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2010.12.30

見解について

そこにある一連の事実をお互いに共有した上で、お互いが事実に対する妥当な見解を示すことで、状況はコントロールされる。

「見解の不一致」は、それぞれの目的が異なる以上、珍しいことではないけれど、事実が共有されている限り、 相違した見解は、妥当な譲歩によって合意に結びつけることができる。

見解とは何か

交渉の椅子に座る人は、それぞれの立場と、内に秘めた目的とを持っている。

立場と目的とを正しく理解した人が事実と対峙すると、必然として、事実に対する見解というものが生み出される。

目的を正しく定義できない、あるいは自らの立ち位置を理解していない人が事実と向き合って、そこから「見解を教えて下さい」と問われたところで、 恐らくその人の口からは、単なる要約以上のものは出てこない。

事実の要約と、事実に対する見解とを隔てているものは、目的を達成するために行われる思考の有無であって、 一連の事実に対して、その人がたしかな目的を持って、それを達成するために思考しなければ、見解は、単なる要約になってしまう。

事実に対して、その人がたしか見解を持ち、思考しているという証として、見解というものには、仮説を設定することが要請される。 見解というものは仮説、合意が成し遂げられた状況の未来予想図と同じ意味を持つ言葉であって、それは現状に対する認識であるようでいて、 正しく作られた見解は、最初から未来を内包している。

交渉において、未来に到達するためには「合意」という手続きが必要で、正しい見解を作るためには、 必然として相手の立場や目的に対する正しい理解が不可欠なものとなる。

見解と願望とを隔てるもの

見解が未来予想図と同義であったとして、合意が期待できない目的の元に作られた見解というものは、今度は単なる願望と区別がつかなくなってしまう。

相手の行動を当て込むこと、「~するはずがない」で組み立てられた戦略は、相手の行動への希望的観測に依存している点で脆弱 であって、こちらが望んだ行動を相手に促すために、「いい人」であろうとしたり、独りよがりな「誠意」を訴えたところで、見解を補強することには何ら貢献できない。

「あの人は○○だから」 とか、「きっとこうしてくれるはずだ」といったレッテル貼りは、見解の自殺なんだと思う。 相手の内面に対する考察を、「要するに」で省略したその瞬間、自らの見解も省略されて、その意味を失ってしまう。

「目的の欠如が招いた事実の要約でもなく、状況の無理解が産んだ願望でもない何か」が見解であって、 見解というものを、それ以外の何かと隔てているものは、結局のところ相手の立場や目的に対する興味と理解なのだと思う。

コンサルタントとしての医学

見解の相違は、世の中のあらゆる場所で発生するけれど、じゃあ病院ではどうかといえば、 特に問題が病気そのものに関する場合には、医師が譲歩を求められたり、治療方針について何らかの交渉が行われる場面というのは、 恐らくは他の業界に比べれば、圧倒的に少ない。

白衣の威光効果だとか、そもそも保険診療だから交渉のやりようがないとか、説明の手段はいくらでもあるけれど、 「症状に対する診断」という医師の見解は、医学という経験知に支えられていて、医師が生み出す見解、 未来に対して設定された仮説というものは、これよってずいぶん強力になっている。

医学という学問は、様々な症状に対して、バックグラウンドではどういう現象が起きているのか、 人体の生理に添った「もっともらしい仮説」の集積であって、自分たちは普段、仮説を立てるのではなく、習った仮説を「思い出す」ことで、自らの見解を組み立てる。

仮説には、それが成立した先にある未来を予測することが求められるけれど、医学の授業で習う仮説はそもそも「その先」を内包していて、 診断が正しかった、仮説が正しかったのならば、それがどういう症状として、あるいは検査結果の変化として出現するのか、医師はそれを授業で習っているから、 患者さんに説明をすることができる。

仮説はもちろん外れることだってあって、仮説が外れたときにはそれを察知して、対策を行うことが求められるけれど、 診断が「外れた」場合の対処や、その時にどこまで診断をさかのぼれば問題を仕切り直せるのか、自分たちはそういうものを体系的に学んでいるから、 「病院の中で」「問題が病気であった場合」に限定すれば、医師が交渉のテーブルに着いたとき、ほとんどの場合「負けない」のだろうと思う。

本が出ます

昔から交渉ごとという問題が好きで、blog にはコミュニケーションに関する記事がずいぶん多かったのですが、 日常の業務を回していく中で、「こうすると上手くいく」というtips 的なものがいくつか見つかり、そうしたものを記事にすると、 肯定的な反応をいくつかいただきました。

「診断」と「治療」というものもまた、広義の「交渉」の一部であって、自分たちが普段やっている業務というものも、 交渉ごとを回すための技術として提案してみると、他の業界の方からも「参考になる」という声をいただき、 本にまとめてみることにしました。

ここに書いた「見解」を軸にした交渉技術、中断を前提にした交渉や、制約指向の考えかたで業務を回していくやりかた、 道具として、最初から「謝罪」を折り込んだ交渉技術など、ビジネス書として出版されている交渉ごとの本とは、 ずいぶん毛色の違ったものになったのではないかと思います。

来年もよろしくお願いします。

2010.12.28

食器洗い機とオーブンレンジを一体にしてほしい

単なる合体ではなくて、全自動洗濯機みたいに、同じ空間を違った目的に利用できるようなやりかたで。

レンジの掃除は面倒

オーブンレンジがあると、料理はたしかに便利になって、焼き物なんかはいかにもおいしそうに仕上がる。

あれはたしかに「いいな」と思うんだけれど、その反面、料理を終えたオーブンレンジは油汚れがどうしてもあって、 あれを洗うのはなかなかに大変そうで、結局フライパンに戻ってしまう。

ガスレンジを買うと、最近のはたいてい、真ん中にグリルが付いてくる。

ガスレンジのグリルはとても巧妙に設計されているらしくて、メーカーの人にいわせれば、あれを使って鳥を焼いたら、 他の調理器具はちょっと考えられないと勧められたのだけれど、それをやったあと、グリルを掃除するのが本当に大変。 グリルで鳥を焼くと、たしかにきれいに焼けるんだけれど、グリルというのは、言ってみれば小さなガスコンロをトンネル状に並べたものであって、 油が付いても取れないし、バーナーの真ん中に手を突っ込まないと洗えない。

