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2011.02.26

理不尽にやると上手くいく

ちょっと前、「ジューサーの中に金魚を入れる」という現代美術の展示があった。

ジューサーの中に金魚と水が入っていて、スイッチだけリモコンで、観客の側に置かれる。観客は誰もがそのスイッチを押すことができるようになっていて、「いつでも金魚を殺せる」という、その感覚が展示になっていた。

金魚の寿命を延ばすもの

この展示で、実際にボタンを押せた人はたぶんいないのだろうけれど、これをたとえば、ジューサーに入れた金魚をインターネットで公開して、ネットの向こう側にいる誰もが、匿名のままそのボタンをクリックできるようにしておくと、誰かがボタンを押してしまう。多数決ルールを導入して、「ボタンを押した人が累計で10人を超えたら、ジューサーの電源が入ります」という看板を出しておくと、ボタンが押される閾値はますます下がる。

匿名ルールを廃して、たとえばTwitter のような、押した人をある程度トレースできるメディアで展示を公開しても、状況はそんなに変わらない。IDの追跡が可能になってしまうと、今度は逆に、あえて押してみせることを、一種の表現として利用しようという人が出てくるだろうから、金魚の命運は、やっぱり危ういままになってしまう。

恐らくはたぶん、「ボタンは誰でも押せます。累計で10人の人がボタンを押すとジューサーが回ります。その代わり、10人のうち1人だけ、押した人の氏名が公開されます」という但し書きが、金魚の生存確率を高めてくれる。

売名目的の人にしてみれば、自分の名前が公開されない可能性があるならば、自分の行為が無駄に終わってしまうリスクがあるし、怖いもの見たさの人は、「10人のうち1人」という理不尽さがためらいを生んで、やっぱりボタンは押せないだろうから。

完全匿名も、完全公開も、「完全」が、ルールに対する過度な信頼を生んで、常識の垣根を踏み越えて、ぎりぎりまでやる人たちを生み出す。確率論的な理不尽さを持ち込むと、ルールはもう、誰からも信用されなくなる。ルールに対する不信が自制を生んで、自制は落としどころとしての常識を生み出していく。

抑止力としての理不尽さ

インターネットインフラの信頼性が高いこと、エンジニアの人たちが、一生懸命にやり過ぎてしまったことが、お手つき即死のネット文化を生み出したのだと思う。

インターネットは無限に公平で、政府だとか、特定の誰かをネットで叩くときには、誰もがたぶん、どこかで「叩き返すのならば全ての書き込みに対して公平に」という建前を信じている。叩かれる側が個人であって、叩く側が「公平な無数」であれば、力量の差は圧倒的だから、リスクは事実上無視できる。今はたしかに、弁護士や警察の助けを借りれば、叩いた誰かを追跡することは不可能ではないけれど、「全員が公平に追跡可能である」ことは、むしろ抑止の効果を削いでいる。

インターネットのインフラは、公平で理性的に過ぎて、理不尽が介入する余地がない。ネットにつながった誰もが、ルールを信頼しているから、ルールの際、常識から見てやりすぎだけれどルール違反ではない、ぎりぎりの場所に、莫大な人数が殺到してしまう。

掲示板の書き込みルールを、たとえば「100人に1人が無条件にID開示を受ける。叩きに対する全責任はその1人が負うことになる」というルールを導入すると、その理不尽さが、たぶん「全てのIDは追跡可能です」という看板よりも、叩きをためらわせる。

完全匿名も、完全公開も、ルールというものは、完全を目指した時点で落としどころを失ってしまう。原則匿名、その代わり、管理者やプロバイダーが、「ついうっかりと」書いた人の実名を掲示板で全世界公開、なんてイベントが年に1回でもあるならば、その場所の空気は、実世界のそれに近くなっていく。

サイコロやくじ引きは大切

法律や、社会での様々な意思決定もまた、厳密な運用や議論を心がけるよりも、むしろサイコロやくじ引きを導入することで問題が解決する状況があるのだと思う。

法律の運用を厳密にすると、ルール違反ぎりぎりの場所に、先の見える人が殺到して、本来目指すべき「常識」を守る人はいなくなる。常識を目指して、法律を弾力的に、現場の裁量を大きく認めるような運用を行うと、取引の余地が大きくなって、結果として議論の上手が法律を勝手に運用できることになる。これは運用者に対する不信を高めてしまう。

法律それ自体に理不尽を組み込んで、ここから先は黒、グレーゾーンに入ったらサイコロを振られて、理不尽な目が出たら問答無用で皆殺し、というルールにすると、グレーゾーンに近寄る人はいなくなる。サイコロやくじ引きと交渉したり、怒りをぶつけたりするのは空しいだけだから。

議論をとことん戦わせて、「正しい意見に誰もが合意する」状況を目指してしまうと、結論はたいていろくでもないものになる。劣ったアイデアが「努力賞」として取り込まれた結果として、成果物の魅力が削がれてしまったり、「全員の合意」に到達できなかった結果として、組織を「純化」する流れが生まれて、合意できない人が殺されてしまうことだってある。

会議室に「くじ引き」や「易」のような理不尽を導入することで、プロダクトの品質が高まったり、犠牲者を減らせる可能性がある。ああいうものは本来、意思決定を加速するための道具であって、未来予測という機能は、むしろ後付けのものなんだと思う。

決定が困難な場所にランダムさを持ち込むと、物事は案外上手くいく。「確率論に従って、あえてちゃんとやらない」ことが、問題解決のヒントになる。

2011.02.23

リストに載らないパラメーターについて

ちょっと前、「腹をくくればどうにかなるよ」なんてネットに書いて、翌日当直は歴代最高人数を超えた。

医師の転職サイトを見ながら考えたこと。

「劣っていないこと」には意味がない

患者さんは確実に増えている。高齢化も進んだし、田舎の地価は安いから、老健施設の数も増した。高齢者の紹介はどうしたって増えて、一方で、近隣施設は人手が減って、入院を絞りはじめた。人が足りないのなら増やせばいいのだけれど、田舎というのは人がいないからこそ田舎であって、口を開けて待っていたところで、人なんてやってこない。

隣の芝生は青いから、疲れたとき、医師向けの転職サイトを時々眺めたりもする。いろいろリストアップして、今いる施設の待遇それ自体は、世間の相場みたいなものからは、決してそんなに離れていないのだな、なんてことを確認する。

いろいろ条件を変えて検索すると、今いる場所よりも少しだけいい待遇を用意している施設はたくさんあるし、その逆もある。良くも悪くも、リストに載った施設は条件を揃えてくるから、リスト化は横並びを招いて、誰も知らない素晴らしい楽園みたいな場所は、よしんばそれがあったところで、検索リストからは探せない。

