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2011.01.31

否定の深度について

「いい仕事してますねぇ」の、「なんでも鑑定団」に出てくる鑑定人、中島誠之助の語りが素晴らしいと思う。いかがわしさと人当たりのよさと、矛盾が見事に同居しているようなあの話芸は、出品されたものが「贋作」であったときに、出品者を否定するときに威力を発揮しているように思える。

欠けているものと過剰なもの

鑑定を依頼された何かが「偽物」であったときには、鑑定人の人たちはたいてい、「これは本物ではありません」と、冒頭に宣言する。宣言したあと、「依頼品にはこの要素が欠けています」と、本物に比べて、足りないものを指摘する。やりかたとして、これは全く間違っていないけれど、鑑定を依頼した人は、「欠けている」その依頼品を嫌いになってしまう。

中島誠之助が偽物を鑑定するときには、「もしも」から入る。

「もしも本物だったら」で語りをはじめて、それが素晴らしい価値を持つこと、当時人気があったこと、現存していればすごい発見であることを語って、「この依頼品は、本物にしてはよく出来すぎている」とつなぐ。贋作を作った人の熱意というか、本物を目指して、力を入れすぎたあまりに「本物を超えてしまった」から、これは偽物なんだと話題を盛り上げて、「あえて欠点を上げるとすれば」と、そこで初めて、欠けている部分をいくつか指摘する。

最後は決まり文句の「いい仕事をしていますねぇ」で結んで、「これを大切にして下さい」と、依頼品を依頼者に返す。それがたとえ偽物の鑑定であっても、それは立派なもてなしに思えるし、偽物と鑑定された依頼人も、その「偽物」を、案外大切にできそうな気がする。

決まり文句には伏線がある

博物館の学芸員をしているような鑑定士の人たちも、中島と同じく、「いい仕事をしている」というフレーズを使おうとする。ところがあの言葉は、依頼品を持ち上げて、それを見出した依頼者を持ち上げて、はじめて「いい仕事」に意味が生まれる。「ここが欠けている」と指摘されてから「いい仕事」といわれても、依頼者にはたぶん響かない。

中島誠之助の「いい仕事してますねぇ」という言葉は、あの言葉自体が見事なのはもちろんだけれど、そこにたどり着くまでの話の組み立てかた、依頼者や依頼品のもてなしかたが上手だからこそ、言葉が生きているのだと思う。

本来の「商売人の語り」というものは、顧客をもっと楽しませるようなものなのだと思う。「これだけ買うからこれだけ値引いて下さい。それが御社の利益です。win-winです」といった言い回しはたしかに間違いでないし、「いい仕事してますねぇ」に比べても、顧客の利益は大きいのかもしれないけれど、商売人の言葉とはどこか違う。

再現性を持った技術という意味では、大量購買、大量値引きを力尽くで押し進めるやりかたのほうが正義で、話芸に頼ったやりかたというものは、最後は物量に押し切られてしまうのだろうし、中島誠之助の話芸というのは他の人に再現が出来ないからこそ、あの人が「芸」を見せられるのだろうけれど。

否定には奥がある

昨日の「なんでも鑑定団」では、依頼者が1000万円で購入した茶碗を出品して、中島誠之助が、そのお茶碗は「よくできた贋作」であるという鑑定を行って、3万円という価格を提示した。

普段だったら、「いい仕事してますねぇ」につながる語りが入って、「大事にして下さい」で締めるのだろうけれど、1000万円の損失は、どう言いつくろったところで詐欺被害であって、その状況を名人がどう収めるのか、興味があった。

中島はのっけから、「これは非常によくできた贋作です」と断じた。

いつもの柔らかさとは遠い、どこか怒ったような口調で口上をはじめた。まずは形がよくない、釉薬の色がこれではいけない、目につく欠点を最初に指摘した。

「このお茶碗はそもそも」と、本物に関する語りに入ったあとも、口調はずっと固いというか、怒ったようなままだった。本来は武将の使う器であること。まわりに付けられた溝は飾りなどではなく、戦闘中にも一服の茶を楽しめるよう、絶対に滑らないように鋭く付けられるものなのだと。

本来は鉄分の多い土で作られたのだと、語りをつなげた。手に刺さるような、尖ったような質感がでないといけないのだと。「本物」は苛烈な実用品であって、それに比べると鑑定品は「優しすぎる」のだという文脈で、間違いを指摘していた。

語りの後半は鑑定書に移った。それは権威ある鑑定者の直筆で、鑑定書自体は本物のようだった。それを書いた人はベテランの鑑定者で、権威があって、でもこの焼き物についての知識はそこまで多くはないはずだと、鑑定者のことを評していた。

話はさらに、鑑定者の年齢に移った。御年88歳、権威ではあっても、必ずしもその領域でない、しかも高齢、不利な条件が重なって、「だから鑑定を間違えたのだ」と落とすのかと思ったら、「間」が一瞬あって、「情けが出たんでしょうね」で締めた。

中島の語りかたは、最初から普段と違っていた。一切の間を置かない、いっそぶっきらぼうに聞こえるような、どこか怒ったような語り口は、まさにこの間のためにあった。ほんの一瞬話が切れて、苛烈な語りが、「情け」という優しい言葉に転化した。

「情けが出たんでしょうね」という言葉を、一息で、いっそ軽い印象で言い切ってしまうのが芸だと思った。あれを「情けが、出たんでしょうねぇ」と抑揚を入れると池上さんのニュース解説になる。分かりやすいけれど、そこに重心を持ってきてしまうと、主役が「もの」から「人」へと移ってしまう。それはたぶん、骨董屋さんの話芸とは違う。

「いい仕事」にはもっと先があって、語りの流れそのものが、何かよくできた演劇を見ているようだった。

制裁は仲間への招待

鑑定の最後に、中島は「この作品に私が本物という鑑定を下したら、恐らくは全国で本物で通じます。ですがそれをやるわけにはいかないのです。だから3万円という値付けを出しました」と結んだ。普段だったら、「よくできている」贋作に対しては、せめて何十万円かの価格を出すところが、慰めでなく、むしろ制裁としての価格を提示した。

鑑定書を書いた先達を「無能であった」と断じれば、ある意味丸く収まるところが、それをやってしまうと、買った人が単なる被害者になってしまうし、「その贋作に価値を感じた」という、買った人の眼力をもおとしめてしまう。かといって、下手な価格を付けて、「大事にして下さい」をやったところで、1000万円は金額が大きすぎて、どうやったって納得なんていくわけがない。

中島の「3万円」という値付けは、「プロとしての仲間への制裁」であったのだと思う。

中島ほどの名人ですら、「本物と鑑定してもいい」と言わしめるぐらいによくできた贋作を、あえて見せしめに近いような価格を提示されることで、それに1000万円を支払った依頼人は、単なる骨董好きの素人から、プロフェッショナルの側へと引き上げられた。

