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2010.10.29

正直の向こう側

「正直のありよう」というものは、語る側と調べる側とで、意味するところが全く異なってくる。

独りよがりな「正直」を貫くと、「相手は自分の意見を全く聞き入れてくれなかった」と絶望することになるし、 「お互い正直ベースで生きましょう」と親しげに声をかけてみせることが、相手の脆弱性を突く手段にもなってくる。

正直の意味には幅がある

漠然と「いい人」であるための正直というありかたと、脆弱性対策としての正直とは、同じ単語でも、意味が全然違違ってくる。

取り調べを受ける立場になった人たちが、前者の「正直」を貫こうとすると大変なことになる。

訴訟に巻き込まれたり、刑事事件の取り調べを受けた人のインタビューでは、「自分たちの意見を全く聞き入れてくれなかった」とか、 「事実のごく一部だけしか取りあげてもらえなかった」といった感想が、しばしば語られる。

あれは恐らく、調べる側が「事実をあえて無視した」わけではなくて、正直という言葉の解釈が、お互い全然違うからなんだと思う。

調べる側は、相手に向かって「正直にやりましょう」と声をかける。調べられる側もまた、 正直に、「いい人」であろうとして、質問されたことに対して、しばしば事実を臆測で補って、迎合的な答えを返してしまう。 調べる側からすれば、自分たちにとって迎合的な言葉というものは、そのまま動かぬ証拠になるから、 それを積み重ねていくことで、最後には被告が思いもよらなかった結論を、被告自身の口から引き出すことができてしまう。

取り調べを受ける人は、だからこそ頑なに「正直でいる」必要がある。その代わり、その「その正直さ」は、 普段自分が意識しているそれとは全く異なったものになってくる。

事実は一部しか見えない

刑事事件に代表される「取り調べ」というものは、化石を発掘するようなイメージの、 「事実を発見する手段」というよりも、むしろデータベースの脆弱性を突破するような、 相手にあえて不正な入力を行うことで、「自分たちに必要な言葉を相手の口から言わせる技術」であると考えたほうがいいのだと思う。

事実というものは立体をしていて、ある人の立っている場所からは、事実の一面を見ることしかできない。

「正直である」態度というものは、事実という立体の、「見えない裏側を臆測してみせる」ことではなくて、 「こちらからは裏側が見えません」と宣言することなのだと思う。ここがたぶん正直の誤解を生む元になっていて、 人間の脆弱性になっている。

取り調べを受ける立場の人からは、事実のある側面しか見ることはできない。人はみんな見解というものを持っていて、 断片的な事実から、「恐らくはこうだろう」という全体像を構築している。

取り調べを行う側は、逆に言うと、事実の裏側が見えているけれど、反対側は、相手の言うことを信じることしかできない。 立場が違えば、共同作業で「事実」を組み立てることになるけれど、お互いの見解はしばしば大きく隔たって、 妥協の余地は見つからない。

訴訟というものは、決定的な見解の相違を強引に解決するための手段であって、事実の一側面が相手に確保されてしまっている以上、 見解の溝は埋められない。譲歩の余地がそもそもなかったり、お互いの見解が極端に異なっていたときには、 今度は見解の根拠となっている事実それ自体が攻撃の対象になってくる。

「記憶にありません」という言葉

軍事裁判で証言するときには、「知らない」という言葉を使ってはいけないのだという。 たとえ自分が忘れていても、「知っているはずだ」という証拠が出てきたら偽証罪になってしまう。

分からないことに対しては、だから「記憶にない」という言葉を返す必要があって、 そうすれば証拠があっても偽証にならない。

ある事実があって、自分がそれを知らないときには、「それに関する記憶がない」ことだけが正直であって、 「聞いていない」とか「知らない」という言葉は、「聞く」とか「知る」という動詞の分だけ、臆測が、「嘘」が入ってしまう。

「知りませんか?」と問われて、「記憶にありません」というのはなんとなく居心地が悪くて、親しげな返答を変えそうと思ったら、 どうしても「知りません」という言葉を使いたくなってしまう。このことは、取り調べを行う側にとっては、相手の脆弱性に他ならなくて、 質問は常に「知りませんか?」とか、「聞いていませんか?」という投げかけを通じて行われることになる。

「人には親しい印象を持たれたい」という脆弱性を利用して、取り調べの相手に、「見えない裏側」を臆測で語ってもらうように誘導して、 その人が語った「裏側の情景」と、実際に見えている裏側の情景との矛盾を証明することで、「相手は嘘をついている」という結論が導き出せる。 嘘をついた相手の見解は、もはや信用されることがないから、決定的な見解の対立は、相手の見解を崩すことで、強引に解消することが出来るようになる。

脆弱性対策としての正直

ある事例に対して、自分がどれだけ妥当な見解を持っていても、それが相手の見解と異なっていたのならば、トラブルは解消できない。

見解が決定的に対立したときには、根拠になっている事実それ自体が書き換えられる可能性が高いから、 自分の立場を守るためには、「誠実に見解を語る」だけでは不足で、事実の改変を意図した質問に最大の注意を払って、 あらゆる言葉に対して「正直」を貫く必要がある。

「正直」という管理ポリシーは強力だけれど、運用を間違えると、脆弱性を突かれてしまう。

「正直に語る」ためには、自分が今どんな質問を受けているのか、注意深く聞かないといけない。 「聞くこと」は、簡単そうに見えて非常に難しい。本来は最も大切なことである「注意深く聞く」ことは、 たぶん取り調べの現場では、なかなか守られない。

質問に対する対策には、特定の意図を持った質問を最初から受け付けないような「根本的対策」と、 ある質問を受け入れざるを得ないときに、その影響を最小限に抑えるような「保険的な対策」とがある。