リストに載って、他の施設に劣らない待遇を提示したところで、「一番でない」施設は、目に入らない。リストの中位にある病院は、トップ病院の価値を下支えする役割こそ担っているけれど、そこにいることは、その施設にとっては意味がない。無数の選択肢に埋没した施設は、どれだけ待ったところで、検索された人にフックしないから、人の流れを生み出せない。

正解はルールの外側にある

リストに載った者同士の競争は、一番にならない限りは意味がない。ならば待遇を改善して、検索リストの中から「頑張って一番を目指す」やりかたはどうかと言えば、効率が悪い。

これをやったら病院は赤字になるし、「頑張った」結果として、人ではますます必要になってしまう。競争を行っていく中で、相手が用意したルールの中で努力するというやりかたは、恐らくは最悪に近いもののひとつで、正解はたぶん、ルールの外側で、「一番でいられる場所を探す」ことなのだと思う。

リストに載った時点で競争になって、競争になったら、1番以外は無数の選択肢のひとつにしかなれない。じゃあリストに載らない場所で、自分の施設に導線を退ける場所はどこかと言えば、それは一から自分で作り上げた場所やものであって、インターネットという場所は、そういう意味で、自分の場所を作ったり、何かを発信したりするコストが安くて、「自分の場所」を作りやすい。

就職活動みたいなものもリスト内部での競争を強いるものだし、これが一芸入試みたいな形を取っても、そういうルールの枠内で勝負する限り、ずるはできない。他人から見て「ずるい」と思われるやりかたこそがたぶん正解であって、競争が激しい場所ほど、「ずるができる場所」を探す意味が増していく。

ネットワークとの親和性

勉強の成績や資格、作ってきた成果というものは「経験」であって、経験というものには、「ネットワークとの親和性」というパラメーターがある。

ネットワーク親和性の高い経験というものは、たとえばプログラマの成果物なんかはもちろんだけれど、もっと「人間」よりの、何かをマネージメントした経験なんかも、ネットを通じて発信しやすくて、しかもそれを必要としている誰かの目に届きやすい。

一方で、何かの資格を頑張ったとか、積み重ねる系統のものは、ネットとの親和性が悪い。資格はリストに載っかりやすいから、それはリストに載るための入場券にこそなるけれど、「ずるい場所」のコンテンツとして用いるためには工夫が必要で、「こんな資格を持っています」と発信したところで、読者はたぶん面白がらないだろうから。

ネットワークとの親和性は、「見せかた」で高めることができるし、どれだけ貴重な経験をしたところで、見せかたが悪ければ、経験は力を失ってしまう。

たとえば 「私は100人のサークルを率いていました」と聞いても、ふーん、としか思わない。100人は単なる数字であって、実際問題、その人がそれを通じて何を得たのか、伝わってこないから。

これをたとえば、「100人を率いるとこんな問題が出てきて、こういうことを知っていないと、内乱が起きて大変なことになるんです」と話す人なら、思わず身を乗り出して1時間ぐらい正座したくなる。同じ「100人」でも、ちょっとした工夫で、コンテンツとしての価値は何倍にもなる。

つまらないことを面白く

プログラマの人たちは、「こういうWebアプリケーションを書きました」という記事を書く。生み出した成果はそのままコンテンツであって、読者はその人の成果物に直接触れて楽しむことすらできる。これがたとえば、「地道に勉強して資格を取りました」とか、「筋力トレーニングを2週間続けました」みたいな経験になると、見せかたを工夫しないと、人の導線は生まれない。

裏を返せば、ネットワーク親和性の高い経験は、発信の工夫が少なくてもいいけれど、そのことがまた競争を生んで、面白さがリスト化されてしまう危険がある。資格の獲得や、筋肉トレーニングのような、一見すると「つまらない」何かを、思わず身を乗り出して聞きたくなるようなコンテンツとして公開できれば、その場所は唯一無二になる。

ホームページで、自分もそのうち求人広告を出すことになるんだと思う。

誰かに入ってきてほしい場所として、ならばうちの施設には何があって、それがどう面白いのか、まずはそこから考えないといけない。「この疾患の専門施設です」だとか、「ベッド数がどれだけです」みたいな、検索できる情報ではなしに、自分がこの施設で暮らしていて、じゃあどんなところを面白がって、どうしてここに自分がいるのか、そんなことを面白く語れればいいのだけれど。

2011.02.20

呼び出しの作法について

もともと認知症があったりして、夜中に不穏になって、大声を出したり、点滴を引き抜いてしまったり、ひどいときには点滴棒を振り回したり、病棟の人員ではどうしても手に負えなくて、夜中にご家族をコールせざるを得ない機会が時々ある。

こんなときに、「○○さんの認知症が厳しすぎて病棟が大変なことになっています。今すぐ病院に来て、患者さんに付き添って下さい」という言葉で用件を伝えると、正しいことを言っているにもかかわらず、トラブルになる可能性が高くなってしまう。

目線が変わると見えかたは違う

白衣の威光効果はすごいから、たいていの場合は、ご家族の側から「迷惑をかけてすいません」なんて切り出されて、話は丸く収まるのだけれど、ご家族が実際に病院にやってきても、「ちゃんと話の分かる人ですから、よく言い聞かせれば大丈夫です」と怒られたり、あるいは「病棟が混乱しているのなら、専属のスタッフを誰か付ければそれでいいでしょう?」なんて「アドバイス」をもらって、電話が切られてしまうこともある。

こういう人たちに対して、「病棟の現状も知らずに無理難題を吹っかけるモンスターだ」と嘆くのは簡単だけれど、病院の側にも、落ち度はあるように思う。

「○○さんのせいで病棟が大変なことになっている」こと、それに対して「ご家族に付き添ってもらう」という解決策を提示することは間違っていないけれど、これらは病院の側から見えた正しさであって、ご家族から見た正しさとは、当然のように異なってくる。自分の目線から見た風景を説明して、「これが正しい」と言われたところで、ご家族は困ってしまう。

「敵の言葉」は響かない

「○○さんのせいで病棟が大変なことになっている」のは事実だけれど、こんな言い回しを用いると、患者さん本人を病棟の「敵」にしてしまう。ご家族はもちろん患者さんの味方だから、「事実」を伝えられたその瞬間から、電話口の相手は「敵」になる。敵の言葉を素直に呑むのは負けであって、負けたい人なんていないから、話がこじれる可能性は高くなる。