オーブンレンジと食器洗い機を一体化する

料理というのは、材料を出したり切ったりするところから始まって、最後は必ず、「洗う」で終わる。

オーブンレンジだとか、あるいはジューサーミキサーもそうだけれど、どこかの工程を素晴らしく便利にする道具というのは、 たいてい「洗浄」工程の負荷を増してしまう。ああいった道具はたしかに便利そうなのだけれど、そこでなんとなく躊躇する。

料理の手順において、オーブンレンジが活躍している状況では、まだ食器洗い機には出番がなくて、 料理を食べ終わって、食器洗い機が動いているときには、オーブンレンジの仕事は終わっている。

お互いの機能は異なっているけれど、お互いに時間を共有することはないはずだから、両者は一体化できる。 一体化して、同じ庫内を違った目的に利用することで、「油で汚れたオーブンレンジを洗う」という工程が、 「食器を洗う」という工程と一体化できて、料理の手間が省けるような気がする。

ずぼらにやるなら、料理をするときには、オーブンから洗浄済みの食器を出して、料理して食べ終わったら、 油まみれになったオーブンに汚れた食器を放り込むと、オーブンの掃除と食器の洗浄が、一緒に終わって、次に使うときまでそのまま放置しておけば、 オーブンレンジの中には、洗浄された食器がそのまま乾いて格納される。

手順を円環にする

一連の手順を見渡して、「はじまり」と「終わり」とを見比べて、それを機械で強引に一体化すると、 手続きは円環になる。機能を一つにまとめることで、「終わり」工程を省くことができれば、その手順を取り巻く生活がずいぶん変わる。

食器洗い機と合体したオーブンレンジを実際に作ろうとすれば、機能はまるっきり異なるし、 食器洗い機の大きさも、オーブンレンジとして使うには大きすぎるだろうし、解決すべき問題はたくさんあるのだろうけれど、 実現すれば、食事の支度をする風景は、ずいぶん変わってくるのではないかと思う。

全自動洗濯機のやっていることもそうだし、あまり上手くはいかなかったけれど、循環式の24時間沸かしっぱなしの風呂釜なんかも「沸かす」と「洗う」とを結びつけたものだけれど、 機能がバラバラであって、使用時間が重ならない何かを無理矢理くっつけた道具というものは、くっつけることで、単なるキメラから、別の新しい何かになることがある。

食器洗い機と一体化したオーブンレンジというものは、それは要するに「洗わなくていい調理器具」になっていて、 今までだったらフライパンが引っ張り出される状況が、「そのほうが楽だから」という理由で、オーブンレンジの仕事に変わる可能性がある。

工程を眺めて、「はじめ」と「終わり」とを結びつける機械を想像するのは、けっこういろいろ見えてきて面白いと思う。

2010.12.27

道徳とルールの間

少し前、警察の任意取り調べにおける録音は、是か非か? という議論が話題になっていた。 法律家の卵(?)の人が、取り調べの現場に録音機を導入することの弊害を説いて、「そんなことはない」という突っ込みを受けて、 ちょっと盛り上がっていた。

道徳とルールには溝がある

世の中にはたぶん、「道徳」が好きな人と「ルール」が好きな人とがいて、両方とも、同じところを目指しているわりに、お互いの溝はけっこう深い。

くだんの議論で録音機の弊害を説いていた方は、恐らくは正義感が強い人であって、録音機という、「人間は必ず嘘をつく」ということが半ば前提になっている機械を 仕事場に持ち込むことに対して、嫌悪感みたいなものを持っているのだと思う。

一方で、録音機というものは、米国司法の現場であったり、「言った言わない」が問題になる仕事の現場では、もはや当たり前のように用いられている 道具でもあって、どんな業界であっても、録音機の導入以前とそれ以後と、会話の文化に変化はあったのだろうけれど、どこの業界も、 録音機というルールに適応した、新しい会話の技法というものを身につけているように思える。

「お互いに信頼を大切にした、穏やかで誠意ある関係」というものが嫌いな人は、たぶんそんなに多くない。

道徳の好きな人たちは、「信頼を大切にしましょう」という道徳が全ての人に浸透した結果として、こういう状態を好ましく思うのだろうし、 ルールが好きな人たちは、そこに参加する全ての人が保身に走って、利己的に、自分の利益を最優先するように振る舞うことが出来れば、 結果として、抑制の効いた、穏やかな関係が作れる、そんなルールを考える。

目指している場所はそんなに変わらないし、「穏やかで誠意ある」は、ルールや道具で実現可能なものなのに、 道徳が好きな人たちから見れば、ルールで「作り出された」この状況は、形だけのものであって、内面が伴わないから、意味のないものに見えてしまう。

形にできないものを信じる人と、形にできるものだけを信じる人間と、このあたりは分かりあえない。 自らの保身よりも、正義の実現を選択するような人は、前者にとっては人間の鏡なのかもしれないけれど、 後者にとっては、保身を顧みない人というのは、要するに「ルールを破る」人だから、むしろ真っ先に排除されてほしい人に思える。

録音というルール

録音という手段は、お互いに自制した状況を生み出す上で、形だけを重んじる立場からすると、便利な道具としてうつる。 録音されているからこそ、うかつな言葉は口にできないし、結果として、恫喝するような、口汚く相手を罵るような、 トラブルの原因を生む言葉というものは、その場から自動的に排除される。上っ面ことにしか過ぎないけれど、 そういう言葉を禁じられるだけで、人間はずいぶん冷静になれる。

録音という技術はその代わり、形に残るものしか残さない。録音できない価値はログに残らないから、 正義や誠意、気迫みたいなものを重んじる人たちにとっては、録音機という道具は、やっかいと言うよりも、 汚らしいものに見えるのかもしれない。

録音機というものは、会話の席に導入された、単なるルールであって、取り調べを行う側にも、調べられる側にも、本来は等しく有利不利をもたらす。

ルールが変わると、会話の性質はずいぶん異なってくる。録音が前提の会話は、 お互いの信念や正義のぶつかりあいというよりも、何かのゲームのような雰囲気になる。 「正義は我にあり」みたいな気迫は録音できないし、どれだけ些細な論理の瑕疵も、あとからさかのぼって追及される。

