Home > 5月, 2011

2011.05.30

いい道具のこと

何かやりたいことがあって、それにふさわしい道具を探すのが正統なのだろうけれど、何か面白い道具を手に入れて、それを使ってみたいがために、何かをはじめるケースというのもけっこうあって、いい道具というものは、そうした人を動かす何かを持っているのだと思う。最近試しているものについて。

蛍光ペンを買った

ステッドラーのテキストサーファーゲルという固体インク蛍光ペンを買った。感触が面白くて、線を引きたくて、積んでいた専門書を何冊か消化できた。

蛍光ペンはページの裏写りが好きになれなくて、昔はずっと、蛍光色鉛筆を使っていた。LYRA のFLUOLINER 99 という蛍光色鉛筆の使い勝手が気に入っていて、昔は東京に出るたびに伊藤屋でまとめ買いしていたんだのだけれど、生産が中止になったとかで、もう手に入らない。残っていた在庫を全部買ったから、まだ手元には10本ぐらい残っているんだけれど、もうもったいなくて使えない。

蛍光色鉛筆は、昔はトンボも販売していたり、選択枝は他にもいくつかあったのだけれど、発色が今ひとつ地味だとか、書き味が固いとか、どこかもの足りなかった。今は PRISMACOLOR という銘柄を使っていて、このブランドは発色はそこそこ派手で気に入っているのだけれど、コート紙に線を引くと、色が薄くなってしまう。機能的には全く問題ないのだけれど、かといって、是非使いたいというものとはちょっと違った。

固体インク蛍光ペンは「滑らかな書き心地」をうたっていて、興味があった。繰り出し式のクレヨンみたいな製品で、うたい文句のとおり、たしかに滑らかで、クレヨンで描いたような線が引けた。キャップをして保存しないといけないし、すぐにすり減るから線の太さは一定しないし、クレヨン独特の削りくずみたいなものが出るし、文房具としては、必ずしもよくできているとは言い難いのだけれど、滑らかな書き心地と派手な発色が新鮮で、本を読んでみたくなった。

ToDo リストのこと

Google のToDo リストサービスが、いつの頃からなのか、全画面で使えるようになっていた

Google のサービスは、電子メールとカレンダーぐらいしか使っていなくて、ToDo リストは使っていなかったのだけれど、ToDo を階層構造で管理できることが分かってから、ずいぶん使うようになった。

システム手帳の昔、ToDo リストはシステム手帳ならではの機能だった。普通の手帳でそれをやると、ページを使いつくしてしまうのだけれど、システム手帳はリフィルが足せたから、予定をToDo にリストアップして、それを片端からチェックしていけた。あれをはじめた頃はたしかに面白かったのだけれど、学生時代から研修医の頃、そもそも当時の自分には、そんなものに頼るほどの予定は入っていなかったから、そのうちシステム手帳自体を使わなくなって、時代はPDAに移って、それでも結局、ToDo リストは縁遠かった。

最初この頃、予定をとにかくリストアップして、それが面白かったのだけれど、そのうちリストがたまってくると、どうしてもチェックできないToDo が増えてきた。それは「カバンの中身を整理する」とか、「たまった書類を片付ける」とか、ToDo で片付けるには大きすぎる問題であって、手書き手帳の昔、こういうものをリストに作ってしまうと、もうずっと消せなかった。

犬のしつけをするときには、問題をなるべく小さくすることが大事なのだそうだ。「持ってこい」という動作一つ教えるにしても、何かものを投げて、それを拾って戻ってくるという一連の動作は犬が学ぶには大きすぎるから、まずはそれを「ものを投げたら追いかける」「落ちたものを拾う」「拾ったものを持って帰ってくる」といった要素に分ける。分割した要素ごとに、今度は犬が「そうせざるを得ない」環境を整えて、その動作を教える。要素要素の動作が完成したら、最後にそれをつなげることで、ようやく「持ってこい」が学べる。そうした一連の要素記述を、訓練士の人たちは「スクリプト」と呼ぶんだという。

ノートに鉛筆の昔から、大きすぎるタスクを分割する効用は説かれていたように思う。「何かのプロジェクトをはじめるときには、まずはノートを1冊用意しなさい」だとか、「タスクごとに見開き1枚を割り当てて、問題をブレークダウンしなさい」だとか、仕事術をうたう本で読んだ記憶がある。PDAの時代にも、恐らくはそうしたアプリケーションそれ自体は作られていたのだと思う。自分はその頃、ToDo リストからは離れていたけれど。

