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2009.10.31

交渉手段としての火砲と装甲

交渉ごとというのは要するに、「相手に何かをあきらめてもらう」必要が生じたときに発生するものなんだけれど、相手のあきらめを促す手段として、「ものすごい火砲」を見せるやりかたと、「分厚い装甲」を見せるやりかたとでは、交渉の質が異なってくるような気がする。

火力にできないこと

現代戦は「ミサイル」が主役になるから、分厚い装甲を装備したところで効果は薄くて、今の戦艦は、案外装甲が薄いのだという。それとはまた、理由は異なるのだろうけれど、民兵の武器はせいぜいライフルぐらいだから、「今の時代、戦車は不必要で、装甲車で十分」なんて議論もあるらしい。

状況を支配している軍隊に、ライフル程度の武器で戦いを挑んだところで、彼我の火力差をひっくり返せないのなら、勝負にならない。戦うことは無意味だから、理屈の上では、味方に圧倒的な火力があるかぎり、相手の武器に見合った装甲を持っていれば、戦いに負けることはないし、そもそも戦いは始まらない。

ところがイラクなんかでは、起きないはずの「戦い」が至る所で発生して、装甲を持たない車両で移動しているアメリカ兵に大きな被害が発生したり、パレスチナをパトロールするイスラエルでは、だから市街をパトロールする目的で「戦車」を導入して、一定の効果を上げているらしい。

「相手の火砲に見合った厚さの装甲を持っていればいいものじゃない」というのが、不謹慎だけれど面白い。

コミュニケーションとしての戦争

戦いというものも、たぶん数学ではなくコミュニケーションの問題なのであって、たとえ圧倒的な火力の差を持っていたところで、分厚い装甲があって、初めて成立する交渉というものがあるのだと思う。

圧倒的な火砲は、「戦ったところで、皆殺しだよ」というメッセージを伝えるけれど、圧倒的な装甲は、たぶん「戦っても、弾が無駄になるだけだよ」なんて、質の違ったメッセージを発信する。

火砲を前にあきらめた人は、「臆病者」になってしまうけれど、装甲を前にあきらめた人は「物事が見える賢明な人」になれる。同じ「あきらめ」を促す手段にしても、相手の面子を立てるのは、火砲でなく装甲のほうであって、こういうのはたぶん、コミュニケーションには大切なんだと思う。

戦わずして勝つために

「戦わずして勝つ」を実現するには、だから火砲を見せつけるよりも、分厚い装甲を見せつけたほうが、そうなりやすい気がする。

ただしその代わり、歴史上、「圧倒的な装甲」が状況を決定した戦いがあったのかどうか、そのへんがよく分からない。調べようにも資料がないんだけれど、なんとなく、無いような気がする。

Twitter では、「比喩においても現実においても、あらゆる場面で現代は盾より遥かに矛が強い」なんて感想をいただいたのだけれど、たしかにならば、自分たちの病院で、「法律という矛」以外に、理不尽な要求を通そうとしてやってくる人たち相手に、何かその人たちのあきらめを促すような「盾」に相当する機能があるかといえば、そもそもそんなものが存在しない。

「成功した盾」として、今現在、実社会で機能しているものというのは、何かあるんだろうか?

2009.10.29

総合医はお辞儀ができない

相手に打ち勝つためでなく、むしろ様々な業種の人たちと「共生」していくために、 専門性という看板が役に立つような気がする。

握手をしないと始まらない

「何でもできる医師ははかっこいい」なんて、そういう価値軸に基づいた訓練を受けた大手民間病院の医師が、 大学に「帰還」して、「何でもできる」自分をそこでデビューさせることに失敗して、 そこから先がちょっと不遇になるという事例が時々ある。

こういうのはたぶん、「握手の失敗」なんだと思う。

人がたくさんいる豊かな環境、様々な専門技能に分化した、そのくせ「優秀さ」みたいな漠然としたパラメーターにおいては 似たような人たちが群雄割拠している場所に割り込んでいくためには、たぶん「見えやすい弱点」が必要になる。

頭を下げないと、新しい場所には入れない。「何でもできます」という人は、 「何かができない」人に対して頭を下げるための理由が発生しないから、 どこか新しい場所に分け入って、そこに自分の居場所を確保するのが難しい。

これが専門家なら、こういうときに「専門家です。他のこと分かりません。教えて下さい。よろしくお願いします」 なんて、最初からそこにいる誰かと握手して、自分の居場所を分けてもらうための「最初のお辞儀」がやりやすい。

恐らくは専門技能というのは、それを使って誰かを従えるための武器というよりも、 「私はここが弱いんです」なんて、その専門家を迎え入れる人たちに明示することで、 新しい場所に入り込むための切符を提供する道具として、上手に機能しているんだと思う。

「えらくなれる場所」を探す

誰だってたぶん、「相手に舐められたくない」なんて、どうしようもなく思ってる。 メッセージはだから、発信する側と、それを受け入れる側と、しばしば意味あいが異なってくる。

「専門技能を持っています」というメッセージは、それを受ける側からすれば、 「専門領域以外は弱いんだ」なんて受け取られる。迎える側はだから、 「教えてやろう」なんて、素直に行動する気がする。

「何でもできます」という看板は、相手には「俺すげぇ、俺に黙ってついてこい」なんてメッセージを送る。 「何でもできる」人が、どれだけ丁寧に、腰を低くして相手に接したところで、 そうしたメッセージは伝わらない。

「何でもできる」人が、看板の伝えるメッセージのとおりに、その能力を生かすためには、 最初から「そこで一番えらい人」としてそこを訪れない限り、難しい。 「俺すげぇ」の看板を背負わざるを得なかった、「何でもできる」以外の売り要素を身につけることに失敗した人は、 だから「自分がえらくなれる場所」を探して、そこに居着くことを考えないと、幸せにはなれない。

「万能選手」はたぶん、高地とか、雪山みたいな厳しい環境に追いやられる。 ジャングルだとか、サバンナだとか、生態の豊かな場所にいる生き物は、 競争の結果として、ある種の専門性を備えた、お互いに生態系を形作る理由を持っていないと、 生き残れない。

夜行性の生き物や、あるいは高地や雪山、乾燥地帯みたいな場所に適応した生き物というのは、 一見すると専門性が高いようでいて、彼らは案外、「そこに追いやられた何でも屋」であるような気がする。 そういう場所には栄養だって少ないだろうし、使えるものなら何でも使い尽くさないと、 たぶん生き残っていけないだろうから。

「何でもできる」訓練を受けた医師は、自分みたいに田舎の病院に引きこもったりとか、 救急に進んだりとか、当直専業で働いていたりする。ああいうのはみんな、 「えらくなれる場所」を、それぞれ探した帰結なんだと思う。

それでも頑張ったほうがいい

ここ何年間か、いろんな科の先生に、「バカです。無能です。よろしくお願いします」と頭を下げて、 いろんなノウハウを教えてもらった。そういうものがずいぶんたまって、 それはやっぱり便利だったから、マニュアルにまとめて、無料だからではあるんだろうけれど、 一応そこそこ評判がいい。

「君はここが弱いね」なんて指摘から始まった交流は、長持ちするし、いろいろ教えてもらえる。 「明示的に無能を表明する。外に対して常に開いている」というやりかたは、だからあざとい 処世術として、理にかなっているんだけれど、それでもなお、「これ」という専門技能は、 自分なりに磨いておくべきなんだと思う。

教えてもらって、「内なる技術屋のプライド」みたいなのと戦うのは、やっぱり難しい。 握手の代わりに「教えてあげますよ」なんて言われるのは、それは交渉の第一歩として大成功なのに、 内心では「俺知ってるよ」って言い返したくなる欲求を抑えるのが大変で、こういう葛藤を乗り越えるには、やっぱりどこかで「えらくなれる場所」を持っていないといけない。

下らないことなんだけれど、blog をほめてもらえるようになって、 こういう葛藤がずいぶん減って、「バカなんで教えて下さい」なんて、 いろんな人に頼めるようになった。

自分の中に、「相手に素直に頭を下げられる何か」を得るために、たぶん専門技能というものは 磨く必要があって、頼れる何かを一つ持つことで、その人はたぶん、たくさんの人と、 葛藤無くつきあえるようになるんだと思う。

2009.10.17

交渉の名人が来た

警察で収監中の人が、「症状悪化にて入院希望」でやってきた。刑事さん同伴で。

外来でおきたこと

  • 「ひどい頭痛にて受診希望」ということだったんだけれど、元気だった。朗らかで、親しそうで、 当直をしていた自分と患者さんと、なんだか15年ぶりに出会った友達としゃべってるみたいだった
  • その人が外来に来た最初、「先生、俺はこの病院が第2の実家みたいなものなんだよ」と言われた。 子供の頃はよくこの病院に来てたとかで、「俺は小学校の頃からここの院長に頭叩かれてたから、 バカになっちまったんだよ」とか、懐かしそうに語ってた。目も笑ってた
  • 愛想がいいのが、逆に怖かった。警察の人が6人ぐらいでその人を囲んでいて、その人も全身入れ墨、 手錠に腰縄のフル装備なんだけれど、ずっと朗らかだった
  • 「症状が悪化」しているようには見えなかったし、本人も、痛がってみせるとか、 苦しんでみせるとか、そんなそぶりは全くないんだけれど、「今は生涯最悪の症状」であって、 「頻回の嘔吐」と「頻回の頭痛」があるんだなんて、笑顔で語った。ちゃんと証人もいるのだと
  • 「症状」は極めて具体的だった。○月○日より頭が痛くなって、その日に何回トイレで吐いて、 「そのことは刑務官の鈴木さんが証言してくれる。写真もあとから撮ると言っていたし、そう約束した」とか、 とにかくあらゆる細かい振る舞いを、「何回」という具体的な数で語って、 何かあったらそのつど、「証拠」とか、「証人」の存在を付け加えていた
  • その人は今までにも、いろんな施設から薬をもらっているらしくて、もらった薬もまた、 「これは飲みたくない」とか、「これは朝にまとめて飲みたい」とか、刑務所で、ずいぶんいろいろ訴えてたらしい
  • で、薬の飲みかたはずいぶんアレンジされていて、「これどれぐらい飲んでましたか?」とか尋ねると、 「自分はこう飲みたかったのに、刑務官の○○さんがそういう飲み方はよくないと、自分に薬をくれなかった」とか、 「○月○日に、○○病院に受診をしたいと弁護士を通じてお願いしたのに、刑務所のレベルでそれが断られてしまった」とか、 自分が置かれた環境が厳しいこと、「治療」しようにも、それが許されないことを、やっぱり具体的に語り出した

外来には、自分と看護師さんと事務の人と、あとは警察の人がたしか6人、みんな緊張していて、 何があっても対応できるように身構えていたのに、手錠に腰縄をつながれて、警察官に囲まれたその人は、 なんだか八方ふさがりのその場所で、世界で一番自由な人に思えた。

患者さんの「症状」が、どこまで本当だったのかは分からない。自分たちには、それを疑うことは許されないし、 疑ったらたぶん、「先生は俺を疑うんですか?」とか笑顔で尋ねられるだろうし、よしんば刑務所に問い合わせをして、 刑務官の人が「そんな現場は見ていない」なんて語ったとしても、あの人ならたぶん、「俺は刑務官に裏切られた」と、 やっぱり笑顔で傷ついてみせるような気がする。

見た目は元気なその人は、それでも症状を尋ねた限りでは「重症」であって、本人さんの口を借りれば、 「刑務所という場所は、病人が療養するには不十分な環境しか提供してもらえない」から、 たしかにこの状況は、「入院」という選択枝以外とれないように思えた。ここで折れると、 その人がまた来たとき、今度は「入院の先」を笑顔で求められるだろうから、折れるわけにはいかないんだけれど。

