Home > 1月, 2012

2012.01.17

ハイパーリンクの読書体験

新しいメディアを広めるためには体験の変化が必要で、変化を実感させるために必要な機能というものは、案外地味なものが役に立つ。

CTスキャンの昔

画像の電子閲覧システムを導入する施設が増えたけれど、昔はもちろん、レントゲンと言えばフィルムだった。単純写真なら1枚だけれど、CTスキャンの情報量は莫大で、フィルムにはたくさんの断面画像が並べられて、読影するのに知識がいった。

CTスキャンは人体の断面で、頭の中で立体を再構築できると、フィルムから得られる情報量はそれだけ増える。フィルムに並んだ断面画像を頭に取り込んで、そこから元の立体を想起するには解剖に対する理解が必要で、フィルムの昔、CTスキャンの脳内3Dレンダリングができるのは、読影に慣れた専門家に限られた。

自分が学生だった頃、将来のCTスキャンは、3次元映像になるのではないかと想像していた。CGの技術が進めば、断面画像を眺めるのではなく、最初から立体の形で画像が提示されるようになるのだろうと。PCの力にそこまで期待できなかった昔、CTスキャンを立体化するために、アニメ用のセルフィルムにCT画像をいちいち手書きでコピーして、それを1cmごとに重ねてみたり、知識のない人間が理解に到達するために、いろんな試みが行われていた。

当時描いた「理解の未来」は立体だったけれど、実際に普及して、現場を大きく変えたのはスクロールだった。

電子閲覧システムが普及して、フィルムで一覧する必要があったCT画像は、モニター画面に一つの断面画像を表示しておけば、マウスホイールをくるくるやるだけで、断面画像が入れ替えられるようになった。モニター画面でCTを閲覧するときには、目線を動かさずに画像だけを入れ替えられる。ただそれだけの変化が、画像の理解をずいぶん容易にしてくれた。

立体を立体として理解することは、要するにある断面の上下に何があるのか、頭の中で想像できることに等しい。想像は、以前ならば専門分野の勉強が必要だったけれど、今はもう、マウスホイールをわずかに転がすだけで、その先にある何かがすぐ見える。こうなるともう、本格的な解剖の知識がなくても、臓器の理解が容易にできる。

フィルムで一覧させるのと、マウスホイールを回すのと、自分にとって「電子」が変えたのはそれが全てなのだけれど、ほんのわずかなその変化は、フィルムの昔を忘れるのに十分な変革をもたらした。

リンクには張りかたがある

たとえば歴史物の電子書籍があったとして、文中に出現する年号をタップすると、そこから年表に飛べる機能があったら、楽しみかたがずいぶん変わると思う。

ある歴史物語があったとして、歴史の素人と、歴史の専門家とでは、たぶん文章に対する態度が異なってくる。歴史の素人は、物語を追いかけるのに一生懸命で、その年代に他の国では何があったのか、あるエピソードがこれから先に何をもたらしたのか、知識がないから想像できない。歴史の専門家が歴史物語を眺めるときには、たぶん全世界の歴史をある程度脳内で概観しつつ、目の前で語られる歴史を追いかける。

素人と専門家とを隔てているのはバックグラウンドの知識であって、歴史年号が目に入るたびに全世界の年表を閲覧できれば、素人読者でも、専門家の歴史視点を追体験できる。これだけのことでも、恐らくは読者の体験は異なってくる。

電子書籍にはいくらでも情報を詰め込むことができるけれど、情報の量それ自体は、読書の体験を変える効果は必ずしも大きくないような気がする。ハイパーリンクは便利な道具で、莫大な量の情報を容易に扱うことを可能にしてくれるけれど、読者の体験を変えようと思った場合には、張りかたを考える必要がある。

恐らくはリンクというものを、専門家が持っている想像力の原資に張ることで、読者の体験を変えることが可能になる。CTスキャンなら、専門家の原資は「次のフィルムを予測できること」だし、歴史の本なら、専門家の原資は「年表を想像できること」になる。今目の前で閲覧している画像から、次の画像へ簡単に移動できることも、ある年号を触ったそのとたん、年表に移動できることも、専門家は同じことを頭の中でやる。一覧できるフィルムを丁寧に眺めても、あるいは年号を目にするつど、巻末の年表を参照しても同じことではあるけれど、その手間を省けることが、体験を大きく変える。

