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2008.09.27

説得的コミュニケーション

「プロパガンダ」という本を抜き書き改変。

「理由」の意味

  • コピーを取る列に並ぶとき、何か理由を一言付け加えると、たいていの人は、前に割り込ませてくれる。 理由には意味がある必要はなく、実験によれば、全く意味のない理由をつけて頼んだ場合であっても、 ほとんど全ての人が、割り込みを許してくれたのだという
  • 街で歩いているときに小銭を無心されたところで、たいていの人は無視して通り過ぎる。 ところが「170円下さい」のように、具体的な金額を提示して小銭を要求されると、 その人が、本当にお金を必要とする人に見えてくる。はっきりとした金額を示して募金への協力を呼びかけると、 そうでない場合に比べて、2倍もの寄付が集まった
  • 多くの点で私たちは、いつも認知的エネルギーを節約しようとする「認知的倹約家」である。 何かよい理由があるからではなく、「そこに理由があるから」という単純な説明があれば、 よく考えずに結論や主張を受け入れてしまう
  • 人間の能力には限りがある。認知を受け入れるときには、だから複雑な問題を単純化した、 認知の「周辺ルート」を採用することが多い。説得を試みるときは、 メッセージの受け手が「周辺ルート」を採用することを促し、人間の情報処理能力に 限界があることを、積極的に利用しなくてはならない

合理化の罠

  • 説得的コミュニケーションに熟達した人は、まずはメッセージの受け手の自尊心に脅威を与える
  • たとえば何かに罪悪感を感じさせたり、恥辱感や不適切感を喚起したり、 自らが偽善者であるかのように思わせてから、それに対して一つの解決策を提案する。 「解決案」に従うことで、メッセージの受け手の自尊心は回復され、認知の不協和は低減される
  • たとえば街頭募金を呼びかけたところで、たいていの人は、「わずかばかりの寄付を行ったところで なんの足しにもならない」などと言い訳して去ってしまう。このときに「10円でもいただけると助かるんです」と 付け加えられると、その人は「10円も払えないけちな人間」になってしまい、自尊心が脅威にさらされる。
  • 脅威を取り去るためには募金に協力することが最も簡単で、たいていの場合、10円以上のお金が支払われることになる

名前は実体を作り出す

  • 魅力的な言葉を選択することが大切になる。説得者の多くは、文脈上の意味が曖昧であって、 肯定的な響きを持つ言葉を好む。「殺戮者」は「勇敢な自由の戦士」であり、 「占領統治」は「名誉ある平和」と表現される
  • 名前はしばしば実体を作り出す。掃除の効能を説かれても、自発的に掃除を始める子供はいないけれど、 「あのクラスはいつもこぎれいにしている」という評価を与えられたクラスでは、生徒が勝手に掃除を始めて、 やがて教室は本当にこぎれいになる
  • 「算数の達成者」というラベルを与えられた平均的な子供達は、 算数を一生懸命勉強するよう励まされた同程度の子供達に比べて、成績がより向上していたという

絵を見せる

  • 社会を単純化して説明しうる、説得的な「絵」を描かないといけない
  • 権力の座にあって最も大切なことは、どの情報を広く伝達し、どの情報を選択的に無視するかによって、 組織の行動計画を設定する能力を保持し続けることなのだという
  • マスメディアは「何を考えるべきか」を人々に伝えることはできないけれど、 「何について考えるべきか」を伝えることには大いに成功している。 新聞記者や編集者がどのような絵を描いてみせるかによって、同じ事実が全く異なったものとして、 人々の目に映る
  • ゲッペルスは「忍び寄る危機」という言葉を作り、「頭の中の絵」を描くのに一役買った

「ロシア人とイギリス人は、共謀して我々を攻撃している。しかし幸いなことに、 イギリスには社会不安があり、我々には指導者がいる」

  • ヒッピー運動の指導者ジェリー・ルービンは次のように述べている

どんな革命家にもカラーテレビが必要だ。ウォルター・クロンカイトは、学生連合の最高のオーガナイザーだ。
ウォルターおじさんはアメリカの地図を引っ張り出してきて、今火花が散っている大学に○印を付けた。
戦況報告だ。これを見た学生は、みな「うちの大学もあの地図に載せたいな」と思ったものだ。

質問という説得

  • 誘導尋問は、事実を目撃した人の心証をも大きく変えうる。適切な質問を行うことで、事実は変化する
  • 自動車同士の交通事故を写したフィルムを見せた被験者に、違う言葉で質問を行った実験。 「車が 激突 したとき、それぞれの車はどれぐらいのスピードが出ていましたか? 」と尋ねた群と、 「車が 衝突 したとき…」と尋ねた群とでは、「激突」という言葉を使われた被験者のほうが、 車のスピードをより速く、事故現場をより悲惨に描写した
  • 質問は、受け手の意志決定を構造化する。正しく為された質問は、強力な説得の道具となる
  • 質問を適切に準備することで、当該の問題についての、受け手の思考を方向づけ、 暗黙のうちに可能な解答の範囲を限定することができる
  • たとえば「あなたは武器を携帯する権利を憲法で保障するという考えに賛成ですか?」という質問は、 人々の注意を銃保有の合法化問題に向かわせる一方、社会全体の安全問題を見直すことや、 銃を登録制にするような、中道的な意見について考える機会を排除してしまう

自分の行動は予測できない

  • 製品と無関係な有名人が、コマーシャルにはよく使われる。アンケートを取ってみると、 誰もが「有名人は購入動機と無関係」と主張する
  • ところが「他の人は有名人のことをどう思うだろうか? 」と尋ねると、 「他の人なら、映画スターやスポーツ選手の勧める 商品に興味を持つだろうけれど、自分は品質を見て決める」などという答えが返ってくる
  • 人は自分の行動を予測できるとは限らない。多くの人は、映画スターやスポーツ選手の言うことを信用しないかも しれないけれど、そのことは、「彼らが勧めた製品を買わない」ことを、必ずしも意味しない

メッセージ伝達者の立ち位置は大切

  • 元犯罪者が犯罪の厳罰化を求めた場合、それが犯罪者の言葉であっても信用される。 メッセージの伝達者が、説得に成功しても、そこから得る者がなにもないことが明らかである限り、 たとえ伝達者が道徳的な人物でなかったとしても、効果的な説得を行うことができる
  • 「自分と無関係な誰か」の立ち話は信用される傾向にある。全ての人は、 自分には向けられていないアドバイスを手に入れようとしており、 そうして手に入れた情報の価値は、より高く評価される。 「隠しカメラ」を用いたコマーシャルは、こうした原理を利用している

歌って逸らして圧縮する

  • 広告業界には、昔から「何も言うことがないなら、歌えばいい」という教えがある
  • 歌であったり、あるいはメッセージとは無関係な絵画を受け手に見せることによって、 受け手の注意が逸らされる。注意力を適切に逸らせることで、反論は抑制され、 説得的なメッセージの効果を高めることができる
  • 早回しを用いた、時間を圧縮された広告に対して反論するのは難しい。 時間の圧縮と、注意の散逸が適切に用いられたメッセージは、高い説得力を持つ
  • 強い論拠を含むメッセージが圧縮されると、説得効果は弱まってしまう。 一方弱い論拠しか持たないメッセージが圧縮されると、説得効果が高まる

ラベルを共有する

  • たとえ問題とは無関係であっても、ラベルを共有する人々は、あたかも親友のように振る舞う
  • 初対面であっても、ラベルを共有する他者に対して、人は好意を抱く。 ラベルを共有しない他者よりも、その人は望ましい性格を持っており、仕事の成績がよいと評定される
  • 説得的コミュニケーションを試みる者は、「宣伝部門」対「生産部門」、 「精神科医」対「心理学者」、自治体と大学のような対立する図式を宣言することによって、 自ら属する一方の側に、団結を生み出すことができる
  • 一度「仲間」になった人物には、教科書的な説得の技法を簡単に適用できる

容疑者不詳、友人が第一発見者となった殺人事件の事例。

警察の事情聴取が行われ、刑事は被害者を発見した友人と会話し、「仲間」になり、 弁護士に接触する権利を放棄するよう導いた。

刑事はその後、友人が殺された被害者を発見したときの様子を、何度も描写するよう促した。

殺される直前、被害者は友人と別れており、被害者を一人で残した友人は、罪の意識を持っていた。 話を繰り返すことで、友人の罪の意識が十分強くなったところで、刑事は凶器に彼の指紋がついていたことを説明した。

第一発見者であった友人には、その記憶がなかった。彼は混乱し、刑事に助力を求めた。

刑事は「もし自分が殺したのだとしたら、どのように殺したのかを想像してみると、 その時の状況を思い出すきっかけになるし、罪の意識から抜け出す助けになるだろう」とアドバイスした。

指紋のついた凶器など本当はなかったけれど、彼は自ら犯した罪を自白し、後日殺人罪で起訴された。

2008.09.24

交渉の自然治癒力

ベトナム戦争当時、制空権を握っていた米軍はヘリコプターが使えたから、 撃たれた兵士はすぐに後方に搬送されて、緊急手術を受けることができた。適切な治療が施されたにも かかわらず、兵士の死亡率は高かった。

フォークランド紛争でのイギリス軍は、制空権が不十分であり、夜戦が多かったことも手伝って、 撃たれた兵士の搬送は遅れがちになった。

外傷医療の技術には大きな変化はなく、撃たれた兵士は、応急処置だけで事実上放置されていたにもかかわらず、 ベトナム戦争のときよりも、兵士の死亡率は低かった。

こんな経験から、重篤な多発外傷の患者さんにおいては、「可能なかぎり早く手術し、治療する」という治療戦略自体に 疑問が持たれて、「ダメージコントロール」という考えかたが生まれた。

「ダメージコントロール」の考えかた

たとえば肝臓と脾臓が破裂して、多発肋骨骨折に血気胸、大動脈にも損傷が疑われる外傷患者さんが運ばれてきて、 手術でこれを全部治すと、患者さんはそのまま亡くなってしまう。

