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2010.08.31

約束志向について

恐らくは「最新の約束が最重要」というルールで、お客さんの問題を解決していくやりかたが、サービスとして、 顧客を最も快適にするのではないかと思う。

病棟移動のこと

ずいぶん元気になった患者さんがいて、過去に何回か入院した経験を持つ方で、この人から、 「なるべく早く、リハビリ棟に行かせて下さい」という要望があった。

医学的にももっともなお話で、たしかにリハビリ棟のほうが、床の段差も少なくて、歩きやすかったものだから、 病棟の移動を手配して、移動できたのは3日後だった。

病棟を移動するに当たっては、病棟どうしで引き継ぎを行わないといけないし、ベッドの数だとか、その日に勤務しているナースの 数だとか、お互いの事情というものがもちろんあって、思い立ったらすぐ、というわけにはなかなか行かない。

一方で、病棟を移動しなくても、患者さんに対するケアは同じように行えるし、リハビリ病棟よりも、 急性期病棟のほうが、医学的には手厚いケアができるから、移動を急ぐ理由は、たしかに病院側にはそんなに多くない。

で、ほんのちょっとしたずれが積み重なって、移動は3日間延びて、「医学的には」その3日間というものは、なんの問題もない3日間だったのだけれど、 患者さんにとってのその3日間は明確な「待ち時間」であって、トラブルにこそならなかったけれど、やっぱりずいぶん待った気がしたみたいだった。

iPhone は良くできている

今勤務している病院の医局には、iPhone とiPAD、Xperia とメガネケースと、たいていのスマートホンを誰かが持っていて、 自分は普段、DoCoMo のHT-03A という、Android の携帯電話を使っている。

時々触らせてもらう iPhoneは、押したらとにかく「押された」という反応を返すのが見事だと思う。

アンドロイド携帯だと、新しいのはそうでもないけれど、どこか画面をタップして、反応するまで、ごくわずかな遅延が入る。 この遅延はごくわずかなのに、反応がないから二度押しして、せっかく開いたアプリが、開いた瞬間に閉じてしまったりとか、 今でもよくやる。普段HT-03A だけ使っている分には、それをそこまで不便と感じないのだけれど、iPhone みたいな機械を 使わせてもらうと、快適さみたいなものが、はっきりとした違いとして感覚できる。

昔ながらの機械スイッチは、押したらボタンが沈む。押したという満足が、押した瞬間、すぐ手に返ってくる。 タッチパネルにはそれがないから、ボタンをタップした後、機械がそれを認識したのかどうかは、 目で見て確認するしかない(Desire は振動を返してくれるらしい)。

フィードバックの速さというのは、恐らくは快適さに直結するのだと思う。

約束志向インターフェース

  • 機械スイッチは、ボタンを押して、「押されたよ」というフィードバックがまず返って、それから「押したよ」という指令が、機械側に行く
  • タッチパネルだと、ボタンを押して、指示が機械に入って、機械が判断してから、「押されたよ」という反応を返す

動作として、より「正しい」のはタッチパネルのほうだけれど、人から見たとき、より「自然」に思えるのは機械スイッチのほうで、 こういう動作の流れを作り込むことで、快適性が増すんじゃないかと思う。

たとえばタッチパネルの外周2ドットぐらいに、見えない額縁をつくって、ボタンを押された、タップされたと機械が認識したら、 そこの色が一瞬変わるとか。OSの動作を書き換えなくても、「タップされたらとりあえず光と音を出す」だけのアプリを常駐させておいて、 他の動作は今までどおり、というやりかたでも、快適度が増す気がする。ユーザーを、単に騙してるだけのアプリだけれど、 上手に「騙す」ことというのは、恐らくは快適を生み出す上では、とても大切なことなんだと思う。

恐らくはサービスを受ける側の人は、「直近の約束」を、最も大切なものとして考える。

いくつかの問題があったとして、「重要なものから解決していく」やりかたと、「最初に以来のあったものから解決していく」やりかたと、 「最後に約束したものから解決していく」やりかたと、問題解決の序列には、だいたい3とおりが考えられるけれど、 そのやりかたが、たとえば「医学的に正しい」のかどうかはさておき、お客さんから見たときに、最も快適なやりかたは、 「最後の約束から最初に解決していく」順番なのではないかと思う。

