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2011.04.29

共通言語としての損得勘定

誰かと共同作業をするときには、最初の入り口として「私は損得勘定という言語で会話が可能な人間です」という挨拶が欠かせない。

損得勘定は、その価値こそ低いかもしれないけれど、それを理解できる人は最も多い。誰かと協力して行く中で、「良さ」とか「正義」とか、もっと価値の高い絆で共同作業をしようと思ったならば、まずはお互いに理解が容易な言葉で会話できることが大切になってくる。

持ち込みの昔

本を出したかったのだけれど、どうしていいのか分からなかったから、出版社に原稿を持ち込んだ。

持ち込みというものを行って、最初にびっくりしたことはといえば、「その原稿が売れる根拠を、まずは作者が示してみせないといけない」という部分だった。それが商業出版である以上当たり前のことではあったのだけれど、お花畑だった昔は、「いいものを書けば分かってくれる」なんて勝手に思い込んでいた。

「皮算用でかまいませんから」と、出版社で応対してくれた方々は、決まり文句みたいに助け船を出してくれた。何も根拠のある数字を出して、利益の見込みを示してみせる必要はなくて、この原稿はこんな読者を想定していて、そういう人は世の中にこれぐらいいるはずだから、この原稿はこれぐらいの購買が見込める、そんな皮算用を示してくれればいいのだと。

実際に出版させていただいて、こうした皮算用というものは、「あなたは損得勘定を前提にした話ができますか?」という、会社組織の挨拶のようなものだったのだと考えている。

「良さ」は難しい

良さという価値軸は人それぞれで、自分が「いい」と思うものは、必ずしも他の人にとってそうだとは限らない。

編集者は、作者の「良さ」を、多くの人に届くよう、変形/加工するプロだけれど、そうした加工が、「良さ」をよりどころにした作家には、もしかしたら良さの欠損として認識されてしまう。

作家と編集者と、立場の違う人たちが共同していく上では話し合いが欠かせないけれど、話すためには共通言語が、共通した判断の基準がないと、まとまる話もまとまらない。

お金の話というものは、「良さ」や「正義」に比べれば浅いけれど、通じる範囲は広い。「お金の話ができる人」とは、少なくともお金という価値を土台にした会話ができて、初対面の人間同士が分かり合うために、これは大切な入り口になる。

ただより高いものはない

犬の牧場が破綻して、100頭あまりの犬が餓死寸前で放置されるという事例が昔あって、愛犬保護団体が保護に乗り出して、全国からボランティアが集まった。

当初こそ、成功事例としてテレビに取り上げられたけれど、寄付金がたくさん集まって、そのうちボランティアとして参加した人たちから団体のありかたに対する疑問の声が出て、最終的に訴訟になった。

個人に使えるメディアがなかった昔、ボランティアというものは、「無料で使える便利な労働力」である時期がたしかにあったのだと思う。善意ベースや正義ベースのガバナンスは、誰もがそれに賛同できればすばらしい力になるし、主催者と参加者と、お互いの正義にずれがあっても、自分のメディアを持てない昔なら、少々の瑕疵は問題として浮上しなかった。

Web時代になって、状況は変化した。今は誰もが自分のメディアを持てるから、主催者は主催者の見解を、参加者は参加者の見解を、それぞれ広く発信できる。主催者と参加者との共同作業が、同じ価値軸で行われないと、発信される情報は、全く異なったものになる。そうした差異が目立つほどに、声は強力な力を持って、個人の声は、しばしば世論やマスメディアをも左右する。

ネット時代には、「自分達はいいことをやっている」という主催者の信念だけでは、ボランティアを引っ張るのは難しいのだと思う。理念を共有できない参加者は、主催者の意図した行動をしてくれないから、主催者の考える正しさで、全ての参加者を説得できないのなら、そのプロジェクトは失敗する可能性が高い。

ボランティアはたしかに「無償」であるかもしれないけれど、違う言葉でしゃべる人を説得するためのコストは、もしかしたら有償で誰かを雇うコストを上回る。

損得勘定という共通言語

全員無償という前提は、共通の言葉である「損得」をその場から追い出して、コミュニケーションはそれ以降、善意という価値軸に基づいて行われることになる。

善意はすばらしい価値だけれど、人によって受け取りかたが多様すぎて、善意という価値軸で初対面の誰かと語り合うのは難しい。「ありがとう」という一言にしたところで、その言葉にどれぐらいの善意価値を見いだすのか、あるいはどの程度のサービスを受けてこの言葉を発するのか、人によってばらばらで、その多様さは、価値のすばらしさとは対照的に、トラブルを増やしてしまう。

まおゆう 魔王勇者 の冒頭、魔王の語る「損得勘定は我らの共通の言葉。 それはこの天と地の間で二番目に 強い絆だ」という言葉には、やはり真実が含まれている。

もっと強い絆を作るための第一歩として、まずは「お互いに損得を語る」ことが大切なのだと思う。

2011.04.27

負けるのは大事

学校で学ぶべき、学校でしか学べない大切なものというのは、「負けかた」なのだと思う。

負けるというのは誰かの価値を受け入れることで、学びそのものでもある。負けかたを知らない人が社会に出ても、負けられないから、致命的な立場に追い詰められるそのときまで、結局何一つ学べない。

