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2010.06.30

そのインターフェースから出来ること

自分が妄想する人型ロボット話の続き。

フィードバックの同軸性

機械に対して,人間側が働きかけて、機械は動いて、結果を操縦者にフィードバックする、このときのフィードバックには、恐らくは「同軸性」みたいな要素があって、同軸でないフィードバックは、よしんばそれが遅延無く返されたところで、人間は気持ち悪さを感覚するのだと思う。

世の中の機械は、基本的にフィードバックなしでもなんとか操縦できるように作られていて、動作に対して同軸なフィードバックを返す機械というのは、たぶんあんまり多くない。

機械というものを、それが外の環境にもたらす影響からでなく、内側の、操縦者と機械とをつなぐインターフェースから妄想すると、フィードバックの同軸性を突き詰めた解答として、人型ロボットというものが浮上する。これが実現すると、やっぱりいろんな意味で面白いんだと思う。

オートクルーズは気持ち悪い

たとえば乗用車のオートクルーズは、車があるていど地形を読んで、アクセルを調整する。坂道に入るとアクセルが踏まれるし、平地に入ると今度は、エンジンの回転数が下がる。中の人はその時、坂を見れば減速を予感するし、平地に入っても、ある程度の加速を想定するから、「どんな場所でも一定速度」という、オートクルーズの制御というのは、どこか落ち着かない。

スピードは一定で、そういう意味では、乗用車の制御は正しいんだけれど、オートクルーズを入れっぱなしにして市街地を走ると、坂にさしかかると車が加速して、平地になると、「こうでないと」という想定を下回るような加速が来るから、なんだか勝手にブレーキが踏まれているような気分になる。

動作は文脈で記述することができて、繰り返される動作は、恐らくは推測ができる。オートクルーズがもっと過激になって、持ち主の動作を読んで記録して、「いつもの交差点」にさしかかったら勝手に減速して、勝手にハンドルを切る車ができたとしたら、ドライバーはたぶん、その車に恐怖すると思う。操縦しているのは自分なのに、あたかもその車は、幽霊が勝手に操縦しているようなものだから。

機械の側は、あらかじめそう命じられた動作を行っているだけなのに、中の人はそれを不快に感じる、こういうのはたぶん、フィードバックのかけかたや、インターフェースのデザイン自体を変えないと、解決できない。

フィードバックが前提のデザイン

それがアクセルペダルなら、「勝手に曲がる乗用車」のそれは、今みたいなペダルじゃなくて、せめて紐付きのサンダルみたいな、坂にさしかかったらアクセルが微妙に押し込まれて、それがドライバーの足に伝わるような構造にしないといけない。ハンドルなんかも恐らくは同じで、ドライバーが常にハンドルに触れていて、車が曲がろうとしたら、それがドライバーの手に伝わるようなデザインを行わないと、幽霊が勝手に操縦しているような感覚が生まれてしまう。

ところが今度は、乗用車がそうなったとして、フィードバックが前提のインターフェースは、ドライバーはハンドルから手を離せない。デザインは、ハンドルから手を離せないことが、不快な感覚を生まないように行われる必要があって、「持つこと」をドライバーに求める現状のハンドルでは、このあたりの煩わしさがどうしても残ってしまう。

命じることが前提のインターフェースと、フィードバックが前提のインターフェースとは、デザインが根本的に異なっていて、フィードバックが前提の機械というものは、最終的にはやはり、「着る」ようなデザインに落ち着くのだろうと思う。機械側からのフィードバックが前提の、「着る」デザインのインターフェースができたとして、今度はそのインターフェースで快適に操縦できる乗り物を想像すると、必然的に、人型ロボットになってしまう。

中の人を書き換える機械

人型ロボットが実世界で役に立つ状況というのは、やっぱりあまり想像がつかない。機械が人型である意味というのは、たぶん外界に影響を与える機能よりもむしろ、外側でなく内側に、操縦する人に、機械の動作を同軸的にフィードバックする、そういうインターフェースを作れることそれ自体にあるのだと思う。

人型ロボットの存在意義というのは、だから軍事や警察、土木みたいな、機械の機能的な側面が求められる場所には無くて、やっぱりたぶん、福祉や介護方面になるような気がする。治療目的の、筋骨格系の病気よりも、もしかしたらもっと中枢に近い場所に、動作を介して治療者が介入するための道具として。

健全さの定義がそもそも無理だけれど、「健全な精神が健全な肉体に宿る」現象というのはたしかにあって、ある動作を訓練して、その動作に身体が適合する頃には、その人の精神もまた、その動作に見合った変化を、多少なりともするんだと思う。

ある精神のありかた、あるいは身体のありかたが問題になっていて、それに対して何かの理由で介入をかける必要が発生したときに、おそらくは人型ロボット、「着る」ようにデザインされた、外界と操縦者とをつなぐインターフェースというものが恐らくは役に立つ。

何か人型ロボットを主役にした物語を転がすならば、人型ロボットが活躍する世界を想像するのでなく、人型ロボットを動かすのに適したインターフェースが要請される状況を想像して、そのために適したメカが人型としてデザインされて、「たまたま」出来上がったそれが、病院だとか、何らかの治療施設から外の世界に飛び出して、実世界との接触が行われると、きっとびっくりするようなことが起きるのだと思う。

2010.06.28

いい人の脆弱性

今は誰もがネットワークでつながっていて、自分がどれだけ気をつけたところで、つながりを持った誰かから、漏れてはいけない情報は、簡単に漏れてしまう。

情報が漏れたところで、そもそもそれが問題にならないような振る舞いをしていれば大丈夫なはずなんだけれど、「漏れた」という事実を受け取る側も、やっぱりネットワークでつながっているものだから、「こんな話を聞いた。御社は一体どうなっているのか」なんて、攻撃者が、別の誰かにそのことを告げたときに、その人が、ネットでの自分の振る舞いを、額面どおりに受け取ってくれるとは限らない。