ToDo リストを階層管理することで、大きすぎる問題の分割と、分割した問題を片付けるためのリスト作りとが、同時進行で行える。こうした考えかたは全く新しいものではないし、やっている人は昔からこうしたやりかたをしていたのだろうし、スマートホンなど持ち出さなくても、ノートに鉛筆さえあれば、必要な機能はすぐにでも調達できたのだろうけれど、やっぱり自分は動けなかった。ノートの余白は居心地が悪そうだったし、PDAに手入力するのは、Palm に入れ込んでいた昔であっても、やっぱり大変な作業になったし。

最近、Google のToDo リストの変更を知って、Gtasks というAndroid アプリを使いはじめた。PCからブラウザ越しにToDo リストを呼び出して入力しておけば、あとはAndroid にリストが自動連携してくれて、これがありがたい。タスクを分割してリストを並べる、そうした動作が面白くて、必要がないものまでリスト化したくなる。

いいハンマーを手に入れた人は、大工仕事の予定が入っていなくても、あたりのものが何でも釘に見えるようになる。

それを使ってみたいから、何かの目的を探しはじめる、いい道具には、どこかそういう人を動かす力みたいなものが備わっているのだと思う。

2011.05.22

堅牢さについて

  • セキュアなシステムというものは、どこかに歴史を内包している。それぞれの階層は、それぞれの時代で使われた技術で作られていて、技術は階層をまたがないようになっている
  • 乗用車のパワーステアリングは古典的なギア機構だけれど、アシスト貴構は、それを包み込むような構造になっていて、精緻な制御と堅牢さとが同居している。フライバイワイアのシステムは、そのあたりどこか、過去を切り捨てた怖さがある。高性能を目指したシステムと、堅牢さを目指したシステムと、おそらく両立は難しいのだと思う
  • 東京都消防のPCが落ちた際、消防署の職員はビルの屋上に上がって火の監視を行った。現代の通報システムがダウンしたときに役立ったのは、江戸時代の火の見櫓のシステムだった
  • 米軍のミレミアムチャレンジにおいて、敵役を任命された将軍は、「開戦当初に米軍は敵の通信設備を破壊した」という設定に対抗して、サーチライトと手旗による通信を駆使した結果、演習とはいえ最新鋭の米軍を打ち負かした。これはハイテクに頼った米軍の限界を示したのと同時に、この将軍もまた海兵隊軍人であって、米軍というシステムの堅牢さを示した例であったともいえる
  • 計画停電の際、総電子化された基幹病院は、院内の通信が全て止まった結果として、業務が停止した。厨房も高層にあったから、食事の配膳はおろか、水が使えなくなって往生したのだと。紙カルテ併用、「厨房は水のそば」を守る施設は、全館停電の中にあって、最低限度の業務は止まらなかった
  • PCにはBIOS があって、ドライバがあって、OSがそれを支配して、さらに上位にアプリケーションが乗る。こうした構造もまた歴史の内包であって、堅牢さに貢献しているのだと思う
  • 基本的にはたぶん、現代にセキュアなシステムを組もうと思った際にもまた、進化の歴史を繰り返す必要がある。中心部分にはなるべく原始的な、できれば人力で動かせる、制御はラフでも確実な構造を用いて、それを外側から、機械や電子を駆使した精密な制御を試みる。システムを直接電子制御するやりかたに比べれば無駄が多いかもしれないけれど、こういう仕組みを作っておかないと、いざというときに「ここで決死隊を組織できれば何とかなる」ような状況は、そもそも生み出せない
  • 歴史を内包したシステムを「改良」する際には注意を払う必要がある。それを「無駄」と切って捨てるのが間違いであるのは当然として、その場所を改良する際には、そのときに使えた技術にはどんなものがあったのか、使える道具や技術にも、あえて制限を加えないと、堅牢さが損なわれてしまう可能性がある
  • ミュージカル「ライオンキング」の舞台には、びっくりする仕掛けがいくつも施されているけれど、基本的には全て「人力」で、電気仕掛けやCGのような道具立ては使われていない。そうしたハイテクを用いれば、もっと安価に、もっと大がかりな舞台を作ることができるかもしれないけれど、あえてそれをやらないで、昔ながらの技術に現代の発想で挑んでみせることで、あの驚きが生まれたのだと思う。歴史を内包したシステムを改良する際にも、たぶんそうした態度が必要になってくる

