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2010.03.29

できないことのデザイン

PCを操作するためのインターフェースは、紙テープからキーボードへ、ウィンドウとマウスへと、進歩した。PCの性能が向上して、できることが増えていく一方で、マウスやウィンドウといった、ユーザーから見たPCの顔は、「PCにできないこと」が、より分かりやすく伝わる方向で改良された。

その機械に「できない」ことをより分かりやすく伝えることが、デザインの役割なのだと思う。たとえばコンピューターを動かすための道具が、未だにパンチカードから進歩していなかったなら、ほとんどのユーザーは、マウスをクリックする代わりに、コンピューターを「呪符」で動く魔法の道具みたいに考える。世界のどこかに、「なんでもかなえる魔法のカード」があるはずだから、エンジニアはきっと、毎日のようにお客さんから怒鳴られる。

無茶なことをいう人が増えた

「あと4時間したら海外に出かけるから、今からこの下痢を止めて下さい」とか、子供が怪我して、明日朝からそれでも家族旅行だから、「明日の外科外来には来ないけれど何とかして下さい」とか、そういうことを言う患者さんは昔からいるんだけれど、最近増えた。これがせめて、来週から旅行だから、念のため抗生物質一式下さいとか、明日は病院に来られないから消毒セット一式下さいとか、そういう依頼ならばあるいはまだしも何とかなるし、相談の余地もあるんだけれど。

「コンビニ受診」というのはもう日常用語だけれど、コンビニエンスストアが提供している価値というのは、たぶん「予期の代行」なのだったのだろうと思う。

昔だったら「どうしてちゃんと考えて準備しなかったんだ」とか、「こうなることを何で想像できなかったんだ」とか怒られるような状況でも、今ならコンビニエンスストアがあるから、そこにでかければ、たいていのことはけっこう何とかなってしまう。

全国にコンビニエンスストアが普及して、もうそれが当たり前になってしまったものだから、あらかじめ計画を立てるとか、必要なものを前もって準備するとか、そういう能力は、そこにあるコンビニエンスストアに任せられるようになって、結果としてもしかしたら、準備ができるとか、そういう能力の価値というのは、今はもうずいぶん低くなってしまった。

「今すぐ何とかしろ妥協はゆるさん」という患者さんはたぶん、何かを計画するとか、状況が変わって、次にどうするとか、そういう予期に、価値を認めていない。それは価値のない考えかただから、そもそも考えないし、何があっても「今すぐお前が何とかすればいい」という解答が、真っ先に返ってきてしまう。

限界を想像しやすいデザイン

学校の先生が、「毎朝子供の家を回って、モーニングコールをして歩いて下さい」なんて要請されたり、自分たちに「今すぐ」を求められたり、こういうのはたぶん、ユーザーの人たちから見た「学校の先生」だとか、「医師」のデザインというものが、もはや学校や、病院が持っている機能に追いつけなくなったということなんだろうと思う。

「できることの限界を想像しやすいデザイン」というのが大切になっていく。

アトムとかガンダムにできることというのは分かりにくくて、一方で、たとえばパワーショベルとかクレーンなら、見れば機能が想像できて、山を平らにならしたい人は、迷うことなく、クレーン車でなくパワーショベルをレンタルする。アトムやガンダムは、ロボットとしてははるかに高機能であるにもかかわらず、デザインとして、どこか後退している気もする。

ユーザーから見た病院のデザインというものは、今も昔も「外来に座った白衣の人間」であって、インターフェースが変わらない一方で、薬だとか道具、病院の機能というものだけは、一方向的に拡大している。患者さんの側からみて、インターフェースの裏側にある「得体の知れなさ」だけが、どんどん増えてる。

iPhoneを見て、たとえば「おサイフケータイ」の機能がついていないとか、列車の予約がやりにくいことに文句を言う人はいるだろうけれど、あの道具をたとえば、「乗用車のタイヤ交換に使えない」なんて怒り出す人はいない。成功したデザインは、できることだけでなく、できないことを、ユーザーに正しく伝えることができるから、ユーザーは、道具の機能を容易に想像することができるし、ユーザー自身もまた、デザインを通じて、機能の改良に貢献することができる。

インターフェースとしての、道具としての、その職業に就いている人を再デザインすること、あるいは「人」がやっていたものを、別の何かで置き換えることが、多くの人に快適をもたらすのだと思う。

2010.03.21

書かれなかったことから見えてくる

情報というのは、書かれたこと以外に、書かれなかったことにも載っていて、それを読むことで、作者が何を伝えたかったのか、外から科せられた制約の中、何を重視して、何を「伝える必要がない」と判断したのかが見えてくることがある。

研修医には制限がある

ローテーション研修制度ができて、今はいろんな病院で研修医を募集して、質の高い研修だとか、勉強の機会だとかを競い合ってる。恐らくああいうのをいくら読んだところで、これから研修医になる人たちは、果たしてどの病院に行くのが一番いいのか、自分のやりたいことと、その病院が提供している研修メニューと、どのぐらい同じ方向を向いているのか、分からないのだと思う。

効率の問題は多少あるだろうけれど、研修医の人たちが、与えられた2年間という時間で学べること、体験できることはやはり有限で、限られた時間、限られた能力の中、研修医の人たちに、どんなことを教え、どんな経験をしてもらうことで、翌年以降の成長につなげられるのか、こういうものは、伝えることよりもむしろ、何を伝えず、何を教えないのか、教える側が、教えないものに自覚的でないと、伝達が上手くいかない。

「うちの研修は質が高いんです」という言いかたは、ちょっとずるい気がする。医療というのは習得可能な、伝達可能な技術であって、そこでしか学べない何かがあったら、それはもう、技術としての医療とは違うから。

「新卒研修医の奪いあい」というゲームには、だから本来はルールがあって、それはたぶん、同じお弁当箱、同じ予算を与えられた中で作ったお弁当を比べるような、ピークの性能でなく、むしろ「編集」に近い能力、限られた条件の中でどれを選択枝、どれを捨てるのか、制約というものを、どう生かしていいものを目指すのか、そんな能力の競い合いなんだと思う。

弁当箱の蓋を叩く人

「お弁当コンテスト」みたいなルールだと、日の丸弁当では、たぶん勝てない。それこそ梅干しを漬けるところからはじめたような、恐ろしく手の込んだおかずを一品作って、余ったスペースにご飯だけ詰め込んだところで、その心意気こそ買われるかもだけれど、「お弁当」としての完成度は、必ずしも高くならない。

