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2011.07.28

ロバストネスとゲーム性

自然災害や悪意を持った第三者による攻撃、「うっかりした」、あるいは「運が悪い」職員によるヒューマンエラーは、すべてシステムを攻撃する外乱であると言える。外乱に対する安定性、ロバスト性の高いシステムを設計する際には、システムを「ゲームとして遊んで楽しい」ものにする必要がある。

「壊れない機械」を目標に設計を行うと、外乱に対する安定性は、むしろ損なわれてしまう可能性がある。壊れないことが求められたシステムは、しばしば「壊れることが許されない」システムへと変貌する。このことは結果として、外乱に対する安定を致命的に悪くしてしまう。

状況のコントロールとゲーム

「ルールからプレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立する時、それはゲームだと言える」

ゲームにおいて、ルールは一連の制約として設計される。システムをゲームとして設計することで、システムは外乱に対してルールを提示することができる。ルールが十分に「面白い」ものであれば、外乱はその制約に従って振る舞おうとする。外乱がどれだけ大きなものであっても、それがゲームの枠内に留まっている限り、外乱はコントロールできる。

システムにとって、ゲームであることをやめてしまう、あるいは禁じられてしまうことは危険なことだと言える。「これは想定する必要がない」だとか、「そういう想定を行ってはいけない」という指示が下されたその時点で、設計者はもはや、システムをゲームとしてデザインできなくなってしまう。

高すぎる目標を前にあきらめて見せて、「万全のことは行った。仕方がなかった」と居心地よくつぶやくやりかたは、最初から失敗を前提にした態度であると言える。予測できない外乱であっても、「ゲーム」を仕掛けて遊んでもらうことができれば、状況をコントロールすることができる。

設計者が目指すべきなのは「面白いゲーム」としてのシステムであって、「壊れないシステム」であってはいけないのだと思う。

公平性と駆け引き性

ルールが「フェアでない」ことは、ゲーム性を著しく損なう。ゲームにおいて、デザイナーとプレイヤーは、それぞれ対等の立場でなくてはいけない。プレイヤーが人間である場合はもちろん、それが自然災害や、ヒューマンエラーのような「運勢」であった場合でも、それらに対してフェアでないルールでシステムを設計すると、ゲーム性は失われてしまう。

ゲームはどこまでも駆け引きが可能なように設計されなくてはいけない。「あらゆる事態に備えて万全の備えを行いました」と喧伝するシステムが、たとえば自然災害に対して最悪状態の探索を禁じていたのなら、それはゲームとして失敗している。駆け引き性は、自然に対するフェアネスであって、「壊れない」ことを目指した機械においても、自然との駆け引き性を保った設計を行う必要があるのだと思う。

駆け引きが禁止された設計は、「壊れることが許されない機械」を生み出す。どれだけの鉄量を投じても、ゲーム性を持たないシステムは、実際に外乱と遭遇すると、「想定外の事態」によって破壊されることになる。

ルールがシナリオを規定する

ルールがシナリオを規定することは、いいゲームの必要条件であると言える。シナリオがルールを規定する、理念や物語がプレイヤーの振る舞いに制約をかけるようなやりかたは、ゲームの楽しさを減じてしまう可能性がある。

シナリオとシステムとが同じベクトルを共有すると、ゲーム性の向上が期待できる。麻雀でも、モノポリーでも、現金を賭けるとまるで別物のゲームに変貌する。麻雀や、モノポリーといったルールは、現金というシナリオの力を借りることで、ゲームとしての価値を増す。

押しつけられた物語は、ゲームの価値を著しく損なう。プロジェクトX はたしかにすばらしい物語だけれど、「これだけの努力を注ぎ込んだのだから、このシステムは壊れることが許されない」というシナリオを押しつけられた設計者は、優勝でなく、努力賞に舵を切る。努力の方向を間違えた祈りの結果、システムからは安定が失われてしまう。

物語を作りたいからゲームを作っているわけじゃない というゲームデザイナーの言葉に同意する人は、たぶんたくさんいる。その一方で、「努力したいからシステム複雑にしている」ように思える状況も、世の中にはけっこう多い。

独立性とゲーム性

ゲームのルールはそれ自体で独立していなくてはいけない。あるルールが別のゲームに依存していたのなら、そのゲームを知らないプレイヤーは、ゲームを理解することができなくなってしまう。

市販されているいわゆる的なゲームのほとんどは、それぞれが独立したルールを持っている。一方で、社会のルール、特に理不尽なそれのほとんどは、「道徳ゲーム」や「正義ゲーム」、「年功序列ゲーム」といった、もっと大きなゲームにルールの大半を依存していて、ゲームそれ自体を遊ぼうとする誰かにとって、これは極めて理不尽に思える。

「○○を悪用しないで下さい」という呼びかけを行うと、場のコントロールは失われて、違反をする人が増えてしまうことがある。呼びかけは、「道徳ゲーム」という大きなゲームに依存したルールであって、依存性を持ったルールがその場に導入されたことで、そこからゲームが失われてしまったからなのだと思う。

