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2012.03.28

「なぜ?」 の効用

従順な現場に支えられた組織は効率がいい。利益に向かって現場が自発的に「暴走」を行なって、あまつさえ自己責任で法を破ることも厭わないのなら、利益は勝手に増えていく。リーダーはメディアに向かって、きれいな理念を賢しげに語ってみせるだけでいい。

暴言の効果は少ない

暴言で部下を従わせるやりかたや、あるいはみんなを集めてスローガンを叫ばせるようなやりかたは、暴力的な見た目に反して、実際の効果は少ない。

「絶対にやれ! 」 なんて暴言を行使する上司は、現場の側からは「嫌な奴」に見える。「嫌な奴」の命令に心から従うのは難しい。明示的な悪役として振る舞う誰かの存在は、現場の空気を厳しくする一方で、一種の安全弁としての機能を提供する。

人間をとことん追い詰める、無理の限界をはるかに過ぎて、それでも働くことをやめられない、体を壊したり、亡くなってしまったりする領域に誰かを到達させるためには、暴言だけでは威力が足りない。そうした領域に誰かを追い詰めるために行使されるのは、「やれ! 」という命令ではなく、「なぜ?」という問いかけなのだと思う。

「なぜ?」 は役に立つ

「できない」という現場の声に、徹底的に「なぜ? 」を問う組織は、ときおり爆発的な成果をあげる。

「できない」という声に対して「やれ!」 と命じてしまうと、命じたその人が悪役になる。怒鳴っても結果がついてこなかったら、今度は悪役が責任者になる。現場に対して「なぜ? 」をたたみかけて、返答に詰まったことを「できる」の根拠にするやりかたは、次の「できない」が、現場の責任へとすりかわる。

「できない」という言葉に対して、徹底的に「なぜ?」を重ねる。「できる」ことを本人に発見してもらう。そんな空気を醸成すると、すべての「できない」は現場のせいになる。誰もが倒れるまで働くし、それが必要であれば、法も破ってくれる。全ては「現場の判断」で行われる。上司はそれを、大笑いしながら見下ろしていればいい。

ブラック企業はみんなでスローガンを叫ばせる。綺麗なスローガンは「なぜ? 」を問う根拠であって、「ブラック」と形容される組織では、あらゆる「できない」に「なぜ?」 が問われる。「仕方がない」の気分がその場から徹底的に排除されることが、ブラック企業をブラックにしているのだと思う。

やさしいやりかたの怖さ

できないと思っている誰かに対して、「なぜ?」を重ねて望ましい結果に誘導する、コーチング的な、「できることを自分で発見してもらう」やりかたは、見た目こそ優しげだけれど、道具としてはおっかない。

大昔の小学校には、「逆らったらもれなくビンタ」の怖い先生がいた。現代の先生がたは、子供に優しく「なぜ? 」を問う。「ビンタ」と「問いかけ」と、見た目が怖いのはビンタだけれど、道具の威力は「問いかけ」のほうが圧倒的に強力で、使いかたを間違えるととんでもない結果をもたらす。

穏やかそうな見た目の方法を駆使する誰かが、自分が今使っている道具の威力を自覚していないことは珍しくない。人も殺せる威力を持った道具が、案外無邪気に行使されていたりする。そういうのが恐ろしい。

神様は便利

コーチングを受けたスポーツ選手は、実際に成績が向上したりする。コーチングは単なる説得ではなく、その人の抑制を外すための方法だから、上手に使えば高い効果が期待できるけれど、外す場所を間違えるととんでもない方向に暴走する。

「なぜ?」 という問いかけを重ねると、その場から「仕方がない」という気分が放逐されていく。そうした空気に、「だって、仕方ないよね?」と水を差してやると、状況はリセットされて、場は健全な気分を取り戻す。ところがたぶん、水を差すのは大変で、空気に抗えるだけの勇気と知力、上司と拮抗できるだけの暴力とを持っていないと難しい。