読者はどこまでも怠惰になる

palm の昔、まだ非力だったPDAしかなかったあの頃すでに、あらゆる情報を電子媒体で持ち歩くことは可能だったし、無数に公開されているアプリケーションを選んでインストールして、自分だけの携帯デバイスを作って楽しむこともできた。

palm はあの時代、iPhone が成し遂げたことを事実上全て達成できていたのに、palm は世間の風景を変えられなかった。

iPhone にできて、palm にできなかったことはといえば、「同期を省くこと」であったのだと思う。palm は非力で、その代わり、親PCとその都度同期することで情報をやりとりしていた。今のスマートホンが実現している、電話回線を通じた情報のやりとりを実現するために、インフラに投じられたコストは莫大だけれど、同期というほんの一手間が省略できたことは、恐らくはその投資に見合った成果をもたらした。

派手な変化は必ずしも必要なく、メディアの新しさを印象づけようと思ったら、地味な変化で十分な効果が得られるし、派手さはもしかしたら邪魔ですらある。その代わり、ユーザーがその変化に到達するための経路は、極限まで短くする必要がある。

最後の1クリックをゼロにする努力が、恐らくは体験を一変させる。CTフィルムの昔、CTの撮影装置をおいた部屋に歩いていけば、モニター画面とトラックボールで画像を閲覧することは当たり前のようにできたのに、そこに行く手間を惜しんだが故に、変革は体感できなかった。「電子が変えた」体験というものは、病棟までモニター画面とLANの回線が引かれたことで達成できて、レントゲン室までの数分間がゼロになって、自分たちの生活スタイルは大きく変わった。

それが電子書籍なら、マウスクリックではもう遠すぎるのだと思う。文章を指でなぞって、メニュー画面抜きに、単語を触ればもうリンク先の情報に飛べるぐらいに手間が省かれて、はじめてそれが新しい体験として感覚される。

技術はすでに何年も前から存在していて、最後の1クリックを削ることに成功した人が、変革を総取りできる。

PDFは便利

文章と、レイアウトを通じて伝えたいこととを伝達可能で、なおかつハイパーリンクが使えるメディアと言えばPDFで、スマートホンの時代だからこそ、PDFはいいよなと思う。

PDFリーダーの性能次第だけれど、機種が異なっても、再現性はけっこう高くて、リンクを埋め込むと、そこをタップすれば任意の場所にページを飛ばせる。HTML でも同様の機能を備えているとは言え、複雑な表組みの中にリンクを埋め込むのがけっこう難しい。

昔出版させていただいた診断の本は、 最近ようやく、しおりの文字化けを回避しながらリンクを埋め込めるようになった。手元のスマートホンで文章を閲覧しながら、診断用途の表組みから、文中の病名から、当該箇所に1タップでの移動が可能になって、ここに来てやっと、電子媒体は紙の劣化コピーから自由になれたような気がしている。

ハイパーリンク前提の見せかたや、書きかたというものがあるのだと思う。分かりやすい本を書くには、専門知識を持たない読者に向けてかみ砕いた内容にする必要があるけれど、そうした読書の体験を通じて、専門家の目線を追体験するのは難しい。紙媒体で難しい本を作ると、それは単純に難しい本になる。そういう本を、1年ぐらいかけて辞書や百科事典を引きながら読み通すと、たしかに専門知識が身につくとは言え、時間がかかる。電子書籍なら、難しい文章を、指でなぞるだけで同じことができてしまう。

書籍はひとまとまりの知識を販売するメディアだけれど、アナロジーとしては「授業」であって、対話には遠い。検索やハイパーリンクが前提の書籍というものができるのだとして、それは「授業」から「対話」への、体験の変化を生み出すのだと思う。文章は難しいのに、あらゆる単語に当たり判定が埋め込まれていて、当たり判定を指でなぞりながらついて行くと、作者と同じ土俵でおしゃべりできたかのような体験が味わえるような。

palm の昔、いくらあれが流行っていたからといって、持っている人はやっぱり多くはなかったし、画面もそこまで大きくなかった。今は逆に、スマートホンを持っていない同業者のほうが下手をすると少数派で、誰のポケットを見ても、4インチ前後のディスプレイが収まっている。これはすごいことだと思う。

