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2010.07.28

医療過誤裁判というもの

手元に集めたいくつかの本を読んで考えたこと。自分はもちろん、法律畑は全くの素人で、 幸いなことに、今までのところ、患者さんとの大きなトラブルに巻き込まれた経験はないものだから、 以下に書いたことは全て推測。

訴訟というもの

  • 民事訴訟は、平成9年から平成18年までの10年間で、597件から912件へと大幅に増えている
  • 審議に必要な期間は、東京地裁に医療集中部ができてから、平均30ヶ月かかっていたものが、15ヶ月程度に短縮されつつある

証拠保全から始まる

  • 原告側弁護士の人も、相談を受けて、まずは資料を集めないと話にならない。医療過誤裁判の場合、資料は全て病院の中にあるから、 訴状を作る前に、まずは証拠保全をして、資料をコピーして、話はそこから始まる
  • 原告の人が「あいつを訴えよう」と思ったら、まずはそれ以降の主治医との交渉を、止めないといけないのだという。 証拠保全の手続きというものは、病院に、一種の奇襲をかけるものだから
  • 証拠保全を行う手前の段階だと、そもそも資料が何もない。原告側弁護士に見せられる誠意と言えば、スピードが全てだから、 証拠保全の手続きというのは、ある瞬間にわっと行われるものなんだという。病院に連絡が入るのは、裁判所の人と弁護士、 コピー担当の業者さんとが全部集まって、病院に行く数時間前とかになるらしい。病院側からすると、本当に「急襲」されることになる
  • 裏を返せばたぶん、トラブルに陥った患者さんがいたとして、今までは定期的に交渉をしていたのに、ある日を境に、 潮が引くように何も言ってこなくなったら、これは訴訟の前兆と取ったほうがいいのかもしれない
  • 原告弁護士の人は、「こういう資料があるはずだから用意して下さい」という、検証目録というものを作って持ってくる。 問題になった状況ごと、疾患ごとのリストの模範例みたいなものがあるらしい。「リストに漏れがないように注意」と書かれていたから、 逆に言うと、リストに書かれていないものを、わざわざ病院側が出す必要はないみたい
  • 証拠保全はたいていこの1回が全部で、ここで重要な資料を押さえられないと、その裁判を継続するのは難しくなるらしい
  • 病院側は、請求された情報について、あるのに「ない」といってはいけないらしい。それが出せないなら、たいていは、 出せない理由を尋ねられて、証言として残る
  • これが刑事事件になると、弁護士の人ががコピーを持っていくのでなく、警察の人が、目についた全ての資料の原本を持っていく。 病院側が全部コピーを取っておかないと、以降の弁護活動がままらななくなる
  • 刑事事件だと、主治医は逮捕されて、最初は3日間、最大で23日間拘留される。警察の権限は絶大だけれど、 被疑者を拘束した23日間の間に、自白によらなくても有罪を確定できるだけの決定的な証拠を集めないかぎり、 刑事訴訟は勝てなくなってしまう
  • 23日間は、黙秘が出来る。取り調べの調書を取られても、サインしなくてもいい。そういう拒否一般は、全て裁判の上では、 被告の不利にはならないらしい

訴状というもの

  • 「訴えかた」みたいなのにはそれほどバリエーションがなくて、起きた損害それ自体に対する賠償請求、損害を避け得た相当程度の可能性に対する補償、 あるいは自己決定権の侵害に対する補償の、だいたいがこのどれかになるらしい。記載された損害を、病院側の責任であると立証するための論理が訴状であって、 それを裏付けるために証拠が保全されて、証言が行われる
  • 原告側にとって、証拠というのはたくさん積めばいいというものでは無くて、原告側弁護士が山のような証拠を積んで、 医師の過失と損害との因果関係があいまいになってしまって、意図した効果が得られなかったケースもあるらしい

争点整理と証人尋問

  • カルテがコピーされて、訴状が提出されて、両者の言い分がそろった頃から争点整理が始まる。今はほとんど文章で行われる
  • たいていの場合は、まずは医療者側が事件の経過を文章にまとめ、今度は原告側が、「原告の反論」欄に、意見の異なっている事項を書き込む。 それをもう一度医療者側が読んで、同意できる場所は自分の文章に取り込み、反論欄からその文章を削除する。そうでないものはそのまま「原告の反論」欄に残る。 残ったものが「争点」になる
  • 証拠保全があって、争点の整理があって、そのあと初めて、原告と、被告医師とが顔を合わせる証人尋問の場面がくる。 今は最初に「陳述書」というものを書いて、その日に喋る内容を、あらかじめ相手に通知しておくことが多いらしい
  • 医療訴訟の場合、原告側と被告側とで、医療の知識量に圧倒的な差があることがほとんどなので、被告側からごく簡単な陳述書しかもらえなくて、 当日になっていきなり、陳述書にないことをあれこれ医師に語られると、切り返せなくて大変らしい
  • マニュアル本には、「だから陳述書の内容には注意が必要」と書かれていてたけれど、裏を返せばこのあたりは、 請求されなければ、その日に話すであろう全てのことを書き記す必要はないのかもしれない
  • 文章でのやりとりが増えた昨今でも、証人尋問に際して、医師に対して原告側弁護士が反対尋問を行うときには、腕の見せ所みたいなものはあるんだという。 ミスを犯したとか、あるいは損害の責任は医師側にある、という言葉を引き出すような話術。ここの部分は逆に言うと、 被告の側がはぐらかしてもいい場面でもあって、裁判官の心証を害さないよう、原告側弁護士の人に言質を取られないよう、 「上手くやる」ところまでは、やっていいんだと思う

まとめ

考えてみればたとえば、「3年前からの疲れやすさ、2ヶ月前に尻餅をついてから腰が痛くなって、そういえばこの間の健康診断では脂肪肝と言われました。 2日前から頭痛がして、今日から咳が出るんです」なんて患者さんが外来に来て、「私が健康かどうか、はっきり証明して下さい」なんて言われたって 困るように、裁判官だって人間だから、膨大な診療経過と争点とを全部総合して、「正義がどこにあるのか証明して下さい」なんて言われたって、 やっぱりたぶん、「どれか一つにしましょうよ」なんて応えるんだろうと思う。

のどが痛いのか、それとも腰痛を何とかしたいのか、「どれか一つ」を決めてもらうのが訴状であって、 原告側弁護士の人が、その「どれか」を過失として付いてくるならば、被告たる自分たちの側は、 「膨大な全部」をそこで提示して、論点をなるべく小さく見せることぐらいまでは、戦術としてやってもいいような気がする。

「誠意はどこに置いてきた?」なんて突っ込みはきっとあるのだろうけれど、海外の本だとこのあたり、病院側が誠意を持って対応すべきときは、 訴訟になる手前の段階で、状況が裁判に移行した段階で、誠意という交渉ルールは、裁判という、別の交渉ルールに書き換わるのだから、 新しいルールに対応したやりかたをしないといけないんだ、といった内容が書かれていた。