ジレンマは役に立つ

ジレンマを導入することで、システムのロバスト性は向上する。

鍵をどれだけ堅牢に設計したところで、金庫破りはその鍵を壊してしまうかもしれないけれど、「解錠を開始して30分後すると警備会社が飛んでくる」、というルールをそこ付加することで、金庫破りにはジレンマが提供され、結果として金庫が破られる可能性を減らすことができる。

ジレンマは、自然災害のような外乱であっても役に立つ。あえて細かく壊れるように設計されたシステムは、大きな外力に直面すると、壊れやすいところだけが壊れてしまう。特定のコンポーネントをピンポイントで狙うような外乱は、逆に大きな力にはなり得ない。これは堅牢には遠いけれど、システム全体をより安定にコントロールできる可能性は向上する。

まじめさはなんの役にも立たない

「プレイヤーに対してフェアである」、「ルールがシナリオに優先している」、「ルールが独立している」、「プレイヤーがジレンマに晒される」ように設計されたシステムにはゲーム性が備わっている。ゲーム性を持ったシステムは、外乱に対してより安定であり続ける。

システムがどれだけ「まじめな」ものであったとしても、まじめさは、ロバスト性の向上には貢献できない。

ロバストであることが要求されるシステムは、その破壊を目的とした不謹慎ゲームとして遊ばれることで、その安定性を試されるのが正しいのだと思う。遊んでみて「つまらない」システムは、恐らくはどれだけの鉄量を投入しても、外乱に対する脆弱性を追放できない。

設計者は、「そのシステムを舞台にした不謹慎ゲームは、遊んだとして面白いものになりますか?」と問われることになる。「これはまじめなシステムだからそんなものは必要ない」という言葉は反論になっていないし、面白くないシステムをどれだけまじめに運用したところで、想定外をコントロールすることはできないのだと思う。

2011.07.23

砂場としての2ちゃんねる

ネットは年々厳しくなっていくように思える。

ルールは昔を引き継ぐものだから、昔からいる人たちはすでにルールを知っていて、ルールはますます複雑に、あとから入ってきた人には分かりにくいものになった。ネットワークでできることはずいぶん増えて、ネットのうわさ話がニュースに取り上げられる機会も増したけれど、結果としてこれは、「やってはいけないこと」をやってしまった人が負うべきペナルティを、ずいぶん重たいものにしてしまった。

取り返しのつかない状況に陥るまでの時間も短くなった。HTML の昔なら、記事を書いて検索エンジンに取り上げられるのに1週間ぐらいかかったけれど、blog の記事をネットに上げると、5分もすれば Google の検索に引っかかる。Twitter はもっと速くて、書いて1分もすると、もう検索サイトにログが残って、そうなるともう、自分では記事をコントロールすることができなくなってしまう。

ソーシャルサービスは恐ろしい

mixi にしてもFaceBook にしても、Twitter もそうだけれど、最近のサービスは恐ろしい。

検索機能が充実していて、黒歴史の告白でも、思わず喋ってしまった秘密でも、一度書いてしまうと、全く関係のない誰かが、ある日いきなりログを掘る。発言にはID が紐付いて、ID とプロフィールページ、日記の内容がそろってしまうと、Google先生 は簡単に実名を教えてくれる。

mixi の出始めは、「エンジニアの人たちが深く突っ込んだ技術話をする場所」というイメージだったし、Twitter を始めた頃は、ニュースサイトの管理人だとか、人気のある blog を運営している人たちが、楽屋裏よろしくおしゃべりをしている場所だった。いずれにしてもそこは、安全装置抜きの、インターネットに昔から親しんだ人たちが集まるのが前提の場所で、初心者が気安く入れる場所ではなかったのだと思う。

2ちゃんねるは安全

2ちゃんねるという場所は、今思えば初心者に優しい仕組みになっていた。雰囲気が殺伐としているからそもそも怖いし、粋がって変なことを書き込もうものなら、古参の人からちゃんと脅し上げられた。ネットを始めたばかりの頃、馬鹿なことをしでかすたびに叩かれたけれど、どれだけうかつな振る舞いをしたところで、ネットと実生活とが接続しないように配慮されていて、影響は出なかった。

win95 の昔は、匿名掲示板の素人は、たしかにひどい目にあった。ブラクラを踏んだり、リンクを飛んだ先がグロ画像だったり、あるリンクを踏んだらいきなりPCがクラッシュしたり、初心者にはそれがとても恐ろしかったけれど、PCを再起動すれば、問題のほとんどは解決して、IPアドレスも更新されて、また「別人」として復活できた。あの場所は、素人が安全に痛い思いをするための仕組みが備わっていて、警戒心と無難な振る舞いが、遊んでいるうちに身についた。

そういう意味で、初心者に一番優しい2ちゃんねるが怖いところだと喧伝されて、本来はおっかないmixi やFaceBook が、明るく楽しい場所みたいに紹介されるのは何か違う気がする。

