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2010.09.17

通過儀礼が事後的に合理化する

機能の豊富さだとか、造形の緻密さだとか、何かを「好みだ」と判断するときの、 合理的な理由というものは、けっこうな割合で、後付けされるものなんだと思う。

判断というのは、やっぱり不合理に行われることが多くて、人間は結局「好み」で いろんなものを決定するけれど、何かを好きだと判断したとき、何らかの通過儀礼を そこに挟むと、「好きの閾値」が大いに下がるような気がする。

犬の足形を作った

休みに旅行に行って、犬の足形をとってきた。

行った先で配られていた、「ペットと一緒には入れるお店」のリストに、たまたまそういうサービスを 行っている工房があった。粘土の板に、飼い犬の足形を押して、陶板に焼いてもらって、 送料込みで3500円。

陶芸作家の人が一人でやっている、ごく小さなお店だったのだけれど、犬も「お客さん」扱い してくれる工房は他にはなかったからなのか、陶板のバックオーダーはたくさんあって、 今から足形をとって、出来上がりはずいぶん先になります、なんてお話だった。

陶器を買った

犬の足形を陶板に焼いてもらって、このとき一緒に、そこで販売されていた、 いろんな陶器を購入した。

どちらかというと「奇妙に」近い、独特な形をしたコップやお皿がたくさん売られていて、 あえてそうしているのだろうけれど、どの陶器も微妙に歪んだ造形で、同じ形のものは 一つもなかった。

こういうのは、それが好きなら「作家性」だし、それが嫌いなら、単なるいびつな陶器なんだけれど、 その工房から、いくつかのティーカップだとか、マグカップだとかを購入して、 今はずいぶん気に入って、それを普段使いしている。

好きになると合理的に聞こえる

「きれいな形よりも、手になじむ形を目指しているんです」だとか、 「ろくろを回して、おもしろいと思った形を目指すと、どうしてもこうなっちゃうんですよね」だとか、 作家の人が説明してくれた。

こんな言葉は多分にテンプレート的で、恐らくは陶芸作家の人たちは、10人が10人、 大体同じような内容を語るんだろうけれど、このときはこの人の言葉がずいぶん響いて、 結局いくつかの食器を購入することになった。

自宅の周囲にも、何件か、食器を扱うお店がある。整った磁器も販売しているし、 有田焼だとか、備前焼だとか、もっと「有名な作家」が作った食器、 やっぱりわずかにゆがんだ、「作家性」みたいなのを感じさせるものは、 以前から購入することはできた。

ところがこういう人たちの「作家性」は、自分たちにはどうにも響かなくて、 ゆがんだ食器は重ねられないし、こういうのはどこか不安定で、 時々何となく貧相に見えて、あまり食指が動かなかった。

もっと大規模な工房と、今回買った個人の工房と、陶器を作っている数でいったら、 恐らくは100倍以上の開きがあるのだろうし、それを工業製品としてみたときには、 たとえ同じ手作りであっても、たくさん作っている工房のほうが、品質はより優れている 可能性が高いのに、今回購入した陶器製品は、形だとか、手触りだとか、 たしかに説明されたとおりに手になじんで、見た目に面白く思えた。

通過儀礼のこと

専門店で売られている陶器製品に魅力を感じることができなくて、観光地の、 個人の陶芸作家の作品に、購入に至る魅力を感じることができたきっかけというものは、 やっぱり「犬の陶板」だったのだろうと思う。

犬の陶板を注文するという、こういう機会でもなければ絶対にやらないような、 不合理な行動というものが、恐らくは通過儀礼として、それからしばらくの間、 その人の振る舞いを書き換える。

不合理な、普段ならやらない行いをあえて行ったあとでは、おそらく人間は、 そこから先の行為を、可能な範囲で合理化しにかかる。

不合理な注文を行ったあとだから、そこで販売されている商品は「いいもの」に見えたのだろうし、 奇妙にいびつな、普段はあまり見ることのない、「手になじんだ」を目指したという、 独特の食器というものが、そのときは、今でもそうなんだけれど、やけに合理的な、 魅力的なものに見えて、結局今もそれを使っているのもまた、通過儀礼の効果なのだと思う。

通過儀礼を意図した不合理を、あえて顧客に押しつけることで、そこからしばらく、 その人の財布は緩んで、恐らくは満足度も高くなる。

こういうのは何かに応用できそうな気がする。

2010.07.12

グレーな需要を掘り起こす

「欲しいもの」と「欲しくないもの」との間には、たぶん「お金を払うほどではないけれど、あるならほしい」という、グレーな需要というものがあって、値下げをいくら行ったところで、お金を支払うという動作がそこにあるかぎり、こうした受容は掘り起こせない。

グレーな需要は、お金の支払い方だとか、商品の見せ方を変えることで、けっこう大きな市場として、掘り起こせる可能性があるのだろうと思う。

普段読まないものを読みたい

自分がお金を払って買う雑誌は、今だとせいぜい「ムー」ぐらいなんだけれど、医局で当直していると、「週刊実話」だの、「DIME」だの、他の先生がたが置いていった雑誌が積んであって、普段だったら手に取ることはない、こういう本をパラパラめくると、けっこう面白い。自分が直接興味がある内容でなくても、そういうものに興味がある人がいて、それを面白がる人が書いた文章というのは、読んでみるとやっぱり、面白いから。

恐らくはたぶん、あえてお金をそれに支払ってまでは読みたくないけれど、あるならちょっと読んでみたい、というグレーゾーンの需要は、本当はけっこう大きいのだと思う。

「実話ナックルズ」だとか、「漫画大悦楽号」だとか、カストリ雑誌とか、三流劇画誌なんていわれたジャンルの血を引く雑誌はまだまだあって、こういうのを普段買う機会はないんだけれど、読めるものなら、ちょっとどころかぜひとも読んでみたかったりはする。ニューズウィークの英語版を読んでるようなエリートだって、当直室の片隅に、英語の論文雑誌と一緒に、こういうのが山と積んであったら、こっそりページをめくるだろうし。

値下げでは購買につながらない

「ちょっと読んでみたい」というのはしっかりとした需要なのに、ここを掘るのは難しい。スキャンダル雑誌みたいなのが、じゃあ1冊600円ぐらいするのを、たとえば100円に値下げすれば「ちょっと」が実現するかといえば、ふだんニューズウィークを読むような人は、やっぱり買わないだろうと思う。

こういうのをたとえば、電子書籍で、毎月一定の金額を支払ったら、そのサービスに登録してある雑誌を好きなだけ読んでいいよ、というようなサービスを展開してほしい。漫画喫茶を電子世界でやるのとだいたい同じだけれど、一定金額を支払って、何十種類かの登録された雑誌をダウンロードして、自由に読めるようなサービス。お金はどこかの会社が一括で集めて、雑誌ごとのアクセス数に応じて、集まったお金を配分するようなやりかた。

今みたいな「お試し読み」でない、雑誌のサービスパックみたいなやりかたは、恐らくは出版社ごと、ジャンルごとに、これから登場してくるのだろうけれど、できることなら、こういうのは、「固い」雑誌と、その対極にあるような、読むだけで頭が悪くなりそうな、そういう雑誌とを、ごっちゃにしてほしい。

固い雑誌に出来ること

昔はたとえば、エロマンガ本を書店で買うときには、エロ本を真ん中に、上下をAERA だとか、週刊金曜日みたいな固い雑誌で挟んで、店員さんの目から、本当の欲求を隠そうだなんて、なんてよくやっていた。こんなことをしたところで、もちろん会計があるから隠せるわけがないんだけれど、固い雑誌と、そうでない本とを一緒にすることで、本屋さんはその分多くの収入を得るわけだから、そのへんは黙って会計を済ませてくれた。

恐らくは、「本屋さんの目線」みたいなものは、自分自身の内側にもあって、自身の目線圧力が、「ちょっと読みたいんだけれど買うほどじゃない」という、グレーな需要を、購買から遠ざけている。

電子世界で、固い本と、その対極にある本とを混ぜる意味というのはこのへんにあって、固い本というのはたぶん、その下にある固くない本を、自身の目線圧力からも隠蔽してくれる。神田の芳賀書店みたいに、「最初からエロ本しか置かない」というポリシーでやると、たしかに買いやすいんだけれど、そういうお店には、「ちょっと読んでみたい」人は、今度は入りにくくなってしまう。

支払いのルールが変わると、いわゆる「固い雑誌」には、「固くない思惑を隠蔽する」という役割が生まれる。

護送船団みたいに、固い言論雑誌みたいなものが支払いの大義を、隠れた需要を掘る役割を、実話スキャンダル雑誌みたいものが担うようにすると、恐らくは今までだったら支払われることの無かった、グレーな需要に対して、支払いを期待することが出来る。もちろん「固い雑誌だけを読みたい」という人は、それだけを購入すればいいんだろうけれど、カストリ雑誌にあえてお金を支払いたいとは思わないけれど、読めるならちょっとだけ読んでみたい、なんて人なら、こういうサービスがあったら、便利にお金を払う。

それは恐らく本や雑誌でも、あるいはゲームでも、見せかたを変えること、支払いのやりかたを変えることで、新しく掘り起こせる需要というものがあって、ルールを変えて、それぞれの役割を変えてみせることで、いろんな形の購買というものを、そこから生み出せるんだと思う。

2010.04.25

不便が強みになる

お金というものは、 「説得力のある不自由」を提案できた人に対して支払われる者なんだと思う。

消費者にとっては、便利になるほうがもっとありがたいのだけれど、便利からはお金が逃げていく。

売るものだとか、情報それ自体の価値というものは、もちろん粗悪品よりも良品のほうがうれしいけれど、銭勘定だけを考える上では、恐らくは「良さ」というものには、それほど大きな意味はないのだと思う。