裁判というルールでは、たぶん「ここ」という頑張りどころがいくつかある。あくまでも素人の妄想で。

  • 証拠保全の場面。原告側弁護士が用意する検証目録に記載のないものは、逆に言うと、出さなくてもいい。 「カルテ一式」なんて言葉はリストに書かれないから、診療記録とだけ書かれてたら看護記録は出さなくてもいいし、 血液生化学検査のリストが請求されていたのなら、わざわざ病理の検査を出さなくてもいいはず。 もちろん弁護士の人周到に準備してくるんだから、穴はめったにないのだろうけれど、わざわざこちらから穴を塞ぎに行く理由はないはず
  • 争点整理の場面。訴状を読むことで、原告側の勝利戦略みたいなものが見えてくるはず。それが「機会の損失」だったら、 たとえば病状説明の病者はごくあっさりと、一方で、実際の治療だとか、他科の医師と疾患に関して協議したないようだとか、 訴状が争点として掲げた部分以外の場所を恐ろしく詳しく記載することで、争点整理の書類を、状況の大部分は病院側が予見した とおりに動いて、原告の争点は、全体のごく一部であるかのように見せることが出来るかもしれない。相手が争点としている場所に、 こちらの全力をぶつけてみせるのは、裁判を「ゲーム」と考えたときには、あまりいいやりかたではないような気がする
  • 陳述書について。これもわずかしか記載しないと、原告側弁護士から、「これを述べて下さい」とか、突っ込みが入るらしい。 裏を返せば、突っ込まれなければ、たぶん陳述書には記載しなくていい。恐らくは、相手の論点を補強するために、ここを陳述してほしい という場所があって、それは訴状を読むことで予測が出来る。あえてそこを小さく述べて、他の場所を一生懸命喋る宣言を行うことで、 ある程度論点ずらすことは出来て、そこまでの範囲は、ルール違反ではないんだと思う
  • 反対尋問の場面。米国の本を読むと、「あなたはこのときの血液生化学検査の結果を見て、危ないと思いませんでしたか?」みたいな質問に対しては、 「血液検査の結果は○○でした」なんて、○○の部分には、その日に行われた全ての検査項目の名前と、その数字、単位まで、恐ろしく詳しく語れと書いてある。 結果全体に対する「感想」みたいなものは、むしろ語ってはいけないのだと。こういう会話のテクニックみたいなものは、恐らくは日本でも、 知らないよりは知っていたほうが、裁判をある程度有利に進められるのだろうと思う
  • こういうのはなんというか、相手に対する嫌がらせみたいな文脈でなくても、たとえば医学用語を「分かりやすく」噛み砕いてしまうと、 恐らくはこちらの意図したものは正しく伝わらない可能性があるし、過去の自分がどうしてそういう決断をしたのか、 今の自分はもう過去の自分でない以上、「分かりません」としか答えようがない。一般論としてどう思うのかを質問されても、 個々の事例を一般で語ることはやっぱり無理で、「答えられません」というしかないのだと思う

2010.07.24

医療過誤訴訟を生き残る

「How to Survive a Medical Malpractice Lawsuit: The Physician’s Roadmap for Success 」という本の抜き書き。

米国の本だから、日本の裁判で、こうした考えかたがどこまで役に立つのかは分からない。

訴訟されるとこうなる

  • ある日いきなり訴状が来る。頭を殴られたような感じがする
  • 最初の数時間、あるいは何日間は、ただただ混乱する。受容には時間がかかる

最初にすべきこと

  • 医療過誤保険の証書を取り寄せなくてはならない。保険の補償範囲について、弁護士を選択する権利について、和解を拒否する権利の有無について、 まずは確認する
  • 保険の制限について。加入している医療過誤保険が、非経済的な症状に対する制限を設けていないかどうかを 知ることが大切。非経済的な症状とは、痛みや苦しみで、これをカバーしている保険に入っている場合には、少しだけ安心していい
  • それらが十分にカバーされていない場合には、今度は自分で、個人資産の資産を保護する方法を検討しなくてはいけなくなる
  • 弁護士を選択する権利が保障されているか?原告側は、しばしば複数の医師を訴え、それには雇用者が含まれていることもある。 保険会社は複数の被告に対して同じ弁護士を割り当てる傾向がある。このことがしばしば、お互いの利害が対立した際に、やっかいな問題を生む
  • 保険の契約によっては、被告自身で弁護士を選択できる権利を保障している。多くの場合、保険会社は特に相談することもなく、会社と契約を結んだ 弁護士を割り当てるので、自分の権利について、積極的に知っておく必要がある
  • 保険会社の目標は支払いを最小限に抑えることで、これはしばしば、契約者の目的とは異なっている。利害の不一致を感じたときには、個人で 弁護士と契約することになる
  • 和解を拒否する権利があるかどうか?大したことのように見えないかもしれないが、とても大切
  • 和解が選択されると、それ以降の医療過誤保険の料率が増加することになる。それを繰り返すと、恐らくは雇用を失ってしまうことにも なりかねない
  • 保険会社は、勝つことよりも、高額の支払いリスクを回避するように判断を下す。彼らはしばしば、勝てると判断されたケースでも、 リスクを回避して、和解を選択しようとする
  • 和解を拒否する権利が契約で保証されていない場合、医師の運命は、保険会社、あるいは保険の支払いを行っている雇用者の 思惑一つで変わってしまうことになる

保険会社に連絡をする

  • 報告を行うことで、初めて話が動きはじめる。雇用者を通じて、保険会社がすでに問題の発生を知っていることは 珍しくないが、それでも報告は、自分でやったほうがいい
  • 訴訟が始まる数ヶ月前の段階で、すでにそれが訴訟になることが予想される場合であっても、連絡を入れたほうがいい
  • 保険会社からのアドバイスをもらうまでは、請求があっても、一切の記録を送付してはいけない
  • 契約している医療過誤保険が、損害賠償請求ベースで運用されている場合には、 将来的に訴訟になりそうなケースが発生した時点で、保険会社に報告をすることは、 賢明な選択になる
  • 医療過誤保険のもう一つの運用方針は、事故発生ベースと言われているもので、 事故の発生した時点から、保険の適用が開始される。この運用方針は、 事故と関係のある訴えであれば、期限に関係なくカバーされるため、報告の 迅速性については、それほど敏感にならなくてもいい
  • 自分の決断が大切。特に雇用者が共同被告人であった場合に、彼らに保険会社との仲介役をゆだねてはいけない

