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2009.11.02

努力は報われないほうがいい

現在進行形ですごい状態にある人を見て、「僕も頑張ってああなるんだ」なんて、 その人と同じやりかたで、同じ場所を目指して頑張るのは、危険なことだと思う。

何かの間違いがあって、頑張ったその人の成功を許してしまった業界は、その時点で詰んでしまうから。

承認のコストがつり上がる

同じ方法論で頑張った人は、どうあがいたってオリジナルのコピーにしかなれないものだから、 そういう人は、ものすごく頑張る。頑張った人が、「頑張り」に見合った承認を求めると、 世代を重ねるごとに、「頑張り」のコストはどんどん上がる。

業界のどこかで「すごい」を観測したのなら、その人と同じやりかたを重ねるのではなく、 「もっと簡単にあそこに到達するにはどうすればいいんだろう」なんて考えないといけないし、 それでも「頑張り」以外の答えが出ないなら、「すごい」その人たちがいなくても何とかなるように、 仕事のやりかた自体の書き換えを目指すべきなんだと思う。

「僕も頑張るぞ」というのは、危険な選択だと思う。

一度「頑張り」の魔界に足を入れると、もう後戻りができない。 頑張ったあげくにどこかに到達したとして、頑張りの元を取れなかったら失敗判定される。 「頑張り」というのは本来、ものすごく分の悪い賭けであって、「頑張るぞ」という選択は、 だから地雷原にあえて足を踏み入れるようなものなんだ、と理解しないといけない。

個人の体験が一般化する

頑張った結果として成功した人が、次世代に頑張りを「正解」として伝えると、業界が終わる。

教育をする人たちは、研修医には、「頑張る前に、それが本当に必要なのかどうか考えなさい」なんて 教えてほしいなと思う。

「とりあえず頑張る」というのは本来、保身の手段であって、成功の手段とは違う。

誰かの天才的なひらめきを見たら、それを「天才」と評するのは思考停止であって、 「凡人」を自覚している競合者は、同じような発想に、力ずくでたどり着くやりかたを考える。 天才抜きでも同じ結果を出せるような、そんなやり方が示されて、 初めてそこで、「頑張る」意味が見えてくる。

「漠然と頑張る」ことで成功した人というのは、たしかにいる。でもそれは、 やっかみ10割で言ってみれば、誰か高齢の、偉い人たちの視界に入り続けることで、 組織にとって「かわいい」人間となり、上に引き上げてもらうための、一種の処世術であったはずなのに、 「頑張った」人たちが、「僕たちは頑張ったから報われたんだ」なんて賢しげにつぶやくのは、 それはもう、後続を殺すための欺瞞情報なんだと思う。

「俺は偉くなるために年寄りの尻舐めたんだ」って威張るのは、むしろ大いに「あり」だと思うし、 そういうことを包み隠さず話してくれる人の言葉はとても大切なんだけれど、 「じじいの肛門を吸引すると元気が出るぞ」って後輩に教えたところで、 それを実践した下級生は、たぶんみんな病気になって倒れてしまう。

伝統芸能が証明されると業界がダメになる

自分たちの暮らす医療という業界が、「やっぱりあったけぇのが一番だよ」みたいな、 年寄りの価値観的なものに収斂していって、統計屋さんがそれを覆すどころか、 「暖かいやりかた」を強化する方向にすり寄ってるのに、すごく嫌な予感がする。 それをやられると、臨床が続けられない。

「名医ならば一目で分かる」的な、昔ながらのやりかたというのは、 それが再現できたらたしかにすばらしいんだけれど、それが統計的に「正しい」やりかただと証明されて、 それを常に再現するように求められたら、困ったことになる。自分は名医にはなれないから。

「名医なら余裕で分かる」が真になってしまうと、逆説的に、 「診察して分からなかったら名医でない」なんて、あるいは「診察直前までは名医でいられる」なんて価値を生む。 これは結果として、「診察しない名医」とか「逃げる名医」を増やしてしまう。

古い価値軸が統計で固められてしまうと、成功事例が収斂する。

「最初に診察したバカ医者を、あとから来た名医が口でたしなめる」というやりかたが 成功すると、リスク抜きに成功をつかむやりかたが決定して、 みんながそれを再現する。「名医」であり続けたい人は、そんな場所に自らを置こうと 立ち回って、実際問題、分からない患者さんを抱えると、 相談しても「分かってから相談して下さい」なんて、 「専門的意見」をもらうことが増えている。

昔のカブトムシは空を飛べた

統計野郎が業界のベテランにすり寄るちょっと前、自分が3年目ぐらいだったころ、 救急外来は大賑わいで、病院どうし、患者さんの奪いあいだった。 どこの病院も救急を受けて、救急外来はお互いに覇を競って、毎晩がお祭り騒ぎで、そこには医師があふれてた。

「名医のやりかた」が統計で固められて、「とりあえず何とかする」乱暴なやりかたは、 いつの間にか統計的に間違いであるなんて「証明」された。

「カブトムシは航空力学的に飛べないことが証明された」なんて、虫が飛んでるのを見れば、 嘘だってすぐ分かるのに、うちの業界だと、何とかしている奴らが「間違ってる」ことになった。

「飛んだら間違いだ」なんて言われたら、虫もたぶん地面を歩く。 何したって「間違ってる」とか言われたら、もう仕事ができない。 今から8年ぐらい前から、だから救急外来には、「診たら負け」なんて信じられない言葉が飛び交って、 救急車は行き場を失って、救急外来に立つ人は、一気に減った。

第一世代の「達人」は、本当に達人だったんだけれど、その超人的な正しさを、 「統計的に裏付ける」ことを許してしまったことは、致命的な失敗だったんだと思う。 達人は再現不可能で、達人抜きでも同じ結論にたどり着くやりかたを編み出して、 それを検証することこそが、統計屋さんの仕事だったはずなのに。

医療は実質吹き飛んでる。

原因はいろいろだけれど、つまるところは、これは当時の達人が、 尻舐めにすり寄ってきた統計野郎を皆殺しにしてたら、世の中こうはならなかったんだと思う。 エクセル以外に友達のいない、さみしい大学時代を送った根暗な奴らが、世の中に復讐しようと 「頑張った」結果として、復讐は達成されて、業界は焦土になった。

じゃあどうすればいいのか

自分は「頑張るという文化」それ自体が間違いだ、と思っていたんだけれど、 「自分の生きていく世界で「頑張る」こと自体は幸せなことだと思うし、「頑張る」方法が間違うのはしょーがなくて、そこで競争すればよくって、頑張るなというのは違う 」 という指摘をいただいて、反論できなかった。

で、じゃあ今度は、顧客を志向した、公正なルールなら、統計野郎を打ちのめせるのかといえば、 やっぱりあんまりそんな気がしなくて、 今度は「払った犠牲と得られた結果が比例するとき、人は嫉妬しないんですよね。要領よくやって、少ない努力で大きな成果を得る人に対して、人は嫉妬する」なんて指摘をいただいて、 たしかに系の嫉妬を最小化するやりかたとして、 えらい人のたどってきた歩みをそのまままねるというのは、 その先に滅びがあるんだとしても、局所的には正解なんだな、とも思った。

どうすればいいんだろう。

2009.10.07

付属品としての生き残りかた

ある生態系において、優位に立った新世代に追いやられる旧世代の生き残りかたとして、 新世代の、いわば「付属品」になる、というやりかたが考えられるんだと思う。

モバイルは便利

Android 携帯を買って、「お布団インターネット」を始めてみて始めて分かったのだけれど、 こういう「怠惰な革命」は、一度始まると止まらない。布団の中とか風呂の中、 ほんのちょっとした待ち時間ができれば、携帯電話をのぞけばインターネットにつながって、 とりあえず退屈しない。読むだけなら、それでほとんどの用が足りてしまって、 結果として、自宅のデスクトップPCで何かを見る時間が減った。

自分の生活は、自宅と病院との往復が9割以上で、どちらの場所にもデスクトップPC が常備してあるから、 モバイルなんて縁がないと思っていたんだけれど、実はデスクトップPC から1m でも離れれば、 そこはもう、「モバイルの領域」だった。今まではそれに気がつかなかったから、 なんの不自由もなくデスクトップPCを立ち上げていたんだけれど、ポケットに手を突っ込んで、 スイッチを入れたらもうネット、というのに慣れてしまうと、もう戻れない。

待合室の患者さんたちは、今はたいてい、待っている間は携帯電話を開いている。 検査の待ち時間だとか、受付に呼ばれたわずかな時間、人によっては、外来で診察中、 聴診をされてるわずかな時間も、携帯電話をのぞく。

ああいうのは、自分でAndroid を使ってみるまで理解できなかったんだけれど、 携帯電話でネットを見られるようになって、あれをやる人の気持ちがずいぶん分かる。

細切れの時間が埋められるようになると、たぶん人間というのは、本能的にそこを埋めたくなる。 埋められるようになって、ところがそういう小さな場所には、ノートPCとか、ましてやデスクトップPCは、 もう絶対に入れない。デスクトップPCの性能がどれだけ上がろうと、価格がどれほど安くなろうと、 デスクトップPC がデスクトップPC である限り、この流れは止まらない。

携帯電話には限界がある

携帯電話は簡単に持ち歩けて、立ち上がりが一瞬で、インターネットを見る場所を選ばない。 こういう立ち位置には、従来のPCは、絶対に入ってくることが出来ないから、 携帯電話には、競合するデバイスが存在しない。

携帯電話は、道具としてのポジションが完璧であるがゆえに、犠牲にされているものは多い。

  • 携帯電話は電池駆動。CPUの性能を上げれば上げるほどに、恐らくは電池の消耗が速くなるから、 処理速度の進歩は、そう多くは望めない
  • 電話回線のスピード向上も、たぶん難しい。無線の周波数は自由にならないし、新しい周波数が 使えるようになったとして、日本中のインフラを置き換えないといけないから、コストが馬鹿にならない

従来のPCが、「ムーアの法則」で進歩するのに、携帯電話にはたぶん、それが許されない。 ノートPC の処理速度は上がる一方で、価格は下がる一方だけれど、そうした改良は残念ながら、 携帯電話のいる場所を脅かすだけの威力はなくて、「インターネットは携帯で」という 流れ自体は、たぶんもう覆らない。

お布団でごろごろしたほうが、机に座るよりも、圧倒的に楽だから。

「本体より高価な付属品」という立ち位置

「携帯電話でインターネット」というのは、たぶんもう、これが「解答」なのであって、この部分は覆らない。 性能向上の努力だとか、あるいはコストカットの努力というのは、小さくなっていくパイを大きくする 役には立たない。

旧来のPCが、今の付加価値を維持したままで生き残っていこうと思うなら、 「速い」とか「安い」じゃなくて、PCとして別のありかた、携帯電話との「連携」を志向する、 具体的には「個人が個人のサーバーを持つ」という方向に向かってほしい。

イメージとして、携帯電話を持っているユーザーが、「マイサーバー」機能がついたPCを買うと、 ユーザーは、ネットにつなげた自宅のPCを経由して、携帯電話でインターネットを見ることができる。

「マイサーバー」には、携帯電話にあわせたフォントやレイアウトの調整、広告のカット、 画像の縮小や軽量化といった機能が備わっていて、ユーザーの携帯電話は、 自宅に置いたPCを経由することで、電池の寿命を犠牲にすることなく、 より軽快なネットが楽しめる。サーバーに「先読み」機能をつけておけば、遅延はもっと減らせる。

ユーザーによって、「このページの画像はいらない」とか、「このページだけは本来のレイアウトで読みたい」とか、 需要はいろいろ異なるだろうから、そういうのはあらかじめリストを作って「マイサーバー」に 登録しておけばいいだろうし、リストはPC上でも、あるいは携帯電話上でも修正できるとうれしい。

