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2008.09.29

神様のまずい設計

人間の体はよくできているけれど、ライフスタイルが変化すれば、やっぱり「設計」は古くなる。

胃を切った人は元気

「メタボ検診」の悪影響で、病院に健康診断の患者さんが大挙して、一時大変だった。

普段病院に来ないような人達をたくさん診察して、「胃を切った人は元気だよね」なんて、 医局で話題になった。

今70歳ぐらいになる人達が若かった頃は、胃潰瘍の治療といったら「手術」だった。 当時はまだ、開業した人達も手術してたから、今だったら薬を飲むだけで済むような人が 片端から手術を受けて、胃を切除された。

胃を切られた人は、食べられないから太れない。やせた人が来て、お腹を見ると手術跡があって、 「これは昔、潰瘍で」なんて教えていただく。診察して、後日血液検査を見ると、みんな正常値。 こんな人が何人か続いた。

サンプルは偏っているし、観察者の主観でしかないから、この事実にはまだなんの意味もないけれど、 「メタボ検診」は、患者さんの腹囲と血圧を測って、あとは高脂血症の検査と糖尿病の検査と、 「成人病」を診断するのに必要な検査が、一通り行われる。 もしかしたらだから、「若い頃に胃を切った」ことと、「その人が高齢でも元気」であることと、 何かの相関が、統計的に証明できるかもしれない。

当時の状況をきちんと検証すれば、たぶんたくさんの人が合併症で亡くなっていたり、 きっとろくでもない数字がたくさん出てくるのだろうけれど、とにかく日本のある年齢層の人達は、 「正常」な胃を当たり前のように切られていた時期を過ごしていて、 その人達が高齢になって、今健康診断を受けに、日本中の病院に来てる。

「カロリー制限」というのは、ある程度まじめな検証が為されている健康法の一つだから、 きっと面白い数字が出てくるような気がする。

仮に「胃を切った人は健康である可能性が高い」なんて結果が出たところで、 胃を切った「から」健康なのか、胃を切られた「にもかかわらず」健康な人が生き残ってるのか、 相関関係と因果関係とを鑑別するのは、また別の問題なのだけれど。

介護と人工肛門

寝たきり老人が増えた。人生の最後の10年ぐらいをベッドの上で過ごす人は、半ば当たり前になってきた。

団塊世代の人達が、これから寝たきりになってくる。

介護の需要はいよいよ増えるはずだけれど、若い人は減ってしまうから、人手は間違いなく足りなくなる。 人手が足りない業界の給料は上がるはずなんだけれど、今はもうお金無いから、 やっぱりたぶん、介護業界に投じられる予算は増えないのだと思う。

人間の「排泄」ラインは、あくまでも立って生活するのに特化していて、「寝たきり」の体位を想定していない。 おむつを当てたところで、寝たままの排泄は苦痛だし、うまく出ないし、介護するほうは、 だから1 日中、おむつ交換に忙殺される。

「人間らしい」介護が求められてるんだという。介護施設を外から観察する人達にとっての 「人間らしさ」とは、食事の介助を付きっきりでやることだとか、日中は車いすで外を散歩することだとか、 たとえ不隠のきつい人であっても、夜中も付き添って、縛ったりしないことだとか。

実際に療養病棟でやられていることは、「おむつ交換」と「体位交換」の繰り返し。 「人間らしい」お仕事は、もちろん介護を提供する側にとっても 「人間らしい」お仕事だから、みんなそういうことしたいんだけれど、便汁と床ずれは待ってくれない。

見学に来る人は、食事の風景だとか、レクリエーションの時間なんかはチェックするけれど、 スタッフが4 人がかりで便まみれのシーツ交換している風景だとか、茶色が染みた紙おむつの山を バケツに放り込んだ台車が廊下を何往復もしている風景だとか、あんまり見てくれない。

「おむつ」の問題が解決できれば、寝たままトイレに行ったり、排泄できたりするベッドが作れれば、 介護は画期的に楽になる。おむつ交換に回す人手が減らせれば、お互いもっと「人間らしい」ことができる。 そこにはすごく大きな市場が在るはずだから、今はもちろん、世界中の寝具会社が開発に全力挙げてる はずなんだけれど、未だに何も出てこない。

寝たきりになった高齢者に「人工肛門」と「膀胱瘻」を作ってしまうと、問題は解決する。 へその左右に、袋が一つずつつく形になる。

これをやると、肛門側からは何も出ないから、おむつ交換は理論上必要なくなる。 便とか尿が背中に漏れないから、シーツの交換頻度も減らせるし、お尻が便で汚染されないから、 床ずれも治りやすい。

介護の仕事は、食事の介助、体位交換、おむつ交換と便の始末がほとんど全てだから、 人工肛門を作った患者さんについては、食事の介助以外、ほとんど全ての作業が不要になる。 人的リソースが節約できるから、みんなが大好きな「人間らしい」仕事に、余力を割けるかもしれない。

これからは在宅介護が主流になるらしい。絶対無理だと思う。24時間、 4時間おきに体位交換とおむつ交換とか、一人でそれをやり続けるのは無理だから。

「自然」であり続けるためのコスト

  • 減量するために、あるいはもしかしたら、老後健康であり続けるために、胃を切除する
  • 介護を楽にするために、限られた人的リソースを「人間らしい」仕事に集中するために、人工肛門を作る

「自然でない」なんて反論が絶対に出るだろうけれど、神様にだって想定外のことはあるんだと思う。

食生活がよくなりすぎて、重量あたりのカロリーが高い、「いい」食品が世の中にあふれた現在、 神様が想定した胃の容量を今の食品で満たしてしまうと、カロリーオーバーになってしまう。

立って活動するように設計された「自然な人」が寝たきりになった状態は、そもそもが不自然な状態。 排泄みたいな行動は、そもそも寝たきりの状態を想定していないから、 その人を介護するのにすごい人手が必要で、介護施設では慢性的な人不足が続く。

人間が、本来想定されていない環境の中で「自然」であり続けるためには、 高いコストを対価として支払わないといけない。「寝たきり」みたいな不自然な環境に対して、 その状態にあわせて自分の体を作り替えた人は、たしかに「自然ではない」けれど、 「自然」な寝たきり老人に比べれば、たぶん環境に適応するためのコストを下げられる。

こういう考えかたの延長には、どうしたって安楽死が待っているんだけれど、 「どこまでが自然なのか」という議論は、それが必要になる前に、もう少し盛り上がってもいいと思う。

2008.09.25

見たいものしか見えなくなる

寝たきりの、普段から喀痰でうがいしているような患者さんを、老健施設から受ける。

そういう人は、どこから先が「病気」の範疇で、どこから先がそうでないのかはっきりしない。 熱が出て、呼吸が悪くなったら病院で受けて、なんとか立ち直って、熱が下がったら、また老健に戻る。

入院期間はどうしたって長引くし、老健施設だって、こういう人を介護するのには人手かかかるから、 「ある程度落ち着きました」なんて紹介状の返事書いても、施設によっては無視される。

問題は秘書のせい

寝たきりの人を引き受けて、介護するのが思ったより大変だったのか、 「本人が貴院での入院加療を希望しておられます」なんて、しゃべれもしない老人を紹介してくる。 地元の開業医が施設長を兼任してる。

外来に来て、そんなに具合が悪いわけでもないのに、気がつくとスタッフはみんな引き上げてる。 北朝鮮の瀬戸際外交されてる気分になる。

とりあえず部屋取って、点滴して、ある程度落ち着いて、また紹介状書く。 「先生におかれましてはお忙しい中大変申し訳ありませんが、患者様の今後のご加療をよろしくお願いします。 このたびは貴重な患者様をご紹介いただき、本当にありがとうございました」なんて。

無視される。1 週間待っても、2 週間待っても、「今検討中です」なんて、患者さん見にも来ないで、 なんか検討してる。

そうこうしているうちに別の患者さんが「紹介」されて、また「本人が貴院での…」なんて、 しゃべれない老人を、車いすに乗っけて連れてくる。

やりかたがあんまりひどくて、文句言う。「もう病棟残ってませんから。○○さん 引き取ってくれないと、次受けられませんから」なんて。むこうのスタッフはひたすら困ってる。 「施設長の方針で、その人受けられないんです」だって。

話が前に進まないから、施設長その人に、コンタクトを取ってもらう。

施設長は、たいてい席を外していて、 「連絡取れるまで、電話切らないで待ってますから」なんて応酬すると、ようやくしばらくして、 「あとから連絡するとのことです」なんて話になる。

年次が上の同業者。喧嘩になるの覚悟して電話を待ってると、 「うちのスタッフが失礼しました」なんて、和やかな返事。自分たちの施設では、 病院が大丈夫と判断した患者さんについては速やかに引き取ることを目標としていて、 対応が遅いのも、患者さん引き取らないのも、全てはスタッフが勝手にやったことなんだと。

「よく言い聞かせておきます」なんて電話が切れて、患者さんが引き取られて、 また別の人が紹介されて、やっぱりその患者さんも、いつまでたっても引き取られない。

文句言って、また同じスタッフの人が「勝手にやったこと」にされて、患者さんは引き取られていく。

「医師同士はお互い仲がいい」という世界観は、あの人達にはすごく大事なものみたい。

医師会の会合のこと

地域医療連携の集まりだか、医師会主催の講演会があった。

終わったあとに立食パーティーがあって、友達いないから一人で食べてたら、 「いつもどうもありがとう」なんて、年配の先生方が何人かやってきた。 いつもどうしようもない患者さんを、どうしようもない理由で送りつけてくる人達。

「君たちの施設も、我々がたくさん患者を紹介するからうれしいだろう」とか、 「他の公立病院が撤退してきて、君たちももっと忙しくなる。これから大変だろうけれど、 医師の数はもっと増えるんだろうから頑張ってくれたまえ」だとか。

みんなにこやかだった。集まった人達は、「勤務医は開業医の息子」だなんて思ってて、 息子はもちろん死ぬほど働いて、「親」の金儲けを喜んで支えるのが孝行だなんて、どうも本気で信じてた。