約束を重ねていって、時系列に沿って解決を行っていくのではなく、上に重ねたら、重ねたものから順次解決していくほうが、恐らくは 満足度は上がる。時系列のほうが、まだしも正統なように思えるけれど、恐らく人は、約束を交わすと同時に、そのことを、すごい勢いで 忘れていく生き物でもある。

病院の待ち時間だとか、サービスのありかただとか、快適を演出する機械とか、問題解決の順番を工夫することで、 待ち時間から生み出される不快を減少させることができるような気がする。

2010.08.26

次につながる制約のこと

それが資金であってもマンパワーであっても、何かが「足りない」状況に対峙したときには、足りない何かを工夫で補わないといけない。

そういう工夫はたぶん、 資金が潤沢にあったらできたこと、「リッチ」とか、「効く」みたいな、肯定的なパラメーターを、 まずはあきらめてみるところから始まる。

何かをあきらめることで、その周辺にはたぶん、「あきらめることで手に入るもの」が生まれている。 今度はそこから、「足りない中でいいものを作る」のではなく、まずは「あきらめないと手に入らないもの」の 付加価値を高めたり、そこからお金を集める仕組みを考えることで、「足りない中で頑張った何か」は、 全く新しいものへと変貌するのだと思う。

お弁当と俳句

フランスのお弁当ブームとか、英語圏で俳句が面白がられたりだとか、ああいうのはたぶん、 「制約って面白いんだ」という気づきが生み出したのだろうと思う。

スプラッター映画でしか語れないのだけれど、海外の文化というのは、「制約というものは少ないほどいい」ということが前提になっている気がする。

制約を減らすには、それだけお金がかかるし、自由すぎる状況からすばらしいものを生み出すためには、 しばしばとてつもないパワーがいるんだけれど、むこうの人たちは、どこかそういう過剰さを、ある映画でバケツ一杯の血糊が用意されたら、 今度はプール一杯使ってみようとか、追い抜くためには、後続はひたすらに量を積みあげるようなところがある。

ジェイソンにしてもフレディにしても、むこうのモンスターはひたすら力押しで、弱点はとても少ない。 その少ない弱点を、無力な人間が何とか見つけ出して、モンスターに勝利するところに面白さがあるのだろうけれど。

日本のホラーはどちらかというと、モンスター役は制約だらけで、まともに勝負したら、下手すると人間に勝てない。 しっかりと作戦を立てて、人間側を特定の状況に追い込んで、モンスターにはやっと勝ち目が出てくるような描写が多い。

海外のスプラッター映画は人間側が頭を使うけれど、日本のホラーは、どちらかというと、モンスター側が頭を酷使する。

どちらが優れている、というものでは無いのだろうけれど、「弱いことが魅力になる」という発想は、海外のスプラッター映画には、案外少ないのだと思う。

効かない薬はよく売れる

たとえば 「全然効かない薬」があったとして、こういう薬は、効かないという制約を受け入れることで、 「気軽に誰にでも勧められる」という、得難いメリットを得ることができる。

「本当に効く」薬というのは、作用してしまう以上、その作用が他の人に好ましくない可能性は、常にある。 「効く薬」はだから、医師でもなければ勧められないし、銭勘定だけを考えると、「効くこと」は、必ずしもすばらしいことだとは限らない。

それが砂糖玉だとか、小麦粉を丸めただけの、どう見ても「効かない」薬であれば、今度はそれを購入したお店の不思議な雰囲気だとか、 あるいはそれを使ってみて、「ちょっとだけまし」な気分になったりだとか、そういう個人的な体験を、留保なしに他の人に勧めることができる。

薬という競争社会においては、だから「効かない」こともまた、決定的な不利益とは言えなくて、ホメオパシーなんかはだからこそ、広まったんだと思う。 あれを「カウンセリングのおまけ」と考えていいなら、カウンセリングという体験に抵抗を持っている人がいたとして、 「薬の購入」という理由を得ることもできたのだろうし。