臨床研修というコンテストにも似たようなところがたぶんあって、「何を学べるのか」に注目するよりも、むしろ「何を学べないのか」に注目したほうがいい。最高の何かを見つけてその施設に入ったところで、2年たって、余ったスペースにご飯だけ詰め込まれてしまうかもしれない。

研修病院の選択をコンテスト形式で比較しようと思ったら、やっぱりルールは学生さんが作らないといけない。

たとえば2年間という時間で、知らないといけない疾患を100、できないといけない手技を100、それぞれ「お題」として準備して、それを明らかに足りないページ数に詰め込んだ本を、それぞれの病院に作ってもらって、お互い比較するような。知識や体験の総量が200あったとして、その本に入る量を150ぐらいに絞れば、各施設が何を重視し、何を削除するのか、削除された何かを見ることで、それぞれの研修病院が、研修医に、2年間という時間を通じてどんな人間になってほしいのか、施設の思いみたいなのが見えてくる。

そういうルールを学生側からお願いして、「うちは気合いで200全部だ」っていう施設は、お弁当作らせたら蓋も閉まらないドカ盛りをする人で、そういうところで頑張っても、ひたすら怒られて、学べるものは、下手すると150に届かない。お弁当の蓋が閉まらなくて、蓋をバンバン叩いて怒り狂ってたらおかしな人なのに、研修医に無茶な知識を詰め込もうとして、入らないから頭をバンバン叩いて壊す上司というのは、どうしてだか「熱心な人」と思われがちだけれど、叩くと時々壊れるし、盛られた知識はこぼれてしまう。

150の枠があったら、その中にきっちり150だけ用意できる施設というのが、恐らくはまともな研修を受けられる最低条件なのだと思う。伝えるべき知識や体験の重み付けがきちんとできている施設なら、枠が150なら150分、120なら120分の知識を、その施設が考える重要さの順番で、きっちり詰め込んでくれるはずだから、そこから先は、その施設が見せてくれた「お弁当箱」を眺めて、自分の好みで選べるといい。

書かれなかったものを知る

「書かれなかったもの」を知るためには、その代わり、何が書かれる予定であったのかを知らないといけない。学生レベルだと無理だし、研修医の人たちも、もちろんこれから自分に書き込まれるものがどういうものなのか、知るよしもない。こういうのはだから、いくつかの施設の3年目ぐらいを集めて、彼らが持っている知識や技量をリストアップして、それぞれを習得するためにかかった時間を教えてもらうといいのだと思う。全てを重ねると、2年間では絶対に学びきれない量の、知識と体験のリストができる。

「これから書き込まれるはずの全てのこと」がリスト化できたら、それぞれの研修病院に、各施設がリストの中から何を選択枝、何を削除するのかを、できれば伝達手段も含めて公開してもらえば、いろんなものが見えてくる。熱心さだとか、すばらしさだとか、叫びの影で消されている何かは、体験を受け取る側から動かないと、絶対に見えない。

本に書かなかったこと

いろんなことがあって、内科診療ヒントブック という本を書きました。

自分は循環器内科経由で、いまは市中病院で一般内科をしているから、本にはやっぱり、そういう体験が透けています。

たとえばこの本には、血液疾患のことがほとんど書かれていません。血液内科は自律しているというか、採血検査に異常があって、患者さんを血液内科に紹介すると、あとはだいたい、全ての問題について、総合的に診てくれることが多かったので。

同じような理由で、悪性腫瘍についての記載も、自分の本にはほとんど書かれていません。このへんは地域差があるのでしょうが、今住んでいる県は、悪性腫瘍は主に外科の領域で、外科治療はもちろん、化学療法も含めて、悪性腫瘍に関するほとんど全てのことは、外科の指示で行われることが多いので。

体験も少なくて、知識も浅いくせに、自分の本には、膠原病の検査に関する記載を行っています。査読をして下さった先生からも、膠原病は、疑った時点で、きちんとした専門家に紹介したほうがいいよ、というアドバイスをいただいて、脚注にそう記載しました。ところがうちの県には、そもそも「膠原病の専門家」がいなくて、皮膚科や整形外科、腎臓内科にそれぞれ専門が分かれてしまっています。自分たちである程度のところまでやらないと、そもそも患者さんをどこに紹介していいのかが決定できないという状況があり、それがこういう記載となって現れています。

この本は、知識はある程度広く、ごく浅く、自分が診断/治療を行えるというよりも、異常のある患者さんを見逃さないように、その患者さんを、しかるべき専門家に、なるべく早く紹介できるような、専門家が作るネットワークの、言わば「ハブ」になれるような、そんな医師を目指している人なら、きっと役に立つんじゃないかと思います。

機会があったら、手にとっていただけると幸いです。。

2010.03.18

ロボットの神様

医療従事者が人であるかぎり、理不尽な思いを受け止めるのは人の役割で、現場からはトラブルがなくならない。

人しかいないその場所に、人が行っていた仕事だとか、判断を、肩代わりしてくれる機械が置かれると、理不尽な状況に居合わせた人の感覚が、怒り以外の何かへと変化することがある。

心臓マッサージを行う機械

心臓マッサージを行うと、医療従事者は汗まみれになる。あれはけっこうな重労働で、30も過ぎた人間が15分もマッサージを続けると、息が上がる。

「汗」というのは目で見て観測できる。患者さんのご家族はときどき、汗の量から主治医の熱意を測定する。ご家族が測定した医師の熱意が、期待された量を下回っていたら、そのことがきっかけになって、怒りの対象が医師に向かうことがあるのだと思う。あの動作を、人間が汗まみれになるような、心臓マッサージの動作を機械にやらせると、たぶん感覚がずいぶん変わる。

心臓マッサージを自動的に行う機械というものがあって、要するにそれは、機械式のピストンが患者さんの胸で上下する道具なんだけれど、大きな音がして、患者さんの体はいかにも「機械に生かされている」ような動きかたをするらしい。それを見ていると、ご家族の側から、「もう止めて下さい」なんて申し出を受けるんだという。人の手が入る余地がない、汗をかかない機械というのは、それを見た人に、あきらめを促す効果というものを、なぜだか持っている。

