Home > 8月, 2011

2011.08.28

「できない」がチームを作る

チームを作って何かするときに大切なのは、「できない」ことの把握なのだと思う。誰もがたぶん、何らかの「できる」を持ち寄ってチームを作る。「できる」はもちろん大切だけれど、お互いの「できない」を共有することで、個人の集まりははじめて、チームとしての機能を獲得できる。

神経内科は怖かった

今いる施設にはいろんな患者さんが紹介されて、自分の手に負える患者さんもいるけれど、もちろんそうでない患者さんも多い。特に神経内科方面の症状を訴える患者さんが紹介されて、頭部の画像診断で、少なくとも素人目には明らかな問題がない場合には、うちの施設ではほとんど「お手上げ」になってしまう。

県内には神経内科を標榜する施設がいくつかあって、大学にはもちろん医局があるし、外来を持っている施設も、神経の専門を掲げている施設もあるのだけれど、「こんな患者さんがいるのですが、診療していただけないでしょうか?」なんてお願いすると、「僕にはそれが、どうしても神経疾患には聞こえないんですけれど?」とか、電話の対応が怖かった。

どこの施設も、看板こそ神経内科ではあるけれど、たとえばベッドがごくわずかしかないだとか、その人は虚血が専門で変性疾患は不得手であったりだとか、それぞれに固有の「できない」を持っていて、それが理解できるのに結局5年ぐらいを要した。

断られた昔、もうこの県内では「断る」ことでしか患者さんを専門施設に送り届けることはできないんじゃないかと考えていたのだけれど、「できない」がある程度分かるようになってから、ようやくたぶん、病院同士の連携というものが、強引にでも回せるようになってきた。

10徳ナイフは難しい

「無人島に持って行く」という条件を付けると、素人は10徳ナイフを選択して、登山のプロは、たぶんシンプルで丈夫なナイフを選ぶ。

10徳ナイフには様々な機能が備わっているけれど、たいていの機能は、ナイフがあれば事足りる。はさみがなくても紙は切れるし、缶切りがなくても、ナイフの刃が十分に丈夫であれば、たいていの場合用が足りてしまう。ナイフには「できないこと」があまりないから、結果として10徳ナイフは、「不便な単機能ナイフ」として酷使された結果、壊れてしまう。

たくさんの機能を持った道具を使いこなすのは難しい。10徳ナイフには様々な「できる」が備わっている代わり、ある状況においてどの「できる」が最もふさわしいものなのか、ユーザーは自分で考えないといけない。「できる」の範囲は案外広くて、判断はしばしば重たい。単機能で丈夫な何かを工夫するのと、多機能の道具を使いこなすのと、漠然とした使いやすさは、機能の数に逆比例することが多い。

「できない」で連携する

警察が人質交渉を行う際には、「交渉人」と「指揮官」とがチームを組む。チームには「交渉人は判断を行わない」、「指揮官は交渉を行わない」という原則があって、お互いに「ない」を持ち合うことで、チームには優れた連携が備わるんだという。

「ある」を使って同じことを目指すと、「交渉人は交渉を行う」こととなり、「指揮官は判断を行う」という、ありきたりな分業ができあがる。ところがこのルールで交渉に臨んでしまうと、ならば交渉人が判断を求められたときに、どうしてそれができないのか、あるいは逆に、指揮官自らが、相手からの交渉を求められたときに、どうしてそれを断れないのか、分業のポリシーからはそれを説明できないから、チームは混乱して、ルールでは混乱を収拾できなくなってしまう。

同じことは複数の道具を使う際にも言える。この道具はこのことができない、この道具はこのことができないという具合に、「ない」を使った道具の連携に失敗すると、それは「使い勝手の悪い十徳ナイフ」になってしまう。

たとえばスイスアーミーナイフの虫眼鏡は丸くデザインされていて、厚ぼったい。「レンズは刺したり切ったりできないし、隙間をこじることもできないよ」というメッセージがデザインに込められていて、迷わない。キリは細くて華奢で、たいていは握りの真ん中から立ち上がるように作られていて、あれをナイフの代わりにするのは難しい。

多機能ナイフはそうすることで、小さな刃をキリの代わりに使われて折れてしまったり、レンズで隙間をこじ開けようとして割れてしまったりといったトラブルを回避している。同時に「できない」をデザインに組み込むことで、ユーザーはたぶん、機能の重複から来る迷いが減って、たくさんの機能を持った道具を、いくらかでも使いやすく感じることができるのだと思う。

ネットサービスはどうなのか

たとえばTwitter にできることはシンプルで、とにかく字数制限がついた書き込みをひたすらに重ねていくこと以外、ユーザーには何もできない。検索も今ひとつ当てにならないし、過去ログを掘るのも難しいのに、Twitter を、あたかも自分の日記みたいに使う人はけっこういる。

blog サービスを自分のホームページとして使っている人は多い。基本的には日記帳だから、記事はどうしたって時系列に並ぶことになるけれど、「2100年」みたいな未来の日付でページを作って、その記事をホームページの看板のように使っている人も多い。

コミュニティを作りたい、自分の日記に看板を出したい、何かを販売してみたい、日記を書いて発信したい、様々な機能を最初から全部提供できるサービスはたしかに便利なのだけれど、機能の数と使い勝手は逆比例して、ユーザーは迷うのではないかと思う。

たとえばULOG のサービスには、「ブログ」と「日記」、「チャット」と「コメント」というものが、それぞれ独立した機能として備わっていて、どれも同じぐらいに高機能で、たぶん「できない」ことがない。これは長所でもあるのだろうけれど、逆に言うといくつもの機能を使い分けて、お互いを連携させる動機を生まない。Web の記事には「題名」と「日付」、「本文」、「URL」という役割が備わっているけれど、それぞれに「できない」を付加すると、使い分けと連携が容易になるのだと思う。

たとえばこんな実装はどうなんだろうか?

