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2009.02.23

「分からない」から始める医療

「トップナイフ」という、外傷外科学の教科書から。

外傷性ショックという状況

  • ショック状態というものを理解しなくてはならない。血圧が60mmHg に低下した患者に対して、皮下の出血点を一つ一つ焼くような外科医は、外傷外科に向いていない
  • 出血と虚血とでは、治療優先順位が異なる。生命に直結する出血は、直ちに対処しなくてはならない。たいていの虚血は、数時間の幅を持たせてよい
  • 外傷外科においては、たとえ結果が悪い方向に転んでも、何とかなるやりかたを考えないといけない

冷静さについて

  • 効果の期待できない操作を繰り返す術者は「呪的反復」の状態に陥っている。本人だけがこれに気付かない
  • 背景状況の変更、視野の改善や、器具や助手のような、何らかの変更を前提にしたときのみ、反復という選択に意味が出る
  • 止血鉗子を握りしめて、盲目的に血の海に突っ込むことは、初心者の陥る過ちの典型である
  • 「指で押さえる」「臓器を両手で圧迫する」といった原始的なやりかたは、止血鉗子に勝る
  • 優れた外傷外科医は「何もしない」ことも、選択枝の一つであることを理解している

ダメージコントロールの考えかた

  • 外傷の手術には、大きく「一気的な根治」を目指すやりかたと、「ダメージコントロール」を目指すやりかたとがある
  • 生体には、そのとき許容できる「受容可能侵襲量」という考えかたがある
  • モニタースクリーンの数字が正常範囲であったとしても、患者が受けた侵襲の累積値が一定量を超えた場合には、手術の中断を考えなければならない
  • ダメージコントロールは、根本的でなくても、そのとき許容可能な侵襲の範囲内で、問題の部分的な解決を試みる
  • そのときにできる必要最低限の処置は何か、根治は後回しにできないか、外傷外科医は常に問い続けなくてはならない

軽い損傷と重大な損傷

  • 「軽い損傷」と、「重大な損傷」とを区別しなくてはならない
  • それが重大な損傷ならば、術者は一時的な止血ができた時点で、一度その場で「停止」しなくてはならない
  • そこから先は修羅場になるので、輸血や手術室の準備といった、周辺状況が整うまで待たないと、兵站が追いつかない
  • 「迅速な止血操作で一気に勝負をつける」誘惑に負けた外科医は、患者を失ってしまう
  • 重大な損傷に対峙するときには、「手術操作を続ける」という衝動と戦わなくてはならない
  • チームが「何でもいいから動き続けよう」という意識に陥ったときに、全血を失うような事態が生じる
  • 損傷の軽重は、全体を見て判断されなくてはならない。「軽い損傷」ならば治癒を目指せる傷であっても、 状況でも、体全体としての損傷が重いのならば、一期的な治癒よりも、上手な撤退を優先しないといけない

蛮勇を捨て、常識に頼る

  • 教科書に図示されているような、見栄えのいい、複雑な術式は実際の手術現場では役に立たない
  • 単純で、凡庸なやりかたを選ぶべきで、曲芸は避けなくてはならない

このあと全臓器の損傷について、最悪の状況を回避するためのやりかたが語られる。

内容を、「状態の悪い人を生かし続ける」ことに限定してあって、 本は250ページしかないのに、一応人体全部を網羅していて、よくまとまってた。

内科のこと

以下私見。

内科の患者さんについてもまた、同じ症状に対して、それを「ちょっと治す」状況と、 「がっちり治す」状況とがある。

異論はあるかもしれないけれど、「がっちり治す」ことは案外簡単で、体力さえあれば どうにかなる。「ちょっと治す」のは難しくて、油断すると大失敗する。

「息が苦しい」という患者さんに対して、問答無用で鎮静かけて挿管して、 人工呼吸器をつないだ上で、広域抗生物質を使うような、「がっちり治す」やりかたというのは、 それを決断するときには勇気がいるけれど、始めてしまえば、病名が何であろうと、 やるべきことはおおよそ同じ。こういうやりかたは、「がっちりやる」という覚悟が全てで、 頭はいらない。

「この人は軽そうだから、点滴だけで、ちょっと治そう」なんて判断して、 そういう患者さんが想定どおりに行かないときには、なまじ「ちょっと」という思いがあるから、 全ての対応が後手に回りがちで、泥沼にはまって失敗する。

誰かを「ちょっと」治すことは、だから本来、患者さんを「がっちり」治すのに比べて遙かに多くの覚悟がいって、 それをやるなら、1 日に何度も病床に見舞わないといけないし、自分の判断が間違っている可能性を、 常に自覚していないといけない。

本来はだから、田舎の小さな病院みたいな場所こそ、人工呼吸器のつながった患者さんがたくさんいないと おかしいし、大学病院みたいな、患者さんを診るための「目」だとか「頭」の数が極めて多い施設でないと、 「ちょっと」治すことは難しいのに、そうなってない。小さな病院で「ちょっと」治すのは、本来すごく危ないことなのに。