機械の命令で動く人

10年ぐらい前までは、重篤な不整脈を生じた患者さんが助かる確率は、決して高くはなかった。その頃すでに、不整脈を自動解析する心電図モニターも、不整脈を治療するための除細動器も、あるいはそうした道具を使いこなすための、救命救急士の資格を持った消防隊の人も、全部そろっていたのだけれど、救急車の中で、除細動器のスイッチが押される機会は少なかった。

自動的に不整脈を解析して、救急隊に除細動を指示する道具、自動除細動器というものが海外から入ってきて、「その患者さんが不整脈であるかどうか」という、相当に重たい決断を、「外人が作った機械」が肩代わりしてくれるようになって、救急車の中で除細動が行われて、病院に来たときには心拍が再開している患者さんが、この何年間か、ずいぶん増えた。

判断が「人」にゆだねられていた当時、それを決断できる人、その責任を背負える人がどこにもいなくて、除細動を行うことは難しかったのだけれど、外国製の、判断を行う機械が国内に入ってきてから、人は責任から解放されて、結果としてたぶん、ずいぶん多くの人が助かるようになった。

あの機械に「外人のお墨付」がついていなかったら、日本の技術者が、行政の指導下に開発を行っていたら、まだ除細動器は世の中に出なかったし、販売されてもたぶん、「動作に関しては現場の判断を優先する」とか但し書きがついて、使えなかったんじゃないかと思う。

ロボットという神様のこと

人の行っていた動作だとか、判断を肩代わりしてくれる機械、「ロボット」というものは、人の召使いであると同時に、「神様」の役割も果たしているのだろうと思う。

「機械に怒ってもしょうがない」なんて、機械を見て、たいていの人はそう思う。ましてや「外人がつくたメカ」になんて、怒りをぶつけられる人は、そうそう出てこない。

ところが汗をかく人間、悩む人間に対して、多くの人が怒りを表明して、自ら感覚した理不尽さを埋め合わせようとする。怒りはやっぱりないほうがいいだろうから、医療の現場みたいな場所からは、汗だとか、悩む人が観測される機会はを極力減らして、そこをロボットに肩代わりしてもらうべきなんだろうと思う。

手塚治虫の「火の鳥」に出てくるロビタなんかが代表だろうけれど、ロボットというのは、人の召使いであるのと同時に、人にあきらめを促すための、神様みたいな役割を演じることがある。人しかいない場所にロボットが割り込んでくると、人の価値判断は、ずいぶん大きな影響を受ける。ロボットは、単なる「便利」以外に、目に見えない、いろんなものを提供している。

絶対的な機能よりも、ロボットが置かれた状況というものに、大きな意味があるんだろうと思う。自動的に心臓マッサージを行う機械は、ピストンが単純に上下するだけの、判断を行う能力を全く持たない機械だけれど、あれがついて、しばらく動いたその時点で、それを見たご家族は、医師を叱る代わりに、機械に対してあきらめを表明することで、理不尽な状況を受容する。

理不尽さの引き受け手がいなくなった世の中で、人にあきらめをもたらす神様としてのロボットというものが、病院の抱える問題を、部分的にせよ解決していくような気がする。

2010.03.17

経験の伝達には触媒が必要

ベテランの先生がたが持っている知識だとか、経験を若手に伝えるためには、伝えるベテランと、学ぶ若手と、もう1人、その場の道化役、経験伝達の触媒役としての、中間層が必要なのだと思う。

あってはならない話が聞きたい

症例検討会みたいな場所での演者は、若い先生方でなく、できればベテランの先生がたにやってもらったほうが、質疑応答がもっと面白くなるような気がする。

比較的珍しい症例だとか、典型的でない経過をたどった疾患が、身体所見だとか、特定の検査で発見されて、正しい病名に行き当たって、教科書的な治療経過と、教科書的な知識の考察が行われるのが典型的な症例検討会のありかただけれど、プレゼンテーションが若い人だと、正しいことを追認しないといけない空気があって、やりにくい。本当はそういう場所で、みんなで「もしも」の話ができたら、病気に対する理解が深まるんじゃないかと思う。

症例が呈示されたあとの質疑応答で、もしも身体所見をとったときに特定の所見を見落としていたら、その患者さんの症状はどうなっていたのか、あるいはそういう見逃し可能性を折り込んだ上で、その患者さんの症状に対して、どういう検査メニューをあらかじめ用意しておけば、見逃しを回避する役に立つのか。それは果たして、そうした見逃しの割合に、コスト的に引き合うものなのか。見逃して患者さんの具合が悪くなったとして、そうなったときに、どういうことを行えば、そこから再び、患者さんを治癒の流れに乗せられるのか。そういうことを、その場に居合わせたみんなで議論できたら、きっと勉強になるんだけれど、こういうのは「あってはならない話」だから、なかなか難しい。

間違えた人に習いたい

専門家というのは、その分野を深く勉強した人でなくて、その分野でたくさんの間違えを経験して、それを乗り越えてきた人にこそ、与えられる言葉なのだと思う。

専門家の言語定義を「たくさん間違えたことのある人」であるとした上で、専門家の人たちには、その分野の正しいやりかたでなく、むしろ間違えるためのやりかた、典型的な間違えかただとか、それを回避する方法、間違えて、状況が泥沼化したとき、そこから立ち上がって、元の正しい道に戻るやりかたを教えてほしい。

専門家という言葉は、今はしばしば、「道の真ん中を、極めて正しく歩ける人」に使われることがある。専門家でない人でも、1cm 程度の誤差で歩ける道路の真ん中を、その専門家は1mm の誤差も許すことなく、まっすぐ歩けるような。まっすぐに価値があることも多いのだろうけれど、「転ばず歩ければいい」人にとっては、やっぱり厳密に正しく歩ける人よりも、むしろ転ばない歩きかたを知っている人、転びそうになっても回復するやりかたを知っている人に、そういうのを習いたいなと思う。

昔は耳学問の機会が多かった。ベテランの先生がたから、「俺の経験では」みたいな言葉から始まる昔話を通じて、転んでも泣かないためのやりかたを教えてもらった。

1990年代の医療系メーリングリストでは、個人の経験に基づいた治療手技だとか、「うちの施設では」から始まるお話がたくさんあって、それはもちろん、エビデンスが積まれる遙か以前の、技術がまだ、世の中に出てきたばかりの、みんなが手探りの時代ならではの会話なのだけれど、あれが面白くて、勉強になって、それを読むことで、何となく、急変に対する心の余裕みたいなのが生まれた。