PDFだとか、flash動画だとか、携帯電話で閲覧するにはCPU負荷の大きなコンテンツも、 たとえば「マイサーバー」上で文字だけ抜き出すとか、flash ならあらかじめPC上で再生して、 携帯電話も楽しめるような小さな圧縮動画として送ってくれるとか、電力を喰う、 CPU負荷の大きな、携帯電話ではできないような仕事を、「マイサーバー」が代替すればいいと思う。

こういうのはもう、airproxy というソフトがあって、 サーバーを自宅に設置できる人たちは昔からこういうことをしているみたいなんだけれど、 素人が手を出すには、まだまだ敷居が高い。

PCの機能というよりは、「携帯電話より高価な携帯電話の付属品」としてPCを販売するような、 こうしたやりかたというのは、少なくとも携帯電話の機能向上が難しい間は、 有効な生存戦略になるような気がする。

付属品としての生き残りかた

「インターネットを見る道具」という競争があって、流れとしてはたぶん、携帯電話がその主役になって、 旧来のPCが携帯電話の居場所を奪おうと思ったなら、もはやそれはPCでなく携帯電話になってしまう、 そういう状況というのはたぶんいろんなところにあって、旧来のメディアは、 「どう頑張っても自分たちのパイが膨らまない状況」に、いつか追い詰められてしまう。

トップランナー、あるいは自分たちの居場所を脅かす新世代が生まれたときには、 それと競い合ったり、あるいは自らの「性能向上」を目指すやりかたはあまり賢いとは言えなくて、 どこかで「パイが膨らまない」状況に陥ったら、新世代の無敵性とトレードオフになっている何かを探して、 自らの能力が、それを補うことができないかどうか、新世代の「高価な付属品」としてのありかたを探ることで、 新たな付加価値を生めるんじゃないかと思う。

「大学病院のありかた」とか、携帯電話を見ながらあれこれ考えてる。

2009.10.02

Google 携帯を買った

何年ぶりだかに携帯電話を買い換えて、iモードも使わない人間が、スマートフォンに乗り換えたときの記録。 使い始めてそろそろ1ヶ月になるけれど、けっこう便利。

DoCoMo はあんまり教えてくれない

買い換える携帯電話は、正直なんでもよかった。今まで使っていた、機能のほとんどついていない、 ストレート型の携帯電話に不便を感じていなかったし、動く場所のないデザインは、そもそも壊れようもなかったから、 楽だったし。

電池の持ちが悪くなったのと、Mova のサービスがもうそろそろ終わってしまうだとかで、 「ストレート型の小さい奴を下さい」なんてお願いしたら、HT-03A という、Google 携帯を勧められた。

ネットで見て、Google 携帯というものがある、ということぐらいは知っていたんだけれど、 「Twitter 見れますか?」とか、「SDカード にほんのスキャン画像仕込んどいたら、あとから閲覧できますか?」とか、 何を尋ねても、「分かりません」という返事しか返ってこなかった。

右も左も分からないまま、とりあえず進められたプランどおりに購入して、2万円ちょっと。 月に最大7000円ぐらいかかるらしいんだけれど、 まだよく分からない。

買ったもの

買ったままの状態だと、この携帯電話は、充電器がついてこない。FOMA ユーザーの人だったら、 昔の充電器を使うように言われるし、 Mova ユーザーだと、昔の充電器はそもそも使えない。「電池切れたらそれで終了ですか?」なんて尋ねたら、 DoCoMo の人が、充電器をサービスで一つくれた。

とりあえず、クレードル型の充電器と、液晶保護シートを購入した。

クレードルは、とりあえず立てて置いておける充電器だけれど、一応普通に使える。その代わり、 携帯電話はそもそもクレードルに対応した端子になっていないものだから、つけ外しの時にはちょっと引っかかる。 HT-03A は、バッテリーが2つついてくる割に、DoCoMoの充電器だと、2つめのバッテリーが充電できないから、 こういうクレードルを持っていると、一度に2つのバッテリーを充電できるのが、便利と言えば便利。

液晶保護シートは2枚買った。「Plus」のほうは低反射、「Brilliant」のほうは、透明度が高い。 Palm の時代は、たしかOverLay Brilliant が定番になっていて、最初はこれを買ったんだけれど、 個人的には失敗だった。 相変わらず貼りやすいし、透明度は極めて高いのだけれど、画面の上で指を滑らせる操作をすると、ちょっとべたつく。

HT-03A には独立したキーボードがないから、操作しているとき、画面上で指を滑らせる機会が多い。 画面と指との摩擦というのが、結構気になる。OverLay Plus のほうは、低反射加工の分、 透明度はわずかに落ちるんだけれど、画面がさらさらしていて、操作が軽く感じられて、快適。

今のところ、買ったのはこれだけ。ソフトは今のところ、フリーウェアしか入れられないみたいで、 有償アプリケーションが出てくるのは、もう少し先らしい。

アプリケーション

HT-03A は、ユーザーこそそんなに多くないみたいだけれど、多くの人が、 自分の経験をネットで公開しているみたいで、調べるといろいろ出てくる。

買ったばかりのGoogle 携帯は、インターネットを閲覧する以外、 正直あんまりたいしたことができないんだけれど、アプリケーションを入れると、 いろんな機能が増える。

以下のアプリケーションを入れた。

  • FlickWnn: フリック入力という文字入力の機能を導入する。最初は小さなQWERTY キーボードしかついてこないんだけれど、フリックになれると、入力がずいぶん楽になる。
  • ドロイドあんてな: 2ちゃんねるのまとめサイトを、さらにまとめて表示してくれる。 動作も軽いし、ちょっとの時間を潰したいときとか、どうでもいい話題に無駄に詳しく なれる
  • Twidroid: Twitterクライアント。ボタンが少し小さくて押しにくいんだけれど、 必要な機能は全て備えている。Twitter クライアントは何種類もあるみたいだけれど、 いくつか試して、これに落ち着いた
  • Toggle Settings: 同期やGPS、無線LAN のオンオフが画面からできるようになる。 GPS オフ、無線LAN オフにすると電池の持ちがある程度よくなるので、1つの電池で 当直明けまで何とか使えるようになる
  • AK Notepad: メモ帳。メモを書いて、投稿したりできるらしい。入れたんだけれど、 メモは全部Twitter に放り込んでいるから、あんまり使っていない
  • 世界天気時計: 画面上に常駐して、指定した場所の天気を表示してくれる。病院の中にいると、 「雨が上がった」とか、そういう感覚が分からなくなって、こういうのがあると 和んだりする
  • Digital Clock Widget: iPhone みたいなデジタル時計が画面上に表示される。 純正のアナログ文字盤時計に比べて表示が小さくて見やすい
  • Steel: ブラウザ。標準のブラウザに比べると、動作が少し軽い。今はブラウザを 2種類使い分けているので、2つめのブラウザとして
  • ASTRO: ファイラ。買ったままだと読みに行けない、SDカードに置いたファイルを 読むことができるようになる。よく使う

普段使っているのはこれぐらい。

標準でついてきたアプリケーションは、ブラウザと、目覚まし代わりのアラームと、 あとはカレンダー機能、「ギャラリー」機能ぐらいしか使っていない。

SDカードにスキャンした教科書とか、漫画本を大量に格納しておけば、携帯図書館が作れるかも、 なんて期待したんだけれど、漫画本と、文庫本はぎりぎり読めるけれど、教科書をスキャンした奴は、 さすがに画面が小さすぎて、お話にならなかった。

Google のショートカット

一部の機能は、独立したアプリケーションを導入するよりも、Google の ホームページからリンクされているGmail とか、Google リーダーを、 直接読みに行ったほうが高機能だったりする。

HT-03A のブラウザを開いて、必要なページを「お気に入り」に登録したあと、 画面の空いた場所を長押し->「ホーム画面に追加」画面から「ショートカット」-> 「ショートカットを選択」画面から「ブックマーク」を選ぶと、 携帯電話の画面上に、それをタップするだけでブラウザが立ち上がる、 ショートカットが設定できる。

  • Gmail: HT-03A にはメーラーがついてきて、Gmail に新しいメールが来ると、 それを教えてくれる機能もあるんだけれど、ホームページを読みに行ったほうが 高機能で使いやすい。ちゃんとHT-03Aに特化したページを読みに行ってくれる
  • Google リーダー: これも同様に、RSS リーダーアプリよりも、そのページを 直接見に行ったほうが、使いやすいような気がする
  • iGoogle: PC からiGoogle のホームページに飛んで設定すると、 任意のニュースが自動配信されてみたり、メールやカレンダーが読みに行けたり、 便利に使える。一部のリンク先は、Googleの側で携帯電話で読みやすい形に 体裁を整えてくれるから、読みやすくて、ブラウザの読み込みも高速で快適

Google のショートカットは、携帯電話上でできることを、わざわざ Google のサーバーまでデータを取りに行って、携帯電話用にデータを 生成させているわけだから、なんだかすごく胡乱なことをしているんだけれど、 今はもう、どこにいてもネットにはつながりっぱなしになっているから、 こういう使いかたでいいんだと思う。

あとはGoogle ではないけれど、自分で作ったマニュアルの索引ページを ショートカットにして、やはり画面上に置いている。タップするだけで 索引が立ち上がって、必要な単語をクリックすると、当該ページに 飛べるから、病棟で便利。

Google には「モバイルゲートウェイ」というページがあって、このページに必要な URL を入れると、モバイル用途のページに変換してくれる。変換後のページをお気に入り登録しておくと、 軽くて便利。

使いかた

朝おきて携帯電話の画面を見ると、外の天気が表示されていて、 夜に入ったメールとか、Twitter の自分宛メッセージがあれば、 それが表示されている。あったらその場で読める。ごくつまらないことだけれど、 「自分でそれを捜しに行かなくてもいい」というのは、この状態に慣れてしまうと、 そのまま定着してしまう。どこまでも怠惰になれるものなんだなと思う。

布団の中でiGoogle のショートカットをタップすれば、今話題になってる新聞の見出しとか、 2ちゃんねる の話題なんかが、大体一覧できる。昔はそんなものは読みもしなかったのに、 画面をちょんと触るだけで見出しが並ぶと、つい読んでしまう。

フリック入力に慣れていなかった頃は、さすがに携帯電話で何かを打つということはしなかったんだけれど、 この入力は、一つの動作で一文字打てるから、ぎこちなくてもずいぶん速く打てるようになる。 2週間ぐらいでずいぶん慣れて、今は時々、携帯電話のまま、Twitter で遊んでる。

こういうのがほしい

インターネットの閲覧は、やっぱりどうしても遅い。回線も遅いし、さすがに携帯電話だと処理能力の限界があるのか、 たくさんの画面が並ぶページを開くとスクロールが追いつかないし、画面を4つも5つも開くような使いかたをすると、 ブラウザが固まったりする。

標準のブラウザを、Steel に変えたところで、そこまでの大差はないんだけれど、「画像読み込み」をオフに、 「JAVAスクリプトの読み込み」をそれぞれオフにすると、実質文字を読み込むだけの機能になって、 スクロールが指についてきて、とても快適になる。

ところがこれをやると、もちろん画像が読めなくなるから、たとえば自分のマニュアルページなんかは、 何が書いてあるのか全然分からなくなってしまう。ボタンアイコンを採用しているページなんかでも、 それがクリックできなくなるから、次のページにいけなくなったりする。

今はだから、標準のブラウザは全機能を生かした状態で、Steelのほうは最小限の機能に絞って、 画像が必要なページと、文字だけ読めればいいページとで使い分けているんだけれど、 こういうのを任意にフィルタリングできるアプリケーションがあったらいいなと思う。