自分ではもう手に負えなくて、それこそ「小学校の頃から知っている」上司に来てもらって、 いくつか検査を行って、全ての検査が正常値であることをお話しして、話は丸く収まったんだけれど、怖かった。

患者さんが求めていたもの

その人は、良くも悪くも「言葉のプロ」なのであって、このとき外来で起きたことというのは、 その人にとってはそれがお仕事みたいなものなんだと思う。

「お仕事」の前半は、自分に向けられてた。「気の弱そうな医者から入院を勝ち取って、刑務所を離れて英気を養う」のが目的。 その人は最初から、自分に対してはとても丁寧に振る舞っていたし、「先生みたいな人なら、オレの具合が悪いのは、 よく分かるでしょう?」なんて、朗らかに語りかけてきた。

友達みたいな口ぶりで、「具合が悪くてご飯が食べられない」とか、「発作が昨日は13回あって」とか、 「親しい友人がこれだけ具合が悪くなったら、ここはもちろん入院だよね」なんて、 言外に込めたメッセージはすごくよく分かるんだけれど、そんな要求は、もちろん相手から出ることはなかった。 朗らかに語って、親しそうに笑って、具合の悪さを、証拠付きで、すごい勢いで積み上げていくだけ。

上司に代わってもらって以降、その人は、「ああ先生、いてくれたんですか。助かりました」なんて、 やっぱりにこやかに、うれしそうに話してたんだけれど、その時点でたぶん、 自分は「仕事」の対象から外れたんだと思う。そこからあとは、もう一瞥もされなかったから。

後半になって、たぶん「公判の証拠」作りというのが、その人の仕事のテーマになった。 具合が悪いこと。それを訴えても、刑務官が取り合ってくれないこと。刑務所が、病気に見合った食事を提供してくれないこと。 薬の飲み方が自由にできなくて、治療が不十分になっていること。いろいろ語ってた。

公判が近いんだと言っておられた。入院は難しそうだとその人はたぶん判断して、 今度は自らの境遇が劣悪であることをいろいろ語って、たぶん「それを医師が聞いた」という、 言質とか、証拠を得ることに、仕事の目的を切り替えたんだと思う。

言葉を蒔いて証拠を収穫する

「あらゆる行動を記録しろ。数字をメモしろ。ノートにまとめて、それを交渉の席に持参しろ」というのは、 企業や役所を相手にする交渉の基本なんだけれど、その人のやりかたもまた、その延長なんだと思った。

恐らくは「名人」の症状には、「嘘」や「誇張」も混じっているのだろうし、 「証人の○○さん」だって、下手するとその場で適当に思いだした名前なのかもしれない。 それでも「○○さん」が証言を否定すれば、「刑務所は嘘をついた」と叫べばいいんだし、 そのとき同席した医師や刑事さんが確認をしなかったなら、今度は自分たちの怠惰を責めればいい。 いずれにしても、本人さんは絶対損しない。

  1. 相手の「サービス」に、あれこれと難癖をつけてみたり、自己流を通したり、状況をできうる限り複雑にする
  2. 付き合いきれなくなった相手が、「要するに」で何かを省略したその瞬間をめざとく記録しておく
  3. その人がいない場所で、権威を持った別の誰かと親しく語り、「ここにいない誰か」の不作為や不義を訴える
  4. それを否定すれば、自分たちの手落ちだから「交換条件」を引っ張れるし、それを傾聴すれば、 今度はたぶん、「これ聞いたよね。その時否定しなかったよね」なんて、言質をとれる
  5. たくさん作った「証言」や「証拠」は、裁判一歩手前の状況なんかで、交渉のテーブルに山と積まれて、 相手を不利な立場に追い込む武器になる

こういうのはたぶん、状況を耕して、言葉を蒔いて、証拠や言質を収穫する、どこか農作業に似た営みであって、 「耕される」側がどう突っぱねようと、こういうやりかたの上手な人には、あんまり関係ないような気がする。

今回たぶん、ずいぶんたくさんの言質を収穫された。その人の症状は、どこまでが本当で、 どこから先が嘘だったり、誇張だったりするのか、それを判断することはできないんだけれど、 「症状を訴えた人が病院に来て、その人の話を医師が聞いた」ことは事実だから、 法律の席ではきっと、「医師も話を聞いてくれました」なんて、自分たちのことが「証拠」として、 その人の言葉を補強してしまう。

「証拠と結びついた言葉」が、交渉の貨幣になる。

いざ交渉に臨めば、その人はだから、ものすごい量の貨幣をテーブルに積めることになる。 身の回りに起きたあらゆることを記録していたところで、「普通の人」に提出できる貨幣の量なんてたかがしれていて、 呼吸するように、何もないところから無尽蔵に交渉の貨幣を生める、こういうプロの人たちには、 原理的には絶対勝てない。

そこに居合わせた法律の人たちが、貨幣の「質」を吟味してくれるのを祈るしかないんだけれど、 それがきちんとできるなら、そもそも法律なんていらない。

「名人」の仕事に立ち会えたことなんて、まだ何回もないんだけれど、自分たちが仕事の対象に なったとして、そのときどうすればいいのか、本当に分からない。

2009.09.03

同意獲得ゲームとしてのネットコミュニケーション

実世界でのコミュニケーションが、「合意形成ゲーム」であるのに対して、 ネットコミュニケーションというものは、「同意獲得ゲーム」なのだと思う。 ゲームの目的が違うから、おしゃべりの戦略は異なってくるし、ゲームが違うから、 ネットで支持を集めた言葉というものは、ネットの壁を越えて、実社会に浸透できない。

コミュニケーションの大きさと深さ

「2ちゃんねる」みたいな場所には、何となく、「話を聞いたら、それをもっと面白くしないといけない」という、 プレッシャーみたいなものが働いている気がする。

物事を分析する方向で「面白く」するのは大変だから、たいていは、「動物を見た」というお話が 「狼を見た」になって、「狼が襲ってくるぞ」に進化していく。 「ラーメン屋さんのスープが夕方になると塩辛くなる」理屈と同じで、掲示板みたいな場所に留まって、 そこにいる人たちからの同意を獲得しようとすると、話題はどうしても、「もっと濃い味付け」に向かってしまう。

おしゃべりだとか、伝言ゲームにも、「大きさ」や「深さ」の考えかたがある。

マスメディアは、莫大な数の視聴者に言葉を伝えるけれど、伝言深度はごく浅い。実世界でのおしゃべりは、 「大きさ」も「深さ」も小さいけれど、うわさ話が大規模に発生すると、言葉の大きさと、伝言深度とが、 それぞれ増していく。

ネット世間のおしゃべり、特に掲示板でのコミュニケーションは、伝言ゲームとして、 極めて深い、その割には小さな構造をしていて、たぶん話が極端な方向に動きやすい。

「ネット言論が極論に走りやすい」という現象も、場所によって、ずいぶん印象が変わる。 ニュースで問題視されているのは、「ネット」言論でなく、むしろ「掲示板」言論じゃないのかな、と思う。 いわゆる「ネット右翼」的な、陰謀論ありありの文章というのは、掲示板のまとめサイトだとか、 最初から陰謀論を看板にしている場所ぐらいでしか見かけない。

長文を扱える、blog を使ったおしゃべりは、 陰謀論的なものを書いても突っ込まれるだけだから、話題はどちらかというと分析的な、 「悪い人はいなかった」みたいな論調が増えて、掲示板文化圏からblog 文化圏を見ると、たぶん「サヨク」的に見える。

同意通貨が駆動する

ネット世間での振る舞いは、誰かの「同意」という通貨が駆動している。同意通貨をより多く獲得するため、 発信し、誰かを攻撃し、反撃する。通貨から自由でいられる人は、そもそも書かないし、 気にくわない言葉を読んでも無視するし、そういう人とは住み分ける。

掲示板文化圏で同意通貨を獲得するためには、前の人よりも「濃い」言葉を発信しないといけない。 時間軸で流れる掲示板というシステムは、だから時間とともに「濃い」発言が生き残るし、 極端に流れやすいし、極端な意見を重ねていかないと、参加者は、同意通貨を獲得できない。

Twitter という場所は、住人が違うこともあるんだろうけれど、言葉が濃くなっていく現象がおきない。 言葉の濃さよりも、むしろ独自性が同意に結びつく。誰もが漠然と「こうだ」と思っていることを、 上手に言語化した人が、その場に提出された同意通貨を総取りする構造だから、「極端なことを言う」 競争よりも、むしろ「上手いことを言う」競争が発生しやすい。

言葉の「うまさ」を可視化する、「ふぁぼったー」みたいな仕組みだとか、 あるいはスラッシュドットみたいな、 言葉に重み付けを行う仕組みを2ちゃんねる に導入すると、たぶんあの場所の「言論」みたいなものは、 ずいぶん変わるのだと思う。

実世界は合意形成ゲーム

実世界のコミュニケーションは、合意を形成するために行われる。同意獲得ゲームと、 合意形成ゲームとでは、ゲームの目的が違うから戦略が違うし、同意獲得ゲームの強者は、 必ずしも合意形成の名手にはなれない。

実世界には傍観者がいない。合意通貨が存在しない。コミュニケーションは、 お互いの「歩み寄り」という、価値の交換を介して行われる。より少ない歩み寄りで、 相手から多くの妥協を引き出した上で「合意」を獲得することが、合意形成ゲームの目的になる。

合意形成ゲームにおいては、相手から見て、こちら側が「歩み寄った」という感覚が、振る舞いを駆動する。 どれだけ切れ味のいい、鋭い議論を展開したところで、言葉を発する側が歩み寄る気配を見せなかったら、 合意は形成されない。言葉の鋭さは、合意形成ゲームには、あまり役には立たない。

たとえば麻生総理や小沢一郎みたいな有名政治家の人が、自分たちの側に一歩進んで握手を求めてきたら、 たぶんたいていの人は驚く。驚いた分だけ、今度は自分たちの側から、それに等しい価値の「歩み寄り」を 支払わないと、帳尻が合わなくなる。政治家はだから歩くし、握手をするし、頭を下げて、そうしたささいな 振る舞いが、とてつもない重さを発揮する。

ところがこれが、選挙に出たての、誰も知らない候補者が握手を求めてきても、自分たちはたぶん、 その行動に価値を感じない。駆け出しの、若手候補が有名政治家に等しい価値を生み出そうとしたら、 彼らはだから、汗だくになって走らないといけないし、有名政治家が自動車に乗ったら自転車で、 彼らが自転車に乗ったら歩いて、相手以上に「歩み寄り貨幣」をばらまかないと、支持は得られない。

小沢党首の泥臭い選挙戦略は有効に機能して、一方で、ネットで支持を集めた自民党の言葉は、 選挙には、あまり役に立たなかった。自民党は、もしかしたらたくさんの同意通貨を集めたかもしれないけれど、 選挙というのは合意形成ゲームの勝者が勝つルールだから、選挙には負けた。

ネットは実世界を動かせない

ネット世間でたくさんの同意通貨を獲得した議論、「民主党が勝つと中国が攻めてくる」みたいな議論は、 実世界でそれを聞いた相手を説得する役には立たない。極論を喋っている人にとっては、 同意通貨を大量に獲得したこのお話は「真実」であって、歩み寄る余地が存在しない。歩み寄りのない 言葉は、合意を生まないから、世間は動かない。

宣伝の技術を駆使した、ヒトラーみたいな人物にしてからが、駆け出しのナチス党員として入党した頃は、 泥臭い合意形成ゲームに勝利することで、ナチス党という世界の中に、 自分を支持してくれる小さな場所作るところから始めないといけなかった。