技術が進歩して、そういうメディアでは、論文の交換会というか、「その疾患にはこういうエビデンスが」みたいなやりとりが増えた。「私の経験」よりも、「こういう論文が」のほうが、たしかに高級なんだし、議論が論文ベースになること自体は、基本的には正しいことなんだけれど、エビデンスで固めた会話を読んで、未知状況に対する心の余裕が生まれるかといえば、難しいような気がする。

若手をいさめるカンファレンスがいいと思う

「きれいな世の中にあってはならない話」というか、失敗するためのやりかた、失敗から這い上がるためのやりかたというのは、公開された議論の場で聞くのは難しくて、研修医の勉強会みたいな場所で、ベテランから聞くことも、また難しい。「そういうときはこうするんだよ」みたいな知識の伝達は、自分みたいな30代後半ぐらいの人間が、今50代後半ぐらいのベテランとおしゃべりする機会があって、やっとぽつぽつと出てくる気がする。研修医ではこういう話を引き出すのは無理で、えらい人同士の対談でもまた、こういう失敗談は出てこない。

学びには、「怖さが分からない段階」と、「必要以上に怖がる段階」とがあって、学んで恐怖して体験して、実像が理解できて、ようやくベテランになれる。怖さが分からない人には質問ができないし、実像を理解できたベテランは、しばしば怖がっていた頃の自分を覚えていないから、恐怖を覚える世代が本当に必要な情報は、伝わらない。

経験知を伝える場として、上の先生をゲストスピーカーにお招きして、その人に「怖がる道化役をいさめてもらう」形式で、講義を行うと面白いような気がする。ベテランの声を直接聞くのではなくて、インタビューというか、恐怖を想像できるだけの経験を積んだ、インタビュー担当の15年目ぐらいの医師を別に用意して、中堅どころがまずは恐怖を語って、それを聞いたベテランが、中堅の恐怖を鎮めて、回避の方法を語るような。

知識の受け渡しを行うためには中間層が必要で、中間が怖がってみせることで、若手は初めて、「これは怖いのだ」と理解できるし、ベテランがそれをなだめて、今度は若手は、「そんなに怖がらなくても状況は回避できるのだ」ということを学べる。

事前の打ち合わせというか、準備が大変かもしれないけれど、きっと役に立つ経験が得られると思う。

2010.03.15

「しかたねぇな」が生み出すもの

半導体というものは、今ではもう、ねじや釘みたいに「あって当たり前のもの」になっていて、高品質、高性能を追求した日本の半導体は、世界レベルだと高価すぎ、高品質に過ぎて、競争力を失っているんだという。

高性能、高品質な商品を生み出す能力を持っていたとして、ならばそんな会社がちょっと舵切れば、そこそこの性能で、劇的に安価な製品をすぐに作れるかと言えば難しいみたいで、「すごいもの」を作る技術と、「そこそこ我慢できるもの」を安価に作る技術とは異なって、日本は今、追いつくのが大変なのだと。

怒られて得られるものがある

「性能が悪くて安い半導体を日本で作るのは難しい」系の話は、たぶんいろんな業界にあるのだと思う。

「ものすごく信頼性が高いけれど高級なサービス」が普及して、それがあることが当たり前になってしまうと、今度はたぶん、「安価だけれど信頼性が低くてサポートも悪い」サービスというものが、対抗馬として登場してくる。

低品質、低コストのサービスを、お客さんに叱られながら、それでも何とか回していくためには、高品質、高信頼性のサービスを回すのとは、全然違った技術がいる。低品質なサービスでやっていくには、お客さんから「しかたねぇな」という声を引っ張り出す必要があって、どうやったら「しかたねぇな」が引き出せるのか、そのサービスは、果たしてどの程度まで「手を抜く」ことが許されるのか、そういうのは、試してみないと分からない。

ちょっと前にNHKで特集されていた、アフリカに進出した中国の携帯ネットワークの会社なんかも、これからたぶん、お客さんから叱られる。サービスは、どうしたってぎりぎりの品質だろうし、本社からは遠く隔たった場所だから、コストにかぎりがある以上、信頼性もそんなには上げられない。あの会社のエンジニアはその代わり、お客さんから叱られて、「しかたねぇな」というあきらめを引き出して、どこまでサービスを落としても文句が大きくならないか、どの程度の故障率なら、通信インフラとして、何とかやっていけるのか、そのへんを見極めるのだろうと思う。

「最低ライン」を知るためには、お客さんを怒らせないといけない。

「しかたねぇな」を引っ張るやりかた、緊急避難的な対応を、「しかたねぇな」で受け入れてもらえるような場所にいないと絶対に手に入らない経験知というものがたぶんあって、ある種のサービスで、こうした経験が、これから先、絶対的な強みになる。アフリカで仕事をしている人たちは、怒られながら、こういう経験を手にするのだろうし、今度はたぶん、ぎりぎりのラインを体験で理解できた人たちが、あきれるぐらいに安価で、それでもどうにか、「しかたねぇな」で受け入れられる程度の品質を持ったサービスを持って、日本みたいな国に、価格破壊を仕掛けてくる。

怒られた人が書き換える

安価だけれど品質の低いサービスがやってきたところで、高品質で売っていた側が負けることは、絶対にない。負けないけれど、価格破壊を仕掛けられると、業界はどんどん厳しくなっていく。

信頼性や品質というものは、目に見えにくい。

低価格、低品質のサービスが乗り込んできたところで、顧客のほとんどは、今までのサービスを、今までの品質で受けとろうとする。その代わりたぶん、「むこうは月100円なのに、何であなたの会社は10000円取るの?」なんて、コストカットの圧力が、時間と共に、際限もなく高まっていく。

高品質産業が、価格破壊を仕掛けられても、顧客は離れないし、勝負には絶対負けない。価格破壊で失われるのは、お客さん自体じゃなくて、お客さんの意識、「高品質にはお金が必要なんだ」という意識そのもので、長い目で見て、お客さんからこれが失われた業界は瓦解して、伝統的な何かは、新しい別の何かに置き換わるのだと思う。

辺境から変化がやってくる

コストがそんなにかけられないだとか、あるいは人手が絶対的に少ないとか、そこで何かのサービスをはじめるに当たって、「辺境」という場所には、何か大きな制約がある代わり、「しかたねぇな」という緊急避難を受け入れる空気があって、そういう場所から、次のやりかたというものが生まれてくるのだと思う。「都市から遠い」ということだけでは何かを生み出す辺境には足りない。制約だけ大きくて、一切の緊急避難が許されない場所からは、やっぱり何も生まれない。

