2008.12.31
それがいらない世界を想像してみる
「それ」はたいてい、もちろん必要だからこそ世界にあり続けて、 そもそも「それ」を無くすことにどれだけの意味があるのか、無くしてみて、 世の中どれだけ便利になるのか、無くしてみないことには、もちろん分からないのだけれど。
たとえば「配線」のいらないない世界
ごく至近距離での高速無線通信が規格化されて、それが実用的に、安価になった世の中を想定する。
そういう世界のパソコンは、たとえばビデオカードとマザーボード、 あるいはメモリーやハードディスクといった部品を、お互い配線でつなぐ必要が無い。
ノートパソコンみたいな道具は、配線の制約から解き放たれる。とりあえず「ノートの形をしたもの」のどこかに、 それぞれの部品がおさまっていればいいわけだから、今までからは想像も出来ないようなデザインが生まれるかもしれない。
自動車のアクセルやブレーキ、ハンドルだとか、トランスミッションの制御を全部無線規格にしたら、 自動車というものは、エンジンと車輪のついた、単なる箱になって、内装の自由度を、飛躍的に高めることができる。
自動車の内装部分は、メーカーから買わなくてもよくなるかもしれない。そうなったところで、 9 割 の人達は、 恐らく今までどおりの「自動車」を選ぶだろうけれど、戦闘機のコックピットみたいなものを注文する人がいるかもしれないし、 「ガンダム」のコックピットみたいなものに人気が集まるかもしれない。
「配線のいらない世界」からは、そのうちたぶん、「組み立て」という動作が消え去ってしまう。
ユーザーは、それぞれ好みのパーツを買ってきて、 マザーボードだとか、キーボードだとか、何となくお互いを近い場所に置いておけば、 お互いが勝手に通信を初めて、それは一つの「パソコン」として機能しはじめる。
配線のない世界からは、「接続」が必要な状況が追放されて、結果として「組み立て」は、 ユーザーによる「選択」へと置き換わる。「組み立て」でお金を稼いでいた人達は、 市場に居場所を失って、別の会社が台頭するかもしれない。
「あって当然の何か」を一つ無くすだけで、「もの」に付随する様々な動作が一緒に消えたり、 変容したりして、世の中はいろんな方向に変化する。
診断のいらない世界が来てほしい
救急外来という場所は、ほとんどあらゆる患者さんが通過するはずなのに、 やりかたはこの10年ぐらい、あんまり変わらない。
毎年のように、新しい教科書が出版される。胸部外傷で注意すべき疾患は何なのか。 最初にどんなことをやるべきなのか。語呂合わせで覚える大切な10疾患は、 この10年変化がなくて、語呂合わせの方法だけ、何か進歩があったみたいだけれど、 覚えるべき疾患名それ自体は、変わらない。
機械は毎年進歩しているのに、CT はやっぱり、「すぐに撮ってはいけない」なんて書かれてる。 診察だとか、問診だとか、何よりも「診断」を重視しなさいなんて、 10年経っても、教科書が変わっても、やっぱり権威は、そう繰り返す。
技術としての救急診療を進歩させたいのならば、やっぱり何よりも、「診断」を追放するやりかたを考えてほしいなと思う。
「診断」がいらなくなれば、もちろん「診察」も不要になって、 医療の現場からは、「医師の判断」という動作が追放される。
判断が存在しないから、病院でできることは、日本中どこでも一緒になって、 一緒であるが故に、「医療過誤」は、原理的に発生し得ない。「診断のいらない医療」 が実現したところで、助かる人は助かるし、亡くなる人は、やっぱり亡くなってしまうのだけれど。
しゃべれないし、診察できない、症状があっても所見が現れない、寝たきりの超高齢者の診療は、 そもそも診察が全くできないケースというのが、珍しくない。
「何となく具合が悪い」なんて、ごく漠然とした症状で病院に来て、 とりあえず胸腹のCT 切ったら腸閉塞だったとか、肺炎だったとか。 あるいは熱が出て、熱源調べようにも、体中熱源みたいな患者さんで、 しょうがないから抗生剤適当に選んで使ったら、何となく治ってしまったとか。
「そんなやりかたすれば、馬鹿にだって治せる」だとか、 「間違ってはいないけれど、それは邪道だ」とか、教科書書くようなえらい先生が罵倒する、 「診断」を回避するやりかたは、たぶんいろんな病院で、それでもこっそり行われている。
教科書からは観測できないだけで、「診断のいらない未来」は、もう老人病棟の片隅で、 すでに始まっているのだと思う。
世界を変えるパッケージ