「それが使い物になる」という感覚は、最後の1クリックを削ることで発生する。ポケットにタッチパネルを持ち歩く今のスマートホンになって、ようやくたぶん、電子書籍の「最後の1クリック」が外されて、これからたぶん、様々な体験の変化が得られるのだろうと思う。

2012.01.13

惰力と能力

最後には絶対的な壁が立ちはだかるにせよ、能力の不足というものは、「惰力」で補うことができるのだと思う。

自らの意志で判断したり、決断を行って成功する人はかっこいいけれど、自ら動くあのやりかたは、正解に遠いというか、成果に支払うリスクが必要以上に高いような期がする。リスクを取って、たまたま生き延びることに成功した人は、こうしたやりかたを正しいと断じるだろうけれど、「いい惰性」の中に身を置いて、惰性の中でだらだらと行動した人が、気がついたら成果にたどり着いていたケースは、たぶん世の中ではずっと多い。

勉強会の昔

今でも時々、試験前の夢を見る。

恐らくは大学生だった昔が舞台で、試験は目前に迫っている。自分はといえば試験の準備もできていない、講義にもろくに出席していないものだから、内心はとても焦っているのだけれど、勉強するわけでもなく、何か好きなことに没頭するわけでもなく、夢の中ではいつも、自宅で本など読みながら、一人ゴロゴロしている。

期日が近いということは理解しているのに、自分には実際のところ、試験日がいつなのか、そもそもどんな教科書で試験の準備をすればいいのか、それがすでに分からない。調べればいいことなのに、夢の中ではいつも、自分にはなぜかそれができない。

余裕なんて全くない、むしろ今すぐにでも援助を受けないと危機的な状況にあって、なぜだか自分は余裕があるふりをして、内心は焦りつつも、なんの情報を得ることもなく、ただただ時間だけが過ぎていく。妙に居心地はいいのだけれど、その余裕にはなんの根拠もないどころか、状況が刻一刻と悪くなっていくなか、自信はなぜか確信に変わって、勉強机はますます遠ざかっていく。

ある日突然勉強をする気になって、心機一転、友人の誰かに試験の日程を尋ねる。自分は内心、試験まではあと2ヶ月ぐらいと見込んでいて、今からでも必死に勉強すれば、今までだらだらと「貯めた」エネルギーを使って挽回できると踏んでいたのだけれど、試験はもう、あと4日後には行われる予定になっていて、試験の範囲は莫大で、そもそもたぶん、問題集はおろか、教科書をさらっと流すのだって難しい。このとき初めて、「自分にはもう選択肢がない」という事実がのしかかってきて、頭を抱えて目が覚める。

医師国家試験の準備をしていた昔、先輩方からは「とにかく勉強会を始めなさい」というアドバイスをいただいて、国試のだいたい1年ぐらい前の頃、自分たちは勉強会を始めることにした。大きな目標を立てるわけでもなく、すばらしい熱意を持った誰かが会を率いたわけでもなく、とりあえず定期的に集まって、だらだらと問題集を解いていた。

国家試験の準備は面倒で、読み終えなくてはいけない参考書の量は膨大で、これを一人でこなすのは絶対に無理だと思ったけれど、自分に割り当てられた分量をこなさなければ他のみんなに迷惑がかかる。「友人に叱られたくない」という、えらく後ろ向きな理由で勉強はそれでも進んで、夢にでる程度には大変であったにせよ、国家試験は無事に終わった。

仲間がいると上手くいく

「いい惰性」の中に身を置くことで、能力の足りない人でも、能力以上の場所に連れて行ってもらうことができるのだと思う。

自分が卒業したのはいわゆる「受験校」だったけれど、何か特別な教科書が使われるわけでもなく、先生がたから「勉強しろ」などと怒鳴られるわけでもなかった。その場ではまわりがなんとなく勉強していて、勉強している連中もまた、なんとなく勉強していた。そうした「なんとなくの連鎖」が進学校の強みであって、自分もなんとなくそうしなくてはいけないような気になって、それなりの勉強量をこなすことになった。

受験校の合格率が高い理由は、結局のところ「そういう空気がそこにあるから」に尽きるのだろうと思う。そこで提供されるコンテンツの品質よりも、「そういう空気」の存在が、成果を大きく左右する。

