2008.06.17
能力のこと
「激動中国」という番組で、中国の医療が特集されていた。片目を失明してしまった少年が、 網膜のレーザー照射を受けるために700km離れた北京まで出かける必要があって、それには ものすごいお金がかかって、一家が経済的に傾くお話。
番組を作った人達は、高騰する医療費に批判的な、市場化が暴走した医療を問題視する 立ち位置だったけれど、取材を受けていた一家に限れば、問題はむしろ他にあるように見えた。
主人公の子供さんが受けていたのは、たぶんごくありきたりな治療。報道されていたのが全てだったら、 わざわざ北京まで出かけた先の「名医」は、必ずしもすごい技量を発揮していたわけではないし、 子供が受けていた、網膜のレーザー照射にしても、日本だったらどこの市中病院にでも普通においてあるような機械。
中国の医療レベルは決して低くなくて、トップクラスは普通に英語をしゃべれるし、医療機器なんかも、 法律の縛りが穏やかな分、日本なんかよりもよっぽど速く、最新の機器が導入されてたりする。 網膜のレーザー照射なんて、自分たちが研修医の頃から普通に行われていた治療だから、 あの一家は恐らくは、わざわざ北京の一流病院に出向くまでもなく、もう少し近場で、 同じ治療を安価に受けることができたはず。
たぶんあのご家族が対峙してたのは、医療の問題と言うよりは、むしろ情報の問題。 あの人達は、適切な情報を手に入れる手段を持っていなかったから、たぶんもっとも「高級な」 治療手段を選択せざるを得なかった。
あのご家族にもっと経済力があれば、あるいはもっと適切な情報を探せれば、あるいは詳しい人に知りあいが いれば、漠然と「能力」を持ってさえいれば、結果はずいぶん違ったのだと思う。
生きるためのコスト
「生かす」の単位がそもそも定義できないんだけれど、生活力のない人を「生かす」ためのコストというのは、 それを持っている人に比べて、圧倒的に高いような気がしている。
何もできなくて生きていけない人というのが、いる。身体的な病気はないのに、 とにかく何もできない人。仕事もしてないし、親類縁者は縁を切ってて、 役所がお金を渡しても、全部アルコールに変わってしまって、ご飯を買うお金を取っておくとか、 そんな発想がそもそも無くて、肝臓壊して餓死しかかって、ある日救急車で運ばれてくるような人。
もちろん生活保護になるんだけれど、お金を渡すだけでは同じことの繰り返しで、田舎だから住む家は あったりするんだけれど、見守るための民生委員とか、介護人だとか後見人の確保だとか、 退院に持って行くためには、すごい人手がかかる。
自宅に帰っても同じこと繰り返して、緊急避難的に特養に入れて、結局そこから先の展望無くて、 そんな人はたいてい、そのまんま一生そこにいる。食事の世話から風呂から着替えから、そうなると 全部介護の人がやってくれるし、あらゆる事務手続き、書類の世話とか財産の管理は、 今度は全部、市のソーシャルワーカーがやってくれる。
もちろん毎日のナース巡視はあるし、体温と血圧ぐらいは毎日測って、異常があったら病院に来る。 送迎はもちろん施設の車で、病院にはちゃんと、施設の人が付き添ってくる。こういう人は、ここまでやって、 やっと生きられる。
ただ「生きる」だけのコストが、こういう人達は、どういうわけだかすごく高い。
絶対的な財産の量で言ったら、企業経営をしているような富裕層のほうがもちろん多いはずだけれど、 「生きること」に必要なコストは、生きていく能力のある、財産を持った人というのは、 あるいはとても安価なのだと思う。
自分の居場所から見える「生活できない人」というのは、人口20万人圏内のうちで、100人程度。 たぶん保護なんかが行き届いてない人はもっと多い。自分は内科だから、外科だとか精神科だとか、 他科から見た風景は、もっと異なってくるのだとは思う。
「楽しむ」能力
医局の人達と、ご飯を食べに行ったりする。同じお金を支払って、同じもの食べて、 条件を一緒にしても、感覚する「おいしさ」みたいなものは、やっぱりその人が持つ「能力」に 応じて、ずいぶん異なるような気がする。
