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2008.08.11

大きな数に対する態度

ちょっと前、若い人が原因不明の発熱で入院して、診断がつかなかったことがある。

目に見える症状は「発熱」だけだったから、熱源調べたり、血液の培養出したり、 考えて、調べて、「これ」という原因がはっきりしないまま、何日か経った。

その方は、外来でCTを撮られてて、わずかな胸水があったから、フォローの意味でCTが再検された。

夕方のカンファレンスで「原因がはっきりしない人がいる」なんて、その患者さんの画像が供覧されて、 誰かが「肝臓縮んでるよね…」なんて指摘した。

そういう視点で検査データを見直すと、たしかに日を追うごとに肝機能が悪くなっているように見えて、 この時点でうちの施設では白旗上げて、大学にお願いすることになった。

大学では、入院したその日に原因分かって、すぐに治療が始まった。

検査の力

どこの病院にも「スクリーニング採血」という考えかたがあって、入院した患者さんは、 原因にかかわらず「一通り」の採血を受ける。変な病気を見逃したり、あるいは肝炎みたいな 感染症を持っていないかどうか、最初の採血で見当をつける。

大学病院は、「スクリーニング」の範囲が広大で、生化学検査一通り、感染症一通り、 膠原病だとかアレルギー、ありとあらゆる検査を、全ての患者さんについて提出する。

紹介した患者さんは、結局のところ膠原病の初発症状を見ていたみたいで、 大学に入院して、入院時の採血検査を受けて、その日の夕方には答えが出た。

分かってしまえば、あるいは大学流のやりかたをやってさえいれば、研修医でも分かるぐらい、 簡単なことだった。

大きな数に対する態度のこと

医療の業界では「なるべく少ない検査」というのが美徳で、「スクリーニング」みたいな やりかたも、自分が研修医だった頃は邪道と言われて、頭を使う医師になりたかったら、 ああいった真似をしてはいけないんだよ、なんて教わった。

物理学の業界、超ひも理論なんかの入門書を読むと、大きな数に対する態度がずいぶん違う。 あの人達が今問題にしてるのは、理論を統合しようとしていくと、必ずある計算の答えが 無限に発散してしまうことらしくて、「無限じゃない」ことが分かれば、それはもう画期的な発見で、 無限でないことが証明されたその時点で、その理論は力ずくの計算が可能であると 認識されるんだという。

宇宙の深遠見てる人達と比べることが間違いなんだけれど、 検査30種類とか出したら「そんなに出して何をしたいの?馬鹿なの?殺したいの?」とか上級生から 頭叩かれるような業界に長くいると、30種類ぐらい、物理学の人達のこと思えば、ゼロに近似したって いいじゃないかとか思う。

もっと検査出していいような気がする

「70種類」の採血項目出していいなら、たいていの病気が診断できるような気がする。 そもそもほとんどの疾患は、患者さんの症状診れば診断可能で、検査が必要な人というのは、 その時点で「普通のやり方では分からない」という大きな限定条件が付くから、 「70種類の検査」の威力は、通常以上に高くなる。

外注検査のカタログは分厚くて、あれに載ってる検査を全部提出すると、もちろん70種類には 全然足りないんだけれど、検査の大半は、臓器の機能を評価するためのもので、 診断につながる検査は案外少ない。

一般性科学検査と血算、培養と、代表的なウィルス抗体、膠原病の採血一通りに腫瘍マーカー一通り、 採血で証明可能なホルモン検査一式、全部出してもたぶん、まだ70種類には届かない。

「入院したら70種類」をやっていいなら、たぶんたいていの病気はこの時点で診断できるし、 「70種類が全て正常」という情報と、入院した患者さんの症状を組み合わせるだけで、 たぶん残る病名は、かなり絞られてくるはず。

診断学の教科書は分厚くて、知らないといけないことは年を追って増える一方だけれど、 人体の構造だとか、弱点だとか、昔も今も、もちろんほとんど変わらない。

「検査は少なければ少ないほどいい」という態度は、診断学の教科書に書いている病名を見て、 そのあまりの多さに恐れをなした誰かが、「どうせ病名は無限にあるんだから、最初は最小限」なんて、 大きな数に白旗を揚げた名残のように思える。

大きな数を見て、それを「無限である」と考える人と、 「十分に計算可能なぐらい有限」と考える人とでは、たぶん同じ数でも、 見えかたが全く異なってくる。

病気の数は、たぶん今も昔もそんなに変わらないけれど、検査のやりかただとか、 コストだとか、技術が進歩して、今はもう、「70種類」もそれほど無茶じゃなくなっている。

自分たちの学問も、そろそろ「有限」に舵切り直してもいいような気がする。

2008.07.15

欺瞞と匿名がネット社会の本質

世田谷区の小学生が、任天堂の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を使った、 独自の鬼ごっこを考え出して遊んでるなんてニュースが、なんだかすごく未来っぽい。

細かいルールは報道されていないけれど、基本は普通の鬼ごっこ。 ゲーム機の通信機能を駆使して、「鬼が来た」だとか、「○○君が鬼になった」だとか、 お互いに情報を交換したり、あるいは鬼になった子供が偽情報流して「人間側」の混乱を はかったり、情報戦になるらしい。

「DS鬼ごっこ」に感じたわくわく感、今まで見たことのないものを見たときに感じる、 前向きな違和感みたいなものというのは、「誰もが欺瞞情報を流せる」というところなんだと思う。

トランシーバー鬼ごっこの頃

子供の頃にはトランシーバーが流行ってて、鬼ごっこだとかかくれんぼだとか、 そんなときに誰かがおもちゃのトランシーバー持ち込んで、おしゃべりしながら遊んだ記憶がある。

トランシーバーみたいな機械が伝統的な遊びに加わって、たしかにそれは面白かったんだろうけれど、 「お互いに通信できること」がもたらしたものは小さかった。単に大声出さなくて済むようになっただとか、 缶蹴りやるとき、味方同士タイミングあわせるのに、身振り手振りを工夫しないで済むようになっただとか。

トランシーバーも、あるいは携帯電話や電子メールも、発信者が誰なのか、 発信されたら分かってしまうメディア。通信できることそれ自体は、だから大声出すのとあんまり変わらなくて、 「トランシーバー鬼」は、ルールを根本から変える要素は、案外少なかった。

