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2012.02.22

クレーム対処について

クレームに正しく対処するためには、そのクレームに対して「正しく恐れる」ことが大切になる。

恐れかたは、少なすぎても、多すぎても、トラブルを生む。正統なクレームに「毅然とした対処」を行うことはトラブルを生むけれど、ちょっとしたクレームに対して大きすぎる反応を返すこともまた、同じぐらいに間違っている。クレームを恐れることは大切だけれど、必要な大きさだけ正しく恐れて、恐れた大きさに見合った対処を行わなくてはいけない。

不快には種類がある

同じ不快の表明であっても、それが主治医の人格や、病院での接遇に対する不快なのか、あるいは医師の技量や治療方針に対する不快なのかで、対応は異なってくる。

人格や接遇に対する不快が表明された場合には、まずはその不快に対して謝意を表明しないといけない。不快に対して最小限の妥協を遅滞なく行った後、「その状況を維持します」と表明するのが正しい対処になる。不快を突っぱねれば間違いなくトラブルになるし、こうした不快に対して大きく反応しすぎると、今度は治療ができなくなってしまう。

医師の技量や、治療の方針に対する不快が表明された場合には、一切の妥協してはいけない。病院は常に「ベストを尽くしている」ことが前提であって、ここで妥協を表明することは、病院側が「ベストを尽くしていなかった」と受け止められてしまう。病院側は常にベストを尽くしており、それに対して不快や不安が表明されたのなら、その人と交渉を続けることは間違いなくトラブルに結びつく。治療に対する不快が表明された際には、速やかに他の施設を当たってもらうように誘導しなくてはいけない。

病状の説明や、病気それ自体に関する説明は、丁寧に行わなくてはいけない。病気自体に関する説明は、それがどれだけ面倒であっても必ず有限で、丁寧に対処すればいつか終わる。際限もなく終わらない可能性にいらだってしまうと、相手を不快にしてしまう。たとえば肺炎の患者さんを5人受け持てば、肺炎の話を5回繰り返すことになるけれど、これは我慢して同じ話を丁寧に繰り返さなくてはいけない。

何らかの譲歩を求めて、「とりあえず不快を表明する」タイプの人は難しい。不満が無くても瑕疵を探索するし、瑕疵を見つければ譲歩を求める。どこに突っ込まれるのか予測できない。譲歩を求める相手に対して心がけることは、一刻も早い「妥協の表明」になる。「特別扱いしろ」という相手に対して、「特別扱いをさせていただきます」と速やかに表明してみせなくてはいけない。ごくわずかだけ下がってみせることで、相手の瑕疵追求の意志が和らぐ。下がりながら応対して、その後また元の場所に戻る。下がり続けてはいけない。追い詰められてしまう。

知らないことには「知らない」と返答する

自分の施設ではやっていない、あるいは不得意な治療について、患者さんやご家族から「この治療はできないのですか?」と問われた場合には、「できません」と答えなくてはいけない。「それはよくない治療法です」とか、「やってやれないことはありません」といった答えかたは危ない。

やっていないことに詳しい人は少ない。詳しくないことに対して、主治医が「専門家の言葉」としてあやふやな感想を述べてしまうと、言葉が一人歩きをはじめてしまう。もしも何かのトラブルに巻き込まれてしまうと、そうしたあやふやな感想が、「あの病院は患者を囲い込んで治療機会を奪った」といったトラブルの種になってしまう。

西洋医学の範囲を超えた、民間療法を強く希望する患者さんと話すときにも、注意すべきことは変わらない。自身がどれだけ西洋医学に詳しくても、対峙する民間療法がどれだけいい加減なものに見えても、知らないことに対して、白衣を着た人間があやふやな感想を述べてしまうと、将来的にトラブルを招く。「自分はそれに対してこう考える」を述べる際には、「これは個人としての感想ですが」のような前置きを入れて、医師としての立場を明示的に遮断してから「こうだと思います」を表明しなくてはいけない。

リスクは近くで対処する

相手を怖いと感覚した人間は、相手に「恐ろしさに見合った賢明さ」を期待してしまう。それがトラブルの種を生む。

原因がよく分からない患者さんを診療した主治医は、分からないその状況を、恐ろしいと感じる。「恐ろしいから」入院の決断をためらって、「患者さんは具合が悪くなったらまた病院に来てくれるだろう」と、具合の悪い相手にある種の賢明さを期待する。結果として患者さんは、「専門家である主治医」から帰宅を指示されて、専門家の言葉を信じて、状態が悪くなるまで自宅で我慢してしまう。

口うるさい患者さんのご家族が来院したときなどは、「あの人と喋るのは、資料がちゃんと揃った後日にしよう」という思いが頭をよぎる。口うるさいご家族は、同時にたぶん、もっとも大きな不安を抱えた人でもあって、不安に対する対処を怠った結果として、取り返しのつかないトラブルを招くことがある。