PC だとProxomitron というローカルプロキシソフトがあって、回線が遅かった昔、 広告をカットして読み込みを速くしたり、 ブラウザクラッシャが仕込まれたページを回避するのに使ったり、昔はずいぶんお世話になった。 スマートフォンにも、ネットと電話との間に立って、ユーザーが必要な情報だけを画面に取り込んで、 細い回線を有効に生かせるようなアプリケーションがあるとうれしい。

機能的には、こういうのは十分可能なのだそうで、有償アプリケーションが解禁になって以降、 また探してみたい。

「できないこと」が文化を作る

「これができない」ことが、そのメディアの文化というか、空気みたいなものを決めるんだと思う。

Palm なら、それは「PC と切り離された、単独での使いかたができない」ことだったから、PCとの上手な連携を 意図したアプリケーションがたくさん生まれて、それを解消したスマートフォンからは、「連携」という 考えかたが消滅した。

スマートフォンは、インターネットと接続されているのが当たり前になったけれど、 今度は無線回線の帯域幅だったり、電池の容量から来る性能の上限が、 携帯電話で読みやすい軽快なサイトを作らせたり、携帯電話の一部機能をネット上に置くことで、 性能以上に快適な使いかたを考えたりだとか、きっといろんな使われかた、 デスクトップPC でのインターネットとは、また違った使われかたが出てくる気がする。

iモードに近い、簡素なページが増えてくるんだろうと思う。HT-03A は、たしかに PCと同じようなページ表示ができるけれど、装飾されたページは重くて、どこでも使える「軽便さ」みたいな ものとは、その重たさが釣り合っていないから。

たぶん「できないこと」を前提とした作り込みみたいなのが、文化を生む。

盆栽というメディアには制限が大きいけれど、その制限こそが盆栽を生んで、 迫力を出そうと大きな鉢植えを用意したら、それはもう、盆栽でなくなってしまうだろうし。

サイズの限界、電池の限界が制限を生んで、細いけれど、気軽に携帯できて、 常にネットワークとつながっている状態と、そうした制限とのせめぎ合いが、 たぶんスマートフォンというメディアに、新しい文化を作り出す。 それはPCで見るインターネットとは、もう違った何かなんだと思う。

2009.09.26

「これはこういうものなんだ」体験のこと

まだ運転免許証も持ってなかった学生の頃、夕方遅く、すでに乗用車を乗り回していた同級生の 「トヨタカローラ」に乗っけてもらった。

昔も今も、カローラは「あって当たり前」を目指してる車であったはずなのに、 ダッシュボードに光るメーターと、田舎の夜景とが重なって、なんだか一瞬、 その光景がSF映画にダブった。

「要するに、乗用車を持つということは、どこにでも行ける自分だけの空間を持つということなんだ」なんて、 一人勝手に納得がいって、その時初めて、車というものが心からほしくなった。

ゲーム機のこと

「快適さ」というパラメーターにも、住宅みたいな階層構造があって、 「地盤の脆弱性」みたいな下位レベルの問題を、たとえば「家具の配置」みたいな上位レベルでの努力では 取り返せない。

据え置き型のゲーム機は、やっぱり昔ほどには売れていないらしい。ファミリーコンピューターの時代から見れば、 今のプレイステーションなんて夢の機械になったのに、そこでどれだけ魅力的なソフトを販売しても、 「ゲーム機のある場所に行って、スイッチを入れる」という工程から、据え置き型ゲーム機は自由になれない。

携帯ゲーム機だとか、携帯電話が当たり前になっている世代の人たちにとっては、 たぶんゲームとか、インターネットというものは、「思い立ったらもうそこにあるもの」だから、 そういう人たちにとっては、「ゲーム機のある場所に行く」という一手間が、どうしようもない「地盤の脆弱性」 に見えてしまう。

内装をどれだけ立派にしたところで、基礎がグラグラの家には人が住まないように、 据え置き型ゲーム機がどれだけ高性能に進化したところで、携帯電話世代の人たちを、 据え置き型ゲーム機の世界に引っ張り込むのは難しいんだと思う。

動作の意味を書き換える

たぶん「○○は、要するに○○なんだよ」という原体験が、自動車でも、据え置きゲームでも、 携帯ゲームでも、あるいはインターネットでも、あらゆる「メディア」に存在するのだと思う。

デスクトップPC から入った人と、iモードが当たり前にあった世代の人とは、 同じ「インターネット」というメディアを挟んで、しばしば話が通じない。

「寝室から3歩歩いて電源を入れる」ことなんて、モデム接続の昔を知っている人から見れば、 今のやりかたは「進歩」なのに、携帯電話世代の人から見れば、それはたぶん「基礎の脆弱性」に思えてしまう。

見えかたが異なれば、同じ一手間が「進歩」にも見えれば、「致命的な欠陥」にも見える。 恐らくはだから、「これはこういうものなんだ」というメディアの見えかたみたいなものを書き換えれば、 欠点は欠点でなくなるし、意味の書き換えができなかったメディア、 あるいはそれを怠って、代わりに「高性能化」の方向に舵を切ったメディアというのは、 業界ごとしぼんでしまうのだと思う。

こうなってほしい

  • たとえば「自動車」というメディアには、「コンテンツ生成装置」になってほしい。どこかに行くこと、 移動することそれ自体が、インターネットに文章を書くのと同じような、「発信」になるような
  • 乗用車はたぶん、単なる移動の手段であった昔から、一時期はコミュニケーションの手段というか、 個人の考えかただとか、社会的な立場を表すための手段として普及してきた時代があった
  • 今の「自動車離れ」という現象は、たぶんネットというコミュニケーション手段が生まれて、 「表現手段としての自動車」という場所が、インターネットに浸食されてしまったからなんだと思う
  • トヨタ自動車みたいな、業界を牽引する会社は、だから日産やホンダを相手にしてはいけないし、 「高性能な車」なんて作っちゃいけないんだと思う。むしろ「移動という意味」だとか、「乗用車である意味」みたいな ものを書き換えて、Amazon みたいなコンテンツ販売業者だとか、 mixi みたいなコミュニティが持っている「メディアの意味」を、率先して浸食していくべきなんだと思う。
  • メディアには縛りがある。そこを「乗り越える壁」としてでなく、「長所」として前に押し出せないメディアは滅ぶ
  • 自動車が「移動」、「実世界にあるどこか」にしか行けない、ということに縛られるように、 携帯電話はたぶん、「実際の知りあいとしか会話ができない」ということに縛られる。 もちろん技術的には十分可能だけれど、全然見知らぬ他人と毎日何百人も会話するなんて、 電話を使った音声コミュニケーションだと、ちょっと考えにくい
  • コミュニケーションという機能は、だから「電話の束縛」なのであって、より広いコミュニケーションを志向する方向に作り込んだら、携帯電話はしぼむ気がする
  • たとえばこれが「ネットワークRPG」なんかだったら、全然知らない人と、その場で「戦友」になれたりだとか、 見知らぬ他人が何百人も集まって、ネット世界でお祭り開いたりだとか、実世界とは比較にならないぐらい、 広いコミュニケーションが行える
  • 「携帯ゲーム」はたぶん、「コミュニケーションに新しい意味を与える道具」となって、 携帯電話の意味を浸食していく。携帯電話はコミュニケーションに縛られると、たぶんゲーム機に喰われてしまうから、 むしろ「実世界」という縛りを生かして、「実世界に別の意味を付加する道具」になってみたり、あるいは 「実世界の知人としか会話ができない」という縛りを生かして、「個人を実世界ネットワークに接続する道具」を 目指すべきなんだと思う
  • たとえばそれは、携帯電話の「目」を通じてお店を見れば、「ここの店員最悪」とか、「○○ランチは頼んじゃダメ」とか、 そういうタグがたくさん見えることであったり、あるいはまた、誰か友人から電話が入ると、自分の居場所、 相手の居場所、自分が今ほしいものとか、自宅の冷蔵庫にある野菜一覧みたいな情報も同時に送信されて、 「そこにいるなら、ついでに○○買ってきて」みたいな会話がその場できるような機能であるとか
  • 据え置きゲーム機は、高性能になって、異世界を細部まで作り込むのが、結果として得意になった。 異世界というのは「ここでないどこか」であって、「ここでないどこかに行く」という行動の先には、 たぶん「海外旅行」がある
  • 海外旅行という体験は、視野から聴覚から、あらゆる体験が、普段なじんだ世界と置き換わる。 実世界なんだけれど、そこはなじんだ空間とは別の場所で、「ここでないどこか」を体験したくて、 たぶんみんな海を越える
  • 「感覚を全部別の何かで置き換える」メディアを作れば、それは海外旅行というメディアを 浸食することができる。 「顧客の視野を全部乗っ取る」ことを、 すごく大規模にやって見せたのがディズニーランドで、たしかあの場所は、 顧客から見える風景というのをすごく大切にして、他の風景を巧妙に隠したり、 建物に錯視の原理をとり入れたりしている
  • 「感覚を全部乗っ取る」こと、日常世界との断絶を演出することが、 ゲームの次を想像するときには必要で、個人的にはやっぱりドームディスプレイがほしい。 以前サンシャインプラネタリウムで見た、ドーム映画の没入感には、本当にびっくりしたから
  • たとえば全周スクリーンのあらゆる方向から、人間ぐらいの大きさのゴキブリの群れに囲まれて、 足下見下ろせば子供の腕ぐらいはあるヒルがびっしり、絶望して天井見上げたら、 上には巨大なクモの口が…なんて体験ができたら、子供さんの一生の思い出になると思う
  • 「一般家庭にドームを置く」ために、今度はまた、据え置き型ゲーム機は、別の何かを浸食しないといけない。 WiiFit が、「家庭に板を置く」ために、ライバルとして体重計を想定したように、 家にあっても不思議じゃない、「ドームっぽい何か」を置き換えるような
  • こういうのはたぶん、「スーパーマーケット」だとか「病院」だとか、そういうものもあまねく「メディア」なのであって、 自らの「こういうもの」という意味に、みんなもっと自覚的になると、世の中きっと面白くなる

2009.09.25

スマートフォンが消し去ったもの

今さらなんだけれど、新しく購入したHT-03Aという携帯電話を、このところずっと使っている。

前使っていた携帯電話は、機能なんて何もついてない、文字通り「携帯できる電話」だったものだから、 スマートフォンのちょっとした機能に、いちいちびっくりする毎日。

Palm を使っていた

大学病院で働いていた頃は、Palm という携帯コンピューターを使っていて、 メモ代わりにしたり、患者さんの情報を入れておいたり、あるいはblog の原稿をちょこちょこ書いたりしていた。

Palm は面白くて、同業者の中でも、自分は相当熱心に使い込んでいたほうだと思うんだけれど、 職場が変わって「これでないと」という場面が減って、結局面倒くさくなった。

その面倒くささの根っこにあったのは、「同期」という操作だったのだと思う。

たとえば「今日時間があったときに読もう」なんて思った文章は、Palm でそれを読もうとしたら、 自分のノートPC から、いちいち同期しないといけない。文字を読むのは素早くできて、 転送するときに、大まかな内容は読めてしまうから、せっかく文章を転送したところで、そのときにはもう、 読む気力がなくなってしまう。

Palm にはずいぶん慣れて、比較的長い文章も打てるようになっていたんだけれど、文章を作って、 PC にそれを同期して、ネットに載せるには、さらにそこから文章を加工しないといけなかった。昔は実際に そうしてたんだけれど、「一言」のメモならTwitter に書き込めば一発だから、結局Palm を持ち歩く機会は減って、 今でもノートPC の隣には Tungsten|c というPDA が置いてあるのだけれど、もう久しく電源を入れていない。

スマートフォンが消し去ったもの

全世界規模の無線インターネットインフラ、速いCPUに、大画面の新しい携帯電話という、 初期のPalm に比べれば恐ろしく大がかりな、やりかたは正攻法なんだけれど、力技的なスマートフォンが 追放したのは、そもそもが一手間でしかなかった「同期」という操作だけなんだけれど、 たかだかそれだけのことで、生活は大きく変わった。