知らない人ほど恐怖する

ネットに疎い人は、ネットを気持ち悪いと思うし、ネットの評判を必要以上に怖がる。

掲示板での叩きみたいなものは、たいていの場合は他愛のない悪口で、笑い飛ばせば、話はそれで終わる。よしんばそれが、犯罪性を持ったものであったとしても、ネット世間は忙しい。黙って口をつぐんでいれば、1年もやり過ごせば、みんなもう忘れてしまう。

ネット世間に親しんでいる人たちは、恐らくは誰もがこんな感覚でいると思うんだけれど、普段ネットを見ない、ましてや2ちゃんねるを覗いたりしないような人たちは、なかなかそんなふうに割り切れない。「嫌がらせには無視が一番」というのは、あくまでもネット上での常識であって、ネットよりも圧倒的に実世界に親しんだ、ネットをむしろ気持ち悪いと思う人たちに、「ネットでこんな叩かれ方をしている」なんて話を接続すると、恐らくそれは、想定以上に深刻な事態を引き起こす。

「あの人が、あなたの悪口を言っていたよ」なんて告げられれば、たいていの人は、恐らくは「ああこの人とはつきあわないほうがいいな」なんて、告げた人とは遠ざかろうと思う。一方で、「いいことを教えてくれた。あなたは本当の友達だ」なんて、告げられた「あの人」に憎悪をたぎらせる人もたしかにいて、攻撃する側が、こういう人を味方につけると、問題はしばしば、実態以上に深刻な結果を引き起こす。

教育は難しい

「リテラシーを身につけましょう」なんて叫ぶのは、間違ってはいないんだけれど、解決にはつながらない。

漏れてはいけない情報というものは、人を疑うことを知らない、「いい人」から漏れていく。「情報を大切にしましょう」なんて教育を行うと、こういう人はたいてい、いい点を取る。ところが実際に情報を渡されると、情報漏洩する。「いい人」で、「えらい人」というのが、本当におっかない。「鍵を貸して下さい。御社の金庫からお金を盗みたいんです」なんて、ネクタイに背広を着こんで、いい笑顔で握手しながらそう言うと、笑顔で鍵貸してくれる人はけっこういる。

「厳罰化」というやりかたも、恐らくは効果は少ない。「罰は怖いけれど、自分は情報を悪用しようなんて思わないから、全く関係がない」なんて、「関係ない」と思う人から、情報は簡単に逃げていく。

悪い想像力が必要なんだと思う

漏らしちゃいけない情報というのは、むしろ「悪い人」にこそ、管理させるべきなんだと思う。情報があることをまず開示して、それを使えばどういう悪事が働けるのか、それを想像できない人には、そもそもその情報を触らせない、という管理ポリシー。

情報の悪用なんて下らない。下らないし、やらないに越したことはないんだけれど、プライバシーの暴きかた、ゴミ箱あさりのやりかた、カモの探しかた、上手な告げ口や、印象操作のやりかたみたいなものを身につけて、ようやく初めて、「そういうのは下らないよ」って言う権利が生まれるのだと思う。

大学には、事実上すべての扉を開けられるマスターキーがあって、許可をもらった人しか触れなかった。大学祭の前日、事務長からマスターキーを貸してもらって、いろんな悪巧みを妄想してニヤニヤしてたら、「それは鍵屋さんでは絶対に複製できないから」とか、釘を刺された。

思いが顔に出ていた時点で、自分にはマスターキーを悪用する資格なんて無かったんだけれど、マスターキーを手にしてニヤニヤできない人というのは、大切な情報を触ったらいけないのだと思う。マスターキーをもらって悪事を想像できない人、「それは単なる大事な鍵だ」としか認識できない人は、下手すると大学が潰れかねないマスターキーを手に持って、それをふつうの鍵と同じようにしか管理できないだろうから。

それが鍵であれ情報であれ、受け取るときには、それを自分が悪用すると何かできるのか、それをなくすとどういう対処が発生するのか、それがコピーされたり、誰かに奪われるとどういうことが起きるのかを、3つセットで伝える、あるいは想像できる必要がある。

「そんなの伝えられるわけないだろう」なんて思う人、あるいは悪用する自分が想像できない人には、恐らくは情報を託しちゃいけないんだと思う。

2010.06.24

おしまいの型というものがある

型というと、構えだとか、刀の振りかた、あるいは駒の並べかたや進めかたみたいな、むしろ序盤の技術を形容するための言葉に聞こえるのだけれど、達人と呼ばれる人たちというのはたぶん、「おしまいの型」というものを体得していて、ここに向かって、状況を動かしていくのだろうと思う。

名将の勝ちかた

歴史的な「名将」と呼ばれる人たちは、たいていは一つの「勝ちかた」しかしないのだという。戦争を勝つためには練習が必要で、部隊は大きな集団だから、一つの戦術をものにするには、とても長い時間がかかる。戦術というのは、だからいくつものやりかたに習熟することは不可能で、たくさんの戦術に手を出す将軍は、戦争で勝つことはできないのだと。

それは将軍であっても、エースパイロットや剣術の達人であっても、達人と呼ばれる人たちは、恐らくは一つの戦術を、「おしまいの型」として持っているのだと思う。達人にとっての戦いは、相手をある状況に追い込むまでの工程であって、その状況が成立したら、あとは機械的な作業になる。ルーチンワークは鍛えることができて、鍛えるほどに、速く確実なものになるから、結果として達人は、自分の得意な型にはまれば、誰にも負けない。