「病院で付き添って下さい」という言い回しは、ご家族に対して、病院側はたしかに解決策を示しているのだけれど、言葉の中に判断の材料が含まれていないから、ご家族の側にしてみれば、病院の「命令」を呑む以外の選択肢が見えてこない。

「負けた」人は、負けない道筋を探そうとする。病棟にきて、じゃあ病棟がそこまで切迫しているように見えなかったら、それを叩こうとする。

命令でなく援助を乞う

「大変なことになっています。付き添って下さい」の代わりに、たとえば「夜間に申しわけありません。我々の病棟に人手が足りず、○○さんを安全な状態に保ちながら治療を続けることが難しくなっています。どうか助けていただけないでしょうか?」という言い回しを用いると、呼び出しに関するトラブルを減らすことができる。

こうした言い回しは、ご家族を「呼び出す」のではなく、病棟がご家族に「助けられる」形を目指す。病院が求めているものは、結局のところ「ご家族に付き添ってもらう」ことであって、最初の言い回しと変わるところは何一つ無いのだけれど、呼び出されたご家族は、病院に「命令された」のではなく、病院を「助けに来た」ことになる。けっこう大切だと思う。

勝者の制御コストは低い

「俺の目線を呑め。命令に従え。さもないと…」という言い回しは、命令された側が負けを呑むことになる。どれだけ丁寧な言葉を選んだところで、言いたいことの正味は変わらない。

「もう無理です、助けて下さい」という言い回しは、「無理」という言葉を用いることで、現状の限界をご家族に示しつつ、「さもないと」の先を暗示している。結局のところ、「命令」と変わるところはないのだけれど、ご家族を勝者にすることができる。「助けに来た」人は、病院に来た時点で、すでに勝っている。負けるのは悔しいけれど、勝者の振る舞いは、予測可能性が極めて高くて、制御コストは低いと言える。

誰かに何かを「命令」するときには、前提として負けてみせること、選択肢が一つしかないにせよ、相手にそれを選んでもらうための判断材料を明示すること、「相手の勝利」を明示するために、なるべく早いタイミングで「申しわけありません」のような言葉を割り込ませることで、状況のコントロールが容易になってくる。

2011.02.17

縁は人を動かす

近所のショッピングモールは、ワンフロア全部が子供服になっている。そもそも子供が少ない地域で、ショッピングモールを歩いている人の顔ぶれを眺めたところで、子供はそんなに多くない。人口構成と、お店の数とは明らかにバランスが取れていないのに、大人向けの商品を扱うお店は時々潰れて、子供服売り場は、それなりの賑わいを続けている。

人の動かしかたについて。

考える人の財布は固い

物の価値をよく考えてお金を使う人からは、お金が取れない。よしんばそういう人が、何かの商品に価値を見出したとして、考える人たちは、価値に見合ったお金を支払おうとするから、利幅は少なく、商売は続けられない。

「よく考える人」というのは、商売の相手としても、あるいは選挙活動みたいなものであっても、「おいしくない」相手ではあるけれど、たぶんお金それ自体はけっこう持っている。こういう人からお金を引っ張ろうと思ったならば、その人に接続された、そこまで物事をよく考えない、自分でものの価値を判断するのが難しいであろう誰かを通じて、その人のお財布に手を伸ばせばいい。

子供の数は少ないけれど、いろんなものを欲しがるだろうし、「この商品に値札分の価値はあるだろうか?」なんて、そこまで深くは考えない。ショッピングモールの人口構成に、「財布の緩さ」をかけ算すると、恐らくは「子供を連れた親御さん」の係数と、お店の数とは、案外いいバランスで釣り合っているのだろうと思う。

誰かの判断力に、別の誰かのお財布を接続できると、商売がひとつ生まれる。トリンプの通販には「おねだり」機能があって、そこで商品を買う人は、別の誰かの支払いを当てにすることができる。子供向けの商品は、子供の判断と大人のお財布との接続を試みて、同じ流れで、高齢者に向けたトンデモ商売というものも、これからたぶん、ますます盛んになっていく。

自由人の制御コスト

医療の現場は相変わらず崩壊していて、厳しい現場からは、どんどん人が抜けていく。こういう現状を何とかしようと議論するときには、たいていは「若い人たちの振る舞いをどうにかしよう」制御しよう、という流れになるのだけれど、これはおかしいと思う。

若い人たちのコストは、ベテランに比べて安価だけれど、頭が回って、横のつながりがあって、家のローンや家族や子供のような、失いたくない何かを背負っていない若い人というのは、ベテランに比べればはるかに高い自由度を持っている。自由な人は扱いにくくて、たとえ雇用コストが安価であっても、制御コストは一番高い。

ベテランの人たち、自宅や家族、子供はすでにどこか学校に通っていて、下手すると自分のクリニックに億単位の借金を背負っている人たちは、人件費こそ高いけれど、企業経営者みたいな人からすれば、笑いが止まらないぐらいに扱いやすい人たちであるとも言える。お金の流れさえ押さえてしまえば、ベテランは抗うすべを一切持たないから、どんな無理でも言うことを聞いてくれる。

「医師が足りないどうしよう」の議論というのは、どこかこう、目の前に川があって、近くに粘土の山があるのに、粘土そっちのけで「水に動いてもらう言葉として、「ありがとう」と「こんにちは」、どちらがよりふさわしいのか?」なんてみんなで考えているみたい見える。粘土こねてバケツ作ろうよって思う。

縁の力というものがある

たとえば病院では看護師さんが不足していて、どこの施設も、慢性的な人不足に悩む。

看護師さん達は横のつながりが強くて、地域の他の病院との連絡も密に行っていて、お互いの施設を行ったり来たり、転職の閾値がとても低くて、来年の人数を読むのがしばしば難しい。

どこの施設も待遇の改善に必死だけれど、待遇もリスト化されれば「カカクコム」の泥沼で、「他施設よりも100円高いです」がずらっと並んで、リストに沈んだ病院は、もうチャンスなんてめぐってこない。

看護師さん達の流動性は高いけれど、じゃああの人たちが持っている「流動できないもの」は何かと言えば、本人でなく、たとえば子供さんのコミュニティや教育なのだろうと思う。どこかの施設が看護師さん達を集めたいと思ったならば、待遇の改善を売りにするのではなく、同じコストをたとえば託児所に投じてみるとか、いっそ病院に幼稚園を併設して、そこの教育を売りにしたりすると、差別化が図れたり、案外低コストで、人材の調達が実現できたりするような気がする。

