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2011.10.29

聞く仕事のこと

ホームセンターにドリルを買いに来る人は、本当はドリルが欲しいのではなくて、「穴」がほしい。穴をあけるのにドリルは必要ないかもしれないし、棚を作ったり椅子を作ったり、穴を使って達成したい何かには、もしかしたらそもそも、穴なんて必要ないかもしれない。

ドリルを買いに来た人に、性能のいいドリルを勧める店員さんは、「お客さんが本当に欲しかったもの」を提供できていない可能性があって、ドリルに詳しくなることとは、もしかしたら「いい店員になること」を遠ざける。

ネットには無数の情報があって、無数の読者がいて、記事を読んでは、またそれを話題に盛り上がる。じゃあネットで記事を熱心に読む人たちが、本当のところ何がほしかったのかといえば、ドリルの理論を延長すると、情報それ自体ではなくて、むしろ「聞いてくれる人」なのではないか、という妄想に到達する。

多くの人はたぶん、誰かに聞いてほしいから、何かの話題を作りたいから記事を読む。知識を仕入れて、誰かと一緒に盛り上がりたいから、情報を頭に入れる。ネットには無数の情報があふれていて、誰かに何かを話したい人もたくさんいて、その割にたぶん、誰かの話に耳を傾けたい人は、それほど多くはないのではないかと思う。

5ヶ月前からの倦怠感が症状の患者さんが、朝の5時過ぎに救急搬送された。「日中の病院は忙しそうで、ぜひとも話をちゃんと聞いてもらいたかったんですよ」なんて、救急隊に囲まれて、笑顔だった。受ける側としては迷惑なんだけれど、そういう需要はたしかにあって、保険診療の範囲では、たぶん「聞いてもらうこと」は購入できない。

「聞くこと」には確実な需要が見込めるけれど、「お金を支払ってでも聞いてほしい」という人は、案外少ない。需要というものは、そこに何かの「いいわけ」を挟まないと、お金に変換するのが難しい。

昼休み時間になるとやってくる、会社の近くで店を開くお弁当屋さんが売っているものは、「安価な食事」ではなく、「昼休みにちゃんと休める時間」なのだ、という記事を最近読んだ。そうしないと外食に誘われて、結果として長い時間を消費してしまうのだと。近くで売られたお弁当は、お弁当であるのと同時に、外食を体よく断るいいわけにもなっていて、それが価値になっているのだと。

「聞いてほしい」という需要にしても、そこにお金を支払ってもらうためには何かのいいわけが必要になる。いいわけに対価を支払って、その「ついで」に聞いてもらう、という形式を取らないと、「聞くこと」は満足につながらない。傾聴ボランティアみたいなやりかたは、その場ではもちろんそれが必要で、必要なものをそのまま提供する手段になっているのだけれど、やはり少し違うような気がする。聞いてもらいたい人は、同時にたぶん、聞く側からは「聞いてもらいたかったのですね」と思われたくない。

誰もがいつでも発信できるのがネットの良さではあるけれど、誰もが発信するようになって、「聞くこと」の需要はむしろ増えた。ネットに接続する人たちが本当に求めるものを、適切な「いいわけ」と共に提供できる人が、これから先、経済的な成功をおさめるのだろうと思う。

2011.10.18

講習会覚え書き

最近参加した、某講習会での感想。新しいことを教えてくれる講習会というよりも、ある程度知っていたことを整理して、ひとかたまりの知識として提供してくれるようなものだった。有償。

スライド棒読みはそこそこ満足できる

  • 研究発表よりも資格講座に近い講習会だったから、スライドは教科書の抜粋で、その分野の参考書も、講習会で使われたパワーポイントも、ハンドアウトとしてあらかじめもらうことができた。その結果として、講習会は「パワーポイントの朗読」に近い形式になってしまうことになったけれど、それでも案外、「何かを聞いた」という満足感が得られた
  • スティーブジョブズのプレゼンテーションは、あれは全く新しい何かを予告無しに紹介するという、プレゼンテーションとしてはむしろ特殊な状況であって、講習会みたいな場所で、ジョブズと同じことをやろうものなら、たぶんメモ取りが追いつかなくなる。プレゼンテーションの話者が場を上手に盛り上げるほどに、頭に残る知識は減ってしまうのではないかと思う。そういう意味では、パワーポイントを朗読するようなやりかたは、必ずしも悪い例ではなく、ある程度確実な効果が期待できる次善の策として、十分に通用するのではないかと思った
  • ジョブズのやりかたは、それでも参考になるのではないかと思えた。慣れている演者の先生は、演壇から自分たちの側に歩み寄りつつ、スライドを見ないで、スライドの内容を言葉で伝えた。話されている内容こそ、ハンドアウトに書かれた内容をそのままなぞっていたけれど、それがいかにも上手に見えた。同じような「朗読」であっても、スライドの文字をレーザーポインターで追いながら文章を読む演者の講演は、いかにも朗読しているように見えて、演者の立ち居振る舞いは、印象をずいぶん変えた

