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2011.12.29

中心は黒がいい

ずるい人は得をする。得があるから人が集まって、人の集まりが組織を作る。組織の真ん中にはリーダーがいて、リーダーはもっともずるい人だから、リーダーはたいてい、黒から始まる。

黒は仲間を増やす

黒い人のまわりに人が集まった人達も、外から見ると黒くなる。色は混ぜれば別の色になるけれど、黒にどんな色を混ぜたところで、黒はやっぱり黒く見える。

黒い人達を取り巻く誰かにとっては、そうしたリーダーが率いる組織は「ずるい」連中に見えるだろうし、ずるさと感覚される何かはたいていの場合、そのルールに対する正解でもある。「ずるい」連中は時々叩かれて、ルールは変更されるけれど、リーダーにアイデアがある限り、その場は黒く、居心地良くまとまっていく。

リーダーは「きれい事」をつぶやく

お客さんを相手にする仕事において、お客さんから見て「きれいでない」組織は成功できない。「黒い」リーダーも、「白い」リーダーも、だからみんなきれいな言葉を語って、きれいな理念を仲間と共有する。

理念には、「これをやりたい」という盛りの要素と、そのために「これはやらない」という削り要素との側面がそれぞれにある。

「黒い」リーダーは、きれいな理念の裏側で、理念の削り要素を共有しようとする。「これは削ろう」の基準を共有できたチームは、お互い持ち寄った何かを大胆に削れる。集めた何かを削った結果、「これをやりたい」という何かが達成される。

「白い」リーダーの組織には、削り要素が存在しない、あるいは削るためのルールが備わっていない。盛り要素だけで構成してしまうと、理念は好き勝手に運用される。「これをやりたい」のならば「これもやるべきだ」という論法で、誰もが好きなものを盛りはじめて収拾がつかなくなってしまう。

削る決断が誰にもできない、あらゆるものが盛られた器があふれる頃、「白い」リーダーは、「頑張って」「無駄を無くそう」と宣言する。そこにいる誰もが疲れ果て、やりたかったものがそもそも何であったのかがわから抜かった頃、白い理念はたいてい、「こんなはずではなかった」何かにたどり着いて終わる。

リーダーは白くなる

アイデアには限りがある。限りあるものはそのうち枯れる。アイデアが枯渇したリーダーは、まわりから見て白くなっていく。

リーダーが「頑張ろう」という言葉を使い出したら、そのリーダーはもしかしたら白くなっている。「頑張れ」はアイデア不在の悲鳴であって、アイデアがあるリーダーは、「頑張れ」と言わずにアイデアを語る。

「頑張れ」は現場不信の表明でもある。黒いリーダーは、現場が「頑張らざるを得ない」ルールを設計して、その中で「自由にやって下さい」とやる。そうしたアイデアを持ったリーダーは、だからまわりから見て黒く写るし、黒さが支配するその場所は、案外居心地が良かったりもする。

アイデアが枯渇したリーダーは漂白される。自らの白さが、アイデアの欠如を免責する根拠になる。

一度白に転じたリーダーは、周囲の黒さで自らの白さを測ろうとする。理念への同調を強いつつ現場への不信を表明することは、白いリーダーにとって、自らの白さを裏付けるための必然ですらある。リーダーが自信の白さを確認したその結果、黒い人から、役立つ人から、組織からは人が抜けていく。賛同する人が少なくなった頃、リーダーは加速度的に白くあろうと努力する。悲鳴のように「頑張れ」を繰り返して、そのうちみんないなくなってしまう。

中心は黒がいい

田舎の医療は煮詰まって、医師会や保健所から、要するに「頑張りましょう」という文書が回ってくる機会が増えた。テレビで見る政治家も、自らの白さを喧伝しつつ、「頑張ろう」を連呼する。あれは本当に恐ろしい。

「ブラック企業」のリーダーは「白い」人なのだろうし、既得権や、その場のルールに上手く乗っかりながらきれい事をつぶやくリーダーは「真っ黒」なくせに、そうした組織にはいい人が集まる。黒いリーダーもまた、足下が崩れてアイデアが枯渇する未来には、きれい事が「つぶやき」から「悲鳴」に変わって、自身も白く変じてしまうのだろうけれど。

