Home > 4月, 2010

2010.04.25

不便が強みになる

お金というものは、 「説得力のある不自由」を提案できた人に対して支払われる者なんだと思う。

消費者にとっては、便利になるほうがもっとありがたいのだけれど、便利からはお金が逃げていく。

売るものだとか、情報それ自体の価値というものは、もちろん粗悪品よりも良品のほうがうれしいけれど、銭勘定だけを考える上では、恐らくは「良さ」というものには、それほど大きな意味はないのだと思う。

情報は自由になりたがる

情報は自由になりたがるけれど、自由からはお金も逃げていく。

物から自由になった、純粋な情報に近い、インターネット上のテキストだとか、アプリケーションは、それ自体からお金を得ることが、しばしばとても難しい。

情報が便利になればなるほどに、お金はそこから逃げていく。裏を返せば、情報という物に、何かの不自由を付加したものがメディアであって、不自由を付加されて、初めてその情報は、お金に紐付けられるのだと思う。

消費者に、説得力のある不自由を提案で気は人は、お金が得られる。

情報に、同時性だとか、そこにいないといけないという不自由をくっつけると、それはライブだとか講演会になる。インターネットで文章を公開するよりも、講演会に参加する人は少ないだろうけれど、講演会はしばしば、文章を書く人たちの、貴重な収入源になっている。

情報が、紙という不自由と結びついたものが本であって、昔はこれよりも自由な物が他になかったから、本は莫大な富を生み出した。

PCでインターネットという、自由な情報を扱う上での、ほとんど正解に近い媒体が生まれて、情報は本当に自由になったけれど、自由になって、お金はそこから逃げた。

クリック一つで海賊版がダウンロードできる世の中で、わざわざお金を支払って、面倒な制限がついた正規品を購入する人の動機は道徳であって、道徳は、お金を払う根拠としては弱い。「どうしてお金を払う必要があるの?」なんて疑問が消費者からでるような場所では、もう商売なんて成り立たない。

電子書籍に対抗する方法

昔ながらの出版社が、電子書籍メディアを滅ぼそうと思ったならば、新刊の海賊版を、電子データとしてさっさと流してしまえばいいのだと思う。

電子書籍はたしかに便利で、クリック一つでその場で本が購入できるし、本屋さんだとか、取り次ぎの人たちを回する必要がないから、本の価格も安くできる。

便利さの競争を行うならば、紙メディアと電子メディアと、だから対抗するのはどうしたって難しいけれど、お金というのは不便と結びついている。

漫画本は絵を見れば分かるからなのか、世界中で海賊版が出回っていて、今はもう、発売されてから3日もすれば、どこかで海賊版が出回った、なんて話が伝わってくる。日本語の小説は、そういう意味では海賊版を欲しがる人の絶対数が少ないだろうけれど、電子書籍が普及する前の段階で、「電子は無償」が当たり前になってしまったなら、もう電子書籍というメディカらは、お金が生まれない。

こういうのは焦土作戦で、紙のメディアだってダメージを受けるだろうけれど、紙の本を買う人は、たとえ電子の海賊版が出回ったところで、やっぱり紙の本を買うだろうから、被害はたぶん、電子出版の人たちよりは少なくて済む。

「電子は無償」が、書籍の分野でも文化になってしまったなら、もう電子出版というメディアでは、誰も食べていけなくなる。そこでプロとして食べていく人は、そうなると紙のメディアにとどまり続けるだろうから、電子書籍というメディアは、もう脅威でなくなってしまう。

競合潰しのフリー戦略

「フリー」戦略というのは、「無償」という意味でも、「もっと便利」という意味でも、いずれにしても競合殺しの武器として使うのが正しいんだと思う。

「フリー」という本の中では、情報を自由にすることで、結果としてみんなが幸せになりました、というケースがたくさん挙げられていたけれど、正しいタイミングで流された海賊版は、競合する相手の生態系を枯らしてしまう。

これだって一種のフリー戦略なのだろうし、「みんなが幸福に」なった、フリー戦略の成功例として取りあげられているやりかたにしたところで、たぶん「みんな」に含まれていない競合者は、「フリー」に潰されて、その場所で生きていけなくなっているのだろうと思う。

たとえば「電子はフリー」というカードが切られたとして、電子メディアを応援する人たちは、それでも電子書籍リーダーを購入するだろうし、それは間違いなく便利な道具になのだろうけれど、「もっと便利な海賊版」を真横に置かれると、その便利さは説得力を失ってしまう。

海賊版はもちろんルール違反で、それに手を出すのは悪いことだけれど、今はなんだか、支払いの逆転現象みたいなことが、いろんな場所で起きている。

Warez なんて言葉があった昔は、違法改造したソフトだとか、海賊版を扱えるのはPCに相当詳しい人しかいなかったのに、今では逆に、PCに詳しい人たちが、あれ買った、これ買った、というのを日記に書く一方で、九州の校長先生みたいに、PCに強いとは思えないような人たちが、おっかないP2P に手を出して、真っ黒な動画をコレクションしてたりする。

「便利であること」それ自体は、たぶんそのメディアにとっての弱点であって、それを脅威に感じて対抗するやりかたは、むしろ墓穴を掘っているのだろうと思う。

2010.04.21

制服が感情を作り出す

楳図かずおのSF短編で、どこだかすごい重力の惑星を探査するために、人体を改造する話があった。

探査に参加するのは男女の科学者で、主人公の青年は、先に改造された女性学者が怪物にしか見えない容貌になってるのを見て絶望していた。プロジェクトはそれでも進んで、主人公の外見も、どんどん怪物へと変わってしまう。

最終的に、主人公も全身がアメーバみたいな生き物に変態して、女性学者と同じ環境で過ごせるようになる。「人類」視点から見て、両方とも怪物にしか見えない者同士、初めて隔壁が開いて対面して、主人公が相対した怪物に向かって、「私はあなたを美しいと思う」とつぶやくいていた。

私はあなたと違う

「第9地区」という映画も、外観の断絶がテーマの一つだったし、「ヘルシング」の少佐も、「私はあなたとは違う」ということが、闘争のはじまりであり、原動力なのだなんて看破していた。