「ダメージコントロール」の考えかたは、患者さんに「受容可能侵襲量」という考えかたを持ち込む。

受容可能侵襲量とは、患者さんがその状況で支払い可能なコストみたいなもの。 「手術で直す」ためにはそれなりのコストが必要で、完治を目指す大がかりな手術を行っても、 手術室で患者さんが「支払い不能」に陥ったら、患者さんは亡くなってしまう。

外傷患者さんは、受容可能侵襲量が少ないから、手術は「支払い」可能なコストの範囲で行われる。 手術の目標は、治ることでなくて、「治っていないけれど死なない」状態で、素早く撤退することを目指す。

出血している血管を放置したまま撤退すれば、患者さんはやはり亡くなるけれど、 上手な「撤退」が行われた患者さんにおいては、次の手術までの間に回復が期待できる。 患者さんが支払い可能なコストの範囲で手術を行って、上手な撤退をして患者さんの回復を待ち、 支払い可能な「受容可能侵襲量」が再び貯まれば、今度は治癒を目指した手術が施行できる。 「ダメージコントロール」の考えかたは、だからきれいな治癒を目指さないで、 むしろ回復につながる撤退を目指す。

たとえば救急外来から患者さんが運ばれてきたら、まずは止血や損傷組織摘出などの処置は最小限にとどめる。 破裂した肝臓なんかは縫わないで、ガーゼで何となく寄せて固めておいて、ひどい出血がなければ、そのまま放置する。 最初の手術は、今やらないと死ぬ場所だけ処置を行って、あとはお腹も縫わないで、そのまま集中治療室に入れる。

集中治療室では、まずは全身状態の安定に全力を挙げて、状況が改善した数日後、 今度は臓器の再建だとか、凝血槐の奥にある、血管損傷の検索などが行われる。

ダメージコントロールの考えかたを治療に取り入れるためには、患者さんの「受容可能侵襲量」を 想像しながら、手術室に入ることになる。それぞれの外傷は重症度が判断されて、 軽いものは後回し、重いものは「治療」が選択されるけれど、治療に必要な侵襲が大きすぎて、 患者さんの支払い可能な量を上回ってしまうと判断された場合、「治療」ではなく、「次につながる撤退」が 選択されることになる。

ダメージコントロールの考えかたを取り入れてから、従来ならば間違いなくなくなっていた患者さんは、 けっこうな頻度で助かるようになったのだという。

交渉の自然治癒力

交渉が中断されると、お互いの印象はずいぶん変わる。

酔った外来で大喧嘩して、「二度とこんな病院には来ない」とか啖呵切った人も、 何かのきっかけでまた具合が悪くなると、「あのときはそんなにひどい喧嘩にならなかった」とか思い直して、 けろっとして病院に来たりする。

「あのとき主治医がもっと強く入院を勧めてくれれば帰らなかった」とか、 治療拒否して亡くなった患者さんが裁判になる。「あのとき」の主治医は、 つかみ合いの大げんかになるぐらい「強く」言ってたはずだし、ご家族はそれを見ているはずなんだけれど、 裁判になるとそれが「弱く」なる。

交渉ごとは人体とは違うけれど、中断によって変成する。変成にはいい方向と悪い方向とがあって、 上手な中断が為された交渉は、空白期間にある程度の「自然治癒」を期待できるし、 交渉が悪い形で中断されると、恐らくは交渉が中断している期間、相手の心証は、時間とともにどんどん悪くなる。

「交渉学」というのは、覇を競った昔の外科医に似ている。人質交渉人や営業マン、詐欺師やヤクザ、 政治家、心理学者、あらゆる分野の人達が交渉を語る。いろんなやりかたを発信する。よく似たやりかたで、 お互い参考にできる部分もあれば、その業界独特のルールに依存していて、他の業界では再現不可能なやりかたもある。

いろんな交渉の本を読んで、特に「交渉の自然治癒」について言及されているものはあんまり無いように思う。 みんな何となく、「エレガントに一度に直す」ことを目標にしていて、 少ない交渉回数で、短期間で合意に達することが「いいこと」とされている印象を持っている。

交渉にも、そのテーブルでの「受容可能侵襲量」みたいな概念があるような気がする。

救急外来は早さが命で、ここでトラブルを起こして状況が止っても、患者さんは次から次にやってくる。

トラブルを生じた相手に「今は無理だから後から文句言って下さい」なんて交渉を中断したら、 これは出血している血管を放置するようなもので、空白時間の最中、出血は続いて、 トラブルはますます大きくなる。

「ダメージコントロール」の考えかたが交渉にも当てはまるのなら、救急外来という場所は、 患者さんにも、自分たちの側にも、「受容可能侵襲量」が極めて少ない。交渉を完結することを目指すよりは、 むしろ上手な撤退を目指すこと、交渉を穏やかに中断することで、単なる待ち時間を お互い「頭を冷やす」期間として生かせるようなやりかたを考えたほうがいいような気がする。

交渉のテーブルに着いたとき、お互いが支払い可能な「受容可能侵襲量」、 その交渉が合意に達するのに必要な「侵襲」量をそれぞれ概算できること、 合意に達するためのやりかた、「治癒」を目指すやりかたとは別に、「次につながる」形で、 上手に交渉を中断するためのやりかたが考えられるのなら、交渉にもまた「ダメージコントロール」、 交渉の自然治癒力を利用した方法論が作れるのかもしれない。

2008.09.02

とどまるために動き続ける

blog とかニュースサイトにおける「成功」について。

大手ニュースサイトを管理している方が、「私をニュースサイト管理人のプロトタイプと考えるのは間違い。 私は特殊すぎる」なんてことを書いておられた。

アクセス数の多いサイトを管理している人は、たぶんほとんどが同じような感想を、 自分はたまたま上手くいったケースであって、成功すべくして成功したわけではないなんて、 そんな感想を持っているような気がする。

他人から見ると王道を歩いて成功したように見える人は、案外自分を「特殊解」だと思ってる。

平凡だけれど真似出来ない

自分が普段見に行くような、誰もが名前を知っているような大手サイトは、 それが経済社会系にせよ、アニメやら、ライトノベルの情報サイトにせよ、 どこも案外「フラット」な、一見平凡な文章を書く人が多い。

言葉の使い方が面白いだとか、毒舌の形容が面白かったりだとか、 いかにも「この人」が伝わってくるような、そんな尖った特徴は少ない。 その文章は誰にでも書けそうなのに、同じだけの情報を得られたとして、 じゃあ同じ文章が自分に書けるかと問われれば、やっぱりどこか難しい。

成功しているサイトの「成功した理由」を、外から指摘するのは難しい。

まだ人の集まっていないサイトをランダムに選び出して、 「ここがダメ」だとか、「ここを直せばもっとよくなる」なんて指摘するのはたぶん容易だし、 何人かの人に指摘をもらうと、その意見はきっと、だいたい同じ場所に収斂する。

人をたくさん集めているサイトに同じことをすると、そもそもたぶん、 そのサイトが成功した原因をきちんと指摘出来る人が少ないし、よしんば指摘をもらえたところで、 たぶん意見は割れて、一つの原因にまとまらない。

サイトのデザインだとか、言葉の言い回しだとか、いろいろ工夫してる人は多い。 大手のサイトよりも、むしろそうでないサイトのほうが、そうした目に見える努力はずっと多いように見えるのに、 大手サイトはどちらかというと平凡な、これという特徴を持っていないのに、人はやっぱりそこに集まる。

とどまるために動き続ける

大手サイトを運営する「中の人」が、外から見ると王道歩んでるようにしか見えないのに、 自己認識が「特殊解」だったり、サイトそれ自体、外から見ると、ぱっと見た目平凡なのに、 もっと派手な外観だとか、文体工夫しているサイトよりも、そうした平凡なサイトのほうが、 圧倒的に多くの人を集めてみたり。

恐らくは、目に見えない試行錯誤の量というものが、こうした認識のギャップを生み出しているのだと思う。

失敗は必然だけれど、成功は偶然。偶然ではあるけれど、その偶然をつかむためには、 「必然を踏まない」ための努力が欠かせない。

「大手である」と言うことは、何か「これ」と指摘出来るようなものを手に入れたとか、 何か特殊な知的プロセスを隠し持っているとか、そういう必殺技的な要素は少なくて、 あの人達はたぶん、常に試行錯誤を続けて、常に動き続けていて、動き続けているからこそ、 目線に沈むことなく、そこに静止して、存在し続けている。ちょうど静止衛星みたいに。

明治時代の写真には、人間が写っていない。

人もいて、車もあったのに、道路は空っぽで、誰も歩いていない。建物しか写っていない。 当時のカメラは露光時間が極端に長かったから、カメラに対して動いてしまう物体は、 映像としてそこに残らない。

恐らくはweb を見渡すときの目線にも、露光時間に相当するものが必要で、 誰かの目にとまって、そこに人を集めようと思ったら、そこにとどまり続けないといけない。

目線に対して静止するためには、変化する目線にあわせて、動き続けないといけない。

Web 界隈をぱっと見渡した「スナップ写真」には、恐らくは大手サイトしか写っていない。 界隈で、どれだけ派手に立ち回ろうと、目線に対する静止を怠れば、写真には記録されない。

「そこにとどまる」という目的を達成する手段が多様であるが故に、成功しているWeb 管理人は、 特殊解にしかなれなくて、まだ成功していない誰かが、成功した誰かの手段を目的化したその時点で、 たぶんその人は、失敗に連なる必然を踏んでしまっている。

Web 界隈のお話だけれど、一般化できる気もする。

2008.08.25

チームに対する考えかた

「指示する人」と、「指示されて動く人」とがいる。

病院だと、「指示する人」はたいてい医師であって、「指示される人」は看護師さんであることが多くて、 個人的にはそれを逆にする形、いろんな人から医師が支持されて、それに反響返していくうちに、 患者さんが治ってた…というのを目指してるんだけれど、なかなか難しい。

「指示される人」が目指してるロールモデルは一つでなくて、 「ガンダム」目指している人と、「鉄人28号」目指している人とに分かれている印象。

「ガンダム」と「鉄人」とが共存するのは難しくて、しばしば危険で、それは個人のポリシーと言うよりも、 むしろ病院だとか、地域の文化が、目指すべき、あるいは求める資質みたいなものを決めている気がする。

