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2012.05.24

悪役には「ずれ」がある。主役には欠落がある

漫画原作者である小池一夫 さんの「主人公には弱点を。敵役には欠点を」という教えは、シンプルなのにとても深いなと思う。物語を作る側ではなく、読む側からそれを改変すると、主役には「欠落」を、敵役には「ずれ」を、になるのではないかと思う。

悪の組織は素晴らしい

主人公に立ちはだかる「悪の組織」を束ねるのは、理想の上司と形容されるような素晴らしい人物でないといけない。

「ブラック企業」に代表されるような、部下をこき使う、魅力のかけらもないような人物を悪の黒幕として設定すると、主役の戦いに大義が生まれない。

ブラック企業の上司は、部下となった人たちから選択肢と睡眠時間を奪う。部下に対して、組織に賛同する意思を引き出すのではなく、「組織に賛同しない」という選択肢を奪おうとする。物語ではたいてい、主人公は悪の組織に何かを奪われた存在として描かれるけれど、「ブラック企業」的な組織の末端には、やはり大切な何かを奪われた人たちが主人公に立ちはだかることになる。

能力にまさる主人公が、等しく「奪われたもの」であるこうした人達を倒してしまったら、読者の共感は主人公から離れてしまう。

物語を背負う悪の組織は、社長から平社員に至るまで、だから自分の意志で組織の目的に賛同し、モチベーションの高い人達で構成される必要がある。

悪の黒幕は素晴らしい人物で、目的は遠く大きく、進捗管理に巧みで部下のモチベーションを引き出すのが上手で、自身には常に厳しく未来を見据える。強力な能力と動機を兼ね備えた人たちが素晴らしい上司のもとに結集して、目的に向かって一丸となって突き進む。主人公の戦いを通じて読者の共感を維持しようと思ったら、悪の組織は必然として、組織としてむしろ理想的なものにならないといけない。

悪役には「ずれ」がある

物語の目的が「主人公に共感する」ことである限り、悪役は必然として、組織人として完璧で好ましい人物で構成されることになる。

こうした人々に「悪」の大義を背負ってもらうために、彼らには「ずれ」が設定されることになる。素晴らしい人達が、高いモチベーションのもとにどれだけ努力したところで、その目的が読者に代表される「普通の人」の思惑と「ずれ」があって、それが迷惑なものであれば、彼らの組織は悪と断じられるに足る。主人公の戦いにも大義が生まれる。

世の中で陰謀が観測される事例の大部分はタイミングがたまたま一致した「無能」であって、能力の高い人達が、ならば本当に「迷惑な目的」に向かって高い動機で結集したとして、果たして目的に邁進する彼らの側が悪なのか、あるいは現状の維持回復を期待する読者の側が悪なのか、「革新」と「既得権」とはどちらの側も正義を名乗るから、本来は誰にも決められないものなのだけれど。

主人公には欠落がある

主人公には逆に、何らかの欠落が設定されていないといけない。欠けているのは勇気であったり腕力であったり、人間的な魅力や、あるいは何らかの知的な欠落かもしれない。いずれにしても「普通の人」にはそれなりにあるべき何かが足りない人物が、主人公としてふさわしい。

普通の人は、問題と対峙した時には、まずは「普通の問題解決」を試みる。ヤクザやカルト宗教みたいな「悪の組織」と対峙しした「普通の人」は、まずは話しあい、住民投票を行い、交渉が決裂すれば警察を要請する。夜中に一人、マスクをかぶって組織の本部を襲ったりしない。

物語の主役は大抵の場合、人として間違ったやりかたでの問題解決を目指す。普通の人がこれをやったら単なる犯罪者であって、物語を盛り上げようと思ったら、主人公からは「問題を普通に解決する」という選択肢を、あらかじめ奪っておかないといけない。

「普通にやる」には何かが足りず、問題と対峙した主人公には「普通に解決する」という選択肢がない。物語はここから始まって、欠落の必然として「普通でない」手段が選択され、主人公は何かと「戦う」ことになる。

主人公にとっての戦いとは、常に「不足の補填」という側面を持つ。悪を倒せば物語は終盤だけれど、「戦う」ことを通じて主人公の欠落もまた補填される。不足を失い、「普通にやる」選択肢を得た主人公は、悪との戦いが終わる頃には、戦う理由も失うことになる。