訴状が届いてからやってはいけないこと

  • 問題となった疾患に関する本や雑誌、オンラインサイトを見てはいけない。自身の行動を正当化してくれる情報が見つからないかどうか、 何かを調べたいという誘惑に勝つのは難しいだろうけれど、何かが見つかる可能性は少なく、むしろ立場を悪化させる可能性の方が高い
  • 証人尋問の席では、あなたが証言したあと、今度は原告側の弁護士が、あなたに責任を認めさせるために、 権威ある情報を引用して、攻撃を行う。たとえば「あなたはハリソン内科学や、その他の権威ある教科書を読んだことがないのですか?」など
  • このときに、こうした本を読んでいたなら、そういった権威ある教科書を読んだことを、認めざるを得ない。立場はそれだけ悪くなる
  • こうした事態を避けるためにも、とにかく「権威ある文書というものは一切無いのだ」と、繰り返し、繰り返し、唱えなくてはならない
  • 情報を調べるのは、弁護士と打ち合わせを行い、彼に指示されてから初めて行われるべき
  • 尋問の席で、原告側弁護士は、あなたに対して、訴訟になってからあと、何かこの問題について調べたかどうかを尋ねる。 このときにはこう答えなくてはならない。「いいえ、私は弁護士に求められた情報にのみ、目を通しています」
  • 事件について、誰とも語ってはならない。弁護士と配偶者は、その例外。とくに共同被告人になった人とは、 誰か第3者がその場にいない場所では、決して語り合ってはいけない。誰もいない状況での会話は、あなたを守ってくれることはなく、 むしろ確実に、あなたの立場を悪くする
  • 彼らがたとえ、あなたを助けてくれると言ってくれていても、それが真実になるか どうかは、終わってみないとわからない
  • 原告や、原告側弁護士に連絡を取ってはいけない。あなたは訴訟を取り下げるに足るだけの、相手を説得できる何かを持っている、 と考えているかもしれないが、たいていは失敗する。自分が何か重大な証拠を持っていると思ったならば、まずはそれを弁護士に相談 して、最適な利用方法を探すべき
  • 証拠を破壊したり、改ざんしてはいけない。カルテに何かを追加することで、自分の立場が有利になるかもしれないと 考えるかもしれないが、たいていの場合、もとのコピーのどこかに、改ざんの証拠が残ってしまい、 それがあなたの立場を致命的に悪くする可能性が高い
  • あなたがたとえば日記を付けていて、これがあなたの立場を悪くする可能性が あったとしても、今はそれを破棄すべきときではない。誰も見ていないと 思っていても、狡猾な原告側弁護士は、それを見つけてしまう
  • 嘘をついてはいけない。一度それが分かってしまうと、あなたの立場は失われ、訴訟に負ける。驚くほど多くの医師が、 このルールを破り、勝てる裁判を失っている

弁護士の選びかた

弁護士を選ぶ際には、いくつか気をつけなくてはならない点がある

  • その弁護士は事務所を代表する人物かどうか。単に雇われれているだけの弁護士と、その弁護士事務所を経営する、あるいは 共同経営者になっている弁護士とでは、裁判に対する取り組みかたが変わってくる
  • 勝訴確率あるいは敗訴確率。弁護士により、実際にずいぶん変わってくる。
  • 似たような事例を経験したことがあるかどうか。いずれにしても、選択されるべきは経験豊富な弁護士である必要がある
  • 病院の側に立つのか、主治医の側に立ってくれるのか。裁判にあっては、特に病院と、主治医とが共同被告として訴えられた場合には、 お互いの利害が異なってくることがしばしばある。和解の可能性が示されたとして、それは病院にとっては、 支払いを安く済ませるために適切な選択枝であっても、主治医にとっては、和解を選択することは、将来の選択枝を狭めてしまう可能性を 増やしてしまうことにもなる
  • 過去5年間で、どの程度の訴訟事例で和解したのか。守備的な戦術を好む弁護士は、勝利できる事例であっても、しばしば和解を 選択しようとする

訴状が受容されるまで

  • 裁判が始まる前には、主治医は様々な心理的葛藤を経験する。怒りを脇にのけ、 落ち着くことは大切だが、これはしばしば難しい
  • 裁判におけるもっとも高価な代償は、医師の時間であって、一度裁判が始まると、 心の安まる余裕というものはほとんどなくなってしまう。 もちろん社会的な立場や、財産が脅かされる可能性だってある。たとえ勝利した としても、それまでに費やされる2-3年間という時間は、取り返しがつかない ものに思えてくる。莫大な代償が、主治医に受容されるまでの工程というのは、キューブラーロス の指摘したモデルに類似している
  • 否認。訴状が届くと、たいていの主治医は、最初に無感覚を経験する。この時期に判断を 誤るのは危険で、同時にこの時期が、医師がもっとも脆弱になる時期でもある。 主治医は当初、訴状を否認する。責任を認めようとせず、しばしば弁護士の 意見を聞き入れなくなる。 たいていの場合、よい弁護士は同時に精神科医としての側面を持っており、 こうした事態に対処してくれる
  • 怒り。医療訴訟に巻き込まれた医師は、たいてい怒っている。怒りはしばしば、裁判が 終了したあとも持続する。原告に対する怒り、原告側の弁護士に対する怒り、 何よりも、自身に対する怒りというものが、ずっと続く。 怒りもまた、主治医の立場を危うくする。宣誓の場面、あるいは裁判の場面で、 怒っている姿は、陪審員に先入観を持たせてしまう。裁判所では、あらゆる 振る舞いが観察されていることに、注意しなくてはならない。 怒りに巻き込まれた主治医を冷静にする方法として、最も有効な方法の一つは、 過去に訴訟を経験して、それを生き延びた別の医師と会話をしてみること。 精神科医に相談する被告医師も多い。それはよくあることで、けっして 恥ずべきことではない
  • 取引。「この訴訟が取り下げられるなら、自分はもっといい医師になる」とか、「これから は、もっと防衛的な医療を目指そう」とか、何か上位の存在に対して祈るようになる。 この過程はそれほど大きな問題にはならないが、気をそらすことはしないほうがいい
  • 抑欝。裁判は、個人の生活や、気持ちの持ちように、大きな影響を与える。 抑欝的な気分を自覚するのは全く自然なことで、それは最終的に、 事態の健全な受容に至るまでの中間地点であるに過ぎない。しかし 抑欝的な気分を引きずったままで裁判に臨むことは、破壊的な結果をもたらす 可能性がある
  • 受容。「客観的な事実と感情とが切り離された状態」というのが鍵になる。 事態の健全な受容を行うためには、弁護士ときちんと相談すること、 自分の事例について、もう一度隅から隅まで点検すること、客観的であること、 訴訟というものが、一種のゲームであることを学ぶこと、友人や同僚、 家族や弁護士、あるいは精神科医に、常に助力を求めることが大切になる

答弁書を準備する

  • 公判前の答弁は、裁判の流れの中で、最も大切なものになる。準備が 不十分であれば、勝てる裁判が、しばしば自らの手によって破壊されてしまう
  • 主治医はしばしば、詳しい状況の説明を行い、自らの考えかたを明らかにする ことで、原告側弁護士があきらめてくれる誘惑にかられる。これは明らかに 間違った考えかたで、詳しすぎる宣誓はしばしば自らの首を絞める結果に つながる。「より少なく喋ることが、より良い結果に結びつく」という立場が原則となる
  • 主治医が最初に行うことは、担当弁護士に、経過を 説明すること。弁護士によっては、答弁記載の専門家を雇ってくれる こともある。そういうサービスがあれば、それを利用してもいいし、あるいは 弁護士に尋ねてみるのもいい
  • 共同被告人の方針を知らなくてはならない。名前を連ねる全ての人は、共同して、訴訟の方針を 決定しないといけない。たとえ共同被告人のうち、誰かの責任が 明らかな場合であっても、共同すべきで、犯人捜しを行ってはいけない
  • 誰が「本当の」責任者なのかを答弁の席で指摘してみせることで、自分はその中から 逃れられる、と考えるかもしれないが、それは間違っている。仲間割れをすると、 あるいは共同被告人の誰かから、逆に名指しされるかも入れない。 嘘をつく必要はないが、必要以上に多くを語るのもよくない。ただし 共同被告人に病院の名前が入っているときには、最初から弁護士を分けて、 違った方針で裁判に臨んだほうがいい場合が多い
  • 自分のあとで、治療を担当した医師の記録を取り寄せる必要があるが、 それを自分自身で読んではならない
  • 後を引き継いだ医師が心雑音を聴取しており、自分のカルテに その記載がないときであっても、そのカルテを読んでしまうと、法廷で 心雑音聴取の有無を問われたときに、「いいえ」と答えざるを得なくなってしまう。 このときの正解は、「私は心雑音を聞いたかもしれませんが、カルテには そのことが記載されていません」という言いかたになる。この言い回しは、 カルテの不備を認めるものではあっても、引き継いだ医師と全く別の判断を 下した、ということを認めることを防いでくれる。 引き継いだ医師のカルテを読むタイミングは、担当弁護士の指示に従えばいい