何か新しい技術を足したのなら、世界からは、別の何かが消えていかないといけない。
「何も消えない世界」では、いろんなものが、一方向的に複雑化する。 あらゆる技術が「こんなに複雑になりました」なんて、 自己言及的に、自らの正当性を主張して、進歩してるのに、みんなが不幸になっていく。
「あって当然の何か」を世の中から消し去るのに必要なのは、技術それ自体の進歩よりも、 それらを組み合わせて「それがいらない未来」を示す、パッケージングの力なんだろうと思う。
車でないと運べないぐらいに大きな「自動車電話」が登場した昔、 あれは高価で、実用的とは言いがたかったけれど、それでもたぶん、「それが世に出た」ことが、 携帯電話への進歩を加速した。
レジオネラや肺炎球菌、各種ウィルスの検査キットとか、たしかに新しい学問の産物なんだろうけれど、 今のところはまだ、手続きを複雑にする以上の成果が出せていない気がする。
あれなんかもたぶん、技術者は、主要な細菌の検査精度を上げていくやりかたを目指すよりも、 まずは同定できる菌腫を増やして、「採血一滴、主要菌30種類を一気に同定できる」未来を、 とりあえず製品として作ってしまったほうが、世の中大きく動くんだと思う。
そんなキットが発売されたら、感染症の領域からは、もう診断がいらなくなる。診察も不要になる。 採血で「○○菌感染症」が分かるようになったなら、その時点で使用すべき抗生剤も決まるから、 あとはもう、その人が肺炎だろうが髄膜炎だろうが、感染部位の特定は、予後に貢献できなくなってしまう。
そんなキットを今作ったところで、それは恐ろしく高価であったり、診断精度はまだまだ不十分で、 権威はやっぱり、「そんなもの必要ない」なんて言うんだろうけれど、 誰かがそれを示したそのときから、いろんなものが、きっとその方向に向かって動きはじめる。
権威はアートを否定してほしい
たとえば原因が分からない発熱の患者さんが来て、「ここに肺炎の患者さんがいる」と宣言して、 絶食にして、ガイドラインどおりの抗生剤を開始したその時点で、人体からは、ほとんどあらゆる細菌が死滅する。 髄膜炎から軟部組織感染症、呼吸器、心臓、腎臓、あらゆる消化管感染症、 全ては「肺炎ガイドラインの抗生物質」で、消滅する。
それやって3日間、検査をフォローして悪くなってたら、その人はそもそも感染症でないか、 その人は結核に感染しているか、どこかに膿瘍を作っているのか、可能性は絞られる。
結核だとか、膿瘍ができる場所なんて限られてるから、この時点で胸と腹のCT を切れば、もう診断はつく。
こういうやりかたをすると、あとからどのタイミングで突っ込まれても、 「常にあらゆる可能性を考慮に入れていました」なんて、あと知恵の言い訳ができてしまう。 こういうのは邪道だけれど、言い訳レベルで無敵であるが故に、これから絶対広まってく。
偉い人たちは、もちろん眉をひそめるんだろうと思う。その人達が、 こういうやりかたをどうしても阻止しようと思ったら、権威自らが別の未来を描いて見せなきゃいけない。
アートを研鑽してきた権威は、権威だからこそ、自らのアートを否定してほしいなと思う。
「これはもういらないよ」なんて、アートを否定したベテランはパラダイムシフトを起こすけれど、 それができない、変化を拒む人たちは、たぶんもうすぐ老害になる。
自分たちの業界にも、大きな変化を起こすだけの素地は、もう出来上がっている。 総合診療部だとか、救急部みたいな、「診断のアート」を鍛えた権威が誰か一人、 「これはもういらないよ」と宣言するだけで、きっとすごく面白いことが起きるはず。
来年もよろしくお願いします。。

わんこかわいいよわんこ
Posted at 2008.12.31 7:00 PM by 匿名
medtoolzさんの持論ですね。
新しいものの開発にワクワクし、その広がった世界にワクワクする。アートでワクワクし、その一般化手法でもワクワクする。技術に留まらず概念でもワクワクする。
気持ちいい一年の〆をしたくここを選んだ自分の選択に間違いはなかった(^^)
今年も一年、medtoolzさんのいろんなワクワクさせる提案を見せて頂きありがとうございました。また来年もよろしくお願いします。
Posted at 2008.12.31 8:39 PM by お弟子
おつかれッス! 私も「これはもういらないよ宣言」に賛成です。根性と気合で勝負なんてくだらないことはやめましょう。変化を拒む人たちは、ご指摘の通り老害です。内科は頭で勝負。外科は腕で勝負。 おやすみなさい!
