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2012.04.26

自己紹介の戦略要素

「私はこれが得意です」という自己紹介は、わかりやすい代わりに役に立たない。「これが得意」は戦術レベルの長所であって、戦略が見えてこない。何かが得意な人がいて、ならばその人はどの分野をの習得を諦めたのか、「私はこれを得意分野にするために、代わりにこの分野を切り捨てました」という自己紹介が、その人の戦略を教えてくれる。

切り捨てた何かを説明できない人、あるいは「私は何も切り捨てるつもりはありません」と答える人は、局所の戦術こそ得意だけれど、長期的な戦略を持っていないか、示せない。誰かに物を教えてもらう際に、戦略を持っていない人に弟子入りすると、伸びた先には何もないから気をつけないといけない。

家庭医の教科書を読んだ

最近出版された「新総合診療医学」という教科書を読んだ。家庭医や、総合医を目指す若い人に向けて企画された教科書で、読んでみて勉強になったし、自分が知らなかった総合診療領域の記載がいくつもあって役立ったのだけれど、この教科書を通じて「家庭医的なるもの」がならば何なのか、やはりよく分からなかった。

総合診療や家庭医のような分野はまだまだ新しい領域で、だからこそ、その分野で活躍しているビッグネームの先生がたには、個人で一冊、その分野の参考書を書いてほしいなと思う。教科書を書くのは大変だし、手分けして作った教科書に比べれば、あるいは知識の抜けだってあるかもしれないけれど、「新総合診療医学」という教科書を書いた先生がたの間には、まだ「これだ」というその業界の形みたいなものが十分に共有されていないような印象を持った。

短所を知るのは面倒くさい

「全部頑張る」と宣言するのは容易だけれど、実際にやるのは難しい。明示的に、あるいは暗黙のうちに、大抵の人はどこか得意な分野を頑張って、そうでない分野を弱点として抱えることになるけれど、いざ振り返って、「自分はこの分野が弱い」と知るのは案外難しい。

弱いところは、全ての領域をまんべんなく振り返ってみないと分からない。「全て」はもちろん莫大で、たいていそれは面倒で、苦手な領域はもっと面倒な事になる。

自分が「苦手な」知識と、自分の戦略にとって「知らなくていい」知識とはよく似ていて、忙しいときほど間違えやすい。「これ」と決めた得意分野の知識を詰め込んでいる最中は忙しくて、勉強をしている時にはだから、「これは知らない」と「これはいらない」との区別はますます難しい。

きちんと勉強している人ほど、常に知識の吸収を怠らず、最新の情報に通じている人ほど、裏を返すと「自分にとっていらない知識」を設定しにくい。切り捨てた分野を持たない、それが説明できない人は「単なる勤勉な人」であって、その勤勉さを成果につなげることが、もしかしたら難しい。

要約から個性が見える

「一般内科」と「家庭医」、あるいは「総合診療医」は、外野が眺めても区別ができない。まだまだきっちりとした定義もないのだろうし、いろんな分野の先生がたが集まっている領域だから、得意分野を解説してもらうと、たぶん各自がぜんぜん違うことを語りはじめて収拾がつかなくなってしまう。

「ある業界の考えかた」というものは、得意分野を深く語ってもらうことよりも、むしろ広くて浅いあるひとかたまりの知識を、その人の立場から要約してもらうことでよく分かる。

たとえばどこかに「神経内科の知識に恐ろしく通じた消化器外科医」がいたとしても、その人に「研修医に向けた消化器外科の入門書を書いて下さい」とお願いしたら、神経内科の知識に関する記載は削除されるか、少なくとも重点的に語られる可能性は少ない。その人の得意不得意と、その人が所属する業界としての物の見かたは、一致しないことは珍しくない。

内科にはたとえば、「ハリソン内科学」という広くて浅い入門書があって、ハリソン内科の3600ページを、その科の立場で200ページ程度に要約してもらうと、「科としての物の見かた」が見えてくる。