何を言っているのか分からないだろうし、自分も何を言われているのか分からなかった。 嫌味だとか皮肉だとか、そんなチャチなもんじゃない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった。

当たり前の話、紹介されたってうれしくないし、ベッドだっていつもいっぱい。 医師が増える話なんて無いし、一人当直の病院なんだから、今以上に患者さんが殺到したとして、 対応できるわけがない。

「頑張れないと思います」とか返事したら、自分たちの施設では設備が足りないだとか、 開業医は当直が出来ないだとか、「親には逆らうもんじゃない」みたいなコメントが返ってきた。

設備は買えばいいし、心配だったら自分で当直すればいい。患者さんの具合が悪くなっても、 その施設はいつも、患者さんをろくすっぽ診もしないで、、限界まで悪くしてからぶん投げるんだから、 患者さんの具合が悪くなって立場を失うのはその先生であって、自分たちじゃない。

「夜中に患者さんの具合が悪くなったら、君たちだって同じ医師として心配だろう? 」なんて言うから、 「だって先生、ボク達普段から仲悪いじゃないですか」とか言葉返したら、 なんだか異星生物見るような目でにらまれて、みんないなくなった。

また一人になって、お寿司いただいて帰った。

2008.09.14

自動体外式除細動器のこと

「うちの人が倒れました」なんて救急要請があって、救急隊が現着してみたら心臓停まってて、 救急車に積んである自動式の除細動器をつけてみたら「心室細動」の表示が出て、 すかさず直流除細動のボタンを押したら、患者さんが復活した、なんて事例が、 今年に入ってからすでに3 人目。

救急車に「AED 」 、自動式の直流除細動器が積まれるようになって、今までなら亡くなっていた人が、 ずいぶん助かるようになった。

自動式の除細動器はたしかにすばらしい機械なんだけれど、あの機械のすごさというのは、 「技術的には全然すごくない」ことにつきるのだと思う。

救命救急士の時代

研修した病院は、米国式の心肺蘇生術を広めた草分けみたいなところ。 職員は全員心肺蘇生の手順を覚え得ていたし、必要な機材も、一通り揃ってた。

14万人規模の中規模都市で、市内の救急半分以上受けていて、それだけの「備え」を病院で行いながら、 助かった人は6年間で2人だか3人、そのうち歩いて帰れた人は1人だけだとか、ひどいものだった。

患者さんが病院に運ばれて、心肺蘇生を行う。「米国式」は良くできていて、一生懸命やると、 かなりな頻度で心拍が再開するけれど、患者さんを集中治療室に上げて、人工呼吸器つけて、 やっぱり何日かすると心臓持たなくて、ほとんどの患者さんは病院で亡くなってしまった。

心肺蘇生の成功率が低かったから、日本では最初、「人」を改良する戦略がとられた。

アメリカみたいな「救命救急士」という制度を作って、心肺蘇生に必要な処置、 気道確保と直流除細動が救急隊レベルで行えるように、彼らを鍛えた。 うちの施設では心肺蘇生のトレーニングコースをやってたから、救急隊の人達は、 当時何人も参加して、勉強していた。

自動診断装置こそなかったけれど、救急車には当時から除細動器が積まれていて、 人工呼吸も、心電図モニターの機械も、何でもあった。必要な機械はすでにその場にあって、 機械を操作する救命救急士の人達も、それを使うための知識と技量を備えたのに、 一番肝心な、「診断」と「決断」を行う権利が、救急士には与えられなかった。

みんな一生懸命訓練を受けて、10年ぐらい前のその時点で、救命救急士の人達は、 事実上何でもできるだけの「腕」を持って、「武器」に囲まれていたのに、動けなかった。

「決断」を巡るグダグダ

「診断」と「決断」は医師のもの、なんて常識が誰かえらい人にあったのか、 救急隊は、あくまでも「腕」であることが求められて、今度は誰が「頭」をやるのか、問題になった。

構想では、救急隊が患者さんを救急車内に収容して、心電図モニターをつけて、その波形を病院に電送して、 医師がそれを読んで許可を出したら、救急士が直流除細動を行うことになっていた。

誰が「読んで」、誰が「決断」するのか、誰にも決められなかった。

「官」の人達は「官」と仲がよかったからなのか、最初は公立病院に話が行った。

市内で一番「格上」だったのは、近くにあった市立の病院だったけれど、 そこにだって循環器の医師が常駐しているわけじゃなかったから、 当直医は許可を出せなかったし、「決断」を下したその時点で、その患者さんは その病院で責任持たないといけないから、病院の体制から見直さないといけなかった。

うちみたいな民間病院は、そんな意味ではやる気十分だったけれど、「官じゃなかった」から、問題外だった。

話がグダグダしていく中、どうも市のほうでは「公立病院の医師が診断して、 救命救急士が処置を行って、その後うちの施設に運ぶ」なんてルールが、 うちの施設抜きで決定されてた。

何も聞かされてないのに、知らないところで「診断」と「決断」が下されて、 不整脈から回復したばっかりの、不安定な患者さんが、問答無用でうちに運ばれてきそうな流れになって、 それはさすがに無理だから、断った。

モニター心電図のデータをうちに送ってくれれば、問題はそれで解決するはずだったのだけれど、 やっぱり「官じゃない」ことが、あの人達には決定的な問題だったらしくて、また揉めた。

話が二転三転して、結局たしか、うちの病院が救急車の数だけ携帯電話を購入して、 それを「救急車に置かせていただく」ことまでは許可してもらった。モニター心電図の波形を 見ることはできないけれど、音だけは聞かせてもらえて、判断は公立病院の医師が行うけれど、 携帯電話を通じて「雰囲気」だけは味あわせてやるから、あとは黙って患者さんを受けろなんて。

においだけかがせてやるから、鰻重おごってもらった気分で働け」なんて言われても納得できなかったけれど、 話はたしか、それでまとまって、携帯電話が救急車に積まれた。自分たちが研修してた頃、 それが鳴ることは、ついになかったけれど。

外圧が状況を動かす

AED のお話というのは、「政治の力は、技術それ自体の力よりも、しばしば大きな変革をもたらす」好例だと思う。

除細動器の技術自体は、1970年代には実用化されていたし、心電図の自動診断もまた、 自分たちが研修を始めた10年前には、もう当たり前のように心電図モニターには搭載されていて、 「診断する心電図モニター」は、すでに救急車内にあった。

AED はだから、技術的に何か画期的な進歩の成果として登場したわけではなくて、 「ありもの」の技術を組み合わせただけ。それはたしかに画期的な道具ではあったけれど、 そのすごさは技術的なものと言うよりは、今ある技術を「組み合わせていい」という、政治的な決断にあった。

アメリカでAED が認可されて、「外圧」が生まれてからの動きは本当に速かった。

「偉大なるアメリカ人様」からお墨付きを戴いた機械に疑問を呈する人は少なくて、 あれだけグダグダしたのが嘘みたいに、たぶん「日本独自の検証」とかほとんどないまま、 救命救急士の人達は、医師の許可なんかすっ飛ばして、自らの判断でAED のスイッチを入れて、 結果として、とても多くの人が助かるようになった。

「とても」といったって、田舎の小規模病院で年に数人、今までだったら亡くなっていたであろう人が、 歩いて帰れるようになっただけのことだけれど、今まで「ゼロ」重ねてたことを思えば、これは画期的な進歩。

技術それ自体は案外何も変えないけれど、政治決定は時に大きな変化を生む。

大切な政治決定が国内で為されることはほとんどなくて、一番大切な決断は、常に「外圧」の形で輸入される。

結果オーライではあるけれど、10年かかった。

新しい薬だとか、技術を開発するのではなくて、「ありもの」の技術を転用するやりかた、 組み合わせるやりかたで解決できる問題は、まだまだたくさんあるはずだけれど、 その決定が日本で為されることは、たぶんないのだろう。

第二次世界大戦頃から今に至るまで、そのへん本当に何も変わっていないな、とか思う。

2008.08.20

水は低いところに流れる

「顧客の声に耳傾けるのは大切」なんて言われるけれど、耳を傾けたその瞬間から、何か大切なものが劣化する。

小児医療無料化のこと

「医療費はタダがいいよね」なんて「顧客」の声が、小児医療の無料化を実現した。

これから大変になる、らしい。

自分たち、それでもまだ部外者でいられる内科や外科は、この問題を「数」の問題と考えていた。 無料化して、外来に人が殺到して、ただでさえ少ない小児科医が疲弊して、系全体を巻き込んで潰れる情景。

小児科の先生に言わせると、無料化で問題になるのは、むしろ「質」、患者さん側からみたときの、 医師の価値がゼロになることなんだという。

無料になっても、大多数の患者さんは、やっぱり病気にならないと病院には来ないし、みんな忙しい。 無料化すると、夕方の外来はたしかに混雑するらしいのだけれど、それはまだ、覚悟ができていれば何とかなるのだと。

問題なのはむしろ、小児科医療が、患者さん側から見て「タダ」だと思われてしまうこと、 小児科医という存在に、何の価値も見いださない人が増えることらしい。

「モンスター」とか言われる親御さん達は、ただでさえ、自分たち「かわいそうな」人達こそが、 世間でもっとも敬われるべきと心の底から信じてて、「恵まれてる」存在、医師とか教師を見下す。 これが無料になると、そういう人達から発射される目線の傾斜がますますきつくなって、 それが外来やってて辛いんだという。

子供のためと言うよりも、むしろ自分のために病院に来る親御さん達は、 どういうわけだか時間だけは無限に持ってる。どこにかかっても、何回かかっても、小児科医療は これから無料になるから、気に入らない答えを返す小児科医とか、自分にへつらわない小児科医とか、 どんどん「クビ」にして、他の施設に移動する。

今までなら、せいぜい施設を2つか3つ。お金払うのは馬鹿らしいから、3人ぐらいの医師を罵倒して、 「やっぱり医者は馬鹿ばかり」なんて満足げにつぶやいて、子供は「自然治癒」したことになって、 それなりに世の中回ってたらしいんだけれど、無料ルールだと、こうした親御さんの財布が傷まない。

