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2010.05.31

できないことの使い分け

選択枝だとか、できることの幅広さと、意志決定の速度とはトレードオフの関係にある。「それにできないこと」に注目することで、そのメディアの使いどころみたいなものが見えてくるんだと思う。

電話は便利

たとえば病棟で何か看護師さんに確認したいことがあったとして、看護師さんたちはふだん、ベッドサイドを歩き回っているものだから、確認したい何かを知っている看護師さんをつかまえるのは、けっこう難しい。

こういうときにはたいてい、ナースステーションにいる看護師さんに、目当ての看護師さんへの連絡を頼むんだけれど、そこから先は伝言ゲームだから、話がなかなか伝わらない。連絡がつくまでにまず時間がかかるし、その人からの返答もまた、自分が望んだ形式にならないことは、実際多い。

こういう状況で、ナースステーションから一歩外に出て、今まで自分がいたその場所に電話して、同じ要件を、電話を取った看護師さんにお願いすると、話が一気に進む。電話を取った人に責任みたいな感覚が発生するからなのか、目当ての看護師さんはすぐにつかまって、電話口に出てくれる。

人にものをお願いするやりかたとしては、これはずいぶん失礼な方法なんだけれど、直接自分が病棟に行くのと、電話するのと、待ち時間があまりにも違うものだから、どうしても時々、電話という手段を使ってしまう。物理的な距離でいったら、直接行ったほうが圧倒的に近いのに。

電話というメディアにできないこと

電話というメディアでお互いに話をするためには、電話口に出て、音声で会話する以外の手段が選べない。身振りや手振り、空気感みたいなのを伝えることができない、交渉に使える手段が限られているから、裏を返すとやるべきことが決まってしまって、こうした狭さが速さにつながっているのだと思う。

自分たちが病棟に直接出向くと、いろんな選択枝が生まれる。まずは誰がオーダーを受けるのか、どういう手段で情報の持ち主に連絡を取るのか、連絡が取れたとして、どうやって結果を返すのか、選択肢が多すぎて、みんなどうしていいのか分からない。

初対面の人間どうしを同じ部屋に入れても、同じことが起きる。最初はたぶん、お互いどうしていいのか分からない。「こんにちは」でも、相手をいきなり殴っても、ズボン下ろして見せたりするのも、全て交渉の選択肢だから、自由すぎて、かえって何もできなくなってしまう。

テキストを打つことしかできないネット世界だと、初対面であっても、昔からの知りあい同士でも、キーボードを介したやりとり以外はできないから、実世界での会話に比べると、できることが極めて少ない。少ないから、会話はすぐに始まって、話は広がりやすい。

できないことを使い分ける

メディアの不自由さに注目すると、その使いどころが見えてくる。

たとえば手紙には、「自分で書いて投函しないといけない」という不自由さがあって、しばしば返事がもらえない。逆に言うと「返事がもらえない」という事実を作るのに、手紙というメディアは便利で、こちら側からあえて手紙を書くメリットというのは、状況によっては武器になる。

講演会というメディアには、「そこにいないと伝わらない」という不自由さがある。会話の記録だとか、動画が撮られていたところで、演者と観客が共有した空気感みたいなものは伝えられないから、伝えられない何かを、そこにいる人たちに限定しして、共有することができる。

Twitter みたいな短文メディアは、文章が短いから誤解が少ないし、ログがいつでも参照できるから、時間軸を超えて会話ができる。このメディアはその代わり、言葉をつぶやいて2秒もすると、もう絶対に取り消せないから、政治家の人たちみたいに言葉の重たい仕事との相性は最悪に近くて、使いこなすのは難しいのだろうと思う。

誰かと交渉する、情報をやりとりするときに、どんなメディアを選択するのか、選択肢が増えた現在だからこそ、「何ができない」メディアを選択すべきなのか、考えるとたぶん役に立つ。

2010.05.24

むかつく人のこと

自分の人間性に問題があると言われれば、これはもうそのとおりとしか言いようがないんだけれど、 いろんな人と喋ったり、何かをお願いする機会があって、「この人は使える」なんて感じる人と、 話していてもなんだか暑苦しいというか、「この人は使えないな」なんて感じる人とが明らかにいる。

誰かの評判が、医局で話題になることは滅多にないんだけれど、その人の使える、使えないという感覚は、 他の先生がたを見ていても、ある程度共通しているように思えて、その感覚は一応、 個人的な好き嫌いとは、異なっている気がする。

恐らくはたぶん、その人の「使える度」というものは、仕事の成果だとか、成功率なんかとは、事実上無関係なのだと思う。

どうしたってバイアスがかかる

当直をするときには、いろんな職種の人と一緒に泊まることになる。ものすごく気がつく人もいれば、 何かをお願いして、けっこうな確率でそれを忘れてしまう人もいる。

じゃあ自分が、忘れてしまうような人を「使えない」と感覚しているかと言えばそうでもなくて、 その人個人に限ってしまうと、自分は不思議と、その人を「使える人」であると認識している。 何かを頼んで、「ああ忘れてました」なんて機会が何度かあって、自分はそのことを覚えているのに、 やっぱりその人のことを、「彼は使えるはずなのに失敗した」なんて、すごく好意的なバイアスをかけて解釈してしまう。