「鉄人28号」目指す人達

鉄人28号には、「行け鉄人」と「飛べ鉄人」、「頑張れ鉄人」ぐらいのコマンドしか存在しない。 ごく簡単な指示しか入らないけれど、鉄人は案外器用に戦って、目的を成し遂げる。

自分が今まで働いていた病院、関東地方と東北地方のいくつかの病院では、 看護師さん達は、「鉄人28号」を目指してた。

新人の看護師さん達は、まだ何かをお願いしても動けないし、動いてもらうにしても、 医師側が細かいところまで口を出さないと、自分たちの役に立ってくれない。 「鉄人28号」目指してる人が熟達してくると、医師の漠然とした指示で適当に案配してくれたり、 食事のオーダーとか、病棟管理の方針だとか、「お任せ」と指示に書いておくと、 あとは自分たちの判断で動いてくれたりする。

「看護の自立」信じてる人が多い。

「鉄人28号」目指してる人達は、 だからその動作を医師側が100% 管理することは不可能で、 ほしい道具が足りないこともときどきあるし、医師側の「こうしてほしい」と、 看護師側の「こうやってほしい」はしばしば食い違って、細かいところでトラブルになったりする。

その代わり、一度「お任せ」になれてしまうと、忙しいときとか、漠然とした指示を出しておくだけで、 「いつもどおり」に動いてくれる。慣れてる看護師さんは、医師を「誤りを犯す生き物」だと分かっているから、 慣れてくると、「看護師の指示の下に、医師がお願いを書く」形になって、すごく快適に仕事が出来る。

もちろん、こんな形になることを「快適」と思わない医師もいる。

関西の人は「ガンダム」目指す

関西、それも「大阪」限定で、看護師さん達は「ガンダム」目指してた。 3 人しか知らないから、それを一般化していいのかどうかは分からない。

昔働いていた関東地方の病院に、大阪の、誰でも知っているような有名病院で働いていた 看護師さん達が転勤してきたことがある。循環器のプロだという触れ込みだった。 たしかに何でも知っていて、仕事も上手だったのだけれど、 相手が研修医であっても、なんだか「下僕」みたいな接し方をして、ちょっとやりにくかった。

なんでも知っている人だったし、頼めばなんでもやってくれるし、何でもできる。

その代わり、その人の目の前で何が行われているのか、みんなきちんと把握しているのに、 たとえば手技を行っているのが研修医であって、 今目の前で間違ったことが行われていたとしても、よほどひどい間違えでない限り、 教えてくれない。

意地悪だったとか、そういう印象はなくて、むしろポリシーの問題。「看護師というものは、医師に対して 一切の文句を言わずに働くことが美徳なのだ」という考えかたを持っていて、 そのやりかたは、良くも悪くも「ガンダム」で、「鉄人28号」になれてる自分からすると、けっこう怖かった。

下着みたいな格好にヒョウ柄のコート羽織って出勤して、冬でも全身日焼けして金髪、 細巻きの葉巻を吸っていた。その姿はたしかに、どこから見ても「大阪」を主張していたけれど、 仕事に対する価値観は、自分が想像していた「大阪」とは、ずいぶん異なっていた。

お願いする側の文化

何かを依頼する医師側もまた、相手に対して「鉄人28号」であることを求める人と、 「ガンダム」を求める人とがいる。

田舎で働いてた頃、やっぱり関西のほうから来て下さった先生がいて、その人もまた、 看護師に対して「ガンダム」であることを求める人だった。自分なんかが「居心地がいい」と 感覚していた病棟ナースの気遣いは、その人にしてみると「思った通りに動いてくれない」なんて 不快感につながって、しばらくの間、それでも病棟はなんとか回っていたけれど、 最後はやっぱり「妥協出来ない」なんて話になって、退職してしまった。

そのあたりも、やっぱり個人の資質と言うよりは、地域の持つ文化の問題。 「適当」を目指して、「適当にやっといて」が通用する職場作りを目指す文化と、 医師が「右手を1 ㎜」と宣言したら、黙って右手を1 ㎜だけ動かす人を求めて、 そういう人を育てようとする文化と。

診療科の違いというよりは、その施設が建っている地域の持つ文化による 違いのほうが大きな印象。病棟変わっても、「適当」が通用する病院は、 どこに行ってもやっぱり「適当」が通用したから。

チームに対する考えかた

「チーム」というものについて、「鉄人28号」目指す人と、「ガンダム」目指す人とでは、 考えかたが異なるのだと思う。

スタンドプレーから生じるチームワークを目指す立場と、チームプレーを目指すためには「個」を殺すべき、と 考える人と。

他の業界にもこういう考えかたの違いがあって、「自立的組織文化」を「アテネ」に、 「統制的組織文化」を「スパルタ」に例えたモデルがあるのだなんて、某所で教えていただいた。

業界ごとに最適な組織文化が存在するのか、それとも文化それ自体は、 ある程度の多様性が認められるのか、よく分からない。

いずれにしても、組織文化にはいくつかのやりかたが混在していて、 文化を共有していない人同士が一緒に働くと、現場は混乱するし、 文化の違いはしばしば、乗り越えるのがすごく難しいのだと思う。

2008.08.18

環境と対峙するためのシンプルな道具

無人島みたいな環境に1 人残された主人公が生き延びるために知恵を絞る、「ロビンソンクルーソー」 みたいな物語には、その環境に対峙していくための道具が欠かせない。

恵まれた環境は、小説を生まない。何も持たない人間でも生活できるような場所なら、 その人は生き延びる努力をする必要がないだろうし、取り残された主人公が、 軍隊が持ってるような装備一式を持ち運んでいたら、それは生存の物語でなくて、教科書になってしまう。

ロビンソンクルーソーみたいな、生き延びる努力を物語として表現するためには、 主人公が環境と対峙するための道具、シンプルで、一見すると役不足で、 主人公の能力とか、工夫に応えてその能力を発揮して、主人公が生き延びる 決め手になるような、そんな道具が欠かせない。

シンプルな、一見ごくありきたりの道具一つが、主人公の手にかかると思いもかけない汎用性を 発揮して、絶望的な状況を切り開いていく、サバイバル物語のおもしろさというのはそんなところにあって、 活躍する道具というのは、道具であると同時に、主人公が追い込まれた状況を説明するための手段にもなっている。

定義としてのサバイバル

一般化するなら、「環境から導かれたルールから、プレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立するとき、 それはサバイバルであると言える。

サバイバルといえる状況はどこにでも存在しうる。ロビンソンクルーソーの精神は、 だからしばしば、実世界でも役に立つ。

主人公が対峙する環境が変化すれば、持つべき道具も当然変わる。

ロビンソンクルーソーが対峙した自然環境は、今はもう探すことも難しくて、 そんな「穴場」にたまたま主人公が流れ着いたところで、きちんと探せばたぶん、 歩いていける範囲内には、今なら必ず観光客がいる。

今の時代に、海に放り出された人が流れ着く場所は、まず間違いなくゴミの山。 そういう場所はたぶん、針金屑だの棒きれだの、半分腐ったビニールシートだのがたくさん転がっていて、 斧が要りそうな大木だとか、獣が潜んでそうな洞窟なんかは存在しない。

「現代のロビンソン」が、そんな環境で生存していくためには、ナイフはもはやふさわしくなくて、 むしろラチェットレンチだとか、針金を締めるためのペンチだとか、その環境を乗り切るのにふさわしい 「これ」という道具は、工事現場で使うようなものになる。

生きる知恵をつけるために、子供にナイフの使いかたを教えましょうなんて意見は昔からあるけれど、 サバイバルするために必要な道具というのは、たぶん環境から事後的に決定される。 今の子供にナイフを持たせたところで、それを生かせるような環境を探すのは大変だと思う。

ダクトテープとシノ棒

宇宙を漂流する羽目になったアポロ13号で役に立ったのは、ダクトテープだったのだという。

宇宙船に事故が起きて、その宇宙船本来の設備だけでは地球に帰れなくなって、 彼らは一緒に持ってきた月着陸船に、足りない設備の材料を求めた。

機材は交換不可能で、口金の形なんかはみんなバラバラだったから、 彼らは船内に積んであったボール紙とかメモ用紙を利用して、 ダクトテープでそれらをつないでアタッチメントを作り上げて、 地球までの命をつないだ。

ダクトテープはメモを貼るとか、新しい部品を作るとか、地球からの指令を直接メモするとか、 いろんな目的に応用できたから、NASA は今でも、宇宙に行くロケットには、必ずダクトテープを積む 決まりになっているんだという。

南極越冬隊の人達は、みんなが「シノ棒」という、 先の尖った金属棒を持つ。

ごくシンプルな道具だけれど、これを使ってずれたボルト穴を直したり、ワイヤーを締めるときの「てこ」にしたり、 缶を開けるときのへら代わりに使ったり、応用範囲がすごく広いのだという。

素手で出来そうなものだけれど、南極で手袋脱いだら大変なことになるんだろうから、 たぶんこういう「爪」の代わりになるような道具というのは、南極の野外で生き延びていくためには、 大切なんだろうなと思う。

環境と対峙するためのシンプルな道具

シンプルだけれど汎用性の高い道具、生存を志向する人が、 ある環境に対峙したときに、「これだけは」みたいに一つだけ持って行ける道具、 自分が対峙している環境は、いったいどんな道具を要請しているのか、ときどき考える。

生きていくのに役立つ道具というのは、対峙する環境に応じて本当に様々。 たいていそれは、「ノートパソコン」みたいな複雑さとは縁のない、 南極越冬隊なら「シノ棒」、無人島なら鉈とかナイフ、アポロ宇宙船ならば「ダクトテープ」だったり、 ごく単純な、そこに行ったことがない人が見たら、「どうしてそんなもの持って行くの? 」なんて疑問持つような、 特別さとは縁のない、ありきたりの道具。