根本的な対策を行うためには、特定の質問をブラックリスト化して、それを最初から拒絶すればいい。 「そのまま答えてはいけない質問」には、いくつかの代表的なパターンが決まっているから、 質問を聞きながら、質問者の意図を「診断」するよう心がけると、集中力を保つ助けになる。

保険的対策は、意図を無効化するほどの効果は期待できないものの、 何かの事情で意図を受け入れざるを得ないときの、言わば「セーフティネット」として機能する。 「記憶にありません」が代表だけれど、流ちょうな会話をあえてあきらめて、 特定の言い回しを何度も繰り返してみせることで、質問のダメージは最小になる。

2010.10.26

創造的安普請

創造というものは「何でもない」場所から生まれる。

今の時代は何でもあって、手に入らないものなんてないはずなのに、「何でもないもの」の居場所というものは、どんどん失われていっているような木がする。

創造の生まれる場所

たとえば「日本版シリコンバレー」みたいな、何か創造性を期待するような場を本気で作ろうと思ったならば、 「きれいなオフィスを国費で安価に提供する」ような発想をしてはいけないのだと思う。

国がどこかを開発して、こぎれいなビルを並べて、安い家賃で貸し出したところで、新しいものは創造されない。 きれいなビルの代わりに、どこか土地の安い、不便な広場を買い上げて、廃棄寸前の貨車だとか、 コンテナみたいなものを大量に並べて、「水道と電気、無線LAN だけ用意してやるからあとは自己責任」みたいな場所を用意したほうが、 「創造」はより近くなる。

アップルはガレージ生まれだし、ホールアースカタログが編集されたのはたしか貨車だったし、 インターネットの先駆けになったのは、MIT で一番ボロッい木造研究棟だった。

自分にコントロールできる場所

創造というものは、しばしば「ボロい場所」から生まれるけれど、単なるボロ屋と、 「創造的安普請」とを隔てているものというのは、その場所を自分でコントロールできるという感覚なのだと思う。

家賃がどれだけ安くても、たとえばそこが厳格に管理された賃貸住宅で、 壁に穴を空けたり、ドアを外したりするだけで退去を命じられるような場所であったなら、その場所から創造は生まれない。

放置されたも同然のガレージや、あるいは中身を自由に改造してもいいコンテナというものは、 そこに住む人が、その空間を自分の意のままにコントロールできる。

きれいなオフィスに比べれば、貨車やコンテナは、見てくれも居住性も悪い物件だけれど、 「自由にできる」というメリットは、何か創造的なことを行うときには、とても大切なものになる。

自動車の免許を取ったばかりの頃、「日本の道には、お金を払わずにちょっと止まって休む場所がない」ということに気がついて、愕然とした。 もちろん慣れてしまえば、休む場所なんていくらでも見つかるんだけれど、それはたとえば「コンビニエンスストアの駐車場を無断利用する」だとか、 「歩道に車を乗り上げる」だとか、あえてルールを破るようなことをしないと、なかなか手に入らない。

初心者マークのドライバーにとっては、日本の道路というものは、法律で厳格に管理された空間であって、 ドライバーにコントロールできる場所というものは、自分が運転している車の中にだけあって、道路の上にはどこにもなかった。

創造は間隙から生まれる

創造は、歴史の間隙から生まれるのだと、立花隆が昔何かで書いていた。歴史上の人物を追っていくと、 たいていどこかに記録に載らない期間があって、 そうした空白期間の後、何かすごいことをしでかすのだと。

間隙の期間というものを、「自分にコントロールできる場所」で過ごすことが創造の根っこであって、 コントロールとは要するに、「開けたいときに壁に大穴を開けられること」なんだと思う。

そういう場所は、だからこそこぎれいな賃貸住宅では無理で、実家でもやはり難しくて、 やっぱり「誰のものでもない、自分だけの場所」というものが必要になってくる。

「何でもないもの」が減ったような気がする。

それは壁に穴を開けてもいい下宿もそうだし、 FR時代のスターレットや、サニートラックみたいな車も、あれは車であって、 同時に「何でもないもの」でもあって、改造する人、山で転げ回って遊ぶ人、 レースに出る人、同じ車がいろんな用途に使われて、あれに乗る人たちは、 たしかに車をコントロールしているように思えた。

今のスポーツカーは、昔の乗用車なんかとは比較にならないぐらいに高性能だけれど、 「スポーツカーをスポーツカーとして乗り回すこと」は、それは説明書きどおりの使いかたであって、 コントロールとは遠い。

「創造的安普請特区」なんて、一歩間違えれば犯罪の温床になりうるし、「何でもない車」というのは、 しばしば同時に危険な車でもあって、今の時代にはやりにくいのだろうけれど。

2010.10.24

事実と見解について

事実と見解、状況のコントロール、その周辺の言葉について。

見解の一致は目標にならない

ある事実があって、お互いがそれを共有した上で、その事実に対する見解を持つ、この状態が、コミュニケーションが目指すゴールになる。

事実が「これ」と定まったところで、立場や目的が異なっていれば、見解は一致しないことが当然であって、見解の一致をみた状態というものは、 交渉が成功した状態というよりも、むしろ偶然に生じた例外的な状態なのだと思う。

見解が一致したほうが、もちろん合意を形成しやすいけれど、異なる見解を強引に一致させようと思ったならば、相手を「説得」する必要がある。 説得というものは、見かたを変えればどうしても虚偽と受け取られてしまう可能性があって、病院のような、お互いの間合いが近い、 何度でも交渉をやり直す機会が得られるような場所では、「説得」はいい結果を生まない。

状況のコントロールとは何か

状況のコントロールというものは、2つの大きな部分から構成されている。一つが「そこにある事実に対して自分の見解を持つこと」であって、 もう一つが「見解の確立のために、事実のコントロールを行う」ことになる。