審判は大変

本物の競技ディベートというものを見たことがないから、以下は妄想。何か「お題」をもらって、異なる立場から相手の説得を試みるのが「ディベート」という理解でいいのなら、それをジャッジする人は大変だろうなと思う。

誰かに「勝つ」、説得するのは難しいけれど、誰かに「負けない」ための技術というものには典型的なやりかたがいくつかあって、それを習得して再現するだけで、議論をグダグダにすることができる。

実世界での利害が絡まない、制限時間付きの競技ならば、ディベートにおいては、競技者はお互いに「ゲームそれ自体を台無しにする」というカードを切ることができて、ルールでそれを禁じないと、ゲームが成立しなくなってしまう。

対面形式のゲームにはたいてい審判がいて、審判の力量は、ゲームの面白さを左右する。競技形式のディベートにしても、審判をクリーンにやり過ぎると、中学生の学級会みたいな雰囲気になってしまうだろうし、ジャッジを放棄して「何でもあり」を宣言すれば、競技者は「負けない」カードを切るだろうから、制限時間いっぱいまでの人格否定合戦になって、あとから喧嘩になってしまう。

総合格闘技の審判は、しばしば「遅すぎる」なんて叩かれる。あれは実際問題として、お互いに限界まで鍛えた選手が、相手の技に本気で耐えてしまうと、「決まった技に耐えている」のと、「まだ技が決まっていない」のと、その見極めが難しいのだろうと思う。試合を止めるのが速すぎれば、選手は試合に不満を残すかもしれないし、止めるのが遅すぎると大事故になってしまう。

審判は、そこにいる誰もが納得する「負け」のありかたを提案してみせないと、ゲームはつまらないものになる。審判が提案する「負けモデル」が稚拙なら、そのゲームで負けるのは無様なことで、競技者は「負けない」カードを切ろうとするし、お互いに納得のいく負けかたを審判が示すことができて、その判断が公正であると信頼されれば、競技者は気持ちよく負けられる。

ゲームのルールや審判が競技者から信頼されて、初めて競技は成立する。

敗北は大事

いい審判は少ない。そうした人には、お金を支払ってでも審判をしてもらう価値がある。

いい審判にゲームのジャッジをしてもらうことで、競技者は納得のいく負けかたを習得することができる。お互いが認容可能な負けパターンを持っているなら、競技には納得のいく落としどころが生まれる。負けないことの価値は相対的に下がって、落としどころに向かう過程を楽しめる。

学校で討論を行う目的というものは、「負けかたを習う」というところにある。勝つ工夫は誰でもするし、教えなくても努力するだろうけれど、負けかたは教わらないと泥試合になるし、「負けない」協議をどれだけ重ねたところで、負けかたは習得できない。

負けかたを知らないままで社会に出た人は、負けないことでしか自己を保てない。あらゆる取引が泥試合になりかねないし、負けられない人は学べないから、成長できない。負けない人だって努力するけれど、無目的に積んだ努力は、成熟に結びつかない。

本を読んで、読者が作者に「勝って」しまったならば、その本に投じたお金は無駄になる。負けかたを知らない人は、負けることができないから、翻って学ぶことができなくなってしまう。

実社会で泥試合になると、追い詰められたらあとがない。破綻がいやだから、お互いに落としどころを探すのだけれど、「負けない」人とは議論ができない。学校という場所は、安全に負けを体験できる数少ない機会であって、そういうことを教えてほしいなと思う。

負けを宣言できない人は、結局学ばないまま「勝利」を重ねる。いざ問題と対峙して、状況が破綻するそのときまで、「俺はこんなにがんばっている!」と叫ぶことしかできない。いろんな人にとって、それはとても不幸なことだと思う。

2011.04.25

悪い奴らは来なかった

病棟で3年過ごした昔、上司の書いた処方箋を見て、「こうすればもっといいのに」なんて批評家気取りができるようになった頃、島に飛ばされた。邪魔な上司の指示が入らない、「こうすれば」を自分の責任で行える機会がいよいよ巡ってきて、それをやろうとして、手が動かなかった。

決断のお話。

実戦は怖い

島への派遣が決まったとき、粋がって英語の本ばかり持ち込んだ。世界的に権威のある教科書だから、信頼性なら完璧なのに、いざそれを使おうとして、それを翻訳するのが自分であることに思い至って、その本がいきなり信用できないものに変わった。普段は馬鹿にして、ろくに読みもしなかった日本語の「今日の治療指針」がありがたくて、それに頼ってようやく病棟を回すことができた。

畳の「へり」なら転ばず歩けるのに、それが地上10m の高さに置かれたそのとたん、足がすくんで動けなくなる。模範解答を知っていることと、実際に決断ができることとは全くと言っていいほど異なって、いざ自分がその状況に置かれてみないと、その違いには気がつけない。

叩くのは気分がいいし、叩く人はしばしば賢しげに見えたりもする。叩いて叩いて、現場を回してきた人たちが退場して、叩いてきた人たちが勇躍リーダーになると、現場は固まる。固まって、再び動き出すまで、恐らくは何年もかかる。