「なぜ?」 を重ねるやりかたは強力だけれど、その威力が発揮される前提として、その場に過剰な理性を要求する。追い詰められた状況で、自身の内部に神様を持ってる人は、「信仰上の理由でそれを受け入れることはできない」というカードを切ることで、場の理性に拮抗できる。

理性を根拠にした問いかけに対する返答として、「信仰」という理不尽が導入されると、上司が更なる「なぜ?」 を重ねようと思ったら、「お前の信じる神はクソだ」と断じる必要に迫られる。問題は解決しないかもしれないけれど、「なぜ? 」の連鎖は大抵断たれる。

「なぜ?」 に対する安全装置として、自身の内部に「神様」的な理不尽を常に持っておくことは、きっと大切なことだと思う。

2012.03.22

「ない」ことと「必要ない」こと

単なる自由には意味がない

自由というものは、不自由が作り込まれてはじめて意味を持つ。

飛べるようになった人間は、飛べない人間に比べればたしかに自由かもしれないけれど、「行く手を阻む壁」や「飛び越えられない谷」が存在しない現代社会なら、鳥人だってたぶん、電車に乗って移動する。「できる」だけでは足りなくて、それが切実な機能として要請されて、世界はようやく書き換わる。

あるべきものがない状態は不自由を産んで、それがどれだけきれいな機械であっても、ユーザーはどこかで妥協を感覚してしまう。

ボタンのない機械は不便

最近のタブレット端末にはボタンがついていない機種が多くて、ボタンだらけの携帯電話に比べれば、タブレットの佇まいはたしかにきれいなのだけれど、使っているとやっぱり、たまにボタンがほしくなる。単なる「ない」を「必要ない」に変えるためには、機械の側に、「それがいらない」機能を作り込む必要があって、今のタブレット端末は、まだまだ「不自由なボタン」から自由になっていないような気がする。

ボタンはたいてい、何らかの判断や、選択を行う際に必要になってくる。機械を持った人が「こんなことをしたい」と考えて、目当ての機能に紐づいたボタンを押す。選択を行う以上、ボタンの存在は必然であって、画面に設けられたソフトウェアボタンは、どうしてもどこか、「押せるボタン」の劣化コピーに思えてしまう。

「ボタンがない機械」が「ボタンの必要ない機械」になるためには、ユーザーを取り巻く状況から、選択や判断という行為それ自体を追放しないといけない。具体的にはたぶん、「画面を触ったらあらゆるアプリケーションが全部立ち上がる」ことが、「ボタンの必要ない機械」の正解なのだと思う。

ボタンが必要ない機械

それは「位置」であったり「時間」であったり、あるいは外からの入力であったり様々だけれど、人間の行動は、何らかの文脈にそって行われることが多くて、ある文脈で必要になる機能は、大抵の場合それほど多くない。たとえば自宅で安静にしているときに、タブレットに求められる機能はといえば、メール確認とブラウザ閲覧、Twitter やFaceBook の確認ぐらいがせいぜいだと思う。

使う機能が4つであるのなら、「自宅にいる」という状況に4つのアプリケーションを予め紐付けしておいて、「ユーザーが画面を触ったら、4つのアプリケーションが同時に立ち上がる」という設定を行うと、ユーザーが端末を使う際に、選択が発生する余地を追放できる。ユーガーが画面のどこかに指をおいたら、そこを中心に画面が4分割された状態で立ち上がり、それぞれの画面にそれぞれのアプリケーションが割り当てられる。そのまま指をずらせば、4分割された画面の中心がずれて、ある画面は大きく、ある画面は小さく表示され、ユーザーは選択を行うことなく、好きな機能を行き来できる。

「Tasker」 みたいな機能に、無駄にアプリを立ち上げるランチャーを組み合わせることでこうした機能が作れるのではないかと思う。アプリケーションが無駄にたくさん立ち上がる上に、その文脈に乗っからない機能については選択がいきなり面倒になるけれど、ボタンを持たない機械がボタンを持った機械を超えようと思ったら、何らかの手段で「必要ない」を獲得してほしい。