原告側弁護士とのやりとり

  • 丁寧な語調を保たなくてはならない。相手に対して嫌みやあざけりを 言ってはならない。質問者の言葉を遮ってはならない。より少なく喋ることが、 より望ましい
  • 問題が救急外来で発生した際には、忙しさを強調してはいけない。 訴訟事例が救急外来でのトラブルであった際には、「忙しいから」は禁句になる。 そこが忙しいということは、医療従事者にとっては自明であっても、 そのことは、責任の回避や軽減には結びつかない。むしろそうした言い回しは、 陪審員に悪い先入観を与えることになってしまう
  • 返答は可能な限り詳しく。たとえばCBCに関して尋ねられたときには、大事なポイントだけを返すのでなく、 血算にかかわる全ての数字を列挙するのが正しい
  • たとえば「その患者さんには貧血は見られず、白血球のわずかな上昇が 認められました」という返答は間違っている。もっと詳しく、白血球数、 Hb、MCV、MCHC についてそれぞれ述べる、どの数字が自分たちにとって重要なのか、 相手の眼に分かりにくくするのが正しい。原告側弁護士が、特定の日時に採血された データに関して質問を投げかけても、その前後に正常な検査データがあるならば、 それも一緒に述べたほうがいい。そこだけを間違いだと認めさせるのは彼らの 戦略であって、全てを述べることで、それを崩す役に立つ
  • 一方で、原告弁護士が「ここ」という一点にのみ尋ねてきたのならば、 それを簡潔に答えたほうがいい。そうしないと裁判官の心証が悪くなる
  • 医学用語を多用する。公判前の質問を受ける場面においては、病院の内部でしか通用しないような 略語を、むしろ多用するように心がけたほうがいい。原告側弁護士は、 しばしば言葉の説明を求めるかもしれないが、略語を多用することで、 相手に伝わる情報を、より少なく保つことができる

原告側弁護士が用いるいくつかの戦略

  • 除外(rule-out) という言葉に注意する。 たとえば「あなたは虫垂炎を除外していましたか?」という質問は、 典型的に用いられる罠となる。(鑑別診断に入っていることと、 それを除外診断した、という意味とか?)この際にはまず、「どういう文脈で、 除外という言葉を用いているのでしょうか?」と、必ず尋ね返さないといけない。 最初に「除外」という言葉を肯定してしまうと、原告側弁護士は、 被告医師のミスにより、患者さんに被害が生じた、という型に嵌めようする
  • 原告側弁護士は、「ミス」という言葉を使いたがる。このときにもすぐに、 「あなたはミスという言葉を、どういう文脈で使っているのでしょうか?」と 尋ねなくてはならない
  • 複合した質問。2つ以上の質問が含まれた質問には、絶対に答えてはならない。たとえば 「あなたは19時から22時までどこにいましたか?ナースがその時患者さんを 見守っていたことを分かっていましたか?」と言った質問が来たときには、 まずは「申し訳ありません。いくつもの質問に同時に答えることはできません」と、 返答しなくてはならない
  • 前置きを置いた質問。質問が発せられる前に、いくつかの文章が述べられることがある。これを 聞き逃してはならない。たとえば「患者さんの肝機能のうち、4つのパラメーターに 上昇が認められました。あなたはそれを知っていましたか?」といったような。 こういう質問には、注意深く答えなくてはならない。異常を生じているのは、 原告側弁護士の言うように4つのパラメーターかもしれないし、あるいは2つや5つかも しれない。それはほんのちょっとした間違いかもしれないけれど、もしかしたら 周到に仕掛けられた罠かもしれない
  • 2重否定の質問。原告側弁護士は、しばしば2重否定の質問を織り交ぜてくる。 ここで「はい」と「いいえ」とを間違えても、それが議事録に残ってしまう。 極めて注意深く思考してから事実を答えるか、あるいは「あなたの質問の 意味が分かりません」、あるいは「イエスと言うべきかノーと言うべきか、 あなたの言い回しからは判断できません」と答えるのが正しい
  • 想像してはいけない。思い出すことを求められて、それができないときには、「思い出せません」と だけ述べる。一本調子に聞こえるかもしれないが、愚かに見られることはない
  • 仮定の質問に答えてはいけない。何回か「思い出せません」を繰り返すと、原告側弁護士は、仮定で主治医を追い詰める。 たとえば「あなたが今同じ状況に陥ったならどうするか」とか、あるいは 「一般論として、正しい医療はどうあるべきか教えて下さい」とか。 こういう問いに対しても、「その時の自分と現在の自分とは違う。当時の自分が どう考えたのかは、現在の自分では思い出せません」とか、「個々のケースは あまりにも違い、一般論を述べることは出来ません」とか、それぞれ答える
  • 教師のような言い回し。原告側弁護士によっては、医師を「教える」やりかたを好むことがある。 「発熱、息切れ、頻脈を生じている患者さんがいます。何を考えますか?」など。 問題の症例が肺塞栓であったとして、ここで「肺塞栓です」などと答えてはならない。 このときには、「その症状から想起される鑑別診断は、極めて長いリストになります」 と前置きしてから、可能な限りたくさんの鑑別診断を並べるのが正しい
  • 少なく喋ることがより望ましい。原告側弁護士は、あなたの言葉をより多く引き出そうと、一般論で質問を 行い、あなたがより多くミスした、という印象を得ようとする。主治医の側は、なるべく細部に立ち入った、 その症例に特異的な話題を、最小限度述べたほうがいい
  • 質問を先回りしない。原告側弁護士のやりかたが仮に読めたとしても、先回りした返答は、 なんの利益も生まない。先回りされれば、原告側弁護士は、それだけ 多くの質問を発する機会を手に入れてしまうことになる。たとえば原告側弁護士が、それほど強くない薬を「強い」と表現した際には、 「その表現は間違っていると思います」とだけ返答する。それ以上のことを、彼らに教える必要はない
  • イエスやノーの理由を述べてはならない。イエスやノーで返答できる質問に対しては、それだけで答えるのが正しい。 判断の理由をいちいち述べる必要はない