2011.05.21

三輪車の達人

物事には暫定的な解決方法と、根本的な解決方法とがあって、暫定的なやりかたは、すぐに結果が出るけれど、それに熟達することが、ならば根本的な解決に熟達することにつながるのかどうか、暫定的なやりかたを学ぶ差異には、それをよく考えないといけない。

自転車に比べれば、三輪車に熟達することは簡単かもしれないけれど、三輪車の達人になったところで自転車に乗れるようにならないし、どこか遠くに出かけようと思ったならば、やはり自転車が使えるようにならないと意味がない。

点線書きの昔

大昔、解剖実習の骨スケッチが壊滅的に下手だった。鉛筆で線書きを試みて、どうしても線がまっすぐ引けなくて、手が震えて、なんだかおかしな形になってしまった。

上手に描けなかったとき、「望む線がうまく引けないのなら、まずは点線で線を引いて、あとからそれをなぞるようにしてみなさい」と習った。スケッチブックは大きくて、素人が一気に線を引こうとすると線が震えるのだけれど、点線を鉛筆で描くと、たしかに不思議とそれなりの線になる。「点線」が引けた時点で、あとはそれをなぞるように本書きすると、とりあえず見られるスケッチが完成する。

ニコニコ動画を見ると、プロのイラストレーターの人たちが、自分の制作風景を公開している。プロの人たちはもちろん、「スッ」と下書きの線を引いて、点線なんて使わない。

点線で大まかな形を出すやりかたは、素人でも、暫定的にそこそこの線が引けるようになるのだけれど、こんなやりかたにどれだけ熟達したところで、絵が上手な人がやるように、一本の線をすっと引けるようにはならない。これはそういう意味で、「悪い暫定手段」であって、点線でのスケッチをどれだけ繰り返したところで、その人は「そこそこ」から先には進めない。

骨スケッチの実習はせいぜい数ヶ月で、今現場で簡単な絵図を書いて説明するときには、それで全く困ってはいないのだけれど。

補助輪付き自転車のこと

自転車に乗れない子供は、補助輪つきの自転車に乗る。ところがあれもまた、補助輪に頼った走りかたに慣れすぎてしまうと、いざ補助輪なしの自転車に乗り換えても、上手に乗れない。

補助輪つきの自転車に子供を乗せる代わりに、「ペダルを外した自転車に乗る」というやりかたがあって、これがうまくいくのだという。ペダルをこげないから、子供は地面を足で蹴って、2輪車を乗り回すことになる。いつでも地面に足がつくから転ばないし、この乗り方になれることで、バランスの感覚が磨かれる。

ペダルを外すやりかたは、「暫定的な成果にすぐ手が届く」ことと、「それに習熟することでもっと先を目指せる」こととが両立していて、これは「いい暫定手段」であると言える。

結果が出せたら振り返る

救急外来には「聖路加国際病院なら発生しない問題」というものがある。病院は入院費用が「安いから」、老健の代わりにちょっと使わせてくれだとか、夏ばてで疲労がたまったから、3日ぐらい点滴して休ませてもらおうかなとか、病院の使いかたを、自分たちの側から見ると「間違っている」人が来て、こういう人とはたいていトラブルになる。

こういう人たちを説得して、医療資源を無駄にせず、「正しい」患者さんとして「教育」できる人が「いい医師」の一側面である、なんて言われるのだけれど、この問題はたとえば、聖路加国際病院みたいな、一泊するのに最低でも3万円、下手すると10万円近くかかるような施設には、そもそも発生しない。

ならばそうした患者さんを説得することに熟達した「いい医師」の技量というものは、たとえば聖路加国際病院みたいな「いい病院」で働く際に何かの役に立つのかといえば、恐らくはほとんど貢献しない。こういう「いい医師」は、だから三輪車の達人であって、いざいろんな施設で腕を磨いた自転車ツーリングの達人と互していこうと思ったときに、三輪車はたしかに目立つけれど、ツーリングにはついて行けなくなってしまう。

自分が今磨いている、熟達している技能というものは、そもそもが暫定的なものなのか、それとも根本的なものなのか。それに熟達することは、果たしてもっと先に進むときに意味があるのか。ちょっと入門して、「結果を出せている」人は、その段階でそれを考えないと、将来袋小路に迷い込むかもしれない。