情報は自由になりたがる

情報は自由になりたがるけれど、自由からはお金も逃げていく。

物から自由になった、純粋な情報に近い、インターネット上のテキストだとか、アプリケーションは、それ自体からお金を得ることが、しばしばとても難しい。

情報が便利になればなるほどに、お金はそこから逃げていく。裏を返せば、情報という物に、何かの不自由を付加したものがメディアであって、不自由を付加されて、初めてその情報は、お金に紐付けられるのだと思う。

消費者に、説得力のある不自由を提案で気は人は、お金が得られる。

情報に、同時性だとか、そこにいないといけないという不自由をくっつけると、それはライブだとか講演会になる。インターネットで文章を公開するよりも、講演会に参加する人は少ないだろうけれど、講演会はしばしば、文章を書く人たちの、貴重な収入源になっている。

情報が、紙という不自由と結びついたものが本であって、昔はこれよりも自由な物が他になかったから、本は莫大な富を生み出した。

PCでインターネットという、自由な情報を扱う上での、ほとんど正解に近い媒体が生まれて、情報は本当に自由になったけれど、自由になって、お金はそこから逃げた。

クリック一つで海賊版がダウンロードできる世の中で、わざわざお金を支払って、面倒な制限がついた正規品を購入する人の動機は道徳であって、道徳は、お金を払う根拠としては弱い。「どうしてお金を払う必要があるの?」なんて疑問が消費者からでるような場所では、もう商売なんて成り立たない。

電子書籍に対抗する方法

昔ながらの出版社が、電子書籍メディアを滅ぼそうと思ったならば、新刊の海賊版を、電子データとしてさっさと流してしまえばいいのだと思う。

電子書籍はたしかに便利で、クリック一つでその場で本が購入できるし、本屋さんだとか、取り次ぎの人たちを回する必要がないから、本の価格も安くできる。

便利さの競争を行うならば、紙メディアと電子メディアと、だから対抗するのはどうしたって難しいけれど、お金というのは不便と結びついている。

漫画本は絵を見れば分かるからなのか、世界中で海賊版が出回っていて、今はもう、発売されてから3日もすれば、どこかで海賊版が出回った、なんて話が伝わってくる。日本語の小説は、そういう意味では海賊版を欲しがる人の絶対数が少ないだろうけれど、電子書籍が普及する前の段階で、「電子は無償」が当たり前になってしまったなら、もう電子書籍というメディカらは、お金が生まれない。

こういうのは焦土作戦で、紙のメディアだってダメージを受けるだろうけれど、紙の本を買う人は、たとえ電子の海賊版が出回ったところで、やっぱり紙の本を買うだろうから、被害はたぶん、電子出版の人たちよりは少なくて済む。

「電子は無償」が、書籍の分野でも文化になってしまったなら、もう電子出版というメディアでは、誰も食べていけなくなる。そこでプロとして食べていく人は、そうなると紙のメディアにとどまり続けるだろうから、電子書籍というメディアは、もう脅威でなくなってしまう。

競合潰しのフリー戦略

「フリー」戦略というのは、「無償」という意味でも、「もっと便利」という意味でも、いずれにしても競合殺しの武器として使うのが正しいんだと思う。

「フリー」という本の中では、情報を自由にすることで、結果としてみんなが幸せになりました、というケースがたくさん挙げられていたけれど、正しいタイミングで流された海賊版は、競合する相手の生態系を枯らしてしまう。

これだって一種のフリー戦略なのだろうし、「みんなが幸福に」なった、フリー戦略の成功例として取りあげられているやりかたにしたところで、たぶん「みんな」に含まれていない競合者は、「フリー」に潰されて、その場所で生きていけなくなっているのだろうと思う。

たとえば「電子はフリー」というカードが切られたとして、電子メディアを応援する人たちは、それでも電子書籍リーダーを購入するだろうし、それは間違いなく便利な道具になのだろうけれど、「もっと便利な海賊版」を真横に置かれると、その便利さは説得力を失ってしまう。

海賊版はもちろんルール違反で、それに手を出すのは悪いことだけれど、今はなんだか、支払いの逆転現象みたいなことが、いろんな場所で起きている。

Warez なんて言葉があった昔は、違法改造したソフトだとか、海賊版を扱えるのはPCに相当詳しい人しかいなかったのに、今では逆に、PCに詳しい人たちが、あれ買った、これ買った、というのを日記に書く一方で、九州の校長先生みたいに、PCに強いとは思えないような人たちが、おっかないP2P に手を出して、真っ黒な動画をコレクションしてたりする。

「便利であること」それ自体は、たぶんそのメディアにとっての弱点であって、それを脅威に感じて対抗するやりかたは、むしろ墓穴を掘っているのだろうと思う。

2010.01.27

弱い何かに財布を接続する

自分のためにお金を使う人は減っている。将来への不安とか、不信みたいなものがある限り、この傾向は変わらないと思う。

少し前なら、自分のすごさを表現するために無理して高い車を買うとか、「あえてお金を使ってみせること」というのが、ある種のかっこよさにつながっていたけれど、そうしたリンクはもう切れている。

で、今は何となく、「か弱くてかわいい何か」に強者の財布を接続できた人が、上手な商売を行っている気がする。

  • トリンプのサイトにはおねだり の機能がついていて、商品を買う女性から、男性の側に、支払いをお願いすることができて、これが大成功しているらしい
  • GREE というサイトのマスコットであるクリノッペがすごい らしい。自分自身の分身である「アバター」にお金を支払うことに抵抗がある人でも、加入すると勝手についてくるペットと遊ぶうちに、そっちにはお金を使ってしまうらしい
  • ペットビジネスは、「弱さ」と「財布」が直結していて、どちらかというと、小型犬ほどお金が出ていく。大型犬、フルサイズの狼犬なんかだと、ご飯も「鶏の首」みたいな、えらくスパルタンなものになるけれど、小型犬だと種類が豊富で、チワワ用の一食が700円とか、高いのがずいぶん売れているらしい
  • 子供が商売の王道なのは、今も昔も同じ。子供が映画を見たいと希望すれば、親もお金を支払う必要がある。やっぱり「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」は強いらしい。お母さんを巻き込んだ平成ライダーは大成功して、もう少しマニア向けに大人な内容にした最近のライダーは、売り上げがちょっと翳ったらしい
  • ヒトパピローマウイルスワクチンは、若い女性に向けたものだけれど、自費だから数万円する。で、「おばあちゃんが孫にワクチンをプレゼント」する、なんて事例が紹介されていた。高齢の人が、若い人に「未来」をプレゼントするというのはたしかに美談なんだけれど、こういうお話が広まると、似たような行動をする人が、あるいは増えるのかもしれない
  • 新聞も売れなくなっている。「読む人」に訴えるやりかた、いい記事を書く、というのは、もはや購買を刺激しないのだと思う。むしろたとえば、「お孫さんに社会の正しい見かたをプレゼント」みたいなテーマで、「お爺ちゃんがお孫さんに朝日新聞を契約して、未来の日本をプレゼントした」とか、そういうエピソード作って広めると、少し違った購買を引き出せる気がする。「読む人」に向けた記事と、「読ませたい人」に向けた記事とでは、ずいぶん違ってくる。一面トップに「今日は敬老の日」とか並ぶ新聞になるんだと思う
  • 購買でなく、道徳的な振る舞いも、「弱い誰か」を仮想すると引き出せるのだと思う。ゲームだとか漫画は、海賊版の被害が相当に大きいらしい。「自分のため」ならば海賊版で満足する人も、あるいは「か弱い誰かにプレゼントをする」ときなら、海賊版でなく、正規品にお金を払う、道徳的なユーザーになるような気がする。今はそうでもないみたいだけれど
  • 財布を持った人にとっての「かわいらしさ」というのは大事なんだと思う。高齢者の患者さんなんかだと、数百円のおむつとか、食事代に「高い」と文句を言われるのは当たり前で、高いなんて言ってたご家族が、ペットショップで2000円の天然鹿肉をまとめ買いしてたりする

恐らくは「弱い何か」に対して「強い人」でありたいというのは、それなりに普遍的な感情で、「いい人」、「強い人」であることを表現するためにお金を使う、道徳的な振る舞いを引き出すという道は、まだ残っているような気がする。

弱いとは何なのか、かわいいとは何なのか。このあたりに鍵がある。

2010.01.17

「学」は平凡に価値を付加する

根拠なんてなくても、すごい技術を持っていればそれでご飯が食べられるけれど、状況が変わったり、才能のある素人が業界を浸食すると、技術は安く買いたたかれて、最後には業界が滅んでしまう。

業界の仕事が「学」として確立すると、平凡であることにも価値が生まれて、お金を取る根拠が生まれるのだと思う。

才能は買い叩かれる

プロが「才能の無駄遣い」を発揮する場面が増えた。ニコニコ動画もそうなんだろうし、blog が増えて、専門家が自分の意見を書く場面が増えて、フリーライターの人たちなんかは、今はけっこう大変らしい。ある分野の専門家は、たぶん「書くこと」以外の仕事で食べているのだろうから、何かを書くことそれ自体は「才能の無駄遣い」であって、それは無償で為されることが多いから。

いろんな業界の「才能の無駄遣い」は、それを見せてもらうのははすごく面白いのだけれど、残念ながらそれは「無駄」であって「無償」が前提で、そのうちそれが当たり前になると、業界もろとも細ってしまう。

作家の人が、無償で文章の提供を求められたりだとか、あるいは自分たちの時間外残業が、「熱意」の一言でボランティア査定されたりだとか、いろんな分野のプロが「才能の無駄遣い」を見せていくにつれて、プロがプロとして生きていける場所は、むしろだんだんと狭くなってしまう。

プロはだから、自らの価値を下げるような仕事をしてはいけないんだけれど、それにはやっぱり限界があるし、「業界のしきたり」みたいなやりかたで、自分の生活を守ろうとすると、今度はたぶん、「既得権」とか「カルテル」とか叩かれる。JASRAC みたいに。

