Home > 2月, 2010

2010.02.26

マスターアップしました

2009病棟ガイド の名前で昨年から製作を続けていたマニュアル本が一応完成し、データが印刷所に納品されることになりました。

メモ書きの束に過ぎなかった原稿をまとめるのは大変で、原稿をオーム社様に持ち込んだのが昨年12月、その頃から原稿は、Subversion を用いたバージョン管理が導入されるようになりましたが、上の先生がたに査読をお願いしたり、編集部の方にレイアウトを直していただいたり、訂正箇所は膨大で、最終的に、原稿のリビジョンは120に及びました。

結局この本はなんなのかと言えば、「平凡なやりかたの劣化コピーを簡便にまとめたもの」である、ということになるのだと思います。

世の中には正しい知識、最新の知識、それに基づいた正しいやりかたがあって、それをまとめた教科書を読み、理解することができれば、正しい知識を身につけることができます。いい教科書がたくさんある現状で、それでも「劣った教科書」を出す意味というものがあって、恐らくそれは、「間違った意見があって、初めて正しいものがなんなのかが見えてくることがある」ということなんじゃないかと思います。

正解というのは状況ごとに修正を余儀なくされて、正解を知っている人がそこに居合わせたからと言って、そのことは必ずしも、その人の口から正解が出てくることを意味しません。何もないところから正解を紡ぐのはけっこう難しくて、一方で、誰の目から見ても劣った意見というものは、その人の口から正解を導くための、触媒として働くことがしばしばあります。

「研修に役立つ本」は、たくさん市販されています。ところが「上司から上手に叱られるための本」というものは少なくて、教育というものが、上司から研修医への情報伝達であるならば、「ほめられるための本」がたくさん出版されている中、「怒られるための本」というものにも、それが役に立つ機会がどこかにあるような気がしています。

馬鹿なやりかたを知らないかぎり、正しいやりかたの正しさ、正しいことの価値というものは、しばしば見えて来ません。

自分が今まで収集してきた、古くて頭の悪いやりかた、劣ったやりかた、効率の悪さを覚悟する代わり、それを行使する人に能力を要求しない、取りこぼしの少ないやりかたというものは、対比の対象として、「馬鹿なやりかた」の典型として、それはそれで意味があるんじゃないかと思うのです。

「この本の作者馬鹿だよね」なんて、臨床の現場にあって、上級生と研修医とが、お互いのコミュニケーションを円滑に行う機会が増やせたのなら、この本の意図は成功したのではないかと思います。そういうものを、作ってきたつもりです。

出版自体はもう少し先になりますが、機会がありましたら、手にとっていただければ幸いです。

2010.02.22

武徳について

自分たちの業界だと「やる気」や「正義感」みたいな言葉であったり、あるいは生産の現場だと「現場力」だとか仕事の丁寧さ、といった言葉になるんだろうけれど、世の中のあちこちには、「軍人の武徳」に連なる何かというものがどこにでもあって、今はこれが失われたことになっている。

武徳は「あると便利なもの」

武徳を備えた軍隊は、恐ろしく強力になる。命がけで相手に立ち向かっていくし、容易なことでは戦線を崩さない。国のため、目的のため、武徳を備えた軍人は、それこそ死ぬ気で働いてくれる。

軍隊は、軍人は、武徳を備えていることがもちろん望ましいし、普段から武徳を発揮できるような訓練を受けるのだけれど、クラウゼヴィッツは、「武徳はあると便利だが、将軍は、兵士に武徳を求めてはいけない」と説いていた。武徳を備えた軍隊が勝った事例はもちろんたくさんあるのだけれど、武徳を持たない軍隊が、グダグダしながらも、それでも勝った事例もたくさんあって、軍隊を指揮する人は、たとえ「武徳を持たない部隊」を任せられたとしても、そこから勝利を目指すやりかたを考えるべきなのだと。

武徳というのは、あくまでも「あると便利なもの」であって、それを必須であると考えたり、あるいは失敗したときの原因として「武徳の不足」を挙げるようになってしまうと、たぶんおかしなことになる。

また人が減る

うちの地域から、また何人かの先生がたがいなくなる。来年度から当直も増えて、救急当番日も増えた。当直のアルバイトをお願いすることも増えて、非常勤で働く医師がずいぶん増えた。

上の先生たちは、「あの施設はやる気がないから」とか、「あの人は燃え尽きちゃったから」なんて言う。「やる気」とか、あるいは燃え尽きる前の燃料に相当する何かこそは「武徳」であって、やっぱりこの世代の人たち、70歳がそろそろ見えるぐらいの人にとっては、医療というのは「武徳を備えた人」が運用するものが、当然になっていたんだろうと思う。

武徳というのは目に見えないから、それが前提になった組織は、オーバーワークが当たり前になるし、現場を離れた人は、武徳を失った「裏切り者」になる。あるのが前提の武徳は、それでも目に見えないから、去った人を叩いて、じゃあ残った人たちに武徳の炎が燃え上がるかといえば、もちろんそんなこともない。

武徳がどうして消えたのか、自分には分からないけれど、やっぱり年々厳しくなってきてる。

叩く世代と調べる世代

何かの道具がおかしな動作を始めたときに、「スイッチを入れたままでとりあえず叩いてみる」のが基本動作になっている世代と、「まずは電源を入れ直して再起動を試みる」世代とがあって、文化が断絶しているのだと思う。

恐らくは昭和40年代から50年代ぐらいの日本には、たしかに「武徳」に相当する何かがあって、働く人は、ある種宗教的な情熱で、それは裏を返せば思考停止を半ば自らに強制しながら働くことを当然としていて、組織をガバナンスする側の人たちもまた、武徳が前提の組織操縦を行って、今までとりあえず、何とか上手くここまで来れた。

