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2008.10.09

診断学のこと

診断学の本を読んでいる。

ベイズ推定が主流になるのか、どの本も、「総論」のところに統計学的な疾患推定のやりかたが解説されている。

「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」だとか、医師の思い込みだとか、 先入観で診断を行うことを戒めてる。

驚きが追従者を生む

統計的には、感度が高い検査が陽性になったからといって、そもそもの発症頻度が低い病気なら、 その陽性にはあまり意味がないのだという。95% の的中率を誇る検査で「陽性」が でたからといって、普通の人がその疾患にかかる確率が5%でしかないのなら、 「陽性」と言われたその人がその病気である可能性は9%にしか過ぎなくて、 「陽性」の9割は間違えなのだ、なんて紹介される。

新しいやりかたで、今までやってきたことを振り返ると、しばしば全く違った世界が見える。 「先入観」が隠してた何かだとか、自分達が必要以上に恐怖を煽って、あるいは煽られていた部分だとか。 統計のやりかたは、しばしば読者を驚かせる。読者の「誤り」を指摘して、その人を驚かせて、 統計学者は信者を増やす。

診断学は閉じた学問で、人間が人間である以上、毎年のように病気の数が増えることなんてありえないし、 今も昔も、肺炎になった人は咳をするし、胃潰瘍になった人はお腹を痛がる。変化がないから「間に合っている」 とも言えるし、進歩がないぶん、誰もがそこに、新しい技術を入れたがってる。

「エビデンスに基づいた」医療のやりかた、診断にたどり着くために「ベイズ推定」を用いるやりかたは、 診断学の世界に久しぶりに登場した新しいやりかた。いろんな「常識」が覆されて、 恐らくは「エビデンス」との相性抜群だから、これから内科を学ぶ人達は、きっと統計の知識が必須になるんだろうなと思う。

正しい技術は驚かない

統計的な考えかたを導入した、新しい世代の診断学は、読んでいてたしかに驚かされる。 自分達が盤石と思っていた検査の感度が案外悪くて、ごく素朴な、患者さんにささやかな質問をするだとか、 足をちょっと触ってみるだとか、簡単な理学所見を取るだけのことが、極めて高い診断確率を持っていたりする。

読んでいて驚く。驚くんだけれど、読者に「驚き」を提供する新技術は、 それでもたぶん、どこか間違ってると思う。

世の中をひっくり返すような新しい技術は、たいていは「便利」なものとして世の中に登場して、 それが出現した翌日から、それは生活の一部として認識されて、新技術を使う人達は、ほとんど誰も驚かない。

その技術が登場したあと、みんなの生活は一変していて、技術に詳しい人達は、みんな「すごい時代になった」なんて 感心しているのだけれど、その変化はあまりにも自然に行われてしまうから、たいていの人は驚かないし、 「それがなかった昔」を振り返らない。

インターネットを使った動画配信の技術なんかは、たぶんそのすごさが理解できる人にとってはすごい技術なんだろうけれど、 自分達ユーザーは、単に「便利だな」と思いながらそれを使って、youtube はすぐに生活の一部になった。 パソコンでテレビを見るのが一般的になって、昔ながらの、みんなで今に集まってテレビを見る習慣は無くなったりして、 たぶん生活のいろんな風景が変わったのだろうけれど、あの技術で「驚いた」人は、たぶん youtube を視聴する 莫大な数のユーザーからみると、ごくわずかな数でしかないんだろうと思う。

診断学にベイズ理論を取り入れるやりかたは、どの本開いても、最初に「読者の驚き」を要求する。 たしかに驚くんだけれど、驚きを求めないと話が前に進まないこの時点で、すでにこのやりかたは、 技術的に「正しくない」ような気がしている。

患者さんは安心を買いに来る

同業者が「驚く」技術、あるいは考えかたは、そのやりかたを患者さんに適用すれば、 患者さんはもちろん、もっと驚く。

驚きは不安につながる。患者さんの不安に対して、統計学者は「それはあなたの先入観なんです」なんて言うんだろうけれど、 不安に根拠のないことが「統計的に」証明されたところで、やっぱり不安はそのまま残る。

統計学者にとっての「誤差範囲」の事象は、それでも当人にとっては、一生を左右する問題になる。

不安駆動型のやりかた、症状から考えられる疾患名を「死ぬ順」に並べて、 「死ぬ病気」から順番に除外していくやりかたは、統計学者からは叩かれるけれど、 素朴な直感に逆らわない、医師も患者も安心できるやりかたではある。

自分達が売っているものについて、みんなもっと自覚的になるべきだと思う。 医療は結局のところ「安心」を販売して対価を得ているのであって、「診断」だとか、 「治癒」でさえもまた、安心が生まれて、初めて価値が生まれるものにしか過ぎない。

