2009.06.19
時が止まっていた
NHKクローズアップ現代で、小学校教育が特集されていた。「最新」の教育手法が、 見ていてなんだか懐かしくて、その懐かしさに、ぞっとした。
紹介された「最新」技術は、自分が昔習ったやりかたに、あまりにもそっくりだったから。
昔からある最新のやりかた
学校の算数について行けない子供というのは、問題文を画像化して考えるのが難しくて、 試験問題の文章を読んでも、それがいったいどんな情景を意味しているのか、 頭の中でそれを画像化できないから、問題が解けないんだという。
ちょっと前に流行した「百ます計算」みたいなやりかたは、作業効率の上昇を狙った手法で、 あれはそれなりに問題を解ける子供が、能力をもっと伸ばすのには役に立つんだけれど、 問題解決のボトルネックが「理解」にある子供には、あんまり役に立たないらしい。
番組 で取り上げられていたのは「絵解き文章題」という手法。問題文を読んで、 それを漫画みたいに落書きしてみたり、問題文に「○メートル」なんて長さの記載があったら、 まずはそれっぽい長さの線を引いて、とにかく問題文を、画像にして考えさせるやりかた。
このやりかたを習っていた子供のノートが放映されて、それがあまりにも、 昔自分が書いてたノートにそっくりで、怖くなった。
日能研の昔
昔、たまプラーザの日本能率で、1期生だった。
25年以上前。たまプラーザの駅前にはイトーヨーカードーぐらいしかなくて、当時は発売されたばっかりの「ぴゅう太」を目当てに、塾に通っていた子供同士、日能研の授業が始まる1時間も前におもちゃ売り場に乗り込んでは、 店員さんに怒られるまで遊んでた。
塾の授業では、「絵を描きなさい」だとか、「時間はたっぷりあるんだから、 絵を描く余裕は十分あるから安心しなさい」だとか、「最新」のやりかたを仕込まれた。
できたばっかりの日能研は、講師の人たちは大学生みたいな年格好だったし、教室も4つぐらいしかなくて、 ちょっと大きな田舎の寺子屋みたいな雰囲気だった。学校というよりも遊び場に近い雰囲気で、 建物に入って、挨拶もそこそこに事務室奥のソファに陣取って、勝手にアイスコーヒー飲んだりしても、怒られなかった。
マッチ箱にマッチを詰めて、授業に山ほど持ってきた先生がいた。
10の桁上がりだとか、割り算を教えるのに、マッチ箱の中には10本ずつのマッチが入っていて、 マッチ箱を重ねて、算数の手ほどきを受けた。「いい答え」だとか「ひらめき」を得られた子供には、 ご褒美として宝石の原石をくれた。磨くときれいに光るんだとかで、あれがすごくほしかったんだけれど、 手が届かなくて悔しかった。こんなやりかたもまた、「マッチ箱」が「キャラメルの箱」に置き換わっていたけれど、 番組にそのまま登場してた。
当時はたぶん、塾の人たちにだって、何か最新の、ものすごい教育手法を伝授しているなんて意識はなかったと思う。 日能研はまだまだ小さな塾だったし、当時はもっと、名前の通った、「頭のいい子」が行く塾は、たしか別にあったから。
「学校の子供」と「塾の子供」
「塾の子供」は、必ずしも頭のいい子供ばっかりではなかったような気がする。
小学校4年生で連立方程式が解ける同級生もいたけれど、自分にそれが理解できたのは 中学校に入ってからだったし、受験勉強して、 入学試験を受けたまさにそのときまで、自分が算数の問題を解くときには、「とりあえず漫画」だった。
実際問題、自分の成績は悪かった。
学校には昔から「田舎の神童」がいて、医学部の同級生にしても、100人いれば何人か、塾にも受験校にも縁がないのに、勝手に成績がよくなった奴というのがいる。地頭がものすごいから、塾の助けなしに何でもできるこういう連中がいるから、たぶん公立の学校は、やりかたを変える必要はないと判断したのだろうけれど、「塾のやりかた」で救われた人は、少なくないんだと思う。
学校の成績が悪くて、親に連れられて、当時できたばっかりの、日能研の門を叩いて、 日能研には試験があって、その試験の成績もやっぱり悪くて、父親から怒られて、 頼み込んで再試験させてもらって、やっと拾ってもらった。拾ってもらって成績伸びて、 そのうち学校の試験では100点以外取れなくなって、同じ頃、学校は、「塾の子供」と「学校の子供」に分かれた。
