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2010.09.30

チームワークについて

ミスというのはなるべく素早く発見されるべきで、ミスを見つけたら原因 を探して、再発が起きないように、病棟のルールを改善していかないといけ ない。

ミスを素早く発見するために欠かせないものが「チームワーク」で、恐ら くはチームというもののありかたは、スポーツのそれと、職場のそれとで は、目指す方向が異なってくる。

スポーツのチームは弱点を隠す

たとえば野球やサッカーのチームなら、「チームを構成する誰かのミスが、 別の誰かによって暗黙のうちにフォローされるような状態」が、「いいチー ム」と表現される。チームには長所と短所とがあるもので、短所を相手に知 られたら、いいことはあまりないだろうから。

医療の現場で、こういう「いいチーム」を目指してしまうと、恐らくはい つか、とんでもない災厄を引き起こす。

病棟に、ミスの温床になるような構造とか、習慣があったとして、こうした「いいチーム」はたぶん、誰かがそれをフォローしてしまうから、根本的 な原因が浮かんでこない。

チームの「監督」に相当する立場の人は、状況が上手く回っているうちは、 安穏としていられるだろうけれど、問題がいよいよ隠蔽しきれなくなったと きに、危機的な状況をいきなり伝えられて、対応しようにも、手遅れになっ てしまう。

結果優先で、それまでは「チームワークのたまもの」として、落ち着きが 維持されていた状況は、いざ事故が起きて、一つ一つの手続きについて検証 していくと、恐らくはそうした「チームワーク」は、「組織ぐるみでの隠蔽」 という言葉に置き換えられる。

実社会でのチームワーク

医療もそうだし、恐らくは実社会のたいていの組織がそうなのだろうけれ ど、ルールというものは、変更できる。

それがサッカーみたいなスポーツならば、監督は、ルールだとか、グラン ドの状態について口を出す権利を持たないけれど、実社会での「監督」は、 たとえば選手の防御が弱い場所があったら、そこに落とし穴を掘るように 指示を出せるし、攻撃をもっと有効に行おうと思ったら、どこかに土を盛っ て、グランドに山を作ることだってできる。

実社会での「監督」の仕事、あるいは目指すべき「いいチーム」というもの は、自分たちの強みや弱み、あるいは「グランドをこうしてほしい」といっ た要望を、一刻も早く「監督」に伝達できるような組織なのだと思う。伝達 を受けて、監督が素早く判断して行動することで、状況は有利に進む。

「グランドを自由にいじっていい」ならば、監督の「柔軟な戦略」というも のは、意味を失う。グランドを、自分の得意な戦略に合わせて、穴を掘った り山を作ったりすればいいだけのことだから。

こういう状況で、「柔軟な」人が上に立ってしまうと、今度はその柔軟さが 仇になる。方針が決まらないから練習ができなくなるし、問題点を監督に報 告したとして、それが監督の方針にとって本当に問題なのか、柔軟すぎて、 選手には決定ができなくなってしまう。

頭脳派の監督が、柔軟な戦略のもとに、結束したチームを手足のように操 る、そんなやりかたが求められる、スポーツという世界は、あえてそうなる ように、ルールを厳しく制約された例外的な状態であって、実社会の仕事 に、スポーツのチームで使われる考えかたを持ってくるのは、間違っている のだと思う。

2010.09.25

見解の否定と見解の相違

同じ意見の対立であっても、相手の見解を否定することと、相手との「見解の相違」を表明することでは、 意味あいが全く異なってくる。

危機管理の側面からは、衝突は、常に「見解の相違」を取ることが望ましくて、恐らくは、 ある事例に対して、自らの見解を持って臨める人というのは、そんなに多くない。

事実と見解を分離する

患者さんとのトラブル事例において、「ご家族の見解が病院側に一方的に否定された」り、あるいは逆に、 「病院側の見解が、あたかも全ての事実であるかのように伝えられた」ことが、原因の根本になっているのだと思う。

その時実際に起きたことと、その時お互いが感じたこと、「事実」と「見解」というものは、交渉の席に、 一緒に並べられないと、恐らくはトラブルを生む。

訴訟になるような事例では、ご家族はしばしば、「事実が知りたい」というコメントを発信する。 事実というのはしばしば、「ご家族がそう思いたかったこと」であることが多いのだろうけれど、 ご家族の出した見解というものを、単に否定して見せたり、あるいは病院側の見解を、 あたかも事実であるように押しつけたりしてしまうと、交渉のテーブルに、ご家族の見解が 取りあげられる機会がなくなってしまう。

起きた事実をお互いに共有して、お互い相違する見解をテーブルに並べることで、 ようやく今度は、病院側は、謝罪の基準と責任の基準を作ることができる。

共有された事実に対して、ご家族が不満に思う場所があったのならば、その不満に対して、 病院側は謝意を表明すればいいし、病院側が示した見解の中で、「医学的に妥当でない」部分が あれば、その場所について、責任の表明を行えばいい。

謝罪において、「謝意の表明」と「責任の表明」とは区別される必要があるけれど、 事実の共有と、見解の表明とをそれぞれ区別して、同時に提示することで、両者を行う根拠が決まる。 どこまでが謝意で、どこからが責任なのか、どの謝罪までが正当で、どこから先が不当な要求なのか、 ものさしが決まると、意志決定は加速する。