「学」を作って生き残る

医学なんかはたぶん、大昔に活躍した呪い師の末裔で、今は薬草を調合する必要もない。症状をみて、判断を下して、処方箋が書ければ、仕事はできる。

外科みたいな科はまた話がずいぶん違うんだけれど、内科医のお仕事というのは、突き詰めれば「診断」と「処方」だけだから、それが血栓溶解剤だろうが抗がん剤だろうが、薬の名前さえ知っていれば、それを処方することはできる。

医学書なんて本屋さんに行けば売っているし、薬の本があれば、処方も出せる。じゃあたとえば、医療が「自由化」されて、医師免許なしでも、誰もが自由に処方箋が書ける世の中になったとして、たとえそうなっても、やっぱり病院に来る人は多いような気がする。

これはやっぱり、医療という業界が、ずいぶん昔から「学」として確立していることを宣言しているからなのだと思う。それが「学である」と宣言することで、再現可能な平凡な技術が、平凡であることに価値が生まれる。「学」に対して求められるものは「平凡」だから、「頑張った俺が無料でやった」ものがあふれても、「プロの作った平凡」が、価値を失わない。

これこそが学問の力なんだと思う。

ゴッドハンドは平凡

自分たち医療の業界で、たとえば「ゴッドハンド」なんて言われる人たちは、やっていることは「平凡」であることが多い。ゴッドハンドは、「その状況でもなお平凡でいられる」人が、全世界でその人しかいないだけの話で、ゴッドハンドがやっていることそれ自体は、「単なる手術」だし、「単なる治療」であることが多い。脳外科の福島先生も、ブラックジャックも、スーパードクターKだって、、そのへんは変わらない。

たとえば ブラックジャックしか手術ができない患者さんがいたとして、BJ じゃない医師にだって、その患者さんに手術が必要であるぐらいのことは分かる。医学は「学」として確立しているから、判断には再現性があって、ここまでは誰でも到達できる。ただしその患者さんにおいて、「教科書どおりの治療」ができる医師が、全世界でBJしかいないから、彼は物語の主人公でいられる。

「学」を宣言して生き残っているたいていの分野では、統一されたやりかたというものがあって、センスや能力の比較、定量ができる。ブラックジャックなら100人治せる患者さんが、研修医に手が出るのは、そのうち2人とか。十分なデータが与えられたなら、誰もが同じ解答に到達できるところが、「神」クラスになると、患者さんを一瞥しただけで、答えがすぐ分かるとか。

再現性と、定量性と、両者が備わると「学」が成立して、「学」が「平凡」を規定すると、その平凡に価値が生まれる。

たとえば編集は学なのか

Amazon のKindle みたいな道具が上陸しそうで、出版社の人たちは、今大変なのだそうだ。原作者がいきなり出版、という道がかなり容易になる世の中が来て、そうなると、出版社の意味が失われかねないのだと。

病気を治すのに医師が必要であるように、原稿の「病気」を診断、治療して、それを「健康な」状態に、読みやすくて手に取りやすいものに仕立てるためには、編集者とか、マネージャーみたいなプロの助けは、個人的には今、すごくありがたい。

原稿もやっぱり「病気」になる。

「自己顕示病」だとか、「スタイルの強制」という病、独りよがりな努力に賞を与えて、それを捨てられない状態だとか、原稿は簡単に「病気」になって、これはたぶん、たくさんの原稿を読み慣れた人なら「診断」ができて、「治療」のやりかたも、ある程度確立している。

文字を書ければ文章は書ける。これは誰にでもできることだけれど、読みやすい文章、原稿として「健康」な状態を、個人で維持できる人はたぶん少ないし、どうせ文章を書くのなら、できるだけ「健康な」、売れる文章にしたいという需要は、無くなることはないのだと思う。

編集者を医療にたとえて、じゃあ編集というお仕事が、医療みたいに技術として、「学」として確立しているものなのかどうかが、よく分からない。伝説の編集者なんて言われる人がメディアでときどき紹介されて、みんな個性的に見えて、その技術に再現性がなさそうなのが、医療からみると違和感がある。

「編集」の業界には、たしかに名人がいる。名人が、じゃあ業界の1年生と比べて「どれぐらい」すごいのか、外野からは、そんなものさしが見えにくい。たとえば駆け出し編集者からベテラン編集者、個性のかたまりみたいな伝説の編集者とが集まって、彼らが同じ原稿を読んで、その原稿を売るために、誰もが同じアドバイスを返せるものなんだろうか?

編集者の言葉がみんな同じなら、自分のイメージする「編集学」はすでに確立しているのだろうけれど、時々ニュースになる、漫画家と編集者とのトラブルなんかを読んでいると、再現性を持った技術としての「編集学」というものが、あんまり見えてこない。

学が平凡に価値を付加する

それがはったりだろうが科学的に証明されたものであろうが、何か統一された方法論があって、再現性を持った答えを導けるものは、「学」を名乗れる。「学」を名乗ると、平凡を再現することに価値が生まれて、それを根拠にお金が取れる。

学のないところには、「才能」以外の評価軸が存在しない。平凡からお金を生み出す根拠が生まれないから、すごい才能に届かない、再現可能な平凡が買い叩かれて、業界ごと細ってしまう。

ネット時代になって、それでも変わらない業界と、「才能の無駄遣い」がもてはやされて、才能が買い叩かれて、気がついたら本当のベテランですら食べていくのが難しくなっている業界とがある。このへんを分けているのが「学」の成立なのであって、業界を引っ張るトップランナーは、生き残りをかけるなら、自分たちの仕事を「才能」ではなく「学」として、単なるすばらしさでなく、自分にしか到達できない平凡として、表現しないといけないんだろうと思う。

2009.12.28

案外やっていけるお店のこと

自宅から車で10分ぐらいのところに、小さくて、今にも潰れそうな本屋さんがある。休みの日なんかにそこを通って、人が入っているのを見たことがないんだけれど、もうずっとそこで商売をしていて、風景は変わらない。

店の広さはせいぜい12畳といったところで、品揃えも漫画本と雑誌ぐらい、駅の売店がちょっと大きくなった程度で、これといった特徴のないお店。

「そこを使っているのは子供なんだよ」なんて、最近教えてもらった。

平日の人の流れ

このへんは例によって妄想でしかないんだけれど、その店を潤しているのは、たぶん「学校の子供さん」なんだと思う。

店のそばには小学校があって、そこの子供たちが、たぶん帰りしなに、そのお店による。子供は車を運転できないから、町中にあるもっと大きな本屋さんにはいけないし、クレジットカードも持ってないだろうから、Amazon で何かを買うのも難しい。「お客さん」の数自体は、どれだけ多く見積もったところで、その小学校の生徒分しかいないけれど、こういう人たちは、実世界の店舗に頼る確率が高いから、大規模書店ほどにはお金を使わない、小さなお店に生きる目が出てくる。

「市場」といっても、せいぜい小学校1つでしかないから、こういう場所に、全国チェーンが算入してくる確率は低くい。お店はたぶん、小さな場所で、小さな商売を続けながら、案外ちゃんと食べていけるんだと思う。

そういう目で周辺を見渡すと、「プラモデルとモデルガンがやけに多い、いつ見ても誰もいない模型屋さん」とか、「何でやっていけているのかよく分からない古い呉服屋さん」だとか、お店とか、それぞれたぶん、学校の男子にモデルガンを販売してたり、あるいは学校指定の上履きを一手に販売していたり、たぶんそこにいる人にしか分からない、小さな商売ができるだけの理由が、そこにあるのだと思う。

人数だけでは分からない

自分たちは普段、「平日」を知らない。休日の、賑やかな場所しか見たことがないから、そこに住んでいる人たちが、じゃあ普段どんな振る舞いをして、どういう生活を送っていて、生活を続けるために、どういう形でお金を使っているのか、そういうのが分からない。

病院にこもっていると、「平日の人」とか「平日の町」がどうなっているのか分からない。こういうのはもしかしたら、仕事として町をリサーチしている人ですら、人口の動態みたいなものは把握しているのだろうけれど、「生活する人の動きかた」みたいなものを細かく観察できる人は、決して多くないような気がする。

「独立してスモールビジネスを」なんてお話も、どことなく、「平日を知らない人」の発想が多いような気がする。想定顧客は全国とか全世界、「町の地形要素」みたいなものを効率よく利用しよう、という話題は少なめで、夢先行、企画先行、継続性とか、兵站要素みたいなものは、あんまり話題として出てこない。

「兵站の話題はつまらない」という大前提があるから、blog 界隈みたいな場所だと、そもそもこういう話題は受けないだけなのかもしれないけれど、全世界に語れる夢なんて持っていなくても、食べていける場所というのは、丁寧に探すといろんなところにあるような気がする。

流れのどこかによどみを探す

たとえば訪問診療なんかは、「商売にならない」医療の代表みたいに言われるんだけれど、町のどこかに「高齢者の多く住んでいるマンション」を探し出すことができると、病棟回診と同じペースで「訪問」ができて、訪問診療には訪問加算がつくから、黒字が増えて、きちんと食べていけるんだという。診療の腕とか、人当たりの良さみたいな、まっとうな努力はしばしば報われないけれど、人の流れを読んだり、そこに住んでいる人たちの生活が想像できたなら、施行はきっと報われる。

それは子供の集まる学校であったり、あるいは中高年の人たちが教室を開いて集う平日の公民館だったり、病院のそば、ショッピングセンターのそば、たぶんいろんなところに「平日生活する人が利用する場所」というのがある。

「平日の人」は、たいていは何かの目的だとか、資格があってそこに集まる。そういう人たちはたいてい、たとえば小学生なら自動車に乗れないとか、モデルガンはほしいけれど、親御さんに見つかるライフルは大きすぎて拳銃しか買えないとか、「選別されているがゆえに欠けている」要素というのがあって、欠けた人に、足りない何かを販売できれば、それはきっと商売になるんだと思う。

2009.11.08

「普通の人」に向けたサービスのこと

恐らくは「便利であること」それ自体には、お客さんは魅力を感じないのではないかと思う。

「便利さ」に価値を見出すのは、新しいものに飛びつくのが好きな、ごく一部の人であって、 お客さんの多くは、便利であることよりも、「自分が真ん中にいる」感覚を共有することを好む気がする。