「白」が「黒」に変化するのは難しく、「黒」だっていつかは「白」になる。自分がどちらの側なのか、自身からは見えないけれど、「黒」でありたいなと思う。

来年もよろしくお願いします。

2011.12.21

偏見を獲得すること

「使える」人、能力を持った人という考えかたは、「問題の解決にあたって実用的な偏見を獲得した人」と言い換えてもいいのだと思う。

頭の棚は便利

知識を習得する際に、「この知識はこの場所に」という、頭の中に知識の居場所を作ってから教科書にあたると、勉強が捗るような気がする。知識の居場所を作るということは、要するにその分野をあらかじめ概観することだから、これはある意味当たり前ではあるにせよ。

ある分野の勉強自体が仕事になっている人達は、誰もがたぶん、頭の中に脳内地図みたいなものを作っておいて、その地図に従って知識を格納している。教科書や論文は、知識の居場所を作らないまま、ただ漠然と読んでしまうと、せっかくの知識が頭に残らない。獲得した知識をどんなルールで配列、格納しているのか。そうした配列の考えかたを、いつ、どうやって知ったのか。配列の一番最初、「空っぽの棚」に相当するものを、頭の中にどうやって作り出したのか。勉強が得意な人達は、このあたりに何らかの工夫をしていて、まじめな割に勉強が進まない人は、恐らくは配列の考えかたを参考書にゆだねてしまう。

受験勉強を乗り切るコツとして、「参考書を読むな。問題集を繰り返せ」と説かれることがある。参考書というものは、「必要な知識を分かりやすく伝える」という問題に対峙した人が、それに最適な配列を行った知識の集積であって、その配列は必ずしも、「受験問題を解く」ために最適になっているとは限らない。

対峙する問題が異なれば、必要な配列は異なってくる。参考書から配列を学んでしまうと、だから失敗する可能性が高くなる。自分が今対峙していて、これから乗り越えていかないといけない問題はどういうものなのか。それにふさわしい配列はどんなものなのか。参考書からもらった知識は、丸暗記するのではなく、自分なりの配列で、頭の棚に並べ直さないと使えない。

勉強の効率が悪い人にとって、勉強というものは、「すでに配列された本棚ごと自分の部屋に運び入れること」に相当する。効率よく学ぶ人にとっての勉強は、「床にばらまかれた本を自分の棚に並べ直す」作業なのだと思う。最終的にできあがるのは「本の並んだ本棚」であるにせよ、その意味合いはずいぶん違う。

配列と偏見

学習とは、自らの偏見に基づいた、断片的な知識の再配列に他ならない。教科書の配列をそのまま受容することは「暗記」であって、学習とは違う。偏見を持たない人は、裏を返せば学べない。

漠然と読んだ知識は、居場所がないから残らない。あらかじめ知識の居場所を作っておいて、「この知識は、この知識と関連づけて、脳内地図のこの番地に置いておこう」という態度で教科書や論文を読むと、読んだ分だけ知識が残るし、漠然と読むよりもスピードが上がる。

「偏った」人と、「勉強が得意な」人との差異は、ある問題を解決するにあたって、それぞれが獲得してきた偏見が役に立つのかどうかで決定される。偏見に優劣は存在しないし、問題が変わればもちろん、「使える人」の居場所に立つ顔ぶれも変わってくる。

極めて偏った目線でものを見る人は、学習の効率がいいとも言える。何を見ても「どうせこうだろう」という目線が全く動かない、「学べない」人というものは、逆説的に、学習の速度が恐ろしく速い人でもある。柔軟さは大切だけれど、恐らくは柔軟さと学習速度とはトレードオフの関係にあって、「偏見無く柔軟に」頑張った人は、結局学べないのではないかと思う。

2011.12.09

人と機械との関係

舞台になるのは、無人操縦ができる程度の判断力を備えた車が走れる近未来。映画「ターミネーター」のスカイネットみたいに、意志を持ったPCがネットワーク越しに様々な制御を行っている設定。

動機はなんでもいいと思う。「環境にとって人間が邪魔だった」でもいいし、人間の認識を超えた電子知性の考えることは分からないから、単に「それが面白そうだった」からでもいい。いずれにしても物語の常で、人間に使えていた電子知性は、ある日人類の殲滅を決意する。

敵は弱くてもかまわない

人類を滅ぼす意志を持ったPCがどこかに生まれたとして、ハリウッド映画みたいに強力な兵器を開発する必要は、電子知性の側には発生しない。機械は壊れても直せばいいし、壊れたってかまわないのなら、いっそ最初からボロボロの機械を集めてきて、武器に改造すればいい。人類は、弱い兵器を簡単に壊せるけれど、人間は壊れても替えがない。「壊れても作ればいくらでも替えが効く」という無人機械のメリットは、対峙する相手が生物ならば、絶望的な差として効いてくる。