砂場を探すべきだと思う

匿名掲示板に比べれば優しげな、実名ベースのソーシャルサービスは、一見すると優しいけれど、転ぶと大怪我をすることになる。

強盗が外にいて、窓の外に歩く強盗の姿が見える部屋は恐ろしいけれど、鍵を閉めていれば強盗は入ってこない。カーテンが閉め切られた部屋ならば、強盗はたしかに見えないけれど、カーテンは窓の鍵も隠してしまうから、その部屋はもっと恐ろしい。見た目の気安さは親しみを生むけれど、ネットに親しんでいない人こそ、「殺伐としているけれど実は安全」な場所を選ぶべきなのだと思う。

ヨハネスブルグのメリーゴーランドと、豊島園のホラーハウスと、どちらが「子供向け」でどちらが「恐ろしい」のか、親御さんはたぶん迷わないだろうし、フェイスブックで夢を語る意識の高い学生と、2ちゃんねるを遊び倒したネットに夢を持たない人と、ネットワーク越しに何か大切な仕事を任せる際にはどちらが安全なのかと言えば、本来迷う道理もないはずなのだけれど。

2011.07.21

少しだけいいものが選べない

豊かになると、いろんなものが相対的に安価になっていく。ところがある業界が細っていく過程のどこかに、「少しだけいい製品が選べなくなる」という状態がたいていあって、ものが安くなることと、選択肢が減っていくこととはわけて考えないといけないのだろうと思う。

薄い財布と便利な鞄

abrAsus という国内の皮革メーカーがいろいろと面白い製品を出している。すごく薄い財布だとか、小さく折りたためる財布だとか、特定の目標を達成するために、伝統的なデザインにギミックが工夫されている。

「ちょっとした工夫」には購買欲がかき立てられるのだけれど、お財布は買うと15000円ぐらいする。今ならば、このぐらいの金額は支払えるし、紳士ブランドものの何かを買おうと思ったら、この価格は決して飛び抜けて高価であるとも言えないのだけれど、ホームセンターで1000円しない「普通のお財布」が売られている横で、じゃあ「ちょっとした工夫」に15000円という金額を「ぽん」と支払えるかと言えば、やっぱりためらってしまう。

スーパーコンシューマープロジェクト」という企画がある。文具のヘビーユーザーに声をかけて、その人が本当に使いたいものをデザインしてもらって、それを改良して、製品化するまでの過程を全て公開している。

この企画で作られたいくつかの商品は実際に市販されていて、どれもたしかに、よく考えられている。道具を使い倒す人たちの声は面白くて、制作の工程や、デザインの考えかたにはいちいち共感できて、それを達成するための工夫だとか、それを行った結果としての、既製品にはない、定番とは少し異なったデザインだとか、そういうものが魅力的に思える。

魅力的なものは手に入れたくなるのだけれど、たとえば「撮れるカメラバッグ」の価格は2万円する。本革のバッグで、しかも国内の職人さんが手で縫ったものだから、2万円は決して高いわけではないんだけれど、大ざっぱに似たようなデザインのショルダーバッグなら、「本物じゃない」ことや「機能が劣る」ことに目をつぶれば、たぶん半値以下で手に入る。

欲しいなと思えるちょっとした工夫が盛り込まれた製品は、ありきたりな製品の価格が安くなった結果として、ちょっとした工夫で価格が何倍にも跳ね上がってしまう。

昔はなんでも高かった

たとえば「スーパーコンシューマープロジェクト」で売られている「文具王手帳」は15000円するけれど、今から20年ぐらい昔、「スーパー手帳の仕事術」で大々的に宣伝されたファイロファックスという英国製のシステム手帳は、当時14000円した。単なるファイルカバーなのに、代替品もどれも高価で、システム手帳にのめり込んだ人たちは、14000円のファイロファックスを何冊も買って、リフィルを保存したりしていた。

今はもちろん、システム手帳は安価になって、プラスチック製の簡単なものならば、500円も出せばどこの文具店でも手に入る。もう少しいい製品にしても、合成皮革のそこそこ使える製品が2000円程度で買えるから、手帳に14000円支払った昔は、ずいぶん遠くなった。

「文具王」のシステム手帳は15000円で、この価格はファイロファックスの昔なら高価だとは感じなかっただろうし、様々な工夫に支払う金額が1000円で済むのなら、いっそ「お得」だと思ったかもしれない。

ターボ全盛の20年前、家庭用乗用車の最上級グレードにはたいてい過給器がついていて、スーパーチャージャーやターボのついた乗用車は、通常グレードに20万円も上乗せすれば購入できた。燃費はそんなによくなかったし、今から思えばドッカンターボだったけれど、乗り回してる同級生がいて、あれは面白かった。

最近になって、トヨタカローラにターボモデルが追加されるようになった。15年ぶりぐらいのことなのだと。これはTRDのディーラーオプションという位置づけで、チューニングのベースになった1.5L モデルと比較してしまうと、100万円近い価格アップになる。