主治医が厄介な状況を感覚したそのときに、主治医の感覚はすでにいびつになっている。危ないと感覚したそのときには、だからむしろ危ない何かに近寄る態度で対処を行うと上手くいく。

知識は大切

シューティングゲームの攻略講座では、画面を埋め尽くす無数の敵弾を、奇数弾、偶数弾、固定弾、ランダム弾といった分類を行って、それぞれに対する対処が解説される。

弾幕を生き延びるためには、弾の種類をきちんと見分けることが大切になる。反射神経や動体視力に劣った人であっても、弾幕の種類をきちんと見分けることで、どれだけ派手な弾幕であっても、その中で注意を払うべき敵の弾は、実はそんなに多くないことに気がつくことができるようになる。

画面を埋め尽くす派手な弾幕に惑って、大きく避けてしまうと、壁際に追い詰められて自滅する。画面を埋め尽くす弾幕の中から、見るべき敵弾だけに注意を絞ることで、取るべき行動は自然に決まる。

相手の表明した不快がどんなものに属し、それがどんな性質を持つものなのか、理解して対応することで、極めて大きく恐ろしげに見えたクレームは、正味の大きさは決して大きなものではないことが分かる。

クレーム対処の名人は、相手を言い負かすようなことはしない。さっさと謝り、頭を下げつつ、その実その人の居場所や立場はあまり変わらない。名人のゲームリプレイ動画は、敵弾が自機だけを避けているかのように見え、自機はほとんど動かない。大きな敵が画面に入ると、弾を増やす前に倒されて、名人の画面には、案外弾数か少なくなったりもする。同じことなのだろうと思う。

2012.02.08

参考書を雑誌化してほしい

これからの参考書が、電子書籍の形式を目指していくのなら、参考書本体を出版するだけでなく、その参考書に対する様々な識者の「突っ込み」を、雑誌の形で提供できたら、きっととても面白い。

電子書籍は便利

たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルや、寺沢先生の「研修医当直御法度」みたいに、ある程度有名な、ユーザーの多い研修医向けのマニュアル本を、電子書籍として雑誌化してほしい。

原本を電子化して販売するのと同時に、編者の先生が、異なった施設で働くベテランの先生がたに、原本に対する「添削」を依頼する。販売されている原本データに対して、いろんな先生がたの「俺ならこうやるね」や、「この疾患の鑑別診断なら、これが入っていないとおかしい」みたいな突っ込みを、月替わりで読むことができたら、それはきっと面白い。

紙のメディアでそれをやると、「時刻表」になってしまう。毎月のように改訂された、先月と少しだけ異なるだけのマニュアル本が、本棚に大量に並ぶことになる。同じ本が12ヶ月分、本棚に12冊並んだら単なる冗談だけれど、「本棚に並べようがない」という電子書籍の欠陥は、「同じ本の様々なマイナーバージョンをいくらでも重ねられる」利点でもあって、これは活かさないともったいない。

専門家の目線は面白い

昔マニュアル本を作ったときには、同じ分野を記述した参考書を、何冊か並行して読むことが多かった。いくつかの本を読むことで獲得した、ある分野に関する「こうだろう」という偏見は、それをまとめて本にするときに、ベテランの先生がたにレビューを依頼する段になって、しばしば「それは違うんじゃないかな」と真っ向から否定されたりした。これはすばらしく面白い体験だった。

売れている、定評のある書籍というものは、それを読むことで納得が得られるからこそ、読者が「こうだろう」という一定の態度を獲得しやすい。読者によって共有されたそうした偏見は、「その月の突っ込み担当」に選ばれたベテランの目線とぶつかることになる。偏見を獲得することは、その分野に対する暫定的なベテランになることでもあって、「単なる読者」として専門家の意見を読むよりも、「暫定的なベテラン」としてそうした意見とぶつかったほうが、体験として何倍も面白く、恐らくは勉強になるのではないかと思う。

自身の考えかたを誰かに添削されたり、突っ込まれたりすることは、同時にその誰かを理解することにもつながる。権威が自ら文章を手がけることと、すでに出版された本に突っ込むことと、テキストの量でいったら前者のほうが圧倒的に多くても、読者はもしかしたら、後者を通じるほうが、その権威の考えかたを、より近く理解できる可能性がある。

大人の世界の大人げない争い

ずいぶん昔、大人数を集めた血管内治療のライブデモンストレーションがあって、手技も佳境にさしかかりつつ、難しい症例に苦心している術者の先生をねぎらいながら、司会者がパネリストの先生に意見を求めた。術者の先生も、パネリストの先生も、重鎮と言っていいベテランだったけれど、パネリストの先生は、「私だったら、デバイスを全部引き上げて、一からやり直しますね」なんて身も蓋もない突っ込みを入れて、会場が沸いた。昔はいろいろ熱かった。

