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2012.07.30

必要なものとほしかったもの

「必要なもの」の反対語は「ほしかったもの」なのだと思う。

必要なものは目的が作り出す。たいていはいつでも買えるし、買った結果は見通せる。ほしかったものは出会いが作り出す。出会ったその瞬間まで、お客さんは「それがほしかった自分」がいたことなんて想像だにしない。

必要なものはあらかじめ想定された選択肢であって、買い叩かれる対象でもある。それが必要なものになったその途端、その商品は価値を失うと言い換えてもいい。欲しかったものは、出会う時まではお客の頭に存在しない。選択とは無縁の何かで、価値は下がらない。

田舎のホームセンターは十分に大きくて、必要な物はなんだって揃っているのに、欲しいものが何もない。何かの機会に東京に出かけると、地下街を歩くのが常なのだけれど、欲しかったものばかりがそこにあってびっくりする。実際にそれが必要かといえばそうでもないし、ホームセンターを探せば、欲しかったその商品と同じ機能を持った何かは当たり前のように販売されていたりするのに。

東急ハンズの昔

町田に東急ハンズが開店したばかりの大昔、小遣いを握りしめては何回も遊びに行った。バス代がもったいないから、片道1時間ぐらい、自転車だった。

うちで使っているコップは大昔から実験用ビーカーなのだけれど、きっかけは東急ハンズだった。洗面用具が並ぶ棚にビーカーが一緒に置かれて、「ビーカーでコーヒーを飲んでみませんか」という手描きのキャプションが付いていた。子供にはそれが素晴らしいことに思えて、ビーカーを買って帰った。

ビーカーとはいえそれは単なるコップであって、普通のコップが割れる中、ビーカーは増殖を続け、食器棚には今もビーカーが並ぶ。今はもうハンズではなく通販で買うのだけれど、ビーカーとの出会いはといえば間違いなく東急ハンズの店員さんが書いたメモ書きで、あれ以降ずっと、自分にとってのコップは実験用ビーカーになった。

もうカタログ落ちしたみたいだけれど、プラスには昔、「重はさみ」という枝切りばさみを文具に仕立てた商品があった。東急ハンズには無数のはさみが並べられていて、文具コーナーにたくさんの商品が並ぶ中、やけにごっつい工具みたいなその商品が、特別なふうでもなく一緒にぶら下がっていた。子供心にごっついはさみはかっこよく見えて、何かに使う目的もないくせに、迷わず手を伸ばしてしまった。

プラスのはさみは紙を切るには頑丈に過ぎた、1円玉が余裕で切れるような代物で、それが必要な状況は、自分の生活には全くといっていいほど存在しなかったのに、机にはいつもごっついはさみが転がっていた。電線を切ったり、金属板を切断したりしながらそろそろ20年以上、最近は犬のおやつに買った牛の肋骨を小さく刻むのに活躍している。

目的はあとからついてくる

機能に優れ、目的に対して使い勝手がいいことは、商品の魅力とは無関係なのだと思う。あるいは逆に、目的に対して性能がオーバーに過ぎ、使い勝手を損ねていることそれ自体が、その商品を魅力的なものにする原動力になっていることだってある。

必要があって買ったものは、目的を達成すると役割を失う。使い勝手に優れようが、デザインが素晴らしかろうが、役割を失った道具は居場所を失ってしまう。

机の上に転がっている重ばさみは、「そこにあって使われる」ために購入したものだから、目的は向こう側からやって来る。子供の頃は木を切ったり硬貨を切ったり、握力がついてからは金属板を切ったり電線を切ったり、使う人間の能力や環境が変わるつど、「切るもの」が現れた。

実験用ビーカーは単なる丈夫なコップだし、プラス重はさみだって、枝切り鋏の握りがプラスチックになっただけの商品で、何ら特別な機能を持っているわけではないのだけれど、出会ったものには役割が途切れない。

釘を打つためにハンマーを買うと、役割を終えたハンマーは道具箱にしまわれ、もしかしたら二度と使われない。道具屋さんで魅力的なハンマーに出会った人は、それを片手に打つものを探し、あらゆるものに「釘」を見出すようになる。