それが会話であれ手紙であれ、あるいは携帯電話に至るまで、従来の通信メディアはたしかに進歩した。 一度に多数の人ともコミュニケーションできるし、距離の問題とか、時間の問題とか、 今はいろんな問題が解決された。

その代わり、通信はやっぱり通信であって、「その情報を発信しているのは本人だ」ということが、 正しい通信が成立する前提になっていて、それを破ると嘘吐きだとか、卑怯者扱いされてしまう。

「嘘をついちゃいけない、他人を騙っちゃいけない」なんて、そんな前提を当然のものとしている メディアは、やっぱりどこか、古い道徳を引きずってる印象で、新しくない。

DS鬼ごっこ

「DS鬼ごっこ」を楽しむ子供達は、あの道具を、最初から欺瞞情報を流せる道具、 他人になりすませる道具として楽しんでいて、「嘘をつける」とか、「誰かになりすませる」という、 通信メディアの人達から見れば欠点にしか見えない特徴を、最大限に生かして楽しんでる。

誰にでも成りすましができてしまうこと、匿名だとか、他人の名前を騙れることは、 ネットワークメディアの欠点なのではなくて、むしろそれこそが、 旧来のメディアと、新しい世代とを分かつ本質みたいなものに見える。

詳しい報道はないけれど、たぶん「DS鬼ごっこ」のルールはこんなかんじ。

  1. 何人か集まって、くじ引きで鬼を決める。本人以外、鬼が誰なのか分からない
  2. 1対1なら、鬼は絶対に人間に勝てる。その代わり、人間が複数、たとえば3人で鬼に当たると、鬼は狩られる
  3. 複数固まった人間は、間違って「人間を狩る」こともできる。狩られたら、それが人間だったのか鬼だったのかは明らかになる
  4. お互い通信できる。誰もが好きな人間の名前を騙れるし、鬼が人間のふりすることもできる
  5. 鬼に喰われた子供は、それ以降発言ができなくなる
  6. 鬼が人間を全滅させたら、あるいは鬼が人間に狩られたら、ゲーム終了

誰もが嘘をつけて、しかも発言者の名前すら、信憑性を保証できない中でも、目で見たものは真実。 鬼一人と人間一人、さらに目撃者が一人そこにいれば、一つの真実、「○○君が鬼に喰われた」が発信できる。

ところがその信憑性は、他のみんなには証明できない。

鬼はすかさず「○○君は今も僕の隣で生きてるよ」とか、「僕は○○だけれど、今の発言嘘だよ」だとか、 欺瞞情報を発信できるし、今度は鬼の犯行を目撃した本人が疑われたりする。

欺瞞情報から、何らかの真実が生まれることもある。

「○○が今、人間を襲った」なんて情報が回ってきて、その時当の○○君を囲んで数人の「人間」が 集結してたら、たぶんかなり高い確率で、その集団には鬼がいないことになる。人間が複数固まったら、 もう鬼には手出しができないから、彼らは今度は人間側の狩人となって、「自分たちでない誰か」を 狩りにいける。

みんなが嘘をつける環境、誰もが誰かを騙れる環境においてもなお、見たものは真実であり続けるし、 信頼度を上げた人間が複数固まれば、そこに真実が集まる可能性が高くなる。

鬼になった子供は、だから前半戦では欺瞞情報をばらまいて、人間側に猜疑心を育てないといけない。 群れを分断して、はぐれた人間を狩りつつ、狩った人間を片端から騙って、生き残りが群れないよう、 群れないようコントロールする。

人間側の最適戦略は「人間だけで群れること」になる。人間同士、お互いに通信を繰り返して、 信頼度の高そうな人間同士が固まった「正直村」を作らないといけない。信頼を得られなかった人間は 村から排除されて、たぶん鬼の餌食になってしまう。

ゲーム中盤、鬼は今度は、「正直村」に入り込むことを考えはじめる。目撃者を片端から狩ったり、 狩りを目撃した人間の名前を騙って、その人の信頼度を下げつつ、自らしか知らない真実を 会話に織り交ぜつつ、「信頼できる人間」として正直村に入り込んで、今度は人間が、 人間を狩るのを黙って見守ることになる。

狩ってみるまで鬼が誰なのか分からない「人狼」ルール、鬼が感染して数を増やしていく「ゾンビ」ルール、 鬼が次々とバトンタッチして、最期に鬼になってた奴が負けになる「憑依」ルール、ルールが変わるごとに、 情報のやりとりのしかたであるとか、戦略なんかが変わっていって、きっと面白い。

欺瞞と匿名がネットの本質

誰にでも嘘がつけること、誰かの名前を騙れることは、ネットメディアの欠点なんかじゃなくて、むしろ本質なんだと思う。

情報には嘘が混じっていること、欺瞞情報であっても、状況をきちんと設定すれば、 そこから必要な真実を取り出せること、前提としての真実を廃棄して、虚偽と真実とを、地続きのものとして 統一できたことが、DS鬼ごっこの、あるいはネットメディアの画期的なところ。

「真実が美徳」という古い価値観にとらわれた人は、もしかしたら「DS鬼ごっこ」を楽しめない。

そんな人達にとっては、DS鬼は「かくれんぼ」と「推理ゲーム」とが合体したものになってしまって、 「鬼ごっこ」にならない。欺瞞情報を駆使して、動く相手に操作を仕掛ける楽しさに気がついて、 自らも他人を騙って、積極的に嘘つくような人でないと、たぶん鬼ごっこを鬼ごっことして楽しめない。

見知った顔の友人が話していることですら嘘かもしれない、あるいは当人が真実と思っていることもまた、 知らない誰かが操作を仕掛けた結果かもしれない、何かを判断するための確実な土台など無くて、 入ってくる情報の真実性は、自ら置かれた状況ごとに査定することを強要されるのがネットというメディア。