2011.05.19

壊れにくさについて

新しい携帯電話を買って考えたこと。

Galaxy Sを買った

今まで使っていたHT-03A という携帯電話がさすがに遅くて、Galaxy Sという機種に買い換えた。もうすぐ世代交代の、DoCoMo のスマートホンの中では古いほうだけれど、使っている人はまだまだ多い。仕事に使う携帯電話に無理な設定はできないから、どうすれば快適に使えるのか、何をやったら壊れるのか、「これ」という定番が固まっている機種はありがたかった。

購入した日、とりあえずGalaxy SをPCに接続して、カーネルを入れ替えた。

2ちゃんねるのROM焼き板は今でも活発で、今回使わせていただいた「パパさんカーネル」と呼ばれているものをはじめとして、日本人の方がメンテナンスしている高速カーネルがいくつか覇を競っている。今では開発がずいぶん進んで、カスタムカーネルを導入すると、自動的にroot 権限も有効になって、ClockworkMod というカスタムリカバリーも一緒に導入される。カーネルを入れ替えて、高速なファイルシステムに入れ替えて、CPUをクロックアップして、あれこれと試行錯誤していたら、起動しなくなった。

検索は便利

いきなり固まって、再起動を試みても、無理だった。OSが立ち上がるところまでは行くのだけれど、そこから先、「ブ、ブ、ブ」と本体が振動するだけで、導入したアプリケーションのことごとくが起動エラーになった。強制停止を繰り返して、それでも無理して動かすと、一部のアプリケーションについてはかろうじて動作するのだけれど、それではなんの役にも立たない。

曲がりなりにもOSが立ち上がったのだから、そこから修復を試みたのだけれど、再起動を繰り返そうが、電池を抜いてしばらく置こうが、電源ボタンを入れると「ブ、ブ、ブ」が始まって、状況は変わらなかった。

いよいよどうしようもなくなって、自宅のPCで「Galaxy 」「ブブブ」で検索すると、全く同じような状況に陥った人たちが、自分の経験を発信していた。一度こうなると、基本的にはどうにもならないのだと。

結局電源を切ったあと、ボリュームキーを上に、ホームボタンを同時押しにしたまま電源を入れて、リカバリーモードでGalaxy を立ち上げ、メニューから「Factory Reset」を選択することで、全てがまっさらな状態で再起動することができた。

この時点では、Galaxy に導入したアプリケーションは全て消滅しているのだけれど、入れ替えたカーネルとファイルシステムとはそのまま残って、root 権限も消えていなかった。

Android 携帯は、gmail アプリケーションからGoogle ID を入力すると、ネットワークの側から電話帳が書き戻されて、マーケットの購入履歴もそのまま使える。マーケットから「Titanium Backup」というバックアップアプリケーションを再度導入して、まだGalaxy が動いていたときに作っておいたバックアップから必要なアプリケーションを書き戻すことで、大体10分ぐらいで携帯電話は元に戻った。

このあたりはHT-03A でさんざん経験したことだったけれど、「人柱要員がたくさんいる」携帯電話というのは、こういうときの復活手段がいくつも用意されていて安心できる。

壊れにくさのこと

中枢部分をちょっと触ったぐらいで起動しなくなるのだから、Galaxy S は「脆い」という表現もできるけれど、動かなくなったときにどうすればいいのか、起きたことをそのまま「Galaxy ブブブ」で検索するだけで解決策が見つかるこの携帯電話は、トラブルに対する対処がとてもやりやすいとも言える。

「壊れにくさ」には、「壊れないこと」と、「壊れても直せる」ことと、それぞれ違った側面がある。たとえ「壊れやすい」機械であっても、壊した経験を持つ人がたくさんいて、壊れかたとその対処方法が蓄積されているこの電話機は、どんな状況に陥っても、最低限電源が入って、リカバリーモードかダウンロードモードに入ることができれば、OSが立ち上がらなくても、ユーザー自身で復活をかけられる。

これは大きな利点であって、逆に言うと「壊れない」ことが前提になっている、失敗経験がどこにも蓄積されていない機械というものは、どれだけ「安全だ」と言われても、なかなかそれを信じる気になれない。