「手のひらサイズ」で全部やるのは無理だった昔、Palm という機械は、 「親PC との同期」という考えかたを導入することで、 「手のひらサイズのコンピューター」という夢を、ずっと低コストで達成した、本当に画期的な商品だった。

Palm 界隈は結局しぼんでしまったけれど、ほんの少し前、 それでもPalm をはじめとした手のひらサイズのコンピューターにはたくさんのバリエーションが発売されて、 ごく初期の頃に発売されたPalm から、PDA のブームが一段落する頃に発売された Tungsten|c まで、 機械はずいぶん高性能になったのに、「同期」という操作だけは、変えられなかった。

使いはじめた当初、Palm は本当に面白い道具だったし、「同期」にかかる時間だって、 別に長いものではなかったんだけれど、Palm がどれだけ高性能になっても、 ネットから何かをとり入れて、作った何かを再びネットにアップロードするときには、 どうしても「同期」という一手間が必要で、Palm がどれだけ精密に、高性能になっても、 やっぱりあんまり変わらなかった。

今度買ったHT-03A というスマートフォンは、全盛期のSony が出してたClie なんかに比べると、 あんまり精密でないというか、どこかおもちゃっぽいし、Tungsten|c なんかと比べれば、 質感も、キーボードの使い勝手も劣っているんだけれど、もう戻れない。

快適さの階層性について

家の家具をいくら工夫したところで、基礎の脆弱さをカバーすることはできないように、 「快適さ」というものにも階層性があって、ある階層で生じた不快は、 それよりも上位の階層でどれだけがんばっても、挽回することはできないような気がする。

Palm の登場は、たしかに画期的だったのだけれど、「同期」という、 どうしても避けて通れない操作を追放するのが難しくて、いろんなメーカーが、 高機能なPDA端末を投入したんだけれど、やっぱりそれは快適さにつながらなかった。

スマートホンになって、今久しぶりにHTML ファイルで勉強ノートをアップロードしたんだけれど、 個人的にはそれをすごく気に入っている。

今までも、LaTeX で作ったマニュアル類は全部HTMLで公開していたんだけれど、 Palm でHTMLファイル を読むのは大変だったし、内容をPCで更新しても、結局それを、 Palm に転送しないと読めなかったから、 いろんな文章を作った割には、それを自分で使う機会というのは少なかった。

スマートフォンになって、ネットに上げた自分のマニュアルは、そのまま手元のスマートフォンで読める。 文字しかないから、細い回線でも十分快適だし、索引ページの単語をタップすれば、必要な情報に飛べる。 うちのページからなら、誰だって同じ経験ができるんだけれど、Palm を手に入れた頃、 こういうのを夢見て上手くいかなくて、 やっとそれが自分の手でできるようになると、ずいぶんうれしい。

スマートフォンを買ってから、お布団でごろごろしながらインターネットを見る機会が増えた。

寝室の布団から出て、「ほんの数歩」歩けば、Core i7 に光回線をつないだデスクトップPCがそこにあるのに、 今はなんだか、布団にくるまってごろごろしながら、無線LAN にショボいCPU、小さな画面で、 そんなに「我慢している」という感覚を覚えることなく、遅いネットを楽しむ。

こういうのもたぶん、「n-clickを1-clickにすると商売になる。1-clickを0-clickにすると革命になる」という言葉に連なる現象。 「1-click」に相当するのは、「布団から出て3歩歩く」ことであって、革命と言っても、 起きたことは「お布団に潜ったままでインターネット」なんだから、それはずいぶんとだらしないものなんだけれど。

恐らくは自分が今体験している快適さというのは、iモード携帯電話を使っていた人たちにいわせれば、 たぶんその人たちが8年も前に通過した場所なんだろうけれど、「携帯電話でインターネット」が 当たり前という文化に育った人、「そこまで行く」面倒くささを解消してしまった携帯機になれてしまった人には、 デスクトップPC で見るインターネットだとか、据え置きゲーム機で楽しむテレビゲームは、 そこに行くだけのほんのわずかな手間が、恐らくは我慢できない煩雑さに見えてしまうんだろうと思う。

機械がどれだけ高性能になったところで、「数歩」の煩わしさを乗り越えることは、きっと難しい。

2009.09.20

犬族の経時変化について

昔撮った写真いろいろ。

2007年3月

近所で5頭の子犬が捨てられていて、「売れ残り」になっていた子をもらってきた。「あふか」と名前をつけた。

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2007年4月

ワクチンを打って、外に出られるようになった頃。羊みたいだった毛並みが少しだけ犬っぽくなった。

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2007年5月から7月頃

4月下旬頃から毛の生え替わりが始まった。子犬の毛が全て抜け落ちて、成犬の毛に生え替わる時期だったんだろうけれど、体の形がまるで変わってしまって、近所の人からえらく心配された。

毛並みは大体、2ヶ月ぐらいで今の毛並みに生え替わって、以降はもう伸びる一方になった。

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2008年6月

前の年の秋頃には、大体今の毛並みになった。子犬の顔立ちだったのが、この頃からだんだんと鼻が伸びてきた。

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2009年8月

ごく最近のあふか。毛が伸びた。

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九尾の狐を目指してる。

2009.09.07

神話としてのアンパンマン

ハッヒフッヘホー。アンパンマン、腐敗と発酵の違いを知っているか?」

大体このへんから始まった、一連のおしゃべりをまとめた。

バイキンマンからこんな問いを投げかけられて、アンパンマンはたぶん、 答えを見つけられないはず。正義というのは本来、「悪役」なしには存在できないから。

妄想:アンパンマンは山の神様だった

原作だとこのあたりは、アンパンマンの本体は、ジャムおじさんのパン種に飛び込んできた星みたいな何かで、 バイキンマンは異星人だけれど、このあたりはあくまでも、人間の側から見た事実。

物語の序盤に、 「アンパンマンとバイキンマンは元は同類の存在であったが、片方はイースト菌で食用に、もう片方は雑菌が繁殖し出来損ないとして廃棄された」なんて設定を持ち込むと、 印象がずいぶん変わる。

焼かれる前のアンパンマンとバイキンマンは、恐らくは山の中に「パン種」として存在していた。 ジャムおじさんの介入を受けることなく成長していたら、彼らは山の神様として、 人の世界に定期的に出現しては、食料と災厄をもたらす存在、 制御された神の化身がアンパンマン、制御しきれない荒魂がバイキンマンという、2面性を持った、 典型的な日本の神様になるはずだった。

アンパンマンという物語では、神様の片割れが人にさらわれ、焼かれ、殺されてしまう。

ばい菌は発酵させたり殺したりして「食べられるようにする」、都合のいい状態にするというのが人間たるジャムおじさんの宿命で、そうしないと現代的な生活なんてできない。 「火を通す」という行為を通じて、「向こう側」にあった存在は作り替えられて、正義の味方として、 人の世界にとって都合のいい、暴力装置として働きはじめる。

バイキンマンから見れば、それは「同胞を殺された」ことに他ならないけれど、 人間の側からみれば、ジャムおじさんのオーブンから「生まれた」正義の味方は、 紛れもなく生きている。

アンパンマンという物語は、死者であり、正義の味方でもある、アンパンマンという存在を軸にした、 「神」と「人」との関係を問いかける。

バイキンマンは本気を出さない

神の世界に属するバイキンマンは、ある意味自然界そのものだから、一個の生命体というよりも、 台風とか山火事のような、自然災害に近い存在。そもそも不死だし、それに対して「戦う」なんて行為自体、 バイキンマンがよほど手加減をしない限り、成り立たない。

バイキンマンは「意志を持った膨大な細菌の群体」だから、いくらでも増殖できるし、 死というものがない。焼かれて生命を失った有機物に過ぎないアンパンマンでは、そもそも勝てない。

物語世界の中で、バイキンマンという存在は飛び抜けた力を持っていて、 アンパンマンがいくら頑張ろうと、バイキンマンが本気を出したら、世界は滅んでしまう。 人類はだから、戦っているのではなくて、バイキンマンの意志によって、生かされている。

ジャムおじさんに焼き殺されたバイキンマンの同胞は、焼かれる以前、 たぶん「正義になりたい」夢を持っていたのだと思う。

「正義」は恐らく、バイキンマンにとって最悪の形で実現したけれど、 正義はそれでも、焼かれた同胞の夢だった。バイキンマンはだから、正義になりたくて、 「焼かれて空っぽ」になったかつての同胞に、せめて夢だけでも見せようと願い、 世界の存続を決断したのだと思う。

似たようなお話が延々とループするアンパンマン世界を継続させているのは、 バイキンマンの哀しい優しさであって、バイキンマンは、 かつて同胞だったアンパンマンを焼いた人類を呪いながら、 頭を焼かれ、神としての存在を失った同胞の「夢」を守るために、 アンパンマンと戦い、負け続ける。

脳を焼かれて思考する力を失っているあんパンは、終わることのない日常をいぶかしむことなく、 今日も呼ばれては、笑顔でバイキンマンをやっつける。たとえそれが欺瞞であったとしても、 正義の味方のそれは夢だったから、物語は均衡状態を保ったまま、終わらない日常が続く。

アンパンマンマーチを作ったのは誰か

あの詩を作ったのはバイキンマンなんだと思う。

バイキンマンは人類を憎んでいるけれど、彼らを殺せない。

ジャムおじさんは、アンパンマンを焼き殺した張本人であると同時に、神から見れば「死んだ」状態にある アンパンマンの夢世界を構成する、大切な部品でもあるから。

バイキンマンにとって、あの世界は地獄に見える。自分は常に疎んじられて、 同胞は毎日のように自分を殺しに来て、絶対に勝てない戦いを強いられて、 それが永遠に繰り返す。

村の住人を皆殺しにするぐらいのことは簡単だけれど、 それをすると、バイキンマンの復讐が終わる代わりに、アンパンマンの夢も終わってしまう。

バイキンマンはたぶん、そこが地獄であっても、アンパンマンの暮らすこの世界が好きで、 たとえ形だけの存在になったとしても、同胞には幸せな夢を見てほしいから、 自分が自分でいられる間だけでも、悪役を続けて、 アンパンマンにとっての「正しい世界」を維持しようと頑張っている。だからあの歌詞になる。

「そうだうれしいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも」

「アンパンマンのマーチ」を、「人が歌っている」と考えると、あれはなんだか、奴隷を使役する歌みたいに聞こえる。 歌詞の中には、アンパンマンに対する感謝の言葉が入らないし、アンパンマンを気遣う言葉も入ってこない。

何よりも、アンパンマンには「友達」がいない。

普段村人と親しく会話しているはずなのに、歌の中では「愛と勇気だけ」が友達とされる。

あの歌は、空っぽの中身に愛と勇気を詰め込んで、自らのアイデンティティのよりどころである悪と(本人の意志はともかく)戦い続ける日常を繰り返すための歌」であって、 アンパンマンに対する応援歌ではないんだと思う。

人から見ればおかしな歌詞も、これをバイキンマンによる、「殺された同胞を悼む歌」であるとするなら、 矛盾は無くなる。

物語の設定上、バイキンマンはこの歌が大嫌いで、子供がこれを歌っているのを聞くと、 全身がかゆくなるんだという。

同胞を殺して使役している人類が、、「自らの危険を顧みることなく、自らの存在に疑問を持つことなく、 今日も命がけで戦いましょう」なんて、アンパンマンに歌いかけているのを見れば、 憎しみで全身をかきむしりたくなるぐらいのことは、当然だと思う。