上手な人は、楽しむことが本当に上手。いい料理屋を知っているとか、いいワインが選べるとか そういうのではなくて、どこに行っても何だか気負わない、場を楽しむのが上手な人。 それができる人が一人いると、みんなでご飯を食べてもおいしくて、まわりもまた楽しめる。
「できない」人ばっかりだと、どんなに高級なところで外食しても、何だかみんな見栄張って、 料理見ないで仕事の話し始めたりして、ご飯がもったいない。「見られる自分」みたいな、 余計なことばっかりに意識が行って、何だか楽しめない。自分も含めた「できない」連中は、 きっとみんなそのこと分かってるんだけれど、楽しみかたが分からなくて、楽しもうとするんだけれど、 やっぱり「楽しめる」人が一緒でないと、楽しめない。
料理食べて、「おいしいね」なんてほんの一言、気負わないで言うだけの能力なのに、 それが何だか決定的な能力差として効いてくる状況というのがしばしばあって、 できる人はそれが当たり前のように身についてるし、できない人は、そうなりたいと思っても、 やっぱりどうやっていいのか分からない。
たとえば「自分で料理を作って、それを日記にして公開する」なんて試験をすると、この能力が 定量できるような気がする。
いろんな料理サイトがある。見た目がきれいだったり、いろんな材料を使ってたり、 「一生懸命さ」みたいなものは、どこ見ても伝わってくる。「自分も作りたいな」なんて思う文章は 案外少なくて、あんまりおいしそうでうらやましく思えるような文章は、もっと少ない。 そういうところに限って、作ってるのはただ豆腐ゆでただけだったり、魚焼いただけだったり、 もっと手をかけて、もっとおいしそうな写真出してるサイトなんていくらでもあるのに、 「うらやましいな」なんて指くわえて眺める料理は、かけた手間とは無関係だったりする。
お金の使いかた、同じ金額のお金を使って、そこから得られる楽しみの量みたいなものは、 やっぱり「能力」みたいなもので相当に左右されるのだと思う。
自力で生活するだけの能力に欠けていて、なし崩しに生活保護になるような人は、 それでも生活していけるだけの収入と、生活に困らない程度の住居を得られるのに、 お金は結局全てお酒に変わって、娯楽なんてせいぜいパチンコぐらい。
「やることがないんだ。すごく辛いんだ」とか言われたことがある。本心なのだと思う。
平等という前提が格差を生む
持っている能力と、能力を生かすための環境要素と、パラメーターは複数あるけれど、 ベクトルが幸福な一致をみた状態においてもなお、その人が持つ「能力」の絶対値みたいなものには、 やっぱり厳とした差が出てしまう。
「能力差」みたいなものは、「あるのだ」と積極的に認めるところから議論をはじめないと、 何だかいびつなことになるし、問題は解決しない。平等だとか正義だとか格差だとか、 そもそもはたぶん、能力の平等なんていう、間違った考えかたを前提に、 世の中を見てしまったがために生じた誤謬だと思う。
「能力の平等」が、揺るぎない前提になってしまっていると、本来は能力差でしかないものが「勝ち負け」を生んでしまう。 そもそも前提が間違っているところに生まれた勝ち負けを正当化するために、欺瞞に満ちた、 本来は必要ないはずの、正義というあやふやな価値軸が後付けされた。
「人間は平等」という立ち位置は、市場原理主義みたいな人も、人類皆兄弟の人も、みんなそれを前提にして、 自らの考えかたを補強するための武器にしている。市場の人達は、だから「機会均等が平等だ」なんて言うし、 皆兄弟の人は、平等なのに結果が不平等なんておかしいなんて言う。行ってること全然違うのに、どちらも平等で、 どちらも正義で、反駁が難しい。
人類皆兄弟の人達は、能力平等、機会平等なのに結果が不平等な現状を見たら、 まずは「能力平等」の前提を疑ったっていいはずなのに、それをしない。 能力の不平等を前提にするならば、政治の不作為を矛盾なく叩けるのに。
市場原理主義の人達は、「能力平等」が誰からも反対されない状況を利用できるからこそ、 「機会の平等」を矛盾無く主張する。派遣労働のやりかたとか、格差社会一般とか、 能力の不平等性が前提になってたら、もっと救済策取られてもいいと思うけれど、 能力は平等なことになってるから、「それはこれから能力発揮する人達に失礼だ」なんて、 本心からそう叫べたりする。