便利より快適な不便

建築の学生さんあたりに、卒業論文で「その後のビフォーアフター」をやってほしいな、と思う。

それこそテレビで報道できるような、あれだけ特殊な工夫が巡らされた住宅に、じゃあ実際に人が住んでみて、 5年ぐらいたって、現在どうなのか。「工夫」は果たして、長期間にわたって快適を提供してくれるのか、 あるいは「工夫」を捨てて、そのご家族が別の日常を作り出したとして、家の構造は、今どのように利用されているのか。

様々な工夫は、単なる使いにくさになっているのかもしれないし、あるいはテレビでは突飛に見えた工夫が、 実は大当たりしているのかもしれない。一見すると「不便だろう」なんて突っ込みたくなる、そういうものに、 人がどう適応するのか、調べるときっと面白いと思う。

「ドームハウスこそが人類が住むべき住居」みたいに宣伝していたスチュアート・ブランドが、 後年になって「あれは若気の至りだった」みたいなコメントを出して、今はむしろ、マッチ箱みたいな、 シンプルな住宅を、生活スタイルに合わせて組み替えて使うのがいいんだなんて書いてた(うろ覚え)。

シンプルな直方体は、きっと便利を目指したときの正解であって、反論する余地はないのだけれど、 同時にたぶん、直方体はあまりにも自由度が高すぎて、過剰な自由というのはなんとなく、人の幸福度を上げないような気がしている。

「便利」よりも「不便」というのは劣っているのに、個人的にはたぶん、「便利よりも快適な不便」というものがどこかにあって、 それを上手にデザインすることができると、快適な不便さというのは、慣れることなく、一定の快適さを発揮し続けるような気がしている。 具体例も、根拠も何もないんだけれど。

あきらめることで手に入るもの

恐らくは「面白い制約」というものは、まだまだいろいろと開拓できる場所で、そもそもこれは制約だからお金がそれほどかからないし、 むしろそういうものが使えない、マンパワーとかお金とかぶち込めない人こそ、こういう場所で成功できるのだと思う。

何かをあきらめることで、初めて手に入るものというのがたぶんある。

リッチな体験を提供するには、幅広い帯域と、マンパワーや資金とが必要だけれど、それをあきらめて、プアなメディアで勝負することで、 今度はたぶん、メディアの可搬性とか、狭帯域での快適性みたいなものが得られる。その場所でできることは貧弱かもしれないけれど、 リッチメディアで勝負している人たちは、その強みを持ち込むことができないから、弱い側でも勝負になる。

何か貧弱な、「劣った」場所を選択したとして、じゃあ「そこでいいものを作る」ことを真っ先に目指しても、恐らくは上手くいかない。 それは豊かなサバンナでたくさんの動物が暮らしていく中、1人で雪山を目指すようなもので、生きてはいけるかもだけれど、 種族を増やせない。

まずやるべきは、環境の書き換えなんだと思う。

たとえばリッチな体験をあきらめることを選択したなら、まずやるべきは、「プアな環境でいいものを作る」ことではなくて、 そんなことよりも、プアなメディアを生かせるような場所で、お金を集める仕組みを作ることなんだと思う。お金が集まるところには、質は後からついてくる。

既存の何かとの住み分けもたぶん大切で、たとえば「妖怪」というメディアは宗教との共存が可能だけれど、これが「祟り」になると、 宗教とバッティングして、実は案外やりにくいとか、新しいものを展開するときには、どこかに言い訳を用意しておいたほうがいい。

新しいものというのはたいてい、「道端」とか「荒野」から生まれて、状況がパワーゲームになった時点で、そのメディアというのは、 恐らくはもう「古く」なっているんだろうなと思う。

2010.08.22

「何もしないこと」を決断するとき

「やれるだけのことはやった」状態とは、あらゆる可能性を探索し、試み たという意味であって、一つの方法を機械的に繰り返し、拡大し、結果とし て全ての資源を損耗しつくした、という状態とはちがう[18]。

これは明らか に判断の誤りなのに、しばしば満足げに総括される。

経験を積んだ術者は、「何もしないこと」もまた決断であることを知って いる[15]。その一方で、意志の不在が決断を放棄させた場合また決断であっ て、同じ「待ち」の決断であっても、意味あいは全く異なってくる[10]。