状況のバリエーションは無限にあって、目指すべき型を持っていない人は、とにかく目先のこの瞬間を有利することいがい、考えられない。そこを勝ったとして、そこからどこに向かって駒を進めればいいのか分からないから、型を持った達人とでは、勝負にならない。

「おしまいの型」は、「必殺技」と紛らわしいのだけれど、別物なんだと思う。零戦の撃墜王であった坂井三郎は、零戦の必殺技である「左ひねりこみ」を、実戦ではほとんど使わなかったと、たしか語っておられた。

勝ちかたは逆側から考える

将棋の振り飛車とか居飛車、穴熊みたいな、様々な打ちかたは、「型」よりもむしろ「必殺技」に近い考えかたなんだと思う。棋士の人たちはたぶん、みんな思い思いの「おしまいの型」というものを頭に描いていて、序盤から中盤の、様々な打ちかたというものは、棋士がそれぞれイメージしているであろう、「おしまいの型」にたどり着くための、手段に過ぎないんじゃないかと思う。

将棋の試合で、どちらかが「参りました」という瞬間が、恐らくは棋士が想定していた「おしまいの型」が、お互いに共有された瞬間なんだと思う。棋士の人たちは先を読むから、どちらかが「型に嵌められた」と気がついた時点で、そこから先は相手のペースで状況が進んでしまうから、ゲームを続けることに意味がなくなってしまう。

勝負事には状況の特異点のようなものがあって、それを知っている人、あるいは特異点に先に到達した人は、そこから先を型どおりに、力技で、半ば強引に、終盤まで状況を進めてしまうのだと思う。

達人は、「そこに至る過程」と、「そこ以降の進めかた」とを、恐らくは別個に、徹底的に鍛えてるから強いのであって、「ただ漠然と強い」達人というのは少ないような気がする。型を体得している人は、そこにたどり着くやりかたと、型自体を極めるやりかたと、自身のやるべきことを限定できるけれど、そもそも型を持っていない人は、ただ漠然と強くなりたいと願うことしかできない。お祈りは役に立たないし、強くなれない。

状況は無限である中で、無限に敗北して祈りに走る人と、無限の中に、強引に有限を見出して、力技に舵を切る人とがいるんだと思う。

あらゆる場所に型がある

「敵」のいるいないにかかわらず、あらゆる業界には「達人」がいて、その人たちはきっと、「おしまいの型」に相当する何かを身につけている。

たとえば弁護士の人ならば、「こちら側は誠意を持った対応を試みたのに、先方が聞く耳を持ってくれない」という型に状況を落とし込めれば、裁判を相当有利に進められる。こういう型を持っていれば、ある状況で相手から論破されたり、自らが頭を下げたりといった振る舞いは、「おしまいの型」に相手を嵌めるための、単なる手段になる。それが手段であるかぎり、腹も立たないし、自尊心も削れない。

うちは古い病院だから、製薬メーカーの人たちが、今でも毎日病院に来る。みんな営業の訓練を受けていて、身なりもきちんと、言葉遣いは丁寧なんだけれど、どこか押しつけがましくて、暑苦しい。あの人たちは、丁寧に振る舞う訓練こそ受けているけれど、相手を型に嵌めるための訓練を受けてないような気がする。

もっと大きな施設にいた頃、製薬メーカーのベテラン営業の人がいて、言葉遣いなんかはいっそぶっきらぼうなのに、「ここ」というタイミングには、いつもその場所にいてた。名前も知らない人なのに、どうしてだか、自分の側から、なにかその人の得になることを提供したいなんて考えさせられた。あれなんかはたぶん、よく言えば「おもてなし」の延長で、自分の言葉で言えば、その人が体得していた「おしまいの型」に、自分はまさに嵌められていたんだろうと思う。

じゃあ自分たちの業界で、たとえば医療者側からみて理不尽な要求を突きつけてくる人たちと相対して、なにかこうした「おしまいの型」に相当する状況が作れるものなのか、正直まだよく分からない。

「満足するような医療を提供できる施設を当たっていただければ、紹介状を書きますから、そういう方向で行きませんか?」なんて、相手の突っ込みに対してこちらは恐怖を表明するやりかたは、暫定的に役に立つこともあるんだけれど、もっと上手なやりかたはきっとあって、どこかに「達人」がいるはずなんだけれど、「型」を説明した交渉の本は、自分たちの業界にはまだまだ少ない。

2010.06.20

動作が意識に先行する

  • 「動作には文脈があって、身体というものは、頭から、あるいは環境から入力された動作文脈に対して予測された次の動作を返す、 一種の推測変換エンジンである」と仮定する。
  • 生まれたばかりの生き物は、恐らくは空っぽのデータベースしか持っていない。人間の子供は、だから手足をばたばたと動かして、 試行錯誤の結果として、はいはいとか、歩行といった動作を獲得していく。この獲得は、動作の拡張というよりも、むしろ 無駄な動作をそぎ落とすことによって行われる
  • 様々な動作には、それに意味があったのかどうか、意識による重み付けが行われる。どこかにたぶん、状況ごとに推測されるべき、 「次の動作」のデータベースみたいなものがあって、意志だとか、外界からの環境刺激がそこに入力されると、 身体は、それまでの動作文脈から推測された、次に来るべき動作を返す。「推測」という工程を入れることで、動作が先、 意識はそれを追認するという状況が生まれる
  • 動作の結果は、今度は意識によってそのふさわしさが後付で評価されて、データベースの重み付けが変更される
  • 身体にとっては、意志と環境は、地続きのものとして解釈され、区別されない。お腹がすいたという刺激も、雨が不快だ、 道がぬかるんでいる、岩場の上にいる、怪我で足が動かないといった情報も、すべては文脈として解釈され、今までに行われた 動作と、新しく入力された情報が文脈となって、次に来る動作が推測され、表現される