今とりあえず、社会として、あるいは世代として、武徳というものが少ない、あるいは最初からそういうものを持たない人が増えて、組織の旗を振る上の世代の人たちは、「武徳を持たない軍隊」を指揮するやり方を習ってこなかったから、いろんなところで迷走が生じている。

判断を行ったり、あるいは「成功、失敗」の評価を行う人たちは、ある意味みんな「武徳世代」なものだから、失敗はとりあえず、「武徳の不足」が原因になる。やる気文脈で生きてきた人たちは、たぶん「ちゃんとやれば大丈夫」が信条になっていて、上手くいかないのは「ちゃんとやってないから」だと判断する。判断が下されて、現場に対する目線圧力はますます増えて、現場はいよいよ回らなくなってしまう。

もうすぐたぶん、「若い奴らはやる気が足りない。やる気で俺たちの生活を守れ」という上の世代と、「構造の問題に手をつけなかった不作為が、こういう状況を生んだ。老害さっさと退場しろ」という若い世代とで、争いが始まる。多数決だと若い側が必ず負けるんだけれど、その時はもしかしたら、「やる気に満ちた若い世代」なんて、どこを探したっていないんだろうと思う。

2010.02.18

分業する人たち

誰の胸にも自尊心があって、それを満たすには勝たないといけない。人が集まって、みんなが同じルールで勝ちを目指すと喧嘩になるから、個人が複数集まると、役割の分担が自然発生して、チームができる。

チーム内部での役割分担は、合議で決定されることもあるけれど、恐らくは役割分担というものは、場の自尊心を効率よく分けあうやりかたとして、半ば必然として自然発生するものなんだと思う。リーダー1人、あとは全員部下という形も多いけれど、みんなの自尊心を満たすなら、それぞれの得意分野に応じて、チームに複数の「専門家」を作ったほうが、効率がいい。

個人と個人でなく、「家族」みたいな複数の人たちと交渉に臨むときの考えかた。

ライフルマン

チームに属する全ての人は、ライフルマンとなる。万能選手であると同時に、「状況」や「空気」で動く人たちでもある。特定の専門技能を持たないライフルマンが複数集まってチームを作ると、そこから専門技能が分化していく。

交渉の状況設定を工夫することで、役割分担が発生しない方向に持っていくこともできるし、あるいはこれから発生するであろう役割分担を予測して、役割の数だけ交渉プランを準備しておくこともできる。

ブレイカー

ドアブリーチャーなどとも呼ばれる。突入の際のドアの破壊を担当する役割を担う。

声が大きい、体格が大きい、交渉の際に最初の声を上げる人。男性のことも、女性のこともある。「怖さ」と「緻密さ」は両立が難しいみたいで、こういう人は、最初に首をすくめてみせることで、その人の「突破力」を肯定すると、以降はそんなにトラブルにならない。最初に「あなたなんて怖くない」というメッセージを出すと、あとあと大変になる。

その代わり、こういう人がしばしば、度を超した要求をしてくる「クレーマー」とか「モンスター」なんて呼ばれることが多くて、どこかのタイミングで「あなたの態度は怖いです。我々は萎縮しています」と、言葉や態度で表明しないといけない状況に陥ることがある。表明が上手くいけば、こういう人は案外、人が変わったようにおとなしくなるのだけれど、それをやるときにはけっこう怖い。

トラッカー

追跡を行う、相手の足跡を見ることで状況を伺うスペシャリスト。記録係を担当していて、あらゆる情報を集積する。

「メモ」を担当する人。たいていはおとなしくて、発言力みたいなものはむしろ弱くて、「突破」を狙うのでなく、過去との整合性をついてくる。

熱心なトラッカーはすごくやっかいで、「矛盾があっても現状上手くいっている」状況は、他のご家族からするとそれでいいんだけれど、トラッカーから見ると、突っ込みどころ満載と判断されて、いろいろ痛くもない腹を探られる。

トラッカーに遭遇したなら、「我々は無能です。正直忙しいし、人でも足りません。不完全なことしかできません。申し訳ないけれど、できる範囲でベストを尽くすことしかできないです」という表明を、早い段階で行っておくことが大切になる。出来もしないことを変に強がっても、矛盾に矛盾を上書きするだけになってしまう。

EODスペシャリスト

爆弾処理のプロフェッショナル。状況を仕切ることよりも、むしろ「いなす」、場を丸くおさめることを得意分野にしている。

普段はしゃべらない。おとなしくしている。状況がこじれてから、初めて存在感を発揮して、たいていは、医療者側に「味方」してくれるんだけれど、場をおさめてくれたのが誰なのか、あるいは自分たちが誰に期待をしているのか、それを医療者側がきっちりと認識していることを表明しないと、援助がもらえない。

「隅っこで物静かにしている男の人」だとか、「一見気弱そうに見える患者さんの長男」みたいな人が、EODスペシャリストである可能性が高い。話がこじれて、その場にEODスペシャリストがいたのなら、病室から出るときに「お騒がせして、どうも申し訳ありませんでした」と、その人に向かって頭を下げておくと、いなくなったあと、取りなしてくれる。

ポイントマン

斥候要員。「私はよく分からないので」なんて留保を置きながらも、真っ先に病院に来て、話を聞きたがる。

「分からない」という割に、ポイントマンは、交渉の仲介者として、全ての情報に介入を試みる。この人との応対いかんで、残りのご家族に対する主治医の印象がずいぶん変わる。「情報を伝える」ことが生きがいの、こういう人を無下に扱うと、「なんか不機嫌そうな主治医だった」とか、ろくでもないバイアスが入る。夜中であっても、最初の人は、大事にしないといけない。