Posted at 2008.12.31 11:39 PM by たぬき(私は内科医)
明けましておめでとうございます。
とても面白いです。しかも、本当に、そうなりそうな気がします。
このような極めて独創的な発想を、秩序だって展開できるところに、medtoolzさんのすごさを感じます。
独創性では、medtoolzさんの足元にも及びませんが、私たちも「100年後の医学」という記事を書かせていただいたことがあります。
medtoolzさんの考えられる100年後の医学はどうなっているでしょうか?
http://www.3nai.jp/weblog/entry/22030.html
本年もよろしくお願いいたします。
Posted at 2009.01.1 8:02 AM by 金沢大学 血液内科・呼吸器内科
今年もよろしくお願いします。。。
Posted at 2009.01.1 11:13 AM by medtoolz
循環器領域だとなくなったものというと
・AMIのときのルーチンリドカイン投与
結局はエビデンスになるんでしょうか
http://d.hatena.ne.jp/russellsquare/20081121/p1
「好きに書いていい、という話だったが、たぶん、前線の臨床医がどうEBMを実践しているのか、というようなことを書くことを期待されていたのだろう。
しかし、私が書いたのは「EBMから「医療の開放」へ」と題する文章で、EBMからさらにその先に「1.主治医制の廃止、2.医師による医業独占の廃止、3.国家による医療者資格制度の廃止」を段階的に実現する「医療の開放」を目指せ、というものだった。
当時、私は独学で疫学の勉強をしつつも、EBMには何一つ期待していなかった。
私にあったのは、ただ医学の非科学性に対する嫌悪だけである。
EBMの方が相対的にましだとは思ってはいたが、しかし私からすればそれも十分にいかがわしいものだった。
だから、EBMにとどまるのではなく、そもそも「医者」も「国家制度」もなしに成立する医療を目指せ、と書いたのである。」
このへん。
Posted at 2009.01.1 11:31 AM by Anonumous
非EBMとか、絨毯爆撃とか、とりあえず全身CTとか。
研修医がやったら咎めなくてはならないけど、
ここで論じる分には全然OKですね。
後は1例1例具体例を積み重ねて、
何か汎用性のある(=今日すぐに使える)モノを抽出できたらな、
と思います。
そういうのを裏ワザといい、
裏ワザの積み重ねが新しい理論をつくり、
新しい理論を作るのはいつも若い人で・・・
と考えると、「研修医を咎める」という行為自体も間違っているのか?
そこで見極めるべきは、
掟破りをした研修医が周回遅れなのか、
逆に自分がラップされてしまっているのか、
ということなのでしょうか。
本年もよろしくお願いいたします
Posted at 2009.01.2 8:28 AM by エリヤフ先生
よろしくお願いします。。
Posted at 2009.01.4 9:34 AM by medtoolz
「サイエンスとアート」の和訳にはいろいろありますが、私はなだいなだ先生がよく使われる「学と術」という言葉が好きです(日本語としての響きがなんとなく心地ヨイ)。
世の中にはさまざまな天才がいます。「神の手」と呼ばれる医師は手術、すなわち術(=アート)の天才なのでしょう。方や診療の世界でアートのとされてきたことを、ばんばんサイエンスの言葉に言い換える天才もいて、そういう方の講演を聴くのは本当に面白いし(胸の空く思いがすることも)、即明日からの診療に役立つこともあります。
ただ、こういう言葉の中には教えられた通りにやっても上手くいかないことが時々あります。達人がやって上手くいくのに、自分がやっても上手くいかないのは、おそらくその達人はサイエンスの言葉にならないアートも無意識のうちに使って診療しているのでしょう。
EBM(根拠に基づく医療)はサイエンスの一つの究極だと思いますし、EBM学ぶことはとても大事だと思います(残念ながら私が学生のころにEBMの授業はなかった)が、EBMだけで診療している人はまずいないでしょう。RCT(無作為比較試験)の無作為化の中に良いものも悪いものもたくさん捨てられているはずです。だから、根拠に基づこうと基づくまいと病気を治すのが良い医療、という割り切りも必要なのかもしれません。
三森明夫先生の「膠原病診療ノート」のあとがきを見ると、「系を記述する算術形式がみつかるまでは、症候に注目しておくのがとくに重要かもしれない」という記載があります。「系を記述する算術形式(=基本原理)」は当然サイエンスです。「症候に注目しておく」こともまたサイエンスの第一歩と思いますが、同時に私はここに三森先生のアート(あるいは読者への激励)も感じます。
Posted at 2009.01.7 10:11 PM by KOD