ナチスドイツは、「宣伝が上手だったから」ドイツを支配したわけではないんだと思う。

ヒトラーは自分の考えを、「国民を宣伝で支配する」というところまで、「我が闘争」にきちんと書いて公開していたし、 ナチス党と当時のドイツ与党と、どちらが勝つのか分からない時点では、ナチスがメディアを支配していたとか、 全てのメディアで朝から晩までナチスの宣伝番組が流れていたとか、そういうことはなかった気がする。未検証。 ナチスだって単なる野党で、きちんと選挙の手続きを踏んで、たぶん最初は、泥臭い、 合意形成ゲームを与党に挑んで、勝ち上がってはじめて、宣伝という同意獲得ゲームに駒を進めたのだと思う。

ネットと実世界とを接続する道具として、たぶん「発見された物語」というのが鍵になる。

2009.08.26

社会説得の考えかた

政治家の、小沢一郎の選挙に対する考えかたを読んで思ったこと。

川上から攻める

  • 小沢一郎の目指したやりかたというのは、田中角栄が昔やっていたことをそのまんま引き継いでいるのだな、と思う。小沢一郎が「若手」だった頃、田中角栄は小沢を評して「頭は切れるが目線が高すぎる」なんて評して、今たぶん、小沢一郎が「大人」になって、同じようなことを、若手に諭す立場になったんだろう
  • 「川上から攻める」のが小沢流のやりかた。川上というのは本来、いい田んぼがたくさんある場所で、古い人が住んでいる地域。小沢一郎が町を落としに行くときには、駅前みたいに目立つ場所でなく、その土地の古い人、子供でなく、親御さんたちの暮らしている、川上の集落から始めるんだそうだ
  • このへんは、「川上」さんだとか「上田」さん、あるいは「大林」さんとか、そういう名字の多い場所は古い場所だとか、たぶんローカルな地政学みたいなものが、伝統としてあるんだと思う
  • 田中角栄は大昔、握手3万回、辻説法3000回を最低必要な数として、若手議員に命じていた。自らが歩いて、そこに出向くやりかたは、それこそ若手時代の小沢が不得手で、同じ頃、「鈍牛」なんて言われた小渕元首相なんかはこれを地道にこなして、総理になった
  • このあたりを無精して、「政策」だけ語って人を見ないと、足下がふらついて、まともな政治家ができないんだと。今の小沢一郎は、若手にこんなことを諭すらしいんだけれど、当の小沢が、若手の頃には同じ誤謬に苦しんで、「切れる」なんて言われていたのに、ついに総理に手が届かなかった

政策より人を売る

  • 大手メディアを信じない、地域メディアの浸透力と重視するやりかた、政策よりも、何よりも「人」を売るやりかたというのは、実は小沢一郎と田中角栄と、たぶん小泉元首相も、つまるところは同じやりかただったのだと思う
  • 小泉元首相の「ワンフレーズ」というのは、あれを聞いたマスメディアと、国民と、出てくる情報があれしかないから、あれをそのまま報道するしかない。情報が少ないということは、だから誰もあの人の「策」を論じることができなくて、小泉元首相はだから、自分の「顔」を担保に、国民に、ひたすら「信じてくれ」とだけ叫んでいたような気がする
  • 小泉政治というのは「分かりやすさ」を売っていたけれど、分かりやすさと、情報の少なさとはしばしばイコールで、あれはだから「政策重視」のやりかたでなく、策は横に置いて、とにかく「顔」と「印象」で勝負を仕掛けた、田中角栄の流儀を現代風にアレンジしたやりかただったんだと思う

小さくて強力な支持母体を作る

  • 何があっても、どんな政策をぶち上げても、ぶれずに自分の「顔」を信じてくれる集団、結びつきの強い、どういう状況でも力を貸してくれる集団を味方につけて、そこを足場に、人と人との絆が弱い、都市部に攻めていくのが政治の常道らしい
  • 小沢一郎は岩手だし、福田首相や小渕総理は群馬、田中角栄は新潟、麻生総理も福岡、鳩兄弟も、たしか地方の人。みんな自分の地盤、小さいけれど強力な足場を持って、そこから全国に攻め入っている
  • 都市型政治家と言われた小泉元首相にしてからが、あの人の地盤である横須賀という場所は、それでも神奈川県の中では比較的閉ざされたというか、都市っっぽくない、山っぽい、川上っぽい場所であると思う
  • 田中角栄が、あるいは池田大作が、毛沢東が、それぞれ多くの人の支持を得たい、と考えに考え抜いたときに、みんなが同じやりかた、「農村から都市を攻める」やりかたにたどりついた
  • 本当の意味での「都市の政治家」は、たぶん石原慎太郎閣下なんだろうけれど、石原軍団という、あれだけ強力な飛び道具を使っても、国会議員時代の石原慎太郎は今ひとつぱっとしなかった
  • どれだけたくさんの支持者がいても、東京の人たちは多様すぎて、「顔」を無批判に信じるような態度は取らない。石原閣下はだからこそ、骨の太い発言、世論にあえて挑戦するような言葉を出すことで存在感を示す、政治の主流に乗っかるために必要な「一歩」を、国会議員時代には踏み出せなかったんだろうと思う

都市のどこかに農村を見出す

  • 個人の説得を通じて社会の説得を試みる、政治家とか、宗教の人たちは、最初にだから、人間同士の絆が強い場所に入り込んで、そこに作り上げた強力な支持母体を原動力にして、キャズムの跳躍を試みた
  • 日本赤軍の人たちは、このへんを間違えて、「要するに山に入ればいいんだろ」なんて、人のいない山にこもって革命目指したから、煮詰まって、自壊したんだろう
  • 選挙ゲームというか、社会説得ゲームの必勝法は昔から同じといえば同じで、自民がずっとそれをやって、公明がそれに連なって、今度は民主がそれを継いだ。必勝法は一緒なのに、どうして自民が吹き飛んだのか、そのへんがよく分からない
  • 毛沢東流の「農村から都市を攻めよ」というやりかたは、現代においても、そのまま通用する
  • あるいはたぶん、「都市という場所のどこかに農村的な場所を見いだした者」が、都市型の選挙を制するんだと思う

2009.08.17

公開討論覚え書き

鳩山代表と麻生総理との公開討論会、MIAU 主催の、Webと政治に関する生放送を視聴したときのメモ。

討論形式の番組いうのは、必ずといっていいほど「編集」が入っていて、 演者の人たちもまた、たぶん編集前提で喋っていることが多いのだと思う。 自分のインタビューを公開していた知事の言葉は、無編集だと案外間延びしていたし、 国会ならばヤジだとか、相手の言葉を遮った質問だとか、討論というのはしばしば、 「生」で見るには耐え難い品質だった。

党首同士の公開討論会は、「無編集」が前提、全てを見せるのが前提で企画されていた みたいだから、お互いにいろいろ工夫をしていた。無編集の放送は面白くて、 発信のコストが下がるこれからは、たぶん「無編集」が常識になっていくだろうから、 日本語での、無編集、全て公開というルールでのしゃべりかただとか、 演者の態度みたいなものはどうあるべきなのか、これからいろいろ試みられるんだろう。

党首討論会のこと

  • 個人的にはやはり、麻生総理の「勝ち」だったような気がする。内容はともかく。鳩山代表は準備が足りないというか、「ブレイン」役をやった人が用意した資料が、討論会のルールにピントが合っていなかったのだと思う
  • 麻生総理の言葉というのは、少なくともあの会場において、首尾一貫していた。「自分はやれることをやった。それは成功であった」で、言葉の調子を変えなかったから、堂々として見えた。それが正しいかどうかはともかく、「そう見えた」ということに関しては、間違ってないと思う
  • ああいうやりかたはその代わり、態度を常に一定にせざるを得ない分だけ脆くて、「ああ言えばこう返す」というパターンも、たぶん1つか2つぐらいしか用意できなかった。麻生総理は、鳩山代表の質問に対して、万全の準備をしていたように見えて、実は「これ」という論理を一つか二つ磨き上げることに徹して、他は用意していなかったんじゃないかと思う
  • ああいうのは、たとえば「あなたの認識が頭から間違ってるんですよ」なんて哄笑してみせたり、麻生総理の細かい粗をねちねちとつつき続けて、討論の雰囲気自体を壊してみたり、やりようはあるんだけれど、鳩山代表は、泥試合に踏み込む勇気というか、「ルールはいつだってひっくり返せる」ということを、交渉のカードとして生かしていなかった気がする。鳩山代表の、いわば「上品さ」を信じた麻生総理の読み勝ちというか
  • 党首討論の場面では、麻生総理は選挙民の方向を向いて喋っているように見えて、鳩山代表は、テレビ局の方向を向いて喋っているように見えた。相手から「言質」をとりに行くやりかた、特定の一言にやたらとこだわってみせるようなやりかたは、あれは「編集」前提のしゃべりであって、「生」向きじゃないと思う

小数点以下をそろえて返す

  • 麻生総理はいろんな数字を並べた。鳩山代表は、たとえば「どんな企業でも1割の無駄が(うろ覚え)」とか、小数点以下を揃えなかった。分かりやすいんだけれど、あれはいかにも感覚的で、何も考えていないように聞こえた
  • 数字には、たとえ嘘っぱちでも数字を出さないと、相手の説得力を無効化できないし、とにかく数字を出しさえすれば、相手の資料を無効化できる
  • 正しい数字を知っているのが自民党だけで、民主側にはそれを調べるすべがないんだとしても、「我が党の調査では…」なんて、とりあえず数字には数字で対抗すべきだったんだと思う。片方が正解で、片方が嘘八百であったとしても、小数点以下をそろえた数字を並べてしまえば平等だから
  • 研修医は、「CRPは?」なんて上司に聞かれたら、「5ぐらいでした」なんて答えるよりも、「5.8です」なんて即答しておいて、あとから「すいません5.2でした」なんて訂正電話入れるほうが、「できる奴」と思われる。鳩山代表はまじめなのだろうけれど、こういうの下手だなと思った

無敵論法の返しかた

  • 麻生総理のやりかた、物事を単純化して、「こういう結論だからこれは成功だと私は認識している」という論理は、最終的な根拠が自分の認識だから、論理の矛盾を指摘してひっくり返すのが難しい。論拠を自らの主観において、「私はこう考えている」と結ぶやりかたは、一種の無敵話法で、ネットにいろんな方面を刺激しそうな文章を書くときには、炎上対策としてよく使う
  • 相手の認識を否定するのは難しいんだけれど、論理の粗さがし自体は簡単だから、「私はこう思っている」論法に対しては、粗を指摘して、「私たちならこうした。もっと上手くいった」とあと知恵をぶつけると、相手は議論に乗らざるを得ない。こういうのはたぶん、おしゃべりの定石なんだけれど、民主党サイドは、どういうわけかこういうやりかたをしなかった。ああいう場所でこそ、すかさず「対案」をぶつけないと、聴衆に「何も考えていない」ように思われてしまう
  • 勝つ論理と負けない論理というものがあって、麻生総理が展開したのは「負けない」やりかた。負けない議論は、その気になればいくらだって逃げをうてるから、まじめに相手をするよりも、たとえば相手の人格を否定するとか、相手を哄笑するとか、積極的に空気をグダグダにして、相手もろとも泥まみれを狙うのが正解になることも多い
  • ああいうときは本当は、相手を無視して、ひたすら過去のスキャンダルについて質問したりしないといけない。正しさ勝負じゃなくて、「相手の黒歴史で笑いをさらったほうが勝つ」という方向に、場のルールを書き換えてしまうやりかた
  • 鳩山代表は、麻生総理に対して「無敵話法使ったら場をグダグダにするよ」というのを、交渉のカードとして持っていないといけなかったんだけれど、それを切ろうとしなかった