  • 「ブログ」は題名をつけることができるけれど、日付を記録することができない。サーバーサイド、ユーザーサイドで日付を管理するとはできるにせよ、読者の側から、少なくともサービスの内部からは、それが書かれた日付を知ることができない
  • 日記は逆に、自動的に日付が記載される反面、題名をつけることができない。題名が必要な、時間軸を超えた記述については、必然的にブログを選ばないといけない。日記はその代わり、日付でサービスを横断することができて、その日に書かれた日記を串刺し検索することができる
  • チャットには文字列を記載できるけれど、パーマリンクが付加できない。ユーザーサイドにはログが残るにせよ、読者の側から見て、過去ログを掘ることはできても、特定のつぶやきに対してコメントを残したり、そこだけをURLとして切り出して、他のサービスで引用したりすることはできない
  • コメントには日付とURL、引用先文章の題名が付記されるけれど、文章のトップには常に誰かの書いた文章がくる。自分の言葉だけ、単体としてのコメントというのはありえない

お互いの機能がじゃんけんのように 3すくみ、4すくみになった構造をしていると、使い分けの動機が生まれて、単なる高機能ではない、多機能ならではの論拠になるような気がする。「できない」の実装はその代わり、今度は機能を削ることになるから、今までできたことがどうしてできなくなるのか、それを使いにくいと感覚する人が出るかもしれない。

2011.08.25

会見記事を読んだ

島田紳助の引退記者会見 を文字におこしたものを読んだ。

一連の事実がきれいな物語として報告されて、きちんと管理された事実のみをを前提にした、突っ込みどころの少ない、自身が頭を下げる必要のない見解を組み立てているような印象を持った。

きれいな物語は何かが欠落している

語りたくない不都合な事実があったり、事実関係に何らかの瑕疵があったりするときほど、物語としての事実はきれいに、一貫したものとして語られることが増えてくる。

事実が自分でも管理できていない場合、通信のログが保管されていないとか、事実関係が曖昧で、証言の収拾もまだ十分に行われていない場合には、一連の事実を物語のようにつなげようと思っても、うまくいかない。話は必ずグダグダになるし、物語には「詳しくは覚えていないのですが」とか、「昔のことなので記録は残っていないのですが」とか、たくさんの但し書きが入ることになる。

語る側が隠さなくてはいけない何かを持っていない場合、相手がその部分についての詳細な記録を発見することができれば、それが物語の見通しをよくすることに貢献する。突っ込みどころの多い、整っていない物語というものは、裏を返せば物語る側に、そもそもリスクを冒してまで隠蔽すべき何かが無い可能性が高い。

語る側が、事実の瑕疵を見解の堅固さで補強しようと試みるとき、物語は磨かれることになる。事実のピースがいくつか抜けているにもかかわらず、物語は逆説的に、欠落など最初からなかったかのように、無理のない、きれいに過ぎるものに磨き上げられる。

きれいにすぎる物語というものは、聞き手による「新しい事実によって明快になる要素」を、暗黙のうちに拒絶している。あの記者会見は、そういう意味でスムーズに過ぎて聞こえた。

見解のコントロールと事実のコントロール

話者と聞き手との間である事実が共有されて、今度はお互いが、その事実を地盤とした、それぞれの見解を作ることになる。見解を強固なものにするためには、その土台となる事実を強固にしなくてはいけない。一貫した、ぶれの無い見解を語ろうと思ったら、なおのこと事実のコントロールを確立することが大切になる。

記者会見において、物語は「こういう事実があった。自分はそれを認める。自分の認識に照らして後ろ暗いことはなかった。ところが会社からそれが違法と聞かされた。お互いの認識が異なっていた」という論理で一貫していた。

物語は通常、いくつかの事実が出会うことで幕を開ける。一連の事実を体験した結果として、話者の見解は、時系列に従ってその形がはっきりしていく。話者の見解が「これ」という実体を持ったその時点で、過去との整合性が取れないのはむしろ当然であって、最初から一貫した見解を持って事実と対峙できる人がいたとしたら、むしろそれは不自然だと言える。

会見記事では、出会いの当初から一貫した見解が語られていた。あれはだから、確立した見解に整合するように、体験した事実に対して再構築を行っているように思えた。

再構築された事実関係と、それに基づいた見解との組み合わせは、「事実の真実性が管理されている」という前提において強固であると言える。あの場で語られた様々な事実について、話者は嘘をついていない、少なくとも語られた事例についての調査を行っても、話者の見解を崩すような矛盾は出てこない可能性が高い。会見の席では、過去のトラブルであったり、今も終わっていない訴訟の話にも触れられた。本筋にはあまり関わってこない、痛い腹をあえてさらけ出してみせるあの態度もまた、自身の語った範囲において、事実のコントロールがきちんとできていることの現れなのだと思う。