「椅子取りゲーム」みたいな自由競争ゲームは、勝ち負けを生むけれど、みんなの機会は均等。 負けた子供が先生に抗議しても、「君の努力が足りない」なんて突っぱねたって大丈夫。ところが足の悪い子供が 混じってたり、目が見えない子供が交じってるクラスで「椅子取りゲーム」を企画したら、 きっとその教師は、世界中から見識問われて、きっと叩かれる。
持って生まれた能力差を呑み込むところから議論はじめたほうが、物事がシンプルに、 世の中あるがままに議論ができるような気がするんだけれど、ここから先は分からない。
そもそも能力の異なった、不均一な集団を相手に「機会の平等」を説く欺瞞というものは、 能力の不平等性をみんなが受け入れた時点で、その効果を失うはずだけれど、 その代わり、ならば能力が不均一な人達を相手に、どんなルールを敷くのが一番「正しい」のか、 そもそも正しさという価値軸が必要なくなったはずの不均一な集団にどうして正しさが必要なのか、 このへんになると、もう想像力が届かない。
誰か考えて。。
機会の平等なんてのもマヤカシでしょう。
結果も機会も、
人間それぞれで違ってるから、人生おもしろいんであって、
その中で自分自身をおもしろがれば、
まあ何とか、おもしろく人生おくってゆけるような、
気がしてますがね。
正しさというか善悪、というものより、
快、不快で、そして好き嫌いで、
自分の好き嫌いの感覚に正直に生きるのが、まっとうな人生だと思ってますがね。
でも、その快不快、好き嫌いの基準の違いが、
持って生まれたか三歳ぐらいまでの育ち方かで決まってしまって、
そしてそれこそが、平等じゃないわけで、…またそこがおもしろいわけでね。
Posted at 2008.06.17 7:36 PM by d
能力のちがい(多元ベクトルかテンソルか)を
優劣(スカラー量)という「一本ものさし」へ押し
込む欺瞞。機会の種類や質こそ決定的なはず
なのに。
「一本ものさし」は往々にして有効な便法では
あるけれど、便法を真理扱いして信仰したら、
そりゃツケはいろいろまわりますね。
ところで「男の趣肴」サイト、本当にありふれた
モノがおいしそう…たのしそうだからおいしそう。
http://www.ajiwai.com/
たまにマネしてみることも。
Posted at 2008.06.17 7:54 PM by しらせひびき
実は一ヶ月前ほど前から、拝見してます。
僕は、大学3回生で、京都に住んでます。理学部に在籍してますが、大学院には行かず就職しようと思ってます。
能力が不均一の集団のなかで合理的に考えれば、教育を例に出すと教科ごとにクラス分けしたほうが効率がいいことになります。でも、現在の教育では、究極に細分化した少人数クラスは推奨されるのに、その中間である能力別クラスに関する議論はされません。本来教師の数を考えるとこちらのほうが合理的にもかかわらず。こういう風潮になるのも能力の不平等が前提になっているのかも知れません。僕は、数学科にいるのもあり能力はまったく平等でないのはひしひし感じます。
市場原理は、日本では一般には嫌われますが、新聞では悪名高いイギリスのTCIも会長の奥さんはTCIの収益の1%のお金を使って貧困のための活動をしているそうです。
昨日大学の講演で「真のリーダーはどのような人か」という話をしていましたが、何人か発表した学生のうち定義のない「社会貢献」という言葉や、企業や国のトップでなく貧困や病気のためにがんばっている人こそ本当のリーダーですと言っていました。
完全合理的な社会もつまらない、ありえないですが、僕は多数派の人が経済学で言う比較優位のような考え方があってもいいのではないのかとは思います。稼いだお金の分人に何かを与えているという。これが「正しい」か分からないが、今の社会構造においては「正しい」考え方のように思います。
大学のなかでもまだなにも考えず、道に沿って歩いている人もいる。自分から情報を得ようとしないため、つまずくまで考えず、つまずいたときにはもう遅い。