議論の応酬にはルールが必要

  • 党首会談で設定されたルール、お互い持ち時間を決めて、発言と、質問とを強制的に交互に行うやりかたは、上手くいっているように思えた。ヤジのやりようがないし、相手の発言を遮ることができないから、観客に優しくてありがたかった
  • あのルールは、あれは昔の掲示板ルールそのまんまだと思う。相手が喋っている間は、それを遮ったり、笑い飛ばして人格否定したり、そういう飛び道具が使えない。ああいう勝負は、それこそ古参のネット掲示板住人が得意そうだなと思った
  • 麻生総理の「○○だから、これは成功であったと思います」なんて意見に対して、鳩山代表が「ということにすると、何か都合がいいのですね? 」なんて返したら、空気が一気に悪くなって面白いと思うし、切り返しかたとして、それは有効だと思う
  • 議論の相手に立証責任を押しつけるやりかた、「そもそも君がこうしていれば、この状況にはならないんだよ」というやりかた、「民主党が邪魔したから自民党のすばらしい政策が廃案に追い込まれた」という論理はたいてい無敵で、これは「Void 論法」といわれた古典的なやりかたの、いわば変法なんだと思う

編集の力

  • 少なくとも生放送を見た限りは、持ち時間は一緒のはずなのに、麻生総理の声ばっかりがよく聞こえた
  • これは論理がどうこう、という問題とは別に、鳩山代表の顔の角度と、マイクの角度が合っていなくて、声が全然拾えていなかったとか、いずれにしても、鳩山代表のほうが不利な展開ではあった
  • ところがニュース番組がこれに編集を入れて、討論の「間」を削除して、お互いの党首が自説を述べている場所だけを放映すると、見事に「かみ合ってはいないけれど対等な議論」に見えた。行われた印象操作は、ごくありきたりのものでしかないけれど、特定の場所を「放送しない」ことの威力はすごいと思った

MIAU のニコニコ生放送

  • 途中しか見ていない。ごく一部
  • 演者の音量が一定で、すごく聞きやすかった。党首討論会は、特に鳩山代表と、司会者の人とが、顔を左右に振るたびに音量が激変してひどかった
  • あれは「ニコ生」スタッフに音量調整の専門家がいて、複数のマイクをその場で切り替えて、一定の音量を維持することに、相当気を使っていたんだという。ああいう工夫はありがたかった

「何でもあり」ルールでの戦いかた

  • ホリエモンが出席して、意見が分かれた演者の、ちょっとした瑕疵を指摘して、しばらく離さなかった
  • あれは何というか、議論として「大人げない」んだけれど、どこか総合格闘技のやりかたに似ていた。膠着状態がずっと続いて、わずかな隙ができたら一気に試合が動いて、観客が置いてけぼりにされるようなスピードで決着がつくイメージ
  • ルールなしの自由討論会というのは、たぶんワンチャンスを生かしきらないと、勝ちが拾えないのだと思う。相手のミスを鷹揚に受け止めて、対話を先に進めるのが大人のやりかたなんだろうけれど、ここで手を抜くと、下手すると今度は、自分の瑕疵に食いつかれて、勝ちを持って行かれてしまう
  • 何でもできる「総合」ルールは、どうしてもワンチャンスが全てになってしまう。殴り「あい」とか、議論の「応酬」みたいなのを観客に見せようと思ったら、ボクシングみたいに、選手に許される振る舞いを、ものすごく絞らないといけない
  • 党首討論会は、そういう意味ではボクシングに近く、ニコニコ生放送は、総合格闘技に近かった。ルールが変われば、戦いかたも変わってくるし、ホリエモンという人は、たぶんそういうのを理解していたのだと思う
  • 総合格闘技は、どうしたって「つまらない」というか、マニアでないと楽しめなくなるけれど、自由形式討論というのは、本来そういうものなんだと思う。そこを割り切れないと勝てないし、そういう場所で、「面白さ」に配慮したり、議論は「こうあるべき」なんて理念を持ち込む人は、たぶん生放送では勝負にならない

話し言葉というメディア

  • 演者の名前札を、もう少し見やすくして、できればそれをテキスト表示してくれるとありがたかった。それがどんな人なのか、名前さえ分かれば、今の時代、検索するのは簡単だから
  • 見た目はやっぱりすごく大事だなと思った。議論の席、真ん中あたりにいた人が、お笑い芸人の「ダンカン」に似ていて、コメントは「ダンカン」の文字で埋まった。笑いの対象にされてしまうと、それを言葉でひっくり返すのは恐ろしく難しい。ホリエモンは体を絞って議論に臨んで、あれは好評だった。肥満体のままだったら、議論はそれだけ不利だったと思う
  • 特に「ニコニコ生放送」みたいな、視聴者の意見がダイレクトに帰ってくる場所では、会話で観客を楽しませないといけないし、それをやるには、文章の圧縮率を極端に高めないと厳しい。たくさん喋るほどに、言葉は薄まって、観客の興味は反対側の人に行く。討論会の途中、演者の人が、論文を読むかのように長い話をしておられたけれど、ニコ生は、演者の声とコメントと、両方を見ないといけないから厳しかった。Blog の長さどころかTwitter も通り越して、もっともっと圧縮して、テキスト量を減らさないと、あの場所では厳しく思えた
  • 津田さんの司会は上手で、討論会は混沌とすることなく、分かりやすかった
  • 無編集、生放送は、なんだかんだいっても面白いし、これが低コストでできてしまう現在、流れは必ずこの方向に傾いていくのだと思う。「しゃべり言葉」の力は、これから戻ってくるような気がした。以前のそれとは、だいぶ文化が異なるのだろうけれど

2009.08.16

どこかに「グー」がある

病院での交渉ごとというのは、何しろあいては白衣を着て、なんだかえらそうな椅子に座っているものだから、一見すると圧倒的に、医師側のほうが有利に見えるんだけれど、実際白衣を着て座っている側からすれば、患者さんが、特に患者さんのご家族が、怖くて怖くてしかたがない。

「グー」がない

医療交渉というのは、じゃんけんでたとえると、自分たちには「グー」を使う権利が与えられていない。

患者さん側には「グー」「チョキ」「パー」の選択枝があって、自分たちには「チョキ」と「パー」しかなかったら、これはもう、絶対に勝てるわけがない。

もちろん医療というサービスを提供しているのは自分たちの側だから、それを断られたら、患者さん側にはなすすべがないんだけれど、医療者側は何よりも、何かトラブルになったときに失うものが大きすぎて、一度失うと、それは取り返しがつかないものだから、患者さんから「グー」を使われる、何かをごり押しされるような状況になったとき、それを拒否することが難しい。

医療従事者が交渉の席に望むときには、だから世の中には「グー」なんて最初から無かったかのような、少なくともこの交渉の場では、「グー」を使うことが許されないのだ、といった空気を必死に作って、相手が3枚、自分が2枚しか持っていない交渉のカードを、あたかもあいてと自分と、最初からお互い2枚しか見えないかのように振る舞って、相手の有利を隠蔽する。

「グー」というカード、拳を机にたたきつけて、怒りで相手の論理をひっくり返すようなやりかたは、たとえば医療交渉の席ではほとんど万能の解答で、だからこそ、自分たちは穏やかな口調で、あたかも患者さんのご家族と、古い友人であったかのように振る舞って、相手が「グー」を切りにくいよう、あるいは「この病院では怒っちゃいけないんだ」みたいな、そんな禁忌があるかのように振る舞ってみせる。

こういうのはやっぱり、環の弱いところから破られることが多くて、人が必死に「グーなんて無いんですよ」を演じて見せて、それがある程度上手くいっているのに、たとえば自分たちの「権威」みたいなのを勘違いした看護師さんが、患者さんに対して横柄に振る舞って、カードの所在がばれてしまったり、休みの日にたまたま来た遠方の親戚が、「ここにグーがあるじゃない」なんて、今までの努力をひっくり返してみたり。

隠蔽されているカードを探す

恐らくは病院だけでなく、世の中のいろんな交渉の席で、「グーの隠蔽」が行われているような気がする。

相手側が何かの権威を持っていて、自分たちは「交渉の席」についているのに、それは交渉どころか、相手の意見を、相手の権威をありがたく拝聴するだけの場になって、「こうなったのは仕方がなかったんだ」なんて、なすすべもなく、相手の言い分をそのまま受け入れることしかできないような状態。

議論は一方的なのに、一見すると、自分たちには聞いてうなずくことしかできないのに、それでもそれが「交渉」だという、交渉なのに交渉というゲームが成立しない、こういう状況においては、たぶんどこかでカードの隠蔽が行われているのだと思う。権威であり、穏やかな口調でこちらを気遣って見せる余裕すらある相手というのは、じつは内心びくびくしていて、隠しているカードが見つかったとき、恐らくはそれを切られると、もうなすすべがない。

相手と自分と、同じ席に座らないといけない状況は、それはもう「交渉」なのであって、相手は少なくとも、「こちら側が椅子に座ってくれないと非常に困る」何かがあるから、わざわざ交渉の席が作られる。席に座って、相手の言葉を一方的に拝聴せざるを得ない、そんな状況に出くわしたときには、実は本来、なすすべを持たない自分たちの側に、極めて有利なカードが隠されているのかもしれない。

2009.07.05

ルールを解説してほしい

ニュース番組が、最近はもう政治一色で、自民党のやりかたがけしからんだとか、今こそ政権交代をだとか、 ニュースキャスターや、政治評論家の人は、どのチャンネルをつけても同じことばっかり繰り返す。

たとえば将棋番組の解説者みたいな、その状況を、素人目にも面白く解説してくれるような、 政治番組の世界にも「解説者」に相当する職種を用意して、「評論家」とは別に、「解説者」の 談話を報道する番組ができたら、ニュースは今まで以上に面白くなるような気がする。

政治というルール

政治家の人はもちろん、「国益」のために、「有権者の皆さん」に政策を考えるのがお仕事だけれど、 「政治というゲーム」には、もちろんいろんなルールがある。

政策を考えることだとか、地元の有権者に、自らの考えかたを分かりやすく説明することというのは、 あれは政治というゲームにおいては「技」に相当するものであって、ルールとは違う。たとえば政治家が、 地元に帰ってお金をばらまいてみせたりしたら、それは「ルール違反」であって、その政治家は、 政治というゲームから、追放されてしまう。

「政治というゲーム」に参加する人が目標にするのは、議会という舞台に、選挙を勝ち抜いて、 そこに立ち続けることであって、政策の考案だとか、政治力の行使だとか、それは単なる戦略、 たくさんある技の一つに過ぎない。「すばらしい政策を考案すること」や「地元有権者と宴会を開くこと」、 あるいは「地元有力者に土下座すること」といった様々なやりかたには、ルールの前に等しい価値を持って、 どれが優れているとか、ましてやどれが「正しい」とか、それを評論家が論じたり、 憤ったりしてみせるのは、どこかおかしい。

政治番組というゲーム

ニュースキャスターが「お茶の間の意見を代弁してみせる」形式はもう出尽くして、 チャンネルごとの差なんて無いに等しいから、こんどはそろそろ、「政治というゲーム」を解説する、 様々な陰謀だとか、戦略を仕掛ける側の思惑を代弁するようなニュース番組を見てみたいなと思う。

今のニュース番組は、「政治家は基本的に真実を述べていて、ニュースキャスターは、 国民の思いを代弁する」という建前で作られているけれど、「政治家はそれぞれの立場を最善にするよう、常に小さな嘘をつくき、報道機関はそれを編集して、面白さを最大化するように加工する」という、報道番組本来のルールに基づいて、 それを技術論として解説する、政治の意図だとか、政治家の主張については、あえて一切介入しない番組を作ってほしい。