お互い分かりあうためには、お互いに地続きであるということ、どこかに同じを見出すことが、とても大切なことなのだと思う。

逆説的だけれど、ある種の断絶は、今度はあきらめを引き出したり、恐れを引き出したり、恐れが転じて権威に結びついたりする。断絶は争いの原因になるけれど、断絶を上手に運用できる人は、それを強力な武器として利用できる。

中世の首切り職人は、汚らしい仕事として忌み嫌われてた一方で、彼らが身につけてた衣服なんかがお守りとして珍重されたり、首切り職人が飲み屋さんに入ると安くしてもらえたり、当時の人々の中で、首切り職人というのは、ある種の権威を持っていたんだという。

権威と軽蔑の根は同じ

「権威」と「軽蔑」という感情は、一見反対なようでいて、お互いそれほど遠いものではないのだろうと思う。権威と軽蔑と、そうした感情を生む根っこにあるのは価値観の断絶であって、断絶した相手に対する態度というのは、お互いの関係の中で、極端から極端へと大きく変化する。

今の時代にあって、自分たち医療従事者は、白衣を着ないほうがいいのかもしれない。特に地続き感が武器になるような診療科では、実際に白衣を着ない人も増えている。

昔の集中治療室なんかがそれに近かったけれど、「病院は基本的に不潔ですから」なんて理屈を付けて、お見舞いに来る家族の方に、例外なく白衣の着用をお願いすると、面白いことがおこりそうな気がする。

今の病院には、病衣を着た患者さんと、患者さんのご家族と、白衣を着た医療従事者とがいる。お互いに地続きな部分と、断絶した部分とを持っていて、それが感情の地形を作り出す。

患者さん以外の、全ての登場人物が白衣を着ると、果たして患者さんのご家族は、患者さん本人と、同じ白衣を着た医師と、もしかしたら「地続き」を見出す方向が変化する。少なくともたぶん、病院という社会での感情地形は、白衣という道具を導入すると、大きく変わる。想像でしかないけれど、患者さん以外の全員が白衣を着てしまうと、ご家族の中には、家族じゃなくて、むしろ医療者の側に立つ人が増えるんじゃないかと思う。

入院した患者さんは、病衣という制服を着ることで、病人として振る舞うようになる。むしろ高齢の患者さんなんかは、病衣を着ないで、あえて普段着ている私服をそのまま着てもらって過ごしたほうが、入院によるストレスが少しでも減るんじゃないかという気がする。

制服はあったほうがいい

どんな職業にも、あるいは立場にも「制服」に相当するものがあって、病院に来る人はたいてい、どこかで普段の制服みたいなものを引きずっている。

面談するときに、上下ジャージとか、一見パジャマみたいな格好で来院するご家族というのがまれにいて、こういう人たちとは、会話の間合いが取りにくい。その人なりのドレスコードみたいなものがあやふやな人は、逆に白衣というものが、その人から見てどう思われているのか全然分からないから、会話をどう進めればいいのか、方針が決められない。

個人的には、中学高校のどこかの時期は、やはり制服があったほうがいいんじゃないかと思っている。

若いある時期に、制服という制約を押しつけられることで、初めてたぶん、ドレスコードの地続きと、断絶と、そんな感情を体験できて、そのことにはたぶん、意味がある。

生徒手帳の音読を毎日強制したところで、面倒くさいなと反発されこそすれ、学生の行動は変わらない。ところがとりあえず制服というものを押しつけられた学生は、その瞬間から「彼は学生だ」という、社会での役割みたいなものから逃げられなる。「学生の振るまい」を周囲から強制されて、振る舞ってみて、それから初めて、それに反抗しようとか、これは良くないとか、そういう感情が生まれるんだと思う。

押しつけという体験がないと、「これはよくない」の、「これ」という原点が得られない。原点なんてないほうが自由だけれど、そういうものを押しつけられないと、反抗しようにも、どう反抗していいのか分からなくなるんだと思う。原点なしで反抗するのは、無重力空間に放り出された状態で歩こうとするようなものだから、管理するほうは、そのほうが楽かもしれないんだけれど。

制服が生み出す効果というものがあって、外観は、否応なしにその人の行動を制約するし、上手に使えればお互いの関係が上手くいく。

自由を知るために、自由にやるために、いろんな不自由を体験しておくことには、きっと大きな意味があると思う。

2010.04.19

どこにも道端がない

いろんなものがきちんと整備されてしまった代償として、道端というものが、道路でもなければ誰かの畑や土地でもない、誰のものでもない場所というものが、ずいぶん減ってしまったtような気がする。

茹でガニを売る人

今住んでいる場所は山奥で、どの方向に車を走らせたところで、海に出るまで4時間以上かかるんだけれど、近所の国道で、軽トラックに毛ガニを積んだ人が、道端で茹でガニを売っていた。

茹でガニ屋さんはちょっと奥まった、お世辞にも商売に適した場所には見えないところで店を開いていて、道から入るにはそこは不便だったから、やっぱりお客さんは入っていなかった。

田舎の国道は、そこいら中空き地だらけで、道はどこまでもまっすぐなのに、「道端」に相当する、ちょっとした空き地がすごく少ない。

どこか目当てのお店に入ろうとして、曲がるタイミングを間違えてしまうと、もう引き返せない。道がまっすぐすぎて、車の流れが速いから、そこで止まってUターンできないし、空き地だとか、廃墟みたいなものはたくさんあるくせに、どの場所にもロープが張られていたり、どこの空き地も微妙に所有権を主張して、軒先をちょっと借りて車を切り返す、そんなことがやりにくい。

茹でガニ屋さんが店を開いていたその場所は、たしかに商売をするには都合が悪い場所だったんだけれど、空き地だらけの国道ぞいにあって、車を止めて店を開いて、どこからも文句が来ないような場所というのは、そこぐらいしか残っていなかった。

昔からのお店はどこもお客さんが少なくて、商店街も潰れて久しい。道には車がたくさん走るけれど、みんなそこから20分ぐらいのところにある、東京資本のショッピングモールで買い物を済ませる。空き地はたぶんこれから増えて、道路の流れはもっとよくなって、結果としてたぶん、道端を失ったその場所には、人が住めなくなってしまうんじゃないかと思う。