逆の人もいる。なんだか仕事がぎくしゃくしているように思えて、「使えない」ように見える人。 自分は別に、そのぎくしゃくしたイメージから迷惑を被った記憶もないし、 仕事上のミスと呼べるものは、その人なんかはむしろ少ないと思うのに、不思議と「使えない」ように、 せっかく上げた成果を、好意的に解釈されていないような人というのが、どうしたっている。

「いじめ」みたいなのとはまた、方向性が違うような気がする。「使える」人が、必ずしもみんなの人気者というわけではないし、 「使えない」人が、実際問題失敗はないから、その部署の中心人物として働いていたりするから。

成果が組織の生死に直結するような状況、外資系の企業なんかはまた全然違うのだろうけれど、状況がそこまで切迫していない ときには、その人の「使える度」というものは、恐らくは大部分が印象だとか見た目、 少なくとも「成果」とはかけ離れたパラメーターに支配されていて、「使えない」という印象を背負った人は、 しばしばたぶん、「成果」を通じた空気との対峙を試みて、それがなんの効果も上げないことに理不尽な思いをしているんだと思う。

事例

  • 「先生お忙しいところ本当に申し訳ありません、○○さんという患者さんがいて、この人が今日、○○時ぐらいに受付に来て、急なお願いがあるということで、先生に相談をさせていただきたいのですが、今お時間大丈夫でしょうか」なんて、外来の真っ最中に聞きに来る人がいる。「見れば分かるだろうよ」と思うんだけれど、こういう人はなによりも、これだけ長い言葉を費やして、本題に入らない。書類を書いてほしいなら「今日中に書いてほしい書類があるのですが」でいいし、今すぐ対応しないとトラブルになることならば、「緊急です。今すぐ来て下さい」で済む。先が見えないというのは不安で、説くに話を聞く側が忙しいときには、不安がたぶん、「むかつき」に直結する
  • 食べ物屋さんに並んでいて、受付の人が慣れていなかったからなのか、自分の会計が済んだのに、予約券をもらえないまま、次の人の会計が始まったことがある。次の人の会計が済んで、そのあと自分が予約券をもらえるなら、それで話は済むんだけれど、受付の人から「あなたのことはちゃんと気に留めています」というメッセージが発信されないと、これがストレスになる。こんなのは一言「ちょっと待って下さいね。すいませんね」なんて、会計の人が、こちら側に継続のシグナルを出してくれれば、もうそれで大丈夫だったんだけれど
  • 感情が先走った言葉というのが、やっぱりストレスになる。「先生申し訳ありません。実は○○さんという患者さんがおりまして、この人が○月○日外来に来て、書類を今すぐ書いてほしいとおっしゃいまして、このときに私が対応をしたのですが…」とか、すごく申し訳なさそうに、ダーッと話を切り出す人というのがいる。この人が今、自分に対して申し訳なく思っていて、その人なりに言葉を選んで、丁寧に話そうといているというのはよく分かるんだけれど、感情だけ先に来て、これから来るのはどうせろくでもない話に決まっていて、で、この間自分にできることは、何もない。感情が先に来て、いつまでたっても情報が来ないと、この時間差がとても疲れる

「むかつく」感情というのは、要するに「ずれ」から生まれるんだと思う。最初の事例なら、彼我の置かれた状況のずれ、食べ物屋さんの事例は、お互い抱えた仕事、この場合は会計と、食べ物を持って帰るという仕事について、「終了」と「継続」の感覚とがずれているわけだし、最後のは「感情」と「情報」とのずれが、それぞれストレスを生んでいる。

「使える」認定される人というのは、たぶんこのあたりのずれが少なかったり、それを隠蔽するのが上手であって、逆に「使えない」人というのはたぶん、 そういうずれに遭遇したとき、それを「丁寧さ」で補おうとして、状況を悪化させてしまうのだと思う。

制約が居心地の良さを作る

相手に対する想像力があれば、問題は解決するのだろうけれど、想像力を鍛えるとか、頑張るというのは難しい。

暫定的な解決手段になるのは、やっぱり「ルール」や「マニュアル」なんだと思う。以前に書いた「会話タグ」なんかもそうだし、 たとえばマクドナルドだと、会計の台には自分のトレイが置かれる。お金を支払っても、空っぽのトレイが会計台に置かれている限り、 お客さんには「自分のタスクがまだ継続している」というメッセージが伝わるから、あのトレイは、お互いずれを防ぐ役に立っている。

居心地の良さというのは、制約が生み出すのだろうと思う。

制限だらけの体育会が、それでも中にいると何となく居心地がいいのは、そこに集まった全ての人に、その人なりの役割とか、 許される振る舞いという物が厳密に決められているからであって、みんなが演じるべきシナリオを持っているから、 感覚のずれみたいな物が発生しないのだと思う。

自分にとって居心地のいい制約を発想してそれを相手に押しつけるのが上手な上司というのは、たぶんその人は快適で、 その人と働く人もまた、理不尽な思いをしなくて済むような気がする。制約を押しつけない、何でも自由にしていいよ、 という言いかたをする上司というのがいたとして、そういう人はたぶん、いろんな状況に「むかついて」、 その人のまわりには、「使えない」人ばかりになってしまう。

明示的な制約は、それ自体がストレスになる。制約のない空間には、今度はストレスにつながる自由ばかりが増えていく。 そこにいる人がありのままに振る舞った結果が、誰かが期待した役割と一致していたとき、 お互いの居心地の良さを最大にできる。