お客さんなら慰めて、褒め称えるところを、あえ叩いて、贋作であると断じてみせることで、あの3万円は、30万円で「大事にして」よりも、むしろ価値を持った。

単に「贋作ですね」でもなく、「いい贋作だから大事に」でもなく、否定には、もっともっと奥深さがある。

あれはどうやったって名人芸だから、真似ようとしても無理なのだけれど。

2011.01.26

整理タンスは早すぎた

ソースでわかるSixapart転落の歴史 というエントリーを読んで考えたこと。

そもそもプログラムなんて全然分からない、リンク先の人に比べて、圧倒的に低レベルなユーザーであった自分もまた、同じような頃に、違った体験を通じて、MovableType に挫折した。

ユーザー体験は相転移する

blog 時代の最初の頃、そもそも素人に手が出せるblog スクリプトなんてMovableType ぐらいしかなかった。

今も昔も、プログラムが理解できないユーザーにとっては、ファイルを書き換えることは「手探り」なのだけれど、当時のMT は、インデックスファイルに画面にあらゆる機能が書き込まれていたから、けっこうどうにかなった。

素人であった自分にとって、「どうにかすること」というのは、「こうしたい」という機能をGoogle で検索して、誰かが公開してくれたソースをそのままコピーして、自分のファイルに貼り付けることなのだけれど、ファイルは基本的に一つだったから、ファイルを眺めて、なんとなく「ここだろう」という場所にコピーしたソースを貼り付けると、実際にけっこうどうにかなった。

「どうにかなる」こと、「何とか手が出る」ことが、素人ユーザーだった自分にとっての「MovableType の良さ」だったのだけれど、MTのバージョンが4に上がって、「何とか」はいきなり絶望に変わった。

MT4はモジュール化が行き届いていて、一つのファイルにごちゃ混ぜだった細かな機能は、モジュール形式に整理されていた。

インデックのスファイルはシンプルになって、呼び出すモジュールのリンク集みたいなものに変わっていた。それはたしかに「きちんと」した改良で、ユーザーに対してより「親切」な構造になっていたのに、自分にはもう、手も足も出なかった。

今までずっと使い回してきたつぎはぎだらけのインデックスファイル、どれだけ無様でも、それでも「うちの看板」としてずっと使ってきた画面は使えなくなって、今までずっと、ろくにマニュアルも読めない、そもそもCGI もPerl も知らない素人でも何とかなったMovableType は、漸進的な改良が重ねられた結果として、ある日いきなり、「マニュアルを読まない素人」を絶望させるものに変わってしまった。

おもちゃ箱にも意味がある

古い世代のMovableType を支持してきたユーザーの一部は、恐らくはエンジニアの人たちが考えている以上に素人じみた人たちだったのだと思う。

素人は、どれだけ親切なマニュアルを用意しても、それが理解できない。そもそもマニュアルを読む習慣を持たない。ただただ「こんなことをしたい」という何かを検索して、それを解説しているサイトから、必要なソースファイルをコピーして、「たぶんここだろう」という場所に貼り付けては喜んで、また「改良」に精を出す。

そうした「素人」は、たぶんMT4の「きちんとやる人には便利」な改良を見て、見捨てられたと感覚して、あきらめた。

おもちゃ箱がほしい人に整理タンスを与えてはいけないのだと思う。

ある場所への「入門」以前、単に「それが面白そうだからちょっと触ってみたい」というレベルの人たちを取り込む過程では、使いやすさや分かりやすさといったものに認識のギャップが生まれて、良かれと思って行った改良が、結果としてユーザーを拒絶してしまう状況がある。

「入門者」に支持されるような使いやすさと、「ズブの素人」に支持される使い勝手は全く異なる。入門者は見通しの良さを好むけれど、素人は試行錯誤がやりやすい環境を好む。見通しの良さは、どこに何があるのかが分かっている程度の理解があって、はじめて役に立つ。そもそもそこに到達していない初心者にとっては、全部見せてくれることのほうが、よほど大切なことになる。

素人はたぶん、引き出しや棚よりも、おもちゃ箱をより好ましいと感じる。どんなおもちゃが自分に必要なものなのか、素人はそれすら分からないけれど、とりあえずおもちゃ箱を探していれば、何かが見つかる。「とにかくここを探せば目当てのものが見つかる」という感覚が、素人を安心させる。それは非効率かもしれないけれど、マニュアルが読めなくてもどうにかいける。

整理タンスにおもちゃが格納されてしまうと、見た目はたしかにすっきりするけれど、おもちゃ箱を取りあげられたばかりの子供は、もしかしたら目当てのおもちゃが見つけられなくて、泣き出してしまう。整理タンスというものは、それぞれのおもちゃが、自分にとってどんな意味を持ち、それをどう分類したいのか、子供にそんな認識が生まれて、はじめて役に立つものだから。

理解も拒否するような素人が、そもそもMovableType の顧客だったのかどうかは分からないけれど、構造を「改良した」代償として、「顧客が本当に必要だったもの」が失われてしまう場面というのは、たぶんいろんな業界で認められるのだろうと思う。

2011.01.24

理念とは卑怯の提案

30年以上も昔、担任の先生が産休に入って、代打要員として、音楽の先生が県から派遣されてきた。ちょうどその頃、県の音楽コンクールが重なっていて、「どうせでるなら勝ちましょう」なんて、いろんなことを教わった。

柔らかい音を出す

「トライアングルを柔らかく鳴らしましょう」というのが、演奏の課題として取りあげられていた。

どれだけの感情を込めたところで、あれだけシンプルな楽器を「柔らかく」鳴らす術は分からなかったのだけれど、その先生は、「柔らかいとは、紐の根本を固く持つことだ」なんて教えてくれた。「柔らかい」というのは、要するに響きの減衰が早いことと同義であって、トライアングルを吊っている持ち紐の、トライアングルに一番近い場所を固く握ることで、音は「柔らかく」鳴るのだと。

縦笛を鳴らす人は、パートが終わった瞬間に両手を膝の上に置くときれいに見えること。シンバルを叩く人は、叩いたあとでシンバルごと「ばんざい」の姿勢を何秒か行うことで、音がとてもきれいに「見える」こと。いろんな勝ちかたを教わって、うちのクラスは市で3位になった。

見えないルールがある

学校では、「ルールがあるんだよ。ルールを見つけてから、それに従って努力しないと意味ないよ」ということを、きちんと教えてほしいなと思う。

「好きな絵を描きなさい」とか、「好きなことを研究しなさい」なんて課題を出して、「自由」にやって、それに点数を付けられる側は、たまらない。

点数が付いて、序列がつくのだから、そこにはもちろん何らかのルールがあるのに、ルールは教えてもらえない。点数の付け方は一方的で、子供達は「自由」と習っているものだから、お互いに付けられた評価を比較して、ルールを探索することすら想像できない。