2つの入り口を持つ料理屋さん

うちの近所にあるショッピングモールに「ドリア専門店」と「石焼き鍋専門店」とが入っていて、2つのお店は、中で厨房を共有している。

お店はモールの角地にあって、図面上はたぶん、「角地にある大きな店舗」なんだけれど、中を仕切ってあって、「三角形に分かれた2つのお店」に改造してある。お客さんは、ドリアを食べたければドリアの門に、石焼きビビンバを食べたければ石焼きの門にそれぞれ入って、お互いの行き来はできないようになっているんだけれど、バックグラウンドでは、同じ厨房で、いろんな料理が作られている。

そこは要するに、「暖めれば出せるもの」をたくさん冷蔵で用意しておいて、学生アルバイトを雇って、火にかけた品物をお客さんに供給しているだけなんだけれど、保存が利くからなのか、メニューの数はけっこう多い。それぞれのお店で、「ドリア」と「鍋」と、だいたい20種類ぐらいずつ。

お店はだから、その気になったら「40種類の料理を出す大きな店」にすることもできたんだろうけれど、そのお店は、あえて仕切りを入れたのだと思う。

普通の人の普通の楽しみかた

恐らくは「普通のお客さん」は、典型的な楽しみかたをしたい。

たとえば異国のお祭りに迷い込んだところで、「普通の人」はたぶん、それを楽しめない。異国なんだから、何を見たって珍しいのだし、自分が面白いと思ったものを楽しめればそれで十分なんだけれど、普通の人にとってはたぶん、「自分が楽しい」ことよりも、「みんなと同じ楽しみかたができた」と納得することのほうが、もっと大切。

40種類のメニューを持った大きなお店は便利だけれど、そのお店を、普通の人が、じゃあどういう楽しみかたをしたらそれが「典型」なのか、大きなお店は分かりにくくて、たぶんお客さんは、「普通に楽しんだ」満足感を味わえない。

賑やかでなんだか楽しそうなんだけれど、どこから楽しめばいいのか分からない、こういうのはたぶん、「楽しみたいように楽しめる」ような、「強い」人には居心地いいんだろうけれど、「普通の人」は、たぶんマニュアルを渡されて、それをなぞって「はい楽しんだよね」って言われないと、楽しいとは思えない。

「顧客から見た風景をシンプルにして、分かりやすい楽しみかたを提供する」ことが大切なのだと思う。「何でもあり」を楽しめる少数に向けたサービスは、どこかでしぼんでしまうような気がする。

ニコニコ動画が複雑になった

ちょっと前のニコ動は、好きな単語を検索して、再生数の多い動画を楽しんで、タグをたどって面白そうな動画を探して、大体みんな、そんな風に楽しんでいたみたいだったから、安心だった。

今はなんだか、「いわゆるニコ動」以外にも、生放送とか大百科、コミュニティ、いろんな楽しみかたが提案されて、それぞれ連携して、便利になって、多様になって、結果として、「自分はたぶん真ん中を楽しんでいる」なんて、そんな安心感が遠くなった。今までどおりに遊んでいるのに、なんだか不安な気分。

これが文化祭とか、あるいは実世界でのイベントなら、たとえば「順路を回る」とか、「好きな歌手のコンサートを聴く」とか、主催者側はたいてい、「典型的な楽しみかた」というのを提示する。お祭りを楽しみたい人は「祭の正門」をくぐるってパンフレットを受け取るだろうし、コンサート目当ての人は、たいていは看板が立っていて、中庭のステージ前で待機していれば、そこでコンサートを楽しめる。

「普通の人」はたぶん、自分がそこを楽しむよりも、むしろ「みんなと同じ」を志向して、びくびくしながら「群れの真ん中」を探す。「いつも真ん中」感を提供しようと思ったなら、だから「たくさんの選択肢」を提供するよりも、むしろ「たくさんの門」を提供して、「つながり」は、バックグラウンドで提供したほうがいいような気がする。

今みたいな「何でもあり」の賑やかな入り口ページは、やっぱり難しい。

たとえば「いわゆるニコ動」を楽しみたい人なら、Google みたいな検索窓と、カテゴリーごとのタグで十分だし、「ニコニコ生放送」を楽しみたい人に向けたページなら、やっぱりそれはテレビの延長なんだから、入り口ページを開いたそのとたん、「世界の生放送」が勝手に始まるぐらいでちょうどいいんだと思う。コミュニケーションのページなら、そこはmixi そっくりのページレイアウトでいいわけで、たとえそこでやりとりされるのが動画サイトの話題とはいえ、コミュニケーションを提供するページからは、あえて動画を隠すぐらいでいいんだと思う。

ページを開いて、開いたそのとたん、「どうすれば典型的に楽しめるのか」が視覚的に提供されて、はじめてたぶん、普通の人は「楽しみかた」を理解できて、理解を提供できないサービスは、それがどれだけすばらしいものを提供していても、やっぱりどこかで天井に突き当たる気がする。

あくまでも「自分が典型的な普通の人」であることが前提での印象なんだけれど。

2009.10.04

完璧と無難

ある状況を支配している「完璧」なトップランナーに対抗するときには、 価格競争とか、品質競争とか、そういう努力を始める前に、相手の「完璧」を、 「無難」へと変換する何かを作らなければいけないのだと思う。

チーズケーキを売る店

15ヶ月ぶりに休みが取れて、那須高原に遊びに行ってきた。

旅行には「お土産」がつきものなんだけれど、恐らくは「那須高原のお土産」という 業界をリードしているのは、「那須高原 チーズガーデン」というお店で、 ここで売られている「御用邸チーズケーキ」という商品が、ずいぶんたくさん売れていた。

ここのケーキには「御用邸」という、ちょっとした権威がくっついていて、商品はそれでも1000円ぐらい。 室温保存で日持ちがして、おまけに固めに焼かれているからなのか、少々乱暴に扱ったぐらいでは壊れない。

お土産物として、このケーキはすごく良くできていて、そのお店には実際、 ツアーのバスが何台もやってきては、お店の中には様々な商品が山と積まれて、 チーズケーキと一緒によく売れていた。

「安さ」では「良さ」に対抗できない

チーズガーデンの近くには、他にもたくさんのお菓子屋さんとか、土産物屋さんがあって、 そこでもいろんなお菓子が売られているんだけれど、どれも今ひとつぱっとしないというか、 トップランナーのお店に比べてしまうと、お客さんの入りは今ひとつだった。

店によっては、「チーズガーデン」よりも大きな敷地を持っていて、販売されているお菓子の種類も充実していた。 価格にしても、たぶん品質にしても、「チーズガーデン」とそんなに大差はないはずなのに、 たぶんそうした商品は、そのお店を運営している人が期待したほどには、頑張りに見合った分の 成果を上げていないように見えた。

「那須のお土産」という一つの業界があったとして、 業界を牽引するリーダーが「チーズガーデン」なら、たぶん2番手以降のお店は、 同じ方向で「より良い」だとか「より安い」を目指してはいけないのだと思った。

2番手がどう頑張っても、方向が同じなら、それは「劣化コピー」になってしまう。「お土産」という、 伝統とか、名声が圧倒的な差として効いてくる業界においては、わずかな差違は、 越えられない壁となって、2番手の努力を無にしてしまう。

「完璧」が犠牲にしているもの

チーズガーデンのチーズケーキは、伝統も、権威も、価格も、 可搬性も持ち合わせていて、お土産としての性能は、たぶん完璧に近い気がする。

「完璧な商品」に、安さや品揃えといった努力要素で対抗しようと思ったならば、 まずは「完璧な商品」が完璧であるがゆえに犠牲にしている何かを探して、 そこをひっくり返さない限り、その努力に意味が生まれない。

チーズガーデンのチーズケーキについては、これは完璧な商品で、すごい人気であるがゆえに、 在庫を欠かすことができない。材料が安定していないと、商品を大量に供給することができないから、 那須高原だけでは材料を安定調達するのは難しいみたいで、そこで扱っている他の商品になると、 「フランスのチーズ」だとか「イタリアのワイン」だとか、那須高原とはあんまり関係のない商品が並ぶ。

完璧な定番商品は、たぶん定番であり続けるために、安全係数が高く取ってある。商品の瑕疵は 許されないから、恐らくは保存料みたいなものを欠かすことはできないだろうし、商品としての安全性を 高めるための工夫は、必ずしもたぶん、お菓子としての「性能」を高めることにはつながらない。

「完璧」は「ピーク性能」という価値の前に「無難」になる

2番手のお店は、「材料はオール那須、保存料無添加、その代わり作れるかどうか分からない」ぐらいの、 「不安定なチーズケーキ」を売り出して、それをぶつける、というやりかたがいいと思う。

その商品は、朝の10時に予約が必要で、店はそれから材料の調達に走って、夕方4時頃、 1000個の注文に600個しか応えられないとか、最悪「牛の調子が悪くて、 今日は作れませんでした」なんて看板ぶら下げて、買いに来たら店主が土下座してたとか、 それぐらいに不安定な製品。

「買えるかどうか分からない不安定な製品」を用意できれば、運がよければたぶん、 「那須に来たらあの店で予約」という、人の流れが生まれる。

不安定だから、お客さんの数は少ないだろうし、あるいはチーズガーデンの商品のほうが、 価格でも、品質でも圧倒的に優れているのだろうけれど、「不安定」を買いそびれたお客さんにとっては、 完璧であったはずのチーズガーデンの製品は、もはや「無難」であり、「次善」に思えてしまう。

「完璧」を「無難」に書き換えることで、そこで初めて、価格競争だとか、 品質競争みたいな、努力要素に意味が生まれて、2番手以降のお店は、競争の入り口に立てるのだと思う。