政治家の人は、政治というゲームに勝ち抜くために様々な技を考えるし、マスメディアの人たちもまた、 たとえば「ニュース番組というゲーム」に勝ち抜くために、政治家の振る舞いを、なるべく「面白く」しようと、 あれこれ思惑を巡らす。2つのゲーム、2つのルールが重なった結果として、たとえば「政治番組というゲーム」が 生まれて、政治評論家を名乗る人は、そういう状況を解説するのでなく、むしろひたすら盛り上げて、 あの人たちもたぶん、「政治評論家というゲーム」を、自分たちなりのやりかたで戦っているのだと思う。

戦いそれ自体よりも、むしろ「解説」を聞いてみたい。

「この状況でのこのコメントは、世論を誘導するのにあとから効くんですよね」だとか、 「この話題のかわしかたは、たぶん電通パブリックリレーションズのやりかたですね」とか、 あるいは「これは上手な編集ですね。このあとに出てくる笑顔がカットされることで、 この政治家のイメージはこれで一気に悪くなりました」だとか。

解説されると冷静になる

「○○党は○国の手先だ」みたいな陰謀論というのは、たぶん「ない」というのが正解なんだろうけれど、 政治家は政治の舞台に立ち続けないといけないし、ニュース番組を作る人だって、限られた時間で、 限られた予算で、撮影された映像を、可能な限り「面白く」報道しないと、視聴率競争に負けて、 最終的に、ニュース番組という舞台にいられなくなってしまう。

「真実を伝えること」なんて、それは「面白さ」という、報道というゲームを支配するルールから見れば、 プレイヤーが選択できる「技」の一つに過ぎないし、「真実」が、残念ながら「面白さ」を獲得するための 戦略として、事実上機能しない、「真実を伝えよ」なんて騒ぐ人たちが、真実の報道に対して、 何ら対価を支払わなくなったからこそ、「真実を報道する番組」が無くなってしまったのだと思う。

違ったルールで戦っているプレイヤーに対して、「真実の報道していない」なんて叩くのは、 総合格闘技を戦っている選手に対して、「相手を蹴るのは男らしくない」なんて、 観客が文句をいうようなもので、選手にしてみれば困ってしまうと思う。

ニュースというのは、そもそもが編集されて、「面白く」加工されるのがルールなのだから、 ルール自体を解説して、可視化する番組があったら、きっとみんな冷静になれる。

道路の報道なんかで、議員の人が、明らかに無駄っぽい道路を「これは必要なものだと思います」なんて答弁する。 それに対して「あいつは何を言っているんだ」なんて、政治評論家の人が、国民の声を代弁して、政治家を叩く。

こういうのは、政治の人は政治というルールを、政治評論家の人は、政治番組というルールを、それぞれ 戦っているのであって、その戦いを「解説」してくれる人が、今のニュース番組には、欠けているような気がする。

叩かれれば、みんな憤って盛り上がるけれど、物事はそんなに変わらない。この番組を、 たとえば「あの答弁で、彼はこの冬の秘書の給与が払えますね。あの事務所は最近人増やしたから、 今大変なんですよね」だとか、「今の叩きかたは切れ味十分でしたが、最後に口元が綻んでしまった絵を 報道されてしまったのは、彼の立場を難しくしたかもしれませんね」だとか、政治の楽しみかた、 ニュース番組の見どころを、「解説」してくれる番組があれば、みんなもっと、 今の状況を楽しめる。

政治だとか、ニュース番組だとか、あれだけのお金をかけて、たくさんの「役者」が舞台に登場して、 「真実」に、それぞれの思惑を投影して、そこから切り取った「絵」をさらに面白く加工して、 みんな生き残りをかけて、いくつもの複雑な技術が生み出されては、毎日のように覇を競う、 あの光景を見て、あれを憤りの感情一択で消費してしまうのは、あまりにももったいないと思う。

2009.06.29

流れの空白に呪いが生まれる

昔住んでたマンションの近くに、「お店が必ず潰れる場所」があった。

そこは交差点の角地にある土地で、2本の道路に面していて、 30人ぐらいは入れる店舗と、そこそこ広い駐車スペースとを備えていた。

駅からも、何とか歩いていける距離にあって、道路をはさんだ目の前には、 10階建ての新築マンションがあって、若い家族がたくさん住んでいた。 人通りもそこそこあって、車の往来も多かったから、店舗を構えようと思ったら、 その場所の条件は決して悪くなさそうなのに、そこに店を出すと、せいぜい数ヶ月で閉店していた。

マンションには2年ぐらい住んでいたけれど、その間だけでも4回ぐらいお店が変わって、最近通ったら、 また知らない店に変わっていた。

流れに乗ると入れない場所

その場所は、人通りが多いのに、入りにくかった。

自動車の通行量は多いんだけれど、慢性的にプチ渋滞状態になっていて、 反対車線から店に入ろうと思ったら、自動車の流れを止める覚悟がないと難しかった。

店に面した車線にいても、そこには街路樹と、結構広い歩道があった。近所のマンションには子供さんがいて、 歩道を自転車で移動して、街路樹の陰から飛び出してくる。店に入るには、自動車の流れを一瞬止めて、 見通しの悪い街路樹の陰から、自転車に乗った子供が特攻してこないことをお祈りしながら、 車の流れを切らないように、一気に駐車場に突っ込むしかなかった。

お店は目の前にあって、駐車場もすいているのに、そのお店に入るための「流れ」というものがそこにはなくて、 車の流れを断ち切って、一定の確率で飛び込んでくる子供、という障害物を乗り越える必要があって、 そこそこおいしいお店が入っていたときであっても、そこに車を入れるのには覚悟がいった。

交差点の交通量がもう少しまばらであったなら、「流れ」を無視できて、余裕を持ってお店に入れただろうし、 歩道がなければ、あるいは街路樹を切って、せめてお店の入り口周囲だけでも、見通しがもっと良くなれば、 子供の陰におびえる必要もなくなったのだけれど。

郊外の店舗スペースみたいに、そもそも歩道を潰してしまって、道路と駐車場との境界を潰してしまってかまわなければ、 その場所はもっと栄えてもいいような気がするんだけれど、歩道だとか街路樹の配置、道路の混み具合みたいな、 いろんな要素が絡んだ結果、一見理想的なその場所は、きれいな町並みに隠されて、呪われた場所になっていた。

流れのよどみに呪いが生まれる

SNS で、こんなコメントをいただいた。

呪いというものは本来、個人の言動行動あるいは作ったものから生まれるものだと認識していたのですが、 この例を呪いと見なすことでいろんなことが理解できるようになるなあと感じます。
呪いというのはむしろ、それをこうむる主体ではなく、それを取り巻く構造のあたりに おぼろげに浮かび上がるものなのかもしれません。

たしかにそんなかんじだな、と腑に落ちた。

呪いだとかいじめというものは、昔は「悪意をドライブするための技術」だと考えていたんだけれど、 「いじめに参加した人間に、悪い奴はあんまりいない」というのも、どうも一面の真実らしくて、 実際問題、ものすごい深謀遠慮を巡らすような「いじめの黒幕」みたいな学生は、そんなのがいたとして、 たぶんもっと楽しいことに自分の時間を使うような気がする。

「呪い」みたいなものは、どろどろした思いが生み出すというよりもむしろ、 「正しさ」だとか「きれいさ」みたいな、集団が、同じ価値へと収斂することを望む気持ち、 同調を強要する空気みたいなものが、コミュニティに「流れ」みたいなものを生み出して、 その流れから取り残された場所だとか、人に対して、自然発生するような気がする。

「いじめをなくすための話しあい」みたいなものは、だからコミュニティ内部での、力の流れが 変化しない限り効果が薄いし、理性的な、平和なやりかた以外にも、流れを変える方法はいくつかあって、 いじめの対象となった側も、あるいはいじめる側と認定された側とも全然関係のない誰かに、 ちょっとした変化が生じただけでも、あるいはいじめというものがなくなってしまう、 という事例もあるんじゃないだろうか。

車の流れと違って、人の流れというのは目に見えないし、街路樹で邪魔したり、歩道を作って 流れを変えたりといった操作はやりにくいけれど、個人に何かを吹き込むのでなく、 集団になった人の流れを読んで、それを操作することができるのなら、 そういう技術から、いろいろ面白いことができそうだなと思った。

2009.06.17

コミュニティにおける祭事というもの

コミュニティにおける正義には、「成果が最大」、「面子の損失が最小」、「嫉妬が最小」の、 3つのレイヤがあって、上位レイヤで正しいことは、必ずしも下位レイヤでの正しさを保証しないし、 上位レイヤで決定されたことは、しばしば下位レイヤでひっくり返される。

「経済」が政治と祭事を上書きした

「リスク」だとか「経済」といった考えかたがなかった昔、それこそ平安時代ぐらいの 大昔は、たぶん「政治」と「祭事」というものが、コミュニティの判断を左右した。

時代のどこかでたぶん、「成果」という考えかたが入ってきて、経済は、数字で測定可能なものだから、 説得の道具として便利な「経済」という武器は、「政治」という、従来の実務レイヤを上書きする形で、 コミュニティの行く末を判断するための道具として、便利に使われるようになったのだと思う。

お祭りというものは、野蛮で非科学的なものだから、「経済」という考えかたが導入されて、 恐らくどこかで、「祭事」のやりかたが失われて、今たぶん、いろんな迷走を生んでいる気がする。

面子で成果をひっくり返す

上位レイヤで「正しく」認定された判断は、それに反対する人たちが下位レイヤを支配することで、 簡単にひっくり返せる。

たとえば「政治」という道具は、そこに集まった人の面子を可視化してみせることで、 成果の最大化を図る、「経済」的に正しい判断をひっくり返すことができる。

経済的に正しいやりかたは、その決定で誰かの面子が潰れるのなら、それが実行される可能性はなくなるし、 たとえ大赤字を抱えた自治体でも、県庁の○○局長が退職するときには、「はなむけ」としての「ハコ」一つ、 何億円もする建築物にお金が支払われて、集まったリーダーは、たいてい誰も、それに反対しない。

昔の政治家が得意だった「根回し」だとか「腹芸」というのは、意志決定にかかわる人たちを見極めて、 かれらの「面子」を可視化して、ある決定がなされたときに、それが誰の面子を立てて、 誰の面子を失わせるものなのか、それを予期して、操作するための技術。

個人的に反対したいような決定があったなら、「それが実現すると○○さんの面子が潰される」方向に 誘導することで、経済的に正しい決定は、政治レイヤでひっくり返せる。昔の自民党、「妖怪」なんて言われた 人たちには、こういう技術が受け継がれてきたのだろうと思う。

世論という神様と祭事

弟鳩大臣が結果として辞任して、あの人の判断は、経済的にも、あるいは政治的にも、 どうもあんまり正しくないみたいなのに、あの人に対する支持は増えて、自民党の政治家も、 総理大臣よりも、むしろ弟鳩大臣を支持しているように見える。

何もかも間違っている振る舞いを、「罷免された」という犠牲を用いることで、強引に正当化する、 今弟鳩議員のまわりでおきていることは、「祭事」なんだと思う。

祭を執り行っている人に、政治レイヤ、あるいは経済レイヤから、いくらその間違いを指摘して、 その人の振る舞いを叩いて見せたところで、なんの効果もないばかりか、叩いたその人が支持を失ってしまう。 叩く側の人が、どれだけ分かりやすく、どれだけ正当な論理を展開したところで、 恐らくはその正しさだとか、分かりやすさは、かえって世論の反発をまねく。

「祭事」というのは、集団になった人、「世間」とか「世論」、「空気」みたいに、 個人と個人の境界が薄れた、あやふやな固まりになった人の群れを操作するための技術で、 それはもう、理屈でどうこう、というものではなくて、もっと獣っぽい、「血」だとか「炎」みたいな、 そんな象徴を利用したやりかた。