「教育」とか「自覚」でなく、適切な制約のデザインが、「使える人」を増やすんだと思う。

2010.05.19

「つまらない」は正義

口蹄疫の事例 についての、「私自身はやってきたことに全く反省、おわびすることはないと思っている」というコメントを見て思ったこと。

誤解を設定して、それに謝罪する

口蹄疫の対応にはマニュアルがあって、実際のところ、政治家の人に判断できることはそれほど多くないみたいだから、大臣が語っている言葉それ自体は、決して間違いではないのかもしれないけれど、クライシスコミュニケーションの基本を大きく外しているような気がした。

記者会見が開かれた時点で、メディアの人たちはたぶん、「問題があって、責任者は大臣である」という認識を持ってそこに来ている。問題のないところに、メディアの人たちに「問題がある」と思わせてしまったこの状況で、行われるべきは「相手の誤解に対する謝罪」であって、問題の否定ではないと思う。

問題がない状況で、「問題がない」と断言するのは悪手であって、こういうときにはたぶん、「問題があるという誤解」に対して、誤解を招いてしまったことを謝罪するのが正しいのだと思う。模範的にやるのなら、「我々の説明不足から国民の方々に不安を抱かせてしまい、申し訳ありませんでした。対策については今後、行われていることを遅滞なく伝えるよう徹底いたします」みたいな言葉になると思う。

官僚的な、紋切り型の、つまらない言い回しだけれど、謝るときにはたぶん、「つまらないこと」が、大きな価値を持つ。

謝罪に面白さはいらない

謝りかたとか首のすくめかた、やり過ごしかたというのは、視聴者の側からみて「こう」という定型があって、定型を演じれば、それはつまらないから、メディアも大きく報じられない。報じるコストは、「つまらない」謝罪には引き合わないから。

謝る必要が発生したときに、まず思い出すべきなのは、 「面白く謝る必要はないんだ」ということなんだと思う。謝罪においてはたぶん、「上手」「下手」には価値がない。「平凡な謝罪」と「非凡な謝罪」という価値のみがそこにあって、「非凡な謝罪」が持つ価値というのは、非凡を思いつくコストほどには高くない。考え抜かれた非凡な謝罪は、迅速で平凡な謝罪に負けてしまう。

「非凡な謝罪」は時々効果的だけれど、、その非凡さに打たれて燃え上がる人が出現する。謝罪というのは「火消し」であって、それが平凡な、水みたいな謝罪であっても、すぐに使えば火は消える。油田火災みたいな特殊な状況でもないかぎり、水で消せる火を、あえて爆薬で消火する意味は薄い。

「つまらない」という価値

状況ごとの「つまらない」は、それを知っている人から買わないと分からない。

「つまらないやりかた」というものは「つまらない」から、その状況にあって、どうすれば一番つまらない振る舞いができるのか、とっさには理解しにくい。「つまらない」が存在するのは、ちょうど雲の中心みたいな場所で、非凡な場所、雲の切れ目なら、明るい場所を目指せば到達できるけれど、雲の濃い中をどれだけ迷ったところで、そこが中心であるという保証は得られない。

雲の中心を探すためには、雲を外から眺める必要があって、これは過去の事例を収集、分析しないとできないことだから、たぶん外から買ったほうが速い。

PR会社には、恐らくはこうした「つまらないやりかた」の事例が蓄積されているのだろうし、つまらないやりかたを、マニュアルどおりに踏襲することで、つまらないやりかたは、ますますつまらないものになって、その価値を増す。

政治経済から子供向けアニメの話題まで、あらゆる情報が等価に、すごい勢いで消費されている現代だからこそ、「つまらない」という価値が、これから生きてくる。

2010.05.18

未来から道筋を探す

チームで何かを生み出すときには、「こんなものを作りたい」という目的と、もう一つ、「それが達成された未来」のビジョンを、なるべく具体的に語れるように思い描いておくと、意思統一がしやすい。

方向要素と距離要素

「こうしたい」と、「それでさらにどうなってほしい」とを想定して、それを共有することで、リーダーがどういう思考に基づいて「こう」を目指したのか、点が2つ作れると、方向と、飛躍の距離を測定することができるから、議論が収斂しやすくなる。

「こうしたい」という目的だけだと、恐らくは「その先」が拡散する。そこに至るまでの道筋も、方向が共有できないから、議論が拡散してしまう。

「こうしたい」と「その先」とが決定できると、今度は恐らく、「その先の未来」から、まだ何も始まっていない現時点に至るまでのロードマップが描ける。道筋が、叩き台として議論の場に登場するから、何が実現可能で、自分たちに何が不足しているのか、議論の場には様々な話題が浮かんでくるだろうけれど、全ての話題は、物事を前に進める役に立つ。

逆に言うとたぶん、「こんなことをしたいんだ」という人に、「それが実現したとして、それで何をやりたいの?」とその先の未来を尋ねて、その人の思い描くビジョンに納得がいかなかったら、「こんなこと」がどれだけ魅力的なものに思えても、チームは上手く行かないのだと思う。

理解と納得

「目的」と「その先」との関係は、「理解」と「納得」との関係に似ている。

何かの問題点だとか、リーダーが現状をどう把握しているのかとか、物事を「点」として理解することは全てのはじまりだけれど、そこから先をどうすればいいのか、問題解決の手順だとか、あるいはそもそも、それは解決しなくてはいけない問題なのかとか、意見は分かれて、「理解」だけでは話がまとまらない。