こういうの読みたい

  • 動作が主役になる状況を仮定しないといけない。敵がいて、味方がいる。戦闘が必要。ハインラインの「宇宙の戦士」世界がそのまま
  • 脊髄部分に巨大な動作文脈推測エンジンを積んだ、パワードスーツみたいな謎メカを仮想する。これが戦闘機であったり、車輪のついた乗り物になると、 動作の意味あいがずいぶん変わってくるから、動作の物語には、やっぱり人型メカが欠かせない
  • 工場からロールアウトしたばかりのこの機械は、乗っても動かない。動作データベースは空っぽで、操縦席には操作パネルと、 操縦者の意識を快、不快の形で読むためのセンサーが組み込まれている
  • 機動歩兵の新兵は、新品のパワードスーツを、自分で教育しないといけない。「はいはい」から始まって、よちよち歩きを獲得して、 データベースが充実していくほどに、パワードスーツは身体の延長となって、自身と機械との境界はあいまいになっていく
  • 新兵である主人公に、親友でも恋人でも、適当に近しい人物を仮想する。訓練を受けて、お互いがパワードスーツを身体の延長として 操作できるようになる。たとえば戦う前に、お互いの拳を打ち合わせるとか、そういう動作を癖として設定する。 で、新兵段階を終えて、舞台を戦場に置き換えてしばらくして、この人物を舞台から削除する

空っぽの機械にできること

  • 舞台には、主人公と、主人公の乗ったパワードスーツと、もう一体、空っぽのパワードスーツが残る。ただの機械だけれど、 脊髄部分には、いなくなった相手の動作文脈が、データベースの形式でそのまま残っている
  • 操縦者がいなくても、電源を入れれば、データベースは外からの刺激に応じた「次の動作」を、推測して返す。 主人公が、拳を空っぽのパワードスーツに向けると、操縦者がいなくても、空っぽの機械は、自らの拳を打ち返す。 それはスーツの外部センサーが、友軍の拳を認識して、データベースがふさわしい反応を返しただけのことだけれど、外からみると、 あたかも空っぽの操縦席に、いなくなった誰かが生きて乗っているように見える
  • 空っぽのスーツは、あるいはそのまま戦えるかもしれないし、戦闘の最中、でくの坊みたいに突っ立っていながら、 主人公が撃たれる状況にあって、敵の弾丸と、主人公の危機とをスーツが認識して、主人公をかばってみせるかもしれない

その先

  • こういう乗り物は、徹底的に鍛えると、人間が操縦する必要がなくなってしまう。中の人は、戦う意志とか、 前に進む意志を機械に入力するのが仕事のすべてになって、あとは周囲の環境と、人間の意志との相互作用から、次の動作が推測されて、実行される
  • スーツの育成段階を通過したあとは、人間の仕事は、意志の生成と、意識による動作の評価が全てになる。この状況だと、 もしかしたら戦闘中にパイロットが戦死しても、機械はそのまま戦いを続ける。基地に帰還して、コックピットを開けてみないと、 中の人物が生きているのか死亡しているのか、外からみただけでは分からなくなるかもしれない
  • 人間と機械との境界があいまいになると、あるいは「他人のスーツを着ること」が、意識の変容を生む。 「戦死したものすごく強かった人」が使っていたパワードスーツに新兵を乗せると、外からみると、スーツは正しい動作を行っているのに、 パイロットにとってはそれが「不快」として感覚される。パイロットの意識によるフィードバック経路を遮断すると、もしかしたら 「靴に足を合わせる」現象が発生するかもしれない
  • 新兵は、最初の頃こそあらゆる動作に違和感を覚えるだろうけれど、違和感が機械に伝わらないことを認識して、それを受け入れてしまうと、 今度はもしかしたら、機械の動作を「快適である」と認識しはじめる。全ての動作が「快適」になったとき、動作の評価装置であるはずの 新兵の意識というものは、なくなった歴戦の勇士のそれと、区別がつかなくなっているかもしれない
  • 考えかたが危険すぎて除隊処分になった、狂戦士みたいな兵士が駆っていた機体を新兵が引き継ぐと、やはりこうした違和感が発生する。 今度は逆に、フィードバックループを切らないでおいたら、たとえば「動いているものを見たらすぐに引き金を引く」という、狂戦士の動作が、 まだ引き金を引くのにためらいのある新兵の意識と衝突することになる
  • 衝突を通じて、新兵は狂戦士の意識に乗っ取られてしまうのか、それともパワードスーツに対する違和感からものすごい平和主義の人物に なってしまうのか、あるいは司令部の側で、こうしたフィードバックループに介入したら、兵士の意識はどう変化するのか、いろいろ 面白いと思う

2010.06.16

不自由な言葉は話が通る

楽天の社内公用語が英語になった という記事を読んで考えたこと。

あえて「みんなが不自由な言葉を使う」ことで、得られるものというものが、案外たくさんあるんじゃないかと思った。

日本語は誰もが得意

楽天は日本の会社で、勤めている人のほとんどは日本人だろうから、日本語を使いこなすのが上手な人は、きっと多い。会社という場所、あるいは会議という場所で必要なのは利害のすり合わせだから、「得意な言葉」でそれをやると、誰もが言葉を飾ろうとする。