見解の崩しどころは語られなかった部分にある。あれだけ一貫性を強調するやりかたをすると、矛盾した事実が出てくれば見解が瓦解してしまう。語られた事実を時系列に、時の軸を等間隔の目盛りで区切ると、どこかに空白があるはずだから、その時期にどんなことがあったのかを詳しく調べると、何か出てくるんじゃないかと思う。

損得勘定と正義

島田紳助の見解は、損得勘定で行くとむしろあえて損を取っているように思えた。あれがどうしてなのかよく分からなかった。

「当初から一貫した態度の元に行動した。その態度が間違っていたことが最近分かったから責任を取って引退する」という論理はきれいに過ぎる。もっと無難にやるなら、「最初は出会いが楽しかった。それが業界的に黒だとうすうす気がつきながら、やめられなかった。ずるずるここまで来て、いよいよそれが黒だと思い、上司からそれを指摘された。自分が間違っていた」という論理になる。このほうが傷口を小さくできる。

「人間の謝罪」と「システムの謝罪」というものがあって、同じ謝罪や反省であっても、意味合いや受け止められかたがずいぶん異なってくる。

「自分の認識が変化していく中で、現在の自分から見て過去の自分が間違っていた」という持って行きかたをすると、そこで人間として謝罪する機会が生まれる。謝罪の会見は通常、「システムは間違っていなかった。人間の側に油断があった」という落としどころを目指す。本来の原因がシステムの瑕疵であったとしても、あえて人間の側に謝罪の主体を持ってくることで、システムを守ることができる。コストを低く抑えることができるし、人間が頭を下げるから、追及の手を断つこともできる。

「自分は正しいと思うことをしていた。業界の正しさと、それは相容れなかった」という持って行きかたは、業界のシステムに対して、自身のシステムが敗北を認めた、という謝罪をすることになる。これは同時に、システムの改変を宣言することにつながる。人として謝罪しているわけじゃないから、システムを改良する行程は検証されて、追及の手はむしろ深くなるし、「システムの謝罪」を行った人は、それを断る根拠を失ってしまう。ミスを防ぐ観点からはこのやりかたのほうが正しいのだけれど、高コストで「しっぽ切り」ができないからこそ、このやりかたは選択されない。

道徳や正義が先走ると、損得勘定が後回しになる。損得勘定を優先することと、正義を無視することとは全く異なった考えかたで、自らの側に正義を持ってくることは、最後に大きな「得」を獲得する際、状況を有利にしてくれる。損得勘定と道徳律とは両立できる考えかたなのだけれど、正義を先に走らせると、2つの価値はむしろ対立するものへと変わってしまう。正義が前に立つ人の判断は、だからこそ恐ろしいのだという。

正義は人によって大きく異なる。大切だけれど届く範囲が狭いからこそ、「損得勘定は我らの共通の言葉。それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」という原則が生きてくる。損得勘定を後ろに回す人はしばしば、違う誰かに同じ正義を仮想する。仮想が間違っているわけだから、それが争いの種を生む。

あえて損を取ってでも、トラブル収束の可能性が遠のいても表現したかったものが正義なのだとしたら、会見で述べられた話者の見解は、あれはあの人にとっての正義であったのかもしれない。

いろんな意味で、不思議な印象の会見だった。

2011.08.24

価値の判断は面倒くさい

「それが自分にとって面白いのかどうか」を判断するのは面倒な仕事で、人間は、その気になればどこまでも怠惰になれる。

流行しているサービスや、景気の悪いときでもお金を生んでいる産業というものは、そうした面倒くささを回避する仕組みを持っている。顧客から判断の機会を奪うことが、結果としてお金を生むことにつながるのだと思う。

楽は楽しい

たとえば早朝の時間帯、当直の起き抜けは、自分の頭が一番働いていない瞬間の一つであって、本を開いたって何一つ頭には入ってこない。

ネットを見たところで、状況はそんなに変わらないのだけれど、たとえばTumblr みたいなサービスは、頭がどれだけ回っていなくても、それなりに文章を追っかけられて、何かを楽しんだ気分になれる。

Tumblr のダッシュボードには、自分以外の誰かが「これは面白い」と判断した文章の断片が、自動的に更新されていく。文章は抜き書きみたいなものだからたいてい短くて、自分と好みの似ている誰かが面白いと思った文章は、自分が読んでもやっぱり面白い。何よりもTumblr みたいなサービスは、「これから読む文章はたぶん面白いんだろう」という先入観で文章を読むことができて、それが裏切られる確率が比較的低いから、価値判断のコストが低い。

Twitter のタイムラインには、面白いと思ったり、有名な人だったり、見知ったID に紐付いたつぶやきが並ぶ。つぶやきの面白さではなく、つぶやいた人の顔を想像しながら読む要素のほうが高いから、タイムラインを追っかけているときには、自分はやっぱり、価値の判断を行っていない。

2ちゃんねるのまとめサイトは、編集した人の意図に沿った書き込みは赤の大文字で、それに対する誰かの反応や、笑う場所、怒る場所にはそれと分かる編集が為されているから、どこで笑えばいいのか、どこで共感し、どこで怒ればいいのか、字面を追っかけるだけで分かる。読者は何も判断しなくても、掲示板の雰囲気を追体験できて、読んでいてあれは、とても楽に思える。