意志の不在は状況を確実に悪化させる。たとえそれがどのような決断で あっても、決断されることは、行動の根拠としてより望ましいと言える[10]。 何もしないで経過をみるときには、だから「何もしないことを決断する」 必要があって、状況を動かさないことを決断したのなら、その時にやってお くべきことがある。

視点を変える

「あのときはこんなに調子が良かったのに」というふり返 りを止めて、現在だけを見る。「このときはこういう状況だったから、今も その状況が継続している」という視点を外して、現在の状況から、現在体内 でおきていることの推定を試みる。

視野を広げる

問題の焦点となっている、あるいは自身がそう思い込んで いる問題から、あえて全く別の場所を検索することを試みる。胸の疾患なら ば腹部や頭を探す。感染症を疑っていたのなら、別の機序で発熱を生じる疾 患を想像する。

目の数を増やす

いろんな人に聞く。相談する。あるいは紹介する。保身 のための最大の努力は、同時にもしかしたら、不明の状況を打開する手がか りになるかもしれない。鉄火場にあって、「そこで立ち止まって考える」た めには、10 年では足りない経験がいる。

文脈でなく部分から考える

「肺炎の割に白血球が低い」でなく、「白血球 が下がる状態」から、咳が出て発熱する病気をリストアップしてみる。「感 染症で腎臓も悪くなった」患者さんなら、「腎機能が悪くなる病気」を詳し く調べて、発熱を合併するような状況を考える。

「その状況から一番嫌なこと」を想像する

その状況から最も考えやすい 疾患でなく、見逃すと最も痛い状況を考える。それが「出血の見逃し」なら ば血圧が下がってくるだろうし、「癌の見逃し」ならば、恐らくどこかに症 状が出現する。

見逃しやすくて、分かりやすい症状が出現することもなく、状況の劇的な 悪化をもたらす疾患というものを想像すると、結核と感染性心内膜炎が必ず リストに入ってくる。こうした疾患の検索は、あらゆる「不明」に対峙した 際の共通経路になる。

次にやることを決めておく

確信を持って「待ち」を決断したとして、そ の間祈るのでなく、次にやることを決めておく。待って状況が変わらなかっ たら、次にこの検査を提出するとか、この人に相談するとか。「待ち」は高価 な選択であって、時間に比べれば、「とりあえず頭からつま先まで造影CT」 のほうが、コスト的にはよっぽど安い。

2010.08.19

刑事尋問の今が知りたい

最近ずっと、コミュニケーションに関する昔の文章をまとめて「blog 本」みたいなのを作っているんだけれど、 その流れで、米国の、医療過誤訴訟の対策本をずいぶん読んだ。

どの本にもたいてい、「弁護士はこんな罠を仕掛けてくる気をつけろ」という対策を指南していて、 書いているのも弁護士の人だから実話なのだろうけれど、想定問答集みたいなものがついてくる。 本が変わっても、方法論というか、聞かれること、罠のパターンみたいなもののバリエーションは 有限で、逆にいうと「尋問術」というものは、むこうだとある程度、技術として確立しているような印象を受ける。

「デポジション」に相当するもの

米国の裁判には、「デポジション」といって、裁判の前に、原告側弁護士と、被告になった人とが面談する制度がある。

裁判所からの書記官が同席して、そこで交わされたやりとりは記録されて、質問に答えたこと、 あるいは答えなかったことが、証拠になる。デポジションは「裁判の最初の華」みたいな描かれかたを していて、本番に相当するものが公判なんだけれど、観客が、言わば「プロ」しかいない分、 デポジションでの質問のやりとりというものが厳しくて、ここでの想定質問と、その対策というものが、 マニュアル本には詳しく語られる。

日本の民事裁判には、どうもこの「デポジション」に相当する制度がないみたいで、 お互いのやりとりは、基本的に文書が中心となって行われるみたい。文章だと考える時間が取れるから、 口頭で、録音して、原告と被告とが罠の仕掛けあい、化かし合いみたいなことにはならないらしい。