たとえば何かのプロジェクトがあって、投資した金額に見合った利益が得られなくても、官僚の人なんかはしばしば、「経済効果」なんて言葉を使う。お金を入れて、資金が回収できなくて、それを一言で表現すれば「失敗」なんだけれど、得意な言葉で失敗を語ると、「このプロジェクトがもたらした無形の経済効果は、きっと将来我々にとって、多大な利益をもたらしてくれるものと期待しています」なんて、お金が回収できなかったという事実は、将来への期待に置き換えられる。

そこに集まった人、とくにリーダー役の人が英語が不得意だったなら、こういう報告を「英語でお願い。俺にも分かるように」なんて言われて、たいていの人はたぶん、「ごめんなさい失敗しました」以上の会話ができない。英語がぺらぺらの人であっても、英語が不得意なリーダーに、英語で飾った言葉を発したところで、通じることはないだろうから。

制約と生産は逆比例する

現状間に合っている場所に、あえて不便さを持ち込むと、生産性がかえって高まる状況というものが、きっとあるのだと思う。

みんなが日本語で仕事をしている職場に、あえて英語を導入すると、今度は「英語が得意な奴ばっかりが実力以上に得をする」という状況が出現する可能性があるんだけれど、この状況は、リーダー役の人が英語が得意で、その人に、人を見る目が全くないという条件が両立していないと発生しない。

英語が不得意なリーダーが、無理して英語を使おうとすると、会議室では「俺。頑張る。これだけ儲けた。成功。」みたいな、なんだか言葉を覚えたての類人猿みたいな言葉があふれる。英語が得意な人がいたとして、自分の業績を美辞麗句で飾り立てても、リーダーには伝わらないし、下手するとリーダーの機嫌は悪くなる。

得意な言葉の奥深さみたいなものが、話を不必要に分かりにくくしている側面というのがたぶんあって、言葉を飾らない、言葉をひねらない、最小限の語彙で、阿呆でも分かる会話を心がけるルールが徹底されると、会議はずいぶん簡単になる。

美談とか、道徳の運用みたいなことは、言葉を発する側、それを受け取る側の両方が、その言葉に得意でないと、やりにくい。不便な言葉をあえて現場に導入することで、語ったり、飾ったりすることの効果が減って、判断すること、行動することの価値が、結果として高まる。

「要するに、何がおきたのですか?」なんて尋ねたくなる状況というのはいろんな場面で発生して、その時に、「要するに」という言葉が、相手から「要するに」を引っ張り出せる可能性というのは、日本語というリッチな言語メディアをお互いに使っていると、なかなか難しい。

「簡潔な会話で語るように精進しましょう」なんてスローガンを出しても、空気はそんなに変わらないけれど、「特定の単語を禁止する」とか、「一言は140字以内」みたいなやりかた、「明日から英語」みたいなルールというのは、代替案として有効な場面があるのだと思う。

2010.06.14

謝罪は切り返しの出発点

謝罪というものが、事実と感情とを切り離す道具なのだとしたら、説得という行為は、事実に対してその人が抱いた感情を表明して、生み出された感情と、相手の行動とを接着しようとする試みなんだと思う。

無理矢理の「説得」に対して、素早く「謝罪」を行うことで、問題は初めて、事実だけを扱える。謝罪なしに事実を論じると、恐らくはもっとこじれる。

事実と感情が手をつなぐ

麻薬系鎮痛薬の中毒になった人が、救急外来にはたまに来る。

何かの病気を訴えて、ものすごく痛がって、診断書は持ってるなんて、文字のかすれた、診断書のコピーを見せる。大学名のところはにじんで読めなかったりする。こういう人には、麻薬の処方を行ってはいけないとされているんだけれど、断るのはそれなりに難しい。たとえばこのとき、患者さんが持ってきた診断書を「偽物だろう」なんて断じるのは最悪で、泥沼になる。

患者さん本人は、「痛い」といって病院に来ている。診断書が偽物であることと、本人の痛みとは関係ないし、もしかしたら患者さんは別の病気で本当に痛がっていて、たまたま「いつもの病気だ」と思って、診断書を見せているのかもしれない。「本人が嘘をついて、麻薬をせしめようとしている」のは、いくつもある可能性の一つであって、「偽だろう」という指摘は危ない。

やったことはないんだけれど、「その診断書はどうせ偽物でしょう?」なんてやった日には、大変なことになる。患者さんはたぶん、「俺はそれが本物だと信じてる。お前はそれで、診察もしないで、痛んでいる患者をその程度のことで疑うのか?」とか、外来の主治医をなじる。なじった上で、「謝れよ。お前俺の痛みのことどうでもいいって思ったろ?そうじゃなきゃ痛む患者ほっといて診断書確認するとか、ありえないよな?俺は痛いって言ってるんだよ。まずは謝れよ」って相手を怒鳴る。怒鳴ることで、これは何をしているのかと言えば、医師側の「感情」と「事実」とを、接着することを試みている。

説得は感情と行動の接着

「謝れ!」と言われて、たぶんドツボにはまる医師は、そこではじめて謝罪する。謝罪を表明したところで、恐らく今度は、「じゃあ麻薬くれよ」なんて話になる。

謝るけれど麻薬は出せないなんて切り返そうにも、このときすでに、患者さんは「怒り」という道具を使って、医師側の謝罪表明と、麻薬を処方するという行動とを強力に接着している。処方できないなんて言ったら、たぶん「じゃあ俺を信じてないんじゃないか。謝ってないじゃないか!」って、また怒鳴られる。面と向かって怒鳴られるのはけっこう疲れるし、この段階で、患者さんの怒りと、自らの行動とを分離しようにも、難しい。