扱い方は難しいし、個人が融合して、荒ぶる神様みたいになった集団は、何を考えているのか、 何が正解なのかよく分からないけれど、「祭」を上手く執り行うことができたなら、 その人はたぶん、天下を取れる。

その代わり、祭事が間違って執り行われると、その人は大きなダメージを受けるだろうし、 世の中収拾がつかなくなってしまう。弟鳩議員が今行おうとしている祭りは、 どちらかというと、期せずして「祭」が始まってしまった、間違って執り行われた祭であるように思える。

祭事をエンジニアリングすべきなんだと思う

「政策通」だとか「経済通」なんて言われる議員の人たちは、上位レイヤのやりかたに優れた代わり、 昔の政治家なら誰もが持っていた、祭事レイヤでの振る舞いかたを、忘れてしまった。

ちょっと昔の田舎の選挙は、庭先に飼い犬の生首が投げ込まれたりだとか、 まっすぐな道なのに、なぜかハンドル操作を誤ったダンプカーが民家に突っ込んだりだとか、 血なまぐさいイベントがつきものだったけれど、ああいうのにも「作法」だとか、 「意味」みたいなものがあって、そういう未開民族みたいなやりかたが、祭事の作法なんだと思う。

いわゆる「世間」、あるんだかないんだか分からないのに、力だけあるあの存在は、 やっぱりどこかのタイミングで、「血」だとか「涙」、「炎」みたいなものを見せないと、 その人に「本気」を見出さないような気がする。

「言葉」という、政治経済レイヤでしか通用しない道具をいくら上手に操ったところで、 世間の空気というものは、それが優れていれば優れているほどに、むしろその人に対する嫉妬が出てきて、 正しいはずのその言葉は、祭事レイヤでひっくり返される。

恐らくは、世間の空気という、荒ぶる神様を起こさないように、不安定な祭事レイヤの上で、 政治的、経済的に正しい判断を粛々と遂行するのが正しい政治家なんだろうけれど、 一発逆転を狙って、正しい知識も持たないままに、祭事レイヤに潜ってちゃぶ台をひっくり返そうとする人が 出てくると、世の中がめちゃくちゃになる。

そういうのは、村どうしのいさかいに巨神兵を持ち込むようなもので、 よっぽど慣れている人でもなければコントロールできるわけがないし、 首尾よく相手を焼き尽くしたところで、もうその場所には人が住めなくなってしまう。

昔テレビでやっていた、中国最強の格闘家を決める大会では、お互い戦って勝ち抜くのはあくまでも予選であって、 決勝戦になると、格闘家はみんな着飾って、笑顔で歌ったり、ダンスの腕前を競ったりしていた。 K-1 やPRIDE GP みたいなものを想像していたから、肩すかしもいいところだったけれど、 「単なる強い人」と「英雄」とを分けるのは、あるいはそういうところ、強さというレイヤの下にある、 世間の空気がその人を後押しするための祭事、英雄は、そういう方面にも長じてないと、英雄たる資格がないのかもしれない。

「世間の空気」というものは、扱いを間違えると荒ぶる神となって、 上位レイヤで正しく決定された何もかもを、見境なく食いつぶす。

神様を上手にいなして、もといた場所に帰っていただくのが「祭事」の作法なら、 そんなやりかたは、やっぱり政治に携わる人なら、誰もがマスターしておいてほしいなと思う。

2009.06.05

「もの」と「情報」の界面

命令だとか理屈、説得といったやりかたとは別に、 「もの」それ自体に込められた情報を利用したやりかたは、 その人の振る舞いを、強力に縛れるような気がしている。

風邪に食べ物を処方する

タミフルなんかはむしろ例外的で、風邪みたいなウィルス感染症に対して、 自分たち医療従事者ができることなんて、実際問題ほとんどない。

それが本当にウィルスの感染症ならば、暖かくして家で休んでいることが、本人のためにも、 まわりの人のためにも一番望ましいのだけれど、たいていの人は、守れない。

こういう患者さんに対して、風邪薬を処方して、「家で安静にして下さい」なんてお願いするのでなしに、 「暖かくして家で寝るためのセット」を、保険で「処方」してしまうと、家で安静にする人が 増えると思う。

「安静にして下さい」なんて言われたところで、何もしないでじっとしているのは苦痛だし、守れない。

ところがそれがあんまり積極的に食べたいものでなかったとしても、白衣を着た人間から、 「5日間これを食べて下さい」なんて指示されて、5日分の食料と水とを押しつけられたら、 たぶんそれなりの割合の人が、そのとおりに行動する気がする。

赤い羽根には逆らえない

言葉の拘束力はしれているけれど、「もの」が規定する力というか、それが規定する振る舞いには、逆らいにくい。

赤い羽根の共同募金で、胸に羽根を貼り付けられた人は、それからしばらくの間は「いい人」になる。 簡単な実験系を組んで、赤い羽根を募金の対価としてでなく、一方的に、道ゆく人の胸に貼り付けても、 たぶん羽根をもらった人は、一定の確率で「いい人」になってしまう。

たとえば赤い羽根を胸にくっつけられた人の帰り道に、段ボール箱に子猫を入れた奴を仕掛けておくと、 羽根をもらわなかった人に比べて、子猫が拾われる確率は高まるような気がする。

それが単なるレトルトのおかゆであっても、「それを自宅で食べきることが治療である」と宣言されて、 パックに「治療用」なんて書かれたおかゆは、たぶんそれをもらった人に「病人らしさ」という振る舞いを強制して、 その人の外出確率を下げる。

偽薬による「治療」と、やっていることは全く同じなんだけれど、偽薬というのはたぶん、 「振る舞いを後押しする形」をしていることに、重要な意味がある。

アフォーダンスで動作を記述する

禁煙用のニコチンガムや、ニコチンパッチは、あれがガムであり、パッチの形をしていることが、 たぶん欠点になっていて、「喫煙する」という、たばこ本来の動作を置換できていない。

たとえば、薬理的な効果をもたない「禁煙パイポ」を、病院でとりあえず200本ぐらい、 黙って処方箋を切って、相手に押しつけてしまうと、その人は、その200本を消費するまで、 次のたばこを買いづらいような気がする。

薬というものは、人体のある反応を、別の反応で置換することで、特定の効果を発揮する。 人の動作というものもまた、「もの」が後押しする特定の振る舞いを利用したり、同じ形の、 違った機能を持った何かで、その人を取り巻く「もの」を上書きすることで、 その人をコントロールできるのだろうと思う。

「もの」と「情報」との境界は、たぶん相当にあいまいなもので、 「アフォーダンスで環境を上書きする」手法というものが、これから先、たとえば医療だとか、 あるいは広告の業界で、安静を指示する「もの」だとか、食欲や、 購買意欲を後押しする「もの」のデザインや、機能の上書きといった形をとって、 きっと伸びてくるんだろうと思う。

2009.05.17

状況記述言語について

ライトノベルだとか、ニコニコ動画を見ながら考えていること。

登場人物が喋りだす

  • 売れたライトノベル「涼宮ハルヒ」のシリーズは、なんだかんだ言ってもよくできている。3冊ぐらい読むと、頭の中で、 登場人物が、勝手にしゃべり出すような印象を受ける
  • 「ハルヒ」の二次創作を、いろんな人が行っている。無数にあるから、適当につまみ食いするような読みかたしか できないんだけれど、読んでいて、自分が持っていた登場人物の印象と、ほとんど矛盾がない。矛盾しないということは、 二次創作の作者さんと、自分の脳内にいる登場人物とは、恐らくはだいたい同じ「人格」を共有できていて、 あの小説はたぶん、文庫本3冊ぐらいの容量で、仮想人格みたいなものを生み出すのに成功している
  • 「面白い小説」と「喋りだす小説」とは、重なりはほんの一部なのだと思う。「ハルヒ」よりも面白い小説は たくさんあるけれど、登場人物が喋らないものも、やっぱりたくさんある。自分が興味のないジャンルの小説で、 やっぱり二次創作がたくさん発表されているものなんかは、恐らくはそうした小説を読んだ人の中では、 やっぱり登場人物が喋ってるんだろうと思う
  • ニコニコ動画でたくさん引用される、「アイドルマスター」というゲームの登場人物もまた、 戦闘機に乗せられたり、三国志世界で活躍してみたり、様々な舞台で、架空の物語に引っ張り出されている
  • アイドルマスターの二次創作作品も、無数と言っていいぐらいにたくさんあって、 それぞれに視聴者がついている。お互いの物語ごとに、登場人物の振る舞いだとか、 考えかたにはほとんど矛盾を感じないから、あのゲームを1本終えると、プレイヤーの頭の中には、 登場人物の仮想人格みたいなものがダウンロードされるんだろうと思う

歌うプログラムのこと

  • ボーカロイド「初音ミク」という合成音声ソフトが売れている。PC に「アイウエオ」を教えるだけでは、 あれは全然足りなくて、声優さんは、様々な音だとか、音どうしのつながりを吹き込んで、 録音している間は、自分が何をやっているのか、よく分からないんだという
  • 「それが人の歌に聞こえる」ためには、最小限必要な音素というものがあって、 あのプログラムを書いた人たちは、それがなんなのか、分かっているのだろうと思う
  • もちろん細かい調整は必要にせよ、いくつも発表されている「初音ミク」の声というのは、 人間が歌っているのと、素人目には区別がつかないぐらいに人間くさい

人格は記述できる

  • 恐らくは「人格」というものは、「ある状況に対する、その人の振るまいかた」なんだろうと思う
  • ボーカロイドと同じく、いくつかの典型的な状況と、状況と状況とをつなぐ「間」みたいなものに対する振る舞いとを組み合わせると、 恐らくは日常生活レベルのほとんどの状況は、そうした「状況記述言語」みたいなものから演繹できる
  • それが言語として、日常生活で遭遇するほとんどの状況を、単語の組み合わせで表現できるようになったなら、 それは「人格」として一人歩きできる
  • 媒体が小説であれ、ゲームであれ、あるいはドラマやアニメみたいなものであれ、人格を生み出すのに必要なだけの 状況-反応系を、媒体の中に埋め込むことができたなら、恐らくはそれを見た人の頭の中に、仮想人格を意図的に生み出せる
  • 小説を読むときに、「想像が刺激される」なんて表現が使われるけれど、個人の想像は、個人の中で終わってしまう。 仮想人格を生み出すために必要なパーツが欠落していたら、恐らくはどれだけ優れた小説を読んだところで、 登場人物はしゃべり出さないし、人格を他の読者と共有できなければ、二次創作は盛り上がらない

それが売り上げに直結するのかどうかは分からないけれど、最近流行しているいくつかのメディアを眺めて、 仮想人格というものは、ある程度意図的に生み出すことができるような気がしている。

何かを見たり読んだりして、登場人物が頭の中でしゃべり出して、どこかお店に入ったら、頭の中の誰かが「これを買ってくれ」なんて 叫びだしたら、広告の世界も、ちょっと面白くなると思う。

2009.02.16

コミュニケーションにおけるゲーム性

「ルールデザイナーまたは他プレイヤが提示したルールからプレイヤが最適解を求めようとする」
という関係が成立する時、それはゲームだと言える。
定義「ゲーム性」 – うさだBlog / ls@usada’s Workshop

コミュニケーションもゲームとして記述できる

ある状況の元で、適切なルールが実装されると、そこに「ゲーム」が発生する。

同じルールを引き継いでも、状況に変化があればゲームが発生しないこともあるし、 状況は変わらないのに、お互いがルールを変更していく中で、その場所にいきなり ゲームが発生する場合もある。

コミュニケーションにおいてもまた、「ゲーム性のあるコミュニケーション」が発生する場合と、 ゲームに相当する概念を伴わない、独りよがりなシグナルの投げつけあいに終わる場合とが存在する。