「塾の進度が速すぎるから」と説明されていたけれど、どこでも塾に行っている子供は、学校の試験は 満点以外取れなくて、意味がなくなってしまった。個人の能力なんて、こうなると全く評価できなくて、 学校の先生は、「満点は0点」というルールを導入した。
「塾の子供」は0点ばっかりになった。
「全問正解は0点」ルールのもとでは、間違えることこそが学習だから、間違えない子供の解答は、0点になった。
何となく、「ゆとり教育」のことを考える。塾組と、「学校の子供」と、もはや絶対に超えられない断絶が そこに生じて、「ゆとり教育」を決断した人たちは、成績というパラメーターに背を向けた。生きる力だったか、 とにかく試験で測定できないパラメーターを大切にしようだなんて、断絶にそっぽを向いた。
止まった時間のこと
自分は一応、曲がりなりにも受験校経由で医学部を卒業できたから、日本能率のやりかたは、 「正解」だったと今でも信じているけれど、裏を返せば25年前、田舎の塾で普通にやってたやりかたが、 今の公立学校で、ようやく「最新」だなんて注目されることが、ちょっと信じられない。
25年あれば、大戦末期の零戦が、F14に進化する。
自分たち「塾の子供」がF14で飛び回るその横で、公立学校の理念がどれだけすばらしかったところで、 「学校の子供」が乗っているのは零戦なんだから、そもそも勝負になるわけなかった。 25年というのはそういう時間で、それがあったから、自分は「お得」な思いができたのだろうけれど、 この25年間、「F14」に乗る機会を逸して、それでもそれが「正しい」ことにされた人は、 損をしているんだと思う。
懐かしいどころか、そもそもそう習ったことすら忘れてたぐらいに昔のやりかた、当時の自分たちも、 教えてくれた先生たちも、そのやりかたが画期的にすごいだなんて思ってもいなかったような教わりかたが、 今になってやっと、公立学校の「最新技術」。教育の方針を決める上の人たちが、今までいったい何を見ていたのか、 気持ち悪いぐらいにそっくりな、「最新」教育の授業ノートを見ながら、どうにも理解できなかった。
「塾の子供」の断絶を肌で感じて、それでもそれを取り入れようとしなかった公的教育機関の上の人たちは、 いったい何を持って「いい教育」を定義していたんだろう。
プログラマーの Dankogai さんなんかは、むしろ学校を捨てたことで自分が伸びたみたいなことを言っておられたし、 こういうのはもちろん、個人の向き不向きはあるはずだけれど、自分は正直、日能研の人たちがいなかったら、 今とは全然違った人生歩んでいたと思う。
2,30年前から最近まで公立学校は、明らかに左翼がかった人たちに牛耳られていました。子供の時から彼らの話しには違和感を感じてましたが。
共産主義国では金持ちをやっつけてみんな貧乏になることで平等になったって話を思い出します。確かにみんなでおバカになれば落ちこぼれもいないですよね。
Posted at 2009.06.19 5:08 PM by カイル
以前のエントリー関連で申し訳ないですが、
> 何かをお願いしたあと、たぶんたいていの上司は、
> その人が視界から消えるまでの時間でもって、
> その人の「使える度」を判断する。
という話を今朝ふと思い出しました。
患者さんを収容したあと、たぶん大抵の通りがかりの人は、
その救急車が視界から消えるまでの時間でもって、
地域救急体制の「使える度」を判断する
ということかもしれません。
秋葉原事件で、
現場にとどまっていた救急車があれだけ非難されたのも、
とりあえず通りがかりの人の視界から消えなかったからか、
と、妙に納得いたしました
秋葉原トリアージ問題 読売も指摘
http://case-report-by-erp.blog.so-net.ne.jp/20081015
Posted at 2009.06.19 5:08 PM by エリヤフ先生
さて、本エントリーについて申し上げれば、
「塾の子供」「学校の子供」問題は、小学校や中学校だけでなく、
医学部でも、卒業してからも続いているように思います。
医学部では、明らかに2世、3世の人たちが高成績だったような気がします。
また、卒業してからは、有名研修病院や名門医局が強いのではないでしょうか?
