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2011.11.26

陰謀論と理解

子供の頃、テレビや漫画で描写される政治家の姿はといえば、「馬鹿」であったり「無能」であったり「金の亡者」であったり、いずれにしてもろくなイメージではなかったような気がする。何もできない子供だったくせに、政治家をどこか「見下して」いたものだから、ニュースで何が報じられても「そんなもんだ」とばかりに、そもそも政治報道に興味が持てなかった。

最近のニュース、特にネットのそれは、ずいぶんと政治報道が増えた。政治家のありとあらゆる振る舞いが報じられては、「あれは○○国を利する陰謀だ」とか、けっこう若い人が盛り上がってる。昔はネットがなかったものだから、そもそも体験の比較に意味がないのだけれど、「若い人たちが政治の話をしている」この状況そのものが、個人的には世の中がずいぶん変わったな、という感覚につながっている。

見下すことの意味

「相手を見下す」のは悪いことだけれど、肯定的な効果もあるのではないかと思う。

相手を見下して、最初から期待値を下げてかかると、至らない成果を見ても「所詮こんなもの」と思える。当初抱いていた期待と、できあがってきた「こんなもの」との間に乖離は少なく、結果としてそのことが、後ろ向きな信頼を生む。

相手に対する期待値が必要以上に高まった状況で、期待を下回る成果を目にした人は、その原因を相手の無能に求めず、何らかの陰謀に求めてしまう。相手の仕事や能力、職業の専門性に対する理解がない場合に、こうした傾向は強くなる。

田中角栄も中国の手先みたいな言われかたをされていたし、恐らくは国会議員なら、誰だってそうしたつながりから自由ではいられないのだろうけれど、今の民主党政治家みたいに、ここまで声高に陰謀が叫ばれたケースはなかったのではないかと思う。昔はネットがなかったと言われればそれまでとはいえ、こうした傾向は、成果が無惨であったこと以外に、そもそもの期待値が高すぎたことに原因があったのだろうと思う。

見下すのにはエネルギーがいる

陰謀は、期待のギャップを埋めようとして生み出される。相手を見下していれば、最初から期待のギャップが発生しにくいから、陰謀が生まれる余地をそれだけ少なくできる。

相手を見下すことは、その代わりけっこう難しい。

「政治家は馬鹿ばっかりだ」なんて口にするのは簡単だけれど、たとえば本物の国会議員が目の前に座った状況で、「こいつは馬鹿だ」と心の中でつぶやくのにはとんでもないエネルギーがいる。相手の顔を知り、距離を縮めるほどに、見下すことは難しくなっていく。

多くの人は、たぶん知らない誰かを見下すのにエネルギーを使う。高い期待と、期待を下回った成果と、そのギャップを埋めるのに「あいつは無能だった」と思うのと、「自分が知らない陰謀が働いている」と思うのと、たぶん後者のほうが消費するエネルギーが少なくて済む。陰謀論は無知だから生じるのではなく、そのほうが楽だから生み出される、遠回しな現状肯定なのだろうと思う。

いい人が陰謀を選択する

知らない人を見下すのは難しい。期待のギャップを前にした人は、見下せないから陰謀を選択することになる。

陰謀を選択する人は、社会ではむしろ「いい人」であって、万事に丸く、理性的で、喧嘩に遠いような人ほど陰謀論に毒されやすい。暑苦しく押しつけがましい、誰に対しても高圧的で、他人の意見に耳など貸さない人は、期待のギャップを前にしても、「これをやったやつは無能だな」なんて笑い飛ばして、さっさと次の話題を探しにでかける。

知識はむしろ、陰謀論を近づける。

「見下す」という動作は、相手をまずは自分の高さまで降ろして、さらにそこから下に押しつけないといけない。自身に対する期待値の低い人は見下すことが困難で、知識がありすぎる人というのは、知識の量が自身の期待値を下げた結果として、相手を見下せなくなってしまう。

勉強しすぎた人は、知識の絶対量にこそ自信を持っているかもしれないけれど、様々な分野の最高と対峙した結果として、正味の自分に対する期待値を下げてしまう。陰謀は、無知だから選択されるのではなく、相手を見下せない代償として選択される。知識の絶対量は、恐らくは陰謀を遠ざける役には立たないし、もしかしたら状況を悪くする。

理解は人を自由にする

「ある問題を解決するためにできること」を学ぶのが知識の習得であって、「ある問題をそれ以上悪くしないためにやってはいけないこと」を知ることで、ようやく理解に到達できる。