そこにただいるためのコスト

乗用車の免許を取ったばかりの頃、道路に出て車を走らせたときに、「この車を無料で止められる場所がどこにもない」ことに思い至って、途方に暮れた。

今だったらもちろん、ちょっとした休憩ぐらいだったら、コンビニエンスストアの片隅に車を止めたところで、店の人から怒られることなんてそう滅多にないものなんだ、ということぐらいは分かるんだけれど、初心者の頃は無理だった。運転免許をもらって、乗用車という自由を手にして、代償として、止められない車という、すごく大きな制約に直面して、その時ずいぶん困った。

そこに住むには、土地を買わないといけない。お金を払えばそれでいいかといえば、土地を一度持ってしまうと、ずっと税金を納めないといけないし、その上に住宅を建てたら、また税金を払わないといけない。一度家を買ったら、今度は家という制約が覆い被さって、持っている以上は責任を取らないといけないし、それを売ったら売ったで、またいろんな責任が発生する。

こんな制約の逃げ道として、「トレーラーハウスを購入する」というやりかたがあって、法律的にどこまで正しいのかは分からないけれど、トレーラーハウスは家じゃないから、住宅としての税金がかからないし、エンジンを積んでいないから、乗用車としての税金もかからないらしい。キャンピングカーだとかトレーラーハウスで暮らすなら、だから車をそこに置いておくための土地さえあれば、いろんな制約からある程度自由な暮らしができるんだという。

「ただそこにいるためのコスト」というものが、日本はずいぶん高くついて、制度がきちんとすればするほど、そこにちょっと止まるための道端みたいな場所が減っていく。何か小さな商売をはじめようとか、今までになかった何かを試してみようなんて考えたときに、それがしばしば障壁になる。

言葉の道端

本を出版する機会が得られて、たとえば「肺炎の患者さんは発熱して咳が出る」みたいな言葉をどうすればいいのか、ずいぶん困った。

肺炎というのはそもそもそんな病気だから、誰が書いたって同じような表現にしかならないはずなのに、エビデンスの時代、あらゆる言葉には根拠が必要で、誰が最初にその表現を使ったのか、その言葉を用いるとして、じゃあ誰に、どんな形で筋を通せばいいのか、分からなかった。

あの本は、自分で作った「診断チャート」と、そこから導かれた各疾患の簡単な解説部分とに大きく分かれているのだけれど、前例のない診断チャートは、自分の言葉で簡単に書けた。「当然のこと」をまとめればいいはずの疾患解説部分は、それなのに、「当然」である以上、どう表現したところでその表現には前任者がいて、自分の言葉で「ちょっと書く」ことができなくて、大変だった。

エビデンスの時代にあって、何かの研究会だとか、勉強会に所属していることの意味というのは、たぶんますます大きくなる。それは新しい知識が入ってくるというだけでなくて、そこにいることで、そこで交わされている言葉の所有者に出会うことができて、使える言葉だとか、表現の幅が広くなるということが、何か自分の考えかたを発信するときに、とても大きなメリットになる。

いくつかの分野をまたいだ小さな本、今回自分が出した本というのは、道端で茹でガニを売るのにどこか似ていて、「表現の道端」みたいなのを探した結果として、言葉をどう選んでいいのか悩んだ場所というものが、何カ所も入っている。

道端があったほうがいいと思う

今はたとえば、amazon の一部には「道端」がある。

暗い部屋 という、出版社から販売されるはずだった小説が何かの事情で出版されなくなってしまって、今度はそれを、PC上で読める小説として、amazon を通じて販売しよう という試みが行われている。電子出版のもたらす未来というのも、たぶんそうした道端的な出版がやりやすくなる世界なのだろうし、道端というにはあまりにも広大だけれど、毎年のコミックマーケットみたいな場所も、きちんとした出版業界とはちょっと外れた、そういう場所なんだろうと思う。

いろんなところに「道端」を、何に使ってもいい場所で、できれば人の流れに面した場所を、ちょっとした空間として開放してほしいなと思う。国内からは、そうした道端がだんだんと失われていく一方で、amazon がそれを用意してくれたりだとか、Google やTwitter がそれを用意してくれたりだとか、道端が全部外資になってしまうのは、やっぱり寂しい。

2010.04.17

負担のしわ寄せと想像力

間に合っている状況に、何か新しいやりかたが導入されると、誰かが楽になる代わり、どこかにしわ寄せが行くことが多い。みんなが楽になれれば、もちろんそれが一番いいんだけれど、負担の総和を減らすのは、やっぱりなかなか難しい。

負担の総和が減らない前提で、新しい仕組みをそこに入れるときには、だから導入後の負担デザインがどうなるのかが想像できないといけないし、そもそもその導入を決断した人が、現状の負担デザインに、どんな問題を感じていて、それをどういうデザインに作り替えたいのか、きちんとした考えかたを持っていないと、たぶんたくさんの人が不幸になる。

オーダリングシステムとか、電子カルテの話。

うちの病院

自分が今働いている病院は、伝統的な伝票システムをずっと引き継いでいる。医師として仕事をしているかぎり、このやりかたは古くさいけれど、やりやすい。

書けば記録が残るし、手描きの伝票は柔軟性に富んでいて、それが文字で表現できるものなら、何でも書ける。他の病院からアルバイトに来て下さる先生がたとか、70歳目前の、顧問の先生がただとか、伝票システムは、誰もが違和感なく使いこなせる。

このやりかたはその代わり、人手がかかる。

入院した患者さんの場合、医師はカルテに処方を記載する。記載された処方を看護師さんが拾って、それが処方箋に転記される。転記された処方は、医事課と薬局にコピーが回って、会計処理と、薬の払い出しが行われる。カルテの処方は、さらに看護師さんの「温度板」に転記されて、看護師さんたちは、この温度板に従って、業務を行う。

病院のシステムは、医師と看護師と事務系統と薬局と、大きく4系統を同時に動かさないと成り立たないし、医師の振る舞いだとか、思考過程を、カルテとして残さないといけない。同じ処方、同じ判断を、各部署に同時に配信するための仕事というものが、システムを動かすときの、大きな負担になってくる。