隠蔽されたルールに、たまたま乗っかった子供は「努力した」ことになって、ルールを探せなかった誰かは「努力不足」になる。「ルールがある」ことを習わない状況での成功は、誉められた子供にしたところで、結果として何がよかったのかが分からないから、次につながらないし、下手をするとその成功が呪縛になって、道を誤ってしまうことだってある。

リアル社会には、「ルールが見えない」状況はたくさんある。でもそこで、ルールを探そうとする人と、内面の「良さ」を磨くことに全てのリソースをブチ込んだあげく、「世の中は分かってくれない」と、何かに屈する人とがいる。

ルールがあるのは当たり前のことだけれど、「当たり前」のことだって、習わなければ分からない。心臓が止まった人の顔色は悪くなる。これは「当たり前」だけれど、外来や病棟で急変して、心肺蘇生が必要な患者さんに対して、「どうしましたか?」と尋ねる研修医は、毎年必ず出現する。習っていないから。

卑怯を提案してほしい

ルールが示されない状況にあって、隠蔽されたルールを見出して成功した人は、「卑怯」であると認識される。「社会に対してどう卑怯であるか」を見いだせなくて、その場の道徳を一生懸命磨いた人は、成功から遠ざかって、結果としてたぶん、道徳それ自体を呪いはじめる。

組織の理念というものは、本来は「卑怯の提案」であるべきなのだと思う。

ある状況を前に、リーダーがそれをどういうゲームであると解釈して、どういう勝ちかたを目指しているのか。その場で「道徳的である」ありかたは、示されなくても見えるけれど、それだけではたいてい、食べられない。道徳に対して、どこに「卑怯」を持ち込んで、組織として食べていくのか、それをリーダーがきちんと示せないと、メンバーの独りよがりな「良さ」が暴走して、組織は瓦解してしまう。

そこが病院なら、「寝たきり老人にありったけの高価薬を投与することで稼ぐ」だって理念だし、「救急を止めずに回して、補助金を得て不採算を回避する」だって理念だと思う。賛否はともかく、方向は見えて、リーダーの考えかたは、みんなに伝わる。ところが「患者様のために素晴らしい医療を提供する」は、きれいな言葉ではあるけれど、理念とはちがう。こんな言葉を聞いたところで、部下はどう動いていいのか分からない。

「本気」を教えてもらうために

「自由にやりなさい」という課題設定は、部下に対して「勝て。やりかたは任せる。負けたらお前の責任で」と命じる上司のようなもので、そのありかたはやっぱりどこかおかしい。

「柔軟な思考が大切です」と昔習って、算数の問題が解けなくて、塾の先生は「算数は暗記だ」と教えてくれた。他のみんなは「考えなさい」と教わって、自分たち塾の子供は過去問を暗記して、頭を使ってないのに、点数は取れた。こういうのは「卑怯」だけれど、卑怯をその場から追放しようと思ったならば、それを禁じるのではなく、それを公知のものにすべきなのだと思う。

読書感想文のような自由課題も、たとえば「団体戦」ルールを導入してほしい。子供への評価は従来どおり、その代わり、クラスで獲得した点数で「団体戦」を行って、担任の先生を全国ランキングしたら、もう「自由に好きなことを書きなさい」と教える先生はいなくなる。それが「教育的」なのかどうかは別問題だけれど、読書感想文が嫌いな子供は、むしろ減るんじゃないかと思う。

読書感想文や自由課題絵画のような、「勝ちかた」が見えない競争は、先生がたの工夫を引き出して、クラスごとに作られた戦略のぶつかりあいになる。ところが100m 競争のタイムを合計して順位付けを行ったら、今度はもしかしたら、足の遅い子供がひたすら怒られることになってしまう。「裏側のルールが見えにくい競争」においては、工夫と戦略、試行錯誤の量が成功を左右して、理念に基づいた比較的健全な組織が生まれる。「速く走ればいい」といったような、ルールが明快な競争だと、今度はブラック企業と言われるような組織に似てくる。

どんな競技を設定すればいいのか、そこは考えどころだけれど、「自由にやりなさい」よりは、たぶん子供は半歩だけ前に進める。

新刊のお知らせ

レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて

レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて という本を出版させていただくことになりました。

文章からは極力医学用語を減らし、医療従事者だけでなく、様々な業界の人にも楽しんでいただけるようなものを目指しました。病院でのエピソードが大半というか、自分は病院の中以外で行われる「交渉」というものを知らないので、それ以外に語るべき内容を持たないのですが、病院の「中の人」の考えかたというものは、異なる分野から見ても、けっこう面白いものなのではないかと思います。

以下のリンク先に、内容の見本がおいてあります。

  • 序文 : 本書の「前書き」に相当する文章です
  • 概略 : 1章から9章、訴訟対策に関する「付録」について、各章の簡単な紹介文が記載されています
  • 目次 : 本書の目次です
  • 9章 : 本文第9章全文、本書の特徴の一つである「謝罪を積極的に用いた交渉」について、試し読みができるようにしてあります
  • 参考文献 : 参考文献リストです。突っ込みどころの多いリストですが、これら参考書は、「いろんな人と、穏やかなおしゃべりをするための本」を作るのに必要だったものです

機会がありましたら、手にとっていただければ幸いです。

2011.01.20

嫌われる相手のことを考える

製品の開発であっても、サービスであっても、何か新しいものを作るときには、誰かに好かれるようなものよりも、むしろ誰かに嫌われるようなものを探していくと面白いような気がする。

大手からシェアを奪いに行くときには、どこかに「敵」を設定すると上手くいくのだという。大昔のペプシは、「ペプシジェネレーション」というキャンペーンを行って、高齢の世代を「敵」であると定義した。ペプシジェネレーションは若さの象徴になって、ペプシは高齢の世代から嫌われて、その代わり、若い世代と、「まだまだ若い」人たちからの支持を勝ち取った。

嫌われている人に学ぶ

誰かから「嫌われている人」を探して、その人から学ぶといいのだと思う。

どの世代からも支持されるような人はたくさんいるけれど、そういう人からは学べない。あの人たちは、単に「素晴らしい人物」だから支持されているだけで、そこから何かを学ぼうとしたところで、「世の中には、すごい人とそうでもない人とがいる」という以上の知識は得られない。

学ぶべきは「嫌われている人」であって、たとえば「若い人からは支持されて、高齢世代からは徹底的に嫌われている」誰かを探して、その人の振る舞いや、持っているものを学ぶのがいいのだと思う。「徹底的に嫌われている」ということは、無視よりも圧倒的に優れた資質であって、その人が持っている特別な何かこそは、恐らくは「そんなにすごくない人」でも、学習して真似るに値する。そういう人たちの身なりや振る舞いは、そのままファッションとして商売の種になる。若い人はそれを支持するし、高齢の人もまた、「嫌うぐらいに無視できない」そうした何かに、どこかひきつけられるだろうから。