知識はしばしば人を不自由にする。相手の仕事に必要な知識を学んだ人は、当の専門家がどうしてそれをしないのか、ギャップを前に、陰謀を近づけてしまう。相手を理解することは、「あなたは案外不自由なんですね」という感想にたどり着く。結果として生まれた関係は、お互いから陰謀論を遠ざける。

知識を重ねて、どうすればそこから理解に到達できるのか。大昔、「研修医の促成栽培」というテーマにいろんな人たちが挑んだ結果として、結局近道はなかったのだけれど。

2011.11.23

顔の見える距離について

外に対してある程度閉じた、小さな町で仕事をしていると、どうしても知った顔が多くなる。病院に来る人は、主治医に自分の情報を預けているわけで、病院の外で患者さんと出会ってしまうと、お互いどこか居心地が悪くなってしまう。

その町の本屋さんが外来に来ると、もうその本屋さんには行きづらくなる。床屋さんに行き会うと、もうその床屋さんにはいけなくなる。飲み屋さんを主治医として受け持ったとして、たとえば飲みに行った先にその人がいて、不相応なサービスもらってしまうと、もうそのお店には行けなくなって、外来で「最近来ないね?」なんて水を向けられても、「いや、忙しくて」なんて、やっぱりどこか居心地が悪い。

病院の外に知った顔が増えていくほどに、そこでできることが限られてくる。お互いの顔や名前がしっかりと見える距離感と、顔見知りであってもある程度匿名的に振る舞える距離感と、ある程度自由にやれる生活を回していくためには、両方の距離を持っていないと難しい。

水を差すと自由になれる

学生だった大昔、左翼系の全国サークルが主催する「夏の合宿」に参加する機会があった。

全国から医学生、看護学生が集まって、意識の高い学生よろしく何かを作ったり、議論したり、話題はといえば、恐らくは何年もこういう合宿を主催している先輩方に誘導されたものだったのだろうけれど、場は盛り上がって、誰もが同じ方向を向いていた。

夜に入って、ご飯を囲みながら、やっぱり集まりは和やかに盛り上がって、先輩方から「あしたは○○町に平和アピールに行きましょう」なんて提案があった。医学と社会の勉強会であったはずの合宿が、いつのまにか平和運動に置き換わっていて、自分はそれが嫌だったのだけれど、すでに見知った「仲間」の顔を曇らせるのがはばかられて、どうにも反対意見を切り出せなかった。

話の流れが「全員参加で平和アピール」に傾きかけた矢先、別の学生が手を挙げた。「先輩、俺は「この会に参加すると女の子たちと思い切り遊べる」と聞いたからここに来たんです。まだ遊び足りません。明日は遊びたいです」空気を読まない、どこかとぼけた「意見」に場は笑った。平和アピールの話は自由参加になって、そのときもしかしたら、参加を提案した先輩の顔は曇ったのかもしれない。

外に対して閉じた場所で、お互いの顔や名前を見知った関係がずっと続くと、誰かの顔を曇らせるのが怖くなっていく。そんな状況で、ある空気に真っ正直に反対するのは難しくて、一度誰かが「こう」と決めた流れを変えようとすると、結果として場が割れてしまったり、喧嘩になってしまったりする。こんな状況で、固まった空気に「水を差す」ことができると、場は和んで自由が戻る。多様な意見を確保する上で、これができる人は本当に貴重だし、多様な意見を追放したい誰かにとっては、場に水を差す人は、放逐の対象になったりもする。

顔色と洗脳

NHKのニュースで、オウム真理教の事件が特集されていた。番組中、オウム側の証言者が口をそろえたように「洗脳されていた。あのときには善悪の判断ができなかった」と語っていた。

オウム真理教側の証言は、事件がもう少し新しかった昔は、「教祖のために行ったことだ」とか、「あれは救済だ。悪いことなどやっていない」とか、もう少し宗教がかった、常識の立ち位置から見て違和感を覚える言葉があったような気がする。「洗脳されていた。あのときには判断ができなかった」という言い回しは、それがどんな意図で発せられたのだとしても、悪と断じられた組織が抱える「悪い人」の数を最小限にする効果が得られる。証言を行った人たちのそれが内面の変化によるものなのか、それとも「そうあってくれ」という誰かの意志が働いた結果なのか、ちょっと知りたいなと思う。

どれだけ有能な教祖であっても、個人の力で誰かを洗脳して、無茶な行動を後押しするのはやはり難しい。危険な決断、「常識」からはありえないような危ない決定は、誰かがそう決めたのではなく、たぶん「誰もが決断しないこと」から生み出されることのほうが多い。