罵倒される小児科医が6人にも7人にも増えて、子供はもちろん自分の時間を親御さんに奪われて、 お互い大変なことになるんだという。

衆愚が世の中悪くする。

「みんなの意見」に対抗する論理は、上から目線で「専門家である我々に任せておけ」なんだけれど、 専門家の意見もまた、集まると、どういうわけだか状況悪くする。

人工呼吸器のこと

人工呼吸器は、とにかく「呼吸しない人に、安全な呼吸をさせる」ことが機能の本質であって、 呼吸器がどれだけ高機能化しようが、「安全な呼吸」を見失った改変は、やっぱり改悪にしかなり得ない。

出現したばかりの人工呼吸器は、そもそも電源ボタンすらついてなくて、圧搾空気ラインを接続すると、 いきなり勝手に動き出す。呼吸器は患者さんにつながっていないから、もちろんアラームが鳴り響いて、 部屋の中がすごくうるさくなる。

いきなり動くし、アラームうるさいし、たしかにそれはろくでもないんだけれど、 「絶対動く」こと、「安全を第一にする」こと、人工呼吸器は、登場した時点で、 すでにこのあたりを達成できていた。

1970年代の登場から30年。

  • 人工呼吸器には電源ボタンがついて、「オフ」にすれば止るようになった
  • アラームは高機能化して、機会が「正常」を判断すれば、勝手に止るようになった
  • 今回の改良品に至って、呼吸器にはサスペンドモードがついて、電源を入れただけでは動かなくなって、 人間がモードを設定してからでないと、呼吸が始まらなくなった

電源ボタンは「操作してるかんじ」をもたらしたけれど、間違って電源が切られる可能性を作り出した。 機械の判断で勝手に止るアラームは、病室を静かにしたけれど、もしかしたら大切なサインを見落とす可能性を生み出した。

今度実装されたサスペンドモードは、一番動いて欲しいその瞬間、呼吸器が沈黙して、アラーム一つ鳴らさない。 患者さんが落ち着いてるときはそれでもいいけれど、真夜中の鉄火場で、「今すぐ」使いたいとき、 沈黙する呼吸器というのは本当に怖い。

勝手に動く呼吸器は、今では電源入れて、医師が指示しないと動かないように「従順」になった。 人工呼吸器は、専門家である医師が意見して、30年かけて様々な改良が加わったのに、 それで「お得な思い」したのは生き死にに関係ない人ばっかりで、 「安全な呼吸」という、本来人工呼吸器が目指してた何かは、最初の呼吸器が登場してからこの30年、 何だか遠くなった気がする。

「下流」目指した時点で劣化が始まる

誰かの「声」を、政策だとか製品に反映させるやりかたは、だから顧客の専門性いかんに関わらず、 本質をダメにする方向、ダメにする方向に動かしてしまう。

登場したとき、欠点は目についても十分に魅力的で、役に立っていたプロダクトは、 それを開発する人達が顧客を志向したその時点で劣化が始まって、一度味をしめた「顧客の声」は、 次から次へと「改良」を要請して、結果としてろくでもないものを生み出す。

アニメーターの宮崎駿監督は、「下流を志向すると文化が衰退する」なんて言っておられた。 文化を創り出す人を「上流」においたときの、文化が流れていく先、クリエーターが顧客の方向を 向いたその時点で、その人が創り出した文化は、劣化してしまうのだと。

裁判が終わった。本当によかったなと思う。

マスメディアも、司法の人達も、そもそもの原因作った事故調査委員会の人達も本当にひどかったけれど、 その「ひどさ」というものもまた、あの人達が「顧客」の目線を意識した結果の劣化なのかなと思う。

「真実を明らかにする」ための事故調査委員会は、ご家族という 顧客に「配慮」して、玉虫色の判定出して、裁判が始まった。

警察組織はもうずっと前から不作為を叩かれて、叩かれて、たぶん今では、 公式に「過失」を認めた文章が出された時点で、もう叩かれたくないだろうから動かざるを得ない。 「正しさ」と、「柔軟さ」とは、目線の中では両立できない。

「俺たちの方を向いて仕事しろ」なんて声は、もちろん患者さんからも、あるいは医師からもでるけれど、 「上流」にいる人達が、こういう声に耳を傾けたその瞬間から、何かが劣化して、 それはしばしばひどい結果に結びつく。

こういうの、どうやって回避できるのか、未だによく分からない。

2008.08.14

一本勝ちは強いのか?

ボクシングだとかレスリングみたいに、「相手が自分と同じ技量を持っている」 ことを前提に技が作られている競技と、合気道みたいに、「相手がこちら側の技を知らない」ことを前提に している競技とがあって、柔道もどちらかというと、「技をかけられる側の無知」を前提にしている気がする。

柔道の授業で習ったこと

柔道の授業では、最初に受け身の練習があって、お互い試合を始める前に、 「これだけはやるな」という教えを受ける。

投げるときは、絶対に足を曲げちゃいけないこと。投げられたら、粘らないで素直に受け身に入ること。

「これ守らないと、死ぬぞ」とか、一番最初に注意される。

投げるときに足を曲げると、受け身とれないまま、後頭部から床に落ちるし、 投げられるときに粘ろうとすると、投げられたとき、2人分の体重が腕にかかったりして、骨が折れてしまう。 お相撲の「河津掛け」みたいなことすると、だから本当に危ないだとかで、 やる真似するだけで怒られる。

柔道は、元々が人を殺す技をアレンジした競技で、「一本」を取れる状態というのは、 だからやりかたを少しだけ昔に戻しさえすれば、たぶん投げられた相手が大けがをする。 まじめにやると、相手が本当に死んでしまうから、投げが決まって、相手が「死に体」になった時点で、 投げるは「お約束」に従って、背中から落とす、安全な投げかたをする。

投げた瞬間に相手にしがみつくと、男2人分の体重がどこかに集中して、破壊力が増す。 投げる側は、そのとき「2人分の体重」を相手の首にかけてしまえば いいだけの話しなんだろうけれど、それやると大けがするから、バランスを崩して倒れないといけない。 それが続くと試合にならないし、やっぱり危ないから、「粘るな」なんて習う。

技が成立する前提のこと

柔道の一問一答だかで、「柔道の谷は本当に強いんですか?」なんて身も蓋もない質問があって、 「柔道知らない人が相手なら、谷の前に5秒と立っていられない。柔道知ってる人なら、 たとえば高校生の初段ぐらいでも、体格が十分大きければ、谷でも難しい」とか答えてた。

柔道みたいな武道は、たぶんどこかに「相手が技に無知である」という前提があって、 お互い「一本」を狙う戦いを成立させるには、一番大事な場面になったとき、 投げられる側が、投げる相手に対して「無知」にならないと、お互いに怪我をしてしまう。

柔道よりももっと「お約束」が多い合気道は、触っただけで相手がふき飛ぶ。

あれは飛ばされてるのではなく飛んでいるんだけれど、技をかけられたとき、 飛ばないと手首が折られちゃうから、身を守るためには飛ぶしかないんだという。

合気道の技を上手な人にかけてもらうと、何だか自分の体が自分のものでなくなったような、 面白い体験が出来る。合気道は、相手が無知で、「面白がって」いるうちは、 良くできた術理が成り立つのけれど、技を知っている相手が少しでも逆らおうとすると、 痛い思いをすることになって、自分から飛ばないと、競技にならない。

合気道はだから、対外試合みたいな制度が、そもそも存在しないらしい。

柔道も、技を本気でかけると、相手が大けがすることになってる。 お互い空気読まないで、本気出して試合すると、たぶんどちらかが大けがするから、 上手な人の一本勝ちというのは、どこかで相手が「空気を読んで」、 相手に対して何かをあきらめることで、はじめて技が成立している気がする。

「死に体」のこと

日本の柔道みたいな、そもそもが殺しあいの技であった武道を、 それを残したまま対戦形式にするのは、どこか無理がある。

剣道もそうだけれど、高校剣道で強かった人が大学の大会に出ると、 全然勝てなくて悩んだりするらしい。どれだけ相手に竹刀を当てても、 「気がこもっていない」とかで、審判の人に無効扱いされてしまうらしい。

その技が本当に有効なのかどうか、竹刀の代わりに真剣使えば、もちろん一瞬で答えは出るけれど、 それはもうスポーツじゃないから、相手が「死に体」になったかどうかは、審判の経験で判断する。

今の技が本当に有効であったのかどうか、それを選手がお互いに判断したら、 空気を読まない側が勝つのは見えてて、日本ではだから、審判がきちんと「一本」を判定して、 「一本勝ち」がきれいに決まる柔道競技が成立する。

剣道も、柔道も、「一本」というのは、「これで相手を殺せるかどうか」を 審判の経験で判断しているわけだから、「一本」を誰もが納得するような形で 判定するのは難しいし、数字で示せるような定義には遠い、「名人芸」的な判定をしないといけない。

レスリングとかボクシング、あるいは海外の人がやってる「judo 」なんかは、 たぶんお互いが技を知ってることが前提になっていて、文章できちんと定義された「負け」の 状態に相手を持って行くためには、自分はどうすればいいのか、結果を想定して、 そこからやるべき動作を演算しているような印象。

日本のやりかたは、「正しいやりかた」がまずあって、勝ちというものは、 正しいやりかたの帰結として、審判とか、さらにその上にいる「武道の神様」が授けてくれるもの みたいな考えかたをして、正しさを追求するのが目的になって、勝ちはあとからついてくるものみたいに見える。

「一本」目指すのは強いのか?