ここで謝罪して、麻薬系鎮痛薬を処方してしまうと、今度はたぶん、その医院は「かかりつけ」になる。日本中から痛みを表明する患者さんが集まって、主治医が身動きできなくなった頃、患者さんの側から「えらい人」が出てきて、お金を引っ張る話が切り出されるのだろうと思う。

まず謝罪してから切り返す

こういうときの正解は、主治医の側から「私は無能すぎて、あなたの痛みがどの程度なのか、麻薬を処方するに値するものなのかすら、判定できません」なんて、ひたすら謝り倒すことなんだと思う。患者さんは診断書を掲げるし、診断されてるんだから処方しろって怒鳴るんだけれど、診断書の真偽を議論の俎上に上げると、たぶんその時点で全て持って行かれる。

「謝罪」という行為は、「事実」と「感情」とを切り離す道具なのだと思う。

救急外来に麻薬をもらいに来る人は、恐らくは偽の紹介状と、偽の痛みを携えてやってくる。どちらかが真ならば、普通はかかりつけの病院に相談するだろうし。こういう人たちに、「診断書が偽である」ことを証明できたとしても、「痛みが偽である」ことを証明することは、絶対にできない。痛みは測定できないからこそ、痛みに対してはとにかく謝罪して、紹介状の真偽と、痛みの大きさとを、真っ先に切り離さないといけない。

麻薬をもらいに来る側は、事実と感情とを切り離されると、もう麻薬をもらう大義がなくなってしまうから、これを強引にくっつけようとする。だから怒鳴るんだけれど、この時点ではまだ、「痛みに対する疑念」という医師側の瑕疵が出現していないから、ひたすらに頭を下げ続けていれば、一応なんとかなる。

こういうのはたとえば、患者さんのご家族が、何かこちらの不作為とか、治療の瑕疵、「ここにある擦り傷はなんですか?」とか、「久しぶりに来てみたらおむつが濡れていたんですけれど、この病院は何をしているんですか?」とか、突っ込んで、たとえば入院期間の延長を勝ち取りに来るのを切り返すときにも使えたりもする。

「病院に瑕疵はありません」だとか、「医学的に間違っていない」なんて主治医が表明しても、切り返しにならない。お互いに不満を残すし、この先もちろん、擦り傷がもう一つ増える可能性だってあって、こういうときに、あとが無くなってしまう。

こういうときにもたぶん、突っ込んできたご家族に対しては、「全面的におっしゃるとおりです。そのとおりなのですが、我々の施設では、患者様が満足するようなサービスを提供することは、実際問題不可能です」なんて、まずは事実について、謝罪するのが正解なのだと思う。最初に謝罪を表明した時点で、今度は「不可能であることを求められて、主治医である私は、今それを提供できないことを恐ろしいと感じています。それを分かって下さい」なんて、自分たちの「恐怖」という感情を表明する。恐怖を表明した上で、「満足するような医療を提供できる施設を当たっていただければ、紹介状を書きますから、そういう方向で行きませんか?」なんて、話を切り返す。

やっていることは、これは麻薬中毒の人たちが使っている方法論そのまんまなんだけれど、主治医の側は、家族の指摘を否定していないし、ご家族の側からは、主治医の感情を否定することも、またできない。

突っ込まれて、切り返して、単なる拮抗状態が生じるだけなんだけれど、あとはとにかく患者さんの転機をよくすることに全力を挙げれば問題は前に進むから、主治医の側は、こうした議論で「勝つ」必要は、通常発生しない。

感情を使った交渉の方法

交渉の俎上に「感情」と「事実」という、2つの貨幣を並べて、相手の「行動」獲得を目指す、こういうやりかたを体系化して解説している本というのがどれに相当するのか、よく分からない。

事実と感情とを接着しつつ、相手の自尊心を刺激して、謝罪閾値を引き上げるやりかただとか、逆に怒りにまかせて謝罪を命じて、相手側に「謝罪の引き受け」と「行動」とを同時に呑ませたりだとか、あるいは先に謝罪を表明して、事実と感情とを切り離した上で、事実の真偽を議論の俎上に上げるやりかただとか、明示的に行われることは少ないかもだけれど、日常生活の会話というのは、たいていこんなやりかたをしているのだとも思う。

こういうやりかたは、事実をやりとりする論理スポーツである「ディベート」とも違うし、法律家のやりかたとも違う。心理学の人たちも、あんまりこういうやりかたはしないような気がする。プロのやくざとか、テキ屋の人たちのやりかただけれど、「ヤクザに学ぶ○○」みたいな本には記載が無くて、方法論としては軍事学が少しだけ近い気がする。

政治家の人たちは、本来こういうやりかたのプロフェッショナルでないといけない気がするんだけれど、政治学の本を読んでも、「契約は守るべき」とは書いてあるけれど、「破るのが前提の約束を、どうやったら支持率を下げずに破れるのか」みたいな議論はあんまり書かれていない。

体系化してまとめると、けっこう面白いと思うんだけれど。

2010.06.08

ドクトリンを学びたい

ワシントンマニュアルという、ずいぶん昔から改訂が重ねられている教科書の33版を読んで考えたこと。

差分を知るのは大変

ワシントンマニュアルの33版はずいぶん厚くなっていて、今回のは1000ページを超えていたけれど、内容の骨組みみたいなものは、それほど大きな変更はないように思えた。細かい知識のアップデートはあちこちにあるのだろうけれど、ざっと読んだかぎりは、全く知らない考えかたみたいなのは、それほど多くなかった印象。