必要なものは世界を変えない。欲しかったものに出会った人は、見える世界がそれまでとは少しだけ異なってくる。後戻りはありえない。

違和感は武器になる

休み中、ホームセンターに新しい扇風機を買いに出かけた。売り場にはダイソンの羽なし扇風機が鎮座していて、そこだけ異空間だった。

ダイソンの扇風機は評判が今ひとつで、音がうるさいとか風量が案外大したことがないだとか、耳にしていた欠点は実物を見てたしかにそのとおりであったのだけれど、そんな悪評がどうでも良くなるぐらい、あの商品は「これほしかった」感がすごかった。

ふつうの扇風機は機能の見通しがたてやすい。利点や欠点、家においた時の風景も「こうだろう」と予想できるから、あとは価格と性能が選択を左右する。ダイソンの羽なし扇風機は、「あれが家に来たらこうなる」ではなく、「これを家に置くとしたらどうしよう」という気分になる。あれは「必要なもの」として買われるのではなく、「欲しかったもの」として出会うために企画された商品で、お客を引っ張るための考えかたがぜんぜん違う。

ふつうの扇風機が並んでいる中にダイソンが混じっているのは、鶏の群れの中になぜかペンギンが突っ立ってるような違和感がある。卵を生むのは鶏かもしれないけれど、お客さんはもしかしたらペンギンに飛びついて、この生き物をどうにかして家で飼えないものか思案する。

出会いは大切

ホームセンターの敷地は莫大で、売られているものの種類は無数で、品揃えは東急ハンズにだって引けをとらないはずなのに、欲しかったものが見つからない。

東急ハンズの実店舗には独特の高揚感があって、そこに売られているものならなんでも、自分が欲しかったものにみえてくる。ところが東急ハンズの通販サイトをどれだけ眺めても、実店舗の高揚感が得られない。通販サイトの品揃えは十分で、選択肢は一覧できて、便利さでいけばむしろこちらのほうが優れているのに、そこに並んでいるのは「必要なもの」ではあっても、「欲しかったもの」ではなくなってしまう。

別冊太陽の「文房具の研究」という本が、文具との出会いを相当に意識して書かれた、なおかつ成功した本なのではないかと思う。文具はむしろ脇役で、ちょっとしたエッセイがいくつもあって、その幕間に文具のカタログがはさまったような編集だった。成人向けに書かれた気取った文章は、小学生が読むには難しすぎて、物語の意味なんてろくに分からなかったはずなのに、その本で紹介される文具はどれも輝いて見えた。

「出会いかた」が大事なのだと思う。

便利に一覧できることは必ずしもいいことばかりではなくて、一覧はできても、出会えない。必要なものなら一覧できると便利だけれど、欲しかったものは出会わないと、それがほしかった自分を実感できない。

出会いとは、「それを持った自分が遭遇するであろう、新しい世界をかいま見ること」であって、お客さんにそれがある風景を想像させることに成功すれば、その商品はお客さんが「ほしかったもの」へと生まれ変わる。

便利や価格が行き着くところまで到達しても、購買にはまだまだ、できることはたくさんあるのだろうと思う。

Comment & Trackback

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私は写真が趣味なのですが、カメラのレンズで同じ事を思います。
何かを撮るために買ったレンズよりも、描写に惚れて何を撮るのかよくわからないまま買ったレンズのほうが使いでがあるしいい写真が撮れたりします。
「このレンズで何が撮れるだろう、どう使ってやろう」と考えるのが楽しくて愛着も湧きます。
レンズは要らなくなるとすぐ売ってしまうのですが、そういうレンズはずっと保有したままになります。

「レンズ沼」なんて言葉があるぐらいですもんね。。

東急ハンズに関しては同感です。
あそこには「欲しいもの」がいっぱいでした。
特に地方から東京に来た者にとって、ホームセンターとは違う魅力がいっぱいつまっていました。
紙を立てるマーブルスタンドを見つけた時の感動は正にそうです。
未だに使用しています。