「部長の処方は今ひとつ」なんてえらそうに批判できた研修医の頃から、その「今ひとつ」をようやく再現できるまで、結局10年近くかかった。

アソビは大切

「無駄の多い」上司の処方箋というものは、一種の保険でもあった。四方に保険を掛けるような、スマートでないやりかたというものは、重圧のかかる環境にあっても自身を自由にするために、どうしても必要な「アソビ」であったのだけれど、当時の自分には、それが「無駄」に見えた。削ってはいけないアソビは、素人には真っ先に削るべきものに見えて、そこを削ると、戻すのにとんでもない時間がかかる。

AK-47 には部品のアソビが多い。知らない人があれを見ると、もしかしたら「これだからロシア製は」なんてつぶやきながら、精度を上げて、部品同士の隙間が全くないライフルへと「改良」してしまう。

アソビをなくしたライフルを実戦に持ち込むと、埃一つで動かなくなって、死ぬ思いをすることになる。運良く生き残れれば、その場所のアソビを増やすような「改良」が施されることになるけれど、ライフル一つ取ったところで、必要なアソビは何カ所もあるから、全ての意味に気がつくためには、何回も失敗を繰り返さないといけない。運良く破綻を回避して、それを無数に繰り返した結果として、手元には「アソビ」だらけの、改良する余地がそこいら中にあるように見えた、元のAKが再生される。

悪い奴らは来なかった

無駄を叩くのは気分がいい。必要な無駄に気がつくのには経験がいる。無駄を叩く側からすると、必要な無駄をかばう人は「悪者」に見える。

批判や提案、あるいは前提の変化を受けて、「じゃあこうしましょう」とか、「いやそれだとこういう問題が」とか、かみ合った議論が続けられる人と、自分の論理がいかにすばらしいものであるのか、正当性を大声で繰り返す人とがいる。声の大きな人と話すのは大変なのだけれど、彼らの論理は、その論理の中では整合がとれていて、けっこう人気が出たりする。

論理はよくできていて、それ想定している範囲内であれば、突っ込む場所もないのだけれど、彼らが前提としている「絶対」が、しばしば絶対でなかったりする。

前提がひっくり返ると、状況は悪化する。彼らの叩く「悪い奴ら」は、変化した状況に合わせて見解を変えるから、問題は解決して、きれいな論理は「悪い奴ら」のおかげで、その威力を発揮できなかったことになる。

「悪と叩く何かが、問題を常にちゃんと解決してくれていること」が、悪を叩ける前提になっていることがある。世の中は「本当はこうあるべき」なのだけれど、「悪い奴ら」が外面だけ取り繕っているから、今の世の中がこれだけ腐っているにもかかわらず、一見するとそれなりに回って見える。「悪い奴らの醜い論理に比べて、俺たちの論理は美しい。だから俺たちのほうが正しい」と、論理は続く。

「悪い奴ら」が退場した昨今、旗を振っている人たちは、犯人捜しに忙しい。彼らが探しているのは責任者ではなく「悪い奴ら」であって、問題を解決してくれる「悪い奴ら」を探すことは、あの人たちにとっては問題解決の手段に他ならないのだろうなと思う。

2011.04.22

体質改善は怪我に効かない

「根本的な体質改善」はたしかに大事かもしれないけれど、たとえば怪我をしてまだ血が出ている状況においては、「絆創膏」のほうが役に立つ。

問題の解決には、状況に応じて選択されるべきやりかたは異なっていて、「根本的」な解決というものは、もっと元気になってからでないと意味がない。

変革のありかたについて。

町の風景には意味がある

災害復興について、「委員会」みたいなものが作られて、議論が続いている。こういうところで提案された「画期的な解決」は、たいていの場合なにか別の問題を生み出して、個人的にはなるべく無難な提案に落ち着くといいな、と思う。

町の風景には、そうなった理由というものが必ずあって、変化を求める特別な需要もないときに、たとえば何かの事故みたいなものをきっかけに、一気にそれを変えようとするのは間違っている。どれだけ高邁な思想に基づいていたとしても、根本的な変革というものは、必ずどこかに無理が来る。

有事に際して、何かきれいな理念に基づいて行われた変革というものはろくな結果を生まない。変革というのはたぶん、平時にあって、道徳でなく、経済的な理由で行われるべきなのだと思う。郊外にショッピングセンターが作られると、田舎の町は半年ぐらいで一変する。お爺ちゃんたちが威張ってた中心街は廃墟になって、若い人は新しい場所に移動する。中央商店街はシャッター外になって、そこにしがみつく人たちは困るだろうけれど、変化から利益を得る人はもっと多い。こういう風景の変化は、町のありかたとして間違っていない。

健康保険組合のこと

根本的な、決定的な解決というものはたいていどこかに無理があって、世の中の問題は、今あるものをもっと複雑に、もっと非効率的にすることで、暫定的に解決されることのほうがずっと多い。根本的な変革に比べれば、そうしたやりかたは無様で惨めで非効率だけれど、場当たり的なやりかたは、根本的にやるよりも、もしかしたらいい結果につながりやすい。

医療の業界は、電力と同じくほぼ独占的な商売であって、消費者たる患者さんの側からは、自分たちが何に対してお金を支払っているのかが見えにくい。業界の構造として、両者には似ているところが多いように思うのだけれど、医療は電力ほどには莫大な権力を持っていないし、大きすぎてつぶせない組織なんて存在しない。