あの空気で手技を続けたデモンストレーターの先生の胆力も相当なものだし、何よりもお互いの信頼がなければ、「身も蓋もない空気」というものは作ることができないのだろうけれど、何かを学んで習得していく上で、そうした空気はとても大切なものになる。

学術方面の参考書はそういう意味で、まだまだ楽しんで読まれる余地がたくさんあって、同時にたぶん、もっと「楽しむ」ことで、学習はずっと効率的なものになる。

ある参考書を学んでいく中で、読者にはもしかしたら、作者の考えかたをそのまま丸呑みしていいものなのかどうか、しばしば判断できない場面が訪れる。突っ込みの入った参考書、あるいは突っ込む人が毎月変わる、「最新の突っ込み」が出版社から配信される参考書は、学習という体験を、より深いものにしてくれる。

たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルが電子化されて、「聖路加のマニュアルを沖縄中部病院的な目線で読む」回があったりしたら、大笑いしながら勉強できるのではないかと思う。大人の世界だから、真っ正面からのたたき合いにこそならないだろうけれど、文末のまとめかたや、行間のちょっとした表現、あるいは「書けなかったであろうこと」を想像しながら読む参考書は、きっと面白い。

本からはまだまだお金が汲み出せる

「識者同士のプロレス」は、常に面白いコンテンツとなる。ネット空間にはところが、権威がつながる機会こそ多いけれど、「リング」や「観客席」に相当する元テキストが全然足りない。特に学術参考書は、やはり出版されているものを購入しないと始まらないことが多くて、だからこそ、本は本として電子流通させつつ、定期的に「行間のコンテンツ」が入れ替わるようなやりかたで、参考書を雑誌化してほしい。

プログラマの人達は、お互い使い慣れた言語を叩き合う。ゲハ板の人達は、お互いが信じたゲーム機を持っていて、相手のハードに激しく突っ込む。争いは何年も前から続いていて、言語もゲーム機も、素人目には変わることなくそこにあって、それなのに、あの人達の突っ込みあいは、部外者が眺めても何年でも楽しめる。他の業界であれをやらないのは、いかにももったいない。

医学教科書は改訂される。昔と今とで記載の異なる場所はたくさんあるにせよ、作者が同じなら、根っこの考えかたはそんなに変わらない。考えかたの異なった誰かは、別の考えかたに基づいて、同じ分野で別の教科書を書いたりもする。

同じ場所に、異なった考えかたに基づく何かが複数あったら、その状況はすでにコンテンツの母であると言える。準備は万全、リングはそこにあって、レスラーはリングに上がって久しく、お互いずっとウォームアップを続けながら、戦いの準備はずっと昔からできていて、観客はそれを楽しみに取り囲んでいるのに、ゴングを鳴らす人は誰もいない。

本はきっと、まだまだいくらでも面白くなる余地がある。

2012.02.04

手の汚しかたを考える

何らかの望ましい習慣に、確実な履行を期待しようと思ったならば、それを行ったことによる報酬よりも、それを行わなかったことによる不利益が明らかになる仕組みを作るとうまくいく。

手洗いは大事

病院において、手を洗う習慣は、とても大切なものであるとされる。手洗いは本来、当然のように「必ず行われるべき」習慣なのだけれど、当然なされるべき何かが、「面倒くさいから」なされないことはよくある。

以前に読んだ、チェックリストの効用を説く本においても、手洗いを病院スタッフに励行してもらうためにチェックリストを活用する事例が取り上げられていた。感染症に対する考えかたの進んだ米国においても、手洗いを徹底させるためにそうした工夫が必要だったということは、逆に言えばたぶん、手を洗わないといけない状況で、つい手を洗わずに次のステップに進んでしまう人が、やはりそれだけ多かったということなのだと思う。

手を洗うことによる効用を説いて、その効果がはっきりと誰の目にも明らかになるよう、統計的な手法を駆使して手洗いの効果を証明して、シンプルで効果的なチェックリストを用意してもなお、恐らくは手を洗わない人は洗わない。やるべきことはシンプルで、徹底すればその効用が明らかであっても、「ご褒美」では人は動かない。

汚れた手は洗われる

病室のドアノブを触ったり、患者さんを診察したりしたあとは、手を洗う必要が生まれる。見た目にはたぶん、手はそんなに汚れていないし、この状況で「手を洗おう」と連呼されても、手を洗わない人はゼロにならない。

