い」ことが当たり前になりつつあって、 「そこそこ」と「すごく速い」との差は減った。イマトロンは、画質の悪さばっかりが 際だって、昔いた病院には実物があったんだけれど、誰も使わなくなってしまった。

スケーラビリティという言葉が、何かヒントになるのかもしれない。

マルチスライス化を選択した技術者の人たちは、4列が8列、8列が16列と、傍目には ごくゆっくりとした歩みを続けてきたのに、気がついたら320列。どこで飛躍があったのか わからないけれど、ずるずるとした、ゆっくりとした歩みに見えたその進歩は、 いつの間にか電子ビームCTを追い越していた。

当時最も正解に近そうだった技術は廃れて、 素人目には頭の悪い、力ずくのやりかたは、そのまま10年力ずくで進み続けて、 力ずくで「正解」をもぎ取ろうとしているように見える。

電子ビームCTの画質向上が、技術的に難しかったのかもしれない。あるいはまた、4列、16列、32列という、 倍々ゲームで数字が増えていく「進歩」というのはすごく分かりやすくて、 開発予算が付きやすいとか、ユーザーに進歩を訴えやすいとか、技術の外側に、なにか勝因があったのかもしれない。

進歩のしかたが、何か「ジャンプ」を思わせるやりかたは、天井がすぐそこにあって、 案外「次の一手」が見つけにくくて、ずるずる進むやりかた、改良する余地が見えやすくて、 ずるずる進んだ先にあるものがよく見えるやりかたのほうが、どこかで 「量が質に転化する」瞬間をむかえやすいのかもしれない。

乗っかるべき技術には、何か一般解みたいなものが作れるんだろうか ?

2008.04.05

動作に最適なデザインのこと

オリンパスの新しい内視鏡セットが届いた。ディスプレイがすべて液晶画面になって、 内視鏡の光源とか、制御システムなんかも小型に、使いやすくなった製品。

今度のバージョンは、ディスプレイも、入力用のキーボードも、すべて3関節あるアームを介して、 空中に浮かんでいる構造。術者の姿勢にあわせて、あるいは共同作業する助手のポジションにあわせて、 ディスプレイやキーボードの位置は、3次元的に自由に変えられる。

理不尽な「片持ち」デザイン

使いやすくて便利になったその代わり、新しい内視鏡セットは、構造的に相当無理をしている印象。

古い世代の見た目は「タンス」。本棚みたいに箱を組んだ上にディスプレイが乗っていて、キーボードや 内視鏡を懸けておくための台なんかは、すべて「箱」に接続されていた。壁が箱を作って、 機械の重量は、壁全体で支える構造。

構造は頑丈で理にかなっていて、たしかに自由度は少なかったけれど、 人がそれに合わせさえすれば、この10年ぐらい、不自由なく使えていた。

新しい世代は、すべての荷重を背の柱だけで支える構造。4つの車輪を持った台車があって、 その一番端から太い柱が立てられて、ディスプレイもキーボードも、すべてそこから1m 近い長さのアームを介して、 空中に浮かんでいる。機械を格納するための棚板も、すべて柱からの「片持ち」で 支えられている。あらゆる荷重が、「てこの原理」を介して増強されて、柱にかかる、不安定な構造。

もちろんお金に糸目をつけない医療用の器具だから、実物は極めてがっちりと組まれてて、 片持ちの棚板に体重をかけたぐらいではびくともしない。ディスプレイもキーボードも、 関節を固定してしまえば、まるで机の上で作業しているかのように頑丈なんだけれど。

「壁」を失って得られたもの

無理な構造には、たぶん多くのメリットがある。

ディスプレイもキーボードも自由に動かせるから、術者の姿勢には無理がないし、 人間が「機械にあわせて」何かする必要がほとんどない。棚板も片持ちで、それを支える「壁」に相当する パーツがないから、配線に何かトラブルがあったときなんかも、すぐに機械の裏側に手が入る。

「壁を持たない」片持ち構造は、たぶん人間から無理な仕事を減らしてくれる。

人間の手は、肩を中心に、円を描くように動く。何も考えないで手を伸ばすとき、 手は直線運動をしないで、「弧を描く」ように動く。箱形の、タンスのような構造物は、 こんなとき、自然な動作を邪魔してしまう。

片持ちの棚板には、よけるべき壁が存在しない。机の上に置いてあるものを取るのと同じ感覚で、 何も考えないで手を伸ばせば、必要な道具に手が届く。

「タンス」と「片持ち」が生み出す差異というのはごくわずかなもので、今の時点ではそれが すばらしいとは実感できないんだけれど、今の機械を何年間か使い続けてから、もう一度「タンス」に 戻ったとき、もしかしたらすごく不便に感じることができるのかもしれない。