軍隊が使う、スイスのアーミーナイフは、新兵であればあるほど多機能な製品を選んで、ベテランの将校は、 むしろシンプルな、ナイフ2種類に、せいぜいコルク抜きがついたようなのを持ち運んで、 ただのナイフをいろんなやりかたで応用して、機能を省いていくんだという。

道具はだから、それを使う人が熟達するほどに、環境と対峙する経験が増すほどにシンプルに、 応用が利きやすいものへと変貌して、「これ」という道具が指定できない職種というのは、 まだそこまで生存に必死になれていないか、あるいは業界自体にノウハウを蓄積する態度が乏しくて、 道具を洗練する機会に恵まれていないのかな、と思う。

自分が生息している「病院」という環境では、それが何なのか、未だによく分からない。 白衣や聴診器、ボールペンといった道具はたしかに便利なんだけれど、応用効かないし、 病院中に転がっているものだから、それらはむしろ「環境」に所属するもので、道具ですらないかもしれない。

「うちの職場はこれが頼りで、欠かせないんですよ」なんてやりかた。自分たちが対峙している状況を代表する 道具というのは、業界越えた相互理解を志向するときは、すごく役に立ちそうなんだけれど。

2008.08.04

マナーのこと

病棟のちょうど真ん中、ナースルームというところは、普段からドアが解放されていたり、 新しく造られた病棟だと、最初から「壁」が存在しないところも多い。

病院という場所は、ほとんどあらゆる人間模様の集積地みたいな場所だし、そこで暮らす自分たちもまた、 聖人なんかとはほど遠い人間の集まり。ナースルームでやりとりされるのは、他の誰かに聞かれたら困る話題ばっかり。

病状のこと。治療のこと。あの患者さんのご家族には些細なことですぐ怒られるから気をつけたほうがいいだとか、 あの患者さんは「痛がり」で、ナースコール頻回だからどうにかして下さいだとか。

昔はそれでも、医療者は聖職者ということになってたからなのか、口が災い招くケースは少なかったような 気がするけれど、こんなご時世だから、今はもちろん、患者さんだとか、ご家族だとか、病棟スタッフの ちょっとした軽口は、しばしばとんでもない災厄を生む。

「マナー」は状況を歪ませる

どこの病院も、今はだから「マナー向上」に気をつけていて、話しかた講座だとか、 「患者さんに敬意を払っていきましょう」なんて頑張ってる。これは間違いだと思う。

マナーというのは、「医療者は聖職者」なんて、実情とかけ離れたステレオタイプに自らを 押し込むやりかた。「聖職者」から遠い軽口も、それでも貴重な情報を含んでるから、 これを「止めましょう」なんて教育しても、必要な情報は、マナー訴える誰かから、 見えないどこかでやりとりされる。

クソの山にバケツいっぱいのシャネルをぶっかけたところで、それがケーキに変わるわけもない。

そこに必要があって「ある」ものをなかったことにする、「マナー」みたいなやりかたは、 だからたいてい状況を悪くして、「ない」はずのものが見つかればトラブルは大きくなるし、 必要なものを隠さないといけなくなるぶん、必要な情報が、必要なタイミングで得られなくなってしまう。

病棟みたいな、働く側も、治療受ける側も、穏やかで落ち着いた状態なんかとはほど遠い場所で 必要なのは、「マナー」なんてきれいなやりかたではなくて、患者さんとか、ご家族が聞き耳建立てる目の前で、 「あの家族はクレーム多いから要注意」みたいな情報を、大声でやりとりできるようなやりかた。

自分たちの側から見れば「情報」であり、言われる側から見れば「悪口」でもあるそんな言葉を、 どちらの側から見ても「情報」として認識される、そんなしゃべりかた。

事実と判断とを分離する

Web 世間で日記をつけるのは、みんなが聞き耳立ててる中で会話するのにちょっと似ている。

「マナー」に気をつけて、当たり障りのない会話を続けたところで面白くないし、 書いている本人が、それではちっとも楽しくないから、続かない。誰かを罵倒したり、 裏付けの取れない憶測で記事を書いたりすれば、もちろんそれはトラブルになって、 トラブルは、たとえ文章を削除したところで、「あの人がそういうことをした」という事実は、 ずっと名前にくっついてくる。

長く発信を続けて、それでも一定数以上の読者を楽しませ続けることに成功している人達は、 たぶん事実と判断との切り分けが上手。事実はあくまでも事実として記述して、 それに対して「私はこう思う」みたいに、事実と判断とを明示的に分離するから、 刺激的なことを書いても、突っ込みどころを少なくできる。

我々は「狼が来た」と言う。
たが軍隊語では「狼らしきもの発見、当地へ向け進撃中の模様」となる。
彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応狼らしいと判断し、
そしてこちらへ来ると推定したに過ぎない
そして対象はこの判断と関係ないから、人間かもしれないし、別方向へ行くのかもしれない
“軍隊語と日本語の違いは「事実」と「判断」が峻別されているという事”

これをやると、言葉とか文章が、すごく固くなって、流れが悪くなる。「みんなそう思ってる」だとか、 「常識的に考えて」みたいな言い回しが使えなくなって、会話に飛躍がなくなってしまうから、 書いてて何だかつまらない文章しか書けないような気分になるけれど、 慣れるとけっこう何とかなる。

全ての形容は「隔たり」になる

Web 世間で、誰かが日記に「あいつは頭が悪い」なんて日記に書いたら、 「あいつ」と名指しされた人は不快に思うし、人がたくさん集まるサイトなら、たぶん炎上する。

事実と判断とを峻別して、「私の目から見て、彼の行動は頭が悪く見える」なんて書いたところで、 問題はやっぱり解決しない。

「すごい」だとか「あたまがわるい」だとか、形容詞というものはベクトル量。 基点になる場所と方向、あと大きさが明示されて、形容を受ける側とする側、 お互いがそれを共有できていないと、解釈が様々に分かれてしまう。

見る位置が異なる人同士は、唯一「隔たりの大きさ」しか共有できない。

病棟では最近、細かいところでクレームをつけてくる人を、「事象の受け止め方にギャップが大きい」なんて 表現するようになっている。

こういうのはしょせんは言葉遊びには違いないんだけれど、「ギャップが大きい」まで言葉を解体すると、 「あの家族はクレーマーだ」とか、「あの家族は危険」という表現に残っている方向要素が、 ずいぶん薄くなる。例えば近い将来、病棟での会話だとか、患者さんとの会話だとか、 全て録音されて記録が残るようになったとき、「クレーマー」だとか「危険」という表現は、 あとから「どうしてそう判断したのか?」なんて突っ込まれる可能性がある。

「ギャップが大きい」なんて言いかたは、その言葉を発信した本人が、その場に居合わせた同僚と、 「正しいやりかた」を共有している限りにおいて、「ギャップが大きい」と名指しされた人達が、 自分たちが共有している常識が通用しにくいという情報を共有することができる。

目線の時代の会話作法

事実と判断とを明示的に切り分けて、お互いに基点の共有が不可能な形容詞を避けて、 「違い」の方向要素は、自らを取り巻くコミュニティにゆだねるようなしゃべりかた。

病棟みたいな「内」と「外」が存在しない場所でのしゃべりかた、情報共有のやりかたは、 お客さんに聞かれない「内輪」を想定できる「マナー」みたいなやりかたとは異なってしかるべきだし、 「内輪」の存在が前提になっている場所で使われるような言葉を、病院みたいなところに適用したら、 たぶん何らかの事故につながると思う。

2008.07.19

信頼を価値につなげる

ピーク性能自体は決して高くないけれど、裏切らない、不実なことをしない、そんな「まじめ」な人の まじめさというものが、何かの価値につなげられないか、ときどき考える。

その人に成し遂げられる仕事というのは、もっと人件費の安い、中国だとかベトナムあたりに 外注しても変わらない。まじめさは、昔は美徳として尊重されたけれど、 今は何だか影が薄くて、損してばっかり。

まじめな人に任せたときの安心感というか、 信頼性維持のコストを削減できる部分であるとか、 それを実体を持った付加価値につなげることができるようになると、著とだけ幸せになれる気がする。

ピーク性能と信頼性

何かを生み出したり、何かを発想することに価値が生まれる業界には、「まじめなだけ」の人の出番はない。 問われるのは生み出されたものの品質、ピーク性能であって、 それを生み出した人がどれだけいいかげんであろうが、「まじめに作られた駄作」には、 やっぱりなんの価値も生まれない。

自分たちの業界だと、業務の8割ぐらいまでは、誰がやってもそう大きくは変わらない。 残った2割、腕を極めた専門家であるとか、その人以外に経験がない症例であるとか、 そうした領域で活躍する人達には、やっぱりピーク性能が求められて、そういう人達こそは 高い対価をもらってしかるべきだけれど、自分たちの業界は、建前平等のやりかたが 今でも色濃く残っている。

すごい腕を持った人でも対価は変わらないし、存在自体が犯罪みたいな、 他人からみれば本当にいいかげんなことしかしていないような医院が、「いい病院」とかいわれて 人気を集めてみたりする。

多くの業界ではたぶん、ピーク性能も、信頼性も、きちんとした測定手段が存在しないから、 能力ある人が割を喰ったり、ふさわしくない人が居座ってたりする。

信頼性のはかりかた

ずっと日記を書いていて、何とかしてこれを、何かの商売につなげられないか、ときどきそんなことを考える。

広告収入を得るのは大変だし、ネットで日記を書くことで、自分の「腕」みたいなものをアピールしようにも、 腕自慢をいくら書いたって信用されない。

日記を長く書くことで、唯一他人様に自慢できるものがあるとすれば、それは「こんなことを長く続けている」こと それ自体でしかなくて、長く続けていること、ここに居続けられていることを、 何か信頼要素に結びつけられると、日記を書き続けることに、もう少し経済的な意味が生じる気がする。

「信頼」を測定するのは難しい。同業者が同業者を評価するやりかたを除けば、 その分野の知識を持たない人が、相手の信頼度を評価しようと思ったら、 たぶん「その人が同じ仕事を長くやっている」という事実に頼るしかない。

