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2011.06.30

コンテストのドレスコード

コンテスト形式によるアイデア探索を成功させようと思ったら、チームのドレスコードにも気を配る必要がある。負けられない看板を背負ったチーム、学会の名前で参加したチームや、サークル名を持たない、大学名をそのまま背負ったチームがコンテストに参加してしまうと、面白いアイデアは殺されて、他の参加者にも迷惑になる。

アイデア探索手段としてのコンテスト

問題が漠然としすぎていて、どのアイデアが有望なのか現段階では見えないときには、コンテスト形式の問題解決手法が有効なことがある。

たとえば風力発電は、鳥人間コンテストみたいなやりかたで、コンテスト形式でアイデアを募集できると面白い。あるエリアを指定して、1週間なら1週間に期間を区切って、総発電量で優劣を競ってもらい、それを数年単位で繰り返せば、恐らくは「これ」という定番のデザインに収斂する。そのやりかたはたぶん、作りやすくて効率がいい、もっとも実用的な発電のデザインにもなっている。

プライベートチームにも手が届く規模でコンテストをデザインできれば、比較的短期間で有望なアイデアが固まってくる。こうしたやりかたは、大きすぎる問題に対して暫定的に優れたやりかたを導くための、いい方法なのだと思う。

負けるられることに意味がある

メーカーの「社運をかけた開発」や、権威を招いた学術会議が主導する開発は、何らかの成果を結果として残せないと次がない。こうしたやりかたのほうが、開発にかけられるコストは多いだろうけれど、失敗が許されないプロジェクトは、アイデアの探索が難しい。

負けられない試合に臨んだチームは、勝つアイデアよりも負けないアイデアを好む。優勝でなく努力賞を目指す。みんなが努力賞を狙った結果として、学生のコンテストならたどり着いたであろう「これ」という解答は、もしかしたらかえって遠ざかる。

コンテスト形式の問題解決は、プライベーター同士がアイデアをぶつけ合う。敗北を受け入れやすいルールは、アイデア探索の段階において、得難いメリットとして効いてくる。

気持ちよく負けられるルール

コンテストを設計する上では、「気持ちよく負けられる」ルールが大切になってくる。

気持ちよく負けられるルールというのは、たくさんの賞を作るのとは違う。「盛り上げましたで賞」みたいなものをたくさん作って、それをもらうことが目標になってしまうと、そのコンテストからはアイデアが期待できなくなってしまう。優勝以外は考えられない、勝利条件が分かりやすいシンプルな目標が設定されていることが大切で、「技術のすごさを審査員が点数化する」ようなやりかたからは、アイデアは逃げていく。

敗北のダメージが最小になるよう配慮されていること、再戦の機会を保証することも大切になる。メーカー対抗時代の自動車競技は、メーカーの面子がかかっていたから、負けられなかった。シャパラルやブラバムみたいに、面白いアイデアで勝利をさらうチームは、せっかくのアイデアが政治問題になって、優勝が取り消されたりした。負けられないチーム同士の戦いは、「これ」という定番が固まった状態で争うのなら楽しめるけれど、アイデアの探索が十分に済んでいない領域でこれをやると、泥試合になってしまう。

グループC時代のポルシェがよく行っていた、プライベーターにメーカーのワークスチームが肩入れするようなやりかたは、面白い解決策なのだと思う。ワークスの技術はもちろんすごいから他チームの目標になるし、それでもそのチームはプライベーターだから、敗北のダメージはメーカー本体にまでは及ばない。ハイキングで「当日は動きやすい格好で来て下さい」と注意するのと同様に、コンテストに参加する人たちには「敗北を受け入れやすいドレスコードを背負ってきて下さい」と注意すべきなのだと思う。

大きな問題を解決するときには、たいていはいろんな分野から権威の人たちが集められて、委員会が作られる。負けられない看板を背負った人たちが、あやふやなルールを戦って、会議室からは無数の努力賞だけが量産される。

優勝カップがほしいのならば、優勝を狙えるルールを設計すべきなのだと思う。

2011.06.29

「新聞の裏側」というサービスがほしい

メディアとしての新聞が、報道を通じて、裏側でどんなことを考えていて、世の中をどういう方向に持って行きたいのか、報道された記事だけを追っかけていても、なかなか見えてこない。