米国の司法制度に巻き込まれた人たちは、司法の現場というものが、強制的に参加させられた、 不自由で理不尽なルールに縛られたゲームのようなものに写るのだという。

録音機とビデオとを導入して全面開示、ということを実際にやると、ルールは間違いなくオープンな方向に行くのに、 何というか、世間から見て「ずるい」結果に終わったり、警察の人が「ふがいない」と断じられるようなケースは、むしろ増えるような気がする。

「停止」というルール

米国の警察官は、「フリーズ!」と怒鳴る。日本の警察官は、イメージとして、状況を「被害者」と「加害者」に分けようとする。

病院では時々、泥酔したりしてどうしようもなく暴れる人が運ばれてきて、救急隊でも手に負えなくなると警察を呼ぶのだけれど、 警察官の人たちは、暴れる人を抑えてくれる。自分たちの側からすれば、あれは本当にありがたいのだけれど、 警察を呼ばれた側にしてみれば、自分の言い分を聞きもせずに、白衣を着た男の言うことを鵜呑みにして手足を押さえつける警察官を、 とても理不尽な人物だと思っているのかもしれない。

病院と、誰もが武装している事件現場とは比べられないけれど、米国の警察官が「フリーズ!」と叫んだら、とりあえず止まらないと撃たれる。 被害者加害者でなく、とりあえず「警察が来たらみんな止まる」というルールだけがあって、みんながじっとした状況で警察が武装を解除して、 それからたぶん、両者の言い分を尋ねることになる。

病院であれをやるなら、警察を呼んだら、とりあえず医師も患者さんも、みんな腕を後ろに組んで床に伏せて、 「動いたら逮捕」というルールになるのだろうけれど、個人的にはそれでもいいのではないかと思う。 状況はそれでも、少なくとも「手に負える」ものにはなるし、自分たちは要するに、次の患者さんの診察に移れればそれでいいわけだし。

「停止」の枠内で行動すると、警察官の人たちは、正義の執行者と言うよりも、単なるルールになってしまう。警察の仕事は、 その場に正義を実現することではなくて、とりあえず状況を止めて、お互いの勢いや気迫を殺して、両者の言い分を聞いて記録して、 警察の見解に基づいた、問題を解決するための暫定的な方針を提供することへと変化する。

単なる道具に成り下がるのは、もしかしたら面白くないかもだけれど、どちらが加害者なのかがよく分からない状況で、 一方的に権力の手先みたいに叩かれて、実際に問題と対峙する現場の人たちは、「単なる道具」でいられるほうが、むしろ負担は減るのだと思う。

裁量は現場を窒息させる

東京都の漫画規制のような、現場の裁量を大幅に認めるような規則というのは、規制する側の現場の人たちは、必ずしもあれを歓迎しないような気がする。

道徳を強化するようなやりかたは、作るとどうしたって一人歩きする。 強力な力を与えられて、それを運用する側は大喜びなんてことはなくて、 裁量の範囲が大幅に増えた結果として、現場の責任は大幅にまして、風当たりは今まで以上に強くなる。

裁量の範囲が増えれば、どうしたって「上」を意識せざるを得なくなる。規制する側の人たちだって、昨日まで「白」だった何かと対峙して、 今日から「黒かもしれない」と、もっと上の方に居るであろう、やんごとなき誰かの意志に配慮しないといけない。

もちろん作る側の反発は強くなるだろうし、かといって、力がついたら、それを使って見せないと、「上」は恐らく納得しない。 板挟みになった結果として、じゃあ「上」に決めてもらおうなんて探してみたら、配慮していたはずの誰かは「現場の裁量で」なんて 逃げられたり、「実は上なんて居なかった」なんて結果になって、規制や規則が増えるごとに、結果として規制する側の現場は窒息していく。

「診療ガイドライン」のようなものも、必ずしも現場を楽にしてくれている面ばかりではないのだと思う。

ガイドラインには、どこかに必ず「最後は現場の判断で」運用すべき場所というものがあって、ガイドラインを、本当にガイドラインどおりに 使おうと思ったら、それを作った「上の人たち」が実際のところどう思っているのか、それを知らないと、自分の運用が果たして正しいのかどうか、 現場にはしばしば判断できない。

がんの闘病記を読むと、何かの悪性腫瘍が診断されて、その疾患を自分の施設で治療すると「治療成績が落ちるから」、 いくつもの癌治療病院を転々とするエピソードが描かれていることがある。自分たちが「成績」を比べあいすることなんてないし、 ああいうのはたぶん、病気の進行度が判断に迷う場所であって、ガイドライン時代の昨今、自分の判断がガイドラインに照らして本当に正しいのか、 現場はしばしば、自分1人では判断できないからなのだと思う。

何かの道徳を実現するために、それを執行する現場の裁量が増やされた結果として、現場はたぶん「無能の集まり」へと変化する。 それは窒息の悲鳴なんだけれど、「上」の人たちがそれを聞く頃には、現場は疲弊して、回らなくなってしまうのだと思う。

2010.12.22

フィクション欠乏症について

「大人になること」というのは、「何かに飽きる」ことと同義であって、ある分野に対して飽きることに失敗したまま、 資金力や実行力ばかりが身についた「大きな子供」は、しばしば暴走して、とんでもないことをしでかしてしまう。

オカルトの摂取は大切

たとえばオカルトを恒常的に摂取している人たち、今でもムーを欠かさない自分みたいな人間は、オカルトというものを楽しみこそすれ、 それを心から信じ込んだり、何かのオカルトグッズに全財産をつぎ込んだりといった行動は、逆に出来ない。 オカルトがどれだけ魅力的でも、20年もつきあっていれば飽きが来るし、人間の想像力には限界がある以上、 オカルトマニアがどれだけ想像力を駆使したところで、新しい神秘はなかなか出てこないものだし。

「飽き」という現象は、恐らくはオカルト以外のどんな分野にもあって、力を持てない子供のうちに、そうした極端なフィクションをたくさん摂取して、 それに「飽きておく」ことで、大人になって力がついたとき、「飽き」が力の暴走を防いでくれるのだと思う。

フィクションの力

たとえば子供の頃にオカルトの摂取に失敗した人が、力を持った大人になって、はじめてオカルトと対峙してしまうと、とんでもないことになる。

某新興宗教なんかは、事件が発覚したとき、中の人には学歴の高い人たちが大挙していたし、幸福を呼ぶ壺だとか印鑑に、 家が傾くほどの財産をつぎ込む人は、今だって決して珍しくない。東大みたいなところだって、新興宗教に走る学生の問題は尽きないし。