そこで生じた一連の事実を共有して、自分がその事実に対する妥当な見解を示すことで、状況はコントロールされる。 お互いの目的が異なる以上、見解が一致しないことは珍しくないけれど、事実が共有されている限り、合意を生む努力は無駄にならない。

ところが見解というものは、土台となる事実に変更が加えられると、意味を失ってしまう。見解が妥当である限り、状況はコントロール可能だけれど、 共有されている事実の一部が削除されたり、あるいは「新しい事実」がそこに付け加えられてしまうと、コントロールは失われてしまう。

状況のコントロールを獲得するためには、事実に対して自分自身の妥当な見解を示してみせることとは別に、 その見解の土台となった事実が変更されないよう、お互いに共有された事実に対する削除や付け加えに注意し、 それを拒否してみせる必要がある。

見解を作るために聞く

昔から病院の現場では、こじれることになりそうな事例ほど、とにかく検査、検査、検査を、という対策を、習慣的に行っていた。 医学的にはこれは「間違え」だし、普段はこれをやろうとして、むしろ「馬鹿」と怒られたりするのだけれど、 同業者の多くは、これに納得してくれるのではないかと思う。

こじれそうなときに、どうして検査を乱発するのかと言えば、たぶんあの頃の自分たちは、一刻も早く「自分の見解」を作りたかったからなのだろうと思う。

症状だとか、患者さんの状態変化だとか、一連の事例というものに対して、 「それはこういうことだと思います」と、自分たちの側の見解を、ある程度の説得力を持って組み立てられれば、 困難な状況であっても、ある程度の余裕を持って対処が出来る。

病院側の見解が作られる前に、相手の側から「こういうことなんじゃないのか?」と突っ込まれて、 この時点で医師が自分の見解を示すことが出来ないと、話がこじれてしまう。

見解の不在はトラブルを生む

状況が悪いときには、誰もが殺気立つ。患者さん達の側から、 「こうだろう?」という攻撃的な問いが出されても、自分たちの見解がないときには、対処が難しい。

問いに対して、「分かりません」と答えるのは正直なのだけれど、対応が後手に回る。

暫定的に、「違います」と答えてしまうのはよく陥る誤りで、これは状況を拮抗させようというあがきの裏返しなのだけれど、 自分たちの見解がないままに発せられた、無目的な「違います」は、状況をむしろ悪化させてしまう。

見解の不在が招いた悪い状況にあって、患者さんの側から 「こうだろう?」と問われたときの正解は、やはり「調べましょう」なのだと思う。

医学的に、その「調べ」が妥当なのかどうかはともかく、「こう」と示されたその見解が正しいのかどうか、 それを検証することを約束できなければ、話しあいは建設的な方向に進めない。

このあたりは、医学的な正しさと、患者さんの要望との衝突が常に起きるところなのだけれど、たとえ真夜中であっても、 元気な若い人が「CT撮って下さい。脳出血かもしれないから」と歩いてやってきたなら、交渉のルールにおいては、 やはりCTを撮ることが正解なのだろうと思う。

医学的には、それは間違いかもしれないけれど、上の人たちが、ならばCTをオーダーする以外の、 患者さんを納得させて、研修医がすり切れないようなやりかたを提案できるのかといえば、無理だと思う。

説明は見解形成のプロセス

「聞く」とか「調べる」という行為は自分の見解を作るための工程で、一方で患者さんに対して「語る」とか「説明」するのは、 共有した事実から、相手の側にも見解を作ってもらうための工程に相当するのだと思う。

自分の側が見解を示せないとトラブルになるけれど、相手側の見解が不在のままに状況を進めることも、同じぐらいに悪い結果を生む。

治療が上手くいっているときには、見解の不在は、それほど大きな問題にならない。状況を追認していれば、 患者さんはたいていの場合落ち着いて、落ち着いたのならば、漠然と丁寧な対応を心がければ退院に持って行ける。

患者さんの側に、事態に対する見解が作られないままに治療が進んでしまうと、悪くなったときにトラブルになる。 見解の不在はたいていの場合、医師に対する全面的な信頼という形で表明される。

この状況は、上手くいっているときには楽なのだけれど、治療の結果が、患者さんが漠然と思っていた結果と異なっていたときには、 「信じていたのに期待を大幅に裏切られてしまった」という感想を生む。これが本当に怖い。

真夜中の外来に、明らかに元気な子供さんを連れてきて、「先生のことを全面的に信頼していますから、 この子に大丈夫と言ってあげて下さい」などと笑顔で求める親御さんというのは、「子供が元気だ」という事実に対して、 自分自身の見解を持っていないから、病院にそれを買いに来ている。

見解の存在しない、一方的な信頼というものは、不信よりもずっと危険な状態だから、患者さんの「見解の不在」というものに、主治医は常に気をつけないといけない。

聞いて調べて説明して、お互いに「事実」を共有して、自分たちの「見解」を作り上げることが出来たのならば、トラブルの可能性は相当に少なくなる。

事実を外乱から守る

事実が共有されている前提で生まれた「見解の不一致」は、トラブルにはならない。譲歩を行えば合意は得られるし、 事実が共有されている以上、どの程度の譲歩が妥当であるのか、お互いの思惑が異なっていても、妥当の範囲は変わらない。

ところが譲歩の余地がそもそもなかったり、お互いの見解が極端に異なっていたりするときには、今度は見解の根拠となっている事実それ自体が攻撃の対象になる。

麻薬系鎮痛薬の中毒になっている人は、真夜中の外来に、文字のかすれた紹介状を携えてやって来る。 外来の主治医にとって、見解を作るために必要な事実というものは、「今その場に来ている患者さんの症状」が全てであって、 「紹介状の真偽」という、別の事実をそこに入力されて、それを受け入れてしまうと、主治医の見解が根拠を失って、結果として話が泥沼化する。