裏側の思惑みたいなものは、むしろ「報道されなかったこと」を通じると見えてくる。あらゆる事実がどこかで報道されている現在ならば、たとえば朝日新聞なら、「その日朝日新聞が報じた事件」と、「その日朝日新聞が報じなかった事件」とを併記して、それを通じた「朝日新聞的なものの考えかた」の理解を提供する、そんなサービスがあったらうれしいなと思う。

扇動の昔

昔の扇動者は政府の不作為を叩いた。「私のつかんだ事実によれば」と論をおこして、政府のだらしない部分を暴いて見せて、政府の転覆を約束することで、聴衆から寄付を募った。

事実を得るにはお金がかかるし、危険が伴う。他のメディアが報じていない、その人しか知らない事実を知るためには危ない場所に入り込む必要もあるし、そんなことを毎日続けられるわけがないから、事実を切り売りする仕事を個人で続けるのはとても難しい。事実を取材して販売する、それを続けているマスメディアは、たしかに儲けているのだろうけれど、その反面、情報の収集に、莫大な資金を投じている。個人の取材者がマスメディアに互していくのはまだまだ難しい。

今の扇動者は、政府は、あるいはマスメディアは「真実を隠蔽している」と叩いてみせて、「真実が知りたいのならばこのメルマガを」と論をつなげる。これはけっこう手堅い商売になっているのだと思う。

ゆがみのない事実の探しかた

ゆがみの少ない情報というものは、公開されている記事から導くことができるのだという。

佐藤優さんの本に、情報収集の大半は、新聞をはじめとする公開されている情報からの抽出なんだと書かれていた。ソビエト連邦のプラウダにしても、ゆがめられたことしか書かれていないのだけれど、ゆがみが常に一定だから、元情報を復元できる。外務省職員がまずやるべき仕事は、その日その国で発行されている全ての新聞に目を通して、ある新聞に「何が書かれていないのか」を見つけ出すことなのだと。

個人ジャーナリストの人たちは、自らの経験や知識を利用して、既存メディアの報道から正しい情報を導いてみせる。これをやるには経験がいるし、その経験が本当に当てになるのかどうか、導かれた事実に本当にゆがみが残っていないのか、検証できない。このあたりの逆算を機械的に行えると、記事を読むときの参考になるのではないかと思う。

こんなサービスがほしい

たとえば「その日朝日新聞が報道しなかった記事」の一覧が読めたなら、朝日新聞それ自体を、ずいぶん違った目線で読めるようになる。その日の紙面を作った記者の人たちが何を考え、どんなゆがみを抱えて、あるいは押しつけられているのかを考察できる。

今のマスメディアは「全てゆがんでいる」ことになっているけれど、記事の数は十分に莫大で、ネットを通じて容易に収拾できる。その日にネットで公開された全ての新聞記事をクロールして、タグ付けを行った上で、そこから朝日なら朝日新聞に載った記事を引き算すると、「その日朝日新聞が報道しなかった記事」を閲覧することができる。タグ付けさえ終了すれば、裏朝日、裏日経、裏毎日、裏赤旗みたいな記事リストが、クリック一つで選択できる。

タグの精度を増すような仕組みが作れれば、たとえば読売新聞の記事の最後に、「この記事を朝日が報道しない確率は○%」「この記事を赤旗かスルーする確率は○%」みたいに、予報を重ねることもできる。「記事を批判的に読む」という作業に数字の裏付けが得られるから、役に立つと思う。

記事の収拾と解析というものを、新聞社の人たちがどこまで許してくれるのかが問題になるだろうけれど、公開情報を収集することで、けっこう面白い結果が得られる気がする。

2011.06.23

恐怖と信頼

「状況の無防備さ」と「猜疑心」とを積算したものが「恐怖」の総量となる。猜疑心が低くなると、信頼は高まっていく。

無害な人間と、信頼できる人間とは異なる。いざというときに、無害な人間は頼られることなく、むしろ真っ先に切り捨てられる。信頼できる人間であろうと思ったならば、約束をただ守るのでなく、約束が交わされる状況について気を配る必要がある。