それを欠点だと叩くのは、古い世代の悪あがきみたいなもので、ルールが変わった以上は、 新しいルールに適応したほうが、きっと楽しい。

「DS鬼ごっこ」の発明は、そうした新しいルールに適応した子供達の、最初の一歩みたいに見えた。

追記。

「人狼じゃね? 」なんて突っ込みは「そのとおり」。それでも、DSというデバイス手にした子供が、 自然発生的に「人狼」にたどり着くというのは、やっぱりすごいなと。

このルールで鬼ごっこやるときは、広場みたいなところだとゲームにならないので、真夜中の学校だとか、 廃院になった総合病院とか、見通しが悪くて、お互いどこにいるのか分かりにくいところでやるのがいいかも。

狩られた人とか、あるいは遠く離れた「善意の第三者」が解析部隊として鬼ごっこに介入するのもありだろうし、 たとえば悪意持った誰かが、ハーメルンの笛吹き男よろしく、子供達をネットワークごと乗っ取って、 どこか特定の場所に子供を誘導したり、賢い子供が誘拐犯に逆操作仕掛けて、誘拐犯が 逃げた先には交番が…とか、そんな時代が来たら楽しいなと思った。

2008.06.20

建築物としてのルール

去年以降診療報酬が改訂されて、ベッドあたりの看護師を、一定以上の人数確保した病院は 「いい病院」と認定されて、入院基本料を多く請求できるようになった。

この制度で得られる補助金は、経営方針変えるぐらいに大きなものだったから、 大学病院だとか、地域の公立病院なんかが真っ先にこれに飛びついて、地域の看護師を引き抜いた。 うちみたいな民間はあおりを食って、主任クラスのナースが引き抜かれて、えらい目にあった。

ところが今年になって、施設の審査基準が厳しくなった。看護師引き抜いて基準クリアして 補助金もらってた大規模病院は、一転して補助金もらえないことになって、今度は赤字に苦しむことになった。

赤字が出るなら、増やした人を使い回して、ベッドブン回して、赤字分「稼ぐ」のが筋なんだけれど、 補助金ルールが駆動してると、「稼ぐ」とかえって不利になる。

ベッドあたりの看護師をもっと増やせば、また補助金が出る。 地域にの看護師さんは、もうこれ以上増えないけれど、ベッドを返上して、ベッドあたりの看護師 を見かけ上増やしてしまえば、また補助金で一息つける。

地域の大きな病院は、今だからベッドを削りはじめて、本来500床あるのに稼働350床とか、 ベッドがたくさん余ってる。引き抜かれた看護師さん達仕事無くて、ヒマらしい。

働くほどに赤字が増えて、働けないから患者があぶれて、うちみたいな施設に重症の人が殺到する。 午前と午後で、同じベッドで患者さん二毛作したりして、先月の稼働率は100%を一瞬超えた。

なんか間違ってる。

「よさ」の疲弊とルールへの不信

なんというか、真っ当な商売やらないでお金につながるルールは、そもそも作っちゃ駄目だろと思う。

官僚の人達は、「ナースがたくさんいるのがいい病院」だとか、何か「いい」を定義して、 補助金使って、病院をその方向に向かせようとしているんだろうけれど、 大きすぎる力で「いい」を目指して、今は空きベッドの山。

せっかく集まった看護師さん達が仕事しようにも、仕事始めたらベッドが埋まって、補助金吹き飛ぶ。 ルールはどうせまた変わって、今みたいなゆがんだ状態は許されなくなるんだろうけれど、 ルールを変えれば変えるほど、「いい病院」はますます遠くなる。

ルールへの不信感が高まると、現場は「馬鹿」になる。

ルールを作った人のアイデアを読み取って、理解することを放棄して、ルールの中で、 目先の利益に一番つながりそうなことだけを行って、理念とか、アイデアの実現を放棄する。 上から見るとその様子は、たぶん「下々」の知力が劇的に低下して、馬鹿の集まりになったかのように映る。

たとえばスポーツなら、「ルールが変わらない」ことが宣言されてからでないと、 監督の人達は、戦術を考えられない。

サッカーみたいなスポーツは、もちろん細かいルールは時々変わるのだろうけれど、 ルールの基礎部分、それが「足を使うスポーツである」とか、 「丸い球を使う」であるとか、根本的なことは絶対に変えられない。

「明日から手を使ってもいい」だとか、ゴールの大きさが毎日変わるだとか、 サッカーが審判の気分でルールが変わるスポーツだったら、チームは戦術を作れない。 「戦術を組む」ということは、ある変わらない状況にチームを特化することだから、 「ルールが変わる」のが前提になってしまうと、もはや戦術を組むことそれ自体が、 チームの能力を落としてしまう。

選手もまた、特定の戦術にあわせたトレーニングが行えない。「毎日ルールが変わるサッカー」なんて スポーツがあったとしたら、選手はたぶん、闇雲に筋トレするぐらいしかできなくて、 試合はたぶん、チームプレイとは無縁な、集団格闘技みたいなものになってしまうはず。

国の人達は、「民間の活力」とか、期待を表明する割には、ルールをコロコロ変える。

ルールが変わるから、民間は怖くて参入できないし、ルールが変わるから、「選手」たる 研修医は、今どうしていいのか分からなくて、内科だとか外科だとか、 独り立ちするのに時間のかかる科から離れてく。

建築物としてのルール

医療なら、「患者さんを診察することで対価が発生する」ことと、 「何らかのリスクを取ることで対価が発生する」ことというのは、 ルールの基礎として、絶対に変更してはいけないのだと思う。

建築物には、階層化された「ルール」がある。絶対に変更してはいけない「基礎」だとか「構造」、 専門家がきちんと関与するなら変更可能な「外装」や「空間設計」、 住宅を購入した人が自由に変更できる、家具の配置だとか、建物それ自体の使いかた。

素人が基礎を掘り返すことが認められた建物は崩れてしまうし、 家具の配置を変更するのにも、役所への申請書類が必要な建物には、たぶん誰も住み着かない。 建造物が、ユーザーとの相互作用を継続していくためには、だから「ルールの階層性」と、 「基礎の普遍性」は、絶対に外せない。

今は何だか毎日のように新しいルール。ベッドのルールはまた変わるみたいだし、安全だとか救急体制だとか、 とりあえず学会が間に合わせてたところに「国家公認」の勉強会が 主催されて、ただでさえ人の少ない現場から、1週間単位での「研修」とか、無茶な要請来たりする。