最近読んだ 「はじめてでも安心 コスプレ入門 」という本には、何よりもまず「仲間の作りかた」が紹介されていて、興味深かった。

趣味の本はたいてい、まずはその領域を極めた人達のすばらしい成果が紹介されて、「頑張ればこんな作品を作れます」という文章が続く。この本ではむしろ、まずは読者にも簡単にできるやり方の紹介、そのあとすぐに、コンテストや展覧会への参加、そのときのマナー、移動の際に荷造りをどうするのか、持って行くと便利なものはなんなのか、実用的な知識の紹介が続く。

最高到達点を読者に紹介するやりかたは、読者をその趣味へと誘うための試みだけれど、最高到達点のすばらしさを楽しんだ読者は、もしかしたらその趣味をあきらめてしまう。読者が自らの手を動かさないと始まらない領域だと、なおのことたぶん、最高到達点のすばらしさは、趣味を続ける動機付けには貢献しにくい。山を紹介する際にはたぶん、「頂上のすばらしさを語ってみせる」やりかたと、「山道をとにかく歩き出す」やりかたとがある。本当に山に登ってみたい人にとっては、頂上のすばらしさを語る人よりも、もしかしたら実用的な歩きかたを教えてくれる人が役に立つ。

空気とリスクについて

災害のときにはたいてい、勇敢な人達が現れる。自らの命を省みることなく、恐ろしい状況にあって、それでも冷静に事態に対処して、奇跡的な成果を生み出してみせる。こうした人達は、勇敢な決断の元に超常の力を発揮したわけではなくて、むしろ恐ろしい状況にあってもなお、「そういうものだから」という空気に従った結果、異常な状況で普段訓練したとおりの成果を成し遂げられたのではないかと思う。

自らがおかれたリスクを正しく評価して、リスクと利益の分岐を見極めた上でリスクを取れる人は、きっとそんなに多くない。その一方で、「まわりがそうしているから」、危ない橋を、あたかもリスクなんて無いかのように渡ってみせる人は、たぶん多い。

専門家としての訓練を受けた人であっても、未知と対峙したときの振る舞いは、結局のところ無知を根拠に置くことでしか決定できない。「今まで大丈夫だったから」前に進む人もいるかもしれないし、「今まで大丈夫だったけれど」分からないから避ける人もいる。どれだけの数字を積んでも、資料を積んでも、最後はたぶん、物事はその人の周囲にある惰性で動く。

最近、今さらながら123便のフライトレコーダー記録を聞いた。旅客機パイロットという、高度に訓練された専門職とは言え、あれだけの状況で、よくも最後までパニックに陥らずに通信ができたものだなと思った。あの冷静さはもちろん、旅客機を操縦していた人達の職業意識が極めて高かったことに尽きるのだろうけれど、通信していることそれ自体、あるいは全ての会話が常に記録されているというあの状況は、極限にあって人間を強引に冷静にさせる力があるのではないかとも思えた。

震災当日、原発災害対処のまっただ中で、まず真っ先に放棄されたのが議事録だった、という逸話を想像した。議事録を手放すことと、そこにいる人が冷静さを手放すこととは、たぶん等しい。通信が生きていること、録音されていることは、結局のところ、「空気の力に人を強引に同調させる」こと以外の何者でもないにせよ、録音機をそこに置くだけで、逃げ出しそうな人はそこにとどまり、叫び出しそうな人は冷静になり、アイデア不在の破綻状況にあって、そこで立ち止まって冷静に対処する人が出現する。

惰力と能力のこと

「田舎の神童」には受験校なんていらないし、受験校で勉強した人間以上の成果に、彼らは易々と到達して見せたりもする。それでも「神童」は少ないし、目的が異なれば、受験勉強から国家試験の勉強へと目的が変化すれば、彼らだって勉強会の力を借りる。

「そういう空気」を生み出すやりかたはたいていが後ろ向きで、根本的な解決が好きな人からは叩かれる。「そんなものは必要なかった」という反例はたくさんあるだろうし、場が目指した方向に、その場の空気を無視したことで大成功した人もたくさんいるのだろうけれど、空気の力で惰力を得、能力以上の成果に到達できた人もまた、きっと黙っているだけで、それなりの数はいる。

天才のひらめきが成し遂げた成果の総和は、無数の凡人が結集した惰力による成果よりも、もしかしたら少ないのだと思う。

「そんな空気」はどうやって作るのか、惰力を効率よく伝播する環境とはどういうものなのか。「いい惰性」に身を置きたいなと思う。

今年もよろしくお願いします。