柔道で金メダル取った選手が、「一本勝ちにこだわった成果です」とか、インタビューで答えてた。

喜んでいたし、もちろんそんな姿勢は金メダルという結果につながったけれど、 それでもやっぱり、今の「一本勝ち」目指すやりかたには、どこか納得できない気がする。

強い人は、勝つ。

でも「強い」と「勝ち」との間にある「だから」については、勝った選手それ自身の言葉で「だから」を語られてもなお、 それが真実かどうかは誰にも分からないし、「だから」には、いろんな人の思惑が投影されてしまう。

金メダルを取った選手は、これはもう、疑いようもなく「強い」のは間違いないけれど、 あの選手は、一本を取りに行った「にもかかわらず」金メダルを取れたのか、それとも 一本を取りに行った「から」勝てたのか。金メダルを取ったことそれ自体は、 必ずしも「一本を狙うやりかた」のすごさを証明したわけではないのだと思う。

やりかたには、「強い」と「弱い」以外に、どういうわけか「きれい」というパラメーターがあって、 「強い」はたしかに「弱い」の対極にあるけれど、「強い」と「きれい」、あるいは「正しい」は、 目指すべき場所が異なってしまう。

えらい人達は、「きれいさ」という、「強さ」とは微妙にずれた価値観を選手に投影して、 勝てるやりかたが出来ない状況作り出しておいてなお、選手に「勝ち」を求めてる気がする。

「きれい」目指すなら、「勝つ」ことあきらめて、神様に捧げる美しさを目指すべきだし、 「勝つ」こと目指すなら、むしろ真っ先に否定されるべきは、前提必須の「きれいさ」で、 前提が共有できない相手を想定しても、なお勝ちに行けるやりかたを「きれい」と定義しないといけない。

「一本」で勝つ柔道はたしかにきれいだけれど、あれをいびつだと思う価値観が、 審判だとかコーチの人達に共有されないと、不幸になる人多い気がする。

2008.07.23

みんなの意見で社会が滅ぶ

うちの地域でも、中学生以下の小児医療が無料になる。来年あたりから本決まりになるみたいで、 まだかろうじて生き残っている、小児救急やってる先生がたは、今からもう「終わった」とか言ってる。

夜間の小児科外来は、来る子供のうち9割以上は「軽症」。たいていの子供さんは、 日中の小児科外来が開くまで待っても、大きな問題は生じない。

今はそれでも、「時間外」であることが、わずかながら抑止力にはなっているけれど、 これが「無料」になってしまうと、もう歯止めがかからない。

黒幕はいない

たぶん、議員も役所もそんなに馬鹿じゃないから、無料になったら患者が殺到して、 現場が疲弊して、病院が潰れることぐらい、容易に想像できるはず。

「無料化」を推し進める人は、たぶんそうなることを分かっているんだろうけれど、 多数決の原則は、その流れを止められない。

選挙は公約の争い。

誰かが「小児科医療無料化」を打ち出したら、無料に反対する理由はないから、 その候補者には票が集まる。集まる票を黙ってみてたら落選するから、対抗する側も、 同じく「無料」だとか、補助を出すとか、対抗せざるを得ない。恐らくは誰もが、 無料化すると大変なことになるのは分かっているけれど、「無料化」叫ばないと そもそも議員になれないから、そう叫ぶ。

「無料」を公約した議員が当選する。公約に従って、無料化を進める。 うちの地域なんかは、与党側も、野党側も、両方の陣営が「無料」を公約してたから、 流れとして無料化は確定して、現場が震え上がってる。

そこから先は分からない。ワーストケース想定するなら、たぶんうちの地域の基幹病院は 小児救急回せなくなって、地域にここしかない新生児集中治療室は稼働できなくなる。 県内に、また「子供を産めない街」ができて、夜間子供が病院にかかろうと思ったら、 県庁所在地あたりまで行かないと難しくなる。

現場が吹き飛んで、はじめてその時、犯人捜しが始まる。

現場から「逃げた」小児科医。 現場守りきれなかった基幹病院の病院長。「無料化」推し進めた議員だとか役所の人。 「医師としての良心が足りない」だとか、「こうなることをどうして予見できなかったのか?」とか また叩かれるんだろうけれど、やっぱりそこには、「黒幕」に相当する人はいないのだと思う。

こんな流れの真犯人は、そんなに困ってない大多数が「ちょっとお得」なやりかたを志向する空気であって、 あとから犯人扱いされる人達は、たしかに破綻の特異点に立ってはいたけれど、 誰にもたぶん、そんな流れを止めるだけの力はなかった。

「成果の最大化」と「嫉妬の最小化」

小児科医療の問題には、たぶん「正解」がある。

小児科の受診料を、夜だけ値上げするとか、 医療費を全体的に値上げした上で、還付金だとか補助金みたいな制度を拡大して、 その時本当に医療が必要だった人には、あとから医療費を戻すようにすればいいはず。 小児科医は眠れる時間が増えるだろうし、本当に医療が必要な子供さんは、結果として 医療費負担は減らせるはず。

ところがそんなやりかたは、夜間の救急外来に来る人達の97%、 医療者からみて「明日の朝でも大丈夫」なんて断じられた人にとっては、「痛み」として感覚される。 97% の人が「痛い」と感じるやりかたは、それがたとえ全体最適を約束するものであっても、 社会制度が多数決で回っていくかぎり、そんなやりかたは選択されない。

上手な独裁者が支配する独裁国家と、良くできた民主主義社会とは、 しばしば似たような振る舞いかたをする。時にはむしろ、独裁主義国家のほうが、 もっと正しいことをやってみたりする。

独裁者は、成果を最大にするやりかたを選択する。独裁者というのは、「みんな」とは切り離された個人だから、 独裁者個人の最適と、全体最適とが、しばしば一致する。「いい独裁者」には、 全体最適な政策と、個人の思惑とに葛藤が生じない。独裁国家は、だから案外うまく行く。

選挙で選ばれる政治家は、社会にある「嫉妬」の量を最小化するように振る舞う。 多数の人に恨みを買った政治家は、次の選挙で落選してしまうから、「成果最大」と「嫉妬最小」とが ぶつかりあう状況になると、議会制度の下では、「成果最大」はしばしば選択されなくて、 政治家は何だか、馬鹿の集まりのように見られてしまう。

政治を回す人達と、現場回す医療者と、恐らくは両方とも、成果を最大にできる「本当の正解」を 知っているのに、多数決で回っているほとんどの地域では、嫉妬を最小にする、 無料化という「間違った」やりかたが押しつけられて、現場が吹き飛ぶ。

「衆愚」と言ってため息つくのは、それでも何か違うと思う。衆愚という言葉は、状況を形容する 言葉ではあっても、それを受け入れたところで、問題は解決しないから。

空気の暴走というか、単純に「衆愚」と言っていいのかもしれないけれど、 多数決、みんなの意見を集積しながら回していく限界みたいなものは、今あちこちに出ている気がする。

水道だとか、自治体管理のインフラを「ファンド」として公開するやりかただとか、 大失敗したけれど病院を民営化して出資をつのるやりかただとか、多数決ルールで回ってる社会に、 部分的な「独裁」を受け入れるやりかたは、一つの正解として、これから増えてくるのだとは思う。

2008.07.14

「大丈夫」の排出権取引をやらせてほしい

今の時代、「大丈夫」という言葉は、腕を磨いて到達するものではなくて、「ここ」という領域を 切り取ってくるものになっている。

テレビに出てくる病院

TBS の医療番組をときどき見る。今時珍しい、医師を褒めちぎるスタンスの番組。

特集されるのは、たいていは個人の病院。あんまり聞いたことがない、主流と外れた治療を売りにしている。 誰でも聞いたことがあるような大きな病院で仕事をしていて、「普通の仕事を無難にこなしています」なんて 医師は、出てこない。

前半部分は医師の紹介。患者さんのためを思って、 要約の思いでこの治療に到達しただとか、休日は趣味に打ち込んで、患者さんのために自らリフレッシュする姿だとか。 休日に受け持ち患者さんトラブって、夜中呼ばれてそのまま泊まったり、「わざわざ東京から出てきました」なんて 遠縁の親戚がやってきて、「説明を求めます」なんて、日曜の夕方に、居丈高な身内の人を前に怖い思いしたりといった 日常は、あんまり出てこない。

医師の紹介終わると、患者さんが出てくる。みんな困ってる。診察受けて、「大丈夫ですよ」なんて言われて 安心して、数ヶ月経って、「すっかりよくなりました」なんて笑顔になってる。みんな笑顔。

番組後半、水戸黄門だと印籠かざすあたりにさしかかると、難しい患者さんがやってくる。 治すのが難しかったり、困難な手術になったりして、後半ちょっとだけ盛り上がって、でも必ず治る。

大円団になって、取材された医師が「この治療をもっと多くの人に知ってほしい」だとか夢語って、 番組終わる。

ドキュメンタリーと言うよりは、恐らくはPR 会社が間に入った30分広告みたいな番組なんだろうけれど、 いつ見ても、やっぱりどこか「ずるいな」と思う。

「大丈夫」のコスト

自分たちだって「大丈夫ですよ」って言いたい。

患者さんにしても、ご家族にしても、病院に来る人達は「大丈夫」を買いに来るわけだし、 お話ししていて、みんな何とかして「大丈夫」を引っ張り出そうとして、あの手この手で言質取りに来る。

言っちゃえば楽だし、言わないと、いつまで経っても信頼関係作れないんだけれど、 「大丈夫」と請け合って、大丈夫じゃなくなったら、あとがない。今住んでるのは 曲がりなりにも総合病院だから、逃げられない。

取材されてた腫瘍内科の先生は、「末期」と診断されている癌患者さんしか相手にしない。 その先生がやっていることは、だから完治を目指した治療じゃなくて、あくまでも 症状をとったり、大きくなった腫瘍を一時的に小さくしているだけなんだけで、予後を変えない。

整形外科の先生は、若い患者さんを相手に、人工関節置換の手術を行っていた。 人工関節は20年もすると「ゆるみ」が出るから、若い人に入れると再手術が必要になる。 普通はだから、治るまでに時間がかかるけれど、「骨切り術」という、骨を形成する手術を考える。 若い人の骨は丈夫だから、人工関節置換術の合併症も少なくできるんだろうけれど、将来のこと考えると、 いきなり人工関節入れるお話しするのは、けっこう怖いなと思う。

自分と同期だった内分泌内科の男は、自分の専門分野を放り出して、 ハーブを使った女性専用のクリニックを始めた。何があったのかは分からないけれど、 やっぱり「大丈夫と言えない西洋医学」に、どこか疲れたんだと思う。