嫌われ者の空白がある

高齢者から嫌われるブランドというものは、世の中にたくさんある。若者に向けて作られた商品というのは挑発的で、高齢者の反発を買って、若者に支持される。そうした商品はしばしば、高齢世代のある種の人からも支持されて、結果として世代を超えた人気商品になる。

とろが高齢者にむけた商品というのは、どこか薄味というか、お上品な万人向けに企画されたものが多くて、若い人たちは、高齢者向けのそういう商品を見ても、前を通り過ぎるだけで、それを嫌悪しない。

「誰からも嫌われない」商品というのは、同時にたぶん、高齢者からも好まれない。それしかないからそれを使う、という消極的な支持こそ得られるけれど、若い人たちから嫌悪されて、高齢世代にフックする、若い世代のある種の人達も、それを嫌いつつ、どこかそれを使いたくなるような、そういう「嫌われ者」は、あまり見ない。

「これからの高齢者はトライクだ」というキャンペーンというか、仕掛けが行われたことがある。実際に道路を3輪バイクで走っている年配の人を見かけたことがあるけれど、あれは寒そうだった。筋骨隆々とした人でないと、トライクはそもそも似合わないし、田舎の吹きさらしは本当に寒いから、厳しそうだった。

大学時代、部活動の遠征中に、ランチアラリー037にぶち抜かれたことがある。一生懸命追いついてみたら、白髪の老夫婦だった。あれはうらやましくて、かっこよかったけれど、ランチアラリー037は誰から見てもかっこよくて、敵対するのとは少し違った。

綾小路きみまろや、毒蝮三太夫みたいな芸人は高齢世代に支持されるけれど、若い人たちはスルーする。あの人たちは、おむつカバーみたいな何かであって、ある種の人に必要なものではあっても、それが不要な人にとっては、興味の対象として認識されない。

うたごえ喫茶の復活とか、ああいう懐古趣味的なのもちょっと違う。若い世代があれを見ても、通り過ぎるだけで反応しない。それだと今度は、高齢の人も、懐古を身につける意味がない。

どこかで敵と味方を割るだけの力を持たないブランドは、一定以上の支持を得られない。

敵に信頼されるには敵を作らないといけない

「敵との信頼関係を作る」ことが大切なんだという。

「敵から信頼される」ためには、まずは敵を明確にする必要があって、「俺はお前達の敵だ」なんて胸を張れるだけの何かを持っていない人は、たぶん当の「お前達」からは、絶対に信頼されない。

政治家が誰かを叩いて、それがどこか嘘くさく聞こえるのは、「みんなの意思」みたいな、どこにも敵が見当たらない何かを仮想しているからなのだと思う。公務員叩きにしても、起業家叩きにしても、政治家は、「みんなの意思」に基づいて叩く。その政治家が誰の利益を代表して、どういう理由で相手を「敵」だと認定するのか、それを定義できなければ、叩かれる側の信頼も、味方の信頼も得られない。

政治家の人たちに、「あなたは誰の味方ですか?」と尋ねれば、たぶん10人が10人、「国民の味方です」と答える。逆に「あなたは誰の敵ですか?」という質問に、はっきり答えられる人は、もしかしたらそんなにいないような気がする。

「俺は○○の敵だ」とはっきり公言しつつ、当の○○の中の人もまた、宣言をスルーできず、歯ぎしりしつつそれを信頼する、そんな状況というか、敵味方の切断面を見出すことが、何をするにしても大切なのだと思う。

2011.01.19

不自由さが新機能の土台になる

iPhone やiPad みたいなものに比べると、昔ながらのノートPCはいかにも不自由なデザインだけれど、その不自由さというものは、新しい機能を盛り込んでいく上で、 リスク回避の手段として役に立つ可能性がある。

自己定義が浸食される

ノートPCが、「持ち運べるPC」という自己定義を行ってしまうと、業界の未来は細ってしまう。

「持ち運べるPC」を突き詰めた先にはスマートホンやタブレットがあって、ノートPCが必要な人と、スマートホンで事足りる人とは、本当は異なっているのだけれど、定義上、ノートPCはスマートホンの下位互換のような扱いになってしまう。機能は別物であっても、名前で負けると、パイは喰われて小さくなっていく。

「この機械はこういうものです」という自己定義は、自ら書き換えていかないと、陳腐化して、他の業界からの浸食を拒めなくなってしまう。持ち運べるPCという自己定義は、軽量化とか、速さとか、電池の持ちとか、いくつもの競争を生み出して、それは暫定的な正解であったのだろうけれど、「キーボードのいらないPC」という、タブレットやスマートホンが出てくると、その自己定義では、ノートPCは業界を背負いきれない。

製品としてのタブレットPCが完成度を上げていくと、ノートPCの定義というものは、今度は「キーボードの付いたスマートホン」に書き換えられてしまう。本来は全く異なるデバイスなのに、デザインとしてキーボードが欠かせない、ノート型のPCというものは、異業種からの浸食を受けて、「下位」のレッテルを貼られてしまう。

不便を強みにする

書き換えに対して強力な自己定義というものは、そのデザインが持つ「不自由さ」に根ざすものなんだと思う。

ノートPCは、キーボードとディスプレイとがどうしても必要で、「ノート」を名乗るためには、さらにお互いが接続されている必要がある。キーボードを持たない、あるいはキーボードを分離できる、タブレットPCやスマートホンに比べれば、ノートPCは定義の分だけ不自由を背負っているのだけれど、今度は逆に、この形態ならではのユーザー体験を提供するための道具として、ノートPCのデザインを逆定義できれば、競合はそこに入り込めない。

具体的には、これからのノートPCには、視線誘導デバイスを積んでほしい。

ノートPCのあの形は、画面の向きと、ユーザーの肩や顔の位置関係が固定されてしまう。同じ姿勢でしか使えないから不自由なのだけれど、「固定」を前提にした機能を盛り込んでいく上では、この欠点が生きてくる。デスクトップPCはどんなディスプレイが選択されるのかが読めないし、スマートホンは、本体を保持するやりかたが、ユーザーごとに多様だから、画面と顔面との位置関係を固定するのは、案外難しい。

この「固定」を利用して、TracIR のような、顔面の向きや、ユーザーの視線を認識するようなデバイスがノートに搭載できると、今度はPCのマウスに相当する機能を、顔面や視線の動きで代用できるようになる。両手がキーボードを担当して、顔面がポインティングを担当できれば、これは手が3本に増えたのと同じことができるから、ユーザー体験は相当大きく変わってくる。こうした機能を乗せるためには、画面に対して、ユーザーの頭がいつもだいたい同じ位置に来ないと難しいだろうから、スマートホンはその場所に入ってこられない。