伝えたい人にはそれを伝えるセミナーがあっても任意なら参加しない。もし強制的に参加しても伝わらない。
高校時代寮に住んでいたこともあり情報がなく、将来のことを恥ずかしながら考えていなかった。そう考えると、今必要なことはさまざまな現在の情報を自分で調べ理解するチャンスなのかもしれない。
Posted at 2008.06.17 8:08 PM by フィッシャー
考えすぎて少し疲れてしまって、仕事で頭をリセットしてきました。
僕は10代のころから、「平等」とか「やさしさ」とか生きる意味」とか、、、哲学的な事考えてたら受験戦争に失敗し、ぶらぶらしてたらバブルが崩壊し、、なんだか生きていく意味も、目標もはっきりしなくなってしまって。でも、死んでしまうのもみんなが悲しむからできなくて。生きる意味を探すために生きて来ました。そして、生と死が向き合う「医療」現場で当事者として死をリアルに見続けることで、逆に「生きる意味」が分かるのじゃないかって思っています。
「平等」なんて言葉は統治する立場から見た「同じ」って位の意味しか無くて、本当は適材適所で仕事をし、自分の身近にいる人が「幸せに生きられる」状況を作っていくこと、、それが現時点でできることかな。
教育は本当に悪かった。。。背の高い子が高いところの物をとったり、掃除したりして背の低い人は低いところを掃除すればいい。力持ちの子は女の子や力のない男の子の荷物を持ってあげたらいい。人をまとめる力のある人がクラスをまとめていけば良かったのに。。
「平等」なんてあるわけなくて、どんな人も「同じ人間として、決して差別しないこと」だけでいいと思う。病気の人も年寄りも。
バスケット部では背の高い人はそんなに練習しなくてもダンクシュートできるけど、背の低い人はどんなにジャンプの練習してもダンクはできるようにならない。。でも、背の低い人はより機敏であるので高く飛ぶ必要なんて無い。
僕は少し背の足りないセンター。2メートルくらいの背が欲しかったけど、あったらもっとチームも強くなっていたかもしれないけど、、、弱くてもそれでも楽しかった。
昔の学校にはそう言う「適材適所」を実現する場所が残っていたのに、だんだんと、大学を意識するようになるころから、すべてが壊れ始めた。部下に教えるのが好きなバスケ部の先輩は大学には3浪してたなあ。僕は5年ほどフリーター(大学に籍はあったけど)してた。「医学部へ入る学力がない」という理由を自分も、教師達も、親も共有していたから。呪縛から自由になったら、本当になろうと思う者になれた。不思議だ。
Posted at 2008.06.17 8:58 PM by 黒猫
能力が違うだけじゃん
人には能力の差があるというところから議論をはじめろとの論。「能力差」 みたいなものは、 「あるのだ」 と積極的に認めるところから議論をはじめないと、 何だかいびつなことにな…
Posted at 2008.06.17 9:35 PM by 浦島雑誌
はじめまして。いつも楽しみにさせて頂いてます。
「能力が不均一な集団の、みんなが納得できるルール」について私なりに考えました。
まず、ルールは必要だと思います。同じ共同体(国、地方)で生活しているのですから、特定の人だけの不満が解消されて、あとは放置という状態は問題となります。この問題を最小にするという意味で、人はお互いに不満が最小になるようにする必要があると思うのです。(不満は、どうしても残ってしまうのがつらいところです。)
次に、どんなルールが正しいのか。それは、「累進課税」(成果に対してハンデを付ける)方式が正しいと思います。能力が不均一な集団の競争に、みんなが参加できるルールとしては、何かしらのハンデを付けることが良いと思います(ゴルフや囲碁などのゲームを参考にしました)。しかし競争の前にハンデを付けること(決めること)は無理なので、競争の後にハンデを付けることで、能力に見合ったハンデを目指すのです。
競争によって不利を被った人たちは課税によって有利となり、競争によって有利となった人たちは課税によって不利となることで、「能力が不均一な集団」のみんなの不満を最小にするということを達成できると考えました。