たどり着くものと切り取るもの

昔の「大丈夫」は、医師が腕磨いてたどり着くものだったのだと思う。

結果の確実性が厳密に求められるようになるにつれて、「大丈夫」のコストは上がった。 もはや腕だけで「大丈夫」を保証することなんてできないし、どれだけ腕磨いても、 どれだけ設備を整えても、「大丈夫」なんて言えなくなった。

いろんなものがよく見えてる先生がたは、だから「大丈夫」を、たどり着く目標から、 切り取ってくるものへと見かたを変えてきた。

無数の患者さんから、「大丈夫ですよ」と笑顔で断言できる人達を切り取ってきて、 あるいは逆に、自分が持つ技能の中で、絶対に「大丈夫」を宣言できるものだけを切り取ってきて、 その中でだけ「大丈夫」を販売するやりかた。

  • 治癒を目的にしない末期癌の患者さんなら、予後は変わらないから、「大丈夫」を断言できる
  • 「20年先」は総合病院に紹介してしまえば、若い関節症の患者さんにも、「大丈夫」と言える
  • 「ハーブ」に限定した治療に限定をかけるなら、医師はその領域で、かなり安心して「大丈夫」を宣言できる

その「大丈夫」はもはや昔ながらのものではありえなくて、昔の立ち位置から見れば、 それは解決になっていないんだけれど、あの人達が限定をかけた範囲から 患者さんが外れたら、たぶん近くの総合病院に患者さんぶん投げるんだろう。

いろんなやりかたが考えられる。

薬を絶対に出さない、「自然治癒力」信じる内科医。治癒を目的にしない、 末期癌の患者さんだけを対象に「癒し」を販売する医師。そもそも病気でないような人を つかまえて、生活指導とか、「より健康な人生」を販売する医師。酸素バー。点滴バー。

ニッチを探せば、「大丈夫」を切り取れる場所はたくさんあって、これからたぶん、 業界がだんだんと冷えてく中で、こういう場所に進出する人は増えていく。

最近ようやく抜管できた喘息の患者さんは、ずっとたばこを止められなかった。 近くの開業医にかかってて、やっぱり何年もたばこを続けて、「何かあっても対処するから大丈夫」なんて言われてた。

「苦しくなったら電話しなさい」なんて言われた番号は、その人が苦しくなったときに誰も出なくて、うちに運ばれて挿管した。 要するにその先生の「大丈夫」は、「何かあったらあの病院に丸投げするから大丈夫」なんて意味だった。

「大丈夫」の排出権取引をやらせてほしい

地域の基幹病院から呼吸器内科の先生がいなくなって、今本当に困ってる。

肺気腫の人とか、喘息の人とか、うちにかかったこともないような人が、 「専門的なご加療をよろしくお願いします」なんて紹介状持って、うちみたいな施設に運ばれてくる。 相手は呼吸器専門の開業医で、自分たちはただの一般内科なのに。

やっぱりずるいと思う。やろうと思えば仕事できるのに。無能のふりして「大丈夫」大安売りして、 明らかに格下の医者相手に「専門的なご加療を」とか、思ってもいないこと口にして、 自ら設定した範囲を超えた「大丈夫」のツケを回して、自分はまた別の元気な人つかまえて、 また「大丈夫」を売り歩いてる。

二酸化炭素と同じように、「大丈夫」にも排出権取引市場ができればいいなと思う。

いくら限定をかけたところで、一度排出された「大丈夫」は一人歩きする。大丈夫と言われて、 悪くなって丸投げされて、入院してからもっと具合悪くなって、 「大丈夫と言われたのにどうしてですか ?」とか、受けた側が怒られる。

今はまだ我慢してるけれど、もう余力無い。入院受け持った医師が「どうして?」なんて怒られて、 「偽物つかまされたんですよ」なんて答えるようになると、お互いの信頼関係終わる。

施設同士の信頼関係なんて、もしかしたら自分たちが一方的に夢見てただけなのかもしれないけれど、 「大丈夫」をこのまんま拡大再生産し続けたら、そのうち病院という生態系ごと温暖化して滅ぶと思う。

2008.07.11

型のこと

型というのはたぶん、何かを学習するための道具なのであって、それ自体を学ぶべき目標と 定めてしまってはいけないのだと思う。

弓道に関するうろ覚え

もう道場に行かなくなってずいぶん経つから、うろ覚えでしかないけれど、 今の弓道で教えられている「型」というものは、実用的と言うよりは、ある種政治的な経過で決定されたものだった。

弓は本来が実用的な道具であって、よくあたり、破壊力の高い弓のひきかただとか、狙いかただとか、 昔は日本中で様々な流派があったり、秘伝があった。第二次世界大戦前、国の武道を統一しましょうなんて 運動が起きて、当時の弓道の偉い人達が集まって、「これからの弓道」みたいなものを話しあって、 「型」を決めたのだという。

当時のそれは、日本中で行われていた弓の型をそのまま平均したようなもので、全国的にも評判が悪かったから、 戦後になって弓道が復活した頃、偉い人達がもう一度相談して、今のような型になったのだという。

恐らくは他の武道でもそうなのだと思うけれど、武道というのは「強い人がいる」ことで発生するものであって、 「強い型」が発見されて生じるものではないんだと思う。

強い人があちこちにいる。戦う。生き残る。生き残った人達が、お互いの動きを観察したり、 教えを請うたりしていくなかで、「型」が生まれる。

体型だとか、筋肉の付きかたなんかはみんな違うから、動作を完璧にコピーすることはできなくて、 その人独特の、例外的な動き方なんかは省かれるし、動作の序列みたいなものもまた、 結果につながる「強さ」みたいなものとは違う、学びやすさとか、見た目の派手な動きであるとか、 「型」というものはしばしば、それをはじめた人が本来意図していた目的とは違うやりかたで体系化されてしまう。

できる人はみんな型破り

型というものは、だからしばしば現実に即していなかったり、型を学んだ人達が、 それを実地に、たとえば強くなりたいだとか、患者さんを診察するときに見逃しを減らしたいだとか、 何か本来の目的のために、その方を応用しようとしたときに、型が教えるやりかたと、 自分が「こうしたい」と思うやりかたとにずれを生じる。

「こうなりたい」なんて目的がはっきりしている人は、だからその時、型を破る。

右も左も分からない初心者は、たぶん「型」を学ぶことで動作ができるし、 型を通じて、自分が置かれた世界だとか、直面した問題を把握できるようになる。 型はそれでも、そうなるための道具にしか過ぎなくて、型それ自体を無批判に守り続けてはいけないのだと思う。

強い人、あるいはその人と目的を同じにした人達が協力して、「型」を作る。 型というのは「作られた」ものだからこそ、本質的なものだけが残されて、 枝葉に相当するものは省かれる。残念ながらたぶん、「本質」というものはしばしば、 省かれた枝葉の中にこそ存在する。「型」だけを繰り返したところで、 省かれた枝葉を見つけることはできないし、型の学びを通じて、型を作った人の 問題意識を共有することが、型を学ぶ上で、一番大切なことなのだと思う。

防衛医療のこと

臨牀の現場でたくさん発行されている「ガイドライン」というものも、政治的に作られるものなんだという。

欧米でガイドラインを作っている人達なんかは、たしかに朝から晩まで論文を読み続けているような 人ばっかりなんだけれど、知識を集積した先に、誰もが納得する共通見解が現れるわけもなくて、 ガイドラインを決める会議は、毎回紛糾するし、学会がガイドラインを発表した直後、 その編纂に携わった当の本人が、別の学会で「あのガイドラインは嘘っぱちだ」とか、不満ぶち上げたりするらしい。

今あるガイドラインも、だから古来の「型」の延長であることには変わりなくて、 それ自体を守ったところで治癒は見えないし、ガイドラインが想定している事態と、 目の前の患者さんに起きている事態とにずれが生じたときにどうすればいいのか、 ガイドラインには書いてない。どこかでそれを「破る」ことを考えないといけないし、 多かれ少なかれ、とくにガイドラインの編纂に関わるような「できる」医師なんかでも、 案外たぶん、こっそり約束破ってる気がする。

武道が発達した戦国時代みたいに、とにかく目的だけを追求すればよかった頃なら、 それでも今のやりかたでよかったのだと思う。治療のやりかたは、 たぶん上手な人ほど多様になって、ガイドラインなんて、あたかも最初から存在しなかったように見えるだろうけれど。

「治癒」とは別に、「第三者からみたわかりやすさ」みたいな、追求すべき目標が複数になってしまうと、 たぶん従来のやりかた、型を作って、型を学んで、型を破っていく修行のやりかたというのは、通用しなくなってしまう。

武道みたいな考えかた、競争を勝ち抜いたやりかたをまとめて「型」を見いだす方法は、 そもそも複数目標をバランスさせるようには作られてないし、 戦いの現場で、「バランス」なんてものを考えたその時点で、その人はたぶん、 単独の目標に力を特化した相手に打ち負かされてしまう。

「治癒」と「訴訟」、追求すべき目標を複数が複数に設定されたなら、 従来のやりかたは通用しない。今度はたぶん、そもそもの「戦い」みたいな状況を 回避すること、あらゆるワーストケースを想定した、鈍重で高コストなやりかたを「型」として提案して、 全ての人がそれを忠実に守って、競争を徹底的に排除しないといけない。

現場の判断を追放していくやりかた、技術者同士の競争だとか、切磋琢磨だとか、 昔は美徳だったそんなものを現場から排除していくような「型」というものを、 これから先の偉い人達は、ぜひとも提案してほしいなと思う。

今のままだと、型を学ぶことも、型を破ることも、どちらに転んだところで、現場にはリスクしか残らないと思う。

2008.06.30

猜疑心村の診療所

ときどき酔っぱらった人を診察する。様子がよく分からなくて怖いから、 「朝まで様子見ませんか?」なんて水向けるんだけれど、「俺は大丈夫だ」とか 宣言して、たいていお金踏み倒して帰る。それでも無事ならばいいんだけれど、 日本のどこか別の場所では、「大丈夫」で帰って亡くなってたりするから、 朝まで怖かったりする。