今回の話で成る程と思ったことは、日脳研の人たちが、意識せずに先端教育をやっていたことで、
まさに自分がやろうとしている医学教育に通じるような気がします
ちなみに私は「学校の子供」でした。
Posted at 2009.06.19 5:20 PM by エリヤフ先生
[...] original article [...]
Posted at 2009.06.20 12:59 AM by 時が止まっていた - レジデント初期研修用資料 | 次なるもの
[ライフハック]「社会では通用しないぞ」『社会の論理』のあるべき姿
「社会では通用しないぞ」というような言葉はなんども言われた事があると思います。「社会では通用しない」という論理を大事にする人間は多いです。そういう人が言うには、社会に…
Posted at 2009.06.20 5:46 AM by keitaro-news
私自身、医「学」とは関わりを持たないんですが、内容が面白いので、いつも読ませていただいています。
最近のエントリーの中では、「規格の制定と多様性」が非常に面白かったです。
このエントリーにあるクローズアップ現代を、私もたまたま見ていました。
私は「塾の子供」でした。
そして「絵解き文章題」を見て、私はこれを「学校」が教えていたこととして思い出しました。
私が小学校を卒業したのは17年ほど前なのですが、その当時、既に学校の先生は普通にこういう教え方をしていました。多分先生の創意工夫から生まれたのだと思います。
何故今はそれができないのか?かつては現場に創意工夫を実行する「裁量」と「権威」があったのではないかと思います。
今は権威のありかが先生ではなく、教育委員会とか、ちょっと現場から離れたところに集まっていて、現場の創意工夫がおしつぶされている。そんな風に思いました。
Posted at 2009.06.20 8:07 AM by ゆうすけ
しかしそのF-14は33年間現役配備されていたり。
良し悪しは置いといて、自由な競争は革新を生むという意味では、今回のエントリの趣旨に反する事例ではありませんが。
(「学校の子供」を1980年代以降の東側兵器に模すのは不謹慎すぎますかね)
Posted at 2009.06.20 4:22 PM by hau
「知覚や運動に密接に関連したリアルな世界から、抽象化されたバーチャルな世界への変換」
今日、たまたま考えていたこととパラレルでした。
百マス計算が純粋な記号の操作なのに対して、算数の文章題は、リアルな問題を記号の操作に落とし込む過程が加わります。
最近の勉強ブームは、今の中でそこそこいい収入を得るためには抽象化と記号の操作が必要だ、というのが世間の人にもだんだん分かってきた現れでないでしょうか。
トレーニングで克服できることも大きいのでしょうが、ある程度は得手不得手が遺伝的に決まっているような気がします。
教育はだれもが通り過ぎているからだれでも勝手なことを言える、というのはあるんでしょうけど、それにしてもやっていることはあまりにprimitiveな印象が。。。英語教育なんて。。。
Posted at 2009.06.20 4:41 PM by HZ
教育手法に「正解がある」と、上の人たちが考えてしまったことが、もしかしたら不幸の始まりなのかもですね。。元ノーベル賞受賞者の人とかが招聘されて、今いろいろ「改良」プランが練られているみたいですけれど、そういうのが広まって、多様性が失われると、やっぱり物事は上手くいかないような。
Posted at 2009.06.21 11:38 AM by medtoolz
自分の公立小学校時代を振り返ると、後で役に立ったなと思えるのは、徹底的に基礎計算を繰り返させるこわ~い先生の授業でした。
「百ます計算」などの基礎計算問題ならば、頭のよい子でもスピードに挑戦することができるので、万人向けな教育と思います。公立小学校の使命は頂点を高めることではなく地道な底辺の底上げであるため、このようなことこそ徹底的にじっくりやってほしいと思います。