こういうのはそれでも印象論にしか過ぎなくて、実際問題、昔の版とどこが変わって、その変更が、これから先の臨床でどう生かされるべきなのか、変更が加えられたとして、それはどういう考えかたに基づいて、作者の人は、読者にどういう意図を汲んでほしいのか、新しい版画出て、読者として本来知りたいこういうことは、細かく読まないと分からない。

改訂の重なった本というのは、過去の版との比較を行うことで、いろんなものが見えてくるんだけれど、内容も違えば、レイアウトも微妙に異なる分厚い本で、一人でそれを全部やるのは難しい。毎年改訂されているCurrent Medical Diagnosis and Treatment は、「今年はここが書き換わりました」というページを別に設けていて、こういうのはありがたいんだけれど。

アップデートカンファレンスというのがあった

研修医生活を送った病院には、「アップデートカンファレンス」というものがあった。

ワシントンマニュアルの新しい版が出版されたときに開催される、研修医お断りの勉強会で、病院内での勉強会だから、研修医はもちろん出席してもかまわないんだけれど、質問は許されない。

その勉強会に参加する上の先生達は、新しい版に全部目を通してくるのが大前提で、勉強会では、前の版から何が変わったのか、その変更点は、どういう意図に基づいていて、それは演者の考えかたと比べてどうなのか、各科の先生がたが順番に演題に立って講義した。新しいワシントンマニュアルを一刻も早く自分のものにして、研修医にものを教えるための方針を、教える側で共有しようという試みだったのだと思う。

もうずいぶん昔のことだからうろ覚えだけれど、カンファレンスは平日の朝から晩まで、講師1人あたり持ち時間を50分、休憩10分だったと思う。教室の前のほうには上の先生達が座って、研修医は出席こそ許されたけれど、英語の本を通しで読んでた奴はいなかったし、講義の内容はひたすら差分だったから、そもそも質問もできなかった。

講義は「総論」、「循環器/不整脈/集中治療」、「呼吸器」、「腎/電解質」、「感染症/抗生剤」、「消化器/肝」、「血液」、「内分泌」、「神経」の各課の部長が担当して、最初に旧版から改訂された場所を読み上げて、そのあとで、その章を書いた人の意図みたいなものが解説されて、最後にたしか、その意図に対して、この病院としてどうしていくべきか、その先生の意見みたいなものが語られたのだと思う。

あの勉強会はだから、研修医を勉強させるというよりも、研修医を教える側が、施設として同じドクトリンを共有しようよという試みで、今から思い出しても、あのやりかたはけっこう進歩的だったような気がする。いい習慣だと思うんだけれど、今はどうなっているのか分からない。

ドクトリンは大切

ワシントンマニュアルという本は、良くも悪くも中途半端なところは否めない。ポケットに手軽に入れて持ち運ぶには大きすぎるし、じゃあ最新の詳しい知識が何でも載っているかといえば、今は電子媒体が発達しているから、書籍メディアではどうしたって情報量で追いつけない。

ポケットに入れてちょっと参照すればいい状況なら、今はMGHのPocket Medicine があるし、UpToDate みたいなデータベースにアクセスできる人ならば、詳しく知りたいことは、PCを叩いたほうが速い。

それでも病棟に出たばかりの人は、やっぱり「内科の考えかた」みたいなのをどこかで知っておく必要があって、漠然とした考えかたの方向性みたいなものを把握しようと思ったら、ざっと読みで一通りの知識が手に入る、ワシントンマニュアルみたいな本を開いてみるのが今でも正しいのだと思う。これをUpToDate でやろうとすると、もう情報量が莫大すぎて、ちょっと通しで読んでみる、なんてわけにはいかないだろうから。

たとえばアメリカ海兵隊には「WARFIGHTING」という本があって、そもそも戦うとはどういうことなのか、海兵隊であるとはどういうことなのか、海兵隊的な戦いというのは、どういうものを目指しているのか、そういうのを伝える試みが為されている。考えかたの本だけれど、描写は具体的で、腑に落ちる。自分たちの業界でも、このあたりをヒポクラテスに丸投げしないで、施設ごとの考えかたみたいなのをまとめて示すべきなんだと思う。

考えかただとかドクトリンみたいなものは、それだけを抜き出して語られると、どうしようもなく暑苦しい。

こういうのはたぶん、具体的な事例を通じて、知識をとり入れていく中で学ばれる必要があって、あるひとかたまりのマニュアル本を例に出して、「これはこう言う考えかたに基づいているんだよ」という解説を行った上で、その上で「俺ならこう言う考えかたで道筋を作るよ」という考えかたを語ってもらうと、きっと面白い。

今の勉強会というのはなんというか、哲学を暑苦しく語るのがみっともないから、それぞれの分野でひたすら最新を追っかけてるような気がする。本来はたぶん、哲学があって、それに基づいた演繹があって、それを検証したものが、最新のデータとして供されるべきなのだろうけれど。

たとえば胸が苦しい患者さんがいたとして、最初から心臓カテーテル検査に持っていくのを前提に検査を始める施設と、そういう検査は「最後の総仕上げ」的なものと考えて、最初はむしろ、心臓から遠いところから思考を進める考えかたと、教科書を開けば同じことが書いてあっても、それぞれの検査だとか、治療薬に対する重み付けみたいなものは、人によってけっこう違う。

エビデンスの時代にあって、それでも考えかたみたいなものは厳としてそこにあって、それを知ったり、あるいは自分の考えかたが、世の中の常識から見てどの程度王道で、どの程度独特なのか、教科書をざっと読みしても、それを把握するのは難しい。その人の考えかたを口にすることが年々難しくなる昨今だけれど、「アップデートカンファレンス」みたいなものは、今の時代でもあっていいんじゃないかと思う。