医療の業界には「健康保険組合」があって、彼らが間に入ることで、自分たち医療従事者が、患者さんから「ボる」のを防いでいる。

自分たちの側からすれば、健康保険組合というのは、医学のことなんて知りもしない、現場を見ないで数字だけ削る、どうしようもなく非現実的で理不尽な、非効率な集団だけれど、現場から見た理不尽さは、裏を返せば違った価値軸で同じ業態を評価できているという証拠でもある。健康保険組合の制度は非効率的だけれど、そうした効率の悪さが業界を覆っているおかげで、日本の医療はグダグダだと言われながらも、そこそこの品質と、そこそこの価格を維持できている。

健康保険組合が「効率的に」、「現場の意を汲んだ」判断を連発するようになったら、もしかしたら総医療費は1 割ぐらい上がる。それに伴う品質は、たぶん1 割の向上は期待できない。技術を知った人間が回す現場に、杓子定規な、現場を知りもしない人たちが数字だけ追っかけるような事務集団を業界の上に被せるやりかたというものは、非効率なことこの上ないけれど、けっこうちゃんと機能する。

上手くいかなかった何かは、よりシンプルに、根本的に解決を試みるのではなく、むしろもっと複雑に、効率を悪く、小手先の解決を試みることで、結果として上手く回ることがある。

業務形態を従来通りにするのなら、競争原理を業界に導入しないのならば、電力の業界にもまた、「健康保険組合」に相当する非効率な組織を被せることで、一定の抑止力が得られるのではないかと思う。

必然と選択枝

何かの変革を行う際には、それを新しい選択枝として提案するやりかたと、必ずそうすべき必然として提案するやりかたとがあって、力を入れるべき場所が異なってくる。

たとえば医療ならば、 近い将来、Google 先生あたりがもっとすばらしい医療業態を作り出すかもしれない。平時にそういうものを構想して、消費者がそちらを選択して、結果として健康保険組合制度が崩壊するのなら、それは問題解決の手段として正解なのだと思う。

ところがGoogle 先生が政府に働きかけて、「それはすばらしいからそうしよう」をやってしまうと、たとえ同じ提案がなされても、システムの移行には遙かに多くの時間とコストがかかってしまう。

集団レベルでの選択というものは、切り捨てるのではなく、風化させるほうが安価につく。制度を作って強制的な移行を行うよりも、レガシーな部分を残すやりかたのほうが、望んだ結果にたどり着くまでの時間を短くできる。

人は変革を嫌うし、決断を行うときには、似たような境遇の誰かを捜す。

必然として提案された変革は、全ての人に課せられた義務だから、周りの人たちはみんな「停止」を選択する。自ら動く理由がないから、外から押されない限り動かない。より優れた選択枝というものは、自らの手で発見してつかむものだから、押す力は少なくて済む。選択する人と、停止する人と、周囲のありかたが様々な状況で、昔にしがみつく人がいよいよ少数になると、今度は彼らが、「乗り遅れたくない」という多数者を押す原動力になる。

必然で人を動かそうと思ったならば、だから手取り足取り、「すごいエネルギーをそこに投入します。抵抗は無意味です」とトップが宣言しないといけないし、選択枝で人を動かそうと思ったら、その選択枝が「お得な」ものであることを、分かりやすい言葉で説明しないといけない。このあたりを中途半端にやると、「必然」方式においては文句ばかりを増やしてしまうし、「選択」方式ならば、たとえば町の変革を目指して作ったショッピングセンターに魅力がなかったら、そこは潰れて更地になって、町は昔の風景を引き継いでいく。

状況に応じて選択されるべき変革のありかたと、それを提案するための方法は異なっていて、状況が「こう」と決まれば、正解はある程度絞られる。今行われている提案は根本的に過ぎ、必然的に過ぎ、その割に、押す力が足りていないような気がする。

2011.04.20

平凡なのにはわけがある

扱う問題が大きな時こそ、従来のやりかたを踏襲した、平凡な提案が選択されることが望ましい。いくつもの問題を一気に解決できるような「画期的な」提案は、それが必要に思えたときこそ、見落としている問題点が本当に無いのかどうか、慎重に検討されるべきなのだと思う。

フラードームのこと

球体は、最小の表面積で最大の空間容積を稼ぎ出す形であって、それを実体化したフラードームは、住宅の理想を突き詰めたありかただったけれど、結局一般化しなかった。

以前どこだかの観光地で入ったお店がフラードームで、作り付けの椅子や机がかっこよくて、吹き抜けになった天井の広さに驚いた。遠い将来、住宅を建てる機会が得られるのなら、もうこの形式以外考えられない、という程度には入れ込んで、実際にドームを建てるつもりになって、いくつかのモデル住宅を見学したこともあるのだけれど、今度は逆に、その使い勝手の難しさに驚かされた。

フラードームには、雨漏りのコントロールが難しいとか、熱がこもりやすくて実際にすむのは大変だとか、建築学的な問題ももちろんあるのだけれど、いざ「ここに住もう」という目線でドームに入ると、今使っている家具をそのまま置く場所が見つからなかったり、ドアを抜けると全ての部屋が視界に入って、その見通しの良さが、今度はそれが「狭い」という感覚を生んでしまったり、お客さんとしてその空間に入るのと、実際に当事者の気分でその空間のことを考えるのと、立場が違うと、ずいぶん違った風景が見えて、今すんでいる普通のマンション、マッチ箱みたいに四角四面で、平凡な、どこにでもある空間にも、そうでなくてはいけない理由があるんだな、と腑に落ちた。