「事実と判断とを峻別する」ことは、戦争を行うときの基本だけれど、このルールというものは、患者さんに何かを説明するときにも、 何かを謝罪するときにも、あるいは法廷を戦っていくときにも、同じやりかたが徹底されないといけないのだと思う。

拮抗してから譲歩する

相手の側が、何らかの意志を通そうと試みて、自分たちの側がそれを受け止める、交渉ごとには定石というものがあって、 意志を受け止めて、自分たちの側も見解を表明して、お互いに拮抗した状態に持っていくところまでは、 定まったやりかたが決まっている。

ぶつかって、拮抗して、このあとで「勝つこと」を目指すのは、病院においては間違いなのだと思う。 「勝つこと」は次善であって、正解は「自らの見解に基づいて負けてみせること」であって、 「勝たされてしまうこと」と、「相手の見解に基づいて負けてしまうこと」とは、どちらも悪い結果しか生まない。

長く入院している患者さんに、そろそろ退院の準備を、なんてお話しするときに、しばしばご家族は、 「もう少し長く置いて下さい」なんて返事を返す。それをそのまま否定してしまうと、今度は「腕に擦り傷が」とか、 「入院したのにむしろ動けなくなってしまった」とか、意志に不満を重積して、もっと大きな力で押してくる。 力ずくで押し返すと、賭け金は一気につり上がって、ろくでもないことになる。

基幹病院級の施設はともかく、一般病院だと、入院をたとえば1週間、療養病棟で延長すること自体は、 その気になれば何とかなることが多い。ただしその決定を、「入院を長くすれば、それだけ病状は良くなっていく」 という、ご家族の見解に基づいて行ってしまうと、今度は退院のタイミングが決められなくなってしまう。

トラブルを回避しながら、次につながる譲歩を行うやりかたというのは、たとえば「○○さんの病状は、 教科書どおりの治療を行った結果として、今は安定していると考えています」なんて、病院側の、 医学的に妥当な見解をまず表明した上で、「リハビリテーションを1週間だけ行って家に帰りましょう」とか、 「1週間という時間を使って、在宅のサービスを入れるようにしましょう」とか、あくまでも医学的に妥当な、 主治医自らの見解に基づいて、何かを決定した、という宣言を行うことなんだと思う。

結果として行われたことは、これはもちろん患者さんのご家族に対する譲歩なんだけれど、 こちらの見解に基づいて行われた譲歩を相手が受け入れることで、結果として、病院側の 「医学的に妥当な見解」というものが、ご家族に受け入れられた形に持って行ける。 1回の譲歩で「次」の可能性を閉ざすことができて、けっこう上手くいく。

見解の不在がトラブルを生む

利害が一致しない以上、同じ事実に対して、見解は無数に生まれて、「見解の相違」というものは、至る所に発生する。

見解の相違それ自体は、だから珍しくも何ともないものだから、切り返しかたや譲歩の引き出しかた、 譲歩することで得られるもの、だいたいパターンが決まっていて、定められた手続きに基づいている限り、 トラブルは大きくならない。

グダグダな状況は、「見解の相違」よりもむしろ、「見解の不在」から発生する。

何かのトラブルを受けて、えらい人はしばしば、現場を前に、報告を受けた事実関係を朗読する。 事実を語って、今度は相手側の見解を語って、「こういう誤解のないように、現場は気をつけて下さい」なんて、「指導」を行う。 これでは残念ながら、指導をする人たちは、実質なんの仕事もしていない。

「ご家族の見解は誤解に基づいている」というのは、見解に対する単なる感想であって、自分たちの側が、 じゃあ同じ事例に対してどういう見解を持って臨めばいいのか、見解というものは、本来は一番上の人自らが 提示して、それが現場に共有されないと、何をどう判断していいのか、基準を作ることができなくなってしまう。

見解の不在がトラブルを生んで、「上」はしばしば現場の不作為を叩いて、相手の側もまた、 直接対峙した現場を叩く。結局一番立場の弱い現場が悪者になって、「上」のプライドは慰撫されて、 万事丸くおさまって、状況は何も変わらない。

責任が重たい昨今、「何も決めたくないけれどどうにかしたい」のは、たしかによく分かるんだけれど。

2010.09.20

泳ぎかたと溺れかた

本当に溺れている人は、溺れているというよりも、むしろ静かに沈んでいく ものなんだという。

それを体験したことのない人が「こうだろう」と想像したことと、実際それに遭遇したときに起きることは しばしば異なっていて、見張る側は、もちろんそれに気をつけたり、実際に起きることに即した対策を 行わないといけないのだけれど、「溺れる側」の人は、泳ぎを習うその前に、「正しい溺れかた」の 講習を受けてもいいんじゃないのかなとも思った。

泳ぎかたと溺れかた

高校の体育の授業では、柔道とラグビー、スキーについては、それぞれ受け身のやりかたや、タックルをもらったときの転びかた、 スキーを履いた状態での転びかたを、まず真っ先に習った記憶がある。小学校の頃、近所にスイミングスクールがあって、 泳げなかったから、一時期通ったのだけれど、「溺れかた」というものは、習わなかったんじゃないかと思う。