内科は自分だけだとか、病院の中に医師1人とか、そういう状況が、昔からけっこう多くて、自分が当時提供していたのは、医療といってもずいぶんお粗末な、品質の低いサービスだった。

忙しくて、正しくやることなんてできなかったし、かといって、結果が悪ければ大変なことになる。検査ばっかりのやりかただとか、まずは見込みで治療を始めてしまって、外来が終わってから改めて診察するやりかただとか、サービスの品質は、相当に低かったんだけれど、どこを見渡しても、その場所に代わりの医師はいなかったから、トラブルになることはなかったとはいえ、あの場所で病院にかかった人たちは、それでも「しかたねぇな」なんて、医師に対して、何かをあきらめてくれていたのだと思う。

本が出ます

そんなわけで、本が発売されることになりました。

最新の知識が得られるわけでもない、エビデンスに基づいた正しいやりかたが書いてあるわけでもない、権威ある医師が執筆したわけでもない、小さな内科の入門書です。

経験も、技術も乏しい自分に、本として提供できる何かがあるとすれば、それは患者さんからもらった「しかたねぇな」というため息なんだと思います。

不十分な技術で、不十分な環境で、ばたばたしながら、叱られながら、それでも患者さんから「しかたねぇな」なんて呆れられながら、何とか現場を回して今まで来た、そんな経験を、この本に書いたつもりです。

正しくやってきた人から見れば、笑ってしまうような、呆れてしまうようなやりかたです。でも同時にそれは、こんなやりかたであっても、何とかお客さんは「しかたねぇな」なんてそれを受容してくれる、緊急避難のやりかたにもなっていて、正しくやるだけの余裕が持てないとき、役に立つ機会もあるんじゃないかと思います。

機会がありましたら、ぜひ手にとっていただけると幸いです。

2010.03.12

本が出ることになりました

研修医時代を過ごした病院には、何年も使われ続けてボロボロで、外科の若手が練習がてら、人工血管や人工硬膜で破れた場所にパッチを当てた、 なんだか異様な見た目のソファーがあって、勤務時間を終えた上の先生がたが集まっては、毎日遅くまで、患者さんのこと、病気のこと、いろんなことを語りあっていました。

夜間の救急外来は1年生の仕事で、救急外来で診断に困った患者さんが来たときには、実際問題「困る」のは日常であったのですが、ソファーのあるその場所に、資料を持って駆け込むと、そこに集った先生がたから、怒られながら、突っ込まれながら、いろんな科から、たくさんのアドバイスがもらえたものです。

現場の問題は、しばしば複数の診療科にまたがっていることがあって、ある科を回っている研修医にとっては深刻な問題が、別の科の先生にとっては常識になっていたりすることも多くて、いろんな科の医師が集まったソファーセットは、専門科別の講義では習うことができない、貴重な知識を学ぶ場所になっていました。

病院はそのうち増築されて、スタッフも増え、ソファーセットも新しくなりました。レジデントはレジデントの、スタッフはスタッフの、それぞれ専用の医局がもらえるようになり、救急外来も整備され、自分たちが怒られる側から教える側になった頃には、夜中の医局で研修医が突っ込まれる声も珍しくなりました。

ボロボロのソファーセットと共に、きれいになった医局からは、やっぱり何か、大切なものが失われたように思えました。

それは忙しい業務のなかで、未熟な研修医が、それでも何とか事故を起こさずに業務を回すための技術であったり、 「こういうときにはこう考えるとうまくいく」といった、教科書よりもむしろ経験に基づいたやりかたであったり、 正しい医療の時代にはそぐわない、古いソファーセットで教わった知識は、それでも捨て去るにはあまりに惜しく、自分にとって大切な財産でした。

大学病院に職場が移り、そこでまた、いろんな人と知りあいになりました。現場を回すのはやっぱりどこでも大変で、みんなやっぱり、ポケットにはメモ帳を忍ばせていて、教科書には書かれていない、現場で役に立つ知識のメモは膨らみました。

いろいろあって、本当にいろんなことが重なって、原稿をオーム社 様に拾っていただくことになり、 レジデント初期研修用資料 内科診療ヒントブック という本として、出版することになりました。

症状別の診療マニュアルというのは、書く人が「内科全部を隅々まで理解している」ということが大前提で、この本はだから、中の人にそんな能力がない以上、内容は正直不完全で、それぞれの専門を持った先生がたから見れば、まだまだいくらでも、改良すべき、訂正すべき部分があるのだろうと思います。

それでもこういう形式の本、症状別に分類された、考えかたの記載でなく、具体的な動きかたを中心に記載を行ったマニュアル本というものに居場所ができて、「こういうものなら簡単だよ」とか、「こんなのでいいなら、もっといくらでも上等なの作れるよ」とか、もっと有能な、ふさわしい知識を持った先生がたを呼び込むことができるのなら、不完全な内容であっても、この本を世に出す意味というものもあるのではないかと考えています。

機会がありましたら、ぜひとも手にとっていただければ幸いです。

2010.03.10

配列からの自由がほしい

電子媒体でものを書くときに感じる不自由さについて。

カーソル移動が不便

それは電子カルテもそうだし、あるいはblog を書くときのインターフェースもそうなんだけれど、「機械に決められたとおりの配列に従わないと文章が書けない」というのが、電子媒体でものを書くときに感覚する、独特の不自由さにつながるんじゃないかと思う。

紙媒体であっても、たとえば検査の所見用紙だとか、あるいは昔ながらの紙カルテなんかは、時系列に沿って、だいたい似たような場所に、似たようなことが書かれるから、電子カルテと紙カルテと、見た目はそんなに変わらないんだけれど、「それができる」ことと、「それが強制される」こととの間には、人間側の感覚として、おおきな開きがあるような気がする。

それが紙媒体なら、読みにくくはなっても、自分流の適当な配列で情報を記載したところで、読んだら大体、意味は通じる。これがたとえば、電子カルテ上で、「その時の体温」を記載する欄に、「朝から咳が多くて胆がちょっと増えたような気がします」なんて、患者さんの声を記入したら、エラーメッセージが返ってくる。「声」を記入しようと思ったら、カーソルキーを動かして、「声」を書くために設けられた枠の中に文章を書く必要がある。blog のインターフェースなんかもまた、題名を書くときには題名の枠に移動しないといけない。些細なことなんだけれど、これがけっこう面倒くさい。