きれいすぎる提案には罠がある

構造的には理想であるはずのフラードームが、普段使いの住宅としては、必ずしも理想ではなかったように、今回の災厄みたいに、まっさらなところからの復興を考える際には、画期的に過ぎる提案が採択されると、結局誰も幸せにならないような気がする。

従来からの町のありかたにはもちろん問題はあって、だからこそ犠牲者も出たのだろうけれど、今回に限らずもっと昔から、地震や津波はその地域を何度も襲って、恐らくはその都度町は大きな被害を受けて、それでも同じような町が作られて、同じような被害が繰り返された。そうした営為は、そこに住む人が「無知だから」そうなったわけではなくて、災害に対して無力な、平凡な町のありかたにも、そうでなくてはいけない必然があったからなのだと思う。

大規模な被害は起きて、問題点は明らかだから、それを指摘するのは簡単ではあるけれど、こういうときだからこそ、従来の町が、どうしてそういう構造でなくてはいけなかったのか、それをきちんと検証してほしい。

これからの復興をどうしていくべきなのか、「委員会」の席ではたぶん、各界の重鎮が、それぞれに画期的な提案をぶつけ合うのだろうけれど、論争の戦術として、「きれいすぎる理屈を実世界に当てはめて、整合が取れない部分は相手の不勉強と断じる」やりかたを禁じ手にすべきだと思う。会議の席で提出される画期的な提案は、恐らくは誰が見てもそれなりに画期的なものばかりだから、こうしたやりかたを許してしまうと、最後は声が大きな人が勝って、敗者はみんな、そこで今すんでいる人も含めて「不勉強」を叩かれることになる。

「勝った」提案がどれだけ画期的であって、どれだけ崇高な理念に基づいていたのだとしても、それを受け入れるのに「勉強」が必要ならば、それはたいてい間違いで、たとえ骨格となる理念がすばらしくても、実生活で運用していくのが難しいのなら、住みにくいものになってしまう。

すごいプランを考えようとがんばると、殺伐とした空気と、使いにくい「画期的な」成果物とが生み出される。切実に何かが求められている今だからこそ、むしろ「無難で陳腐でつまらないものを作ろう」という目標を掲げて、「普通の人にとっての普通とは何か」というテーマを、徹底的に詰めてほしいなと思う。

2011.04.15

悪役の深度について

与謝野大臣が記者会見の席で、「原発を推進してきた立場として今回の事故に謝罪をするつもりはないか」という記者の質問に対し、「ないです」と述べた

この人は以前にも、積極的に増税を、と主張していた。恐らくは与謝野大臣は、あえて悪役を買って出ることで、世の中を「よく」してやろうという覚悟を決めているのだろうけれど、大臣の考える悪役は、なんというか、浅すぎるような気がする。悪党の存在はヒーローの活躍に彩りを添えて、物語を強力に引っ張る力を生むけれど、浅い悪役では、物語を「よく」することなんてできっこない。

正しさと人気は違う

「正しさ」と「人気」というものはしばしば方向が異なっていて、誰かが「正しい」ことを言わないと、世の中が「正しい」方向に進まない。

ところが「正しい」ことというのはしばしば耳に痛いから、それを口に出すと人気が落ちる。人気を失った政治家は、生命を失ったことに等しいものだから、必要なときに、正しいけれど耳に痛い言葉を述べるのは難しい。

与謝野大臣はたぶん、引退間近な自分こそ、「正しい」言葉を述べる、「悪役」を担うにふさわしいという自己認識を持っているのだと思う。だからこそ、最悪のタイミングに、世の中に冷水をぶちまけるような発言を行って、悪評を自らが引き受ける代わり、世の中を「正しく」導こうとしている。

良薬は苦いとは限らない

苦い薬であっても、それが効くなら飲まないといけないけれど、苦い薬が常に効くのかと言えば、もちろんそんなことはない。

災厄まっただ中の今にあって「謝罪をするつもりはありません」と返答してみたり、不景気をどう乗り切るか、と誰もが頭を抱える中で「増税しましょう」と発言してみたり、こうした言葉はたしかに「苦い」のだけれど、苦すぎて、それをつぶやく「悪役」が、なんだかとても浅いものに思える。

浅い悪役は、昔の変身ヒーロー番組に出てくるものであって、誰が悪役で、悪役は誰を引き立たせたいのか、子供にだってすぐ分かる。浅くて目立つ絶対悪は、当然のようにヒーローに負けるのだけれど、ヒーローもまた絶対善であることが求められるから、ヒーロー役を任じられた側は妥協が許されず、「浅い」ヒーローしか演じられない。何もかもが浅いから、観客もまた、傍観者でしかいられない。

深い悪役は、一見すると「いい人」だから、観客が発見しないと「悪い」場所が見つからない。深い悪役の活躍する物語において、観客は参加者に、発見者に、もしかしたらヒーローになることすらできる。問題解決に参加できる人が多いから、深い悪役は、脚本家が想定した以上の「正しい」解答にたどり着けるかもしれない。