運転免許を取ったばかりのころ、大学の先輩がたからは、「山に行きなさい」なんてアドバイスを受けた。 普通に運転していたのでは、たとえばブレーキを床まで踏みつけたり、タイヤが滑った状態になって、 逆ハンドルで車を安定した状態に持っていったり、そういう状況を体験する機会はまず来ないから、 それを練習しておかないと、いざというときに対応できないからと。

免許を取って、もう何十年もだけれど、逆ハンドルで救われたケースこそないけれど、 思い切りブレーキを踏む練習、あるいは必要なときに、ためらわずにクラクションを鳴らす 「練習」みたいなものは、恐らくはいろんな場面で、役に立っている。ブレーキを踏まないと 事故なのに、ブレーキを「静かに」踏んで事故を起こした人だとか、クラクションを鳴らせば 避けられた事態を、周囲に「配慮して」、結果として事故になったケースとか、きっとあるのだろうと思う。

溺れている人というのは、苦しそうにしたり、暴れたりするのではなくて、むしろ静かに沈んでいくように 見えるのだという。助ける側が、それに気がつけばいいのだけれど、「溺れそうになったら、息のあるうちに 叫んで助けを呼びなさい」なんて講習会を行って、実際に「大声で叫ぶ」練習というものを行うと、 叫べる人も出てくるのではないかと思う。溺れるというのは緊急事態だから、叫べないケースもきっと多いけれど、 そう習って練習しないと、やっぱりたぶん、叫べる人も叫べない。

ワーストケースの伝達は大事

ワーストケースというのは、不運はもちろんだけれど、教えられるべき何かがきちんと伝えられないと、 単なる不運が、取り返しのつかない事故へとつながってしまう。

「失敗学」の話題で、世の中には、「偽のプロ」と「本物のプロ」がいるのだという。正しくできる人は「プロ」を名乗って、 あらゆる事例を経験して、悪くなった状況を切り抜けてきた人はプロだけれど、 正しいやりかたしか知らない、状況が悪くなったときにどう対処していいのか、実は経験のない人も、 やっぱりしばしばプロを名乗る。

「偽のプロ」は、正しいやりかたしか知らないから、そういう人に習うと、たぶん最初に「正しいやりかた」が 説明されて、厳密に、それに従う人が、「いい生徒」と認定される。あるいは世の中には「溺れかた」から 教えられる人がいたとして、溺れた経験から出発して、泳法にたどり着いた人というのは、 恐らくは「溺れかた」から教えるか、少なくともどこかで、「そもそもどうして泳ぐのか」という話題を 入れるのだろうと思う。

「偽のプロ」と「本物のプロ」との見分け方として、習う側からみれば、それは「泳ぎかた」から教える人と、 「溺れかた」から教える人との対比として観測できるだろうし、教える側からみて、 自分は果たして溺れかたを教えられるのかどうか、溺れたことはないにしても、 溺れた自分を想像して、それを切り抜けるための備えが自らにできているのかどうか、 教える人は自問するのが大事なんだと思う。

正しいやりかたのこと

高校生の頃、問題の解きかたは習ったけれど、受験の乗り切りかたみたいなもの、 何を使って勉強して、どんなスケジュールで勉強すべきなのか、いつ頃までに、 どんな問題集をこなしているのが「正しい」のか、受験校と呼ばれる高校にいたけれど、 そういうものは、先生からは習わなかった。

学校ではその代わり、「卒業生受験体験記」という小冊子が2年分、けっこうな分量になってるのが配られて、 これがとても役に立った。

十分に小さく切り分けられた問題には「正解」があるけれど、たとえば「受験勉強を乗り切る」みたいな、 漠然としすぎた問題に、「これ」という正解を示すのは難しい。「これをやらないと確実に失敗する」何かを 指摘することはできるけれど、正解のない問題に、「こうだ」と無理矢理正解を決めたところで、 それに合わない人にとっては、その正解は、むしろ成功を遠ざける。

「受験を乗り切る」みたいな大きな問題には、だから「これ」という正解がない代わり、 正解というものは、ある程度の幅を持った、中心を持たない、群れのようなものとして記述すべきなんだと思う。 どれが正解というわけではないけれど、群れの中に入っていれば、たぶんどこかにたどり着く。

大きな受験校の武器というのは、「群れを記述できる」だけ、十分な人数がいることが大きいのだろうと思う。 1学年1500人、事実上全員が大学受験を目指して、7割ぐらいが現役でどこかに入ってたはずだから、 群れのサンプルとしては、これは相当に大きな気がする。

もっと規模の小さな高校で、たまたまその学年にいた「神童」が成功モデルになったりすると、 その学校にはもしかしたら、「○○高校流」の正解みたいなものが、受験を乗り切るみたいな、 大きな問題に対して、正解として提示されてしまう。それが自分に合っていればいいけれど、 そうでないと、やっぱりたぶん、うまくいかない。

世界でそれだけしかない価値を目指すような人はともかく、成功モデルというのが、 受験や資格に合格することみたいな、「群れがたどり着く場所」として記述できるのならば、 大きなバンドワゴンに乗っかる意味というのは、だからあるんだろうと思う。

「いろんな人から話を聞く。できれば成功している人から、なるべくたくさん」というのが大切で、 平均を抽出するのではなくて、生データでたくさん見ることが、恐らくは大切になる。 雲と群れとは、似ているようでずいぶん違う。