主人公は能力を持つ

主人公には、欠落に見合った「能力」が付加されることになる。能力は文字どおりの超能力でもいいし、火力であったり知力であったり、人間的な魅力であったり、主人公は、何かの不足と、何かの過剰とを併せ持つことになる。

不足は主人公から「普通」の選択肢を奪う。能力は、主人公が行使せざるを得なくなった「普通でない」選択肢に説得力をもたらす。

物語とは、普通にやるには何かが足りない主人公が、代償として得た何かの能力を用い、戦いを通じて自身の不足を取り戻す過程であるといえる。普通の人には不足も能力も存在しないから、主人公のやりかたはいびつなものとして観測され、そのいびつさが物語の面白さを生み出す。

主役は「不足」と「能力」とを持っている。不足に見合った能力の活かしかたをしている主役は魅力的に見える。不足を無視して、主人公を単なる超人に祭りあげてしまうと、読者の共感が剥がれてしまう。

たとえば犬並みの嗅覚を持っていたり、あるいは壁の向こう側を見ることができたりする主人公は、壁の向こう側に誰がいるのか考えたりしない。能力があって、その能力に頼りきっているのならば、壁の向こうは「すでに見えている」ものであって、思案の対象には成り得ない。それを思案したその時点で、主人公は能力を生かしていないし、主人公の不足には切実さが感じられなくなってしまう。

たとえば空を飛ぶ能力を与えられた主人公には、空中での索敵をやらせてはいけない。そんなのはラジコンヘリでもできることで、その程度の活かしかたでは切実さが足りない。

空を飛べるのだからこそ、主人公は逆に、ひたすらに地図を眺める必要に迫られてほしい。空を飛べる人間が、敵の組織を空から襲撃してみせたところで、銃で打たれればそれで詰む。飛べる能力に頼りきった主人公が何かを成し遂げようとするのなら、「相手が回り道せざるをえない状況でも自分は飛べる」ことを活かす必要があって、「地図を調べて待ちぶせ」という地味な戦法が、飛べる能力の生かしかたになってくる。

誰もが与えられたカードで勝負するしかない。物語ではたいていの場合、悪役にはいいカードが揃っていて、主人公はその代わり、ジョーカーを持っている。

  • 悪の組織は悪を背負うに足るだけの人材を備えているのか
  • 彼らの目的は読者に不快を与えるだけの十分な「ずれ」が備わっているのか
  • 主人公に与えられた不足は何か。それは主人公をいびつな選択肢に追い込むに足るほどに深刻なのか
  • 主人公の能力は何か。主人公はそれを活かした、それに頼りきった戦略で能力を行使できているのかどうか

何かが決定的にかけた主人公が、完璧な能力を備えた迷惑な人々と対峙する。彼らに打ち勝つために、主人公は能力を活かした「卑怯」を行使し、戦いを通じて欠落を取り戻した主人公は、「普通の人」として日常に回帰する。そんな物語が読みたいなと思う。

2012.05.16

研修期間中の勉強について

研修医の期間に行う勉強は、将来にわたって学習を続けていくために必要な、「健全な偏見」とでも言うべきものを養うために行われるべきなのだと思う。

偏見は学習の道具として役に立つ。どれだけ優れた大工さんであっても素手で家を建てることが不可能なのと同様に、偏見を持たずに膨大な教科書にあたったところで、身につく知識は得られない。

マニュアル本は役に立つ

全領域の内容が簡便に記載されたマニュアル本、聖路加の「内科レジデントマニュアル」や、三井記念の「内科レジデント実践マニュアル」ぐらいの大きさを持ったメモ書きは、年次が上がっても役に立つ。

記憶はどうしても曖昧で、よほど慣れている分野でもないかぎり、ちょっとした調べ物をする機会は無くならない。ちょっとした調べ物は、まさにその場で、その瞬間にできることが大切で、ハリソン内科学みたいに4000ページ近くあるような参考書、あるいはUpToDate みたいな電子教科書出であってもやはり厳しい。