行政は何だか、「家具の配置」を変えるために、建物の基礎を傾けようとしている印象。

企業単体の努力で何とかしようとすると補助金減って、「勉強会」開いたり、 使いもしない「院内マニュアル」作ったり、行政にアピールする不思議な踊りみたいなものを披露すると、 何故だか補助金がざぶざぶ振ってきて、病院がいきなり潤ったりする。

子供の「手術」見てるみたいだなと思う。

生物学知らない子供が、カエルつかまえて「手術」して、本人はカエルに良いことをしたと思ってるのに、 実際にはカエルの死骸が出来上がる。カエルの本音は、「ほっといてくれ」なのに。

「変える」のとりあえず止めといて、「ここは変えませんから」を、まずは宣言してほしい。

毎日のように形の変わる「基礎」の上になんて、誰も新しい住宅立てようなんて思わないと思う。

2008.06.10

怪しげな医療のこと

オリンピック目指すような運動選手のそばに、何だか怪しげな医師だとか整体師だとかが群がってるのは、 たぶん選手の周りにいる人達が、「原因」を求めるからなんだと思う。

「理由の不在」は、たぶん運動選手の文脈では認められない。伝統的な西洋医医学が 「分からないけれど様子を見ましょう」なんて繰り返すたび、理由を求める人達は、 「これが原因です」という断言を求めて、怪しげな「診断」を提供する治療者にたどり着く。

選手に「安静」は許されない

マラソン選手の人達が「ふくらはぎの違和感」なんかを訴えても、あれを自分たちの医療機器で証明することは、 もしかしたら難しい。筋肉に出血でもあれば、それをMRI で見つけることもできるけれど、 運動選手の感覚はものすごく鋭いだろうから、恐らくは「出血」なんて状態になるはるか手前で、 異常を「違和感」として訴える。

西洋医学の文脈では、「分からないけれどとりあえず死なない」状態の人には、手を出さないで様子を見る。 「違和感を感じる」なんて訴える選手が、歩いて外来を受診しに来たら、 だから「とりあえず安静で様子を見ましょう」なんて返事しかできない。

運動選手には、状況によっては「安静」が許されない。

妄想だけれど、中国で調子を崩したマラソン選手の人も、最初は普通の病院にかかって検査を受けて、 「とりあえず安静にして様子を見ましょう」なんて言われたのだと思う。オリンピックを目指すような 選手にとっては、もしかしたら「とりあえず安静」は、オリンピックをあきらめることに等しいから、 「安静」をお願いされたその時点で、病院が見限られたのだと思う。

方法論を変更するコスト

それがマラソンであっても野球であっても、たぶん全てのスポーツには指導者がいて、 競技ごと、あるいは指導者ごとに、「方法論」みたいなものがある。

方法論というのは過去の蓄積。おそらくコーチの人達は、 みんな自らの経験を蓄積して「論」を組み立てて、今指導している選手に、そんな方法論を生かそうとする。

指導している選手の成績が落ちたり、あるいは体の調子が悪くなったりすれば、 指導者は、責任を問われる。

選手に何か問題が見つかれば、不調は選手のせいになるけれど、選手には問題がないのに調子が崩れたならば、 今度はその指導者が蓄積してきた方法論それ自体が、選手の変化に追いついていないことを認めなくてはならない。

競技スポーツの世界では、たぶん理由の不在は許されない。方法論を変更するコストは莫大だから、 指導者はだから「理由」を探して、選手の不調を「例外」として処理しようとする。

最近報道される、通り魔的な無差別殺人事件なんかは、「動機」から思考をはじめる 旧来の犯罪捜査の方法論が、もしかしたら通用しない。警察が「通用しない」ことを認めると、 今度はたぶん、通り魔的な事件に対する予防責任が警察に求められるようになって、それに対応するための コストは莫大になってしまう。恐らくはだから、ああいう事件になると犯罪者の異常性がやたらと 強調されて、事件は「例外」として処理される。

伝統的な西洋医学は、分からないものに対しては「分かりません」と返事して、とりあえず、 悪さをしてそうな原因を、全て除去して様子を見る。「悪さ」の原因になっているのは、 スポーツ選手の場合には、なんといってもまず「トレーニング」だから、医師は「トレーニングの中止」を依頼する。

指導者にとっては、医師のそんなやりかたを受け入れるコストは、たぶんとても大きいのだと思う。

市場原理で健康を守る

高校野球の監督は、しばしば選手に過大な負担を強いることで、チームを優勝に導いて、 自らの名声を高めようとする。

「選手が健康であること」は、もちろん監督にとっても大切なんだろうけれど、 「チームの優勝」と「選手の健康」とを両立できない状況はしばしばあって、 プロで活躍したかもしれない選手は甲子園で使い潰されて、故障を残してしまったりする。

プロ野球のスカウトは、「チームの優勝」よりもむしろ、「選手の健康」に 利益を見いだす人達。優秀な選手が、健康な状態のまま卒業してプロ入りして活躍すれば、 そのこと自体が自らの利益につながる。

高校野球のチームを「市場開放」して、スカウトの人達が、選手個人に「投資」できるような 状況を作り出せれば、たぶん「悪い監督」は、市場から追放される。 選手を使い潰すことで名声を高めようとする「悪い監督」が仮にいたとしても、 選手が不健康になってしまうなら、投資家はお金を出さないだろうから。

もちろんバックグラウンドでは、金権乱れるすごい状況になるのだろうけれど、「市場化」された 高校野球は、少なくとも表向きは、スポーツとしても、健康増進手段としても、 たぶん今よりずっと「健全」になる。

選手の健康から利益を得る人

プロの世界とか、あるいはオリンピック目指すようなスポーツの世界には、 もしかしたら「選手が健康になって利益を得る」人が、そもそも存在しない。

「高校野球を市場化せよ」なんて言う理屈は、プロ野球のスカウトをやっている人達が 昔から口にしている論理だけれど、それが為されて、仮に選手が健康な状態でプロ入りしても、 プロの世界には、もはや選手が「健康」であることに利益を見いだす人は残っていない。