2010.06.03

理解は大切

交渉ごとというのは今のところ、「理解」「説得」「納得」というのが基本的な流れであって、納得が達成できなかったときに、話を切り返す起点としての「謝罪」というものがあって、交渉は、このサイクルを回しながら、最終的な「納得」へと導く技術なんだろうと考えている。

いずれにしても、交渉のはじめには「理解」があって、相手に対する理解と、自分自身が何を知っていて、何を知らないのか、きちんと理解していないままに臨んだ交渉は、グダグダになってしまうのだろうと思う。

昔話

3年目ぐらいの頃、僻地の施設に飛ばされていて、患者さんを「追い出す」役割を仰せつかったことがある。

80歳をずいぶん過ぎた糖尿病の患者さんで、糖尿病のコントロール中だったのだけれど、夜になると居酒屋さんに飲みに行ったり、インスリンの量を勝手に変えてみたり、病棟でたばこを吸ったり、とにかく問題が多かった。

その施設に来たばかりの頃、看護師さんたちから「手に負えないから退院を促してくれませんか」なんて言われて、その気になった。この頃は今以上に馬鹿だったから、ろくすっぽカルテを調べたわけでもなく、「不良」患者さんを追い出すために、白衣を着た保安官よろしく、勇躍病室に乗り込んだ。

「あなたは約束を守らないし、糖尿病のコントロールもいい加減だし、入院していても厳しいから、あとは外来でやりましょう」なんて、丁寧に、それでも決然とした口調を意識しながら、自分よりもはるかに年上の患者さんを諭そうとして、もう手も足も出ないぐらいに言い負かされた。

  • 「先生、俺はたしかにいい加減かもしれない。病院の約束を全部守るなんて無理だ。でもね先生、俺は自分自身、インスリンを自分で調整したり、食事の量を加減したりして、最近ではずいぶん、血糖値も下がってきて喜んでいたんだ」(言い返せなかった)
  • 「先生、俺が今インスリンをどれぐらい打ってるか知ってるかい?」(知らなかった)
  • 「今日の夕方、血糖値が68まで下がったんだ。嬉しかった」(知らなかった)
  • 「先生、俺は力もない年寄りだけれど、それでも入院させてもらって、今ではずいぶん血糖値もよくなって、喜んでたんだ。それでも先生は、出ていけって言うんだね」(そもそもよくなってることを知らなかった)

穏やかな口調で諭されて、もちろん一つも反論できなくて、そのまま逃げ出すようにして帰ってきた。

撤退してみて、やっぱりどうあがいても自分の側が悪かったから、もう一度病室に出向いて、「申し訳ありませんでした」なんて謝った。「分かればいいんだ」なんて、患者さんから肩叩かれて、その人は結局、以降「問題」を起こさずに、2週間ぐらいで退院した。

その人はテキ屋をずっと続けていた方で、会話のプロを相手に、駆け出しの自分が勝てるわけがなかったんだけれど、その頃はまだ、正義というものをずいぶん信じて、正義に甘えきっていたものだから、患者さんのことを何一つ把握していなくても、余裕で勝てるなんて思ってた。

理解が大切

それが何であれ、交渉を始める段階にあって、理解というものはとても大切なんだと思う。

相手がどういう人なのか、何があった結果として交渉をしなくてはいけないのかを知るのはもちろんだけれど、自分自身に対する理解というもの、自分は相手について、何を知っていて、何を知らないのか、相手が何を不快に持っていて、何をすまないと思っているのか、その人がどういう振る舞いをする可能性があって、それに対して自分自身は、どういうカードを切れるのか、それを把握しないで交渉に臨むと、交渉ごとは失敗してしまう。

昔話の事例について、このときの自分は、そもそも相手が「プロ」であること、患者さんが「努力して」いて、そのことを「喜んでいる」いる可能性すら、全く想定していなかった。「正義はこっちだ」なんて頭から信じてたから、相手は「サボって」、血糖値のことなんて気にしていないなんて、そんな貧しい想像しか行っていなかった。

理解には、「事実」の側面と、「感情」の側面とがあって、両者を分けて把握しておかないと、交渉の席で応用が利かない。

「この人は悪い人だから、血糖値も悪くて、だから病院から出て行ってもらおう」なんて先入観は、何一つ、理解の基準を満たしていない。「悪い」なら、じゃあ具体的にどういう行動があって、病院側は、その行動をどう感じたのか、患者さんはその時どういう態度だったのか、病気について、せめて血糖値はどれぐらいで、その値について、患者さんはどう思い、自分たちの側はどう思っているのか、「事実」と、それに対するお互いの「感情」とを、それぞれ知っておくこと、交渉の場でそれを表明できることが、理解の最低ラインなのだと思う。

たとえば意識障害の患者さんがいたとして、遠方から来たご家族に「こんなによくなりました」なんて、意識のない患者さんのことを説明したら、怒られる。病気の重症度の割に、たとえそれが「よくなった」状態なのだとしても、事実と判断とを区別できないこうした物言いは、トラブルを招いてしまう。こういうときにせめて、「意識はありません。血圧は○○、脈拍は○○、来たときにはこういう状態で、現在はこういう状況です」なんて、ある程度数字で示せる事実を語った上で、「それでもこの重症度の患者さんとしては、ずいぶん良くなってきていると考えています」みたいに、判断を付け加えると、いくらかでもトラブルを減らせる。

当たり前のことなんだけれど、そうでもない話をけっこう聞く。