「溺れかた」を最初に習って、たくさんの「泳げる人たち」と、群れの中で一緒に泳いで試行錯誤するような やりかたが、特に「大きな問題」に対する解答を探すときには、正解に近いんじゃないかと思う。

2010.09.17

通過儀礼が事後的に合理化する

機能の豊富さだとか、造形の緻密さだとか、何かを「好みだ」と判断するときの、 合理的な理由というものは、けっこうな割合で、後付けされるものなんだと思う。

判断というのは、やっぱり不合理に行われることが多くて、人間は結局「好み」で いろんなものを決定するけれど、何かを好きだと判断したとき、何らかの通過儀礼を そこに挟むと、「好きの閾値」が大いに下がるような気がする。

犬の足形を作った

休みに旅行に行って、犬の足形をとってきた。

行った先で配られていた、「ペットと一緒には入れるお店」のリストに、たまたまそういうサービスを 行っている工房があった。粘土の板に、飼い犬の足形を押して、陶板に焼いてもらって、 送料込みで3500円。

陶芸作家の人が一人でやっている、ごく小さなお店だったのだけれど、犬も「お客さん」扱い してくれる工房は他にはなかったからなのか、陶板のバックオーダーはたくさんあって、 今から足形をとって、出来上がりはずいぶん先になります、なんてお話だった。

陶器を買った

犬の足形を陶板に焼いてもらって、このとき一緒に、そこで販売されていた、 いろんな陶器を購入した。

どちらかというと「奇妙に」近い、独特な形をしたコップやお皿がたくさん売られていて、 あえてそうしているのだろうけれど、どの陶器も微妙に歪んだ造形で、同じ形のものは 一つもなかった。

こういうのは、それが好きなら「作家性」だし、それが嫌いなら、単なるいびつな陶器なんだけれど、 その工房から、いくつかのティーカップだとか、マグカップだとかを購入して、 今はずいぶん気に入って、それを普段使いしている。

好きになると合理的に聞こえる

「きれいな形よりも、手になじむ形を目指しているんです」だとか、 「ろくろを回して、おもしろいと思った形を目指すと、どうしてもこうなっちゃうんですよね」だとか、 作家の人が説明してくれた。

こんな言葉は多分にテンプレート的で、恐らくは陶芸作家の人たちは、10人が10人、 大体同じような内容を語るんだろうけれど、このときはこの人の言葉がずいぶん響いて、 結局いくつかの食器を購入することになった。

自宅の周囲にも、何件か、食器を扱うお店がある。整った磁器も販売しているし、 有田焼だとか、備前焼だとか、もっと「有名な作家」が作った食器、 やっぱりわずかにゆがんだ、「作家性」みたいなのを感じさせるものは、 以前から購入することはできた。

ところがこういう人たちの「作家性」は、自分たちにはどうにも響かなくて、 ゆがんだ食器は重ねられないし、こういうのはどこか不安定で、 時々何となく貧相に見えて、あまり食指が動かなかった。

もっと大規模な工房と、今回買った個人の工房と、陶器を作っている数でいったら、 恐らくは100倍以上の開きがあるのだろうし、それを工業製品としてみたときには、 たとえ同じ手作りであっても、たくさん作っている工房のほうが、品質はより優れている 可能性が高いのに、今回購入した陶器製品は、形だとか、手触りだとか、 たしかに説明されたとおりに手になじんで、見た目に面白く思えた。

通過儀礼のこと

専門店で売られている陶器製品に魅力を感じることができなくて、観光地の、 個人の陶芸作家の作品に、購入に至る魅力を感じることができたきっかけというものは、 やっぱり「犬の陶板」だったのだろうと思う。

犬の陶板を注文するという、こういう機会でもなければ絶対にやらないような、 不合理な行動というものが、恐らくは通過儀礼として、それからしばらくの間、 その人の振る舞いを書き換える。

不合理な、普段ならやらない行いをあえて行ったあとでは、おそらく人間は、 そこから先の行為を、可能な範囲で合理化しにかかる。

不合理な注文を行ったあとだから、そこで販売されている商品は「いいもの」に見えたのだろうし、 奇妙にいびつな、普段はあまり見ることのない、「手になじんだ」を目指したという、 独特の食器というものが、そのときは、今でもそうなんだけれど、やけに合理的な、 魅力的なものに見えて、結局今もそれを使っているのもまた、通過儀礼の効果なのだと思う。

通過儀礼を意図した不合理を、あえて顧客に押しつけることで、そこからしばらく、 その人の財布は緩んで、恐らくは満足度も高くなる。

こういうのは何かに応用できそうな気がする。

2010.09.14

日用品がプラットフォームになる

古くから身の回りにあったり、日用品として親しまれている何かに、別のコンテンツを重積する仕組みを乗せて、 課金システムを整備すると、恐らくはそこに、なにがしかの人が仕事をしていけるだけのプラットフォームが生まれるのだと思う。

運動靴をメディアにする

子供が外で遊ぶときには、必ず靴を履く。子供用の運動靴に、RFIDタグの読み取り装置みたいな機能を付けると、 鬼ごっこだとか、ケンケンみたいな、足を使った昔ながらの遊びが、少しだけ書き換わる。