それでもトップは努力している

で、「チーズガーデン」にはすでに、こういう商品があったりする。

「オール那須」でこそないみたいだけれど、冷凍前提、解凍すると3日しか持たない高級品を売っていて、 これは崩れるし、保存が利かないし、常温にすると溶けてしまうから、距離があると持ち帰れない。

リーダーがリーダーであり続けようとしたら、リーダーは常に自分の弱点を自ら攻めて、 業界全体に、自ら新しい価値を提案し続けないといけないけれど、「那須のお土産」業界は、 リーダーが正しくリーダーの役割を演じていているのに、セカンドグループ以降は、 まだ「競争」を行ってすらいないように見える。

このへんにマーケティングの人たちが入り込むと、きっとまだまだ盛り上がるだろうし、 競争しているように見えて、実は競争は、始まってもいない業界というのは、 案外多いんじゃないかと思う。

2009.08.08

見栄と嫉妬の行動学

経済学は、人の振る舞いを、「利得」と「リスク」とのバランスで説明しようとする。

「利得」とか「リスク」に対する感覚というのは、どちらかというと個人的なものであって、 ネットワークを作った人、「社会」の振る舞いは、しばしば「利得」と「リスク」では説明がつかない。

恐らくは「見栄」と「嫉妬」という判断軸を導入することで、ネットワーク化した人の群れに見られる、 「経済的に不合理な行動」というものが、説明できるような気がする。

個人に不利で、社会にとっては有益な振る舞い、しばしば「利他的」と表現されるこうした行動は、 「見栄」によって駆動されるものだろうし、社会にとって最悪な、しかも本人にとっても、 それが必ずしも個人の得にならない行動というのは、たぶん「嫉妬」によって駆動される。

「嫉妬する上司」問題

たぶん「部下に嫉妬する上司」というのがいる。こういう人たちはしばしば、自らの土台もろとも、 組織を潰してしまうような決断を下してしまう。

能力主義の組織においては、そこにいる人は、能力の限界まで出世することになる。 平社員の時には有能であった人物も、出世することによって、どこかで「無能な上司」となって、そこで出世が止まる。

「上に行けなくなった上司」というのは、その地位において無能になった人物だから、 その場所でたいした仕事ができるわけでもなく、かといって下には戻れない。 悪いことに、自分が有能であったその場所には、もっと優れた若手が座っていたりする。

こういう状況に陥った上司は、たぶん部下に嫉妬する。嫉妬という感情を認めてしまうと、 上司は自らが無能であること、後続の若手に「負けた」ことを認めてしまうことになる。 無能が嫌なら努力すればいいんだけれど、「努力」は同時に、「嫉妬」という感情の存在を 裏付けてしまうから、ジレンマに陥った上司は、だから「一発逆転」を狙う。

現場を回している部下が聞いたら鼻で笑うような、どうしようもない提案をするコンサルタントが、 たとえばカタカナ成分の多い、海外で評判とか、裏を返せば国内での評判は最悪の、 そんな提案を現場に持ち込む。

現場はもちろん猛反対して、上司もまた、その提案が荒唐無稽であることぐらいよく分かっているのだけれど、 現場の反対は、むしろ上司の背中を押して、コンサルタントの提案は、上司の支持を得て、現場に導入されてしまう。

嫉妬の脆弱性

競争に「負けた」人間には、もはや「信じる」ことでしか、状況を変えられない。

それがどれだけ荒唐無稽な提案であっても、有能な部下が「信じない」ものを「信じる」ことで、極めて低い確率ながら、 上司は努力を行うことなく、自らの嫉妬を認めることなく、嫉妬の対象たる部下を「逆転」できるかもしれないから。

特定の何かを見てるわけじゃないけれど、何となく、こういう傾向はいろんな場所にあって、 「会社」だけでなく「家族」だとか「クラス」だとか、たぶんいろんな組織が、「嫉妬する上司」という脆弱性を抱えているのだと思う。

なにかゴミみたいなプロダクトを、そんなものを必要としないような、安定した組織に売りつけようと思ったならば、 まずは「嫉妬する上司」にあたる立場の人を見つけ出して、その人に「逆転」の可能性を説くと、 きっと上手くいく。

認めると楽になる

「見栄」や「嫉妬」は可視化されないし、たいていは、それを抱いた本人も、 それを「ない」と否定する。

それを「ある」と認めたなら、たぶんその人は合理的に、肩の力を抜いて振る舞えるんだろうけれど、 それを認めたくないという思いが、嫉妬をして、見栄をして、極めて不合理な行動に、その人を駆り立てる。

恐らくはそうした感情を「ある」と表明してしまうことが、世の中を楽にやっていく秘訣みたいなものに つながるんだけれど、何かを「うらやましい」だなんて、嫉妬を表明できる人というのは、 あるいは相手にどこかで「勝って」いるからこそ、それが表明できるのかもしれない。

「妬んでも1人」、「嫉妬しても1人」という状況下で、どれだけ「嫉妬の表明」を行ったところで、 それはなんの解決にもならないから、「妬みの積極的表明」という行為は社会から全然自由になれていないし、 行為それ自体には、なんら治癒的効果はなくて、大事なのは行為でなくて、 そういう立場にいることのほうなのかもしれない。

嫉妬の行動学みたいなもの

「見栄」と「嫉妬」を上手につつくやりかたというのは、たぶん広告の人たちが詳しいんだろうけれど、 「嫉妬」という切り口で人の振る舞い、とくに社会化された人の振る舞いを見直すと、いろいろ 面白いような気がする。

某SNSで教えていただいた、「天皇制はトップに対する嫉妬を避けるための知恵だった」なんて 考えかただとか、「非上場のオーナー企業が案外強い」理由なんかもまた、 嫉妬が隠蔽されるような状況において、嫉妬を上手にコントロールする仕組みが要請された 結果として、特定の組織構造が生まれて、しばしば経済不合理に見えるそうした組織が、 歴史の重みによく耐えて安定していることを、上手に説明できるのかもしれない。

2009.06.12

足すこと引くこと

「その道具を定義する動作」というものがあって、そこに何か新しい動作を「足す」ことは難しいし、 そこから何かを「引く」、あるいは「隠す」と、今度はその道具が持つ意味が書き換えられてしまう。

足すのは難しい

大学に入っていた電子オーダリングシステムは、自分のID と、パスワードとを打ち込まないと、 PCが稼働しないようになっていた。これがものすごく面倒で、結果として、誰かがログインしたら、 そのIDをそのまんま使い回したり、ログインしたあと、「次に使う誰かのために」、 ログアウトしないでPCをそのまんま放置したりだとか、ルール違反が当たり前だった。

近所の病院に入っているシステムはもう少し上等で、職員はみんなカードを持っていて、 PC備え付けのカードリーダーにカードを通すと、そのPCにIDが認識される用になっている。 ID を打ち込むのに比べれば進歩したんだけれど、カードをリーダーに通す、その一手間がやっぱり面倒で、 状況はあんまり変わっていないんだという。

恐らくはPC という道具を定義する動作の中に、「ログイン」が組み込まれている人はUNIX 技術者ぐらいで、 大多数の素人は、PC をみて、そんな動作が想像できない。道具が定義する動作の中に、ログインが組み込まれていないから、 その一手間が面倒に感じて、守られない。

既存の動作をハックする

個人用途でPC を使うときには、PC の前に置かれた椅子に腰掛ければ、ユーザーはその瞬間から仕事ができる。 これが当たり前になってしまっている以上、ログインの操作をどれだけ洗練させたところで、 ルールを守ってもらうのは難しいのだろうと思う。

恐らくは「椅子に座る」「椅子から立つ」という、PC を取り巻く動作の中に、ログインとログアウトとを 組み込んでしまえたなら、ルールを意識しなくても、ルール違反をする人はいなくなるような気がする。

具体的には、自動車の「スマートキー」みたいなものを職員バッジに組み込んで、PCから50cm 以内に近づいた人を ログインユーザーと認識して、キーを持った人が近くからいなくなったら、自動的にログアウトするようなシステムが作れたら、 ログイン/ログアウトに関する問題は、きっと相当程度解決する。

PC ソフトだとか、あるいはインターネットを通じてお金を稼ぐ、ユーザーからお金を払ってもらうために、 いろんな会社が試行錯誤しているけれど、「これ」という解決策は、まだ見つかっていないような気がする。 これなんかもたぶん、PC という道具が定義する動作のなかに、「支払い」というコンポーネントが 存在しないからなんだろうと思う。

Apple が作ったiPhone は電話だし、Amazon の電子ブックリーダーは、全く新しい道具だけれど、 おそらくああいった新しい道具は、IT 企業の一種の敗北宣言みたいなもので、 その成り立ちの中に「支払い」という動作をあらかじめ組み込んでいないPC というデバイスに、 今から支払い機能を組み込むことは、Apple やAmazon でさえ、やっぱり難しかったんだろう。

引くと文化が変わる

補助金制度だとか、何かの理由で医療費が無償になると、人によっては、薬に対する態度みたいなものが大きく変わる。 もちろん全然変わらない人もいるんだけれど、変わる人は、外来3回ぐらいでがらっと変わる

無償になった人は、高価な薬を好むようになる。ジェネリック品というのは、たとえば薬のフォントがゴシック体であったり、 薬のパッケージが、色つきのアルミから無地になったり、どことなく値段が安く見えるんだけれど、そういう些細なことが、 無償ユーザーになった人には、我慢できなくなるらしい。

外来をやっていて、やっぱり不景気だから、普通にお金払って病院に来る人は、けっこう多くの人が、 「ジェネリック品にして下さい」なんて頼む。それなりに、この言葉は普及してるんだと思う。 無償ユーザーの人は逆行して、「このあいだ変えてもらった薬、なんか安っぽくて効かない気がするから、 前のに戻して下さい」とか頼まれる。

正規品を作っているメーカーは、安価なジェネリック品に対して「品質」で対抗しようとしているけれど、 それをきちんと理解して、それを感覚できるのは、むしろ支払いから自由になっている人のほうが多い気がする。 あれなんかを見てると、「お金を持っている人に品質を訴える」という、一見当たり前の広告戦略は、 どこか間違っているような気がする。