どこの病院でもたいてい、こういう作業は看護師さんたちの仕事ということになっていて、同じことを処方箋と温度板とに転記しないといけないから手間が膨大だし、手書きだから、どれだけ注意をしたところで、間違いが必ず入る。この作業をたとえば、医師が記載する処方箋にカーボン紙を裏打ちして、医師が処方箋を書いて、それがカルテに転記されるようなやりかたをしているところも多いはずだけれど、それでもカルテの内容を温度板に記載する業務が残る。

電子化は医師の負担が増える

電子オーダーリングシステムだとか、電子カルテのやりかたは、医師の処方を4系統に分ける工程が、全部電子化される。

医師がカルテを書いて、処方箋だとか、点滴の予定を電子カルテに打ち込むと、それがそのまま処方箋になるし、温度板にも処方が自動的に転送されて、看護師さんが温度板を作るための手間が、これでずいぶん少なくなる。

これは解決策ではあるんだけれど、今度は医師の負担が大きくなって、仕事の効率がずいぶん落ちる。特に高齢の先生がたには、電子カルテというのは相当に評判が悪くて、今までどおりのペースで外来を回すのが難しくなるし、患者さんの待ち時間が増えて、いい結果を生まない。キーボード専属の事務さんを置く病院だとか、このへんもまた工夫されてはいるんだけれど。

「一番人件費の高い生き物に、仕事量をしわ寄せする」やりかたが、医師から見た場合、電子カルテが抱える大きな問題に思える。インターフェースをどれだけ改良したところで、キーボードを打つのが医師である以上、問題はあまり解決しない気がする。

正解の裏側は不正解

「ハイブリッド方式」みたいなのを妄想すると、医師から見た電子カルテの問題は、部分的に解決できる。

医師は今までどおりにカルテを書いて、紙のカルテに処方を書く。カルテに書かれた処方を、看護師さんが温度板に転記するときに、それが自動的に処方箋になって、事務方と、薬局とに伝票が降りる。処方を書き直すのは、やっぱり薬の内容を体感できる人でないと難しいから、事務方の人にこの作業を全部やってもらうのは、ちょっと怖い気がする。

医局で話すと、「これはいい」なんて話になるんだけれど、転記担当の看護師さんの側からすると、このやりかたには何のメリットもない。ただでさえ電子温度板の入力が面倒なところに持ってきて、今度は処方箋の転記まで自分たちの業務に入ってきてしまうことになる。

負担というのはたぶん、結局のところは業務をまたいだ押し付けあいになるんだろうけれど、医師が人件費の高さという問題を抱えている一方で、看護師さんたちは同じように、雇用の流動性が高い、という問題を持っている。

医師は病院に居着く。転職はそんなに繰り返せないから、業務が少々面倒になったところで、みんな文句は言うだろうけれど、それで病院を移る人は少ないし、システムはたいてい、文句を言われながらも受け入れられる。

看護師さんたちの平均年齢はどうしたって若いし、病院を超えた横のつながりが強くて、今はどこの病院でも「看護師募集」の看板を出しているものだから、けっこうみんな、いろんな病院を渡り歩く。昨日までうちで働いていた看護師さんが、患者さんを転送してみたらそこにいたとか、ときどきある。

で、うちの施設を辞めた人が、他の施設に移動して、真っ先に「これはいい」と思うことというのが、待遇だとか、業務の厳しさではなくて、「新しい病院には転記の業務がない」ことなんだという。電子カルテやオーダーリングシステムが入っているところは、今はたいてい医師が入力するルールだから、看護師さんからすると、転記の業務がないことが、魅力としてうつるんだという。

想像力は大切

どの業務にもたぶん、譲れない何かというものがあって、待遇をよくしたから、じゃあ譲れない何かを譲ってくれと言ったところで、たぶん人は居着かない。

医師にとっては案外、キーボードによる入力というのは時間がかかって、これは人件費の無駄遣いではあるかもだけれど、「譲れない」ほどではないのかもしれない。一方で、看護師さんたちにしてみると、転記の業務というのはリスクがあって、看護師さんたちが習った「本来の業務」とはずいぶん離れているものだから、あるいはこのへんは、どれだけ待遇を改善したところで、譲れないから、病院を移ってしまうのかもしれない。

こういうのは、病院を移って、移った先の看護師さんに聞かないと正解が分からないから、ほんの数件のことでしかないんだけれど、「転記は嫌だ」ということ自体が、自分にとっては想像の埒外で、今までさんざん電子カルテを叩いてきたけれど、やっぱりこのへんを一番妥協しやすいのは、たぶん自分たちなんだろうと反省している。

今までの負担を、どこか別の業種に寄せるやりかたにはいろいろあるんだけれど、やっぱりたぶん、誰もが幸せになれるシステムというのは、なかなか難しい。

新しいものを入れるときには、それは電子カルテもそうだし、あるいは勉強会だとか、何かの委員会を立ち上げるとか、全て共通するのだろうけれど、想像力が大事なんだろうなと思う。

それがどういう根拠に基づいて、そのシステムを、そのやりかたを導入することで、自分たちは何を実現したいのか、総人件費を減らしたいのか、それとも組織の総幸福度みたいなのを上げたいのか、一番妥協をしやすい業種はどこにいて、逆に一番譲れない人たちはどこにいて、負担をしわ寄せた結果としてどんなことが起こりうるのか、そのへんをちゃんと考えないといけないなと思った。

2010.04.14

たくさんの人としゃべるための道具

ネット上で「本を買ったよ」という声をかけてもらったときには、できる範囲で、それに反応していこうなんて考えてる。

自分が今回出した本というのは読者が限定されているし、インターネット以外の告知をほとんど行っていないから、それが最大限売れたところで、その数はたぶん、頑張れば個人の範囲でどうにか手に負える。ネットに散らばった声を集めたり、話を聞かせていただいたり、あるいはこちらからお礼を言わせてもらったり、1000人ぐらいまでだったらたぶん、どうにかなる。