マークアップ記法は便利

PCは、「その文章が何を意味するのか」を人間側が明示してやれば、人間がやるべき配列を、機械で肩代わりしてくれる。

それはHTML やLaTeX もそうだし、自分がいつも日記を書くときに使っているMarkdown みたいな記法もそうだけれど、「これからこんなことを書きます」ということを、機械側にあらかじめ宣言しておくことで、人間側は体裁にとらわれることなく、キーボードをひたすら叩くだけで、ある程度整った体裁の版面が出来上がる。

電子カルテなんかもだから、今から書くことが何を意味しているのか、患者さんの声なのか、医師や看護師の思考なのか、脈拍や体温みたいな数値なのか、それとも処方箋を指定するための薬品名なのか、それを「タグ」として宣言することで、以降に記載した内容を、PCが解釈して、自動実行してくれるようなシステムを作ってくれると、便利な気がする。

人間側が、本当に好きなことを書き散らした上で、その人が何を考えているのか、その推定までをPC側にお願いできればもっと便利だけれど、そうなると今度は過誤が増えるし、実現するのは大変。半分人間、半分機械のやりかたは、HTML みたいな技術で十分に枯れているから、実現可能な範囲でいけると思う。

もちろんユーザーは、いくつかのタグを暗記する必要があるし、それがあるいは障壁になって、「使いにくい」という評判につながってしまうかもしれないけれど、ある種の「カルテ記法」みたいなものがその病院のスタンダードになったら、こうした形式の電子カルテは、もう人間側が配列に気を使わなくて済むような気がする。

最善のインターフェースは一つの窓

操作画面をどれだけ工夫したところで、「枠」がある以上、電子媒体の不便さは、そんなに変わらないのだと思う。

人間側が、PCの振る舞いをテキストで指定するやりかたでいいのなら、インターフェースは、「窓」一つ、キーボード一つで全ての用事が済んでしまう。それが電子カルテだったら、職員が使うのは「メモ帳」みたいな窓一つ、そこにタグとテキストの入り交じった文章を好きなペース、好きな順番で打ち込むと、閲覧するときには、それが一定のルールに従ったカルテ、グラフ表示された温度板と、患者さんの処方が記載されているような。

電子の文化を知らない上の人たちが、「これからは電子化だ」なんて、現場に「電子ありき」で押しつけてきたのが電子カルテで、そういう人たちを説得するには、紙カルテのアナロジーを踏襲せざるを得ないから、恐らくは「枠」の問題が、ずっとついて回るのだと思う。

今遊んでいるTwitter なんかは、ユーザーは一つの枠に思い思いのことを打ち込むだけしかできないけれど、これで通信もできるし、公開のおしゃべりもできる。面白い話だけ抜き書きして並べることもできるし、自分がその日つぶやいた内容を、時系列に従って一覧することだってできる。

紙媒体があれだけ普及したのは、あれが紙だからじゃなくて、単に便利だったからであって、紙の便利さを電子媒体で再現しようと思ったら、紙を再現する方向でなく、むしろ紙から自由になることを考えたほうが、結局正解なのだと思う。

2010.03.08

ネット時代の距離感について

新しい技術として登場したインターネットが、あって当然のインフラになって、「人がそこにいること」の意味は、むしろ増したような気がする。

研修医が減った

もうしばらく前からずっとそうだけれど、大学みたいな大きな場所から、研修医がいなくなった。ローテーション制度が始まった頃だって、大学には研修医が60人とか、100人とか、小さな社会を作れる程度には集まって、「少なくなった」なんて頭を抱えながらも、大きな施設は、それなりに回ってた。

人が減る流れは加速して、大学規模の施設でも、中に残る研修医はせいぜい20人ぐらいのところが増えた。みんながどこに行ったのか、未だに把握できていないんだけれど、たぶん若い人たちは、都市部の市中病院に分散して、小さな集まりの中で研修を受けているんだと思う。

自分が研修医時代を過ごしたのも民間病院だったけれど、ほとんど毎日のようにカンファレンスがあって、研修医は、それに出席することが義務づけられていた。有名な先生こそいなかったけれど、上の先生方は一生懸命で、教わる側から教える立場になってみて、あれを維持するのは大変だった。市中病院の人員はどこだってぎりぎりだから、昔から研修医を受け入れる文化のあった病院でもないかぎり、似たようなやりかたをするのは大変なんだと思う。

勉強会が増えた

研修医がたくさん集まる施設が減った代わり、今は病院の枠を超えた勉強会みたいなものが、あちこちで主催されるようになった気がする。インターネットという便利なメディアが当たり前になって、誰もがネットにつながっているから、告知のコストがずいぶん下がって、こういうイベントはやりやすくなったんだろうと思う。

研究発表会みたいなものだけでなく、もっと臨床に向けた勉強会もたくさんあるみたいで、今の若い人たちなんかは、あるいはああいう場を通じて、自分の勉強に役立てている人もいるのだと思う。

こういう勉強会や研究会は、やっぱり東京で主催されることが圧倒的に多くて、田舎には人がいないし、勉強会を開いたところで、集客も見込めないだろうから、勉強会の数も少ないし、テーマはやっぱり、研究発表みたいなものが多い。

研修医向けの症例検討会だとか、身体所見の講習会みたいな集まりが、これから先、研修の主流というか、お互いに技術を共有する場となる流れが来るなら、田舎の病院にはもう、生き残る目が無くなってしまう。大学医局には、小さな病院に若手を派遣する余力なんて残ってないから、これからはもう、医局じゃなくて、リクルート経由の人にでも期待するぐらいしか、できることがない。

手の届く距離にいることの価値

ネットワーク時代になって、都市部と田舎との格差が減ったかといえば、むしろ逆なんだと思う。インターネットで伝送可能な、ある程度の基礎知識はネットで共有することができるようになったけれど、そういうものが「秘伝」から「前提」へと移り変わって、今度はその先、知識を実際に運用するためのやりかただとか、患者さんにある治療を行うときに注意すべきことだとか、実際にそれをやっている人から学ばないと分からない、暗黙知の価値は、かえって高まった。

「体で覚える」ことが必要なこうした知識は、お互いに手の届く間合いで学ばないと、伝わらない。前提となった知識を実際に使えるものにするためには、どこかで「名人」に会わないといけない。大学の栄えた昔だったら、研修医は同じ施設にたくさんいたから、田舎であっても、体験の伝達は、十分にできたのだけれど、人が分散するようになって、伝達は、移動と切り離せなくなった。移動のコストは都市部から離れるほどに高騰するから、ネットの普及と人の分散は、田舎での臨床研修というやりかたに、止めを刺した。