過剰な自由は怪物を生む

本体の形や機能、ディスプレイの大きさが自由に選択できるデスクトップPCというものは、自由さという意味では正解なのだけれど、CPUパワーにしても、画面や入力デバイスにしても、一切の制約を持たない道具であるがゆえに、そこに競争が持ち込まれると、「怪物か」という方向以外、進化の選択肢が取れなくなってしまう。怪物化したデスクトップPCは、たしかに正解ではあるのかもしれないけれど、普通の家庭に「怪物」は必要ないから、進歩するほどに足下を見られて、買い叩かれて、業界は大きくなれない。

スマートホンのような道具もまた、「怪物」への危険をはらんでいるのだと思う。CPUの速度競争や、画面の解像度競争はたしかに面白いのだけれど、あれを突き詰めた先には、結局は低価格競争と、形態の収斂が待っている。早い機械が安く買えるなら、ユーザーにとっては決して悪いことではないのかもしれないけれど、業界はやはり、「怪物」だらけになった時点で、未来は詰んでしまうのだと思う。スマートホンは、電池の大きさや、気軽に持ち運べるような重量のような、自身を制約する何かをもっと大切にして、そうした制約を行かす方向でデザインを工夫したほうが、いろいろ面白くなるのだと思う。

制約は機能を生む

ノートPCの、「そういう形でしか使えない」デザインというものは、それを不自由であると考えたり、克服すべき何かであると考えるよりも、むしろデザインに盛り込まれた機能であると考えたほうが、未来が見えてくる。制約というものは、それが前提の機能を作り込むための、大切な土台であるという解釈もできる。

視線認識のような機能を、スマートホンのようなデバイスで行うことだってもちろん可能だろうけれど、自由度の大きなデザインは、こういうときに不利になる。

自由なデザインは、あらゆる選択肢を許容する代わり、ある特定の選択肢を選択するのに、選択1回分だけ余計な手間がかかる。「画面と顔面との位置関係固定すること」が前提となる機能やアプリケーションを、たとえばタブレットPCに乗せてしまうと、制作者の意図した使いかたをしないユーザーは、「これは使えない」という声を上げる。こうした声は、開発者へのリスクとなって跳ね返る可能性があって、「不自由なデバイス」というものは、そうしたリスクを回避できる可能性がある。

「道路の上しか走れない」乗用車というデザインや、「電池が持たない」スマートホンの制約などは、あれは得難い利点なのだと思う。

乗用車の場合、対向車は、極めて高い可能性で、これから行く先の道路を走ってきている。走っている車同士にすれ違い通信機能を積んで、相手が今走ってきた場所に何があるのか、お互いに交換できれば、数分レベルの未来予知を、画面に重積表示できる。中央集権的なやりかたとは、また違った情報が得られるような気がする。

「電源が長持ちしない」という充電池の制約もまた、今度は一定頻度での再起動や、ネットワークへの定期的な有線接続への期待度を高められるから、どこかに設定された「中央」との、定期的な通信が必要な機能を盛り込んでいく上では、その制約は、必ずしも欠点にならなくなってくる。

そのデザインが内包する不自由を探してみると、けっこう面白いと思う。

2011.01.18

本が出ることになりました

新刊のお知らせと、昔話を。

独りよがりな正義が敗北した話

まだまだ駆け出しだった大昔、本院から派遣された僻地の病院で、患者さんを「追い出す」役割を仰せつかったことがあります。

80歳をずいぶん過ぎた糖尿病の患者さんで、血糖管理も素行も悪くて、夜になると居酒屋さんに飲みに行ったり、インスリンの量を勝手に変えてみたり、病棟でたばこを吸ったり、とにかく「問題が多い人」という評判でした。

看護師さんたちから「手に負えないから退院を促してくれませんか」とけしかけられて、ろくに事実関係も調べないまま、「不良」患者さんを追い出すために、「白衣を着た保安官」になった気分で病室に乗り込んで、このときは「勝てる」だなんて、当然のように思っていました。

「あなたは約束を守らないし、糖尿病のコントロールもいいかげんだし、入院していても良くならないから、あとは外来でやりましょう」と、丁寧に、それでも決然とした口調を意識しながら、自分よりもはるかに年上の患者さんを諭そうとして、思惑とは逆に、手も足も出ないぐらいに言い負かされました。

  • 「先生、俺はたしかにいいかげんかもしれない。病院の約束を全部守るなんて無理だ。でもね先生、俺は自分なりに努力して、最近では血糖値も下がってきて喜んでいたんだ」\「…」(言い返せなかった)
  • 「先生、俺が今インスリンをどれぐらい打ってるか知ってるかい?」\「……」(知らなかった)
  • 「今日の夕方、血糖値が68まで下がったんだ。うれしかった」\「………」(知らなかった。本当の血糖値は268だった)
  • 「先生、俺は力もない年寄りだけれど、それでも入院させてもらって、今ではずいぶん血糖値も良くなって、喜んでたんだ。それでも先生は、出ていけって言うんだね」\「…………」(そもそも良くなっているのかどうか確認してこなかった)

自業自得とは言え、穏やかな口調で諭されて、もちろん一つも反論できなくて、「敗北」しました。ナースルームに撤退してみて、やっぱりどう言いつくろっても自分に反論できる余地はありませんでしたから、もう一度病室に出向いて、「申し訳ありませんでした」と謝罪すると、患者さんからは「分かればいいんだ」と肩を叩かれ、その人は結局、以降は「問題」を起こすこともなく退院していきました。

世の中には絶対勝てない人がいる

その人はテキ屋をずっと続けてきた「会話のプロ」であって、プロを相手に、駆け出しの自分が「勝てる」わけがなかったのですが、そのころはまだ、正義というものをずいぶん信じていて、正義に甘えきっていて、そもそも相手が「プロ」である可能性、患者さんが「努力して」いたり、そのことを「喜んで」いる可能性すら、自分は想定していませんでした。

「正義はこっちだ」という独りよがりな思い込みは、何も生みません。相手は治療を「サボって」、血糖値のことなんて、どうせ「気にもしていない」だろうなどという薄っぺらな想像では、それが破れたと分かったときには、自分にはもう、その場でできることはありませんでした。

穏やかに、それでも徹底的に打ちのめされて、「社会には、議論では絶対に勝てない相手がいる」という、恐ろしくも、あまりにも面白い事実に対峙して、そのころから交渉の技術に興味を持つようになりました。

いろんな人と穏やかに会話したい

ああいう言葉のプロを、何とかして打ち負かしたい、相手を徹底的に論破して、反撃の余地もないぐらいに追い詰めてやりたい。動機はいつも後ろ向きで、どうにかしてああいう人に「勝てる」ような、そんな交渉の「必殺技」を探して、当時はいろんな本を読みました。

それは人気のセールスマンが書いた本であったり、大阪府知事をやっている弁護士さんが書いた交渉の本であったり、心理学者や、あるいはクレーム対処にかかわっていた人であったり、世の中には、「勝てる」交渉を指南する本がたくさん出版されて、時々評判になっていて、それはたしかに面白く、なるほどと思える反面、じゃあそこで指南されている「交渉術」を使って、明日からの病棟運営が何か変わったかと言えば、そんなことはありませんでした。