「楽なこと」と「楽しいこと」とはだいたい等しいのだと思う。

価値の判断を代行してくれるサービスは、「有用な内容がない」なんて叩かれることも多いけれど、叩かれるほどに人が集まる。2ちゃんねるのまとめサイトなんかは、あれだけ叩かれても、それでもやっぱり気楽に読めるし、それを読む気楽な数分間は、やっぱり感情として「楽しい」と言っていいような気がする。

個人的には、だから判断というのはとても面倒な仕事なのだと思う。自分が好きだと思ったものを、好きなように読めば楽しいはずなのに、「お前はこれが好きなはずだ」と、他の誰かから「好き」を押しつけられると、それは本来不快を感覚しないといけないものなのに、判断仕事量が減った分だけ、それが「楽しい」と感覚される。お笑い番組の笑い声なんかもそうだし、ニコ動で、実際におきた悲惨な事故に笑い声を重ねる不謹慎動画なんかを見ても、たしかに頭のどこかで「これは面白い」と感覚する。「楽である」ことは、「あの体験は楽しかった」と、いろんなものを事後的に正当化してしまう。

生データは面倒くさい

判断に要する仕事量と、「退屈だ」という感情とは、たいていの場合比例する。

編集者の意図が排除された、偏見のない生データは、そこに書かれたデータが自分にとってどういう意味を持つものなのか、いちいち自分で考えて、判断しないと使えない。仕事量は増えて、結果として、どうしてもそれを退屈だと感じてしまう。

本を買って読むときには、どれだけ有名な賞をとったものであっても、それが自分にとって面白いのかどうか、常に判断しないといけない。ネット上の文章ならば、今は評判を序列にする仕組みがたくさんあるから、評判のいい場所から読むことだってできるし、「この文章は自分と好みの似ている○○さんが推していた」という先入観を持つことだってできるのだけれど。

決断力のある人なら、最初の数ページを開いただけで「こりゃ駄目だ」なんて本を投げられるかもしれないけれど、自分にはもったいなくて、なかなかそこまでできない。結果としてたいてい、どうしてこの本は自分に響かないのか、それは自分が悪いのか、それとも作者の人が悪いのか、悪いのだとしてそれは技術の問題なのか、あるいは正義や倫理観の問題なのか、悩みながらページをめくることになる。

読みやすいといわれているライトノベルみたいなものにしたところで、最初の数十ページを読むときには疲労する。果たしてこれが自分にとって面白い物語になるのかどうか、世界観を受け入れて、あとから「面白かった」という感覚が得られるのかどうか、このときばかりは考えるから。

面倒で面白いものは大事

読みやすさをどれだけ工夫しても、それが本である限り、「それが面白いのかどうかを自分で判断しないと楽しめない」という制約からは自由になれない。それは本というメディアの限界でもあるし、こうした面倒なメディアを、それでも摂取していかないと、判断をする力というか、判断を続ける持久力みたいなものは、だんだんと衰えてしまうのだろうと思う。

「楽」と「楽しい」を重ねていくと、判断はたぶん、ますます面倒なものになっていく。インターネットには「楽」を提供する仕組みがたくさんあって、判断しないで文字を追っても、時間を潰してそれなりの満足を得られるけれど、面倒なメディアからは足が遠のいてしまう。インターネットのテキストは「楽」でないと読まれないしから、読者に判断を要求する文章は少なくて、基本的に誰かの追体験で書かれた記事が多くて、実際にある程度の量を読むまで面白いのかどうかが分からないひとかたまりの文章は少ない。

面倒なメディアは、本屋さんや映画館の中には存在しているけれど、ネットにはなかなか出てこない。このあたりがまだ、インターネットには欠けている部分でもあるし、斜陽化しているなんて言われている出版社という存在は、まだまだネットの地図を書き換えられるぐらいに膨大な、得難いコンテンツを持っているのだと思う。

2011.08.14

曖昧さという対立軸

上司にとって、曖昧な指示は武器になる。

「臨機応変に」やってくれだとか、「患者さん第一に現場の判断で」考えろといった指示を出すことで、上司は部下に対して「当たりくじだけ持ってこい」と命じることができてしまう。

あいまいさは便利

成果を厳しく問われない場所ならば、曖昧な指示は武器として役に立つ。無難なくせに内容のない、耳あたりのいい言葉を運用すると、上司は責任を回避しつつ、部下の成果を独り占めできる。

部下の側が曖昧な指示に抵抗しようと思ったら、「自分では無能すぎてこのケースを判断できません」という立ち位置で、全ての判断を上司にゆだねることになる。現場の誰もが無為に立ちすくんで、上司は無能な現場を叱って、組織の空気は悪くなっていくけれど、部下の側が結束している限り、上司はまともな指示を出さざるを得なくなる。

ピラミッド型の組織において、部下の数は上司よりも多い。現場の結束は、「まじめな」誰かの裏切りによって壊されて、「臨機応変に」やれという上司はたいていの場合、その場所に安住できてしまう。

厳密な判断に脆弱性が生まれる

弱い立場の側が、強い立場の誰かに喧嘩を仕掛ける際には、「判断の基準を厳格にして下さい」という方向で攻めるのが有効な手段になってくる。具体的には、あなたの判断は曖昧な根拠に基づいているから信頼できない、もっと厳密な判断の基準を示してほしい、という攻めかたになる。

良い悪いの議論は、水掛け論になってしまう。悪と叩かれた強い立場の人たちが、「私はそれを良いものだと考えています」と表明してしまうと、議論はそこで膠着する。停止のダメージはゼロだから、立場の高低が勝敗を分けて、結果として立場の弱い側は勝てない。