最近はパウダーレスの手袋が増えたけれど、病院で使う手袋の内側には滑りをよくするための粉がたくさんついている。手袋が必要な手技を終えると、手は粉で真っ白になって、それをそのまま放置する人はとても少ない。粉まみれの手は気持ちが悪いから、みんな流しに駆け寄って、まずは必ず手を洗う。

利得をどれだけ説明しても、案外人は動かない。罰則を厳格にしても、やっぱり人は動かない。ところがたぶん、「それをやらないと気分が悪い」状況に置かれた人は、まず必ずといっていいほど動き出す。「患者さんを診察したら手を洗う」を徹底させるのならば、「患者さんを診察するといやおうなしに手が汚れる」仕組みをつくると、もしかしたら上手くいく。

たとえば患者さんを診察したら、看護師さんあたりが有無を言わさず、医師の手に小麦粉を振りかける。そうなるともう、手を洗わないと何もできないし、粉だから、徹底的に洗わないと気持ちが悪い。冗談のような風景だけれど、結果として手は確実に洗われて、「手洗い」が目指した効用は達成される。個室ベースの病院であったのならば、ドアノブを触れたら手にインクがつくような仕組みを作れば、患者さんを診察して、その部屋から外に出た医師の手は、いやおうなしにインクまみれになっている。このまま次の動作に移ることはできないだろうから、医師はどこかで手を洗うことになる。

金券選挙のこと

「何もしないこと」が許されるような状況を作ってしまうと、もしかしたらたいていの人は何もしない。何かしないと状況が動かなくなるようなルールを入れると、簡単だけれど切実な何かが、ようやくまともにまわるようになる。

選挙において、投票率は高い方が、一応は望ましいはずだけれど、広報にお金をかけても、投票率はなかなか伸びない。

法律の問題はさておき、投票用紙を「金券」にすると、投票率が向上するのではないかと思う。たとえば投票用紙に1万円という値をつけて、選挙に来た人は、もれなく1万円が渡されるような仕組みを告知する。莫大な原資は税金由来で、これは要するに、選挙前に選挙権を持った人達の財布から各人1万円を引き抜いて、「選挙に来てくれたら、もれなく1万円をお返しします」と告知することに等しい。

税金のおさめかたは人それぞれだけれど、その地域に住んでいる人は、ある日いきなり、政府から「1万円の損失」を押しつけられることになる。その代わり投票所に行けば、その日のうちにそのお金は取り戻せる。

単なる報酬では、人を動かす力は少ない。「俺の金返せ」という思いは、恐らくはたくさんの人を突き動かす。「投票は大事です」では役に立たないし、「投票所に来るとお得なことがあります」でもまだ足りない。「あなたは今、1万円損しました。取り返したいのならば最寄りの公民館、あるいは学校へどうぞ」と損失を明示されて、初めてたぶん、たくさんの人が動き出す。

ユーザーを悪役にしない仕組み

同じ手洗いの励行であっても、「僕の手をもっときれいにしよう」と、「きれいだった俺の手を返せ」とでは、手を洗う人の気持ちはずいぶん異なってくる。

利益を明示してみたり、報酬を提示したり、あるいは罰則を設けるやりかたは、手を洗った人を善人に、手を洗わなかった人を悪者にしてしまう。手を使ったら無条件で手を汚すルールは、手を洗う人を等しく被害者に、そのルールを作った誰かが悪役として叩かれる側にまわることになる。誰もが同じ「手を汚された被害者」という立ち位置におかれるからこそ、確実な履行が期待できる。

自分がマニュアル本を書いたときには、「可能な限り主治医の手を動かさない」ことを、一つのポリシーにしていた。

主治医が自ら手を動かして、血液ガスを採血すれば分かる項目があったとして、それをたとえば、CTスキャンを技師さんにお願いして、採血を看護師さんにお願いすることで同じ結果にたどり着けるのならば、「自ら手を動かして動脈採血」よりも、「指示2回」のほうが主治医の負担が少ない分、そちらのやりかたを優先して記載した。

勤勉な作者が書いた本は、記載されたやりかたに従えなかった読者を怠け者だと断じてしまう。個人的には、これはよくないことだと考えていた。

読者と作者とを取り囲むグループの中で、作者が一番怠惰な人間として文章を書くことができれば、読者はみんな、作者よりも勤勉になれる。作者がそれでなんとかなっているのなら、読者はもっと勤勉なのだから、なおのことどうにかできる可能性が高くなる。

「きちんとやれば結果は明らか」なことであればなおのこと、「きちんと」やることを前提にしたプランを作ると、「きちんと」できなかったたくさんの人を悪者にしてしまう。「きちんと」やることの効用をどれだけ説いたところで、履行確率は一定以上に上がらない。

ルールはたぶん、「怠け者」に作らせたほうが上手くいく。