本を読む傍ら、病棟では毎日、様々な交渉が続きます。そこで失敗したり、学んだり、おっかなびっくり、自分なりの「交渉」を続けていく中で、それは体系化にはほど遠いものの、どんな患者さんと対峙するのか分からない病棟にあってもなお、ある程度自分の身を守る効果が期待できる何かにはなりつつありました。

この頃はまだ、それを言語化、体系化することはできなかったのですが、「勝つ」交渉術の本が指南するやりかたは、自分にはリスクが大きすぎ、使いこなすのが難しい、という感覚がありました。

病院業務にとって、リスクというのは真っ先に避けるものであって、「勝つこと」というのは、そのリスクには引き合いませんでした。自分にとって必要なのは、「勝つこと」ではなく「会話すること」であって、初対面の人間同士、お互いに半歩だけ下がった穏やかな関係の中で、必要なことを会話できれば、たとえ勝てなくても用は足り、あるいは逆に、会話を通じて「上手に負けてみせること」がいい結果をもたらすことも多くて、「勝つこと」それ自体は、自分の興味からは、だんだんと遠いものになっていきました。

本が出ます

「お互いに穏やかに会話する」という、つまらないと言えばつまらない、その割に達成するのが案外難しい、こうした状況をどうやって作ればいいのか、ここ何年間か、そんなことを考えながら、blog の記事を書く機会が増えました。

そうした記事をまとめ、今回レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて という本として出版させていただくことになりました。

前回出版させていただいた本とは違い、今回の本からは極力医学用語を減らし、同業者だけでなく、様々な業界の人にも楽しんでいただけるようなものを目指しました。病院のエピソードが大半というか、自分は病院の中以外で行われる「交渉」というものを知らないので、それ以外に語るべき内容を持たないのですが、病院という、比較的特殊な場所で働く人間が、普段どんなことを考え、どんな目的で会話を行っているのか、「中の人」の考えというものは、けっこう面白いものなのではないかと思います。

以下のリンク先に、内容の見本がおいてあります。

  • 序文 : 本書の「前書き」に相当する文章です
  • 概略 : 1章から9章、訴訟対策に関する「付録」について、各章の簡単な紹介文が記載されています
  • 目次 : 本書の目次です
  • 9章 : 本文第9章全文、本書の特徴の一つである「謝罪を積極的に用いた交渉」について、試し読みができるようにしてあります
  • 参考文献 : 参考文献リストです。突っ込みどころの多いリストですが、これら参考書は、「いろんな人と、穏やかなおしゃべりをするための本」を作るのに必要だったものです

執筆当初は単なるメモの山に過ぎなかった原稿を、より質の高いものに直していただいた査読者の皆様に深謝します。皆様が知識と時間とを提供してくださらなければ、そもそも本書は完成しませんでした。

最後に、本書の出版に多大なご尽力をいただいたオーム社開発部の皆様に心より感謝申し上げます。

2011.01.12

作った人の顔を見てみたい

ソニーが新しいAndroid 携帯を発表して、開発した中の人が、インタビューに答えていた

「特徴を教えて下さい」という質問に対して、開発者は「デザインにあると思います」と答えていて、これは何か違うような気がした。

自慢話が聞きたい

新しい携帯電話はきれいなデザインで、薄く作られていて、全体が弓のように反っていて、デザインはたしかに特徴的なのだけれど、 「デザインにあると思います」という答えかたは、エンジニアの言葉ではないような気がした。

発表を行ったその時には、まずはユーザーに向かって「こう使ってほしい」という言葉が聞きたかった。 それは「注文」であって「特徴」ではないけれど、特徴というものは、目的だとか、ユーザーへの注文抜きの、単独で語られてしまうと、 どこか他人行儀に聞こえてしまう。エンジニアは、これから発売される製品にとっての「一番近い身内」であって、 製品が生まれたばかりのこういう場面だからこそ、やっぱり身内の言葉が聞きたい。

開発者がその機械をうれしそうに使う姿が想像できないプレゼンテーションというものは、 どれだけそれが素晴らしくても、成功とは言えない。スティーブ・ジョブズ のプレゼンテーションは、催し物として見事である以上に、 あの人が本当にうれしそうだから、見ていて夢がある。

たとえ語ることが「薄さ」であっても、数字はないほうがいい。数字で語られたすごさというものは、どこか会議室の空気がある。 「薄さにこだわりました。一番薄いところで○○mmです」というのはたしかにすごいのかもしれないけれど、薄くして、 じゃあ何ができるようになったのか、弓みたいに反ったデザインは、ユーザーにどんな世界を見せてくれるのか、 開発者にはそういうことを教えてほしい。

やりたいことを共有すること

ものを作るのは開発者であって、会議室ではないのだと思う。

「こういうことがしたい」という考えかたがまず最初にあって、それに基づいた機能が作り込まれて、 デザイナーはそれを、デザインとして表現していく。こうした一連の工程に、どこかで断絶が生じてしまうと、 出来上がった製品はどこかちぐはぐなものになって、「自慢したい何か」は遠くなってしまう。

palm の時代、ソニーはclie という競合製品を出していた。

オリジナルのpalm に比べると、clie の作り込みは素晴らしくて、中身の性能にしても、筐体の精密さにしてもお金がかかっていて、 常に競合を引き離していたのはclie だったのに、実際に手にとって使いやすかったのは palm のほうだった。

palm のデザインは、いつもどこか詰めが甘いというか、エッジは丸いし、筐体はどこかブリキ細工みたいで、 キーボードの作りなんかもいいかげんだったけれど、それでも使いやすかった。持っていて違和感がないというか、 手にとって、「こうあるべき」場所に自然に指がきた。

あの頃のclie には勢いがあって、「palm でさえこれだけ使いやすいんだから、clie はもっとなんだろう」と期待させるような、 そういう希望がclie のデザインにはあった。

キーボード付きのビジネスclie は、画面も大きくて、ステンレスのカバーが付いてかっこいいのに、カバーを開くとかさばって、 精密なキーボードは、ボタンが固くて押しにくかった。筐体を両手で持つと、「ここ」という位置からはわずかに離れた場所にボタンが置かれて、 使い勝手になじめなかった。

後年発売された、小さなノートPCみたいなデザインのclie も、希望に満ちたデザインだった。金属筐体は本当に使いやすそうだったし、 ボタンも大きくて、キーボードの表面は、押しやすさを意識して波形になっていた。ところが実物を手に取ると、せっかくのキーボードは 精密に過ぎて、ボタンはしっかりしすぎていて、逆に押しにくかった。当時使っていた Tungsten|c のキーボードなんて、 これに比べればおもちゃもいいところだったのに、おもちゃ同然のキーボードで、普通に blog の記事が書けた。