統計を売るのはコンサルタントの仕事だけれど、医師が統計を学んで、 それをそのまま患者さんに販売したところで、お客さんはたぶん喜ばない。

症状は創発する

たとえば隣町の病院まで 2時間かかる田舎の診療所に「頭痛」を訴えてきた人と、 コンビニエンスストアと化している総合病院に、日曜日の夕方に、頭痛で立ち寄った人と、 それを同じ「頭痛」の範疇で扱ってはいけないような気がする。

症状というものは、その人の病理と、その人が対峙した環境とが相互作用を生じることで、創発する。

田舎の診療所に来る頭痛は、病理それ自体が生み出した「本物」である可能性が高いけれど、 CTスキャンがある、日曜日の夕方なら「空いている」ことが周知されている病院で発生した「頭痛」は、 むしろ「CTを切ってほしい」というニーズが、頭痛を要請した可能性がある。

CTスキャンを撮りたくて病院に来た人に、ていねいな診察を行って、 「CTを取る必要はありません」なんて説明したところで、恐らく満足は得られない。 あるいは逆に、外来に「CT時間外10万円」と書いた紙を貼っておくだけで、 この患者さんの「頭痛」は治ってしまうかもしれない。

統計で考える診断学は、症状を、患者さん固有のものとしてあつかって、 同じ患者さんに発生した同じ症状は、それがどこで発生しても、バックグラウンドでは 同じ病理が進行していることが前提になっている。

これは「経済合理的な人間」を前提にした経済学がうまく機能しないのと同様に、どこか危険な気がする。

新しい技術のこと

新しい技術が入ると、それがどちらに転んでも、現場はたぶん「馬鹿」になる。

現場を正しく「馬鹿」にする技術は、ベテランの価値を普遍化してしまう。現場は大学出たての 研修医でも普通に回るようになって、そうした技術は、現場を「馬鹿」ばっかりにしてしまう。

伝説の宮大工、西岡常一は、現役時代、大学の先生から「馬鹿」扱いされたんだという。

ある時期の建築学が、現場を見ないで一人歩きしたことがあって、 大工の目から見て「建たない」やりかたが「正しい」とされた。大学の先生の指導に従わないで現場を回していた西岡は、 大学の人達から「馬鹿」と言われて、実際に作って見せるまで、「馬鹿」の評価は覆らなかったんだという。

新しいやりかたが導入されて、現場はたしかに驚いた。統計の技術は正しくて、 なんだか反論するのが難しそうで、自分なんかはだから、これから先、統計学んだ人達から「馬鹿」と 言われる機会が増えるんだろうなと思う。

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Comment & Trackback

診断学って、自分が実際診断した病気しか診断できない。早期胃ガンについてどんなに教科書とかティーチングファイルで教わっても、最初の一人を診断(まぐれでも)しないと、次の早期胃ガンが診断できない。内視鏡すると100人から200人に一人ガンが見つかる。でも、最初の早期胃ガンを見つけてない医師は300人、400人胃カメラしてるのに早期胃ガンが見つけられない。診断は、自分自身の経験以外では学べない。鑑別診断を挙げることは、、、教科書で勉強すればできるけど。
あ、ついでですけど、内科的疾患の50パーセントくらいは自然治癒力で治っていると思います。経験上。ガンでさえ事前治癒する人がたくさんいます。 
ので、医師は祈祷師とかまじない師として振る舞うだけでも患者さん達はかなり治ります。
逆に、自分の治療、検査に自信がないと、治癒率は低くなるし検査の合併症も高率になります。
たくさん検査し、たくさん診断し、たくさん治療していくうちに良い医療ができるようになるのでしょう。EBMとかガイドラインなんて、訴訟対策として目を通しておけばいいのです。めんどくさいけど。

僕のCFの師匠、工藤進英先生は1000人に一人、大腸のIIcを見つけている。。。僕はpure IIcは10年で2人しか見つけてない。。。バレット腺癌のm癌は10年で一人です。。。
たくさんやることが必要だといつも感じています。頭で考えて診断すると言うより、反射的に「これはおかしい」って思えたらその時点で患者さんは救われるのでしょう。

「やっぱ経験だよね」なんて、自分達の技術は、未だに正しい言語化が為されていないような気がしてしょうがないのですが、そういうこと声高につぶやくと、今度は「反知性主義」とか叩かれるんですよね。。

私はベイズ推定、好きですね。
自分が無意識でやってきたことが、ちゃんと証明されたみたいで。

一方で、直観とか経験とか違和感だとか、これも大切だと思います。
これはこれで、何らかの理論的裏づけがあるのではないでしょうか。

将来、ベイズ推定と矛盾なく統合できるような気がします。

それと、2時間歩いて田舎の診療所にやってきた頭痛は、
その時点で事前確率「大」と思います。
無理してでも頭部CTや腰椎穿刺をする必要があります。

日曜の夕方のコンビニ受診は事前確率「小」なので、
頭部CTは、除外診断に使います。

やることが一緒でも意味づけが違っているわけで、
これもベイズ推定に基づいた行動だと思います。

※ それとは別に「CT時間外10万円」の張り紙には賛成です。

ネタ元は忘れてしまったのですが、ベテランクラスの違和感やなんとなくやっておいた方がいいの根拠は、蓄積された経験から無意識のうちに、脳が共通した危険シグナルを認知し、それを警告として発していると最近の大脳生理学ではいわれているというのを見た記憶があります。部長クラスの人で、なんでそんなことするのというのが実は大当たりということがあるのは、このためなんだと納得しました。