技術者の福利厚生をうたっていたのはGoogle だけれど、企業直営の介護施設を用意すれば、それが切実な人にとっては、もしかしたら自分自身の待遇は二の次で、その企業が選択の対象になる。福祉はそれでも高価につくから、高コストな人材を集めるために用いないと、医療保険目当てでパンクしたスターバックスみたいなことになるかもしれないけれど。

大人が「無縁化」しているんだという。NHKは少なくともそう信じている、あるいはそう信じさせたいみたいだけれど、「子供の縁」というものは、まだまだこれから構築できる。人を集めて、その人たちを待遇で縛るのは難しいかもしれないけれど、たとえば子供達を集めたキャンプを毎年3回ぐらい開催してみせるとか、子供同士の縁をがっちり縛り上げてしまうと、子供を窓口に、大人の振る舞いを縛ることもできるように思う。

つまるところは企業の「村」化、終身雇用の昔はきっとこんなかんじだったのだろうけれど、転職上等のハリウッドスタイルと、人の振る舞いを縁で縛り上げる昔ながらのスタイルと、片方だけが正解、というわけではないのだと思う。

2011.02.15

リーダーシップの軸足

リーダーシップというものは、「組織を作るのが上手な人」、「動機付けが上手な人」、「アイデアを出せる人」というのが3大要素で、「人の上に立つ」リーダーという、古典的なリーダーの風景に一番違和感が少ないのが、組織を作るのが上手であるリーダーシップのありかただった。

通信のコストが高価であった昔、組織というものは通信を効率よく行うための道具であって、リーダーシップを持った人とは、要するに通信インフラを作れる人のことだった。

ネット時代は、通信のコストを引き下げた。通信のコストが下がった結果として、従来的なリーダーシップの購入コストは大幅に下がって、いろんな人にリーダーへの道が開けた。

こういう流れは結果として、「アイデアを持っている人がリーダー」という、リーダーシップのありかたを強化していくのだと思う。

本部のコスト

資格試験は群れるといろいろ便利で、医師国家試験を乗り切るために、昔は全国規模の組織があった。情報をやりとりしたり、模擬試験を共同で受験することで予測精度を高めてみたり、国家試験予備校が提供してくれる「傾向と対策」のプリントを印刷して配布したり、今どうなっているのかは分からないけれど、昔はこういうのは、下級生の仕事だった。

国家試験直前、その年の主幹大学は「本部」を設置した。本部のインフラは大がかりだった。ホテルの大部屋だとか、どこかの事務所スペースを借りて、国家試験直前、そこにNTT の電話回線を引き込んで、さらにリコーのコピー機兼用FAX を複数台並べて、24時間待機した。

これだけの設備を整えるのに、NTTから回線をレンタルするだけでも数十万円オーダーだったし、ホテル大から移動料金、手伝ってくれる学生のアルバイト代、学生から見るとめまいがするようなお金がかかった。

バブル末期の頃、ワンボックスカーに自動車電話、コピー機にFAX、簡易会議室を積んだ移動オフィスのレンタルサービスを始めた会社があって、あれを3日間借りると300万円ちょっとだった。ビジネス用途の移動会議室をフルに使って、あれでぎりぎりいけるから借りようか?なんて話が十分現実的な選択肢になるぐらい、本部にとっての通信は切実であって、同時に高価なものだった。

すごいお金をかけて、当時得られたものはといえば、各大学と本部とをつなぐ、糸電話に毛が生えた程度の専用回線だけだった。全世界規模のインターネットが当たり前の現在から見れば、もう笑っちゃうぐらいに細い帯域だったけれど、それでも大学時代、後にも先にも、学生レベルであれだけのお金がかかった通信インフラは見たことがなかった。

あの頃用意したインフラは、それでも必要な物だったけれど、じゃあ今の機材で「本部」を設営したならば、たぶんノートPC 1台で全部いける。ネットがある現在、携帯電話とインターネット、どこかの無料Wiki を借りてくれば、「本部」に必要な機能のほとんどは再現できてしまうし、全ての通信はリアルタイムでいける。お金も人手もかかった昔に比べると、圧倒的に高品質な通信が、恐らくは数人の人手でまかなえてしまう。

「本部」を指揮していた人は、間違いなくリーダーだった。リーダーとはこの時代、設備と同義であって、設備を作れる、それだけのお金と人手とを集めて動かせる人でないと、「本部」が成り立たなかった。通信が安価になったネット時代、今では誰でも「本部」になれる。個人的にはこれは、とんでもない進歩に思える。

通信の昔

国試前、下宿に引きこもった同級生に連絡を取るのは、下級生の役目だった。

当時自分の下宿には留守番電話がなかったし、そういう学生は決して珍しくはなかったから、試験の情報や、講義の日程のような大切な情報は、地元のコンビニエンスストアと交渉して掲示板を置かせてもらったり、下級生に地域を割り当てて、訪問販売よろしく先輩の家を訪ねてもらったりする必要があった。

今振り返れば笑い話だけれど、携帯電話もネットもなかった昔は、通信すること、回線をつなぐことは困難で、切実だった。

「たくさんの人と通信するコストが安価になった」のが画期的だ、なんて回想は、携帯電話やインターネットを知っている人からすると、「昔は空気が有料だったんだよ」と言われるようなものなのかもしれない。

携帯電話前夜、学園祭前日に欠かせなかったのがトランシーバーの準備で、クリスタルを取り換えて、無線の周波数を合わせて、大学のいろんな場所に下級生を走らせて、「感度、入りまーす」なんてやるのが常だった。通信とはトランシーバーで、これがダウンしてしまうと、当日大変なことになったから。

無線機にしたって数がないから、通信が必要そうな場所には、あらかじめ通信担当の下級生に走ってもらった。誰もが端末を持っている現在なんて、当時からするとSFだった。

あの時代、通信ができる人間こそがリーダーであって、通信を行うためには、たとえば「コピー機のあるコンビニエンスストアが近いこと」なんかが大切な資質だった。プリントをコピーして、下級生にそれを配ってもらうためには、プリントのある場所と、コピー機のある場所が物理的に近くないと難しくて、当時はもちろん、インクジェットプリンタなんて誰も持っていなかったから。必要な道具に手が届くこと、情報を届られる誰かと連絡が取れることが、通信するための、リーダーとしての絶対条件だった。

そういう意味で、「リーダーがいるはずだ」という、エジプト革命に対する自分の見かたは、あるいは「空気が有料だった昔」の常識で物を見ている可能性があって、根っこから間違っているのかもしれない。

