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2011.09.23

熱心な人は恐ろしい

それが敵であっても味方であっても、正義や熱意で動く人というのは恐ろしい。

損得勘定で動く人なら、立ち位置が異なっても会話はできるし、お互いの行動はある程度読めるけれど、正義や熱意で動く人はまず真っ先に損得勘定を除外するから、何が出てくるのか分からない。

有能な敵は頼りになる

「有能な敵」は、状況によっては味方よりも頼りになる。「無能な味方」は、もしかしたら真っ先に背中を刺しに来る。

倒さなくてはいけない相手だからこそ、抜け目のない敵は相手をよく観察している。観察した相手だからこそ話は通じて、立場は異なっても、ゆがみのない会話ができる。味方を自認する人は、味方であることにしばしば安住してしまう。観察を怠った人は、「あいつならたぶんこうだろう」という予測が外れると怒り出す。味方であったはずなのに。

当直時間帯における頼るべき「有能な敵」は、「見逃すと翌朝までに患者さんが亡くなりうる疾患」のリストに相当する。病気の数は無数だけれど、時間軸を翌朝までにすることで、特定の症状から急変に至る疾患の数を限定できる。原因がこれと定まらないときには、そこに「能な敵がいない」ことをもって、暫定的な「大丈夫」を定義できる。

正義感が背中を刺しにくる

当直時間帯における「無能な味方」は、正義感や使命感の姿を借りる。

「疲れた」だとか「面倒くさい」という感情は、「訴えられたくない」という後ろ向きな気分を捨てない限り、致命的な判断ミスにはつながりにくい。「患者さんのため」だとか、「医療資源を無駄にしたくない」だとか、当直医の頭によぎった道徳や正義が、踏んではいけない地雷を踏ませる。

「ここで頑張って詳細な身体所見を取ることで、血液検査は出さないで返そう」と思うときが一番危ない。うまく回っているときには、そもそも「頑張って」という感覚は浮かばない。頑張るという状態は、すでにして平時でない状況で、そこで浮かんだ道徳の声は、たいていの場合間違っている。「疲れた」だとか「サボりたい」といった怠惰の感情は、力にこそならないけれど、ひどいミスにはつながらない。怠惰を前提とした行動計画を組むことで、怠惰はむしろ強みにすらできる。

若い人が原因不明の腹痛を訴えて、外来で連日点滴、腹膜炎を手遅れにした土曜日の夕方、ショック状態になった患者さんが開業医からいきなり紹介されたりする。原因不明の患者さんを、検査もしないで外来で「頑張る」、ああいう行動は、怠惰や無知、保身の文脈からは絶対にありえない。「やらかす」人は恐らくは熱心で、それを正義と信じて、あえて地雷を踏み抜いているのだと思う。

道徳と損得とは両立しうる

研修医の昔、病院長からは「お金を稼げる医師になりなさい」と習った。誰もがどこか過剰な、教育熱心で暑苦しい病院だったけれど、研修医はそれでも、「いい医師に」とか「正義の医師に」とか、そういう指導は受けなかった。当時はよく分からなかったけれど、今にして思えばそれが正しいのだと思う。

やりがいとか使命感、道徳や正義を研修医に強要する人は、教育の場から離れたほうがいいように思う。「熱心な医師」は「致命的な誤りを前に止まれない医師」であることが多くて、そういう人と働くと、勝手に起爆装置入れた地雷をこっちに放り投げてくるから、おっかなくてそばに寄れない。

これが研究者ならまた異なってくるのだろうけれど、臨床を安全にやっていく上では、「後ろ向きに抜け目なく」という態度がいいのではないかと思う。患者さんに関わる誰もが「保身第一の屑野郎」ばかりになるだけで、回避できる医療事故はけっこう多い。

「損得で行動しろ」という教えは、「道徳を無視しろ」という教えとは全く異なる。道徳は、「得」を獲得しに行くときにはとても役に立つ道具になるし、道徳を外さず行動することで目先の得を逃がしても、将来的に大きな得を獲得できる可能性を高めるのなら、そうした行動は損得勘定においても正しい。