謝罪という道具は、主治医が作り上げた見解の根拠になっている事実に対する、不正な事実の入力を拒否するための道具であって、 謝罪という道具が道具として機能する前提として、抑止力というものが必要になってくる。

訴訟になったり、刑事事件の取り調べを受けた人たちのインタビュー記事を読むと、自分たちの意見を全く取り入れてくれなかったとか、 起きた事実のごく一部だけを取り出されてしまったとか、そんな感想が出てくることが多い。訴訟というものは、決定的な見解の相違を強引に解決するための 手続きであって、相違している見解を崩すために、相手側の弁護士は、事実の削除や追加といったやりかたで、見解の根拠を失わせようと試みる。

訴訟の場や、あるいは外来にごくまれにやって来る「プロ」の人と対峙せざるを得なくなったときには、事実のコントロールに最大の注意を払って、 見解の根拠を破壊されないよう、あらゆる外乱に対して「正直」を貫く必要がある。「正直であり続けるための技術」というものが、 たとえば人質交渉人のやりかたや、訴訟における原告側弁護士と対峙するときの技術であって、両者の方法論は共通している。

米国の訴訟において、原告側弁護士は、しばしば「罠」を仕掛けてくるのだという。「弁護士の罠」というものは、 あれは何かと言えば、「うちのクライアントのために、あなたの見解を吹き飛ばすために、どうかこの事実を認めてくれませんか?」という誘いに他ならないわけで、 そうした誘いというものは、たとえば原則を曲げて、救急外来で麻薬の処方を求めに来る患者さんが使うやりかたと、地続きの技術なのだと思う。

2010.10.21

誤植のお詫びと訂正

販売中の「 内科診療ヒントブック 」という書籍について、以下の誤植がありました。

深くお詫びさせていただくとともに、訂正させていただきます。

誤植箇所は、p.280 の1行目です。

誤) 「喘息の薬」β遮断薬

正) 「喘息の薬」β刺激薬

皆様にご迷惑をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます。

ジェットコースターのパラドックス

もしかしたらパラドックスでも何でもなくて、「こうだよ」という、当然の説明があるのかもしれないのだけれど。

恐怖の使いかたについて。

ジェットコースターの怖さ

ジェットコースターのコースは怖いから、あえて恐怖を楽しみたい人たちがあれに乗る。

ジェットコースターのレールは、それでも上手く作られていて、乗客に恐怖を提供しつつ、理屈の上では絶対に脱線しないような構造になっている。

「脱線しない」という前提があったときに、恐怖が増すと、あの乗り物の楽しみかたが、より多彩になる。

ジェットコースターがより「怖く」なるほどに、叫ぶ人、あえて手を離してみせる人、しがみつく人、ジェットコースターの上であえて暴れてみせる人、 恐怖の表現だとか、楽しみかたに様々な個性が生まれて、状況は多彩へと発散していく。

一方で、たとえばジェットコースターの一番高い場所に、あえて平坦な、水平な一本道を用意して、そこだけ「安全レール」を外した状況を仮定する。

安全レールのないコースターは、下手すると脱線してしまうけれど、コースが平坦なら、それは単なるトロッコ列車と同じだから、よほど無茶をしない限り脱線はありえない。

ところがこんなコースを設定して、「ここは平坦ですが、だれか馬鹿が暴れると墜落します」なんて看板を出しておくと、異次元の怖さが生まれる。

恐らくみんな黙るだろうし、コースがちょっとでも不安定になったり、横風が吹いたりしたら、みんな固まって、コースターにしがみつく。

どちらにしても、ジェットコースターが提供するのは恐怖という刺激であって、安全に設計されたコースにしたって、 ジェットコースターの事故確率は決してゼロになるわけじゃないから、実際のところ「ジェットコースターで死ぬ確率」は、恐らくはそんなに変わらない。

変わらないはずなのに、乗客の振る舞いは、恐怖が増すと、一つのやりかたに収斂してしまう。

恐怖の失敗というものがある

  • イラクの民主化をなんとか進めようと、米軍が必死になるほどに、イラクのテロリストが殺されるほどに、 イラク国民は「米軍出ていけ」で固まって、民主主義の多彩は遠くなる
  • 日本の学校で、先生が「静かにしろ」なんて、どれだけ声高に怒鳴っても、むしろ子供はもっと暴れて、学級崩壊はおさまらない

何かの目的を達成するために、恐怖という道具を持ち出して、意図とは逆の結果がもたらされる。

これは「恐怖の失敗」であって、拡散と収斂、狙うものによってやりかたが異なるのだろうけれど、 同じ「恐怖」という刺激を集団に入力しても、やりかたによって、集団は発散することもあるし、一つに収斂することもある。

何がそうさせるのか、ジェットコースターに何かのヒントがある気がするのだけれど、今ひとつ一般化がやりにくい。

2010.10.20

コンセプトについて

それを嫌う人のことを考える

みんなに好かれるやりかたを目指すと、結局誰からも好かれない。

ある人から嫌われるようなやりかたは、残った人から好かれる可能性が高い。残った人がたくさんいるなら、そのコンセプトは正しいものである可能性が高い。

どこで成功できるのかを考える。

強い相手がいたとして、勝とうとして、自分を鍛えようと考えてはいけない。鍛えるのには時間がかかって、その時間、相手だって鍛えてくる。

勝とうと思ったら、「どこでも勝てる」ようになることを祈るのでなく、「ここでなら勝てる」場所を探すほうが正しい。そういう場所を探し当てて、相手をその場所に追い込むための計画を考える。