人類は進歩する

全ての元凶はジャムで、アンパンマンは正義を演じる愚かな操り人形、ジャムを除いて全てを知っている唯一の人物がバイキンマン、という構図に見えますね

あの物語はたぶん、バイキンマンが「終わらせよう」と思わない限りは永遠にループする。

物語に終わりをもたらせるのは、だから人類代表である「ジャムおじさん」で、彼は実際、着々と手を打っている。

神様世界の存在が、奇跡みたいな偶然で人間側に転がり込んできたのがアンパンマンだけれど、 ジャムはすでに、カレーパンマンを制作することで、奇跡の再現に成功している。

技術はさらに進化して、海外ではすでに、「量産型」の食パンマンが生み出さた。 ジャムおじさんはまた、メロンパン、ロールパンの制作を通じて、 「添加物によるクリーチャーの性格コントロール」にも、部分的な成功をおさめた。

適切な食品添加物を生地に加えることで、ジャムおじさんの工場は、もうすぐたぶん、 オリジナルよりも耐腐食性、耐候性に優れ、性格的にも従順な「神殺しの武器」を作りはじめる。

恐らくバイキンマンは、「終わり」が来るのを分かった上で、あえて何もしていないのだと思う。

技術を進歩させた人間は、いずれアンパンマンの助けなしでも神を殺せるようになる。 夢見るヒーローであるアンパンマンは、そうなれば、人類から解雇通知を突きつけられてしまう。

それは恐らく、バイキンマンの本意じゃないから、最後はたぶん、バイキンマンは覚悟の上での相討ちを試みる。 アンパンマンに自分を殺させて、一緒にアンパンマンを倒す。神は敗北するけれど、倒れるその瞬間まで、 アンパンマンの夢は覚めない。

もう一つの終わりかた

悪の象徴であるバイキンマンが倒された世界に、もはや正義の味方はいらない。最後の戦いで、 もしもアンパンマンが生き残ってしまったら、彼は今度は、人類を敵に回すことになる。

正義の味方が「味方」するのは、常に現状維持を望む人の側であって、正義というのはたいてい、 その世界で既得権を得ている人の利益を、そのままに保護することと結びついている。

現状維持を望む勢力における正義というのは、あらゆる変化を「悪」と認識する程度に頭が悪くて、 十分に強力な「正義の手先」であって、「正義が実現された望ましい世界」を自ら考え、 作り出すほどに強力になった「正義の味方」なんて、望まれない。

アンパンマンの頭には、だからあんこしかつまっていないし、時々頭ごと新品に取り換えられるし、 アンパンマンは1人しかいないから、「あんこにとって正義とは何か」なんて考える余裕もないぐらい、常に忙しい。

変革がなされ、「悪」のいなくなった社会において、仕事を失った正義の味方というものは、 「スタンドアロンで制御不能なナンセンスな兵器」 であって、社会はたぶん、アンパンマンの排除を望む。

村には大規模資本が入る。ショッピングモールと高速道路ができて、村は観光地になり、 アンパンは銅像と着ぐるみに置き換わり、パン屋は大いに栄え、そのくせたぶん、パンを焼く音は絶える。

管理維持コストが莫大な無添加アンパンは用済みになり、胴体は裏庭に捨てられる。

「アンパンマンのいらなくなった町」の山奥では、産業廃棄物置き場に捨てられた、 カビにまみれた胴体が町を見下ろして、復讐を決意するかもしれない。決意したとして、 彼はだったらどうすればいいのか、正義とはなんだったのか、分からないと思う。

用済みになった正義の味方は、あるいは自分が必要とされていた昔を望んで、悪役となり、追い詰められる。

物語終盤、顔も失い、包囲されたかつての勇者は、「ジャムおじさん、腐敗と発酵の違いを知っていますか?」と尋ねる。おじさんはたぶん、「アンパンは無添加に限る。腐って土に還るからね」なんて答えるのだと思う。

2009.08.30

メールアドレス漏れ問題の追記

自分のメールボックス、具体的にはGmail の「アーカイブ」を調べなおしました。

電話をくれた、今回メールアドレスが表示された方は、うちのサイトに対する感想メールを、2年ぐらい前に下さった方でした。

その人とは「ありがとうございました」みたいな時候の挨拶を返したきりで、その後のやりとりはなく、 もちろんお互いの携帯電話番号など交換していないのですが、要するに今回起きたことというのは、 たまたま相手がうちの電話に間違い電話をかけて、その相手が、偶然にも以前、 その人がメールを出したことのある人間だったという、極めてまれな事例を見ていた可能性が高そうです。

Google 側に、「Gmail を使っていて、その人にメールを送ったことがあり、さらに相手がAndroid 携帯を使っていた場合、Google は送信ユーザーのGmail アドレスで受信相手のメールボックスを調べ、一致があった場合にそれを表示する」 というルールが存在するなら、今回のケースに関しては、説明がつくような気がします。

お騒がせして申し訳ありませんでした。

その代わり、たとえば自分のメールアドレスは昔からの公開アドレスであり、今の時点ですでに3000人以上、 もはやGmail のページを見ても、アーカイブには「数千人」としか表示されない数のメールがたまっており、 うちのメールアドレスにメールをくれた数千人の誰かが間違い電話を自分にかけると、 恐らくはその人の電話番号と一緒に、その人のハンドルネーム、 Gmail アドレスが表示されることになるのだと思います。

これはこれで、たぶん問題なんじゃないかと思うのですが。。

2009.08.29

間違え電話に相手の本名とGmail アドレスがついてきた

追記

表示されていたGmail アドレスを調べたところ、どうやらうちのサイトに2年ほど前にメールを下さった方のようでした。そのときにはもちろん、電話番号のやりとりなどは行っていないので、今回のケースというのは、たまたま自分のGmail がメールアドレスを保管していたところに、その方が偶然、間違い電話をかけてきた、というところが真相のようです。

お騒がせして申し訳ありませんでした。

携帯電話のことは何一つ分からないので、とりあえずおきたことだけ。

スマートフォンを買った

ごく最近、HT-03A という、Docomo のGoogle 携帯電話を買った。

それまで6年間ぐらい使っていたのは、カメラもi モードも使えない機種だったから、 ここ数年間の携帯電話がどんな具合になっているのか、自分はまず、そのへんを全く理解できていない。

間違え電話が来た

昨日の夕方頃、知らない携帯電話からの着信があった。もたもたしてたらベル2回ぐらいで切れて、 結局その電話は取れなかった。

普段仕事に使っている番号は、全部携帯電話の「連絡先」に入れてあるから、 その電話番号はとりあえず、「知らない人」からだとは分かった。

HT-03A の着信履歴にはその電話番号が残っていて、そこにはなぜか、 発信者の名前がカタカナ表記で書かれていて、その人のGmail アドレスが一緒に表示されていた。

最初はSpam メールと同じようなものだろうと思った。そこに返信したら、マンションの勧誘電話につながるような。

添付されてきたGmai アドレスをWeb で検索すると、普通の人みたいだった。ハンドルネームを使って、 blog を3つ書いている人で、少なくとも「発信者」として記載された名前はそこには載っていなかったから、 その人はたぶん、普段は匿名のつもりで日記を書いているのだと思う。

日記では、読者の人と普通にコミュニケーションが行われているようで、何か売ってるとか、 変なセミナーの勧誘かけてるとか、そういう雰囲気ではなかった。日記をちょっと掘ってみたら、 相手がどんな人で、どこに住んでいるのか分かったけれど、それはたぶん、 相手にとっては本意でないのだと思う。プライバシーをだだ漏れにするような趣味の人には思えなかった。

相手にかけ直さなかったし、以降その人から電話は来ていないから、起きたことはここまで。

相手がどんな携帯電話を使っていて、どんなGmail の設定をしていたのかは分からない。 相手の日記から写真を何枚かダウンロードしておけば、そこから携帯電話の機種が割れたかもしれないんだけれど、 アドレスを消してしまった。

以下邪推

たぶん間違い電話をかけてきた人が、Gmail の設定か、あるいは携帯電話の設定をなにかしくじっていて、 恐らくはその人がHT-03A を持っている人に電話をすると、その人のメールアドレスと本名が、 自動的にばらまかれているのだと思う。特殊な例外ならいいんだけれど、よく起こりうることなら怖い。

携帯電話とGmail とがセットになっているから、相手の人も、たぶんHT-03Aとか、iPhone みたいな インターネットにつなげられる電話を使っていると思うんだけれど、どこをどう設定したら、 電話番号と一緒にメールアドレスが送られるのか、それがよく分からない。

Gmail は、ハンドルネームとパスワードを適当に設定するだけで使えるようになるから、 「本名」なんてなくても大丈夫だし、アカウントを取るときにも、名前の記入は要求されないんだけれど、 Google はどういうやりかたをしているのか、何かを「本名」として記録しているみたい。

自分はふだん、Gmail しか使っていない。Google には、medtoolz というハンドルネームと、 パスワードしか送ってないはずだし、手続きをするときにも、「名前を書いて下さい」とか 請求されたことは一度もないのに、「Google カレンダー」というサービスを同じアカウントで利用したときには、 なぜか自分の本名が、微妙に間違ったローマ字表記で入っていた。

Gmail というか、Google には「Google アカウント 」という機能があって、Gmali を設定すると、勝手にアカウントが割り振られて、それが「公開」になっていると、 どうもメールアドレスが一緒に送られるんじゃないのか、なんて意見をいただいた。

自分のアカウントは「非公開」になっていたし、Gmail を送るときにはアカウントネームでなく、 medtoolz のハンドルネームになっていたから大丈夫だと思うんだけれど、 Google のサービスは、どうもこのあたり得体が知れない。

何がおきたのか、どうすれば安全なのか、誰か教えて下さい。。

2009.08.27

一眼レフで猿になる

写真には正直全く興味がなくて、今までネットに公開していたわんこの写真自体、 ほとんどは奥さんが撮ったものだった。

この5年間ぐらい、うちではずっと、パナソニックのLUMIX という、 たしか6万円ぐらいのコンパクトデジカメを使っていた。そこそこいい値段がしたし、 レンズもそこそこ明るかったものだから、性能的には全く不満がなかった。

アナログ写真じゃないんだから、デジタルの一眼レフというのは、どこか欺瞞だと思っていた。 信号を電子的に分割して表示すれば、わざわざファインダーを別に作る必要なんてないんだから、 可動式のミラーを内蔵させる仕組みというのは、あれは安い中身を顧客に高く売りつけるための、 メーカーの方便なんだと考えていた。

5年も使うと、カメラはさすがにくたびれてきて、近所の電気屋さんで安くなっていた、 キャノンの一番安いデジタル一眼レフカメラを買うことにした。病院から帰って箱開けて、 その日の夜、布団に入る前までのせいぜい3時間ぐらいの間に、気がついたら100枚以上の写真を撮っていた。

人が猿になる

「デジタル一眼レフを買ったとたんに猿みたいにシャッター押したくなる」現象に、 はたして再現性があるのかどうかは分からないけれど、それに夢中になったことがない人が見れば本当にどうでもいいことに、時々人は、猿みたいにのめり込む。

一眼レフカメラのファインダーは、懐古趣味の光学機器だとばかり思っていたんだけれど、 「レンズ越しの遅延がゼロ」という状況を初めて体験して、行動は大きく変わった。

今まで使っていたデジカメの液晶ディスプレイだって、遅延はせいぜいコンマ秒オーダーだと思うんだけれど、 犬はよく動いて、「ここ」という瞬間にシャッターを切ろうとすると、ごくわずかな遅延が邪魔をして、 なかなかいいタイミングで写真が撮れなかった。

ファインダー越しにのぞいたわんこの顔は「遅延ゼロ」で、「ここ」というその瞬間にシャッターを切ると、 まさに今見た風景が、そこにうつっていた。「シャッター押したら見たものが撮れる」というのが、 こんなに快適とは想像できなかったものだから、気がついたら猿みたいにシャッターを連射していた。