コマンダー

チームのリーダー。家族の中には「リーダーがいない」ことがしばしばある。

たとえ直接その人を介護していたり、あるいは一緒に暮らしている人であっても、リーダーでないことは珍しくない。話をするときに、大勢でやってくるようなご家族の中には、必ずリーダーがいる。リーダーは高齢者で、状況がある程度固まってから、誰かに付き添われてやってくることが多い。このときにはもう、主治医として最大級の歓待を行わないと、あとからえらいことになる。

状況が悪くなったときに、むこうの大家族の場合には、「ブレイカー」に相当する人が、主治医の胸ぐらをつかみに来る。それが「孝行」の表明だから。で、そこで一発入ってから止めが入るか、一発入る寸前で止めが入るか、それはコマンダーが決定する。コマンダーに敬意の表明を行うことに成功していれば、逆に言うとどんな転機になっても、慌てなくて大丈夫。

2010.02.16

「もしも」の運用

あえて遠回りな問いを立てることで、より近い回答を得るやりかたについて。

たとえば「素人が3分間で朝青龍に勝てるやりかたを教えてください」なんて、格闘家の人にインタビューを行ったところで、たぶんたいした返事はもらえない。

それはそもそもが無理な問いだから、「無理」だとか「逃げろ」なんて返事ならまだいいほうで、「死んだ気で戦え」だとか、「素人でも余裕です」だとか、どうせ冗談にしか聞こえない、こんな問いには、いいかげんな答えしか返ってこない。

ところが「もしもあなたの息子さんが、今から3分後に朝青龍と戦わなくてはならなくなったら、あなたは3分間で何を伝えますか?」という質問を、いろんな格闘家に答えてもらったら、もう少し面白い返事がもらえるのだと思う。

「もしも」の状況に陥った息子さんに対して、たとえば格闘家としての自分のありかたを説く人もいるだろうし、とことん逃げるやりかた、「勝ち」というものの意味を教える人もいるかもしれない。あるいはそれでも、「戦うこと」にこだわって、拳の握りかただとか、有効な蹴りかたみたいな、3分という、ごくごく限られた時間であってもあえて伝えたい何かを、教えようとするかもしれない。あえて「もしも」を挟むことで、問題と、回答者との距離は遠のくけれど、思考の幅は広がって、役に立つ答えをもらえる可能性は、かえって高まるような気がする。

「あなたはどうしてこの製品を買ったのですか?」という質問に、本心を答えてくれる顧客は少ない。本当はイチローのコマーシャルを見たからなのかもしれないし、「色が黄色くて好みだったから」とか、それを買った理由というのは、もしかしたらつまらないものだったのかもしれないけれど、「なぜ」を尋ねられた人は、「性能が優れていたから」だとか、「他社製品よりも耐久性が高いから」だとか、もっともらしい話を創作してしまう。

「もしも」あなたが「普通のお客さん」だったら、何に注目しますか?という問いを立てると、回答者の視点をちょっとずらせる。「コマーシャルがいいんでしょう」とか、「これは近所の人がたくさん使っているから、つられて買うんでしょう」とか、そういう意見を集めてから、「もしも」を削除すると、役立つアンケート結果が得られる。

検察の人はときどき、「もしもあなたが犯人だったらどうしたか、想像でいいから教えてください」なんて説得する。「犯人」の想像を書き留めて、そこから「もしも」を削除すると、いい調書が作れる。

一般化はできないんだけれど、特定の状況で、「もしも」という言葉を上手に使うと、面白い結果が得られそうな気がする。

2010.02.12

理解は押しつけから始まる

理路整然と、病気のことを患者さんにしゃべり倒しても、「理解」を得るのは難しい。どれだけ詳しくしゃべっても、患者さんからは「お任せします」なんて終結宣言がでて、伝わっていると思ったことは、全然伝わっていなかったりする。

「それは要するに、こういうことなんですね」なんて、患者さんの口から発せられる「要するに」をお互いに共有する、理解の方法論。

誰も病気のことなんて知りたくない

主治医は病気の専門家だから、患者さんの状況に応じて、今どんなことが推定されて、それに対してどういう手段を考えているのか、教科書的に正しいことを、系統だって語ることができる。実はこれが「できる」人すら少ないのが問題といえば問題なんだけれど、一応できることになっている。

ところがたぶん、患者さんだとか、ご家族の多くは、「系統だった」話を聞いて、それを理解であると認識しない。知りたいことの重要度は、個人によってまちまちで、たとえばそれが肺炎なら、咳を気にする人、発熱を気にする人、喀痰を気にする人、それぞれの患者さんごとに、知りたいことの序列はみんな異なる。

相手との文脈を共有しないままに情報を伝達しても、理解は生まれない。文脈というのは情報の並びかたであって、順番を違えた伝達は、たとえそれが医学的に正しくても、聞く側からはなんだか、外国の言葉を聞いているみたいに思えてしまう。

文脈を共有するためには理解が必要で、理解を行うためには文脈を共有しないといけない。この円環が、理解というものを困難にしている。

最初は押しつけでいいんだと思う

丁寧なやりかたを目指すのは間違いで、むしろ最初は、医療者側からの「押し付け」でいいのだと思う。

患者さんの問題が肺炎なら、「肺が悪い。酸素と点滴が必要。具合はいい悪いで言ったら少し悪い。死ぬこともある。医者としてやれる範囲で頑張るつもり」ぐらいのことをまずは「押しつけ」てから、相手の反応を待つようなやりかた。教科書的な知識を包み隠さず伝達する、最初から「相互理解」みたいなやりかたを目指すと、たぶん望ましい結果には結びつかない。

外国語みたいな長口舌を聞かされた人は、理解ができないから、黙ってしまう。言葉を「押しつけ」られると、たいていの人が反発する。押しつけられて、反発して、試行錯誤を行って、行った結果として、「質問」が生まれる。遠回りではあるんだけれど、たぶん理解というものは、きれいな伝達を工夫しても、望ましい理解は、むしろ遠のくような気がする。