問題点があって、その人がそれをどう考え、どう不便に思い、それをどうしたいのか、できればその思考プロセスを自分のものにできて、「理解」は「納得」に到達する。納得というのはだから、方向要素と距離要素とを合わせ持ったものとして、理解とは区別されるべきなのだと思う。

みんなでものを作るときには、だから「入り口」に当たる場所に、リーダーになる人の「目的」と「その先」とを掲示して、目的を読んで、その先に至る道筋に納得できた人だけを通すようにしないと、たぶん議論があれて、まとまるものもまとまらなくなってしまう。

同じ材料を使っても、見えている目的が違えばありようは変わるし、同じものを作ったとして、それを使って何をしたいのか、目指すものが違っていたなら、紹介のしかたや広めかた、盛り上げかたみたいな、作ったもの自体と同じぐらいに大切なものは、全て変わってきてしまう。

序列の根拠は大切

中の人の「こうしたい」が、誰が見ても分かる場所に看板として掲げられることで、たぶん初めて、無数のアイデアからどれを選び、どれをスルーするのか、根拠が生まれる。「コンセプトからの近さ」という形で、序列を付けられるだろうから。

このあたりを曖昧に、「みんなでいいものを作っていきましょう」みたいにやってしまうと、もしかしたらせっかく作った議論の場所に、別の誰かが正義を持ち込む。目的はかすんで、本来目指していた何かは、声の圧力に形を変えて、全く別のものへと変わってしまう。

成功しているオープンソースプロジェクトは、しばしば「穏やかな独裁者」が支配していて、みんなの合議ですばらしい何かが生まれ、それが今でも続いている状況というのは、あんまり聞かない。

実社会とPCプログラムとを混同してはいけないのかもしれないけれど、「目的のはっきりしない議論が許される場所」を作ってしまうのは、ものを作ったり、何かの問題をみんなで解決するやりかたとして、あんまりいいことではないような気がする。

2010.05.14

はじまりの物語

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 というWeb 小説を読んだ感想文。以下、「まおゆう」と略す。

学ばなくても社会は回る

自分は今でこそ、経済の視点を絡めた文章を時々書いているけれど、2005年頃までは、経済学に興味がなかった。

経済学の入門書だとか、教科書なんかに手を出したのはここ数年で、数年かかってようやく、何となく「経済学的な」ものの見かたみたいなのが身についた。それが学問としてどこまで正しいのかは、ちゃんと学んだわけじゃないから、検証のしようがないのだけれど。

2006年頃、ネット上ではいろんな人たちが経済を語っていたし、経済学的な視点というものの実例は、当時からいくらでも目にすることができたけれど、それを学んでみたいだとか、経済の視点で世の中を眺めて、果たして何が見えてくるのか、そういう想像も働かなかった。現代社会はすでに経済の考えかたで回っていて、回っている現状を眺めることに満足しているかぎり、今さら裏側を見たいという欲求は、なかなかわいてこなかったから。

自分にとっての経済学とは、「経済を語る人たちと仲良くなるための手段」だった。ネット上で面白い文章を書いていた人たちは、たいていみんな、経済学的な視点で物事を語っていて、入門書みたいなものを紹介していた。会話の輪に加わるために、渋々教科書を手に取って、それが面白いと思えて、さらにはそんな視点で世の中を眺められるようになるまでに、そこからさらに、ずいぶん時間がかかった。

実世界では「そもそも」を語れない

どの学問分野でもそうなんだろうけれど、その学問の言葉で、「そもそも」を語るのは、案外難しい。

何か世の中を動かすのに必要な学問があったとして、その知識は世の中のインフラにがっちりと組み込まれてしまっていることが多い。この状況で、学問の、社会での役割を語ったところで、そもそもどうしてその学問が必要なのか、どういう不便があって、そういう知識が要請されたのか、読者にそれを理解してもらうことは難しい。

たとえば経済学の教科書を読むと、導入部分に書かれているのは商売の話題であったり、需要と供給の話題だったりするんだけれど、それはすでに経済が前提として使われている状況であって、読者の腑に落ちる「そもそも」とは、ちょっと違う。

「そもそも」なんて知らなくても、学べば学ぶほどに知識は増えて、試験に通ったり、資格を取ったりする分にはそれで十分なのだけれど、そういう学ばれかたはしばしば、ろくでもない結果を生んでしまう。

努力は一人歩きする

学びはたぶん、「そもそも」から導入しないと歪む。「これは正しい、ありがたいものだから、まずは黙って学べ」をやると、学んだ苦労それ自体が、いつしか学問に対する確信に変わってしまう。「そもそも」抜きでの学習は、それを積むほどに、「こうでなくてはならない」という思いばかりが強くなる。

不幸な学びかたをした人は、学問というものが持っていた本来の役割、「この先はどうなるんだろう」とか、「どうしてこうなるんだろう」という疑問を乗り越えるための道具であったことを、しばしば忘れてしまう。間違っていないという思い込みは、今度は例外を切断していく。「そもそも」がないところに努力だけ積んでしまうと、学んだことに疑問を感じる理由がないから、努力をするほどに、その人は頑なになる。実体と、学んだこととにずれがあっても、学んだことを疑えないから、ずれた結果を前にしても、「もっときちんとやれば」みたいな、形容詞ばかりが増えていく。