2012.03.19

美談の受益者について

認知症の老人が紙幣の代わりにティッシュペーパーを出したときに、素晴らしい対応をしたレジ打ちの人がいたという記事 を読んだ。

ヘルパーの方と街を歩いていたおじいさんがハンバーガーショップに入り、会計の時に「紙幣」として取り出したものがティッシュペーパーだったのだと。

「それは紙幣ではありません」と応対すれば済むことだけれど、それをやると、認知症の人を傷つけてしまう。レジ打ちの人は気を効かせてくれて、「申し訳ありません。当店においては現在、こちらのお札はご利用できなくなっております」と応対してくれ、おじいさんは自身が傷つけられることもなく、間違いに気がつくことができたのだという。

これは間違いなく美談であって、レジ打ちの人は素晴らしい応対を行ったことにはなんの異論もないのだけれど、こんな話が「美談」として広まることには、個人的にはあまり同意できないな、とも思う。

美談は現場を苦しめる

レジ打ちの人がとっさに行った対応は素晴らしいけれど、こういう話が「美談」の形で上司から現場に語られてしまうと、今度はそれが、暗黙に「当たり前」の水準になってしまう。

「結果オーライ」は素晴らしいことだけれど、たまたま上手く行ったそうした事例を、そのまま美談として現場にアーカイブしていくと、賃金は変わらないくせに、仕事に対する要求水準だけが信じられない勢いで上昇していく。美談は結局、現場の首を締めて、今までだったら平均点であった振る舞いは落第点になり、偶然が成し遂げた素晴らしい成果が最低水準となり、そこで働く人たちは、常に「落第」し続けることになる。

「よすぎる」人の脆弱性

完全なワンマンアーミーならともかく、接遇はたいてい、チームで行われることになる。

チームの中に「悪い」応対を行った人がいれば、チーム全体の責任が問われることがしばしばあって、だからこそ現場ではマニュアルを作り、「悪い」メンバーを出さないように気をつける。

ところが接遇の問題を考えるときには、「悪い」メンバーも、「よすぎる」メンバーも、等しく接遇のリスクを生み出す。自分の判断で「良すぎた」成果をお客さんに提供するメンバーが出現してしまうと、お客さんの側から見れば、それは「当たり前」の水準が向上したのだ、と受け止められてしまう。クレームの頻度は、「悪い」メンバーが出現しても、「よすぎる」メンバーが出現しても等しく向上して、どちらにしても、結局チームは疲弊してしまう。

その美談で得をするのは誰か

新聞記事は、「素晴らしいレジ打ちの人がたまたまそこにいて、お客さんに素晴らしいサービスを提供した」という事例だけれど、これは同時に、「よすぎる」人材をチームに配置してしまった、マネージャーの失敗であるのだとも言える。

マネージャーは、「予期された結果」を出すためのマネージメントが期待されているわけで、「予期に反した素晴らしい結果」の素晴らしさと、オーバースペックな人材をそこに配置したマネージャーの無能とは、きちんと分けて語られないといけない。

「結果オーライ」が美談になることで、マネージャーの無能は隠蔽される。予想に反したいい結果を成果として享受する、「当たりくじだけ持って来い」という態度を上司に許せば、現場はますますきつくなる。

この事例が「いい話」であることはもちろん確かなのだけれど、「それを美談として共有することで、得する人は誰なのか」を、きちんと考えるべきだと思う。

2012.03.02

書き出しは難しい

Twitter だと気軽に書ける何かをどれだけ積むことができても、ひとかたまりの「論」として、それをまとめるのが時々難しい。難しさの根っこにあるのは「書き出し」であって、アイデアの品質それ自体は、「論」の誕生確率それ自体には、たぶんあんまり関係ない。