たくさん撮るには快適さが必要

うちから車で1時間ぐらいの場所にドッグカフェがあって、予約をすると、プロのカメラマンが犬の撮影してくれる。

予約が必要だから頼んだことはないんだけれど、説明書きには、「2時間で1000枚ぐらい撮る」のだと書かれていた。 とにかくたくさんの写真を撮って、あとから飼い主さんと写真を選んで、100枚ぐらいを譲ってくれるらしい。 きれいな写真を撮るにはやっぱり数が大切で、被写体が人間だろうが動物だろうが、たぶん同じ。

以前から、だからカメラを持つときには、とにかく数を撮るように、たくさんシャッターを切るように心がけては いたんだけれど、液晶ディスプレイを見ながらだと、「ここ」という瞬間からのごくわずかなずれが、 シャッターを切ろうと思っても、なかなか押させてくれなかった。

ただ「ボタンを押す」という、ただそれだけの行為においてもまた、快適さというものが欠かせない。 ユーザーの感覚に訴えて、行動それ自体を変えるためには、エンジニアなら「誤差」として切り捨てるような、 ごくわずかな変化、改良みたいなものが、たぶん大きな差として効いてくるのだと思う。

応用

「見たものがその瞬間撮れる」みたいな、エンジニアがしばしば「誤差」として片付ける領域の気持ちよさというのは、ここを追求すると「人が猿になる」現象が起きて、いろいろ面白いことになる。

  • 恐らくはAmazon みたいな通販サイトも、すでにわずかになっている遅延をさらに減らせれば、 減らしただけ、売り上げが伸びたり、あるいはユーザーの行動が、 わずかな改良に対して大きく変革する瞬間が出現するような気がする
  • パチンコ屋さんなんかはたぶん、たとえばチューリップに玉が落ちて、玉をはじいているお客さんが「当たった」と知覚したその瞬間と、台の下から玉がジャラジャラ落ちてくるまでの時間とを、コンマ秒単位で調整すると、たぶん「コンマ秒」の変化と、そのパチンコの気持ちよさとの間に、何かの相関関係が生まれる
  • 今のパチンコは電子制御だから、「遅延ゼロ」とか、あるいは「マイナス遅延」、チューリップを玉が通過したその瞬間から「当たり」体験が始まるような調整ができるだろうから、たぶんどこかに、顧客が「猿」に変貌して、お財布が空っぽになるまでお金をつぎ込むような、そういう領域があるのだと思う
  • ゲームセンターのゲームは、「楽しむ」という意味では間違いなくパチンコ以上なのに、それがどうしてだかお金に結びついていない。つまるところ顧客という生き物は、「楽しむ」ためにお金を支払っているようでいて、彼らはもしかしたら、本来的な意味での「楽しみ」なんて、最初から求めていないのだと思う
  • 「判断」は、人を人のままに止めてしまう。「人の楽しみ」をどれだけ洗練させたところで、たぶん「猿の快適感」にはかなわない。もっと単純な、判断というより「作業」に近い行動をと、それに対する反応が、遅延なしで返ってくることが、 たぶん原始的な快適感を生む

    「やりたいこと」と「実際にやられたこと」との距離を近づければ近づけるほど、その行為が原始的な気持ちよさみたいなものを生むし、個人の努力みたいなものが、それを近づけるゲームに貢献できる仕組みが作れれば、人は猿になる。

一眼レフカメラにあってコンパクトデジカメにない、たぶんパチンコ屋さんにあってゲームセンターにない、もしかしたらオンラインRPGにはちょっぴりある「何か」というものが、人を猿に変化させる要素であって、それを獲得できたプロダクトというのは、形を変えずに長くそこに止まれるのだと思う。

写真

以下、うちのわんこの写真。大きくなった。

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しっぽが体長と同じぐらいある

2009.08.21

白鳥は水の下で足をかく

水面に浮かぶ姿がどれだけきれいであったとしても、水かきだとか、足だとか、水面下の構造を 持たない白鳥は、いつか沈んでしまう。

ある仕事に打ち込んで、努力の見返りとして、その仕事から、見合った対価を得られる人は幸福だけれど、 それはすごくまれなことで、あるいはもしかしたら、「水の下に何もない白鳥」みたいに、 そういうやりかたは、むしろいびつなものなのかもしれない。

「成功するために本業に打ち込む」やりかたというのは案外正解からは遠くて、 むしろ「本業を楽しむために副業を頑張る」人というのが、正解にたどり着く可能性が高いような気がする。 大事なのは「本業」と「副業」と、できれば白鳥みたいに、生き物としてリンクしていることで、 「役者を目指して、副業でアルバイトを頑張る」みたいなやりかたは、それとは少し違う。

井上隆智穂というF1 ドライバー

セナが亡くなったあと、シューマッハが大活躍を始めた頃に、井上高千穂という日本人F1 ドライバーがデビューした。

日本人なのに、ヨーロッパで地味に下積みを積んでいた選手で、当時日本人ドライバーといえば 片山右京だったし、日本での知名度はあんまり高くなかった選手だったものだから、 「井上はF1のシートを金で買った」とか、たしかファンの評判はあまり芳しいものではなくて、 井上自身が所属していたチームの車も、それほど戦闘力の高いものではなかったから、 あまり活躍はできなかった。

井上選手は、ドライバーとしての腕前こそ、超一流どころには及ばなかったけれど、 スポンサーを見つけてくるのが上手で、英語での交渉が上手で、口一つ、身一つでいろんなチームと交渉して、 下位のチーム、自分が引っ張ってこれるお金で手の届くシートを「買って」はレースを続けて、 ついにはF1 のシートを「買った」。

当時はどちらかというと、井上選手のやりかたは「汚い」なんて空気だったけれど、 片手に余る数しかいない日本人F1 ドライバーとして、あの人はそれでも、大成功をおさめたんだと思う。

そこに立ち続けるためのコスト

F1 ドライバーだとか、あるいは音楽や芸術方面のメディアで活躍することは、多くの人にとっての夢なんだろうけれど、 それがかなう人はすごく少ない。それを「本業」として、その仕事に打ち込んだところで、 多くのプロドライバーや、若手の芸術家は収入が乏しいし、ほとんどの人はたぶん、 夢が破れて、経済的な成功とは無縁のまま、その場所にいられなくなってしまう。

人の注目や、尊敬を得られる場所、F1 や芸術、あるいは学会なんかもそうなんだろうけれど、 そういう場所に立ち続けるためにはコストが必要で、どれだけ才能を持った人であっても、 自らの能力を磨いて認められるまでの時間、そこに立ち続けるためのコストを支払わないといけない。

井上選手は、ドライバーとしては決して超一流ではなかったのかもしれないけれど、 ドライバーとしてそこに居続けるためのコストを支払うことができて、 たぶん「ドライバーとしての自分」を、交渉を通じてお金に換えることに長けていて、 結果として、ドライバーとしての競争なら、もっと優れていたかもしれない多くのドライバー候補を押しのけて、 F1 のシートを手に入れた。

恐らくは才能だけで成功した人なんて少なくて、偉大なF1 ドライバーが実は手強い交渉者だったとか、 大成功したミュージシャンは、実は若い頃から商売上手で、お客さんのつかない駆け出しの頃から、 小さな人数のコンサートでも、それを上手にお金に換えて、生活できていたんだとか、 みんな「水面下」で頑張っていたのだと思う。

メディアの間合いと商売

漠然と「間合いの広いメディア」と、「間合いの狭いメディア」とがあって、 スポーツや芸術方面みたいな「間合いの広い」メディアでお金を稼ぐのは恐ろしく大変で、 お客さんに直接ものを売る、「間合いの狭いメディア」というのは要するに商売そのものだから、 こちら側での活動は、たいてい直接お金に結びつく。

「趣味だからお金にならなくてもかまわない」という態度だとか、「これは人助けだと思ってやってます」なんて、 何か間合いの広いメディアで頑張って、幸運にも成功をおさめた人は、どこかできっと、「見返り」がほしくなる。 若い頃からひたすら勉強して、食うや食わずの生活で論文書いて、 やっとの思いで前任者が退官したあとアカデミックポストに座れて、今さら「本業」をいくら頑張ったところで、 たいていはお金にならないから、投入した努力は、少なくともお金で報われない。

プラチナコロイドの健康食品売ってる東大の先生だとか、ミラクルエンザイム売ってる内視鏡の権威だとか、 テレビに出まくってる脳科学者だとか、あの人たちはたぶん、駆け出しの頃、本当に頑張って、 「水面下」のことなんか、考えもしなかったんだと思う。

「間合いの広いメディアで名前を売りつつ間合いの近いところでご飯を食べる」か、 逆に「間合いの近いメディアでご飯を食べつつ、間合いの広いメディアに打って出る」のが、 正解に近いような気がする。もちろん本当に才能のある人は、「正解」なんて蹴散らしながら、 自分の信じた道を当然のように進むのだけれど。

2009.08.12

平凡なものをたくさん作る

「すごいもの」を目指した物作りは最初の段階で行き詰まって、たいていの場合、上手くいかない。

「すごい」は相対評価だから、そこにはたぶん「平凡な」先客がいて、 あとからそこに入り込むのは難しい。すごいものが目指したその場所が狭かったなら、 相手に打ち勝って、やっとその場所を手に入れたところで、戦って荒らされて、 価値はずいぶん下がってしまう。恐らくは、投じた労力を回収できない。

量は質に転化する

ある状況だとか、ルールがあって、同じ土俵で比較できる相手がいる場所で、 相手より、漠然と「すごい」ものを目指そうとすると、アイデアの出現閾値が下がってしまう。

「量」を「質」に転化することはできるけれど、たぶん逆は難しい。

たくさんのアイデアを出すことで、偶然すばらしいものが生まれることもあるし、 質の不足を量で補うこともできるけれど、質の高いアイデアを出そうとして、頭の中でいくら頑張ったところで、 力を「溜めた」結果として、すばらしい何かが生まれる可能性は少ない。

必要なのはもちろん、「量」と「質」との両方なんだけれど、あくまでもそれは、 頭の中身を形として外に出してからのお話し。頭から何かをはき出す以前の段階で、 「すごいものを」なんて出口を縛ってしまうと、たぶん「平凡なアイデアが」、「少しだけ」出てくるだけで、 結果として、ものにならない。

大事なのは、「平凡なものを」「たくさん」生み出すことなんだと思う。

すごい場所で平凡なものを作る

競合がたくさんひしめく場所では、そもそも単体としての「すごさ」なんて、数に隠れて目立たない。 平凡であっても、たくさんのプロダクトを生み出して、自分の居場所を「ここ」と宣言しない限りは、 その人の「すごさ」は伝わらない。

世の中にある「すごいもの」というのは、「たくさんの平凡」を生産している人が、 たまたま作った質の高いものでなければ、たぶん「競合者のいないすごい場所」で初めて生み出された、 「平凡なもの」なんだと思う。

平凡な、空気みたいな、登場したら、「それがあって当たり前」と思われるようなものを作れればいいなと思う。 空気に「すごさ」を求める人はいないだろうし、空気がなければ、その場所で人は生きていけないだろうから。

そこにまだ何もない場所に、何か平凡なものが送り出されて、それが「空気」として、 当然のものとして認識される。その場所は、平凡な何かにとっての「すごい場所」であって、 そんな「すごい場所」を見つけた人が、恐らくは「すごいもの」を生む権利を持つ。