たいていの大人にとっては、それがすでに「飽きた」ものだからそう見えないだけで、オカルトをはじめとした様々なフィクションには、 実際のところ、それだけの魅力と力とがあるのだと思う。

オカルトは、たしかに下らない。でも、「下らないから」オカルトから遠ざけられて、 子供の頃にオカルトに飽きることに失敗してしまった人、オカルトの摂取が足りなかった人が、 大人になってオカルトに出会ってしまうと、大人であるということは、「下らない」何かの魅力を回避するほどの力を持てない。 魅力に対して距離を置くためには、どうしてもそれに「飽きる」必要があって、暴走しないで飽きるためには、力のない子供の頃に、 そうした「下らない」フィクションを、十分量摂取することは欠かせない。

創造は欠乏から生まれる

フィクションの摂取が足りなくて、それに飽きる体験を経ないままに力を持った人が、大人になって新鮮なフィクションに出会ってしまうと、 それに病的に耽溺することになる。

冒険家みたいな人もそうだろうし、作家と呼ばれる人たちの、ある意味「異常な」想像力を生み出しているものは、 あれは過剰からではなくて、欠乏が、その引き金を引いているのだと思う。

作家には読書家が多いけれど、子供の頃から本の虫で、様々なフィクションを摂取し続けてきた人というのは、 読書が好きな人にはなっても、あるいは作家にはなりにくいのではないかと思う。常人を超えた想像力を、 何年もの間発揮することが出来る作家の人たちというのは、恐らくは「正しい大人」に比べると、どこかで世界を過剰に新鮮に眺めていて、 その新鮮さというものは、幼少児に、何かの分野でフィクション摂取の欠乏を生じたことが遠因になっている。

表現というのは体験の記述であって、表現の上手さ、伝わりやすさについては再現可能な技術だけれど、 表現それ自体というものは、コンテンツを持った人にしか作れない。コンテンツというものは、 様々なものに飽きた「正しい大人」が、大人の想像を超えたすごい体験をしても生み出すことが出来るし、 世界のあらゆるものが新鮮に見えてしまう、異常な感覚を持った人であれば、近所をちょっと一回りするだけで宮崎アニメができたりもする。

いかがわしいものには意味がある

都知事閣下の言動や振る舞いは、どこか極端で、漫画の主人公みたいなイメージがある。子供みたいにわがままで、 やりたいことを強引に押し通すことを繰り返す一方で、あの人はたしかに、創作者として成功していて、 あの状況というものが、まさに「フィクション欠乏症」の、一種の典型像なのだと思う。

都知事はいかがわしい漫画を規制しようとしているけれど、いかがわしい漫画を子供の頃に十分量摂取できないと、 たぶん都知事みたいな大人が生まれる。

世の中の大人が、それを「いいことだ」と判断するのならば、それでもいいのだろうけれど、 力のない子供のうちに、フィクションを通じて様々な疑似体験を行って、それに「飽きる」ことができないと、 その人はやっぱり、大人になったとは言えないんじゃないかと思う。

2010.12.18

診断学の方法論

お客さんの知らない技術を使って、「こんなことをやりませんか?」と提案しようにも、 それを知らない人には、そもそも未知技術の使いかたが分からない。

知らない人の「こんなことがしたい」という欲求は、たいていの場合漠然としすぎていて、顧客と技術者と、 どれだけ長い時間語り明かしても、顧客の側からは、「こうじゃない」ばかりが増えていく。技術者の求める「これが欲しい」は、なかなか聞き出せない。

「お客様本位」はうまくいかない

顧客というのは基本的に「無知」であって、だからこそ「技術者」という、技術に対する知識を持った人が必要になる。 ところが「お客様本位の交渉」という考えかたは、顧客の側にも技術者の側にも、 お互いに何か「分かっているものがある」ことが前提になっているところがあって、新しい技術を扱う業界には、 しばしばそんなものは存在しないから、要件定義が迷走する。

診断学の考えかた

医療の業界には、「診断学」という分野があって、これが医療の土台になっている。内科とが外科とか、 分野によって医師の技量は様々だけれど、「診断学」というものは学生のうちに習うものだから、 医師免許を持っている人であれば、原則として誰でも「診断」ができるし、できないといけない。

診断学という考えかたは、「相手は病気に対して無知である」ということを前提にしているところがある。 「上から目線」的な要件定義の方法論であって、他の業界だと、こういうのは珍しいような気がする。

たとえば患者さんが、「肺炎だと思います。私には抗生剤が必要です」なんて訴えを持って病院に来ても、 病院だとたいてい、「まずは本当に肺炎なのかどうか確認しましょう」なんて、患者さんを「診断」のラインに乗せる。

「これが欲しい」という具体的な要望があっても、病院の場合にそれがすぐに出てくることはないし、 そのあたりが最近、病院に対する患者さんの不満を生む原因にもなっているのだろうけれど、このやりかたは、暫定的には上手く行っているように思える。

問題の数は有限で技術者はそれを知っている

問題を抱えた患者さんに対して、それに応えるよう、意図を具体化するように「相談」しながら物事を進めたり、 技術者を動かすという考えかた自体が、医療にはすごく珍しい。せいぜいが、自分の疾患についてよく理解している癌患者さんの治療方針を決める際に、 患者さんとの「相談」が重視されるぐらいだと思う。

診断学という学問の、「相手は無知」であるという前提は、商売としてはずいぶん傲慢な立ち位置であって、サービス業のありかたとしては正解に遠そうだけれど、 暫定的には、業界はそこそこ上手く回っているから、要件定義の道具としては十分役に立っている。

診断学は、「相手は問題を理解していないが症状を説明することはできる」、「疾患の数は多いが、それでも有限個数の範囲内である」、 「あらゆる疾患は、何らかの検査を通じて診断可能である」といったことを前提に、知識の体系を組み立てる。

漠然と「技術コミュニケーション」とくくられるような考えかたは、「顧客は自分のやりたいことを本当は理解している」、 「問題の数は無限で、互換性がない」、「問題はしばしば技術的な解決が難しい」あたりを前提にしていて、こうした前提は、道徳的にはよほど正しいけれど、 仕事としての正解からは、むしろ遠ざかっているような気がする。