動作を見直して書き換える

たとえば「支払い」という機能を持たないPC という道具からお金を取るためには、電話線を供給している会社と、 銀行とが手を組むのが一番いいのだと思う。ブロードバンド時代、回線は月極で使いたい放題なのが当たり前で、 たぶんほとんどの家が銀行引き落としになっているのだろうけれど、銀行と、回線会社とが相互乗り入れして、 ネット世界での支払いを、全部自動で、支払いという行為と、マウスクリックとを直結するようにしたら、 ネット世界に流れ込むお金の総量は、ずいぶん増えると思う。

ソニーが今度出す、ダウンロード専用になったポータブルゲーム機というものがどうなるのか、 ゲームはしないんだけれど、あれは「ゲーム機」を取り巻く動作を大幅に書き換える試み。 ゲーム機には「ゲーム屋さんで買う」という、「小売り」と「支払い」という、それぞれ動作と機能とが 組み込まれていたのだけれど、ソニーの新しいゲーム機は、それをなくしてしまおうとしている。

それがiPhone なら、あれはあくまでも「電話機」だから、機械それ自体に支払い機能が組み込まれている (追記:iPhone の支払いは、あくまでもiTune 経由なのだそうです)けれど、 道具本来の機能を捨てて、そこに新しい支払い機能を組み込んで、ソニーという大メーカーなら、 道具が定義する本来の動作を書き換えることが可能なのかどうか、経過を追っかけると面白いと思う。

2008.12.20

サービスの考えかた

認知症の厳しい99歳のお年寄りが今入院していて、看護師さんがそのまんま、 「認知症が厳しくて大変です」なんてご家族にお話ししたら怒られて、 病棟で、「あの家族は厳しいから気をつけて」なんて申し送りしてた。

何かが間違ってると思った。

接遇向上のこと

看護師さん達は、「接遇向上」と称して、この数年、丁寧なしゃべりかただとか、 相手の目を見て、受容的な態度を取るだとか、サービスの向上を目指して、 医師なんかよりもよっぽど熱心に取り組んでる。熱心なんだけれど、どこかずれている。

「サービス」というもの、顧客に「理解」を販売する、医療みたいなサービスにおいては、 サービスの向上とは、すなわち印象から判断を削除して、事実をより分かりやすく、 予断を除いた形で提供することなのだと思う。

事実と判断とを峻別する

「その人が認知症であるか否か」をきちんと定義することなんて、そもそもできない。 極論すれば、あらゆる病気の診断は、「医師がそう判断したから」という以上の根拠を持てない。

熱を出した患者さんがいて、肺の中が喀痰と細菌で満たされているのが確認されても、 確実に断言できるのは、「発熱している」こと、せいぜい「肺の中に膿がある」ことぐらいで、 「肺炎である」というのは判断であって、断言できる事実にはなり得ない。

病名というのはだから、状況を判断する人の口から出るべきものだし、 「インフォームドコンセント」だとか、「病気を指揮するのは、サービスの受け手である患者さん自身である」 なんて立場を本気で貫こうと思ったならば、医療従事者の口からは、「病名」を出してはいけない。

判断はサービスに貢献しない

医療者が提供する「判断」というものは、恐らくはサービスに貢献しない。

医療従事者は、患者さんの目の前に事実を積む。患者さんはそれを見て、何かの判断を下して、 病衣はそれに従って動く。これが行われてはじめて、健全な主従関係が、 「従僕としての医療者」という、絵に描いた理念が実体化する。

「診断」のような、医療者側の判断を含んだ言葉は、本来はたぶん、 「事実の詰みかた」を工夫する形で、患者さんとの会話から回避されないといけないし、 そうした工夫を考えることが、医療従事者にとっての「サービス向上」なんだろうと思う。

99歳の、くだんの患者さんにしてみれば、一晩に6回以上点滴引き抜くだとか、 便こねした手を口に入れようとするとか、一晩中叫び通しで一睡もしないとか、 それは疑いようもない、看護師さんが観測した事実。

事実を重ねて、患者さんのご家族に「じゃあ、どうする」を考えてもらうのが筋であって、 「この人は認知症だから、そういう対応をします」をこちらからやると、 それをどれだけ丁寧な言葉で飾ったところで、やっぱりご家族は不快に感じる。

クソの山にバケツいっぱいの香水を振りかけたところで、それは「いい匂いのするクソ」にしかなれない。

「香水」を工夫しちゃいけないのだと思う。

2008.12.03

寄付の依頼が来た

なんかいろんな人の不興を買ったみたいなので、この記事は消します。

ミスリードばっかりの記事を配信して、どうも大変申し訳ありませんでした。。。。。

2008.10.29

「勝つ予感」はデザインされる

恐らくは「名将」なんて持ち上げられるような人というのは、あとから冷静に振り返ってみると、 案外「ショボい」勝利しか上げていないような気がする。

「名将」はその代わり、大きすぎる問題を切り分けることが上手で、「小さく解決する」やりかたをデザインして、 現場から「勝つ予感」を引き出すことが上手で、もうひとつ、そうして得られた小さな勝利を運用して、 それを大きな戦果に結びつけるのが上手なのだと思う。

えらい人が指揮する部隊は怖い

墨東病院が大騒ぎになっている。

人手が絶対的に足りなくて、結果的に患者さんが一人亡くなった。都知事と厚生大臣と、 日本を代表するような大物が二人、病院を舞台に喧嘩を始めた。すごくよくないことだと思う。

どちらが勝つにしても、喧嘩の舞台になった病院は、これから先は、 大物自らが指揮を執ることになる。

ふがいない。俺様自ら戦闘というものを教えてやる」なんて、 現場を知らない大将軍が指揮したぶたいは、たいてい悲惨な結末を迎える。

大将軍はどうせ間違えるし、絶対に退却を許さない。一番えらい人が間違えるなんてありえないから、 代償軍はたぶん、敗北を認めるぐらいなら、現場に玉砕を命じる。屍の山を前にして、 大将軍は「やれるだけのことはやった」なんて独りごちて、自分は安全地帯に引き上げる。

厚生大臣と都知事と、現場を知らないことではいい勝負の、「大将軍」争う場所には、だから誰だって居たくない。 大学だって恐くて人を出せないだろうし、フリーランスの人達だって、寄りつかない。

あの病院にはだから、これから人が増えて盛り上がるとか、ちょっと想像しにくい。

「大将軍」がそこにいる限り、なんというか現場には、「勝つ予感」みたいなものが、全くしてこないから。

なんとなく「インパール作戦」の状況に似ている気がする。

負け戦になるのが見えていて、現場はみんな反対したのに、 「失敗したら腹を切る」だとか、気合いの入った将軍が指揮を執って、 結果として何万人もの日本兵が餓死した戦い。

戦いの途中で糧食はつきて、現場は何度も撤退の伺いを立てたけれど、 将軍はそれを許してくれなかったのだという。

墨東病院は都立だ。都立の医師は、食わず、眠らず、人がいなくても患者を取るもんだ。それが都立だ。 それを泣き事言ってくるとは何事だ。 人がいなくても手を増やせ。手がなくなったら足で働け。 足がだめなら頭を使え。都立病院には大和魂があるということを忘れちゃいかん。東京は首都である……

最後はたぶん、こんな訓辞を「将軍」が述べる中、寝不足の現場からは、人がいなくなってしまうんだろう。

予感はデザインされる

太平洋戦争直前、黒部渓谷第3 ダムのトンネル掘りに携わっていた現場の人達は、 摂氏150度にも熱せられた岩盤にぶつかって、非常な苦労をしたんだという。

これぐらいの温度だと、運が悪いと「発破」は自然爆発してしまって、 何百人もの職人が犠牲になって、現場の工事は動かなくなった。

技術者の人があれこれ工夫しても、現場は納得しなかったけれど、工事長がダイナマイト3 本を竹で束ねて、 束ねたダイナマイトごと製氷機で凍らす、「アイスキャンデー作戦」を提案して、 自らその「アイスキャンデー」で岩盤を爆破して見せたら、現場の職人も納得して、工事は再開したんだという。

武器というものは、持ったときに「当たる予感」がするようにデザインされていないと当たらない。

設計者がどれだけの性能を主張しようと、そのデザインが兵士に「当たる予感」をもたらさないのなら、 武器を手にした兵士が、「当てる自分」をその武器から想起できないのなら、その武器はやっぱり当たらない。

交渉の名人は、たぶん無理しない。

価格交渉ならそんなに値切らないし、身代金交渉なら、たぶん親族が払える最大値で妥協する。 彼らがつかむ勝利は常に「小さい」けれど、交渉の名人はその代わり、交渉で得られたごくわずかな勝利を、 最大の戦果として喧伝する。

名人は、あとから冷静に振り返ると、意外にショボい交渉しかしない。そのことは名人自身も理解していて、 だからこそ名人の交渉は常に成功するから、名人が現場に来ると、そこにいる人達は、勝利を予感して、 名人はまた、小さな勝利を一つ重ねる。

ニュースでは、病院間を結びつけるネットワークシステムの不備に問題意識を感じているとか、 偉い人達がコメントしていた。恐らくはこれから、けっこうなお金が投入されて、 「ネットワークシステム」が完備されて、「これで理論上、現場はもっと効率よく回る」なんて 流れになる。

改良された病院間ネットワークは、あるいは本当に、問題を解決するだけの性能を 持っているのかもしれないけれど、やっぱりそれは動かないと思う。

「ネットワーク」というアイデアを聞いても、なんというか、そこからは全然、「それを使って勝つ自分」 が想像できないから。

「勝利をデザインするセンス」みたいなものが大切なのだと思う。

士気というもは、設計上の性能だとか、投じられたお金や政治的努力の量ではなくて、 むしろ視覚的な、感覚的な、「デザイン」に相当するものが分かりやすく示されて、初めて発生する。