理解というものを考えるときには、たぶん「質問が出やすい状況設定」を考える必要がある。それは押しつけやすい「要するに」の準備であって、疾患ごと、重症度ごとに、「要するにこういう状況です」という一言を普段から準備しておくことが、より速い「理解」につながる。コミュニケーションにおいて、「理解」という工程は、だから事前に準備をしておかないといけないもので、患者さんと向き合ってから医師にできることは、案外少ないのだと思う。

衝突が納得を導く

理解というものは最終的に、「医療者側から押しつけられた思考の型枠を、自分の言葉で満たす」作業として完成する。

理解のその先、「納得」というものは、今度は「遭遇した体験」を通じて、患者さん自身が内的に生成するものなんだと思う。

演劇を見る。静かな空気。しゃべらず歩く人。壁に向かって立ち止まる人。壁に絵が掛けられている情景を見せられることで、観客は「美術館とはこういうものであったか」という気づきを得る。これが「納得」であって、ここで主役に「あぁ美術館はいいなあ」と語らせたところで、それは単なる言葉の押しつけであって、納得には遠い。納得を得るためには、それが演劇であれば「遠いたとえ」から「近いたとえ」へ、観客のリアルが剥離しないよう、計算された「体験の押しつけ」を重ねることで、観客を穏やかに導いていかないといけない。

統一協会の「セミナー」中盤、「文鮮明は朝鮮の人なのに、日本人を肩に担いで命を助けた。何故か?」なんて問われるのもまた、恐らくは計算された体験の押しつけなんだと思う。こういう問いを繰り返されることで、怖いもの見たさで入門した人の口から、「師は慈愛の人だから」みたいな「納得」が導かれることで納得が達成される。

病院における「体験」というものは、症状であったり、患者さんの振るまいに相当する。「症状」は病院のもの、医療従事者のものであって、一方で、「病名」は患者さんのもの、患者さんの口から、「納得」を得た証として出てくるのを待たないといけない。

「○○さんは痴呆です。診断基準を満たしています」なんて言い回しでは、理解も納得も得られない。

自宅だと食事をとらない。今までと行動が違う。という体験がまずあって、病院に来る。医師からは「病的な状態である。血液検査や頭部CTでは大きな異常がない。調べるけれど分からないかもしれない」なんて言葉の押しつけがまずあって、患者さん側からの質問があって、理解が行われる。

入院した患者さんのご家族が、息子さんの顔が分からなくなる、食事をむせる、食べたことを忘れる、夜中に暴れて点滴を抜く、といった「体験」を経ることで、恐らくはご家族は、「入院すれば治る」なんていう病気の理解と、自らの体験とが衝突する。衝突を体験することで、初めてご家族は、「病気というものはこういうものであったのか」という、医師の目線で自らの体験を考え直す機会を得る。納得には「衝突」が必要なのだと思う。

説得と何が違うのか

詐欺師は相手の強欲を利用する。ソーシャルエンジニアは誰かを助けたいという気持ちを利用する。突き詰めれば自尊心というものの扱いかたを心得た人が、人を動かす。

理解と納得を得るために必要な技術と、納得モデルそれ自体の書き換えを試みる「説得」の技術とは、体系からして異なっている気がする。

敏腕セールスマンだとか、詐欺師やソーシャルエンジニアの技術と、劇作家の人だとか、自己啓発セミナーの技術とは、互換性がないんだと思う。

納得は認識の変容を迫る。下準備は大変で、時間もかかるけれど、効果は深く長く続く。説得の技法は、「お金がもらえるその時まで持てばいい」という、割り切りがあるような印象。効果が一時的であることを受け入れるその代わり、無理な振る舞いを強制することもできるし、効果の発現も速い。

理解や納得の技法は、相手の動作を歓迎する。試行錯誤を歓迎して、それを促すような状況を作り出す。扇動者は逆に、相手の動作をいかに止めるか、相手の思考をいかに停止させるかに心を砕く。

2010.02.10

「もてなし」の力

人を「もてなす」というのは、相手の動線を最小化するように、自らの振る舞いを、相手に見せることなんだと思う。

同じ仕事をこなすのに、お互いの仕事量が最小になることを目指してしまうと、それは相手から見ると「仕事の強制」であって、もてなしとは違う。たとえ相手の動線を最小化することに成功しても、それが相手から見えないと、単なる「便利」になってしまって、もてなされたという感覚が発生しない。

病院におけるもてなし

病院には、相手を「もてなす」構造というか、仕組みがたくさんあって、そういうものを上手に使うと、患者さんの印象を変えることができる。

  • ご家族に病状説明を行うときには、ご家族は最初、患者さんのベッドサイドで待っていることになる。病状説明を行うのは別の場所だから、距離があって、わずかな距離だけれど、この距離を、相手を「呼び出す」ことに使うのと、主治医が歩いて相手を「迎えに行く」こととで、印象は全く変わってくる
  • 外来ブースはカーテンで仕切られていて、患者さんは、カーテンの外側、受付近くの待合室で待つ。外来の対応がうまくいかなかったときに、受付で待つ患者さんの居場所まで、カーテンを開けて、主治医が歩いて、ほんの一言二言、病気に関する注意みたいなものを述べるだけで、患者さんの印象が好転する
  • 検査のときなど、患者さんに靴を脱いでもらう機会は多い。靴は患者さんのもので、たいていの人はその場に脱ぐんだけれど、靴をベッドの下にしまわないと、機械をそこまで持っていけない。このときに、「靴を主治医の足でベッド下に押し込む」のと、「主治医が腰をかがめて靴を揃える」のとで、やっぱり印象が全然違ってくる