良い悪いという価値軸ではなく、「もっと厳密に」とか、「それは曖昧に過ぎる」という指摘を行うと、水掛け論を回避できる可能性が高まる。「厳密」にしても、「それは見解の相違だ」と返されると厳しいけれど、「根拠を示して下さい」と質問されて、それを無視することは、ダメージを受け入れることにつながる。

曖昧な部分が少ない、厳密な根拠に基づいた判断を行うということは、相手に対して脆弱性をさらけ出すこともつながる。厳密な基準に基づいた判断を貫きます、という立場を表明してしまうと、その人の振る舞いは予測可能なものになってしまう。その人に突きつける証拠を吟味することで、あらかじめ「これ」と定めた結論を言わせることが容易になってくる。

相手の厳密を運用する

「厳密」が、強い立場の側から宣言された段階で、いくつもの攻め手が生まれる。その人が過去に行ってきた判断は、新しい厳密な基準に基づいて検証されることになるし、あるいは逆に、「私たちはこんな証拠を持っています。判断して下さい」と、相手の判断回路を利用して、攻める側に有利な結論をその人の口から言わせることもできてしまう。

医療の業界におけるEBM、証拠に基づいた医療という考えかたは、そういう意味での成功例なのだと思う。医師の側がそれを認めて、「論文で検証されたやりかたを自分の直感よりも優先させよう」と表明して以降、今までは「弱い」立場であった製薬メーカーの人たちは、「こういう論文が出ました。あなたはこの薬を使うべきです」という、広告というよりも命令に近いパンフレットを持ってくるようになって、「証拠」を添えられた薬が販売されれば、現場はそれを使わざるを得なくなった。

判断の厳密性が宣言されてしまうと、議論のルールは大きく変わる。水掛け論で時間切れを狙う勝利戦略は通用しなくなる。立場の高低も事実上失われる。必要なのは証拠の量と資金力で、資本をそこに集中できる側が、ほぼ確実に勝利する。

用意できる資本が少なくても、目的を限定すれば、投資に見合った効果は回収できる。「どんな病気にでも効く」薬の効能を証明するのには莫大な資金がかかるけれど、特定の疾患の、特定の時期にだけ効く薬の効果なら、比較的少ない資金で証明できて、証拠ができたその薬は、特定の場所における必然として使われることになる。

効果をふくらませるのに必要な資本は、たいていは強い側から徴収できる。医療を動かすのもそうだし、役所や大企業を動かす際にも、恐らくは同じやりかたが応用できる。

手続きのコストを考える

武道で技をかけるときに、相手を崩して、柔らかい体を棒のような状態に持って行くのが肝心なんだという。一度相手を固くしてしまえば、あとは崩して投げられるのだと。立場が強い人たちの強みというものも、そうした柔らかさに似ているところがあって、判断から柔軟さを追放できれば、操作はそれだけ容易になっていく。

「厳密なのはいいことだ」という価値軸に反論するのは難しい。柔軟さにあぐらをかいていた側は、一度それが破られてしまうと、どんどん厳密に、厳密な方向に押されてしまう。強かった側は厳密に潰されて、厳密から自由な人たちは、小さく手広くお金を奪っていく。

テレビ局に圧力をかけようと思ったのならば、社会の公器を自認するところから「これを報道する、これを報道しない、の根拠を公開して下さい」という攻めかたをするのがいいのだと思う。判断の根拠が提示されたその段階で、今度は「じゃあ条件に合致したこれを、取材の上報道して下さい」と持って行くといい。

そうした何かが報道されることはたぶんないけれど、報道する、しないの交渉のテーブルを相手が設けてくれたその段階で、すでに大きな譲歩を勝ち取っているわけだし、それがスルーされたら、今度は「ダブルスタンダードだ!」と怒りを表明して、また「判断の根拠を示して下さい」からやり直せばいい。

「どうやったら相手の手続きコストを増やせるだろう?」と考えることが、弱者の戦略を発想するための近道になる。「厳密」以外にも、恐らくはいくつもの価値軸が武器として役に立つ。

