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2009.01.14

否定しない外来対応

否定から決定的な対立が発生する

  • 「あなたに抗生剤は必要ない」
  • 「どうしてこんな時間に来たの? 」
  • 「あなたの病気は専門外だ」

たいていの場合、主治医のこんな「否定」をきっかけにして、決定的な対立という状況が発生する。

医師と患者とは、しばしば思惑が異なっていたり、利害が対立することがあるけれど、 お互いの社会的立場であるとか、病院という場所の特殊性であるとか、 様々な要素が挟まることで、病院での対話からは、対立の発生が回避されている。

医師が何かの「否定」を宣言して、たいていの場合、相手がそれで納得することはありえない。 患者さんはだから、「本当に大丈夫なのですか? 」とか、「何かあったらどうすればいいのですか? 」だとか、 否定に対して疑問を返す。

最前に「否定」を配置する、医学的な正しさを優先した、教科書的な対応を行ってしまうと、 そこを突破された場合、職業上、「負け」を認めることが許されない医療者にとって、 「否定」を繰り返すこと以外、できることがなくなってしまう。

病院内では、個々の対話においては「否定」を回避しつつ、最終的に、 医療者側の意図を患者さんに納得してもらう、交渉の目的となってくる。

縦深に配慮する

たとえば抗生物質の処方を求めて来院した患者さんに対して、 「あなたにそれは必要ありません」という対応を行うことは、 たとえそれが医学的に正しいことであっても、わざわざ病院まで出向いてきた、 相手の努力を否定することにつながる。

どんな形であれ、努力は報われなくてはならず、医療者側は、それを否定してはいけない。

抗生剤を求めた患者さんに対して、それが「いらない」と判断されたのなら、 まずは「必要かどうか調べましょう」という譲歩を行い、なおも納得してもらえないのならば、 今度は「点滴をしながら経過を見ましょう」だとか、譲歩の余地を広げていくやりかたが正しい。

譲歩と妥協を繰り返すことで、相手の浸透圧力を吸収することを狙うやりかたは、相手との決定的な対立を回避しつつ、 医療者側の譲歩と引き替えに、患者さん自身による「納得」を得ることを目指す。

譲歩の過程で「納得」が得られたならばそれでいいわけだし、調べたり、経過を見た結果として、 本当に抗生剤が必要な状況が発生したのなら、医療者は「負け」を認めることなく、患者の需要に応えることができる。

目的を手段に適応させる

時間外のような、医療者側に提供できるサービスが限られた状況で、 患者さんに対して「どうしてこんな時間に来たの ?」などと問い詰めるのは、 やはり相手に「否定」の印象を与えることで、決定的な対立を生み出してしまう。

あらゆる可能性に配慮した、「教科書的な」対応を行うためには、 時間外の医療リソースはしばしば不十分だけれど、 その責任を患者側に求めたところで、相手の不興を買うだけの結果しか得られない。

医療の目的は、その状況に置かれた医療者が取りうる手段に、適応されなくてはならない。

夜間で十分な検査ができないのなら、その時間に来た患者さんを叱るのではなく、 教科書的な、十分な対応を行うために、その人に入院を求めたり、点滴をつないだ状態で、 朝まで待ってもらうようお願いしたほうが、トラブルになりにくい。

「今の時間は不十分なことしかできません」でなく、「十分なことができる時間まで、 一緒に待ちましょう」と提案するやりかた。患者さんがそれを断るならば、 「否定」を宣言したのは相手側だから、医療者側の責任は、多少なりとも軽減できる。

代替案を用意する

やはり夜中に来た患者さんに対して、「今は○○がないので不十分なことしかできません」 という返しかたをすると、「じゃあ○○をこれから用意して下さい」なんて返される。

対話においてはだから、常に代替案が用意されなくてはならない。

「教科書的な、正しい対応を行う」ことが本来の目標ならば、 それができない状況においては、たとえば「朝まで一緒に待つ」といった代案は、 医療者側が提示しないといけない。患者側から「こうしてほしい」という提案がなされて、 医療者側がそれを「否定」する状況が発生してしまうと、今までなされた対立回避の努力は、 全て意味を失ってしまう。

代案が用意できない状況が予想できたなら、医師は一刻も早く、「負け」を認めなくてはならない。

夜間の内科当直に「子供の多発外傷」がやってくるケースなどは、もちろん実力的に十分な対応が 出来るわけもないのだけれど、ここで「自分は専門じゃない」という断りかたをすると、 「専門外でもいいから診て下さい」という、患者さんからの「代案」が提案されてしまう。

診療の困難が予想される患者さんからの依頼に対して、暗黙に「私は診られません」を 宣言したいのなら、「専門外」ではなく、真っ先に「私には診療する能力がありません」と 宣言して、「代案」が発生する余地を無くさないといけない。

Comment & Trackback

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これはごく最近になって私が気づいたことにソックリです。

たとえ話にすると、
(1)患者さんが持ってくるのは「未完成の鳥の絵」。
  あちこちが白紙のまま。
(2)医師の目標は、これを「完成したライオンの絵」にすること。
(3)ルールとして、絵の具の上から絵の具を塗ってはならない。
となるのかなあ、と漠然と考えていました。

すでに患者さんが塗っている絵の具の上に、医師が絵の具を重ねるという行為は、否定することになるので、医師はひたすら白紙の部分に自分の絵の具を塗っていって、最後には全体としてライオンにしなくてはならない。

そんなところでしょうか

似たような話で
『原告の言い分を被告は否定してはならない。ただし情報を足すことはできる』
という裁判が、ある未開部族でみられるとか聞きました
ソースが分かればお知らせします