動作最適と構造最適

理想的な構造と、理想的な機能とは、とくにその構造物に対して人間が関わるときには、 必ずしも両立しない。

今度バージョンアップされた機械というのは、構造的には明らかに「後退」していて、 無理な構造を、やたらと強力なパーツで固めて、問題を理不尽に解決しているデザイン。 おそらくそんな理不尽さと引き替えに、ユーザーは自然な動作を購入することができたはず。

背中側に「柱」をおいて、すべてのパーツを、そこから片持ちでのばしたアームで支える構造というのは、 要するに脊椎動物と同じ。生き物の形。

人間もまた、手や足は脊椎に接続されているし、内臓や筋肉なんかもまた、 すべて脊椎から「ぶら下がる」ようにして配列されている。腹側に接続されている臓器は存在しないし、 だからこそ手術はほとんど腹側から行うことができて、術者は人体のあらゆる場所に手を入れて、 必要な治療を行うことができる。人体の構造もまた、昆虫みたいな外骨格デザインに比べれば、 構造的に最適とは言い難い部分があるのだろうけれど、その代償としてたぶん、 目に見えない様々な利点がもたらされているはず。

「構造的な理不尽さと引き替えに手に入るものは何なのか?」と自問すると、 なにかおもしろいデザインに結びつけるかもしれない。

2008.04.04

技術の欺瞞 広告の欺瞞

技術や企画、営業や広告、それぞれの職種には、たぶんそれぞれ持つべき 欺瞞のスタイルというものがある。 欺瞞を捨てた、全方向的な「よさ」を追求した先には、魅力的なプロダクトは生まれない。

「いい」製品と、魅力的な製品というものは異なっていて、商品の魅力というのは、 たぶん技術職と営業職の、欺瞞ベクトルの「ずれ」が作り出す。

Thinkpad を買った

新しいThinkPad を買った。自分みたいな素人には「速い」ということしか分からないし、 今使ってるぶんには何の不満も無いけれど、キーボードの印象がずいぶん変わった。

前使ってたA30 というモデルは、IBM 時代の製品。IBM が中国に買収されて、 「ThinkPad はもう終わりだ」とか言われる前、ThinkPad といえば質感の高い高級品という ブランドイメージがまだ残ってた頃。ノートパソコンはまだまだ高級品で、当時30万円近くした。

A30 は重くて固くて、キーボードを押した感覚も、しっかりしていながら粘るような、 たしかに自分は高級な製品使ってるんだな、と実感できるような感触。気に入ってたけれど、 打ち続けると結構疲れた。

今度買ったT61 は、もう4 世代ぐらい先に進んだ製品で、 薄いし軽いし、なんとなく「ありがたみ」に欠ける印象。

筐体の造りなんかはしっかりしているし、キーボードのしっかり感なんかは むしろ向上しているのだけれど、 キーを押した感触が何だかパシャパシャしていて、安いというか、ありがたみが薄いというか。

昔のThinkPad のほうが、キーを押したときの感触が滑らかで、わずかに重たい感覚。 今のキーボードはカサカサした、乾いた感触で、キーを押し下げる圧力が軽い。

「打っていて疲れない」という、キーボード本来の性能は、たぶん新型のほうが優れている気がする。 新しいThinkPad のキーボードは、軽く打てるししっかりしているし、メーカーの人達が 「改良しました」なんて言うとおり、道具としての使いやすさは、こちらのほうが上なんだろう。

新型は打ちやすくなったその代わり、何となく、自慢できる方向とは 乖離してしまった印象。道具として使いやすい、打ちやすいキーボードと、 誰か別の人に自慢して、その人から「これいいね」と言われるキーボードとは、 たぶん違うんだと思う。

新しいThinkPad は、だから道具としては十分満足して使っているんだけれど、 誰かに自慢したいとか、ものすごくいい物を買った充実感とか、そんなものは案外薄い。

スカイラインGTR のこと

日産が作ったスーパーカー「スカイラインGTR」を販売する人達は、あれを「いい車でしょう?」なんて 紹介してはいけないんだと思う。

今度のGTR は、開発した人のインタビューを読んでも「最高の車を目指しました」みたいなコメントが 並んで、それを売る人達もまた「いい車でしょう?」なんて。たしかにすごい性能の車なんだろうけれど、 何のゆがみも内包しない「よさ」という価値には、何だか魅力を感じない。