捨てたものを強みにする

「僕の考えた最強の○○」は成功しない。

「競合と同性能だけれど努力で安価」も成功しない。

同性能で安価なら、それを達成するために何を捨てたのか、たとえそれが「信頼性」や「安全性」のようなものであっても、むしろそれを隠さないほうがいい。

努力なら、競争に勝っている側がもっと努力すれば、優位は簡単にひっくり返る。

捨てたものがたとえば「信頼性」なら、相手が信頼性を下げて対抗しようにも、イメージが悪化してしまうから難しい。

相手に絶対捨てられない何かを探して、それを捨てて見せることで実現できた何かを強みにできれば、相手はその優位を覆せない。

顧客は常にサボろうとする

「これだけの努力と引き替えに手に入る新しい何か」は、原則通用しない。

それを受け入れることで、何かがもっと楽になるものが、最終的に広まっていく。クリック一つ、スイッチの操作を一つを削ることで、バックグラウンドの仕事量が2倍になっても、それはたいてい、必ず引き合う。

2010.10.14

経験は「どう」に集まる

「何をするべきか」を語れる人は多いけれど、「どうやってそれを実現するのか」を語れる人は少ない。

「何」は一般化して、買い叩かれて、いっぽうで、「どう」を知っている人は生き延びて、 経験や知識というものは、「どう」を知っている人に集まってくる。

売りになる経験のこと

たとえば最近、近所の開業クリニックで「医事職員募集」の広告を出したら、 大学を卒業したぐらいの人たちが30人、ずらっと列をなして集まってきたんだという。

今はもう本当に仕事が厳しくて、田舎だと、立派な学歴を持った人でも、 ある程度安定して勤められる職場というのは本当に少ないらしい。

うちの病院には最近、30代も後半の男の人が2人、新規職員として就職してきた。

2人とも、以前に病院勤めをしてきた人たちで、その頃の病院というのは、ちょうど「DPC」という、 新しい会計制度を導入した頃で、事務長は、「その時に病院にいた」という経験を買ったのだと。

DPCルールは、従来のやりかたと、会計の仕組みが全く変わる。それを導入する施設は、 だからたいてい、最初のうちは混乱するのだけれど、「混乱を知っている」人がいて、 その人が混乱を乗り切る術を知っていたのなら、その経験は本当にありがたい。

こういう状況を指南する「コンサルタント」という人たちはもちろんいるんだろうけれど、 知識それ自体を売りにしなくても、「その時そこにいた」という経験は大きな売りになって、 「どうやればいい」という経験を積んだ人は、前の病院で得た「どう」を生かして、 今度はうちの病院で、更なる「どう」を蓄積するのだろうと思う。

恐らくはうちの施設が募集をかけたときに、もっと若くて、あるいは何か別の資格とか、学歴を持った人もいたはずなのだけれど、 「経験したことがある」ということは大切な強みであって、経験を持つことで、その人にはますます経験が蓄積されて、 経験を持っていない人は、いつまでも経験を得ることなく、年を重ねていく。

「できる」の深度

「私はこういうことができます」という経験は大切なんだけれど、「できる」には深度があって、 浅い「できる」には、あんまり価値が生まれない。

「できる」の深度というのは、「その仕事が上手にできるかどうか」とは少しだけ異なって、 ある仕事を上手に回せる人が、じゃあ深度の深い「できる」経験を持っているかといえば、案外そうでもなかったりする。

自分は研修医の頃から、心臓カテーテル検査が「できた」つもりでいたけれど、大学に来て、実は自分が「できない」ことが分かって、ずいぶん落ち込んだ。

心臓カテーテル検査の「本質」みたいなものは、自分にとってはカテーテルの操作であって、自分はその訓練を積んだのだけれど、 じゃあまわりの人がどう動いているのか、カテーテル以外の道具、レントゲンの設備とか、機材の配置とか、 どう準備して、どう操作して、他の人たちをどう動かせば検査室の運営が上手に回せるのか、全然把握していなかった。

大学の上の先生が要求していた「できる」というのはそういうことで、「どこかに1人で飛ばされたら、そこでダンボール箱一つ、 心電計一つで運動負荷心電図検査を立ち上げて、お金を貯めてカテ室を作ったならば、人を訓練して、 最終的に、自分が部長になってそこで心臓カテーテル検査ができること」というのが、部長の考える「できる」だった。

そういう「できる」は、無目的な熱心さを通じて得ることはできなくて、傍観者としてそこにいたときに、そうなる自分を想像しながら、 メモを取ったり、覚えたりといったことを積み重ねることで、同じ経験でも、質的にははるかに高級なものが手に入るのだと思う。

「こういう経験をしました。こういう感じで仕事をして、こんなことを観察しました」みたいな観察記録を持っておくと、どんな分野であれ、けっこう大きな武器になる気がする。

「どう」は自己増殖する

「こういうことができます」という人に、「じゃあここでやって見せて下さい」と尋ねたときに、 出来る何かを再現するのに必要な道具、人数、人員の質、必要な予算や道具を、その場でスラスラ言えない人というのは、 要するに「できない」のだと思う。

大昔、大学祭の実行委員をやっていて、「お祭りの経験がある人」を見分ける術として教わったのも、こんなことだった。

「イベントを企画したことがあります」という人に、「じゃあここで再現して見せて下さい」なんて質問して、 最初に「何人ぐらいの規模でお客さんを呼びますか?」と問い返せる人は、経験者なのだと。

「何人」が決まると、必要な椅子やテントの数、押さえるべき会場の大きさや、それに必要な予算が決まって、イベントまでの進捗が、一気に決まる。

ここで「どんな祭をやりますか?」と聞くのは、お祭りが好きな素人で、「イベントを運営すること」それ自体が根っから好きな人というのは、 なんというか、イベントの「中身」それ自体にはあんまり興味がなかったりする。