恐らくは様々な技術分野に、「相談」を行っているようでいて、実は「診断」を行っている人がいる。

成功したプロダクトを生み出す人が、しばしば傲慢に思えたり、顧客の意見を無視したような製品が成功をおさめたりするのは、 「診断」が前提としている考えかたが、正解に近いからなのだと思う。

2010.12.16

アンケート2つ

病院食

うちの施設に勤務する栄養士の人たちが、退院する患者さんに献立のアンケートを取っていた。

「病院の食事はどんなものがよかったですか?」みたいな、無難な文面のアンケートに記入をお願いして、年末にそれをまとめていたけれど、病院食独特の、いかにも病院食という味付けや献立というものは、あるいはこうしたアンケートが作り出したのかな、などと考えた。

アンケートを書くのは「退院する人」であって、入院したばかりの人は、もちろんそれどころじゃないから、方法論として、ここはしょうがない。

ところが退院する人に漠然としたアンケートをお願いすると、恐らくは「自分が食べたかったもの」よりも、むしろ「病人はどういうものを食べるべきなのか」を書いてしまいがちになる。その人はこれから退院するのだから、本当に食べたいものは、これから食べに行くのだろうし。

アンケートというやりかたは、だから「入院中の食事はどのようなものがいいと思いますか」といった効き方をしてしまうと、それは献立の改良につながる結果よりも、むしろ「病人は何を食べるべきなのか」という、病人食独特の空気を再確認する作業に陥ってしまう可能性がある。

このときに「どのような食事がいいと思いますか?」という質問でなく、たとえば「入院期間が今日から1週間延長になったとして、その日の夜に、何なら食べられそうですか?」という質問に変更すると、回答される献立は、ずいぶん変わってくるのではないかと思う。それが栄養的にどうなのか、そこはまた検討する必要があるのだろうけれど。

外来化学療法

薬局の人たちは、化学療法を外来で受けた患者さんに対して、化学療法を終えてみて、「経過中にどんなことを知りたかったですか?」といったアンケートを行っていた。回答された答えは、薬の効果や副作用だとか、案外教科書的な、たしかに薬剤師の人が答えやすいような回答が並んでいたけれど、「どんなことを知りたかったですか」という質問は、「化学療法を受けた」というその人の体験を、教科書的な重要さでソートしてしまうような気がする。

こういう質問形式だと、たとえば「点滴の最中は3時間ぐらい寝ていないといけないから、最低限携帯電話でも持っていないと時間がつぶせない」とか、「点滴大を引きずりながら入れるトイレは限られていて、待合室右奥のトイレが広くて使いやすい」とか、そういう「知りたかったこと」は、浮かんでこない。

このアンケートもたとえば、「どんなことを知りたかったですか?」の代わりに、「同じ病名を今日告げられた後輩に、あなただったら何を教えたいですか?」と訪ねると、また別の答えが聞けて、役立つのではないかと思う。

2010.12.08

三菱電機IS の危機管理

「高木浩光@自宅の日記 – 三菱電機ISは結局会見で何を伝えたかったのか」で取りあげられていた、岡崎図書館事件に関するインタビューのログを読んで思ったこと。

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大雑把に言ってしまえば、グダグダな、きちんと調べて会見に臨んだ記者の人たちを相手に、会社の人たちがかみ合わない議論を続けて、 最後の最後まで、「この事件はこうだった」という、会社の人たちの考えかたが見えない会見だったのだけれど、 このグダグダを「ゴール」だと、三菱の人たちが最初から考えていたのだとしたら、これはこれで模範的な危機管理、クライシスコミュニケーションなのだと思った。

謝意の表明と責任の引き受け

このインタビュー記事に関して、「企業危機管理の悪い事例」というブクマコメントがついていたけれど、 今回のグダグダなインタビューに臨んだ会社側の人たちは、恐らくは「危機対応」に関する訓練を受けて、それを忠実に実行しているように思えた。

会見の当初、まずは社長さんが謝っていた。あくまでも、「被害者の男性に迷惑をかけた」ことに謝意を表明して、 「対応が早ければ」この問題はそもそも発生しなかったのだと、仮定を持ちだして、仮定が満たされていれば、これは問題ではなかったのだと宣言していた。

これは謝意の表明であるのと同時に、今回の一連の騒動は「不幸な誤解の連鎖」であって、技術的な不備が招いた必然なのではないのだと、 責任の引き受けに対して、あらかじめ予防線をはっていた。

脆弱性を突く

記者の側は「紳士的」というか、相手を罠に嵌めるような質問が少なかった印象を持った。

会見の最中、「もう少し具体的に」とか、あるいは会話の途中で「分かりました。こういうことですね」などと、相手からもっと多くの情報を引き出しては、 それを「ピンで止める」、あとから言い逃れができないように事実を確定する手続きを繰り返していて、あれはたしかに議論の王道なのだけれど、 そこから矛盾を引きずり出しては、「この矛盾はどうして生じたのか納得のいく説明をして下さい」とか、 社長さんの口から、強引に「私の責任です」という言葉を引きずり出すような、そういうやりかたは仕掛けていなかった。

記者の人たちは、たとえば「不快な思いをさせて申し訳ない」という言葉尻をとらえて、「不快な思いの「不快」とは具体的にどんなものですか」とか、 細かい語尾から、なんとか会社の側へと侵入を試みていた。

あれは議論を根底からひっくり返すときのやりかたで、そこから細かい矛盾を突いて、「言葉に矛盾があるのだから、あなたの言っていることは全部虚偽だと断言せざるを得ない」とか、 小さな矛盾から大きな疑念を表明するときの前振りなんだけれど、裏を返せば、「本論」部分については、もう企業側がきちんと対策を行っていて、 ごく細かいところに脆弱性を探さないと、記者の側からは本筋の議論に手が出せなかったのかもしれない。

「不快の定義をはっきりさせて下さい」とか、「申し訳ないとは具体的に誰に対してですか」とか、「御社の言う不具合の定義を教えて下さい」とか、 こういうところから論理の瑕疵を探して、相手の感情を揺さぶったり、「余計な一言」を引きずり出してはそれをピン止めすることを続けると、 「それがあなたの言う「不快」なら、このケースはどうして謝るのですか?おかしいじゃないですか?」とか、本論に切り込む足がかりを作れる。 やりかたとしては下品だけれど、言葉の瑕疵をつくのなら、ある種の下品さはどうしても必要で、記者の人たちは紳士的に過ぎるように思えた。