行われる「戦争」は、「ターミネーター」よりも、むしろゾンビ映画に近い光景になる。自爆前提の無人兵器、爆弾を積んだ、スクラップ寸前のありきたりな無人乗用車が、ゾンビみたいに町をのろのろと濶歩する。人類が反撃すれば、そんな兵器は簡単に破壊できるだろうけれど、壊したところで終わりは来ない。機械は無限に時間を持っている。相手を壊して位置を特定されて、別の無人乗用車が近くを通れば、それが人間の存在を感覚して、自爆して相手を殺す。使う人も久しくいない、薄汚れた自販機に人が近づくと、「いらっしゃいませ」の一言と共に自爆したりもする。原始的だけれど、これで十分だと思う。

ボディは錆びて、タイヤはパンクして、動くのがやっとの無人車が、昼夜を徹してよたよたと町を見回る。見える場所から人は隠れて、道を歩くのは野良犬や野良猫ばかりになる。町には時々自爆の音が響いて、そんなことが何年も繰り返される中で、人間はたぶん、もう町には住めなくなってしまう。

人間とは何か

「機械のゾンビ」的な何かに都市を占拠されて、人間が都市から追い出された頃、物語は「人間とは何か」という定義の問題に踏み込むことになる。電子知性はどうやって、人間だけを区別して殺すのか。

2足歩行は人間なのか。車に乗っていれば機械になれるのか。たとえば二酸化炭素が問題ならば、ドライアイスを積んだ自転車を突っ込ませたら、それは人間のデコイとして役に立つのか。人間が機械に勝とうと思ったら、無数の自爆武器で囲われているであろう相手の中枢に乗り込む必要があって、何とかして電子知性の目をごまかせれば、まだしも勝ち目が見えてくる。様々な疑問とアイデアとが提出されて、仮説が検証されることになる。

電子知性は自己進化する人工知能として設定される。ソースコードが人類の手元にあっても、そこから相手の思考を読み取るのは難しい。機械の考える「人間」とはどういう存在なのか、ローテクと血の犠牲を支払って人工知能をハックする、絶望的な解析が続く。

闘争する意志について

敵役となる電子知性が、人類を滅ぼせる程度に賢明で、人間と他の動物を何らかの方法で区別できて、なおかつ「動物の命」よりも「自分の命」を重んじる立場を取るのなら、たとえばアサルトライフルを持たせたサルを突っ込ませても、機械はサルを殺さない。ライフルの代わりに、時限爆弾やリモコン爆弾を背負ったサルを歩かせれば、サルは殺されてしまう。

サルはライフルを持てないし、引き金を引いたところで狙えない。ライフルは武器だけれど、意志に基づいて運用されない限り、機械には脅威にならない。爆弾は、それが時限爆弾であれ、リモコン爆弾であれ、それを背負うことは、否応なしに「相手を破壊しろ」という人間の意志を背負うことになる。意志を背負った動物は、機械の側から見れば等しく破壊の対象となる。

機械と人とが対立していく中で、機械にとっての人間とは結局なんなのかといえば、「闘争する意志のことである」という理解に到達する。

機械と人とは違う。闘争する意志を持った存在が、お互いを違うと認識する。戦争を始める理由としては、機械にとってはこれで十分なのかもしれない。

勝利条件は何か

「相手の全滅」は、勝利の条件にはなり得ない。人間は機械無しには生きられないだろうし、知性を持った機械がそのときに存在したのは、恐らくは「それが便利だから」であったわけで。

人類が対峙する機械は、ほんの少し前までは共存していた存在で、ある日いきなり病的な状態になった。状況は戦争というよりもゾンビ映画であって、ゾンビものには基本的に、ハッピーエンドはありえない。ワクチン的な何かを物語に導入して、ゾンビ化した自爆機械を「治療」できたところで、治療とは、機械にとっては意志の剥奪と意識の破壊に他ならない。それはサービスの後退を意味していて、便利さはたぶん、人類に後退を許してくれない。

戦争の前提を覆すことが必要になる。「機械と人間とは異なっている」ことと、「闘争する意志」の存在が、それぞれ問題の鍵となる。

映画「第9地区」では、「違い」を問題の中心に据えていたけれど、機械と人間との違いを乗り越えるのは難しい。意志の問題に対して、都市を追い出された人間に何ができるのか。人類の側が闘争の意志を捨てる。そもそも被害者なのは人類の側だけれど、「人類が機械を許す」ことができるのなら、あるいは機械との戦争も終わるのかもしれない。