Twitter は便利

Twitter という道具は、言ってしまえば電子メールの劣化コピーみたいなもので、短いメッセージを、宛先をくっつけて誰かに送ったり、あるいは宛先なしで、ネットに公開したりが自由にできる、ただそれだけの道具なんだけれど、「1000人ぐらいまでの不特定多数の人と会話がしたい」なんて考えたときに、電子メールとのわずかな差というものが、決定的な差として効いてくる。

たとえば電子メールを使ってとりあえず1000通、お礼のメールを書こうなんて思ったら、大変な仕事量になる。

メールを打つには相手のアドレスを知らないといけないし、アドレスのリストを作るのがまず手間になる。メールを打つためには、そのアドレスをコピーしたり、最低限クリックして、宛先欄にアドレスを転記しないといけない。メールはやっぱり手紙の延長だから、宛先を入れて、件名にも何かを書いて、それでようやく、本文を書くことができる。

今はこういう作業を全部自動化するソフトもあるのだろうし、メーリングリストというのはこういうサービスなのだろうけれど、今度は本文まで含めて、全部自動化されてしまう。これはダイレクトメールであって、会話をしている感覚とは、またずいぶん違う。メーリングリストは他の人の反応を見ることもできないだろうから、手紙を書く側は、同じことを何回も書かないといけない。

これがTwitter だと、検索をして、そこに出てきた人のIDをクリックしたら、もう通信ができる。住所録を用意する必要もないし、件名を入れる必要もなく、いきなり本文が書けて、それで十分に用件が伝わる。

電子メールとTwitter と、減らせる手間というのは、せいぜい1クリックと1行程度で、電子メールに満足している人から見れば、それは誤差にしか見えないかもしれない。Twitter はよく落ちて、それは電子メールの劣化コピーにすら見えるだろうけれど、これから1000人ぐらいの人と会話をしようなんて考えたときには、これほどありがたいインフラはちょっと見当たらない。誤差に等しいわずかな差というものが、特定の需要を抱えると、しばしば大きな意味を持つ。

新しいメディアには、たぶん見えかたの非対称性みたいなものが存在する。今それで間に合っている人から見ると、新しいものというのはたいてい、今あるものの再発明か、劣化コピーに見える。今あるものでは足りなかった人にとっては、新しいメディアが実現した、ほんの数クリック程度の改良が、決定的な差に見える。

電子出版のこと

買って下さった方々に、一方的に作者の声を送りつけるようなやりかたというのは、実際のところ、どこまで意味があるのかは分からない。

こういうのは、やり始めたらきりがないし、数万部を売り上げるプロの人たちがこれをはじめたら、もう本を書く時間がなくなってしまうけれど、たぶん上限1000人ぐらいまでだったなら、個人の気合いでどうにかなる。

「こういうやりかたは、販売部数が少なく、かつ、ネットをホームグラウンドとしているという条件でのみ、成立する戦略ですね」という意見を某所でいただいたのだけれど、逆に言うとこういう場所で何かを小さく販売しようなんて考えたときには、読者と作者とが直接会話するというやりかたが、差別化をはかるための手段として、考えられてもいいんじゃないかと思う。

電子出版の時代が将来的に来るとして、出版それ自体のコストは下がって、たぶん電子書籍で何かを発信する人の数は増えていく。

電子出版はどこにいてもその場で買える。お風呂の中で、携帯用の端末で、誰かと会話をしながら話題になった本がそこにあったとして、興味を持って「自分もこの本を買ったよ」なんて宣言したら、即座に作者の人から「ありがとうございます」なんて返事が来るようになる。そういうのがこれから当たり前になる。

こういうのを下らないと思う人は、たぶん今までの書籍メディアで十分に間に合っている人なのだろうし、これから電子出版で何かを販売しようなんて考えている人は、世の中のどこかにいる競合者は、たぶん1万人ぐらいの読者だったら、全員にお礼のメッセージを送ることぐらい当たり前に覚悟をしているだろうから、そういう人たちを相手に互していけるだけの準備をしておかないといけない。

人に使える時間は有限だから、通信にも上限があるのだろうけれど、こういう流れは、そんなに悪いことではないような気がする。

2010.04.11

問題を先送りする医学

休日当直のアルバイトに来て下さっている、大学の救急医学教室の先生が本当に熱心で、休日でも、夜中でも、自分にできる検査はすべてやって下さって、あとから引き継ぐ側は大いに助かる。でもその一方で、地域にある基幹病院の専門家が、こうした熱意みなぎる診療スタイルに邁進すると、やっぱり後続は潰れるんだろうなとも思う。

専門家とは何か

いろんな科が覇を競う基幹病院にあって、「専門家である」ということは、やっぱり「他科の知らない何かを知っている」ということなのだと思う。

救急の先生がたは、何でもできる。救急車で来た患者さんは全部診療するし、内科の診察はもちろん、簡単な手術までこなせる人もいる。たいていの問題はその場で解決してしまうし、みんな熱心で、よく勉強している。

こういうのはたしかに頭が下がるんだけれど、じゃあ救急医学教室の先生がたが、他科の専門家が知らない何かを知っているのか、あるいは他科の人間がぜひとも知りたい何かの技術を、救急医学教室に行けば学べるのかといえば、やっぱり難しいような気がする。

救急の人たちは熱心だけれど、熱意で戦うかぎり、どれだけ頑張ったところで、「熱心ですね」といわれこそすれ、救急部が専門家であるという受け止められかたには、なかなか到達できないのだと思う。

熱意は競合殺しの武器

十分なマンパワーと設備があって、そこに熱意が加わると、真夜中でも緊急手術に対応できるとか、どんな問題でもその場で解決できるとか、恐らくはそういうやりかたに、救急という場所が一歩近づく。ところが業界のトップに立つ人たちがそれをやってしまうと、基幹病院以外の施設は、もう同じ体制を維持することなんてできなくなってしまう。

24時間体制の救急対応を売りにしている某グループが昔、神奈川県に初めて病院を作ったとき、その地域で開業していた17施設が倒産したんだという。

頂点に立つ病院が熱意を売りに頑張ると、他の施設で何か問題に突き当たったとき、「その基幹病院に患者さんを搬送する」という選択枝以外に、地域から正解がなくなってしまう。こうなるともう、不十分な設備で救急を受けること自体が罪悪だから、受けないこと、診ないことが「患者さんのため」になって、競合はみんな撤退してしまう。