脱線にもやりかたがある

  • 自分たちが普段学んだり、あるいは実際に利用したりする診療ガイドラインは、必ずしも現場でそのまま使えるものだとは限らないし、その内容に賛成する立場の人もいれば、反対する立場の人もいる。演者の先生がガイドラインを伝える講演を行った際にも、その演者は、必ずしもガイドラインの立場に賛成しているとは限らない
  • 伝えるべき内容と、演者の立ち位置とは、異なっていても全くかまわないはずなのだけれど、けっこう戸惑った。「私はこの勧告にはあまり賛成できません」という前置きを置いてから、講習テキストに対して少し批判的な立ち位置で講演を行った先生がいて、話それ自体は熱意があって上手だったのに、聞く側としては、せっかく何万円ものお金を支払って購入した教科書を、買ったその場で批判されているような気分が残って、最後までそれがぬぐえなかった
  • このあたり、「有償/無償」が印象を微妙に左右しているのではないかと思った。お金を支払って購入したものは、それが自分の判断かどうかはともかく、自分にとって価値のあるものになる。それに対して批判したり、あるいはその教科書から脱線しようと思うのならば、演者は逆に、その教科書に賛成している人以上に、教科書の論理に通じていないと厳しいような気がした。教科書の論理や、それを書いた人の意図するところを肯定的に紹介して、初めてそこから、脱線が聴衆に対する面白さとして効果を発揮してくれる。最初から脱線前提、本筋は各自勉強、という立ち位置は、特に有償の講習会の場合には厳しい印象を持った

経験の提示は難しい

  • 大筋はパワーポイントスライドの朗読、その隙間を補完する形で、たとえば箇条書き形式の病名を紹介する際に、ちょっとした経験談を挟み込んだりするだけで、講習会の満足度はずいぶん上がる気がした
  • その代わり、ちょっとした経験談が、スライドの流れと離れてしまうと、講習の印象がずいぶん変わってしまう。講習会だから、聞く側はメモを取りながらスライドを見ることになるのだけれど、演者の先生がたの経験談には、たまに「どこにメモを書いていいのか分からない話」が出てきて、それがどれだけ面白い逸話であっても、なんだか流れが切られたような印象を生む
  • 特に「例外の提示」が難しいのではないかと思った。大筋の流れがあって、「実際にはこんなふうに実践されているようです」と具体例を提示する分には、経験提示は話を盛り上げ、聞く側をお得な気分にしてくれる。逆に「こういう例外を経験したことがあります。気をつけて下さい」という体験談は、演者が提示した経験がごくまれな例外なのか、それとも今学んでいるガイドライン自体が穴だらけで信用ならないものなのか、例外の提示だけでは判断できない
  • 例外の経験を提示する際には、たとえば「このガイドラインが想定している疾患に、こうした症状が加わった際にはこんな例外を想像したほうがいい。当院でも2年に1回程度ある」だとか、あるいは「ガイドラインの流れで9割以上の疾患については網羅されているものの、残りの可能性として以下の疾患を考慮しなくてはいけない」だとか、呈示された症例と、講習会を通じて学ぶ一般的な傾向との間に、何らかの橋渡しがあるとありがたい
  • 症例は症例、一般的な傾向は、あくまでも統計的に検証されなくてはいけないもので、ここを安易に「橋渡しする」ことは、マスメディアがよくやらかしては叩かれるやりかたそのままなのだけれど、聞くことしかできない側としては、橋渡しをされて、初めてたぶん、講習会の流れの中で、自分が今聞いた体験談の居場所が定まる。知識の置き場所なんて自分で決めるのが筋なのかもしれないけれど、講習会というものそれ自体、ある程度見知った知識に新しい置き場所を与えるための場なのだから、演者の側に過剰なぐらいのサービス精神がないと、聞く側は案外、物足りなく思う

まとめ

  • 講習会の品質というものには、たぶん「面白さ」と「伝わりやすさ」という側面がそれぞれあって、面白い話は必ずしも伝わりやすさを生まないし、スライドをただ朗読するだけの、面白さを捨てたようなやりかたが、それでも案外伝わりやすくて、聞く側の満足度もそこそこ高かったりもする
  • 伝わりやすさを高めていく際には、知識の居場所をきちんと定めて、聞き手を混乱させないことが大切になる。ひたすら朗読するだけのやりかたは、たとえつまらなくても混乱の余地が発生しないし、脱線したり、あるいは例外経験を挟んだりするやりかたは、面白さを増すための方法としては効果が期待できる反面、もしかしたら伝わりやすさを減じてしまう危険がある
  • 笑いどころではきちんと笑い声を挟んだり、芸人が脱線しても司会者が必ず流れを元に戻す、バラエティ番組のあのぬるい空気は、尖っていない代わり、とても分かりやすい。あれをそのまままねするのは少し違うけれど、「面白い講習会にしよう」という意気込みは、必ずしも「いい講習会」にはつながらないのではないかと思えた