要約というものは、お弁当を詰めるのにどこか似ている。「お弁当を作るのが得意な人」の中にだって、揚げ物が得意な人もいるだろうし、煮物が得意な人もいる。料理なんてやらないけれど、冷凍食品に関する知識なら誰にも負けない人だっているかもしれない。得意とするものは様々だけれど、同じ箱を使ってお弁当を作ったら、きっと誰もが「こうだろう」というステレオタイプに収斂する。どれだけそれが得意でも、お弁当箱いっぱいに揚げ物だけ詰め込む人は、揚げ物の名人ではあっても、「お弁当を作るのが上手な人」とは言えない。

「自分が何を知っているのか」を語れる人はたくさんいる。ところが「自分のような立場の人間が何を知るべきなのか」を語れる人はずっと少ない。

「こうだ」という物の見かたを共有できない組織には、戦術だけがあって戦略がない。「どうすればいいのか」という問いに答えられる人はたくさんいるかもしれないけれど、そこには「これからどうしたいのか」という問いに答えを出せる人がいない。

教科書もまた表現の手段であって、それを通じて「その科の目線」みたいなものを学べたら、読者としてはとても勉強になるのだけれど。

2012.04.12

研修医の潰しかたを考えよう

平和を実現したいのならば、戦争に関する学習が欠かせない。

平和を願うのは大切かもしれないけれど、戦争のやりかたを知らないと、攻める相手をどうすれば止められるのか、相手の軍隊に動きがあって、それに対してどう応対すれば、そこから戦争につながる道筋を断てるのか、問題解決のやりかたが発想できない。ひたすらに平和を願う人達は、平和を願った結果として、相手の軍隊に間違ったメッセージを送ってしまう。会話が成立しないから、コミュニケーションが破綻した結果として、学習抜きの平和祈願は、むしろ戦争を近づける。

失敗を防ぐには陥れかたを考える

「平和を欲するのなら戦争を学べ」の論理が正しいとして、たとえば失敗を防ごうと思ったのならば、「失敗させるやりかた」を研究するのがひとつの方法なのだと思う。

どうすれば失敗を防げるのかを考えるのは大事だけれど、どうやれば相手を陥れることができるのか、暗黙にプレッシャーをかけてみたり、あえて曖昧な指示を出してみたり、誰かにミスを誘発させるやりかた、一種のいじめの方法論みたいなものを大勢で真剣に考えることで、失敗はたぶん遠ざかる。

「どうやって防ぐのか」という立ち位置は、どうしても道徳から自由になれない。「みんなで頑張りましょう」を難しい言葉で言い換えたような結論に逆らうことは難しいし、「指差し確認」とか「ダブルチェック」みたいな、間違ってこそいないのに、失敗につながる緊急事態には必ず省略されてしまう手続きが、平時の手順を複雑にしてしまう。

良心に基づいた邪悪を排除する

防ぎかたではなく、攻めかたを考えることで、「何が悪いことなのか」が会議室に共有される。たとえば失敗を防いでいく上で、「現場に気合を入れる」ことは明らかな間違いだけれど、「気合」はたいてい良心に基づいて、防ぐ空気の会議室では、これを「悪い」と断じるのが難しい。

「誰かを陥れて、その人にミスを誘発するのにどんなやりかたが有効なのか」という議論は邪悪だけれど、これを行うことで、何をすればミスが増えるのか、どんな振る舞いが邪悪につながるものなのか、「悪いこと」の定義ができる。邪悪の認識が会議室に共有されて、ようやくたぶん、議論の場から「良心に基づいた邪悪」を排除することができるようになる。

職場に新人が入ってくる季節だけれど、研修医を潰さず育てようと思ったら、まずは病院の上司が集まって、研修医の潰しかたを学ぶのが正しい。

立場が弱い研修医には、いろんな人が、「良かれ」と思っていろんなやりかたを試みる。教える誰もが下級生を「きちんと」育てようという思いを持って、でも実際問題として、良かれと為された試みは、一定の確率で誰かを潰す。こうした結果はたぶん、「教えかた」こそ学ばれるけれど、「潰しかた」が共有されない現場の限界であって、教える人たちは、まず何よりも潰しかたに熟達しなくてはいけないのだと思う。