人数と日程が決まって、「次に何が必要ですか?」なんて質問をすると、「模造紙50枚とユニポスカ3ダース、マッキー20本、 布ガムテープ10巻」というのが大学祭の定番で、これがないと、運営室を立ち上げて、会議を開いたり、 おおざっぱなメモを取ったりといった活動が、そもそも立ち上げられない。

「イベントに参加したことがある」人からは見えない、一方で、本当の最初からイベントにかかわって、 しかもイベントを立ち上げることそれ自体に興味がないと絶対に見落とすような、こういう部分の経験を持っている人は、 今度は別のイベントに観客として立ち寄っても、本部の散らかり具合だとか、会場の回しかたを見て、 スタッフの工夫や、頑張りどころ、「ここは足りないな」なんて思った部分があったとして、それが実際のイベントでどうなのか、 答え合わせができるようになる。

根本にある「どう」を知った人は、だから今度は、そこにいるだけで、勝手に経験値が増えていく。

たぶんいろんな業界に、「どう」でご飯を食べている人というのがいて、一見そんなに勉強もしていないように見えるのに、 その人がいないと回らない、そんな人の「どう」を知ることができると、きっと役に立つ。

2010.10.08

メディア化とロボット化

TRIZ の考えかたには、「技術進化には方向性がある」という考えかたがあって、「一般化」と「微細化」、「不可視化」というものが、 代表として挙げられていた。どんな技術であっても、こちらの方向に進化していくことで、人間の振るまいが勝手に進化して、 人が幸福になるような方向に変わっていくのだと。

こうした考えかたは、ずっと正しいと信じていたのだけれど、最近はむしろ、「メディア化」と「ロボット化」という流れが、 これから来るんじゃないかと考えてる。

メディア化

たとえば車というものは、あれは「人が移動する」という本来の機能に、「その場所の情報を提供する」という機能を加えることで、メディア化できる。 視界がえらく賑やかになるし、見せかたを間違えると事故になるけれど、今走っている場所がどういうところなのか、 その近所にはどういうお店があるのか、ディスプレイにそれが刻一刻と表示されることで、移動という行為は、 情報摂取の機会にもなる。

「メディア化」という流れを一般化すると、「人が何かの情報を得ようと考えたときに探しに行くもの」が、 自ら積極的に情報を出してくるような機能を付加することなのだけれど、たとえば冷蔵庫はメディアになる。

肉や野菜に国家規格のRFID タグを付けるだけで、冷蔵庫は、「今自分が持っているもの」を表示することが出来る。 クックパッド連動にすると、「今冷蔵庫にあるもので作れるもの」を、使用期限が近い順に表示することも出来るし、 冷蔵庫自身が、「これがあるともっといろいろ作れます」という、推奨お買い物リストをはき出すことも出来る。

それがテレビなら、あれはたしかにメディアだけれど、たいていの人はたぶん、「何か面白いもの」を探してテレビを付ける。 12チャンネルあるテレビのボタンを押すこと自体、これは探索という行動だから、「何か面白そうな番組」というボタンを一つ作って、 たとえば2ちゃんねるの実況板だとか、mixi のどこか好きなコミュニティで、今盛り上がっている番組を自動的に選んでくれる機能を くっつけると、「メディア化したテレビ」というものが出来上がる。

こういうのを「うるさい」と感じるか、「便利」と感じるかは人それぞれだろうけれど、 「うるさい冷蔵庫」だとか、「面白そうな番組ボタンを備えたテレビ」が出来てしまえば、恐らく人は、そっちの方向から逃げられなくなる。

大昔、病院の検査室が検査データを打ち出すときに、単なる数字だけでなく、それが異常なのか正常なのか、 高値、低値の表示をくっつけるようにしたのだけれど、あれは当初、「医師を馬鹿にしている」なんて、評判が悪かった。 喜んだのは自分たち学生で、いちいち正常値を覚えなくても、何が異常で、何が問題になっているのか、検査データを見れば 分かったから、あれは大いに助かったのだけれど、上の先生たちは、こんなの余計とか、これを出すと学生が馬鹿になるとか、怒ってた。 当時の学生は、見事に馬鹿にはなったけれど、今たぶん、検査データを「数字だけ」で印字する機械を使っている病院はほとんどないんじゃないかと思う。

ロボット化

ロボット化というのは、それこそメイドロボの流れだけれど、人が動くことでようやく実現している何かを、「不可視」に実現するのでなく、 むしろ「そこに人がいる」ことまでを模倣した機械を作ったほうが、恐らくは逆に、人は「それを自分でやっていた昔」を実感できるから、幸せになれる。

たとえばフードプロセッサーを駆使すれば、あるいはもっと単純に、キッチンばさみの使いかたを工夫するだけで、 大概の料理は、包丁みたいな原始的な道具を使わなくても、もっと文化的にやれる。

ところがフードプロセッサーで料理を作るためには、「そもそも今まで包丁を使っていたものを、どうやって機械にやらせるか」という、 かなり戦略的なことを考えないといけなくて、これは「キッチンばさみで料理」の本を読んだときも思ったんだけれど、 包丁で出来ることをはさみでやるためにはいろんな工夫が必要で、たしかに手は汚れないのだけれど、 「なるほど」と、作者の工夫にうなる場面の数だけ、実はこういう機械というのは、包丁よりも不便なのだと思う。

ここをこう、「包丁を持ったメイドロボ」的な、少なくとも包丁の動き、反対側に添える手の動きを模した道具で料理を機械化すると、 人間側は何も考えることなく、料理という手続きを「機械化」出来る。「工夫しなくていい」という要素は、恐らく機構の複雑さを補ってあまりある。