昔のターボは、ノーマル100馬力のところが160馬力、制御系や、下手するとエンジンブロックが別物だったりしたものだけれど、今のターボはずっと控えめで、エンジン本体にはそんなに手が入らない。当たり前のようにターボモデルが掲載された昔を思うと、今のターボモデルは高価にも思えるけれど、これなんかもたぶん、少量生産品であることと、なんといってもカローラの基本価格自体が、昔よりもはるかに安くなってしまったことが、こうした感覚に聞いてしまっているのだろうと思う。

価格の低下と選択枝

昔を思えば、今はいろんなものが安価になった。昔と今とで物価が違うし、自分の金銭感覚だってずいぶん変わってしまったから公平な比較は不可能だけれど、昔なら手が出なかったいろんなものが、今ではホームセンターをちょっと探せば、相当に安く手に入るようになった。これは「豊かになった」と言えるのに、その一方で、ちょっとした工夫が施された、「ちょっといいもの」に手を伸ばそうとすると、それがずいぶん難しくなった。

価格が安いこと、同じお金でたくさん買えることはたしかに「豊か」と言えるのだけれど、一方で、選択できる商品の幅は狭くなって、これは「豊か」という感覚にはどこか遠い。

ホームセンターに置かれている爪楊枝はどれも安価で、うちの地域で売られている楊枝は、全てが中国製だった。ちょっと高くてもいいから国産があったらいいな、なんてあちこち探したのだけれど、リアル店舗をどれだけ探しても、「国産」という選択枝自体が存在しなかった。

いまはもう、こうした生活必需品に「ちょっといいもの」を求める人なんて少ないのだろうし、業界の流れとして、選択枝の減少は一種の必然なのかもしれないけれど。

2011.07.16

不思議なものとのつきあいかた

「不思議なもの」は、今の世の中にだってたくさんある。それが証明された事実なら利用すればいいし、虚偽なら否定すればいいけれど、「不思議なもの」はそのどちらでもないものだから、距離を置いて「つきあう」ことが大切になる。

「不思議なもの」と対峙して、それをあたかも事実であるかのように利用を試みてしまったり、逆にあらゆる不思議を虚偽と断じて否定したりすると、たいていはろくでもない結果が待っている。

ビールの原理

自分にはたとえば、「ビールがたくさん飲めること」が、未だに不思議に思える。

ネットをちょっと引っ張ると、これは「アルコールが胃から吸収される」からという説明が為されているのだけれど、ビールのアルコール濃度は6%程度だから、これ胃から拡散吸収できたところで、自分が体感するビール特有の「いくらでも」とは、ずいぶんかけ離れているように思えてしまう。

アルコールと人体との関係は、医学が一番詳しいはずなのだけれど、「ビールがたくさん」の説明は、教科書に書かれていない。「過剰に吸収されたアルコール」に対峙する方法と、アルコール依存の患者さんを「アルコールから遠ざける方法」はたしかに医学で、教科書にも記載があるのだけれど。

ある事象を「不思議でない」ものにするためには、原理の説明があって、その原理が再現可能な手続きで検証されないといけないのだけれど、「ビールがたくさん」を検証するのは難しい。胃からの吸収と、腸管からの吸収を区別するのがまずもって難しい。静脈とはいえ、腸管の静脈である門脈系にカテーテルを入れるためには開腹手術が必要だし、たかだか「ビールがたくさん」を証明するのに、そこまでやった人がいるとは思えない。

「ビールがたくさん」飲めるという体感それ自体、宴会で酔っぱらって、そのときふと「たくさん飲んでいる」わけで、定義もなければ定量も難しい。「ビールがたくさん飲める」という事象は、たぶん科学の手続きで厳密に証明された説明は行われていないだろうし、自分にとっては少なくとも、そうした説明に行き当たっていない以上、「ビールがたくさん飲めること」は「不思議」の範疇であって、「説明できること」でもなければ、「根拠のないでたらめ」であるとも言い切れない。

不思議なものには決まったつきあいかたがある

それが神霊写真やUFOみたいなものであっても、「ビールの原理」みたいな日常生活のちょっとしたことであっても、「不思議で理解できないもの」との接しかたには共通した手続きがある。

オカルト雑誌は、UFOを特集するときには「UFOを見たらまずそこから離れて、安全を確保してから、できれば警察を呼んで記録をしてもらいましょう」なんて注意するし、心霊写真を特集するときには、「お墓を荒らすようなまねは絶対に慎みましょう」という断り書きが入る。

これは「不思議との接触」における基本なのだと思う。不思議と遭遇した際には、まずは離れて一息ついて、できれば不思議を懐疑する人にも意見を聞くのが正解だし、何かを不思議と認識した際には、それを不思議と認識しない誰かのことも想像して、相手の迷惑にならないような振る舞いを心がけないといけない。

いいオカルトと悪いオカルト

オカルト雑誌には、たしかに怪しげな記事が紹介されるけれど、それでもきちんと編集者の目が入っているから、オカルト雑誌のオカルトは、どこかに「安全装置」的な配慮があったように思う。