熱意というのは、いろんな施設の救急外来が覇を競った昔のやりかたであって、人が減ってしまった現在、トップグループの人たちが、業界を育てていこうと考えたときには、基幹病院が熱意で頑張るほどに、地域の救急体制は崩れていってしまうんだろうと思う。

問題を先送りしてほしい

基幹病院の救急部みたいな場所、たいていの検査や治療が、真夜中でもすぐに動かせるような場所だからこそ、救急部の先生がたには、もっと積極的に、「問題の先送り」を試みてほしいなと思う。

今できる治療を、あえて翌朝まで待ってみる、今できる検査をあえて先送りして、患者さんがそれでも大丈夫なのか、十分な設備と人手、何かトラブルが起きたときに、それに即応できる体制が常に整っている施設でないと、こういうことは確かめられない。熱意というものをまじめに使うなら、24時間緊急手術に対応できる体制を整えたり、どんなに眠いときでも頑張って検査を行う方向に行くのだろうけれど、「できることをあえて今しない」ことにも、たぶんそれ以上にエネルギーがいる。

患者さんが抱えたいろんな問題を、その場での解決を試みないで、十分に対応できる状況を整えた上で、あえて翌朝まで先送りすることで、初めてそこで、「待ったらどうなるのか」、「この状況で待っていいのか」という、他科では得ることができなかった、救急医学教室ならではの知識が発生する。これは他科では得られない、ぜひとも学びたい知見になりうる。

緊急事態にそもそも対応できない病院では、まず「待つ」ことができない。待ったらどうなるのか分からないし、分からないから、大きな施設に患者さんをお願いして、その場で何とかしてもらうことしかできない。大きな施設が「何でもその場で」を向上させるほどに、そこに送ることが正解になって、小さな施設にできることの割合は減っていく。結果としてたぶん、小さな施設の「優秀さ」というものは、「大きな施設に紹介できること」で決まってしまうから、トップが頑張ると、トップ以外の施設は、トップから見て、急速に無能化していくことになる。

大きな施設が、今できることをあえて今やらないで待つことで、小さな施設はその経験を学んで、同じ「待つ」を再現できる。

後ろ向きなんだけれど、大きな施設、十分なマンパワーを持ったところが、熱意を持って後ろ向きになってみせると、たぶん業界が育つんだと思う。

2010.04.09

書籍の訂正箇所について指摘をいただきました

販売中の「 内科診療ヒントブック 」という書籍について、今までにいただいた「ここを直したほうがいいよ」という指摘を、 まとめました。 いただいた言葉については、原則そのまま用いる形式とし、それに対して 作者側の言い訳(ずいぶん見苦しいのですが…)を付記しています。

この本を改訂する機会があるのなら、あるいは何か別の形で、原稿を公開する機会があったら、指摘をいただいた部分については、 極力原稿に反映させていこうと考えています。

専門家の方々から見て、訂正が必要な箇所は、まだまだたくさんあるかと思います。ご指摘をいただければ幸いです。

誤記について

「p264表のANCAはWegenerがPR3-ANCA, MPAとChurgがMPO-ANCAですので、逆になっていると思います」という指摘をいただきました。 これについては申し訳ありません、おっしゃるとおりであり、訂正をかける機会があったら、直していこうと思います。

「p255 PcPの表記が「ニューモシスチス」、「カリニ肺炎」と、統一されていないようです」というご指摘についてもまた、 将来的に「ニューモシスチス」で統一していこうと思います。

食道破裂について

食道破裂は治療可能な外科疾患なので、なるべく早く外科に振って下さい、という指摘をいただきました。このあたりは 鑑別診断チャート内に食道破裂の記載はあるものの、緊急の疾患である、という描写が不足していたように思います。 今後文章を改めようと考えています。

リウマチ周辺の表記について

「リウマチ性関節炎」「リウマトイド関節炎」は「関節リウマチ」の方が、「リウマチ因子」は「リウマトイド因子」のほうが、 それぞれ適切であろうという指摘をいただきました。このあたりもまた、次回以降の機会があれば、改めていこうと思います。

リウマチ性多発筋痛症の治療について

「リウマチ性多発筋痛症 PMR の初期治療「プレドニゾロン 30mg」は、少し多すぎる感じがします」、という指摘をいただきました。 CMDT にも、あるいは「膠原病診療ノート」という教科書にも、プレドニンの量は15-20mg で効果がある旨記載がありました。

このあたりは、「自分自身が昔30mgと習った」というところが大きいのですが、また次回以降、改めます。

TNF阻害薬、その他の薬について

リウマチ膠原病領域について、今回出版させていただいた本には、TNF阻害薬 、シクロフォスファミド、ミコフェノール酸 モフェチルによる治療についての言及を行いました。

査読をお願いした先生がたからも、「実際に普段使ったことのない薬剤について、どこまで言及を行うべきか?」といった指摘をいただき、 迷ったのですが、TNM阻害薬 については、当院周辺の地域では、整形外科の先生がたが普通に使い始めていること、 シクロフォスファミド については、呼吸器科の先生がたが、たとえば間質性肺炎の治療等でこの薬剤を使っていることなど、 病院の中で実際に目にする薬剤であったため、今回は記載を行いました。

ミコフェノール酸に関する言及は、踏み込みすぎであったと反省しています。次回以降、訂正する機会があれば、 その時の国内での使用状況を、もう一度調べてみようと思います。

顕微鏡的多発血管炎の表記について

「顕微鏡的多発血管炎(動脈炎)は、MPA(Microscopic polyangiitis)と略され、顕微鏡的PNとは略されないのが普通です」 という指摘をいただきました。これも次回以降、「MPA(Microscopic polyangiitis)」で統一する方向で訂正をかけていこう と思います。

血管炎の疾患概念について

「MPAはWegenerと同じくANCA関連血管炎で「同じ箱」ですが、結節性多発動脈炎 Polyarteritis Nodosa PN or PANとは 「違う箱」に入っている、というのが最近の認識です」という指摘をいただきました。今回出版した本には、これらの疾患が、 言わば「同じ箱」に入っているかのような記載になっています。