このへんにきちんと気を配るよう、研修医の頃にはずいぶん仕込まれたんだけれど、今はどうなっているのか分からない。こういうことをやっている、少なくとも、病院のこうした不自由さを、交渉の道具として自覚的に使っている人は、そんなに多くないような気はする。

「もてなし」というのは、言ってしまえば下らないごますりで、医療の「本質」みたいなものからは一番遠いものではあるんだけれど、下らないことをきっちりやれない人は、「本質」を、その人なりにどれだけきっちりやったとしても、下らないことに、いつか足下をすくわれる。

もてなしの戦略性

「単なる便利」と「もてなし」とは、同じ動作の節約であっても、受ける印象がずいぶん違う。

誰かをもてなす、あるいは相手に「もてなされた」という感覚を生むためには、まずは「顧客に対して不自由が一方的に付加される」という状況を作ってから、顧客を出迎える側が、自ら動くことで不自由をとりはらうという儀式を挟まないといけない。

ご家族を呼び出す話なら、たとえばどこか場所を決めておいて、最初からそこに全員が集合すれば、医師がご家族を迎えに行くまでもなく、みんながのその場所で待っていられる。これは便利であるその代わり、「もてなし」という感覚からは遠くなる。

外来ブースはカーテンで仕切られているけれど、カルテを完全電子化して、外来が終わったその瞬間に請求書が出来上がるような仕組みができたらたしかに便利なんだけれど、これをやってしまうと「待つ機会」が一つ減るから、主治医はもう、外来ブースでの失敗を取り返せない。

恐らくは「もてなし」というものをやりやすくするための状況とか構造、空間の使いかただとか、相手に「もてなしにつながる不自由」を付加するやりかたというものが、主に茶道方面のノウハウとして、蓄積されているような気がする。もてなしというものは気持ちの問題なんかじゃなくて、技術であって、あえて何かを作り込まないと、生まれないものなんだと思う。

昔の「茶室」というものも、あるいはあれは、相手から「もてなしという手段」を得るための、一種の要塞というか、罠みたいなものとして読み解くと、面白いかもしれない。相手を歩かせて、寒い思いをさせて、そういう構造を作った本人がお客さんを出迎えるのだから、状況に応じた相手の心境だとか、その時味わっている不自由さが、容易に想像できてしまう。

交渉や謝罪を行うときに、「その時の相手の心境」が理解できていると、いろんな物事が簡単になるんだけれど、空間設計を上手に行ったり、あるいは自分が今いる病院という場所が、そこに来る人に押しつける不自由さみたいなものを普段から理解しておくと、顧客を「もてなす」ときに、それが生きてくるんだと思う。

2010.02.08

謝罪に関する覚え書き

そのうちまとめたいと思っているもの。ゴールでなく、手段としての謝罪について。

  • 謝罪というものを、事実と感情とを切り分けるための手段である、道具であると考えることで、謝罪の使いかたが上手になるんだと思う
  • 苦情の原因は、「相手の勘違い」などではなく、常に「こちらの配慮不足」であると考えないといけない。事実で妥協する必要はないけれど、印象には配慮しないといけない
  • 「相手がバカだから」「いちゃもんをつけられた」なら、それは馬鹿な相手を想定した対応を用意できなかった自分の非であって、だからこそ、謝らないといけない。謝罪という局面で大切なのは感情であって、事実は関係ない
  • 「謝罪というのは弱さの現れ」であるという文化は止めたほうがいいんだと思う。「謝れる人は強い」という意見も同じぐらいに有害。謝罪は単なる手段であって、交渉者は、謝罪という行為に対して中立でないといけない
  • 謝罪は具体的でないといけない。相手に対して、こちらが何に対して謝っているのか、正確に伝えないとこじれるし、「相手が想定していた不快要素を、自らが言語化して相手に伝えること」で、初めて謝罪という行為が成立する。ごめんなさいという言葉それ自体は、意味がない
  • 謝るべきタイミングが来たら、行動は一刻を争う。衝撃力は、火力に比例して、スピードの2乗に比例する。相手の不快感は、遅延時間に2乗して大きくなっていく
  • 「自ら出向く」のが大切。ほんの数歩であっても、相手に来てもらうのと、自分が歩くのとでは、印象が全く違う
  • 病院の外来にはカーテンがあって、患者さんは待合室で待つ。カーテンを出て、待合室の患者さんのところに歩くだけで、恐ろしく印象が良くなる。あるいは患者さんをナースルームに呼び出すときには、面倒でも必ず主治医が迎えに行く。患者さんの話を聞くときには、主治医の靴を揃えたベクトルが、患者さんの方向を向いていないといけない。相手と自分とを隔てるカーテンであるとか、待合室までの距離であるとか、こういうものを、コミュニケーションの武器として生かすことを考えないといけない
  • 謝るときには、相手の反応に期待してはいけない。あくまでもそれは、こちら側が勝手に切るカードなのであって、取引ではない。その代わり「ここで謝った」という行為それ自体は、状況が法律案件になったときに、地味に効いてくる
  • 「主治医がそのことを覚えていない」ことは、謝罪をしない理由にはならない。謝罪というのは「相手にとっての事実」と、「それに関して生じた情動」に対して機械的に行われるものであって、主治医にとっての、あるいは客観的な事実はどうであったのか、謝罪の行使について言えば、それは全く関係がない
  • 謝罪というカードで、事態を完全にコントロールすることはできない。その代わり、行うべきタイミングで謝罪の機会を逸したなら、状況は確実に悪くなると心得るべき
  • 「分からないけれどとりあえずごめんなさい」と言われたら、相手は怒る。謝る側が「納得」を表明しないと、謝罪にはなんの効果も期待できない。謝罪をする相手が何を感じ、どういうことに怒っているのか、それを謝罪者する側から言葉にして伝え、相手がそれに同意することで、初めて納得が観測されて、謝罪の言葉に意味が生まれる。情報の収集が大切