子供の小遣いでは手が出ないような開運パワーグッズが広告で紹介する一方で、雑誌の折り込みには、紙で印刷された護符がついてきて、そうしたグッズにどこまでのパワーが実感できるものなのか、読者にはあらかじめ想像できる機会がもうけられていたし、怪しげな霊能者のセミナーが記事として紹介されている横で、撮ってしまった心霊写真は、基本的には「編集部に送れば責任を持って処置してくれる」ことになっていた。

ネット時代の「オカルト雑誌を通さないオカルト」は、そのあたりの配慮が薄いような気がして、個人的にはそれがおっかない。

「水に挨拶するといいことがある」という教えにしても、「汚染に有用菌を巻くときれいになる」という教えにしても、ナチスのUFOや呪われた心霊写真、フリーメーソンの陰謀なんかに比べれば、はるかに安全で、道徳的にも「いい」ものに思えるけれど、そうした教えは検証不可能なのに、最初から事実であることを前提とした運用がされていたり、ムーの「実用スペシャル」みたいに、自分で追視したり、ふと我に返って考え直せるような「安全装置」に相当するものが最初から設定されていない。オカルトの仕掛けかたとして、あれは危険なやりかたをしている気がする。

昔からオカルト雑誌を読んでいる人ならば、仕掛けの技術としては明らかに素朴な、いっそ懐かしくて笑ってしまうような「不思議」と接して、それを丸呑みして自身の人生を書き換えてしまう人が時々いる。ああいうのは、そのオカルト自体のパワーというよりも、その仕掛けかたが悪質であったが故に生じた現象に思える。

不思議は不思議のまま教えてほしい

不思議なものは、否定される機会こそ増えたけれど、実際問題減っているわけではないのだと思う。

ある分野を勉強すれば、たしかに暫定的な理解は深まるけれど、理解を深めると、厳密に検証された「事実」とそうでない部分との境界が明らかになって、検証されていない「不思議」の数は、むしろ増えていく。

ある事象を不思議と認識しないで、手持ちの知識で「当然のもの」であると受け取ってしまうことも、あるいは理解できないものに対して「そんなことはあり得ない」と拒絶してしまうことも、どちらも等しく思考停止なのだと思う。不思議なものは不思議なものであって、正しくつきあい、取り扱わないといけない。

たとえば「こっくりさんを呼び出したはいいけれど帰ってくれない」という問題に、学校の先生はたぶん「これ」という答えを返してくれない。帰ってくれないと呪われることになっているから、当の子供にとっては、これは大きな問題なのに、まわりに不思議の取り扱いかたを知っている大人がいなければ、問題は問題のまま、一人歩きをはじめてしまう。

オカルト雑誌にはときどき、こんな悩みに対して、編集部の人たちが暫定的な答えを返してくれる。実世界では、不思議の悩みに答えられる人は多くないからこそ、雑誌のような暫定的な権威は、場の安定に大きく貢献する。編集者の良識や常識のようなものは、科学雑誌ならば機能しつつ時々批判されたり、マスメディアだと「メディアの陰謀」の主役にされたりして、「編集者のいない利点」というものが、ネットではしばしば語られるけれど、オカルトという分野については、編集者の不在が恐ろしい事態を引き起こしてるような気がする。

「こっくりさんが帰ってくれなくて困る」なんて悩みは、オカルト雑誌を開けば、無難で妥当な解決を教えてくれる。学校の先生に尋ねても、もしかしたら否定されてしまう。じゃあこうした悩みをネットで公開したら、悩みは脆弱性そのものだから、どんな「権威」からとんでもない解答を突っ込まれても、子供には抗うすべがない。

こっくりさんはオカルトだけれど、たとえば「川をきれいにするにはどうすればいいんだろう」なんていう疑問もまた、問いとして漠然としすぎていて、厳密に科学的な立場からは、「これ」という解答を返せない。科学の権威たる大学のを門叩くにしても、そもそも誰に聞けばいいのか分からないだろうし。「こっくりさんが帰ってくれない」と悩む子供も、「川をきれいにしたい」と悩む大人も、どちらも等しく「不思議の問いを抱えた人」であって、こうした問題に答えを返すのは、科学ではなくオカルトの役割なのだと思う。

不思議の問いに対して、無難な落としどころが見つけられないと、「私は答えを知っています」という人がそれを利用しにかかる。オカルトに対抗意見があることはまれなのに、不思議の問いを不思議と認識できない人は、反対意見がないことと、それが真実であることとを等しいものだと認識してしまう。

「癌の構図は実は単純」であったことに気がついた西洋医学の医師が、「有用菌のエキス」で作ったドリンクを紹介していた。「癌の構図」というテーマは、科学で取り扱うにはまだまだ大きすぎて、大きすぎる問題が、果たして単純なものなのか、それともその大きさなりに複雑であるべきなのか、昔ながらのオカルトは、「大きな不思議は基本的に恐ろしく複雑である」という立場を取るから、「実は単純」という解答は、科学としても、オカルトとしても、ちょっと異なっているように思えた。