研修医向けのマニュアル本をそのまま使うことはないだろうけれど、たいていのベテランは、自分の知識をあれぐらいの大きさにメモ書きとしてまとめていて、メモを参照しながら仕事を回す。そうしたものを作るのには能力が必要で、ある分野の知識を身につけるということは、臨床医が病棟業務を回していくのに必要な、あるひとかたまりの知識をメモ書きとしてまとめることにだいたい等しい。

知識を削るのは難しい

研修医向けのマニュアル本を読み比べると分かるのだけれど、どれも同じような大きさを持ち、同じような読者を想定し、同じような知識を提供することを目的にしているのに、記載されている知識はびっくりするぐらいに異なっている。どのマニュアル本にも固有の偏りがあって、「使える内容」と「限られた大きさ」とを両立させるために、それぞれの筆者が、それぞれの考えかたに基づいて、記載すべき知識を絞り込んでいるのだろうと思う。

簡便なマニュアルをまとめる際に、「全部の縮小コピー」を目指してしまうと、出来上がったものは使いものにならない。

一般内科の日常業務を回すのに、たとえばハリソン内科学には「内科の全部」が記載されていて、あの程度の知識があればだいたいどうにかなることが多い。ところがハリソンの各章をそのまま短い文章に要約して、A4 サイズ4000ページを手のひらに乗る300ページにまとめてしまうと、目次こそ「使えそう」な体裁を保つだろうけれど、そのメモ書きが現場で使われる機会はまず訪れない。

鈍器みたいに巨大な教科書が、装飾過多で無駄の多い文章に満ちあふれているかといえばそんなわけがなく、定評のある教科書を書いた人たちもまた、限られた割り当てページに可能な限りの知見を押しこむ。実用性を保ったままに全てを要約することは不可能で、知識をコンパクトに持ち歩こうと思ったら、どうしても取捨選択を行う必要に迫られる。

知識の削除を目指したその時点で、その人の態度には偏りが生まれる。知識を身につけること、それを持ち歩き、実用できるということは、「内科という全部」に対して自分なりの偏見を身につけることに等しい。

偏見で教科書を「引く」

無重力空間では歩けない。人間は、骨格という制約に、さらに「重力」と「地面」という制約を加えることで、歩行という動作を生成している。人間は歩くのではなく、そうした制約に「歩かされている」。

学習における偏見の獲得も、重力や床、あるいは骨格のような制約の再発明であるとも言える。制約を獲得することで、ようやくその人は、莫大な情報を「学ぶ」ことができるようになる。

情報に「溺れる」ことと、情報を「泳ぐ」こととでは意味が異なる。偏見を持たずに情報と接することは、情報に溺れることに等しい。溺れた結果として、読者は自分の意図を超えた、どこか素晴らしい地平にたどり着けるかもしれないけれど、溺れた人はたいていそこから動けないし、溺れた結果として、致死的なダメージを受けてしまうことだってある。「泳ぐ」ことは、「溺れる」ことで出会えたかもしれない何かを、最初から切り捨てることでもある。これは機会を放棄する態度でもあるけれど、泳いだ人は比較的高い確率で、泳がないと到達できない別の地平にたどり着く。

泳ぎと同様、制約もあらかじめ自分で用意しないと前に進めない。

参考書を読むときには、自分はこの本から何を「学ばない」のか、という態度をあらかじめ決めておくことで、読書の速度を向上できる。道徳的には、偏りのない態度で知識に接するほうが正しいけれど、これを目指すと溺れる。「何を学ぶのか」が戦術ならば、「何を切り捨てるのか」が戦略であって、偏りなく勤勉に、ひたすら勉強を続けた人は、戦略の不在に敗北することになる。

辞書を「読む」人は少なく、辞書は「引く」ものだと考える人は多い。辞書というものは、あらかじめ「これ」という目的があって開かれる本であって、読者はたいてい、「知らない単語の意味を知る」という明確な目的を持っているから、辞書を開いて溺れる人は少ないし、辞書を調べたら、調べた分だけ前に進める。

明確な目的と、身に着けた偏見でもって教科書に当たることで、辞書を引くようなやりかたで、教科書を引けるようになる。これは大切なことだと思う。

「実用的な偏見」の作りかた

若い人達が、もしも「総合的な内科」みたいなものを学びたいと思ったのなら、大体5年目ぐらいで内科の小冊子を作るぐらいの気持ちでメモ書きをまとめ、改良していくといい。