守りかた

会社の人たちは、技術論になると饒舌だった。文字に起こされた記事を読むと、謝罪の言葉は2行ぐらい、技術の説明は5行ぐらいの分量比だった。 「技術」で何を説明しているかと言えば、今回不具合を生じたアプリケーションが、製品の中でどれだけ「特殊」な状況であったのかを強調しているように思えた。

「ここまでは問題なかった。ここからが不具合だった」という切断処理を繰り返すことで、責任の大きさは、どんどん小さくなっていく。 あらかじめ謝意を表明してから、具体的な、技術的な会話を通じて、自邸の特殊さを前面に押し出すことで、 「大きな謝意」と「小さな責任」という、両立しがたい何かを、会社の人たちは両立させようと試みていた。 実際問題、「ご迷惑をかけたことは本当に申し訳なく思っています」という言葉は、会見中に何度か繰り返されていた。

「仮定」という言葉を強調していた。このあたりを見て、「この人達は、訓練を受けてきたのだろうな」と思えた。

「今回の事例は不具合と言えますか?」とか、「クローラの働きは常識的と言えますか?」みたいな記者の質問に対して、 「仮定の質問には答えられません」と、機械的に返していた。あれはみっともないし、いかにもグダグダな答弁なのだけれど、 危機管理としてはあれが正解でいいのだと思う。

「仮定には応えられません。申し訳ありません」というのは「消毒された」言葉であって、言葉にどんな罠を仕込んでも、 こうした機械的な答えかたをされてしまうと、質問する側は、罠を発動することができなくなってしまう。「サニタイズ」という、 データベースへの攻撃からデータを守るときのやりかたによく似ている気がした。

あるいは「どうしてあなた方は態度を変えたのですか?」という質問に対して、「それは技術者としてそうしなくてはと思ったからです」と、 会社の人たちは、自らの振る舞いを変えた動機に関して、全て内的な理由で説明を試みていた。あれは「記憶にございません」という言葉の 延長にあるやりかたで、その人の内部から出てきた何かには、どんな証拠を積み上げようと、誰もそれを崩せない。

見解について

謝意の表明を繰り返す。技術的には特殊であることを強調する。技術的な不備を「特殊である」とかわす一方で、 人的にカバーする体制に不備があったことを、また強調する。こうすることで、三菱の社長さんは、 この事例を「技術の不備」でなく、「誤解の連鎖による不幸な人的エラー」であるという方向に誘導しようと試みて、 それは誠実さには遠いけれど、危機対応としてはある程度成功しているように思えた。

記者の人たちは、おそらくは「この事例は会社の技術的なミスであって、技術の欠如が、結果として不当な逮捕を生んだ」という見解を用意していたのだと思う。 お互い異なった見解をぶつけあう場にあって、三菱の側は準備をしてきていて、記者の人たちは、「紳士的」に過ぎて、攻めあぐねていた、という印象を持った。

会見が「グダグダである」というのは、非を問われる三菱の側にとっては勝利であって、 胸やけのする泥試合、言葉が重なって何が言いたいのか分からない、みんなが「飽きる」状況を、 望んでこうしているのだから、危機対応としては、これでいいんだと思う。誠実とは正反対にせよ。

メディアはこのあと「編集」を行うから、会見が記事として報道されると、また印象は異なるのだろうけれど、 テキストに起こされたやりとりを読む限りでは、記者の人たちは、知識こそ十分備えてきているけれど、 逃げる相手から事実を引きずり出すような、下品な議論技術は、あまり使っていない。あれだと「編集」しようにも、「材料」が足りないような気がした。

「上等な」メディアの、それは矜持なのかもだけれど、守る技術と、守りに入った相手のガードを剥がす技術というものはもう確立されていて、 下品なやりかたをしかけてきた相手には、やはり下品なやりかたで対抗しないと、勝負にならない。 記者の「下品さ」は、この抜き書きからはあまり感じられなくて、これから先、「技術」がもう少し周知されたとして、メディアは本当に大丈夫なんだろうかと考えた。

2010.12.06

新しい技術をものにする

「Google へのハッキングが中国軍幹部の指示で行われた」というニュースが、個人的には最近けっこう驚いた。

軍隊の上層部なんて、どの国を眺めたところで、頭の固い老人ばかり、ましてや中国なんて、と高をくくっていたら、中国軍の幹部は、「ハッキング」という新しい技術を、一応使いこなしていたわけだから。

やってみないと分からない

日本ならばじゃあどうなのか、たとえば今の政治家の人たちに、「我が国の○○というスーパーハッカーなら、 ペンタゴンに仕掛けたバックドアからいつでも侵入できます」なんて報告を受けて、じゃあそのすごい技術を前にして、 一体どんな指示が飛ばせるものなのか、恐らくは何もできないんじゃないかと思う。

実際に自分で使ってみない限りは、その技術のすごさというものは、理解できないし、ましてや使いこなすことなんて難しい。

それはIT の技術に限らず、大昔の刀と槍の時代、戦争がこれから起きて、武器にかけられるお金が限られている中で、 じゃあ刀と槍と、どちらをどれだけ準備すればいいのか、素人には判断できない。刀や槍の機能なんて、見れば明らかにも思えるのに、 じゃあある状況において、どちらの武器がより優れているのか、実際にそれを使って戦った経験がなければ、そんなシンプルな道具すら、 想像するのは難しいだろうから。

「机上の空論」が成り立つ前提

「机上の空論」だけで勝負する、理論戦略家という仕事が成り立つためには、「技術の進歩がない」、少なくとも「新しい技術が古い技術のアナロジーで説明できる」という大前提が必要なのだと思う。

クラウゼヴィッツの戦略理論にしても、あの人の本には「空軍」は出てこないし、「ゲリラ戦」も論じられない。そうした技術がで戦争を語り始めると、クラウゼヴィッツだって限界がある。

「IT技術を使った戦争」なんて、それこそ「戦術」の概念が出現して、ハッカーの人たちが「武器の使いかた」に熟達して、ようやくこの20年ぐらい、それが武器として考慮されるようになったぐらいなのだから、 今大きな組織で幹部をやっているであろうお爺ちゃんたちは、「掲示板荒らし」程度の「戦闘」も、経験したことはないんだろうと思う。