まず損得を勘定してから道徳を行使するのなら問題はないのだけれど、順番が逆転するのが恐ろしい。まず一番に正義や道徳が来て、損得を敵視するような考えかたや教えかたは、「道徳や正義は立場によってまるで異なってくる」という当たり前の前提を無視してしまう。

「正義は地理から自由になれない」という地政学の考えかたには納得できる気がするし、「普遍的な正義がある」という考えかたは、いろんな人を不幸にする。

熱心な医師であろうとするならば、熱心の取り扱いにはせめて習熟してほしいなと思う。

2011.09.21

「普通」の標準偏差

「守り」のことを考えた際には、デモ行進や不買運動といった集団活動と、サービス業における接遇対応とは、注意すべきポイントが似かよってくる。

印象は裾野が決める

デモ行進のようなアピール活動を、「普通に」行うことはとても難しい。訴えたい何かがそこまで極端なものでなくても、集まった人の大半が、無難なやりかたをしていても、報道されたり、写真に撮られたりするのは一番過激な誰かであって、集団の訴えとして取り上げられる声もまた、一番極端な誰かが全体の印象を決定してしまう。

正規分布の中央部分に相当する人たちがどれだけの高みを目指しても、印象は裾野を受け持つ誰かが決める。デモの意志に反対したい人も、それを面白おかしく取り上げたい人も、注目は裾野に集中する。大多数が受け持つ「平均」を見てもらおうと、裾野にいる誰かを、「裾野である」ことを理由に切断すれば、今度は集まりの大義が失われてしまう。

正義の旗印で人を集めると、参加者は「頑張り」を表明するために、しばしば過激さに向かった競争を始めてしまう。単なる行動が暴力になり、公共物を破壊してしまったり、誰かが暴行を受けたりすると、無難を受け持つ大多数の参加者はスローガン自体を嫌いになって、集団は自壊してしまう。

集団行動の危機管理

様々な人を集めて何かを訴えたり、あるいはサービスを提供したりする際には、極端な人の扱いかたが問題になってくる。平均を受け持つ大多数の頑張りは、行動の効果にこそ貢献するけれど、その行動が他の人たちにどんな印象を持って受け止められるのか、印象形成には、そうした頑張りは必ずしも役に立たない。

サービスの印象は、最もうるさい顧客と、最も練度の低い窓口とが出会ったときに決定される。評判を高めようと思ったら、最高をもっと高めるよりも、最低を底上げするほうが役に立つ。同様に、「最高でありすぎる」誰かもまた、しばしばサービスの意味を根底から揺さぶる原因になる。裾野の誰かが生む印象は、すばらしすぎることもまた災厄を生む。利害の異なる誰かが、礼儀正しい集団を叩きたかったのなら、相手の訴えを正面から叩く代わりに、相手の集団に「極端な裾野を付け加えてしまう」というやりかたが、攻撃手段として有用になる可能性もある。

集団行動の危機管理を考える上では、振る舞いの標準偏差をどこまで小さく追い込めるのかに気を使わないといけない。トップがどれだけすばらしい活躍をしても、分布の裾野が広すぎてしまうと、リーダーには印象のコントロールができなくなってしまう。そこに集まった一番極端な誰かが全体の評価を決めて、大多数の頑張りは、もしかすると意味を失ってしまう可能性もある。

偏差を減らす試みについて

有志の集まりは切断できない。「ある大義に賛同すること」が集まりの前提であった場合に、誰かを「極端だ」という理由で切り離してしまうと、集まりの大義が崩れてしまう。

サービス業の接遇対応においては、「お客さんと対応する人に名乗ってもらう」ことが行われる。名乗ることで、「群衆」は個人の集まりに解体されて、群衆がしばしば失う細かい気遣いが、失われず保たれる。

軍隊が戦争を行う際には、「交戦規定」というものが共有される。交戦規定というものは「大義を行動で記述したリスト」であって、何をやるべきなのか、何をやってはいけないのかが明確になることで、それを守らない「よくやり過ぎる」兵士を、集団から切り離すことができる。

集団行動と対峙する側は、最も極端な反応をした誰かを捕まえて、「あの集団はこんな人ばっかり」と嘆いてみせる。それが極端であるほどに、「こんな人」扱いされたくない多数が抜けて、集団は瓦解する。そうした裾野の運用を避ける意味でも、偏差を減らす試みというものは、もっと考えられなくてはいけないのだろうと思う。

