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2009.10.29

総合医はお辞儀ができない

相手に打ち勝つためでなく、むしろ様々な業種の人たちと「共生」していくために、 専門性という看板が役に立つような気がする。

握手をしないと始まらない

「何でもできる医師ははかっこいい」なんて、そういう価値軸に基づいた訓練を受けた大手民間病院の医師が、 大学に「帰還」して、「何でもできる」自分をそこでデビューさせることに失敗して、 そこから先がちょっと不遇になるという事例が時々ある。

こういうのはたぶん、「握手の失敗」なんだと思う。

人がたくさんいる豊かな環境、様々な専門技能に分化した、そのくせ「優秀さ」みたいな漠然としたパラメーターにおいては 似たような人たちが群雄割拠している場所に割り込んでいくためには、たぶん「見えやすい弱点」が必要になる。

頭を下げないと、新しい場所には入れない。「何でもできます」という人は、 「何かができない」人に対して頭を下げるための理由が発生しないから、 どこか新しい場所に分け入って、そこに自分の居場所を確保するのが難しい。

これが専門家なら、こういうときに「専門家です。他のこと分かりません。教えて下さい。よろしくお願いします」 なんて、最初からそこにいる誰かと握手して、自分の居場所を分けてもらうための「最初のお辞儀」がやりやすい。

恐らくは専門技能というのは、それを使って誰かを従えるための武器というよりも、 「私はここが弱いんです」なんて、その専門家を迎え入れる人たちに明示することで、 新しい場所に入り込むための切符を提供する道具として、上手に機能しているんだと思う。

「えらくなれる場所」を探す

誰だってたぶん、「相手に舐められたくない」なんて、どうしようもなく思ってる。 メッセージはだから、発信する側と、それを受け入れる側と、しばしば意味あいが異なってくる。

「専門技能を持っています」というメッセージは、それを受ける側からすれば、 「専門領域以外は弱いんだ」なんて受け取られる。迎える側はだから、 「教えてやろう」なんて、素直に行動する気がする。

「何でもできます」という看板は、相手には「俺すげぇ、俺に黙ってついてこい」なんてメッセージを送る。 「何でもできる」人が、どれだけ丁寧に、腰を低くして相手に接したところで、 そうしたメッセージは伝わらない。

「何でもできる」人が、看板の伝えるメッセージのとおりに、その能力を生かすためには、 最初から「そこで一番えらい人」としてそこを訪れない限り、難しい。 「俺すげぇ」の看板を背負わざるを得なかった、「何でもできる」以外の売り要素を身につけることに失敗した人は、 だから「自分がえらくなれる場所」を探して、そこに居着くことを考えないと、幸せにはなれない。

「万能選手」はたぶん、高地とか、雪山みたいな厳しい環境に追いやられる。 ジャングルだとか、サバンナだとか、生態の豊かな場所にいる生き物は、 競争の結果として、ある種の専門性を備えた、お互いに生態系を形作る理由を持っていないと、 生き残れない。

夜行性の生き物や、あるいは高地や雪山、乾燥地帯みたいな場所に適応した生き物というのは、 一見すると専門性が高いようでいて、彼らは案外、「そこに追いやられた何でも屋」であるような気がする。 そういう場所には栄養だって少ないだろうし、使えるものなら何でも使い尽くさないと、 たぶん生き残っていけないだろうから。

「何でもできる」訓練を受けた医師は、自分みたいに田舎の病院に引きこもったりとか、 救急に進んだりとか、当直専業で働いていたりする。ああいうのはみんな、 「えらくなれる場所」を、それぞれ探した帰結なんだと思う。

それでも頑張ったほうがいい

ここ何年間か、いろんな科の先生に、「バカです。無能です。よろしくお願いします」と頭を下げて、 いろんなノウハウを教えてもらった。そういうものがずいぶんたまって、 それはやっぱり便利だったから、マニュアルにまとめて、無料だからではあるんだろうけれど、 一応そこそこ評判がいい。

「君はここが弱いね」なんて指摘から始まった交流は、長持ちするし、いろいろ教えてもらえる。 「明示的に無能を表明する。外に対して常に開いている」というやりかたは、だからあざとい 処世術として、理にかなっているんだけれど、それでもなお、「これ」という専門技能は、 自分なりに磨いておくべきなんだと思う。

教えてもらって、「内なる技術屋のプライド」みたいなのと戦うのは、やっぱり難しい。 握手の代わりに「教えてあげますよ」なんて言われるのは、それは交渉の第一歩として大成功なのに、 内心では「俺知ってるよ」って言い返したくなる欲求を抑えるのが大変で、こういう葛藤を乗り越えるには、やっぱりどこかで「えらくなれる場所」を持っていないといけない。