「がっちりやる」ために必要な知識は、「ちょっと」でいい。

安全に「ちょっと治す」ためには、「新内科学大系」全99冊ぶんの知識があっても、もしかしたらまだ足りない。

「分からない」から始めるやりかた

目の前の患者さんに「重大な損傷がある」という認識から始めていいのなら、 外傷外科医の知識量は、それほど多くを要求されない。

「分からないけれど具合が悪い」状態の患者さんを、「がっちり治す」ために必要な知識もまた、 恐らくは薄い本1 冊ぶんにまとめられる。

その患者さんの病名が「分かる」のならば、その人が持っている、今までの知識で十分に対応できるのだろうし、 「分からないけれど具合が悪い」という状況認識それ自体、その患者さんを、 「分からないけれどとりあえず死なない」状態へと持って行く上で、大きな手がかりになる。

「分からない」なら、それ以上鑑別診断を考える意味はない。「がっちり」行くならば、 最初から複数病名をカバーした治療手段が選択されるのが前提だから、 治療のバリエーションは減らせるし、目標を、「治せる人のところまで、患者さんを悪化させず維持する」ことに 限定できるなら、必要な知識はそれだけ少なくて済む。

これから先の卒業生は、1年間で何でも治せる研修を受けるようにシステムが変わるけれど、 「1年総合医」を本気で作るなら、こんな方向で教科書作らないと無理だと思う。

あれを本気で考える偉い人たちは、自分たちでこういうの書かなきゃ嘘だし、 それができないのなら、あの人たちは、1 年間でどういう医師を作りたいのか、 もっときちんと説明すべきだと思う。

今年度中になんか書く。

Comment & Trackback

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「何もしない」「経過をみよう」という選択をした場合、
患者さん本人や御家族からは、サボっているように見えたりするんですね。

そればかりか、裁判でも散々やられてしまうので、
「何か忙しそうにやっているように見せる」
という本末転倒状況に・・・・・・本当になってしまっていますね。

捨てる勇気って必要ですよね、いろいろと。
予備校で受験生に教える教師にも、病院で研修医を教える指導医にもそれは当てはまることで、限られた時間ですべてを完璧に網羅しようとすると教わる方は結局何も身につかず、すべてが無駄になってしまいます。これって、先生のおっしゃる外傷外科の考え方に似ていると思います。
有能な指導者は、その人にとってのミニマムエッセンスをしっかり吟味して、きちんと伝授できる人じゃないのかな、と思います。

>「トップナイフ」という、外傷外科学の教科書
というのをはじめて知りました。
外科医の「トップガン」ということだと思いますが、
>「状態の悪い人を生かし続ける」
のが戦場での生き残り方に通じるところなのでしょうか。

>生体には、そのとき許容できる「受容可能侵襲量」という考えかたがある
>「迅速な止血操作で一気に勝負をつける」誘惑に負けた外科医は、患者を失ってしまう

治療し続けると患者が弱るという、経験則に合致しそうです

リウマチ膠原病科は何十年もの間、病気と「取引」しているみたいなところありますよね。。

某先生は某一派の血管インターベンションを見た若手に向け、できるやれると○○は違う、俺たちは(医療は)サーカスをやってるんじゃないと言ったとか言わなかったとか。その先生は当然femoralがお好きでした。

関係ありませんが、ここにトップナイフのアマゾンリンク貼ってあったらみんな買うだろうなと妄想。(アルファブロガーインフルエンス。medtoolz先生がそういうことされないのはわかってますが)

「小さな病院でちょっと治す、は本来すごく危ない事なのに」
胸腹部部聴診できない、同ラインで投与できない薬剤を知らない、ショックの徴候を知らない、モニターが無い、モニタリングの意味が分からない、データの意味を知らない、救急カートが無い、、、、、。
小さな病院ではよくあることだが、そんなところで「ちょっと治す」が行われているのが現状で、だから患者側も「仕方ない」で済まされる。
「仕方ない」で済まされなさそうな家族の場合は「ヤバくなったら大学に送ればいい」という現状で治療されている。

「ちょっと治す」なら患者のもとを訪問する機会が多く、確かに大変だ。
しかし、そのぶん家族からは「一生懸命やってくれてる」と信頼される。
「がっちり治す」になった瞬間、ベッドサイドに行く機会が激減する。
家族と本人は遮断(家族が本人を受け入れられない、もしくは医療者が勝手にそう思い込んでいる)され、医療者とも距離ができ、不安から懐疑的になる。医療者も家族との距離にたじろいでしまい(若手が多く、トラブルを回避しがちである)さらに遠くなる。
目が届かないぶん危険があるというのに、スルーされてしまう。
「何で?!」というようなミスが発生するとどうにもならなくなる。

内科でも外科でも「止める勇気」は必要かもしれない。
その勇気が容認されやすいようにどうにもできない小さな病院で「ちょっと治す」が現状行われているのかもしれない。

「トップナイフ」ちょっと読んでみたい気がします。
上手な撤退やとにかく時間稼ぎも必要ですから。

個人的には、手持ちのリソースが少ないときほど、患者さんにギャンブル強いるような「ちょっと治す」やりかたは、やらないほうがいいんじゃないかと思うんですよね。。
治療戦略のギャンブル性と、「サービス」としての、患者さんのご家族に「みせる」医療のやりかたとは、また別の問題かも。