異なる文化をつなぐ人

圧倒的に経験が足りない人たちが指示を出して、それでもその攻撃が成功した背景にあるのは、だからハッカー側の誰かが持っていた、すごい「説明能力」であって、 自分たちが使いこなしている技術にはどういうものがあって、それにどんな威力があって、どのような効果が期待できるのか、それを従来の技術と地続きの、 お爺ちゃんたちにも理解できるような説明がきちんとできるぐらいに、中国のハッカーには成熟した技術文化がある、ということなのだと思う。

「説明する能力」というか、決断する世代と、実行する世代と、どうしたって発生する世代をつなぐ能力というものは、 一見すると「技術」からは遠いようでいて、その技術が実体としての力を得るためには、最も大切なものの一つなのだと思う。

SEの人たちが必ずと言っていいほどに、いつまでも固まらない「仕様」に振り回されるのは、顧客がそもそも、技術を使って何がしたいのかを、 全く理解していないからなのだろうし、そういう人たちは、「そうじゃない」とは言えても、技術者の側から適切な誘導を行わない限り、 本来あるべき「こうしたい」は、いつまでたっても見えてこない。

「こうじゃない」しか語れないはずの中国軍幹部をして、「こうしたい」という実効性のある攻撃を成功させたのは、 文化の異なる世代をつないだ誰かの功績であって、すでにそういう能力を持った誰かがあの国にいるというのは、 IT 技術者の文化というものが、世代の壁を越えられるぐらいに成熟している、何よりの証拠なのだと思う。

2010.12.05

HT-03A にCyanogenMod を導入する

常用している携帯電話にHyper-JというカスタムROMを導入 してから、今までにやったことのメモ。

公開されているROM をいくつか試してみて、現在はCyanogenMod というカスタムROM になっている。

ROMの増量

「Radio とhboot を書き換えることで、メモリを増やすことができる」という話題に乗っかって、試してみた。

Android Custom Cookbook の記載を読むと、hboot 、またはSPLというのはPCで言うところのBIOS に相当して、radio は無線担当のアプリケーションで、起動後最初に読み込まれる。 互換性のない hboot とradio とを組み合わせると、最悪の場合起動しなくなる。

手元の携帯電話は、すでにSPLの変更 を 行っていたから、この時点でのSPL はEngineering SPL 1.33.2005 、radio は純正の radio 2.22.19.26l だった。これをSPL 1.33.0013d、radio 2.22.27.08 に、それぞれ書き換えることになる。

手順はNext K : メモリー増量の記録 で公開されているとおりで上手くいった。

はまる可能性がある場所として、あらかじめengneeringSPL に書き換えを行っておかないと、fastboot を携帯電話が受け付けないので、そもそも書き換えができないことに注意。SPL 1.33.0013 には、 「d」 がついたものとそうでないものとがあるけれど、リンク先の手順に従う場合、純正品のSPL (d 無しのほう) だとerase 命令を受け付けないので、エラーが出るかもしれない。

自分はSPL 1.33.0013d、radio 2.22.27.08 をそれぞれ焼いたあと、recovery-RA-sapphire-v1.7.0G から FR-Spoof-SPL-1-33-0013S.zip を焼いて再起動、 再度リカバリーから pubrom 1.0 を焼いて、 さらにezBiffTestKernel20101106-2708S.zip を重ね焼きして、上手くいった。

全て終了したあと、総メモリーが112.7MB になっていれば、手順は成功しているはず。

pubrom 1.1 RAMHack版

1.0 を改変することで快適に使えていたのだけれど、ROM のバージョンアップに伴い、作者の方がRAM 増量に対応したバージョンを公開してくれた。

リンク先の手順 に従うだけで、 リカバリーからSPL とradio の書き換えが行われて、最初から新しいSPL とradio に対応したROM を上焼きすることができた。

注意点としては「リカバリの再起動」 で、単純に電源を入れ直すのでなく、リカバリ画面から、home+back ボタンを押すことで、リカバリ -> リカバリへの 再起動ができる。知らないとはまるかもしれない。Next K : pubrom1.1 ramhack版を入れてみた で、やりかたが図解されている。

バージョンこそ違えど、同じROM だから、使い勝手はほぼ1.0 と同じ。recovery-RA-sapphire-v1.7.0 は、SDカードのパーティーション分けを行う機能があって、 あらかじめswap 用にパーティーションを切っておくと、起動時に自動的に認識してくれる。アプリケーションが落ちにくくなる。

とりあたまさんのおぼえがき で推奨された値に準じて、swap を256MB 、ext3 を1GB、残りをデータ用途にそれぞれ分割して、実際に256MB のswap が認識されているけれど、 この値については「もっと小さい方がいい」とか諸説あって、何が正しいのかよく分からない。

ここまでずっと、15MB のRAM 増量を前提にしてきたけれど、何かの理由で元に戻したいときにはSPL とradio を書き戻す必要がある。 hpcalcのつぶやきメモ HT-03AのRAM増量に必要なものでリンク先が公開されている。

CyanogenMod

pubrom 1.1 は日本語化も行き届いていて、普段使いする分にはもうなんの不満もなかったのだけれど、せっかくだからいろんな機能を試したくなった。

CyanogenMod はたぶん最も有名なカスタムROMで、ほぼ毎日のように更新されたROM が公開されていて、新しい機能が追加されていて、面白い。 英語圏のROM だけれど、日本語のフォントが同梱されていて、設定画面も翻訳されたものが入っていて、問題なく使用できる。

自分が焼いたのは、CM6.1-nighty-269、gapps-mdpi-tiny-20101020-signed、ez-nightly266-cm-2708port_S で、 radio-2.22.27.08、Official-SPL はそれぞれ、RAMHack版のpubrom 1.1 で焼いたものをそのまま踏襲した。

CyanogenMod の最新版は、こちら で公開されている。これは毎日のように更新される人柱版のほうで、 安定版はCyanogenMod のホームページ で公開されている。

CyanogenMod は、本体とは別にGoogle Addon を焼く必要があって、CyanogenMod のWiki からダウンロードできる。一番下のほうにある「Tiny」をダウンロードすれば大丈夫なはず。

このROM は、RAM の増量を行わない、従来のSPL とradio を対象にしているものなので、このまま焼いてもたぶん起動しない。 ezterry という方が対応したカーネルを公開 していて、 自分はez-nightly266-cm-2708port_S を焼いて上手くいったけれど、今はもうバージョンが上がっている。