法廷の現場

  • 公判1ヶ月ぐらい前になると、眠れなくなくなり、いらだつ人が増えてくる。 これは自然な反応で、気に病まなくていい。ほとんどの人が、人生最初の 裁判では、パニックに陥る。「これはチェスに似たゲームであって、 正義を判定する場所ではないのだ」と言い聞かせることが、解毒薬になる
  • プロに見える、落ち着いたスーツを着ていくことが望ましい。ドレスコードは州によって違うものの、 裁判にスーツを着ていかないと、心証を悪くすることがある。 同じような理由で、ロレックスの時計は自宅に置いていく
  • 両者の言い分が法廷で述べられたあとで、たいていはまず、被告となった 主治医が、原告側弁護士から質問を受けることになる。典型的なやりかたが いくつかあり、受け答えのやりかたも、ある程度決まっている。罠に嵌める やりかたもある
  • 州によって、被告に許されている返答が限られているところと、どういう返答を行ってもいい場所とがある。 「イエス」「ノー」「質問の意味が分かりません」の3つしか許されていない 州では、原告側弁護士の質問に答えることは、極めて苦痛の強いものになる。 原告側弁護士はたいてい、いくつもの質問を立て続けに発することで、 被告の立場を追い込んでいく
  • 質問に対して自由に返答できる州ならば、被告の立場は幾分楽なものになる。 原告側弁護士の一連の質問に対して、被告医師は、その都度詳しい説明をはさむ ことが出来る。相手の流れを止めることが出来るだけで、これは大きな武器になる
  • 質問を質問で返す方法も、しばしば有効になる。原告側弁護士がこれを遮ったり、 あるいは無視したりすると、陪審員の心証はそれだけ悪くなる。
  • 「このことに同意しますか?」という質問に注意。一見裁判の流れと関係の無いような話題を振られたときには、罠なので 警戒しなくてはならない。こういう質問は、ときに本当に何気ない雰囲気で 投げかけられる。こういう質問が出されたときには、必ず「失礼ですが、 この質問に対する私の考えかたが、どういう意図で用いられるのか、教えて いただけないでしょうか」と聞き返さなくてはならない
  • 素人でも分かりやすい言葉で説明する。公判前の口頭弁論とは逆に、法廷の席では、誰にでも分かりやすい言葉で自分の 意見を説明しなくてはならない。医学用語を使う必要があるときには、 それを用いたあとで、その言葉の意味を説明しなくてはならない。陪審員が、 原告側の鑑定人よりも、あなたの言葉をより分かりやすいと感じたなら、 それが勝利に結びつく

2010.07.17

交渉における先手というもの

外来という場所は、患者さんや、そのご家族と、主治医である自分たちとが初めて遭遇する場所であって、遭遇という状況においては、「先」を取ることを、常に考えておかないといけない。

患者さんの側、特にご家族に「先」を取られてしまうと、治療の主導権が、主治医から奪われてしまう。もちろん全ての決断を行うのは医師だから、主導権は返してもらうことになるのだけれど、こういうときに状況が思わしくない方向に向かってしまうと、あとからトラブルになる。

予期しない遭遇は後手に回る

たとえば多発外傷の患者さんを救急外来で受けて、外科チームがそろうまでの間、主治医が無為に立っていたところを、関係者以外は出入りを想定していない、救急車用の入り口から、ご家族が駆けつけたりすると、いきなり現場に出くわしたご家族は驚くだろうし、現場はもちろん混乱する。主治医の側は、言わば奇襲を受けたようなもので、想定していない事態に遭遇すると、状況は後手に回ってしまう。

病院というのは、そもそもが自分たちが働く場所である以上、現場の予測不可能性は、出来るだけ追放しておかないといけない。鍵をかけられる出入り口は、救急隊が入ったら鍵をかけておかないといけないし、外来の待合室にも誰かを立たせて、身内の人たちが入ってきたら、それが事前に分かるよう、手を回しておくことが望ましい。

常に動き続ける

「先」というものを考える上で、自分たちが待つ側に回るのは良くないことで、ご家族から診た主治医は、常に「動いている」状態であることが、望ましいのだと思う。

たとえば心肺蘇生を行っているときには、主治医はその場のリーダー役として、心肺蘇生から一歩退いた場所で立つことも出来るし、心臓マッサージに参加することも出来る。心肺蘇生の最中、どこかのタイミングで、ご家族に状況を説明する必要があるのだけれど、このときに、フリーになった医師が冷静に説明を行うのと、心肺蘇生真っ最中の医師が、汗まみれで状況を説明するやりかたと、恐らくは後者の方が正しい。

「待ち」の状態に入っている人間には、誰もがたぶん、自然に命令を入れようとする。命令に対する反応は、もちろん受ける側の自由だけれど、それを断ってしまうと、患者さんのご家族に、変なメッセージを返してしまう可能性がある。主治医の身体が動いている状況を見て、相手が「待ち」だと認識する人は、たぶん少ない。ところがたぶん、たとえ主治医がどれだけ一生懸命考えていたところで、状況をじっと見つめて動かなければ、「一生懸命やっている」というメッセージは、恐らくはあまり上手に伝わらない。

主治医が「待ち」に入っていると認識されてしまうと、たとえばご家族から、「こうしないんですか?」とか、「どうしてこうしてくれないんですか?」みたいな質問が出て、ご家族が、状況の指揮権を奪ってしまうことがある。お互い興奮しているから、一度こうなってしまうとここからトラブルが起きやすいのだけれど、医師の身体が動作中であると、恐らくはそれだけで、こういう事態を避けられる。

それがたとえポーズにしか過ぎなくても、主治医は消毒していたり、包帯を巻いてたり、心臓マッサージに参加してみたり、何か患者さんのために動いている状況で、ご家族との遭遇を行うと、恐らくはそこから先の話がスムーズになる。

もう少し冷静な状況、入院している患者さんの病状説明を行うときなんかもたぶん同じで、「今日はこういう話をします」なんて、医師の側から切り出してから会話を行った方が正しい。ここで「待ち」のメッセージを、「今日はどういうことを聞きたいですか?」なんて切り出してしまうと、状況のコントロールが遠くなる。

遭遇には明確な序列がある。

相手に待ってもらって、こちらが迎えに行くのが最上、相手がやってきて、こちらが動いている状況が次善、こちらが停止しているところに、相手がやってくるのが最悪で、遭遇というものにはたぶん、明確な序列が付けられる。

主治医の側が「受け」に回ってしまった状況であっても、たとえばそこから検査をオーダーして、「水入り」を宣言する、一度お互いの時間/空間的な距離を置いて、今度はこちらの側からご家族を迎えに行くと、状況を仕切り直せる。

あるいはたとえば、外来の応対が今ひとつで、患者さんに不愉快な印象を持たれてしまったようなときであっても、外来ブースを出た患者さんは、必ず待合室で会計を済ませるために、待っている。「待ち」に入っている患者さんに、医師の側から出向いて謝罪したり、あるいは症状の注意点や次回のフォローについてのお話をさせてもらったりすると、悪い状況をひっくり返すきっかけが作れたりもする。

このあたりの話題は、五輪書にだいたいそのまんま書かれているんだけれど、武蔵の言葉はけっこう役に立つような気がする。

2010.07.12

グレーな需要を掘り起こす

「欲しいもの」と「欲しくないもの」との間には、たぶん「お金を払うほどではないけれど、あるならほしい」という、グレーな需要というものがあって、値下げをいくら行ったところで、お金を支払うという動作がそこにあるかぎり、こうした受容は掘り起こせない。