実物大の双六みたいな、あるいは陣取り合戦みたいな、子供の頃は、グランドにいくつもの円を手で描いて、 じゃんけんでルール決めて遊んでいた。「ここは1回休み」とか、「ここに止まればもう1回」とか、ああいうのを、 お互いの約束でなく、RFIDタグを仕込んだカードを使って明示的に示せると、遊びの質が変わるような気がする。

鬼ごっこの境界だとか、安全地帯みたいなルールも、そのまま「結界」のタグを仕込んだカードを使えば、 単なる鬼ごっこが、もう少し本格的な「ごっこ遊び」に変わる。オカルト風味の何かの物語を創作して、 それに見合った「カード」を販売することで、物語とリアルとが、少しだけ地続きになる。

「瞬足」みたいに、ある程度安価で、いろんな種類が販売されている運動靴は、 靴のパターンに何かバックグラウンドの物語を乗せて、たとえば光と闇との属性とか、 木火土金水の相性効果だとか、様々な効果を後付けすると、外遊びが盛り上がるような気がする。 その日にどの靴を履いていくべきかとか、選択が、そのまま戦略になる可能性があって、 単なる「性能」でなく、そういう盛り上げかたも、あってもいいと思う。

販売の対象を小学生前半ぐらいに絞るなら、小さな子供は携帯電話のユーザーには遠くて、 携帯ゲームは使えるかもしれないけれど、学校に持ち込むのは、もしかしたらまだ難しい。 運動靴だとか、ランドセルはみんな持っていて、課金システムは、近所の文具屋さんとか、 本屋さん、靴屋さんがそのまま使える。

運動靴とかランドセル、鉛筆、消しゴム、筆箱という、対象となる人たちが日常的に持っているものを「メディア」に 見立てて、そこに何か別の機能を加えたり、そのものの意味を書き換えるような物語を付加することで、 今度は恐らく、それを買うこと、購買の意味が変化する。課金の機会はそれだけ増えて、 もしかしたらその場所に、新しい雇用が生まれるかもしれない。

課金プラットフォームとしての乗用車

乗用車には、無限に使える電源と、ほぼ完全なGPSと、携帯電話に比べたら、圧倒的にリッチな体験を提供できるだけのディスプレイを 持っていて、今の乗用車は、単なる乗り物でなくて、ほぼ完璧なメディアになっているのに、事実上、何一つコンテンツがない。 本当にもったいないことだと思う。

個人情報を保護するためには強い鍵が必要で、強い鍵を作ろうと思ったときには、複雑にするという方向以外に、 「大きく不便にする」という道もある。重さ1トン越え、エンジン付きの「鍵」が、乗用車の形で世の中にはあって、 これを「コピー」したり、「隠し持った」りするのは難しいから、乗用車というものは、そのまま個人情報に紐付けて、 課金プラットフォームとして利用できる。

それはナンバープレートを読み取るようなやりかたでもいいし、キーレスエントリーの「ピッ」というあれは、 車体ごとに紐付いてるはずだから、レジで「ピッ」とやれば会計終了、というのをやってくれると、 田舎の買い物がずいぶん便利になる。

都会ならばお財布携帯電話だろうけれど、田舎の車というのは、移動手段であって、買い物袋でもあって、 これが財布になると、なおありがたい。車がいくら売れなくなったとはいえ、国内には数千万台オーダーがすでに走っていて、 それだけのユーザーがいるメディアに、課金プラットフォームを乗っけられたら、数千万人分の購買形態が変化する。 きっと大きな市場が生まれるんじゃないかと思う。

いい車とか、速い車じゃなくて、車という存在自体に、そろそろ別の意味を見出してほしいなと思う。 田舎の生活なんて、本屋さんとコンビニと、ホームセンターとサティでだいたい完結するから、 来るまでそこに乗り入れると、会計が全部スルー、ディーラー経由で銀行引き落とし、という生活スタイルが 作れると、個人的にはとてもうれしい。

田舎のパチンコ屋さんとか、自動車のナンバープレートに個人情報を紐付けて、球数無制限、会計はあとから銀行引き落としというルールにしたら、 きっと今以上に購買が増えるんだと思う。

スーパーカー消しゴムのこと

スーパーカー消しゴムと、ノック式の、ボタン一つでキャップが飛び出すノック式ボールペンとが同時期に登場したのは、 今から思うと奇跡的なタイミングだった。

小学生の頃、ちょうどスーパーカー消しゴムがブームになって、「何となく似ている」だけの初代から、 リアル路線になった後期まで、だいたい全てを経験できた。

最初の頃は「相撲」ルールで、机から落ちたら負け、というシンプルなものだったんだけれど、消しゴムがリアルになったら軽くなって、 そのうち巨大なスーパーカー消しゴムが売られると無敵になったから、ルールは「レース」に移行した。タイヤ部分にラッカーを塗ったり、 ボールペンのバネを伸ばしたり、早くするためにみんな工夫するようになって、そのうちシンナーに漬け込んで固くする技、というのが 学校に持ち込まれて、小さく固くなったその消しゴムには誰も勝てなくなった頃、ブームが終わってしまった。

あの時代、たしかに消しゴムの種類は増えたけれど、「どの機種が強い」とか、そういう物語は語られなかったように思うし、 ボールペンはボールペンで、たとえば強化スプリングとか、消しゴムを飛ばすパワーの強い金属削り出しのボタンだとか、 そういう展開は行われなかった。