危険な決断は、方向としての「そういう空気」があるなかで、議論無し、決断無しで、その方向に前進した結果、止める人が誰もいないままに実行されてしまう。実行されたことは事実だけれど、そこに至るまでの過程において、恐らくは誰も議論せず、誰も決断していないから、それが失敗に終わったそのとき、そこにいた誰もが「洗脳されていた。あのときにはどうしようもなかった」と述べることしかできない。オウム真理教も旧軍も、あるいはおそらく東京電力の人たちも、そうした決定プロセスは共通しているような気がする。

災厄が予知されて、対策を指示されたにもかかわらず、対策が為されず災厄を生んで、将来的に東電の上の人たちがいろいろ口を開く機会が来ることもあるのだと思う。「どうして?」と誰かが問えば、結局のところ「洗脳されていた。仕方がなかった。判断できなかった」に連なる言葉が出てくるのだと思う。それは本音なのだろうし、悪人を作らない、他の人を悪役にしない、同時にたぶん、そこからは何も改善されない言葉でもある。

「水も入らぬ距離」を望む人

外に対して閉じた場所を設定して、お互い見知った距離を保って、個人を取り巻く匿名の殻を浸食すると、「仲間の顔」がよく見えるようになる。

そうした場では、「仲間の顔が曇ること」が恐ろしい意味を持つ。相手の顔を曇らせないよう、そこにいる誰もが「空気を読んだ」結果として、誰もが身動きを取れないまま、組織は「空気」の示す方向に暴走して止まれなくなる。

ソーシャルゲームやネットワークRPGは、仲間の顔を曇らせたくない、自分が誰かの顔を曇らせる原因になりたくないという思いを上手に利用して、課金サービスを効率よく回す。新興宗教は、どこかゲーム的な教義の構造を持っていることがときどきあって、ああいう団体が「ゲーム」を通じてお金を集めると、けっこうすごいことになるのだろうと思う。

商売を試みる側からすれば、様々な価値観を持った人が忌憚のない意見を交わす、無数の価値軸が全体として動的平衡になっている場所なんて、なんの魅力もないのだろうと思う。熱狂を期待して何かを提案しようにも、あらゆる方向から水を差されて、系全体はびくともしない。

地域のお年寄りに高額のお布団セットを売りつける人たちは、人を集めて狭い場所に押し込んで、熱狂的な空気を作って、「忌憚のない意見」を封じ込めにかかる。個人的には、それを全世界規模で行おうとしているのが実名空間のソーシャルネットワークに見える。

「顔本とかG+ で人気になった○○さん」は、それが評判になった瞬間、過去ログを掘られて未来との整合を検証される。一貫性を手放せば評判が落ちるし、流れが見えれば先が読めるから、その人からはお金が汲み出せる。評判は中立地帯を地雷原に変える。あの場で目立つのは危ないし、そういう危機意識のない人を人気者と煽る人は、自爆要員としての役割以外は期待していないのだろうと思う。

試作段階のプリウスは、遊びをゼロにした動作系に中枢を複数搭載した結果として、判断のコンフリクトを生じて、数メートルしか走らなかったのだという。お互いの結合を緩やかにして、いろんな場所にバッファを入れて、試作車はようやく走ったのだと。「停止」と「暴走」とは、系の中にいる人には一切のコントロールが効かないという部分でよく似ていて、実名のソーシャルネットワークは、あらゆる個人が遊びゼロで全部直結しているような怖さがある。

実世界にはドアや壁があって、ドア1枚を隔てたほんのわずかな匿名が緩衝になって、お互い見知った人同士が自由に考え、暮らしていける。考える人がたくさんいるから、空気が固まると水が差されて、場は柔軟さを取り戻す。

水の入る余地がない距離は身動きが取れないし、暴走すれば止まらない。それは恐ろしいことでもあるし、同時にたぶん、とても利用しやすい。そんな場所を本当に誰もが望んでいるのか、そんな場所を作って得をするのは誰なのか、考えたいなと思う。

2011.11.14

何を「やらない」のかを考える

「これをやりたい」は願望であって、そこにたどり着くための「やらないこと」を決断して、願望はようやく、戦略としての意味を持つ。

「やらない」を決断したその先には、必然的に不利益を被る誰かが存在するから、戦略を決めることは、たいていの場合「誰を敵にするのか」を決めることでもある。敵と名指しされた誰かは、当然のように反対する。反対の声を受け止めるために、その戦略に乗る側は固まって守りを固めたり、あるいは責任を転嫁するための理屈を共有したりする必要が生じる。