印刷の昔

情報というのは、「完成品」として発信しないと、伝わらない。ペラ紙に殴り書きした文字は単なる文字であって、情報とは違う。清書されて、コピーに耐える品質を持たない限り、文字は情報にならないし、情報にならない文字は発信できないから、伝わらない。

学生運動の大昔、ガリ版と鉄筆が、運動を支えた。新聞にしかできなかった「清書とコピー」が、学生にも手が届くようになって、リーダーになれる人がそこから生まれた。

自分たちの頃はコピー機だったけれど、大学の学生棟にはリソグラフがあった。自分の部屋には大した家具もなかったけれど、リコーの業務用コピー機だけは持っていたから、情報が自分の家に集まって、それを清書することができた。「コピーする」ことには2つの意味があった。文字どおりの複製と、もう一つは切り貼り原稿を1枚の紙に焼く、「清書」の意味と。自宅にコピー機があると、切り貼りした原稿をコピーして、原稿を「清書」することができる学生は少なかったから、コピー機を持っていることは、発信できることと等しい意味を持っていた。

切り貼りの文化は、ずいぶん長く続いたと思う。

保育園の頃はガリ切りで、ガンジーのインク消しでよく遊んでいた。小学校は青焼きコピー、中学生徒会で和文タイプ、そのあとオアシス100J が職員室から払い下げられて、大いに使わせてもらったけれど、大学時代、ワープロとコピー機、リソグラフを使うようになっても、清書の最終工程としての「切り貼り」は、ずっとついて回った。画像を電子化して切り貼りをなくす、個人レベルでのDTP が実用になったのはずいぶん後で、大学を卒業して数年するまで、自分はPCに触ったことがなかったから、このあたりはずいぶん遠回りをしたのだけれど。

今はもう、机の前に座ったまま、LaTeX で原稿を作って、図版は全部PostScript で埋め込み、あらゆる物がテキストとして電送可能で、ネットワーク越しに出版社のPCで出版原稿を作れるようになった。この2年間ぐらい、当たり前のようにこのシステムを使っているけれど、ガリ切りの昔から振り返ると、同じ国とは思えない。

アイデアへの回帰が来る

通信や印刷の機能を持つと言うことは、通信のコストが高価だった大昔、リーダーであることと、ほとんど同じ意味を持っていた。

そういうことができる人間は限られていて、ならばそういうものに手が届く人が、人を引きつけるようなアイデアや人望にあふれていたかと言えば、決してそんなことはなかったのだと思う。

2ちゃんねるを敵に回した誰かが、掲示板住人に追い込まれて、片端からプライバシーを剥かれる事例がときどきあるけれど、あれなんかはまさに「リーダー不在」で、そのくせ分業がきちんとなされて、そこに参加する全ての人が、何らかの形で目的に貢献していて、見事な連携を見せる。同じことをたとえば、お金を出した誰かが興信所のプロを指揮して、同じような成果を出せるかと言えば、恐らくは難しい。指揮する誰かは、人を雇うだけのお金は持っているかもしれないけれど、動機付けも、アイデアも、持ち合わせていないから。

匿名掲示板には、リーダーを名乗る人こそいないけれど、アイデアを出した人、そこにいる住人に動機付けを行った誰かが必ずいて、どうすれば目的が遂げられるのか、今何が足りないのか、どうなったら「勝利」なのかを語る。問題の大きさは比較的小さくて、参加した人のことごとくが、自分たちがどんな形で問題解決に貢献できたのかがよく見えるから、リーダー不在の盛り上がりが実現できている。

通信のコストが下がって、「組織が作れる」というリーダーの資質は、誰にでも、低コストで調達できるようになってきた。価値の軸足が変化して、ようやくここに来て、「問題設定と解決に必要なアイデアが出せる」ことが、リーダーの一番大切な資質になってきたのだと思う。

2011.02.14

集まりや盛り上がりを支えるもの

エジプトの市民革命は、ピーク時には数万人もの人々が広場に集まって、集会は20日間近く続いて、大統領を退陣に追い込んだ。

ああいう大きな人の流れは、もちろん政府当局に対する市民の怒りがあったのだろうけれど、あれは「数万人規模の人々を20日間、広場で生活してもらう」という、イベント運営の側面もあって、兵站や補給の側面から今回の革命を見直すと、とてもよく考えられていたなと思う。

エジプトのデモ広場を案内する記事を見ると、水場やトイレどころか、病院から幼稚園まで準備されていた。テレビで放映されたデモの映像には、人々が集まった真ん中に正円形のテント村が写っていて、集まった人がなんとなく作ったものにしてはずいぶん整った形をしていたのだけれど、実際に現場で行われていたことは、想像をはるかに超えていた。

食べて休まないと動けない

学生時代に手伝い要員として参加したイベントでは、集まった学生を「生活させる」ための仕組みがしっかりと整えられていた。

イベント当日の1週間ぐらい前から、全国から申し込んだ学生は、近所の寮みたいなところで寝泊まりしながら、ボランティアとしてイベントの準備を行う。たしか全国から50人ぐらい、なんとなく参加したそのイベントでは、現地の上級生が「その日の仕事」をきちんと割り振って、「その日食べるもの」や、「その日寝る場所」も、今思い返せばきちんと割り振ってくれていた。

参加してみたものの、知りあいなんて誰もいないし、知らない土地でいったい何をすればいいのか、そもそもどうやって生活していけばいいのか、勢いしかない若かった頃は、そういう想像が及ばなかった。現地に行ってみれば、当然のように「今日やる仕事」が用意されていて、お昼になればお弁当が配られて、お風呂や寝る場所も割り当てられたけれど、今同じことを、「それが当然あるものだ」と思っている人たちを相手に、自分が同じようなイベントを仕切れるかと言えば、怪しいものだと思う。

組織は便利

体育会のイベントは、各大学の主将に話を通せばそれで済むから、運営は圧倒的に簡単だった。

どれだけの人数が集まるイベントであっても、各大学内部の運営は主将の管轄で、自分たちは大学の数だけ通信を行えば、あとは大学で何とかしてくれた。それにしたって、お昼の弁当配りは大変だったし、大会を主管する側は、近所のトイレやコンビニエンスストアの地図、地域病院への挨拶回りや、会場を貸してくれた役所への挨拶、やるべきことはたくさんあったのだけれど。

阪神大震災直後、罹災した人たちは地元の体育館や公民館に避難して、食料の配布や医師の派遣は、各建物ごとに行われたのだけれど、そこに「組織」を仮想して、初動がわずかに遅れることがあったんだという。