リカバリーからwipe を行った後、CM6.1-nighty-269、gapps-mdpi-tiny-20101020-signed、ez-nightly266-cm-2708port_S をそれぞれこの順番で重ね焼きして、再起動を行うと上手くいった。

swap を有効にする

SDカード上に、せっかくswap パーティーションを切っているので、これをそのまま使い回したい。

Android でswap を有効にするやりかたはいくつかあって、Swapper2 というアプリケーションを使うと、SDカード上 のswap パーティーションも 認識させることができるのだけれど、ROM にパッチを当てると、アプリケーションを導入しなくてもいける。

Firerat ‘all in one’ patch というのが有名みたいで、 2ちゃんねるの過去ログ 179番に 使いかたが紹介されている。

一問一答形式で、やりたいことをコマンドラインで聞かれるから、それに答えていけば終了する。swap 有効化だけでなく、様々な機能を持ったファイルなんだけれど、 他の機能はよく分からないので用いていない。

CyanogenMod の設定

CyanogenMod は、ホーム画面の振るまいかたが非情に細かく設定できる。細かすぎて、正直何から手を付けていいのか分からないので、 ThxBiff というROMを公開している方の推奨設定をそのまま使わせてもらった。

ThxBiff の紹介ページ に設定が記載されている。

この環境でももう古い

CyanogenMod のNightly 版は、次から次へと新しいものが登場していて、今の設定でも、すでにもう古くなっている。Nightly 版のバージョンは272 まで 上がっているし、RAMHack 対応カーネルも、すでにNightly 271 の対応版が公開されている。

HT-03A には、CyanogenMod をはじめとしていくつものカスタムROM が公開されていて、メーカー純正、一番安定しているなんて言われている Official AOSP 2.2 OTA test3 にも、 今日になって日本語言語パックの追加 が行われた。

これからカスタムROMを焼くなら、こちらのほうがいいかもしれない。

2010.12.01

不運も実力のうち

それをどうやって身につければいいのかは分からないけれど、「運のよさ」というものは、 やはり上に立つ人が備えるべき能力の一つとして考慮に入れたほうが、組織がより健全になるのだと思う。

努力が成果になる

どれだけ素晴らしい経歴の持ち主だろうと、判断の成否を完璧に予測することは不可能で、 準備を完璧に行ったところで、失敗をゼロにすることはできない。

そうしたケースはたいてい「運が悪かった」と総括されて、やるべきことをきっちりとやっていれば、トップの責任は問われないのかもしれないけれど、 「運のよさ」というものを評価軸から排除してしまうと、努力の方向がいびつになるような気がする。

「運の悪い切れ者」が排除されない組織においては、結果がどうであれ、その人の人となりや経歴、 判断のプロセスに努力が認められれば、それが成功と認定されてしまう。そんな文化で組織を回すと、 結果は二の次、プロセスをいかに正しく見せるかが、個人の成功を左右するようになる。

運勢というあやふやなものを排除するやりかたは、考えかたとしては健全なのだけれど、 それをやるとなんとなく、「運の悪い」人ばかりが上の方に居座って、組織はいつか崩壊してしまうのだと思う。

不運も実力

第二次世界大戦中の米国では、将軍は、「運が悪いこと」も罪悪として問われたのだという。 どれだけ優れた指揮官であっても、「運悪く」戦闘に負けたときには責を問われた。

軍隊は、必ずしも「エリート」が指揮するわけではなくて、もっと出世してもいいはずだった人が「運悪く」出世できなかったりといったケースもあったけれど、結果として米軍は成功した。

物量が違いすぎるから比較にならないけれど、旧日本軍はどちらかというと、「見えるもの」をしっかりと評価する組織を作って、 軍の上層部は「切れ者のエリート」が固めたけれど、米軍は「運」という目に見えない何かを評価して、人物の判断に援用して、 結果として戦争に勝った。

目をそらしても責任は残る

評価を受ける側からすれば、運勢という、観察できないものを評価の対象にされるのは不公平に思えるかもしれないけれど、 「あるけれど見えない」ものを「ないこと」にしたところで、結果に対する責任というものは「ないこと」にはできない。

「運悪く失敗した」ケースにあって、「努力したトップ」が責任を問われることはなくても、あるプロジェクトが失敗したという事実は変わらない。

見えるものを徹底的に評価するやりかたは、経歴のしっかりした人に、失敗を許さない。徹底的に頑張って、鍛えて、 準備した結果が「失敗」であったときには、「運の悪かったトップ」以外の責任が、今度は徹底的に追及されることになる。

正しい経歴を備えた将軍は、必ず正しい判断を下すから、部下が「運悪く」将軍の期待を裏切らない限り、物事は常に成功する。 こういう前提で「責任者捜し」が行われると、今度は誰もが徹底的に「判断」から逃げまわるようになる。

目に見える努力だけを評価しながら組織を回すと、結果として「判断しない」人だけが生き残る。 部下に「空気を読んで」もらう、上司は絶対に自分の判断を示さない、奇妙な文化が組織を支配して、 判断の機械は失われていく。

見えないものを評価する

米国流の、「運の悪い将軍は左旋」というルールは理不尽だけれど、「運」という、今はまだ目に見えないけれど、 厳として存在する何かを考慮の対象に含めるからこそ、「判断」できない将軍は、そもそも評価の入り口に立つこともできなくなってしまう。

努力して、素晴らしい経歴を積まない限り、そもそも人物評価の入り口にすら立てないけれど、 「運」を前にすれば、経歴の正しさだってパラメーターの一つに過ぎないから、「結果」を出していかないかぎり、 「優秀な人である」という評価には意味がなくなってしまう。

見えないものを考慮の対象に入れることで、結果として「判断しない人」が生き残る、いびつな文化が排除される。

世の中にはたしかに、「運のいい人」と「運が悪い人」というものがあって、「運がいい人」というのは、恐らくは何か、 運の悪い人にはない生活習慣を無意識に実践していて、それが成功につながっていて、今はまだ、その何かが明らかになっていないのだと思う。

「運試し」は理不尽だけれど、上に立つ人であればあるほど、「運のよさ」というものはしっかりと考慮に入れる必要があって、 それは官僚であっても政治家であっても、「運が悪い人」は、上に居座ってはいけないのだと思う。