戦略が決定されれば敵が名指しされて、敵の存在は、必然として味方を思考させ、動作を促す。

敵を名指しする仕組み

大昔、「個人のblog が大手メディアに取って代わる」なんて言われて、専門家が書く blog は増えて、恐らくは品質の高い記事も増えたけれど、みんなの目線は結局、大手メディアから2ちゃんねるのコピペブログに持って行かれた。

大手メディアに取って代わる、彼らの居場所を奪うためには戦略が必要だった。戦略を持つということは、「誰を敵にするのか決めること」と言い換えてもいい。個人にとって、「敵」との応対コストは負担が重すぎて、個人blog が誰かを「敵」と名指しするのは難しい。個人のblog はだから、マスメディアに「勝つ」ための戦略を持つことがそもそもできない。

問題を指摘して、叩きやすそうな誰かを敵認定して全力で叩いてみせる、マスコミが「ゴミ」と断じられるあのやりかたは、場当たり的とは言え間違いなく「戦略」であって、戦略があったから、大手メディアは支持を勝ち取った。戦略を持って事に当たるということは、不利益をこうむる誰かから「ゴミ」と面罵されることを引き受けることでもある。マスメディアは会社組織として固まることで、そのコストを負担することに成功したけれど、結果として記事は高価についた。

「アルファブロガー」なんて言葉がちょっと流行った昔、その横で、2ちゃんねるのコピペブログが10倍どころじゃないページビューの差をつけて、個人のblogをあっさり追い抜いていった。コピペブログの記事はひどいなんて、やっぱりいろんなところで叩かれたけれど、敵がいて、膨大な観客数という成果を上げて、マスメディアのあのやりかたは、戦略としてやはり正しい。分かりやすい敵を名指しして叩きつつ、批判されれば「これは某掲示板の声だから」と回避する、敵の作りかたを踏襲しつつ応対コストを削減する、コピペブログは何を言われても、まだまだ伸びるんだろうと思う。

「いい記事」には意味がない

「専門家の知見を持って公平で分かりやすい記事を書く」という方針は、これは戦略ではなく戦術であって、無敵の戦術を、戦略無しに行使したところで、戦局は微動だにしない。

「個人blog はいい記事がある」というのが部分的に真実であったとしても、「いい記事を書けば伝わる」という考えかたは、願望であって戦略じゃない。同様に、「マスメディアの記事はひどい」が部分的に真実であったとして、彼らはそれでも、「分かりやすい敵を叩いてそれに同調する人たちを対象に記事を届ける」という戦略の元に記事を作って、批判されるのが前提として、それに備えているのだとも言える。

メディアの間違いを指摘したり、記事の品質を批判する人たちは、メディアの戦略から見れば、そもそもお客さんとして認識されていない。個々の記事に間違いを指摘したり、低い品質の記事を批判したりすることは、よしんばそれに「勝利」できたとしても、大手メディアが今いる場所は微動だにしない。

何を「やらない」のかを考える

正しい戦略はあらゆる戦術を凌駕する。間違った戦略であっても、戦略の放棄よりはよほど意味がある。

戦術というものは手続き指向的な考えかたであって、戦略は、問題に対してより制約的であろうと試みる。「どうやって勝つのか」を考えるのが戦術なら、「勝つために何をあきらめるのか」を決断するのが戦略であるとも言える。

「目の前の問題全てを頑張る」というやりかたは、体力的にはいちばん困難なやりかたであるようでいて、戦略不在の、全く頭を使っていないやりかたでもある。無目的な努力が許されるのは戦術レベルまでであって、どこかで何かをあきらめる決断を行わない限り、戦略は生まれない。戦術でどれだけの成果を上げたところで、戦略不在の戦略は、成果には決して結びつかない。

自分が今いる場所、入院も受け持つ一般内科というありかたは、そういう意味で戦略ないよなと思う。単なる便利屋でなく、他科と協力できる自分の居場所がほしいのならば、「これができない」という何かを持つ、何かをあきらめてみせることが大切になってくる。

2011.11.12

丈夫なシステムについて

大学病院に入局した昔、田舎の電源事情は妙に悪くて、停電は日常だった。雷が落ちると病棟の電気が消えて、エレベーターに看護師さんが閉じ込められたり、大学のインフラは案外貧弱だったのだけれど、業務はあまり止まらなかった。非常用発電機の音を聞きながら、暗い病棟に殴り書きの伝票を持った研修医が走り回って、走らされるほうも、受け取るほうも、いい加減なシステムを回すのはきっと大変だったのだろうけれど。