こういった疾患の理解に関する記載は、ぜひとも次回以降、とり入れていこうと思います。恐らくは表組を変えることになると 思うのですが、対応できると思いますので。

小腸クローン病について

特に若い女性の不明熱を診察するときには、炎症性腸疾患を頭に入れておかないといけない、といった記載を、今回の教科書で 行いました。炎症性腸疾患を診断するための検査として、自分の書いた本の中では「大腸カメラ」を診断手段として挙げている のですが、これではもちろん、小腸の疾患を診断することができません。

小腸を診断するための検査として、小腸造影というものがあるのですが、小腸造影は、読影に慣れた医師が、できればその場に 居合わせないと診断が困難な検査であるため、記載をしませんでした。線引きが難しいのですが、「大腸カメラをお願い する」ところまでは一般医の仕事の範疇、小腸の疾患を疑って、それに対応した検査をオーダーして、それを解釈するのは、 もはや消化管の専門家が行うべき仕事であろうと考え、今回は記載を見送りました。

このあたりは、消化器の先生がたと、もう少し話を詰めてみようと思います。

「力が入らない」の診断チャートについて

「7.2 「力が入らない」で、PM/DMを取り上げておられるのですが、8.2 全身倦怠感の「診断チャート」部分にもCPKが 入っていた方が良いかもしれません」という指摘をいただきました。

全くそのとおりなので、これについても次回以降の機会があれば、訂正を入れていきます。

赤沈、フェリチン、尿沈渣

「p254 「わからないときには」の所に、鈴木先生の「チン・チン・チン」(血沈、フェリチン、尿ちんさ)を脚注で付け加えたい ように思います」という指摘をいただきました。こういうものが、標語としてすでに提唱されているものなのですね。。

まずは調べてみます。

「各科の普通」を持ち寄ること

恐らくはまだまだ、それぞれの専門家から見て、行き届かない点が多数あるかと思います。

この本はもともと、何か未知の状況に置かれた一般医が、患者さんを一刻も早く、その疾患を治療する知識と技量を持った 専門家に接続することを意図して、いろんな先生方に話を聞きながら、教科書を調べながら、書きためていた原稿をまとめたものです。

問題になったのは、病気の「見えかた」でした。

自分はたとえば、「鯨」という単語を聞くと、図鑑によくある構図、しろ背景に鯨の全身像が描かれていて、大きさを比較するため に、対象として人間のシルエットが描かれているようなものを想像してしまうのですが、世の中に実在する鯨という生き物が、 じゃあ白背景に空を飛んでいるかといえば、もちろんそんなことはありません。

これが自然保護を仕事にしている人であったり、海の上で活動する人たち、生きている鯨を普段から見ている人たちが「鯨」という 単語を聞けば、恐らくは自分とは全く違った情景が思い浮かぶはずです。同じ「鯨」という単語にあって、 バックグラウンドにある知識を持たない自分と、その分野が生活の場になっている人たちと、単語が持つ意味を共有するのは 難しく、それは恐らく、医療という、いろんな専門科に分類された世界であっても、同じような問題に起因する不備が、 この本の中にはまだまだたくさんあるのではないかと思うのです。

教科書を調べたところで、「それを日常にする」ことの情報量に到達することは困難です。お互いの知識に衝突があったとき には、もちろんそれを日常にしている人たちの感覚が優先されるべきなのは、論を待ちません。ところがそんな、 「言葉にするまでもないこと」というものが、教科書にはしばしば知識として記載されません。

これは総合診療を専門にしている先生がたですら、あの人たちもまた、「総合診療という専門分野」の住人であって、 恐らくは「全ての専門家の日常」と、「総合診療部の日常」とは、やはり近いけれども異なっている気がします。

「各科の普通」というものを、この本のような企画を通じて、お互い持ち寄れたらいいな、と考えています。

「この書きかたは自分の感覚とは違う気がする」という部分こそ、恐らくはこの本で真っ先に訂正すべき部分であり、 同時にそれは、筆者がぜひとも教えていただきたいと考えている何かでもあります。ご意見をいただければ幸いです。

2010.04.08

Android は壊れない

壊れたんだけれど。

今使っているAndroid 携帯が故障して、結局新品交換してもらったら、ほとんどのデータを、Google を通じて復活できた、そんなお話。

機械が立ち上がらなくなった

今使っている HT-03A でyoutube を見ていたら、いきなり固まって、ボタンに反応がなくなった。しかたがないので電池を抜いて、再起動を試みたんだけれど、起動画面から前に進まなくて、結局その日、携帯電話が使えなかった。

DoCoMo ショップに動かなくなった携帯を持ち込んだら、その場で新品交換していただけることになったのだけれど、元の携帯が全く動かないものだから、データの移行は一切できなかった。

ところがAndroid 携帯は、電話帳だとかカレンダーに記録したスケジュール、今までのメールなんかがすべてWeb 連携になっていて、データはGoogle 側に補完されていた。新しい携帯電話に交換していただいて、自分のメールアドレスとパスワードとを登録したら、新しい携帯電話は、その場で「自分の携帯」になって、今までどおりに使えるようになった。

信頼性の考えかた

Google の携帯電話は、本体が壊れて困ることというものが、だから案外少なくて、Google 経由で復活できないデータは、たいていはSDカードに待避できるし、本体内部に記録されていて、復活できなかったのは、自分だとせいぜい、CallFilter というアプリケーションの、電話番号NGリストぐらいだった。

この携帯電話は、買ったときから「雨のの中で使うと簡単に壊れます」とか、DoCoMo の人からも信頼性の低さを警告されてはいたんだけれど、この電話は逆に言うと、壊れたところでたいていのデータはGoogle 経由で継続できるから、故障に対して極めて強い、という見かたもできるんだと思う。

Google のサーバーは丈夫みたいで、世界のそれぞれの大陸にバックアップがあるのだそうで、最悪大陸が一つ吹き飛んでも、データは残るんだという。携帯電話をどれだけ高精度に作り込んだところで、これより丈夫にするのは難しい。