幸福を実感するための不自由さ

たとえば「一般化」した技術というのは、コストカットの地獄に巻き込まれるし、「微細化」というものは、携帯電話がそうであるように、 本来は人の手で組み立てられる「製品」から、全てを機械が行う「印刷物」への変化であって、 これは「一般化」に貢献するのだけれど、一方で、人の仕事を奪ってしまう。

技術がメディア化していくと、それが当たり前のものになるどころか、もっとずっとうるさくなって、メディアである以上、 そこに載せるコンテンツを無限に生成し続ける必要が生まれるけれど、だからこそ、そこで働ける人の数は増えていく。

「不可視化」というのは、「ホウキを持ったメイドロボ」でなく、「掃除のいらない床」を目指す技術のありかたで、 技術者としては、やっぱりこちらのほうが正しいのだろうけれど、これは人の振る舞いを書き換える。 掃除のいらない床の上に住んだ人は、もちろん掃除をしなくて良くなるから便利になるけれど、 「単なる便利」と、「それが無くなったことによる幸せ」とは、ずいぶん違うものなんだと思う。

TRIZ の清貧なやりかたとは対極にある、「富豪的」な考えかたが、恐らくは「メディア化」と「ロボット化」であって、 実は技術というものは、こっちの方向を目指したほうが、お客さんも、作る側の人も、分かりやすい幸せを得られるんじゃないかと思う。

2010.10.07

失敗を生かすということ

「マスメディアの陰謀」で、あまり報道されなかったデモについて考えたこと。

失敗の定義は難しい

思想的に偏った人たちが主導していたからだとか、デモなんて実は珍しくないんだとか、 恐らくは最初から、ニュースで流すには無理があった事例なのだろうけれど、 デモ行進を行った人たちが「ニュースで流されること」を目標にしていたのなら、今回のデモは、一応失敗したのだと思う。

失敗したときの振るまいかたで、それが本当に失敗に終わるのか、それともそこから次を拾うのか、恐らくはずいぶん変わってくる。

失敗したときに、それを誰かのせいにして、「自分たちはすばらしいことを発信しているのに、誰かの陰謀で、あるいは誰かが無能に過ぎるから、 自分たちのすばらしさが伝わらなかった」なんて総括すると、失敗は、本当に単なる失敗として終わってしまう。

失敗の中からだって、おそらくはたくさんの成功を拾い出せるのだと思う。

今回たとえば、デモを行って、2000人という、たくさんの人たちが集まって、その人たちの行動を引っ張ることが出来た。

デモに行くのは大変で、自分の時間を1日潰すから、これはもう「通過儀礼」であって、デモを主催した人は、 デモこそ失敗したのかもしれないけれど、通過儀礼を経た、実際に動いてくれる2000人という、それこそデモの成功なんて 単なる通過点になるような、大きな成果を手にしたのだと思う。

2000人という成果を使って、次のデモを企画するのでもいいし、署名活動や募金活動みたいな、別の何かを考えることも出来る。 「動いてくれる2000人」という力があれば、どこの政治家だってそれを無視することは出来ないだろうから、 デモを主催した人が出向けば、少なくとも政治にかかわる人たちは、必ず話を聞いてくれるだろうし。

「これはメディアの陰謀だ」なんて憤るのは面白いのだけれど、せっかく集まった2000人という力を、 「陰謀」みたいなちんけなもので消費してしまうのは、逆にすごくもったいない気がする。

メディアは動かない

たとえば昔、iモードをNTT が仕掛けたときには、最初は無視されたんだという。

NTTは誰もが知っている大企業だし、企画をまとめたのは、リクルートという、メディアを知り抜いている会社から来た松永真理さんだった。 iモードは大成功した企画であって、このプレゼンテーションが成功しないわけがなかったのに、最初のプレゼンテーションは、 見事にメディアにスルーされて、NTTはお通夜状態だったんだという。

iモードのチームは、ここから反省して、もっと大々的なパブを打って、たしか広末涼子(うろ覚え)を呼んで、 iモードの技術や思想でなく、女優さんを取材の目玉に据えることで、ようやくメディアはやってきた。

今回のデモ行進にしても、事前に告知を行ったらしいけれど、それでもメディアにはたくさんの告知が来るし、 「売り」になるような人が来ないとか、逆に来ちゃいけない人が来てたとか、実は「渋谷のデモ」なんて決して珍しくないとか、 メディアの動かなかった理由というのは、陰謀論以外にもたくさんあるのだろうと思う。

こういう失敗は、だからこそ「失敗という経験」が手に入る最高の機会であって、そこから学んで次を目指すと、それはたぶん、陰謀論より役に立つ。

部分の成功は目的達成より価値がある

目的が達成できなかったときに、たまたま得られた部分的な成功は、もっと伸ばすべきなんだと思う。

今回のイベントについては、たとえばCNN の取材が入ったわけで、それを陰謀論の補強に援用するのは、いかにももったいない。

海外メディアだけが報じたおかげで、このデモは、結果として「CNNお墨付」になったわけで、 CNNにだって日本語をしゃべれる記者もいるのだろうから、こういうときにはすかさず、丁寧なお礼状を書いて、 出来れば今度は、主催者の側に取材に来てもらえたのならば、これは大きな足がかりになる。

今回のデモについては、必ずしも失敗じゃないどころか、むしろ部分的な大成功のかけらがたくさん得られているんじゃないかと思う。 思想信条の是非はさておき、せっかくのかけらを生かさないで、「俺たちは正しいのに、陰謀のせいで分かってもらえない」で終わらせてしまうのは、いかにももったいない。

2010.10.01

人型ロボには意義がある

人型ロボットというものは、リアルを追求したSF世界では、しばしば無意味の象徴として描かれるけれど、 ロボットが安価になった未来においては、むしろ人型であることの利点というものが、人型の欠点を上回ることになるのだと思う。