「そもそも」を語るためには、それが存在しなかった社会を仮想して、ある知識や学問がそこに生まれることで、初めて見えた「向こう側」の世界を語るのが、たぶん望ましいやりかたなのだと思う。

それが国語算数理科社会であっても、経済学であっても、だからそれがなかった昔を想像して、それが生まれて初めて見えた「向こう側」の物語というのは、きっと必要なんだと思うその知識がなかった状況から、それを学んだ先にある「向こう側」へ、そこに行くにはそもそも何が必要なのか、あらゆる学びの最初の一歩は、やっぱりここから始めないといけないし、そういう導入部分みたいなものは、物語として語られるのが望ましいんだと思う。

「まおゆう」 で語られる世界、戦争で混乱した、殺しあいの連鎖を行うことでしか社会を維持できない、未来の見えないその状況にある「向こう側」を目指すために、剣や魔法でなく、経済学という武器を頼った魔王と勇者の物語というのは、経済学を学ぶ上での導入として、とても分かりやすいような気がした。

学校で教わらない大切なこと

道徳の授業では、 「これは悪いことだ」とか、「これはいけない」と教えられる機会は多かったし、「どうしてそれがいけないのか」も、たしか先生が教えてくれた。でも、「どうしてそういう悪いことが、それでも世の中では普通に行われているのか」を教えられる機会はなかったし、それを教えるのは、きっと難しい。

「争いはいけない」と教える物語は多い。けれど、「どうしてそれでも、人は争わざるを得ないのか?」という説明を試みている物語として、「まおゆう」は新鮮な体験だった。このあたりは普通、悪役の野心だとか、なんだか悪そうなオーラで、お茶を濁されていることが多かったから。

物語は、順調な滑り出しと、明るい未来を予感させる序盤から、社会がどんどん大きくなって、主人公達の手に負えないものへと変貌していく終盤へ、迷走していく。登場人物は、必ずしも正しい道筋を選択できるわけではないし、努力や決断はしばしば裏目に出る。

迷走を続ける社会を、「向こう側」にある未来へと進める役割は、剣と魔法の世界にあって、特別な能力を持たない「普通の人」に託される。

軍人や商人、貴族といった、魔王から経済学の考えかたを学んだ人たちが、物語世界の中で、「向こう側」を目指して様々に迷走する。正しい決断も多いけれど、彼らだってもちろん、経済を学びはじめたばかりの人々で、「自分ならこう判断するのに」みたいな思いを抱く場面もたくさん登場する。読者として彼らの振る舞いを眺めているうちに、いつしか自分自身もまた、軍人として、商人として、貴族として、登場人物の目線で、いろんな判断に参加していて、ちょっと驚く。

共感したのは「損得勘定は我らの共通の言葉。 それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」という、魔王の言葉。

自身の利益を追いながら、それでも剣でなく、握手を求めて世界を奔走した普通の人たちの物語として、これはぜひとも、いろんな人に読まれてほしいなと思う。

今Twitter では、作者の橙乃ままれさんと、ゲームデザイナーの桝田省治さんとが中心になって、この物語を出版するための議論が行われている。インターネット上のテキストが、企画を得て、商品化に向けた戦略が考案されて、物事が前に進む、これ自体がもう一つの「まおゆう」を見ているようで、とても面白い。

2010.05.12

根暗な報酬のこと

ある日のテストが60点で、頑張って次回80点取れた子供がいたとして、その子はたぶん、「20点増えた」という喜びと、「20点分見下せる奴が増えた」という、根暗な喜びとを、報酬として体感することになる。

努力や頑張りの報酬には、明るく表明できるものの裏側に、必ず根暗な何かがセットになっている。人を誘ったり、説得するためには、もちろん「明るい報酬」を前面に出さないといけないのだけれど、報酬には、常に根暗な側面がセットになっていて、そのことに自覚的でないと、どこかで上手くいかなくなるような気がする。

「明るい報酬」は希望を生むけれど、「根暗な報酬」は、自意識の地盤を固める。脆弱な地盤の上に、希望のお城を打ち立てて見せたところで、お城が大きくなるに連れて、いつかは地盤ごと、お城が倒壊してしまう。

自尊心の不足で疲労する

新しい学問だとか、仕事を立ち上げるときにけっこう大切なのは、「そこで働く人が自尊心を保てるための論理」なのではないかと思っている。

たとえば救急医療とか、総合診療部というのは比較的新しい学問領域で、専門別に分かれていた今までの病院では、このあたりがしばしばおろそかになっていたから、一時期ずいぶん人が増えた。その領域には需要がちゃんとあるはずなのに、せっかく人が集まったのに、すぐにチームが解散してしまったり、こうした分野は、大成功した話をあまり聞かない。

救急医療は、たしかに仕事はハードだけれど、休みはそれなりに確保できるし、疾患も多様で、やりがいみたいな「明るい報酬」要素もきちんとそろっているのに、医師が疲れてしまう。こういうのはたぶん、「仕事がきついから」疲れるのとは別に、そこで働いていても、自尊心が摂取できないから疲れてしまう要素というのがあるんだと思う。