ファンの人達が望んでいるのは、あくまでも選手の「活躍」であって、健康それ自体は、もしかしたら望まれない。 横綱貴乃花は、自らの肩を壊して日本中を感動させたけれど、あのとき途中降板していたら、 もしかしたら「横綱は腰抜けだ」とか、無責任な声出す人もいたかもしれない。

体に違和感を感じたその段階で、トレーニングを続けるのも、止めるのも、 もちろん最後は選手の自己責任なんだろうけれど、 陸上競技みたいな、取り得る戦略の幅が恐ろしく狭い競技だと、選手はたぶん、 しばしば「自らの体を壊す」以外の戦略をとれない状況に追い込まれてしまう。

「止める」ことはたぶん、選手だけが一方的に損をして、怪しげな治療者の「確定診断」は、 たぶんコーチの方法論を保護する方向に作用する。西洋医者の「分かりません」は選手に味方するけれど、 「分かりません」はたぶん、選手も監督も、受け入れられない。

このへんの構造は、きっとスポーツ医学やってる先生方にとっては、 もう何年も前から変わっていないんだろうけれど、検査がどれだけ進歩しても、 「分からない」はなくならない気がする。

2008.06.02

10年ぐらい先の流れ

10年ぐらいすると、総合病院で入院を診る内科と外科がいなくなるかもしれない。

総合病院からまた人が抜けた

近くの総合病院で、循環器の病棟守ってた先生が退職されて、「今後当院では循環器疾患を診療することができなくなります」 なんて回覧がきた。

人数規模も、ベッド数も、うちなんかよりもダブルスコアで物量誇ってる施設なのに、 去年神経内科がいなくなって、循環器が抜けた。「頭」と「胸」が守備範囲から外れて、 救急を取ってくれなくなった。今月からはもう入院診ないとかで、かかりつけの患者さんが胸痛訴えると、 「入院の可能性があるかもしれないのでそちらへ」なんて、患者さんが回される。 施設本来の「能力」で言ったら、どう考えたって向こうの方が上なのに。

県内の有名公立施設の麻酔科部長が、やっぱり今度退職されて、もっとずっと小さな病院に移ることになった。 特定の疾患しか診療しない専門施設。補充の当てなくて、アルバイトの派遣で手術回してるらしい。

病院には、何となく「格」みたいなものが伝統的にあって、公立の総合病院で「部長」の椅子に座れたひとは、 本来ならば、「上がり」として最上級の立場。その椅子を蹴飛ばすことなんてありえなかったし、その「次」が あるとしても、それはその人が独立して開業することだった。

本来ならばそれ以上動きようがない、医師として一番「いい場所」にいた人が、最近は、 今までいた場所をあっけなく放り出す。

もう数年前からいろんなところで見られていた現象だけれど、自分の県でそれがおきると、やっぱり怖い。

若手は戻ってこなかった

ローテーション研修制度が発足した直後、どこの大学も準備不足で、研修医はみんな、 民間の有名病院だとか、日赤みたいな大手の市中病院での研修を選択した。

入局する人は減った。「これからは医局制度が根本から崩れていく」なんて 悲観論を唱える人と、「どうせ後期研修の時期になったら大学に戻ってくる」なんて、 ある程度将来を楽観する立場をとる人とがいた。

まだ結論が出たわけではないけれど、市中病院に研修医を「放流」して、 あれから4年ぐらい。今のところ、サケの遡上みたいに、 研修医が群れなして大学医局の門を叩いたとか、あんまり聞かない。

「みんなどこに行ったんだろうね?」なんてことが、今でも時々話題になる。

そのあたりのリサーチをきっちり行っている人もいるのかもしれないけれど、 ちゃんとした「解答」があるようにも見えない。

県内の市中病院に入局した人達は、結局いろんな科をローテーションして、 市中病院を辞めたあと、東京のほうに行ってしまった。内科や外科は、 選択しなかったらしい。

「若手」がいない

けっこう大きな学会で、「現場の若手外科医からの提言」なんてセッションがあった。

「若手」と名指しされた人達は、みんなもう40歳も半ばを超えて、それでもやっぱり「若手」であって、 その人達の後ろには、ボーイスカウトみたいな年齢の医師しか残っていない。

「あと10年は大丈夫だけれど、それを過ぎると相当に危ない」なんて言う。

みんな体力あるから、今40代の先生方は、それでも50を過ぎるまでは現場を守って、 手術は忙しくなるかもしれないけれど、その頃まではたぶん、「手術の必要があるのに医師がいない」という 事態は避けられるだろうなんて。

そこから先は、人数が一気に減る。

外科医の人口構成は、ここ10年ぐらいがすごく減っていて、地方の大学医局なんかだと、この数年間 入局 1人とか、何年間か「ゼロ」を計上しているところとか珍しくない。一度そんな悪循環に はまり込んでしまうと、人数を戻すのは大変らしい。

大学から人が離れていく一方で、ならばどこかに若手外科医が雲霞のごとくに集結する「勝ち組」病院が あるかと言えばあるわけなくて、研修医を雇用すると莫大な赤字が発生するから、 普通の病院の体力では、そんなに多くの医師を雇えない。

若手外科医はだから減っていて、これから先も、劇的な増加は見込めない。

大きな施設から人が減る

国公立の大きな病院で部長職をしていた人達が、もっと小さな病院に移ったり、 テレビの取材に答えてた人なんかは、副院長の座を捨てて、医師派遣会社に登録して、 フリーランスになっていたり。

救急とか、手術とか、緊急事態に対応するためのインフラ守るためには、最低限「これだけ」という人数が 必要だけれど、今はどこも定数割れ。

人数が足りなくなると、今度はたいてい、能力のある人から潰される。

10人で回してた体制から、2人抜ける。抜けた負担は、残り8人で背負わないといけないけれど、 施設ごと、個人ごとに能力には差があるから、「公平」はできない。元々の能力が足りないところに 負担を回しても、結局それはこなせないから、一番能力のある施設、一番能力のある個人に、 負担の半分ぐらいが回される。その施設だけ、負担が「2倍」になって、 あとの施設はだいたい1割り増しぐらいの負担を分けあう。