実世界コミュニケーションのほとんどはゲーム性を持っている

コミュニケーションには「帯域」の概念がある。

面と向かったやりとりは、帯域の広いコミュニケーションであって、言葉の抑揚や声色、 演者の姿形や身振り、あるいは「拳」にものを言わせる意志の押しつけといった、 様々なやりかたを選択できる。

テキストが主体になるネットメディアの持つ帯域幅は狭い。

音声を伝えるのは難しいし、手書き文字が持つ「勢い」だとか「筆圧」みたいな要素もまた、 活字メディアには存在しない。文章による表現は、幅広いように思えるけれど、 「面と向かったやりとり」と比較した場合、テキストメディアの帯域幅は、極端に狭い。

帯域の広いメディアにおいては、「コミュニケーション」と「ゲーム」とを区別する必要は、通常発生しない。

実世界でのコミュニケーションにおいては、あらゆるルールが持ち込まれる可能性があるけれど、 自身の探索空間もまた、十分に広い。どんなルールに対しても、「解答」が発見される可能性が高いから、 コミュニケーションには、「ゲーム」の成立する可能性が高い。

面と向かったやりとりは、たいていの場合「ゲーム」であって、 「ゲームの伴わないコミュニケーション」というものは、実世界にはまれにしか存在しない。 それが殴りあいの喧嘩であったり、あるいは上司からの理不尽な叱責であったとしても、 そこが実世界なら、たいていの場合、どこかに「ゲーム」を見いだせる。

泥試合には2 種類ある

自身の選択肢が限られる状況では、相手プレイヤの持ち込んだルールの中に、「解答」が探せないケースが発生する。

帯域の狭い、ネット空間でのコミュニケーションにおいては、「そもそもゲームになっていない状況」だとか、 どちらかが新しいルールを持ち込んだ結果として、成立していたゲームが消失するケースが、しばしば発生する。

「泥試合」と形容される状況には、ゲームが継続されたまま、膠着状態に陥った場合と、 ゲームの消失それ自体に、泥試合という呼称を当てはめている場合とがあって、これは区別されないといけない。

対立する両者が、それでも「勝利」を目指してお互いを面罵し続ける状況は「泥試合」ではあるけれど、 お互いが、相手のルールの中から正解を見いだそうとしている限り、ゲームは継続している。

片方が「これは意味のない罵倒だ」と感じ、もう片方が「これは自由な言論の延長である」と 宣言しているようなケースは、お互いが、お互いの提示したルールの中に「解答」を見つけることが 不可能だから、これは「ゲームが消失した状況」であると言える。

ルールが帯域から逸脱するとゲームが失われる

帯域に見合った適切なルールが設定されないと、ゲームは成立しなくなる。

blog というメディアは、表現の制約が少ない代わり、しばしば炎上する。 同じようなテキストメディアなのに、そこに「140字」という制約を持ち込んだTwitter には、 「炎上」が発生しにくいし、周囲が「つまらない」と感じた話題はタイムラインに流されて、その場所に止まれない。 Twitter というメディアには、常に「ゲーム」が成立していて、制約が多いのに、人が減らない。

ネット上でのやりとりというのは、「文字」という、帯域幅の狭いメディア上で行われる。

喧嘩をするのに「糸電話」を渡されたら、たいていの人はそれを馬鹿らしいと思うのに、 ネット空間という、「糸」よりももっと狭い帯域しか持たない場所に、 実世界でのルールをそのまま持ち込むと、ルールが帯域から逸脱して、 ゲームは失われてしまう。

メディアが許容する帯域幅を超えた振る舞いをする人は、あらゆる帯域に存在する。

物理世界でのコミュニケーションであっても、たとえば「鼻血を出して泣いたら負け」みたいな、 最低限の「喧嘩のルール」があって、コミュニケーションのゲーム性を担保している。

ルールを逸脱する人たちは、気に入らない相手の頭をバールや鉄パイプで叩き潰して、 それを「敵を殲滅した」と表現したりする。あの「コミュニケーション」には、 ゲーム性は存在しないと思う。

自由と強さと楽しさと

言葉だとかお喋りというのは、お互いに、勝ち負けだとか、どこまで罵倒するだとか、 ルールの自由度が大きい。大きいがゆえに、制約を共有できない人とのお喋りを、 帯域の狭いメディアで行うと、ゲームが成立しない。楽しくない。

酔っぱらいとの会話は、しばしば全くつながらない。救急外来で応対していて、 こっちは医師としての制約を背負って、全然楽しくない。泥酔した人は、 酔っているぶん、文脈を無視することが出来るから、しらふの人間よりも、 よっぽど自由であるとも言える。

「自由」であることと、たぶん「強い」こととはしばしば等しい。病院が、 泥酔した人を迎え入れたその段階で、自分たちは、酔って寝るその人に、もう絶対に「勝て」ない。 その代わり、制約を受け入れない限り、その人は「強く」はあっても「楽しい」存在にはなれない。

「言論の自由」を叫ぶ人たちに対して、「あなたとの会話は全然楽しくありません」という理由で、 コミュニケーションを拒絶する態度は、お喋りをゲームであると考える限りにおいて、間違っていない気がする。

俺様は気持ちのいいこの状況に糞を塗りたくれるぐらいに自由なんだぜ」と宣言するのは勝手だけど、 まき散らした糞は、ちゃんと責任もって片づけようよと思う。楽しんでいる人たちには、 状況を糞まみれにされて、黙ってそれを我慢する義務はないはずだから。

2009.02.02

次元を下げて理解する

そのまま扱うにはあやふやすぎて、どこから手をつけていいのか分からないものを理解するためには、 「それによって何ができるのか」よりも、むしろ「それによって何ができないのか」、 あるいは、「不要な機能は何ですか?」と顧客に尋ねるのが正解なんだと思う。

コミュニケーションを図示してみる

掲示板やblog、電子メールみたいな、ネット世間でのコミュニケーションには 様々な道具があって、それでもまだ、足りないし、新しいやりかたが発見されていない気がする。

コミュニケーションというものは、考えかたとしてあいまいすぎて、どこから手をつけていいのか分からないところがある。

2次元の生き物が「立体」を理解できないように、こういうものを理解するためには、 理解の平面を強引に設定して、平面に投影された「影絵」として、コミュニケーションというものを 理解した方がいいのだと思う。

「コミュニケーションメディア」を構成する登場人物に、とりあえず、管理人みたいな「発信者」、 読者に代表される「メッセージの受け手」という、2者を用意する。決まりは絶対じゃないし、 メディアによっては、主客が逆転することも珍しくはない。

メディアを平面展開するために、「発信者の発信しやすさ」、 「過去ログの参照しやすさ、メンバーの「顔」の見えやすさ」、 「読者相互のコミュニケーション可能性」という、3つの評価軸を仮定する。

それぞれ「それができる」「むしろボトルネックになっている」という条件に対して、それぞれ「1」と「0」とを割り振ると、 「コミュニケーション」というあやふやな物体は、3次元の立方体として、座標空間に浮く。

「人間は平面に写ったものまでしか認識できない」と強引に決めつけると、 本来「立体」であるコミュニケーションは、「どれをあきらめるか」によって、 たぶん6つの「面」と、12本の「線」して理解される。

「面」のメディアと「線」のメディア

恐らくは「点」だとコミュニケーションが成立しなくて、「線」のコミュニケーションは、 たとえば電話や手紙みたいに理解しやすい代わり、代償としてあきらめなくてはいけないものが多くなる。

座標は(0、0、0)から(1、1、1) まで、コミュニケーションのありかたは、 恐らくは「12本」と「6面」に展開できる。

たとえば blog というメディアは、発信する側のスペースは広大で、 いつでも好きなことを書ける反面、読者とのコミュニケーションは、 伝える側のエントリーが発信されない限り、開始できない。 発信者のエントリーなしには、読者はメッセージを伝えにくいし、 コメント欄の話題は、エントリーの内容に縛られるから、読者相互のコミュニケーションもとりにくい。

これが掲示板になると、伝える側も、応じる側も、発信の域値を下げられるけれど、 何かが書かれてから、次の応答が返ってくるまでの間、そこにいるメンバーは、待っていることしかできない。 勝手にしゃべるとログが流れてしまうから、発信する側の自由は制限されるし、一人でたくさん書く人は、 掲示板のスペースを奪ってしまう。

チャットメディアは発信の敷居が低いし、誰が言葉を発しているのか、メンバーの「顔」がよく見える場所だけれど、 「流れ」の支配力が強い。流れに縛られて、好きなことを、好きな時間に書くことが、そもそも難しい。

Twitter は、コミュニケーションのボトルネックに相当する場所が一番少ない気がする。好きなことを書けるし、 話題が切れても独り言を続けられるし、誰かがそこにいればチャットになる。その場に居合わせなくても、 ログをたどればメッセージを送れるし、そこにいない人間であっても、こちら側から呼びかけることすらできる。

恐らくはWiki にも同じところがあって、両方とも、自由度が高すぎて、どこか「立体」に 近いメディアだから、そのことがたぶん、こうしたサービスの理解を難しくしている。

見えない「面」がどこかにある

わかりやすい「線」のメディアは、わかりやすさの代償として、様々な場所にボトルネックを抱えている。

伝統的な電子メールは、こちらが発信したあと、相手からの返信がないと会話が続かないし、 なによりも、会話がリアルタイムじゃないから、多人数で会話するのが難しい。 同時発信機能を使った「メーリングリスト」は、他の人が何を考えているのだか、 読者相互のコミュニケーションが難しいから、メーリングリストは宿命的に荒れ出して、 いい状態を長く維持するのが難しい。

電話みたいな有線メディアは、リアルタイムなようでいて、ボトルネックが多い。 誰か重症の患者さんを、どこか高次の施設に転送のお願いをするときなんかに、 コミュニケーションはしばしば凍結して、怖い思いをする。

患者さんの転院をお願いする。相手から「折り返し連絡致しますので、しばらくお待ち下さい」なんて返事をいただく。 このときすでに、自分たちは、何もできない状態に置かれる。他の病院をあたることはできないし、 「今こんなことをやっています」なんて、電話の向こう側に伝えてしまったから、待っている間に患者さんが変化しても、 それに対して対処をするのが、なんだか心理的に難しい。電話のコミュニケーションは、「濃度」が高すぎて、 電話はしばしば、相手を金縛りにかけてしまう。

今はたぶん、ネット世間のコミュニケーションも、あるいは実世界でのコミュニケーションもまた、 「線」の時代から「面」の時代へと移行しつつあるんだと思う。

それぞれのコミュニケーションメディアを「立体の平面投影」という形で分類していくと、 何となく、どこかにまだ使われていない「平面」が残っているような気がする。

恐らくはそうした「面」をプラットフォームにして、まだまだこれから、 面白いサービスが生まれてくるのだと思う。

2009.01.29

交渉における火砲の役割

交渉の場に参加する人たちには、「歩兵」や「砲兵」、「騎兵」のような 兵科の区別というものがあって、自らの兵科を理解しないで交渉に臨むと、 その強みを生かせなかったり、場合によっては墓穴を掘ることになってしまう。

「火砲」という決定的な力を持った、「砲兵」のお話。

火砲というもの

  • 「弁護士のような資格を持っている」こと、「説得力のある暴力を行使できる」こと、あるいは 「正義を自分のために運用できる」ことが、交渉の場において、火砲として役に立つ
  • 正しく生かすことができれば、それだけで交渉が終了するぐらい、火砲は決定的な威力を持っている。 その代わり、それを生かせる前提作りが不十分な状態で火砲を行使しても、いい結果は得られない
  • 一度「火砲」を行使すると、状況はもはや、後戻りができなくなる