電話機単体としての信頼性を高めるやりかたは、正しい代わりにお金がかかって、どれだけすごい作り込みを行ったところで、そのすごさというのは、ユーザーからは案外、分からない。あらゆる情報をネットワーク上にバックアップとして持つやりかたは、電話機本体の信頼性が低くても、データ自体の信頼性はけっこう高い。携帯電話が壊れたところで、データがすぐに復活するから、これは案外、「これは信頼性が高い」なんて、ユーザーに訴える効果もあるんじゃないかと思う。

昔の「ねじ」はハイテクだった

ホームセンターで普通に売られている木ねじは、あれが発明された当初は、ハイテクのかたまりだったんだという。ねじを作る村というのがあって、ねじ山を作る人、座金を作る人、ドライバーと噛む溝を切る人、いろんな人たちの工程を経て、はじめてねじは製品になったから、木ねじは高級品で、最初の頃、ねじは1本単位で売買されるものだったのだ。

日本の釘というものは、昔は鍛冶屋さんが叩いて作るもので、あれは火入れをして再利用すると、何百年でも持つんだという。鍛造で作った釘は、丈夫で長持ちするんだけれど、釘なんかはそれこそ、ホームセンターなら1本1円ぐらいで買えてしまうから、今ではもう、和釘を打つ専門の職人さんなんて、いないんだろうと思う。

職人さんの技術を駆使して作ったすごいものというのは間違いなくすごいのだろうし、安価な量産品は、やっぱり信頼性が低いんだけれど、低い信頼性を、別の何かで補うやりかたが作られると、「いいもの」の価格というものが、一気に下がってしまうんだろうと思う。

品質がそこそこで、安価に作られた量産品は、高品質、高信頼性の製品に比べれば、価格競争ではもちろん、圧倒的に優位に立てるのだろうから、Android 携帯みたいなものが、実用的に使えるようになってしまうと、伝統的な「いいもの」の居場所というのは、やっぱり減っていくんだろうと思う。こういう状況になると、今度はもう、単体としての完成度を高めることそれ自体に意味がなくなってしまうから。

今はまだ、「安価な量産品」と言っても、定価で買ったら何万円もするものだけれど、もっとちゃちで、それでも安価で、そこそこ実用に足りる商品がこれから出るなら、そういうものを「使い捨て」前提で、交換を前提にした信頼性の確保という方向に、これからなっていくのかな、なんて考えてた。

2010.04.01

読みやすさという価値のこと

ずいぶん前から作っていた原稿が、ようやく本として出版された。出来上がった本を、原稿の下読みを手伝ってくれた若い先生がたにあげたんだけれど、「ずいぶん読みやすくなったんですね」なんて驚かれた。

みて分かりにくいものの価値について。

読みやすさは分からない

原稿の読みやすさという価値は、本というプロダクトを外から眺める人から見ても、分からない。世の中には、読みやすい本と、読みにくい本とは確実にあるけれど、同じ原稿を、作者が書いたそのままを本にしたものと、編集者が手を加えて、読みやすくしたものと、両者を比較できる機会というのは、そう滅多にないだろうから。

読みやすさは、たぶん作者の側からも、よく分からない。本を書いている側は、同じ原稿を、本になるまでに何十回も読み返すから、編集者が原稿に手を入れる最終段階になると、もう書いた内容の大半を暗記してしまう。その内容に慣れすぎてしまって、今さらそれが読みやすくなったのかどうか、感覚が摩滅して、もう分からない。

若い人たちに下読みをお願いしたのはリビジョン1以前の印刷原稿、上の先生方に査読をお願いして、それを原稿に反映させたものがリビジョン2からリビジョン60ぐらい、そこからさらに、編集部の方々が手を加えて、原稿が最終的に出来上がったのがリビジョン120だったから、最初の原稿と、今本になっている原稿と、120世代の開きはあるんだけれど、おおざっぱな内容それ自体は、そんなには変わらない。原稿は、当初からLaTeX を使って書かれていたから、最初の段階で、表題と目次、索引もついて、体裁としてはすでに「本」だった。

下読みをお願いした若い先生がたは、だから比較的厳密に、編集という作業の意味を体験できたんだと思うけれど、感覚されたそれは分かりやすさであって、ぱっと見て、その差はすぐに分かるものだった。

「こうすればいいのに」が価値になる

販売された本を買って下さった方々は、編集作業を経た、完成品としての本を読むことしかできない。

編集者の仕事は、読者の側からは見えないし、作者の側は、その時はもう、自分の文章に慣れすぎて、やっぱりその仕事を観測できない。一切の編集が為されなかった原稿が本になったとして、読者の人たちは、それを「読みにくい」と思うかもしれないけれど、「これがちゃんと編集されたらよかったのに」なんて感想は、たぶん出てこない。

「その価値を観測できる人がいない」仕事は、相手から安く見られる。一方的にボランティア認定されたり、コストカットが必要な状況にあって、「そんなものいらないよ」、なんて言われたりする。

見開きの状態で、本は2ページ分の情報が一覧できる。ページをめくる動作で、頭は一度リセットされて、次のページに記載された、新しい情報を受け入れる準備を始める。読書というのは断続的な動作の連続で、そのリズムに合わせて情報を上手に配分することで、はじめてそれは「本」になって、「読書」という体験を生む。テキストベタうちの文章には、そうしたリズムは存在しないし、文章を書いているときにはページ割りなんて考えないから、京極夏彦みたいな人でもないかぎり、原稿にリズムをつけて、情報を本としてまとめるためには、やはり技量の高い編集者というものが必要なのだと思う。

リズムのない本というのは、「読みにくい」といわれることもなく、「もっとちゃんとした編集を」なんて感想を持たれることもなく、ただ単に読まれなくなる。読まれなかった原因は、もしかしたら内容それ自体じゃなくて、「それが本になっていなかった」ことにあるかもしれないのに、そうだとしたら、すごくもったいない気がする。

「こうすればいいのに」なんていう想像が、ユーザーの側から出てくることが、何かの技量を商売に結びつけていくときには大切になる。「読みやすくなりましたね」なんてびっくりされて、自分ははじめて、あぁ編集の人ってすごいんだなんて、そんなことを考えてた。