安心デザインのこと

Android 携帯電話は、発生したトラブルに階層性があって、階層ごとの対処がそれぞれ用意されていることが安心感につながっている。

  • アプリケーションレベルのトラブルは、OSを再起動すれば直るし、それでも無理なら削除して、マーケットから再ダウンロードすれば、たいてい何とかなる
  • OSが立ち上がらなくなってしまったら、携帯電話をリカバリーモードで立ち上げて、あらかじめ取ってあったバックアップを書き戻すか、あるいは携帯電話をファクトリーリセットすれば、まっさらな状態に戻すことができる。電話帳やアプリケーションの導入履歴はネット上に保存されているから、Google ID を入れるだけで、電話は8割方元に戻る
  • 何かの理由でリカバリーまで壊れてしまっても、ダウンロードモードに入ることができれば、リカバリーごと書き換えることもできる。メーカー純正のROM はインターネットからダウンロード可能だから、PCを経由してそれを入れれば、DoCoMo から購入したその日の状態にまで、電話機は書き戻る
  • PCに接続することすらできなくなったら、端末を洗濯機に放り込んで、「落としちゃいました」なんてDoCoMo に泣きつくと、有償交換してくれる。2年縛りの保証サービスは、こういうときには最後の切り札として役に立つ

何かトラブルが発生したら、まずはその階層での解決を試みて、それが無理でも一つ下の階層に入れれば、問題を書き戻せる。こういう構造は、安全を表現するデザインとして、個人的にはとても説得力を感じる。

それぞれの階層が独立していて、動作の前提が異なっていること。下位の階層は、上位層が前提としている何かを書き換えられること。階層性を持った安全デザインは、単なる冗長や重複でなく、そこにいくつかの前提を挟むことで達成される。比較の対象が違いすぎるにせよ、「5重の防壁」をうたっていた原子炉というプロダクトは、果たしてその「5重」にどんな意味があったのか。そのデザインは、安心を表現するものとしては不十分だったようにも思う。

2011.05.12

無能から見える風景

組織のリーダーが「情報を隠蔽」したり、あるいは「まわりをイエスマンで固めた」り、なにやら陰謀めいた振る舞いをしているときには、隠された意図があるのではなく、リーダーの能力が足りていないことのほうが多いのだと思う。

扱える事実には限りがある

判断というものは、現場に対する見解に基づいて行われ、見解というものは、その人に報告された事実から組み立てられる。

一人の人間が同時に扱える事実の数には限りがある。その数は人によってまちまちで、同時に扱える事実が最も多い、より広い範囲から集めた事実に矛盾しない見解を組み立てられる人が専門家と呼ばれて、専門性の高い業界では、専門家がリーダーを兼ねることが多い。

見解は、無数の事実から作り出すこともできるし、少ない事実から組み立てることもできるけれど、基礎となる事実の量が少ない見解は、外乱に対してもろくなる。わずかな事実に基づいて「こうだろう」と作られた見解に、例外事項を突きつけられると、その見解は瓦解する。リーダーの見解が瓦解してしまうと、チームは方向性を失うことになるから、まじめに仕事をしているリーダーは、自らの見解を補強するために、能力の限界まで事実を収拾、認識した上で、意志決定を行うことになる。

能力を超えた事実は見えない

人の持っている認識能力には限界がある。限界を超えた状況で、そこに新しい事実を持ってこられても、その人はそれを認識できない。リーダーの能力が足りないときには、視野の外からいきなり突きつけられた「新事実」が、その人の状況に対する見解を根本から破壊してしまう。

たくさんの事実を同時に扱う能力を持っていない人は、見えない弾丸におびえることになる。弾はどこから飛んでくるのか分からない上に、一度当たるとそれが致命傷になる。こんな状況は恐ろしいから、リーダーに認識できない事実は、全ての人に対して「無かった」ことにされる。それが大事な情報なのか、そもそもそれを隠蔽することが、リーダーに何か利するところがあるのかどうかすら、「事実の隠蔽」を指示したリーダーには、そもそも判断できないことが多い。

陰謀論の裏側

能力の足りないリーダーは、ある日いきなり「自分の知らない事実が部下から突きつけられて、自分の立場が脅かされる」恐怖が日常になる。裏を返すとそれは、「自分には必要な事実が知らされていない。部下は大事な情報を隠している」という認識につながる。

リーダーに認識できない「新事実」は、だから最初から無かったことになるし、助言する側の人たちもまた、リーダーが認識できる事実「のみ」に基づいた意見が求められることになる。この状況を外から観測すると、「必要な事実がリーダーの指示で隠蔽されている」ように見えるし、「周囲の専門家がイエスマンで固められている」ように見える。