与謝野大臣が演じる悪役発言は浅すぎて、あれは良くないような気がする。

「俺を信じれば大丈夫」という絶対善が全く機能していない現状で、国民に傍観者であることを強いる発言は、何も生み出さない。

原発問題の反省にしたところで、よしんば原発の技術が完璧であって、今回の災厄について、技術的には一切反省するところがな方のだとしても、「悪役」ならば最低限度、「実は完璧な技術なのに国民を驚かせてしまったこと」を謝罪することはできるはずだし、そうした発言をしたほうが、悪役としてよほど深い、いい結果につながる振る舞いができるのではないかと思う。

2011.04.14

多勢を使いこなせる人

専門家と呼ばれる人は、「効率よく弱いものいじめができる人」でなくてはいけないのだと思う。

対峙した問題に対して、投じる物量は少ないに超したことはないけれど、少ない物量で問題に当たることは、もしかしたら専門家でなくてもできる。

物量が不足していると、問題の解決は、一定の割合で失敗する。失敗した人は、誰もが「もっと物量があれば」と嘆息するのだけれど、じゃあ実際に充分な物量が与えられたとして、素人はたぶん、その物量を持て余してしまう。ガバナンスのコストは、組織の大きさに比例する。プロを名乗るなら、物量をきちんと御して、問題を容易に解いてみせないといけない。

道場では卑怯なやりかたを習わない

1 対1 の状況、個人の技量でぎりぎり手を出せる問題に挑むような領域で活躍するのは、プロよりもむしろ、「プロに迫るアマチュア」の得意とするところなのだと思う。こういう状況だと、個人として強い人が強いから、「趣味としての鍛錬」が、時として専門家の技量を超える。

武道では、個人を鍛錬することが求められる。個人と個人、あるいは個人が多数を相手にしたときの戦いかたも、教わる機会があるかもしれない。ところがたいていの「道場」では、多数で少数を攻めるような戦いかたというものは「卑怯」だから、教えられない。

多数の相手に少数で挑むのはかっこいい。無勢に対して多勢で挑んで、なおかつ危なげなく勝ってみせるのは、見た目からして卑怯だし、勝って当たり前だから、つまらない。つまらないことは、教えるほうだってつまらないから、鍛練をどれだけ積んでも、「卑怯なやりかたで当たり前に勝てる」専門家というものは、道場からは生まれてこない。

多勢の使いかたを教えてほしい

多勢を頼めば、勝つことは当たり前になる。ところがたぶん、その当たり前ができる人とそうでない人とが明らかにいて、たくさんの人で協力して、当たり前のように勝ってみせるためにはそのための訓練がいる。そうした訓練を積んでいるのが専門家だし、普段から、そうした状況で危なげなく勝てる方法をきちんと考えている人がプロなのだと思う。

医学部という場所は、病気に対してどこか「騎士道精神」のような立場を取っているところがあって、研修医がたくさんの検査を出せば「馬鹿」と怒られるし、より少ない検査で、少ないヒントから診断にたどり着ける人が「名人」だとほめられる。たくさんの検査を出せば、診断にたどり着けることは「当たり前」のはずなのだけれど、当たり前を再現するのにだって方法論は必要で、学校でそれを教わる機会は少ない。

武道や戦争みたいなものだけでなく、様々な状況、様々な業界に、物量に相当する何かというものがある。物量なしで何とか成功してみせることよりも、むしろ物量があって言い訳できない状況で、つまらなく、危なげなく成功できる技量を持った人が専門家なのだと思うし、専門家を養成する学校には、是非ともそういう技量を教えてほしいなと思う。

2011.04.08

健全な保身について

危機管理というものは、「健全な保身を全面に出せる環境作り」のことなのだと思う。

これに失敗したチームは、不健全な倫理に空気を支配されて、そこにいる誰もが道徳を唱えつつ、リーダーはモラルの欠如を嘆くようになる。こうなってしまうともう、かけ声ばかりが大きくなって、問題の解決は遠ざかる。

正解はたいていつまらない

問題の設定は可能な限り面白く、問題の解決は可能な限りつまらないやりかたで行われることが、たいていの場合の望ましい。

問題を面白く設定することは、解決を容易にする可能性がある。その一方で、つまらなく設定された問題を面白く解決しようとする試みは、必ず災厄をもたらすことになる。

これがハリウッド映画なら、問題が発生して状況が悪くなったときには、「俺たちが本当の解決を教えてやる」なんて、頑固を絵に描いたような軍人が登場する。「それしかない」というあきらめが蔓延した頃、軍人の頑固を超えるアイデアを携えた主人公が、問題をスマートに解決してしまう。

頑固な専門家に対して、素人のひらめきが状況を打開できるのは、たぶん平時に限られる。

「平時」と「有事」の違いというのは問題設定の自由度であって、平時には、問題を自分の意思で設定することが可能になるから、そこで初めて、「面白い問題解決」に出番が生まれる。有事の時には、問題は向こう側からやって来る。問題が面白いこともあるし、たいていはうんざりするほどつまらないものだけれど、問題を選べないときには、頑固で古めかしいやりかたにこだわらないと失敗するし、問題の解決は、それを「つまらなく」解くことに慣れた人がやらないといけない。

大怪我をしたとか、強盗に襲われたとか、生き死ににかかわる本当の有事には、普段練習している行動しかできなくなる。その時になって、いきなり医学の知識を思い出したり、格闘技の才能に目覚めたりといったことはありえないし、そんな奇跡を当てにすることは、普段の準備をおろそかにしていい理由にはならない。