2011.08.10

状態を動作で記述すること

アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 」 という本の感想。続き。

  • チェックリストを作ることの効果というものは、「正常」を言語化できることにあるのだと思う
  • チェックリストを作るときには、たとえば「○○が正常に接続されていることを確認する」だとか、正常という言葉をリストから追放することが求められる。それを許してしまうと、「正常とは何か?」という疑問に対して、「正常であることだ」という間抜けな答えしか返せなくなってしまう
  • 正常であることを、「異常でないこと」でしか記述できない人は多い。ある定状状態にあって、それなりにきちんと動いている何かを見て、どうしてそれがきちんと動いているのか、突き詰めて考えている人は少ないしだろうから
  • 医療において健康という状態は、「病気でない」ことでしか記述できない。医学的に正しい健康食品というものは存在しないし、西洋医学の薬というものは、基本的に病気でない状態にするためのものであって、十分健康な状態にある人を、もっと健康にする薬はおそらく存在しない
  • 乗用車のエンジンみたいな精密機械にしても、生体にしても、生態系や、社会のようなもっと大きな系にしても、正常を記述するのは難しいし、それができる人は少ないのだと思う。正常という、見れば明らかなその状態は、系の末端から全体像まで全てを理解していないと言語化できない
  • 正常を記述できない人であっても、正常に動いている系を眺めていることはできるし、マニュアルがあれば異常を認定することもできる。もしかしたらそれを修理することも。ところがマニュアルに載っていない何かが発生した場合、正常を記述できない人は、それを異常と認定できないかもしれないし、少なくとも状態を正常に戻すための方法を考えることはできないのだと思う
  • 正常は当然の状態であって、当然に見える何かを、無理矢理言葉に落とし込むためには制約を導入する必要がある。ここで大事になるのが「状態を動作で記述する」というルールになってくる
  • 気道が正常とは、口を開いて指が縦に3本入ることだし、点滴ラインが正常とは、輸液を腕より下に下げたら血液がスムーズに逆流することだと定義できる。状態を動作で言い換えることで、正常の言語化は達成される。それは完璧には遠い、暫定的な答えでしかないにせよ、十分実用的ではある
  • 「正常」という言葉を廃して、全ての形容詞を動作で言い換えることが正常の言語化であり、チェックリストが「完成した」ということなのだと思う。そうしたチェックリストを作るためには考えなくてはいけないし、その思考によって、けっこう大切な何かが得られる。そういう意味で、チェックリストはその系を保守管理するエンジニアその人が作るべきであって、お仕着せのものを鵜呑みにすべきではないのだと思う
  • 系の振る舞いを描写するのに必要なあらゆる形容詞を、徹底的に動作に落とし込むことで、その人は嫌でも専門家になれる

2011.08.08

チェックリストについて

アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 」 という本の感想文。

コンサルタント方面の書評サイトで取り上げられていた本だけれど、作者は外科医だった。翻訳した人も、米国で医学生をしておられるのだと。

チェックリストは大事

  • ちゃんと作れば、チェックリストは役に立つ。チェックリストを作った話、その効果がちゃんと統計的に証明された逸話が本書にはたくさん取り上げられていたけれど、個人的には、そうした成功譚よりも、むしろ「ちゃんと作れなかったチェックリストが誰にも使ってもらえなかった」という、作者自身の失敗体験のほうが興味深かった
  • 役に立つチェックリストは本当に役に立つ。その代わり、そこに行き着くまでが大変なのだという。航空業界にはリストを作るための専用の部署がある
  • チェックリストとは要するに、場面、場面ごとに、何が一番大切で、何が忘れられやすいのか、落としてはいけない物事を最小限、できれば9つ以内のリストにまとめたものだけれど、その文言が漠然としていると、チェックリストを読んだその人は、何をすればいいのか分からないのだという
  • 個人的感想。たとえば手術前のチェックリストに「患者さんの気道に問題がないことを確認する」などと記載したところで、「問題がない」とはどういう状態なのか、具体的にどういう検査を行えば、問題ないと確認できるのか、読む人によって解釈が多様すぎて、役に立たない。このときにはたとえば、「患者さんの口を全開にして指が縦に3本入ることを確認する」などと、「問題ない」を行動で定義するほうが、チェックリストとしてはより正しいのだと思う

目的とコミュニケーション

  • リストの最初には、「まず大事なことはこれだ」と宣言するとうまくいくのだという。航空機のエンジン停止時チェックリストが例として引かれていたけれど、リストの最初には、「大事なことは飛行機を飛ばし続けることだ」と書かれている。チェックリストの目的はエンジンの再起動だけれど、本当に大切なのは飛行機を墜落させないことで、あまりにも当たり前すぎる何かが、非常事態にはしばしば忘れられて、惨事を招いてしまうのだと
  • 個人的感想。自分たちが普段作っている「鑑別診断リスト」には、医師ごとの考えかたが反映される。リストを頻度順に作る人もいるし、病理的に考えやすい順番で作る人もいる。自分はいつも「見逃したら死にやすい順番」でリストを作る。たとえば脳梗塞っぽい、片麻痺の患者さんを見たときには、脳梗塞の確定診断を進めるよりも先に、まずは低血糖から検索するようにしている
  • チェックリストに「お互いに自己紹介する」という文言を入れることが有効なのだという。その状況を確実に乗り切れるときには、自己紹介なんて必要ないけれど、一度不測の事態が生じて、先が不透明になったときには、単なる個人の集まりと、お互いに見知った「チーム」とでは、選択枝の幅が全く異なってくる。「まわりの人を名前で呼べること」の効果は非常事態にこそ発揮されて、だからこそ、非常事態に備えたチェックリストを作る際には、ルーチンで「自己紹介」を組み込んでおくべきなのだと

リストはしばしば無視される

  • 何か言いたいことをリスト化していくと、それがうまくいっているときほど「馬鹿っぽく見える」のが、個人的には難儀だなと思う。シンプルに過ぎて、それが正解なのに、それが故に「こんなの当然だろ?」と言われて、チェックリストはスルーされてしまう
  • この本では、「良くできたリストほど案外守ってもらえないものだ」という話題の枕に、手洗いの逸話が引かれていた。「手を洗おう!」という当たり前のことを守らせるのがどれだけ難しく、またそれを守るだけでどれだけ効果が上がるのか。これだけ身近なことでも、ずいぶん大きく変わるのだと
  • 分からないことはリスト化できない。本書では、複雑で大きすぎる問題であっても、各コンポーネントをチェックリストで確実にすることで、最終的な成功確率を上げられるという話題が、ビル建築の逸話で取り上げられていた
  • 自分たちの業界限定だけれど、自分は普段、分からないときには「ここまで探索したけれど死に直結する異常は見つからなかった」という状態を暫定的な到達目標にしている。「分かる」を到達目標にする人から見れば、この状態は「分からない」と何ら変わりがないかもしれないけれど、漠然としすぎた主訴への対処が少しだけ容易になるような気がしている