インターネットに乗せられるものから対価を得るのは、やっぱり難しい。価値はコピーできないもの、電送できないものに生まれて、電送できないものは、やっぱり「手渡し」になってしまうから、人と人との距離が近いことに、恐らくは昔以上に意味が出てきた。そこに集まれない人にだって、ネットで電送できる知識には公平にアクセスできるけれど、そういうものから価値を得るのは難しいから、対価を得られる、実体としての価値を持った何かからは、そこにいることができない人は、取り残されてしまう。

じゃあそれに対抗するにはどうすればいいかといえば、あらゆる知識をネットに乗せられるように、暗黙知として伝えられた何かを言語化すること、再現可能なメディアとして伝えることで、都市部の持つ「そこにいられる」という価値を、少しでも減らせるはずなんだけれど、こういうのは難しい。

流れはそうそう変わることはないのだろうと思う。自分自身がコンテンツ、という人ならば話は別なんだろうけれど、都市部に住むことのメリットというのは、ネット時代になって、高まりこそすれ、減ることはないのだろうと思う。

2010.03.06

高すぎる目標について

こんな症例検討会をやってほしい

珍しい疾患だとか、典型的でない経過をたどった症例は、しばしば「ふとしたことから一気に展望が開けたすごい症例」として、症例検討会で発表される。演者の気づきはすごいことだし、頑張って、ああなりたいなとも思うんだけれど、「僕も頑張ろう」じゃなくて、演者の気づき、「ふと」というものを、どうやったら霊感抜きで再現できるのか、同じ状況に行き当たったとき、何か特定の検査を追加したりだとか、あるいはある治療を試みて、診断的な治療を行ってしまったらどうなるのか、そういうものを、みんなで考えられたら面白いなと思う。

「ふと」の再現を一人でやると、状況ごとに提出すべき検査項目が、時間と共に、症例と共に、際限もなく増えていく。予算も時間も、採血される患者さんの血液だって有限だから、どこかで歯止めが必要なんだけれど、だったら今度は、どういう状況なら、特定の検査を提出して問題を回避できるのか、どういう留保条件がついたら、それでも検査を出したほうがいいのか、立場が異なるたくさんの人が集まる場でなら、いろんなアイデアが生まれるかもしれない。

一瞥しただけで全ての疾患を診断するような、神様みたいな名医を仮想して、症例検討会を終えて、「みんなで名医を目指して頑張ろう」で締めるのは、きれいなんだけれど、目標が遠すぎて、積めるものが少なすぎる。「誰も積めない」ことに、みんな満足してしまう。

ある疾患を検討したら、その症例発表を聞いた人たちは、「次はこうしてみよう」という意思表明を行なう、という縛りをかけると、参加する人の意識はずいぶん変わる。

議論はたぶん、「見逃しのリスクを受け入れる代わりにやりかたを変えない」立場と、「何か新しいやりかたを考える」立場とに分かれる。現状肯定派の人は、今度はリスクをどうやって患者さんに受け入れてもらうのか、納得のいく説明を問われるだろうし、革新派の人は、新しいやりかたを考えて、それがどの程度妥当なものなのか、患者さんが支払うコストに、それは見合ったものなのか、検討する必要が生まれる。いずれにしても、「頑張ろう」で議論を止められなくなるから、盛り上がる。

主催する人の負担はきっと大変だろうけれど、こういうの面白いと思う。

身体所見という万能解

患者さんを「見る」こと、身体所見というものを言語化するのは、すごく難しい。

診察と診断という流れを、たとえばフローチャートで表現したとして、フローチャートの頭部分に「身体所見」という部品を入れてしまうと、もうフローチャートを作る意味がなくなってしまう。

名人は、詳細な身体所見を採ることで、ほとんどの病気を見つけてしまう。身体所見というのは、極めればいくらでも極められる万能の道具になるから、フローチャートみたいな、判断分岐の能力が公平であることが前提の記法にこれを入れると、バランスが崩れてしまう。

今回自分が作った本には、身体所見の話題がほとんど入っていない。あえて入れなかった部分ももちろんあるんだけれど、これを診断のチャートに組み込んでしまうと、そもそもチャートを作る理由がなくなってしまうこと、もう一つ、 能力的に、自分には、診察というものを言語化できるだけの力がなかった、というのが正直なところだった。

診察は難しい。自分はやっぱり、この年になっても診察ができない。見つけるのが難しい病気の多くは、身体所見で診断できることになっているし、「名人」の書いた本には、検査で見つからなかった疾患が、身体所見を取り直したら診断できた、といったエピソードがたくさんあるんだけれど、できないものを、できるように書いたところで、それは書いた本人にも使えない本になってしまう。病歴と触診を書いてある教科書は、だからそれができる人が書くんだろうけれど、同じことをしようと思ったら、その人たちと同じものを見て、同じことを認識できないと行けない。

ところが名人と同じものを見ようと思ったら、自分自身も名人である必要があって、自分がたとえば、そうした名人と同じ患者さんを、同じ時間だけ診察させてもらったところで、その人が見ているものは、たぶん自分には認識できない。

高すぎる目標を設定すること

「トラブルのパターンは無数にあるから、とにかく誠意を持って事に当たるのが大切です」なんて断言すると、一見もっともらしい。ところがたとえば、「毒物の数は無数にあるから、主治医の武器になるのは熱意が全てです」なんて断言したら、その講師は間違いなく、「中毒学勉強してください」なんて、叩かれる。

一見万能で、高すぎて届かないところにある目標を掲げて、現場にそれを目指してもらうやりかたは、指示する側は簡単なんだけれど、やっぱりどこか違う。

達成不可能な目標を提示した上で、現場の「奮起」を期待してみせると、要件定義を行った側には、一切の瑕疵が発生しない。計画は失敗したり、妥協の余地無く精密すぎて、現場がそれを再現できなくなったりするんだけれど、無敵に近い何かを指示した側は、過失を問われない。そういうのは全部、現場のやる気が足りない、気合いが足りないせいだから。

要件定義を厳密に、実現可能なレベルで行うと、恐らくは現場はそれに答えやすくなるけれど、今度は要件を定義した側に、限られた性能のプロダクトを運用して、想定された成果を出してみせる責任が問われてしまう。責任を問われるのは誰だって嫌だから、こういうのはなかなか出てこない。