有事に備えられる人は多くない。救急隊や警察はそのために組織されていて、彼らに有事対応をアウトソースすることで、日常生活はそこそこ安全に回る。

備えのない人が緊急事態に遭遇すると、何もできないか、その時ひらめいたアイデアが、状況を悪化させる。練習したことのない問題に対峙したのなら、まずはその問題から可能な限りの距離を置いて、有事対応の訓練を積んだ人を呼んでくるのがたいていの場合は正解で、国内で、個人のレベルなら、これでたいていの問題は、暫定的に解決できる。

奇跡は起きない

一発逆転の幻想は、苦境に陥った人をさらに追い込む。

苦境に陥った人は、恐らくは誰もが希望的な憶測を持つ。もう少し粘れば、状況は「自然に」解決して、周囲に迷惑を及ぼさずに済むのではないかと考える。そうした希望は災厄の入り口であって、それが頭をよぎったならば、その瞬間に全力で動かないといけない。

いつも患者さんを丸投げするような個人クリニックが、たとえば「原因不明のひどい腹痛を訴える若い人」を、なぜか午前中から外来でずっと点滴を続けて、検査をするでもなく、痛み止めだけ使って夜まで経過を観察して、患者さんの意識が悪くなってからあわてて救急搬送される、そんなケースがごくまれにある。

その医師が、お金と保身だけを考えて仕事をするなら、絶対にやらないような判断の遅延は、怠惰ではなく、むしろ「やる気」や「臨床医としての矜持」みたいな、美談の文脈から生まれる。能力に欠けた人が英雄を目指すと、たいていはろくでもないことになる。

後ろ向きな心構えが大事なのだと思う

正解はたいていつまらない。英雄はどこにもいない。何か抽象的なもののために、リーダーが「命がけで頑張ろう」と声を上げるプロジェクトは、必ず失敗する。

解決すべき問題が難しいときこそ、「容認されたリスクと与えられた予算の範囲でやれることをやりましょう」と声をかけること、チームで後ろ向きな覚悟を共有することが大切になってくる。

チームで問題の解決に当たる際には、メンバーは、その問題の「有事度」をどの程度だと考えているのかを表明すべきなのだと思う。どんなやりかたであれ、それを定量して、表明できない人には問題解決に参加する資格がないし、有事度の定量と、ものさしの共有ができたなら、合意形成はもうできているとも言える。

漠然と「有事度」が高いときこそ、スマートな提案でなく、その場に出席した全員が、あまりの阿呆さにげんなりするような、身も蓋もないやりかたが選択される。保身の力学が健全に作用したチームにおいては、場の有事度が共有されたその時点で、選択肢は必然的に、そんなやりかたしか残らないはずだから。

2011.04.06

責任者はいなかった

東京電力の記者会見が、ニコニコ動画で公開されていた。

見どころというか、不気味な光景は30分を過ぎて以降の後半部分で、「放水の決定を下したのは、結局誰なのですか?」という記者の質問に対して、東京電力の人たちは「申し訳ありませんが、調査をしてから、改めて回答させて下さい」というコメントを繰り返していた。同じ質問を繰り返す記者と、ひたすら同じコメントを繰り返す東電の人たちと、空気が恐ろしく重たく見えた。

社長を出してはいけない状況がある

話の流れが「社長を出せ」につながりかねない、たとえば製品の瑕疵について、損害賠償を求める人との応対では、「社長に話をつながない」ことが原則になる。

相手との会話に臨む人は、「自分は事実関係を調べるための専門家」であるという立場を取る。クレーム対応の現場においては、事実に対するお互いの見解が、まだ十分に共有されていないから、そこにいるべき人は、事実関係を鑑定する専門家でなくてはいけない。「社長を出せ」という相手の要求については、「ここは事実関係を鑑定する場であって、まずはそれを行いたい。私がその責任者です」という理屈で、まずは押す。結果として「社長」はかばわれることになるけれど、ここで社長を出してしまうと、相手の要求はもっと大きくなってしまう。

社長の出番が必要な状況

危機対応の原則に従うと、最初から「社長」が表に出ないといけない場面は少ないのだけれど、事実がすでに確定している状況、事故に対する対応の時には、話が異なってくる。

企業の謝罪会見の席には、たいていの場合「社長の謝罪」が行われる。謝罪会見や、何かの事実を報告する席においては、場の見解が「こう」と固まっている状況だから、事実鑑定の専門家には、もう出番がない。見解の確定した状況で行われるべきことは、事態の報告と、必要ならば謝意の表明、質問の受付と今後の方針決定で、その場での判断が要求される可能性がそこにあるから、そこに座るべきは「社長」、意思決定ができる責任者でないといけない。

テレビのニュースで放映されるような企業の会見は、ほとんどの場合がこうしたケースで、「決定権を持った誰かが会見に臨まない」会見の光景は、むしろ珍しい。食品会社の会見にしても、銀行の不祥事にしても、謝罪が前提の記者会見というものは、基本的には「頭を下げる社長」という光景が定番なのに、「汚染された水を放出する」という、今回の記者会見には、意思決定権を持った人は出席していなかった。