「おまえは冷たい」だとか、同じく酔った友達の人になじられる。

診るほうだって殴られたりするから、「帰る」という人を無理には止められないし、 帰るなら帰るで、同意書みたいなもの書いてもらわないと、身を守れない。 そういう態度は、たしかに何だか官僚的で、「冷たい」ものに見えるのかもしれない。

冷たくしてるというよりも、むしろ恐怖に震えてるんだけれど。

医療過誤保険のこと

アメリカの医療費は高い。医師の報酬もまた高い。医療過誤に対する保険料はもっと高い。

アメリカの救急医は訴訟が多くて、賠償金額も高いからなのか、医療過誤保険の保険料が、 年間1800万円とかするらしい。保険料高すぎて、払い倒れてフードスタンプをもらっている医師がいるらしくて、 年収2000万円もらっているのに、家賃払えないとか、笑えない。

日本の医療過誤保険は、学会で推薦してるようなものでも、年間せいぜい7 万円ぐらい。

国が違うから単純な比較はできないけれど、保険料の1800万円と7 万円の差というものが、 恐らくはその地域の「信頼のコスト」なんだと思う。

信頼のコストは、そのコミュニティの中で、もっとも猜疑心が大きな人が決定する。

誰かを信頼しやすい、「良心的な」人がいくらたくさんいても、 猜疑心の最大値が下がらないかぎりは、一度上がった信頼コストを下げるのは難しい。

「低信頼コスト村」の作りかた

「低信頼コスト村」作ってくやりかたというのは、たとえば保険会社だとか、 ちょっと前の、「神奈川方式」をやってた頃の高校入試とか。

一応ゴールド免許を持っているけれど、うちの自動車保険料は高い。 乗っている車が古くて、エアバッグもついていなくて、「持ち主に事故が多い」 車に分類されているから。

自動車保険は、事故を起こした人にお金が支払われるシステムだから、 特別に事故が多い、あるいは最初から事故を起こすのを前提にしている人の加入を許すと、 保険会社の持ち出し金額が増加する。自動車保険はだから、乗っている車を用いて、 その人の「信頼コスト」を計算して、統計的に事故が多い、「信頼できない」人が 多く乗っている車に対しては、保険料を高額にして対処する。

「購入した車」というのは、その人の信頼を推定する材料としては不完全だけれど、 保険会社が作り出した「低信頼コスト村」は、たぶんそれなりに機能している。 安全運転してるつもりなのに保険料高いのは、やっぱり納得いかないけれど。

アメリカの、民間健康保険のサービスは、所得に逆比例するところがあって、 富裕層向けの保険商品ほど、コストあたりのサービスが優れていて、低所得向けの商品は逆に、 値段が高いくせに、保険でできることというのが、限られてたりするらしい。

富裕層は気前よく保険料を支払うし、そもそも健康に気をつけるから、病気になりにくい。 「裏切らない」ことに対して、保険会社も信頼するから、健康保険はサービスよくて、 一方で所得が低い人というのは、恐らくは病気になる機会が多かったり、 自分の健康に対してそこまで気を遣うだけの余裕がなかったりで、結果として病気になりやすい。 低所得層向けの健康保険は、だから使えるサービスが限られて、支払ったお金の割に、サービス悪いらしい。

「神奈川方式」の高校入試は、中学校時代の成績順に、生徒を区切っていく。 成績上位グループは、受ける高校の選択幅が多くて、受験するときの倍率も、極めて低い。

その代わり、当時「底辺高」なんていわれてた、受験生を偏差値で区切った下位グループになると、受験倍率が跳ね上がる。 「そこ」という高校以外に受験可能な選択肢が示されなくて、そこに行くと、かけ算できない同級生だとか、 卒業する頃には同級生が2割ぐらい少なかったとか、すごかったらしい。

「猜疑心村」の診療所

「猜疑心を放棄すること」に利益が生まれるような市場設計ができればいいなと思う。

信頼のコストは地域によって様々で、自分たちが今働いている場所は、それでもまだまだ 信頼コストが安いほうだけれど、近隣の高コスト地域から病院が撤退して、うちの外来に来る人も、 顔ぶれがずいぶん変わった。

信頼コストが極端に高い「猜疑心村」では、医療のありかたがずいぶん変わる。

問診だとか聴診、エコーみたいな、術者の技量だとか、患者さんの状態によって 信頼確度が変わる検査は、怖くて施行できなくなる。

CTスキャンだとか心電図、採血検査みたいなものは、基本的に誰がオーダーしても 同じような結果が得られるものだから、「猜疑心村」の診断は、 むしろこうした検査で考えないといけないから、どうしたってコストがかかる。

病院に来る人の顔ぶれも変わってくる。

「猜疑心村」では、何か症状を訴えてくる人は相対的に減少して、むしろ「何もないこと」を 買いに来る人、自分が健康であることを証明してほしいだとか、とりあえず保険で健康診断をしてほしいだとか、 そんな訴えの元気な人が増える。

西洋医学は本来、症状で始まる学問だから、「ない」を証明することは、極めて難しい。それをやるためには、 目的のない、詳しい検査をたくさん出して、全てが正常であることを確認するやりかたしかできないから、 医療費は高騰してしまうし、「普通の診察」買いに来た人にも検査が乱発されてしまうから、 「普通の人」の満足度は、たぶん信頼コストの増加とともに下がってしまう。

恐らくはどこかのタイミングで、施設ごとの「囲い込み」みたいな戦略がとられる気がする。猜疑心の高い住民を 排除して、病院ごとに「低信頼コスト村」を作るやりかた。規模の小さな病院から、「村」を作って患者さんを囲って、 地域の基幹病院に、「猜疑心村」の管理をお願いする。

多かれ少なかれ、今地域の公立施設は「猜疑心村」になっていて、そこで仕事を続けるのは大変なんだとか、 いろんな話を聞く。みんな「暖かい」「人間的な」対応を求めて病院叩いて、叩かれた側は怖いから、 対応はますます官僚的な、画一的なものにならざるを得なくて、信頼コストは跳ね上がる。

公立施設はどこも厳しくて、中の人達が地域の猜疑心に疲弊して、後任もなかなか決まらない。 うちの地域もまた、基幹病院が吹き飛んだあとのことを考えると恐ろしい。

その時自分はまだここにいられるのか、正直自信なかったりする。

2008.06.06

「未知のウィルス感染症」のこと

学生だった頃、目が見えないのに、近所の「教祖様」が書いたお札を眼に貼ると目が見えて、 乗用車で通ってくる眼科の患者さんがいた。

教祖が本当にすごい人だったのか。病院がすごくないのか。その人が嘘付いてるのか。 そもそも「車を運転するのに視力が必要」なんてこと自体が先入観であって、 その患者さんを観測している我々全員が間違ってたのか。

証明しようがないことは、「絶対こうだ」なんて言えないんだけれど。

未知のウィルス感染症報道

陸上長距離・絹川、五輪出場厳しく…謎の感染症完治せず なんて報道があって、朝の医局でちょっと話題になった。

だいたい半年ぐらい続いている、全身を移動する痛みが主症状で、放射線同位元素を使った検査で 骨折が見つかって、「特別な血液検査」を行ったところが、赤血球と白血球とが 変形していて、「未知の感染症が疑われる」なんて報道。通常の血液検査は、 全て正常所見だったらしい。

「中国で発生した未知のウィルス感染症が国内に入って、もう半年近くも治癒しないままそのままになっている」

感染症やってる人達からすれば大問題で、それが本当ならば、それこそ選手生命がどうこうの 話以前に、まずはその人を隔離する騒ぎにならないとおかしい。

「未知」は診断できない

病院で出せる検査と、外注で出せる検査を利用する限りにおいては、 「未知」であって、「一人しか発症していない」ウィルス感染症を診断する ことはできない。

そもそもそれがウィルスによって発生した症状かどうかを判定する方法は ないし、仮に血液から「未知のウィルス」らしきものが見つかったところで、 今度は「そのウィルスが症状を作り出している」ことを証明するのが、 たぶん容易じゃない。

それが「ウィルス」であって「感染症である」ことを疑うときは、 同じ症状が集団発生していて、しかもその患者さんから病原体が 同定されないとか、少なくとも細菌感染が証明されないことを 前提にしないと、まず「ウィルスの検索」が始まらない。

スポーツ選手一人に発症した特殊な症状を前にして、最初からウィルス感染症を 疑うという考えかた自体、たぶん伝統的な西洋医学の文脈からはありえない。

治療に当たっているクリニック

はてな匿名ダイアリーでリンクが張られていた。

整形外科からリウマチ治療に興味を持って、今は何だか赤血球に すごいこだわりを持って治療に当たっておられる人。

伝統的な西洋医療に対しては、だいぶ否定的な立ち位置を取っていて、 「炎症と赤血球との関係」だとか、「培養白血球療法でリウマチを治す」 とか、やっぱり西洋医学の立ち位置とは、ずいぶん異なった考えかた。

「赤血球と白血球とが変形する未知のウィルス」というのも、 たぶんこの先生が独自に行っている検査で「赤血球の変形」が 証明されて、その変形が見られたから、「ウィルスの感染症である」と 断じられている印象。

この先生はちゃんと医師免許を持っている人だけれど、今回の診断だとか、治療だとかは、 必ずしも西洋医学の文脈で語られてるわけではないと思うし、新聞は、そのあたりは もっと強調すべきだと思う。

反対側の人にも取材してほしい

読売新聞だから、せめて裏ぐらい取ってると信じたいけれど、 新聞が「未知のウィルス」と書いたんだから、やっぱり 「昔ながらの西洋医学」の立場取る人の意見も聞いて、 報道するときには、両方並べてほしい。

国立感染症研究所の先生方に、「未知のウィルスが中国で発見されましたが、 なんの対処もしないで大丈夫なんですか?」なんて取材して、 その返事を一言載せるだけで、変な憶測吹き飛ばせる。