方や、「絵解き文章題」などの「理解」や思考力が要求される問題こそ、塾の使命と考えます。公立小学校の先生には、あまり塾の真似をしてほしくありません。迷走することなく着実に進んでほしいと思います。
知人の子供が四則演算も十分できないのに、塾で難関私立中学の入試問題を解かされているのを見ると、さまざまな疑問を感じます。
Posted at 2009.06.21 7:25 PM by KOD
ということは、25年後の「最新の」教育手法が、今どこかの塾で試されているってことですね。
Posted at 2009.06.21 8:29 PM by ちょ
単に、「教育」って分野は最も進化の遅いもののひとつに過ぎないってことかもって気もします。そもそも「講義」ってスタイルは古代ギリシャから何も変わっていないのですから。。。古代ギリシャの数学や医学の内容が今のそれらとはずいぶんと違うといったことを考えれば、これは驚くべきことなのかもしれません。
実は、専門職をトレーニングといった意味以外での「教育」の意味やその社会への有用性ってどこまであるんでしょうか? 疑いたくはないけど、少し疑問に思っています。
Posted at 2009.06.21 11:39 PM by JFK
「耳をすませば」な人たちに田舎宣言されたら、日本人として困ります。というのはおくとしても、必ず行かなければならない学校で暇しているのは、不幸ですよね。そんなわけで、私は塾に行ったことはありません(キリッ
Posted at 2009.06.22 7:45 AM by to
>単に、「教育」って分野は最も進化の遅いもののひとつに過ぎないってことかもって気もします。
同意です。
また一方、ゼロ戦⇒F14のくだりは、人間の欲求は際限がなく、目覚しい進歩(?)の原動力になることを示しているのだと思います。
人間の「理解」、「知覚」といった部分を強化する技術は、NewTypeの誕生を待たねば・・・
Posted at 2009.06.22 11:55 AM by 通りすがり
ずっともやもやしていた気持ちが晴れた気がします。
自分は塾の子だったんだなぁ。
なんでこんなにも学校と塾では違うのかずっと疑問だった。
学校の先生は言っていることとやっていることがあまりに乖離していて・・・道徳の授業で先生がしてはいけないと言ったことを数分後にその先生がやっていたりして意味がわからず怖かった。塾の先生は怖いくらいに本音トークしていたってのが印象的だったなぁ。多分今思えば責任を持っている部分が全然違ったのかもしれない。
学校の教員は一部の頭が温かい人を除いて、課せられた責任を考えればトラブル無くみんなを卒業させることで、親御さんとのトラブルの原因となる知識差が出ないように全員無学平等を目指すのがプロなのだろう。塾の先生はその子の将来に対する糧に対する責任を持っているからどうしてでも理解させようとの工夫につながったのかなとも思う。
最近職場の虚無感がひどい。みんな損をすることで不公平を無くそうというが、損する量がどんどん増えていきそれを止めようとする人は裏切りもの扱いで裏で袋叩き。
どうやったらもっと何かのためにという仕事ができる環境になるか悩んでいる。
長文ですみませんでした。
Posted at 2009.06.23 1:22 AM by tomo
教育を提供する側の人たちも、自分たちのパフォーマンスを、数字で測定されるのが嫌なのでしょうかね。。
Posted at 2009.06.23 6:09 PM by medtoolz
>>教育を提供する側の人たちも、自分たちのパフォーマンスを、数字で測定されるのが嫌なのでしょうかね。。
教育者だから嫌がるのではなく、数字で判断されるのがヤな人が教育業界に群がっていくのではないかと。。。これは、医療業界にも当てはまる(講習会の講師陣は中途半端な落ちこぼれが多いのでは?)ような気がします。
Posted at 2009.06.26 11:29 PM by JFK
学会で積極的に発表する人たちなんかは、むしろ評価されたい人なんですかね。。
Posted at 2009.06.29 5:55 PM by medtoolz