全国から医療従事者が派遣されて、人の集まった建物で「怪我をしている人はいませんか!」と叫んだところで、そこに代表者はいないから、本当に具合の悪い人は、そうした声に応えられない。集まった個人と、組織とは全然違うんだということに救護する側が気がついて以降、「声」でなく、「足」を使った病人探索に切り替えて、重症の人を捜したのだと。

プロは兵站を考える

数万人規模の集まりを、単なる熱意で維持するのは不可能で、誰だってお腹は空くし、寝ないと疲れる。トイレなんて、むしろ真っ先に用意しないと大変なことになる。人々がある程度組織だっているのなら、まだしも少人数で何とかなるのかもしれないけれど、全国から熱意ひとつで集まった人たちは、組織には遠いし、どれだけの準備を整えて広場にきているのか、運営する側からは全く読めない。

素人は火力を考える。プロは兵站を考える。

デモをやろう、広場に集まろう、政府をひっくり返そうという気運が盛り上がって、すごい数の人が広場に集まったとして、その熱気は、数日間は持つかもしれないけれど、政府の側に3日間も我慢されれば、誰だって疲れて、勢いは衰える。一度勢いが衰えてしまえば、政府が失敗しなければ、もう熱気を維持するのは無理だから、革命を指揮する側の人たちが、熱気を維持するインフラを整備しないで、気概だけで集団を持たそうとしていたなら、「国民の選択で」現政権が維持されたという結末も、十分にあり得た。

たとえば1週間なら1週間、集まった人たちの気力を持たせようと思ったならば、空気を盛り上げるだけでは不足で、そこで生活できるだけのインフラを整えないといけない。水場や食事の供給、トイレ、病院、気概を維持するためのモニュメントも必要になる。今回のデモ広場には、病院どころか託児所まで完備されていて、ちょっとした都市の機能は全部揃っているみたいだった。

漠然と「マネジメント」の能力には違いないのだけれど、あの市民革命を支えた裏方には、人や物の流れをきちんと手助けできるだけのノウハウを持った誰かが間違いなくいて、その人たちが集まった人を手助けしたからこそ、2週間という長い期間の間、集まった人たちの熱意が持ったのだと思う。

インターネットの意味

「インターネットによる革命だ」という切り口で、今回のエジプト革命が取りあげられることがあったけれど、ネットで緩くつながった人たちが、ただ集まって盛り上がっただけではこうはならなくて、運営する能力を持った誰かを持たない人の集まりは、「革命」でなく「暴動」になってしまう。

10万人を超える人たちが集まって、よしんば誰もが目的意識を共有できていたとして、じゃあそれだけで革命が成功するかと言えば無理な話で、盛り上がった人たちはどうしても疲労するし、食べたり寝たりする場所が用意されていなければ、下手するとどこかで事故が起きて、デモは屯坐してしまう。

広場の地図と、集まった人たちとを、あらかじめ条件を想定できるなら、人の流れを設計することはできるし、プランも組める。考えるだけなら、恐らくそれは誰にでもできる。ところがデモが発生するタイミングは読めないし、人の数だって読めないのだから、デモの当日、地面からの目線で、上空から見た当日の地図を想像して、そこからプランを組める人はほとんどいない。インターネットは、通信インフラとして間違いなく大活躍したのだろうけれど、何よりもまず、人の流れと物の流れとをきちんと設計できる人がいなければ、物事はここまで上手くいかなかったような気がする。

あのノウハウが、軍のものなのか、それとも建築畑なのか、イベント運営なのか、いずれにしても、どんな人たちが裏方で活躍したのか、ぜひとも知りたいなと思う。

2011.02.13

希望を捨てて覚悟する

何年たっても、当直業務というものはやっぱり怖い。研修医だった頃、平然と業務をこなす上の人たちを見て、自分もいつかああなれると信じていたのだけれど、怖いものはやっぱり怖くて、年次を重ねて、恐怖はむしろいや増した。

希望を捨てることについて。

尋問には希望が必要

戦争で捕虜になった人を尋問するときだとか、あるいは刑事事件で容疑者を尋問するときもたぶん同じだろうけれど、尋問や拷問のような手法を使うときには、何らかの希望を見せながらでないと、効果がなくなってしまうのだという。

それが尋問であれば、相手をどれだけ執拗に問い詰めたところで、話したところで状況が変わらないのなら、尋問を受ける側には意味がない。尋問を行うときには、まずは「答えてくれればこんなところからさっさと抜け出せますよ」とか、「早く帰って、子供さんと一緒に話がしたいですよね」だとか、そこから抜け出せる可能性をまず提示して、手を伸ばせば届くところに「希望」を見せ続けることで、効果的な尋問が行えるのだと。

希望や願望というものは、それ自体が弱さの根源でもあって、一度希望を見てしまった人は、外からの介入に対してどこか脆弱になってしまう。

当直前のお祈り

怖いことはどうしたって避けられなくて、それでも怖がってばかりだと仕事にならないから、当直直前、たいていはこんなことを考える。

  • 平均値を信じる: どこの施設であっても、「今日はだいたいこのぐらい」という人数は決まっている。て、祈ったところで人は減らないし、増えるといっても、今まで20人だったのが100人来るとか、可能性としてはまずありえない。ありえないものを怖がってもしょうがない
  • 怒らない: 理不尽な思いをしても、患者さんだとか、そこにいない誰かに対して怒りをぶつけない。怒ると眠れないし、怒っても、確率論の神様は、また別の患者さんを連れてくる
  • 取引しない: 「夕方は死ぬほど忙しかったから夜中はきっと暇だ」とか、「今が忙しくないということは、これから救急のピークがやってくる」とか、そういうことを考えない。忙しい日は忙しいし、そうでない日はそんなでもない。その日の病人が何人なのか、それを決めるのは時間ごとの取引なんかじゃなくて、その日の温度や天気、すくなくとも、病院にいる自分たちに左右できる何かじゃない
  • いつか朝は来る: 「このままずっと眠れないのではないか?」という恐怖は無視していい。最悪を想像しても、いつか朝になる。一晩ぐらい寝なくても死なない。朝になったら、最悪仕事を放り出して帰ったところで、少なくとも患者さんには迷惑はかからない。恐れるべきは「自分に状況がコントロールできなくなること」であって、一晩寝ないぐらいのことで状況がコントロールできるのならば、それは引き合う。眠れない恐怖のあまり、判断にぶれが生じるほうがよっぽど危ない

漠然とした心配のこと

「相手の言うとおりにしておけばよかったのではないか?」とか、「このまま当直を続けると大変な事態になるんじゃないのか?」とか、予測の出来ない何かが頭をよぎると、そこから先の疲労感が一気に増える。