2011.10.04

間違った「論」には意味がある

勉強は大切だけれど、正しい知識だけを積むのは危ない。

武道を学ぶ際には、受け身の学習が欠かせない。正しい知識を学ぶときにも、正しくない知識の受け止めかたを知らないと、学ぶほどに大けがをする可能性が増えていく。

正しいことと説得できること

正しい知識を積んだ専門家が、ある日いきなり新興宗教に目覚めたりすることがある。そういう人は、学んだ経験こそ莫大だけれど、説得された経験を積んでこなかったのだろうと思う。

それが正しいことと、それが誰かを説得する力を持っていることとは、しばしばなんの関係もない。間違った知識に基づいた論理にたくさんの人が説得されることは珍しくないし、正しい知識を持っていることは、そうした説得から身を守るのに必ずしも役立たない。

正しい知識や、あるいは「努力」を積み重ねてきた人が、説得可能性が高い何かに初めて触れるときが危ない。こういう人は、積んできたものが大きくて、説得されると全財産を突っ込んで、後戻りができなくなってしまう。面白そうな言説に少しだけつきあうつもりが、いきなり狂信者に変貌したりするのはこうしたケースで。大学の新学期みたいな場所は、だからこそ危ないのだと思う。

侮蔑はやめたほうがいい

正しい何かを教える際には、たとえば「地動説が証明されました。天動説信じてた奴らは筋金入りの阿呆ですよね」みたいな教えかたをしてはいけないのだと思う。これをやってしまうと、「地動説は、天動説を信じる連中が馬鹿だから正しい」といった価値がすり込まれてしまう。科学的に見て、地動説がどれだけ正しかったとしても、こうした学習を通じて得られた知識は説得に弱い。

ある確信が、異なる意見を持つ誰かに対する侮蔑を根拠になっていることはけっこうあって、こういう人は脆い。

「○○を信じているのは馬鹿ばっかりだ。だから○○は間違っていて、それを叩く自分は正しい」で知識が完結している人には、論争や説得といった手続きが必要ない。説得を試みる側が「いい人」であることを見せるだけで、確信の根拠が崩れてしまう。たまたま知り合った誰かが○○を信じていて、しかも「いい人」だったりすると、侮蔑に基づいた確信はそこで詰む。その人の中に、自身が信じるに足る何かが無かったときには、侮蔑していた○○を信じる輪に加わらざるを得なくなる。その人が正しい知識をたくさん積んできた人ならば、積んだ量がそのまま、狂信のエネルギーに転化する。

自分の考えかたとは異なる何かを叩こうと思ったら、「自分は何を叩けるのか」だけでなく、「自分は何を信じているのか」を、ちゃんと考えておかないと危ない。「好きなもののリストを公開してから嫌いなものを叩け」という原則は、自身の被説得域値を高める上でも意味がある。

「論」には力がある

Web にある短い文章、論というよりもつぶやきに近いそれは、自分が持っている考えかたやものの見かたを補強したり、飾ったりするときの材料になる。「うまい一言」を読むのは楽しいのだけれど、こうした文章の断片は、考えかたそれ自体を揺さぶる役には立たない。

販売されている本の多くは、それを作るのに1年近い時間がかかる。作家と編集者と、1年かけて何をしているのかといえば、作家の生み出した無数の断片を編集して、ひとつの「論」としてまとめているのだと思う。

「論」というものは、ある意図に基づいた編集が行われていて、長い文章が構造を持っている。論はそこだけ取りだして自分を飾るのに使うという用途には不向きで、作者の意図につきあわないと、読むことが難しい。

ひとかたまりの論を読むことは、同時に自分自身が持っているものの見かたを揺さぶられたり、曲げられたり、という体験にもなっている。論として整合性がとれている本は、だから読むのに面倒で、時に苦痛でもあるのだけれど、自分自身の考えかたを、外乱に対して頑丈にする役に立つ。

下らないものには意味がある

教養を身につけようと思ったら、正しい知識を学ぶ一方で、正しくない知識の受け止めかたを知らないといけない。受け止めるためには説得されることが必要で、もっともらしくて、そのくせ間違いだと分かっているような何かに説得される経験が大切になってくる。

下らない脳内妄想にのめり込む「中二病」というものは、そういう意味では本当に「はしか」みたいなもので、誰もがかかるし、また子供の頃にちゃんとかかっておかないと、大人になって大変なことになってしまう。

下らなくて面白いものが、知識を教養に転化してくれる。下らないのに、間違っているのに、どうしてこれは面白いのか。自身が学んだ「正しい」知識に基づいて、そうした「なぜ」を考えることが教養の始まりになるのだと思う。