地域の大きな公立病院は、昔はまさに基幹病院で、地域施設の「親」として、その場所に君臨していて、医局に送られてくる勤務希望リストの上位は、いつもこういう病院だった。救急の体制が、救急の体制が整備されて、患者さんの受け入れは、昔ながらの「お願い」から、公立施設の「義務」みたいなものへと変わって、細い声で「お願いします」なんて頼んでた電話依頼は、「ご苦労さん。また一つ頼むよ」なんて、元気で張りのある声に変わった。同じ頃からたぶん、公立の基幹病院からは、勤務希望の声も減っていったのだと思う。

地域基幹病院の崩壊が叫ばれて久しいけれど、待遇みたいな「明るい報酬」をどれだけ増やしても、事態はそんなに変わらないのだと思う。状況が変わって失われたのは、もっと根暗な報酬であって、そういうものは、議論の場所に提出されることはないだろうから。「根暗な喜び」をお金で買うこともできるんだけれど、それはしばしば、恐ろしく高価についてしまう。

自尊心を摂取できる場所

たとえば「手術しかできない外科医」という人を仮想すると、その人は手術をすることから、自尊心を摂取できる。その人がたとえば、心電図一つ満足に読めないことだとか、自分がこれから手術を行う、その疾患について、内科のほうが詳しかったとしても、内科が「手術をお願いします」と頭を下げるかぎり、自尊心は傷つかない。自尊心という根暗な報酬は、「誰かに頭を下げられる」ことから発生する。誰かに「お願いです」と乞われるかぎり、その人は仕事が続く。

ところがたとえば、総合診療部の先生がたは、もしかしたら自尊心を摂取する機会が乏しいのではないかと思う。

総合の人たちが何か珍しい疾患を見つけたとして、専門外来から「もうあとやるからいいよ」なんて返事をもらうと、自尊心が少し傷つく。「先生達診断だけだから楽しいでしょ」なんて言われたりすると、たぶんもっと傷つく。そういわれるのは誰だって嫌だから、たとえば治療に手を出して、「余計なことしないでいいよ」なんて言われてしまうと、たぶん自尊心は折れて、もう戻らない。

総合の人たちがならばと必死に勉強して、たとえばある分野の専門家よりも知識が豊富になったところで、実際に患者さんと対峙して、「専門的な」判断を下すのはやはり専門家のほうだから、自尊心は摂取できない。総合医は何でも診療できるその代わりに、その人でないと、専門家の側から、「お願いします」という頭を下げられる状況というものが発生しない。一生懸命勉強を頑張ったところで、それは沼地にお城を建てるようなものだから、知識を積んで、積み上げて、ある日専門家から「この患者さんはだいたい落ち着いたから、あとは総合の先生でお願い」なんて逆紹介受けて、お城は崩れてしまう。

「自分たちはこの仕事のどこから自尊心を摂取できるのか」という問題は、下らないんだけれど、下らないからこそ、一番最初に、徹底的に考えないといけないのだと思う。

外からは口に出しにくい、下手すると「ない」ことになっている根暗な何かをきちんと作り込んだ場所には、人が集まって、長続きする。そういうみっともないお話をスルーして、自分の居場所を美談で飾ると、そこは沼地に花をまいたような場所になる。花畑はきれいでひとが集まるんだけれど、みんな泥まみれになって、疲れて沈んでしまう。

根暗な報酬について

たとえば将棋盤を液晶ディスプレイにして、将棋を指しているその真下で、無修正のアダルトビデオを放映したら、たぶん普通の人は将棋に集中できない。プロ棋士クラスの人ならともかく、普通の人が、ならばと将棋をどれだけ頑張ったところで、アダルトビデオに打ち勝つのは難しい。感情の根っこに近いものに目をつぶりながら、もっときれいなものをどれだけ鍛えても、そういうものはやっぱりなくならない。

学界の重鎮レベルにまで大成功した人は、たまに年を重ねたら急に進路を変えて、よく分からない民間療法の広告塔になったりする。ああいうものもまた、「お城が崩れた瞬間」を見ているのだろうと思う。明るい報酬を摂取する横で、きちんと根暗な報酬を摂取してきた人は、恐らくはそのまままっすぐ進む。ある意味「まじめな」生きかたを貫いて、根暗な喜びの摂取を怠ってきた人たちが、あるいはもしかしたら、引退したとたんに報われない気分がどっと押し寄せて、希望のお城を崩してしまうんだろう。

大きな家は、堅固な地盤に建てないと崩れてしまうし、お城みたいに巨大な建物を造ったところで、泥沼みたいな地盤が固まることはあり得ない。自尊心という、「根暗な報酬」が摂取できない状況をそのままにして、やりがいだとか、患者さんの笑顔だとか、あるいは金銭だとか、もっときれいで正しい報酬をいくら上乗せたところで、あるいはその人は満足できないし、その人の満足には結びつかない。

何かの努力を積むときには、副次的に生まれるであろう「根暗な喜び」というものから目をそむけないで、そういうものをこそ、きちんと摂取したほうがいいのではないかと思う。

2010.05.08

親の目線について

謝罪というのはもちろん、本来は失敗と紐付けられないといけないのだけれど、謝罪という行為、あるいは誰かから怒られるという状況それ自体が、問題の解決と紐付けられている人というのが、たぶん社会には、一定の割合でいるんだろうと思う。

昔は怒られた

小学生の頃は、怒られることというのは「みそぎ」になっていた。酷い嘘をついて、なにかをごまかして、それがばれたら、とりあえずそこいらにいる大人から怒られて、泣かされたら、両親はそれで許してくれた。問題は全然解決されていないんだけれど、そこから先のことは、大人が考えてくれた。