「士気を出せ」だとか、「現場がだらしない」なんて怒鳴る指揮官は、それは「勝利のデザイン」に 失敗していて、それを意識できない人というのは、たぶんどれだけの資材を現場に投じても、 現場を動かすことができないのだと思う。

2008.08.30

形が機能を支配する

形が機能を支配する

待合室に座っている患者さん達が、携帯ゲーム機で遊んでた。

大人も子供も、イヤホンつけて、膝の上にゲーム機抱えて、みんな同じ格好をしてた。

そこで行われているのはゲームだけれど、ある意味その姿は、未来の風景の先取りなんだと思った。

形から入るやりかた

何か新しい物を広めようと考えたときに、「形から入る」やりかたのほうが、正解に近いのだと思う。

機能は十分だけれど不格好な製品をまず出して、それを改良するやりかたと、 機能はまだ不完全もいいところだけれど、形だけは、デザイナーが描いた「未来」になっている製品をまず作り上げて、 機能はあとから作り込んでいくやりかたとがある。

技術者のコミュニティに受け入れられて、新製品に最初に飛びつく人達が未来を感じるのは、 たぶん十分な機能が実装された不格好な製品なんだろうけれど、最終的に広まって、 未来の日常の中で、風景として認知されるのは、たぶん形から入った製品になるような気がする。

携帯電話のご先祖は、自動車電話だった。

高価だった自動車電話は、そのうち改良されて小さくなって、今では誰もが携帯電話を持ち歩く。

技術的には、携帯電話は車載電話の延長線上にある製品だけれど、文化的には、 携帯電話と車載電話とは、どこかで断絶があるような気がしている。

車載電話は、固定電話に移動という機能を付加した。車載電話は、持ち運べる家である「自動車」 に備え付けられた固定電話だから、技術的にも文化的にも、固定電話と車載電話は間違いなく 地続きのものだけれど、携帯電話の文化的なルーツとなったのは電話機ではなくて、 むしろ子供の頃に遊んだおもちゃのトランシーバーだとか、特撮ヒーローが使っていた無線機だとか、 そんな「風景」なのだと思う。自宅の電話機も、電話ボックスも、自動車電話も、 電話という風景は、本来「部屋」とは不可分なものだから。

組み込まれた動作セット

このあたり完全に妄想だけれど、自動車電話が小型化されて、携帯電話が一気に広まった理由というのは、 恐らくは料金プランだとか、生活スタイルの変化だとか、そんな分かりやすい理由とは別に、 「街で無線を使って会話する」動作セットが、たぶん70年代生まれ以後の人達には、 様々な物語、ウルトラマンだとか、宇宙戦艦ヤマトみたいなものを通じて、 最初から組み込まれていたからなのだと思う。

病院の待合室では、待っている間、子供は誰でも携帯ゲームで遊ぶ。 あれはたしかに、まだ単なるゲームでしかないけれど、「液晶画面がくっついた道具を片手に持ち歩いて、 それで何かする」、そんな動作セットは、彼らが大人になっても、変わらずにそのまま残る。

iPhone みたいな携帯情報端末は、いずれどこかで急速な普及をするだろうけれど、 それもまた、恐らくは技術者の努力だとか、画期的なコストダウンだとか、機能的な理由とは別に、 ある文化が日常の風景として一般的になるタイミングというのがどこかにある。携帯ゲームは、 たぶんそんな新しい風景を受け入れるための動作セットを作り出している。

iPhone を今利用している人達は、あのデバイスの「新しさ」が面白いという。

新しさというのは意識に対する違和感で、意識というものは、 生まれてから今までに蓄積されてきた、動作セットの蓄積だから、iPhone はたしかに新しいのだろうけれど、 あのデバイスはまだ新しすぎて、日常の風景として、あれを受け入れた人は少ないのだと思う。

何か日常で使うものを広めるときには、それを使う人に、驚きを与えてはいけない。新しさとか、 驚きという価値軸は、遊びとか、ゲームをするための道具にあるべきもので、日常で使うものに 新しさを付加する考えかたは、どこか違う。「新しい」道具は、機能が好きな人には受けるかもしれないけれど、 形から入る人、「キャズム」を越えた先にいる、本来その道具を大量に使うであろう多くの人には、 その新しさが足かせになるような気がする。

たとえば人型のロボットがいたとして、それが人のように振る舞うのを見ても、違和感を感じる人は、たぶん少ない。 「家事ロボット」みたいなものが将来発売されるとしたら、たとえ機能的に必要なくても、 張りぼてであっても「頭」を作ったほうが、そのロボットの普及はきっと速いはず。

形が機能を支配する

ダイナブックの発想、最初に形を決めて、それを使っている人の風景を描いて見せて、 まずはイメージから、風景から、形から入るやりかたというものは大切なんだと思う。

何かを本格的に普及させようと思ったら、だから「それがある風景」をまず浸透させるやりかた、 イメージボードや小説、映画みたいな物語を使って、まず形から入るやりかただとか、 「今ある風景」を見直して、そこにある動作セットを「ハック」して、何気ない日常の動作に、 新しい意味を付加するやりかたというのが、本来正しいのだと思う。

chumbyみたいな、 「画面がついた目覚まし時計」というやりかたは、だから未来があるような気がする。 お布団に寝っ転がって、目覚ましの文字盤みながらボタンを押すのは、日常の動作として、 多くの人に組み込まれているものだから。

文字盤が液晶画面に変わって、目覚まし時計を止めるためのボタンを「クリック」するたびに 画面が変わって、将来的にはたとえば、その目覚ましに携帯電話回線が組み込まれて、 ボタンをクリックするたびに、なにか有料のサービスにつながったりする。地味だけれど、 「目覚まし時計のボタンを押す」のはみんなの基本動作だから、「クリック」が積み上がると、 馬鹿に出来ないような気がする。

見やすい画面だとか、コンテンツの工夫を通じて「クリック」してもらうことを考えるのでなくて、 日常生活の動作セットを見直して、「ボタンを押す」風景を、別の機能で乗っ取るような考えかた。

変革というものは、形から始まる。

それがあることで、今より圧倒的にすばらしい生活の風景を物語るやりかた。あるいは、 今ある風景を「ハック」して、同じ動作に、全く違った意味とか機能を忍ばせるやりかた。

歯ブラシとかトイレットペーパー、洗面台の内側、目覚まし時計、冷蔵庫、 今ある風景の「いつもの動作」を見直して、それがいつから日常としてすり込まれたのか、 同じ動作セットを使うことでそこにどんな意味を割り込ませることが出来るのか、 部屋を眺めれば、たぶん何か見えてくる。

2008.08.21

文化は誰のものか

医師がまだ「プロ」として認知されてた大昔、自分たちは病院内で自由に振る舞って、 患者さんは慎み深く、トラブルなんてなかった。

技術だとか、知識だとか、彼我の差は圧倒的で、だから病院は聖域であり得たし、 トラブルが起きたところで、もしかしたらたぶん、患者さんには、それがトラブルであると認識出来なかった。

時代は進んで、いろんなことがやりにくくなった。

患者さんの突っ込みは厳しいし、「自由に振る舞う」なんてとんでもないし、 どんなトラブルも、それが起きたその時点で、そこにいる全ての人が、 「トラブルである」と認知するようになった。

時計の針を逆に回すやりかた。

知識は追いつかれる

「知」というのは、それが知であるためには記述可能で、再現可能でないといけない。

知識は広まって、模倣されて、広まるが故に、いつかありきたりになって、追いつかれる。

進歩のスピードは、維持できない。

自分が医師になって10年ちょっと、当時流通していた薬は、今でも全て現役で、 この10年間、「新薬」として発売された多くの薬は、明日からなくなっても、あんまり困らない。

要素技術のほとんどは、自分たちの手を離れてしまった。「画期的な新薬」は、 それを開発するのも、販売するのも、検証するのも、基本的には全部薬屋さんの仕事。 人工呼吸器の設定だとか、追加機能だとか、自分たちが「こうしてほしい」なんて要望上げても、 それを取捨選択して、実装するのはメーカーの人達。

医師自身が試験管振るって新薬作ったり、人工呼吸器試作したのは、もう何十年も昔。 医師はたしかに「えらい」けれど、権威は拡散して、要素技術は他人のものになった。

医師は薬に詳しいけれど、薬学の人とか、生化学の人とか、もちろん医師よりももっと詳しい。 医師は安全を重んじるけれど、工場のラインを設計している人が病院をみると、 あまりのずさんさに卒倒しそうになるらしい。

権威を知識量に求める今までのやりかたでは、もはや現場を守っていけない。

先駆者の優位は「逸脱」できること

マーケットを支配していた先駆者は、知識それ自体に頼っているだけでは市場を牽引できない。 先駆者はそのうち追いつかれて、価格競争や品質競争に巻き込まれて、 競合者に打ち倒されてしまう。

技術を伸ばすには限界がある。マーケットを支配することが出来た人は、だから今度は、 自ら築いてきたマーケットそれ自体を攻撃することで、自らルールを逸脱して、 競合者との距離をとる。

例えば自動車の技術は模倣可能で、競合者を生む。地上で初めて自動車を走らせた会社は、 たしかにすごい技術を持っているけれど、商品は、発売されたその時点で解析されて、 新規性を失ってしまう。

デザインやスピードの競争、価格の競争は不毛で、どこかで競合者に追いつかれる。 「我が社には技術があるから」なんて思考停止するのは悪手であって、時には先行メーカーが敗北して、 マーケットを競合者に奪われる。「我が社」の本当の強みというのは、道に車を走らせたことそれ自体なのに

先行メーカーは、自らのマーケットを攻撃することで、こうした不毛な競争を避けることが出来る。

「自動車は資源の無駄遣い」だとか、「自動車こそは環境破壊の元凶」だとか。

こんな広告は、競合者にも、もちろん先駆者自身にも不利に働くけれど、「攻撃」のタイミングも、 その攻撃対象も、先行メーカーは全て自分たちで決められる。攻撃者は、自分自身なのだから。 「攻撃」を行うその前に、先行メーカーは燃費のいい車だとか、環境に優しい材料で作った車だとか、 十分な備えを行うことが出来る。競合者は攻撃を読めないから、優位はいつまでも揺らがない。