信頼性それ自体が売りになる産業、商店だとか金融業、あるいは道路建設みたいな、 外から見ると「質」の違いに気がつくことが難しいような業界は、 だからこそ長く続けている業者に信頼が集まって、「そこに長くいる」ことが 競争に有利に働く。

信頼性が大切な、そんな業界はだから、少数の勝ち組老舗と、大多数の、 極めて安価に買いたたかれる新参業者から作られる、硬直した産業構造を生み出すことになる。

「老舗の誇り」とか「職人のプライド」みたいなものは、たぶんそうした寡占構造が作り出す。 業界に流入してくる資金の総量が減ってきたり、国外の業者が、競合社として参入してくると、 だから「老舗のプライド」は消え失せて、業界全体を象徴していたような老舗から、 信頼が崩れていってしまう。

目線が信頼を作り出す

信頼というものは、恐らくはたくさんの目線によって削り出すことができる。

「blog を長く続けている」みたいなこと、自分がやっていること、考えていることを 常にオープンにしつつ、他者からの意見であるとか、考えかたをぶつけられて、 それに反論したり、受け流したり、受け入れたりといったことを繰り返していく中で、 「それでもそこに居続けていること」が、信頼性につながっていく。

「頻回」「長期間」が条件に加わると、嘘をつくためのコストが馬鹿にならなくなってくる。 思ってもいないことを書き続けたり、いろんな人から意見をもらって、八方美人的な 受け答えを繰り返したりするのは、すごく疲れる。「いい人」気取ってみたり、 自分自身を正義の代弁者みたいな立場に置くやりかたは、いろんな目線を受けるにつれて削られて、 書いてる本人が消耗してしまう。

呼吸するように嘘をつける少数の例外はともかく、ネット世間で長く発信を続けて、 荒れたり沈静したりを繰り返しながら、それでもそこに居続けている人というのは、 たいていは「地」に近い立ち位置で文章を書いていることが多くて、恐らくはだから、 そういう人の、ある種の「まじめさ」は、信頼できる。

公的な役所に勤める人達なんかは、本来「ピーク性能」的な能力よりも、 むしろ信頼性を求められるお仕事だから、いっそ「3年以上Web日記を続けている」を受験の条件にしたら、 透明度が嫌でも上がりそうな気がする。

「まじめさの物差し」みたいなものに社会的な合意が得られたならば、恐らくはまじめさみたいなものも、 目指すべき目標として、もう一度価値が出ると思う。

「なぜ飛車と角は王の側近になれないのか?」
金は裏がないから王様が信頼してんだよ

2008.07.12

粒度について

今さらながら、手術後患者さんの塞栓予防について、「どの薬使おうか」なんて相談してる。

とくに整形外科の患者さんは、術後の安静時間が長かったりで、下肢の静脈血栓を合併しやすい。 足が腫れたり、場合によっては血栓が肺に飛んだりして怖いから、今ではどこの病院でも、 下肢にフットポンプみたいなものをつけてもらったり、抗凝固薬を投与したりして、合併症を予防する。

薬物による塞栓予防にも何種類かやりかたがあるけれど、伝統的には「ヘパリン」を使う。 もっと効果があったり、あるいはもっと簡単に使える新製品が、いくつか出てる。

ヘパリンのこと

ヘパリンは、大昔から流通している抗凝固薬。

半減期が短くて、何回も注射する必要があったり、効きかたが人によって異なるから、 まじめに使おうと思ったら、定期的に採血を行って、効き具合を測定しないといけない。

ヘパリンのこうした欠点は利点でもある。半減期が短いから、効き過ぎたり、 あるいは出血のコントロールが必要なときにはいつでも中止できるし、ヘパリンの効き具合は、 昔から行われている血液検査で測定できるから、「これぐらい効かせたい」みたいな調節ができる。

新しい抗凝固薬は、ヘパリンの欠点と言われてきた部分を改善してきている。半減期は長くて、 注射で使うにしても、1 回使えば24時間効く。患者さんの状態で、その効き具合が左右されにくいから、 頻回の採血検査で効き目をチェックする必要もない。

その代わり、新しい薬の効き具合は測定できない。特殊な採血検査を外注しないと、 その薬が本当に効いているのかどうか、数値で分からない。うちみたいな施設からは、 そんな検査出せないから、メーカーの「効きます」という言葉を、そのまんま信じるしかない。

旧世代のヘパリンは、不便だけれどコントロール性に優れていて、効き目が「見える」という 大きな強みを持っているから、新しい、もっと便利な薬剤が登場している現在でも、 やっぱり「ここ」と言うときには必ず使われる。

「見える」というのは、この業界では本当に大切なことだから。

「見える」が欠点になる

抗凝固薬は、新しい世代のほうが「良く効いて、出血も少ない」ことになっているけれど、 実際にはやはり、良く効く薬は出血も多いし、出血の少ない薬は効かない。 メーカーの人達がどう言いつくろったところで、「血液が固まりにくくなる」というのは、 要するに血が止らなくなることだから。

術後の塞栓予防は、だからガイドラインでもやっぱり昔ながらのヘパリンが推奨薬に入っている。 新製品はもちろん「効く」とされているし、ガイドラインにもそう書いてあるんだけれど、 リスクが高い人、「絶対に血液を固めたくない」なんて状況になると、やっぱり「見える」薬が活躍する。

最近になって、「見える」ことが、問題になってきている。

薬を使う。測定する。データをみて、薬の量を調整する。ヘパリンみたいな古い薬は、 どうしても数字をみながらの調整が必要だけれど、その過程では「効き過ぎ」だとか「効かなすぎ」だとか、 正常から外れた数字が残ってしまう。

患者さんに何らかのトラブルが起きたとき、こんな数字が、時に相手から突っ込まれてしまうのだという。

ヘパリンの効き具合は、なまじっか見えるから、見えるのに見ようとしなかったら、不作為を問われる。 見て調整して、そのデータが想定された効き具合から外れていたら、今度は「外れていた」という過失を問われる。

新世代の、「見えない」薬は怖いけれど、見えない以上、現場にはどうすることもできないから、 メーカーの言い分を信じるしかない。本来ならデメリットでしかない、「見えない」ことが、 今はどういうわけだか利点になって、今うちの病院でも、 新しい薬を入れようかどうしようか、上の先生達が迷ってる。

議論の粒度のこと

戦争の技術が発達した。現場の状況、兵士が何人亡くなっただとか、相手の街並みはこんな情景で、 重要な施設はここにあるだとか、詳しい状況が現場で把握できるようになって、中枢に上るようになった。

情報の伝達がスムーズになれば、たとえば補給がもっと効率よくなるだとか、 休戦だとか、外交だとか、政府同士の「手打ち」がもっとやりやすくなるだとか、 現場はそんなことを期待していたのに、政府の人達は「今度はあの建物を狙ってくれ」だとか、 現場の人間に、すごく細かい部分にまで口を出すようになったのだという。

「政府高官がライフルを持っている気分になる」なんて表現されてたこんな現象は、 たぶんいろんな業界で起きている。現場の人間が細かいデータをとればとるほど、 「上」の人達はその情報を欲しがって、大局的な判断を下すべき人達が、 ごく細かなことにまで口を出すようになる。

行き来する情報の粒度が詳細になるほどに、上からの指示も詳細になり、現場は混乱する。 上の人達は、もっと細かい情報を要求して、「大局」の判断は、いつしか放棄されてしまう。

  • 手術を施行すべきか否か
  • どんな術式で行くべきか
  • 輸液管理はウェットサイド、>ドライサイド、どちらの方針で行くべきか
  • 術後の塞栓予防には、どんな薬剤を、どの程度の本気度で用いるべきか

医療という「作戦」一つをとっても、現場が下す判断には様々な粒度がある。大局的な判断が下されて、 さらにそれが正しいものであって、そこではじめて、より細かい粒度の問題が論じられる。

情報の粒度を一覧できるようにして、訴える側と訴えられる側、そんなカタログを、お互いで共有できればいいなと思う。

報道されてる「過失」の粒度はまちまちで、もちろん結果として、 患者さんには何らかの不利益が生じているのは間違いないのだけれど、大局的な判断と、粒度の極めて 小さな問題と、「過失」を問う側の人達は、そのあたりをフラットに論じている。

効き具合が見えない薬は、見えないぶんだけ、情報の粒度が粗くなる。粗いからこそ、 粒度の細かい部分での過失は、仮にあったとしても論じられることはなくて、 「見えないこと」それ自体が、欠点でなく大きな利点として効いてくる。

現場はもちろん、見えるものなら見たいと思う。見えないことは怖いから。古くから使われている、「枯れた」薬は、 そのあたりはっきりと見せてくれるのに、相手が「粒度」をどう評価してくれるのか、 お互い信頼関係が構築できていないから、現場もまた、「効き目が見えない」薬を 選択せざるを得なくなる。

どうすればいいのかよく分からないけれど、やっぱり何かおかしいと思う。

2008.06.26

多発外傷の人が来た

当直の反省。

内科の一人当直。その日の救急当番病院は、地域の総合病院だったのに、 多発外傷の患者さんを引き受けることになった。

「自転車で転んだ患者さんです。軽症です。顔から出血しています」

その日の当番病院が忙しいとかで、「自転車で転んだ」患者さんがうちに来ることになった。 「内科の先生でも大丈夫です」なんて。

たしかにその患者さんは自転車で転んだんだけれど、その上を、 自動車に通過されてた。顔から骨見えて、足はあらぬ方向に曲がってた。血圧は触れたけれど、意識は怪しかった。

多発外傷を内科で診るの無理だから、慌てて当番病院に電話した。さすがに嘘言えないから、 正直に話したら、むこうは満床になった。目の前真っ黒になった。そんなはずないのに。

頭真っ白になりながら、ライン取ってモニターつけて、外科の先生と検査の人呼んだ。

待つまでの20分が、長かった。

ご家族の目は怖い

多発外傷の超急性期は、やることが無数にあるように見えて、やることありすぎて、 実質何もできない。命に関わるような外傷は、手術室が準備できないと手を出せないし、 骨盤を含めた骨折も、状態が安定するまでの間は、手を出せない。

データが揃って人が集まるまでの間、当直はだから、ラインとモニターつないで、あとは 傷口洗うことぐらいしか、「治療」っぽいことができない。

応援が来る前に、病院には身内の人がたくさん集まった。

あなたはどうして叔父の傍らで無為に佇んでいるのですか ? 痴呆なのですか ?