こういう文化は変わっていくものだと思うし、変えていけたらと思うんだけれど、やっぱりいろいろ難しい。

2010.03.01

責任転嫁の技術

正しい医療を現場に広めたかったのなら、正しい医療の講義をするよりも、むしろ間違ったやりかたを分かりやすく解説して、それを笑いものにしたほうが、正しいやりかたが広まりやすい。同じようにたぶん、責任ある態度を現場に広めたかったのなら、責任転嫁の技術を分かりやすく解説したものを、職場に貼りだしておけばいいんだと思う。

上司の三つの言葉。「俺は聞いてない」「言ったはずだ」「あとは、任せた」 みたいな標語は身も蓋もないけれど、これを職場の壁に貼りだしておくと、上司はたぶん、責任ある態度を取らざるを得なくなる。

転院は大変

休みの日、緊急の開胸手術が必要な、けっこう若い患者さんが運ばれてきて、転院先を探すのに、7件の施設から、「無理です」なんて断りの返事をいただいた。

休日に人工心肺を回せる病院は少ないし、今の時代、胸部外科医を複数抱えている病院が、そもそも少ない。病診連携の人たちを介した、本来の交渉ルートでは、もう県内に当たれる病院が無くなってしまって、このときは結局、病院長に相談した。病院長の同窓生名簿を経由して、トップ同士の話しあいが行われて、患者さんの行き先がようやく決まった。幸い何事も起きなかったけれど、待っているのは怖かった。

病気にはたぶん、「重症度」と「重責度」というパラメーターがあって、重症な疾患は、必ずしも重責ではなかったり、逆に軽症と判断できるような患者さんであっても、主治医にのしかかってくる責任が重大である場合もあって、両者は必ずしも相関しない。

当たりたくない病気のこと

「できれば当たりたくない病気」というものが、たぶんいくつかあって、教科書的には誰もが知っていて、それは手術なんかを考えなくてもいい、「点滴して寝ていれば治せる」病気なんだけれど、そのくせ一定の確率で急変があって、急変したら、たいてい誰にも助けられない。頭側から順番に、ウィルス性の脳炎、ウィルス性の肺炎、下行脚の解離性大動脈瘤、恐らくは急性心膜炎、若い人の進行する肝炎あたりがそうなんだと思うけれど、こういう患者さんは滅多に来ない代わり、患者さんが来て、病棟で受けてしまうと、ずいぶん大変な思いをすることになる。

急変の可能性があるものだから、こういう病気はやっぱり大病院で管理してもらったほうがいいんだけれど、一定の確率で急変があるから、診る側の責任は重い。患者さんをお願いする側も、受ける側も、それを分かっているものだから、「うちだとちょっと難しいですね」だとか、「その疾患であれば、点滴をしていれば大丈夫ですから、当院から治療メニューをお送りしますが?」とか、お互い必死で、お互い「分かっている」んだけれど、なんだか嫌がらせを受けているようなやりとりになってしまう。

そこから先というのは、これはもう、「腹をくくって自分の施設で患者さんを診る」か、「救急の患者さんは全く受けないことにする」か、どちらかになってしまう。前者をやるとストレスで主治医が潰れるし、後者を徹底すると、患者さんがいなくなって、病院が潰れる。「表ルート」だと絶対に上手くいかない、こういうときのために、「病院長の同窓生名簿」というものがあって、そういうルートを使って横車を押すことで、今はどうにかなっているんだけれど、あの世代がいなくなる10 年後、こういうことはますます難しくなる。

責任転嫁を技術化してほしい

自分の施設では難しい患者さんに行き当たって、もっと設備の整った施設に、正規ルートでお願いして、「満床です」とか「2週間後にどうぞ」とか、「おととい来やがれ」をちょっと丁寧にした返事を受けることが、ずいぶん増えた。

病診連携という制度ができて、それを専業にしているスタッフが、どこの施設にも常駐するようになって、制度は整備されたんだけれど、橋は腐った。悪性腫瘍の患者さんだとか、心筋梗塞の患者さんだとか、重症度と、重積度とが一致した患者さんなら、「ここ」と名指しされた施設があって、まだしも取ってくれるのだけれど。

治療設備がないというよりも、その病気の転機に対して、自分の施設では責任を負いきれないという病気について、今はなんというか、受けたらもう移動ができない。よしんばご家族が転院を希望しても、病院どうしの話しあいでは、しばしばそれがかなわない。

正しいやりかたでは転院の難しい患者さんを、それでもその人にとって望ましい施設にお願いするために必要なのは、結局のところ、同窓会名簿と携帯電話になる。近隣施設の病院長だとか、部長先生の専門分野をあらかじめ把握しておいて、そういう人たちに失礼のない連絡ルートをあらかじめ準備しておいて、直接電話をつないでもらって、泣き言言って、頭を下げて、無理を言って、患者さんを取ってもらう。

病診連携の人たちにしてみれば、現場の頭ごなしに飛び道具を使われるようなものだし、病院として「難しい」と返事した患者さんが、なぜか翌日に転院搬送されてくるんだから、患者さんを受ける側は、きっとすごく理不尽な思いをしているんだろうと思う。

責任転嫁の技術なんて下らないし、たとえば医療の技量を上げることに比べたら、圧倒的につまらないものなんだけれど、下らない、つまらないものだからこそ、こういうものをきっちりやっておかないと、下らない何かに喰われて、身動きができなくなるときが来る。病院間ネットワークみたいな、電子化の技術がどれだけ進んでも、このへんはきっと変わらない。

「責任転嫁の技術」なんてものを、だからこそ文章化して、みんなで共有しないといけないんだと思う。

転院先を探して主治医がうろたえるような疾患だとか、状況というのはたぶんいくつかに限定される。ある病院に赴任した医師が真っ先にしなくてはいけないのは、そうしたうろたえ状況リストに対応できる能力を持った施設が、近隣ではどこにあって、その施設を管理している病院長だとか、部長は誰で、その人に失礼の無いよう、直接連絡を取るためにはどういう手続きを踏めばいいのか、それを把握することなんだと思うし、そんなリストを作って共有しておくことで、恐らくは初めて、現場の医師は、政治の問題から自由になれる。

このまま行くと、もう「全部受けない」が正解になって、一度そうなると、もう後戻りはできないような気がする。