Posted at 2008.06.18 1:36 AM by つち
中国ドラマで「礼とは中庸のことである」という台詞がありました。中庸とは公平さを意味してるらしいのですが、つまりこの台詞の意味は、公平さはおもてなし(礼儀)だ、ということではないかと思ってます。ということは「平等」も他者から与えられるおもてなしでしかなく、社会から保障され生得的に保有しているものではない、ということになります。
そうすると「平等」は能力の高い他者が分け与えられる「余裕」がある限りにおいてのみ行使される他者からの配慮になるわけで、これはもう、景気とか社会の好調さによる部分が多いのではないでしょうか。
そういう意味で、平等じゃないところから始めて、能力の高い人間の「余裕」をいかに大きくさせるか、というフィッシャーさんの話がひとつの解決策なんだろうなとは思います。でもこれは今よりももっと格差を広げて「施す」気持ちを増大させないと実現しないだろうから、良かれ悪しかれですけど。
Posted at 2008.06.18 1:40 AM by semo
あまり関係ありませんが、ゼロ・サム・ゲームの場合、まったく能力差がなくても、少数の勝ち組と大多数の負け組みに分かれるというのは、投資の基礎知識。
http://www.geocities.jp/y_infty/randomist/randomist.html
ゼロ・サム・ゲームのような競争は、例えどんなに公平であっても、ギャンブル以上の意味はないかも知れないと思います。
生活力がない極端な人たちといえば、刑務所の中が一番まっとうで暮らしやすいという人たちもいますねえ。。。
Posted at 2008.06.18 7:59 AM by to
「機会の平等」は、スタート地点。
そこから「能力」を駆使して「成果」というゴールにたどりつくのだとおもう。
速く、とか、速く、とか、安全に、快適になどなど、それぞれのゴールで得られる成果は
能力によって、千差万別なのに、同じ品質(自分より上質なもの)の成果をすべての、能
力に対して求めてしまうことが、結果の平等とか格差などが知覚されてしまうのだと思う。
スタート地点とゴール地点を比較しても議論にならないのは当然。
不均一な能力の集団に「機会の平等」を説くのが欺瞞であるならば、同じ価値観のゴール
を用意必要があって、それは
1)スタート地点に格差をつけ、同じゴールを設定する
2)ゴールのレベルを能力差が目立たない近くに設定する
のいずれかになるのでは?
そんなゴール(正しさ)は、つまらなくて誰も必要としていない。
不均一な集団に、同一の正しさを与えるルールを考えるのではなくて、同一の正しくない
ものを解消するルールを探すほうが近道のような気がする。
Posted at 2008.06.18 8:56 AM by 幻影
>人には能力の差があるというところから議論をはじめろとの論。「能力差」 みたいなものは、 「あるのだ」 と積極的に認めるところから議論をはじめないと、 何だかいびつなことになるし……
こういうリクツはきわどいなあ。いかにも自分に能力があると思い込んでいる者が、少し優越感のようなものにひたりながら、敢えて言ってみるという構図ですね。
「能力差」があるのは当たり前のことです。みなが同じようにオペラを歌えるわけでなし、皆が金持ちの方法に長けているわけでもあるまいし。立てる問題の筋が違ってますよ。
問題は、環境によって、機会によって、本来もっている能力が育成されたり発揮されずに「差」が生れるとしたら、(そういう例は世の中にいくれあもあるだろう)それは本人にとっても社会にとっても不幸な損失だということだろう。
それを捨象していきなり、能力差を前提に話を進めろというのは、危険な方向です。いつからこういうことが大手を振って語られるようになったのだろか。
Posted at 2008.06.18 10:10 AM by 輪舞
能力は不平等、よって機会も(開かれてはいるけど)実質不平等。
こうなると、あとはノブレス・オブリージュの一般化・浸透化でしょうか。上でフィッシャーさんも述べてる通り。