恐怖は少ないほうがいい

怖いのは誰だっていやだから、人間は常に恐怖の総量を減らそうと試みる。怖い状況をそうでない形に持って行くことが理にかなったやりかただけれど、状況を無防備なままに固定されてしまうと、その人にはできることがなくなってしまう。それでも恐怖はいやだから、状況の改善を禁じられた人は、猜疑心の減量を試みて、逆説的に相手に対する信頼が高まってしまう。

整体やマッサージのようなサービスは、療法師に対して背中を向けた姿勢になることが多い。お客さんの側は、お店の人に対して無防備であることを強いられる。

相手が見えないのは怖いけれど、サービスの前提上、その姿勢は変更できない。怖いまま我慢するのはいやだから、お客さんは結果として、「このお店の人は信頼できる」という判断を暗黙に下す。

フロイトの昔、インタビューを行う人は、患者さんから見えない場所で行われたんだという。患者さんはソファーに腰掛けて、分析者はソファーの背後に腰を下ろして、患者さんの声を聞いた。これは患者さんが緊張しないようにという配慮だったようだけれど、別の効果もあったのだと思う。

無防備な姿勢と説得力

無防備な姿勢が前提のサービスは、それをサービスとしてお客さんが受け入れる限り、恐らくは説得閾値を大きく下げる。

整体師の言葉が、時々強力な説得力を生むのはそのためなのだろうし、秋葉原で昔流行した「耳かきサービス」のお店もまた、耳かきという体勢と、何らかの説得的コミュニケーションがセットになったのならば、強力な信頼を生んだのだろうと思う。

視界から隠れる、あるいは目隠しをする、耳かきみたいに動いたら危ない状況を作る、とにかく本人が「無防備だ」と感覚する状況は、その人の説得閾値を下げる。病院では普段、お客さんと話すときには1m ぐらいの間合いを取って、相対して会話する。あれはそういう意味で、「私たちは他人同士ですよ」という、説得閾値をむしろ上げるやりかたになっている。

催眠術の実演は、相手を目隠しした上で、催眠術師が相手の背中側から語りかける。ああいうやりかたは説得の手段としては理にかなっていて、病院があれをやってもいいのなら、説得は相当に楽になる。

説得と恫喝

「説得」と「恫喝」というものは地続きなのだと思う。言葉や暴力による明示的な恫喝も、お互いのポジショニングが生む暗黙の恫喝も、相手の状況を無防備な側に追いやる。状況を無防備にした上で、相手による改変を禁じれば、結果として恫喝が信頼に転化する。

暴力見せてから、「私はこれ以上の暴力を行使しません」と宣言すると、そう宣言された側にはそれ以上できることがなくなる。それでも暴力の記憶は怖いから、それを減じようとした結果として信頼が高まる。「昔ワルだった」人が持ち上げられたり、暴力をふるう夫がいる家庭が崩壊せずに続いたりする原因一部には、こうした機序が信頼を生むからなのだと思う。

信頼というものは、内面の「まじめさ」が生むのではなくて、お互いが置かれた状況と、場の猜疑心が作り出す。それが正しいことなのかどうかはともかく、信頼というものは、部分的には演出を通じて人工的に作り出すことができるし、それをやる人と、やらない人とでは、やる人のほうが信頼される。

医師の白衣や外来ブースの構造、真っ白に塗られた廊下の壁や、複雑に入り組んだ病棟の構造は、説得と信頼の道具として有効に利用できる。そうすべきなのだと思う。

2011.06.20

危機の対応と機会の対応

外乱と遭遇した際の対処には、「危機の対応」と「機会の対応」とがあって、目指すべき目標や、優先すべき物事が異なってくる。

危機管理者がまず行うべき仕事というものは、「それが危機である」と認識することで、危機と機会との区別に失敗すると、あとからどれだけ努力しようと、対応の遅れが取り戻せない。

タマちゃんブームの昔

ずいぶん昔、「タマちゃん」というアザラシが多摩川に出現したとき、PR会社の人は、あれを「危機である」と看破したんだという。

国が管理している河川にかわいらしい生き物が出現して、あれを「広報のいい機会」ととらえてしまうと間違えてしまう。野生動物には不確定要素が多くて、突然死んでしまう可能性が当然のようにある。ブームが盛り上がっていたとして、そのときに河川の管理者である国の責任がどの程度問われることになるのか、それが予測できない。