「事実」と「虚偽」との間には「不思議」があって、不思議を扱うためには、不思議とのつきあいかたを学ばないといけない。理科の授業の一番最初にでも、まずはオカルト雑誌の読みかたあたりを講義してほしい。

2011.07.14

説得の技術について

踏み込んだ解答は難しい

資料を調べて、何かを書いて発信するときには、まじめに資料を調べるほどに、踏み込んだ意見を述べることが難しくなっていく。

何かを発信する際には、「こうだ」と断言してみせないと迫力がでないし、何よりも書いている本人がつまらないのだけれど、調べた上で踏み込むと、資料の範囲を簡単に超えてしまう。

文章を書く訓練ができている人ならば、資料を集めて、その範囲で迫力のある自説を展開することもできるのかもしれないけれど、素人はどうしても、「まず論ありき」になる。論をまとめて、それを補強してくれるような資料を探して、資料が見つからなかったり、資料に照らして踏み込みすぎている文章は、あとから削られることになる。

最後は結局、面白さと正確さとのトレードオフになる。資料を引いた「○○らはこう述べている」という言葉一つとっても、異なった文脈で引用すれば、踏み込みすぎになる。以前出版させていただいたコミュニケーションの本にしても、最初に「こうだ」と書いた文章と、資料を引いて本に仕立てた文章と、結局200回以上の書き直しが必要になって、中身はほとんど別物になった。

明快な解答が出せる問題は前提を間違えている

普段ネットに文章を書くときには、いちいち資料を引くわけにはいかないから、「と思う」とか、「という気がする」という文末が多くなる。資料を引けば、検証の責任が発生するけれど、「私はこう思った」という文脈で逃げておけば、その必要を回避できるから。これをやるとどうしても、文章が寝ぼけて、解答が曖昧になる。「こうだ」という明快さは遠のくけれど、世の中のある事例に対して、「こうだ」という明快な解答が出せるケースは、そもそも少ない。

ある問題に対して明快な答えが導けるのなら、たぶん問いの立てかたを間違えているし、解答の正しさが疑いなく検証できることは、その問いが前提とする何かが正しいことを意味するとは限らない。

たいていの人はたぶん、曖昧な解答よりも、明快な解答を好む。

二酸化炭素が嫌いな人は、健康にいいキノコを買ったり、磁気ネックレスを愛用したり、水に毎朝挨拶をしたりする。こういうのはどれも、その人が「明快な解答が出せる問題」を好んだ結果なのだと思う。問題に対する解答が「これ」と断定されて、ならばその問題が取り扱う前提が実世界に対して本当に正しいのかどうか、検証作業の退屈さが、疑問を遠ざける。

間違った問いに対する明快な答えは、正しい問いに対する意味を持たない。ネズミの実験で成功した薬が、人体だと有害な作用を引き起こしたりすることは珍しくないし、実際に試してみるまで、それが有効なのかどうかは分からない。理想化した、実世界に対してあえて「間違った」状況を前提にした問いに対して、どれだけ明快な答えが得られたところで、それが実地の問題に対する答えになっているのかどうかは、実地で検討するまで分からない。

「この靴はすばらしい作りですから、あなたは足の指を切り落とすべきです」なんて、足に合わない靴を靴屋さんから勧められたら、お客さんは逃げ出す。「この解答は明快だから」と、間違った前提に同調を強いられて、何となくそれを受け入れてしまう機会は、案外多い。

努力には見返りが必要

「明快な回答が得られる前提」を発明して、他者の同調に成功したら、今度はそれを定着させる必要が生まれる。定着にはたぶん、ロールプレイングゲームをデザインするときと同じような考えかたが必要になる。

実社会では、普通の人はただ生活する。時々偶発的にトラブルが起きたり、チャンスが巡ってきたりして、それを解決したあとは、またいつもの生活に戻る。

明快な解答に同調した人は、問題解決のために日々行動することになる。定着を目指す際には、「大きな目標」をどれだけ磨き上げても効果は薄くて、そこに到達するための道筋に、解決可能な小さな問題を、いくつも人為的に作り込んでおく必要がある。

壮大なテーマのゲームであっても、たとえばゲーム開始後12時間、ひたすら「お使い」の日々を堪え忍ばなくてはいけないのなら、ユーザーは途中で飽きてしまう。ゲームにはだから、そのときの力量に見合った小さな問題と、それを解決した際の賞賛とが作り込まれていて、ユーザーを飽きさせないよう、様々に工夫されている。

カルト団体から抜け出した人は、もっと経済的に豊かであるはずの日常生活に戻っても、時々元の団体に戻ってしまうのだという。理由の一部はたぶん、「問題が向こう側からやってくる」ことに慣れてしまうと、「解決すべき問題がやってこない生活」に、耐えられなくなってしまうからなのだと思う。