ロボットコンテストのこと

今年のロボットコンテストでは、「ブロックをピラミッドに積む」という課題が競われて、中国のチームが圧勝したのだという

ブロックを積み上げるという課題に対して、他の参加チームはみんな、自由に動かせる車台に、 操作できるアームを積んだようなロボットを提案したけれど、中国チームが作ったロボットは、 移動可能なロボットと言うよりも、むしろ精密な投石機のようなものだったのだと。

ルールブックに書かれていることを良く読んで、様々なやりかたを競わせて、試行錯誤を重ねた結果として、 優れた成績を上げた中国チームのすばらしさは疑いようがないけれど、ロボットにそこまで興味を持っていない人が 中国チームのロボットを見たら、あるいは「こんなのアシモにやらせればすぐだよ」という感想を持つかもしれない。

現時点では、アシモにはそこまでの性能はないだろうし、コスト的にも全く引き合わないだろうけれど、 ああいう人型ロボットが安価になった未来には、「アシモにやらせれば」と誰もが思いつけるということが、 人型ロボットの得難い長所として生きてくる。

専門特化と汎用性

たとえば「掃除を楽にやりたい」という問題に対して、ホウキを持ったメイドロボットを想像するのは間違いで、 技術者だったら、「掃除のいらない床」を想像して、それを目指して設計図面を引かないといけない。

問題の全体像を想像して、先入観にとらわれないで、それに見合った最適なやりかたを考えることで、 優秀な技術者は、シンプルな部品を組み合わせて、びっくりするような解決策を発明する。

技術者の考えかたとして、こういうスタンスは間違っていないと思うんだけれど、これから先、 ロボットの低コスト化が進んだ未来には、逆に「部分を複雑化することで、全体の設計をシンプルにする」流れ というものが生まれてくるのだと思う。

アシモに比べれば、産業用ロボットの動作というものはシンプルだけれど、いくつものロボットをラインとして組み合わせることで、 工場は、複雑なプロダクトを大量に生み出すことが出来る。

ところが精緻な生産ラインを組むためには、熟練した技術者が必要で、精密に設計された生産ラインに、 他のものを作らせるのは難しい。大量生産というものが好まれなくなって、そのくせコストカットの圧力が高まると、 「熟練した技術者」のコストというものが、価格競争の足を引っ張る。

たとえば車1台を作るのに1000人日の工数がかかるとして、これをロボット化するときに、 「アシモを1000人雇いましょう」なんて提案したら、現代ならば「馬鹿」と怒られる。

ところがアシモを1000人雇ってしまえば、ある日は車、翌日は家具、来週からは飛行機の部品なんて製造が、 手順書を変えるだけで出来るようになる。部品の移動や、ラインの組み替えは、アシモに歩かせればいい。

昔見たテレビ番組では、「足はついていないのですか?」と質問したユーザーに、ロボット技術者の人が 「あんなの飾りです」なんて答えていたけれど、足にもやっぱり、役割がある。

「手仕事」である製造業には、たしかに足はいらないかもしれない。人型ロボットの足というのは、 だからしばしば単なる飾りになってしまうけれど、足を見た人は、「移動」という発想をわざわざ行わなくても、 足を見れば、ロボットに歩かせることを思いつく。人型の利点というのは、この部分にあるのだと思う。

想像に必要な労力

「ホウキを持ったメイドロボ」と、「掃除のいらない床」と、暫定的な正解を思いつくために必要な労力を考えたときには、 メイドロボを想像するほうが、恐らくはより少ない労力でいける。

ロボットが極めて安価になった未来において、もしかしたら最もコストがかかるのは、正解を思いつくために必要な労力なのだと思う。

日本はしばしば「アイデアはタダ」なんて扱いをするけれど、アイデアを出して、検証するためには、本当は莫大なお金がかかる。 まともにやるにはお金がかかって、今回のロボコンで優勝した中国チームの研究室には、試行錯誤の結果廃案になった、 たくさんのロボットが山になっているんだという。

大量生産されれば、ロボットの価格は下がる。もしかしたら遠い将来、「安価なメイドロボ」のほうが、試行錯誤で最適な解答を探索するよりも、総コストは安くなる。

人型ロボットが人型である意味というのは、恐らくは想像に必要な労力を最小に出来るのが、人型だからなのだと思う。 「こんなことをしたい」と誰かが想像したときに、ロボットが人型でありさえすれば、「こんなこと」が即座に実現できる可能性が高くなる。

ガンダムみたいな人型ロボットよりも、むしろ両腕にもっと複雑なマニピュレーターを備えたガンタンクみたいなロボットのほうが、 もっと複雑な仕事をこなせるのかもしれないけれど、ガンタンクではやっぱり、主役にはなれないのだと思う。

知識を持たない素人が、「こういう作業をやらせよう」なんて考えたときに、ガンダムだったら、何が出来て何が無理なのか、 人型を見るだけで、かなり正確な想像が出来る。ガンタンクの足はキャタピラで、人より複雑なロボットアームは、 こんどはできることが多すぎて、ユーザーが想像するのに必要な労力を、かえって増やしてしまうことになる。

デザインというものは、想像力のインターフェースになる。

人間は、生まれたときから「人型」のデザインを使いこなしてきた。人型の使い途というものは、恐らくは最も想像が容易なものであって、 誰にでも使える汎用のロボットを考えるときには、だから人型であることに、大きな意味がある。センサーは「頭」にあって、頭は「首」に乗っていないといけないし、 手は2本、足は2本、関節の自由度も、人間に合わせることで、ユーザーの使い勝手は最大になる。

人型ロボットが濶歩する遠未来という光景は、必ずしも荒唐無稽なものではないのだろうと思う。