生み出されたそのプロダクトは、しばしば平凡な作りをしているけれど、 それより「もっとすごいもの」を目指すのは、たぶん何かが間違っている。

何か平凡に見える先客を見つけたときには、平凡なのに、どうしてそれが、「空気」としてそこにいられるのか、 それがある場所の「すごさ」に目を向けるべきなのだと思う。

2009.07.14

くじ引きルールの考えかた

「投票された票については、今までどおり候補者に配分する。無効票や白票、そもそも投票されなかった票は一つにまとめて、候補者全員で「くじ引き」を行って、勝った人がそれを総取りできる」というルールの補足。

たとえばそこに住んでいる住民に、投票というものを強制して、無理矢理「投票率100%」を実現したところで、 選挙に興味がない人は、やっぱり「どうだっていい」と思うだろうし、「誰が勝利したって世の中一緒」だと思う。 「くじ引きルール」というのは、「投票に行かない人はそう思っている」という仮定の下に、擬似的に、 安価に「投票率100%」と同じ状況を作り出そうとしている。

  • くじ引きという理不尽が選挙に組み込まれると、「まじめ」に政治家を目指そうという人は、選挙に対する意識の極めて高い、 投票率がほとんど100%の地域で勝ち上がらないといけない
  • そういう場所は、激戦区であるその代わり、政治に対する関心が極端に高いから、候補者は、政策をつぶやくだけで、 それが勝手に広まっていく。街宣車で自分の名前を叫ばなくても、住民は勝手に政策を読むから、 名前を周知するコストは安価になる
  • 選挙のコストというのは要するに、「興味のない人に、興味を持ってもらう」ためのコストで、 つながりの緊密な、投票率の極端に高い地域というものを仮定すると、そういう場所では、 競争率が高い代わりに、選挙のコスト自体は安価だし、みんな政策を見るから、 コストをかけても、勝率はそんなに変わらない
  • 一方で、政治に対する関心が実質存在しない地域では、投票と、くじ引きとがほとんど等しくなる。 そういう場所では、そもそも「選挙活動」それ自体の意味がない。仮にある候補者の名前が周知されたところで、 その人と、「通りすがりの立候補者」とは、くじ引きルールの上で対等になってしまうから、やっぱり選挙には、 一切のお金がかからない。政治に対する関心が低めの地域で、忠誠心の高い小さな地盤に支えられた「ベテラン議員」の 既得権益はこれで滅ぶ。地元の業者さんとか、特定の政治家にお金を積む理由が無くなるから、変な癒着が減ると思う
  • 投票率が中途半端な、だいたい60%ぐらいの地域での戦いかたは難しい。頑張って選挙戦を戦ったところで、 選挙の勝者が、くじ引き野郎に逆転されたりする。これを防ぐためには、まじめな候補者は、「勝つ戦いかた」を 考えるだけでなく、地域全体を啓蒙して、投票率それ自体を挙げることに、自ら努力しないといけない。 今の選挙みたいに、「雨が降ったら投票率下がって俺様有利」みたいな発想はできなくなる
  • くじ引きルールだと、投票率は仮想的に100% になるから、従来の、たとえば宗教団体直結政党みたいな、 「戦略による効率のいい勝利」は望めなくなる。まじめな地域は激戦区だから、政策訴えないと勝てないし、 不真面目な地域は「くじ引き」だから、最低限、全ての地域に候補者を立てる必要があって、今みたいに、 勝てる地域にだけ候補者を配置する、効率のいいやりかたが通用しなくなる
  • たとえば誰かが、地域を徹底的に「教化」して、投票率100%、しかも支持率100%にしてしまったなら、 その議員はいつまでも、そこに居座ることになる。でもそういう人は支持されてるんだから、別にそれでいいと思う

ルールブックに1行追加するだけで、戦いかたは、けっこう変わる。政治家という人たちが、 党派をつくって、派閥をつくって、いわば「手下」を増やしていこうと思ったならば、 選挙に多する関心の高い激戦区を勝ち続けたベテランが、周辺地域を「教化」して、選挙に対する 地域の関心を高めていって、新しい激戦区を生み出して、さらにそこで、自らの政策が受け入れられないといけない。

厳しいことにはなるだろうけれど、行き先は、そんなに悪い方向ではないと思う。

2009.07.13

選挙はくじ引きにすればいい

候補者の「努力」が結果に反映される、今の選挙システムというのはまじめすぎるような気がする。

選挙というものは、もっとうんと馬鹿らしいやりかた、賭け事に近い、偶然に大きく左右されるような やりかたをしたほうがいいと思う。

具体的には、投票された票については、今までどおり候補者に配分するとして、無効票だとか白票、 そもそも投票されなかった票を一つにまとめて、候補者全員で「くじ引き」を行って、 勝った人がそれを総取りできるようにする。

選挙に対する意識の高い、投票率の高い地域なら、このやりかたはなんの影響ももたらさないけれど、 投票率が低い、そのくせ結束した小さな「地盤」を持つ候補者が、ベテランの顔をして当選を繰り返すような地域なら、 たぶん当選者の顔ぶれは毎回変わる。

その地域で何度も当選しているベテランは、たとえば「飲み会の罰ゲームで立候補させられた大学生」とか、 「引退後の楽しみで運試ししている元社長」とか、今までだったらあり得ない、下手すると選挙活動すらしていない 人たちを相手に、「くじ引き」で勝負することになる。

ベテランが、ベテランらしくあろうと思ったら、地域の投票率を高めて、 なおも自分が当選するように頑張るか、毎回当選するための「努力」を放棄して「運試し」の仲間に加わるか、 決断を強いられることになる。

努力を続けている人

同期の出世頭で、東大の法科を出て、誰でも知ってる有名企業に入って、 人生絶好調が過ぎて政治の世界に足を踏み入れて、 そのあとずっと、まだ一度も当選していない男がいる。

時々名前を検索すんだけれど、党の指導なのか、出自とは全く関係のない市議選挙だとか、 国会議員選挙に出馬を繰り返して、やっぱりまだ、「議員」としての名前を見たことがない。 数年前まで候補者としての名前を見たから、きっと志は高いままに頑張ってるんだろうけれど、 前会ったときには「アルバイトで何とか食ってる」と話してたから、いまもたぶん、定期的な収入なんて 無いんだと思う。この数年、検索しても名前を見なくなって、40も近い男が、今何をして「食って」いるのか、分からない。

今政治がごたごたしていて、どの党にもたぶん、こうした「努力」を重ねている議員の候補がたくさんいて、 もしかしたら彼なんかも、「新人の」、「若手」政治家として、どこかに顔を出すかもしれない。

恐らくは、多くの若手議員なんて呼ばれている人、「二世」でくくれない経歴を持った人というのは、 たいていがこんな下積み期間を持っているんだろうけれど、こういう人たちが、 その「努力」が報われて議員になれたなら、誰だってたぶん、 その失われた15年だとか20年を取り戻したいと思う気がする。

その男が政治に舵を切らなかったなら、今もその会社は順調に経営されているみたいだから、 たぶん兵隊の位もそれなりに上がって、この15年ぐらいの時間で、 1 億円ぐらいは稼ぎ出していたはず。たとえばこの男が当選を果たしたそのとき、 誰か親切そうな人が、1 億円ぐらい持ってにこやかに援助を申請したなら、やっぱりそこで、 「志」を貫いて清貧決め込むのは難しいと思う。

たとえばある日、「君が明日から国会議員だ」なんて、昨日まで普通に暮らしていた人が、 ある日いきなり議員に指名されたなら、そこで1 億円差し出されたら、誰だって怪しむ。

ところが「努力」を積んできた人なら、その1 億円というものは、「15年前に落とした1 億円」が 入った自分の鞄なんだから、それは「懐に入れる」ものなんかじゃなくて、払った努力の当然の見返りとして、 きっと「取り戻す」べきものに見えるはず。

努力が報われない世の中というのは嫌だけれど、政治家の、その立場を得るための 「努力」というものは、世の中に、あまりいい結果をもたらさない気がする。

災厄としてのリーダーという役割

「リーダーに選ばれる」というイベントは、その人にとっての名誉でなく、むしろ災厄でなくてはいけない。

実世界で「リーダー」を任じられた人は、たぶん自ら望んでそうなったというよりも、 困難に直面したチームにあって、責任者として、あるいは失敗したときに差し出される「首」として、 無理矢理そういう立場に追い込まれたケースのほうが多い。

「リーダーになりたい人が立候補して選ばれる」という、選挙政治のやりかたは、他の業界だと珍しい。

リーダーというものは、たいていの場合、誰かが突然に指名されて、 あるいはチームから「あなたしかいない」なんて押し出される形で、 半ば嫌々引き受けるものだと思う。今の政治みたいに、候補者リストを眺めて、 「こんな人しかいないの?」なんてがっかりするという状況は、やっぱり政治限定で、 他の業界で、こういう状態に陥った企業というのは、普通この世からいなくなってしまう。

リーダーに選ばれるということは、本来が「災厄」であって、それは名誉かもしれないけれど、 責任が重くのしかかるから、「やりたい」なんてたくさんの人が手を挙げる状況はちょっとあり得ないし、 たぶんリーダーは、「やりたい」人に任せるよりも、むしろ「嫌だけれどそうならざるを得ない」誰かを捜してきて、 その役割を押しつけるほうが、チームは上手にガバナンスされる。

「本当はリーダーなんてやりたくなかった」という思いが、たぶん正しい判断を導く。 「さっさと辞めたい」リーダーは、メンバーの顔色をうかがう理由が存在しないから、 チームにとって、最適と思える判断を下す可能性が高くなる。

「その仕事をずっと続けたい」と思うリーダーは、「チームにとって最適」な判断よりも、 もしかしたら「仲間受けのいい」判断を優先して、組織の判断を誤ってしまう。 世の中が上手く回っているときには、両者の解離は目立たないけれど、困難に直面した状況で、 仲間の誰もがいい思いができる判断は、たいていの場合、チームの全滅を招く。

選挙はくじ引きでいいと思う

今の選挙のやりかたは、「その仕事を続ける」ことと、「いい判断を下す」こととが、同じ方向を 向いていなくて、民意を反映して正しい判断を下す、政治家というお仕事本来の振る舞いを目指した人は、 たいてい勝てない。

選挙で勝とうと思ったら、結束力の高い支持者を固めた上で、あとは投票率が低ければ低いほどに、 その地域での、政治に対する関心が低いほどに、その候補者が次も当選する可能性が高くなる。

もちろん投票に行かないことだとか、あるいは政治に無関心であることは、それはその人の責任ではあるんだけれど、 政治に関心を持ってもらって、多くの人に、投票所に足を運んでもらうこともまた、政治家の仕事なんだと思う。

地元の関心を高めて投票率を上げる、政治家本来の「仕事」に背を向けた候補者は、 こんどは「くじ引き」という、阿呆で理不尽なシステムに対峙することになる。

政治家はだから、馬鹿らしくてこんな仕事を続けられなくなるか、あるいは本気で「いい政治家」を目指すか、 どちらかを選択することになって、「政治家になるために努力する人」だとか、 「政治家であり続けるために努力する人」は、この業界からいなくなる。

それでも政治をまじめにやりたい人は、せめて自分の地域だけでも、政治に対する関心を高めなくてはならないし、 カルト宗教直結の政党なんかは、「選挙戦略」なんて姑息なやりかたに頼ることなく、今度は政治に無関心な地域に 候補者を送り込んで、正々堂々、教祖の法力で運を呼び込んで、くじ引きに勝利すればいいんだと思う。

2009.07.11

商売の生態系

近所にできたショッピングモールを見て考えたこと。

ショッピングモールができた

実際それができたのはずいぶん前なんだけれど、最初の数ヶ月は、平日でも近所が渋滞するぐらいの賑わいで、 最近になって、平日の夜間ならガラガラになって、ようやく地元住民が、便利に使えるようになった。

通うようになってみれば、けっこうきちんとした外食屋さんが何軒もあって、今までどうしようもなかった 田舎の食糧事情が、ずいぶん改善された。「食べに行こう」なんて思っても、せいぜい4軒ぐらいの選択枝しか 無かった昔を思えば、もう別世界。