「否定しない外来」は、私の個人レベルではうまく行っています。

ただ、小児の多発外傷とか、そんな上級レベルについては、個別のケーススタディが必要な気がします。

まさに「医療」と「医学」の違いですね。。
ただし、患者さんの求める「医療行為」に「副作用」が伴うので困るのです。。抗生剤を出せば患者さんは納得してくれて当直医も早く眠れて万歳なのですが、耐性菌を作ってしまう。CT撮れば被曝する。子供の風邪にキサンチン誘導体出せば興奮して踊り狂い親が眠れない。。検査の為の採血は痛いし、たまに反射で倒れる人もいる。。難しいものです。。うまく使えば副作用のない医療行為である「ムンテラ」で患者さんが納得してくれるのが一番良いと思います。。しかしマンパワーが、、、足りませんね。やはり「交渉力」を医学部で教育すべきでしょうね。。

患者さん達が支払う「コスト」、金銭面でも病院にかかる労力も医療の安全性も日本は低すぎるのが問題かと。。しきいが高ければトラブルも発生しにくいしマンパワーも足ります。。「安かろう、良かろう」という都合の良すぎる患者さんが多すぎます。。

たびたびすみません。
ソースをみつけました。ズニ族とかいう部族のようです。

「議論は、われわれの裁判のように、告発と否認によってではなく、申し立てと詳細の明示によって進行する。裁判官は、被告が論告に異義を申し立てたり、まして事実の反証をあげたりすることを期待しない。彼ら(=裁判官)は、自分たちが断片しか所持していない体系を強化するように、彼を求めるのであり、残りの部分を適切なしかたで彼が再構成することをのぞんでいる。」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000606magicLS.html
を御覧下さい。

大変示唆に富む記事をありがとうございました。

わずかな言い回しの違いで、随分とその後のコミュニケーションが変わってきますね。

「専門外」ではなく、「私には診療する能力がありません」。。。。同じ内容でも、確かに違ってメッセージされてきますね。

このシーズンになると、仕事があって早く風邪を治したいので、注射を打ってください、と言われる患者さんが多いです(市中の病院で)。

そんな時、私は世界中どこを捜しても風邪の注射はありませんと申し上げています。90%の方は納得していただけるのですが、10%の方は納得されていないと感じることがあります。

この記事で書いておられるように、抗生剤が必要ないことを納得していただけるように、検査をするのも良いのかも知れませんね。ただ、こういった方に限って、検査する時間がないので、早く注射だけ打ってほしいと言われたりします。。。。なかなか悩ましいです。

まだまだ、私自身の修行が足りないようです。

何度もすみません

このへんの技術、テレビの討論は進んでいるように感じます

「まさに、仰る通りで・・・」
「今、○○さんが言われたように・・・」
というフレーズが多用されていますね。

それと対応にはスピードも大切な要素だと思います。
うかうかしていると、「鳥の絵」が完成してしまいますから

そう考えると医療裁判なんてものは、
「原告と被告が好き放題に絵の具を塗りまくって何がなんだかわからない絵になった後に、やおら裁判官が足して2で割ったような和解案を出してくる」
そんなイメージかもしれません。

む、むなしい・・・

[...] しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 [...]

まんま精神医療の現場そのものですね。

自分が上手く言語化で来ていなかった部分を、先生が見事に言語化してくださっているようです。

時間外診療における患者交渉・・・・

私も同じような感覚を持っています。

あと、できれば、初療医師 VS 各科専門家医師 の間に存在するさまざまなコミュニケーションネタを先生の切り口で書いていただれば、うれしいなあ なんて勝手に期待したりもします。

「医療コミュニケーション」のノウハウ本というのは、誰にでも書けて、それなりに需要がありそうなのに、不思議と誰もまとめないですよね。。面白いのに。

>暗黙に「私は診られません」を宣言したいのなら、「専門外」ではなく、真っ先に「私には診療する能力がありません」と宣言して、
これって「暗黙に」なんでしょうか?
職業上の「負け」をみとめているのでは?

>職業上、「負け」を認めることが許されない医療者にとって、
実は「負け」をみとめることが許されないのは「病院の医師」であって、患者さんも「開業医の負け宣言」は認めているのでは。で、どんどん、負け宣言して病院に患者さんを送り込むと。

“The buck stops here”(自分が最終責任を持つ)といったトルーマンは男らしいですけれど、責任を持つとは訴訟されることだといったら政治家もいなくなると思うけれど。

>>「医療コミュニケーション」のノウハウ本というのは、誰にでも書けて、それなりに需要がありそうなのに、不思議と誰もまとめないですよね。。面白いのに。

確かにそうだと思いますが、たいていは医者が折れて患者の言い分を妥協することで決着しますよね・・・? じゃないと、最後はその患者さん、病院に来てくれなくなりますから。なんで、患者さんの提示した範囲内の妥協案でどれだけうまくやれるかが、ある別の意味での医者の実力のような気がします。医者もサービス業の一種と考えれば成立しる考え方でしょうけど、大学病院のセンセ方には分からないかもね・・・。医療コミュニケーションの解決のキモがある種の妥協とするならば、この種のことをテーマとする本は書きにくいかな、とは思います。

>真っ先に「私には診療する能力がありません」と宣言して、

それでも「先生の責任において」「診察できる能力を持った病院を紹介してください」という人がいるから、最初から診なくなるのではないでしょうか?

>それでも「先生の責任において」「診察できる能力を持った病院を紹介してください」
>という人がいるから、最初から診なくなるのではないでしょうか?

この突っ込みは正しい!

我々ができるのは、
「責任は持てませんが」
「診察できるかもしれない病院の紹介なら可能かもしれません」
といったところです。

診察できる能力を持った病院を紹介するのも結構難しい、というか、
それも一種の特殊専門技能なんですけど、
一般市民の理解を得ることは困難だと思います。