話を無駄に大きくしてしまう、マスコミが宿命的に持っている性質は、こういうときこそ役に立つと思う。

2008.05.21

公平の対価

倒れてきた建物に挟まれて、身動きがとれなくなってる人にカメラが集まって、動けないその人を、ずっと取材していた。 レポーターの人は携帯電話を差し出して、その人に「今誰かと話したいですか?」なんて尋ねて、電話渡されたその人は、 どこか離れた町で出産を待っている奥さんと、「君と暮らせて幸せだった」とか、そんなことをしゃべってた。

その人はそのまま、カメラマンに助けられるわけでもなく時間は過ぎて、息も絶え絶えになった頃、 人民解放軍の救助隊がその人を助けてた。大腿部の圧迫がひどくて、恐らくは筋の挫滅がひどいんだろうな、 なんて思いながらテレビ見てたら、その人はカメラの前で亡くなった。

バックグラウンドに昔風のメロドラマみたいな音楽が流れて、レポーターの人は芝居がかった仕草で遺体をなでて、 「奥さんの出産もうすぐだと言ってたじゃないですか」とか、しゃべってた。

日本の報道もいいかげんひどいと思うけれど、中国の放送局もまた、相当なもんだなと思った。

公平のこと

中国当局の方針だとかで、地震の映像は本当に悲惨な現場は放映されないし、 テレビでは、連日のように「奇跡の救出」なんて、人民解放軍の活躍をたたえる映像が流れてる。

現場に関係ない、外野からそれ見ると、やっぱり不公平だなと思う。4万人亡くなって、 人民解放軍がどれだけ精鋭そろえたところで、たぶん現場の人的リソースは全く足りなくて、 救助しても助からなかった人とか、そもそも救助隊に目の前素通りされた人とか、 たくさんいるはずなのに。

現場とは無関係な、無責任な立場の人ほど、きっと「公平な事実」を知りたがる。

奇跡的に助かった人。助かったけれど病院で亡くなった人。救助隊が誰か助けたあおりを受けて、 ケガをしたり、最悪亡くなってしまった人。もちろん、再挙から救助の手を待つことなく亡くなった人。 全部をありのままに視聴して、「今後の参考にする」とか、その人が「参考にした」ところで、 その思考が絶対に何かに生きることなんてない、そんな人ほど、考えたがるし、知りたがる。

放送局の人達が、全てをありのままに、上手くいったケース、失敗した、 あるいは手が足りなくて何もできなかったケースを、 そのまんまの頻度で報道したら、現場はきっと、そんな報道を「不公平だ」と感じる。

そもそもが絶望的な状況に、失敗覚悟で命張ってて、「公平な」報道されて、 人民解放軍は失敗ばっかりなんて評価されたら、温厚な自衛隊員でも怒り出す。

投票箱から見える世界

ニュースの流れで道路の話題になって、「道路族」の人達がインタビューを受けてた。

「国民の大多数は、やっぱり道路を望んでる」なんて、 全国民を敵に回すようなことを答えてた。

自民党の元幹事長だったか、やっぱり支持者の集会にテレビを入れて、 「道路の方針は曲げません」なんて、絶賛浴びてた。

ニュースステーションあたり見て、古舘伊知郎の言葉にうなずくような「世間」の大部分は、 たぶん道路なんて望んでないけれど、インタビューに答える道路族の人達から見た世界には、 何だかそんな「世間」なんて、存在しないみたいだった。

実際問題、道路族議員の人達は、テレビの前ではああ言うしかないんだろうなとは思う。

政治家は、選挙で票を集めて、議員になるのが仕事の始まり。どんなにお金をかき集めようと、 たぶん「票」は誰にでも平等。何よりもまず、「票」につながる振る舞いをしないと、議員でいられない。

道路に投じられるお金で生活する人達は、たとえば全国で300万人ぐらいしかいないのかもしれないけれど、 その人達はたぶん、自分たちの仕事が「利権」だなんて叩かれてるからこそ、雨が降っても選挙に出向いて、 自分たちの生活を守ってくれる議員に投票する。

道路族議員の人達は、だから国民の9 割を敵に回しても、残る300万人の支持を勝ち取れれば、 たぶん相当高い確率で、次も議員になれる。

国会議員にとっての「現場」は、国会議事堂よりもむしろ選挙の戦場であって、 そんな「現場」においては、「頼れる300万人」は、頼りにならない残り1億余人の支持よりも、よっぽどありがたいはず。

公平な視点にはお金がかかる

少し前、霞ヶ関キャリアだった人達が外資系企業に転職しているなんてニュースがあって、 年間の報酬が6500万円だとか、インタビューに答えてた。

その報酬は、もちろんその人が官僚だったときよりも高いんだけれど、外資に勤めたその人は、 それだけの報酬を手にして、はじめて「国家のために働く意志を持った」とか、今は 外資系企業にいながら、それでも日本の国益のことを思いながら働いているとか、そんなことを 答えていた。

たぶんこの6000万円を超えたあたりが、「公平」の価格なんだと思う。

マスメディアは偏る。誰だって自分が見たいものしか見たくないし、メディアの人達もまた、 自分たちが撮影した「絵」を販売して食べてるんだから、お金も支払わないで、 彼らに「正義」とか「公平」を要求するのは筋違いだし、たぶんたいていの場合、 たとえば医療従事者が「公平だ」と思った報道は、きっとそれを見て「偏ってる」なんて不満に思う人を作り出してる。

政治家だって偏る。あの人達はもちろん、選挙に落ちたらただの失業者だから、 それがどんなに公平で正しいことでも、選挙を支持してくれる人を敵に回すようなことは、 口が裂けたってしゃべれない。

NHKみたいな国営放送ですら、たぶん「偏り」から自由になれない。彼らだって視聴率が気になるだろうし、普段誰もほめようとしないから。

公平だけ要求するのに手を貸さない、正義の志だけは高いのに、 自分たちのことを「マスゴミ」とかけなすのに、 取材お願いしてもむげに断るような人達の味方になんて、絶対にならないだろうなと思う。

「公平な視点」というものは、あらゆる「現場」に対して無責任で、無関係な立場になれないと、たぶん身につけることはできない。マスメディアの人達とか、政治家の人達に、超越的な、全国民にとって公平な視点を持ってもらうためには、だから視聴率とか、罵倒の声とか、 ごく遠い世界の雑音にしか聞こえないぐらい、高い報酬支払うしかないんだと思う。 それこそたぶん、一人あたり6000万円ぐらい。政治家に「公平」求めようと思ったら、 もちろん選挙で落ちたときの収入も。

「公平な報道を」なんて、ありえない「公平」を振り回すやりかたは、なんかウソっぽい。 「自分たちにもっと偏向した報道を」なんて求めるやりかた、 露悪的だけれど、「公平はありえない」から出発するやりかたしたほうが、 何だかよほど公平に近い気がする。

2008.05.19

正しさは市場に決めてもらったほうがいい

昔研修していた病院は、400床規模の施設に医師100人あまり。 臨床研修を行う病院としては、決して規模の大きな施設では なかったけれど、総合病院を名乗ってた。

今いる病院は、300床に対して医師10人。専門外来は、 大学の先生に来ていただいているけれど、カテ室が必要な患者さんだとか、 放射線治療が必要な患者さんだとか、一部の患者さんを除けば治療できるし、 人工呼吸器が必要な患者さんとか、それなりに重症の患者さんもいるけれど、何とか回ってる。

人数は1 割になったけれど、労働時間はむしろ少なくなった。

研修医の頃とか、大学病院で働いてたときとか、夜の10時に病院から帰れれば、 それは速いぐらいだったけれど、そんな頃を思えば、今はずいぶん速く帰れる。 当直だって、昔は月に10回が当たり前だったけれど、今は片手に余る。

医師の平均経験年次が圧倒的に違うから、もちろん単純比較なんて できないんだけれど、昔研修させてもらった、「正しい」医療を売りにしていた病院は、 「正しさ」故にずいぶんと無駄が多くて、あれだけ人がいたわりには、 それでもやっぱり忙しかった。

正しいやりかたのこと

昔の病院には「すごく正しい」医療を実践する先生がいた。

外来で患者さんを診察するときは、相手が満足するまできちんと話を聞いて、 どんな訴えの人であっても、頭の先からつま先まで、手を抜かずに 診察をしておられた。

もちろんその裏では、「正しくない」医療をするスタッフが、必死に外来をさばいてた。

前の病院には夕方診療という制度があって、午後の5 時から7 時まで、 スタッフの先生方が交代で、主に初心で来た患者さんの外来診療を行う。 いつも50人ぐらい来る。

「正しくない」先生が外来をやると、50人待ってた患者さんは、7 時になると ほとんどいなくなる。正しくない人達は、隙を見つければ手を抜くから、 最後のほうになると、片端から血液検査を出す。7 時になって、夕方診療の 患者さんを引き継いだ当直医は、あとは検査の説明をして、患者さんに帰ってもらう。 データ読むだけだからすぐ終わる。

「すごく正しい」先生は、どんなときでも正しいやりかたを貫く。

50人待ってた患者さんは、7 時の時点で20人も進んでなくて、 当直が外来に降りる頃には、2 時間待たされて仏頂面した患者さんが列をなしてる。

2 時間待った患者さんは、もちろん2 時間分話を聞いてもらわないと満足しない。 外来はだから9 時になっても終わらなくて、当直は泣き顔になる。

正しい先生はいつも正しくて、正しく診療して、7 時になると、そのまま帰る。

夕方診療のルールは紳士協定で、7 時まではスタッフの時間、それ以降は当直の時間と きっちり分かれてたから、その行動もまた「正しい」のだけれど、その正しさ故に、 その人と組む当直は、いつもとんでもなく大変だった。

丁寧に診ると悪くなる

今いる施設は、それでもやっぱり忙しいから、落ち着いてる患者さんは、 みんな3ヶ月処方。心不全の人とか、「具合悪かったらすぐ来て下さいね」なんて 予防線張ってるけれど、それでも90日ごとに外来に来てもらって、 時々レントゲン撮ったり採血したりする以外は、ほとんど挨拶だけ。 たぶん3 分かかってない。