こうした光景は、だから能力を持ったリーダーが、何らかの意図に基づいて暗躍しているのではなく、能力の足りないリーダーが、莫大な情報量になすすべもなくなったときに陥る必然なのだと思う。

これはちょうど、Win95 時代のPCに間違ってVista を乗せてしまったようなもので、ファイルはなくなるし、固まるし、なんだかこう、PCがユーザーに悪意を持ってるようにしか見えない状態になる。必要なのはいいPC か、あるいは軽いOSであって、「隠蔽しないこと」や「反対意見を広く聴取すること」は、そもそもこの状況では達成できないし、それをやると状況はむしろ悪化する。

2011.05.08

乱暴な言葉の使いかた

状況に火がつくと、たいていの人は足がすくんで立ち止まる。不明の状況にあって、動くことを決断するのは大変で、止まるとたいてい、状況はもっと悪くなる。

最初に動いて、乱暴な言葉で大声を張り上げて、背中を押せる人が、だから必然的にリーダーになる。

「怒鳴りかた」にも文法があって、単に大声を出せる人と、大声で指示を出せる人とは異なってくる。

人望のあるイワシはいない

イワシの群れのどこかにも「頭」に相当する個体がいる。「リーダーイワシ」は、人望があるとか、他の個体より頭がいいとか、リーダーシップにつながる何かを持っているわけではなくて、単に「一番最初に舵を切った」ということが、その個体を暫定的なリーダーに押し上げている。群れの生き死にがかかっている状況にあって、まわりの情報を把握できている個体がいないのならば、最初の判断を行った個体に、群れはそのままついていく。

選択枝を明らかにした上でお互いの落としどころを探る、説得的な、相手を穏やかに誘導するようなやりかたは、状況に火がついたときには遅すぎる。

体験したことのない状況に置かれた人は、誰だって立ちすくむ。航空機事故において、あるいは避難訓練の現場において、飛行機のドアを出て、下に置かれた脱出用のスライダーに飛び降りるのは怖いことで、それが訓練と分かっていても、誰もがためらって、脱出はそこで遅延する。前の人が首尾よく滑っても、後ろの人はまたためらって、脱出はいつまでも終わらない。

こういう状況で、遅延を減らすのに効果があったのは、耳元で誰かが「飛び降りろ!」と叫ぶことだったんだという。

「飛び降りろ!」という乱暴な言葉は、他の選択枝を遠ざける。今の状況で、自分にはどんな選択枝があって、どれを選択するのが一番ふさわしいものなのか、立ち止まってしまった人は、「飛び降りろ!」という乱暴な言葉をぶつけられて、考えるのを止めて言葉に従う。

心肺蘇生の講習会では、最初に「それを行うことの大切さ」を講義する。病院のような場所でない、心肺蘇生を知らない人がほとんどを占めるような場所で心肺蘇生を行う際には、周囲から「何してるんだ?」とか、「プロに任せたほうがいいのでは?」とか、あるいは「病人を動かすな」とか、現状維持を支持する声が厳しくて、心肺蘇生を続ける気力を削いでいく。「それが大事なことなのだ」という信念を持っていないと、それを続けることは、しばしば困難なんだという。

乱暴な言葉の文法

社長の成功談で聞く類型のひとつとして、目標はコントロールできる形にしておかなければならない、というものがある。営業職の人に、○○円を売り上げろ、という目標は筋が良くない。売上金額というのは、営業職ひとりでコントロールできるものではないからだ。彼がコントロールできることは、何日間で何人と会う、とかそういうことだ。 コントロール幻想 – β2

乱暴な言葉は、相手に刺さる。人を動かしたいときに、特に今すぐに動いてほしいときに、乱暴な言葉は有効で、それを上手に使える人は、いいリーダーになれる。

乱暴な言葉には、相手の思考を遮る効果がある。遮るのだからこそ、指示は具体的でないといけないし、言葉を受けたその人が、自分の管理下で実行できるものでないといけない。それができないのなら、乱暴な言葉の効果は、リーダーシップにはつながらない。