すごく不公平で、実際問題、そんな施設は「2倍」に耐えられない。今度はその施設から人が抜けて、 負担は次の施設に降ってくる。

大きな施設から、順番に人が辞めていく。負担は「次」に順送りされる。

今うちの施設が「次」になりそうで、みんな怖がってる。

バブルがはじけて誰もいなくなる

フリーランスになると、お休みが週3日ぐらいに増えるだとか、何よりも当直無くなるだとか、 年収増えてウハウハだとか、いいお話ばっかり。

今はそれでも、そんな人達は少数派で、誰もが「フリー」を選択するなんて考えられないけれど、 これからはもしかしたら、そんな人達が増えていく。増えてくたびに、救急回す現場からは 人が減って、負担はその分増えていく。

現場の重圧がだんだんと増えて、フリーの人が増える。人が増えれば市場価値は下がるから、 フリーの人達の待遇も、人数が増えるに連れてだんだんと下がっていく。 常勤組は、そんな情景を横目で見ながら、自らの価値を算定する。

新しい業界に「飛び込む」リスクと、それにともなう待遇と、 たぶん「ここ」というタイミングがあって、それを境に、フリーの方向になだれ込む医師が一気に増える。

フリーランスのバブルははじけて、非常勤の「フリー組」医師の報酬は、たぶん劇的に低下してしまう。

あと10年ぐらいかかる。ここに至って、ようやく市場は健全になるけれど、 この時点でたぶん、「当直やります」「手術やります」なんて医師は、もう現場には残っていない。

苦しい常勤と、楽な「フリー」と、選択枝が極端すぎるのがよくないような気もする。 自分たちの業界は、求められる信頼性が極端に高くて、医師の振る舞いを縛る法律も厳しくて、 だからこそ選択枝が限られて、両極端になってしまう。

医師が「フリー」に飛びついて、バブルがはじけて誰もいなくなったその場所には、 本来ならば広大なブルーオーシャンが広がっているのだけれど、この場所から利益を 引っ張るためには、たぶん莫大な先行投資が必要。

個人開業するだけでも数億円かかる現在、その時になって、それができるだけの体力を持った 会社がたくさん生まれるとか、ちょっと想像できない。

シナリオ回避のやりかたはあるんだろうけれど、医療を取り巻く法律は、「医師はこうあるべき」なんて 振る舞いかたを厳密に決めていて、「アイデア」とか生まれる余地が多くない。

個人的にはやっぱり、「国産の薬の自由売買」だけでも認めてほしい。国内の薬使って自由診療できるように なるだけで、「商売」のやりかたには相当なバリエーションが生まれる。自由化の流れそれ自体は、 もちろん何の問題も解決しないけれど、少なくとも「アイデアが生まれる状況」を作り出す。

政府に「画期的なアイデア」が出せないのなら、次にやるべきは、「アイデアが生まれる状況」を、 現場に提供することなんだと思う。

2008.05.07

ステレオタイプの疲弊

深夜の救急外来、よく分からない訴えの患者さんを載せた救急車を出迎えたら、 旅行鞄に大荷物抱えた患者さんのご家族が降りてきたことがある。「どうしましたか?」なんて、 いつもの問診取り始めたら、「どうもこうもない、今すぐ入院させろ!」だなんて、 お父さんから怒鳴られた。ゴールデンウィーク直前、まだ研修医だった頃。

何とかなだめて話を聞いて、要するに年寄りを旅行期間だけ引き取ってほしいだなんて、いつもの話。 ゴールデンウィークに旅行の計画を立てたけれど、 家にいる年寄り一人、引き受け手がいないままに時間だけが過ぎて、 飛行機の予約ぎりぎりのタイミングが「今」なのだと。

もう時間がないだとか、自分たちは悪くないんだとか、親戚は誰も引き受けないとか。 どこも悪くない、普通に歩ける高齢者挟んで、怒る父さんと研修医、明け方まで押し問答した。

あの頃はまだ、こんなケースは珍しかったけれど、今年のゴールデンウィークはたぶん、 日本中こんなだったはず。

診断学が通用しない人が増えている

それは「元気だけれど入院希望」の人だったり、「何ともないけれど湿布だけ山程希望」の人だったり。

目的をはっきり持っていて、にもかかわらず、病院側は、典型的な患者像として 想定していない人達。こんな人には、伝統的な診断学のやりかたが通用しない。

伝統的な診断学で想定している「患者さん」は、みんな普段は元気な人で、 何か特別な訴えを持ったから、病院にやってくる。体にはどこか、悪い場所が確実にあって、 丁寧な問診と理学所見とを行えば、検査をしなくても病気が分かる。そういうことになってる。

今の患者さん達は、「何もないこと」の証明を買いに来たり、「苦しんでる自分」を承認してもらいに来たり。 あるいは高齢の患者さんなんかは、そもそも痛くても「痛い」と訴えられないし、 腹膜炎起こしてても、腹筋ないからお腹が柔らかかったりする。

医療は一応進歩して、いろんな訴えに対応できるようになってきたけれど、 診断学はたぶん、こうした患者さんを最初から想定していない。想定していないから、 「証明」とか「入院」とか、何かの目的もってこんな人達に来られても、 医師が「医学」の範囲に留まっている限り、こんな人達には手が出ない。

「いつまでも居ていいんですよ」とか言ってみたい

医学が想定している患者さんは、訴えと原因とを持って病院に来て、 何とかそれが落ち着いたら、今度は一刻も早く退院したがる。医師は本来、 早く帰ろうとする患者さんを何とかなだめて、「お願いだからもう少しだけ待って下さい」なんて、 お願いするのを「お仕事」として想定している。

状況がこんな「引っ張り合い」なら、そもそもトラブルなんて起きないんだけれど、 今起きてるのは押し合い。患者さんのご家族は、一度入院をゲットしたなら 「できる限り長く入院させて下さい」なんて、交渉の出だしは「2ヶ月」ぐらいから。 2ヶ月見込んでるご家族に、主治医が「明後日帰れると思います」なんてやるから、必ず怒られる。