河川の管理者にとって、「タマちゃんとの対峙」が何をもたらすのか、予測ができないものについては、危機管理の目線で対応しないと失敗する。あれを「機会」ととらえて、国が主導して盛り上げてしまったなら、たぶん生物保護団体の人たちが黙っていなかっただろうし、人間が絡んだ事故でアザラシが死んでしまったならば、観客の全てを敵に回してしまう可能性があった。

危機と機会を区別する

危機というものは機会の顔をしてやってくる。あるいは逆に、危機に見えるものが危機でない、むしろそれが機会であることもまた多い。

危機管理者が最初にすべきことは、危機と機会の区別なのだと思う。機会に見える事象を危機であると看破し、危機に見える事象を、これは危機でなく機会であると看破し、それぞれの対応を行うことで、初めて成功の可能性が見えてくる。そういう意味で、3月以降のたくさんの災厄について、今の危機管理者は、最初の仕事に失敗しているか、そもそもそれに着手できていないように思える。

危機と機会とを区別するものは予測可能性であると言える。どれだけひどい事故であっても、被害者の数が有限で、そこから先が予測可能であれば、それは危機ではなく機会である可能性が高い。かわいらしい生き物がやってきたときに、その行動や反響が予測できないのならば、それは危機として扱わないといけない。

3月の災厄については、地震それ自体については機会として扱える可能性がまだあって、原発の事故は間違いなく危機であると言える。今の政府は、地震の被害に危機の対応を、原発の事故を「機会に」太陽光発電をとり入れようとしているけれど、あれは両方とも逆だと思う。

リソースの使いかた

機会対応と危機対応のやりかたはそれぞれ異なる。それがもたらすメリットを最大にするのが機会対応ならば、それがもたらす害悪を最小化するのが危機対応の考えかたで、いずれにしても「ちゃんとやるには時間が足りない」ことだけが共通している。

機会対応は、事象によって被害を受けた人への配慮が最優先になる。被害がそれ以上拡大しない、被害を受けた人の不満がコントロール可能になっているという前提があって、初めてその事象を機会として生かすことができる。

危機対応の失敗は、たいていの場合身内が引き起こす。リーダーが危機を宣言したのに、周囲がそれを機会として利用しようと試みたり、危機の対応で固まるべき組織に、外側から何らかの「ゆるみ」が見えたら、チームに対する信頼は瓦解する。危機においては、危機それ自体や危機の被害者よりも、まずはチームで「これは危機である」という認識を共有することが欠かせない。

機会対応の場においては、観客は未来に目を向ける。きちんとしたロードマップの元に、壮大な目標を示すことができれば、リーダーには大きな得点が稼げる可能性が出てくるけれど、そうした目標は、その機会で損害を被った人の声を土台にしている。「被害者の声」と「未来の目標」とは、ちょうど地盤と建物の関係にある。声の大きさを目標の大きさで隠蔽することはできないし、それは脆い地盤に大きな家を建てるようなもので、信頼は簡単に崩れてしまう。

危機対応というものは、「リーダーがまじめな顔で無為に立っている」だけでも、40点の赤点が獲得できる。それでは合格に足りないとはいえ、40点から20点を積むだけで合格圏に到達できる。60点を積む必要はないし、ましてや100点を目指す必要もない。リスクを冒せば100点を取れるだけのリソースを使って、あえて20点を取りに行くのが危機対応の考えかたであると言える。

まじめな顔をしたリーダーの横で、部下がヘラヘラと笑っていたら、せっかくの40点は失われてしまう。20点を獲得するためのプランで、今度は60点を獲得する必要が生まれて、こうなったらもう危機対応は成功しない。危機対応の場にあって、「これを機会に」は禁句で、それをやると、危機の対応も機会の対応も失敗してしまう。