グレーな需要は、お金の支払い方だとか、商品の見せ方を変えることで、けっこう大きな市場として、掘り起こせる可能性があるのだろうと思う。

普段読まないものを読みたい

自分がお金を払って買う雑誌は、今だとせいぜい「ムー」ぐらいなんだけれど、医局で当直していると、「週刊実話」だの、「DIME」だの、他の先生がたが置いていった雑誌が積んであって、普段だったら手に取ることはない、こういう本をパラパラめくると、けっこう面白い。自分が直接興味がある内容でなくても、そういうものに興味がある人がいて、それを面白がる人が書いた文章というのは、読んでみるとやっぱり、面白いから。

恐らくはたぶん、あえてお金をそれに支払ってまでは読みたくないけれど、あるならちょっと読んでみたい、というグレーゾーンの需要は、本当はけっこう大きいのだと思う。

「実話ナックルズ」だとか、「漫画大悦楽号」だとか、カストリ雑誌とか、三流劇画誌なんていわれたジャンルの血を引く雑誌はまだまだあって、こういうのを普段買う機会はないんだけれど、読めるものなら、ちょっとどころかぜひとも読んでみたかったりはする。ニューズウィークの英語版を読んでるようなエリートだって、当直室の片隅に、英語の論文雑誌と一緒に、こういうのが山と積んであったら、こっそりページをめくるだろうし。

値下げでは購買につながらない

「ちょっと読んでみたい」というのはしっかりとした需要なのに、ここを掘るのは難しい。スキャンダル雑誌みたいなのが、じゃあ1冊600円ぐらいするのを、たとえば100円に値下げすれば「ちょっと」が実現するかといえば、ふだんニューズウィークを読むような人は、やっぱり買わないだろうと思う。

こういうのをたとえば、電子書籍で、毎月一定の金額を支払ったら、そのサービスに登録してある雑誌を好きなだけ読んでいいよ、というようなサービスを展開してほしい。漫画喫茶を電子世界でやるのとだいたい同じだけれど、一定金額を支払って、何十種類かの登録された雑誌をダウンロードして、自由に読めるようなサービス。お金はどこかの会社が一括で集めて、雑誌ごとのアクセス数に応じて、集まったお金を配分するようなやりかた。

今みたいな「お試し読み」でない、雑誌のサービスパックみたいなやりかたは、恐らくは出版社ごと、ジャンルごとに、これから登場してくるのだろうけれど、できることなら、こういうのは、「固い」雑誌と、その対極にあるような、読むだけで頭が悪くなりそうな、そういう雑誌とを、ごっちゃにしてほしい。

固い雑誌に出来ること

昔はたとえば、エロマンガ本を書店で買うときには、エロ本を真ん中に、上下をAERA だとか、週刊金曜日みたいな固い雑誌で挟んで、店員さんの目から、本当の欲求を隠そうだなんて、なんてよくやっていた。こんなことをしたところで、もちろん会計があるから隠せるわけがないんだけれど、固い雑誌と、そうでない本とを一緒にすることで、本屋さんはその分多くの収入を得るわけだから、そのへんは黙って会計を済ませてくれた。

恐らくは、「本屋さんの目線」みたいなものは、自分自身の内側にもあって、自身の目線圧力が、「ちょっと読みたいんだけれど買うほどじゃない」という、グレーな需要を、購買から遠ざけている。

電子世界で、固い本と、その対極にある本とを混ぜる意味というのはこのへんにあって、固い本というのはたぶん、その下にある固くない本を、自身の目線圧力からも隠蔽してくれる。神田の芳賀書店みたいに、「最初からエロ本しか置かない」というポリシーでやると、たしかに買いやすいんだけれど、そういうお店には、「ちょっと読んでみたい」人は、今度は入りにくくなってしまう。

支払いのルールが変わると、いわゆる「固い雑誌」には、「固くない思惑を隠蔽する」という役割が生まれる。

護送船団みたいに、固い言論雑誌みたいなものが支払いの大義を、隠れた需要を掘る役割を、実話スキャンダル雑誌みたいものが担うようにすると、恐らくは今までだったら支払われることの無かった、グレーな需要に対して、支払いを期待することが出来る。もちろん「固い雑誌だけを読みたい」という人は、それだけを購入すればいいんだろうけれど、カストリ雑誌にあえてお金を支払いたいとは思わないけれど、読めるならちょっとだけ読んでみたい、なんて人なら、こういうサービスがあったら、便利にお金を払う。

それは恐らく本や雑誌でも、あるいはゲームでも、見せかたを変えること、支払いのやりかたを変えることで、新しく掘り起こせる需要というものがあって、ルールを変えて、それぞれの役割を変えてみせることで、いろんな形の購買というものを、そこから生み出せるんだと思う。

2010.07.05

感情労働とコントロール

交渉の目標は「状況のコントロール」であって、いろんな人との応対が必要な感情労働において、コントロールされた状況というのは、「いつでも勝てるけれどあえて勝たない」状態の維持なんだと思う。

誠意では足りない

感情労働分野において必要なのは、そこで働く人の、内的な誠意だとか、前向きな姿勢なんかではなくて、「いつでも勝てる状況」というものなんだと思う。それを想定して、それを維持できるような現場の振るまいかたを規定して、初めてたぶん、外からみたその情景が、「誠意を持った現場」に見えてくる。

「病院でのクレーム対処」みたいな本は、それでも時々読むんだけれど、作者の人が過剰に前向きというか、誠意が大好きな人たちが、現場に誠意をといているところがあって、なじめない。

性悪説に立った交渉の本というのもたしかにあるんだけれど、「相手を3分でねじ伏せる」だとか、今度は露悪に傾いて、それもやっぱり、何か違う。ねじ伏せてしまったら、状況はコントロールできないし、ねじ伏せる本が結局何をしているかと言えば、「警察を呼べ」になっていることがほとんどだったし。

「人と人とは分かりあえるんだよ」みたいな価値を前提にして、どれだけ内的な誠意を磨いたところで、分かりあえるかどうかは、その時になってみないと分からない。ねじ伏せるやりかたは、よしんばそれを知っていたところで、感情の切り売り機会を減らせない。

コントロールされた状況

コントロール出来ない状況の中で感情労働を行うと、感情の切り売りになってしまう。

「切り売り」はお客さんが求めているものでもあって、暫定的な解答でもあるんだけれど、切った感情は戻らない。切り売りして、売り切れて、結局その人がすり切れて、現場はいつか、回らなくなる。

コントロールされた状況では、利害の対立が生じて、妥協の余地がどこにもなかったときには、決断をすれば、いつでも相手に勝てる。それだけの準備を整えて、ようやくはじめて、感情労働は、切り売りでなく、労働になれる。

「いつでも勝てる」が実現されることで、状況はコントロールされる。「いつでも勝てる」が実現して、今度は負けてみせること、「戦いを避ける」という選択枝に、意味が生まれる。無意味な敗北は感情の切り売りだけれど、意味のある敗北は、コントロールの維持に必要な、単なる手続きで、手続きは疲れるけれど、感情の摩耗は最小限にできる。