2010.02.06

交渉における補給の問題

恐らくは自尊心というものが、交渉における通貨になる。

「あの人はプライドが高い」という表現に出てくる「高さ」という考えかたは、お金で言うと「気前の良さ」や「お金の使いかた」みたいなものであって、高い低いだけでない、本当はもっと複雑なものなんだろうと思う。

補給というもの

食べ物だとかお金の問題、「補給」というものは大切なのに、戦争が始まると、たいてい真っ先に無視される。無視されて地味なのに、補給を無視した軍隊は、必ず負ける。

医療の技術や診断能力、自分たち医師の「熱意」だとか、「能力」に相当するものは、これは戦争で言ったら「武器」する。見た目が派手で、能力はみんな磨きたがるのに、補給はしばしば無視される。

病棟で「補給」に相当するものは、たとえばその日勤務している看護師さんたちの人数だとか、勤務シフト、人間関係みたいなものなんだと思う。こういうものは本来、「医師の関与するところではない」し、それを理由に仕事が滞ると「病棟がたるんでいる」ことにされてしまうんだけれど、看護師さんが動けない病棟では、患者さんは治らない。

恐らくは患者さんの状態にきっちり合わせた、薬の一滴にまで気を使う処方を行う医師は、もっとずぼらな、10人の患者さんがいたら、10人に同じような処方をする医師よりも、患者さんの予後を悪くする。

病棟看護師さんの能力が無限に高ければ、もちろん結果は逆転するけれど、複雑な指示はミスが混じるし、オーダーは遅延する。必要なときに必要な薬が入らなければ、結果として、病気は良くならない。医師のオーダーに従えないのは、もちろん「病棟の怠慢」だけれど、本来はたぶん、オーダーを出す側が、こうした要素に気を配る義務があるんだと思う。それができない「名将軍」は、結局は「無能な病棟」を恨みながら、敗走して、別の施設で敗北を繰り返す。

交渉における兵站要素

議論や交渉において、補給物資に相当するものは、お互いの自尊心なのだと思う。

自尊心は交渉の通貨であって、頭を下げるほどに、妥協するほどに減っていく。通貨は節約する必要があるけれど、支払いを拒んだら、交渉は成立しない。

自尊心通貨が空になった人どうしが交渉を行うと、削れたプライドを、目の前の相手から徴発しないといけない。これは要するに、相手に対して小さな勝利を奪いに行くことに他ならないから、最終的に、嫌みの応酬みたいになって、お互い飢えているから止められなくて、交渉は自壊する。

いわゆる交渉ごとの本には、交渉人の自尊心について書かれたものは少ない気がする。交渉する側の自尊心というものは、むしろ「鍛錬」だとか「自己研鑽」で克服すべきものみたいなイメージ。「勝つ交渉」の達人である橋下弁護士の本にも、このあたりの言及は少なくて、あるいはあの人なんかは、攻めの上手だけれど、補給を重視しないから、それが時々欠点として露わになっているように思えたりする。

「相手に敬意を払おう」とか、「真摯な態度で交渉に臨もう」とか、それをやるためには、まず自分自身が「お腹いっぱい」でないと無理だと思う。空腹で、財布が空で、相手を思いやることなんてできるわけがないし、その状況で交渉を行っても上手くいかない。

上手な通貨の使いかた

「上手な自尊心の支払いかた」を知っている人は、余裕を持って交渉に臨める。それはたとえば、交渉の目的をはっきりさせておいて、頭を下げることを動作として予期しておくことだとか、「負けること」それ自体にもべつの勝利要素を見いだせるよな、負けでなく、とりうる選択枝の一つであると見なせるような自己欺瞞論理を作っておくことで、こういう「下準備」を行っておくと、一つの判断ごとに支払う自意識通貨を節約することができる。

その人が支払える自尊心通貨の総量が多ければ、やはり心に余裕が生まれる。「自分を肯定してくれる場所」をどこかに持っていると、一見それが交渉に関係なくても、貴重な「補給基地」になって、それがあるだけで、交渉のとき、選択枝が一つぐらい余分に思いつく。

相手を100% 倒しに行ける手段を持っておく、考えておくことは、交渉を楽にする。「いつでも倒せる」相手には、人はたぶん優しくなれる。「とりあえずぶっ飛ばす。話はそれから聞いてやるの」という考えかたは、たぶんそんなに間違っていない。正しいことを、誠実にやろうとする人は、だからこそ、あらゆる正しくないやりかた、あらゆる誠実でないやりかたに精通しておかないといけないし、それができて初めて、その人は一番効率のいいやりかたとして、正しくて誠実な方法を提案できる。

交渉の目的を、「問題の解決」に置くならば、相手の自尊心通貨を枯らす、心を折る、潰しに行くことは、交渉の成功を意味しないどころか、むしろ問題の解決を遠ざける。「食べながら戦う」兵士がいないように、相手の懐具合にも気を配りながら、交渉は、適切なタイミングで休止を入れないといけない。

2010.02.05

理解と納得

劇作家の平田オリザが書いた本からの抜き書き。

演劇という技術

  • 演劇の技術とは、自分の妄想を他者に伝える技術である。それが技術としてたしかなものであるならば、それはある程度の部分まで言語化できる
  • 人間は人間を正確に把握することなどできない。だからこそ表現者は、「私はこのように世界を把握する」という認識を示していかなくてはならない。芸術家がなすべきは、評論家のように事の善悪を説くのではなく、事件を直接的に捕まえ描写すること
  • 舞台は時間軸が一定で、場面もそんなに変えられない。漫画や文章なら、100年も、地球の裏側もすぐだけれど、舞台ではそういう、出来事の連鎖によってストーリーを進めるやりかたができない
  • 小説のように、だんだんと状況がのみこめてくる展開は、用意できる舞台道具に限りのある演劇では難しい。戯曲の場合には、だからその戯曲、その舞台が何についての、どういう作品なのかを、できるだけ早い時期に観客に提示し、観客の想像力に方向付けを行う必要がある
  • 劇作家は、ストーリーの中で、ある特定のシーンだけを抜き出して、その前後の時間については観客の想像にゆだねることしかできない