囲まれて、だいたいこんな内容のことを、100倍ぐらい怖くして、尋ねられた。

「今診察を行っている最中ですので、もうしばらく待合室でお待ち下さい」なんてひたすら拝み倒して、 その間ほんの数分だったんだけれど、それがもうとてつもなく長かった。

嘘はよくない

救急隊に、もしも全てを正直に言われてたら「無理です」なんて返事したけれど、 状況を事前に把握できてれば、もっとできることはあった。

「転んだ人」は軽症だろうなんて、重症運んでる救急車を待つ15分間、時間は出血した。

全身の骨に骨折を生じていること。出血のコントールがついてなくて、 救急車内ですでにショック状態であること。最初から分かっていれば、待ってる間に人を呼べた。

小さな病院は、レントゲン技師さんなんかは、基本的にオンコール。当直体制を 引くためには莫大なお金がかかって、小さな施設だと、検査にそこまでの需要がないから、 当直組めない。

技師さんに電話でお願いして、実際来てもらうまで20分。みんなが「正直」で、 正しい情報伝達が為されている前提ならば、20分という時間は十分に現実的なんだけれど、 嘘つかれると大変。

病院に救急車が到着するまで15分。患者さん診て技師さん呼んで、来るまで20分。 最初から本当のところ教えてもらえれば、患者さんの待ち時間は5分間にまで縮められた。

今回のケースは結果として上手くいって、20分の遅れというのは、致命的なことにつながらなかったけれど、 患者さんがたとえば緊張性気胸を起こしてたり、腹腔内に大量の出血を生じてたりしたら、 たぶん大変なことになっていた。

救急隊は、一刻も早く「誰か」に患者さん渡したい。本当のこと話すと、とくにそれがお酒飲んでるだとか、 傷だらけで血まみれだとか、そういう情報を正直に話すと、今の時代、どこの施設も「無理です」なんて 返事が返ってくる。だから「本当のこと」を話せない。

救急隊が「嘘をつく」ことが前提になってしまうと、受けるほうもまた、嘘をつかざるを得ない。 当直医は極限まで無能化して、たとえ「擦り傷です」なんていわれたところで、 「私無能だから擦り傷分かりません」なんて。

うちみたいな小さな医療圏ですらこうなんだから、もっと厳しい地域では、 とうの昔に信頼の輪が破綻してて、送るほうも、受けるほうも、きっと疑心暗鬼がすごいんだろうなと思う。

待つのはつらい

患者さんが落ち着くまでの外傷治療は、輸液入れて、落ち着くまで「待つ」のが基本。

「待つ」というのは、当事者として実際やってみると、本当にきつい。身内の方がたくさん集まってるときなんか、 目線が痛くてものすごく辛い。

「待つ」ことにだって意味があるんだけれど、外から見ると、状況は動かない。 患者さんが輸液に反応して、きちんと持ち直せば、もちろんそれでいいんだけれど、 「持ち直さなかったとき」の選択枝は、外傷の時は、あるようでいてなかったりするから、きっと厳しい。

目線に対する耐性は、患者さんの状態と、手元にある情報の量が決める。患者さんが落ち着くならば、 あるいは状態が悪くても、原因がある程度明らかで、やるべきことが見えてれば、 たくさんの目線と対峙しても、そんなに怖くない。目線に負けてしまうと、ご家族としゃべるのが 急激に辛くなって、その場所から逃げ出したくなる。逃げるところなんてどこにもないんだけれど。

外傷の初期に「待ち」を入れるやりかたは、だから実際に自分でやってみると相当な精神力を要求される。 「待った」結果で心が折れて、医師が状況を自分でコントロールできなくなるケースはきっと多くて、 たぶん日本のあちこちで、みんなルールを破って検査に走ってるはず。

CTは役に立つ

外傷診療のガイドラインは、「患者さんの声」を大切にする。

患者さん正しく問診して、正しく診察して、患者さんの状態が落ち着くまでの間は、 救急外来からは動かさないやりかた。血液検査とか、ましてや画像診断なんて邪道は、後回し。

機械の進歩だとか、患者さんとの信頼コストがすごい勢いで高騰していることだとか、 理由はいろいろだけれど、そんなやりかたは、これからきっと変わっていく。

多発外傷の患者さんは、来たときはもちろん、状態が安定していない。安定していないから、 患者さんは自分のことをきちんと語れないし、痛がってたり、酔っぱらってたりすると、 もっと語れない。問診とか理学所見とか、正確さが患者さんの状態に依存する検査は、 こういうとき信頼性を保証できない。

エコーはあんまり役に立たない。自分が下手なのが悪いんだけれど、体格がいい人だったり、 全身傷だらけでエコー当てる余地なかったりすると、もう分からない。

外傷の治療手段は、そのうちたぶん、「病院に来たらすぐCT」に落ち着くような気がしている。

たとえば「水槽の中を泳ぎ回る魚」を数えるのは、けっこう難しい。動いてしまって、 最初の数匹を数えたところで、もう分からなくなってしまう。泳ぐ魚を水槽ごと写真に撮って、 写真に写った魚を数えれば、こんな時うまく行く。

CTスキャンは、今ではもう珍しくもない機械だけれど、問診だとか、エコーなんかと違って、 客観的な画像を残せる。これを使って、「診断ライン」と「治療ライン」と、一人の患者さんに対して、 マンパワーを2系統、同時に走らせることができる。

CTスキャンは、昔は「死の門」とか言われてて、CT切ってる間に患者さん亡くなったとか、 珍しい話じゃなかったけれど、電子機器の進歩は速い。今の機械は、頭から骨盤まで 切るのに1分ぐらいで行ける。

何よりも、CT1回切るだけで、あふれんばかりの情報が手に入る。 診断するための、方針決めるための、何よりも、集まったご家族の目線圧力に 耐え抜くための、情報というのは、強力な武器になる。

コミュニケーションとしての外傷診療

外傷診療のコミュニケーション要素について、もっと考えられてもいいかなと思った。 まだ応援来なくて、救急外来に自分しかいなくて、いきり立ったご家族に囲まれて、 すごくそう思った。

それが擦り傷でも動脈出血でも、とにかくまずはガーゼで覆って、外から見える血を隠すこと。 バックボードとかネックカラーとか、血で汚れた道具を可能な限り速く外して、 雰囲気「治療されてる」感覚を、一刻も早く演出すること。

みんなが興奮して、現場をコントロールできなくなる事態を避けるためには、もしかしたら もっとも最初に後回しにされるべきなのは、患者さんの病気それ自体なのかもしれない。

男塾に出てきた王大人の治療手技、とにかく見える傷口に包帯ぐるぐるに巻いて、 「治療完了」を宣言するやりかたには、たぶん一面の真実を認めないといけない。

包帯巻くことそれ自体は、患者さんの予後には影響しないけれど、 その光景を見たご家族にとっては、たぶん「包帯の有無」というのは、その後のスタッフを見る目を変える。

それを「意味がないごまかし」と断じるのは間違いで、包帯の効果というものは、 患者さんと、その人を取り巻くご家族という系それ自体に対する治療効果として、 きちんと医師が論じないといけないものなんだと思う。

以前どこだかの事故現場で、子供さんが亡くなった。親御さんがそれを受け止められなくて、 「子どもの顔の傷を何とかしてくれ!」だとか叫んでて、 医師が「もう亡くなってます」なんて言っても全然効果なかったのに、 居合わせた看護婦さんが絆創膏を一枚、亡くなったその子の顔に貼ったら、 親御さんは、子どもの死を受け入れたのだなんて話があった。

外傷みたいな病気ですら、やっぱりコミュニケーションの問題からは自由になれない。

ひどい外傷の患者さん抱えた夜、こんなことを考えてた。

2008.06.21

思考と暴力の相補性

父親が亡くなったとき、もちろん葬儀を行う必要があって、 大学の人達に葬儀社を推薦していただいた。

「先生ぐらいの方であれば、このぐらいの規模は必要かと存じます」なんて、腰の低い葬儀社の人が 相談に乗ってくれた。「800万円」の後半を請求された。すごい業績を残された方でしたとか、 大勢の人がいらっしゃいますから、大きな会場が必要ですとか、何だかいろいろ声をかけてもらったんだけれど、 よく覚えていない。

身内亡くなったばっかりで、みんな頭真っ白で、それでもさすがに、800万円の請求書見て目が覚めた。 払えるわけない。ハンコ押す一歩手前だったけれど、その日はお引き取りいただいて、 それでも葬儀の日程だけは、「いい人」達の提案に逆らえなかった。

夜になって、ようやくみんな考えた。「値切ろう」なんて話になって、翌日来ていただいて、 「お金払えません」なんて頭下げた。同じ条件で、200万円以上値引いてくれた。

大学出入りの業者さんだったし、何よりも思考が止ってる真っ最中だったから、 ボられてる可能性なんて、全く考えもしなかった。よくよく考えれば、 病院で紹介する業者さんとか、近いというだけで、その人達が「いい人」なのかどうかなんて、 誰も検証してないんだけれど。

思考止ってて、それでもそのくせ「世間体」なんてものにとらわれて、 暴れることすら放棄してガードを下げてる家族なんて、 葬儀社の人にとっては、きっと「いつものカモ」だったんだろう。

ワーキングプアに追い込まれる人

アメリカ医療があそこまで高額な理由が、未だによく分からない。

明日から、日本の健康保険が全て廃止になったところで、薬代だとか診察料だとか、 せいぜい高額になって今の3 倍。3 倍は高いけれど、健康保険料収めなくてもよくなるし、 家傾くほどの医療費使う人なんて、実際問題ごく一部だから、アメリカみたいな状況、 虫垂炎切ったら車一台買えるとか、ガン治療受けたら家買えるとか、あそこまでの状況が、 やっぱりちょっと想像できない。