R32 型GTR が販売された頃の本を読むと、GTR を開発した人達は、 とにかく「レースに勝つ車」を作ろうとしていた印象。 誰も「よさ」なんか目指してなくて、当時のグループA 規約の範囲内で、 ほとんど反則に近いやりかたで、「勝つ」ことだけを想定していた。

あれを販売する人達も、想定外の化け物を送られて、 案外困ったのだと思う。「いい車でしょう?」なんて無批判に言い切るには、 当時のスカイラインは何だか不気味な印象。「うちの技術屋がとんでもない怪物作ってしまいまして…」 なんて売りかたするしかないような。

結果として、R32 は大成功したけれど、あとに続いたスカイラインは、 R32 よりも性能はよかったにもかかわらず、先代を越える魅力で語られらなった。 技術職と営業職の「ずれ」というものが、R32の魅力を生み出していたのだと思う。

欺瞞が魅力を作り出す

魅力というのはたぶん、製品の「よさ」が事後的に作り出すのではなくて、 製品を開発した人と、それを販売する人とが持つ欺瞞のベクトルがずれた場所に発生する。

思ったこと素直に伝える、欺瞞のないメッセージには力が無い。 訴える力が強い人達は、たぶんそれぞれ独自に作り出した欺瞞のスタイルを持っていて、 ある程度意識的に、それを運用している。

そもそも欺瞞が無かったり、技術者と営業との欺瞞ベクトルが一致してしまうと、 そのプロダクトは「つまらなく」なる。 それがたとえ「いい製品」であったとしても、つまらない製品は、自慢できない。

技術者と営業職と、大雑把にお仕事を分けると、 それぞれの職種に要求される「欺瞞の使いこなしかた」は 異なっていて、その異なりかたも、メーカーとか、人種で共有され、 引き継がれるべき文化なんだと思う。

日本人なら、技術者は常に「完成度はまだ中途で、まだ改良の余地がある」と言わなきゃいけないし、 それを販売する人達は、「うちの技術馬鹿どもが暴走しまして…」と顧客に謝らないといけない。 たとえどんなにいい製品でも、日本人は「いい製品でしょう? 」なんて言っちゃいけない。

アメリカの技術者なんかは、むしろ何作っても「これが自分の考える最高の製品だ」なんて 胸張るし、それを売る人達は、額に青筋浮かべながら、 苦虫噛み潰した笑顔で「いい車でしょう ? 」と言わなきゃいけない。

シェルビー・マスタングとか、ダッジ・チャージャーとか、 何だかもう、乗るだけで頭悪くなりそうで、ものすごく魅力的。技術者が全方向的な馬鹿車作って、 営業の人が、それを何の衒いもなく「すばらしい車ができました」と言い切るのは、 アメリカ車にだけ許された欺瞞のスタイル。

性能は、もちろんスカイラインGTR のほうが上なんだろうけれど、 こんなアメリカンスポーツが好きな人達にとっては、馬鹿みたいな排気量であったり、 燃費の悪さとか、音のうるささとかそんなものこそが魅力。たぶん10年たっても同じ車を乗り回して、 やっぱり「これ馬鹿でしょう?」なんて、みんなに自慢してそう。 限定生産品だから手が出ないけれど、乗れるものならものすごく欲しい。

トヨタのレクサスなんかは、やっぱりこのへん間違ってるんだと思う。

トヨタの技術者が全力注ぎ込んでるのは、やっぱりベースになった乗用車のほうであって、 レクサスで売ってるのは、それをきれいに仕上げて値段を上げた車。

「限られた予算に機能を詰め込む」のはまさに技術で、それは日本のお家芸だけれど、 「浮かせたお金で「きれい」を乗っける」のは、何となく技術屋としてかっこよく見えなくて、 中の人達もたぶん、「暴走する技術者」としてでなく、 「企画の人に言われるがままに仕事しました」というイメージ。

レクサスの販売店は、たしかに丁寧。非の打ち所の無いいい車を並べて、「いい車でしょう ?」なんて。 「いい」物を「いい」と表現することは、もちろん全然間違いではないんだけれど、 欺瞞の無い言葉は響かない。予定通りに作った「いい」車というのは、 「既製品を薄めて膨らませて、200 万円上乗せしてみました」なんて思惑が透けて、 なんだかつまらない。

トヨタ自動車には、電気レクサスのエンジンをヴィッツのボディに押し込んだ 「リアルチョロ Q」開発してほしい。そんな動く危険物を力ずくで販売して、 「いい車でしょう?」 なんてやってくれたら、もう一生ついていくから。