ここから先は分からない。人間が「許した」と宣言したところで、武器無しに都市に戻れば、機械に殺されるリスクは高いだろうし、この状況で「人間に味方する機械」を導入するのも何か違う。

戦いの前提に介入できるのは「子供」であって、何らかの「教育」が施されるのか、それとも赤ん坊レベルの子供を都市に放置して、機械に生体を育ててもらうのか、いずれにしても、機械を理解できる意識と、人間の身体とを持った仲介者が生み出されれば、彼らは町を安全にあるくことができるかもしれないけれど、そうした存在は、もはや人類の意志を継いでくれるとも思えない。

誰かオチをつけて。。

2011.12.06

対等な関係は難しい

白い巨塔という医学小説は、主人公たる財前は悪役として、財前を告発した患者さん家族の味方となった里見は正義として描かれるけれど、あの物語において、財前はむしろ被害者であって、本当の悪役は里見なのではないかと思う。

対等と正義は相性が悪い

物語の序盤、財前は、手術した患者さんの肺転移を見逃す。まわりはそれに気がつきつつ、誰もそれを財前に進言できないままに状態は悪化する。里見もまた、財前に「これは肺転移だ」と進言したはずだけれど、結局生検は行われることなく、患者さんは亡くなってしまう。

患者さんの経過において、もちろん責任者は主治医であった財前だけれど、患者さんは結局亡くなってしまうであろうとはいえ、訴訟を回避できた可能性は無数にあった。肺転移した胃癌に対して、昭和40年代の医療でできることはほとんど無かっただろうから。ところが「正義の人」である里見があの場所にいたことが、そうした可能性を閉ざしてしまった。

「対等な関係」にある誰かが「正義の人」であったとき、その組織で致命的な失敗が起きる確率は飛躍的に高まってしまう。

火嫌いと火消し好きの関係

小説とドラマの記憶が混ざってしまっているけれど、「白い巨塔」の里見という人は、一緒に働くにはけっこう厳しい。

何か問題を発見すると、里見は「これは問題だ。君はこうするべきだ」といったやりかたで問題を指摘する。プレゼンテーションのありかたとして、これは微妙に挑発的で、「売り言葉に買い言葉」的な状況に陥りやすい。

里見の助言は、それを受け入れる側に「ただ負ける」のではなく「大きく負ける」ことを強要する。兵隊の位が異なっているのなら、特に相手が明らかな上役ならば、こうした言い回しは全く問題にならないけれど、対等な関係という、組織においてバランスを保つのが難しい状況において、「大きく負ける」ことを素直に呑むのは難しい。

同じ状況に置いて、里見が常にヘラヘラとした、いっそ財前に「ちゃん」付けで呼びかけるような人物であったなら、白い巨塔の問題は発生しなかった。財前に見逃しがあって、里見がそれを見つけたとして、「財前、お願いだからこの検査をやってくれないか?」なんて、財前の肩にでも手をかけながら頭下げていれば、必要な検査が提出されて、問題はそのまま収拾したのではないかと思う。

火が嫌いな人と、火を消すのが好きな人とがいて、同じ「消す」ことを目指しても、問題に対する態度はずいぶん異なる。火が嫌いな人は真っ先に火を消そうとするけれど、火を消すのが好きな人は、もしかしたら火を大きくする方向に舵を切る。火消しを公言する人は、火が大きくなるまで待ってしまったり、案外放火が好きでもあって、こういう人と一緒にやるのはリスクが高い。

クズには使いようがある

大ざっぱに「クズ」と「正義」がいるとして、患者さんの状態悪化を見逃した財前は人間のクズであったのかもしれないけれど、里見も等しく人間のクズであったなら、白い巨塔の物語は、そもそも起動しなかった。

「クズ」と「正義」には使いどころがある。対等な関係を作らざるを得ない場所に「クズ」と「正義」を配置すると、たいていろくでもないことになる。対等に組んだ「クズ」同士はうまくいく。同じことを「正義」でやると殺しあいになる。「正義の人」は、上司と部下しかいない、対等が存在しないところに置いて、上下を「クズ」で挟むと馬車馬のように働いて、組織全体の生産性が向上する。

白い巨塔の物語というのは、財前の失敗ではなく人事の失敗であって、同僚に恵まれなかった財前の物語であったのだと思う。