感想

  • 「リストはいいものだよ」という啓蒙書だけれど、参考になった。これを書いたのは外科の先生だけれど、内科にもそうしたリストがほしい
  • 具体的なリストの作りかたには、あまり深く踏み込まれていない。チェックリストは場面ごとに作られるべきだけれど、場面の切り分けというものを具体的にどうするのが正しいのか、それについてもあまり深く言及されていない。業界をまたいだ様々な逸話を引いた本だから、ある意味これは仕方がないのだけれど
  • チェックリストは、実際に気合いを入れて作ったリストほどスルーされてしまう。「当然」と看破されるシンプルなリストを用いることで、「だいたいこのあたり」という到達点を、どこまで狭い公差の範囲に追い込めるのかが勝負所になる。病院という文化が建築や航空の業界を目指すには、まだまだ文化の差が大きすぎるなと思う
  • 畳のヘリを歩くのは簡単だけれど、同じ幅の道を上空100m に持ち上げられると、たいていの人は歩けなくなる。自分が普段どう歩いていたのか、必死に思い出そうとして、何も浮かばず動けなくなる。頭が真っ白になるような状況において、「普段の当然」をリストとして持っていると、もしかしたら役に立つ
  • 救急外来から患者さんを病棟に連れ出す際には出口をくぐる。出口の天井あたりにチェックリストを貼りだして、「低血糖除外したか?酸素大丈夫か?吐いたときの用心にビニール袋とガーゼを持ったか?エレベーター止めてあるか?患者さんの貴重品は忘れてないか?外に引っかかりそうなカテーテルはストレッチャーからはみ出していないか?」と書いておくといいなと思った。そうした張り紙は、病院機能評価を受けた昔、「これは汚いからはがして下さい」なんて指導を受けて、もうずいぶん昔になくなってしまったのだけれど

2011.08.06

Amazonのレビューについて

「韓国に関するフジテレビの報道姿勢はやりすぎだ」という話題があって、フジにスポンサーとして参加している「花王」が叩かれて、Amazon のカスタマーレビューがものすごいことになっている。

「この製品を買ってはいけない」だとか、「花王は韓国の手先だ」とか、ネガティブなコメントが50ぐらいついていて、「使いやすいです」みたいな無難なレビューは、序列のした側に押し込まれて、その製品が実際のところどうなのか、レビューからは読み取れないような状態。

ものすごい熱気を感じることには間違いないのだけれど、「花王という会社にダメージを与える」ことがその目的なのだとしたら、力の使いかたを間違えている気がする。

密林のレビューは恐ろしい

密林のカスタマーレビューは、本を置かせてもらう側からするとあれぐらい恐ろしい場所もない。

あの場に書かれた内容について、作者の側からは言い訳できないし、誰かが本にお金を支払ってくれる、まさにその瞬間、買う人はそのレビューで最終的な意志を決定することになる。

支払いボタンと、レビューの記事と、Web ページ上でのあの近さが恐ろしい。書評サイトでお勧めされて、じゃあ買おうなんて思ったそのとき、レビューの記事が目に飛び込んでくる。実際の購買が、レビューの内容でどの程度左右されるものなのか、売る側からは分からないにせよ、密林で何かを販売する人は、みんなあの場所を恐れているものなのだと思う。

叩きと推奨はよく似ている

「いい本だ面白かった」という5つ星のレビューと、「ひどい内容だ絶対に買ってはいけない」という1つ星のレビューとは、購買行動において同じ程度の、同じ方向の効果を持つ。どちらの言説も、恐らくは購買を決定した人の背中を押してくれる。

たとえばこれが、「この本が取り上げているテーマはたしかに面白い。しかし原著の誤読に基づいた意見が散見されて鵜呑みにできない」というレビューがあって、星が3つついていたりすると、購買の意志は大いに揺らぐ。「この分野ならば、この本のほうがおすすめ」といった記事があったら、もしかしたらそちらを購入してしまうかもしれない。

極端な対抗意見は、むしろ購買を後押ししてしまう可能性がある。「買ってはいけない」という本が流行した際、あれを「トンデモだ」と考える人も多くて、「買ってはいけないは買ってはいけない」という検証本が発売された。元の本を真っ向から叩く内容であったにもかかわらず、「買ってはいけない」と、「いけないは買ってはいけない」とは、隣り合わせに平積みされて、両方ともよく売れた。

「買わせない」文章の書きかた

Amazon で購買ボタンを押す人は、そこを訪れた時点で、すでに「これを買おう」という意志を持っている。そうした人に、「これを買おうという、お前の人間性それ自体が間違っている」などと、その人を真っ向から大きく否定してしまうと、否定されたその人は、むしろその本を買うことで、その否定に対抗する。結果として全面的な否定というものは、購買をむしろ後押ししてしまう可能性がある。

的を一つずらせば達成できる目標に、それ以上の力を叩きつけてしまうと、目標はむしろ遠のく。購入する人をためらわせる文章は、たとえば「この本が目的とするところは理解できるものの、根拠になった文献を読み間違えている」だとか、「この本が取り上げている領域はたしかに面白いのだが、この本については支払った金額に見合った内容を持っていない」といった書きかたになる。