フォローしている患者さんは、時々近隣施設に戻る。紹介状書いて、「安定してます」なんて 書いたはずなのに、なぜだか患者さんは重症扱いになる。

3 ヶ月ごと、挨拶だけしかしてなかった外来は、2週間ごとの詳細な診療を受けるよう、変更される。 薬も増えて、処方が複雑になる。何だかやたらと丁寧に診療された患者さんは、 時々具合が悪くなって、また戻ってくる。

何とか立ち上げて、紹介状書くの面倒だから自分で診てると、 そのうち「うちでフォローします」なんて依頼が事務経由で入って、 患者さんはまたまた「重症」扱いに戻る。

自分なんかは単純にサボりたいから、診療間隔開けて、診察しないで検査ばっかり。 検査データ見て「大丈夫みたいです」なんて、ステレオタイプ化した「馬鹿な医者」の 見本みたいな外来続けてるけれど、案外大丈夫。

診療間隔を詰めること、丁寧な診察を行って、「不必要な」検査を省くこと、いろんな症状を問診して、 薬をたくさん増やすことは、たしかにそれは「正しく」て、 あるいは患者さんもそれを望んでるのかもしれないけれど、 それを「医師のあるべき姿」とか、強要しないでほしい。

「正しさ」の判断は市場に任せてほしい

初心者とベテランとで大きな差が出て、そのわりにはたぶん、「なくても大丈夫」と思ってる、 「診察」という行為それ自体を、まずは保険診療の枠から外してほしいなと思う。

乳腺外来とか、整形外科とか精神科の外来とか、「診る」ことが絶対に欠かせない科だって たくさんあるけれど、あれは「診療」と言うよりも「検査」の領域。 内科領域で、特に「診断」を探す過程の中での「診る」行為は、 「正しい」医師が強調するほどには、もはや大切なものではないような気がしている。

世界中で発売されている教科書は、もちろん「問診」と「診察」に重きを置いていて、 「まずは検査から」なんて考えかたは邪道もいいところだけれど、実際問題、 「正しい」医療を行う先生がたの陰には、たいてい「正しくない」なんて馬鹿にされる人達がいて、 その人達はたぶん、「正しい」人達よりも、ずっと多くの患者さんを回すし、馬鹿にされてるほどにはたぶん、 診療成績だって変わらない。

医師足りないとか、医療費足りないとか言われているけれど、「正しさ」目指すの止めるだけで、 効率はずいぶん上がる。ところがそれは「正しくない」から、確実さが求められる今の時代、 みんなが「正しくない」のに「しかたがない」なんて考える、検査ばっかりのやりかたは、 いつまで経っても裏道で、ちゃんとした検証を受けられない。

「診療」みたいに定量的な検証が不可能なものは、だからこそ、市場に検証をゆだねてほしいなと思う。

診療報酬を「ゼロ」にして、機械を用いない診療に対しては、別途自費での対価徴収を許可してくれれば、 きっと面白いことが起きるはず。自分みたいなのはさっさと「診療」を見限るだろうし、 「正しい」医療をする人達、長い時間をかけた、丁寧な診察を必要なものと考えていて、 なおかつそれが生み出す利益は、患者さんに欠かせないと考えている人達は、 丁寧な診療を行って、その費用を請求すればいい。

丁寧な診察に対して、みんなが喜んで対価を支払うなら、「診療」は市場に支持されて、 技量の高い医師が経営するクリニックは成功するだろうし、診療の価値が市場から 評価されないのなら、今度はたぶん、報酬が支払われる「検査」を組み合わせて、 医師がなるべく手を動かさないで患者さんを治癒に導くような、そんな方法論が 「正しさ」を主張できるはず。

診断技量を向上した先にも「安全」は見えてこなくて、「身を守るためのマニュアル診療」というやりかたが、 個人的には結局正解なんだと信じてる。伝統的な、「正しい」やりかたを見直すきっかけとして、 たぶん一番簡単で、実行に移しやすいやりかたというのが、「診療報酬の撤廃」なんだと思う。

2008.04.28

リソース分配のこと

子供の外傷とか、あるいは溺水とか。連休は「不慮の事故」で運ばれる子供が増える。 今年は休日当直。今から怖がってる。

うちの地域はまだ、かろうじて救急輪番制が機能しているけれど、 崩壊する一歩手前。救急当番を回せてるのは実質3 病院だけだし、 地域でそれなりの数を受けているうちだって「救急指定」だけれど、 全科一人当直。小児科の専門医は、もちろん待機していない。

手に負えないお子さんが来たときは、だから小児科の常勤が待機している病院に 運ぶんだけれど、今県内全域で機能している小児科は、せいぜい3施設ぐらい。 救急を夜間に受けてくれる施設はもっと少ない。ベッドはどこもいっぱい。 この連休も、どうなるか分からない。

死亡率のこと

日本ではなんだか、ゼロ歳から1 歳までの死亡率は世界一低いのに、 1 歳から4 歳までの死亡率がとたんに悪くなって、世界でも下位のグループに 転落するなんて、ニュースで報じられていた。

「そんなはずはない」なんてtwitter でしゃべってたら、 人口動態統計というものを 教えていただいた。

1 歳未満の死亡原因には「先天異常」が最も多い。1 歳以上4 歳未満、 ニュースで報じられていた、日本の小児死亡率が悪くなってしまう年齢層だと、 「不慮の事故」が死亡原因のトップ。 死亡原因の2位、不慮の事故に迫る勢いで多いのは、やはり先天異常の子供さん。

新生児医療に従事する先生がたは、本当にがんばってる。病院に泊まり込みで働くのは、 もはや「前提」になっていて、当直ルールはもちろんあるんだろうけれど、 集中治療室から新生児室に電話入れると、夜中でも普通にみんないる。

大学病院には新生児用の集中治療室があって、子供さんはほとんどみんな、 人工呼吸器が必要だったり、保育器から出せなかったり。 誰かがずっと貼り付いていないと、すぐに状態が悪くなる。

みんな帰らないで頑張ってる。頑張ったからこそ、先天異常を抱えたお子さんは、 日本では「1年」を乗り切れて、それでもやはり障害は重いから、4 年を超えるのは難しいのだと思う。 実際比べたわけではないけれど、先天異常の子供というのは、海外だともっと早期に亡くなってしまって、 そもそもたぶん、1年以上生きること自体が少ない。日本の小児死亡率はだから、1歳未満が 極端に低くて、その次の3年間で悪化してしまうのだと思う。

それでも医師は足りない

小児専門の医療センターは、日本にだっていくつもある。うちの県にもある。

ところがそんな病院は、いつ問い合わせても「満床」。 急患の入院だとか、夜間の診察依頼だとか、お願いしても難しい。

専門センターのベッドは、もう何年も前から埋まりっぱなし。 稼働しているベッドの数は常に1 ケタ。病院の規模自体は、もっと はるかに大きいんだけれど、動かせる患者さんはいないから、急患に対応できない。

小児センターには、そのセンターで生まれて、そのセンターで育って、 専門医が貼り付くことを止めたら、たぶん亡くなってしまうような子供さんがたくさん入院している。

たぶんどこの県でも同じなんだろうけれど、小児の専門施設は、 重篤な先天性疾患のお子さんで、常に満床に近い状態で動いていて、 小児救急とか、他の「重症」にマンパワーを回す余地が残っていない。

専門医の数は限られてて、使える設備も限られている現状で、どういうわけだか、 小児医療に対する補助金ばっかりが増やされた。小児の急患は「無料」で いいことになって、夜中の救急外来には、元気にはしゃぐ子供が増えた。

機会の公平と結果の平等

「生まれてからずっと重症であり続けるお子さん」と、 「昨日まで元気で、今重症になったお子さん」とがいる。

現場回してる小児科医師は限られていて、小児科医療の無料化で、 外来に来る元気なお子さんは、たぶんこれからますます増える。

アメリカは機会の平等を目指した国。子供の医療は割り切られていて、 重篤な先天性疾患のお子さんなんかは、一定以上の治療は行わないらしい。 医療費がものすごく高いから、実際問題、支払いができる親御さんもいないのだろうけれど。

日本はどちらかというと「結果の平等」目指してて、それでも今までどうにかなった。 その代わり、建前「平等」だからこそ、重たい子供に割かれるリソースが増えるほどに、 「平等」の要求水準は高まって、医師の数はあっという間に足りなくなる。

「結果の平等」目指すなら、全ての子供に総合病院を用意しないと、「平等」は実現できない。 今現在、そんな医療を受けているお子さんがいる一方で、そんな医療が必要で、 それを手に入れることができないお子さんが発生しているわけだから。

長野県だったか、小児の専門施設が、救急医療に参加すべきか否かでずいぶん揺れた。 入院しているお子さんのお母さん達が救急参加に反対してて、急患を引き受けるようになったら、 入院患児の介護が薄くなるなんて懸念を表明してた。

連休直前。これから入院が一気に増えるから、それに備えて、何とか帰れそうな人は、 ご家族説得してみんな帰す。高齢の患者さんとか、娘さんが一人で介護してるご家庭とか、 「弱そうな」人からとにかく帰す。

「うちでは看れません」なんて、お話しする前から宣言するご家族もいる。「強い」人達。 30分も話してやっと説得できて、「連休開けたら考えてもいいです」なんて、了解をいただく。

2008.04.21

地域医療の地政学

地元の新聞に、地域医療の救急枠を、県境を越えて融通しあうようなお話が掲載されていた。

生命は最も大切なものだから、県とか市とか、自治体の境界を超えて、 患者さんの収容を最優先するのだと。

勘弁してくれと思った。

うちの施設を取り巻く状況

小さな規模の病院だけれど、救急車はけっこう来る。夜間でも、下手すると一晩に6台とか8台、 救急車がやってきて、もちろん外来も夜通し来る。当直は全科で一人。体勢は時代遅れだけれど、 そもそも自分が最年少とか、勤務している医師も十分に時代遅れだから、 それでも何とか回る。外科医も内科系疾患を診てくれるし、内科の自分が子供縫ったりする。 田舎だから何とか回る、「曖昧さ」がいい方向で共有されている病院。

救急車で1時間ぐらいかかる隣の都市では、救急体制が崩壊している。

そこは人口も多くて、病院もたくさんあるし、公