差が出るのは仕方ない。なら成功者は奉仕せよと。税金の納付だけではなく。
もちろん、同時に成功者はもっと尊敬されるべきだとも思う。成功者を妬み、足を引っ張る風潮も無くさないといけない。
Posted at 2008.06.18 10:15 AM by hau
↑
医療現場も、過酷な医学部時代を乗り越え、厳しい研修期間を乗り越え、以前みたいに「お医者様」なんて尊敬されることなく「モンスターペイシェント」にクレームつけられたり、訴えられたり。。。酷いもんですよ。その結果医師が病院を去り、医療崩壊が起こり、結局患者さん達が困っている状態です。
尊敬されたり、「ありがとう」の一言すらなければ、お金儲けに走ったり、リスクの極端に低い分野でしか生きなくなるのです。あるいは自我の崩壊を来たしモンスタードクターとなってパワーハラスメントに走ったり、変な性癖に走ったりとか。困ったものです。
多くのドクターはたくさんのお金を欲しいと思ったりしてません。働きに見合うだけの報酬でよいと思っているはずです。一番欲しいのは「敬意」かな。
Posted at 2008.06.18 11:11 AM by 黒猫
私はマルクスを深く追求していない世代だけど、お金(貨幣)は、世の中の商品やサービス等の「目に見える価値」を交換可能とするためにできた便宜的なものという見方をしている。「目に見える価値」を基準にすれば、同じお金を出せば同じ物が買えるという意味で、「お金の価値は平等」という表現はトートロジーであり、何の意味も無い。
で、実際、自分が感じている「価値」は、例えば、medtoolz先生の本文にあるように、同じレストランに行って同じお金を払っても、人により全く異なるようなもの。いわば、人生を楽しめるかどうかという多次元的なものだから、それをモノサシにすれば、「お金の価値は平等ではなく、個々の人の能力によって違うんだ」ということになる。最初にあった中国人の医療アクセスにしても、為替・購買力/環境といった要素を除いても、「結局は、能力の差だよね」という解釈になる。で、それを表面的にお金のモノサシで測りなおすと、本文にある「生きるコスト」の差になるのかな。
「勝ち組負け組み」の議論は、一番低いレベルでは「生活できるか否か」というお金中心の問題だけど、実際に人々が感じ・熱く議論しているレベルは、お金の問題のように見えて、実際は、人生を楽しめるかどうかという多次元的な問題。現状の生活に満足していないとき、所得優位の人は自分の立ち位置を見て、自分の満たされない気分を打ち消そうとするし、(一番低いレベルを抜けた)所得劣位の人は、自分の満たされない気分を所得の所為にする。
多次元的問題に「基準」を設けることは難しくて、一次元的なモノサシが無い以上「正しさ」なん目盛りを打つこともできないから議論は収束しない。勝ち組論争も、自分の立ち位置の評価が他人との比較にある限りは「満足」も「納得」なんてできるわけもない。
何だかそう考えていると、「人間は平等」とか市場原理主義なんて見方が、すごく一面的に見えてくる。某先生の言う「300万円でも、幸せに感じているよ」と言えば負け惜しみにしか聞こえないけど、「300万円」っていうのは半分客引きのキャッチフレーズであって、500万円でもいいはず。本当に見るべきは、同じ800万円もらっている人達の間でさえ「幸せ」って、すごく幅があるということだと思う。blogやInternetの怖さは、その自分には無い(そもそも同じのはず無いんだが)「多元的価値」が文章の中から垣間見えてしまうことにあるかもしれない。
Posted at 2008.06.18 12:06 PM by Tom
なんかこういう話題になると、コメント欄に長文増えますね。。「どうすればいいのか」の答えなんて、それこそ大昔から、いろんな立場の人達が考えてて、答えなんて無いんでしょうけれど。
それでも「銃・病原菌・鉄」を書いた先生みたいなものの見かた、中身は一緒で環境因子大切みたいな立ち位置は、人に優しいようでいて、やっぱりみるべき何かから目をそらしているような気がしています。
Posted at 2008.06.18 12:44 PM by medtoolz