子供の頃は、周りを見渡せば「雷オヤジ」という役回りの人がいて、子供を叱って、殴るふりして、子供が怖がって首をすくめたら、ガハハと笑って、問題はそれで終わったことになった。

子供というのはけっこうしたたかだから、「ガハハ」が3回も繰り返されたなら、誰もが手段としての嘘泣きを獲得できる。頭の回る子供ほど、大人が「嘘怒り」してたら、それを見抜いて、処世術としての「嘘泣き」というやりかたを、最善の方法として身につける。

泣いてみせることを、反省を表明する手段でなく、単なるダメージコントロールの手段であると看破する優等生は、きっと多いんだろうと思う。

問題の解決は大変

嘘をついて怒られて、親御さんから「問題の解決」を求められた子供というのは、いるものなんだろうか?

怒られて、泣いたらそれでおしまいというやりかたは、問題の解決にはつながらないし、教育上、それはたぶん間違ったやりかたですらあるけれど、たとえば自分は、こういうやりかたで、しつけられたような気がする。怒られること、その時間に耐えることが、嘘の対価というか、問題解決と等価であると、子供の頃は理解していた。両親はもちろん、そんなつもりはなかったんだろうけれど。

たとえそれが嘘泣きであっても、そうした「頑張り」を無条件で肯定する、結果が出なくても、「頑張ったボク」を肯定してくれる、嘘で状況が悪くなっても、その代償として、「怒られる時間」を耐えられれば、それで問題が解決したことになる、そういう価値観を植え付けられた子供は、きっと多いのだろうと思う。

こういう教えかたは間違っているし、本来はたぶん、嘘をついた子供を見つけたら、子供自身の責任で、問題の解決を促すやりかたが正しいんだろうけれど、正しいやりかたは、難しい。子供だって、できないからこそ嘘をついたのだろうし、問題の解決を、子供に任せるのならば、今度は大人が、子供をずっと見守っていないといけない。これはとてもエネルギーがいる。

正しいやりかたと、楽なやりかたがあって、どちらも同じ「教育」とか「しつけ」という看板がぶら下がっていたのなら、けっこう多くの割合で、楽なやりかたが選択される。恐らくはだから、叱って泣かして問題を解決したことにする、「みそぎ」の方針で子供を育てた親御さんというのは、一定の割合でいるんじゃないかという気がする。

嘘泣きは大人になっても通用する

問題に突き当たって、とりあえず親に相当する大人を捜して、そっちの方向を向いて泣いてみせれば、たいていの問題は、大人が解決してくれる。

実社会に出れば、こういうやりかたは通用しそうにないけれど、職業によってはたぶん、「嘘泣き」は、問題解決の万能手段として、相当な高齢まで通用してしまう。

たとえば自分の場合は、卒業してから5年目ぐらいまで、恐らくは30歳の手前ぐらいまで、職場では「嘘泣き」が、問題解決の手段として、理論上通用したと思う。

仕事の間は、常に上司が監督していたし、もちろん「自分で考えろ」と発破をかけられたけれど、責任が重たい仕事だから、最終的には全ての判断について、上司が責任を肩代わりしてくれたし、間違った判断が為されていれば、そこで訂正してくれた。こういう状況ならば、上司がいる場所で「考えろ」と言われたところで、自分で考えても、嘘泣きしながら「分かりません」なんて泣きだしても、仕事の結果には、恐らくは差が出なかった。

今はもちろん1人主治医で、病棟で何かトラブルを起こしたところで、自分でそれを何とかできないかぎり、問題は解決しない。

自分がこういう状況に置かれたのは、研修していた病院から、離島に飛ばされたときが初めてだったと思う。その頃には変な自信がついていて、自分はたぶん、何でもできるなんて思っていたのに、離島で1人、その時になって初めて、点滴一つ自信を持って処方できないことに気がついて、呆然となった。

今思うとあのときが、「ママがいなくなった」初めての体験だったんだろうと思う。

総理はどうなんだろう

「謝れば親が許してくれる」状態というのは、たぶん職種によっては、もっと年次が進むまで通用してしまう。

沖縄で、総理がなんだか、わざわざ怒られに行くためだけに、問題の解決を狙うには、ずいぶん外れたタイミングで沖縄入りしたのを見て、子供の頃のことを思い出してた。

あれは何となく、沖縄の人を説得しに行ったのではなくて、単に怒られに行ったように思えた。「怒られれば両親が何とかしてくれる」という価値を信じている人にとっては、怒られることそれ自体が、大人を呼ぶための、問題の解決それ自体を意味しているのだろうから。

子供を「みそぎ」ポリシーで育てた人たち、怒って見せて、子供が泣いて謝って、それで問題が解決したことにしている親御さん達は、沖縄の人から怒られている総理を見て、案外あれで、「みそぎは済んだ」と見なす人がいるんじゃないかと思う。それを否定して、「問題は全然解決されていない」なんて怒るのはダブルスタンダードだし、国防とか、地政学とか、みんな言うほどには感心ないだろうし。

社会にはたぶん、「親の目線を持った人」と、「親の目線を当てにする人」とが、一定の割合で存在する。

「親の目線を持った人」にとっては、問題の解決とは、「子供が泣いて許しを請うこと」であって、問題の解決それ自体は、もしかしたら意味を持たない。基地の問題がグダグダになったことと、首相が自ら焼き鳥になってみせたことと、両者に交換可能な価値を見出す人が、たぶんけっこうな割合でいる。