2011.06.17

想起のポイントを統一する

実際に試したことはないし、それを試みて成功している事例を耳にしたこともないのだけれど。

「あぁ」という体験のこと

自分は普段、患者さんのことを、病名と処方で思い出す。問い合わせに対して、その人の名前や住所を伝えられても、その患者さんのことを思い出せないのだけれど、たとえば「高血圧でブロプレスが処方されていて、」なんて情報が入ると、「あぁ」という想起がはじまって、その人のことを全部思い出す。

患者さん本人を目の前にしても、患者さんのことはしばしば思い出せないし、「あぁ」という体験は生まれない。本人というのは、生情報そのものなのに、「あぁ」が訪れない限り、薄い霧を隔てたような感覚が残ってしまう。たとえ患者さん本人がそこにいなくても、たとえば自分で書いた処方箋を見せられると「あぁ」がやってくる。その人の顔やしゃべりかた、おしゃべりの中で触れられたご家族のことなど、様々な記憶がよみがえることで、はじめて業務を行う準備が整う。

職種が変わると想起ポイントが変わる

「あぁ」のとっかかりは職種ごとに違う。事務の人たちは、名前とかカルテ番号で想起をかける。以前努めてた病院の事務さんで、患者さんの声を聞いたらその人が誰なのか、全部思い出せる人もいた。

想起のポイントが異なる人間同士が会話をすると、会話の前半部分が丸々無駄になる。「○○さんという患者さんがいて、○○市にお住まいで、○歳の男性なんですが」といわれても、自分にはなんのことなのかさっぱり分からない。「高血圧で…」と言葉がつながったとたん、「あぁ」となる。

逆のパターンも当然あって、自分が事務の誰かに電話をして患者さんのことを問い合わせるときには、病名だとか処方、外来日から入るから、彼らにはきっと、その情報が想起の役に立っていない。ほんの数秒だけれど、これをゼロにできると快適度は相当に上がるのだと思う。

電子で情報を全部飛ばせる時代になっても、状況はたぶん変わらない。莫大な情報を前にできたところで、それを処理する人間の脳は昔ながらで、全体の効率は人間要素が決定する。インフラの効率向上は、人間の効率不足を補えるとは限らない。

組織の文化を創るもの

外科医は手術創で患者さんを想起するとか、産科医は患者さんを分娩台に上げないと相手が誰だか分からないとか、ああいう都市伝説には一定の真実があって、そういうものが、恐らくはその専門科ごとの空気とか、考えかたを生み出している。これは病院だけでなく、企業のようなもっと一般的な組織においても同じなのだろうと思う。

想起の起点を、たとえば新人教育の過程で、あらかじめプログラムとしてその人に組み込むと、会話開始直後の数秒間が節約できる。

想起のポイントが共通する人間同士の会話は、それがずれている人に比べて快適だから、想起のポイントは自己増強的に組織の空気を変えていく。たとえば「絶対に名前から入る」という想起を共有すると、お客さんの名前を覚えることが職員の最重要課題になるし、「処方から入る」というやりかたを徹底すれば、疾患の解決により特化した文化が生まれる。「まずは分娩台に乗ってもらってから想起する」という産科の流儀も、憶測を挟まずに常に本人を目の前にしてから判断を行うという、確実さを最優先する空気を醸成する上ではとても有効であると言える。

「こういう考えかたをしましょう」とか、「お客さんのことを第一に」なんて理念を唱和するよりも、特定の想起ポイントを共有することで、その組織ごとの「らしさ」を、より確実に構築できるのだと思う。

2011.06.13

出会いの効用

何かを探すのと、出会うのと、そこに到達する手段が異なると、自身が受ける影響もまた異なってくる。

偶然の出会いを期待するのに比べれば、探すやりかたは圧倒的に効率がいいけれど、ランダムな何かを摂取することは、効率以上に重要であることも多い。

本屋さんの平積みは面白い

インターネットでは、自分に興味のある何かを検索して、ほしい情報に到達する機会が多い。ネットを通じて何かを探索していると、好ましいもの、自分の文脈から見て違和感のないものはいくらでも手に入るのだけれど、これを繰り返していると、初めて読むのに「読む」というよりも「思い出す」ような印象を持つ文章ばかりが目に入るようになってしまう。

はてなブックマークや Tumblr は、自分の興味によらない、ランダムな読み物に行き当たる機会を提供してくれるけれど、文章は短くて、誰かの嗜好に合わせた情報が選りすぐられて提示されるから、やはりこう、効率がよすぎる嫌いが残る。