こういう状況が、日本ではじゃあどこにあるかといえば、一つは国会の場であって、 弁護士でもある谷垣代表が「もっと尋問術を学んでおくのだった」なんてぼやいていたように、 あの場所で行われているのは、こういうやりかたにけっこう近いのだと思う。

で、外からは見えないから想像だけれど、恐らくは刑事尋問の場というものも、デポジションのルールに、相当に近いように思える。

刑事尋問というもの

警察の中で、机一つに向かいあって、カツ丼注文したりするあの情景が、デポジションにのイメージに近いといえばまあ近いんだとして、 だったら日本の警察の人たちに、じゃあああいう、相手に罠を仕掛けるような弁論術がどの程度あるのかといえば、それがよく分からない。

患者さんを外来で診療したときに、たまたま現場で捜査をしていた人たちが病院に来ることがあって、 「捜査の手引き」だったか、そんなマニュアル本を持っていたのだけれど、表紙には昭和50年代の年号が印字されていた。 恐らくはそれが、その本が作られた年なのだと思う。改訂はされているのだろうけれど。

刑事裁判も、米国の裁判も、ああいうのは基本的に、追求する側も、される側も、自分が想定した「物語」をつくって、 それに合致した単語を拾い上げて、法廷の席で、お互いの物語をぶつけ合って、信憑性を競うものなんだという。

これは日本の刑事訴訟の本にも同じことが書いてあったから、そんなにずれてないはず。 「面白い物語」を作ることが、裁判官の心証を傾けるコツであって、犯人の内面の描写が、「面白さ」を作る上では大切なのだと。

「むらむらと来た」という言葉

じゃあならば、「警察の人が描いた内面の描写」というものがどこで読めるかといえば、それはテレビのニュース番組なんだと思う。

ニュースや新聞では、たとえば痴漢で捕まった人の自供を報道していて、「ついむらむら来た」から手を出したとか、報道する。 「むらむら」は恐らく、新聞記者の作った言葉ではなくて、警察の発表を記事に起こしたものなんだろうけれど、 じゃあ今の日本人で、「むらむら来た」という言葉を、口語として常用する人がいるかといえば、いないと思う。

あれはたぶん、警察の人が、犯人の「内面描写」を物語に起こした段階で、中の人が使っている参考書籍に、 そういう「文例」が出てくるのだと思う。 いかにも古くさい、それこそ昭和50年代のサザエさんにでも出てきそうな語彙が、 ああいう警察を通じた言葉には時々出てきて、それを邪推していくと、警察の人たちが使っている手引き書というものは、 実は昭和50年頃から、ほとんど進歩していないのではないかな、という気がしている。

たしかにそれで、有罪がガンガン確定しているんだから、方法論を変える必要はないのかもだけれど、 それはどこかこう、「それで上手くいっているんだから」と、電気メスの現代に、磨製石器で無麻酔手術に挑むようなところがあって、 「腕力」が十二分に強ければ「それでいい」のかもだけれど、やられるほうは怖い。

真っ黒な事例を、鼻歌交じりで漂白できる米国弁護士のやりかたは、あれはあれで「うへぇ」、って思うけれど、 少なくとも海のむこうでは、それが技術になって、公開されて、改良されている。

このへん国内がどうなのか、あんまり聞こえてこない。

こういう「道具」みたいなものは、裁判員制度が大々的に導入されたり、あるいは取り調べが録画されるような時代になると、 否が応でも公開されて、対策されるだろうから、あるいはこれから進歩するのかもだけれど。

2010.08.17

名前が実体を作り出す

「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに敬意を持って接しましょ う」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。

何かを変えるときには、考えかたを改めて、結果として振るまいが変わっ ていくのが正いけれど、たいていそれは上手くいかない。

ある振るまいかたを外側から強制することで、たとえば特定の単語を使用 禁止にしたり、特別な会話のルールを作って、病棟にいるときにはそれを 守ってもらうようにすると、面白いことがおきる。