>自分達が売っているものについて、みんなもっと自覚的になるべきだと思う。医療は結局のところ「安心」を販売して対価を得ているのであって、「診断」だとか、「治癒」でさえもまた、安心が生まれて、初めて価値が生まれるものにしか過ぎない。

「安心して死ねる」病院が究極の病院ですね。

気をつけているつもりでも、知らず知らずに「医学」と「医療」を混同してしまっています。。。「医学」を基礎にして「医療」を提供するのが「医師」だと、常に自らに言い聞かせながら日々診療をしているのですが、、、。難しいものです。
医学的な知識、技術を磨くことに偏ってもいい医療はできないし、常にアップデートし続けないと、ただの宗教家か詐欺師みたいな存在になってしまう。

ベイズ推定の使い方が新しいものであったとしても、
医学ってもともと統計だったのでは?
読んでいてえらく違和感。

あと、安心についても。
『安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学』
(ちくま新書 746) (新書)
オススメ。

ベイス推定使っていますね。
わたしは医者ではないですけど、とっても重宝。
直感の危うさ、ってのが、
わたしが活動している領域ではとっても深刻なので。

むしろベイズ推定には驚きません。
ベテランが直感で「あれ?おかしくない?」と思った事柄について、ベイズ推定が理論的後ろ盾になってくれた感覚なのですが。

先ほどプログラマーの人と診断におけるベイズ推定の話をしたところ、「比較的簡単に作れるんじゃないですか?そういうソフト」との言葉。いろんな質問を入力していって最後に「あなたは○○という病気の可能性○○パーセントです」なんて言う感じのもの。理系の人間の考える医療ってそんなものかもしれません。
でも、コンピューターに「大丈夫です」って言われるのと医師に笑顔で「大丈夫です」って言われるのとでは雲泥の差。前者が医学で後者が医療です。。診断は間違っていても、患者さんが精神的にも、肉体的にも「良く」なれば「良い医療」なのですから。。

背負った文化が歪んでるとだめなんでしょうか。。>ベイズ

コンピューター診断は、それこそ症状を「グーグル先生」にそのまま打ち込むと、けっこう高い確率で診断に行き当たりますよね。。

>これは「経済合理的な人間」を前提にした経済学がうまく機能しないのと同様に、どこか危険な気がする。

同じように思い浮かびました。
特に医学分野はNK細胞の活性とかメンタルが支配する部分が大きいのかなとも感じます。

ベイズ推定は人間の経験のようなアプローチを体系化していくもののような気がしています。
しかしまだ人間の経験は他の要因があるのでまだまだ代替できない部分が多い。

将棋のコンピュータは詰みは計算しなければ判断できませんが、羽生名人は、終盤のある局面を見た瞬間おおよそ詰みがあるか感じ取ることが出来るそうです。

人間の経験には他にどのような要因が潜んでいるのか?

統計は利用するためのものであり、利用されたくはないですね。

統計は、安心とはどこかずれてる気がするんですよね。。素朴な理解が難しいというか。

[Books]その数学が戦略を決める

山形浩生氏の翻訳つながりで、久々に起業に絡んだ話題も交えつつ、もう1冊。 本書は、統計学がいかに実社会で活躍しているかを熱く語った一冊。気軽に読める話題ばかりだが、参考…

>「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」

確かに、多くの臨床医には「自分の好きな疾患」というものが何個かあると思います。自分がたまたま経験して、よく調べたがために、その疾患の非典型例まで知っているという疾患。そうなってくると、通常よりもはるかに多い頻度でその疾患が存在するかのような錯覚に陥ります。逆に言えば、「自分の好きな疾患」があるということは、自分の知らない疾患が数多あるため、知っている疾患に逃げ込んでいるだけなのかもしれません。

そういう状態にならないように、やはり病気は人智を超えた自然の猛威だから、つねに冬山に登るくらいの心掛けで診断しなければ、と自分を戒めるようにしています。

そのほかに私が診断のときに自分に言い聞かせるある先生があります。
「稀な疾患の典型例よりも、よくある疾患の非典型例の方が多い」
「世の中の9割を占めるよくある疾患(common disease)を、9割以上の確率で診断できれば、正診率は8割を超えます。これだけで既に有用な臨床医です」

まあ、致死性の救急疾患に対しては、さらに正診率をあげるアプローチが必要でしょうが。

「9割を9割診断する」はいい考えかたですね。。

個人的にはやっぱり「治せればいいやりかた」を目指しているので、ごくまれであっても特別な直し方を要する病気は、最初のうちから診断できるようにしておきたいところ。

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