PDAの時代、最初から最後まで、性能ならclie だったし、精密さもclie、デザインの多様性という点でも、ぱっと見た目の魅力も、clie の勝ちで、 本家のpalm に比べれば、clie に負ける要素は一つもないはずだったのに、実際に使って便利だったのはpalm で、 clie には、いつも何かが足りなかった。

要素では圧勝していたのに、使い勝手では「負けた」原因というのは、やはりガバナンスの不在だったのではないかと思う。

高性能で、多様で精密なクリエの開発にゴーサインを出した「上の人」は、実のところ、ポケットに入るPC端末というものに、 そんなに興味を持っていなかったんじゃないかと思う。会議室で、上司が「palm より売れる奴」と提案して、それだけの「コンセプト」に対して、 各部署のエンジニアが、それぞれのベストを尽くした結果が、あの頃のclie に思える。

エンジニアが本当に作りたかったもの

「使いやすいデザインを目指した」製品というのは、むしろ使いにくい可能性が高い。

「こういう状況で」という前提のない、漠然とした良さを目指す決断は、プランの不在の裏返しであって、 「あらゆる方向で使い勝手のいい製品を目指そう」なんて宣言する上司は、「何も考えずにトップランナーの劣化コピーを作ろう」と言っているのと変わらない。

ものを作って売る人が「お客様のことを考えて」と言い出したときには、そのメーカーは、攻撃ではなく、撤退の方向に舵を切っているのだと思う。 開発/製造の最前線こそ、不利な状況を懸命に戦っているけれど、「司令部」の人たちは、たぶんもうその分野への興味を失っている。

「最後の傑作」みたいなプロダクトは、往々にして撤収の際に生まれる。上層部はもう興味を失って、補給線はとっくに切れて、 残された前線部隊が、乏しい兵站の中で、エンジニアが本当に作りたかったものを作る。そのプロダクトは使いやすくて、 素晴らしいんだけれど、方針は覆ることなく、前線部隊はプロダクトごと壊滅してしまう。

clie の終末期、TH-55 という機種が販売されて、画面は大きく軽く、筐体の雰囲気も一変して、背面に設けられたジョグダイアルは 本当に使いやすかった。あれをXperia で出してくれればうれしいのだけれど、clie と一緒に、ジョグダイアルは姿を消して久しい。

作った人の顔が見えるものを使いたい

最近になって、国産のAndroid 携帯がたくさん発売されるようになった。どれもたしかに高性能で、 台湾や韓国の携帯電話に比べれば、細かな使い勝手だとか、国産ならではの精度感は素晴らしいのだけれど、 個人的にはやっぱり、何か違うような気がする。

メーカーのエンジニアは「努力」を語る。矛盾する要求だとか。ソフトにハードを合わせることだとか。

「すり合わせ」の技術こそは日本のお家芸だ、なんてNHK特集でも報じられていたけれど、日本のお家芸であったのは、わがままで無責任な、 そもそも携帯電話なんかには興味のない「上司の放言」を、ただひたすらに耐えていなして、何とか形にこぎ着ける現場の能力であって、 すり合わせそれ自体は、実は不得意だったんじゃないかと最近思う。

いろんな機能を詰め込んで、「すり合わせ」を行った結果として、国産のAndroid 携帯電話は、どれも似たようなデザインの、エンジニアの「思い」みたいなものが透けてこない何かになった。

サムスンのGalaxy が、じゃあ高邁な思想に裏打ちされたすばらしいプロダクトかと言えば、あれはiPhoneの劣化コピー以外の何者でもないんだけれど、 iPhoneよりも安価で軽くて、電池がやたらと長持ちして、珍しい機能は何もないけれど、そこそこ早くてたくさん売れて、 マニアなユーザーが魅力的なROM をたくさん発表して、面白い。

開発を担当したエンジニアの人たちが、その機械を通じて伝えたい「体験」みたいなものが見える製品が使いたい。

開発を行った人の体験や、機械とはこうあるべきという考えかたを、ユーザーに理解できるレベルに落とし込んで、その体験をデザインに反映して、 プレゼンテーションの席ではそうした体験を、ユーザーに自慢してみせてほしいなと思う。

2011.01.11

相手に刺される想像力

円滑な、最高には遠いかもしれないけれど、少なくとも無難ではある、「お互いに半歩だけ下がって、 丁寧語で当たり障りのない会話をする」関係というものは、人間関係の万能解なのだと思う。

こうした関係を作るために欠かせないのが「相手に刺されるかもしれない」という想像力であって、 お互いがこうした想像力を持ちながら、健全な相互不信を続けていければ、人間関係に関するトラブルは、恐らくはずいぶん減るんじゃないかと思う。

変な台本がある

世の中ではしばしば、強い側に立った人が、目の前にいる「弱い人」に対して、ひどく横柄に振る舞う。 下手すると、相手のほうが年上で、体格もよかったりするのに、立場の強い側に立った人は、 「あとからこの人に殴られるかもしれない」という可能性をしばしば無視して、必要以上に横柄になる。

弱い側の人もまた、同じ人間である以上、横柄な相手をぶん殴ることは決して難しいことではないのに、 どれだけ侮辱されても、ものすごい自制心でそれを抑えようとする。

社会には、強い側は立場以上に横柄に、弱い側は惨めに、徹底的に惨めに振る舞うように作られた、 見えない台本のようなものがある。お互いにどういうわけか、「相手がその台本を決して外さない」ということを、無条件に信頼している。

台本に対する留保のない信頼は、結果として社会の交渉コストを下げる。その利得は大きいのかもしれないけれど、 結果としてその信頼は、交渉の現場から、お互いに「刺されるかもしれない想像力」みたいなものを追放して、 強い側を不当に強く、弱い側を不当に弱く、お互いから半歩だけ引いた、穏やかな関係を遠ざけてしまう。

牛の生首にも意味がある

「革命しようよ」は、目標として遠すぎるし、革命を喰らった側は、それを不当なものとして認識する。革命で、お互いの関係は入れ替わるけれど、 恐らくは「台本」それ自体は引き継がれる。役どころを書き換えて、台本は生き延びて、いびつな人間関係は、むしろもっと悪くなる。

悪い状況に必要なのは、「お互いの役割を放棄しようよ」という啓蒙であって、田舎の市長選挙なんかだと、これが「血まみれの牛の生首」として、具現化されたりもする。

激戦区になっている田舎の選挙は、選挙の勝敗が生活に直結するから、お互いに相手を口汚く罵ったりすることは珍しくない。 恨みが行き着くところまで行くと、対立陣営の家の庭に、切ったばかりの牛の生首が放り込まれたりする。

もちろんそれは恫喝だけれど、誰がやったのかは分からないし、生首が放り込まれた家にしても、じゃあ何をすればいいのか、たいていは明示されない。 牛の生首は、恫喝であるのと同時に、うんと原始的な挨拶でもあって、「こんにちは、よろしくお願いします。お互い紳士的に行きましょう」というメッセージを、 「身内の誰かが刺されるかもしれない想像」を、お互いに喚起する役に立っているような気がする。