子供の頃の、他愛のない遊びではあったけれど、スーパーカー消しゴムは盛り上がったし、あの盛り上がりは、 それでももっと膨らませることができて、「マシン」ごとの強さ比べだとか、ボールペンの強化パーツだとか、 ブームになったミニ4駆みたいになっていれば、単なるおまけの消しゴム、単なるノック式のボールペンが、 様々なコンテンツを載せられる、立派なメディアになったのだと思う。

流行っているものは、工夫次第でやっぱりメディアに変貌する。

同じ頃、給食はまだ牛乳瓶だったから、みんな「牛乳メンコ」に夢中になって、教室では、いろんな牛乳キャップが覇を競っていた。 あれなんかもまた、いろんな会社に声をかけて、牛乳キャップに広告を入れて、「東芝の蓋は実は重くて強い」とか、 そんな都市伝説を流したら、たぶん教室で奪いあいになったと思う。

メディアに課金装置を乗せる

今ではもう無理だろうけれど、新聞なんかもまた、アナログの双方向メディアになる道があったんじゃないかと思う。

投函された新聞を読んで、郵便受けとは別に、「返信箱」を作って、商品をチェックした新聞や、広告の折り込みチラシをそこに放り込んでおくと、 翌日の朝刊と一緒に、その商品が届くような。

それがどれだけの利益になったのかは分からないけれど、新聞というのは毎日そこにあるメディアであって、 販売店という、地元に密着した課金システムがすでに備わっていて、広告はローカルなものが多いから、 そういう場所には、ネット広告やテレビみたいな、全世界を対象にした人たちは、そもそも入ってくるのが難しい。 競合のいないニッチをせっかく持っていたのに、新聞を売るという、単機能に特化してしまったのは、 個人的にはやっぱりもったいないと思う。

新聞が、どこかで「御用聞きメディア」としての機能を備えていれば、恐らくはそこを購買の窓口として利用する人を開拓できたし、 広告の価値みたいなものも、恐らくは高まったんじゃないかと思う。朝刊を読んで、その日の商店街のちらしを見て、 欲しい商品をチェックする、高齢者の人なんかには、けっこう喜ばれるサービスが提供できたんじゃないかと思う。

まとめ

恐らくはいろんなものがメディアになれるし、課金システムを実装できれば、それは産業のプラットフォームになる。

携帯電話とか、インターネットというのは大発明で、あれは「昔の日常」には存在しなかった何かが、いつの間にか新しい日常に なっていたものだけれど、昔から身の回りにあるものも、機能を追加したり、バックグラウンドに物語を付加したりすることで、 まだまだメディアとして、様々なコンテンツを乗せて、そこから対価を引っ張れるような可能性を持っているのだと思う。

2010.09.12

柔軟さのコスト

診療というものも交渉の一形態であって、交渉ごとに、自分が「縦深」というものを利用できるようになったのは、 まだまだ最近のことのような気がする。

縦深を利用した、柔軟な対応を行えるようになると、外来でのトラブルが減る。幸いに、まだそうなったことはないのだけれど、 何か医療事故が起きたときに、身内の人に状況を説明するときなんかでも、最初から「妥協の余地」みたいなものを前提に 話しあいができるのならば、状況は恐らく、ずいぶん楽になる。

外来の考えかた

研修医を終えて数年間は、外来という場所を、一本の線のようなものだと考えていた。 その線は死守すべきラインであって、そこを破られることを、どこかで「負け」だと認識していた。

「何とか外来で頑張ってみましょう」なんて言葉は、当時の自分たちはよく使っていたし、今でもいろんな近隣施設で、 「外来で頑張った」結果として、その施設からうちに来ました、という患者さんも多いから、外来というものを、妥協の余地を持たないラインであると 考える文化というのは、それほど特殊ではないのだと思う。

外来を「防衛ライン」みたいなものであると考えてしまうと、そこを「破られた」ら、そこから先のプランが想像できない。 想像ができないものは怖いし、誰だって怖いものは避けたい。結果としてしばしば、症状の原因がよく分からない、 「怖い」患者さんに対して、主治医は「外来で頑張る」提案を行って、それが責任回避につながるんだと、恐らくは信じてしまう。

縦深の利用に必要なもの

物理的にベッドがないならどうしようもないのだけれど、「入院したのに良くならなかった」ケースよりも、むしろ 「入院を希望したのにそうしてくれなかった」ケースのほうが、トラブルになる可能性が高いのだと思う。

病院という道具を、外来、外来ベッド、入院ベッド、重症個室、高次医療機関という、縦深性を持った構造であると認識できると、 受け止めるのが前提の、柔軟な外来対応ができるようになる。

縦深を利用するのにはいくつかの前提がいる。

ベッドを利用できないといけないから、主治医には、入院の調整から転院の折衝まで、全て自分の権限で行えないといけない。 研修医の時期は、そもそもこれが無理だから、「柔軟な外来対応」は、原理的に難しい。

「外来で頑張りたい」と思うような患者さんというのは、その場所では何がおきているのかはっきりしないことが多い。 分からない患者さんの入院を引き受けたとして、「不明」に対するプランがなければ、結局何もできないから、 いろんな「不明」状況に対して、自分ならどういう検査プランを組んで、入院したら誰に相談するべきなのか、 あらかじめ考えておかないといけない。