田中角栄は、秘書の人に言伝をするとき、こんな表現をしたんだという。

  • 「この金は心して渡せ。ほら、くれてやるなんて言う気持ちがお前にかけらほどもあれば、相手もすぐ分かる。それでは100万円の金を渡しても、一銭の値打ちもない。届けるお前が土下座しろ」
  • 「人に金を渡すときにはいつでもピン札で渡せ。ハダカで渡すな。失礼になる。必ず祝儀袋に入れろ。折り方を教えてやる」
  • 「世の中というのは何を持って二代目を一人前と見るかといえば、それは葬式だ。親父の葬式をせがれがきちんと取り仕切れるか、それを見て判断する。葬儀委員長の人選を誤るな。誰もが納得する人になってもらいなさい。自分勝手にやるな。父親と一緒に汗を流してきた友人弔辞を読んでもらいなさい。葬儀委員長がそうした仲間なら、その人にやってもらうのが一番だ」

角栄の言葉というのは乱暴で、親方的で、上から目線で暑苦しくて、それでもなお、こういう人がリーダーならば、たしかに誰もがついて行くだろうな、という説得力がある。「これをやれ」という指示が明確で、実際にその人が「できる」ことしか言わないから、それを聞いたら、誰もが即座に行動できる。

人々を出口に誘導するときには、たとえば「出口に向かって動け!」よりも、「前に走れ!」のほうが、出口を探さなくていいぶんだけ、乱暴な言葉としてはより正しい。「命令に従え。さもないと」という脅し文句も人を動かすためには有効だけれど、何よりも「命令」部分が具体的で、それを受けた人がすぐに実行できるものでないと、「さもないと」の言葉に効果が出ない。

「おなかすいた!ご飯まだ!」と叫ぶのは、単なるうるさい子供であって、リーダーならば、「冷蔵庫見た!今日はカレーがいい!」と叫ばないといけない。

「絶対に引くな!さもないと会社は潰れるぞ!」なんて相手を怒鳴って、選択枝を根こそぎ奪ったその状況で、じゃあどうすればいいのか、それを怒鳴れない人は「うるさい大人」であって、リーダーじゃない。

今怒鳴っているその人は、単に大声を出す人なのか、それとも大声で指示を出せる人なのか。乱暴な言葉を聞いたときには、区別したいなと思う。

2011.05.06

下段の間合いを削る人

誰かに病状説明をするときには、その人と自分との「間合い」に気をつけるようにしている。とても丁寧な応対を繰り返しつつ、間合いを削ってくる人と、間合いの全く変わらない人とがいて、間合いを削ってくる人には、企業を運営している人からラーメン屋さんまで、漠然と「自営」で生活している人たちが多い印象を持っている。

間合いを削る人

「自営」の人たちはみんな愛想がよくて、「どうぞ一つ、よろしくお願いします」なんて、笑顔で頭を下げる。空気は最後まで和やかなのに、話し合いの時間をかけて膝と膝との距離を詰められる気がする。何か脅すだとか、何かの取引を強要されるだとか、そうしたことは全くないのだけれど、何となく間合いが詰められた感覚を覚えて、あとからカルテを見直すと、漠然と「自営」圏の人であった、ということがけっこう多い。

仕事というものを、大ざっぱに「自営」と「非自営」とに分類すると、「非自営」圏の人企業に勤めている人や、公務員の人たちは、同じ「よろしくお願いします」でも、間合いが全く変わらない印象がある。

「自営」圏の人たちにとって、頭を下げるという行為は、どこか「有利な場所を作っておく」という感覚に結びついているのだと思う。頭を下げたり、和やかな会話をすることを、あとから何かの伏線に利用できないか、そんなことを考えているように思える。「非自営」圏の人たちは、「頭を下げれば相手も同様にへりくだる」、というルールを仮想しているように見える。同じ「よろしくお願いします」であっても、そこに込められた意味がずいぶん違う。

受けかたは微妙に違う

頭を下げつつ、間合いを削ってくる人には気を遣う。その人の「よろしく」に抵抗することがそもそも難しいし、何かの約束をするときに、「その時間はちょっと忙しいので」だとか、適当なごまかしをやってしまうと、あとからろくでもない結果を招く。「ちょっと忙しい」はずのその時間に、主治医は病棟で手持ちぶさたで、いないはずのその人がなぜか病棟にいて、「先生、今ちょっとだけいいですかね」なんて、にこやかに静かに歩いてこられて、もう何も言い返せなくなったりもする。

間合いの変わらない人との会話というものは、相手が想定したルール、たいていは「漠然と丁寧な態度」を守っている限りは、トラブルにならない。その代わり、「ルール」を決定するのはその人で、そこに交渉の余地がないことが多い。極めて厳しいルールを押しつけようとする人たちが「クレーマー」と呼ばれて、こういう人たちはたぶん、「非自営」圏に所属していることが多い。