火砲は決定的な威力を持つ反面、それが生かせる状況は限定される。 相手が見えないと撃てないし、風が強かったら外れるし、 1 mにまで接近した相手を狙ったところで、狙いを定める前に襲われてしまう。

砲兵はだから、「火力を持った強い歩兵」などではなくて、 歩兵とは全然違った戦闘教義に基づいて運用しないと力を出せない、 全く別の兵科だと理解する必要がある。

法律という火砲

たとえば法律という武器は、それが正しく行使されれば、交渉の流れを決定する、 強力の武器だけれど、「こちらが合理的な説明を繰り返しているのに、相手がそれを拒否している」という状況が、 前提として成立していなければ、その威力を生かすことができない。

法律家はあくまでも、「法律という火砲」を扱う専門家であって、 法律が生かせる前提作りが為されていないまま、 法律家を「交渉の名人」として交渉のテーブルに招いたところで、状況は解決しない。

弁護士は、「交渉に強い」というイメージを持たれたり、あるいは弁護士の人たち自身、 交渉に強いという自己イメージを持っているからなのか、「弁護士が書いた交渉の本」は、 世の中に何冊も出回っている。

弁護士の人たちは、法律の知識という強力な武器を持っているのに、 「弁護士の交渉学」には、その武器を駆使するやりかたが書かれていない。 「弁護士の交渉学」ではむしろ、自らの、「人としての交渉哲学」みたいなことが、 一生懸命語られる。その内容はたいてい、心理学系の人たちが書いた交渉のコツみたいなことばっかりで、 それを参考にして役に立てようだとか、あんまり思えない。

弁護士はしばしば、職業からは考えられないような失態をしでかしたり、 「職業倫理に反した」振る舞いを犯したりする。あれなんかはたぶん、 法律という決定的な武器が使えない状況におかれながら、それでもなお、 「交渉の名人」であることを要請されて、無理な交渉に足を踏み入れてしまった帰結なのだと思う。

暴力や正義にも使いどころがある

「暴力」という武器も、交渉においては、万能ではあり得ない。 たとえば交渉のテーブルに着いたその瞬間に、「殺すぞ」なんてすごんだところで、 相手がそこから逃げてしまえば、交渉は続かない。警察にでも駆け込まれれば、事態はむしろ悪くなる。

恐らく暴力という火砲が効果を発揮するためにも、いくつかの条件がある。

交渉の場所が外から閉じていること。そこに集まったすべての人が、 言いたいことを言い尽くして、みんな後に引けない状態になっていること。 恐らくもう一つ、「平等に痛みを分かち合う」以外の選択枝が見つけられないという、 こうした前提がそろったところで、交渉を解決するためのきっかけとして、暴力が場から要請されるのだと思う。

火砲には、もう一つたぶん、「正義」というものがあって、市民団体を率いる人だとか、 場合によっては政治家の人たちがこれを使う。正義もまた、前提条件に厳しく縛られる 「火砲」であって、前提条件を満たせないままに正義が発動されても、むしろ使った人が傷ついてしまう。 恐らく「正義」が効果を発揮するためには、マスメディアという、「騎兵」に相当する兵科の援助が必要なんだけれど、 このあたりはよく分からない。

運用は運用でしか解決できない

狙いを外した大砲を、いくら強力に改造したところで、大砲はやっぱり当たらない。

運用の問題は運用で、技術の問題は技術で、解決は、それぞれ別個に行わないと意味がない。

交渉において、「火砲が生かせない状況」を、「火力の増加」によって解決することはできない。 それを試みた砲兵は、たぶん増加したその火力で、自ら損害を被ることになる。

前提作りというものは、恐らくは「歩兵」の、利害に直接絡む、 現場でお互いに、直接交渉に当たる人たちの仕事なのだと思う。

相手を理論で追い詰めるとか、隠しておいた証拠を突きつけてみるだとか、 あるいはちょっとした、「後戻りの効く」程度の暴力をふるうだとか、「歩兵」どうしの、 そんな「白兵戦」が重ねられていく中で、状況がある「前提」に到達する。 それを決定的なものにするために、はじめて「砲兵」が要請されて、火砲は威力を発揮する。

歩兵の戦いかた。騎兵の戦いかた。砲兵の生かしかた。「兵科」が異なれば、 振る舞いかたはみんな異なって、自分の属する兵科の長所を生かしながら、 相手兵科が生きる前提を避ける、交渉は、そんなやりかたをしないといけない。

相手が弁護士だから、マスメディアだから、そういう人たちが乗り込んできたからそれで「負け」ではないのだと思う。

「歩兵」にもまた、歩兵にしかできない、能力の生かしかたがあるのだから。

2009.01.24

法律というカードの切りかた

「プロ法律家のクレーマー対応術」という本の抜き書き。

法律の専門家である弁護士が、「自らの有効な使いかた」を指南してくれる、 おもしろい立ち位置で書かれている本。

あくまでも「弁護士に相談できる」という状況でしか役に立たないけれど、 何というか読むと「勝つ予感」がしてくる。

意味のない責任回避が顧客を怒らせる

  • 単なる責任回避は、交渉の成功に何ら貢献しない
  • 企業側が、意味のない責任逃れをする態度を見せることで、「怒れる顧客」が「悪質なクレーマー」へと変貌してしまう
  • 代理店の過失を、たとえば本社に持ち込まれたとして、 それを「代理店の問題だからうちは関係ない」といった対応を行ったところで、 その責任逃れは、「本社の人」を慰撫する役には立っても、顧客の不満解消には、全く貢献しない
  • メディアを騒がす不祥事などでも、たとえば企業の代表者が「報告を受けていなかった」であったり、 「あれは現場の判断であった」であったり、安易な責任否定を行ってしまうと、むしろ事態を悪化させる
  • 無意味な責任否定はすぐ見抜かれる。相手は納得するどころか、むしろ「奴らは何かを隠している」みたいに、 痛くもない腹を探りはじめる

損害と要求との関連性

  • クレームを受けたときには、まずは顧客の受けた損害と、要求との関連性が検証されなくてはならない
  • 事実の確認がすむまで、次のステップ、たとえば損害の査定や賠償額の提示に進んではならない
  • 企業側が非を認めることと、顧客の被害申告が真実であるかどうかは、全く別の問題。 顧客が要求していることが、その損害の回復と必ずしも関連性がないという場合は、実際よくある
  • 「社長が出てきて謝罪せよ」だとか、「新聞に謝罪広告を」みたいな要求は、 顧客の損害との関連性が見つからないことが多い。こういう要求は、 基本的に損害の回復と関連性がないので、企業側は受け入れなくてもよい
  • 企業側の瑕疵と、顧客の受けた損害、あるいは顧客の要求と、損害の回復と関連が「ない」と 判断されたら、その顧客への対応は、「悪質なクレーマー」によるものとして、法律家の支援を仰いだ方がいい
  • 具体的にはそれは、「要求の拒絶」と、「交渉窓口弁護士移管の文書の郵送」という手段になのだという

堂々巡りを目指す

  • 「おまえは顧客の言うことを信じないのか?」と問われたときには、切り返しかたがある
  • 「お客様の被害申告を先入観なく拝見しましたが、そこに不自然なものがあり、それについて、 私どもが合理的な説明を求めても、お客様がそれをなされなければ、客観的に見て、 そのような被害申告事実を前提で賠償することはできないということです」と言えばいい
  • こうすると、話が堂々巡りのループに入る。状況をループに落とし込んでから、交渉窓口を弁護士に移管するとうまくいく
  • クレームに対して、「こちらが合理的な説明を繰り返しているのに、相手がそれを拒否する」という状況が成立して、 はじめて「法律」というカードが生きてくる

交渉は現場レベルで行う

  • クレーム対処は面倒で、現場はむしろ、話を上へ、上へと放り上げたくなる。「上」もまた、対処面倒だから、 むしろ「現場でやれ」なんて言う。正解は「現場」なんだという
  • 「社長を出せ」には返しかたがある。「上に話させろ」に対しては、 「事実関係の確認と報告については、私が責任者ですので、事実関係についてのお話は、私がお聞きします」と答えればいい
  • 相手から言質を取られないコツは、「自分には決裁権はないが、事実調査については自分が責任者である」という 立ち位置を貫いて、事実関係の確認に集中するということに尽きる
  • 謝罪とか、賠償の話題については、事実を明らかにした上で、改めて決裁権のある人間から話をしてもらえばいい。 この部分は逆に、「上」がやらないといけない
  • 「念書」の効力は絶対で、だから書いてはいけないんだけれど、その気になれば撤回できるらしい。 その代わり急がないと無理で、「危ない」と思ったら即座に、弁護士名義で念書撤回の通知を出さないといけない

法律家の手紙の使いかた

  • 「クレーマー」との連絡は、基本的に普通郵便で行う。必ず書面で行い、電子メールなどを使ってはいけない
  • 手紙であることには意味がある。大切なのは「返答のしにくさ」であって、電話だとか、メールのような、 気軽に反論できるメディアを使うと、相手の怒りを増幅する
  • 不思議なもので、郵便のような形で書面を受け取ると、相手もまた、 郵便という手段を使わないといけないような気分になるのだという
  • 手紙を書いて投函するという作業は、やってみると意外にハードルが高いので、 相手側に「不当なクレームを要求している」という後ろめたさがあれば、それだけで、 話が終わってしまうことも少なくない
  • 私見。「鉄人」ルーテーズ(たぶん)が、昔同じことを言っておられた。 必殺技のバックドロップを相手にかけるためには、まずは「ヘッドロック」をかけるのだという。 執拗なヘッドロックを受けた相手レスラーは、不思議なもので、必ず同じ技でやり返そうとする。 ヘッドロックを予期していたルーテーズは、満を持して相手の腰に手を回して、 そのままバックドロップで相手の息の根止めるんだという
  • 手紙は普通郵便で送るべきで、内容証明を使ってはいけない。 クレーマーは警戒心が高いので、内容証明などを送りつけると、警戒して、受け取ってくれない。
  • 内容証明郵便は、法律家の文脈だと、「誠意ある手紙を出したのに、相手は受け取ろうともしなかった」という 既成事実を作るための道具であって、確実に読んでほしい手紙は、むしろ内容証明を使ってはいけないんだという

弁護士移管通知の注意点

  • 手紙もまた、「相手に使われる」可能性に注意した内容にしないといけない
  • 具体的には、通知文の中には、彼らの不当な要求を、なるべく具体的に記述する
  • 「要求が不当なので交渉できない」のような、あいまいな記述を行ってしまうと、 これをネットで公開されて、「彼らは要求に対して、一方的に交渉を拒絶してきました」といった説明をされたりして、 大損害になることがある
  • 「100万円の寄付を求められた」だとか、「社長の土下座を要求された」だとか、 顧客の行った要求が具体的に書かれた文書は、こうした利用を抑制する効果が期待できる

勝つ予感のこと

この本自体は、読むともっと「きれいな」部分もたくさん書いてある、交渉の入門書なんだけれど、 読むとなんだか、よくできた任侠映画を見たあとみたいな、「勝つ予感」みたいな感情が残る。

勝つ予感を持たせるためには、やっぱりデザインという要素が大切で、この本だとそれは、 「とにかく堂々巡りの状況に相手を追い込んでくれれば、あとは弁護士が出撃して粉砕だよ」という、 筆者なりの、必勝イメージがきちんと描かれていることなんだと思う。

どんなやりかたであっても、いつかは必ず攻略できるし、作者が提示する処方箋は、 たとえば病院でそのまま使うことはできないんだけれど、作者の人はたぶん、 たしかに自分なりのやりかたで、今まで何度も鉄火場潜ってきて、生き残ってきたんだろう。

使い古されているけれど信用できる、AK47 みたいなやりかたというか、 こういうやりかたを目指したいし、実践したいなと思った。

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