一方から見れば、総理の振る舞いは、全く無意味なようにも見えるし、反対側の、「親の目線」を持った人から見ると、自ら火中に飛び込んで怒られる、まさにその行いこそが、解決しない問題を購う価値を持っているように見える。

良き親でありたい人たちから見て、総理の振る舞いというのは、だからそんなに矛盾がないのだろうし、誰かがじゃあ、問題を解決して見せたところで、それはもしかしたら「子供のくせに生意気」な振る舞いに見えて、必ずしも支持に結びつかないような気がする。

2010.05.01

会話タグは便利

病棟のローカルルールで、たとえば急変のコールだったら「急変です」とか、指示の確認をしたいだけなら「確認です」とか、看護師さん達に、会話を切り出す前に、これから話す内容の「タグ」を宣言してもらうようにしているんだけれど、これだけのことで、ずいぶん快適になる。

丁寧な言葉は疲れる

今はたぶん、日本中どこの病院に行っても、病棟と医師との通信手段は院内PHSだと思うけれど、看護師さん達はたぶん、「丁寧な会話を心がけましょう」なんて教わっているものだから、電話を取って、必ず最初に、挨拶が始まる。

会話の内容は、単なる確認であったり、書類の書き忘れを指摘するためであったり、あるいは患者さんが今そこで急変していて、今すぐ来てほしいという内容であったり、病院で交わされる会話には、さまざまな重要度があるのだけれど、最初は必ず挨拶。

自分たちの側は、これから始まる会話が、どんな重要度なのか、電話からそれを推し量る術がない。分からない状況で、「お忙しい中失礼します。○○病棟看護師の○○です。今お話ししても大丈夫ですか?」みたいな挨拶は、恐らくこういうのはどこの病院でも定番だと思うんだけれど、挨拶を聞くための数秒間が、不安でしょうがない。

丁寧な挨拶というのは、実際には何も語っていないに等しい。

自分たちにとって、病院内での電話というのは、最悪の場合患者さんの急変を意味するものだから、電話を取るときには、やっぱり最悪を想定する。丁寧な挨拶が看護師さんの側から発信されているその間、自分たちはその次を身構えていないといけないから、これがとても疲れる。

要点をまとめるのは難しい

言葉は丁寧に、分かりやすく、なるべく客観的に伝えましょうなんてやりかたが、恐らくは会話の基本として、あらゆる業界で教えられているんだろうけれど、丁寧さとか、客観性は、しばしば分かりやすさを遠ざけてしまう。

「分かりやすく客観的に」を目指した結果として、病院ではしばしば、患者さんの状態は、血圧や脈拍に置き換えられる。

看護師さんの「予感」とか、「お告げ」というのはしばしば正しくて、「変だから診に来て下さい」が、伝えてほしいことの全てであるはずなのに、予感はしばしば、分かりやすい数字に置き換えられて、印象は削除されてしまう。患者さんの状態は明らかにおかしくなっているのに、血圧や脈拍が一見すると正常で、「要するに今すぐ来てくれ」という、ただそれだけの情報が自分たちの側に伝わるために、ずいぶん時間がかかってしまう。

話が長い割に、何を言いたいのか伝わりにくい人というのが、どうしてもいる。

会話が分かりにくい人が、分かりやすくしようとして、客観性とか、丁寧さを磨いてしまうと、会話はたいてい、もっと分かりにくくなってしまう。こういう人に、「もっと短く」とか、「要点だけ教えて下さい」とかお願いしても、やっぱり厳しい。要点を伝えるためには、その人が問題の中心を理解していることがあって、電話の問い合わせは、そもそもたぶん、問題がどこにあるのか分からないから行われるのだし。

タグは便利

病棟の、自分だけのローカルルールなんだけれど、電話をかけるときに、これから話す内容の「タグ」みたいなものを宣言してくれるようにお願いしておくと、案外上手く物事が回る。タグはたとえば、「急変です」「報告だけです」「指示の確認です」「書類を書いてもらいたいのですが」とか。

最初にこういう宣言をする、というルールにするだけで、電話を受ける側の覚悟が決まるから、挨拶を聞く数秒間が、ずいぶん楽になる。重要度の高いタグ、たとえば「急変です」みたいなタグなら、それを聞いたその時点で、医師の行動は「病棟に行くこと」が全てになるから、タグを聞いたら、もうそのあとの内容は、聞かなくても行動できたりする。

タグというルールを導入すると、電話をかける側もまた、自分がこれから話す内容は、果たしてどのタグに該当するものなのか、考える必要が発生する。タグが決まれば、電話をかける相手に行ってほしいことだとか、必要な情報というものが、ある程度自然に決まるから、会話の要点が定まりやすいような気がする。

自分がこれから話す内容を、話す前に理解しておくことは、けっこう難しい。言葉というのは、声に出して初めて理解できるところがあって、「会話しながら考える」人の会話は、それでもやっぱり伝わりにくい。理解というのは、やり方を教わらないと難しくて、「もっと要領よく」とか、「要点だけ述べて下さい」みたいに檄を飛ばしても、問題は解決しない。

「タグ」はごく簡単なルールの割に、電話を受ける側の快適さは、けっこう上がる。こういうのもたぶん、理解のしかた、考えかたの、一つのやりかたになっているのだろうと思う。