たいていの場合、ルールはお互いに公平だから、「いつでも勝てる」状況を作り出して、それを維持するためには、常に気を配る必要がある。

「いつでも勝てる」を法律で定めることなんて無理で、どれだけ頑張ったところで、「お客さんよりも自分たちの側が気を配り続ける限りにおいて、いつでも勝てる」状況を生み出せるのがせいぜいで、この状況を維持するためには、常に気を配って、あらかじめ打ち合わせた振るまいかたを徹底して、穴を見つけたら、素早く謝罪して、穴を塞いでしまわないといけない。

気配りは大変で、やっぱり疲れて、立場の上であぐらをかける瞬間なんて来ないんだけれど、この大変さには、給料が出るし、こうして維持されたサービスに対して、お客さんは対価を支払う。感情労働というのは、こういう状況の上で、初めて成り立つ商売なんだと思う。

抑止力の使いかた

「いつでも勝てる」が維持された状況というのは、要するに抑止力であって、一番シンプルなやりかたは、やはり「用心棒付きの飲み屋さん」というモデルなんだと思う。飲み屋さんは羽目を外す場所だけれど、やり過ぎたら、用心棒が飛んでくる。それは乱暴だけれど、恐らくは一番分かりやすい抑止力であって、たぶんそこそこ上手く機能する。

ところが病院に用心棒を置くわけには行かないから、このあたりは、別のやりかたを考えないといけない。それは結局のところ、病院が提供するサービスというものを、「最低限ここ以上、最大ここまで」という、ある公差の範囲できちんと提供することであって、内的な誠意に従った、俺様定義で押しつけた丁寧さなんかじゃなくて、行動規範みたいなものを、全ての職員が共有することで、恐らくはその情景が、外からみると「誠意」や「熱心さ」として写るのだと思う。

抑止力というのは地味な神経戦で、運用する人たちが使いかたを間違えると、効果は簡単に失われてしまう。

湾岸戦争前夜、サウジアラビアに抑止力として展開した米軍は、それを維持することが、しばしば困難になったのだという。たとえばそれは、大統領の態度があるときイラクに対して軟化したように見えたり、アメリカの議員がインタビューに答えて、「米国は決して攻撃はしません」なんて答えたり、軍隊に指示を出す立場にある、文民を代表する人たちが、現場に展開する米軍を、言わば背中から撃ってしまうから。

コントロールの維持には覚悟が必要

せっかくの抑止力は、何度も台無しにされかけて、一方で、「こうなったら早期の開戦を」なんて声が、議員の側から聞こえてきたんだという。抑止力は運用が面倒で、議員の責任は重大で、その割に、効果を実感しにくい。状況のコントロールが達成されたところで、それは要するに「何もおきない」ことだから、つまらない。開戦というのはあるいは、もっと「かっこいい」決断で、戦場から遠い人たちは、とりあえず決定をしてみたくなるのかもしれない。

こうした状況のなか、統合参謀本部議長だったウィリアム・クロウ海軍大将は、議員の人たちを前に、こんな演説を行ったんだという。

「私の見るところ、にらみを利かせるだけでは敵は引き下がらないという結論に飛びつくのは、祖国を過小評価していることになり…、実に不思議なのは、かつて西ヨーロッパで我々の忍耐が功を奏し、ときに信念を貫き通すのが困難な国際問題を処理するための、よりすぐれた方法であることを我が国の歴史の中でももっとも鮮明に見せつけた例を作った一方で、何人かの安楽椅子戦略家たちが、イラクに対する早期の攻撃を提言していることです。1950年から60年代に、ある人々が、ソ連に対して同じような攻撃を仕掛けるよう提言したことを思い出す価値はあると思います」

2010.07.03

接遇の交戦規定

対価をもらってあるサービスを提供する仕事において、危機管理のありかたとして、「平等である」というのは外せないし、平等を実現するためには、そもそも自分たちが提供しているサービスとは何なのか、それを文章化して、全ての職員で共有しておかないといけないのだと思う。

接遇の訓練は、危機管理の側面として学ばれる必要がある。「正しい接遇」というものは、お客さんのためというよりも、むしろ現場の職員を守るために、有事の際に、マネージャーに相当する人が、お客さんに「ここから出ていけ」というカードを切るために、欠かせないものになる。

良さの過剰は悪徳

特定のお客さんに不快感を与えた職員は、プロ失格なんて言われるけれど、特定のお客さんにだけ、想定していた以上の満足を与えてしまった職員もまた、同じようにプロ失格であって、その人の振る舞いは、見直されないといけないんだろうと思う。

「誠意を持って、丁寧に対応しましょう」だとか、「お客さんの心境になって、自らの振る舞いを正しましょう」みたいな、道徳文脈で接遇を教えるやりかたは、やっぱり何か違うような気がしている。あのやりかたで、たしかに現場の空気は良くなるかもしれないけれど、文句を言う人はやっぱり文句を言うだろうし、道徳文脈の講習会を受けたところで、現場はたぶん、そういう人たちから、自分の身を守れない。

丁寧さとか、礼儀みたいなものを、誠意みないな量を積む価値文脈に乗せてしまうと、「俺の方がもっと誠実」みたいな、独りよがりなやりかたをコントロールできない。よしんばその人が、相性のいいお客さんに「いいサービス」を提供できたところで、結果としてたぶん、それを見た他のお客さんが、「どうして俺にはあれがないんだ」なんて、サービスに対する不快を表明してしまう。

礼儀正しさには公差が必要

礼儀というものが、「正しさ」という、プラスマイナス両極端に抑制を呼びかける言葉とセットになっているのは、過剰さを戒めている側面というのがあるのだろうと思う。サービスというものを、過剰にも不足にもしない、ある公差の範囲内に、おさめることが出来て、初めて達成されるものというのがあって、接遇の講習会では、むしろそういうことを教えてほしいなと思う。

過剰さを放置すると、サービスの大義が崩れてしまう。

たとえば過剰に「よくやる」兵士がいたとして、戦争になって、その場所に居合わせた民間人を皆殺しにしてしまったら、軍隊の大義は失われて、戦争は単なる虐殺になってしまう。過剰さは、不足と同じぐらいに悪いことであって、たとえそれが「丁寧さ」みたいなものであっても、基本は一緒なのだと思う。

「一流ホテルではゴミ箱の中身を1週間は保存している」とか、「あるホテルでは、お客さんが車を降りたその時から、フロントマンはその人の名前をみんな把握している」とか、ああいうのは「丁寧だから」そうしてるんじゃなくて、そのホテルではそういうマニュアルを作って、それを徹底的に訓練しているだけなんだ、ということに注意する必要がある。丁寧さが過剰になっても、同じ状況に行き着くことは可能だろうけれど、それが全てのお客さんに、平等に提供できないかぎりは、こうした過剰さは、むしろトラブルの種になってしまうだろうから。

「ここから出ていけ」というカード

サービスの品質を、一定の公差に収めることで、初めてたぶん、「ここからでていって下さい」というカードが切れるようになって、組織の危機管理を行う上で、常にこうした切り札を切れるようにしておくために、そもそも接遇というものは、訓練されるべきなんだと思う。

「お客さんはこういうことを望んでおられますが、うちの設備と人員は、そもそもそういうサービスを提供するようには出来ていませんから、他の施設を当たって下さい」なんてやりかたが、組織の側からみて理不尽な要求を突きつけられたときの、恐らくは唯一最強の切り札になる。ところがこんなカードを切るのは難しくて、正しくカードを行使するためには、いくつもの前提が欠かせない。