アメリカ人の「信頼コスト」は高額で、だから医師の人件費も高いし、 医療過誤保険に加入するために、医師が支払う保険料もものすごく高い。そんな価格は、 たしかに医療費を押し上げる方向に働いているけれど、裁判おこして返ってくるお金を 差し引いたところで、アメリカには、病気になって保険が無くて、全財産吹き飛んだ人とか、 何だかたくさん報道される。

NHKの「ワーキングプア」特集で取材されてたアメリカ人は、みんな「いい人」っぽい印象だった。

あれが「いい人なのに割を食う」なんて、テレビ局側の文脈でそういう人が選ばれてたのか、 実際に「いい人から割を食う」現象が起きているのか分からない。案外「いい人」がたくさんいて、 とりあえず裁判おこして医療費棒引き狙う人とか、アメリカでも実はそんなに多くないんだとしたら、 やっぱり「いい人からワーキングプアに突き落とされる」流れというのがあるんだと思う。

裁判というのは、むき出しの感情がぶつかりあう場所だから、ものすごく疲れるらしい。

裁判に巻き込まれた医師は、例外なく疲れ果ててる。そのあたりはそれでもお互い様で、 訴えるほうもまた、本来裁判というものは、すごく疲れるものなんだと思う。 疲れるけれど、そこで「いい人」に甘んじてしまったその時点で、たぶんその患者さんは、 あとは「いいカモ」として、「嫌な人」のコストを上乗せされた、莫大な請求書を回されてしまう。

病気みたいな、思考を止めざるを得ない状況で、その人が「暴力」というカードを切れないのなら、 たぶん「カモ」として身ぐるみはがされる。そうなりたくないのなら、何をしていいのか分からなくなったときには、 だから目の前にいる「考えてそうな誰か」に対して、とりあえず暴力をふるうべきなのだと思う。

暴力の対価はパズル

能力だとか、立場だとか、もしかしたら絶対的な、少なくとも状況に応じた序列というものは、 確実に存在するし、そこを認めるところから始めないといけない。

系を安定に保つためには、「上」と「下」とが相互作用する必要があるけれど、それを 言語で行ってはならないのだと思う。言語というのは「水平」方向の道具であって、 お互いが同じ思考リソースを持っていることが、対話が成立する上での前提だから。

階層構造が前提となっている系においては、「下」が「上」に発信すべきは暴力であって、 「上」から「下」に発信するシグナルは、思考を強要されるもの、パズルにならないといけない。

言葉を発信するためには思考が必要で、思考を行い得ない状況に追い込まれた人に、 「言葉で話せ」なんて要求するやりかたは、なんかおかしい。

「下」の人はだから、「上」にいる人に、暴力という形で苦境を訴えないといけないし、 「上」は暴力を避けたいのなら、「下」が思考を行える状況、暴力に報いる対価として、 パズルを提供することで、暴力は思考によって補償され、暴力が消失した系は、ようやく安定するのだと思う。

お金にはたぶん、思考を促すお金の使いかたと、思考を封じるお金の使いかたとがあって、 お金で思考を封じたり、あるいは思考を引き出す報酬系を作れなかった「上」は、「下」の暴力を抑えられない。

暴力振るう側が訴えるべきもまた、「暴力が嫌なら、我々に思考をさせろ、思考に対価を与えろ」であって、 単純に「お金」だとか「生活」みたいなものだけなのは、何か片手落ちだし、それだけだとたぶん、 問題は解決しない。

問題を切り分ける能力というか、パズル生産力というか、能力を持った人、 階層の上位に座る人に課せられた義務というのは、単純に「雇用」だとか「給与」を 分配することではなくて、系全体に問題を切り分けて、みんなの思考を引きずり出すことなんだと思う。

2008.06.04

平和を求める声が戦争を呼ぶ

動物には、「同族同士は殺しあってはいけない」という共通認識が組み込まれていている。 同族どうしで利害の対立を生じても、だから争いは威嚇だけで終わったり、暴力が導入されても、 それは儀式的な戦いで終わることが多くて、「殺しあい」に発展することは少ないらしい。

同族で殺しあうことに対する抵抗感は、人間であってもやっぱり強い。 第二次世界大戦以前、兵士の発砲率はせいぜい2 割ぐらいで、「殺さなければ殺される」ような 状況においてもなお、多くの兵士は銃を撃たなかったり、あるいは狙いを外したりして、 自ら「殺す」ことを避けようとした。

人間には、元々から争いを避けるような性質が備わっていて、それをそのまま生かすような やりかたをすれば、状態としての平和は、結果として達成される、はずだった。

合理化が抑制を解除する

「殺したくない」という抑制は、相手との物理的な、心理的な距離が近いほど強力になる。

剣や槍の間合いよりは、銃の間合いのほうが抵抗感は少なくて、 銃を用いた撃ちあいよりも、航空機同士の戦いだとか、艦船同士の戦いのほうが、 戦いによるストレスは、より少なくなったらしい。

人間はたぶん、自らの意志で、自らの責任で誰かを倒す必要が生じたときに、 もっとも強く抑制が働く。裏を返せばだから、なるべく「頭を使わせない」ような やりかたをすれば、誰でも簡単に暴力をふるうようになる。

暴力の合理化。

  • 誰が殺したのかはっきりしないように、戦いを集団で開始する
  • 戦いは常に権威者からの命令で行われて、自らの意志を保護する
  • 「国家の解放」だとか「テロとの戦い」だとか、戦いに大義をもうけることで、暴力を正当化する
  • 「相手は人間以下の生き物だ」とか敵を貶めることで、暴力を合理化する
  • 撃てば血しぶきが飛ぶようなリアルな標的で訓練することで、実戦と訓練との境界をあいまいにする

ベトナム戦争以後、軍隊ではこんなやりかたを試みて、 兵士の発砲率は9 割程度まで上昇して、旧来の訓練を行った軍隊に比べて、それは大幅な 戦力アップにつながったのだという。

暴力発生装置としての宗教

「大聖堂」という歴史小説の舞台になった中世、馬に乗った騎士が活躍してた時代には、 宗教というものが、抑制解除装置として役に立っていたのだと思う。

誰かを殴るとか、槍で突く、刀で斬りつけるなんて暴力をふるうには、それが 騎士であっても大変なストレスであったはずで、そんな行動を正当化するための、誰か権威者の 「赦し」みたいなものをもらわないと、彼らだって刀を振るえなかったのだと思う。

「大聖堂」は小説だけれど、戦争だとか略奪だとか、騎士階級の人達が争いに参加する前には、 司祭が説教をして、彼らがこれから行使する暴力を正当化する場面が何度も出てくる。

暴力の正当化は、騎士に力を与えたのだと思う。

騎士は馬に乗って武器もって、たしかにそれは十分に強力だけれど、騎士をいっそう強力な存在に していたものは、たぶん教会によって与えられた「暴力をふるう許可」であって、 そんなものを与えられていたからこそ、彼らは自らの抑制を解き放って、 暴力をふるうことができた。

騎士と農民、戦力の差が実際のところどれぐらいあったのかは想像できないけれど、たぶん教会の人達は 騎士にだけ「赦し」を与えた。暴力発現に対する合理化の有無は、相当な戦力差となって効いたのだと思う。

ドアを叩く人

NHK の「ワーキングプア」特番だったか、青年が不当な扱いを受けて、アルバイトを解雇されてた。

番組前半、その人は会社の人事部と相談して、穏やかな、しかし何の解決にもつながらない相談が続いて、 結局解雇は覆らなかった。

解雇された青年は、そのあと「ユニオン」の門を叩いて、 今度はユニオンの人が同伴して、場面は再び会社に移った。

ユニオンの人達は、見た目はむしろ温厚そうな、小太りのおじさんなのに、会社に着いたら態度が変わった。 年齢も、体格も上の人間を向こうに回して、相手を怒鳴りつけて、会社のドアだとか壁だとかバンバン叩いて、 再度「交渉」を取り付けてた。

あんなやりかたは、たぶん「それをやらないことには絶対に議論が進まない」なんて、会社組織と労働組合と、 長年の経験と訓練とのたまものなのだろうけれど、同伴していった青年は、やっぱり会社の人と穏やかに話してて、 「怒鳴る」のは何だか大変そうだった。

ユニオンの人達も、たぶん「プロ」だから、日頃から鍛錬している部分もきっとあるんだろうけれど、 あの人達もまた、「人は平等であるべきだ」なんて正義を戴くことで、平等という権威から 暴力の行使を「許されて」いるからこそ、必要な瞬間に、必要なだけの暴力を取り出せるのだと思う。

中世騎士時代、騎士と農民とが戦う状況で、あるいは両方の戦力が拮抗していても、 「赦し」の有無が決定的な力の差を生んで、騎士の支配は覆らない。

恐らくは支配される側が、暴力を正当化する論理として「人間は本来平等なんだ」なんて考えかたができて、 平等を正義に戴くことで、支配される側の人達は、初めて「騎士」と対等の場所に立てた。

それがどんなに高貴な考えかたであっても、それを「正義」として戴いたとたん、 それは暴力の合理化装置となって、それを信じる人達に、一方的に力を与えはじめる。

正義の優劣は比較できる

「平和が大切」だとか、「人は平等に権利を持っている」だとか、あるいは「健康が一番」だとか、いろんな正義。

いろんな考えかたがあって、どんな考えかたにもたぶん、それを「正義」と戴く人がいる。 そんな人達は、正義によって抑制が解除されるから、正義の比較を始めると、 それは必ず暴力で終わる。

正義というのは、それでもたぶん、優劣みたいなものを比較可能で、 「正義が進化していくべき方向」みたいなものですら、あるいは予想することができる。

「正義の正しさ」は、たぶん「その考えかたを正義として戴いたときに、そこにいる人達が選択しうる 選択肢の最大量」として、定量できる。

「正義の正しさ」には優劣がある。同じ状況で、選べる選択肢が多い正義ほど「優秀」だし、 正義の考えかたは、選択肢を増やす方向、増やす方向へと進化することで、 たぶん暴力が発動される機会が減って、生き延びる人の数は増えていく。