「それしかできない」ことは強みになる

極端な人を生み出さないという意味で、amazon のコメント欄を使った不買 (?) 運動というものは、やられる側にとっては極めてやっかいなものになる。

コメント欄にどれだけ悪口を書き込んでも、見ない人は見ないで買うから、デモ行進みたいなやりかたに比べれば効果は限定されるけれど、「コメント欄に書くことしかできない」という制約は、「極端な誰かの印象で全体を語ってみせる」というやりかたが成り立たない。行動を受ける側からすると、反撃の糸口がどこにも存在しないから、数と期間が効果に正比例してしまう。

叩かれた会社の側が何かの反応を返してしまえば、「効いた」となって敵を増やしかねないし、スルーを決め込むと、ガードの上から体力を削られる。会社の危機管理担当の人は、たぶん大変な思いをしているのだろうと思う。

2011.09.04

問題と向き合う態度について

それが勉強であっても遊びであっても、何かの問題に対峙したときには、まずはその問題とどう向き合っていくのか、自分の覚悟というか、計画を「これ」と定めておかないと、努力を積むときの効率がずいぶん変わってくる。

人間の先を超えた人

難しすぎて、人間には攻略不可能なんじゃないかと言われていた「怒首領蜂 大往生 デスレーベル」をクリアした人のインタビュー記事 が興味深くて、未だによく読み返す。

ゲームを攻略するときには、「リソース管理」と「クリア計画」という考えかたがあって、自分にはとても新鮮なものたに思えた。

<引用>

クリアの計画とは普通のシューティングゲームを攻略する場合に使う大局的な考え方で、コンティニューしても何でも良いのでとりあえず1回ラスボスを拝むところまでプレイした後に、ラスボスを倒すためには何が必要かを見積ります。

具体的には、まずラスボスを確実に倒すためには残機が何機必要で、ボムが何個必要……と条件を設定します。次に、それだけの残機とボムを残すためには、そこまでのプレイでどれだけ消費できるのか、使える残機とボムの数を1面から計画していくのです。

<ここまで>

こうした考えかたを、たとえば学校で習っていれば、受験勉強のやりかたはずいぶん変わったのではないかと思った。

努力にも積みかたがある

受験専門の私学に通っていたけれど、勉強はやはり、努力を重ねるものだった。

授業の内容や、受験の指導それ自体は受験勉強に特化したものであったし、学期の最初には、先輩方の受験体験記も配られた。それはとても貴重な資料であったし、結果として自分は大学に入ることができたけれど、受験体験記に書かれていたのは努力を継続するコツやノウハウであって、目標達成のためにはどういう計画を立てるべきなのか、自分に足りない部分をどうやって発見すればいいのか、計画のたてかたや、見直しのタイミングといったものは書かれていなかったし、そもそも「問題解決のために計画を立てると便利だよ」という考えかたに、触れる機会が得られなかった。

医師国家試験の昔だって、基本的には努力と蓄積だった。国試は暗記量が莫大で、努力継続のために勉強会形式をとり入れることが、当時の工夫と言えば工夫だったのだけれど、今にして思えば、受験勉強にしても、国試勉強にしても、自分には計画というものがなかったし、勉強こそ重ねたけれど、今の自分にとって何がたりなくて、それをどう補うべきなのか、そうした見直しも行わなかった。

それが受験勉強ならば、「受験に合格」という目標を達成するために、そもそもどのぐらいの知識が必要になるのか、それをいつまでに達成していれば足りる物なのか。「成績を出す」とはそもそも何をすればいいのか、自分の成績がある状況に置かれた場合に、そこから「合格」という行程を確実に達成するには、最高到達点を高めることが正しいのか、それとも取りこぼしを少なくするのが正解なのか、そういう選択があることも知らないまま、そういえば昔は、努力を重ねた。

結果は神様から与えられるもので、努力というのは無目的に積むもので、結果にたどり着くための手段にはなっていなかった。

偶然と無作為とは違う

大昔、自分にとって受験というのは運だった。努力の蓄積は、あくまでも自身の心を落ち着かせるための薬みたいなもので、合否の決定は最終的に、運が決めるものだと考えていた。体感としてそれは間違っていて、勉強しないで「運だけで」合格する同級生はいなかったけれど、勉強を一生懸命行って、それでもなお、運悪く落ちる同級生はたしかに存在していた。