「クレーマー」なんてレッテルを貼られた患者さんの家族がいたとして、果たしてその人たちが、人としてそれほどまでに理不尽なことを突きつけているかといえば、外からみるとそうでもなかったりする。現場が「ちょっと」頑張れば、それはしばしば、十分達成できそうに見えてくる。もっと具合の悪いことに、同じその施設で、その「ちょっと」いいサービスを、同じ対価で享受しているように見える患者さんがいたりする。「クレーマー」なんて名指しされた人から見れば、これはもちろん理不尽だし、自らも同じサービスを受けられてしかるべきように思える。こういう状況で、「出ていけ」なんてカードをちらつかせようものなら、ちょっとした不満が、大問題へと発展してしまう。

なんとなく相性の悪いお客さんがいて、その時の気分で出て行けなんて言う店主の店は潰れるし、少しだけ反抗的な生徒がいたとして、その子の親御さんに、いきなり退学をちらつかせたりしようものなら、大問題になる。「お前はここからでていけ」というカードは、正しく使えば極めて強力だけれど、切りかたを間違えると、自らの首を絞めてしまう。

接遇の講習会というものが、そもそも何のために必要なのかといえば、組織を守るため、「出ていけ」というカードを、必要なときに、一番望ましいやりかたで切るためであって、切り札が切り札として機能することで、初めて現場は、余裕を持ってお客さんと接することが出来るようになる。「お客さんのため」というのは結果であって、目的ではないのだろうと思う。

接遇には交戦規定が必要

暴力の応酬は、お互いの兵士が交戦規定に従って行使することで、戦争という、政治の延長として再定義される。

交戦規定が無かったり、曖昧な状況で、その軍隊が司令部の想定を超えて「上手くやった」ら、それは戦争でなく、一方的な虐殺になってしまう。敵とは何か。銃を撃つための条件とは何か。戦いの目的や、勝利をどう定義するのか。何を持って闘い、戦闘を停止するのか。こういうものが文章として示されて、それを兵士が共有することで、虐殺は初めて戦争になれる。

妄想だけれど、恐らくは一流ホテルの接遇マニュアルと、軍隊が作る交戦規定というのは、文脈が似ているような気がする。判断の基準が明快であって、現場がやるべきことが具体的に示されていないと、こういうものは、決して上手くいかないだろうから。

そういうことは滅多にないんだけれど、それでも数年に1回ぐらい、「うちの施設ではこれ以上は無理です」なんて、ぎりぎりの交渉をせざるを得ないときがあって、こういう状況で、病棟のどこかで、「これ以上」を普通に受け取っている患者さんがいると、そもそもの交渉の土台が崩れてしまう。

ところが看護師さんたちは、しばしば過剰に熱心で、交渉のテーブルに着いている目の前の患者さんには「これ以上は」なんて言っている横で、他の患者さんには想定以上のサービスが行われている可能性というのが否定できないから、主治医が交渉の切り札たるカードを切って、そのカードが自らの首を絞めてしまう状況というのが、十分にありうるんだろうと思う。

個人的にはだから、熱心さとか、誠実さで進められる接遇講習会というものを、とてもおっかなく思っているんだけれど、接遇というものの「交戦規定」に相当するものは、今はちゃんと教えられているものなんだろうか?

2010.07.01

「暗い部屋」感想

「暗い部屋」というビジュアルノベルを読んだ感想文。同人ゲームだけれど、Amazon から購入することが出来る。公式サイトはこちら。感想だけ。伏線の検証とか、たとえ話の対比を調べたりだとかはこれから。

暗い部屋
暗い部屋
posted with amazlet at 10.07.01
暗い部屋制作委員会

背景写真と効果音がついた小説形式になっていて、アニメ絵の立ち絵だとか、台詞の朗読はないから、夜の医局で読んでも大丈夫。

背景写真は黒ベースの渋いものが多くて、目に優しい。ちょっと厚めの文庫本1冊ぐらいのテキスト量で、数時間で読めた。

以下、読んでいる間に書いたメモ。

  • 人が人でいるためには場所がいる。壁で囲まれた場所。自分を取り囲む、小さな箱から脱出しましょうなんて、本当にそこから脱出できた人がいたとして、それはもはや、人でない何かなんだろうと思う
  • 箱にはたぶん、最低限これだけの、という大きさがある。最低限を、自分はたぶん「棺桶」であろうと思っていた。このあたりは山本七平の本からの連想。このテキストには、もっと小さいものが示されていた。鍵になるイメージ
  • 居場所がないと、人は人でいられない。役割を演じたり、仕事や会話をしたり、あるいは誰かを傷つけたり、何かを壊したりといった動作もまた、その人が何者かでいるために欠かせないものなんだと思った
  • 物語の序盤、主人公は「居場所のない人」として描かれているように思えた。主人公は人間だけれど、人でない何かから、人として必要なものを、居場所や役割を通じて取り戻していく
  • 居場所はゼロサムゲームみたいになることがある。誰かが居場所を獲得することが、別の誰かの居場所を奪ったりもするし、誰かが人になることで、別の誰かがそれを失ってしまったりすることもある
  • 何人かの登場人物が、物語を通じて居場所を失っていく。じりじりと見えない壁に追い詰められていく描写が上手。壁というのは、見えないくせに迫ってくるのだけは感覚できて、居場所がどんどん小さくなっていく。救いがないんだけれど、あの追い詰められる感覚は大好物
  • 居場所というのはたぶん、物理的な大きさと、役割の重さと、あるいは未来の時間と、それぞれ価値の交換が可能なものに思えた
  • 「もっとかわいそうな人がいる」という感覚は、恐らくは役割を生む。それにすがって、ようやく人になれる人というのが描写される
  • 大事なものは隠しておかないといけない。居場所がない人にとっては、見せることはしばしば、ただでさえ弱い居場所を壊してしまうことにつながる
  • 役割というのはたぶん、外から見える以上に大切。役割を演じることが、居場所を作ることと等しい人にとってはとくに
  • 「その役割はそんなに大事じゃない」とか、取り換えられるなんて指摘をすると、そこに居場所を見出していた人は、居場所を失ってしまう。破壊的な結果になる
  • 「かくあるべき世界」そのものを壁にして、その壁で作った箱を自分の居場所にしていると、実世界とのずれが壁を破壊してしまう。こういう人は、ずれを全力で否定しにかかる。端から見ると病的なぐらいに
  • 未来に居場所を託して、そこにすがっている人というのもいる。こういう人は恐らく、現在に居場所がなくても、それでもなんとか人でいられる。未来と今とをつないでいる紐が切られると、もう生きていられない

商業出版される予定だった原稿が、「諸般の事情」で企画が中止になって、結果として同人出版という形式になったんだという。

商業にするというのは、ある程度の幅こそあれ、典型的な読者だとか、典型的な物語の構造に、テキストを合わせる必要があって、この物語はたしかに、そういう意味で「商業的でない」ところがある。商業的であることと、それが商売に結びつく価値を持っていることとは、同じようでいて、案外違う。

面白いとも違う、怖いとも違う、じりじりとひたすら追い詰められていくような、読者の居場所もなくなっていくような、読むと面白い体験が出来ると思う。