今住んでいる場所にはそもそも本屋さんがないのだけれど、昔はいつも、仕事の帰りに本屋さんに立ち寄っては、ベストセラーの平積みをちょっと眺めたものだった。

本屋さんと自分とでは、本に対する好みは異なって、ベストセラーを書く作家の人と、本屋さんの感覚ともまた異なっていたから、平積みされた表紙には、自分がすでに知っている何かとは遠い文章が並んで、新鮮だった。

文字数からしたら、たとえば Tumblr の1日分と、本屋さんの平積みと、比べるまでもなくネットのほうが多いのに、自身がそこから受ける刺激の総量は、本屋さんの平積みは、ネットに互していたのではないかと思う。

穏やかな押しつけがましさ

インターネットは効率がいい。自分が行きたいところ、見たいものだけを見ることができるし、閲覧の選択肢もまた無数にあって、欲しいものだけが手に入る。なんでもできるが故に、ネットでは選択しないとはじまらないから、結果として、探索から自由になれない。ネットでは、異質な何かと出会うことが案外難しい。

Amazon は便利だけれど、リアル本屋さんにあってAmazon に欠けている体験というものが「出会い」なのだと思う。Amazon の在庫は事実上無限、絶版になった本ですら購入可能であることが多くて、検索できる本ならばなんでも購入できるのだけれど、Amazon には平積みの棚がない。ユーザーの嗜好に合わせた本のおすすめサービスはとても便利なのだけれど、店主の顔というか、平積みを通じた考えかたみたいなものを押しつけられて、それに影響されて自分が変わる、そうした体験がどうしても少ない。

「穏やかな押しつけがましさ」に接するのが大切なのだと思う。

平積み棚に積まれた表紙も表現であって、自分とはなんの縁もゆかりもない、好みや生活習慣が全然違う誰かの表現が、否応なしに目に入ってくる体験は、自分で選んだ文章をどれだけたくさん摂取しても、代替できない。

自分の中になかった感覚を、表現の形で押しつけられると、何かが引っかかって、たまに何かが変わる。こうした感覚は、むしろ普通の本屋さんで得られることが多くて、ヴィレッジヴァンガードみたいに、「アート」を前面に押し出した本屋さんだと、引っかかってくる感覚がかえって得られない。

それはヴィレッジヴァンガードが、店員さんの自由な感覚を尊重しながら、結果としてどこに入っても「ヴィレッジヴァンガードの文脈」で組み立てられた空気になってしまっているからなのかもしれないし、あるいはそれを「アートだ」と認識してしまうと、構えてしまって、そこから変化するきっかけが失われてしまうからなのかもしれない。

ランダムさを摂取すること

落としてしまった鍵を探すときには、明かりの下をどれだけ詳しく探したところで、鍵を落とした場所がそこでないのなら、鍵は決して見つからない。

ネットは広すぎて、自分が探索できる場所なんてごくごく一部でしかなくて、じゃあ他にどんな場所があって、どんな興味がそこにあるのか、それを探そうにも、そこは自分にとっては真っ暗で、どこに進めばいいのか分からない。

興味の有無にかかわらず、別の価値軸でランダムに何かを提示してくれるメディアを大事にすることで、新しい探索の機会を見つけたり、今まで見えなかった場所に光を当てたり、可能性はずいぶん広がる。

ネットが前提、出会いなんて面倒を経ることなく、ほしい情報に直接アクセスできる現状はたしかに便利なのだけれど、豊かなのとは少し違う。

情報には、探索要素と出会い要素とがあって、本屋さんや図書館、あるいは近所を散歩することなどを通じたランダムさの摂取を怠ると、どこかで興味の幅を狭めてしまうような気がする。

2011.06.08

タスクの階層化について

Google が提供しているToDo のサービスが、個々のToDo を階層化して管理できることに気がついてから、けっこう便利に使っている。

単純なリストを並べるのと、それを階層化するのとでは、ことにToDo リストにおいては意味合いが大きく異なってくる。階層構造にすることで、単なるメモ書きが、何かの目標を達成するための行動計画になったり、あるいはこれからさきの目標を考えるための道具として応用できたりもする。