で、通うようになって、ショッピングモールの外食屋さんには大きく2種類、 「そこでやっていく」ことを目指している料理屋さんと、 「今を売り抜ける」料理屋さんと、たぶん思惑が別れているように思えた。

そこでやっていく人たち

  • たいていは「東京の○○」というお店が、うちの県に初めて出店した、ということをうたっている
  • それがお寿司屋さんであれ、イタリア料理屋さんであれ、メニューには種類があって、「料理」できる人がいないと作れないものを出す
  • まだ店自体はできて間もないから、店員さんの対応はまだまだぎこちないんだけれど、「こいつを上客にしてやろう」みたいな意志を感じるというか、いつも店内に気を使っていて、緊張している

売り抜けようとしているお店

  • そのショッピングモールだと、「石焼き料理」を売りにする店と、「何でもドリアにして出す」お店がたぶんそうだと思った
  • 店舗こそ分かれているけれど、そのお店は厨房が地続きになっていて、片方は洋風陶器、もう片方は石の鍋なんだけれど、鍋を受ける木枠だとか、食器類は共通していた
  • 店が売りにするのは「調理方法」であって、どちらにしても、鍋に具材を放り込んで、暖めれば料理になるから、材料を仕込む人さえいれば、厨房は、アルバイトでも回せるように思えた
  • 実際問題、夜間の店員さんは全員アルバイトの人たちで、レジは外国の人が担当していたし、厨房は地元大学の体育会メンバーなんだか、 みんなで「次のバイトをどう回すか」の会議をやっていて、相当に大きな声で呼ばないと、店員さんが来てくれない
  • 店の対応はひどいんだけれど、「腕」のあんまり関係ない料理だからそこそこおいしく食べられて、何より「石焼き専門」なんて企画が珍しいからなのか、 初見の客は、自分たちも含めてけっこう入っていた
  • 恐らくは何年かすれば、そういうお店の賞味期限は切れるんだろうけれど、店舗を変えずに、「石焼き」を「釜飯」に変えても、 たぶん出費は最小限でいけるし、「鍋に具材を入れて暖めるだけ」の料理なら、材料を準備する人さえ技術を持っていれば、人を変えずに看板を掛け替えるのも、比較的低コストでいけそうな気がした

一蓮托生ルールで得をする人

ショッピングモールの大半は衣料品店で、残りのスペースに料理屋さんが入ったり、おもちゃ屋さんが入ったり、業態は様々だけれど、 たぶん「そこでやっていく」戦略と、「今を売り抜ける」戦略と、どこもそれは同じなんだろうと思う。

ショッピングモールは、そこに人が集まらないと商売にならないから、そこでずっとやっていこうと思っている人にとっては、 自分たちがいくら頑張ったところで、まわりが足を引っ張って、モール全体を盛り上げてくれなければ、お店はいつか、 ショッピングモールごと寂れてしまう。

一方で、売り抜け戦略をとる人にとっては、たとえば5年なら5年、まわりがどう頑張ろうと、店の賞味期限内に店の投資を回収できれば それで十分だから、接客だとか、料理それ自体の質だとか、そういうものを向上させようとか、たぶんあまり考えてない。

企画先行型のやりかたは、たぶん頑張っても、頑張らなくても売り上げはそんなに変わらない。だったらたぶん、 最小限の投資で、あらかじめ予想していた売り上げが得られたら、あとは「おまけ」で、商売のサイクルが短いから、 ショッピングモール全体の盛り上がりがどうなろうと、自ら投資して、盛り上げようとか、お客さんを引っ張ろうとか、 そういう気にはならない。

ショッピングモールというやりかたは、たぶん頑張る人が損をして、そこでやっていくひとの頑張りに「乗っかる」形で商売をする人が得をする構造になっている。将来的にはたぶん、企画先行型の、売り抜けを狙うお店が増えて、 そうなるとショッピングモールは盛り下がって、やがて人も減ってしまうのかもしれない。

マクロな話

ビルの設計をしていた人に言わせると、ショッピングモールというものにも、 10年で潰す建てかたをしているところと、 何十年も持たせる建てかたをしているところがあるんだという。

ショッピングモールというのは生活の中心になって、その周囲に住むと、生活がすばらしく便利になるから、土地の価格が上がる。 あらかじめ、どこにショッピングモールが作られるのか分かっていれば、その不動産屋さんは大もうけできるし、 たとえ無価値な場所でも、ショッピングモールがそこに作られれば、その土地の価値は、一気に上がる。

ショッピングモールというのはそういう存在なのに、巨大な建物が造られる中、やけに「撤退」を意識した、 壊しやすいような建てかたをしているショッピングモールというのがあって、そういうところは要するに、 土地が売れたらさっさと撤退して、地元住民が途方に暮れる中、次の「無価値な土地」に、何事もなかったように、 次のショッピングモールを作るんだという。

ショッピングモールの中の店と同様に、モールそれ自体もまた、「そこでずっとやる」ことを目指している会社と、 「今を売り抜ける」ことを目指している会社とがあって、それを見誤って「いい買い物をした」なんて、 高い土地を買ってあとから泣く人というのは、必ずでるんだという。

成果最大と損失最小

自分はずっと借家だし、病院に近いことが選択の全てで、近所にできたショッピングモールというのは、 単に「ラッキーだったな」としか思っていないんだけれど、たぶん同じ商売をするにしても、 「成果最大」を目指す人と、「損失最小」を目指す人とがいて、前者を目指すなら、 よっぽど頑張らないと失敗するし、後者は逆に、めざとく「頑張る人」を見つけては寄っかかって、 その人が疲れたら、速やかに「次」を探さないと、共倒れになる。

自分はどっちが向いてるんだろうとか、ちょっと考えた。

2009.07.03

浮気物語の共通骨格

2ちゃんねるのまとめサイトには、定期的に、「浮気物語」とでも形容するしかない、 「結婚相手が浮気して、それが発覚して離婚に至った元夫の書き込み」が登場する。

書き込みはたいてい、発端から別離に至までの物語になっていて、 その都度共感的な返信が列を連ねて、「はてなブックマーク」が30程度から、多いときだと100ぐらいつく。

共通事項がある

2つ仮定する。

  • 2ちゃんねるの書き込みは、基本的に創作、あるいは脚色を加えた経験談である
  • 「浮気物語」自体は、恐らくは似たような物語が定期的に書き込まれていて、人気のあるものだけが浮上して、「まとめサイト」に補足される

掲示板世間での生存競争というか、ある種の淘汰を受けた結果として、人気のある浮気物語と、 人気のでなかった浮気物語が存在していて、恐らくは「同情されやすい浮気物語の構造」とでもいうべきものが、 淘汰の結果として、生み出されているような気がする。

主人公は普通の人

浮気が発覚する前段階で、主人公はたいてい営業職で、朝から晩まで、汗まみれで働いている。

土木系の、筋骨隆々とした人物が主人公の物語だとか、何か創造的な仕事、作家だとか、 イラストレーターだとか、何かを生み出すような、誰かのやっかみを誘うような仕事では、 たぶん共感を引っ張れない。

調子の悪いときに浮気が発覚する

浮気物語は、たいていの場合、主人公が奥さんの携帯電話記録を見る場面から始まる。

これを見つけるときの主人公は、たいていの場合、体の調子が悪い。徹夜が続いたとか、 あまり気の乗らない飲み会の帰り、疲れ果てて酔っていたときだとか、 休みたいとき、さっさと寝たいときに、なぜか携帯電話が目に入って、物語が動く。

あらかじめ怪しんでいただとか、絶好調のときに、何かのついでに携帯電話を覗くとか、 そういう始まりかたはしない。

主人公の調査能力は弱い

主人公が浮気を疑って、浮気の証拠固めは、たいていの場合「興信所」の仕事になる。

浮気を検証する場面では、たとえば主人公自らが張り込んだり、 何か些細なきっかけを重ねて推理したり、誘導尋問的なやりかたで相手を追い込んだりとか、 同じような境遇を抱えた読者の参考になりそうな、具体的な描写は少ない。

もちろん浮気された主人公は普通の人だから、そもそもそんなノウハウは持っていないのだろうけれど、 だいたい物語の前半1/3ぐらいのところで「興信所」が登場して、次の場面では、もう証拠がそろう。

「強い友人」の存在

証拠がそろったあとに、浮気の現場に踏み込む場面が来る。

主人公自らが戦う物語は少ない。浮気相手を殴るだとか、脅しあげるような描写も少ない。

主人公にはその代わり、強力な味方がついてくれることが多い。

  • 興信所の人が親切で、暴力沙汰の場面まで付き添ってくれる
  • 浮気相手の男側に「主人公に同情的な強い先輩」がいて、相手を殴ってくれる
  • 浮気の相手は取引先の企業にいて、その上司が主人公に味方してくれる

たいていこんな設定があって、主人公自身は暴力から自由でいられて、 浮気という状況に傷つく一方、暴力装置となる第三者が登場して、 読者のうっぷんは、この人が晴らしてくれる。

こういうのもたぶん、主人公自らが喧嘩の達人になったりすると、読者の共感が薄れてしまうのだと思う。

災厄は実家に及ぶ

状況はたいてい泥沼化する。浮気相手だとか、浮気した奥さんの実家まで巻き込まれて、みんな不幸にあう。

お話しが、夫婦の別離で収束することは少なくて、 浮気相手の家庭が無茶苦茶になるだとか、奥さんの実家に浮気した奥さんが帰ったあと、 実家の親共々主人公の前で土下座するだとか、話はたいてい、いろんな人に飛び火して、 主人公の不幸は、多数の不幸で購われることになる。

トラブルを抱えたご家族なんかを相手にしていて、そこに集まる人が5人を超えると、 状況を制御するのがすごく難しくなるんだけれど、浮気物語を読んでいると、 物語の最終局面、離婚を決意した主人公と、関係者とが対峙する場面になると、 制御可能人数以上の人物が同じ部屋に集まって、それでも事態は収束に向かう。

事態を収めるのは、たいていの場合「実家の父親」だったり、あるいは「先輩」だったり、 そこに集まった中での父親的な人であって、主人公自らが場を仕切る場面は、やっぱり少ない気がする。

主人公にも不幸が来る

離婚が成立したあとに、主人公が病気で倒れてしまって、最後は「親友」が同じIDで書き込む物語があったけれど、 どんな「浮気物語」も、たいていの場合、離婚が成立して平和に終わることは少ない。

主人公が人間不信になってしばらく仕事ができなくなったり、子供の半分を相手に取られたり、 100% の勝利というのは与えられない。

匿名物語の構造

匿名掲示板世界ではたぶん、似たような物語がたくさんあって、お互い競合しながら、 読者の共感を奪いあいながら、生存競争に打ち勝った物語だけが、「まとめサイト」を通じて浮上している。

作者が匿名である以上、読者の興味は物語それ自体に向かって、恐らくは神話だとか、 民話なんかと同じく、「浮気物語」みたいなものにも、読者の共感をもらいやすい物語の構造というものがあって、 掲示板での生存競争の結果、「浮気物語」もまた、神話の構造みたいな、共通した物語の骨格というべきものを 獲得したのだと思う。

駆け出しの作家が書くべき1作目というのは、だから「ありきたりな物語」である必要がある。

最初から奇をてらった、共通骨格から外れた物語を書いたところで、 「名」を持たない者がそれをやっても、読者はついてこない。

「ありきたり」を重ねて、共感を積み重ねて、読者の興味が、物語それ自体から、 それを書いた人にうつったとき、作家は初めて「名前」を得ることができる。

作家はたぶん、名前を得ることで、そこで初めて、多様な物語を紡ぐ権利が発生するのだと思う。

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