録音するといいと思う

医師にはもはや、「技術的な優位」なんて残っていない。

あらゆる要素技術がメーカー開発になっている現在、医師が提供しているものは、 要素を集めたパッケージであって、パッケージを作るためには、複雑な知識は必要ない。 免許があるから「競合」は発生しないけれど、権威はもはやそこにない。

病院の中に入ったら紳士的に、医師を気遣うよき患者でいましょう」なんて貼り紙を貼ったところで、 もちろん何も変わらない。

もともと紳士的だった人は、貼り紙読んで「馬鹿にするな」と怒るだろうし、 紳士から遠い人もまた、貼り紙読んで大笑いして、やっぱり何も変わらない。 「自由な医師と、紳士的な患者」なんて、良かった昔を再現しようと思ったならば、 それを目標にするのではなくて、ルールを変えればいい。

ただ一言「この施設内での会話は全て録音されています」とアナウンスするだけで、 「よかった昔」は、たぶんすぐに再現できる。安全性向上のためだとか、お互いの正確な意思疎通のためだとか、 「録音」を行う理由はいくらでもある。今の時点でも、病院にはあらゆるベッド、あらゆる外来にマイクがあるから、 設備はすでに整っていたりする。

今も昔も紳士的であった人は、録音の有無で振る舞いを変える必要はないはずだし、 酔っぱらって絡む人とか、理不尽なクレームつけてくる人だとか、「録音してます」なんて 貼り紙読んだら、たぶん不自然な気遣いを始めてみたり、墓穴掘って翌日後悔したり、 いずれにしても、状況は望ましい方向に変化する。

録音は公平。一部の患者さんは、もちろん録音ルールで不利益を受けるけれど、 それは我々だって一緒。病院内の全ての場所で録音が始まれば、もちろん患者さんの悪口だとか、 陰口だとか、それらも全て録音されて、請求があれば公開される。

ルールというのは、公平でシンプルであればあるほど、お互いの能力差が、決定的な差として露呈する。

医師だってだから、録音ルールに耐えられない人は淘汰されてしまうけれど、我々はルールを作る側。 「録音されている環境」は、練習して適応することが出来る。医療従事者は、 録音環境におかれてもなお、自由に振る舞うやりかたを身につけることができるはず。

とりあえず裁判は一段落したけれど、それでもなお、「だから全ての医療行為について免責せよ」は、 やっぱり通らない。むしろ「新しい環境で、お互いを健全に縛りましょうよ」のほうが正しい。

文化は誰のものか

医療の業界には、「安全」だとか「丁寧さ」なんかが求められるようになった。

安全性高めるために、航空会社の偉い人が大学に天下ったり、「接客マナーを向上しましょう」なんて、 ホテルの接遇コンサルタントが講習会開いてみたり。

「安全」も、「丁寧」も、本来は医療のものなのに、病院には、医療以外の「専門家」が 大挙して、自分たちの文化を病院に持ち込もうとする。航空業界も、ホテル業界も、 たしかに「安全」「丁寧」のプロかもしれないけれど、背負ってる文化はやっぱり違う。 うち業界だって、そんなもの突っぱねればいいのに、偉い人達は、 どうしてだかそんな異文化を、ありがたく、無批判に受け入れる。

「録音環境」が出来たとして、そんな場所での振る舞いかたには、航空業界とか、ホテル業界の ノウハウは役に立たない。文化的な接点求めるなら、そんな空間は、むしろネット世間に似ている。

無難なことばっかりしゃべってもアクセス増えないし、いいかげんなこと口走ったり、 事実と判断との切り分けをきちんと出来ないと、そこを突っ込まれて炎上する。

ある程度の面白さ、わかりやすさを維持しつつ、ひどい「炎上」を回避しながら、 なおも病院に立ち続けるやりかた。そんなノウハウを蓄積することは可能だし、 その方向に舵切ることで、この業界の文化はまた、医療従事者の手に戻ってくる。

業界が奉じる価値観、文化のコンセプトそのものを変えることは、 最大手か最古参だけに許された特権。

文化というのは、他の業界が立ち入る場所ではないはず。

病院が、自ら文化を背負う存在であり続けるために、自らに攻撃を仕掛けるやりかた、 医師自身が、今いる場所をより厳しく、より厳密な振るまいが求められるようなルールを作っていかないと、 文化の担い手としての医師の居場所は、病院から無くなってしまう気がする。

2008.08.07

弔辞の比較

赤塚不二夫 氏の葬儀で、タモリが読んだ弔辞の比較。たぶんそこに集まった記者の人が聞き書きしたものだけれど、 新聞社ごとの立ち位置とか、葬儀に集まった人に対する考えかただとか、いろいろ邪推できて面白い。

比較したのは朝日新聞と、産経新聞。産経新聞のほうが文字数が多いから、 たぶん産経新聞のほうがオリジナルに近くて、朝日新聞は、それに編集を加えた印象。

朝日新聞のタモリは、亡くなった赤塚に語りかけるというか、どこか客観的な、 何だか卒業式で生徒を送り出すときの「教師」のような口調。

産経のタモリは、 訥々とした話しかたで、葬儀に集まった人達に、師匠としての赤塚を紹介する「弟子」のような、 そんなイメージを持った。

以下比較。

  • 産経「我々の世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代」
  • 朝日はこの言葉を省略している

冒頭の文章。

  • 産経「あなたは突然私の目の前に…」
  • 朝日「あなたは突然目の前に」

以後、産経のタモリは、ほとんど段落ごとに「私の」と入れるけれど、朝日は全て削っていた。 産経のタモリは、個人的な体験を語っているように響いて、朝日のタモリは、どこか教科書を書いているかのような印象。

  • 産経「私のマンションにいろ、とこう言いました」
  • 朝日「私のマンションにいろ」

上京したタモリを、赤塚が自分のマンションを提供して、そのまま引き留めたエピソード。 朝日のほうが臨場感があるというか、どこか脚本っぽい、時制を省いた書きかた。

  • 産経「大きな決断を、この人はこの場でしたのです」
  • 朝日の記事では「この人は」が省略されている

昔の回想。

  • 産経「深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました」
  • 朝日「いろんなネタを作りながら教えを受けました」

赤塚への言葉。

  • 産経「あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として残っています」
  • 朝日「あなたが言ってくれたことは金言として心の中に残っています」

「どんちゃん騒ぎ」と「あなた」は、朝日的には何か汚らしいイメージがあったのかな、とか邪推する。 文章の通りはたしかに朝日のほうがいいんだけれど、やっぱり朝日は、個人的に聞こえるところを省こうとしている気がする。

絶対にツモでしか上がらなかった、赤塚の麻雀作法について。

  • 産経「相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて…」
  • 朝日「相手の機嫌を悪くするのを恐れて」

麻雀のルールを知らない人にも、赤塚のよさを伝えたい、というタモリの気持ち。産経はそのあたり 全部記述しているけれど、朝日は削除。朝日のほうがきれいだけれど、何だか生前の赤塚不二夫が、 どこか計算高い人物のようにも聞こえる。

  • 産経「あなたは私の父のようであり(中略)時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は」
  • 朝日「あなたは父のようであり(中略)時折見せる無邪気な笑顔は」

朝日は形容詞を端折る。

このあとに、産経の弔辞には、タコ八郎の葬儀のエピソードが入る。赤塚不二夫の泣き笑い顔を、 タモリが細かく描写した場面。朝日は全てカットした。

  • 産経「あなたの考えは、全ての出来事、存在を、あるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです」
  • 朝日「あなたの考えは、全ての出来事を前向きに肯定し受け入れました」

産経のタモリは、師匠としての赤塚を描写して、赤塚に「正解」を問うているように聞こえる。朝日のタモリは、 「あなたはこうだった」と、むしろ赤塚に対して「正解」を授けているように聞こえる。記者の聞き書きだろうけれど、 赤塚とタモリとの関係を、聞いた記者がそれぞれどう思って聞いているのか、邪推できそうで興味深い。

最後に一緒に旅行したときの回想。

  • 産経は「お互いの労をねぎらっているようで」
  • 朝日は「お互いに労をねぎらっているようで」

「の」と「に」のひらがな1 文字の違いにしか過ぎないけれど、。産経の赤塚は師匠。 朝日の赤塚は、どこかタモリの「生徒」っぽい。

産経版のタモリは、段落の多くに「私は」「私に」という言葉をつける。 朝日新聞のタモリは、その言葉がすべて省かれていて、そのほうが、いかにもプロが書いたような、 それこそ「天声人語」みたいな文章になるけれど、どこか他人事みたいな響きがつく。

「こう思っている」主体がたとえ自分であっても、「私は」を繰り返していくと、文章が素人っぽくなる。 それを省いて、個人の判断なのか、それとも一般常識として認知されていることなのか、そのあたりをあいまいにしていくと、 文章の流れはよくなるんだけれど、「私は」みたいな言葉を省けば省くほど、事実と判断との切り分けがあいまいになって、 文章にはどこか、上から目線っぽい、当事者らしくないような臭いがつく。

個人で文章を書いていて、「私」の扱いはいつも悩むんだけれど、朝日の記者は吹っ切れていて、 「きれいさ」優先で、タモリの気持ちとか、赤塚とタモリとの関係だとか、後回しになっている気がする。

タモリが読んだ弔辞は、白紙だったらしい。

弔辞の言葉は、ただか書かれたものを読んだのではなくて、タモリがその場で考えたのか、 あるいは書かれたものを記憶したものなのか、いずれにしても、文章化されたオリジナルは存在しないみたい。

本当に文章が存在しないのか、どうして白紙を読んだのか、その時どんな思いだったのか、 語られることはきっとないんだろうけれど、聞いてみたいなと思った。

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