最初は市販されている研修医マニュアルでもいいし、できれば研修施設で指定されている、あるいは内製しているマニュアル本を基礎にするのがいい。それを読んで業務に当たると、たいていは様々な問題に突き当たる。

マニュアル本にはたとえば、「この疾患を見逃さないように」という記載が出てくる。「見逃さない」ためには何に気をつければいいのか、どういう検査を行えば見逃さないのか、書かれていないことも多い。それを上司に確認したり、あるいは調べたりしたら、それを書き加えていく。メモにはできれば、出典というか、「この言葉はこの教科書に書いてあった」と分かるような見出しを添えておくとあとが楽になる。

マニュアル本にはたとえば、「正確に行う」とか、「確実に○○が行われていることを確認する」といった記載も登場する。 「正確に行う」ためには何に気をつければいいのか、どこをメルクマールにすることで正しさは定義しうるのか、そこを正しく行えなかった場合に、どんな致死ルートが想定され、それを回避するためにはあらかじめ何を予期し、何を準備すればいいのか、それをまた上司に尋ね、教科書で調べ、メモに追記していく。

追記を繰り返していくことで、メモ書きからは曖昧な言葉が減っていく。「○○に気をつける」は「○○を除外診断するためにこの検査を提出する」といった言葉に置き換わる。「分かったつもり」の偏見は、改良が重ねられていくにつれ、身についた実用的なものになっていく。

質問を受ける機会が大切

曖昧な言葉を減らすのは案外に難しい。

曖昧な記載が行われた場所は、自身では「分かっている」つもりでいて、あまつさえ得意分野であるにもかかわらず、実は細かい検証を怠っている場所であったりもする。懸賞を怠っても業務には全く支障が出ない代わり、その分野では「適当にやってくれればいいから」という指示が飛ぶ。みんなが慣れていると、場の「適当」は実際に上手に動いて、検証の機会はますます遠のく。

他者からの質問は、勉強会や講演の品質を向上させる。「当たり前」を共有していない誰かからの質問は、マニュアル本から曖昧で便利な言葉の排除を求める。「それを当たり前と思っている自分自身」は、他人の目線で検証される。

同級生でやる勉強会は、そういう意味で役に立つ。定期的に各自がメモ書きを持ち寄っては、更新された差分を発表する。「ちゃんと」や「正しく」、あるいは「〇〇の可能性を必ず考慮する」といったずるい言い回しを使ったら、お互いにそれを指摘して発表から削除していく。指摘を受けた人は次回までの宿題として、その場所を曖昧でない言葉に置き換える義務が課される。

これを個人で続けるのは難しく、インターネット上でメモ書きの改良を行うことも、いろいろ試みたけれど自分には厳しかった。メモ書きの集積と改良、その先にある「実用的な偏見」を身につけるためには、研修病院の同級生で助け合うのが結局正しいような気がする。

現場で体験したことを自身のメモに照らし、足りなかったところを上司の言葉や教科書の記載で埋める。勉強会でお互いのメモを比較し、曖昧な表記を指摘することで偏見の改良を行う。改良された偏見でもって現場に当たり、「体験」と「偏見」との衝突を経ることで、また足りなかった何かが見つかる。衝突は、本来患者さんのためにあってはいけないことだけれど、研修期間なら、上司がバックアップしてくれる。

研修医の期間、こうしたサイクルを繰り返すことで、偏見は実用的なものになっていく。

道具について

メモ書きの基礎となるマニュアル本に加えて、やはり何か定評ある内科の教科書を持つべきだと思う。誰もが知っていて、「あの教科書なら」と誰もが納得してくれることが大事で、結局それは、ハリソンやセシルの原著になるような気がする。最近のはけっこう読みやすいし、幸いずいぶん安価になったから、やっぱり早い時期に買っておくべきだと思う。

メモを書きためるための道具が問題になってくる。

  • 文章の構造化が容易で、勉強会で役に立つメモをお互いに共有できないといけない
  • 全てのメモにはそこに到達するための導線が欠かせない。お互いのメモを交換していくのなら、目次や索引の自動生成機能はどうしてもほしい
  • 自分のメモ書きにおいて、どの分野をどのタイミングで更新したのか、勉強会では差分を提出する必要が生まれるから、バージョン管理システムとの相性がいいことも必要になってくる
  • メモ書きは印刷したり、ネットで公開したり、PDFを配信したり、様々なメディアとの親和性が求められる。