医療者側が、患者さんに対して「退く」ことを前提にプランを組めると、お互いの関係に柔軟さが生まれる。 退くという行為が、妥協による敗北でなしに、プランに基づいて行われた後退になる。

柔軟な対応というのは、だから主治医の負担はむしろ増えるんだけれど、状況をコントロールできる割合ははるかに大きくできて、 こちらが正解に近いのだと思う。

受け止めることでできること

外来から入院ベッドへ、さらにその奥へと、応対の場所を移動することで、今度は主治医の側に、 「こうしましょう」という提案が出せるようになる。

外来で何とか頑張る、そこを破られるとノープランというやりかたは、後がないから、患者さんの言葉を全否定する状況を避けられない。

患者さんが、たとえば入院だとか、精査だとかの希望を伝えてきたときに、主治医の側から、その希望が叶った前提で、 こちら側が行うであろうこと、そこから先のプランみたいなものを、その場で提案できるようになると、交渉の空気が楽になる。

「入院させて下さい」「外来で頑張りましょう」をやると、トラブルの種ができる。「入院させて下さい」「入院しましょう。 こんな流れで状況を見て、いついつに結果をお話しして、それがこうなら、次にこうしましょう」みたいな話をその場で返せると、 主導権は常に主治医の側にあって、トラブルは回避される。

人間関係を作っていく上で、こういうのはそれなりに大切だと思うんだけれど、大学ではあんまり習わない。

受け止めるには縦深が必要

たとえば医療過誤訴訟になって、結果として医療者側が「勝った」ような事例であっても、 じゃあ本当に病院側の瑕疵がゼロかと言えば、やっぱりそんなことはないのだろうと思う。

それはたとえば、ご家族がそう望んだタイミングよりも、検査を出すのが15分ぐらい遅かったとか、 熱を出した前の晩、患者さんの布団がずれていたとか、事故には直接関係がない、 少なくとも裁判の席で、「それは関係ない」とされた事例というものも、瑕疵を探す側からみれば、 それはやっぱり瑕疵であって、それがそう見えたのならば、病状説明の席では、 ご家族は、それを受け止めてほしいのだろうと思う。

何か事故があったときに、病院側で交渉に臨む人は、妥協の余地というものが、最初から存在しないことがある。 今の状況は分からないけれど、昔の公立病院なんかだと、トラブルが起きたとき、「当事者同士の話しあいでよろしく」なんて、 病院当局が突き放す。縦深ゼロ、ライン防衛か全滅か、という状況で、下手するとその日に泊まってた研修医が、最前線に1人残されたりする。

たとえわずかでも、主治医に縦深が預けられているのなら、「ここは瑕疵ではないですか?」という質問に対して、 「そこについては申し訳なく思っています」と返すことができる。縦深ゼロだと、これが「医学的には関係ないと思います」という 答えかたしかできない。これではトラブルにならないわけがない。

柔軟な対応にもお金がかかる

縦深ゼロで交渉に臨んだ相手から、「申し訳ない」というほんの一言を引き出すために、ご家族は結局弁護士の手を借りて、 訴状を病院に送らないと、話が前に進まない。こういう事例を避けるのに、医療者側が「司法が医療を崩壊させる」なんて叫ぶのは、 やっぱり何か違う。大げさに過ぎるような気がする。

本来はたぶん、病院側が、交渉する人にある程度の縦深を預けるようなやりかたを考えるべきなんだと思う。 研修医は無理だけれど、部長級の医師に、たとえば1000万円ぐらいまでの慰謝料の裁量を与えるような。

この状況を外からみると、なんだかご家族を「お金で黙らせる」ように見えてしまうけれど、 受け止める側が一言「申し訳ありません」と言えるためには、やっぱりお金が必要で、 「言葉は無料だから無償」という前提で交渉に臨ませるのは、やっぱり間違っているのだろうと思う。 「柔軟にやる」には、やっぱりそれだけのお金と、柔軟さを生かせるだけの技量というものが欠かせない。

口先だけの「柔軟な対応」というのは、要するにケチであって、「お金は払わん。俺に責任はない」と同義になる。 柔軟はお金で購入する必要があって、訴訟のことを考えれば、それは圧倒的に安価に購入できる。 恐らくは、せいぜい「相場で10万円」ぐらいのお金を惜しんで、ご家族と全面戦争、 病院どころか県が引っ張り出されて訴訟になったような事例というのは、きっとあるんじゃないかと思う。

自分たちはそういう意味で、交渉のやりかたを習わないし、お金の使いかたも習ったことがない。 縦深を預けられたとしても、じゃあそれを使いこなす方法を習う機会もない。このへんは、医療者側にも まだまだできることがあるし、ここは米国じゃないから、ああならない道も、まだあるような気がする。

2010.09.03

謝罪というもののありかた

Sorry Works という、米国医療の「謝罪」の教科書からの抜き書き。

日本だとこう、謝罪というものが誠意の文脈で記述されることが多くて、個人的にはそういう立ち位置には違和感があったのだけれど、この本が取りあげている謝罪というものは、けっこう実際的だった。