規制の話が書きたかった

最近何かで「コンテナハウス」が成功している記事を見た。コンテナハウスは、自分にとっては「成功している規制」に思えた。

あれをたとえば、「建物の形はコンテナ限定、その代わりコンテナを用いた住宅を作った場合には固定資産税を免除」みたいなルールを作って運用すれば、住宅業界や、あるいは家具や生活雑貨を作る業界に、業界の壁を越えたたくさんのアイデアが流入して、新しい市場が生まれるのではないかと考えた。

日常生活の中で「こうすればいいのに」と思うことは珍しくない。ニュースを見てそう思うこともあるし、どこかに出かけたり、何かを買ったりした際に何かが思い浮かぶこともある。きっかけがあって、アイデアが浮かぶ、「論」の流れが最初からできている事例を文章にまとめるのは容易だし、実際にそういう文章をたくさん書いてきた。

ところが何かの事例を見て、それとは全く無関係なことを思いついたり、あるいは全くの妄想、仮定を土台にしたアイデアを文章にしようと考えたときには、これがとても難しい。

ある程度の長さを持った、「論」としての体裁がとれるような書きかたをするときには、どうしても枕になる体験や事例が必要になる。導入無しの、事例からの導線を持たないアイデアがいきなりまくし立てられたところで、たいていの人は迷惑だし、実世界と接続する場所を持たないアイデアは、書いたところで何も生めない。

「いい規制や規格が新しい市場を生む」というアイデアを文章にまとめるとして、導入部分の事例として引くのならば、軽自動車の規格であったり、古くは公団住宅の規格が生まれたときの記録を調べるといいのかもしれない。公団住宅の設計図面を引いた人の逸話なんかは本になっていたし、規格という「単なる数字」を巡って、恐らくはミリ単位の折衝が繰り返されたのだろうけれど、事例が古くて調べるのは大変で、調べたとして、その業界の人達から見て、そうした規格が正味のところどうであったのか、自分にはもう分からない。

Twitter は気軽

Twitter のメモ書きには140字という規制があって、そこにたくさんの文章を書くわけにはいかない。そもそもそれができないからこそ、あの場所では前提無しの「こうすればいいのに」を、気軽に書ける。アイデアを気軽に書けることと、それを文章におこせることとは異なって、アイデアはたくさんあるのに、枕になる事例が手元にないからまとめられない、という事態が生じる。

「事例のストックを持っていること」は、文章を書く上ではとても大切なことになる。

小説を書ける人は少ないけれど、「こんな物語が作りたい」とか、「こんな設定を考えた」というアイデアを思いつける人はずっと多い。アイデアを物語として成立させるのに必要なのは、「アイデアの品質」ではなく「出だし」であって、物語の「出だし」が書ける人は、実は恐ろしく少ないのだろうと思う。

書き出しは大事

アイデアは、暖めるほどにつまらなくなる。何か「これだ」と思いついたら、それを一刻も早く何かの事例に結びつけて、「論」としてまとめておかないと、アイデアはすぐに実世界とのつながりを失ってしまう。つながりを失ったアイデアは、つるんと丸くなった、反論できない代わりにそこから何も生まれない、単なる「いい考え」になってしまう。

「いい考え」にはなんの価値もない。

「空気の読めない人」は、たいてい物事をよく考えて、アイデアをまじめに磨く。磨いた結果として、アイデアの価値は減じて、発せられるべきタイミングを失ったアイデアは、放り出されて場を凍らせる。「リア充」なんて呼ばれる人達の会話は軽薄かもしれないけれど、彼らの言葉は流れとしっかり接続されて、「ここ」というタイミングで発せられるから、聞きやすく、突っ込みどころがあって、話題が膨らんで途切れない。

おしゃべりが上手な人達は、アイデアを磨く代わりに、「出だし」の引き出しを増やすことに注力する。たくさんの文章を書ける人とそうでない人とを隔てているのは、持っているアイデアの量や品質ではなくて、日常生活を通じた体験を、「書き出しのストック」という形で保持できているのかどうかなのだと思う。