漠然とした心配というものは、それを心配しても仕方がないどころか、心配することは、しばしば害悪でもあって、心配しなくてもいいことを心配しすぎて、潰れてしまう人も多いのだと思う。

何かの願望を抱いてしまうと、「漠然とした心配」がセットでやって来る。

願望を抱かないこと、その代わり、その先にある確実な結末、「想定される最悪はそこまで最悪じゃない」ことを知ることで、覚悟というものが少しだけ定まるのだと思う。

2011.02.09

謝罪と誠意について

今年になって見る機会のあった、社長さんの謝罪について。

グルーポンの謝罪

正月に販売されたおせち料理の品質が不十分で、それを販売したグルーポンの社長さんが謝罪のビデオを公開した 。教科書的な、謝罪の見本のような動画だった。

米国人(?)の社長さんは、まず最初に、生じてしまったことに対する現状を語って、「申し訳ありません」と感情の表明を行った。次に「これは私の責任です」と、責任の表明を行って、補償についての話題につなげた。

責任の引き受けと補償の宣言とを行った後で、今後それをどう予防していくのかが説明されて、最後に「私が皆様にお約束できるのは、失敗から学び二度と同じ過ちを繰り返さないために全力を尽くすということです」と、会話を締めた。

こじれた状況を丸く収めるためにトップが乗り出す、正攻法というか、反論の余地のないやりかただけれど、とても新鮮に聞こえた。

謝罪をしたのは外国人の社長さんだったけれど、これが日本の会社だったら、最初に来るのはもっと漠然とした、「ご迷惑をおかけします。申しわけありません」のような言葉なのだと思う。現状を定義しない、あえて対象をぼかした謝罪を行った後で、今度はたぶん、「部下がこんな失態をしでかしました。申しわけありません。我々は彼らを信じていました」と、問題の切断が試みられる。

具体的な金額に踏み込んだ補償の話は、カメラの前ではなんとなくためらわれるから、日本だったらここは、「お客様とこれから誠意を持って交渉させていただきます」といった、そういう言葉が来るような気がする。

締めに来る「今後の対策」については、「二度とこういうことの無いよう、社員一同徹底していく所存です」というのが、典型的なパターンになる。その失敗から何を学び、どういう対策を行い、それによってどういう効果が期待できるのか、具体的な言葉を日本で語ると、もしかしたら叩かれてしまう。

つまらないことに意味がある

グルーポンの社長さんが行った謝罪というものは、文章で発信するならともかく、ビデオメッセージや記者会見の席で、日本人のトップが同じことをやるのは危険な気がする。

あのやりかたはどこか、「外人さんだから」の威光効果が効果を裏打ちしているところがあって、マスメディアを前にした記者会見の席で、社長さんが「責任」を語ろうものなら、あとからどれだけ素晴らしい対応を行おうが、辞任を宣言するときまで、追及は止まないだろうから。

お互いに対等な空気で行う謝罪と、叩く気まんまんの報道陣を前に行う謝罪とでは、選択すべきやりかたは、異なるのが正解なのだと思う。叩くのが前提の空気を前に、「失敗」を報告して「謝罪」してしまうと、そこにいる人たちは、一斉に叩きにまわる。「この男は潰れきるまで叩いていいんだ」という空気を防ごうと思ったならば、「失敗」を具体的に語るのを回避したり、あるいは自らの責任を明言しないで、頭下げてじっと黙って、状況がグダグダになるのを待ったほうが賢い。

ニコニコ動画の謝罪

最近「ニコニコ動画」が一時的に動画の閲覧が難しくなったことがあって、そのトラブルについての謝罪が上手だなと思った。

最初に謝罪の言葉があって、トラブルの原因についての説明があったあと、「根本的には莫大なお金をかけることでしか解決できません」と、ある意味あきらめとも取れる言葉が続いた。「こういうことが二度と生じないよう、一同全力で尽くしていきます」という発言でなく、会社のコスト構造や、リスクを回避するのに必要な費用の説明があって、できない部分はできない、できることについては見直しを行います、という宣言で締められていた。

これは平均的なユーザーに対する謝罪であって、最悪の顧客に怯える対応とは違う。メディアを相手にしていたら土下座会見になったって不思議でないところが、あえてそれをやらないことが、ユーザーに対する暗黙の信頼を表明しているような気がして、個人的にはいい印象を持った。

幹部一同が頭を下げる謝罪会見というのは、あれはマスメディアという神様を何とかなだめるための、一種の神事であって、あの謝罪はそもそも、お客さんの方向を向くように設定されていない。メディアがそれで納得したとして、ユーザーへの説明はまだ行われていないわけだし、謝罪会見のあとで関連記事がネットから削除されたりすると、会社のホームページが爆発炎上したりする。

ネットは誰でも発信ができるから、トラブルに遭遇したとき、声を簡単に伝えることができる。口を極めて企業を叩く人もいるだろうし、恐らくは黙ってスルーする人がほとんどで、中には逆に、トラブルそれ自体を楽しんだり、運営の対応を誉める人もたぶんいる。本来の平均がどのあたりなのかは調べようがないのだろうけれど、一番声の大きな人が、集団の意思を代表することにはたぶんならない。

マスメディアは営利組織だから、こういうときにはたぶん、一番極端なだれかの声で、集団を代表させる。企業を叩こうと思ったら、涙ながらに運営を罵る誰かを大きく取りあげるだろうし、もしかしたら逆のことを行うかもしれない。「スルーする大多数」の声をいくら取りあげたところで、それではニュースにならないから、平均的なユーザーの声は、たぶんメディアに乗る日は来ない。

顧客の理性を信じること

ニコ動のトラブルについて、個人的にまず不安だったのが、これが企業側の問題なのか、それとも自分のPCの問題なのか、あるいは自分のID固有の問題なのか、という部分だった。分からないままにTwitter を眺めていたら、あちこちから「動画が見られない」という声が上がって、ニコニコ動画のスタッフも「自分たちのトラブルみたいですね」という反応を返していたから、それでだいたい安心できて、このトラブルについては、自分の中ではこの時点で、「待てばいいや」という方針で暫定的に解決した。

ニコ動のトラブルについては、会社の幹部の人が、あたかもユーザーをないがしろにするかのような発言をしたりして、火に油を注いだ側面もあるのだけれど、その時の動画はそのまま公開されていて、今も消されずにそこにある。「火消し」のやりかたとして、これは正しいことだと思う。