リアルということ

  • 舞台設定を美術館だとして、主人公が「ああ美術館はいいなあ」と独り言を言うのは、駄目な台詞。リアルでない
  • イメージには距離の概念がある。遠いイメージから入ってくのが鉄則。それが美術館なら、絵がある、静かである、高尚な雰囲気、人がゆっくり歩く、などがイメージ。遠いほうから、「静か」「デートに向く」「交渉」などがあって、もちろん「絵がある」が一番近いイメージ
  • 伝えるべきテーマはないけれど、その代わり表現したいことなら、山ほどある。表現したい何かがあって、それをリアルにするために、舞台がある。オリザが美術館を舞台にした戯曲を書いたとき、台詞にリアルさが足りなくて、「第二次世界大戦中、有名な絵画が日本に避難してきた」という設定を付け足したのだという。付け加えられた設定で、美術館のロビーでの会話に必然性が生まれて、戯曲にリアルが付加された
  • 列車の中にヤクザがいれば、自ら好んで話しかける人は少ない。それでもヤクザが切符を落としたら、「落としましたよ」と話しかけざるを得ない。私たちはこのように、周囲を取り巻く環境によって、「しゃべらされている」
  • 舞台作家は、鑑賞者が自ら、作家の文脈を受け入れるよう、穏やかに導いて行かなくてはならない。演劇においては、文脈のすりあわせがなされない段階で、表現者の側が鑑賞者に仮想のコンテクストを押しつけると、その時台詞はリアルな力を失ってしまう。「穏やか」というのは、「遠いイメージ」から「近いイメージ」への移行で表現される
  • 演劇とはリアルに向かっての無限の反復なのだ

会話と対話

  • 対話と会話は異なる。対話とは他人と交わす情報交換や交流、会話とはすでに知り合っている人同士の単なるおしゃべり。戯曲の素人は「会話」を台本に書いてしまう。対話がないと戯曲が成立しない
  • 情報量がほとんどないにもかかわらず、「会話」には冗長な言葉は少なく、「対話」にはむしろ、「ああ」とか「いやぁ」とか、冗長な言葉が頻出するようになるらしい。私たちは、親しい者同士の会話では、無駄な単語を使わない
  • 冗長率の高い「対話」を描くときには、だから当然、間投詞や感嘆詞が多くなり、これをやらないと「固い」言葉になってしまう
  • 会話が複雑になればなるほど、演じる側の負担というものは、むしろ減る
  • 他人はどうか分からないが、私は愛情の表現の前に沈黙する。その沈黙、一瞬の停止から演劇が始まる。演劇は静止から、無から出発する

理解と納得

  • 韓国人は茶碗と箸とスプーンで食事をする。お椀は持ち上げずに、机に置いたまま食べる。日本の俳優にそれをやらせることはできるけれど、最初は当然ぎこちなくなる。すぐに上手になるけれど、会話をしながらそれをやらせると、またぎこちなくなる。スプーンを持っているのに、「箸で食べる」動作をしてしまう。日本の俳優は、そのとき初めて、「ああ、自分は普段、こうやって箸でご飯を食べているのだ」と、自分の日常動作に気がつく
  • 芸術作品を見て人が感動するのは、突き詰めていえば、「ああ、たしかに私は世界をこのように認識している」という感覚が起点となる
  • 理解というのは事実の把握、納得というのは事態の認識

個人的にはここの下りが、「理解」と「納得」とを隔てる説明として腑に落ちた。

「理解」はそれでも案外簡単で、必然性を持った状況で、分かりやすく語ることに気を使えば、まだどうにかなる。理解というのは「相手の言葉を相手の文脈で呑み込むこと」だけれど、恐らくは納得というものは、「相手の文脈で自分の考えを再発見すること」だから、聞いただけでは分からない。

医師から話を聞かされた段階で、患者さんはそれを「理解」することはできる。「納得」した患者さんは、今度はたぶん、自分の診断であるとか、これからおこること、その時の対処なんかを、今度は自分の言葉で語ることができるようになる。何らかの状況を「理解」の先に導入することで、改めて自分が今まで行ってきた判断に気づきが生まれ、恐らくは初めて「納得」が出現する。

「納得」が正しく得られたのなら、主治医は患者さんの指示に従って動くこともできる。もはや「説得」の必要もないし、医師は患者さんの部下になれるから、「謝罪」の機会も消失する。患者さんの納得が、医師の理解とずれていたときには、価値判断の重み付けを調整する、「説得」を行う必要があるし、説得に失敗して、患者さんとの信頼関係が破綻しそうになったときには、まずは「謝罪」という刃物を振るって、状況から、感情と事実とを切り離して、事態の収拾をはかる必要がある。

「理解」「納得」「説得」「謝罪」を、こういう関係で記述することができれば、いろいろ応用できそうな気がする。

2010.02.03

責任の所在について

たとえば「気迫さえあれば、竹槍でB29ぐらい余裕で撃墜できる」なんて怒鳴る軍人がいたとして、その人に「具体的に気迫を見せて下さい」と言ったら、たぶん殴られる。実際にB29が来たとして、竹槍構えて、撃墜できなかったら、やっぱり「気迫が足りない」と怒鳴られる。気迫はどこにも見えないのに、それは「ある」ものであって、それを根拠、現場は怒鳴られたり、殴られたりする。