壮大な目標を見つめていると、手に負える大きさの問題が、定期的にやってくる。それを解決すると一定の賞賛がもらえて、しばらくするとまた別の問題がやってくる。大きな目標への進捗は逐一報告されて、自分が今どのあたりにいるのか、まわりはどうなのか、努力の成果がフィードバックされる。成功しているカルトはたぶん、どこもこうした仕組みを持っている。

知識はあったほうがいい

相手を大衆運動に巻き込むような誘導を行うときの基本は「聞くこと」なのだという。思想を吹き込むのはずっと後の段階で、最初はもう、自分の側からは一切口を挟むことなく、相手の思いを聞き続けるのが大切なのだと。大衆運動の「オルグ」と「カウンセリング」とは、だから外から見るとほとんど区別ができないもので、実際に個人を誘導するときには、そうでなくてはいけないのだという。

オルグにしてもカウンセリングにしても、最初はただ、相手の意見を傾聴する。傾聴して、相手の抱える問題がはっきりしたところで、カウンセリングはここから、相手の内部に興味の対象を移して、その人自身による問題の解決を目指す。オルグは逆に、ここから「外」に舵を切る。その問題はその人の内部ではなく、社会の側に問題があるのだと、自己を強力に肯定してみせる。あなたは正しい。「だから」一緒に、間違っている社会を変えましょう、とつなげる。

問題意識を外に向けて、明確な回答が導ける前提を世界に投影して、定着に必要なサービスを提供することで、同調する人は増えていく。

「説得的コミュニケーション」に分類されるこうしたやりかたを知っておくと、じゃあ日常生活で何か大きな力が得られるかと言えば、全くそんなことはないのだと思う。説得的なコミュニケーションを行う、意図に基づいて、相手の見解を書き換える必要が発生した時点で、すでにそのコミュニケーションは失敗しているとも言える。決定的な見解の相違を回避できるのならば、妥協することで交渉は成立する。妥協の結果は明快には遠いけれど、実用的にはそれで十分役に立つから、説得の必要は、普通に日常生活を送る分には生まれない。

洗脳やマインドコントロール、大衆扇動の技法というものは、個人的には大好物な話題なのだけれど、普段は全く使わない。コミュニケーションの本を書く上で、だから結局、こういう技術についてはほとんど言及しなかった。

そうした知識を使う機会がないからといって、じゃあそれを知る必要は一切ないのかといえば、それはまた違う。「安全運転」は、免許をとりたての初心者にだってできるだろうけれど、危険な運転を知らない人には安全な運転はできないし、危険を知らない人の「危険でない」運転と、危険を知った人の「安全な運転というものは、質的には全く異なってくる。

免許を取ったばかりのドライバーは、ただ道をまっすぐ走るだけで肩が凝る。肩の力を抜いて日常のおしゃべりを楽しむためにこそ、説得の技術を学ぶ意味があるのだと思う。

2011.07.06

悪い知識は大切

道徳は大切だけれど、道徳的な人間を生み出そうと思ったときに、道徳だけを教えたのでは片手落ちなのだと思う。道徳というものは、不道徳な「悪い知識」を土台にすることで、初めて堅固な力を持てる。

道徳の効用

理念や道徳というものは、「手続きに従えば簡単に扱える人間」を作る手段として役に立つ。

道徳を、道徳単体として「正しいものだ」と習った人は、道徳的に基づいて何かを促されると逆らえないし、よしんば法律に違反するようなことを命じられても、それが「道徳的なのだ」と強弁されると、高い可能性でそれに従ってくれる。

他人を陥れる方法や、欺瞞を運用して誰かに特定の振る舞いを強要する方法を教わった人は、人を操作するための手続きを見破ることができる。こういう知識を持った人は、運用された道徳から自由でいられて、結果としてたぶん、道徳や理念はどういうものが好ましいのか、自分の頭で考えられる。

どちらの人間がより好ましいのか、仕事や立場によって様々だろうけれど、世の中には少なくとも2種類の教育手段が存在して、人の性格はずいぶん異なってくる。

たとえばカルト宗教にはまるのが悪徳であったとして、「カルトは悪徳だから耳を貸してはいけない」と教えると、逆説的に信者を増やす。「耳を貸してはいけない」と教わる人は、防御のすべを知らないから、怖いもの見たさでカルトに近づくと、抜け出せなくなってしまう。カルト教祖が使う技術を解説して、それを観察して楽しむよう促すと、みんながカルトを観察した結果として、カルトの教祖はもう、教祖でいられなくなってしまう。

信者の知識と教祖の知識

新興宗教に入信した人は、お互いの信仰を競うことになる。教祖の教えにより深く傾倒した人が、信仰を深く理解していることになって、競争を勝ち抜いた人は、兵隊の位が上がる。

新興宗教の教祖になるような人は、たいてい別の教祖に学ぶ。その人の教義を学ぶのでなく、教祖としての振るまいかたや教えの広めかた、教団のまとめかたや、教義に入れておくと便利な教えを、教祖の観察を通じて学ぼうとする。