怒られるの嫌だし、病院は本来サービス業なんだから、 「いつまでも居ていいんですよ」なんて、言えるものなら言ってみたい。 医師は「いつまでも…」で患者さんを引き留めて、患者さんは 「やっぱり家が一番です」なんて、それを断る。大昔なら 当たり前だったこんな光景は、今はありえない。

ステレオタイプは疲弊する

たぶん医療以外にもいろんな分野で、「ステレオタイプの疲弊」が生じている気がする。

病院もそうだし、刑務所なんかもまた、今は「刑務所に入るために犯罪を犯す」高齢の人 なんかが増えてきていて、懲役という罰則それ自体が揺らいでるらしい。

トラブルもなく暮らしてた犯人が、ある日ふと思い立って、車でどこかに遠征して、 これといった動機もないのに「何となく」人を殺したなんて報道が増えた。 昔の刑事ドラマに必ず出てくる「地元のワルに顔が利くベテラン刑事」とか、 こんな人達に対しては、たぶん今まで蓄積したノウハウなんか役に立たない。犯罪捜査なんかもたぶん、 「犯罪は、犯罪を犯しそうな人が、動機を持って行うもの」みたいなステレオタイプを想定しているはずだから。

各々の業界には、それぞれ想定しているステレオタイプがあって、そこから外れる人が 増えて行くに従って、その業界が持っている昔ながらのやりかたは通用しなくなっていく。 業界が変化するのはすごく難しいから、今度はたぶん、「自分が顧客であることの立証責任」みたいなものが、 サービスを提供する側から、顧客側へと委譲されていく流れが来るのだと思う。

医学的には元気だけれど入院希望の人とか、とりあえず「大丈夫」という承認だけほしい人とか、 現行ルールでは対処できないし、ルールの枠超えて対処しようとすると、結局トラブルになる。 そういう人達にはだから、医療者側が笑顔で100% 応じる代わりに、入院費用とか、 検査費用とか、今までの10倍ぐらいに、対価を大幅に高く設定する必要がある。

医療に関する費用が大幅に上がった段階で、病院にかかる全ての人は、まず一様に「損」をする。 従来どおりの「想定された患者」さんは、あとから役所に出向いて申請を出せば、 支払ったお金の大半が払い戻される。

最近になって増えてきた、「想定されてない」患者さんは、たとえば検査データの基準なんかが 「想定された患者」の基準を満たせないから、お金が返還されない。そんな人達はだから、いつでも好きなだけの サービスを受けることはできるけれど、それをやるためには、高い対価を覚悟しないといけない。

役所の判断機能が極めて高くなる、「独裁国家」みたいなやりかただけれど、 このルールだとたぶん、「まじめな」患者さんが得するはず。

独裁国家は「まじめ」が得をする

「平等」な社会では、「弱い」人達が得をする。

「自由競争」社会は、「強い」人達の一人勝ち。

ステレオタイプをまじめに守ることしかできない中間層は、社会がどちらに転んでも、 いつも一方的に損をする。

「独裁主義」というルールは、たぶん弱い人たちと、独裁者の気にくわない「強い」人達とが割を食って、 独裁者から「かわいい」と認定された中間層は、もしかしたら得をする社会。社会が「平等」と「自由競争」との 間を揺れて、それでもやっぱり損をして疲れた「中間」は、だからしばしば「強いリーダー」を求めたり、 独裁的な社会を支持したりする。

犯罪捜査に「独裁ルール」を適用すると、たぶん「怪しそう」という理由一つで、 その人が牢獄に送られる社会になる。髪染めてたとか、ベルトの穴一つ外してたとか、 そんな理由でも捜査官に呼び止められて、「とりあえず牢屋に入っといで」なんて言われる。 牢屋に入ったその段階で、その人がいくつかの「基準」を満たせれば、その人は解放されて、 今までどおりの日常生活を送れる。

えん罪山積みのやりかただけれど、捜査官が想定した枠から外れた犯罪者が これから増えて、現場を回す捜査員の数なんかも増えるどころか減らされて、 あまつさえ「市民の声」が、「安心できる社会」を叫んだりするならば、 立証責任が顧客側に回ってくる、こんな流れが出てきてもいいような気がする。

アクセスと、コストと、サービスの質と。サービス業は、これら3 つのうち、頑張れば2 つまでは達成できる。 全てをあきらめきれなくて、もう一つ、「もっと安くしろ」なんて要望が来たら、サービスを提供する側は、 たぶんルールの改変を望むようになる。

「強いリーダー」が全てを支配する社会は、案外いろんなサービス業界で、支持を集めるんだと思う。

2008.04.18

司法も対案示してほしい

空自イラク派遣は憲法9条に違反しているという判決が出た。 名古屋高等裁判所。

たしかに正論なのだろうし、この判決は、一応政府側の「勝ち」ということになってるみたいだけれど、 テレビではなんだか、市民団体の人たちが「我々の勝利だ」なんて、雄叫び上げてた。

軽い言葉のこと

曲がりなりにも選挙で選ばれた人たちが、何年もかけて議論して、海外に軍隊派遣して。

政府の人たちも、もちろん現場守ってる自衛隊の人たちも、派遣に賛成する人、反対する人、 みんな様々な立ち位置もって、いろんな場所で議論とか、政治運動を重ねてきたのだろうけれど、 そんな積み重ねの決着は、あっさり一言。「あれ全部間違い」なんて。

「正しさ」重ねて下した結論は、なんだか正しいのは間違いないんだけれど、すごく軽い気分。 自衛隊派遣に反対の声上げてた人たちだって、なんだか馬鹿にされたような気分に ならないんだろうか?