具体的には「ゴール」と「目標」、さらに「行動計画」の3段階に、ToDoリストを階層化することで、「こんなことがやりたいな」という漠然とした願望を、具体的な手順のリストで記述することができる。

ゴールは大切

何かを達成しようと考えたときには、まずは大ざっぱにどんな方向に向かえばいいのか、ゴールとなる何かを、一言で記述する必要がある。

目につく仕事は無数にあって、優先順位はしばしば付けにくい。そもそも自分はどんなことがやりたくて、限られた時間をどの方向に振り向ければいいのか、ゴールというものは、そうした序列の根拠になってくる。

目標は計測できなくてはいけない

ToDo リストにどれだけ壮大なゴールを並べても、それはまだ、「こんなことができたらいいな」という願望でしかない。

ゴールに向かって状況を前に進めるためには、具体的な、なおかつ数字として計測可能な目標が必要になってくる。

たとえばきれいな部屋に住みたい、快適な生活をしたいというゴールを定めて、「部屋を片付ける」という目標をToDo リストの下位に書き込んでも、それが実現される日は来ない。「片付ける」は願望であって、どうなったら片付いたと言えるのか、何から手を付ければ効率的なのか、計測できない願望を目標に定めてしまうと、人は動けない。

「片付いた部屋」の代わりに、たとえば「床に本が散らばっていない」とか、「机の上には何もない」とか、数字で表現できる状態を目標にすると、現状と目標との隔たりが計測できる。それを実現するためには今度は何が必要で、それをどこから調達してくればいいのか、やるべきことが見えてくるから、今度はそれを行動のリストとして、目標の下位に記述すれば、実際に行うべきToDo リストができあがる。

どこから書いてもいい

ゴールとなる願望、「きれいな部屋」とか「快適な生活」みたいなものをまず夢想して、その風景をなるべく具体的に想像することで、達成すべき目標が生まれる。「床には本が無い」とか、「机の上にたまった書類は電子化してゼロにする」とか、具体的な目標が定まれば、そこに到達するための行動が決まる。

ノートでToDo を階層化する際には、大きな概念から作って行かないとページが埋まらないけれど、PC上でこれをやる際には、どこから手を付けても格好がつく。

ゴールが見えない現状であっても、とりあえず目について、片付けるべき何かというのはいくらだってあるから、まずはそれを行動リストに記入する。それを片付けた結果としてどういう状態が生まれ、それは結果として自分自身に何をもたらすのか、「行動」から「目標」が定まり、それが積み重なってある「ゴール」へと到達するような考えかたをしても、PCだったら簡単に階層をずらせるから、便利に使える。

けっこう大きなゴールから、身近なゴールまで、ゴールごとに目標と、その目標ごとに行動計画と、たかだか3段階のブレークダウンでも、けっこう大きなゴールへの行動計画が割合具体的に記述できて、行動リストは手持ちのスマートホンと容易に連携することができる。

目標を達成するためにどんな行動が必要なのか、逆に、漠然と片付けていた個々のタスクが、最終的にどんなものを生み出せる可能性があるのか、まめにToDo リストを作るとけっこう効率が上がると思う。

2011.06.02

評論について

単なる感想文と、評論とを隔てているものは、「トレードオフの可視化」の有無であって、分野の文理を問わず、評論を名乗る文章を書く人ならば、まずはこれをやってほしいなと思う。

軽量化のジレンマ

大昔、日野自動車がトラックの軽量化とコストカットを目指したモデルチェンジを行った際には、設計者は「シリンダーを減らす」という決断を行ったのだという。当時のエンジンは、伝統的に直列6気筒を採用していて、この形式は振動から見ると理想的な配列だったから、「直列5気筒の配列を採用する」という案は、当初ずいぶん議論が盛り上がったのだと。

軽量化の手段なら、たとえばもっと「ゼロ戦」的なやりかた、あらゆるパーツの配列はそのままに、個々の部品を極限まで肉抜きするような、負担を生産現場にしわ寄せするようなやりかたも考えられただろうけれど、直列5気筒という形式を採用した結果として、エンジン単体の振動はたしかに増したのだけれど、振動の中心点がうまい具合にずれて、排気系とエンジンとを接続すると振動のコントロールが容易になって、最終的に、軽量化とコストカット、振動の低減といった目標が、上手に達成できたのだという。