結果が偶然から自由になれないことは、結果が無作為であることを意味しない。

<インタビューより引用>

たとえば、ある攻撃を超えられる確率が10分の1だとして、同じような攻撃が10箇所あると考えると、全体を突破できる確率はとんでもなく低い確率になってしまいます。でも仮にその内の9箇所の攻撃がパターン化可能なものであるならば、突破確率は10分の1という、手の届く範囲にまで上昇します。

シューティングの攻略で重要なのは、パターンを作ることで「いかに不確定要素をつぶしていくか」という点なのです。

<ここまで>

努力を積んで、「努力すれば神様はそれを見ていてくれる」という考えかたは、どこかで勝利を放棄している気がする。結果を必然にすることはできないにせよ、努力にはたしかに意味があって、その代わり、意味を持たせるためには計画がいる。

学校で行われていたこと

リソース管理の考えかたは、ゲームセンターに通っていれば当然身につかないといけないのに、小学校から高校生まで、ゲームセンターには日参していたのに、自分にはついに学ぶ機会がなかった。目の前ではたぶん、たくさんの名人がクリア計画のもとに成果を上げていたはずなのに、自分は見るべき何かを見ていなかった。インタビュー記事はそういう意味で、気付きが大きかった。

自分が通っていた学校には、じゃあそうした「リソース管理」の考えかたがなかったのかといえば、そんなことはなかったのだと思う。

当時の生徒指導では、たとえば「社会科にリソースを割けるのならば地理を選べ。100点が狙える。倫理政経は勉強しても80点止まりだけれど、勉強しなくても70点取れる。お前は理科に全力投球して、社会科は倫理を選択しなさい」とか、そういうアドバイスはもらっていたから。

学校では、「リソース管理というものがある」ということこそ習わなかったけれど、具体的な配分は指導してもらえた。

応用から基礎を見いだすのは学生の仕事とは言え、当時手取り足取りリソース配分調整してもらったくせに、大学に入って、じゃあ自分がリソース配分考えながらいろいろできたかといえば、全然そんなことなかった。 考えかたというものは、名前を付けて初めて見える部分が少なからずあって、リソース配分の考えかたとか、終わりから逆算して不確定要素を減らす考えかたとか、自分はある程度身についていたにせよ、それに名前をつけて意識できるようになったのは、ごく最近のことだった。

今やっていること

昔出版させていただいた内科診断の本は、今でも手元では改訂が続く。自分にとっての勉強は「教科書の改訂」とほぼ同じ意味で、あの本はだから、普段の自分が問題とどう向き合っているのか、それを表現したものにもなっている。

分厚い教科書をひたすら読む、知識を詰め込むというやりかたは、いざ何かの問題に当たったときに、せっかく獲得した知識を役立てるのが難しい。ひたすら頑張るやりかたは、「俺はこれだけ頑張ったんだ」という信仰の基礎になることはあっても、それを使って何かの目的を達成していく上では、やはり効率が悪くなってしまう。

ある問題に対して、自分はこういうやりかたでそれに臨もうという計画や、問題と向き合う態度をこれと決めると、これから摂取する知識がその計画のどのあたりに役に立つのか、どの場所におさめるべきなのかが決まる。ある問題があって、その知識が役立つまでの道筋が明らかになる。

「学んだ知識が役に立った」という体験は、学習に対する報酬になって、勉強が長続きする。勉強が修行であった人は、ある問題を乗り越えて以降、もしかしたら勉強を放棄してしまう。努力して免許を取って、それ以降の勉強量が落ちてしまうという問題は、あれは熱意の枯渇というよりも、賞賛の喪失が原因なのだと思う。

努力にも積みかたがあって、ゲームのルールは各自が見いださないといけない。いいゲームをデザインできた人は勉強が賞賛を得る機会になるし、賞賛する仕組みをたくさん作り込んだゲームはさらに遊ばれて、いい循環を生む。

学校ではそんなことを教えてほしいな、と思った。