言葉でどれだけ理屈の通ったことを述べても伝わらないのに、牛の頭に何十本もの包丁を突き立てて、 それを黙って上司の机の上に置いておいたら伝わる何かというものがある。その空気感みたいなのは言葉にできないし、 電子の時代になってもなくならない。

人間関係というものは本来、たぶん洗練から一番遠い何かであって、紙に書かれた道徳を読むよりも、 牛の生首を杭に突き刺して、それを誰からも見えるところに置いておくほうが、人の振る舞いを「道徳的」なものにする役に立つのだと思う。

後ろ向きな努力が穏やかさを作る

弱い側を、惨めな立場へと縛り付ける台本は、人間関係をいびつなものにする。道徳の価値が絶対化されていく中で、 「運が悪かった人」は「不道徳な人」へと書き換えられて、「努力が足りない」人も、「チャレンジ精神に欠ける」人も、 どちらも等しく「悪い人間」と断罪されてしまう。

いびつな人間関係は、一方的にすり潰される側の誰かが、ある日「台本は守らなくてもいいんだ」と気がついたときに、一気に破綻する。

正義や道徳という、本来無くてもいい何かを土台にした人間関係は、破綻と同時に無力化するから、破綻はしばしば爆発を生んで、人間が本当に刺されたりする。

誠意や良心とは対極の、お互いが後ろ向きに、強い側は「卑怯な保身」に、弱い側は「卑劣な恫喝」に、お互いがそれを徹底することで、 「刺されるかもしれない」という想像力が保たれる。そうした想像が、結果として「穏やかでいい関係」を生む。

役割の受容というものを、誠意や美徳と言い換えるのは欺瞞であって、穏やかで無難な空気を作るためにこそ、 お互いがそれぞれの立場に応じた「努力」をしないといけないのだと思う。

2011.01.10

無難の伝えかた

「無難」というものは、「最高」の劣化コピーなんかではなく、本来は学びの目標そのものであって、「最高」というものは、 言わばくじ引きの結果として、運がよければあとから付いてくるものなのだと思う。

無難は難しい

あきらめを前提とした「最高」を、目標として教えることは簡単だけれど、誰にでもできる「無難」を教えられる人は、 実はとても少ないのではないかと思う。

それが「最高」ならば、経験した範囲でのベストケースを一つ持ってきて、入門してきた人に「俺にだってたどり着けなかった」なんて、 胸をはってあきらめてみせればそれで済むけれど、無難を伝えるということは、無数にあるケースが作った群れの中心を 教えることに他ならないから、群れ全体を知った上で、群れ全体を見渡せるような人でないと、そもそも「無難のありか」が分からない。

最高の周辺、群れの最先端は、誰もがそこを目指すから、場所の特定を行いやすい。無難の場所は、群れの中心そのものだから、 密度が濃すぎて見通しが悪いし、それはしょせんは無難であって、最高に比べれば劣っているから、つまらない。つまらないものを 調べるのは大変で、だからこそ、それができる人はきっと少ない。

毎年何十万人もの人が集まるコミックマーケットに参加した人たちに、「コミックマーケットで最高の作品は?」という質問を行ったときに、 自分なりの正解を返せる人はたくさんいる。ところが「コミックマーケットでもっとも平均的な作品を教えて下さい」という質問だと、 もしかしたら準備会の人たちにだって分からない。

無難というのは、恐らくは最高よりも難しい。

お手本には意味がない

無難というものには、恐らくはある程度の幅がある。それは範囲を持った考えかたであって、目指すべき点とは違う。

飛んでいる鳥の群れがいたとして、個々の鳥の体格は異なっているだろうから、飛び方は微妙に違う。 群れを作っている鳥の数は有限だから、全てを加算平均すれば、たぶん「その群れでもっとも無難な飛びかた」というものが導かれる。

ところがそうして得られた「もっとも無難な飛びかた」をひな鳥に教えても、もしかしたら飛べない鳥になってしまう。

やりかたというものは、自分の身体を通じて、環境から自分で発見しないと、身につかない。 型というものは、それが「最高」であれ、「無難」であれ、結果として導かれた何かであって、 それをお手本にして、厳密にそれをなぞらせるようなやりかたは、伝達の手法としてどこか間違っているような気がする。

お手本を伝えて、暗記の結果を紙に書かせて、お手本との隔たりを「点数」としてマイナス評価する、学校の先生が 使う「教育」の技法を応用したとして、ひな鳥は果たして飛べるのかどうか、ぜひとも試してほしい。

「型を学ぶ」やりかたは、とりあえず飛べるようになった人が、もっと上手に飛ぶための方法であって、 型というものは、そもそもひな鳥を飛ばすようには作られていないのだと思う。

失敗から無難を見つける

「その人にとっての無難」というものは、環境から自分で探し出さないといけない。それが速やかにできる人と、そうでない人とがいて、 無難を見つけ出せないひな鳥は、いつまでたっても飛べないから、群れからはぐれてしまう。「ひな鳥にとっての無難の発見」を手助けすることが、 教育をする人の役割なんだろうと思う。

「見つけかた」の手助けというものは、知識や考えかたの提供ではなくて、むしろ環境を提供することで成し遂げられるような気がする。 ありがたい講義を丁寧に説いたところで、成功する人はもっと成功するかもだけれど、成功できない人が成功できるようになるケースはたぶん少ない。

フィンランド出身のラリードライバーは、原体験として、ときどき「子供の頃の無免許運転」を挙げる。 雪の深い国だから、冬になると道は全て雪に覆われて、父親の車を勝手に持ち出して、滑りやすい雪道で遊んで、 木にぶつかったり、崖から落ちたり、いろんな経験を積んだからこそ、車の運転が上手になったのだと。

自動車教習所は「正しい車の動かしかた」を教える場所だけれど、卒業して免許を取って、初心者のドライバーは、 やっぱり運転が上手くない。車は違うし、運転はおっかなびっくりで、どうしても、教わったことからはみ出さないと、 自分なりの運転というものが身についてこない。

教習所のやりかたは、失敗を許さない。失敗して、ポールを倒せば減点だし、失敗が最初から起きないように、 スピードも極端に制限される。乱暴な運転をしてはいけない、スピードを出してはいけない、いろんな「いけない」を、 教習所は教えてくれるけれど、じゃあその禁忌を破ったらどういうことがおきるのか、致命的な事故になるその時まで、 たいていのドライバーはそれを知らない。

お手つき即死の現代社会にあって、失敗できる機会というのは、お金を支払ってでも手に入れる価値がある。 「学校」と呼ばれる場所は、お手本よりも、むしろ失敗をこそ提供する場所であってほしいなと思う。

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