各ユーザーの考えを促すというか、「判断に必要な情報は提供するから、落としどころは各自で考えて下さい」という応対を行うと、ユーザーの考えかたは拡散して、集団の意思は平均に落ち着く。社長さんがいきなり謝罪して、情報は少なく、ユーザーに判断の機会が提供されないと、考えかたは極端に収斂して、火の手はむしろ強まってしまう。

「お客さんを信じることが誠意である」ならば、顧客の判断力を信じて情報を公開することが誠意であって、単に謝るという態度は、逆にお客さんの判断力をどこかで疑っているようにも見える。

「その問題が解決可能なものである」ことが大前提だけれど、解決可能な問題に関しては、徹底的な情報の提供が行われている限り、すでに「誠意ある対応」は達成されている可能性が高い。

こうした場合、「二度とこういうことの無いよう、社員一同徹底していく所存です」といったような締めの言葉は、むしろ言わないほうが正しいのだと思う。

2011.02.07

締め切りを超えるには目線が必要

プロのライターや作家の人たちが、どうしてプロでいられるのか。プロの定義というのは、たぶん「締めきりに応じられること」であって、体験を切り売りしてしまうと、必ずどこかで限界がくる。

限界を超えるためには、品質の高い文章力よりも、自分自身の目線を持つことが大切になってくる。

締め切りは大変

有料のメールマガジンが少しだけ流行しているみたいで、人気のあるblog を書いている人たちが、時々手を出している。

時々読んでいたblog の中の人が、やっぱり最近メールマガジンを始めていた。契約していないから、中身は読めないのだけれど、自分自身の体験談が並んでいた初期の見出しが、最近のメールマガジンは、商業出版されている書籍の題名がそのまま並んでいるような見出しに変わっていた。

恐らくはこれから、メールマガジンと称して、売られている本の引用というか、ほぼ丸写しをして埋め草記事にする人が増えてきて、問題になってくる。

何かを思いついたときに記事を書けばいいblog と、定期的な発行が契約で義務づけられるようなメールマガジンとでは、書き手のスタンスがずいぶん異なってくる。毎日書くのが苦痛でない人でさえ、たとえば週1回の締め切りを設定されると、締め切り直前になっても全く書けなくなるときが来る。

メールマガジンのような、締めきりベースの記事配信を開始したところで、最初のうちは、たぶん何とかなる。会社を始めるときに悩んだことだとか、書類を提出する際に問題になったこと、それを解決するのに役立ったこと、「切り売りされた体験」はその人ならではのものであって、たしかにお金を支払って学ぶに足るような話題なのだろうけれど、どこかでたぶん、在庫は切れる。

有料のメールマガジンは、お金を取る以上、「お金を取るに値する」何かを発信しないといけない。お客さんが求めていたものは、管理人の体験談や他愛のない日常風景だったのに、在庫に限りが見えてきて、発信する側はたぶん、販売されている書籍を引用して、それを記事としてメール配信してしまう。

体験でなく目線を発信する

「定期的に、有用と思われる情報を配信する」ためにかかるコストというものは、想像以上に大きいのだろうと思う。

テレビや新聞のコンテンツには、ものすごいお金がかかる。各分野の専門家から見れば、文章のプロである新聞記者が書いた記事にだって瑕疵を指摘することはできるだろうし、ネットを探せば、記者の人たちが有償で書いた記事よりも、もっと優れた文章が見つかることだって珍しくないけれど、「このタイミングで、こういう内容の」文章がほしいという需要に、専門家はしばしば応じられない。

メールマガジンはWeb ビジネスの優等生と言われているけれど、複数のライターを揃えた人たちが行うのならともかく、個人がああいうサービスを始めると、どこかのタイミングで記事の在庫が尽きて、いろんなトラブルが増えてくる。

個人が売るべきは、経験でなく、目線であるべきなんだと思う。

目線とは、誰もが知っている事実に対する、その人ならではの考えかた、あるいは偏見のようなもので、その偏見がその人独特で、それがある程度の面白さを持っているならば、その人が見たものをそのまま配信するだけで、コンテンツが成立する。

個人的には「テレビの解説」というものを、誰か専門家の人にやってほしいなと思う。ニュース番組なんかではなく、本当にどうでもいいバラエティ番組で笑っているひな壇芸人の人たちが、バックグラウンドでどんなことを考え、どうしてあのタイミングで笑うのか、座ってるだけに見えるあの人たちは、実際にはどんな葛藤を抱えているのか、そういう「テレビの見かた」を知ることができれば、ものの見えかたはずいぶん豊かになるような気がする。

「名医50人に聞く家庭の医学」みたいな番組にしても、ひな壇に並んだ医師を評して「あの人は京大系ですが、前の教授選でグループのボスが敗北したんですよね。○○先生の発言は一門を殺しに来てたから、あの人はむきになって反論したのです。ほら、表情が違うでしょう?」なんて解説されると、単なる健康番組が、全く違ったコンテンツに変貌する。

そういうものが目線の面白さであって、面白い人の目線というものは、再現するのが難しいわりに、あらゆる事実がコンテンツの種になるから、尽きることがない。

医学の目線というもの

専門家が継続して提供できるものというのは、知識それ自体ではなく、起きたことに対する目線の提供であって、知識を言語化するだけでは、すぐに枯渇してしまう。

目線を提供できる業界は越境できるし、単なる知識以上の価値を提供できるから、飽きられないし、廃れない。「医師ならではの目線」というものが今ひとつはっきりしない、医療という業界がそれでも持っているのは、自分たちが免許仕事だからであって、目線の欠如というものは、業界としてもっと悩んでもいいのではないかと思う。

今回交渉ごとの本を書くに当たって、とにかく困ったことはといえば、「医師ならではの目線」で交渉を解説した本が見つからなかったことで、「丁寧に診察しましょう」はホテルマンの目線だし、「酔った人には複数で対応を」は警察の目線で、医療という業界ならではの考えかたとはどこか違う。

異業種の考えかたをいくら丁寧にまとめたところで、たとえばどこかにこじれた交渉があったとして、「医師ならこの時どうする?」という目線を提供できるかと言えば無理で、そのあたりが業界として相当に寂しい。自分たちは、切り売りする知識や体験こそ持っているけれど、目線がない。

何かのニュースを投資家の人が見れば、その人は投資家ならではの目線でニュースを語れる。芸に通じた人がひな壇芸人のバラエティ番組を観ても同じことが言える。じゃあ自分たちは、医療を超えた他の分野で、果たしてどんな目線を提供できるのか。それを持たないかぎり、「在庫切れ」を回避するのは難しいのだろうと思う。