なんだか司法の人たちが操る言葉は、軽い気がする。

人手が全く足りてない医療現場での、医師の不作為を問う裁判とか、今回みたいな、立法とか行政、 あるいは市民団体の人たちが積み重ねてきた苦労を全部吹き飛ばす判決だとか、 すごく多くの人たちが関わって、舵をどちらに切ったところで、現場が大混乱するのは間違いない判断なのに、 出された言葉はすごくあっさり、軽い印象。

もちろんその判断を下すためには、司法内部で議論したり、勉強したりといった過程はあって、 それは判決文として、その議論プロセスがある程度公開されてはいるんだろうけれど、 投げられた判断には、「じゃあどうすればいいのか」が見えてこない。

国会間違ってた。政府間違ってた。たぶん今回の判決で、政府のいろんな思惑はひっくり返って、 表から見えないところでは大混乱したり、命の危険侵してた現場仕事が、あっさり「あれ間違いだったよ」なんて 断定された。たぶん今、多くの人たちが困ってる。

「それはそもそも司法の仕事じゃないんだよ」なんて返されるのがオチなんだろうけれど、それでもやはり、 司法の人たちには、判断を下した以上、その判断に基づいた対案を示してほしいなと思う。法律読んで正しさ重ねて、 重ねた正しさの延長に下された判断は、たしかに正しいのかもしれないけれど、判断ぶん投げて 現場を混乱させて、「おまえら間違ってるよ。あと自分で考えな」で法廷閉じるのは、素人目には無責任に見える。

対案なき批判に意味はあるのか

対案なき判断には、やっぱり意味がないと思う。

誰だったか、「対案示せ」なんて要求するその態度こそがリベラルどもの欺瞞だなんて言ってた人がいたけれど、 対案一つ示せない批判もらっても、議論が生まれない。議論生まないなら、ノイズと一緒。

法律上、それは裁判官の仕事ではないのかもしれないけれど、判断を下した裁判官の人は、 やっぱり自分の判決に基づいて、行政は、あるいは医療は、今の能力をどう使えばいいのか、 やっぱりそれを「自らの市民感覚に基づいて」提案してほしいなと思う。

司法の人たちだって万能ではありえないし、あるいは専門家から見れば、 その「対案」は床屋談義レベルにしか過ぎないのかもしれないけれど、 対案を見せていただけるのならば、その裁判官は、いったいどんなことを考えて、 どんな未来を見据えてその判決を下したのか、判決文よりも、ずっと分かりやすくなる。

法律に則っていたようで、実は経済合理性優先してたとか、現場の大混乱分かってたけれど、 あえて正しさ表現してみましたとか。判断を下した「先」に対する考え分かれば、きっと議論が生まれる。 もちろん分かりやすいアイデアは批判されて、多くの味方と、あるいはもっと多くの批判的な意見に さらされるんだろうけれど、そんな「床屋談義」レベルの思考を世間の批判にさらせないのなら、 その人はやっぱり、世間大混乱させる判断に関わるべきじゃないと思う。

表現する人達

裁判官の人達は、判決それ自体を「自己表現の場」として利用してるように見える。

医療過誤裁判、とくに業界が紛糾するようなそれは、地方裁判所レベルの判決は、 しばしば極端にどちらか一方の側に偏っていて、なんだか結論が最初から見えてるみたい。 そんな極端な判決は、上級審に入るとたいてい修正されて、もっと穏当な、両者の意見を汲んだ結論に落とされる。

議論がどんなに偏ったところで、最高裁判所にまで上がってしまえば、「高度に政治的な問題のため、 司法の範囲を超える」なんて司法が逃げて、結論はなんだかうやむやになったりもする。

邪推にしかすぎないけれど、地方裁判所レベルで判断下す人達は、「どうせ上級審行ったらつまらない結論に戻るだろ」なんて、 自らの判断を軽く考えて、時々とんでもない判決おろして、現場吹き飛ばして、それを自己表現にしている気がする。 自分たちがblogスペース借りて、自分の意見を書き散らして発信するのと、なんかすごくよく似てる。 どうせ何も変わらないからなんて、無責任になれるところとか。

時々出てくる極端な判決は、「市民感情に配慮する」とか、その裁判官なりの立ち位置に基づいた自己表現であって、 利害が対立する両者の意見聞いて、法律を正しく運用した結果としての結論とは、なんだかかけ離れているような気がする。

イラク派遣の判決は、選挙で選ばれた人たちが考えて、議論して、判断した経過をまとめて、司法は「間違い」と断じた。 国会議員は、それでも選挙民の医師を背負ってあの場所にいるわけだけれど、それを「間違い」と断じた司法の人達は、 そんな選挙民の医師に拮抗するだけの「何か」を、あの場所に賭けているのだろうか?

賭けるものなんてなくて、「司法はあくまで法律運用するのがお仕事で、ちょっと 何かを表現したかったので、あんな判決出してみました。大丈夫、上級審ありますから」なんて返事が返ったら、 きっとみんな怒ると思う。そんなことは、裁判官の人達も言わないだろうけれど、彼らは判断だけ下して 対案示さないから、その言葉はショッキングなのに、なんだかすごく軽い。

元検弁護士のつぶやきによれば、今回の違憲判決を下した裁判官は、 この判決を最後に裁判官を引退される方らしい。

お辞めになる前の最後の裁判だったわけですね(^^)

blog 書いてる司法の人は、笑顔の顔文字入れて、こんなこと書いてた。こんなこと書いてるぐらいだから、 この裁判官の判決は、司法のプロからみても、要するに、「辞め際のどさくさに紛れた自己表現」なんだろう。

たとえば自分なんかが他科の手術みて、「また死んじゃいましたね(^^)」なんて書いたら、 きっと大変なことになる。うちの業界は、少なくともこういうことは絶対茶化せない。

これだけ大きな判決の感想書くのに、顔文字使って笑ってる時点で、やっぱり司法の人たちは、なんかずれてる。 もう少しまじめにやったほうがいいと思う。

2008.04.04

今度はWordPress

セキュリティのお話がうるさくなったこともありMovableType をバージョンアップしたところ、 なんだかもうどうしようもなく重くなっていて、実質更新が不可能になってしまいました。

新しいMovableType は、blog という枠を超えて、ページ管理システムの 新たなありかたを世に問うような、なんだか崇高な思想に裏打ちされた実装がされているのか、 旧バージョンのノウハウはほとんど引き継がれず、過去と決別している印象。

バージョンアップ当初、そんなところも意気に感じて、何とかこの難解で重たいスクリプトを ものにしようと、当直深夜の睡眠時間を削ってみましたが、あえなく挫折。

今まで作り上げてきたURL を失うのは残念なのですが、もっと軽くて簡単そうなWord Press に 乗り換えることにしました。

今後ともよろしくお願いします。