変更されたのは「外面」 だけなのに、それを続けて慣れてしまうと、その人の考えかたが、根本から 書き換わってくる。

「言って」を「教えて」に言い換える

病棟では普段、患者さんに対して、「何かあったら言って下さい」という 言い回しを、当たり前のように使う。

たとえば「言って下さい」の代わりに、「教えて下さい」という言葉を使う というルール作ると、「言って」が染みついているものだから、「教えて」と 発音するときに、頭の中で単語が衝突して、言葉がそこでつかえてしまう。

「言って」という、少しだけ権威的な響きのある単語は、権威的な姿勢に 強く結びついている。単語と姿勢とが不可分だから、姿勢を変えずに言葉だ け「教えて」にしようとすると、単語が衝突する。

「教えて」をよどみなく発音しようと思ったら、結果として、頭の中で、 相手に頭を下げるような姿勢を取らざるを得なくなって、「教えて」を日常 的に使用できるようになった頃には、マナーとして毎日唱えていた理念が、 けっこう高い確率で達成できる。

個人的には、「本質」という言葉を使わないよう、普段から気をつけてい る。たかだかこれだけのことで、おしゃべりをしていても、考えなくてはな らないこと、相手に説明をしなくてはいけないことが、ずいぶん増える。

会議の席で、「現実的には」だとか、「それが現実だ」みたいな、「現実」と いう言葉の使用を禁じると、何か問題点にぶつかったときに、諦めないで、 それを前向きに解決していく方向に、チームの空気が変わっていく。

「善悪」を「隔たり」で表現する

インターネットで、誰かが日記に「あいつは頭が悪い」なんて書いたら、 「あいつ」と名指しされた人は不快だろうし、人がたくさん集まるサイトな ら、たぶん炎上してしまう。

「あたまが悪い」だとか、あるいは「すごい」という言葉にしても、基準 になるものさしがないと、感覚は共有できない。ネット世界にも、実社会に も、感覚には本来、基準が存在しないから、「世間」という、共有できる何か を無理矢理それを仮想することで、自分たちは感覚の共有を行おうとする。 ところがそれは仮想でしかないものだから、共有できないものさしは、ト ラブルの原因になる。

あの患者さんのご家族には、「些細なこと」ですぐ怒られるから気をつけ たほうがいいだとか、あの患者さんは「痛がり」で、ナースコール頻回だか らどうにかして下さいだとか、病棟では時々、こんな会話が交わされる。ど のぐらいが些細であって、どこからが痛がりなのか、こういう感覚は、共有 できるわけがないのに、暗黙のうちに、それができることになっている。こ れは危ないと思う。

見る位置が異なっている人同士であっても、お互いの「隔たりの大きさ」 は、絶対的な距離として共有できる。

病棟では最近、細かいところでクレームをつけてくる患者さんだとか、あ るいは説明に納得してくれない患者さんを、「受け止めかたの隔たりが大き い」患者さん、と表現するようにしている。

こういうのも言葉遊びには違いないのだけれど、「あの家族はクレーマー だ」とか、「あの患者は理解が悪い」といった表現の代わりに、「隔たりの大 きさ」という言葉を使うことで、哄笑の対象になりかねない、「理解が悪い」 という言葉は、「隔たりの大きさ」という、克服すべき目標になって、患者さ んに対する病棟の姿勢みたいなものが、書き換わる。

2010.08.02

流れに対する想像力

待ち時間を短くする、あるいは「待った」感覚を減らすための方法について。

米国の、医療過誤訴訟を回避するためのマニュアル本では、とにかく患者さんを待たせてはいけないこと、 待たせたときには、すぐに謝ることが大切なのだと、訴訟回避の方法を紹介している。

待たせないことは最善だけれど、なかなか難しい。絶対的な待ち時間を減らすことは、あるいは難しいのかもだけれど、 お客さんの「待った感覚」を減らすための工夫というのは、まだまだやりようがあるような気がする。

「気にかけています」というメッセージ

待ったお客さんというのは、しばしば不快を感覚するけれど、 その中でも特に、、「自分が流れから取り残された」という感覚が、怒りに直結するのだと思う。

たとえばマクドナルドで注文をすると、問答無用で「トレイ」を渡される。中で食べていくお客さんはもちろん、 持ち帰りの商品を注文しても、中で並ぶと、とりあえず自分用のトレイが用意される。あのトレイはたぶん、 単に商品を置くためのものではなくて、マクドナルドの中の人は、あれをお客さんの分身に見立てているのだと思う。