どちらにしても、自分たちにできることとできないこととをある程度はっきりさせつつ、丁寧な態度を崩さないように心がけるのは同じなのだけれど、受ける側のやりかたは少しだけ異なってくる。

2011.05.02

何かを呼ぶには3人必要

何かを信じたり、誰かを臣事させたりするときには「3人」というのがマジックナンバーになっている。2人と3人との違いがとても大きくて、1人と2人との違いというのは、それほど大事ではない気がする。

こっくりさんを呼ぶ儀式

典型的な「こっくりさん」の儀式には3人が必要で、この人数を下回ると、儀式は上手くいかないことが多い。

こっくりさんは3人いないと成り立たない。10円玉に参加者全員が指を乗せて、その動きで文字を伝える、昔らからあるやりかたを2人でやると、今の動きがどちらの意図によるものなのか、反対側にはすぐ分かってしまう。これが3人になると、今の動きは誰の意図によるものなのか、それとも意図などどこにもないのか、もう分からないから、「信じる」閾値が大いに下がる。

こっくりさんを2人、あるいは1人で成立させるためには、その場にいる人全員が、心の底からこっくりさんを信じないといけない。「霊」だとか「呪い」、「こっくりさんの存在」を心の底から信じている人同士なら、人数の問題は、信憑性に影響を与えない。

必然で損得を超える

こっくりさんを3人でやると、10円玉の動きが人によるものなのか、それとも儀式に呼ばれた何かの意図によるものなのか、力を込めた本人以外の人には分からないし、証明できない。

「3人が作る反証不可能性」みたいなものを積み上げることで、人は必然的に説得される。損得勘定を超えた、価値軸で人を動かすためには、必然を積み重ねて、戻れないところまで一気に押し切る必要がある。カルト宗教の典型的なやりかただけれど、恐らくはやはり「3人」という人数が鍵になってくる。セミナー形式のカルトでは、講師の他にもたくさんのベテラン受講者がトレーナーとして参加して、「一見さん」を小さなグループごとに導いていく。トレーナーが相手にする人数が増えてしまうと、恐らくは「説得」の効果が落ちてしまうのではないかと思う。

TEDのビデオに出てきた裸で踊る男、人の集まる芝生で男が踊って、2番手がそれに追従する、そのうちみんながつられて踊るというあれは、2番手の大切さを強調していたけれど、むしろ大事なのは3番手なのだと思う。1人が踊って、2人目が追従したその時点で、傍観する3番手は、常識を揺さぶられて、ビデオでは踊りに参加することを選んだ。ビデオでは、草原にたくさんの人がいたけれど、「3人目」がたとえば、踊りに参加せずにビデオを回すことを選択して、それをその他大勢が見ていたのなら、踊る男は2人から増えなかった。

「3人目」が鍵になる

扇動にはコツがある。賛成する人、反対する人は等しくカモであって、「勉強する人」が、扇動者がもっとも注意すべき敵になってくる。

カルト宗教にのめり込んだ誰かが「布教」に臨んで、その誰かに熱狂的に賛同する人間は、教祖の側から見て少しだけ怖い。賛同者は味方だけれど、同時にもしかしたら、軒を貸して母屋をぶんどる刺客になるかもしれないし、熱狂が過ぎた「無能な味方」は、教祖の思惑を壊してしまう。「俺がそのカルトを潰してやる」なんて、敵を宣言して乗り込んでくる人は楽勝で、潰して染めて従順な味方に作り替えればいい。怖いのは「面白そうです。教えて下さい」とにこやかに近づいてくる人で、珍獣を眺める観光客の空気でノートを取られると、信者は冷めて離れてしまう。

3人こっくりさんの儀式において、誰か一人が「私は力を抜いて観察します」と宣言すると、霊を呼ぶ儀式が、2人の力比べに変化する。「学びます」という声は、「ない」ものを「ある」と言い換えることで力を得る人にとっては一番やっかいな存在になる。

扇動をするときには、とにかく煽らないといけない。それが賛同であっても反対であっても、関わった人を、ゼロ点からひたすらに遠ざけられれば、扇動はうまくいく。興味津々の、珍獣をみる観光客の目線でゼロ点に居座る人が増えてしまうと、扇動はもう成功しない。

常識を揺さぶって非常識にたどり着くために、非常識に対して「見物」を決め込むことで、場の常識を取り戻すために、いずれにしても「3人目」の態度が鍵になる。