これは結果として大成功に終わったわけだけれど、こういう事例を「設計者の大胆な決断によって軽量化とコストカットを達成した」と書いてしまうと、それはどれだけほめても、単なる感想文になってしまう。

こういう状況を「評論」するのなら、それを描く人には、その人なりのエンジニアリングプランみたいなものを見せてほしいなと思う。同じ状況に自分が置かれたとして、軽量化の手法には他にどんなやりかたが考えられるのか。それぞれの利点と欠点は何なのか。設計者はどうしてこの手法を選択して、自分ならばどういう提案を行ったのか。実際に成功した、あるいは失敗したプロダクトを前に、決断というものは、どういう状況においてなされるもので、それはどういうジレンマを解決しうる、あるいは生み出しうるのか、そうした表現は、きっと分野を超えて役に立つ。

うまい設計と正しい設計

ある設計に基づいたプロダクトがあって、それが成功していようが、失敗していようが、評論をそうした結果から逆算するのは卑怯だと思う。

評論を行う人は、同じ状況にあって、自分のプランを頭の中で描いてみせるべきで、それができる前提においては、プロダクトは「エンジニアの正義」という視点で論じてほしい。

畑村洋太郎の 「実際の設計」というシリーズホンには、「イモ設計」という言葉が出てくる。結果としてうまい具合になっていても、設計者の正義に照らして「よくない設計」というものがあるのだと。

イモ設計というのは、たとえば一つの部品にいくつもの機能を兼ねさせることだとか、パッキンを気密でなしにクッションとして、本来の目的とは外れた使いかたをさせる使いかたであって、それを行うことで、たとえ「軽量化と低コストの両立」といった目標が達成できたとしても、今度は将来の機能拡張にその設計が対応できないとか、別会社のパーツで機械を修理するときに問題が発生するとか、「正義でない」設計は、どこかで別の問題を生んでしまうのだという。

正義の記述について

あらゆる分野に、「エンジニアの正義」に相当する考えかたがあるのだと思う。設計者に降りかかる要求と、実際に作れるものとのトレードオフを乗り越えたエンジニアは、今度はたぶん、成果を成し遂げたその設計が、果たしてエンジニアの正義に照らして正しいものなのか、自身に問いかけることになる。

もちろん世の中は結果最優先であって、大半の成功事例は「不正義だけれど優れた設計」によって達成される。「世の中の大部分が不正義でまわっている」からこそ、評論というものは必要であって、評論をする人は、り成果でなく、正義の視点からそれを評価してほしい。プロダクトが成し遂げた結果だけを見て、それをほめたり、叩いたりする。どれだけ美麗な文章でそれを書いても、それは単なる感想文であって、エンジニアの思いは見えてこない。

兼坂弘のエンジン評論には、どうしてこの場所のボルトはこの太さでないといけないのか、どうして結束バンドの本数は4本であって、5本ではいけないのか、そういう記述がたくさんあったように思う。読んだのは子供の頃で、本はもう、絶版になってしまったけれど。本田勝一の「日本語の作文技術」という本には、「全ての読点、句点には、そこにそれが置かれる理由が説明できる」のだ、なんて書かれていた。設計の考えかたは、恐らくはあらゆる分野に共通するものであって、作家が本を書く、ああいう営為もまた「設計」であって、「エンジニアの正義」に相当する何かが、あの業界にもあるのではないかと思う。

評論というものは本来、正義を記述するメディアなのだと思う。

正義というものは、それをそのまま言葉にすると、陳腐で空疎でありきたりなものになってしまうから、読者に伝えるためには手続きがいる。あるプロダクトを通じて、設計者が対峙していたであろうジレンマを可視化して、そのプロダクトがどうしてこういうありかたになったのか、設計者の思いや哲学を逆算してみせる。その上で、そのプロダクトはエンジニアの正義に照らしてどうなのか、それを評論してみせることで、読者には正義を想像する余地が生まれる。

そういうのを読みたいなと思う。