自分はふだん LaTeX を用いているけれど、LaTeX かMarkdown ぐらいしか、いまのところこうした用途に使いやすいアプリケーションはちょっと思いつかない。

電子化の昨今、学習の態度もまた、これからいろいろ試してみるといいと思う。

2012.05.14

「ちゃんと」できる人なんていない

あってはならない「確実に」という作業指示 – プリウスに見るゴムホースの「組み付け基準」 という記事が興味深かった。

「適切」は難しい

「適切に」判断したり、「正しく」組み付けたりすることは、特にそれが100% に近い再現を求められた場合には、とんでもなく難しい。

詳細なマニュアルを作成して、現場にそれを徹底したところで、大きく「適切に判断を行う」と書かれた項目が残っていたら、かならず誰かが間違える。

「適切」な判断や「正しい」組み付けを現場に実現しようと思ったら、マニュアル本から「適切」や「正しく」といった言葉を追放すればいい。便利な言葉が禁止されれば不便になって、マニュアルを書く人は頭を抱える。抱えた頭で手順を見直すと、「正しく」やらなくても正しい結果にしかなりようがない、本来そうあるべき手順にたどり着ける。

困っている人は「正しく」やらない

最近部屋を整理していたら、棚の奥から研修医時代のシステム手帳が出土した。

内科のメモを書きためていた当時、問題は山積みで、教科書に書かれた「適切な判断」を再現できるだけの能力が自分になくて、本当に困っていた。

全領域で困った結果、教科書に「低血糖を見逃すな」と記載された項目には「血糖を測れ」とメモを追記し、「○○病の可能性にも留意する必要がある」と書かれた項目には、提出すべき検査のルーチンにあらかじめそれを組み込み、正しくできなくても正しい結果が出力されるようなやりかたを、いくつか作ることができた。

自身の経験が積み重なる中で、知識の量は増えて、同時にメモ書きには、「正しく」とか「適切」、「○○病に気をつける」といった記載が増えた。

「どうにかしたい」という切実感は、経験とともにむしろ遠のいた。メモ書きは今でも続いて、リビジョンはそろそろ200を超えて、改定を重ねるごとに記載される文章量は増えているけれど、こういうのはやっぱり、「現場で今困っている人が、問題の解決に必要な道具を作る」のが正解なのだろうと思う。

便利な何かが生まれても、それを「もっと正しく」改良しようと考えたそのときは、劣化が始まる瞬間でもある。

「ちゃんと」はやめたほうがいい

「ちゃんとやれば大丈夫」という道徳が強い場所で、ちゃんとできない場合を考えるのは難しい。

今はきっと減っているだろうけれど、「ちゃんと話を聞けば、患者さんは検査などしなくても全てを語ってくれる。不必要な検査は患者さんに余計な負担をかける」系の言説が昔は強くて、あれが怖くて嫌だった。素直に「怖い」と悲鳴をあげれば、今度は「ちゃんとやれば患者さんはきっと分かってくれる」と諭された。

安全と道徳とは、どうしても衝突が避けられない。安全を徹底しようと思ったら、まずは「人間はちゃんとやれない。事故が起きるような状況においては特に」というところから始めないと難しい。「飲み会の翌日は、初診の腹痛にCTと採血一式を出しても怒らない」と研修医に通達を出すような、そこまで不謹慎な状況を真面目に論じて見せないと、会議室は「ちゃんと」から自由になれない。

「ちゃんとやれば大丈夫」みたいな言葉の根拠が、「俺様は運がいい」である人は多い。「最近の若い奴らはだらしない。俺達の世代はもっと頑張り、ちゃんとやり、成果を掴んだ」というベテランの人たちはたしかに嘘入っていないのだけれど、その人達の同級生は、同じく頑張り、体を壊し、成果に到達する前に亡くなった。

能力は、再現の手法を示してみせることで、はじめてそれを他人に求めることができる。「ちゃんと」やって生き延びてきたベテランの人たちには、ぜひとも「ちゃんとを再現する方法」を残してほしいなと思う。