下らないことなんだけれど、blog をほめてもらえるようになって、 こういう葛藤がずいぶん減って、「バカなんで教えて下さい」なんて、 いろんな人に頼めるようになった。

自分の中に、「相手に素直に頭を下げられる何か」を得るために、たぶん専門技能というものは 磨く必要があって、頼れる何かを一つ持つことで、その人はたぶん、たくさんの人と、 葛藤無くつきあえるようになるんだと思う。

Comment & Trackback

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いつだったか、総合医の元祖みたいな先生に
「既存の病院に総合診療科を定着させるコツは何ですか?」
と尋ねたところ、
「誰もが嫌がるニッチの部分を引き受けることかな」
という答えが返ってきました。

ちょうど、誰もが嫌がるニッチの部分を押しつけるために
「俺たちの病院にも総合診療部を作ろうぜ」
と算段していた時だったので、驚きました。

ちょっと悪のりして、
「なら総合医の花形部分は何でしょうか?」
と重ねて尋ねたら
「そりゃあキミ、症候診断の面白さに尽きるよ」
と即答されました。

やっぱこの人偉いわ! と感心させられた次第です。

総合医というのは、「医者からみると、何も出来ないのに、患者からみると何でも出来る」、というイメージがあります。
つまり、当たり前ですが、その分野の専門医相手には総合医は勝てるわけがないのです。なので、大学に帰還しても全てにおいて「役立たず」で終わるはずなのです。なのですが、専門医よりは、多少他分野の経験が広く浅くあるので、そのプライドがあだになるかな。でもそんな経験は多少かじれば誰でも出来るようなことで、たいしたことではないんだけど。

でも、本来医療はそうはたいしたことはなくて、総合医でも完結できることが95%以上でしょう。その意味で、ニッチの部分というのは非常にあたっていると思うのです。うちにも総合内科があって助かっています。逆にニッチの部分をどうモチベーションをもって担当してもらえるのか、、、でも本当に大きくなったらその頃は専門医はわずかしかいらなくなっているでしょうが。

昔の研修病院に、アメリカ帰りの総合診療医の先生が来て下さったときに、「分からない病気」は各専門科で取り合いになるくせに、胃瘻の入った寝たきり老人とか、「総合診療科で総合的ご加療を」とか投げ込まれて、「総合診療医とは、要するにこういうことなんだ」なんて、あの頃は理解していたのです。。

産婦人科もニッチです。だれかきて。

まさに極限環境のゼネラリストですよね。。

[...] This post was mentioned on Twitter by Kazuhiro MUSASHI and はてなブックマーク, 麓 広大. 麓 広大 said: "「何でもできます」という人は、「何かができない」人に対して頭を下げるための理由が [...]

専門分野は「blog」ってことですね。

でも、大学は産科、婦人科と分かれ、あまつさえ産科のなかで周産期と不妊とに分かれてほんとに不毛。人いないんだから、もっと結束しろよと。
産婦人科の中にもニッチができてる状況って。

書かれていることよく分かります!家庭医として研鑽を摘めば積むほど、首を垂れることの大事さ。日本に帰ってどのように受け入れてもらうか、まさに肝の部分ですね。私は「お辞儀のできる総合医の鏡」を知っています。急逝されてしまいましたが、その先生の顔を思い出しました。

誰が言ったか知りませんが【実るほど頭を垂れる稲穂かな】を思い出します。フランシス・ベーコンでしたっけ、【人々が懸命になればなるほど、彼らは腰を低くし他人から学ぼうとする】とかもあったような気が・・・。

『バカです、教えてください』なんてなかなか言い出せませんが、僕は余りプライドが高くないらしく結構平気です(笑) 

お久しぶりです。

仲良くやるのがもちろん一番なのでしょうけれど、これから先、雇用が流動化してくる中で、たぶん「頭を下げられる人」と「それが許されない人」との較差というか、棲み分けが、どんどん進みそうな気がするのです。

専門家が後から腰を低くして入っていくのと総合家が後から腰を低くして入っていくのと…

私の知っている某総合診療科医は某大学では他の科が専門しかみない(そして頭を下げない)といっていましたよ
肝臓グループを擁する消化器内科は胆石胆嚢炎をみないといって総合内科に回ってくるとか すげえ/~
本当か嘘か知りませんが

よくあるお話。。逆もまた、珍しくないですし。