注文が殺到すると、レジの上には、いろんなお客さんのトレイが並ぶ。乱雑になるけれど、商品が渡されないかぎり、 レジの並びには自分のトレイがあり続ける。あれはたぶん、トレイがそこにあることで、「店員は常にお客さんのことを気にかけています」 なんてメッセージを発信している。

ラーメン屋さんに座席をたくさん用意して、お客さんをみんな座らせてしまうと、 「待ち時間の長い、どうしようもない店」だなんて文句を言われる。座席を減らして、 お客さんを外に並ばせると、「行列のできる人気店」になる。

行列の出来るラーメン屋さんが、待ってもそれでもお客さんが怒り出さないのは、それが行列だからであって、 待っていれば、前に進むし、列にいるかぎり取り残されない。これが大きな部屋にたくさんの椅子と机が置かれてしまうと、 「俺の注文したのはいつ来るんだ?」なんて、お客さんは悩まなくてはならない。

米国の開業クリニックにおいては、電話の待ち時間に対する苦情が一番多いのだという。 電話には、マクドナルドのトレイに相当するものがないから、待っているときの「向こう側」が分からない。 あれは不安で、やっぱりたぶん、怒りを招きやすいのだと思う。

フロー駆動とイベント駆動

手術は順調に終了したのに、裁判になった事例が紹介されていた。

手術自体は、多少の遅延はあったものの、予定どおりに進行していたのに、家族には経過が知らされなかった。 病棟は勤務の切り替わりがあって、その時のスタッフで、手術室のことを知っている人がいなかったものだから、 待っているご家族には、誰も声をかけなかった。そのうち消灯時間になって、電気が消されて、怒った家族は、退院したあと病院を訴えたんだという。

誰のせいでもないと言えばないのだけれど、せめて1時間に1回でも、病棟の誰かがご家族に声をかけていれば、それで回避できた問題だった。

先のことは分からないし、自分たちは普段、「分からないことを口にするな」なんて教わるんだけれど、 あえて予測を行ってみせることで、待ち時間の不快感を、わずかでも減らせる効果を期待できるのだと思う。

「手術は必ず成功します」なんて予測は無理だけれど、たとえば検査を出すときには、たとえはっきりとは分からなくても、 「恐らくは1時間ほど時間をいただきます」とか、これから起きることでなく、それに必要な時間なら、予測を行える。 あるいは全く先の見えない状況のときには、「まだまだ時間がかかりますが、30分後に途中経過を報告しに来ます」とか。

フロー駆動とイベント駆動とのギャップが、不快や不信を生む。

自分たち医療従事者は、仕事をイベント駆動で回す。何かを行って、それが終了して、初めて次の手続きに入る。 恐らくはどこの業界でも、専門家と言われる人たちの仕事は、時計よりも、手続きの結果に基づいて、 次の行動を決める機会が多いのだと思う。

一方で、待つ側の人間は、物事を時計でしか計れない。普段はイベントで仕事を回す自分たちにしてから、 病院を一歩外に出れば、待っているときには何度も時計を確認して、理不尽な怒りに肩を震わせたりもする

進捗状況を可視化する

仕事の進行具合を、専門家でないお客さんに対して、常に見せることが、不快を減少させるのだと思う。

見せかたにも恐らく正解があって、「今はこの工程を行っています」という、手続きを語るよりも、 むしろ「この工程でだいたい7割終了ぐらい」とか、「全部で12ある工程の、現在4つめ」だとか、 フロー的な見せかたを行うと、不快はもっと減少する。

パソコンに何かをインストールするときなんかは、「○○%進行中です」なんて表示が出たり、 あるいはゴールに向かって、横棒グラフが伸びていったり、進捗状況が見せられる。 バックグラウンドで行われていることがなんなのか、自分には全然分からないくせに、 あれを見るだけで、「ああ仕事が進んでいるんだ」なんて、少しだけ安心できる。

こういうものが大切なのだと思う。