きっちりやると脆くなる

震災直後の停電で、近隣の基幹病院は、病院の機能全てがダウンした。

電子カルテや画像診断装置が動かなくなるのはもちろん、薬剤を処方しようにもオーダーは出せないし、記録を残そうにもPCが動かない。救急外来の機能は止まって、救急車を受けることはもちろんできなくなって、調理室が上の階にあったから、入院患者さんに食事を配膳するのも大変だったのだと。

新しい施設は電子化が行き届いていて、動線は短く、働いていて効率がいい。昔ながらの紙伝票、増改築を繰り返した古い施設は、普段走り回っていて不便なことこの上ないけれど、紙の伝票は停電しても使えたし、改築を重ねた結果としてフロアをつなぐ階段がやたらと多い当院では、エレベーターが動かなって以降、人が動く階段と、病棟への食事配膳に使う階段と、それぞれ専用の流れを割り当てることができた。

原始を電子で制御する

大学が電子化されて久しいけれど、集中治療室の業務については、紙を使った伝票システムになっていた。

電子オーダーはどうしても入力が面倒になる。末端部分である種の複雑さを引き受けることで、全体として情報の流れがスムーズになるのが電子化の利点だけれど、1日のうちにオーダーがどんどん変わる集中治療室で複雑さを引き受けてしまうと、業務が止まる。電子の苦手な上の先生がたが文句を言い続けた成果なのだろうけれど、集中治療室では部屋の中だけ紙で回して、結局研修医が「電子化」することで外部システムとの整合を取っていた。

あのやりかたは研修医の評判が悪かったけれど、今回の停電にしても、たぶん集中治療室だけは業務が止まらなかったのではないかと思う。

機能の独立性は大切

つい最近、電気工事のクレーン車が電線を切ってしまったとかで、わずかな時間、予告無しの停電が発生した。結果としてこのとき、当院では画像配信システムが機能停止して、近隣基幹病院では、例によって全機能が停止した。

電源が復活すれば、PCを再起動すればいいのだけれど、個体のPCを立ち上げるのと、ネットワーク全てを再起動するのとではわけが違うらしくて、電源は復活しても、メーカーの人が来てくれるまで、システムは復帰しなかった。配信システムは止まったけれど、CTやMRI自体は動かすことができたから、画像配信システムを使わずに、放射線室まで画像を直接見に行けば、業務を回すことはできた。

レントゲンと言えばフィルム撮影だった昔、レントゲン室は写真を撮って、それを現像して配信するところまでがひとかたまりの機能として独立していた。今もまだ、他院に患者さんを紹介する際にはフィルムを現像する必要があって、そのための設備には画像モニターがついていて、ネットワークが落ちたときにはそれが役に立った。

昔ながらのやりかたは、レントゲン室でフィルムに焼いた画像を技師さんが外来まで持ってきてくれるのだけれど、画像配信システムは、画像閲覧の機能を外来の机に持ち込むことになる。画像はきれいで、撮影したその瞬間に閲覧が可能になるけれど、レントゲン室と外来と、お互いの依存が強まってしまう。普段はそれが長所になるけれど、外乱に対する備えを考える際には、依存は少ない方が安全になる。

丈夫さと効率について

外乱に対して頑丈な、ダメージ相応に機能を減じつつ、それでも止まらずなんとかまわるシステムには、たぶんいくつかの共通事項がある。

各機能はそれぞれ外に対して閉じて独立で、それぞれの機能単位は、動作が見込める限りにおいて穏やかに結合していることが望ましい。「結合」をになっていたのは、昔だったら伝票を持った人間で、今だとそれが電子になるけれど、電子が生み出す結合は強力に過ぎて、外乱に対してまだまだ弱い。

機構は原始的に、制御は近代的に、系は時代を内包することが望ましい。昔ながらの原始的なやりかたに、皮だけ新しい制御を被せるやりかたはみっともなくて、最新の制御系で機構から作り直したくもなるけれど、こうした無様さは、しばしば外乱に対する安定に結びつく。時代を切り戻せるシステムは、何かの原因で最新の制御系が落ちたとき、暫定的に昔のやりかたに戻すことで、システムを止めずに当座をしのげる。うちの施設にしても、会計処理こそ全てPCだけれど、伝票は紙だったから、停電したときには記録だけ紙に残して、会計は全て後回しでどうにか業務を止めずに済んだ。

こういうやりかたは間違いなく効率を下げて、世の中を競争で回す限りは真っ先に削除されてしまう。「止まりにくさ」の測定はできないし、「今動いていること」は、「止まらないこと」の保証にならない。基準がないから、世の中のシステムはどんどん脆く、落ちたときの被害はむしろ大きくなっていく。

「この業務に必要なロバストネス」を、ルールを作る側の人たちは定義してほしいなと思う。