以下引用。

  • 多くの人々が、謝罪するということと、責任を認めるということとを同一視してきた。両者は全く異なる考えかた
  • 事実関係が明らかになっていない段階では、「全ては私の責任です」と口にしてはいけない。取り返しがつかなくなる
  • 最初の段階では、たとえば「合併症について申し訳なく思います。何がおきたのか説明させて下さい」とか、「あなたの被った被害について申し訳なく思います。どうしてこういう事態になったのか、もう少し調べさせて下さい」と、謝意のみ表明して、責任の話題は出してはいけない
  • 謝罪は2つの深度に分けて行う。最初の謝罪は、「申し訳ない」という感情の表明と、事故に巻き込まれた、特に患者さんのご家族に対する援助とサービスの申し出を行う。事実関係の確認が行われて、病院側の過失が確定して、はじめて責任の表明が行われる
  • 「謝意の表明」の例:「大変申し訳ありません。何が起こったのか、すぐに調べて、分かったことについては、隠すことなく必ず報告します。何か我々にできることがあったら、何でも教えて下さい」
  • このときに、別の誰かの責任をほのめかしたりするのは良くない。
  • 説明を行う際には、専門用語を使うのは良くない。口語で語る。謝罪するときには単純に「申し訳ありません」といったほうがいい
  • 謝罪というのは感情を表明する言葉であって、これはすぐに行わないといけない。責任の表明は、事実関係を明らかにする努力が払われ、その上で医療者側の責任がはっきりとしてから、初めて行わないといけない
  • 責任の表明が行われるべきタイミングは、何か事故が起きて、その後きちんと家族や患者さんとのコミュニケーションがなされ、信頼を築いて、その上で、事実関係を明らかにしてから、行われないといけない。
  • 「申し訳ありません」という感情を表明することは、起きたことそれ自体を軽減することはできないけれど、そこから始まるもっと悪いことを回避する効果は十分に期待できる

事故が起きたときに患者さんが望むことは、以下のとおり。 1. 過誤の内容が隠されないこと 2. 何がおきたのかを理解すること 3. どうしてその過誤がおきたのかを理解すること 4. その事故を軽減する選択枝がなかったのかどうか 5. 再発を防ぐという保証 5. 謝罪を含んだ感情的な保証

  • 発生が予見される合併症と、明確な過誤とを区別しないといけない。往々にして、前者に責任を認める医師がいるけれど、これは避けないといけない。あらゆるケースにおいて、「申し訳ありません」と表明することは大切だけれど、責任については、それを認めるべきケースと、そうでないケースとがある
  • 「申し訳ありません」と、「私の責任です」、あるいは「私の怠慢でした」という言葉は、意味あいが全く異なってくる。謝る側が区別しないとトラブルになる
  • 人間関係が大切。訴訟になったケースの大部分では、事故が起きた後、患者さんと主治医との間で、正しい関係が築かれていなかったか、コミュニケーションが全く行われていなかった
  • 医師-患者関係というものは、事故が起きた瞬間に終わるのでなく、むしろそこからまた始まるのだと考えないといけない
  • ごく単純に、事故が隠蔽された、と家族が感じると、それだけで訴訟の確率が高くなる
  • 事故直後に正しい情報の公開が行われていなかったり、あるいは誠実な関係が築かれていなかった、という事実は、それだけで陪審の印象を悪化させる
  • 私見。裁判以前の「正しいコミュニケーション」と、裁判以後の、独特のルールにそった「正直な」やりかたとは、主治医が嘘をつかない限り、矛盾しない。何がおきたのか、きちんと誠実に公開することで、「医師の見解」というものを、分かりやすく詳しく語ることができる。このことは同時に、「医療者側は誠実な対応を行ったけれど、事実の流れを理解してもらえなかった」という、証拠固めをすることにもつながる
  • 私見の続き。裁判というのは、お互いの見解にすれ違いが生じて、初めて発生する。原告側は「過誤の物語」を、被告側は同様に、「防衛の物語」を、お互い裁判所に提出することで、その信憑性を、裁判官に判断してもらう。最初の「誠意ある謝罪」の時期というものは、だから自らの見解を補強して、弁護士抜きで、相手に語れる機会であると考えれば、露悪的な文脈で考えても、つじつまが合うと思う
  • 強欲でなく、怒りというものが、昔から訴訟の原動力となってきた。
  • 情報を公開すること、コミュニケーションを緊密にすることが、最終的に、問題に関して、お互い率直に会話を行う機会へとつながっていく
  • 事故の説明機会は、たとえば事故を生じたカルテを第三者にレビューしてもらった後、患者さんの剖検レポートが返ってきた後など、複数の機会を設けて、その都度疑問がないかどうか、何か後から分からなくなったことがないかどうかを聞き返すといい
  • 私見。面談を最初から複数回に分割するのならば、あらかじめ「次はこの日」というものを設定しておいて、こちらから提案するのが望ましい。検査などもそこを目指して入れておく。イベントドリブンで「何かあったらまたお話しします」は、「待ち」の印象を持たせてしまって、あまりいい方法でない気がする

    「責任の表明」を行うときには以下の手順を踏む。

    1. 最初に「申し訳ありません」と、感情の表明を行う
    2. 次に「これは私の責任です。こうしたミスが発生しました」と説明する
    3. 具体的にどんなミスが起きて、今後それをどう予防していくのかを説明する
    4. 最後に必要があれば、補償についての話をする