たとえば革命直後の不安定な国家に、「平等という正義」で挑むと、平等に違反した人がたくさん生まれて、 悪人は殺されて、国が全滅したりする。クメールルージュは虐殺を行ったけれど、 あの人達ですら、目指したものは「平等でお金のいらない社会」であって、 虐殺は、あくまでも手段の一つでしかなかった。

同じ状況に、たとえば「拝金主義」なんて正義を導入すれば、 その国家は悪人のはびこる不平等な社会になるかもしれないけれど、生き延びる人は、「平等」よりも ずっと多くなる。拝金主義は、考えかたとしては「汚い」けれど、その場所にいる人達に、 より多くの選択枝を提供する考えかたでもあって、生き延びるチャンスを増やす。

「その正義の下で取り得る選択枝」が増えると、たぶんそれだけ「悪人」と断じられる人の数が減る。 正義によって暴力が合理化される機会が減って、結果としてたぶん、暴力の発動で殺される人の数が減る。

バージニア工科大学銃乱射事件で親友を殺された学生さんは、1 年間考えて、「銃を持つ」ことを選択したのだという。

事件のあと、大学内では「銃を禁止すべきだ」という意見と「自衛のために銃を許可すべき」という意見で割れた。最初のうちは、銃の廃止に賛成していたらしい。 考えて、その学生さんは、 「銃を禁止することで、選択枝が一つ失われる」ということに思い当たって、銃の所持に賛成する側に回った。

合理化による思考停止が抑制を解いて、人を暴力に走らせる。

選択の多様性を保つやりかた。間違った合理化を回避するやりかた。そこにいる人達を、 常に思考に引きずり込むようなやりかたこそが、みんなが正義として戴くべき、「正しい」考えかたなんだと思う。

2008.05.30

泥沼パターン

叩かれて反論して、いつまで経っても議論がかみ合わないのに、 気がついたら一方的に勝利宣言されて、何だか世間では自分が「負けた」 ことにされてる。

そんな理不尽の、パターンと対処。

見える「世間」はものすごく狭い

それはコメント欄であったり、ブックマークに寄せられたコメントであったり。

実際にサイトを見て下さる人は、たぶん数万人の単位でいるはずけれど、 その人達が文章を読んで、実際のところどう思っているのか、文章を書いた 側からは、「コメント」を通じることでしか、把握することができない。

自分は「こう」思われているなんて、作者の印象は、だからコメントを 残したり、ブックマークを残してくれる、ごく少数の「世間」が決める。

世間はすごく狭い。

自分がこの場所で文章を書く。たまにほめられたり、叩かれたりする。

時々「匿名ダイアリー」みたいなところでも書く。匿名だから、 いつもと同じ立ち位置で書くときもあれば、正反対の立ち位置で、 「表の自分」を叩くようなことを書いたりもする。

ネット世間で一応「人格」みたいなものを認められている、表の自分と、 一応正体がばれていなければ匿名の、匿名ダイアリーの自分と。 書いてる人間は「違う」のに、叩く人も、ほめてくれる人も、IDを見ると、ほとんど変わらなかったりする。

分野をまたぐ「行為が好きな人」

もっと大きなサイトになったらまた違うのかもしれないけれど、 自分から見えている「世間」というのは、だいたい100人ぐらい。 その中の20人ぐらいが「叩き」に回って、残りは時々ほめてくれたり、 メモ代わりの引用をしてくれたり。

ネット世間には、医療だとか軍事だとか、「分野」に興味を持つ人と、 叩きだとか哄笑だとか、「行為」に興味を持つ人とがいる。

行為それ自体が興味の対象となっている人は、分野の壁を超えてくる。 叩かれて、泥沼になってるサイトを見ると、うちなんかとは興味の分野が 全く違うのに、同じような人達が、同じような立ち位置で、全く違った 分野の文章を叩いてる。

叩かれてるときは、何だか世間の半分ぐらいが「敵」になったように感じるんだけれど、 実際起きていることは、たぶんいつもの人達が、いつものように集まって、 その日見つけた叩きやすそうなサイトを叩いてる、そんなイメージのほうが近いのだと思う。

あの店の皿は欠けている

客:「見ろ、この料理屋の皿は欠けている」
店主:「料理食べてよ…」

面白い文章が好きな人と、瑕疵のない文章を要求する人とを分けて考えないといけない。

料理店で料理を出す。「料理がまずい」という人とは、それでも会話が 成立するし、そんな人が「あそこの料理はまずい」なんて声あげて、 それ聞いて集まったお客さんの中には、「けっこう食べられるよ」なんて人も 出てきたりする。料理それ自体を論じてくれる分には、それが賞賛であっても 叩きであっても、文章書く側としては、すごくありがたい反応。

料理のことはおいといて、「皿にひびが入ってた」なんて人を相手にするのは、 すごく大変。「皿はおいといて食べてよ」なんて水向けても、 今度は「客に割れた皿を出すとは何だ!」なんて叫ばれて、しまいには 「あの店は割れた皿を出す」なんて評判立てられる。

「料理」食べに来るんじゃなくて、「割れた皿」を見るためだけに、 料理店の門には大勢の人が殺到する。大勢集まって、「たしかに割れてる」 「割れた皿出すとか最低だ」なんて、叩かれる。

料理は最初から無視されて、店主が聞く声は、「皿」の話ばっかりになる。

このそうめんにはコクが足りない

客:「このそうめんにはコクが足りない」
店主:「つけ麺屋さんに行って下さい…」

軽い文章書こうと思って、軽いもの書く。「軽さ」に反応があって、 それなりに反響が来る。そこまでは良循環。

ところが「このそうめんにはコクが足りない」みたいに、そもそも 文章が想定した役割を超えて、すごく大きなもの求める人がたまにいて、 やっぱり困る。

それは「子供達に正しい教育を」みたいな正論が好きな人だとか、 何か信仰している「正義」があって、全人類がその正義のもとに かしずくべきだなんて、普段から「活動」を続ける人達。

話の枕に、不謹慎な話だとか、その人達の「正義」にかするような 話題を持ってくると、そのあとが大変。軽い気持ちで日常雑記を 書いたつもりが、いつの間にか世界人類に戦い挑む文章として論じられて、 「こんな話題を扱っているのに不勉強だ」とか、「あいつは全体主義の手先だ」 とか、話はどんどん大きくなっていく。

こんなものはフランス料理と呼べない

客:「こんなものはフランス料理と呼べない」
店主:「あなたに出したのはラーメンです」

ある分野の「権威」だという人達はけっこう多い。勉強してる人達。 たくさん本読んでて、サイト見ると、たいてい別の誰かを叩いてて、 叩く根拠に、いろんな本を引用してる。うちだって文章量は 多いほうだけれど、引用文だけでそれぐらいあって、文字ばっかりで 圧倒される。

本の威力で誰かを叩く人達は、特定分野の物差しで叩く対象を測定して、 「この分野から見て、これは不完全極まりない」だなんて、相手を叩く。

そもそも想定している分野が全然違うんだけれど、「分野違いますから」 だなんてその人に反論すると、件の「引用の山」が待っている。

頑張って読んで、やっぱりそれでも何言いたいのかよく分からなくて、 「分かりません」だなんてコメントすると、「なんて馬鹿なやつなんだ」なんて 勝利宣言される。

この本を読んでくれれば分かると思います

読者:「あなたは間違っています。この本を読んでいただければ、それが分かると思います」
筆者:「4700円払ってその本を買えと…?」

「あいつは馬鹿だ」と叩くぐらいなら、「こうすれば馬鹿じゃなくなる」 やりかたを教えてくれると、本当にありがたいのだけれど、 叩く人達は、「どこが馬鹿」とか、「ここが間違ってる」とか、 絶対に教えてくれない。

それでもしつこく食い下がると、今度は「この本を読んで下さい。分かるはずです」 だなんて、本を勧められる。

「読書の勧め」は3重のトラップになっている。

その本を読まなければ、「不勉強を棚に上げて強弁する奴」だなんて、 レッテルを貼られてしまう。

本を読んでも、その人が言う「分かる」に到達できる可能性なんてゼロなんだけれど、 読んだら読んだで「あなたとは、どうも前提が共有できないようですね。残念です」なんて、 なぜだか相手に有利な終結宣言を出される。

万が一、相手と同じ「分かる」境地に到達できたとして、本の世界は体育会。 「おまえよりも先にこの本に気づいた俺様勝ち組」だなんて、手下になること強要される。

「読書の勧め」につきあうのはだから、時間があってもお勧めできない。 本当に分かっている人ならたぶん、「こうすればいいよ」だなんて解決策を 教えてくれて、その上で「もっと理解したいならこれ」なんて、いい本を紹介してくれる。

本の使いかたとしては邪道もいいところだけれど、目の前に「泥沼」が口開けて待ってるのを見たら、 「まずはこの本を読んで、前提を共有していただかないことには、建設的な議論はできないと思います」なんて、 クソ分厚い洋書の定番本を示して逃げるのが、たぶん一番簡単なんだと思う。

相手の人は勉強が好きで議論が好きで、あるいはもしかしたら、本当に良心から泥沼コメント 残してくれたのかもしれないけれど、泥沼に足を踏み込むと、やっぱりそこは泥沼にしかなり得ない。

お互い住み分ける方法考えたほうがいいと思う。

2008.05.22

狭帯域メディアのこと

物事に対する理解が深まったのなら、本来はたぶん、考えかたを伝達するのに必要な 帯域幅が狭まっていかないといけない。

理解の深さに比例して、学ばなくてはいけないことが増えていったり、あるいはいつまでも 過去の資産を学び続けないと使えないようなメディアというのは、その分野が「エンジニアリング」と呼べるほどには 成熟していないか、あるいはその分野が「メディア」として選択した何かが、そもそも コミュニケーションを担えるだけの能力を備えていないのだと思う。

メディアとしての処方箋

慣れた医師同士が処方を交換するような状況では、 「紹介状」と「処方箋」との境界が曖昧になってくる。

病院を変わる。その患者さんの病名とか、経過とか、詳しく書いた紹介状が来る。