その分野の知識を仕入れたいという、購入する人の意志を肯定しつつ、「その目的は正しいがこの本を買うという手段はベストじゃない」という、肯定9割、否定1割の態度を取ってみせることが、購買をそらす役に立つ。

「買わせない」文章というものは、一見すると正面から叩いていないから、売る側としては対処がかえってやっかいになる可能性もある。密林を通じた不買運動は、それなりの文章を、その会社の製品に対して網羅的に付加すると、案外馬鹿にできない効果があって、対処のやりかたを含めて、これから問題になってくるのだろうと思う。

2011.08.01

賞賛の採算性

夏休みになると日記の宿題が出て、あれが嫌で嫌でしょうがなかった。

日記が大好きな子供なんて、今でもたぶん、決して多いはずがないのに、インターネットで文章を書く人はびっくりするぐらいに多い。

日記にはない、ネットが持っている大事な機能が「他人の目」なのだと思う。それがどんな形であれ、自分以外の誰かの反応が、できれば賞賛する側に返ってくることで、その人の振る舞いは大きく変化する。

ほめるのは難しい

けなされれば人は腐るし、何かの能力をほめられると、時々人は大きく伸びる。「ほめて育てましょう」と言葉にするのは簡単だけれど、実際のところ、誰かをほめるのは恐ろしく難しい。

誰かをけなせばいいのなら、仕事を命じて、マニュアルを渡して、結果が出るまで放置して、規定に足りていない部分をあげつらえばいい。ところが誰かをほめようと思ったら、その人がどんな工夫をして仕事をこなすのか、ほめる人はずっと見張っていないといけないし、何が「どう」よかったのか、過程を見た上でほめないと、その賞賛は響かない。

「ほめて伸ばす」やりかたの効果というのは、誰か教える側の人が、その人のことをずっと見ている、連続的にフィードバックを返していることによる部分が大きくて、賞賛しようが叩こうが、「見ているよ」ということが相手に伝われば、言葉それ自体の効果はそれほど大きくないのではないかと思う。

賞賛の採算性

第一回南極越冬隊の隊長さんは、部下の人たちを賞賛することで、チームの能力を高めたんだという。

隊長は「こうなってほしい」という結果だけを示して、そこに到達するまでの行程は部下のアイデアに任せて、あとはずっと見ていたんだという。工夫が実って、以前よりもいい成果が上がったその瞬間、「お前は凄い」と賞賛することで、みんなの実力が向上したのだと。

これを再現するための労力は莫大で、任せたその人のことを過去からずっと見続けていないといけないし、仮に「これ」という正解が決まっている行程であっても、部下が何かの工夫を試みたら、リスクをヘッジした上で、それを容認しないといけない。これがきちんとできる上司はたしかにすばらしい人だろうけれど、上司としてのその人の仕事と、誰かをほめて伸ばすこととの両立は難しそうだし、その上司が何か好きな趣味に没頭したくても、そんな時間は取れそうにない。

「貴様らは馬鹿だ。どうしようもない無能だ。俺の命令だけ聞けばいいんだ」と、上司が毎日繰り返せば、チームはやる気を失って、ゾンビの群れみたいな状態になる。チームの効率は最悪になるだろうけれど、マニュアルに規定された最低限度のパフォーマンスは保たれる。やる気に満ちたチームに比べれば、ゾンビの群れが成し遂げられる成果は少ないかもしれないけれど、上司の仕事は最小になる。上司はその間、好きな趣味に没頭できるかもしれないし、空いた時間でもっと稼ぎの大きな仕事にリソースを割り振れるかもしれない。

南極越冬隊は少数精鋭、何が起きるのか分からない場所で生き延びないといけなかったから、チームの能力は最大であることが求められて、上司がチームを賞賛することによって得られる能力の向上が、その仕事量に十分引き合ったのだと思う。一方で、何をやればいいのか、どうすれば売り上げにつながるのかといった方法論がある程度定まった、あとはひたすら人件費の削り合いで勝負するような業界においては、「ほめる上司」の労力は、その見返りに全く引き合わない。「ブラック企業が増えてきた」という言説は、マニュアル化というか、社会の規格化がそれだけ進んで、賞賛することの採算が合わなくなってしまったからなのだと思う。

じゃあどうすればいいのか

上司をほめる、あるいは上司を賞賛できるような職場を目指すのがいいのだと思う。

マニュアル完備のチェーン店で、マクドナルドみたいな場所で、ほめる上司がやる気いっぱいのスタッフを率いるのと、叩く上司が毎朝罵倒されてゾンビの群れみたいになったスタッフを率いるのと、売り上げは上司の仕事量ほどには変わらないだろうし、「ほめる上司」の成し遂げた仕事は、たとえば給料のような形で報われる可能性は少ない。

やりかたの固まった職場においては、賞賛というやりかたは採算割れをおこしやすくて、上司の側にはたぶん、「ほめて伸ばす」動機が薄い。こういう職場で、じゃあ賞賛することで最も高い収益が期待できる人間は誰かといえば部下その人なのだと思う。上司の技を賞賛し、上司の教育を賞賛し、上司の指摘に感謝を表明し、見守ってくれたこと、自身のアイデアを尊重してくれたことを賞賛することで、上司は「いい」方向に伸ばされる。

「おべっかを使う」ことそのものだけれど、いい空気を吸いたかったら、大事なんだと思う。