あの場所で責任者が出席していないのは、「逃げた」と言われても文句が言えないと思うし、そうした人たちを上にいただく現場の人たちは、相当に辛いだろうなと思う。

会話が詳細を決める

しゃべるのは、書くことよりもよほど難しい。

「書く」ならば、語順はどうであれ、読み手は自分が大切だと思った場所から読んでくれるし、文字数を増やせば、それはそのまま情報量の多さに結びつくけれど、言葉はそうはいかない。

しゃべり言葉は、聞き手によるランダムアクセスが期待できない分、しゃべる側が語順に注意して、聞き手の興味を想像しなくてはいけない。詳しく語ろうと言葉を増やせば分かりにくいし、そうした配慮は、もしかしたら逆に聞き手の不快感を増してしまうかもしれない。

考えたことを形にして、外に出すときには頭を使う。文字にして初めて詳細が見えてきたり、概念の欠落に気がつくことは珍しくない。同様に、言葉として口に出したり、誰かに向かってしゃべることで、初めて気がつくことはとても多い。概念が実体を得る場所は、頭ではなく、手や口であるのだと思う。

疾患の治療方法は、教科書に「これ」と決まったやりかたがあるけれど、それを病棟での指示に落とし込んでいくときには、やはり詳細を自分で決定しなくてはいけない。詳細部分は、沈思黙考した結果として決定されることは少なくて、患者さんやご家族と会話をしているときに、ある意味「行き当たりばったり」的に決定されることのほうが、個人的にはむしろ多い。

誰かと面と向かって語る機会を持たない人が、何らかの意思決定を行う立場にいることが、自分にはちょっと信じられない。

頭がなくても組織は動く

記者会見の席では、「意思決定者は誰ですか?」と東電の人に尋ねても、結局答えが返ってこなかった。あの状況はあるい、本当に「そんな人はいない」というのが正解なのかもしれない。

現場は現状を報告できず、指揮官は「現場の意思を汲んで」考えつつ、判断は示さない。現場は「指揮官の意思を汲んで」、自分たちで判断を行って、上手くいかないときには「暴走した現場」が責任を負う。旧軍以来の、こうした伝統的な意思決定システムは、「誰が決めたの?」という身も蓋もない質問をされると、誰にも答えが返せない。

上手くいっていた過去の記憶だけで状況を回す、それでもなぜか上手くいっている組織というのは決して珍しいものではないのだと思う。そういう組織は、人間だった頃の思い出だけで歩くゾンビのようなものだから、頭を吹き飛ばされた程度のダメージなら、問題なく歩き続けることだってできる。その代わり、そうした組織はもしかしたら、道に落とされた小石一つで転んでしまうし、そうなるともう二度と起き上がれない。

想定外が発生して、現場では「報告しないこと」が決定される。データは本来の想定に合うよう修正されて、方針はそのデータに基づいて策定されて、新しい想定が作られ、現場がそれを検証する。間違いが許されない現場では、こんな無限ループがしばしば発生して、全てが「想定どおり」に進められた結果として、発生しないはずの想定外に対する対処は為されないまま、破綻するそのときまで、想定に対する確信だけが積み重なっていく。

事故が明るみに出るたび、間違いが許されない業界では、「俺たちの番でなくてよかった」なんて、エンジニアが首をすくめる。想定外が発生して、ようやく現場は、「想定されていた想定外」を語ることが許される。

今がその過渡期なのだと思う。

2011.04.03

災厄に関するメモ

  • データは見解を覆せない。生データの公開は、メディアの「ねつ造」報道に対するカウンターとしては弱すぎる。それを出すことはもちろん正しいし、心理的な牽制の効果を期待することはできるにせよ
  • 生データはたいてい大きすぎる。発信する側は、データを提供するのとともに、自分の見解を短く、かつメディアに互する程度に面白くまとめて発信しないといけない
  • 言葉を出す側自らが「要するにこう言いたかったんです」なんて発信するのは無粋だけれど、言葉は長すぎる。どうして報道記事を読むのかと言えば、言葉を聞く2分が惜しいからで、記者のまとめた3行なら、10秒で読める。ほんの2分を節約できるなら、たいていの人は、誰かの筆によって書かれた見解を鵜呑みにする
  • 誤解こそが災厄のもっとも普遍的な原因となる。災厄それ自体に対する誤解、自身の備えに対する誤解が災厄を招く
  • 政府の無知は賛成派と反対派の双方をおびえさせる。あるいはある災厄に対して何らかの意見を持つ人は、立場がどうであれ、それをもっとも恐れなくてはならない。無知に対する恐れの不在は、災厄の可能性を必然へと転化させる
  • 災厄の重要な原因の一つは誤った記憶にある。その災厄がいかに恐ろしいものであったのか。復興がどれだけ困難であったのか。忘却や誤解が次の災厄を生む
  • 国民は通常、指導者が危険な災厄に対して準備しているものと思っている。災厄が発生すると、そうした幻想はしばしば崩される。危機的状況において、決定はしばしば、現場を基礎においてでなく、指導者が確信している何かに基づいて行われる
  • 苦境に陥った指導者は、問題に対する質問が減り、解答に要する時間が短くなっていく。こうした傾向は状況を悪化させる
  • 将来起こると思われることは、たいていは過去にすでに起こっている。将来の見通しを立てようと思ったら、過去を学ぶことが役に立つ。「この災厄は、過去のどの災厄と似たものになろうとしているのか」を考えることが、問題の解決する助けとなる