自分たちの業界には、「ない」ことになっているんだけれど明確に「ある」、責任というものがあって、毎年何人か、これに潰されて仕事を辞める。

責任の重さ

たとえば80歳の高齢者が敗血症になってショック状態で、今すぐ処置しないと死んでしまうぐらいに具合が悪くても、診る側は案外楽で、医学的なベストを尽くすことに集中できる。「責任」なんてものを意識する人は、たぶん少ない。

ところが20歳ぐらいの若い人が、発熱と咳が2週間続いて、「息が少し苦しいんです」なんてつぶやいた日には、みんな震え上がる。それが単なる肺炎であったとして、日本中どこの病院でも、たぶん肺炎を治療することはできるんだけれど、誰が診療しても、患者さんは一定の確率で悪くなるし、確率をゼロにはできない。

こういう人が本当に急変したとして、ご家族も本人も、「たかが肺炎」で急変するなんて思いもしなかっただろうから、驚きは怒りに変わる。その怒りは、誰かが引き受けないといけない。医療の業界で、今はたぶん、たいていの人がこんな想像をするから、若い患者さんを「ちょっと」治すのは、恐ろしい。

避けようのない事態があって、その時に重たい「責任」が発生することは、きっと誰もが分かっているはずなのに、こういうのは「医学的には避けようがない」ことで、「きちんと説明すれば、患者さんは分かってくれる」ことになっていて、世の中にはだから、「責任」なんてものは、そもそも存在しないことになっている。

「ない」ものを恐れるのは馬鹿で、みんな馬鹿だと言われるのは嫌だから、責任の話は語られない。語られないけれど、それはやっぱり「ある」ものだから、こういう患者さんが来たときには、まずは他の病院を探す。患者さんと、ついでに「責任」という得体の知れないものと、一緒に引き取ってほしいから。

昔はそれが転院だった

「患者を引き受けて下さい」、という転院依頼が、自分が研修医だった病院では、ずいぶん多かった。「医学的には容易」な疾患なのに、土曜日の午後だとか、うちの施設だって手薄になってしまう、明らかに「今じゃないだろう」なんて転院依頼。病院の方針が「絶対受ける」だったから、それでも受けざるを得なかったんだけれど、転院を依頼する側にしてみれば、送りたいのは患者さんじゃなくて、「責任」だったんだろうと思う。

今はもう、「転院」というやりかた自体が減った。大学みたいな大きな施設から人がいなくなって、どこももう手一杯で、引き受けてくれるところなんてない。「受けたら転院」の時代から、ゼロ年代のトレンドは「受けたら負け」になって、たしかにそのとおりになって、現場からはますます人が減った。

避けようがない、語ることを許されない、「責任」という怪物から、どうにかして自分の身を守ろう、守ろうとして、みんな右往左往している。そもそも患者さんを診ないとか、入院患者さんは診ないとか、専門を「これ」と決めて、それ以外は絶対診ないとか。「何でも診ます」なんて宣言する奴は、もはや同情もしてもらえない。

セカンドオピニオンの政治的な使いかた

患者さんを引き受けてくれる手の数は、昔に比べてずいぶん少なくなった。今はもう、一般内科も絶滅危惧リストの上位に載って、たぶんもうすぐいなくなる。ここで何とかやっていこうと思ったなら、見えないけれど「ある」、責任というものを、何とか分割、分配して、人の手に負える大きさにする術を探さないといけない。

大学の先生と話していて、これからはたぶん、「セカンドオピニオン」がそんな役割を担うようになるよね、なんて結論になった。

大学は、昔はそういう「責任もろとも患者さんをよろしく」みたいな転院を引き受けていて、今はもう研修医もいなくなって、そういうのが受けられなくなった。受けられなくなって、今度は外来に、セカンドオピニオンが増えているんだという。

患者さん本人が来ないんだけれど、ご家族が来て、紹介状を持って、「できれば転院させて下さい」なんて迫られる。ベッドもないから、外来担当医は断ることしかできないんだけれど、そこで「断った姿」がご家族に観測されるから、これがプレッシャーになるんだという。「そうか!」とそれ聞いてて思った。これからは「これだ」って。

患者さん本人を動かさなくても、「断った誰かの顔」を、患者さん周囲の誰かが観測したその時点で、責任の降る対象は分割されて、一部はそっちに移行する。責任が分割されることで、患者さん本人を診る側は、それだけ責任の負担が軽くなる。相手は大変だろうけれど、責任なんてそもそも「ない」ことになっているから、セカンドオピニオンは、断れない。

えらい人にもっと政治のことを考えてほしい

責任というのは「ご家族や本人が予期していた結果が得られなかった際の怒りの持っていきどころ」であって、結果が確率論的なものでしか予期できない以上、一定の確率で、責任は、誰かのところに降ってくる。それはますます大きく重くなって、もはや1人で背負うのは無理だから、みんなそこから逃げ出している。

「全部よろしく」の転院依頼はもう実質無理で、今は「最初から受けない」が正解になりつつあって、それでも受ける病院は限界。そもそも受けるのが不正解認定だから、もう同情もしてもらえない。責任の扱いかたに、「分割」というやりかたが導入できれば、状況はずいぶん変わる。患者さん受けて、受けてくれない専門家に、すかさず責任の杭を撃ち込んでしまえば、みんなもう逃げられない。そこでようやく、主治医は医師として、医学的に自由に振る舞えるようになる。

政治のお話は下らない。 下らないからこそ、こういう下らないものの取り扱いかたをきちんと考えておかないと、病院という得体の知れないこの場所で、「医学的に正しい振る舞い」なんてできっこないと思う。

Next »