信者の作りかたと教祖の作りかたは全く異なって、信仰が熱心になるほどに、逆説的に、教祖の椅子は遠ざかっていく。新興宗教だけでなく、あらゆる業界に、「教師から学ぶ人」と、「教師を見て学ぶ人」とがいて、学びの先に到達する場所は、お互い異なってくる。

教祖と信者とがいる組織から、ある日教祖がいなくなってしまうと、信者は迷走してしまう。

教祖を観察するような人は信者として不真面目で、教団の上位に居場所がないし、教団の教えに深く傾倒していた人には、教祖の代わりを務めるのは難しい。教祖の技術を失った教団は、テープレコーダーのように教えを機械的に繰り返すかもしれないし、あるいは「教祖の技術」を習得した誰かを捜して、教団を離れる人が出てくるかもしれない。

教祖を失った組織はたいてい、「純化を目指す人」と「裏切り者」とに分断されて、純化を繰り返していく中で、教団は衰退していく。

今の政府は迷走しているけれど、あれは何となく、「教祖としての学び」を会得した人が誰もいない状況で、「まじめな信者」の集まりが右往左往しているように見える。信仰が深い人というのは間違いなく「まじめ」ではあるけれど、それを運用する人がいなければ、どれだけまじめに教義を極めても、結果にはたどり着けない。

悪い使いかたは大切

知識には「いい使いかた」と「悪い使いかた」とがあって、学んでいく中で、「いい使いかたしか学べない」学問というのは、ありかたとしてどこかにゆがみを抱えている。

医学知識は悪用可能だし、たいていの工学知識も同様で、生産のプロはたいてい、同じ技術で破壊のプロにだってなれる。いい使いかたを学んだ結果として、必然的に悪い使いかたを習得することになる、あるいは深く学んでいく上では悪い知識が欠かせないのが技術であって、「いい使いかたを一生懸命学びました。私は善です」という人は、だからまだ学んでいないのだろうと思う。

「本物のプログラマは、その言語でその言語自身を破壊するコードが書ける」のだという。自分たちは普段、技師さんたちとおしゃべりをするときに、「この病院を破壊するとしたらどうする?」なんて話題を出す。専門ごとに、思いもよらなかった脆い場所を教えてくれたりして、各科の文化を学ぶいい機会になる。

どれだけ堅固に見えるものにも弱い場所がある。技術に通じた人は、弱い場所の突きかたも、回避のやりかたにも通じている。「この技術は完璧だから安全対策など必要ない」と突っぱねた原子力技術の人たちは、そういう意味で「本物の技術者ではなかった」のだろうし、たとえば松下政経塾のような政治家を養成する施設が、、誰かを陥れる方法や安全な賄賂のもらいかた、公衆の面前で誰かを侮辱するときの作法といった「悪い技術」を教えていないのならば、あの場所で教えているのは技術ではないんだと思う。

沼の上にお城は建たない

たとえば政治家には、「政治屋」に必要な知識と「政治家」に必要な理念とがある。どこで足をすくわれるのか分からない政治の世界にあって、そこにしっかりと立ち続けられる「政治屋」としての能力を地盤にして、初めてたぶん、「政治家」としての思想や言葉が生きてくる。

強固な地盤に大きなお城を建てる義務はないし、「地盤だけあって何もしない」というありかたも、処世術としては一応理にかなう。ところが「巨大なお城を沼地に作れば、沼が堅固な地盤に変化する」ことがありえないのと同様に、「政治家」としての思想や理想がどれだけ高くても、手続きの瑕疵は理想の高さで穴埋めできない。

高邁な思想に基づいて、正しさに邁進していることは、ちょっとしたお手つきを無視できる理由にならない。プラスとマイナスとが相殺できるのは、数学みたいなごくごく特殊な分野で許された例外であって、プラスをいくら積んだところで、作ってしまったマイナスは、実社会では二度と消えない。こんな感覚が、恐らくは「屋」としての常識であって、それを学ばないで「家」を目指した人は、どこか転ぶともう起き上がれないし、そもそも自分がどうして転んだのか理解できないから、任せると同じ失敗を繰り返す。

医学部では昔、「素晴らしい医師になりなさい」と教わったけれど、何をやると「素晴らしくない」のか、どういう状況からトラブルが生まれて、それをどうやれば回避できるのか、そういうのは習わなかった。

相性の悪い患者さんとは普段以上に丁寧に応対しないとトラブルになる。将来お世話になるかもしれない研修医には、罵倒しないで丁寧に接する。看護師さんにはへりくだっておくと、いざというとき味方になってもらえる。こういうくだらない知識を蓄えて、10年ぐらい病棟で生き延びると、外面だけはそこそこ道徳的な医師として振る舞える。これを道徳で教えると、「厳しい代わりにやることはやるぜ」なんて俺道徳持ち出す医師が地雷を踏んで、味方がいない状況で自爆した結果として、吹き飛んで、たいてい二度と戻ってこない。

「屋」の要素と「家」の要素と、たぶんあらゆる専門職種にこうした分類があって、「家」の高みを目指すのならばなおのこと、地盤となる「屋」の要素に通じていなくてはいけないのだと思う。